金太と云う釣好の壮佼があった。金太はおいてけ堀に鮒が多いと聞いたので釣りに往った。両国橋を渡ったところで、知りあいの老人に逢った。
「おや、金公か、釣に往くのか、何処だ」
「お竹蔵の池さ、今年は鮒が多いと云うじゃねえか」
「彼処は、鮒でも、鯰でも、たんといるだろうが、いけねえぜ、彼処には、怪物がいるぜ」
金太もおいてけ堀の怪い話は聞いていた。
「いたら、ついでに、それも釣ってくるさ。今時、唐傘のお化でも釣りゃ、良い金になるぜ」
「金になるよりゃ、頭からしゃぶられたら、どうするのだ。往くなら、他へ往きなよ、あんな縁儀でもねえ処へ往くものじゃねえよ」
「なに、大丈夫ってことよ、おいらにゃ、神田明神がついてるのだ」
「それじゃ、まあ、往ってきな。其のかわり、暗くなるまでいちゃいけねえぜ」
「魚が釣れるなら、今晩は月があるよ」
「ほんとだよ、年よりの云うことはきくものだぜ」
「ああ、それじゃ、気をつけて往ってくる」
金太は笑い笑い老人に別れて池へ往った。池の周囲には出たばかりの蘆の葉が午の微風にそよいでいた。金太は最初のうちこそお妖怪のことを頭においていたが、鮒が後から後からと釣れるので、もう他の事は忘れてしまって一所懸命になって釣った。そして、近くの寺から響いて来る鐘に気が注いて顔をあげた。十日比の月魄が池の西側の蘆の葉の上にあった。
金太はそこで三本やっていた釣竿をあげて、糸を巻つけ、それから水の中へ浸けてあった魚籃をあげた。魚籃には一貫匁あまりの魚がいた。
「重いや」
金太は一方の手に釣竿を持ち、一方の手に魚籃を持った。と、何処からか人声のようなものが聞えて来た。
「おい、てけ、おい、てけ」
金太はやろうとした足をとめた。
「おい、てけ、おい、てけ」
金太は忽ち、嘲の色を浮べた。
「なに云ってやがるんだ、ふざけやがるな、糞でも啖えだ」
金太はさっさとあるいた。と、また、おい、てけの声が聞えて来た。
「まだ云ってやがる、なに云ってやがるのだ、こんな旨い鮒をおいてってたまるものけい、ふざけやがるな。狸か、狐か、口惜けりゃ、一本足の唐傘にでもなって出て来やがれ」
金太は気もちがわるいので足はとめなかった。と、眼の前へひょいと出て来た者があった。それは人の姿であるから一本足の唐傘ではなかった。
「何だ」
鈍い月の光に眼も鼻もないのっぺらの蒼白い顔を見せた。
「わたしだよ、金太さん」
金太はぎょっとしたが、まだ何処かに気のたしかなところがあった。金太は魚籃と釣竿を落とさないようにしっかり握って走った。後からまた聞えてくるおいてけの声。
「なに云やがるのだ」
金太はどんどん走って池の縁を離れた。来る時には気が注かなかったが、其処に一軒の茶店があった。金太はそれを見るとほっとした。金太はつかつかと入って往った。
「おい、茶を一ぱいくんねえ」
行燈のような微暗い燈のある土室の隅から老人がひょいと顔を見せた。
「さあ、さあ、おかけなさいましよ」
金太は入口へ釣竿を立てかけて、土室の横へ往って腰をかけ、手にした魚籃を脚下へ置いた。老人は金太をじろりと見た。
「釣りのおかえりでございますか」
「そうだよ、其所の池へ釣に往ったが、爺さん、へんな物を見たぜ」
「へんな物と申しますと」
「お妖怪だよ、眼も鼻もない、のっぺらぼうだよ」
「へえェ、眼も鼻もないのっぺらぼう。それじゃ、こんなので」
老人がそう云って片手でつるりと顔を撫でた。と、其の顔は眼も鼻もないのっぺらぼうになっていた。金太は悲鳴をあげて逃げた。魚籃も釣竿も其のままにして。
底本:「怪奇・伝奇時代小説選集3 新怪談集」春陽文庫、春陽堂書店
1999(平成11)年12月20日第1刷発行
底本の親本:「新怪談集 物語篇」改造社
1938(昭和13)年
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2004年8月20日作成
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