「弟は人にすぐれているから、良い細君がなくてはいけない。」
そして選択をしすぎるので、婚約がどうしても成立しなかった。その時玉は匡山の寺へいって勉強していた。ある夜初更のころ、枕に就いたところで、窓の外で女の声がした。そっと起きて覘いてみると、三、四人の女郎が地べたへ敷物を敷いて坐り、やはり三、四人の婢がその前に酒と肴をならべていた。女は皆すぐれて美しい容色をしていた。一人の女がいった。
「秦さん、秦さん、阿英さんはなぜ来ないの。」
下の方に坐っていた者がいった。
「昨日、凾谷から来たのですが、悪者に右の臂を傷つけられたものですから、一緒に来られなかったのよ。ほんとに残念よ。」
一人の女がいった。
「私、昨夜夢を見たのですが、今に動悸がするのよ。」
下の方に坐っていた者が手を揺っていった。
「およしなさいよ、およしなさいよ。今晩皆で面白く遊んでるじゃありませんか。おっかながるからだめだわ。」
女は笑っていった。
「お前さん怯だよ。何も虎や狼がくわえていくのじゃあるまいし。もしお前さんが、それをいわないようにしてもらいたいなら、一曲お歌いなさいよ。」
女はそこで低い声で朗吟[#ルビの「ろうざん」はママ]した。
間階桃花取次に開く
昨日踏青小約未だ応に乖らざるべし
嘱付す東隣の女伴
少く待ちて相催すなかれ
鳳頭鞋子を着け得て即ち当に来るべし
朗吟が終った。一座の者で賞めない者はなかった。一座はやがて笑い話になった。不意に大きな男があらわれて来た。それは恐ろしい顔の鶻のように眼のぎらぎらと光る男であった。女達は口ぐちにいった。昨日踏青小約未だ応に乖らざるべし
嘱付す東隣の女伴
少く待ちて相催すなかれ
鳳頭鞋子を着け得て即ち当に来るべし
「妖怪だ。」
皆あわてふためいて鳥が飛び散るようにばらばらになって逃げた。ただ朗吟していた者だけは、なよなよとした姿でためらっているうちにつかまえられ、啼き叫びながら一生懸命になって抵抗した。怪しい男は吼えるように怒って、女の手に噛みついて指を噛み断り、それをびしゃびしゃと噛んだ。女はそこで地べたにれて死んだようになった。玉は気の毒でたまらなかった。そこで急いで剣を抽いて出ていって切りつけた。剣は怪しい男の股に中って一方の股が落ちた。怪しい男は悲鳴をあげて逃げていった。
玉は女を抱きかかえて室の中へ伴れて来た。女の顔色は土のようになっていた。見ると襟から袖にかけてべっとりと血がついていた。その指を験べると右の拇が断れていた。玉は帛を引き裂いてそれをくるんでやった。女は気がまわって来て始めて呻きながらいった。
「あぶない所を助けていただきまして、どうしてお礼をしたらいいでしょう。」
玉は覘いていた時から、心の中でこんな女を弟の細君にしてやりたいと思っていたので、そこで弟と結婚してもらいたいと言った。女はいった。
「かたわ者は、人の奥さんになることができませんから、べつに弟さんにお世話をしましょう。」
玉はそこでそれは何という女であるかといってその姓を訊いてみた。
「何という方でしょう。」
女はいった。
「秦というのです。」
玉はそこで衾を展べて暫く女をやすまし、自分は他の室へいって寝たが、朝になって女の所へいってみると、女は帰ったのかもういなかった。玉はそこで近村を尋ねてみたが秦という姓の家はすくなかった。親戚や朋友に頼んで広く探してもらったが、その方でも確実な消息が解らなかった。玉は家へ帰って弟と話して残念がった。
ある日は一人で郊外に遊びにいっていたところで、十五、六に見える一人の女郎に遇った。それは美しい女であったが、の方を見てにっと笑って、何かいいたそうにしたが、やがて秋波をして四辺を見た後にいった。
「あなたは、甘家の弟さんですね。」
は言った。
「そうです。」
女はいった。
「あなたのお父様が、昔、私とあなたの結婚の約束をしてあったのです。それなのに、その約束を破って、秦家と約束をなさるのですか。」
はいった。
「私は小さかったから、そんなことはちっとも知らなかったのです。どうかあなたの家柄をいってください。帰って兄に訊いてみますから。」
女はいった。
「そんな面倒なことはおよしなさい。ただあなたが可いと一言いってくださるなら、私が自分でまいります。」
は、
「兄さんにいわれていないから、訊かなくちゃ。」
といった。女は笑った。
「あなたは、馬鹿よ。なぜそんなに兄さんを恐れるのです。もうこうして約束しているじゃありませんか。私は陸ですよ。山東の山望村にいるのですよ。三日のうちに、私がまいります。待っててください。」
そこで女は別れていった。は帰ってそれを兄と嫂に話した。玉はいった。
「それは間違っている。お父さんの没くなった時は、私は二十歳あまりであったから、もし、そんなことがあったら、聞かないことはないのだ。」
玉はまたその女が野原を独りで歩いていて、男になれなれしく話をしかけたというのでひどく鄙んだ。そこで玉はにその顔だちを訊いた。は顔を紅くして返事をすることができなかった。嫂は笑っていった。
「どうも別嬪らしいのですね。」
玉はいった。
「子供がどうして佳い悪いがわかるものかね。たとえよかったにしても、秦には及ばないよ。秦の方がだめになったら、その時にしても晩くはないよ。」
は黙って兄夫婦の前をさがった。三、四日して玉は途を歩いていた。一人の女が涙を流しながら向うへいっていた。玉は馬を停めてそっと見た。それはこの世に住んでいる人にはほとんど較べる者のない美しい女であった。玉は従僕に訊かした。
「あなたはどうした方です。」
女はいった。
「私はもと甘家の弟さんと許婚になっていたものですが、家が貧しくって、遠くへ徒ったものですから、とうとう音信がなくなりました、それが今度帰って聞きますと、甘の方では、私との約束を敗って、他と許婚なさるそうですから、甘のお兄さんの所へいって、私を置いてもらおうと思ってゆくところです。」
玉は驚き喜びをしていった。
「甘の兄は、私だ。父が約束したことは知らないが、私の家はすぐそこだから、一緒に来てください。相談しますから。」
玉はそこで馬からおりて一緒に歩いて帰った。女は途みち自分でいった。
「私は幼な名を阿英というのです。家には兄弟もありません。ただ外姉の秦が同居しているばかりです。」
玉はそこで彼の夜の美しい女のいったのは、この女であろうと思った。そしてと結婚さした。そこで玉はそのことをその家へ通知しようとした。阿英は固くそれを止めた。玉は心で弟が佳い婦人を得たことを喜んだが、しかし、軽卒なことをしては世間の物議を招く恐れがあるので、それについては心配もしていた。
阿英は矜み深くて、身をきちんとしていた。そしてものをいうには、あまえるようなやわらかな言葉づかいをした。その阿英は嫂に母のように事えた。嫂もまた阿英をひどく可愛がった。
中秋明月の夜が来た。夫妻は自分の室で酒を飲んでいた。嫂のよこした婢が阿英を呼びに来た。は阿英をやるのが厭であったからおもしろくなかった。阿英は婢を先に帰して後からゆくことにした。そして婢が帰っていって暫くしても、阿英は坐って冗談をいって動かなかった。は嫂を長く待たしてはいけないと思って、阿英を促したが阿英は笑うばかりで、どうしてもいかなかった。朝になって阿英が身じまいをすましたところで嫂が自身で阿英をなぐさめに来た。嫂はいった。
「昨夜一緒にいるとき、ふさいでいたから、どうかと思って見に来たのですよ。」
阿英は微かに笑った。は嫂の言葉を聞いて驚いた。阿英は朝までと一緒にいたのであった。嫂の所にいたというのは奇怪千万である。は嫂に阿英がいっていたかいないかをたしかめたうえで阿英と対質した。阿英の言薬はつじつまが合わなかった。阿英は確かに分身していた。嫂は非常に駭いた。玉もそれを聞いて懼れた。玉は簾を隔てていった。
「私の家は、代代徳を積んでいて、一度だって怨みをかったことがない。もし怪しい者なら、どうか早く出ていって弟を殺さないようにしてくれ。」
女は恥かしそうにしていった。
「私は人じゃありませんが、ここのお父さんとの約束がありましたから、秦の家の姉さんが私を勧めてよこしました。私は子供を育てることができないから、とうに出ていこうと思いましたが、兄さんと姉さんが、可愛がってくださいますから、それでこうしていたのですが、しかし、もう疑われましたから、これからお別れいたします。」
と、阿英は一羽の鸚鵡になって、ひらひらと飛んでいった。
甘の父親がまだ生きている時、甘の家には一羽の鸚鵡を蓄ってあったが、ひどく慧な鳥であった。ある時はその鸚鵡に餌をやった。それはが四つか五つの時であったが、父親に訊いた。
「なぜ、これを飼うのです。」
父親は冗談にいった。
「お前のお嫁さんにするのだよ。」
それから鸚鵡の餌がなくなりそうな時には、父親はを呼んでいった。
「餌をやらないと、お前のお嫁さんが死んでしまうのだよ。」
家の者もやはりそういってに冗談をいったが、後になってその鸚鵡は鎖を断って亡げていった。玉もも始めて阿英が旧約があるといった言葉の意味を悟ることができた。
は阿英が人でないことを知ったが、しかし阿英のことを忘れることができなかった。嫂はなお一そう阿英のことを思って朝夕に泣いていた。玉は阿英に出ていかしたことを後悔したが、どうすることもできなかった。二年して玉はのために姜氏の女を迎えたが、はどうしても満足することができなかった。
玉に従兄があって粤で司李をしていた。玉はその従兄の所へいって長い間帰らなかったところで、たまたま土寇が乱を起して、附近の村むらは、大半家を焼かれて野になった。は大いに懼れて、一家の者を伴れて山の中へ逃げた。そこにはたくさんの男女がいたが、だれも知った人はなかった。不意に女の小さな声で話をする声が聞えて来た。それがひどく阿英に似ているので、嫂はにそういって傍へいって験べさした。果してそれは阿英であった。はうれしくてうれしくてたまらないので、そのまま臂をつかまえて釈さなかった。女はそこで一緒に歩いていた者にいった。
「姉さん、あなたは先に帰ってください。私は甘の姉さんにお目にかかって来ますから。」
もう嫂がそこへ来た。嫂は阿英を見て泣いた。阿英は嫂を慰めた。そしていった。
「ここは危険です。」
阿英はそこで勧めて家へ帰そうとした。をはじめ皆土寇の来るのを懼れて引返そうとしなかった。阿英は強いていった。
「だいじょうぶです。」
そこで一緒になって帰って来た。阿英は土で戸を塞いで家の中から外へ出ないようにさした。そして、坐って、二言三言話をするなり帰っていこうとした。嫂は急にその腕をつかみ、また二人の婢に左右の足をつかまえさした。阿英は仕方なしにいることになった。しかし、もう私室には入らなかった。が三、四回もそういったので、やっと一回入った。
嫂は平生阿英に新婦は美しくないからの気に入らないといった。阿英は朝早く起きて姜の髪を結い、細く白粉をつけてやった。が入っていくと姜は数倍美しさを増していた。こんなことを三日位やっているうちに、姜は美人になった。嫂はそれを不思議がった。そこで嫂はいった。
「私に子供がないから、妾を一人おかそうと思うのですが、金がないからそのままになっているのです。家の婢でも佳い女にすることができるのでしょうか。」
阿英はいった。
「どんな人でもできるのです。ただ質の佳い人なら、ぞうさなしにできるのです。」
とうとう婢の中から一人の色の黒い醜い女をよりだして、それを傍へ喚んで一緒に体を洗い、それに濃い白粉と薬の粉とを交えた物を塗ってやったが、三日すると顔の色がだんだん黄ろくなり、また数日すると光沢が出て来てそれが皮肌にしみとおって、もう立派な美人になった。
甘の家では毎日笑っていて、兵火のことなどは考えていなかった。ある夜四方が騒がしくなった。どうも土寇が襲って来たようであるから皆が驚いたが、どうしていいかわからなかった。と、俄に門の外で馬の嘶く声と人のわめく声が交って聞えだしたが、やがてそれががやがやと騒ぎながらいってしまった。
夜が明けてから事情が解った。土寇の群は掠奪をほしいままにして、家を焼き、巌穴に匿れている者まで捜し出して、殺したり虜にしたりしていったのであった。甘の家ではますます阿英を徳として、神のように尊敬した。不意に阿英は嫂にいった。
「私がこちらへあがりましたのに、嫂さんがこれまで私に尽してくだされたことが忘れられないので、盗賊の難儀を分けあったのですが、兄さんがいらっしゃらないから、私は諺にいう、李にあらず奈にあらず、笑うべき人なりということになります。私はこれから帰って、また間を見て一度伺います。」
嫂は訊いた。
「旅に出ている者は無事でしょうか。」
阿英はいった。
「途中に大きな災難がありますが、これは秦の姉が大恩を受けておりますから、きっと恩返しをするのでしょうから、まちがいはないでしょう。」
嫂は阿英を止めてその晩は寝さしたが、夜の明けきらないうちにもういってしまった。
玉は東粤で乱を聞いて昼夜兼行で帰って来たところで、途で土寇の一群に遇った。主従は馬を乗りすてて金を腰にしばりつけ、草むらの中に匿れていた。鸚鵡のような一羽の秦吉了が飛んで来て棘の上にとまって、翼をひろげて二人を覆った。玉は下からその足を見た。一方の足には一本の爪がなかった。玉は不思議に思った。俄に盗賊が四方から迫って来て、草むらの中をさがしだした。主従は息をころして動かなかった。盗賊の群はいってしまった。すると鳥が始めて飛んでいった。そこで家へ帰ってそのことを家の者に話した。玉は始めて秦吉了がいつか救った美しい女であったということを知った。
後になって玉が他出して帰らないようなことがあると、阿英はきっと夕方に来て、玉が帰る時刻を計って急いで帰っていった。は嫂の所で阿英に逢うようなことがあると、おりおり自分の室へ伴れていこうとしたが、阿英は承知しながらいかなかった。
ある夜玉が他出した。は阿英がきっと来るだろうと思って、そっと匿れて待っていた。間もなく阿英が来た。は飛びだしていって立ち塞がり、自分の室へ伴れていった。阿英がいった。
「私は、もうあなたとは縁がつきております、強いて合うと、天に忌まれます。すこし余裕をこしらえて、時どき会おうではありませんか。」
は聴かないで阿英を自分の室に泊めた。夜が明けてから阿英は嫂の所へいった。嫂は不審がった。阿英は笑っていった。
「中途で悪漢に劫かされたものですから、嫂さんにお侍たせしました。」
阿英は二言三言いってから帰っていった。嫂はそのままそこにいたところで、一疋の大きな猫が鸚鵡をくわえて室の前を通っていった。嫂はびっくりした。嫂はこれはどうしても阿英だろうと思った。その時嫂は髪をかいてた。嫂は手をとめて急に人を呼んだ。家の内の者が皆大騒ぎをして猫を追いまわして、やっと鸚鵡をとりかえした。鸚鵡は左の翼に血がにじんでやっと息をしていた。嫂はそれを抱いて膝の上に置いて撫でさすった。暫くして鸚鵡はやっと正気づいて来た。そこで啄で翼をつくろって飛びあがり、室の中をまわっていった。
「姉さん、姉さん、お別れします。私はさんを怨みます。」
そして翼をのしていってしまったが、もう二度と来なかった。