甘玉かんぎょくは幼な名を璧人へきじんといっていた。廬陵ろりょうの人であった。両親が早く亡くなったので、五歳になる弟の※(「王+玉」、第3水準1-87-90)かく、幼な名を双璧そうへきというのを養うことになったが、生れつき友愛の情に厚いので、自分の子供のようにして世話をした。そして※(「王+玉」、第3水準1-87-90)がだんだん大きくなったところで、容貌かおかたちが人にすぐれているうえに、りこうで文章が上手であったから、玉はますますそれを可愛がった。そしていつもいった。
「弟は人にすぐれているから、良い細君がなくてはいけない。」
 そして選択をしすぎるので、婚約がどうしても成立しなかった。その時ぎょく匡山きょうざんの寺へいって勉強していた。ある夜初更しょこうのころ、枕にいたところで、窓の外で女の声がした。そっと起きてのぞいてみると、三、四人の女郎むすめが地べたへ敷物を敷いて坐り、やはり三、四人のじょちゅうがその前に酒と肴をならべていた。女は皆すぐれて美しい容色きりょうをしていた。一人の女がいった。
しんさん、秦さん、阿英あえいさんはなぜ来ないの。」
 下の方に坐っていた者がいった。
「昨日、凾谷かんこくから来たのですが、悪者に右のを傷つけられたものですから、一緒に来られなかったのよ。ほんとに残念よ。」
 一人の女がいった。
「私、昨夜夢を見たのですが、今に動悸どうきがするのよ。」
 下の方に坐っていた者が手をっていった。
「およしなさいよ、およしなさいよ。今晩皆で面白く遊んでるじゃありませんか。おっかながるからだめだわ。」
 女は笑っていった。
「お前さんひきょうだよ。何も虎や狼がくわえていくのじゃあるまいし。もしお前さんが、それをいわないようにしてもらいたいなら、一曲お歌いなさいよ。」
 女はそこで低い声で朗吟ろうざん[#ルビの「ろうざん」はママ]した。
間階桃花かんかいとうか取次に開く
昨日踏青とうせい小約未だまさもとらざるべし
嘱付しょくふす東隣の女伴
すこしく待ちて相催すなかれ
鳳頭鞋子ほうとうあいしを着け得てすなわまさに来るべし
 朗吟が終った。一座の者でめない者はなかった。一座はやがて笑い話になった。不意に大きな男があらわれて来た。それは恐ろしい顔のくまだかのように眼のぎらぎらと光る男であった。女達は口ぐちにいった。
妖怪ばけものだ。」
 皆あわてふためいて鳥が飛び散るようにばらばらになって逃げた。ただ朗吟していた者だけは、なよなよとした姿でためらっているうちにつかまえられ、き叫びながら一生懸命になって抵抗した。怪しい男はえるように怒って、女の手に噛みついて指を噛みり、それをびしゃびしゃとんだ。女はそこで地べたに※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)たおれて死んだようになった。玉は気の毒でたまらなかった。そこで急いで剣をいて出ていって切りつけた。剣は怪しい男のあしに中って一方の股が落ちた。怪しい男は悲鳴をあげて逃げていった。
 玉は女を抱きかかえて室の中へれて来た。女の顔色は土のようになっていた。見るとえりから袖にかけてべっとりと血がついていた。その指をしらべると右のおやゆびれていた。玉はきぬを引き裂いてそれをくるんでやった。女は気がまわって来て始めてうめきながらいった。
「あぶない所を助けていただきまして、どうしてお礼をしたらいいでしょう。」
 玉はのぞいていた時から、心の中でこんな女を弟の細君にしてやりたいと思っていたので、そこで弟と結婚してもらいたいと言った。女はいった。
「かたわ者は、人の奥さんになることができませんから、べつに弟さんにお世話をしましょう。」
 玉はそこでそれは何という女であるかといってその姓を訊いてみた。
「何という方でしょう。」
 女はいった。
しんというのです。」
 ぎょくはそこでやぐべて暫く女をやすまし、自分は他のへやへいって寝たが、朝になって女の所へいってみると、女は帰ったのかもういなかった。玉はそこで近村を尋ねてみたが秦という姓の家はすくなかった。親戚や朋友に頼んで広く探してもらったが、その方でも確実な消息が解らなかった。玉は家へ帰って弟と話して残念がった。
 ある日※(「王+玉」、第3水準1-87-90)かくは一人で郊外に遊びにいっていたところで、十五、六に見える一人の女郎むすめに遇った。それは美しい女であったが、※(「王+玉」、第3水準1-87-90)の方を見てにっと笑って、何かいいたそうにしたが、やがて秋波ながしめをして四辺あたりを見た後にいった。
「あなたは、甘家の弟さんですね。」
 ※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は言った。
「そうです。」
 女はいった。
「あなたのお父様が、昔、私とあなたの結婚の約束をしてあったのです。それなのに、その約束を破って、秦家と約束をなさるのですか。」
 ※(「王+玉」、第3水準1-87-90)はいった。
「私は小さかったから、そんなことはちっとも知らなかったのです。どうかあなたの家柄をいってください。帰って兄に訊いてみますから。」
 女はいった。
「そんな面倒なことはおよしなさい。ただあなたがいと一言いってくださるなら、私が自分でまいります。」
 ※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は、
「兄さんにいわれていないから、訊かなくちゃ。」
 といった。女は笑った。
「あなたは、馬鹿よ。なぜそんなに兄さんを恐れるのです。もうこうして約束しているじゃありませんか。私は陸ですよ。山東の山望さんぼう村にいるのですよ。三日のうちに、私がまいります。待っててください。」
 そこで女は別れていった。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は帰ってそれを兄とあによめに話した。玉はいった。
「それは間違っている。お父さんの没くなった時は、私は二十歳あまりであったから、もし、そんなことがあったら、聞かないことはないのだ。」
 玉はまたその女が野原をひとりで歩いていて、男になれなれしく話をしかけたというのでひどくいやしんだ。そこで玉は※(「王+玉」、第3水準1-87-90)にその顔だちを訊いた。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は顔を紅くして返事をすることができなかった。嫂は笑っていった。
「どうも別嬪べっぴんらしいのですね。」
 玉はいった。
「子供がどうしてい悪いがわかるものかね。たとえよかったにしても、秦には及ばないよ。秦の方がだめになったら、その時にしてもおそくはないよ。」
 ※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は黙って兄夫婦の前をさがった。三、四日して玉はみちを歩いていた。一人の女が涙を流しながら向うへいっていた。玉は馬をめてそっと見た。それはこの世に住んでいる人にはほとんど較べる者のない美しい女であった。玉は従僕に訊かした。
「あなたはどうした方です。」
 女はいった。
「私はもと甘家の弟さんと許婚いいなずけになっていたものですが、家が貧しくって、遠くへうつったものですから、とうとう音信がなくなりました、それが今度帰って聞きますと、甘の方では、私との約束を敗って、他と許婚なさるそうですから、甘のお兄さんの所へいって、私を置いてもらおうと思ってゆくところです。」
 玉は驚き喜びをしていった。
「甘の兄は、私だ。父が約束したことは知らないが、私の家はすぐそこだから、一緒に来てください。相談しますから。」
 玉はそこで馬からおりて一緒に歩いて帰った。女は途みち自分でいった。
「私は幼な名を阿英あえいというのです。家には兄弟もありません。ただ外姉いとこの秦が同居しているばかりです。」
 玉はそこで彼の夜の美しい女のいったのは、この女であろうと思った。そして※(「王+玉」、第3水準1-87-90)と結婚さした。そこで玉はそのことをその家へ通知しようとした。阿英は固くそれを止めた。玉は心で弟が佳い婦人を得たことを喜んだが、しかし、軽卒なことをしては世間の物議ぶつぎを招く恐れがあるので、それについては心配もしていた。
 阿英はつつしみ深くて、身をきちんとしていた。そしてものをいうには、あまえるようなやわらかな言葉づかいをした。その阿英は嫂に母のようにつかえた。あによめもまた阿英をひどく可愛がった。
 中秋明月の夜が来た。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)夫妻は自分の室で酒を飲んでいた。嫂のよこしたじょちゅうが阿英を呼びに来た。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は阿英をやるのが厭であったからおもしろくなかった。阿英は婢を先に帰して後からゆくことにした。そして婢が帰っていって暫くしても、阿英は坐って冗談をいって動かなかった。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は嫂を長く待たしてはいけないと思って、阿英をうながしたが阿英は笑うばかりで、どうしてもいかなかった。朝になって阿英が身じまいをすましたところで嫂が自身で阿英をなぐさめに来た。嫂はいった。
「昨夜一緒にいるとき、ふさいでいたから、どうかと思って見に来たのですよ。」
 阿英は微かに笑った。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は嫂の言葉を聞いて驚いた。阿英は朝まで※(「王+玉」、第3水準1-87-90)と一緒にいたのであった。嫂の所にいたというのは奇怪千万きかいせんまんである。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は嫂に阿英がいっていたかいないかをたしかめたうえで阿英と対質たいしつした。阿英の言薬はつじつまが合わなかった。阿英は確かに分身していた。嫂は非常におどろいた。玉もそれを聞いておそれた。玉はすだれを隔てていった。
「私の家は、代代徳を積んでいて、一度だってうらみをかったことがない。もし怪しい者なら、どうか早く出ていって弟を殺さないようにしてくれ。」
 女は恥かしそうにしていった。
「私は人じゃありませんが、ここのお父さんとの約束がありましたから、秦の家の姉さんが私を勧めてよこしました。私は子供を育てることができないから、とうに出ていこうと思いましたが、兄さんと姉さんが、可愛がってくださいますから、それでこうしていたのですが、しかし、もう疑われましたから、これからお別れいたします。」
 と、阿英は一羽の鸚鵡おうむになって、ひらひらと飛んでいった。
 かんの父親がまだ生きている時、甘の家には一羽の鸚鵡をってあったが、ひどくりこうな鳥であった。ある時※(「王+玉」、第3水準1-87-90)はその鸚鵡にえさをやった。それは※(「王+玉」、第3水準1-87-90)が四つか五つの時であったが、父親に訊いた。
「なぜ、これを飼うのです。」
 父親は冗談にいった。
「お前のお嫁さんにするのだよ。」
 それから鸚鵡の餌がなくなりそうな時には、父親は※(「王+玉」、第3水準1-87-90)を呼んでいった。
「餌をやらないと、お前のお嫁さんが死んでしまうのだよ。」
 家の者もやはりそういって※(「王+玉」、第3水準1-87-90)に冗談をいったが、後になってその鸚鵡はくさりってげていった。玉も※(「王+玉」、第3水準1-87-90)も始めて阿英が旧約があるといった言葉の意味を悟ることができた。
 ※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は阿英が人でないことを知ったが、しかし阿英のことを忘れることができなかった。嫂はなお一そう阿英のことを思って朝夕に泣いていた。玉は阿英に出ていかしたことを後悔したが、どうすることもできなかった。二年して玉は※(「王+玉」、第3水準1-87-90)のためにきょう氏の女を迎えたが、※(「王+玉」、第3水準1-87-90)はどうしても満足することができなかった。
 玉に従兄いとこがあってえつ司李しほうかんをしていた。玉はその従兄の所へいって長い間帰らなかったところで、たまたま土寇どこうが乱を起して、附近の村むらは、大半家を焼かれて野になった。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は大いに懼れて、一家の者をれて山の中へ逃げた。そこにはたくさんの男女がいたが、だれも知った人はなかった。不意に女の小さな声で話をする声が聞えて来た。それがひどく阿英に似ているので、嫂は※(「王+玉」、第3水準1-87-90)にそういって傍へいってしらべさした。果してそれは阿英であった。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)はうれしくてうれしくてたまらないので、そのままをつかまえてはなさなかった。女はそこで一緒に歩いていた者にいった。
「姉さん、あなたは先に帰ってください。私は甘の姉さんにお目にかかって来ますから。」
 もう嫂がそこへ来た。嫂は阿英を見て泣いた。阿英は嫂を慰めた。そしていった。
「ここは危険です。」
 阿英はそこで勧めて家へ帰そうとした。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)をはじめ皆土寇の来るのを懼れて引返そうとしなかった。阿英はいていった。
「だいじょうぶです。」
 そこで一緒になって帰って来た。阿英は土で戸をふさいで家の中から外へ出ないようにさした。そして、坐って、二言三言話をするなり帰っていこうとした。嫂は急にその腕をつかみ、また二人の婢に左右の足をつかまえさした。阿英は仕方なしにいることになった。しかし、もう私室には入らなかった。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)が三、四回もそういったので、やっと一回入った。
 嫂は平生阿英に新婦は美しくないから※(「王+玉」、第3水準1-87-90)の気に入らないといった。阿英は朝早く起きてきょうの髪を結い、細く白粉おしろいをつけてやった。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)が入っていくと姜は数倍美しさを増していた。こんなことを三日位やっているうちに、姜は美人になった。嫂はそれを不思議がった。そこで嫂はいった。
「私に子供がないから、妾を一人おかそうと思うのですが、金がないからそのままになっているのです。家の婢でも佳い女にすることができるのでしょうか。」
 阿英はいった。
「どんな人でもできるのです。ただ質の佳い人なら、ぞうさなしにできるのです。」
 とうとう婢の中から一人の色の黒い醜い女をよりだして、それを傍へ喚んで一緒に体を洗い、それに濃い白粉と薬の粉とを交えた物を塗ってやったが、三日すると顔の色がだんだん黄ろくなり、また数日すると光沢が出て来てそれが皮肌にしみとおって、もう立派な美人になった。
 甘の家では毎日笑っていて、兵火のことなどは考えていなかった。ある夜四方が騒がしくなった。どうも土寇が襲って来たようであるから皆が驚いたが、どうしていいかわからなかった。と、にわかに門の外で馬のいななく声と人のわめく声が交って聞えだしたが、やがてそれががやがやと騒ぎながらいってしまった。
 夜が明けてから事情が解った。土寇の群は掠奪りゃくだつをほしいままにして、家を焼き、巌穴いわあなかくれている者まで捜し出して、殺したりとりこにしたりしていったのであった。甘の家ではますます阿英を徳として、神のように尊敬した。不意に阿英は嫂にいった。
「私がこちらへあがりましたのに、嫂さんがこれまで私に尽してくだされたことが忘れられないので、盗賊の難儀を分けあったのですが、兄さんがいらっしゃらないから、私は諺にいう、李にあらず奈にあらず、笑うべき人なりということになります。私はこれから帰って、またひまを見て一度伺います。」
 嫂は訊いた。
「旅に出ている者は無事でしょうか。」
 阿英はいった。
「途中に大きな災難がありますが、これは秦の姉が大恩を受けておりますから、きっと恩返しをするのでしょうから、まちがいはないでしょう。」
 嫂は阿英を止めてその晩は寝さしたが、夜の明けきらないうちにもういってしまった。
 玉は東粤とうえつで乱を聞いて昼夜兼行で帰って来たところで、途で土寇の一群に遇った。主従は馬を乗りすてて金を腰にしばりつけ、草むらの中に匿れていた。鸚鵡おうむのような一羽の秦吉了しんきちりょうが飛んで来ていばらの上にとまって、つばさをひろげて二人をおおった。玉は下からその足を見た。一方の足には一本の爪がなかった。玉は不思議に思った。俄に盗賊が四方から迫って来て、草むらの中をさがしだした。主従は息をころして動かなかった。盗賊の群はいってしまった。すると鳥が始めて飛んでいった。そこで家へ帰ってそのことを家の者に話した。玉は始めて秦吉了がいつか救った美しい女であったということを知った。
 後になって玉が他出して帰らないようなことがあると、阿英はきっと夕方に来て、玉が帰る時刻を計って急いで帰っていった。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は嫂の所で阿英に逢うようなことがあると、おりおり自分のへやれていこうとしたが、阿英は承知しながらいかなかった。
 ある夜玉が他出した。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は阿英がきっと来るだろうと思って、そっと匿れて待っていた。間もなく阿英が来た。※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は飛びだしていって立ち塞がり、自分の室へ伴れていった。阿英がいった。
「私は、もうあなたとは縁がつきております、強いて合うと、天ににくまれます。すこし余裕をこしらえて、時どき会おうではありませんか。」
 ※(「王+玉」、第3水準1-87-90)は聴かないで阿英を自分の室に泊めた。夜が明けてから阿英は嫂の所へいった。嫂は不審がった。阿英は笑っていった。
「中途で悪漢におびやかされたものですから、嫂さんにお侍たせしました。」
 阿英は二言三言いってから帰っていった。嫂はそのままそこにいたところで、一疋いっぴきの大きな猫が鸚鵡をくわえて室の前を通っていった。嫂はびっくりした。嫂はこれはどうしても阿英だろうと思った。その時嫂は髪をかいてた。嫂は手をとめて急に人を呼んだ。家の内の者が皆大騒ぎをして猫を追いまわして、やっと鸚鵡をとりかえした。鸚鵡は左の翼に血がにじんでやっと息をしていた。嫂はそれを抱いて膝の上に置いて撫でさすった。暫くして鸚鵡はやっと正気づいて来た。そこでくちばしで翼をつくろって飛びあがり、室の中をまわっていった。
「姉さん、姉さん、お別れします。私は※(「王+玉」、第3水準1-87-90)さんを怨みます。」
 そして翼をのしていってしまったが、もう二度と来なかった。

底本:「聊斎志異」明徳出版社
   1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
   1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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