一

 真中に一棟ひとむね、小さき屋根の、あたか朝凪あさなぎの海に難破船のおもかげのやう、つ破れ且つ傾いて見ゆるのは、広野ひろのを、久しい以前汽車が横切よこぎつた、時分じぶん停車場ステエション名残なごりである。
 みちわずかに通ずるばかり、枯れてもむぐらむすぼれた上へ、煙の如く降りかゝる小雨こさめを透かして、遠く其のさびしいさまながめながら、
「もし、おばあさん、彼処あすこまではのくらゐあります。」
 と尋ねたのは効々かいがいしい猟装束かりしょうぞく顔容かおかたちすぐれて清らかな少年で、土間どま草鞋穿わらじばきあしを投げて、英国政府が王冠章の刻印ごくいん打つたる、ポネヒル二連発銃の、銃身は月の如く、銃孔じゅうこうは星の如きを、ななめ古畳ふるだたみの上に差置さしおいたが、う聞くうちに、其の鳥打帽とりうちぼう掻取かきとると、しずくするほど額髪ひたいがみの黒くやわらかにれたのを、幾度いくたびも払ひつゝ、いた野路のじの雨に悩んだ風情ふぜい
 縁側もない破屋あばらやの、横に長いのを二室ふたまにした、古びゆがんだ柱の根に、よわい七十路ななそじに余る一人のおうな、糸をつて車をぶう/\、しずかにぶう/\。
うぢやの、もの十七八ちょうもござらうぞ、さしわたしにしては沢山たんともござるまいが、人の歩行あるみちは廻り廻りうねつて居るで、半里はんりもござりましよ。」と首を引込め、又揺出ゆりだすやうにして、旧停車場ステエションかたを見ながら言つた、媼がしよぼ/\した目は、うやつて遠方のものにこすりつけるまでにしなければ、見えぬのであらう。
 それから顔を上げおろしをするたびに、つね何処どこにかかくして置くらしい、がツくりくぼんだ胸を、のばすくめるのであつた。
 素直に伸びたのを其のまゝでつけた白髪しらがそれよりも、なお多いのははだしわで、就中なかんずく最も深く刻まれたのが、を低く、ちょうど糸車を前に、枯野かれのの末に、埴生はにゅうの小屋などひっくるめた置物同然に媼をたたみ込んで置くのらしい。一度胸をのばしてうしろるやうにした今の様子で見れば、せさらぼうた脊丈せたけ、此のよわいにしてはと高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本ほそいのがある背戸せどはん樹立こだちほかに、珍しい枯木かれきに見えよう。肉はひからび、皮しなびて見るかげもないが、手、胸などの巌乗がんじょうさ、渋色しぶいろ亀裂ひびが入つて下塗したぬりうるしで固めたやう、だ/\目立つのは鼻筋の判然きっぱりと通つて居る顔備かおぞなえと。
 黒ずんだが鬱金うこんの裏の附いた、はぎ/\の、これはまた美しい、せては居るが色々、浅葱あさぎあさの葉、鹿子かのこ、国のならいで百軒からきれひとツづゝ集めてぎ合すところがある、其のちやん/\を着て、前帯まえおびで坐つた形で。
 の古戦場をよぎつて、矢叫やさけびの音を風に聞き、浅茅あさじはらの月影に、いにしえの都を忍ぶたぐひの、心ある人は、此のおうなが六十年の昔をすいして、世にもまれなる、容色みめよき※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうとしても差支さしつかえはないと思ふ、何となくおかがたき品位があつた。其のとんがつたあぎとのあたりを、すら/\となびいて通る、綿わたの筋のかすかに白きさへ、やがてしもになりさうなつめたい雨。
 少年はの上へ両手を真直まっすぐかざし、ななめに媼の胸のあたりをうかごうて、
「はあ其では、何か、ほかに通るものがあるんですか。」
 媼は見返りもしないで、真向まっこう正面に渺々びょうびょうたる荒野あれのを控へ、
ほかに通るかとは、何がでござるの。」
いいえ、今つたぢやないか、人の通るみちは廻り/\うねつて居るつて。だから聞くんですが、ほかに何か歩行あるきますか。」
「やれもう、こんな原ぢやもの、お客様、きつねも犬も通りませいで。きりがかゝりや、あるかうず、雲がおりりや、はしらうず、蜈蚣むかでもぐればいなごも飛ぶわいの、」と孫にものいふやう、かえりみて打微笑うちほほえむ。

        二

 此の口からなら、たとひ鬼が通る、魔が、と言つても、疑ふところもなし、又う信ずればとて驚くことはないのであつた。少年は姓桂木氏かつらぎし、東京なるなにがし学校の秀才で、今年夏のはじめから一種憂鬱ゆううつやまいにかゝり、日をるに従うて、色も、心も死灰しかいの如く、やがて石碑いしぶみの下に形なきまつりけるばかりになつたが、其の病の原因もとはと、かれく知る友だちがひそかに言ふ、仔細あつて世をはようした恋なりし人の、其の姉君あねぎみなる貴夫人より、一挺いっちょう最新式の猟銃をたまはつた。が、ここ差置さしおいた即是すなわちこれ
 武器を参らす、郊外に猟などして、みずから励ましたまへ、聞くが如き其の容体ようだいは、薬も看護みとりかいあらずと医師のいへば。ただし御身おんみつつがなきやう、わらはが手はいつも銃の口に、と心をめた手紙を添へて、両三にち以前に御使者ごししゃ到来。
 りかゝつた胸の離れなかつた、机のそばにこれを受取ると、ひたいに手を加ふること頃刻けいこくにして、桂木は猛然として立つたのである。
 さて今朝こんちょう、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新停車場ステエションただにんり立つて、朝霧あさぎりこまやかな野中のなかして、雨になつたとき過ぎ、おうな住居すまいけ込んだまで、かつて一度も煙を銃身にからめなかつた。
 桂木は其のまざるぜんの性質にふくしたれば、貴夫人がなさけある贈物にむくいるため――函嶺はこねを越ゆる時汽車の中でつた同窓の学友に、何処どちらへ、と問はれて、修善寺しゅぜんじの方へ蜜月みつづきの旅と答へた――最愛なる新婚の、ポネヒル姫の第一発は、あだ田鴫たしぎ山鳩やまばと如きを打たず、願はくは目覚めざましき獲物をひっさげて、土産みやげにしようと思つたので。
 時ならぬ洪水、不思議の風雨ふううに、ひまなく線路をそこなはれて、官線ならぬ鉄道は其の停車場ステエションへた位、ことに桂木のいっ家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、屡々しばしばやすからぬ奇怪の歴史を有する、三里の荒野あれの跋渉ばっしょうして、目に見ゆるもの、手に立つもの、対手あいてが人類の形でさへなかつたら、覚えの狙撃ねらいうちて取らうと言ふのであるから。
 霧も雲も歩行あるくと語つた、仔細ありげなおうなことばを物ともせず、暖めた手で、びツしよりの草鞋わらじひもきかける。
 油断はしないが俯向うつむいたまゝ、
「私はまた不思議な物でも通るかと思つて悚然ぞっとした、おばあさん、此様こんところに一人で居て、昼間だつておそろしくはないのですか。」
 桂木はく媼の口の、炎でもけよかしと、なく誘ひかける。
 媼はひたいの上に綿わたを引いて、
「何がおそろしからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、おおかみより雨漏あまもりが恐しいと言ふわいの。」
 とまた背をかがめ、胸を張り、手でこするが如くにし、かたのぞいたが、
「むかうへむく/\と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、此方こちらの方から雲が出て、そろ/\両方から歩行あよびよつて、一所ひとつになる時が此の雨ぢや。びしよ/\降ると寒うござるで、老寄としよりには何より恐しうござるわいの。」
「あゝ、私も雨には弱りました、じと/\其処等中そこらじゅう染込しみこんで、この気味の悪さと云つたらない、おばあさん。」
「はい、御難儀ごなんぎでござつたろ。」
「お邪魔じゃまですが此処ここを借ります。」
 桂木は足袋たびを脱ぎ、足の爪尖つまさきを取つて見たが、泥にもまみれず、綺麗きれいだから、其のまゝむしろの上へ、ずいと腰を。
 たとひ洗足せんそくを求めたところで、おうなは水をんでれたかうだか、根の生えた居ずまひで、例の仕事に余念のなさ、小笹おざさを風が渡るかと……音につれて積る白糸しらいと

        三

 桂木はれた上衣うわぎを脱ぎてた、カラアもはずしたが、炉のふちになお油断なく、
「あゝ、腹がいた。う/\降るのとたまつたので濡れとおつて、帽子からしずくが垂れた時は、色も慾も無くなつて、むしろが一枚ありや極楽、其処そこで寝たいと思つたけれど、うしてお世話になつて雨露あめつゆしのげると、今度は虫が合点がってんしない、なんぞ食べるものはありませんか。」
ればなう、おそろな音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた時分ころには、客も少々はござつたで、うりなといて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。わしたべる分ばかり、其もきびいたのぢやほどに、とてもお口には合ふまいぞ。」
いいえめしは持つてます、うせ、人里ひとざとのないを承知だつたから、竹包たけづつみにして兵糧ひょうろうは持参ですが、おさいにするものがないんです、何かちっと分けてもらひたいと思ふんだがね。」
 おうなは胸を折つてゆるやかに打頷うちうなずき、
「それならば待たしやませ、しょツぱいが味噌漬みそづけこうの物がござるわいなう。」
「待ちたまへ、味噌漬ならあえてお手数てすうに及ぶまいと思ひます。」
 と手早てばやささの葉をほどくと、こわいのがしやつちこばる、つつみの端をおさへて、草臥くたびれた両手をつき、かしこまつてじっと見て、
「それ、言はないこツちやない、果して此のさいも味噌漬だ。おばあさん、大きな野だの、奥山へ入るには、梅干うめぼしを持たぬものだつて、宿の者が言つたつけ、うなのかね、」と顔を上げて又みまもつたが、かか相好そうごうおうなを見たのは、場末の寄席よせせきとして客がただ二三の時、片隅かたすみに猫を抱いてしよんぼり坐つて居たのと、山の中で、たきぎ背負しょつて歩行あるいて居たのと、これで三人目だと桂木は思ひ出した。
 媼はしわだらけのつらの皺も動かさず、
うござらうぞ、食べて悪いことはなからうがや、野山の人はの、一層いっそのこと霧の毒を消すものぢやといふげにござる。」
う、」とばかり見詰みつめて居た。
 此時このときだるさうにはじめて振向ふりむき、
「あのまた霧の毒といふものはおそろしいものでなう、お前様、今日はあれが雨になつたればこそうござつた、ものの半日も冥土よみじのやうな煙の中に包まれて居て見やしやれ、生命いのちを取られいでから三月みつき四月よつきわずらうげな、此処ここの霧は又格別かくべつぢやと言ふわいなう。」
「あの、霧が、」
「お客様、お前さま、はじめて此処ここ歩行あるかつしやるや?」
 桂木は大胆に、一口食べかけたのをぐツと呑込のみこみ、
「はじめてだとも。聞いちや居たんだけれど。」
うぢやろ、然うぢやろ。」とおうなはまたうなずいたが、ただうであらうではなく、まさうなくてはかなはぬと言つたやうな語気であつた。
して何かの、お前様の鉄砲を打つて歩行あるかしやるでござるかの。」と糸をる手を両方にひらいてじつと、此の媼の目は、怪しく光つた如くに思はれたから、桂木ははしを置き、心で身構みがまえをして、
「これかね。」と言ふをきツかけに、ずらして取つて引寄せた、空の模様、小雨こさめの色、孤家ひとつやうちも、媼の姿も、さては炉の中の火さへ淡く、すべ枯野かれのに描かれた、幻の如きあいだに、ポネヒル連発銃の銃身のみ、青くきらめくまで磨ける鏡かと壁をて、弾込たまごめしたのがづツしり手応てごたえ
 我ながら頼母たのもしく、
「何、まあね、うぞこれを打つことのないやうにと、内々ないない祈つて居るんだよ。」
「其はまた何といふわけでござらうの。」とすまして、例の糸をる、五体は悉皆しっかい、車の仕かけで、人形の動くやう、媼は少頃しばらくも手を休めず。
 驚破すわといふ時、綿わたすじ射切いきつたら、胸に不及およばず咽喉のんど不及およばずたまえて媼はただ一個いっこ朽木くちきの像にならうも知れぬ。
 と桂木は心のうち

        四

 構はず兵糧ひょうろうを使ひつゝ、
「だつておばあさん、此の野原は滅多めったに人の通らないところだつて聞いたからさ。」
「そりや眺望ながめというても池一つあるぢやござらぬ、わずかばかりのちがいでなう、三島はお富士山ふじさまの名所ぢやに、此処ここ一目千里ひとめせんりの原なれど、何が邪魔じゃまをするか見えませぬ、其れぢやもの、ものずきに来る人は無いのぢやわいなう。」
いいえさ、景色がよくないから遊山ゆさんぬの、便利が悪いから旅の者が通行せぬのと、そんなつい通りのことぢやなくさ、私たちが聞いたのでは、此の野中のなかへ入ることを、俗に身を投げると言ひ伝へて、無事にや帰られないんださうではないか。」
「それはお客様、此処ここといふかぎりはござるまいがなう、つまずけば転びもせず、転びやうが悪ければ怪我けがもせうず、打処うちどころが悪ければ死にもせうず、野でも山でも海でも川でも同じことでござるわなう、其につけても、また人のいふところへ、お前様は何をしに来さつしやつた。」
 じろりと流盻しりめに見ていつた。
 桂木はぎよつとしたが、
理窟りくつを聞くんぢやありません、私はね、実はお前さんのやうな人につて、何か変つた話をしてもらはう、見られるものなら見ようと思つて、遙々はるばる出向いて来たんだもの。人間のほか歩行あるくものがあるといふから、さてこそと乗つかゝりや、霧や雲の動くことになつてしまふし、かしちや返さぬやうな者が住んででも居るやうに聞いたから、其を尋ねりや、怪我けが過失あやまちは所を定めないといふし、それぢやちっとも張合はりあいがありやしない、何か珍しいことを話してくれませんか、私はね。」
 ひざを進めて、ひとみゑ、
「私はね、おばあさん、風説うわさを知りつゝうやつて一人で来た位だから、打明けて云ひます、見受けたところ、君は何だ、様子が宛然まるで野のぬしとでもいふべきぢやないか、何の馬鹿々々ばかばかしいと思ふだらうが、好事ものずきです、うぞ一番ひとつ構はず云つて聞かしてくれたまへな。
 ういふと何かおばけの催促をするやうでをかしいけれど、れツたくツてたまらない。
 もとより其のつもりぢや来たけれど、私だつて、これ当世の若い者、はじめから何、人の命を取るたつて、野に居る毒虫か、函嶺はこねを追はれたおおかみだらう、今時いまどきつまらない妖者ばけものが居てなりますか、それとも野伏のぶせ山賊やまだちたぐいででもあらうかと思つて来たんです。霧が毒だつたり、怪我けが過失あやまちだつたり、心のまよいぐらゐなことは実は此方こっちから言ひたかつた。其をあつちこつちに、お前さんの口から聞かうとは思はなかつた。其の癖、此方こっちはおばあさん、お前さんの姿を見てから、かえつてと自分の意見が違つて来て、成程なるほどこれぢや怪しいことのないとも限らぬか、と考へてる位なんだ。
 お聞きなさい、私が縁続きの人はね、商人あきうどで此のせつは立派に暮して居るけれど、若いうち一時ひとしきり困つたことがあつて、瀬戸せとのしけものを背負しょつて、方々国々を売つて歩行あるいて、此の野に行暮ゆきくれて、其の時くさ茫々ぼうぼうとした中に、五六本樹立こだちのあるのを目当に、一軒家へ辿たどり着いて、台所口から、用を聞きながら、旅に難渋なんじゅうの次第を話して、一晩泊めてもらふとね、快く宿をしてくれて、うしてうして行暮れた旅商人たびあきうど如きを、待遇もてなすやうなものではない、銚子ちょうしさかずきが出る始末、わかい女中が二人まで給仕について、寝るにも紅裏べにうら絹布けんぷ夜具やぐ枕頭まくらもとかおりこうく。容易ならぬ訳さ、せめて一生に一晩は、ういふ身の上にと、其の時分は思つた、其のとおつたもんだから、夢なら覚めるなと一夜ひとや明かした迄はかつたさうだが。
 翌日あくるひになると帰さない、其晩そのばん女中が云ふには、お奥でやかたが召しますつさ。
 其の人は今でも話すがね、館といつたのは、其はうも何とも気高い美しい婦人おんなださうだ。しかし何分なにぶん生胆いきぎもを取られるか、薬の中へ錬込ねりこまれさうで、こわさが先に立つて、片時も目をねむるわけにはかなかつた。
 私が縁続きの其の人はね、親類うちでも評判の美男だつたのです。」

        五

 桂木は伸びて手首をおおはんとする、襯衣しゃつそでき上げたが、手も白く、たたかいいどむやうではないおとなしやかなものであつた、けれども、世に力あるは、かえつてかかる少年の意を決した時であらう。
「さあ、やかたの心に従ふまでは、村へも里へも帰さぬといつたが、別に座敷牢へ入れるでもなし、木戸の扉もむぐらを分けて、ぎいとけ、障子も雨戸も開放かいほうして、真昼間まっぴるま、此の野を抜けて帰らるゝものなら、勝手に帰つて御覧なさいと、も軽蔑をしたやうに、あは、あは笑ふと両方のえんへふたつに別れて、二人の其の侍女こしもとが、廊下づたひに引込むと、あとはがらんとして畳数たたみかず十五じょうも敷けようといふ、広い座敷にたった一人ひとり。」
 折から炉の底にしよんぼりとする、すくふやうにして手づからいぶした落葉の中に二枚ふたひらばかりいばらの葉のいたく湿つたのがいぶり出した、胸のあたりへ煙が弱く、いつもいきおいよくはかぬさうでつめたい灰を、めるやうにして、ひとうねつてあがるのを、肩で乱して払ひながら、
けむい。其までは宛然まるでう、身体からだまつわつて、肩を包むやうにして、侍女こしもとの手だの、袖だの、すそだの、屏風びょうぶだの、ふすまだの、蒲団ふとんだの、ぜんだの、枕だのが、あの、所狭ところせまきまでといふ風であつたのが、不残のこらずずツと引込んで、座敷の隅々すみずみ片着かたづいて、右も左も見通しに、開放あけはなしの野原も急に広くなつたやうに思はれたと言ひます。
 うすると、急に秋風が身にみて、其の男はぶる/\と震へ出したさうだがね、寂閑しんかんとしてひと一人ひとり居さうにもない。
 夢かうつつかと思う位。」
 桂木は語りながら、みずから其の境遇にる如く、
「目をねむつて耳をすまして居ると、二重、三重、四重ぐらゐ、壁越かべごしに、ことの糸に風が渡つて揺れるやうな音で、ほそく、ひゆう/\と、おばあさん、今お前さんが言つてる其の糸車だ。
 此の炉をひとツ、うしてここで聞いて居てさへ遠いところに聞えるが、その音が、かすかにしたとね。
 其時そのとき茫乎ぼんやりと思ひ出したのは、昨夜ゆうべの其の、奥方だか、姫様ひいさまだか、それとも御新姐ごしんぞだか、魔だか、鬼だか、おねやへ召しました一件のおやかただが、当座はただかっ取逆上とりのぼせて、四辺あたりのものはただ曇つた硝子ビイドロを透かして、目に映つたまでの事だつたさうだけれど。
 緋のはかま穿いても居なけりや、掻取かいどりを着ても届ない、たゞ、輝々きらきらした蒔絵まきえものがそろつて、あたりは神々こうごうしかつた。狭い一室ひとまに、束髪たばねがみひっかけおびで、ふつくりしたい女が、糸車を廻して居たが、燭台につけた蝋燭ろうそく灯影ほかげに、横顔で、旅商人たびあきうど、私の其の縁続きの美男を見向みむいて、
ぬしのあるものですが、一所いっしょに死んで下さいませんか。)――とただ一言ひとこといつたのださうだ。
 いや、う六十になるが忘れないとさ、此の人は又ういふよ、其れから此方こっち、都にもひなにも、其れだけの美女を見ないツて。
 さあ、其の糸車のまはる音を聞くと、白い柔かな手を動かすまで目に見えるやうで、其のまゝ気の遠くなる、其が、やがて死ぬ心持こころもちに違ひがなければ、鬼でも構はないと思つたけれども、うも浮世うきよに未練があつたから、ふやうにして、跫音あしおとを盗んで出て、脚絆きゃはんを附けて草鞋わらじ穿くまで、誰もさえぎる者はなかつたさうだけれど、それが又、敵のかこい蹴散けちらしてげるより、工合ぐあいが悪い。
 帰らるゝなら帰つて見ろと、女どもが云つた呪詛まじないのやうなことばすごし、一足ひとあしむねを離れるが最後、岸破がばと野が落ちての底へ沈まうも知れずと、爪立足つまだてあしで、びく/\しながら、それから一生懸命に、野路のみちにかゝつてげ出した、伊豆の伊東へ出る間道かんどうで、此処ここを放れたまで何のさわりもなかつたさうで。
 たゞ、と時節が早かつたと見えて、三島の山々からひとなだれの茅萱ちがやたけより高い中から、ごそごそと彼処此処あっちこっち野馬のうまが顔を出して人珍しげにみつめては、何処どこへか隠れてしまふのと、蒼空あおぞらだつたが、ちぎれ/\に雲のあしはやいのが、んな変事でも起らうかと思はれて、きた心地はなかつたと言ふ話ぢやないか。
 それだもの、おばあさん。」

        六

「もし、そんなことが、真個ほんとうにあるところなら、生命いのちがけだつてねえ、一度来て見ずには居られないとは思ひませんか。
 何しに来たつて、お前さんがとがめるやうに聞くから言ふんだが、何も其のうしよう、うしようといふ悪気わるぎはない。
 好事ものずきさ、好事ものずきで、変つた話でもあつたら聞かう、不思議なことでもあるなら見ようと思ふばかり、しかしね、其を見聞みきくにつけては、どんな又対手あいてに不心得があつて、危険けんのんでないとも限らぬから、其処そこう、用心の銃をかついで、食べる物も用意した。
 台場だいば停車場ステエションから半道はんみちばかり、今朝けさこの原へかゝつた時は、脚絆きゃはんひも緊乎しっかりと、草鞋わらじもさツ/\と新しい踏心地ふみごこち、一面に霧のかゝつたのも、味方の狼煙のろしのやうにいさましく踏込ふみこむと、さあ、ひとひとツ、かやにも尾花にも心を置いて、葉末はずえに目をつけ、根をうかがひ、まるで、美しいきのこでも捜す形。
 葉ずれの音がざわ/\と、風が吹くたびに、遠くの方で、
ぬしあるものですが、)とでもささやいて居るやうで、頼母たのもしいにつけても、髑髏しゃれこうべの形をした石塊いしころでもないか、今にも馬のつらが出はしないかと、宝のつるでも手繰たぐる気で、茅萱ちがやの中の細路ほそみちを、胸騒むなさわぎがしながら歩行あるいたけれども、不思議なものはの根にも出会でっくわさない、ただのこはれ/″\の停車場ステエションのあとへ来た時、雨露あめつゆさらされた十字の里程標りていひょうが、枯草かれくさの中に、横になつて居るのを見て、何となく荒野あれのの中の磔柱はりつけばしらででもあるやうに思つた。
 おゝ、ういへば沢山たんと古い昔ではない、此の国の歴々れきれきが、此処ここ鷹狩たかがりをして帰りがけ、秋草あきぐさの中に立つて居たなまめかしい婦人おんなの、あまりの美しさに、かねての色好いろごのみ、うつかり見惚みとれるはずみにくらはずして落馬した、打処うちどころやまいのもとで、あの婦人おんなともをせろ、とじにに亡くなられた。
 あとでは魔法づかひだ、主殺しゅころしと、可哀相に、此の原ではりつけにしたとかいふ。
 日本一にっぽんいちの無法な奴等やつら、かた/″\殿様のおとぎなればと言つて、綾錦あやにしきよそおいをさせ、白足袋しろたびまで穿かせた上、犠牲いけにえに上げたとやら。
 南無三宝なむさんぼう、此の柱へ血が垂れるのが序開じょびらきかと、その十字の里程標の白骨はっこつのやうなのを見て居るうちに、よっかゝつて居た停車場ステエションちた柱が、風もないに、身体からだおしで動くから、鉄砲を取直とりなおしながら後退あとじさりに其処そこを出た。
 雨は其の時から降り出して、それからの難儀さ。小糠雨こぬかあめこまかいのが、衣服きものの上から毛穴をとおして、骨にむやうで、天窓あたまは重くなる、草鞋わらじは切れる、疲労つかれは出る、しずくる、あゝ、新しいむしろがあつたら、かんの中へでも寝たいと思つた、其で此の家を見つけたんだもの、何の考へもなしにけ込んだが、一呼吸ひといきして見ると、うだらう。」
 炉の火はパツと炎尖ほさきを立てて、赤くおうなひたいた、みまもらるゝは白髪しらがである、其皺そのしわである、目鼻立めはなだちである、手の動くのである、糸車の廻るのである。
 くても依然として胸を折つて、ただ糸にあやつらるゝ如き、媼のさまを見るにつけても、桂木はひざを立ててきっとなつた。
「失礼だが、おばあさん、場所は場所だし、末枯うらがれだし、雨は降る、普通ただものとは思へないぢやないか。霧が雲がと押問答おしもんどうなぞのかけツこ見たやうなことをして居るのは、れつたくつて我慢が出来ぬ。そんなまだるつこい、気の滅入めいる、糸車なんざ横倒しにして、面白いことを聞かしておくれ。
 それとも人が来たのがうるさくツて、しゃくさわつたら、さあ、手取り早くうにかするんだ、きばにかけるなり、炎をくなり、うすりやかなはないまでも抵抗てむかいしよう、善にも悪にもうして居ちや、じり/\して胸が苦しい、じみ/\雨で弱らせるのは、第一なににしろ卑怯のいたりだ、さあ、さあ、人間でさいなくなりや、其を合図で勝負にしよう、」と微笑をうかべて串戯じょうだんらしく、身悶みもだえをして迫りながら、桂木のひとみすわつた。
 血気けっきはやる少年の、其の無邪気さを愛する如く、離れては居るが顔と顔、媼はめるやうにして、しよぼ/\と目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらき、
「お客様もう降つてはせぬがなう。」
 桂木一驚いっきょうきっして、
「や何時いつに、」

        七

「炉の中のいばらの葉が、かち/\と鳴つて燃えると、雨は上るわいなう。」
 いかにもぬぐつたやうに野面のづら一面。おうなつむりは白さを増したが、桂木のひざのあたりに薄日うすびした、ただくだん停車場ステエションに磁石を向けると、一直線の北に当る、日金山ひがねやま鶴巻山つるまきやま十国峠じっこくとうげを頂いた、三島の連山のすそただち枯草かれくさまじわるあたり、一帯の霧が細流せせらぎのやうに靉靆たなびいて、空も野も幻の中に、一際ひときわこまやかに残るのである。
 あはれ座右ざうのポネヒル一度ひとたび声を発するを、彼処かしこに人ありてはるかに見よ、此処ここあたかも其の霧の如く、怪しき煙が立たうもの、
 と、桂木は心もいさんで、
「むゝ、雨はんだ、けれどもおばあさんの姿は矢張やっぱり人間だよ。」と物狂ものくるはしく固唾かたずを飲んだ。
 此の時媼、呵々からから達者たっしゃに笑ひ、
「はゝはゝ、お客様も余程のお方ぢやなう、しつかりさつしやれ、気分が悪いのでござろ。なるほど石ころ一つ、草の葉にまで、心を置いたとはつしやるにつけ、うかしてござらうに、まづまづ、横にでもなつて気を落着けるがいわいなう、それぢやが、わし矢張やっぱり怪しいものぢやと思うてござつては、何とも安堵あんど出来にくかろ、いわいの。
 もつともぢや、おぬしさへ命がけで入つてござつたといふところわしがやうな起居たちいも不自由な老寄としよりが一人居ては、怪しうないことはなからうわいの、それぢやけど、聞かつしやれ、姨捨山おばすてやまというて、年寄としよりてた名所さへある世の中ぢや、わたしが世をすてて一人住んでつたというて、何で怪しう思はしやる。わか世捨人よすてびとな、これ、坊さまも沢山たんとあるではないかいの、まだ/\、死んだ者に信女しんにょや、大姉だいし居士こじなぞいうて、名をつけるならいでござらうが、何で又、其の旅商人たびあきうど婦人おんな懸想けそうしたことを、不思議ぢやと謂はつしやる、やあ!」と胸をのばして、しわだらけのおおきな手を、薄いよれ/\の膝の上。はじめて片手を休めたが、それさへ輪を廻す一方のみ、左手ゆんでなお細長い綿わたから糸をかせたまゝ、ちちのあたりに捧げて居た。
「第一まあ、先刻さっきからうやつて鉄砲を持つた者が入つて来たのに、糸をる手を下にも置かない、茶を一つんでれず、焚火たきびだつて私の方でして居るもの、変にも思はうぢやないか、えゝ、おばあさん。」
「これは/\、お前様は、何と、働きもの、愛想あいそのないものを、変化へんげぢやと思はつしやるか。」
「むゝ。」
「それも愛想がないのぢやないわいなう、お前様は可愛かわいらしいお方ぢやでの、わし内端うちわのもてなしぢや、茶もんであがらうぞ、火もいて当らつしやらうぞ。何とそれでも怪しいかいなう」
「…………」桂木は返すことばは出なかつたが、はるれば謂はれるほど、かえつて怪しさが増すのであつたが。
 ここにいたりて自然のいきおい、最早みしやすからぬやうにおぼゆると同時に、肩もすくみ、ひざもしまるばかり、はげしく恐怖の念が起つて、ひとえに頼むポネヒルの銃口に宿つた星の影も、消えたかとおくれが生じて、とててきがたしと、断念をするとともに、張詰はりつめた気もゆるみ、心もくじけて、一斉いっときにがつくりと疲労つかれが出た。初陣ういじんの此の若武者わかむしゃ、霧に打たれ、雨に悩み、妖婆ようばのために取つて伏せられ、しのびをプツツリ切つて、
うでもうございます、私はふら/\してたまらない、殺されてもいから少時しばらくここで横になりたい、構はないかね、御免なさいよ。」
「おう/\いともなう、安心して一休み休まつしやれ、ちツとも憂慮きづかいをさつしやることはないに、わしが山猫の化けたのでも。」
「え。」
「はて魔の者にしたところが、鬼神きじん横道おうどうはないといふ、さあ/\かたげてやすまつしやれいの/\。」
 桂木はいふがまゝに、かくも横になつた、引寄せもせず、ポネヒル銃のあるところへ転げざまに、倒れて寝ようとすると、
「や、しばらく待たつしやれ。」

        八

「お前様一枚脱いでなり、れたあとで寒うござろ。」
「震へるやうです、全く。」
「掛けるものを貸して進ぜましよ、矢張やっぱり内端うちわぢや、お前様立つて取らつしやれ、なになう、わしがなう、ありやうは此の糸の手を放すと事ぢや、一寸ちょっとでも此の糸を切るが最後、お前様の身があぶないで、いゝや、いゝや、案じさつしやるないの。た不思議がらつしやるが、目に見えぬで、どないな事があらうも知れぬが世間のならいぢや。よりもかゝらず、蜘蛛くもの糸より弱うても、わしが居るからいわいの、さあ/\立つて取らつしやれ、けるものはの、ほかにない、あつても気味が悪からうず、わかい人には丁度ちょうど持つて来い、枯野かれのに似合ぬ美しい色のあるものを貸しませうず。
 あゝ、いや、其のみのではないぞの、屏風びょうぶ退けて、其の蓑を取つて見やしやれいなう。」と糸車の前をずりもせず、顔ばかり振向ふりむかた
 桂木は、古びた雨漏あまもりだらけの壁に向つて、と立つた、見れば一領いちりょう古蓑ふるみのが描ける墨絵すみえの滝の如く、うつばりかかつて居たが、見てはじめ、人の身体からだに着るのではなく、雨露あめつゆしのぐため、破家あばらやまとうて置くのかと思つた。
 はちの巣のやう穴だらけで、炉の煙は幾条いくすじにもなつて此処ここからももぐつて壁の外へにじみ出す、破屏風やれびょうぶとりのけて、さら/\と手に触れると、蓑はすつぽりとはりはなれる。
 下に、絶壁の※(「石+角」、第3水準1-89-6)こうかくたる如く、壁に雨漏の線が入つたところに、すらりとかゝつた、目覚めざめるばかり色好いろよきぬかか住居すまいに似合ない余りの思ひがけなさに、おうな通力つうりき枯野かれのたちま深山みやまに変じて、こゝに蓑の滝、壁のいわお、もみぢのにしきかと思つたので。
 桂木は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつて、
「おばあさん。」
「おゝ、其ぢや、何とちょうどよからうがの、取つて掻巻かいまきにさつしやれいなう。」
 もすそたたみにつくばかり、細くつま引合ひきあわせた、両袖りょうそでをだらりと、もとより空蝉うつせみの殻なれば、咽喉のどもなく肩もない、えりを掛けて裏返しに下げてある、衣紋えもんうつばりの上に日の通さぬ、薄暗いうち振仰ふりあおいで見るばかりの、たけながき女のきぬ、低い天井から桂木のせなのぞいて、薄煙うすけむり立迷たちまよふ中に、一本ひともと女郎花おみなえし枯野かれのたたずんでさみしさう、しかなんとなく活々いきいきして、扱帯しごき一筋ひとすじまとうたら、すそさばかず、手足もなく、おもかげのみがすら/\と、炉のふちを伝ふであらう、と桂木は思はず退すさつた。
「大事ない/\、あわせぢやけれどの、れた上衣うわぎよりはましでござろわいの、ぬしも分つてある、あでやかな娘のぢやで、お前様にちょういわ、其主そのぬしもまたの、お前様のやうな、わか綺麗きれいな人と寝たら本望ほんもうぢやろ、はゝはゝはゝ。」
 腹蔵ふくぞうなく大笑おおわらいをするので、桂木は気を取直とりなおして、そっづ其のたもとの端に手を触れた。
 途端に指のさきを氷のやうな針で鋭く刺さうと、天窓あたまからひやりとしたが、小袖こそではしつとりと手にこたへた、取りはずし、小脇に抱く、裏が上になり、ひざのあたりやわらかに、つましとやかに袷の裾なよ/\と畳に敷いて、襟は仰向あおむけに、たとえば胸をらすやうにして、桂木の腕にかゝつたのである。
 さて見れば、鼠縮緬ねずみちりめん裾廻すそまわし二枚袷にまいあわせの下着とおぼしく、薄兼房うすけんぼうよろけじまのお召縮緬めしちりめん胴抜どうぬきは絞つたやうな緋の竜巻、しもに夕日の色めたる、胴裏どううらくれないつめたかえつて、引けば切れさうにふりいて、おうなが若き時の名残なごりとは見えず、当世の色あざやかに、今脱いだかとなまめかしい。
 じっと見るうちに我にもあらず、懐しく、ゆかしく、いとしらしく、ことにあはれさが身にみて、まゝよ、ころりと寝て襟のあたりまで、銃を枕にひっかぶる気になつた、もののなさけを知るものの、くて妖魔の術中におちいらうとは、いつとはなしに思ひ思はず。

        九

「はゝはゝ、見れば見るほど良い孫ぢやわいなう、うぢや、少しは落着おちつかしやつたか、安堵あんどして休まつしやれ。したがの、長いことはならぬぞや、疲労くたびれが治つたら、早く帰らつしやれ。
 お前さま先刻さきのほど、血相けっそうをかへてはしつた、何か珍しいことでもあらうかと、生命いのちがけでござつたとの。良いにつけ、悪いにつけ、此処等ここら人の土地ところへ、珍しいお客様ぢや。
 わしがの、うやつてござるあひだ、おとぎ土産話みやげばなしを聞かせましよ。」
 と下にも置かず両の手で、しずかに糸をりながら、
ほかの事ではないがの、今かけてござる其の下着ぢや。」
 桂木は何時いつかうつら/\して居たが、ぱつちりとすずしい目をけた。
「其はうぢやよ、一月ひとつきも前ぢやわいの、何ともつひぞ見たことのない、みやこ風俗ふうぞくの、わかい美しい嬢様が、たっ一人ひとり景色を見い/\、此の野へござつてわしとこへ休ましやつたが、此の奥にの、なにとも名の知れぬ古いやしろがござるわいの、其処そこへお参詣まいりに行くといはつしやる。
 はて此の野は其のお宮のぬしの持物で、何をさつしやるも其の御心みこころぢや、聞かつしやれ。
 どんな願事ねがいごとでもかなふけれど、其かはり生命いのちにえにせねばならぬおきてぢやわいなう、何とまた世の中に、生命いのちらぬといふねがいがあろか、かつしやれ、お嬢様、御存じないか、というたれば。
 いえ/\大事ござんせぬ、其を承知で参りました、といはつしやるわいの。
 いやう、なにも御存じで、ばばなぞがういふも恐多おそれおおいやうな御人品ごじんぴんぢや、さやうならば行つてござらつせえまし。お出かけなさる時に、歩行あるいたせゐか暑うてならぬ、これを脱いで行きますと、其処そこで帯をかつしやつて、お脱ぎなされた。支度を直して、長襦袢ながじゅばんの上へあわせひとツ、身軽になつて、すら/\草の中を行かつしやる、艶々つやつやとしたおつむりが、すすきの中へ隠れたまで送つてなう。
 それからは茅萱ちがやの音にも、うおかえりかと、待てど暮らせど、大方いつものにへにならつしやつたのでござらうわいなう。わしがやうな年寄としよりにかけかまひはなけれどもの、なんにつけても思ひ詰めた、若い人たちの入つて来るところではないほどに、お前様も二度と来ようとは思はつしやるな。いかの、いかの。」とあいいて、ゆるく引張つてくゝめるが如くにいふ、おうなことば断々たえだえかすかに聞えて、其の声の遠くなるまで、桂木は留南木とめぎかおりに又恍惚うっとり
 優しい暖かさが、身にみて、心から、草臥くたびれた肌を包むやうな、掻巻かいまきなさけなかまなこを閉ぢた。
 驚破すわといへば、おとさんず心もせ、はじめの一念いちねんく忘れて、にありといふ古社ふるやしろ、其のあやしみを聞かうともせず、のあたりに車を廻すあからさまなおうなの形も、其のまゝき移すやうにむしろ彼方あなたへ、小さく遠くなつたやうな思ひがして、其の娘もにえの仔細も、媼の素性すじょうも、野のさまも、我が身のことさへ、夢を見たら夢に一切知れようと、ねむさに投げ出した心のうち
 かえつてここに人あるが如く、横に寝た肩にそでがかゝつて、胸にひつたりとついた胴抜どうぬきの、なまめかしい下着のえりを、口を結んでじっと見て、ああ、我が恋人はして、今は世にき人となりぬ。
 我も生命いのちおしまねばこそ、かかる野にもきたりしなれ、うなりとも成るやうになつてめ! これにえになつたといふ、あはれな記念かたみころもかな、としきりに果敢はかなさに胸がせまつて、思はず涙ぐむ襟許えりもとへ、さっつめたい風。
 枯野かれのひえ一幅ひとはばに細く肩のすきへ入つたので、しつかと引寄せた下着のせな綿わたもないのにあたたかうでへ触れたと思ふと、足を包んだもすそが揺れて、絵の婦人おんなの、片膝かたひざ立てたやうなしわが、あわせしまなりに出来て、しなやかに美しくなつた。
 ※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやと見ると、女のおもかげ

        十

 まゆ長く、ひとみ黒く、色雪の如きに、黒髪のびん乱れ、前髪の根もわかるゝばかり鼻筋はなすじの通つたのが、寝ながら桂木の顔を仰ぐ、白歯しらはも見えた涙の顔に、はれぬえみを含んで、ハツとする胸に、おうなが糸をる音とともにかすかに響いて、
ぬしのあるものですが、一所いっしょに死んで下さいませんか。」と声あるにあらず、無きにあらず、かつて我が心に覚えあることを引出すやうにたしかに聞えた。
 耳がぐわツと。
 小屋が土台から一揺ひとゆれ揺れたかと覚えて、物凄ものすさまじい音がした。
姦婦かんぷ」と一喝いっかつらいの如くうついかれる声して、かたに呼ばはるものあり。此の声はしらを動かして、黒燻くろくすぶりの壁、其のみのの下、あわせをかけてあつたところくだん巌形いわおがた破目やれめより、岸破がば※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)どうだおしにうちへ倒れて、炉の上へ屏風びょうぶぐるみ崩れ込むと、黄に赤に煙がまじつてぱっ[#「火+發」、93-9]砂煙すなけむりあがつた。
 ために、媼の姿が一時いちじ消えるやうに見えなくなつた時である。
 桂木ははじき飛ばされたやうに一けんばかり、むしろ彼方あなたへ飛び起きたが、片手に緊乎しっかりと美人を抱いたから、寝るうちも放さなかつた銃を取るにいとまあらず。
 兎角とかく分別ふんべつだ出ぬ前、おそろしい地震だと思つて、真蒼まっさおになつて、むねを離れてのがれようとする。
 門口かどぐちふさいだやうに、眼をさえぎつたのは毒霧どくぎりで。
 野末のずえ一流ひとながれ白旗しらはたのやうになびいて居たのが、横に長く、縦に広く、ちらと動いたかと思ふと、三里の曠野こうや、真白な綿わたで包まれたのは、いまげようとするとほとん咄嗟とっさかんこと
 しかも此の霧の中に、野面のづらかへすひづめの音、ここのツならずとおならず、沈んで、どうと、あたかも激流の下より寄せ気勢けはい
にがすな。」
「女!」
「男!」
 と声々、ハヤ耳のあたりに聞えたので、又引返ひっかえして壁のくずれを見ると、一団ひとかたまりおおいなる炎の形に破れた中は、おなじ枯野かれのの目もはるか彼方かなた幾百里いくひゃくりといふことを知らず、犇々ひしひし羽目はめを圧して、一体こゝにも五六十、神か、鬼か、怪しき人物。
 朽葉色くちばいろ、灰、ねずみ焦茶こげちゃ、たゞこれ黄昏たそがれの野の如き、霧のころもまとうたる、いづれも抜群の巨人である。中に一人いちにん真先まっさきかけて、壁の穴をふさいで居たのが、此の時、掻潜かいくぐるやうにして、おそろしい顔を出した、めんおおきさ、はりなかばおおうて、血のすじ走るきんまなこにハタと桂木をめつけた。
 思はず後居しりいに腰を突く、ひざの上に真俯伏まうつぶせ、真白な両手を重ねて、わなゝくまげの根、うなじさへ、あざやかに見ゆる美人のえりを、が手ともなく無手むんずと取つて一拉ひとひしぎ。
「あれ。」
 と叫んだ声ばかり、引断ひっちぎれたやうに残つて、あわせはのけざまにずる/\とたたみの上を引摺ひきずらるゝ、わきあけのあたり、ちら/\と、のこンの雪も消え、目も消えて、すその端がひるがへつたと思ふと、さかしまに裏庭へ引落ひきおとされた。
「男は、」
「男は、」
 とななやつ入乱いりみだれてけたゝましい跫音あしおとけめぐる。
しっ!」とばかり、此の時覚悟して立たうとした桂木のかたわら引添ひきそうたのは、再び目に見えた破家あばらやおうなであつた、はたせるかな、糸は其の手に無かつたのである。かかる時桂木の身はあやふしとこそ予言したれ、さいわいに怪しき敵の見出みいだぬは、よしありげな媼が、身を以て桂木をかば所為せいであらう。桂木はほツと一息ひといき
何処どこげた。」
「今此処ここに、」
其処そこで見た。」
 と魂消たまぎゆるかなののしかわすわ。

        十一

 くてしばらくのあいだといふものは、くつわを鳴らす音、ひづめの音、ものを呼ぶ声、叫ぶ声、雑々ざつざつとして物騒ものさわがしく、此の破家あばらやの庭の如き、ただ其処そこばかりをくぎつて四五本の樹立こだちあり、かか広野ひろの停車場ステエションの屋根と此のこずえほかには、草より高く空をさえぎるもののない、其のあたりの混雑さ、多人数たにんずふみしだくと見えて、敷満しきみちたる枯草かれくさし、つ立ち、くぼみ、又倒れ、しばらくもまぬ間々あいだあいだ、目まぐるしきばかり、靴、草鞋わらんじの、かばかかと灰汁あくの裏、爪尖つまさきを上に動かすさへ見えて、異類異形いぎょういなごども、葉末はずえを飛ぶかとあやまたるゝが、一個ひとつも姿は見えなかつたが、やがて、しっしっ!と相伝あいつたふる。
 しばらくして、
「静まれ。」といふのが聞えると、ひツそりした。
 枯草かれくさ真直まっすぐになつて、風し、そよともなびかぬ上に、あはれにかゝつたのは胴抜どうぬきの下着である。
其奴そいつくくせ。」
しばれ、縛れ。」と二三度ばかりことばをかはしたと思ふと、や引上げられ、そでそびらへ、肩がとがつて、ふりなかばを前へ折つて伏せたと思ふと、ひざのあたりから下へ曲げてい込んだ、うしろに立つた一本ひともとはんに、いばらの実の赤き上に、犇々ひしひしいましめられたのである。
「さあ、言へ、言へ。」
「殿様の御意ぎょいだ、男を何処どこかくした。」
「さあ、言つちまへ。」
 くくされながらわななくばかり。
「そこ退け、踏んでくれう。」といらてる音調、草が飛々とびとび大跨おおまたきつしたと見ると、しまの下着は横ざまに寝た。
 えんなるつまがばらりと乱れて、たふれて肩を動かしたが、
「あゝれ。」
業畜ごうちく、心に従はぬは許して置く、くろがねむろに入れられながら、毛筋けすじほどの隙間すきまから、言語道断の不埒ふらちを働く、憎い女、さあ、男をいつて一所いっしょに死ね……えゝ、言はぬかうだ。」踏躙ふみにじ気勢けはいがすると、袖のもつれ衣紋えもんの乱れ、波にゆらるゝかと震ふにつれて、あられの如く火花にて、から/\と飛ぶは、可傷いたむべし引敷ひっしかれとげを落ちて、血汐ちしおのしぶく荊の実。
 桂木はこぶしを握つて石になつた、おうなの袖は柔かにかれおおうて引添ひきそひ居る。
「殿、殿。」
 と呼んで、
「其でははうとても謂はれませぬ、くつろげてつかはさりまし。」
し、さあ、うだ、言へ。何、知らぬ、知らぬ※(疑問符感嘆符、1-8-77) 黙れ。
 男をしたふ女の心はいつも男の居所いどころぢやはやく、口をあけて、さあ、かぬか、えゝ、業畜ごうちく。」
「あツ、」とまたはげしい婦人おんなの悲鳴、此のときには、其のもがくにつれて、はんの木のこずえの絶えず動いたのさへんだので。
 桂木はふさがうと思ふ目も、鈴で撃つたやうになつてまたたきも出来ぬのであつた。
 ややあつて、大跨おおまたの足あとは、ぎゃく退しさつたが、すツくと立向たちむかつた様子があつて、切つて放したやうに、
「打て!」
「殺して、殺して下さいよ、殺して下さいよ。」
「いづれ殺す、けては置かぬが、男の居所いどころを謂ふまでは、いかさぬ、殺さぬ。やあ、手ぬるい、打て。しもとの音が長く続いて在所ありかを語る声になるまで。」
「はツ。」
 四五人で答へたらしい、いばらの実は又しきりに飛ぶ、記念かたみきぬは左右より、衣紋えもんがはら/\と寄つてはけ、ほぐれてはむすぼれ、あたかも糸の乱るゝやう、翼裂けて天女てんにょころも紛々ふんふんとして大空よりるばかり、其の胸のる時や、紅裏こううらさっひるがえり、地にえりのうつむきす時、しまはよれ/\にせなを絞つて、上に下に七転八倒しってんばっとう
 おもかげは近く桂木の目の前に、ひとみゑた目もふさがず、薄紫うすむらさきに変じながら、言はじと誓ふ口を結んで、しか惚々ほれぼれと、男の顔を見詰みつむるのがちらついたが、今はうと、一度踏みこたへてずりはずした、もすそは長く草にあおつて、あはれ、口許くちもとえみも消えんとするに、桂木はうあるにもあられず、片膝かたひざきっと立てて、銃を掻取かいとる、そでおさへて、
そっと、密と、密と。」
 低声こごえたたみかけておうなが制した。
 たとひ此の弾丸山を砕いてにするまでも、四辺しへんの光景単身みひとつてきがたきを知らぬでないから、桂木は呼吸いきを引いて、力なく媼の胸にひそんだが。
 其時そのとき最後の痛苦の絶叫、と見ると、さいなまるゝ婦人おんなの下着、樹の枝に届くまで、すツくりと立つたので、我を忘れて突立つったあがると、彼方かなたはハタと又たおれた、今はかわや破れけん、枯草かれくさの白き上へ、垂々たらたらと血が流れた。
此処ここに居る。」と半狂乱、桂木はつゝと出た。
「や、」「や、」と声をかけ合せると、や、我が身体からだは宙にられて、庭の土に沈むまで、※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)どうとばかり。
 桂木は投落なげおとされて横になつたが、死をきわめて起返おきかえるより先に、これを見たか婦人の念力、そでおり目の正しきまで、下着は起きて、何となく、我を見詰みつむる風情ふぜいである。
「静まれ、無体むたいなことをもう。」
 姿は見えぬが巨人の声にて、
客人きゃくじん何もはぬ。
 ただ御身達おみたちのやうなものは、けて置かぬが夥間なかまおきてだ。」
 桂木は舌しゞまりて、
「…………」ものも言はれず。
ちまへ! 眷属等けんぞくども。」
 きらり/\と四振よふり太刀たち二刀ふたふりづゝをななめに組んで、彼方かなたあぎとと、此方こなたの胸、カチリと鳴つて、ぴたりと合せた。
 桂木は切尖きっさき咽喉のどに、つるぎの峰からあはれなる顔を出して、うろ/\おうなを求めたが、其のことばに従はず、ことさらに死地しちいたを憎んだか、う影も形も見えず、推量と多くたがはず、家もゆかとくに消えて、ただ枯野かれのの霧の黄昏たそがれに、つゆの命の男女ふたりなり。目をねむると、声を掛け、
「しかし客人、死をおしむ者は殺さぬが又おきてだ、あらかじめ聞かう、ぬしある者と恋を為遂しとげるため、死を覚悟か。」
 やや激しく。
婦人おんなは?」
「はい。」と呼吸いきの下で答へたが、うなずくやうにしてつむりを垂れた。
し。」
 改めて、
御身おんみは。」
 だくと答へようとした、ふまでもない、この美人はたとひ今は世にき人にもせよ、まさに自分の恋人に似て居るから。
 けれども、たとひ今は世に亡き人にもせよ、正に自分の恋人であればだけれども、可怪おかし枯野かれのの妖魔が振舞ふるまい、我とともに死なんといふもの、恐らく案山子かかしいだ古蓑ふるみのの、いたずらに風にあおるに過ぎぬも知れないと思つたから、おもはゆげにかしらつた。
「殿、不実な男であります、婦人おんなは覚悟をしましたに、生命いのちを助かりたいとは、あきれ果てた未練者みれんもの、目の前でずた/\に婦人おんなを殺して見せつけてくれませう。」
「待て。」
「は。」
「客人が、世を果敢はかなんで居るうちは、我々の自由であるが、一度ひとたび心を入交いれかへて、かかところへ来るなどといふ、無分別むふんべつさへ出さぬに於ては、神仏しんぶつおはします、父君ちちぎみ母君ははぎみおはします洛陽らくようの貴公子、むざとしてはかえつて冥罰みょうばつおそろしい。婦人おんなれ! しかし客人は丁寧にお帰し申せ。」
「は。」と再び答へると、何か知らず、桂木の両手を取つて、優しくたすけ起したものがある、其が身に接した時、湿つたかおりがした。
 腰のあたり、ひざのあたり、ひざまずいてちりを払ひくれる者もあつた。
 銃をも、引上げて身に立てかけてよこしたのを、弱々よわよわと取つてひっさげて、胸を抱いて見返ると、しまの膝を此方こなたにずらして、くれないきぬの裏、ほのかに男を見送つて、わかれおしむやうであつた。
 桂木は倒れようとしたが、くびすをめぐらし、背後向うしろむきになつた、霧の中から大きな顔を出したのは、たくましい馬で。
 これを片手で、かい退けて、それから足を早めたが、霧が包んで、ひづめの音、とゞろ/\と、送るか、追ふか、停車場ステエションのあたりまで、四けんばかりあわいを置いてついて来た。
 来た時のやうに立停たちどまつて又、ああ、妖魔にもせよ、と身をてて一所いっしょに殺されようかと思つた。途端に騎馬が引返ひきかえした。其のあわい遠ざかるほど、人数にんずして、次第に百騎、三百騎、はては空吹く風にも聞え、沖を大浪おおなみの渡るにもまごうて、ど、ど、ど、ど、どツと野末のずえへ引いて、やがて山々へ、木精こだまに響いたと思ふとんだ。
 最早、天地、ところへだつたやうだから、其のまゝ、銃孔じゅうこうを高くキラリとり上げた、星ひとツ寒く輝く下に、みちも迷はず、よるになり行く狭霧さぎりの中を、台場だいばに抜けると点燈頃ひともしごろ
 山家やまがの茶屋の店さきへ倒れたが、火のかっと起つた、囲炉裡いろり鉄網てつあみをかけて、亭主、女房、小児こどもまじりに、もちを焼いて居る、此のにおいをかぐと、ういふものか桂木は人間界へ蘇生よみがえつたやうな心持こころもちがしたのである。
 汽車がついたと見えて、此処ここまで聞ゆるは、のんきな声、お弁当はよろし、おすしはいかゞ。……

底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
   1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
   1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
   1940(昭和15)年発行
初出:「新小説」
   1903(明治36)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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