「文藝林泉」は室生さんの最近の隨筆集である。が、讀後、何かしらん一篇の長篇小説を讀んだやうな後味が殘る。「京洛日記」や「馬込林泉記」や「いつを昔の記」などの小品風なものばかりではなく、「文藝雜記」などのやうなものさへ、さながら小説を讀んでゐるやうな氣持を起させるのだ。そこに室生さんの隨筆の妙味がある。そして私は讀後しばらくしてから、自分がそんな雜記のやうなものにまで小説らしいものを感じさせられたのは、この本そのものの影響であることに氣づいたのだ。室生さんは芭蕉や一茶の發句のやうなものからすら、いつも小説らしいものを嗅ぎだされてゐる。そしてさういふものを大層好まれてゐる。逆に小説そのものにかへつて小説らしくないものを求められる位にまで、さういふものを好まれてゐる。私自身はこの頃どちらかといふと、小説はやはり小説らしいものが好いのぢやないかといふ考へに傾き出してゐるが、そんな私までがこの本を讀んでゐるうちにいつか室生さん流になり、この隨筆集から小説らしいものを感ぜさせられてゐる。それほどこの本に親しめたことは、私にとつては何よりも氣持がよいのだ。

          ※(アステリズム、1-12-94)

「京洛日記」は、この冬京都にラヂオの放送に行かれた折、寺院や庭を見てまはられた日記である。それらの庭々の冬ざれの樣子が、巧みに配された人事と相俟つて、たいへん興趣深く語られてゐる。蝕ばんでぼろぼろになつた板廊下だの、土塀の瓦や杉苔の色までがくつきりと目に浮んでくる。が、それと一緒に、明け方の京都の町を走つてゐる放送局の自動車のなかで、講演原稿を大きな聲で復習してゐる室生さんの寒さうな姿が、甚だ印象的である。
 そのなかの「龍安寺」の章を讀みながら、この庭が芥川さんの最も愛されてゐた庭だつたのを私は思ひ出した。室生さんも「ひよつとすると龍安寺などがこんど見て來た庭のうちで最も心に殘つて澄み切つてゐるのではないかと思つた」と言はれて、その「京洛日記」を結ばれてゐる。
 しかしその庭を見に行かれた折の日記によると、「……六十坪に十五の石が沈み切つてゐるだけである。併し無理に私どもに何かを考へさせようとする壓迫感があつて、それがこの庭の中にゐる間ぢゆう邪魔になつて仕方がなかつた。宿に歸つて燈下で考へるとこの石庭がよくこなれて頭にはいつて來るやうである。固い爺むさい鯱張つた感じがうすれて、十五の石のあたまをそれぞれに撫でてやりたいくらゐの靜かさであつた。相阿彌の晩年の作であるといふ志賀直哉氏の説は正しい。只、爺むさく説法や謎を聞かされるのは厭であるが、相阿彌のこの行方は初めはもつと石をつかつてゐてそれを漸次に拔いて行つたものか、もつと少なく石を置きそれに加へて行つたものか、盤景をあつかふやうな簡單な譯に行かなかつたに違ひない。相阿彌が苦しんでゐるのが固苦しい感じになつて今も漂つてゐるのであらう。」
 恐らく芥川さんはその謎めいた魅力にいきなり飛びつかれて行かれたのだらう。が、室生さんは一應はそれに抵抗された。しかし最後にはその謎めいた魅力に打負かされてゐる。
 藝術品の魅力は、結局、さういふ謎めいたものにある。謎のないものは、すぐ私達を倦きさせるのだ。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 芥川さんのやうな作家は、さういふ謎をいつも作品の奧深くに祕めてゐる。それがその作品を解りにくくさせてゐる。が、室生さんの場合は、その謎をあんまり開けつ放しのところに置いてゐるので、反つて誰からも氣づかれずにゐるのだ。
 例へば、非常に私の好奇心をそそられた一節がある。それは「文藝雜記」のなかで友人藤澤清造の餓死について書かれてゐる一節である。室生さんはのたれ死をした藤澤清造のことをかなり手きびしくやつつけられてゐるが、その數行のあひだ、室生さんは藤澤清造のことを「渠」と(それは明らかに印刷上の過誤ではなく、二箇所繰返して)書かれてゐる。私はいつも室生さんがさういふ場合に「彼」といふ字を用ひられることを知つてゐた。そして、その室生さんがいま不用意にその「彼」といふ字でなしに「渠」といふ字を用ひられてゐるのを見て(室生さんがその使ひつけない字をその時ことさらに用ひられたのだとはどうしても思へない)私は妙に心を打たれた。そしてその思ひがけない打撃によつて、私は自分の知つてゐるかぎりの藤澤清造のことを、それから昔讀んだことのある彼の短篇のすつかり忘れてゐた筋までをまざまざと思ひ浮べたくらゐだつた。(藤澤清造はその短篇のなかでいつも「渠」といふ字を用ひてゐたのだ。)
 室生さんの作品の魅力は、いつも、かういふところにあると言つてもよくはないか?

          ※(アステリズム、1-12-94)

 私なんぞは一人で考へごとに耽つてゐることは好きな性分なのだが、どうもそれをいざ書くとなると億劫でならない。そんな折に、いつも室生さんはよく書くなあと思ふ。その眞似は出來さうでゐてなかなか出來ないのだ。思ふに、私達は頭のなかで一通りも二通りも考へて置いてから、それから言葉を搜しに出かける。氣に入つた言葉が見つからないと、いつまでも手間どつてゐる。が、室生さんはそんなことをしない。室生さんは手あたり次第の言葉そのもので直接にものを考へて行く、何かしらん書いてゐるうちに考へのこんがらがりがほぐれ出してくる、さういつたところがある。つまり、室生さんには書くといふことと考へるといふことが同じことなのだ。
 それが一方、さつきの藤澤清造のやうな場合には、見事な效果を生む。が、一方、どうかするとその文章が大へん解りにくいやうなことにもなる。しかしその文章が解りにくいやうに見えるのは、決して室生さん自身でも口癖のやうに言はれるやうに頭が惡いからではなく、それは言葉の一歩手前にゐる考へそのものを示してゐるからなのである。その文章がどうかした拍子に辻褄が合はなくなつてしまふのは、考へが思ひがけない飛躍をするので言葉の方でついて行けなくなるからに過ぎない。――さういふ室生さんの文章を「惡文」だといふ人は、一種の偏見からさう言ふのか、それとも考へるといふことの面白さが全然解らない人達であるのに違ひない。さう私は思ふ。文章といふものは、それ自身が目的ではなく、單なる手段に過ぎないのだから。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 惡文といへば、この集中の「感想小品集」のなかにも「惡文」といふ一篇がある。「このあひだ與謝野晶子さんの「冬柏」といふ雜誌に、森茉莉さんが室生犀星論を書かれてゐるなかに、室生犀星がもし發狂したらと書いてあつた。僕はその發狂といふ文字に久しぶりにかいごうしたやうな氣がして快く讀み過した。僕は度々犀星論を書かれたことがあるが、發狂したらといふ偶然にしろさう見て書いた評家が一人もゐなかつた。發狂する人間は大抵妄想からさうなり絶えず追つかけられるやうなセカセカした中に身も心も置かれるさうである。僕は發狂するなら酒からさうなるであらうが、茉莉さんは僕の書いた隨筆などから何か感じだされて、それを見トドけて危ないところを統計的に考へあはせてさういはれたのであらう、もつと適切にいへば僕の書くちよつと意味の取りにくいところに意味を含んだ、さういふ惡文のなかに精神的異常をかぎだされたのかも知れない。」
 その森茉莉さんの室生さん論を私はちよつと讀んで見たいと思つてゐるが、まだその機會を得ない。そこで私はこの一節にあらはれた室生さんの考へだけを見るより他はないが、私はさういふ室生さんの發狂に對する不安のなかにいささかの不安も感じられなかつた。むしろ、これを讀んでいかにも室生さんらしいといつた一種微笑ましいやうな氣がした。私にはいつもの室生さんらしくさういふ恐ろしい空想をもつてさへも日常生活を豐かにされ樂しまれてゐるやうに思へるからだ。それにこの場合は、さういふことを森茉莉さんに言はれたことの多少の感慨もあつたからであらう。私はそれをあとで「駒込倫敦」といふ一篇を讀んで確めた。
 その隨筆のなかで室生さんはまだ若くて貧乏暮らしをされてゐた頃のこと、よく本などを賣りに行く途中、森さんの家の前を通られ、その門の前に茉莉さんらしいお孃さんの遊んでゐるのを見かけたことなどを書いてゐられるのだ。その次ぎの「本郷通り」といふ隨筆のなかでも、室生さんは當時の貧乏暮らしを囘顧され、さういふ貧乏のなかでも、佛蘭西の廉タバコや西洋蝋燭などを購つて樂しまれてゐたことを書かれ、「そのころ生活といふものは生きることばかりが生活ではなくして、生活はそれを喜び樂しむことも内容としてゐることを、學び得て初めて知つたからであつた。」と言つてゐられる。
 これくらゐ僅かな語でもつて室生さん獨得の生き方をはつきり示してゐるものは他にあり得まいと私には考へられる。室生さんは何か悲しいことでもあると、その悲しみそのものを樂しまれようとする――さういふ二つの相反した感情が絶えず室生さんの心のなかでは微妙な均衡をすこしも危なげなしに得てゐる。若し發狂したらといふやうなことでも、室生さんは眞面目に考へられてゐるのだが、同時にさういふ空想をも何處かで樂しまれてゐるやうなところがある。さういふ微妙な精神的均衡を、私は室生さんのなかに發見する時くらゐ、私達の生きることのよさをしみじみと感じることはないのだ。
 此處に、「文藝林泉」讀後の慌しい感想を書き取つて置いた。

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「曠野」養徳社
   1944(昭和19)年9月20日刊
初出:「文學界 再刊第一巻第二号」
   1934(昭和9)年7月号
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年4月11日作成
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