
「自殺する人々。ある者等は自己に克つ。他の者等は、反對に、自己に負けて、彼等の運命曲線(私はそれがどういふものであるか知らぬが)に從ふがごとくに見える。
前者は境遇によつで強ひられるのだ。後者は彼等の性質によるのだ。そして運命の上面の好意は彼等が一番の近道を通ることを妨げない。
自殺の第三の種類として次のものが考へられる。ある種の人々は人生を非常に冷靜に考へる、そして非常に絶對的な、非常に野望的な考へをもつ、そのために彼等は彼等の死の處分を出來事や有機的變化の偶然に委ねたくないのである。彼等は老衰を、失格を、出來事を嫌惡する。我々は古人の中にさういふ人間離れした決斷のいくつかの實例といくつかの讚美とを見出す。
境遇によつて強ひられた自殺(私が第一に述べたところのもの)に關しては、その考へがその當人に抱懷されるにいたるのは、丁度或る一定の計畫どほりになるべき行爲のやうにだ。それは或る災惡を確實に根絶せんとする無氣力から生ずる。あらゆるものを除去してしまふといふ迂路によつてしかその目的は達せられない。些事と現在とを除去するために全體と未來とを除去しようとする。あらゆる意識を除去しようとする。(さういふ一個の考へを除去し得ないから。)あらゆる感受性を除去しようとする。(さういふ手のつけやうのない、又絶えることのない、悲しみと絶縁し得ないから。)
ヘロデがすべての赤ん坊の首を斬らせたのは、その中の唯一人の死が彼には重要なのだが、その一人を見分け得なかつたからだ。ある男は、自分の家を荒らしてしやうがないが、どうしても捕らない鼠に夢中になつて、その鼠を追ひ出すことの出來ない建物全體を燃やしてしまふ。
かくのごとく一人間の手の屆かない個所の惡化は一切のものを壞滅せしめるに至る。絶望せるものはぼんやりと行爲すべく誘はれる。或は強ひられる。
その自殺は「不手際な解決」である。
それ許りではない。人間の歴史は不手際な解決のコレクションである。我々のあらゆる意見、我々の判斷の大部分、我々の行爲の最多數は、單なる窮策にすぎない。
第二種の自殺は、無限の陰鬱なる悲哀に、苦惱に、不吉な、そして特に祕されてゐた形象による眩暈に、なんらの抵抗もなし得ない人々の不可避的な行爲である。
かかる種類の人々は、「死滅する」といふ一般的な意見或は觀念に對して感じ易くなつてゐるやうに見受けられる。彼等は中毒者に比較すべきだ。死を追求する彼等の中に、藥品を搜す中毒者のところに認められるのと同じ根氣よさ、同じ不安、同じ詭計、同じ佯りを我々は觀察する。
或者は積極的に死を欲しないが、一種の本能の滿足を欲するのだ。屡

不死身であるところのあらゆる存在物は、彼等の魂の影のなかに、人殺しの夢遊病者、執念ぶかい夢想者、二重人格、曲げがたき掟の實行者がゐるごとくに見える。彼等はときどき空虚なそして神祕的な微笑(それは彼等の單調な神祕のしるしであり、そして彼等の不在(absence)の存在(pr

私はこれらのいくつかの考察を、分析の正確に可能な場合によつて完結しよう。不注意による自殺といふものがあり得る。それは不意の出來事からは明らかに區別されるべきものである。一人の男がそれに彈丸の填つてゐるのを知つてゐるピストルをいぢつてゐる。彼には自殺したい欲望も考へもない。しかし彼は何かしら快感をおぼえつつその武器を握つてゐる。彼の掌が銃尾に結ばれる。彼の食指が引金にひつかけられる、一種のよろこびをもつて。彼は行爲を想像する。彼はだんだん武器の奴隷になりはじめる。武器はその所有者を誘惑する。彼はぼんやりと自分の方へ銃口を向ける。彼はそれを自分の顳


以上のところで僕の抄は終つてゐる。これからもつとあとがあつたのやら、ないのやら、僕ほもうすつかり忘れてしまつてゐる。佐藤朔君にでも今度會つたら、それを調べて置いて貰はう。
テスト氏と云へば、僕はこの間本郷の古本店で「テスト氏との一夕」の載つてゐる「サントオル」といふ雜誌を見つけて買つてきた。ヴァレリイがピエル・ルイスやレニエやジィド等と一しよにやつてゐた同人雜誌である。英國でビアヅレエイ等のやつてゐた「イエロウ・ブック」と比較して見ると、非常に共通した點があつてなかなか興味が深い。
「テスト氏との一夕」はP・V・といふ筆名で發表されてゐるが、目次にはその表題の下にちやんと nouvelle と銘が打たれてある。「テスト氏」が小説であるかどうかに就いて大ぶ議論もあるやうだが、ヴァレリイ自身はこれを小説として書いたものらしい。
言ひ忘れてゐたが、僕が手に入れたのは「サントオル」の第二號である。雜誌のうしろについてゐる附録で見ると、創刊號の要目に唯Pといふ署名で「詩二篇」とあるのがヴァレリイであらう。それから、第三號豫告にP…V…といふ署名で「ポオ、ニイチェ」とあるのもヴァレリイにちがひないが、そんな題のエッセイはとうとう書かれずにしまつたものと見える。又、近刊豫告には「地の糧」などと竝んでノヴァリスの「青い花」が出てゐる。譯者はアンドレ・ジィド。これは僕の夢ではない。但し、そんな本は世界中搜したつて見つからないだらう。
「サントオル」がそれから何號まで續いたか、それは僕は知らない。