今般文部省にて編纂へんさんせられたる『国定小学修身書』を一読するに、その中に迷信の課題ありて、懇切に迷信に関する注意を与えられしも、その文簡短にして、小学児童の了解し難きところなきにあらず。よって余は『修身書』にもとづき、その中に指示せられたる各項を敷衍ふえん詳解して、小学および家庭における児童をして、一読たちまち各種の妖怪を解し、迷信を悟らしむるの目的をもって、本書を講述したり。もしその参考には、『妖怪早わかり』『妖怪百談』『妖怪学講義』『妖怪学雑誌』『妖怪叢書』等を見るべし。

  明治三十七年七月
講述者誌
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『国定小学修身書』を案ずるに、尋常小学第四年級用第十五課に「迷信を避けよ」との一課あり、また、高等小学第二年級用第六課に「迷信」の一課ありて、その課の目的は迷信の避くべきことを知らしむるにありと書いてある。されば、学校における児童はいうに及ばず、家庭においてもよくこの心得を守りて、児童に迷信の信ずるに足らぬことをよく教え込んでおかねばならぬ。よって、余は多年このことを研究したりしかどをもって、『修身書』に示されたる迷信の箇条を詳細に解釈し、多くの人に分かりやすきように説き明かしておきたいと思う。
 尋常の『修身書』に出ておる、武士が瓢箪ひょうたんを切りたる話は、『珍奇物語』と題する書中に出ておる。また、祈祷きとう者が神酒みき徳利にどじょうをいれたる話は、『閑際筆記かんさいひっき』に見えておる。多分その当時、民間にて評判されし出来事であろう。また、高等の『修身書』に出でたる徳川家康が西方に向かって出陣せし話は、『草茅危言そうぼうきげん』に書いてある。藤井懶斎ふじいらんさい凶宅きょうたくに住せし話は『先哲叢談せんてつそうだん』にあるも、その源は『閑際筆記』より引用したるものである。いずれも迷信を人に諭すに、最も分かりやすく、かつ興味ある話である。
 尋常の『修身書』の注意のもとに、「迷信は地方によりて種々雑多にて、四国地方の犬神のごとき、出雲地方の人狐にんこのごとき、信濃地方のオサキのごときは、特にその著しきものなり」とあるが、実にそのとおり、地方の異なるに従い、おのおの特殊の妖怪を持っておる。しかして、その弊害は最もはなはだしい。まず、四国の名物ともいうべきは犬神にして、出雲の名物は人狐であるが、その名は異なれども、その実は同じようなものじゃ。この人狐のことを、あるいは狐持きつねもちとも申す。また、芸州げいしゅう辺りにてトウビョウというものがある。あるいはこれは蛇持ちともいう。石見いわみにては土瓶どがめとも申すということじゃ。備前びぜん備後びんごにては、猫神、猿神と名づくるものがあるそうだ。これらはみな類似のものに違いない。民間に伝われる書物に『人狐弁惑談じんこべんわくだん』と申すものがある。その中には、「雲州うんしゅうにて人狐のことを、あるいは山ミサキ、やぶイタチまたは小イタチと呼ぶものあり。九州には河太郎かわたろうというものあり。四国には猿神というものあり。備前には犬神というものあり。また備前、備中びっちゅうには日御崎ひのみさきというものあり。備中、備後にトウビョウというものあり。いずれも人について人を悩ますことをいえり。その人をなやますというところを考うるに、その名異なりといえども、その実は一なり。人を悩ますといえども、いずれもその形見えざれば、人狐といえば人狐なり、河太郎といえば河太郎なり、猿神といえば猿神なり。犬神、日御崎、トウビョウもみなしかり」と説いてあるが、これみな、ある一種の精神病に与えたる名称に相違ない。信州、上州辺りの管狐くだぎつね、オサキもこれと同じことじゃ。『夜譚随録やたんずいろく』と申す書物には、「管狐は駿州すんしゅう、遠州、三州の北部に多く、関東にては上野こうずけ下野しもつけに最も多し。上野の尾崎村のごときは、一村中この狐をかわざる家なし。ゆえに尾崎狐おさきぎつねともいう。また武州にては大崎という」と記してある。そのくわしきことは後に述べようと思う。
 また、尋常の『修身書』の注意のもとに、左の八項を掲げてこれを諭すべしと書いてある。
(一)狐狸こりなどの人をたぶらかし、または人につくということのなきこと。
(二)天狗てんぐというもののなきこと。
(三)たたりということのなきこと。
(四)怪しげなる加持祈祷かじきとうをなすものを信ぜぬこと。
(五)まじない、神水じんずい等のしるしの信頼すべからざること。
(六)卜筮ぼくぜい御鬮みくじ、人相、家相、鬼門、方位、九星きゅうせい墨色すみいろ等を信ぜぬこと。
(七)縁起、日がら等にかかわることのあしきこと。
(八)その他、すべてこれらに類するものを信ぜぬこと。
 つぎに高等の方には、本文中に、
 世には種々の迷信あり、幽霊ありといい、天狗ありといい、狐狸こりの人をたぶらかし、または人につくことありというがごとき、いずれも信ずるに足らず。また、怪しげなる加持祈祷をなし、卜筮、御鬮の判断をなすものあれども、たのむに足らず。およそ人は知識をみがき、道理を究め、これによりて事をなすべく、決して迷信に陥るべからず。疾病にかかりしとき、医薬によらずして加持祈祷、神水等に依頼するがごとき、難儀の起こりしとき、道理をわきまえずしてみだりに卜筮、御鬮等によるがごときは、いずれも極めて愚かなることというべし。
と説いてある。この道理を諭すにつきては、これらの迷信の由来、およびその原因、事情を説明することが必要であろうと思う。よって余は左の項目を設けて、学校および家庭における児童に、分かりやすく知れやすいように説明するつもりである。
第一、狐狸のこと 人狐にんこ犬神いぬがみのこと。
第二、狐惑こわく狐憑きつねつきのこと。
第三、天狗のこと。
第四、幽霊およびたたりのこと 死霊しりょう生霊いきりょうのこと。
第五、加持祈祷のこと。
第六、マジナイ、神水じんずいおよび守り札のこと。
第七、卜筮ぼくぜい御鬮みくじのこと。
第八、人相、家相および墨色すみいろのこと。
第九、鬼門、方位のこと。
第十、日柄、縁起のこと。
第十一、怪火かいか、怪音および異物のこと。等
 右の説明を試むる前に、妖怪の種類に四とおりあることを述べねばならぬ。その第一は、人為的妖怪すなわち偽怪ぎかいにして、人の偽造したるものをいい、第二は、偶然的妖怪すなわち誤怪ごかいにして、偶然誤りて、妖怪にあらざるものを妖怪と認めたるものをいうのである。この二者は古今の妖怪談中に最も多く加わりおるに相違なきも、その実、妖怪にあらざるものなれば、これを合して虚怪きょかいと名づく。つぎに第三は、自然的妖怪すなわち仮怪かかいにして、妖怪はすなわち妖怪なるも、天地自然の道理によりて起こりたるものなれば、物理学あるいは心理学の道理に照らして説明し得るものである。すでに説明しおわれば、妖怪にあらざることが分かる。ゆえに、これを仮怪と名づく。これに物理的妖怪、心理的妖怪の二種がある。狐火きつねびのごときは物理的妖怪にして、幽霊のごときは心理的妖怪というべきものである。第四の妖怪は、天地自然の道理をもって説明し得べからざるものにして、真の不思議と称すべきものなれば、これを超理的妖怪すなわち真怪しんかいと名づく。この真怪は世間の人の妖怪とせざるものにして、学術上の研究によりてはじめて妖怪なることを知るものなれば、ここに迷信の一種として説明する必要はない。それはともあれ、この仮怪と真怪とは真実の妖怪とすることができるから、これを合して実怪じっかいと名づくる次第である。これらの名目が後にたびたび出でてくるゆえに、あらかじめその意味を弁解しておくは無用ではない。
 この四とおりの種類のうちにて偽怪、誤怪が最も多いから、この二種につきて今少しく述べておきたいと思う。偽怪には人の談話の癖として、虚言、大言を吐きて人の耳目を引かんとする風ありて、ために針よりも小なることが、相伝えて棒のごとく大きくなり、あるいは一犬虚をえて万犬実を伝うるに至る場合は、決して珍しからぬことである。あるいは政略、方便より妖怪を作ることも起こる。例えば、英雄もしくは高僧の出生には、必ず霊夢の感応等ありと伝うるがごときはその一例である。また、利欲心より愚民を瞞着まんちゃくして、金銭を得んとて偽造せることもたくさんある。またはなんらの利益なきも、一種の好奇心もしくは悪戯より妖怪を製造する人もある。これらはみな偽怪の原因と見てよろしい。誤怪に至りては偶然の出来事より起こりて、明らかにその原因、事情を究めたださざるために妖怪となるのであるが、この方は仮怪と判然分かつことの難い場合もある。ただ、大体の上につきて二者の区別を立てておく。世間にて卜筮、人相等の事実と合する場合のあるがごときは、もとより偶然の暗合というべきものなれば、余はこれを誤怪の一種に加うるつもりである。その他は、これより述ぶるところの各段のもとにおいて弁明しようと思う。

 わが国の怪談中、最も民間に普及しておるものは狐狸こりの怪談である。全国いたるところにおいて、ただにその怪談を聞くばかりでなく、実際に狐狸の怪事の起こるを見ることができる。ゆえに、狐狸は妖怪中の巨魁きょかいとみてよろしい。されどその妖怪は、日本固有のものにあらずして、シナより輸入したるものである。ただし、シナの正しき書物の中に見当たらずして、小説風の雑書中に出ずる怪談なれば、いずれの年代に起こりたりしやは明らかならぬ。今『抱朴子ほうぼくし』と題する書によるに、「狐の寿命は八百歳にして、三百歳に達すれば変じて人の形に化し、夜中、尾をうちて火を出だし、髑髏どくろをいただきて北斗を拝す。その髑髏、頭より落ちざれば人となる」と説いてある。この話をわが国の書に和解わげせるものがあるが、その説に、「きつねが妖怪をなすには、まず草深き野原にて髑髏を拾い、これを己がいただきに載せてあおのき、北斗の星を拝す。しかるに、あおのかんとすれば頂の髑髏たちまち落つるに、また拾いあげて頂に載せ、右のごとく幾回となく繰り返し、数年を経る間には、北斗を拝しても頂の髑髏の落ちざるようになる。そのとき、北斗を百遍礼拝してはじめて人の形に変化するなり」といってある。かかる小説談がもととなりて、これにいろいろ敷衍ふえんし増飾して、狐の怪談ができたに相違なかろう。
 日本にては、いずれの時代に狐狸談が起こりしかはつまびらかならねど、ずいぶん古き書物に見えておるからは、千年以前より伝わりておるように思う。その源はたとえシナ伝来にもせよ、わが国にていろいろつけ加えたことが多い。その上に、妖怪も国々の人情、風俗、習慣等に応じて相違の起こるものなれば、自然にシナの狐狸談より異なるところあるように見ゆ。しかして今、余はシナのではなく日本の狐狸談を述ぶるつもりである。
 わが国にて狐狸を談ずるに、土地によりて不同がある。通常一般には狐にだまされ狐にかれると申すけれども、四国にては古来狐が住まぬと称し、狐の代わりに、狸にだまされまた憑かれるといい、佐渡にては狐狸の代わりに、むじなにだまされまた憑かれるといい、隠岐おきにてはもっぱら猫につきてかく申すとのことである。また、狐の中にも種類がありて、白狐、オサキ、管狐くだぎつねと称するものは、狐中にて最も神変不思議の作用をなすように信ぜられておる。管狐の名称の起こりたるは、これを使う人ありて、竹筒を持ちながら呪文を唱うれば、狐たちまちその管の中に入り、問いに応じて答えをなすということに伝えられておる。その狐の尾のさきの方さけておるというところより、オサキとも名づけられておる。また白狐という所もある。この狐は群馬県、埼玉県、栃木県地方に最も多く、長野県、静岡県等にも一般に信ぜられておる。これに類したるものは、出雲地方の人狐にんこ、四国地方の犬神である。以上の三者は狐狸中の最も奇怪なるものなれば、左にその大略を述べなければならぬ。
 管狐すなわちオサキは、その形いたって小さく、二十日鼠くらいのものである。愚俗の信ずるところによれば、この狐をつかうものは京都の伏見稲荷より受けきたりて、その家に飼い養うものとのこと。かくして養いおけば、よく人の既往きおうを説き未来を告ぐるに、不思議にも当たらぬことはない。常に巧みにその体を隠し、飼い主の目に触るるのみにて、少しも他人の目に見えぬと申すことじゃ。また近年、信州および上州地方にて蚕児かいこの失せることがある。それは、オサキの飼い主がオサキをつかって盗ましむるのであると申しておる。つぎに出雲の人狐は、その形いたちに似て鼬より小さく、その尾は鼠より短くして毛あり、その色、鼠色にして黄色を帯ぶと申すが、つまりオサキの同類に相違ない。その地方に精神病に似たる病者あるときは、みな人狐の所為であると信じておる。また、人狐の住める家は子々孫々相伝わり、一般にその家と結婚することを嫌う風がある。この風は四国の犬神に似ておる。犬神は人狐と同じく、代々相伝わりて血統をつぐものとして、社交上、人に避け嫌わるることはなはだしい。その家の者が、だれにてもにくしと思わば、犬神たちまちその人を悩まし病を起こさしむ。また、その家の者が、人の美食を見てこれを好むの念を生ずれば、犬神たちまちその人に取りつき、あるいはその食物の腐敗することありと申しておる。元来、犬神の名の起こりしは、昔一つの犬を柱につなぎ、その縄をすこしゆるめて器に食物をもり、その犬の口さきにまさにとどかんとする所に置き、うえ殺しにしてその霊を祭るものであるとのことじゃ。また、猫神、猿神、トウビョウ等は、地方によりて名称の異なるのみにて、その人にきてこれを悩ますありさまは、人狐、犬神と同様である。されば、管狐、人狐、犬神、トウビョウ等は、これを説明するに総括して同一種と見て差し支えない。つまり、世のいわゆる狐惑こわくきつね憑きと同じ道理をもって説明ができるわけである。
 さて、これより狐惑、狐憑きの話をする前に、世間の狐狸こり談中には、人の故意あるいは悪戯より起こりたる偽怪の例すくなからざれば、その一、二を記さんに、「尾州旧藩臣某氏の別邸は、地広く樹深く、奇石あり園池あり、かつ池上に三階の高楼ありて、風景いたってよろしく、明治維新の後は、一時遊覧の場所となりたることありたり。その楼を守るために、一、二人の老僕つねにこれに住せり。ある日、紳士五、六人、酒肴しゅこうを携えきたり楼を借りて終日歓を尽くし、夜に入りて帰るに臨み、僕に告げて曰く、『些少さしょうながら、席料の代わりに謝金を包みて床の間の上に置けり。また、別に残肴を入れたる折二箱あり。請う、晩酌の助けとせよ』と。僕、大いにその厚意を謝す。すでにして僕、楼上にのぼりて床の間を探るに、果たして紙包みと折り詰めあり。紙包みを開き見るに、その中には木の葉あるのみ。折り詰めを開き見るに、土塊つちくれ馬糞ばふんあるのみ。ここにおいて、老僕輩は全くこれを老狐の所為となし、自らこれにだまされたるを深く残念に思いたり」との話がある。これ、もとより世の物ずきが悪戯になしたるに相違なきも、老僕のごとき無知のものは、ただちにこれを狐狸の所為に帰し、ついに世間に実事として伝えらるるようになる。今一例を挙ぐれば、「九州のある地方に一人の漁夫、夜中川岸に座してあゆを釣りいたり。その辺り、かねてより狐のすみおるとの評判あれば、一人の少年、漁夫を欺かんと欲し、ひそかに背後のやぶの中に隠れ、漁夫に向かって石を投げけるに、漁夫は狐の所為なりと思い、一尾の鮎を背後に投げ、『汝にこれを与うるから邪魔をするな』といいつつ釣りをなしいたり。しかるに、少年はその鮎を拾い取り、こはおもしろきことと思い、再び石を投じければ、漁夫『まだほしいか』といいて、また一尾の鮎を投じ与えり。かくして、少年は数尾の鮎を拾い得たり」との話がある。これらはみな偽怪と申すものじゃ。世間の狐狸談中には、かかる偽怪のたくさん加わりおるに相違ないから、いちいち信ずることはできぬ。
 偽怪のほかに誤怪の話もたくさんある。その一例は、ある田舎に起こりたる話である。その地方に人家を離れて一帯の森林があるに、古来その中に老狐住すと伝え、その傍らを通過せるもの、ときどきだまされて家に帰らざることがあると申しておる。ある日夕刻、一人の老僕、隣村に使いして帰路、この森林の傍らに通りかかりしに、日いまだ全く暮れたるにあらざるに、にわかに四面暗黒となり、目前咫尺しせきを弁ぜず、一歩も進むことあたわざるようになりてきた。よって自ら思うには、これ必ず老狐の所為に相違なかろう。かかるときには老狐に謝してそのゆるしを得るよりほかに道なしと思い、地上に座して三拝九拝すれども、依然として暗夜のありさまなれば、老僕大いに困りおりたるところへ、ほかの通行者ありて、はるかに老人の地にひざまずき頓首とんしゅして謝罪する状あるを望み、大いに怪しみ、急ぎ近づきて見れば、大黒頭巾ずきんの前に垂れて両眼を隠せるを発見し、その頭巾を取り去れば、老僕大いに驚き、いかにも不審に思える様子なれば、その次第をたずね、はじめて双方とも事情が分かり、大笑いとなったということじゃ。つまり、老僕がそのとき酒酔いの上に、その辺りに狐狸の出ずるならんかとしきりに左右を見回すうちに、大黒頭巾が両眼を隠せるを知らざりしより起こったのじゃ。かかる話は誤怪と申すものである。
 狐狸こりの誤怪につきては、今少々話しておきたいことがある。多くの人は深く原因、事情をせんさくせずして、少しく奇怪に感ずることは、みなこれを狐狸に帰するために、偶然の出来事が誤り認められて狐狸談となることが多い。その一例は羽前うぜんの庄内の町にて、毎夜深更になると狸の腹鼓はらつづみの音がするとて、騒ぎ立てしことがあるに、よくよくただしてみれば、鍛冶かじ屋のふいごの音であったということじゃ。また、東海道線路の汽車が深夜汽笛を聞き、ほかの汽車の走りきたるならんと考え、衝突を恐れて停車せしに、汽車の影だも見えざりければ、その汽笛は狐の所為なりとの評判高かりしも、その実、ほかの線路を通行する汽車の笛声が、風に送られて聞こえたのであったということじゃ。よって世間に狐狸の怪談ありても、決して軽々しく信ずることはできぬ。

 偽怪、誤怪はすこぶる多きも、この二者を除き、なお実際の狐惑、狐憑きは諸方しょほうに起こり、たやすく実験のできることなれば、別段例を挙ぐるに及ばぬ。されど、ここに二、三の事実談を紹介しようと思う。狐惑の種類は実に千態万状にして、いくたあるを知られぬほどである。民間にては、すべて奇怪に思うことは狐狸の所為に帰することに定まりておる。その中に最も普通に狐惑と称するは、夜中道を歩くに、道なき所を道のあるように覚えて歩き回り、あるいは水なき所を水あるように思い、また水ある所を水なきように心得て歩きおる場合を、すべて狐にだまされたと申しておる。これらは最も単純なる方なれども、中には複雑なる話がある。すなわち、「先年、尾州中島郡にて堀田某氏がある家の座敷より望むに、日中農夫の糞桶こえおけを担ぎ、ひしゃくを手にし、作物の上をも顧みず歩き回り、西するかと思えばたちまち東し、右にゆくかと思えばまた左にゆき、なにものをか追うもののごとく、その挙動はなはだ怪しければ、戸外に出でて四方を眺むるに、農夫のおる所より数町を隔てて一個の老狐あり。尾を左右に動かして、あるいは進みあるいは退く。農夫これと進退挙動をともにするを見たり。ここにおいて、堀田氏は狐のそばに進んでこれを追い、大声を発して農夫を呼びたれば、狐は走り去り、農夫も気付きていうには、『最初狐きたりて、己が近傍を徘徊はいかいせしゆえ、これを追わんとして右へゆき左へゆきする間に、前後を覚えざるようになりたり』と話しせり」とのこと。これ、狐惑中のやや複雑なるものと申してよろしい。
 つぎに狐憑きの話は、これまた千差万別なれども、普通の状態によるに、最初は多少の原因によりて病気を起こし、あるときより精神の異状をきたし、われは何々の狐なりと自らいい出だし、その身振りはおのずから狐のごとく、その声も狐をまねるようになり、「われに小豆飯、油揚げを与えよ」と呼ぶからこれを与うれば、二、三人前くらいを食して人を驚かし、狐のおらざるに狐の友達が来たりたりとてこれに向かって話を交え、あるいは人の秘密をあばき、あるいは未来のことを告げ、人をしてますます不思議に思わしむるものである。従来、民間にてこれを治する法は、修験者のごときものを雇い、祈祷きとうを行い、本人を責めて、「汝、なんのために来たりしや、早く去るべし」と命ずれば、本人いちいちこれに答え、種々問答の末、本人急に正気に復することがある。そのときは本人の状態、あたかも夢のさめたるがごとくに覚ゆ。これを、狐がその体より去りたりと申しておる。あるいは狐憑き者の中には、狐が腹の中にすむと称し、その場所を探るに、肉の固まりのあるように感ずるとのことじゃ。また、これを追い出だす法には、本人を松葉いぶしにかけて苦しむることがある。実に残酷の話ではないか。その他の状態は、いちいち挙ぐることはできぬから略しておこう。
 さて、狐惑こわく、狐憑きの説明につきては、物理的方面と心理的方面との両様より考えなければならぬ。まず物理的方面にては、狐狸その体に、果たしてよく人を誑惑きょうわくし得る知能ありやいかんを探り、またその挙動に、果たして怪しむべきところありやいかんを知ることが必要である。西洋にては狐の狡猾こうかつなることを唱うれども、人を誑惑するということは聞かぬ。ただし、狐の知力につきてはいろいろ研究したるものがある。その中には驚くべき機知を有することの例もあれども、これひとり狐に限りたるにあらず、高等動物にはこれにひとしき知力を有するものはすくなくない。されば、狐が人を誑惑するだけの知力を有することは信ぜられぬ。しかして、よく誑惑するは、人の方にて自ら招くに相違ない。いったい狐は多少の猾知ある上に、その挙動のなんとなく人をして奇怪の念を起こさしむる風がある。その逃ぐるにも、ときどき足をとどめて後ろをふりかえり見るがごときは、人に疑念を起こさしむるように思わる。その他、民間にて申すには、狐が石を投げたくをうち、あるいは火を吐き戸をたたくというが、その真偽は判定し難きも、実際目撃したりという話を聞くに、石を投ぐるは後足をもって石をけとばすのであるとのこと。また柝をうつは、石を口に挟みてほかの石をうつということじゃ。深夜、人家の戸をたたくは、尾をもって打つ声であると申しておる。このくらいの働きは狐にあるに相違なかろうが、世に狐火きつねびと称するものは、狐が人骨を口に挟みて息気を吐くときに、火となりて現るとの説あれども、これははなはだ疑わしい。また、狸の腹鼓も石をもって物をうつ音なりという人あれども信じ兼ぬる。とにかく、狐の作用にそのなんの目的に出ずるかは知らざれど、多少人をして疑いを抱かしむることはありそうに思わる。されど、狐に諸動物にすぐれたる霊知のあることは、決して信ぜらるるはずはない。
 つぎに、心理的方面につきて人の心の状態を見るに、狐に誑惑せらるる場合には、必ずいろいろの事情が伴っておる。例えば、深夜野外を独行するとき、または薄暮、深林の中を通行するとき、あるいは狐が住すると伝えらるる場所に通りかかりたるとき、あるいは酔後東西を弁ぜず、もしくは精神の疲労せるときに、多く狐惑を現ずるものである。かかる場合に、その人の心に狐惑の疑念を起こさば、たちまち自ら迷って方向を失い妄想を浮かべ、狐惑の状態に陥るは当然のことにて、ごうも怪しむに及ばぬ。虚心平気、知識に長じ、思慮の深き人には、いまだかつて狐惑にかかりしを聞かぬ。また、無我無念の小児にして、狐狸のなにものたるを解せざるものも、狐に誑惑せられし例がない。されば、狐惑は人の自ら招くところなるに相違ない。かの道なき所に道あるように覚え、水ある所に水なきように思い、狐に左右せられて進退するなどは、狐を恐るるより疑心暗鬼を生ずるに至り、一時の幻覚、妄境を現ずるのである。そのくわしき説明は、心理学を研究せねばならぬ。
 つぎに狐憑きに至りては、その現象極めて複雑なれども、要するに一種の精神病なることは申すまでもない。人はときによりて精神の異状を起こすことあるに、愚俗はその理を解せざるより、これを狐狸またはほかの動物の人体に憑付ひょうふして起こすものと考え、ある地方にてはその原因を狐に帰し、ほかの地方にては狸もしくはむじなもしくは猫、蛇等に帰するのである。人狐にんこ、犬神等、その名は異なれども、その実は同じ。ただ、その地方における古来の伝説によりてその名を異にし、したがってその現象も異なるに至るわけじゃ。例えば、その地の昔話に犬神の伝説ありて、幼少のときより聞き込んでおるものが精神の異状を起こすときは、その記憶が内に動きて身心を支配するようになり、すべての挙動が犬神を現ずるに至る道理である。狐憑きにかかるものは、狐のおらざるに常に目に狐の形を見、耳に狐の声を聞き、狸憑きにかかるものは、狸のあらざるに日夜狸の声色を現見するは、全く心の妄想がほかに現れて、幻像、妄境を組み立つるゆえである。かくのごときことは精神病者にありがちのことなれば、決して怪しむに及ばぬ。あるいは狐が己の腹中にすんでおる、口の中より出入するなどいうも、みな病的より起こすところの神経作用にして、狐そのものの所為にあらざることは明らかである。要するに、われわれは幼少のときより、狐が人をだまし、または人につくということを聞き、その話が平常記憶のうちにとどまりておる。その記憶が、ある格段なる場合に外部の事情に応じて心内に動き、これと連絡せる種々の想像が呼び起こされ、その一点に心の全力が集中するようになり、その影響が五官および手足の上に現れ、いわゆる狐惑または狐憑きの実況を示すに至るのじゃ。つまり、狐の観念すなわち思想が中心となりて、身心の一部もしくは全体がその支配を受くるようになるのじゃ。狐狸の幻像を見るというも同じ道理である。よって、狐惑、狐憑きは、狐の夢を実現するものと心得てよろしい。ただし、そのくわしき理由は、心理学を学びたる後にあらざれば知ることができぬ。余は、『妖怪学講義』もしくは『妖怪学雑誌』の「心理学部門」にその説明を掲げておいたから、望みの人はこれにつきて一読あらば、定めて会得ができようかと思う。

 世に申す天狗てんぐという中には、人間の天狗と怪物の天狗との二とおりの意味がある。人間の天狗とは高慢なる人を指していう語にて、高慢の異名である。今、余が述べようと思う天狗は、この人間の天狗ではなく、怪物の天狗であるが、これにも大天狗、小天狗の別がある。大天狗はその形山伏に似て、しかも鼻高く翼をそなえたる怪物にして、小天狗はその形鳥に似ておる。すなわち、世にいう木の葉天狗のことである。
 天狗の名称はシナの書物より伝わりたるに相違ない。その書物のうちにて、最も古く天狗の名称の見えたるは『史記』という書物である。しかし、『史記』の天狗はその文面より見るに、雷獣に与えたる名目のように思わる。されば、怪物の天狗は日本人の想像より起こりたるものにて、外国伝来ではないと考えてよろしい。さて、わが国にて天狗の怪談の起こりたるは、およそ千年ほど以前のことである。そののち源平時代より足利時代に当たりて、その怪談が大いに流行したものと見ゆ。そのうちにて世間によく知られている話は、源義経が幼少のころ、鞍馬山くらまやまに入りて僧正坊と申す天狗に遇い、剣術を授かりたりといえる怪談である。このほか、この時代のことを記せる書中には、天狗談がたくさん載せてある。
 天狗のありさまを示すために、古今の怪談中、一、二の例を挙げて示そうと思う。「昔、伊勢の国のある山寺の小僧、ふとせて見えなくなり、一両日を過ぎて堂の上におるを見つけ、これを引きおろして見るに、全く正気を失いいたり。一時の後ようやく本心に立ちかえり、自ら語るに、『山伏に誘われて、筑紫つくしの安楽寺という所の山中へ行き、八十歳あまりの老僧に面会したり。この老僧がおもしろきものを見せるといわれ、頼もしく覚えて見ておる間に、山伏どもが舞いおどりけるに、網のようなる物が空より下りて引き回すごとくに見えたるが、山伏ども急に逃げんとするに、網の目より火が燃え出でて、次第に燃え上がりて、山伏らはみな焼けて炭灰になりたり。しばらくありて、またもとのごとく山伏になりて遊びけるに、老僧これを呼びて、『なにゆえに、この小僧をここにつれきたりしや。早くもとの山寺につれて行け』といわれたれば、恐れ入りたる気色にてつれて帰るを覚えおる』といえり」また今一つの話は、「下総しもうさの国山梨村大竜寺の長老、ある年江湖ごうこを開きたるに、少し法門の上手なるによりて慢心を生じ、多くの僧侶のおる前にて急に鼻が八寸ほども高くなり、口は耳の根まで切れたれば、僧ら驚き見るに、長老目をいからし口を張りて、『ただ今、杉の木の下にてわれを呼ぶ間、これよりまかり出ずるなり』とおどりあがりて叫び狂いけるを、ようやく取りとめ、組み伏せて『大般若だいはんにゃ』を繰り、『心経しんぎょう』を読み、大勢集まりて一心に祈りければ、山々の天狗名乗りつつ退く。長老は無性むしょうになりぬ。そのとき、近所の者どもは寺の客殿の上に火の手上がりたるを見、火事ありと思いておびただしくせ集まれり。それより昼夜の別なく七日七夜祈り責めければ、鼻も口ももとのごとくに直り、本人自ら曰く、『深く寝入りて、なんの覚えもなかりし』」と。このほかに天狗の怪談はあまりたくさんありて、いちいち例を挙げてその種類を示すことはできぬ。
 古来、天狗に関する怪談を、全く事実として説明することはできるものでない。また、実際いかなる怪談にも、十中七八分は余のいわゆる虚怪が加わりておる。あるいは、全く無根のことを小説的に作りたるもあり、また、針小のことを棒大に言い触らしたるもあり、また、妖怪にあらざるものを誤り認めて妖怪となしたるもあるに相違ない。これらを差し引きてみたならば、余すところの事実はわずかに二、三分くらいのものであろう。今、誤怪の一例に箱根の天狗談を述べたいと思う。「今より数十年前冬期に当たり、箱根村の猟師二、三人相誘いて、雪中にうさぎを狩りせんために駒ヶ岳に登りたることあり。ようやく絶頂に近づくに及び、一人の大男が山上の大岩石の上に立ち、大風呂敷をもってあおぎおるを認め、猟師らはこれを見てただちに天狗なりと想像し、その風呂敷をもってあおぎおるは、必ずわれわれの上に魔術を施すに相違なかるべし、よろしく早く去りて身を全うするにしかずと思い、一物を猟せずしてむなしく家に帰りたり。そのことたちまち伝わりて村内の大評判となり、だれもみな恐れて村外に出ずるものもなきほどなりしが、二、三日を経て、はじめて事実の真相を明らかにするを得たり。すなわち、その山上の天狗は全く強盗にして、その前夜、小田原駅のある家に入りて金銭、物品を強奪せし後、この山上にのがれて岩石の上に休憩しいたるものなり。これより四、五日を経て、駿州すんしゅう地方にて縛につきたるために、そのことようやく判明せり。しかして、その風呂敷をもってあおぎおりしは、魔術を行うにあらずして、猟師の鉄砲を所持せるを見、己に向かって発砲せんことを恐れ、これをふせがんとの意に出でたるものなりという」この一例のごとき、もし強盗なること発覚せざりしならば、必ず真の天狗となりて世に伝わりたるに相違ない。かかる例は、古来の天狗談中にたくさんあろうと思う。
 従来の天狗談中の七、八分は事実にあらずとするも、その残りの二分につきては、天狗のなにものたるやを解釈することが必要である。まず、天狗の怪物は日本に限り他国になきわけは、わが国には比較的に山が多い。そのうえに、いずれの山もいにしえより神仏を安置して、霊験不思議のあるように信ぜられておる。また、いかなる高山へも毎年参詣さんけい者が登り、山上にこもりて修行することがある。しかるに、高山は空気も気候も平地よりは大いに異なりて、そのありさまなんとなくものすごきように感ぜらるるものなれば、自然に目に触れ耳に入るものが奇怪らしく思わるに相違ない。これに伴っていろいろの想像が心に起こり、いわゆる「疑心暗鬼を生ずる」たぐいにて、妄想を目に浮かぶるようになり、樹木に鳥の止まるを見ても怪物のごとくに思い、獣類の走るを見ても奇怪に感じ、その結果が山中の怪談となりて世間に伝わるべきは当然のことである。そのうえに、高山には神仏の霊験あるものと信じておるものには、一層奇怪の念を強くし、山中にて修行しつつある山伏などに遇わば、必ず人間にはあらずと思い、これにいろいろの妄想を加えて、天狗の怪物を想像するに至ったに相違なかろう。天狗の形の大体は山伏に似て、ある部分は鳥や獣に似ておるのは、かかる想像がいろいろに結びつきたるゆえである。そのくわしきことは、余の『天狗論』と題する書物につきて見るがよろしい。
 このような怪談が世間に伝わるや、ひとたびこれを耳にしたるものは、山中に入るごとに、己の心よりあらかじめ天狗に遇うであろうと待ち設けておるようになるから、一層迷いやすく、かつ妄想を起こしやすい。ことわざに「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とあるごとく、つまらぬものを見てただちに天狗なりと思うものである。かくして、諸方に天狗談が伝わるときは、物ずきの人ありてこれにいろいろのおまけを付け、針小棒大にいいふらし、また小説家や画工はこれを材料として一層人の注意を引くように繕い、数代の後には実に不可思議な大妖怪となりて、世間より歓迎せらるるに至るであろう。これに加うるに、宗教家中の山師連は、愚民瞞着まんちゃくの手段として天狗を利用し、ますます奇怪に奇怪をつけ加うることも、世間にありがちのことである。
 世に天狗憑てんぐつきと称するものは、狐憑き、狸憑きと同じく全く精神病の一種にて、一時の発狂と心得てよろしい。かの、途中にて異風の老人に遇い、あるいは空中を飛行し、あるいは諸方の高山を歴遊したりというがごときは、一種の夢にして、己の心中にて描きあらわせる妄想に過ぎぬ。数日間その跡を隠せしがごときは、近傍のやぶの中などに潜みおり、人の目に触れざりしゆえならん。しかして、本人は故意に隠れたるにあらずして、もとより無我夢中の所為なれば、一時の発狂と見なければならぬ。かかる発狂談を一度なり二度なり聞き込みて記憶しておると、他日、精神に異状を起こす場合には、やはり同じき状態に陥り、同じ現象を呈することが多い。世の天狗憑きに関する話の往々一致することあるは、みなこの道理より起こり、互いに類似せる記憶を再現するゆえである。ただし、義経が天狗より剣術を授かりし話のごときは、義経その人を高めて、凡人以上に置くための一政略より出でたるように思わる。つまり、張良ちょうりょう黄石公こうせきこうより兵書を授かりし話と同一類であるから、信ずることはできぬ。
 民間にて天狗の骸骨がいこつと称して保存せるものがある。これは魚の頭骨に相違ない。多分、海豚いるかの骨ならんということじゃ。また、天狗の爪というものがある。その色青黒く、石のごとくにして、先の方とがり後ろの方広く、猛獣の爪のごとくに見ゆ。これは雷斧らいふ雷楔らいけつのたぐいにて、石器時代の遺物であるということじゃ。また、俗に天狗火、天狗つぶてととなうるものあれど、これらは全く天狗に関係あるにはあらず。ただ、その原因の不明瞭なるより、これを天狗に帰したるまでである。そのくわしき説明は、拙著『天狗論』および『妖怪学講義』に出でておる。

 俗に、人の死して後その形を現ずるを幽霊というも、幽霊の語たるや死後の霊魂に与えたる名目にして、もとより色もなく形もなきものなれば、見ることも探ることもできぬはずじゃ。幽とは見るべからざるの義にして、死後の霊魂の色も形もなく、目に触れざるところより幽霊と申すのじゃ。されば、幽霊とは不可見の霊魂の意味である。かかる不可見なるものが目に見ゆる道理はない。よって、俗に幽霊を見たりというは、自家撞着どうちゃくのはなはだしきものである。もっとも、世に霊魂の滅不滅につきて論ずるものがあるが、これは別問題とし、死後霊魂の現存するものと定むるも、決して人の目に見え、感覚に触るるものでないことは明らかである。しからば、民間にて現に幽霊を見たりと申すのはいかなる事情によるかは、これより説明せなければならぬ。
 世に神仏の霊験を示して人の信仰を引かんとする一念より、幽霊実験談を作為せるものがある、幽霊を偽造して私利を営まんとするものもある。今一例を挙ぐれば、越後某町に五、六十年前にありしこととして伝えておるが、「町内の某家にて、ただ一人の娘を失えり。その娘は早く父に別れ、全く母親の手にて成長せしが、母は大いにこれを愛し、存命中金銭をおしまず、高価の衣服を求めてこれに与えしも、いまだ結婚するに至らずして世を去ることになりたれば、近隣の主婦が、ふと欲心を起こし、その衣服を己の所有とせんことをもくろみ、深夜白衣白帽を被り、ひそかにその家に忍び入り、母の枕頭に立ち、『われはこの家の娘なり。死して冥土めいどに向かうも、娑婆しゃばに多くの衣服を残せしために、思う所に至ることあたわず。願わくは、これこれの衣類を渡されんことを』母は真の幽霊なりと信じ、その願いのごとく衣服を渡したり。怪物、喜んでこれを受けて去れり。その翌夕また深更に、同じく白衣白帽の亡霊出現し、さらにほかの衣類を授けられんことを請えり。かくのごとくすること再三に及びたれば、そのことついに親戚の耳に入り、その顛末てんまつの疑わしきところあるを見、一夕その正体を発見せんと欲し、二、三人相誘いてその家の一隅に潜み、怪物の来たるを待ちいたるに、果たして夜半過ぐるころ入りきたれり。その去るに臨みこれに尾行して、ついにその正体を発見したり。すなわち、その怪物は近隣に住めるある家の主婦にして、自ら幽霊を装いて詐欺をなしたること発覚したれば、本人は厳刑に処せられたり」という話がある。これ偽造の幽霊と申すものじゃ。
 また、偶然の出来事を誤りて幽霊と認めたることがある。その一例は、「昔、京都の西に当たり、真言宗の寺あり。その寺の住僧、ある夜深更まで読書し、精神大いに疲労を覚えしかば、しばらく休憩せんとて庭前を仰ぎ見るに、折しも宵月夜のころなれば、月もはや落ちて暗かりけるが、縁の端にだれとも知らず、白き物を着けたる人立ちいたり。この僧怪しみて熟視すれば、白装束の怪物少しく動きて歩み行くように見えしかば、これ幽霊に相違なしと信じ、刀をとりて呪文じゅもんを唱えながら縦横に切りかけたれば、幽霊もそのまま倒れてせたり。翌朝、昨夜の怪物の跡を検せんとて戸外に出でて見れば、己の湯衣ゆかたを縦横に切りて地に落とし置きたり。これは昼のうちに行水を行い、湯衣を竿さおにかけてほしたるまま取り込むことを忘れたれば、夜中幽霊のごとくに見えたることを知れり」と申すことじゃ。今一例を挙ぐれば、「昔、東京を江戸と称せしころ、ある講談師がひそかに公法に触れたることをなし、探偵の手に落ちんことを恐れ、だれにも告げずしてしばらく身を隠せしかば、その家族の者、本人の行方の知れざるより大いに心配し、あるいは売卜ばいぼくにたずね、あるいは御鬮みくじを引きなどして探索するうちに、ある人より、四谷大木戸の先なる寺の墓所に死人ありと告ぐるゆえ、家族の者すぐさま四谷に行きしところ、もはや検死相済み、埋葬せしあとなれば、ぜひなくその様子を聞くに、背といい恰好といい衣服といい、本人に相違なければ、いよいよ変死を遂げたるものとし、寺僧をへいして引導を頼み、戒名をもらい、追善の法事までも営み、かれこれするうちに百カ日になりたれば、さらに追善供養を行いつつある最中に、本人はやせ衰え、色は青ざめ髪は乱れたるまま、玄関の障子を細目にあけ、顔をさし出だしながら、『ただいま戻りし』というに、家族のもの互いにふりかえりて驚き、『あれ、幽霊が来たりし』と声を立てしかば、主人は刀に手をかけながら、『汝、この世に迷いしことの愚かなるや。生者必滅の理を会得して往生を遂げよ』といいければ、本人は笑い出だし、『われ死せしことの覚えなし。いかなることのありしや』とたずぬれども、みなみなますます恐怖するばかりなり。やがて主人は、幽霊の真偽を試みんとて本人の脈を探り、はじめて亡霊にあらざることを知り、大いに喜び、互いに笑い合えり」との話がある。これみな余がいわゆる誤怪にして、虚怪の一種である。世の幽霊談中には、ことにこの誤怪が多いように思う。
 以上のごとき虚偽の幽霊を除き、真に幽霊とすべきものを考うるに、つまり人の精神作用より起こるものと見てよろしい。言葉を換えて申さば、幽霊につきて吾人の有する記憶、観念がその形を現じて、他人の霊魂の実在を見るように思うのである。例えば、母親が愛児を失い、毎日毎夜これを心頭に浮かべて忘るることなきときは、その姿が自然に目に触れ、夢のごとくに見ることがある。しかるときは、母親は必ず「亡児の幽霊を見たり」というに違いない。されど、その幽霊は心中の妄想がその形を現じたるまでである。すべて世間の幽霊はみなこのようなるものなれば、己の心の反射、返影といって差し支えない。ただし、かかる場合には、たぶん目前に妄想を呼び起こすべき手掛かりとなるものがある。例えば、衣服の木にかかりたるを見て幽霊の想像を浮かべ、はた墓間ぼかんに垂れたるを見て幽霊のごとくに感ずるの類は、外縁によりて内想を起こしたるものである。また、幽霊を現見するは、白昼多人数の集まりたる場所にあらずして、薄暮もしくは深夜ものさびしき場所に起こることが多い。よって、まず内外の事情を考うることが必要である。
 外部の事情とは、薄暮、夜中のごとき事物の判明せざるとき、または山間深林のごとき寂寥せきりょうたる場所、または死人のありたる家もしくは墓場の間のごとき、幽霊に縁故ある場所において幽霊を見ることの多きを指していう。内部の事情とは、身体の疲労衰弱、精神の哀痛恐怖の場合、または一事に専心熱中せる場合、または精神に異状を呈したる場合を指していうのである。これに加うるに、外物の耳目に触るるものあれば、一層幽霊の妄想を起こしやすい。これらの諸事情によりて、わが心内より幽霊の妄想を浮かべ、幻影を見るのである。されば、幽霊は一種の夢を見ると心得ても差し支えない。そのくわしき説明は心理学の問題なれば、ここに尽くすことはできぬ。古代、人知の開けざりしときには、人の死しても生時と同じく精神を継続し、生時、人に怨恨えんこんを有し讐敵しゅうてきとなるものは、死後も同様に考え、冥土めいどに入りてそのうらみをむくい、そのあだを報ずることと信じておる。あるいは死したる後のみならず、生時にありてもその怨念おんねんが人を悩ますことができると思っておる。これ、世のいわゆるたたりの妄説の起こるわけじゃ。よって祟のことを説く前に、死霊しりょう生霊いきりょうのことを述べなければならぬ。俗間にて死霊、生霊が人にくということを申しておるが、これは狐狸こり天狗てんぐが人に憑くというに同じく、精神病の一種である。されど、あえて精神病に限るにあらず、大病、重患にかかるときに、平素多少己に対して遺恨を有するものあれば、その霊魂が乗り移りて己を悩ますようになると信じておる。これは、古代未開の時代に病気の起こる原因を知らざりしときの迷信が、今もって愚民の間に行われておるのである。世に魔がつくとか神が乗り移るとかいうも、みな同じ道理じゃ。かくして病気に悩まされているものあれば、ほかよりこれを評して、なになにの祟であると申す。その祟に、死霊によりて起こさるるものと、生霊によりて生ずるものとがある。また、中には神仏の祟ということもある。その他、動物につきても、犬の祟、猫の祟等と申しておる。この祟のことにつき、ある書に批評したものがある。すなわち、「人が己に遺恨ありとて、生きてはつき死してはつきて、そのうらみを自由に報い得ることならば、大義にかかる源義経、武蔵坊弁慶などは、早速に梶原かじわらをとり殺し、大義の本意を達すべきに、さようのことなきは、はなはだ怪しむべきことなり。また『太平記』に、『楠正成くすのきまさしげの亡霊が一条の戻り橋にて、女に化して大森彦七おおもりひこしちをおどしたり』と見ゆ。正成も存命のときと違い、死ぬればさほどまでに鈍くなるものかと疑わしむ。正成が恨むべきものは、北朝方の大将より始めて幾人もあるべし。しかるに、その方をさしおきて彦七をおどしかけしは奇怪千万なり」と述べたるも、祟の信ずるに足らぬ一例に備えてよろしい。もし、古代にありて知識の進まざるときには、病気、災難の原因を知ることができぬから、かく想像するは余儀なきこととするも、今日になりて教育も普及し、学問も進歩し、堂々たる文明国と称しおるに、なおかかる迷信を脱することができぬとは、実に国民の恥辱と申さねばならぬ。

 加持祈祷かじきとうは、多く病気、災難ある場合にこれを行うことになっておる。そのうちに単に一種の儀式として行うがごときは、格別の弊害もなければ差し支えなしとするも、民間にて病気、災難を免れたい一念より行うのにはずいぶん害が多い。もっとも、祈祷と称しても正当なるものと不正当なるものとがある。正当なるものは誠心誠意より出ずる信仰作用なれば、排斥するに及ばざるも、不正当なるものはいわゆる淫祀いんしに属するものなれば、大いに排斥せなければならぬ。淫祀とは一口にいわば、道理に反し道徳に害があるがごとき祭祀をなすものを申すのじゃ。わが国にはずいぶん淫祀が多いように思う。つぎに、加持につきても一言しておかねばならぬ。世間にては加持祈祷と唱えて、加持と祈祷とは同一のように思っておれども、加持は真言しんごん宗に限りて用うる語である。その意味はよほどむつかしいことじゃが、その宗にては三密さんみつ加持と称して、いわゆる宗意安心に当たるべき大切の心得である。まず、三密とは身密、語密、意密の三種のことにて、身密とは手に印契いんげいを結びて修行すること、語密とは口に真言陀羅尼だらにを唱うること、意密とは心に真言の法を念ずることじゃ。くわしき説明はここに述ぶる必要はない。加持とは加持渉入と熟して、仏の三密と人の三密と互いに相加わり相通ずる意味である。この三密加持の修行によりて、即身成仏ができると申しておる。よって、世間の祈祷きとうということとは意味が違っておるけれども、古来、真言の僧侶がおもに祈祷を行い、ことに真言宗にては神仏混合の寺を守り、二者を混同せしゆえに、加持祈祷も混同するようになったに相違ない。とにかく、神仏を論ぜず正当の加持祈祷はかれこれと排斥するには及ばぬけれども、愚民の間には加持祈祷の濫用が多く、したがって弊害が多いから排斥せざるを得ざる次第である。ゆえに『修身書』には、怪しげなる加持祈祷をなすものを信ぜぬことと断りてある。そのいわゆる怪しげとは、余がいうところの不正当の意味であろうと思う。
 淫祀いんし祈祷の弊害につきて一、二の例を挙げんに、『修身書』に祈祷者の徳利の中にどじょうを入れたる話が出でておったが、これに類したる話が『怪談弁妄録かいだんべんもうろく』と申す書物の中に見えておる。「昔、京都の里村某なるものの家にて器物を失いたることありて、いろいろ手を尽くして捜索すれども見当たらず。しかるに、隣家に神巫みこありて占いをよくし、また祈り祭りをなして、病気そのほか諸事に効験あり。ことに紛失物などには、妙にその所有を知るとの評判高く、かつ人の勧めもあれば、その巫を己の家に招きて祈らしめたり。ときに巫は壇に神酒みきをもうけ、紙の幣束へいそくを立てて主人にいえらく、『一家のものをして、ことごとく壇の前を過ぎ行かしめよ。もしその中に盗みしものあらば、幣束おのずから動かん』といいつつ、呪文じゅもんをとなえて祈りをなせり。主人その言葉に従い、家内のものを残らずその前をとおらしめしに、一小僕しょうぼくの過ぐるに及んで幣束たちまちにふるい動けり。衆人大いに驚き、恐れて神妙なりといえり。小僕ただちに腕をまくり、大喝一声して巫の胸をついて地にたおさしめたり。そのときに、巫の足の親指より、長き糸をもって幣束の柄に結びつけたることを見出だせり。家人、たちどころに大いにののしりてこれを追いしに、巫も大いに驚きて逃げ去れり」との話がある。今一例を挙ぐれば、『閑際筆記かんさいひっき』に出ておる話に、「東都のある士族の家に、毎夜石の飛びきたるあり。月を越えてやまざれば、家人みな家の外に出でてひそかにこれをうかがいおりしに、人の突然門を過ぎ行くがごときを覚え、間もなく石の飛びきたるを見たり。数名のもの前後より急に立ちあがり、その人をとらえ灯を取りてみれば、その近辺に住める山伏にてありき。けだし山伏が、その家に怪あれば必ず己に命じて祈祷を行わしむるならんと思いて、かくなせることを知れり」と書いてある。これみな、余のいわゆる偽怪と申すものである。
 神仏に祈りて霊験ありとするも、誠心誠意をもって行うにあらざれば神仏の許すはずはない。もし、不道徳の心をもって己の私欲を満たさんとて祈願をしたりとも、神仏はこれを助くるどころでなく、いたく罰するが当然である。しかるに、世の欲張りものが神の助けをかりて己を利せんとする例がたくさんある。実に驚き入りたる次第である。その一例は『痴談ちだん』と題する書中に出ておる。「ある強欲者が神に祈りて大金を得んと欲し、一心をこめて祈請して曰く、『願わくは神様よ、われに一万円の大金を授け給えよ。この願い成就したる日には、九千九百九十九円を御礼として差し上げ申すべし」と、再三反復して祈りおれり。傍らにありてこれを聞くもの、一万円より九千九百九十九円を除き去らば、残るところわずかに一円なり。一円の利を得るに、なんぞ神を煩わすに足らんや。これ必ず失言もしくは違算ならんとてその者に注意したれば、当人曰く、『これ違算にあらず、失言にあらず。その御礼として九千九百九十九円を差し上ぐるといいたるは、全く神を欺くための方便にして、いよいよ一万円の大金を得たる日には、一文も差し上げぬつもりなり』と答えたり」との一話のごときは、人の欲極まりて神を欺くに至りたるものである。これに類したる話が、先年の『読売新聞』に見えたことがある。その話は、「東京築地南小田原町、荒物商某方へ同居せるものにて、新栄町の鍛冶屋かじやへ奉公中、主人のすきをうかがい、箪笥たんすの引き出しより十円紙幣一枚をぬすみ取り、なにくわぬ顔して、深川区成田山不動の開帳に参詣さんけいし、『不動様、大日だいにち様、どうぞ泥棒したことの知れませぬように』と一心に祈願をこめ、これでまず一安心と思って帰家したるところを、京橋警察署の手で捕縛されたり」とのことであるが、かくのごとく神仏を濫用する連中が、世の中に決してすくなくなかろうと思わる。世間に愚民は多きに相違なきも、明治の盛代には、早くこのようなる迷信の跡を絶つようにしたいものである。
 淫祀のことにつきては『草茅危言そうぼうきげん』に論じてあるから、ここにその一部分を抜粋するに、「江州山王の祭りは神事に妄説を設けて、神輿みこしは人の血を見ざれば渡らずとて、見物人に喧嘩を仕掛け、必ず人をきるを例とす。他所にもこの類の妄説をいい立て、悪事を行うこといろいろありと聞く。例えば、出雲大社の竜灯、備中吉備津きびつの宮の釜鳴かまなり等、鬼神の威光に託して、巫覡ふげき等の愚民を欺き、銭を求むるの術とす。そのほか讃岐さぬき金比羅こんぴら、大和の大峰など種々の霊怪を唱え、また稲荷いなり、不動、地蔵をまつり、吉凶を問い病を祈り、よって医者の方角をさし示し、あるいは医薬をとどめ死に至らしめ、蛭子えびす、大黒を祀りて強欲の根拠とし、天満宮を卑猥ひわいのなかだちとし、観音を産婆代わりとし、狐、狸、天狗の妄談、いささかの辻神、辻仏に種々の霊験をみだりにいいふらし、仏神の夢想に託し、妄薬粗剤を売りひろめ、男女の相性、人相、家相を見るの類、いずれも愚民を惑わし欺くの術にあらざるはなし。誠に嘆ずべく、あわれむべきのはなはだしきなり」と説いてあるが、これ維新前のことなれども、明治の今日なおこの弊風を存するは、一層慨嘆すべきことと思う。
 およそ神仏は道徳の本源、正理の本体なれば、平素、心に誠実の徳を守り、身に人生の務めを行わば、自然に神仏の保護を得、恩愛を得くべきはずである。これに反して、心に一善を思うなく、身に一行を修むるなくんば、なにほど祈ったり願ったりしても、神仏の罰こそあれ、決して助けを得べき道理はない。世の中にこれより見やすき理はなかるべきに、その理を解することのできぬとは、実にあきれはつるよりほかはない。昔の歌に「心だに誠の道にかなへなば祈らずとても神やまもらん」とある以上は、「心だに誠の道にかなはずば祈りたりとも神はまもらじ」と申さねばならぬ。また、「正直のこうべに神やどる」とも、「さわらぬ神にたたりなし」ともいえることわざがあるが、いずれも神に対する心得を示したるものである。よくこの歌や諺の意味を味わいて、怪しげなる加持祈祷をせざるように心掛くることが肝要である。

 世にマジナイと称するものありて、その効験を信ずるものが多い。あるいは禁厭きんようといい、あるいは呪法じゅほうというも、同一の意味である。今、その由来をたずぬるに、わが国にありては神代の時より起こると申すことじゃ。「神代じんだいの巻」に、「大己貴命おおあなむちのみこと少彦名命すくなひこなのみことと力をあわせ、心を一にして鳥獣昆虫の災害をはらわんために、すなわちその禁厭の法を定めたり」とある。また、古代には禁厭の職を設けられたることもあると聞きておる。されど、これひとり日本に起これるにあらず、シナにもインドにも古代より伝わりておる。また西洋にもあることなれど、余は他国を略し、日本のマジナイのみを述べようと思う。
 古代にありて人知いまだ開けず、医術のいまだ進まざりしときにありては、禁厭、マジナイの諸法を用うるは、あえて怪しむに足らざれども、今日のごとき教育の普及し、医術の進歩せるに当たりて、なおマジナイによりて病気を医し、災難を避けんとするは、実に解し得られぬことである。民間にて用うるマジナイ中には、抱腹にたえざること多ければ、試みにその二、三を挙ぐるに、頭痛のマジナイに擂鉢すりばちをかぶりて、その上にきゅうを点ずれば治すといい、また一法には、京橋の欄干北側の中央なるギボウシを荒縄をもってくくり、頭痛の願掛けをなさば、その験あること神のごとしといい、夜中盗難を防ぐには、手洗いばちを家の中にふせて置けばよしといい、猫の逃げたるときに、暦を取りてその逃げ出だしたる日の所を墨にて消しおけば、やがてかえるものといい、船に酔わざるマジナイに、船の中に「賦」の字をかき、「武」の右肩の点を人の額にうちおかば、少しも酔わざること奇妙なりといい、いぬの肝をとりて土にまぜてかまどを塗るときは、いかなる不孝不順の女人にても至孝至順の人となるといい、五月五日にすっぽんの爪を衣類のえりの中に置けば、記憶の強くなるものなりというがごとき類のみである。多少道理を解するものは、いかに信ぜんとするも信ずることはできぬ。
 マジナイの中には、一種の滑稽に属するものもたくさんある。例えば、俗にぎゃくのときに茄子なすを食するを忌むは、瘧のいゆるを落つるというによりて、茄子は熟しても落ちぬものなれば、言葉の縁をとりて茄子を嫌うに至りたりといい、また小児の頭にオデキのできたるときは、これを医するに「ひゅう」の字をその上に書く。その意は、俗にオデキのことをクサと名づくるゆえ、馬をして草を食せしむるマジナイなりといい、また足に豆のできたるときも、やはり「驫」の字をその上に書く。これ、馬は豆を食する意なりと申しておる。今一例を挙ぐれば、明治二十四年の春ごろ、東京にインフルエンザ病大いに流行したることがあったが、俗にその名をオソメ風と申したことがある。そのときにこれを避くるマジナイなりとて、家の入口に「久松はおらず」と書いて張り出だしたものを見た。これは病気の異名より思いついたる新発明のマジナイである。御札、御守りにもこれに類する滑稽が多い。その一例は、播州明石町に人丸神社ありて、火よけと安産との守り札を出だすとのことじゃが、この二者もとより人丸その人になんらの関係なきは明らかであるも、ただ音便上、人丸は火止まる、および人生まるに通ずるによるということを聞いておる。従来民間に伝われるマジナイは、大抵このくらいのものである。その他は推して知ることができる。
 また、世間にマジナイを信じて失敗したる話もたくさんある。ある人、犬の己に向かってえきたるときに、手の内にとらという字を書きて示さば、たちまち恐れて逃げ去ると聞きてこれを試みしに、何のせんもなく、ついにかみつかれたりといい、またある人、蜂のマジナイなりとて、経文の二句を心に念ずれば、蜂にささるることなしと聞き、これを試みしもその効なく、手のヒラを十分にさされたりというを聞いたこともあるが、これは当然のことである。これらの例によりて、マジナイの効験なきことは大略分かるであろう。『安斎随筆あんさいずいひつ』に、享保年中の辻売りの秘伝に、「かつおに酔わざる法」と題し、その中に、「新しき魚をえらびて食うべし、また食わざるもよし」と書いてあったということじゃ。これならば百発百中に相違ない。これによりて考うるに、金をためる秘伝は勤、倹の二つにほかならず、長寿を得る呪法じゅほうは摂生の一事に限る。余は、かくのごときマジナイを好むものである。
 マジナイに関連して神水じんずい、守り札のことも申さねばならぬ。神水そのものにつきてはかれこれ論ずるに及ばざれども、一神水をもって万病に効験ありと言いふらし、またこれを信ずるに至りては、大いに害ありと思う。もと神水は神にたむけたる水である。その水いかに清潔なるも、水は依然として水なるべし。水を変じてただちに神となし薬となすことのできぬは、分かりきったことである。これを伝染病にあれ痼疾こしつにあれ、何病にも用いて効能あるように思うは愚の至りではないか。御札、御守りもこれと同じく、神仏を信念するものが、信仰のあまり、神仏の名を書きたるものを家に奉置し、身に携帯するはもとより非議すべきにあらざるも、これを所持すれば種々の病患、災害を免れ得ると信ずるに至りては、迷信のはなはだしきものといわなければならぬ。また、守り札のうちには奇々怪々なるものがある。夜中通行の際我是鬼の三字を書したる札を携帯すれば、決して怪物に遭遇することなしというがごときは、まだ怪しむに足らぬ。もし、民家の入り口に張り付けたるものを見るときは、異類異形のものが折々掛けてある。ことに魔よけに用うるものには、平家蟹へいけがにの殻へ目口をえがきたるものあり、草鞋わらじの片足をくぎづけにしたるもあり、塩鮭しおざけの頭を藁縄わらなわにて貫きてつるせるもあり、そのなんの意たるや解するに苦しむことが多い。これを一見するに、どうしても未開の民たるを免れぬように思わる。また、御札につきて自家撞着どうちゃくのこともすくなくない。例えば、火よけの御札を出しながらその堂が火災にかかり、盗難よけの御札を出す所へ盗難があるなどは撞着といわねばならぬ。ある人の話に、「某神社に盗難よけの御札を出す所ありて曰く、『だれにてもその身にこの札を所持し、もしくはその家に保存すれば、決して盗難にかかる恐れなし』といいながら、堂内にかけたる賽銭さいせん箱にかたく錠を下ろしてあるを見たり。これ、自語相違にあらずや」と申したことを記憶しておる。愚民瞞着まんちゃくもここに至りて極まれりといわねばならぬ。
 マジナイや神水や守り札などが、全く病気、災難に効験ないではなく、ときによりてはいくぶんの効能あるように見ゆるは、別に道理のあることなれば、その理由も一言しておく必要があると思う。まず病気に効験あるゆえんを考うるに、マジナイ、神水そのものの力にあらずして、これを信ずる人の精神作用によるのである。その一例として、余が聞きたる話を紹介するに、「ある寺の住職にて、呪文じゅもんを唱えて小児の虫歯を治するものあり。ある日その寺に大法会だいほうえありて、隣村の老婆も参詣さんけいせしに、住職の小児の歯痛をうれうるものを呼びて、そのほおに手をあて、一心に『アビラウンケンソワカ』といえる呪文を三べん繰り返して唱うれば、その小児たちまち歯痛を忘れ、その妙ほとんど神のごとくに見えたり。老婆そのそばにありて大いに感服し、家に帰らば自らその法を試みんと思いおりしが、たまたま隣家の小児の歯痛に悩めるを聞き、早速その子を呼びて呪文を唱えんとせんに、『アビラウンケンソワカ』を誤り伝えて、『アブラオケソワカ(油桶ソワカ)』と記憶せるにもかかわらず、三度くり返せしに、たちまち痛みを感ぜざるに至れり。このこと相伝えて一村中、老となく少となく歯痛をうれうるものあれば、みな争いきたりて老婆の治療を求むるに、老婆はその都度必ず『油桶ソワカ』を唱えて、よくこれを医治したり」とのことじゃ。もし虫歯の癒ゆるは全く呪文の力ならば、油桶ソワカを唱えて治すべき道理はない。もし油桶にてよく治するならば、味噌桶みそおけソワカにても、酒徳利ソワカにても、醤油樽しょうゆだるソワカにても差し支えなきはずである。果たしてしかりとせば、その癒ゆるは呪文そのものの力にあらずして、そのマジナイを受くる方にて、必ず癒ゆるに相違ないと信ずるによることは明らかである。されば、その療法は精神療法もしくは信仰療法と名づくる方が適当じゃ。ほかにもこれに類したる例がある。すなわち、「東京麻布に火傷やけどの御札を出す所あり。その形名刺に似て、その表に「上」の字あり。この札をもって火傷の場所をさすればたちまち癒ゆるという。ある人、御札の代わりに己の名刺を用いしめたるも同様の効験あり」との話のごときも、病患の癒ゆるは御札の力にあらざることが分かる。
 これを要するに、人の病は肉体の方より起こすものと、精神の方より生ずるものとの二とおりありて、その癒ゆるにも両面あると考えてよろしい。例えば、肉体の方にて種々の療法を尽くし、十分全治の見込みあるに、精神の方にてあまり病気を懸念せるために、その効の見えざることがある。かかる場合に精神を慰安することができれば、速やかに回復するに相違ない。また、病気の軽きものに至りては、精神上より妨害することなくんば、自然に任せておいても平治することがある。もしその場合に、精神上の懸念が回復の妨害をなすために全治せざることあるにおいては、精神を慰安し、神経を鎮静する方法をとることが肝要である。すなわち、マジナイ、神水等の治病に効験あるは、みなこの理によるに相違ないゆえに、余はこれを名づけて信仰療法と申しておる。されど、この法によりて治し得るはある程度までのことにして、大体の治療はもとより医薬、医術をまたねばならぬ。ただ、医家の治療法の一参考となるに過ぎぬ。しかるに、諸病がいずれも御札、マジナイによりて治するものと思うは、迷信のはなはだしきものである。つぎに、守り札をもって種々の災難の予防とするのは、決してその効あるではなく、ただ安心、気やすめの助けとなるまでじゃ。そのことは格別説明するに及ばぬことと思う。

 人事の吉凶禍福を前知する法は東西ともに行わるるも、シナ、日本にことに多いように思わる。その中にて最も古く、より広く用いらるるは易の筮法ぜいほうである。これを八卦はっけの占いという。そのほかにシナにては亀卜きぼくの法があるも、わが国にては今日これを用うるものはない。銭占い、歌占い、夢占い等をかぞえきたらば、その種類もすこぶる多きも、今まず易筮えきぜいを挙げてほかを略すつもりである。
 易筮は陰陽二元の道理に基づき、『易経』の所説によるものなれば、その原理はずいぶん高尚のものに相違なきも、これをすべての吉凶禍福に当てはめ、未来を前知して百発百中となすに至りては、不道理のはなはだしきものである。なかんずく人の寿命を判断し、何年何月何日に死することを確定するがごときは、実に驚き入りたる次第である。その一例を挙ぐるに、「ある迷信家が卜筮ぼくぜい者につきて、自己の生命を予知せられんことを請いたれば、筮者判断して曰く、『今より幾年の後、某月某日に必ず死すべし』と。迷信家かたくこれを信じて、某年某月までに財産を消費し、当日に至りて一銭の余財なく、ただ自らその身を棺中におさめて絶命を待ちおれり。しかるに、その日の夜に至るもなお死せず、翌日に至るも依然として存命せり。ときに飲食を欲するも、これを購入するの余銭なく、ほとんど飢渇に迫らんとせり。ここにおいて、はじめて自ら卜筮家に欺かれたるを知り、にわかにその家に至り、『なにゆえにわれを欺きしや』と詰問しければ、筮者曰く、『決して欺きたることなし。足下そっかは某月某日に必ず死すべきはずなることは天運の定まりなり。しかるにその日に死せざりしは、けだしほかに原因あるべし。足下は人を救助せしことなきや』と。迷信家曰く、『すでに死の定まれるを聞きたれば、財産を残すの必要なきを悟り、これをことごとく人に施与して貧民の救助に用いたり』と。筮者曰く、『その一言にて疑いを解けり。足下は人を救助せし積善の余慶をもって、天はことにそのひとたび必定ひつじょうせる寿命を延長したるなり』」との一話のごときは、なにものかの作説なるべきも、筮者の遁辞とんじにはこれに類すること往々聞くところである。
 ことわざに「当たるも八卦はっけ、当たらぬも八卦」と申しておるが、十中にて五分はあたり、五分は外れるのが当たり前である。しかし、筮者の経験と熟練とによりて、十中七八分くらいはあたることもあろうと思わる。ただし、そのあたるというも、ある制限内のことにて、何年何月何日に死するなどに至りては、千百中に一もあたることは難い。つまり、易筮にて吉凶を判ずるも、銅銭の表裏にて判ずるも、そのあたる理は同一なるべきも、簡単なる銅銭にては、信仰が薄くなる。これに反して、易筮のごとき複雑なるものならば、あらかじめあたるものとの信仰をおくようになる。これに加うるに、易の文句は比喩ひゆにわたり、多様の意義を含んでおるから、臨機応変の解釈を付けることができる。それゆえに、筮者の方が経験に富み、識見に長ずる人ならば、その判断のあたる割合が多くなるわけじゃ。よって、たとえよくあたりたりとも、これを全く易筮の力に帰するはずはない。つまり、その多くは筮者の判断力に帰せなければならぬ。ゆえに、易筮そのものにつきては、「あたるも八卦、当たらぬも八卦」と申すよりほかはない。元来易筮の用は、その右をとるべきか左をとるべきか猶予して決せざる場合に、その判断を天に聴く心得にて、筮竹ぜいちくの上に考うるにあるのじゃ。しかして、そのことも一国一家の大事に関する場合に行うべきことと思う。決して今日民間にて行うがごときものではない。病気、災難の予防に用い、物価相場を前知するの具となすなどは、卜筮の濫用もまたはなはだしといわねばならぬ。また、今日ありては国家の大事のごときは、これを国会にたずね、輿論よろんに問うて決する道あれば、易筮によりて天に聴くの必要のなきことは明らかである。その他のことは自己の力の及ぶ限りを尽くして、もしなお力の及ばざるところあれば、これを自然の運命に任ずるがよろしい。決して易筮などの力をかるるに及ばぬ。諺に「陰陽師おんみょうじ身の上知らず」といい、また「陰陽家は鬼のためにねたまる」というが、八卦を業とするもの、およびこれを妄信するもの、多くは貧困にして、しかもその家に災害が比較的に多いように見ゆ。もし、八卦によりて吉凶禍福を前知するを得というならば、陰陽家の窮鬼に苦しめらるる理は解し難い。これ畢竟ひっきょう、八卦の信ずるに足らざることを自ら証明すると同様である。ある書物に、卜筮に関したる一話が出ておる。すなわち、「ある家の主人が、夢に足に毛の生じたるを見て、売卜者ばいぼくしゃに占わしめたれば、『必ず増給の沙汰さたあるべし』といい、その家僕も足に毛の生じたる夢を見て占わしめたるに、『長病なるべし』といえり。よって家僕大いに怒りて、『同一の夢に対し、主人へは増給といい、われには長病といいたるはいかん』となじりたれば、売卜者曰く、『臨機応変なり』と答えたり」とのことじゃが、すべて卜筮には臨機応変の判断が多いように考えらるる。されば、かかる判断を信ずるはむろん迷信といわなければならぬ。
 わが国の神社仏閣に御鬮みくじを備え、人にしてこれを探りて吉凶を判知せしむることがある。その種類も幾とおりもあるが、帰するところは易筮のごとく人の決心を定むるに過ぎぬ。その中にて最も多く行わるるは、元三大師がんざんだいし百籤ひゃくせんである。余がかつてその鬮を入れたる箱を見しに、寸法に一定のきまりがありて、その中に百本のミクジ竹を入れ、その各本に大吉、吉、半吉、小吉、末小吉、凶の文字を記入してあり、これに対する判語は五言四句の詩をもって示してある。その他の御鬮は一層単純のものである。かくのごときは、つまり愚民の迷信を定むるまでのものなれば、愚民にとりては多少の効験なきにあらざるも、これと同時に弊害も決して少なくない。また今日にありては、かかる方法によりて疑いを決する必要はなかろうと思う。夢占いと称して、夢の情態につきて吉凶を判ずることがあるが、これらはもとより論ずるに足らぬ。また、辻占つじうらのごときは一種の戯れにひとしきものである。よって、ここにいちいち説明するほどの必要はない。
 世間にて、卜筮のよく事実に適合したる話ありて、事実に適合せざりし話の比較的少なきは、大いに事情のあることと思う。その一例として駱駝らくだの見せ物の話を引用せんに、「ある地方の夏時の祭礼に、駱駝の看板を掲げたる見せ物が出たことがある。これを見るもの真の駱駝と思い、争って木戸銭を払いてその内に入れば、獣類の駱駝にあらずして、一人の肥大の男が、炎天焼くがごとき気候なれば、高き所へ裸体となりて手に団扇うちわを握り、これをつかいながら『ああラクダ(楽だ)、ああラクダ』といいつつ横臥おうがしていた」と申すことじゃ。これを見物したるものは、あまりばかばかしくて、その実を人に告ぐるも不面目と思い、出でて人に語りて曰く、「これは実におもしろき見せ物である。一度これを見ざるものは大ばかである。けだし、世間にこの見せ物ほど奇怪なるものはなし」などと言い触らせるゆえ、われも彼も争って木戸に入ったそうじゃ。その前、わが国にて豚を養えるものなきときに、「ブタ」の見せ物の看板を掲げておいた。これを見るものその内部に入れば、鍋蓋なべぶた一枚を置いてあったという話も同じことじゃ。今、筮者に請うて卜筮の判断をなさしむるに、あたらざる方は、これを人に伝うるのかえって己の不面目と心得、秘して他言せず、これに反して適中したる方は、大いにそのことを吹聴するようになる。これ、適中せる卜筮談の世に多きゆえんである。『視聴雑録しちょうざつろく』と題する書中に、「昔、江戸浅草に住める商人某が黄金こがねを失い、筮者を招きて占わしめしに、筮者曰く、『この金は必ず外に求むべからず、おそらくは一家中にあらん。もし一家を探りて見当たらざるときには、家の外に求むべし』」との話があるが、これこそ百発百中に相違ない。卜筮のよく当たるというのは、この話の類であろうと思う。
 かくして、卜筮は識者の目より見れば、もとより信ずるに足らぬものなるが、愚者にとりては狐疑こぎして決せざる場合にいくぶんの用ありとするも、余は古き『易経』などによるに及ばず、むしろ近世の学術上に考えて新法を作るがよろしいと考え、この主義より近世の論理学にもとづき、『哲学うらない』と題する筮法を工夫した。されど、その法は未来の吉凶禍福を前知するにあらずして、一事を決するに当たり、天運にたずねて可否を知らんとするのみである。もし、吉凶を予定し得るというがごときは、愚民の意を引くまでにして、人を迷信の淵に導くものといわねばならぬ。

 八卦はっけの筮法とともにわが国に行わるるものは五行ごぎょうの占法である。例えば、十干、十二支にて人の性質を判断するがごときは、五行の占法と申すものじゃ。天源術てんげんじゅつ九星術きゅうせいじゅつ淘宮術とうきゅうじゅつなどはこの占法に属しておる。人相、家相も五行にもとづきて組み立ててある。ゆえに、人相、家相のことを説く前に、五行の大意を述べなければならぬ。
 五行とはもくきんすいの五種にて、その名目は『書経』の中に出てあるけれど、これを一般に吉凶禍福の判断に用うるようになりたるは、秦漢の時代より後ならんと思う。五行家の説には、「天地は万物の父母、五行は天地の用」といいて、五行をもって天地万物の元素のごとくに信じておる。その気の天にありていまだ形を結ばざるを十種に分かちて十干と名づけ、その気の地にありて形をとりたるのを十二支とする。この十干、十二支を年月日に配合して、人の性質を鑑定し、かれは火の性である、これは水の性であるという。これを相生そうしょう相剋そうこくと申すことがある。すなわち、木は火を生ずるものとし、水は火につものとするの類にて、相生の方を吉とし、相剋の方を凶としてある。左にその表を掲ぐ。
    ┌木 しょう 火     ┌水 こく 火
    │火 生 土     │火 剋 金
相生大吉┤土 生 金 相剋大凶┤金 剋 木
    │金 生 水     │木 剋 土
    └水 生 木[#「木」は底本では「水」]     └土 剋 水[#「水」は底本では「木」]
 古来これに与うる説明を見るに、実に抱腹にたえざることが多い。木生火の説明に、古代は木を摩して火を取りたるものなれば、火は木より生じたるに相違ないといってある。また火生土とは、火にて物を焼けば灰となり、灰は土となるとの説明である。また金生水とは、鉱山を掘るには、鉱石の間より水出ずるとの説明じゃ。水生木とは、木は水の力を得て生い立つものじゃと説いてある。これらの説明に対しては、もとよりその妄を弁ずるまでにあらざるも、ただ一言を付するに、火はひとり木より生ずるにあらず、油(水)よりも生じ、石(金)よりも生ずることなれば、木生火と同時に、水生火とも金生火ともいうことができる。また、火にて物を焼けば、灰土となるというも、物の土に化するは必ずしも火によるにあらず、地に埋めて腐らせても土となる。かつ、火は変化の媒介となるまでにて、決して火そのものより土を生ずる道理はない。されば、火生土というは不都合の説である。また金生水の説明のごときは、愚の極みといってよろしい。水生木の説明に木は水によりて生長するというならば、木は日光(火)により土地によりて生長するによりて、水生木と同時に、火生木とも土生木ともいうことを得る道理じゃ。かくのごとく、相生、相剋の説が不道理を極めたるものなれば、これを人に配合して生剋を見、吉凶を判ずるの不都合なることはもちろん、これを信ずるものは実に愚もまたはなはだしといわねばならぬ。ことに今日にては、天地万物の元素は木火土金水にあらざることは、理化学の実験によりて明らかである。しかるに、これを五行となんらの関係なき年月に配合し、方角に配合し、人の五体、五官等に配合するにおいては、古代の妄想というよりほかなく、これを信ずるの迷信たるはむろんのことである。
 五行の妄説なること、すでにかくのごとしとすれば、世に男女の相性と称して、結婚のときに双方の生まれ歳を吟味するは愚の至りである。古来、民間にて「丙午ひのえうまの女は男を殺す」とのことわざがあるが、その意は、丙は陽火に当たり、午は南方の火に当たるゆえに、火に火を加えたるものなれば、その力、男を殺すべき性質であると申すことじゃ。笑うべきの至りである。あるいは病気のときに医者を迎うるに、医者の相性を見、町家で手代を雇うに、その相性を問うなど、いずれも愚の極みである。
 古来人相と称して、人の外貌がいぼうにつきて、その人の運不運、吉凶を占定する法がある。これを細別すれば、面相術、骨相術、手相術、爪相術そうそうじゅつ等となる。これもとより信ずべからずといえども、古語に「思い内にあれば色外にあらわる」とあるがごとく、外貌のいかんによりて内心の情態を知ることができる道理である。されど、人相家のいうがごとく、外貌によりてその人の身上に何年何月ごろに災難がある、僥倖ぎょうこうがある等のことの分かるはずはない。まして人の身体を五行に配合して、吉凶を説くがごときは、妄誕を極めたるものである。面相術はわが国にてもっぱら行われておるも、諸家の伝うるところ一様にあらず。あるいは顔面全体につきて五行の相を定め、相生、相剋の吉凶を論ずるもあり、あるいは各部に五行を配合して、目を木とし、眉を火とし、口を土とし、鼻を金とし、耳を水として論ずるもあるが、いずれも不道理のはなはだしきものである。骨相術は頭蓋ずがい頂骨の形状を見て、その人の性質を判断する術にして、もっぱら西洋に行われておる。その説くところは日本の人相ほどにはなはだしからざるも、その判断があまり器械的にして、物差しをもって精神を測るがごときありさまなるは、笑うべきの至りである。手相術は東西ともに行わるるも、これまた同様に信ずることはできぬ。
 人相よりは一層広く世間に用いらるるものは家相である。家相に関連して地相も考うることになりおるが、宅地、住居が人の健康、衛生に関係あることは、学理の上よりも、事実の上よりも否定することはできぬから、地相、家相は全然排斥すべきではない。されども、今日の家相家の説くがごとく、あるいは五行に配合して吉凶を考え、あるいは鬼門、方位に照らして禍福を定め、門、窓、かまど、井戸、便所、土蔵、馬屋等に至るまで不道理の理屈をつけて、人家の幸不幸を考定するがごときは、決して信ずべき限りではない。その説くところ、衛生の規則にたがうことが多い。よって、家相などを信ずるは迷信といわねばならぬ。たとえその中に一、二の道理に合することあるも、八、九分どおりは妄説に属するなれば、迷信として排斥するが当然である。要するに、人が家相によりて災難を免れ、幸福を得たいとの望みを起こすのが、すでに横着の考えより出ておる。けだし、人生には吉事もあれば凶事もありて、いかなる王公貴人といえども、生涯不幸なく、幸福のみをうくることはできぬ。ただ、富を得んと思わば労苦をいとわず、辛抱して倹約するがよし、知識を得ようと思わば、学問を勉強するがよい。そのほかに富貴、知識を求むる道はない。また病気をいとうならば、平素衛生に注意し、長寿を願うならば、飲食を節制するが第一である。その上に災難がきたり病気に襲わるるとも、いわゆる天運のしからしむるところにして、人力のいかんともなし難きことなれば、人生の常態としてあきらむるよりほかはない。しかるを、その身に修むべきを修めず、務むべきを務めずして、一家一身の無病、長寿、安楽を祈るは、大なる心得違いである。いやしくも今日の文明世界に生まれたるものは、かかる迷信に陥らぬように心掛けねばならぬ。ここに参考のために、ある随筆に出でたる家相心得を示さば、「家相を正すというは、夏すずしく冬暖かに、奥より勝手向きの便利をよくし、盗賊、火災の防ぎ方を設け、低地の所は出水の手当ていたし、小破れを繕い、火の用心を大切にして住む家を、すなわち吉相の家とす」とあるは、おもしろき説明である。
 人相、家相のほかに、墨色すみいろと名づくる一種の相法がある。これは相書あるいは相字法と名づくべきものにして、人の筆跡を見て吉凶の判断を下す法である。書は人の性質をあらわし、書を検してその人の気質のいくぶんを知ることあるは、あたかも面貌めんぼうにつきて、その人の性質を判ずることを得ると同様である。ゆえに、相字法も全然排斥すべきにあらざるも、今日民間にて伝うるところの墨色なるものは、妄談を極めたるものにして、文字の墨色をみて、何年何月何日に剣難がある、火難がある、病気が起こる等の予言を与うることに定まっておる。かかる予言の決して当たるべき理はない。万一もし当たりたらば、偶然の暗合といわねばならぬ。かかる信ずべからざることを信ずるは、すべて迷信と申すものじゃ。せめて小学教育を受けたるものは、もはやかかる迷信に陥らぬようにせなければならぬ。

 民間にて最も人の信ずるは鬼門、方位の迷信である。その迷信は、建築、移転等に鬼門を犯し方位に逆らうときは、必ず天災、病死等の災害ありと信じておることじゃ。まず、鬼門の説明より始むるに、そのことはシナの古書に出でたる俗説にして、ごうも信ずるに足らぬ妄談である。多分その起こりは『海外経かいがいきょう』であろうと思うが、その書中に「東海の中に山あり。その上に大なる桃樹とうじゅありて、その枝が横にはびこり、三千里の間にわたるという。その東北に門あり。これを鬼門と名づく。万鬼の集まる所なり」と見えておる。これが鬼門の起源であるとのことじゃ。実に笑うべきの至りである。かかる妄説がシナより日本に伝わり、上下一般にその方位を忌み、かつ恐るるようになり、建築、移転のみならず、その方角に向かって便所を設け塵塚ちりづかを置くことまで固く禁ぜられておる。陰陽家の弁解するところにては、この方角は陰悪の気の集まる所なれば、極めて凶方なりといい、あるいはその方角は、万物極まりてまた生ずる方にして天地の苦しむ所なれば、これを避くるなりとの説明もあれども、多少の知識あるものは、いかに信じたくも信ずることはできない。
 まず、これを地球上に考うるに、東北隅の方位の不吉なる道理は決してないはずである。たとえ地球の上に東西南北の別あるも、これもとよりたとえに過ぎぬ。もし出でて地球外に至らば、宇宙そのものの上には東西もなければ南北もない。また地球上に住するも、その位置の異なるに従って方位も異なるわけじゃ。赤道直下にあるときと北極付近にあるときとは、鬼門の方位が大層違ってくる。もし正しく北極の中点に立つときは、いずれを指して東北隅と定むるや。決して定むることはできぬ。ことに地球は昼夜回転して休まざるものなれば、東西南北の方位も、これとともに時々刻々その方向を転ずる道理である。されば、方位を定めたくも定むることができぬに相違ない。しかるに、これに対して方位の吉凶を談ずるがごときは、迷信中のはなはだしきものといわねばならぬ。仏語に「迷うがゆえに三界さんがい常あり、悟るがゆえに十方空なり。本来東西なし。いずれの所にか南北あらん」とあるは、鬼門の迷信を諭すに最も適切の偈文げもんであると思う。
 方位を考えて吉凶を判ずる法を方鑑と名づけ、これに関する書物もたくさんあるが、その判断は多くは五行を方位の上に配合し、相生そうしょう相剋そうこくを考えて吉凶を定むるのじゃ。これらの書中に説くところによるに、「およそ事に好悪あり、方に吉凶あり。そのいやしくも吉方に合するときは、富貴を招き、官禄を進め、田財をまし、貴子を生ずる等、無量の吉徳をあらわす。また凶方に合するときは、必ず困窮を招き、家運傾き、親族離れ、病災を発し、死亡に及ぶ、云云うんぬん」と説いてある。実に笑うべきの至りと申してよろしい。
 従来の暦書には方位の吉凶を掲げ、人多くこれに照らして判断することなるが、その第一は歳徳としとくと申すものじゃ。これは年中の有徳の方角にして、万福のきたり集まる吉方であると申しておる。その方角が年によりて違う。これ、その年の十干によりて定むる故である。また八将神はっしょうじんと申すものがある。すなわち、太歳たいさい神、大将軍だいしょうぐん大陰だいおん神、歳刑さいぎょう神、歳破さいは神、歳殺さいせつ神、黄幡おうばん神、および豹尾ひょうび神の八神である。その縁起を見るに、歳徳神は南海の沙竭羅竜王さからりゅうおうの御娘にして天下第一の美人なるゆえに、牛頭天王ごずてんのうこれをうけてきさきとしたてまつり、八人の王子を産みたまえり。その王子が八将神であるというがごときは、だれありて信ずるものはなかろう。この八神のうち、世間にて最も喋々ちょうちょうするのは大将軍の方位である。大将軍は十二支を四方に配して、年々その方角を定むるものにて、これを俗に三年ふさがりと申しておる。八将神のほかに人の最も恐るるものは金神こんじんである。金神の由来につきては、一層ばからしき神話が伝えられておる。すなわち、「これより南三万里に国あり。夜叉やしゃ国という。その主を巨旦こたんという。悪鬼神なり。これを金神こんじんという。常に人を悩まして日本のあだとなる。このゆえに、牛頭天皇南海よりかえりたまうとき、八将神を遣わして討ち平げたまう。この巨旦は金性なるにより金神と名づく。金性のたましい七つあり。この七つのたましい七所にいて害をなす。ゆえに金神七殺という。殺はころすとよむ。よってこの方をおかせば、必ず七人取り殺すゆえ七殺ともいう。家に七人なければ隣をかぞえて殺すという」と説いてある。その方角は甲己きのえつちのとの年は午未申うまひつじさるの方にありて、乙庚きのとかのえの年は辰戌たついぬの方にありという。ただし、大将軍にも金神にも一定の遊行日ゆうぎょうびありて、その日に限りて方角をおかすも害なしというは、最も笑うべき次第である。これを要するに、これらの神話は妄談を極めたるものなれば、もとより取るに足らぬ。そのうえに、方位の上に十干、十二支の五行を配合して吉凶を説くものなれば、その不道理なること、前に述べたる五行の説明によりて明らかである。かかる方違かたたがい、方塞かたふたがりを忌み嫌うことは、元来シナより伝わりたるに相違なきも、わが国にてもずいぶん古代より行われたるように見ゆ。もとより、正しき書物の中には見当たらざれども、雑書のうちに出ずるところより推すに、源平時代より以前にありしに相違ない。その当時は高位貴顕のそばに婦女子のしいて、雑説、奇談をその君に申し上げ、方位、方角などを女子とともに忌み嫌うことになりたりとの説もあるが、多分そのようなることより、上下一般に信ずるに至りたるならん。昔はとにかく、今日なおかかる迷信を信ずるものあるは、実に文明国の名に対して恥ずべきことである。
 わが国に行わるる吉凶鑑定法に二種の別がある。その一は人性につきて鑑定するもの、その二は方位につきて鑑定するものである。そのうち広く世間に行わるる九星術きゅうせいじゅつ天源術てんげんじゅつ淘宮術とうきゅうじゅつのごときは人性鑑定法なるも、九星術のごときは方位にも関係あれば、ここに一言する必要ありと思う。もと九星は、シナの『河図洛書かとらくしょ』のうち「洛書」にもとづきたるものということじゃ。易の八卦は「河図」より起こり、九星の図は「洛書」より出でたりというも、真偽は定め難い。その数が一より九までありて、これに一白いっぱく二黒じこく三碧さんぺき四緑しろく五黄ごおう六白ろっぱく七赤しちせき八白はっぱく九紫きゅうしの名を付し、これを年に配し月に配し、日および時に配し、かつ、これを五行生剋の理に考え、人の生年月を繰りて吉凶を鑑定する規則である。しかるに、この星を方位に配当して吉凶を判ずることがある。例えば、「一白の人の星は北方をつかさどり、三碧の人の星は東方をつかさどる、云云うんぬん」と説きて方位の鑑定をするも、その信ずるに足らざることは説明するに及ばぬ。つぎに、天源術は易筮えきぜいと九星とにもとづき、これと大同小異なるものにて、やはり五行の理に考え、人の生年月につきて判断を下すものである。つぎに、淘宮術は天源術より出でたるものにて、もっぱら十二支にもとづき、人の生年月によりてその資性、命運を判定し、もって治心の要法としたるものである。これらはいちいち弁明せずとも、元来五行の妄説にもとづきたる以上は、考うるに足らざることは明らかである。

 方位のほかに暦日にも吉凶あるものと信ずるは愚民の迷いなるが、今日教育の普及せるにかかわらず、なおかかる迷信の依然として存するは、実に怪しむべきことである。暦日中に見るところの七曜しちよう九曜きゅうよう六曜ろくようのごときは、民間にて吉凶あるものとして伝うるところなるが、なかんずく六曜は多くの人に信ぜられておる。七曜の名目は今日の七曜のごとく日、月、木、火、土、金、水にして、その源は『宿曜経すくようきょう』に出ておる。この七曜に善悪吉凶の別ありとは、古来伝うるところである。これに※(「目+侯」、第3水準1-88-88)らこうせい計都星けいとせいを加えたるものを九曜という。つぎに、六曜とは先勝せんしょう友引ともびき先負せんぶ仏滅ぶつめつ大安たいあん赤口しゃっくとて、暦書の上に掲げてあり、その繰り方は正月ならば先勝を朔日ついたちとし、友引を二日、先負を三日として、次第に繰りて吉凶を判断することに定めてある。これを孔明こうめいの六曜占と名づけておる。また、有卦うけ無卦むけということがある。人の年を繰りて何年より有卦に入り、何年より無卦に入ると申す。有卦は吉にして無卦は凶である。例えば、木性の人はとりの年八月酉の刻に有卦に入り、の年まで七年間を吉とし、右七年を経れば八年目より五カ年間は無卦に入る。その間を凶とすと申すことじゃ。この有卦無卦の説は、もとより五行の配当より出でたるはいうまでもない。そのうち願成就日がんじょうじゅび不成就日ふじょうじゅび等、いちいち挙ぐるにいとまないほどである。
 徳川家康は凶方をおかして出陣し、関ヶ原の勝利を得たりしことは『小学修身書』に出ておるが、これと同じく、唐の太宗たいそうは出陣のときに凶日をおかして勝利を得たる話がある。すなわち、太宗出陣のときにある人いさめて、「今日は往亡日とてはなはだ不吉の日なれば、延引あるべし」と申し上げたれば、「われきて彼ほろぶる日なれば、心配するに及ばず」とて、すぐに軍を出だし、果たして勝利を得たりとのことじゃ。また、周の武王ぶおう甲子きのえねをもって興り、いん紂王ちゅうおうは甲子をもって亡ぶといえる話がある。すなわち、昔シナにて、周の武王は殷をせめて甲子の日に紂王を亡ぼしたというにつき、同じき甲子の日なれども、武王のためには吉日となり、紂王のためには凶日となりたるわけにて、つまり、日に吉凶なき道理を示したものである。あたかも港にかかる船の、東方に行く者は、西風を順風といい東風を悪風といい、また西方に行く者は、東風は順にして西風は逆となる。もとより風に順逆の別なく、ゆく者に順逆あるに同じことじゃ。これとひとしく、日に吉凶の定まりあるわけなし、すべてわが方に吉凶の別があるのじゃ。今一例を挙ぐれば、明の太祖たいそが天下を一統したる後に、太祖と年月日時を同じくして生まれたるものは、いかなる生活をなしおるかを知らんと思い、あまねくたずねけるに、一人を探り得たり。その者は窮貧の生活を営み、みつ十三ろうをやしないて渡世をなしおれりとぞ。また、ある雑誌に出でたる説なるが、およそ世界の人類は一秒時に六十人ずつ生まれ出ずる割合なれば、釈迦しゃか、孔子、家康もしくはナポレオンと同日同刻にその生まれたるもの、必ず五、六十人あるべし。もし、人の運不運はその生まれたる時日によりて定まるものならば、これらの人はみな、釈迦、孔子などと同一の運命に際会すべき理なりと論じてある。これらの例によりて考うれば、時日に吉凶なきことは明らかである。
 世間に、きゅうをするにも日の吉凶ありと申すが、これにつき一例を挙ぐれば、「昔、大阪にて名医として誉れ高き見宣といえる医師あり。ある人これに向かい、『灸をするに凶日と禁所ありとのこと、果たしてしかるや』とたずねしに、見宣答えて曰く、『しかり、凶日、禁所ただ一つあり』と。『されば、あえてその日を授けられんことを請う』といえば、見宣曰く、『年中にて灸すまじき日は正月元日と、灸すまじき所は目玉なり。その他、別に凶日、禁所あるを覚えず』と答えたり」との話がある。なにごとをするにも、一年三百六十五日みな吉と思って取り掛かればよろしい。精神一到すれば、いかなる凶日たりとも事の成らざる理はない。しかるに、日の吉凶などに迷うようでは、精神一到のできるはずなく、したがって、いかなる吉日に事をなしても成就せぬに相違ない。ゆえに余は、吉凶に迷うものには、三百六十五日みな凶日となると申してよかろうと思う。
 また、民間にて厄年やくどし厄日やくびというものがある。通例、男子は二十五歳、四十二歳、六十一歳を厄年とし、女子は十九歳、三十三歳、三十七歳を厄年とす。なかんずく、男は四十二歳、女は三十三歳をもって大厄たいやくと申しておる。そのはじめはシナにて起こりたることなれども、なにによりてかく定めたりしか明らかならぬ。わが国にてはこれを解して、十九は「重苦」に通じ、三十三は「さんざん」に通じ、四十二は「死に」に通ずるゆえに厄年とするとの俗解あれども、そは信じ難い。つまり永き間の経験にて、人の死するは多く右の年ごろなるより、かく唱うるに至りたるならん。されど、だれもみなその年ごろに病気にかかり、あるいは死亡するというわけではなく、決して一定の規則あることなければ、その年ごろにことさらに養生、衛生に注意するはよろしいが、厄よけ、厄払いなどをするは愚の至りである。また、俗に四十二歳の二つ子と称することがある。すなわち、男の四十二歳のときに二歳の子あれば大不吉にして、父の身上に大不幸をきたすことありといい、その子をすつるを例としてある。その意味は、一説に四十二に二を加うれば四十四となる。四十四は死に死を重ねたるものなれば、一般にこれを忌み嫌うという。誠に笑うべきの至りである。また、俗に六三ろくさんと称することがある。これには一定のかぞえ方がありて、その年に当たりたるものは六三よけの祈祷きとうをなすとのことじゃ。いずれも迷信のはなはだしきものである。その他、厄日または凶日として避け嫌う日がたくさんある。例えば、正月二十日には物の売買または新衣を裁することを忌み、二月十四日には遠方へ旅立ちするを忌み、三月七日は願いごとを忌むの類である。また、かまどを塗り、井を掘り、味噌みそ、酒を製し、新むしろを敷くに至るまで、一定の吉日と凶日とがある。かくのごときの類、実に枚挙にいとまあらぬ。
 世に御幣ごへいかつぎと称して、なにごとにも縁起の吉凶をいうものがある。ことに婚礼、葬式などにはいろいろの忌み物、忌みごとがある。例えば、婚礼の贈り物に用うる水引は結びきりにして返さざるは、ひとたび嫁したるものの帰らざるを祈るの意にして、婚礼の席に客の帰り去るを「御帰り」といわずして「御開き」というも、帰るを避くるの意なりとのことじゃ。かくのごとき格別の弊害なきことは、古俗を存するために礼式中に加えて差し支えなかろうと思う。されど、あまりはなはだしき不合理なることは改むるがよろしい。また普通の場合にも、死と同音なるかどにて四の数を忌むがごときは、別に利害のなきことなれば、従来の風習に任せて不都合はない。しかれども、あまりかかる縁起に懸念することはよろしくない。御幣かつぎのはなはだしきものは、家を出でて途中、葬式に会すれば不吉なりとて自宅へ戻り、再び出直し、あるいはからすの鳴き声が悪いとて早く家に帰り、不吉の日に外に出でたるときは、帰りて早速その着物までを改めて厄払いをするなどに至りては、そのばかばかしきに驚かざるを得ない。
 そのほか御幣連の申す縁起は、いちいち例を示すことはできぬ。あるいは犬の長鳴き、鶏の宵鳴き、烏のしばなくを気に掛け、あしき夢や釜鳴かまなりを心配し、また、衣に飛鳥のふんをかけられたるを吉祥として喜ぶがごとき、いずれも笑うべきの至りである。昔、信玄が信濃に出発のとき、鳩一つ庭前の樹上に来たりたれば、衆人これを見て勝利の前兆なりとて喜びたれば、信玄たちまち鉄砲をもってその鳩をうち落とし、人の惑いを解きたりという話がある。また民間に、クサメにつきて吉凶をぼくすることを伝えておる。その法は、の日のクサメには酒食のことあり、うまの日のクサメには喜びごとあり、何の日は吉、何の日は凶と定めてある。これに対してある書に、「平安散へいあんさんといえる薬は、これをぐごとにたちどころにクサメ続きて出ずるゆえに、クサメの出ずる日に吉凶あらば、常に平安散を懐にして吉日ごとにこれを嗅がば、生涯吉事のみならん」と説いてある。明治の今日に生まれたるものは、かかる迷信に陥らぬように心掛けねばならぬ。

 以上述べたるところは、大抵みな心理的妖怪の部類であるが、これより物理的妖怪につきて少しく話さねばならぬ。まず物理的妖怪中、人の最も多く奇怪とするものは怪火かいかである。怪火とは、竜灯、鬼火、狐火きつねび不知火しらぬいのごとき、火のあるまじき所に火光を見る類を申すのじゃ。これにも偽怪、誤怪に属すべきものが混じておる。余がかつて聞きたる一話を申さば、ある人、一夜深更に及んで火葬場の近傍を通行せしに、この場所に立ちたる地蔵堂の前に、怪しき火の燃え上がりおるを見て大いに驚き、世のいわゆる怨霊火おんりょうびならんと考え、こわごわ近づき見れば、堂内に泊まりたる乞食こじきが寒さを防がんために、堂前にて火をたきたることを発見したということじゃ。すでにその原因が判明すれば怪火にあらざるも、もしその原因を究めずしてこれを人に告ぐるに至らば、真実の妖怪となりて後世に伝わるに相違ない。この一例のごときは誤怪というべきものである。もし、好奇者が人を驚かさんと思って、故意に火のあるまじき所に火を点じ、人をして狐狸こり天狗てんぐの所作ならんと疑わしむるがごときは、偽怪というべきものじゃ。その例も諸方にて聞くことである。
 これらの偽怪、誤怪を除きて、なおほかに真実の怪火があることは疑いない。しかし、その怪火と同種のものにても、平素見慣れたるものはだれありて怪しむものはない。例えば蛍火ほたるびのごとき、人の怪しまざるのみならず、かえってこれを愛し、これを楽しむ。また、朽ちたる木より光を放つことありても、別段不思議に思うものはない。これに反して狐火、鬼火のごときは、ただにこれを怪しむのみならず、これを恐れて近づくものすらないほどである。まず、わが国にて古来最も名高き怪火は、熊本県下の天草の海上に現るる不知火である。その原因につきては、夜中蛍のごとき光を発する微細なる小虫が、無数に波上に集まりたるによると申すことじゃ。遠くこれを望むに、火の海上に燃ゆるに異ならぬが、その火の奇怪なるは、あるいは一火が分かれて両火となり、両火がさらに分かれて数点となり、あるいはまた合して一火となり、一方にありて滅するかと思えば他方にありて現れ、高きものはかけるがごとく、低きものは走るがごとく、その出没する間は数里の長きに及ぶも、だれありてその所在を確かむることできず、これを確かめんと欲してその火のある所に行けば、たちまち消えてみえなくなり、そのなんたるを知るものがない。よって不知火と名づけ、一大不思議として伝えられておる。
 怪火のうちに不知火のごとき小虫より生ずるものあれど、鬼火、狐火、竜灯、天狗火などは、みな空中に浮遊せる燐火りんかであろうと思わる。すなわち燐の気が水素と合し、いわゆる燐化水素となり、空中の酸素に触れて光を発するのである。この燐の気は草木などにも含まれておるが、生物に最も多く加わりておる。例えば、人の死してのち骨肉の腐れたるときのごとき、この気がその体より離れ、水素に合して光を放つに至る。それゆえに埋葬地などにては、俗にいう幽霊火なるものを見るのである。また、沼のごとき、水のたまりて流れず、草木、魚虫等の腐敗しておる場所より鬼火の発するも、同じ道理である。かく、その気がものすごく見ゆる場所に出でて、かつその体いたって軽く、人これを追えばその動きを空気に伝え、火もこれと同時に動き、その状態いかにも奇怪に見ゆるゆえに、妖怪、不思議と思いたるは無理ならぬことじゃ。
 燐火のことにつき、『天変地異てんぺんちい』に出でたる一話を紹介しようと思う。「ある人、世ふけて沼を渡り、ものすごく思いおりしが、たちまち青き火の近く輝くを見たるに、ようやくわが方に寄りきたれば、あしき妖怪の所業なりとひとりささやきながら行くほどに、これを捕らえんと思い立ち、急に歩みを進めければ、追うものありてのがるるがごとく、急に逃げ去り、われとどまれば彼もまたとどまり、われ行けば彼もまた行きて、わが動静をうかがいおるもののごとく、その様子われを軽蔑するように見ゆれば、われ大いに怒り、力を極めて追いかけ行きしに、たちまち消えて跡を失えり。しばらくありてあしを隔てて再び現出しければ、このたびは息をのみ身を潜め、間近くよりて急にこれを襲わんと決し、おもむろに進み寄りしに、火依然として少しも動く様子なし。ますます沈黙して火のそばに歩み寄り、急に手をあげて打ち落とし見れば、一片の燐化水素にて、なにも怪しげなるものなし。畢竟ひっきょう、前に逃げ隠れしは、自己の動きより空気を動かし、火もこれがために動きしものなるに、後のたびは静かに近寄りしゆえ、空気を動かさず、火もこれがためにその居所を動かさず、これを物にたとうれば、地水の[#「地水の」はママ]面に浮かぶものあるを、にわかに水に飛び入りてこれを捕らえんとすれば、そのもの必ず水に促されて先の方へゆき、われ帰ればまた水につれてわが方へ来たるべし。しかるを、静かに水を押し分けこれをつかまば、容易なると同様なり」との解釈が見えておるが、これにてその道理がよく分かろうと思う。その他の怪火につきてはいちいち説明することはできざれども、民間にて火柱が立つということがある。そのときには必ず火災があると申しておるが、『荘内可成談しょうないなるべしだん』に出ておる話によるに、「放火の賊が自ら放火せんと謀り、あらかじめ火柱が立つといえる虚言を伝えたることあり」とのこと。これは己の放火せることの、後に発覚せざるための予防策である。もし人為にあらざれば、燐火もしくは電火ならんかと思う。また、蓑火みのびあるいは蓑虫みのむしと称するものがあるが、江州および越後地方にて申しておる。すなわち、秋期に当たり、夜暗く雨の強く降るときに野外を歩するに、蓑の上に怪火の点ずるを見る。これを蓑火と名づけておる。その原因は燐の気に相違なかろうと思う。
 怪火に次ぎて人の奇怪に感ずるものは怪音である。怪音のうちにて最も評判の高きものはたぬき腹鼓はらつづみであるが、そのことは前に述べておいた。また、老木が怒鳴どめいするということを聞いておるが、これは多く樹木の体内に空洞ありて、これにふくろうのごとき鳥が巣を作り、その中にてうなり声を発するのを誤認したるものなれば、誤怪の一種に相違ない。また、古来伝うるところに釜鳴かまなりの怪の話があるも、これ釜中の空気の振動より生ずる由にて、物理上説明のできることあれば、仮怪の一種であろう。その他は誤怪にあらざれば偽怪であると心得てよろしい。
 つぎに異物とは、越後の七不思議をはじめとし、あるいは天より怪石を降らし、白砂あるいは黄豆を降らす等の類にして、昔時は一般に奇怪に思いしも、今日は学理の進歩によりて、一人のこれを怪しむものなきに至りたれば、いちいち説明するに及ばぬ。
 その他、世間にて奇怪に思うものはカマイタチと申すものである。そのものたるや形あるにあらず、人の身体に風の触るると覚ゆるのみにて、かみそりにて切りたるがごとききずを得、血の多く出ずるということじゃ。その原因は、空気の変動によりて空気中に真空を生ずることがある、このとき、もし人体の一部がその場所に触るるならば、その一局部に限り外部の気圧がなくなりたるゆえ、人体内部の気がその空所をみたさんとしてほとばしり出ずるときに、皮肉を破裂せるによると申すことじゃ。かく聞いてみれば、妖怪とするに足らざることが分かる。また俗に、人の溺死できしせる節、親戚のものきたるときは、死人の鼻孔より出血するという話は、いずこにても一般に唱うることなるが、その道理は医家の説によるに、親戚に限るにあらず、なにびとにても死体に触れ、これを動かすときは必ず出血するものである。しかるに、親戚のこれに触るるときに限るように申すは、かくのごとき場合にありては、他人のその死体に触るること極めて少なく、親戚の来たるを待ちてその体を動かすものなれば、衄血じくけつと親戚との間になにかの感応あるように考えたるのじゃとのこと。されば、これまた不思議とは申されぬ。そのほかにもこれらに類すること多々あれども、際限なければ、これを『妖怪学講義』もしくは『妖怪学雑誌』に譲りておく。

 以上説明したるほかに、複雑せる妖怪にして、しかも民間に最も多く起こるところの怪事がある。すなわち、その一は投石の怪事である。その怪事は、夜中人家に石の落ちきたるありて、なにものの所為なるかその原因のさらに知れざることじゃ。民間にてはこれを狐狸こりまたは天狗てんぐの所為と申しておる。ゆえに、その石を天狗つぶてという名をつけてある。余もこのことにつき、たびたび現場へ立ち会いをなしたることがあるが、その原因のすでに発覚したるものにつきて考うるに、狐狸にもあらず天狗にもあらず、全く人の所業である。その人は家の外にあらずして、家の内にあることが多い。世間の考えにては、家の外より石を投げ込むように思うがゆえに、毎夜見張りをつけていても、その原因を知ることができぬ。さて、家の内にてなにものがかかる悪戯をなすかとたずぬるに、多く婦人、女子の所業である。下女か娘などにつきてよく吟味すれば、大抵その原因が分かる。また、中には家族中の白痴と呼ばれ、不具者と称せらるるものより起こることもある。しかしてその本心は、なにがためにするところあるにあらず、自ら利せんとする目的より出でたるものならば速やかに発覚するも、さにあらずして一は好奇心より出でて、一は精神の異状より起こる。精神の異状とは、人の見ず知らざる間にかかる怪事を行って人を驚かし、また、人のこれを見て奇怪に思い、不思議に感じて大いに騒ぎ立つるを、なによりおもしろくかつ愉快に思い、種々工夫してますます巧みにとり行うようになり、一層人をして奇怪に感ぜしむる次第である。普通の人よりこれを見れば、実に解し得られぬ所業なれども、これがすなわち精神に異状あるゆえんにして、一種の精神病と見てよろしい。
 投石の怪は、通例、深夜に石またはかわらが家の内に落ちきたるのであるが、その多くは台所の方に落つる。かかる場合は多く下女の所為にて、下女は台所の近くに寝ておるから、かねて昼間に石を拾い集めて隠し置き、夜ふけて人の寝込みたるをうかがい、戸のすきより台所の方へ投げだすのである。あるいは座敷の辺りに、しかも昼間に石の落ちきたることあるは、家族中の者の所業に出ずることが多い。よって、石の落ちたる場所によりて、およそその原因のある所を判断することができる。この怪事がだんだん増長するときは、ただ投石のみでなく器物がその位置を変じ、棚下にある物が棚の上に移り、また座敷の物が台所に転ずることがある。したがって、物の紛失することが起こる。中には箪笥たんす長持ながもちの中にある衣類が切断されておることがある。これは、最初投石したることを人みな奇怪に思い、狐狸、天狗の所為ならんと驚きしを見て、その本人はますます興に乗じていろいろの所業をなすのである。はなはだしきに至りては、家の中にて火気のあらざる所で火の燃え上がることがある。それがために出火したる例も聞いておるが、いずれも一家中のものにて精神に異状あるより起こるに相違ない。よって、かかる場合には、これを狐狸、天狗の所為に帰せずして、人為と思ってよく調ぶるようにすれば、ただちに原因を発覚することができる。古語に「妖は人によりて興る」とは、誠にその実を得たる格言である。
 また民間に、妖怪宅地すなわち化け物屋敷と申すものがある。古来の伝説は信じ難ければこれをさしおき、今日現に存するものが諸方にある。余も一、二度たずねて見たることもあるが、その多くは家屋の構造が悪いように思わる。第一に、光線のとり方がよろしくない。ために、室中に昼なお薄暗きようなる場所がある。かかる室はなんとなく薄気味の悪いものなれば、気の弱い神経質のものがこれに住すれば、必ず疑心暗鬼を生ずるの道理にて、自ら種々の妖怪を呼び起こすに相違ない。第二に、化け物屋敷といわるる家には、必ず悪い歴史をもっておる。例えば、その家には先年自害したものがあるとか、首くくりしたるものがあるとかの言い伝えがある。かかる話が残りておるときは、後にここに住するものが、己の神経よりいろいろの妄想をえがき、幻像を浮かべ、亡霊を見る等のことが起こる。これより相伝えて妖怪屋敷の評判が高くなるのである。また、なにかその家あるいはその持ち主に遺恨、私怨しえんあるために、ことさらに作為して化け物屋敷などと言い触らすことがある。これはいわゆる偽怪と申すものじゃ。よって妖怪宅地も、「人によりて興る」といわねばならぬ。古人の語に「人凶にして宅凶にあらず」とあるは、もっともの言である。
 妖怪宅地の中に枕返まくらがえしの怪談がある。現今にても往々聞くことじゃ。余が越中巡回の折に、その怪事のある室に寝たこともあれば、自ら経験しておると申してよろしい。これもやはり神経の作用に相違ない。枕返しとは、一夜のうちに覚えず知らず、己の枕の位置が転じておることを申すのじゃ。これは全く自らなしたるに相違なきも、夢中覚えずなすことなれば、翌朝記憶しておる道理はない。ただし、なにゆえに夢中かかる挙動をなすかというに、もしその人が多少、この室は枕返しの起こる所じゃということを記憶中に有すれば、その記憶が夢中に働きて、知らず識らずの間に自ら枕を返すに至るに相違ない。これを心理学にて無意識作用と申すが、あたかも夢中に寝言をいって自ら覚えざると同様である。
 その他、俗に雪隠せっちんの化け物、舟幽霊、雪女等の怪談あれども、これらはみな幻視、妄覚より起こりたるものにして、ことわざに「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の類なれば、説明するに及ばぬ。ただ、世に魔法、幻術として伝えてあるものに、奇怪に感ずることがいくぶんかある。あるいは火渡りのごとき、あるいは不動金縛りのごとき、ずいぶん不思議に見ゆれども、火渡りは物理の研究によるもできる道理にて、足の皮膚およびその面にある水気が、ある度までは熱力に耐え、かつ熱を防ぐことを得るゆえ、そのできるとできざるとは、つまり熱の程度に関する問題である。もし熱の程度が高きに過ぐるときは、跣足はだしのままにて渡ることはできぬけれど、火渡りの場合には、その度のあまり高くないことは明らかである。ただし、くわしき説明は物理学および心理学の両面より考証せざるを得ざれば、『妖怪学講義』に譲りておく。つぎに不動金縛りは、現今にては催眠術にてたやすくできることなれば、不思議とは申し難い。催眠術は近来盛んに行わるることじゃが、その術たるや、人心をして睡眠と醒覚せいかくとの中間における一種の状態に入らしめ、己の意思にて身体を支配することあたわずして、ほかの人の命令に応じて器械的に動くようになる。ゆえに、他人より「われはなんじに不動金縛りを掛ける」と命令されれば、たちまち身体、手足が動かぬようになる。その理由は心理学の問題なれば略しておく。これと同じく、一時わが国に行われたるものに、コックリと申すものがある。すでにコックリといえば、なにびとも知らぬものはなかろう。細き竹を三本合わせ、その上に盆を載せ、四方より手をかくると、たちまちにその盆がおどりだすというおもしろき仕掛けである。これを民間にては、狐か天狗か亡霊が乗り移りて動くのであると考えておれども、その実、われわれの精神作用が手の筋肉の上に働き、知らず識らずの間に運動を盆の上に伝え、衆人の力相合し相加わりて、おどりだすほどになるのじゃ。俗にコックリはよく人の年齢をあてると申すが、その当て方は竹の足をあげて、二歳ならば両度、三歳ならば三度あげる。いかにも不思議のようなれども、その盆に手を掛けておる人が全く知らざるものの年齢を当てることはできぬ。そのよく当てるは、必ずその中の一人が知りたる人の年齢に限る。この一例によりても、人の心に思っておることが、手の上に働きて盆を動かすに相違ない道理が分かる。かくのごとく「妖は人によりて興る」というが、これをさらに言を換えて申さば、「妖は心によりて興る」といわねばならぬ。

 以上、段を重ねて述べきたりたるところは、四種の妖怪中、偽怪、誤怪、仮怪の三種である。しかして、第四種の真怪のことは、迷信以上の問題なればいまだその例を示さぬ。よってこれより、真怪の一端を述べて結論といたそうと思う。
 世に遠方数百里隔たりたる所の変事が、自然の感通によりて知ることができる。その一例は夢の感通である。古来、親戚の者が数百里のほかにありて死亡したる場合に、ほとんど同時刻にそのことが夢中に現じ、実際の通知にさきだちて知ることができたと申す話がたくさんある。もし、果たしてかかる事実のあるものとすれば、これを真怪と称してよろしいようなれども、その実、はなはだ疑わしく思わる。その故は、かかる場合に夢の感通ありしは極めて希有けうのことにて、人の夢の数と死亡の数とに比較するときは、億万の中にわずかに一度もあるかないかくらいのことにすぎぬ。されば、精神の感通というよりは、むしろ偶然の符号という方が適当であろう。また、その夢に現じたることと実際の情況とはいくぶんか似ておるというまでにて、一より十まで寸分たがわずに符合したということは、いまだかつて聞かぬ。通常の場合にては、夢中に人の葬式を見たとか、墓場を見たとか、棺桶かんおけがあったとかいうくらいにて、つまり不吉の夢を見た。しかるところ、その後に親戚の者の訃音ふいんに接し、されば、過日の夢は全く精神の感通に相違ないと速断するのである。これは符合というにあらずして、類似というにすぎぬ。また、その時日も決して精密に適合したるにはあらず。もとよりその本人も、しかと夢の時日を記憶しておるのでなく、後に訃音に接してはじめてその夢を思い出だし、たいてい同日ごろに夢の現じたるように考え、ただちに時日まで符合したと申すのである。よって、かかる場合に事情および時日の符合は、人の方より迎えてそのように装いたるものといわねばならぬ。それゆえに、これらの事実を指して真怪と定むることはできぬ。いかに今日は無線電信があるからといっても、精神までが無線電信同様に通ずるということは、あまり空想にすぎたる話である。
 しかし世界には、人知をもって知るべからざることがあるは疑いなかろうと思う。その知るべからざるとは、未知という意ではない。未知というときは、今日いまだ知るべからざるも、将来においては知るときがあろうという意味に解せらるるも、余がいわゆる知るべからずとは、真の不可思議の意にして、人知にて知ることは不可能なりとの意である。これを証明することは決して困難でない。もし人知の性質の有限にして、宇宙の事物の無限なるを知らば、人知以外の事物ありて存することが分かる。すなわちその体たるや、不可知的不可思議と申すものじゃ。かかる不可思議を名づけて真怪とするときは、世界に真怪の存するは疑うことができぬ。
 不可思議につきて考うるに、目前の事々物々の内におのずから存在すと心得てよろしい。まず一滴の水をみるに、その体、分子より成る。その分子はこれより一層微細なる分子より成る。その結局、水素、酸素といえる二種の元素より成ることが分かる。もし、この元素の体はなにものなるやと問わば、これより以上の説明も解釈もできぬ。ただ、元素は元素なりといいて答うるよりほかはない。すなわち、元素を指して不可思議と申してよろしかろう。また、水のはじめはなにより起こりしか、水素、酸素の源はなにより生じきたりしかとたずぬるに、その結果、世界のはじめはなにより出できたりしやという問題になる。ここに至ると、同じく知ることができぬ。つまり、不可思議といわねばならぬ。されば、目前の事物はこれを小にしても不可思議、これを大にしても不可思議といいてよろしい。この点より考えきたらば、宇宙万物のすべてが真怪なることが分かる。
 かくのごとく論じきたりて、さらに事々物々の変々化々するありさまを見るに、人の生死、草木の栄枯はもちろん、雲の動き水の流るるまでも、みな不可思議となりて現る。もとより、これらの変化運動は物と力との関係より起こるに相違なきも、物の体も力の源もともに不可思議なれば、その変化運動も不可思議と称して差し支えない。ここにおいて、余は人の真怪の有無を問わるるに対し、日月星辰、山川草木ことごとく真怪なりといいて答えておる。かかる大怪に比すれば、狐狸、天狗、幽霊などは妖怪とするに足らぬものである。しかるに世人は、妖怪にあらざるものを指して妖怪とし、真に妖怪なるものを見て妖怪にあらずと思うは、実にその愚を笑わねばならぬ。ゆえに余は、妖怪研究の結果として、左の句をつづりて人に示しておる。
老狐幽霊非怪物、清風明月是真怪。
(老狐、幽霊は怪物にあらず、清風明月、これ真怪なり)
 これは余がひとり申すわけでなく、昔の人もすでに説いておる。その一人は新井白蛾はくがという人である。白蛾の言に、「天地の間はみな怪なり、昼の明、夜の闇、冬の寒、夏の暑、雪と降り、雨と化し、雷風のさわがしく、潮の満干、常に目なれ聞きなれたれば、怪しとも思わず、まれにあることはみな、人これを怪しむ」といいてある。また、西村遠里とおさとと申す人の説明に、「奇妙、不思議なるゆえに見たしといわば、妖術はさておき、自身のものいわんと思えば声出でて、歩行せんとおもえば足動き、物をとらんと思えば手出ずるの類、いかなる理にてかくなるということ一切知るべからず。春は花さき、秋は実り、あるいは青くあるいは赤く、かかる色を地中よりだれが染めわけしや、云云うんぬん」と述べてある。誠にそのとおりにて、不思議といえば天地万物みな不思議に相違ない。もし、これを不思議とせなくば、世界に一の不思議なしといいてよろしい。いわんや狐狸や天狗などは、決して不思議の中に数うるほどのものではない。万物みな不思議という中に比較してみれば、人の心が最も不思議のように思わる。まず世人のいわゆる不思議は、これを帰するに大抵みな心より出でておる。例えば狐惑こわく狐憑きつねつきのごとき、幽霊のごとき、みな心より呼び起こすところの妖怪である。されば、心は妖怪の母と申してよろしい。そのうえに、妖怪を見て妖怪と知るはみな心の作用に相違ない。ゆえに万物の中にて、心をもって妖怪の巨魁きょかいと申してよかろう。もし万物ことごとく真怪というならば、心は真怪の目、あるいは真怪のくらといいて差し支えない。
 かく妖怪を説明しきたりて、迷信はいずれにあるかといわば、つまり世人が偽怪、誤怪、仮怪のごとき、真怪にあらざるものを真怪のごとくに信ずるは、すべて迷信といわねばならぬ。古代のごとき人知のいまだ進まざりしときならばじょすべきも、今日のごとき教育も普及し、学問も開け、わが国はいわゆる東洋第一の文明国と、ほかより称せられ、自らも公言する以上は、その国民たるもの、なお迷信のふちに沈みおるありさまにては、実に国家の体面を汚し、国民の名誉を損するといわねばならぬ。
『国定修身書』には「諸子よ、昔は不思議なりとて恐ろしがりたるものも、学理の進むに従いて怪しむに足らぬこと明らかになりたるも多し。世にはまた、己を利せんがために怪しきことをいいふらすものあり。これまた信ずべからず」とあり、また「すべて道理の正しからぬことに惑い、これを信仰しこれに依頼するを迷信という。諸子は迷信を避けざるべからず」とあり、また「およそ人は知識をみがき道理を究め、これによりて事をなすべく、決して迷信に陥るべからず」とあるがごときは、余が以上の説明によりて、一層明らかに了解することができたであろうと思う。されば人は、なにごともみな道理のあることなれば、己の知識の足らざるために知れざることありとも、決してこれに迷いを起こし、道理にはずれたることをなさぬようにし、自ら知らざれば知らずとし、病気、災難等は予防のできるだけ予防し、注意の届くだけ注意し、そのうえに力の及ばざることは天運のしからしむるところとあきらめ、おのおの正理を守り正道をふみ、かみ天に恥じず、しも地に恥じず、なか人に恥じざる行いをなし、世はいかに暗黒なりとも、心中は常に青天白日なるように心掛くるこそ、人の人たる道と申すものじゃ。

底本:「井上円了 妖怪学全集 第4巻」柏書房
   2000(平成12)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「迷信解」哲学館
   1904(明治37)年9月10日初版発行
※〔〕内の編集者による注記は省略しました。
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年7月22日作成
2011年4月15日修正
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