明治四十五年の夏、われ箱根山下の湯本村にありて、聖上陛下御重病の飛報に接し、夢かとばかり打驚きぬ。この飛報は、瞬くひまに、山又山を越え、海の外までも傅はりて、一團の愁雲忽ち東海の空を掩へり。六千萬の同胞誰か憂懼に堪へざるものあらんや。村の在郷軍人會の人々、山上の箱根神社に詣でて、御平癒の祈祷をなすと聞き、われも請ひて、その一行に加はる。
 午後五時、會長泉澤少尉の家を發す。會せしもの五六人なりしが、行く/\一人加はり、二人加はり、臺の茶屋に至りて待ち合はす程に、二十餘人となりぬ。石を敷きつめたる舊街道を上る。普通二三十人も山路を上るとすれば、必ずや脚健なるものは早く進み、脚弱きものは遙に後れて、ちり/″\ばら/\になるべけれども、さすがに軍隊教育を受けし人達なるだけに、歩調一致し、わざ/\號令せずとも、おのずから一團となり、急進者もなければ、落伍者も無し。須雲川村に至れば、來り加はるもの一人あり。村民各※(二の字点、1-2-22)戸前に立ち出で、一行に向つて、御苦勞樣と挨拶す。畑宿に至れば、二三人加はる。こゝも一行に挨拶すること、須雲川の如し。老平に至り、甘酒茶屋に休息するほどに、日全く暮れたり。思ひがけずも、杜宇一聲聞ゆ。聲せし方を仰げば、二子の峯、暮色の中に淡く見えて、高く天を衝く。二度とは啼かざりき。
 權現坂を下りて元箱根に至り、一同湖水に手を洗ひ、面を洗ひ、口を漱ぎて身を清む。うれしや、湖上ぱつと明かになりて、半輪の月雲間に露はる。離宮のある塔ヶ島、四山の中に最も黒く見ゆ。恰も巨人の臥するが如し。湖水は眠りて、ざぶとの音だにもなし。嗚呼この月は我等の祈願の光明ぞとばかりに感ぜられ、遙に離宮の空に向つて伏し拜む。この離宮建ちてより數十年、鸞駕一たびも到らず。聖上陛下、日夜國の爲に盡瘁せさせられて、避暑避寒遊覽の御暇だにあらせず。箱根離宮建ちたるまゝにて、一度だに目のあたり御覽ぜられたることなきの一事にても、聖徳の一班を仰ぐべし。而してこれこの度の御病の一因となりたるにあらずやと思はるゝにつけても、日本の臣民、誰か感涙に咽ばざらんや。
 提燈の光をたよりて、老杉の中の石段を上る。夜氣蕭森として、神聖の地殊に一層神聖なるを覺ゆ。石段を上りつくし、唐門の外に立ち神官の來たるを待つ。あたりは物暗けれども、杉の木立の隙間より、仰いで月魄を見る。さきに湖畔にて見しより一層さやかなるに、いよ/\祈願は成就するなりと、心何となく躍る。石段の下より提燈の光見え初め、暫くして、からん/\と下駄の音聞え初め、又暫くして始めて登り果てたり、これ神官也。一同神官に導かれて拜殿に上り、こゝにて神官に祓ひ清められて、内陣深く進み入り、神官の後ろにひざまづく。蝋燭の光かすかにして、壇上の樣よくは見えず。唯※(二の字点、1-2-22)神官の右に、偉大なる太鼓ありと見る程もなく。どんと一聲天地の寂寞を破り、大祓の祝詞を讀むの聲、之に和して起る。鼓聲急にして祝詞の聲も急也。さびたる聲にて力あり、人をしておのづから肅然たらしむ。つぎに一同の姓名を讀み上げて、御平癒祈願の詞を陳ぶ。意到り、情盡して、有難しとも有難し。一同拍手頓首し、一々御酒を頂戴して退く。
 湖畔に來りて、天を仰げば、さきの明月は早や雲に隱れて、天地全く暗黒也。心ともなく思はれて胸に動悸の波うちしは、我のみにもあらざらむ。一旅店に就いて各※(二の字点、1-2-22)辨當を食ひ、休息する間にも、心は一つ、他の雜談なし。甘酒茶屋までは、七つ八つの提燈をたよりに來りしが、休息して茶屋に渇を醫し、立ち去らんとすれば、三個の松明を呉れたり。茶代を置かんとすれど、受取らず。嗚呼日本國民は、山中に茶屋を營むものまでも、金よりは義が重き也。その呉れたる松明は、長さ七八尺もある所謂箱根竹を束ねたり。一個にて、十數人を照すに餘りあり。提燈は皆消し、三個の松明を燃して、夜の箱根山を下る。天地暗黒の裡、唯※(二の字点、1-2-22)この前後數十間の間のみ赤し。石ごろ/\の嶮坂も、いと心安くすた/\歩きて京宿に來れば、村の人々、村はづれに焚火して一行を迎へ、一休憩店に導き、一行の勞を謝し、茶と力餅とを饗し、いづれ御禮參の期あるべし、その節には、大に祝ひて、酒を饗し申さむといふ。殊勝なる心掛かな。御禮參は畑宿の人の期せしのみならず、我等一行の期せし所也。我等一人の期せしのみならず、日本國民上下一般に期せし所也。期せしのみならず、信ぜし所。然れども、千秋萬古、御禮參りするに由なくなりぬ。嗚呼悲しい哉。
(大正元年)

底本:「桂月全集 第一卷 美文韻文」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年5月28日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2009年1月13日作成
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