これは友人の談だ、ある年の春の末、もう青葉の頃だったが、その男は一夜友人に誘われて吉原のさる青楼へ上った、前夜は流連をして、その日も朝から酒を飲んでいたが、如何にも面白くない、友人に断って自分だけは帰ろうとしたが、友人が無理に引止めるので、仕方なしに、その宵はまだ早かったが、三階の一番隅の部屋で、一人寝ていると、外もそろそろ賑になって来たようだが、自分の部屋の近所ではヒッソリと静かで、時々下の方で重い草履の音が、パタリパタリと寝むそうに聞え、窓越の裏の田甫からは蛙の鳴く声が聞えてくるばかりなので、つい、うとうととすると、不図自分の部屋の障子がスーと開いて、廊下から遊女が一人入って来た、見ると自分の敵娼でもなく、またこの楼の者でも、ついぞ見た事のない女なのだ。自分の枕許にピタリと座りながら、「もしもし」と揺起そうとするけれど、男は寝ながら黙って、ただ手で違う違うと示しながら、やや暫しその押問答をやっていたが、その間の息苦しいといったら、一方ではない、如何いうわけか跳起る気力も出ないで、違う違うと、ただ手を振りながら寝ていたが、やがてまた廊下に草履の音が聞えてガラリと障子が開くと、此度は自分の敵娼の顔が出た、するとその拍子に、以前の女は男の寝ている蒲団の裾を廻って、その室の違棚の下の戸袋の内へ、スーと入ってしまった、男もこの時漸く夢が醒めたように身体も軽くなったので、直ぐ床から起上って、急いでその戸棚をガラリ開けて見ると、こは如何に、内には、油の染潤んだ枕が一つあるばかり、これは驚いて、男は暫時茫然としていたが、その顔色が真蒼にでもなっていたものか、相方も驚きながら、如何したのかと訊ねられたが、その場では別に何も談さず、風邪の気味か何だか少し寒気がするといって、友人にも同じくその由をいって無理やりに、その晩は家へ帰って来たというが、青楼などでは、往々にして、こういう談を聞くようである。
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月25日作成
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