私は今年四十二才になる。ちょうどこの雑誌の読者諸君からみれば、お父さんぐらいの年頃であるが、今から指折り数えると三十年も以前、いまだに忘れることの出来ないなつかしい友達があった。この話はつくりごとでないから本名で書くが、その少年の名は林茂といった心の温かい少年で、私はいまでも尊敬している。家庭が貧しくて、学校からあがるとこんにゃく(蒟蒻)売りなどしなければならなかった私は、学校でも友達が少なかったのに、林君だけがとても仲よくしてくれた。大柄な子で、頬っぺたがブラさがるように肥っている。つぶらな眼と濃い眉毛を持っていて、口数はすくないがいつもニコニコしている少年だった。もっとも林君もたっしゃでいてくれればもうお父さんになってる筈だから、ひょっとすればその林君の子供が、この読者にまじっていて、昔の茂少年とそっくりに頬っぺたブラさげてこの話を読んでいるかも知れない。もしかそうだったらどんなに嬉しいだろう。
私は五年生ごろから、こんにゃく売りをしていた。学校をあがってから、ときには学校を休んで、近所の屋敷町を売り歩いた。
私は学校が好きだったから、このんで休んだわけではない。こんにゃくを売って、わずかの儲けでも、私の家のくらしのたすけにはなったからである。お父さんもお母さんもはたらき者だったが、私の家はひどく貧しかった。何故貧しかったのか、私は知らない。きょうだいが沢山あって、男の子では私が一ばん上だった。
こんにゃくは町のこんにゃく屋へいって、私がになえるくらい、いつも五十くらい借りてきた。こんにゃくはこんにゃく芋を擦りつぶして、一度煮てからいろんな形に切り、それを水に一ト晩さらしといてあくをぬく。諸君がとんぼとりにつかうもちは、その芋をつぶすときに出来るおねばのことであるが、さてそのこんにゃく屋さんは、はたらき者の爺さんと婆さんが二人きりで、いつも爺さんが、
「ホイ、きたか――」
と云って私にニコニコしてくれた。
「きょうはいくつだ、ウン、百くらい持っていって売ってこい」
頭をなでてくれたり、私が計算してわたす売上金のうちから、大きな五厘銅貨を一枚にぎらしてくれることもあった。
五厘銅貨など諸君は知らないかも知れぬが、いまの一銭銅貨よりよっぽど大きかったし、五厘あると学校で書き方につかう半紙が十枚も買えた。私はこんにゃく一つ売って一厘か一厘五毛の利益だったし、五十みんな売っても五六銭にしかならない。
ところが、その五十のこんにゃくはなかなか重い。前と後ろに桶に二十五ずついれて、桶半分くらい水を張っておかないと、こんにゃくはちぢかんでしまうから、天秤をつっかって肩でにないあげると、ギシギシと天秤がしまるほどだった。
――こんにゃはァ、こんにゃはァ、
大きな声でふれながら、いつも町はずれから、大きな屋敷が沢山ある住宅地の方へいった。こんにゃはァ、というのは、こんにゃくだ、こんにゃくだという意味で、大声でふしをつけると、ついそんな風に言葉がツマってしまうのである。
――こんにゃはァ、こんにゃはァ、
腰で調子をとって、天秤棒をギシギシ言わせながら、一度ふれては十間くらいあるく。それからまた、こんにゃはァ、と怒鳴るのだが、そんなとき、どっかから、
「――こんにゃくやさーん」
と、呼ぶ声がきこえたときの嬉れしさったら、まるでボーッと顔がほてるくらいだ。
五つか六つ売れると、水もそれだけ減らしていいから、ウンと荷が軽くなる。気持もはずんでくる。ガンばってみんな売ってゆこうという気になる。
「こんちはァ、こんにゃく屋ですが、御用はありませんか」
一二度買ってくれた家はおぼえておいて、台所へいってたずねたりする。
しかし売れないときは、いつまで経っても荷が減らない。もう夕方だから早く廻らないと、どこの家でも夕飯の仕度がすんでしまって間にあわなくなる。しきりに気はあせるが、天秤棒は肩にめりこみそうに痛いし、気持も重くなって足もはかどらない。しまいには涙がでてきて、桶ごとこんにゃくも何もおっぽりだしたくなることもあった。
ねえ読者諸君! はたで眺めるぶんには、仕事も気楽に見えるが、実際自分でやるとなると、たかがこんにゃく売りくらいでも、なかなか骨が折れるものだ。
――こんにゃはァ、こんにゃはァ、
ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところで、ふしをつけて平気で怒鳴れるようになるまでには、どんなに辛い思いをすることか。
私だってまだ少年だから恥ずかしい。はじめのうちは、往来のあとさきを見廻して、だれもいないのを見とどけてから、こんにゃはァ、と小さい声で、そッと呟やいたものだった。しかしだれもいないところでふれたって売れる道理はないのだから、やっぱりみんなの見ているところで怒鳴れるように修業しなければならない。
それからだんだん、ふれ声も平気で言えるようになり、天秤棒の重みで一度は赤く皮のむけた肩も、いつかタコみたいになって痛くなくなり、いつもこんにゃくを買ってくれる家の奥さんや女中さんとも顔馴染になったりしていったが、たった一つだけが、いつまで経っても、恥ずかしく辛かった。
それは往来で、同級生にぶっつかることだった。天秤棒をキシませながら、ふれ声をあげて、フト屋敷の角をまがると、私と同じ学帽をかぶった同級生たちが四五人、生垣のそばで、独楽などをまわして遊んでいるのがめっかる。するともう、私の足はすくんでしまって、いそいで逃げだそうと思うが、それより早く、
「あッ、徳永だ――」
と、だれかが叫ぶ。するとまた、
「ホントだ、あいつこんにゃく屋なんだネ」
と、違った声がいう。私は勇気がくじけて、みんなまできいてることが出来ない。こんにゃくを売ることも忘れて、ドンドンいまきた道をあと戻りして逃げてしまう。
こんなとき、私が、
「ああおれはこんにゃく屋だよ。それがどうしたんだい」
と言えればよかった。そしたら意地悪共も黙ってしまったにちがいない。ところが不可ないことには私にその勇気がなかったので、もう二つの桶をあっちの石垣やこっちの塀かどにぶっつけながら逃げるので、うしろからは益々手をたたいてわらう声がきこえてくる……。
そんな風だから、学校へいってもひとりでこっそりと運動場の隅っこで遊んでいたし、友達もすくなかった。学問は好きだったから出来る方の組で、副級長などもやったことがあるが、何しろ欠席が多かったから、十分には勤まらない。先生はどの先生も私を可愛がってくれたし、欠席がつづくと私の家へ訪ねてきてくれたりした。しかし私には同級生の意地悪共が怖い。意地悪ではない同級生たちさえ意地悪に見えてきて、学問と先生を除けば、みんな怖かった。
ところが、あるときこんなことがあった。
もうすぐ夏になる頃の、天気のいい日曜日だった。私は朝からこんにゃく桶をかついで、いつものように屋敷の多い住宅地を売ってあるいていたが、あるお邸で、たいへんなしくじりをやってしまった。
そのお邸は石垣のうえにある高台の家で、十ばかりの石段をのぼらねばならぬ。石段をのぼると大きな黒い門があって、砂利をしいた道が玄関へつづいている。左の方はひろい芝生つづきの庭が見え、右の方は茄子とか、胡瓜を植えた菜園に沿うて、小さい道がお勝手口へつづいている。もちろん私はお勝手口の方へその小さい菜園の茄子や胡瓜にこんにゃく桶をぶっつけぬように注意しながらいったのであるが、気がつくと、お勝手口の入口へ、大きな犬がねているのであった。黒白斑らの、仔馬ほどもあるのが、地べたへなげだした二本の前脚に大きな頭をのっつけ、ながい舌をだしたまま眠っている。――
「今日は、こんにゃく屋でございます……」
私はそう言いたいのだが、うまく声が出ない。こいつが眼をさましたらどうしよう? しかし黙っていては女中さんは出てこぬし、こんにゃくは売れない。私は勇気をだして、犬の顔ばっかり見ながら、ふるえる声で――こんにちは――と言った。すると、果して大きな犬はすぐ眼をさました。ブルドックだか土佐犬だか、耳が小さく頬っぺたのひろがったその犬は、最初ものうそうに眼をひらいたが、みるみるうちに鼻皺を寄せて、あつい唇をまくれあがらせた。
「――こんにゃく屋でございます」
もうそのときは、叫ぶように、犬にむかって言った。怪しいもんではない、ということを知ってもらいたいために叫んだ。しかし犬にはわからなかった。う、う、と唸りながら起きあがると、毛を逆だてて、背中をふくらませて近寄ってきた。私が一と足さがると二た足寄ってくる。二た足さがると三足寄ってくる。私はもう声が出ない。重い桶をになっているから自由もきかない。私が半分泣声になって叫ぶと、とたんに犬は肝をつぶすような吠え声をあげて、猛然と跳びかかってきた。私は着物に咬みつかれたまま、うしろの菜園のなかに、こんにゃく桶ごとひっくりかえった。
「あら奥様、奥様、大変ですよう――」
そのときになって勝手口からとびだしてきた女中さんが、苦もなく犬の首輪をつかんで引き離しながら、奥の方へむかって叫んでいるのであった。
「こんにゃく屋がお菜園をメチャメチャにしてしまいましたわ」
私もそれで気がついた。幸いこんにゃく桶は水がこぼれただけだったが、私の尻餅ついたところや、桶のぶっつかったところは、ちょうど紫色の花をつけたばかりの茄子が、倒れたり千切れたりしているのであった。
「なにさ、おやおや――」
玄関の格子戸がけたたましくあいて、奥さんらしい女の人がいそいで出てきた。
「まあ、大変なことをしてくれたネ。こんにゃく屋さん、これはうちの旦那さまが丹精していらッしゃるお菜園だよ、ホンとにまァ」
奥さんは、私の足もとから千切れた茄子の枝をひろいあげると、いたましそうにその紫色の花をながめている。私もほんとに申訳ないことをしたと思った。私も子供だけれど、百姓の子だから、茄子がこんなに花をつけるまでどんなに手数がかかるかを知っていた。
「どうもすみません」
お辞儀しながら、私は犬の方を見た。しかし犬はもうけろりとして、女中さんの足許に脚をなげだして、ものうさそうにそっぽむいているのであった。
「犬が怖かったもんですから」
そういうと、女中さんが、
「お前が逃げるからだよ、逃げなきゃ跳びつきなんかしやしない、ねえクマ、そうでしょ」
犬の頭を撫でながら、そう言ったので、いつかこれも騒ぎをききつけて、庭の方から廻ってきていた四五人の子供たちのうちからクスクスわらう声がきこえた。男の子も女の子もいるようだったが、私はますますはずかしくなって顔をあげられない。
「三本、五本と、ああ、これも折れてる――」
奥さんは菜園のなかを、こごんで折れてしまった茄子をかぞえてあるきながら、
「ほんとに九本も、折っちまったじゃないか、折角旦那様が丹精なすってるのに」
「……………」
私は何度も「すみません」とお辞儀したが、それより他に言葉もめっからないので、しまいには黙って頭を低げていた。泣きだしたくなるのを我慢して。
「すむもすまんもありゃしないよ。こんにゃくなんか要らないんだから、さっさとおかえり……」
私は着物についた泥土をはらって、もう一度お辞儀した。すると、そのとき奥さんや女中さんのうしろで、並んでみていた子供のうちから誰れかが出てきて、
「オイ、徳永くん」
と耳許で云った。おどろいて私が顔をあげると、それが同級生の林茂だった。彼は黙って私の桶や天秤棒をなおしてくれ、それからくるりと奥さんの方へむきなおると、
「小母さん、すみません」
と云ってお辞儀した。林は口数の少ない子だから、それだけしか言わなかったが、それはあきらかに、私のために詫びてくれてるのだということが、誰にもわかった。
それで、こんどはいくらかおどろいたような奥さんの声が訊いた。
「おや、この子、茂さんのお友達?」
私は林が何と答えてくれるだろうと思った。また犬の頭をなでている女中さんも、うしろにたってみている子供たちも、一緒に林の顔を見ていた。
「ええ」
すると林は、それだけだが、非常にはっきりと、顔をあげて言ったのだった。私はその瞬間、一ぺんに身体があつくなってきて、グーン、グーン、と空へのぼってゆく気がした。
二
林は五年生のとき、私たちの学校へ入ってきた子だった。ハワイで生れてハワイの小学校にあがっていたが、日本に帰って勉強するために、お祖母さんと、妹と三人で、私が犬に吠えられて茄子を折った邸の、すぐ隣りの大きな家に住んでいた。
クラスのうちで一番身体が大きく、一番勉強もできたので、ずウッと級長をしていた。
林と私はそれまで一緒に遊んだりしたことはなかったが、いつもニコニコしている子だから嫌いではなかった。力の強い子で、朝、教室の前で同級生たちを整列させているとき、級長の号令をきかないで乱暴する子があると、黙って首ッ玉と腕をつかんでひっぱってくる。そんなときもやはりわらっていた。
林が私のために、邸の奥さんに詫びてくれてから、私は林が好きになった。そして林が奥さんに言ったように、私達はほんとに友達になった。私が林の家へいって、林の妹と三人で「兵隊将棋」をしたり、百人一首をしたり、饅頭など御馳走になったりしたことがあるが、たいていは林が私の家へくる方が多かった。だって私は妹の守りをすることもあるし、忙がしいのだから、一緒になるにはそれより方法がないからだ。
ときどきは、私と一緒にこんにゃく売りについてくることもあった。そして、
「よし、こんどはおれにかつがせろよ」
と言って、代ってこんにゃく桶をかつぐこともあったが、かつぐのはやっぱり私が上手で、林は百メートルを歩くと、すぐ肩が痛いと言ってやめた。
しかし林が一緒にこんにゃく売りについてきてくれるので、どんなに私は肩身がひろくなったろう。第一に林はこんにゃく売りを軽蔑するどころか、却って尊敬しているので、もうどんな意地悪共が、手を叩いてはやしたって、私はヘイチャラである。
「ハワイって、外国かい?」
一緒に歩きながら、私達はよくハワイの話をした。林のお父さんも、お母さんもまだそこで大きな商店をやってるということだった。
「アメリカさ、太平洋の真ン中にあるよ」
フーン、と私は返辞する。地図で習ったことを思いだすが、太平洋がどれくらい広くて、ハワイという島がどれくらい大きいのか想像つかないからだった。
「どうして日本に戻ってきたの?」
「日本語を勉強するためにさ」
「ヘェ、じゃハワイでは何語を教わっていたんだい」
「英語さ」
私はますますおどろいた。
「じゃ、英語よめるんだネ」
「ああ、話すことだってできるよ」
私はとても不思議な気がして、林の顔を穴があくほどみた。そしてこの子が何でもない顔をしているんで、いよいよ不思議だった。
しかし林が英語が上手なのは真実だった。六年のとき、私達の学校を代表して、私と林は「郡連合小学児童学芸大会」にでたことがある。郡の小学校が何十か集って、代表児童たちが得意の算盤とか、書き方とか、唱歌とか、お話とかをして、一番よく出来た学校へ郡視学というえらい役人から褒状が渡されるのだった。そのとき私たちは、林が英語の本を読み、私が通訳するということであった。
読者諸君も、中学へあがられると、たぶん教わると思うが、ナショナルリーダーの三に「マンキィ、ブリッジ」(猿の橋)という課がある。手の長い猿共が山から山へ、森から森へ遊びあるいて、ある豁川にくると、何十匹の猿が手をつないで樹の枝からブラ下り、だんだん大きく揺れながら、むこうの崖にとびついて、それから他の猿どもを順々に渡してやるという話である。林はそれをもう本もみないでラクに英語で喋べるのであった。私は英語はよめないが、国語が得意だったし、お話が比較的上手だったから、先生がえらんだろうと思う。話の筋をよく暗記しておいて、林が一と区切りする毎に、私も本を見ないで通訳をした。
学芸大会では拍手喝采だった。各小学校の校長先生たちや、郡長さん始め、県の役人なども沢山いるところで、私たちは非常に面目をほどこしてから、受持の先生に引率されて帰ってきたが、それから林と私はますます仲良しになった。
あるとき林の家へいって遊んでると、林が大きな写真帳をもってきて、私にみせたことがある。それはハワイの写真で、汽船が沢山ならんでいる海の景色や、白い洋服を着てヘルメット帽をかぶった紳士やがあった。その紳士は林のお父さんで、紳士のたっているうしろの西洋建物の、英語の看板のかかった商店が、林の生れたハワイの家だということであった。
「ぼくが生れないずッとまえ、お父さんもお母さんも、労働者だったんだよ」
林はそう言って、また写真帳の他のところをめくってみせた。そこには、洋服は洋服だが、椰子の木の生えたひろい畑の隅に、跣足で柄の長い鍬をもった林のお父さんと、傍に籠をもってしゃがんでいるお母さんとがならんでいた。
「とても働いたんだネ、働いて金持になって、今のお店を作ったんだ」
「フーム」
「いまお父さんは市の収入役してるよ、アメリカ人でも、フランス人でもお父さんのところへ相談にくるんだよ」
「フーム」
私は写真帳を見ながら、すっかり感心してしまった。そして林が何故、私のこんにゃく売りを軽蔑しないか、それがわかった気がした。
働いてえらい人間にならねばならない。日本ばかりでなく、外国へいってもえらい人間にならねばならないと思った。
それからはこんにゃく桶をかついでいても、以前のようにひどく恥ずかしい気がしなくなった。――
小学校を卒業してから、林は町の中学校へあがり、私は工場の小僧になったから、しぜんと別れてしまったが、林のなつかしい、あの私が茄子を折って叱られているとき――小母さん、すみません――と詫びてくれた、温かい心が四十二歳になってもまだ忘れられない。
その後、私はねっしんに勉強して小説家になった。林茂君もたっしゃでいれば、どっかできっとえらい人間になっていてくれるだろう。いま一度逢って、あのときのお礼を言いたいものだ。
底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「風」桜井書店
1941(昭和16)年8月20日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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