その少女は馬鹿なのか善良なのか、とにかく調子はづれの女だった。それにその喫茶店の制度が、一々客のテーブルの側を巡回させて、「いらっしゃいませ、今日は誠に結構なお天気で御座います。」と御機嫌伺ひをやらせるのだから少し変ってゐた。誰だってこんな所へ本気で来る筈はないと安永は思った。その彼だっていい齢をして何が面白くてこんな場所に来るのか解らなかった。が、三日その少女を見ないと何だか物足らないし気になる程安永はよく其処へ行った。
 その日、安永は月給を貰って吻とした軽い気持で其処のドアを押した。
「いらっしゃいませ、今日は誠に結構なお天気で御座います。」少女は紋切型をとり澄ました態度で無表情に述べた。
「エヘヘヘ」
 安永は何時もなら怺へてゐるところを最初から噴き出した。が、少女は一寸もそんなことで気持を損ねた容子もなく首を一寸斜に傾げながら、
「あの何をお召し上りになりますか。」と静々と伺ふのだ。
「左様で御座いますなあ、えーと、あ、さうだ、ヨーヨーはないかね。」
「かしこまりました、伺って参ります、暫くお待ち下さい。」
 少女の去った後で安永は思はず舌を出した。何ぼ何でも何時もながらあんまりひどい。一体この女は正気なのか、間抜けなのか。世智辛い都会の真中で、これはあんまり悠長過ぎはすまいか。尤ももしかすると相手はこいつを売りものにしてゐるのかも知れないが、さうだとすると一寸薄気味が悪い。安永はこれまで自分の接した数々の女と彼女とを比較してみたが、比較にならぬ程その少女はまだ稚かった。
「あの御生憎様、ヨーヨーは御座いません。」
「そいつは残念だなあ。」
 安永はもう一度彼女を調弄ってやらうかと思ったが、少し気の毒になった。
「だったら紅茶でもくれ給へ。」
 間もなく紅茶が運ばれて来ると、
「どうぞ御ゆっくり。」と少女は一揖して安永の側を離れた。彼はおもむろに紅茶を啜りながら、今度少女が側にやって来たら何と云って調弄はうかと考へた。今日はとても陽気で、爽快だから、もし仮りに安永がこの少女に熱烈な恋を打明けたとしても、あまり不自然ではなからう。安永は自分がもっともっと若くて学生か何かだったらと思った。彼は煙草をスパスパ吸ひながらレコードを聴いてゐた。そのうちに少女はまた彼の側にやって来た。
「何か面白いことはないかね、君。」
「左様で御座いますね、何がよろしう御座いませう。」
 少女は真面目さうにぢっと考へ出した。
「何だって面白けりゃいいよ。一つ飛切り面白いものを見せてくれ給へ。」
 すると少女は急に思ひあたった様に懐に手を入れた。
 何を出すのかと思ふと、それは一通の手紙だった。
「見てもかまはないね。」
「どうぞ御覧あそばせ。」
 彼は甘ったるいレター・ペーパーに並べられたインクの跡に目を走らせた。それはつまり極くありふれたラブレーターであった。何のつもりでこんなものを見せるのだらう、安永は軽い驚きとともに少女を見上げた。
「ふん、どうも有難う。」と、彼は手紙を返したが、もうこの少女を調弄ふ気にはなれなかった。
 やがて彼は其処を出ると、とめどもなく街を歩き廻った。訳のわからぬ寂しさが安永にはあった。自分は幾分彼女を妬いてゐるやうにも思へた、が、そんな馬鹿な筈はないと打消すのであった。かう云ふ時の癖として、彼は屋台店で電気ブランを飲んだ。すると彼は遽かにまた活気づいて来た。
 彼は電車を降りると砂利道の上をよろよろと歩いた。後から肥車を牽いた牛がやって来た。彼は急にその柔和な牛に対して特に親愛の情を覚えた。
「やあ、牛よ、牛よ、牛太郎君。」
 彼は女の頤の下をくすぐるやうな積りで牛の頤をさすった。牛は一向手応へもなくぢっとしてゐた。死んだ俺の女房だったら、今にきっと怒り出すのだがなあ――と彼はいよいよ調子づいて牛の耳のあたりを撫でた。
「澄ますなかれだ、おい、ハハハ、こん畜生!」
 突然、安永は身を退かうとした。が、既に遅かった、彼は牛の怒りの角に触れて、その儘路上に悲鳴を掲げた。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
   1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
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