「おい君、君は汁の実の掬ひやうが多いぞ」
と、晩飯の食堂で室長に私は叱られて、お椀と杓子とを持つたまゝ、耳朶まで赧くなつた顔を伏せた。
当分の間は百五十人の新入生に限り、朝毎をかしいぐらゐ早目に登校して、西側の控所に集まつた。一見したところ、それ/″\試験に及第して新しい制服制帽、それから靴を穿いてゐることが十分得意であることは説くまでもないが、でも私と同じやうに山奥から出て来て、寄宿舎に入れられた急遽な身の変化の中に、何か異様に心臓をときめかし、まだズボンのポケットに手を入れることも知らず、膝坊主をがたがた顫はしてゐる生徒も沢山に見受けられた。一つは性質から、一つは境遇から、兎角苦悩の多い過去が、ほんの若年ですら私の人生には長く続いてゐた。それは入学式の日のことであるが、消魂しいベルが鳴ると三人の先生が大勢の父兄たちを案内して控所へ来、手に持つた名簿を開けていち/\姓名を呼んで、百五十人を三組に分けた。私は三ノ組のびりつこから三番目で、従つて私の名が呼ばれるまでには夥しい時間を要した。或は屹度、及第の通知が間違つてゐたのではないかと、愬へるやうにして父兄席を見ると、木綿の紋付袴の父は人の肩越しに爪立ち、名簿を読む先生を見詰め子供の名が続くかと胸をドキつかせながら、あの、嘗て小学校の運動会の折、走つてゐる私に堪りかねて覚えず叫び声を挙げた時のやうな気が気でない狂ひの発作が、全面の筋肉を引き吊つてゐた。その時の気遣ひな戦慄が残り、幾日も幾日も神経を訶んでゐたが、やがて忘れた頃には、私は誰かの姿態の見やう見真似で、ズボンのポケットに両手を差し、隅つこに俯向いて、靴先でコト/\と羽目板を蹴つて見るまでに場馴れたのであつた。二年前まではこの中学の校舎は兵営だつたため、控所の煉瓦敷は兵士の靴の鋲や銃の床尾鈑やでさん/″\破壊されてゐた。汗くさい軍服の臭ひ、油ツこい長靴の臭ひなどを私は壁から嗅ぎ出した。
日が経つにつれ、授業の間の十分の休憩時間には、私は控所の横側の庭のクローウヴァーの上に坐つて両脚を投げ出した。柵外の道路を隔てた小川の縁の、竹藪にかこまれた藁屋根では間断なく水車が廻り、鋼鉄の機械鋸が長い材木を切り裂く、ぎーん、ぎん/\、しゆツ/\、といふ恐ろしい、ひどく単調な音に、そしてそれに校庭の土手に一列に並んでゐる松の唸り声が応じ、騒がしい濤声のやうに耳の底に絡んだ。水車が休んでゐる時は松はひとりで淋しく奏でた。その声が屡々のこと私を、父と松林の中の道を通つて田舎から出て来た日に連れ戻した。受験後の当座は、毎晩父が風呂に入るとお流しに行く母の後について私も湯殿に行く度、「われの試験が通らんことにや、俺ア、近所親類へ合す顔がないが」と溜息を吐き、それから試験がうかればうかつたで、入学後の勉強と素行について意見の百万遍を繰返したものだのに、でも、あの松林を二人ぎりで歩いて来た時は、私の予期に反して父は何ゆゑ一言の忠言もしなかつたのだらう? その場合の、無言の父のはうが、寧ろどんなにか私の励みになつてゐた。
何かしら斯様な感慨が始終胸の中を往来した。私は或時舎生に、親のことを思へば勉強せずにはをられん、とつい興奮を口走つて、忽ちそれが通学生の耳に伝はり、朝の登校の出合がしら「やあ、お早う」といふ挨拶代りに誰からも「おい、親のことを思へば、か」と揶揄されても、別に極り悪くは思はなかつた。夜の十時の消燈ラッパの音と共に電燈が消え皆が寝しづまるのを待ち私は便所の入口の燭光の少い電燈の下で教科書を開いた。それも直ぐ評判になつて、変テケレンな奴だといふ風評も知らずに、口々に褒めてもらへるものとばかり思ひ込み、この卑しい見栄の勉強のための勉強を、それに眠り不足で鼻血の出ることをも勉強家のせゐに帰して、内心で誇つてゐた。冷水摩擦が奨励されると毎朝衆に先んじて真つ裸になり釣瓶の水を頭から浴びて見せる空勇気を自慢にした。
西寮十二室といふ私共の室には、新入生は県会議員の息子と三等郵便局長の息子と私との三人で、それに二年生の室長がゐたが、県会議員や郵便局長が立派な洋服姿で腕車を乗り着けて来て室長に菓子箱などの贈物をするので、室長は二人を可愛がり私を疎んじてゐた。片輪といふ程目立たなくも室長は軽いセムシで、二六時中蒼白い顔の眉を逆立てて下を向いて黙つてゐた。嚥み込んだ食べものを口に出して反芻する見苦しい男の癖に、反射心理といふのか、私のご飯の食べ方がきたないことを指摘し、口が大きいとか、行儀が悪いとか、さんざ品性や容貌の劣悪なことを面と向つて罵つた。私は悲しさに育ちのいゝ他の二人の、何処か作法の高尚な趣、優雅な言葉遣ひや仕草やの真似をして物笑ひを招いた。私の祖父は殆ど日曜日毎に孫の私に会ひに来た。白い股引に藁草履を穿いた田子そのまゝの恰好して家でこさへた柏餅を提げて。私は柏餅を室のものに分配したが、皆は半分食べて窓から投げた。私は祖父を来させないやうに家に書き送ると、今度は父が来出した。父の風采身なりも祖父と大差なかつたから、私は父の来る日は、入学式の前晩泊つた街道筋の宿屋の軒先に朝から立ちつくして、そこで父を掴まへた。祖父と同様寄宿舎に来させまいする魂胆を感附いた父は、「俺でも悪いといふのか、われも俺の子ぢやないか、親を恥づかしう思ふか、罰当りめ!」と唇をひん曲げて呶鳴りつけた。とも角、何は措いても私は室長に馬鹿にされるのが辛かつた。どうかして、迚も人間業では出来ないことをしても、取り入つて可愛がられたかつた。その目的ゆゑに親から強請した小遣銭で室長に絶えず気を附けて甘いものをご馳走し、又言ひなり通り夜の自習時間に下町のミルクホールに行き熱い牛乳を何杯も飲まし板垣を乗り越えて帰つて来る危険を犯すことを辞しなかつた。夜寝床に入ると請はるゝまゝに、祖父から子供のをり冬の炉辺のつれ/″\に聞かされた妖怪変化に富んだ数々の昔噺を、一寸法師の桶屋が槌で馬盥の箍を叩いてゐると箍が切れ跳ね飛ばされて天に上り雷さまの太鼓叩きに雇はれ、さいこ槌を振り上げてゴロ/\と叩けば五五の二十五文、ゴロ/\と叩けば五五の二十五文儲かつた、といつた塩梅に咄家のやうな道化た口調で話して聞かせ、次にはうろ覚えの浄瑠璃を節廻しおもしろう声色で語つて室長の機嫌をとつた。病弱な室長の寝小便の罪を自分で着て、蒲団を人の目につかない柵にかけて乾かしてもやつた。斯うしてたうとう荊棘の道を踏み分け他を凌駕して私は偏屈な室長と無二の仲好しになつた。するうち室長は三学期の始頃、腎臓の保養のため遠い北の海辺に帰つて間もなく死んでしまつた。遺族から死去の報知を受けたものは寄宿舎で私一人であつた程、それだけ私は度々見舞状を出した。室長の気の毒な薄い影が当分の間は私の眼先にこびりついてゐた。が、愕然としてわれに返ると、余り怠けた結果、私は六科目の注意点を受けてゐたので、俄に狼狽し切つた勉強を始め、例の便所の入口の薄明の下に書物を披いて立つたが、さうしたことも、何物かに媚び諂ふ習癖、自分自身にさへひたすらに媚び諂うた浅間しい虚偽の形にしか過ぎないのであつた。
辛うじて進級したが、席次は百三十八番で、十人の落第生が出たのだから、私が殆どしんがりだつた。
「貴様は低能ぢやい、脳味噌がないや、なんぼ便所で勉強したかつて……」
学年始めの式の朝登校すると、控所で一と塊になつて誰かれの成績を批評し合つてゐた中の一人が、私を弥次ると即座に、一同はわつと声を揃へて笑つた。
二年になると成績のよくないものとか、特に新入生を虐めさうな大兵なものとかは、三年生と一緒に東寮に移らなければならなかつたが、私は運よく西寮に止まり、もちろん室長でこそなかつたにしろ、それでも一年生の前では古参として猛威を揮ふ類に洩れなかつた。室長は一年の時同室だつた父親が県会議員の佐伯だつた。やはり一年の時同室だつた郵便局長の倅は東寮に入れられて業腹な顔をしてゐた。或日食堂への行きずりに私の袖をつかまへ、今日われ/\皆で西寮では誰と誰とが幅を利かすだらうかを評議したところ、君は温順さうに見えて案外新入生に威張る手合だといふ推定だと言つて、私の耳をグイと引つ張つた。事実、私はちんちくりんの身体の肩を怒らせ肘を張つて、廊下で行き違ふ新入生のお辞儀を鷹揚に受けつゝ、ゆるく大股に歩いた。さうして鵜の目鷹の目であらを見出し室長の佐伯に注進した。毎週土曜の晩は各室の室長だけは一室に集合して、新入生を一人々々呼び寄せ、いはれない折檻をした。私は他の室長でない二年生同様にさびしく室に居残るのが当然であるのに、家柄と柔道の図抜けて強いこととで西寮の人気を一身にあつめてゐる佐伯の忠実な、必要な、欠くべからざる腰巾着として鉄拳制裁や蒲団蒸しの席につらなることが出来た。一番にも二番にも何より私は佐伯の鼻意気を窺ひ、気に入るやう細心に骨折つてゐた。
或日、定例の袋敲きの制裁の席上、禿と綽名のある生意気な新入生の横づらを佐伯が一つ喰はすと、かれはしく/\泣いて廊下に出たが、丁度、寮長や舎監やの見張番役を仰付かつて扉の外に立つてゐた私は、かれが後頭部の皿をふせたやうな円形の禿をこちらに見せて、ずんずん舎監室のはうへ歩いて行つたのを見届け、確かに密告したことを直観した。私はあとでそつと禿を捉へ、宥め賺し、誰にも言はないから打明けろと迫つて見たが、禿は執拗にかぶりを掉つた。次の日も又次の日も、私は誰にも言はないからと狡い前置をして口説いたすゑ、やつと白状させた。私はほく/\と得たり顔して急ぎ佐伯に告げた。赫怒した佐伯に詰責されて禿は今度はおい/\声を挙げて泣き出し、掴まへようとした私から滑り抜けて飛鳥のやうに舎監室に走つた。三日おいて其日は土曜の放課後のこと、舎監室で会議が開かれ、ピリ/\と集合合図の笛を吹いて西寮の二年生全部を集めた前で、旅行中の校長代理として舎監長の川島先生が、如何に鉄拳制裁の野蛮行為であるかを諄々と説き出した。川島先生が息を呑む一瞬のあひだ身動きの音さへたゝず鎮まつた中に、突然佐伯の激しい啜り泣きが起つた。と、他人ごとでも見聞きするやうにぽツんとしてゐた私の名が、霹靂の如くに呼ばれた。
「一歩前へツ!」休職中尉の体操兼舎監の先生が行き成り私を列の前に引き摺り出した。
「き、き、君の態度は卑怯だ。甚だ信義を欠く。た、た、誰にも言はぬなんて、実ーに言語道断であるんで、ある。わすはソノ方を五日間の停学懲戒に処する。佐伯も処分する考げえであつたが、良心の呵責を感ずて、今こゝで泣いだがら、と、と、特別に赦す!」
二度といふ強度の近眼鏡を落ちさうなまで鼻先にずらした、鼠そつくりの面貌をした川島先生の、怒るとひどく吃る東北弁が終るか、前前日の午前の柔道の時間に肩胛骨を挫いて、医者に白い繃帯で首に吊つて貰つてゐた腕の中に私は顔を伏せてヒイと泣き出したが、もう万事遅かつた。私は便所の近くの薄縁を敷いた長四畳に弧坐して夜となく昼となく涙にむせんだ。自ら責めた。一切が思ひがけなかつた。恐ろしかつた。便所へ行き帰りの生徒が、わけても新入生が好奇と冷嘲との眼で硝子へ顔をすりつけて前を過ぎるのが恥づかしかつた。誰も、佐伯でさへも舎監の眼を慮つて忌憚の気振りを見せ、慰めの言葉一つかけてくれないのが口惜しかつた。柔道で負傷した知らせの電報で父が馬に乗つて駈付けたのは私が懲罰を受けた前日であるのに、そして別れの時の父の顔はあり/\と眼の前にあるのに、一体この始末は何んとしたことだらう。私は巡視に来た川島先生に膝を折つて父に隠して欲しい旨を頼んだが、けれども通知が行つて父が今にもやつて来はしないかと思ふと、もう四辺が真つ黒い闇になり、その都度毎に繃帯でしばつた腕に顔を突き伏せ嗚咽して霞んだ眼から滝のやうに涙を流した。
停学を解かれた日学校に出る面目はなかつた。私は校庭に据ゑられた分捕品の砲身に縋り、肩にかけた鞄を抱き寄せ、こゞみ加減に皆からじろ/\向けられる視線を避けてゐた。
「イヨ、君、お久しぶりぢやの。稚児騒ぎでもやつたんかえ?」
と、事情を知らない或通学生がにや/\笑ひながら声をかけてくれたので、「いゝや、違ふや」と、仲間に初めて口が利けて嬉しかつた。私はその通学生を長い間徳としてゐた。
最早私には、学科の精励以外に自分を救つてくれるものはないと思つた。触らぬ人に祟りはない、己の気持を清浄に保ち、怪我のないやうにするには、孤独を撰ぶよりないと考へた。教場で背後から何ほど鉛筆で頸筋を突つつかれようと、靴先で踵を蹴られようと、眉毛一本動かさず瞬き一つしなかつた。放課後寄宿舎に帰ると、室から室に油を売つて歩いてゐた以前とは打つて変り、小倉服を脱ぐ分秒を惜んで卓子に噛りついた。いやが上にも陰性になつて仲間から敬遠されることも意に介せず、それは決して嘗ての如き虚栄一点張の努力でなく周囲を顧みる余裕のない一国な自恃と緘黙とであつた。たゞ予習復習の奮励が教室でめき/\と眼に立つ成績を挙げるのを楽しみにした。よし頭脳が明晰でないため迂遠な答へ方であつても、答へそのものの心髄は必ず的中した。
しかし、何うしためぐり合せか私には不運が続いた。ころべば糞の上とか言ふ、この地方の譬へ通りに。初夏の赤い太陽が高い山の端に傾いた夕方、私は浴場を出て手拭をさげたまゝ寄宿舎の裏庭を横切つてゐると、青葉にかこまれたそこのテニス・コートでぽん/\ボールを打つてゐた一年生に誘ひ込まれ、私は滅多になく躁いで産れてはじめてラケットを手にした。無論直ぐ仲間をはづれて室に戻つたが、ところで其晩雨が降り、コートに打つちやり放しになつてゐたネットとラケットとが濡れそびれて台なしになつた。そこで庭球部から凄い苦情が出て、さあ誰が昨日最後にラケットを握つたかを虱つぶしに突きつめられた果、私の不注意といふことになり、頬の肉が硬直して申し開きの出来ない私を庭球部の幹部が舎監室に引つ張つて行き、有無なく私は川島先生に始末書を書かされた上、したゝか説法を喰つてしまつた。
引き続いて日を経ない夕食後、舎生一同が東寮の前の菜園に出て働いた時のことであつた。私のはつしと打ち込んだ熊手が、図らず向ひ合つた人の熊手の長柄に喰ひ込んだ途端、きやアと驚きの叫び声が挙つた。舎生たちが仰天して棒立ちになつた私を取り巻いた。
「えーい、君少し注意したまへ!」と色を失つて飛んで来た川島先生は肺腑を絞つた声で眉間に深い竪皺を刻み歯をがた/\顫はして叱つたが、頬を流れる私の涙を見ると、「うん、よし/\、まア、××君の頭で無くてよかつた、熊手の柄でよかつた……」
ほんたうに、もし過つてその人の脳天に熊手の光る鉄爪を打ち込んだとしたら、私は何んとしたらいゝだらう? 一瞬私の全身には湯気の立つ生汗が流れた。私はその後幾日も/\、思ひ出しては両手で顔を蔽うて苦痛の太息を吐いた。手を動かし足を動かす一刹那に、今にも又、不公平な運命の災厄がこの身の上に落ちかゝりはしないかと怖ぢ恐れ、維持力がなくなるのであつた。
暑中休暇が来て山の家に帰つた五日目、それのみ待たされた成績通知簿が届いた。三四の科目のほか悉く九十点を取つてゐるのに、今度から学期毎に発表記入されることになつた席次は九十一番だつた。私はがつかりした。私は全く誰かの言葉に違はず、確かに低能児であると思ひ、もう楽しみの谷川の釣も、山野の跋渉も断念して、一と夏ぢゆう欝ぎ切つて暮した。九月には重病人のやうに蒼ざめて寄宿舎に帰つた。私はどうも腑に落ちないので、おそる/\川島先生に再検査を頼むと九番であつたことが分つた。「君は悔悛して勉強したと見えて、いゝ成績だつた」と、初めてこぼれるやうな親しみの笑顔を見せた。私は狂喜した。かうした機会から川島先生の私への信用は俄に改まつた。私の度重なる怨みはたわいなく釈然とし、晴々として翼でも生えてひら/\とそこら中を舞ひ歩きたいほど軽い気持であつた。一週日経つてから一級上の川島先生の乱暴な息子が、学校の告知板の文書を剥ぎ棄てた科で処分の教員会議が開かれた折、ひとり舎監室で謹慎してゐた川島先生は、通りがゝりの私を廊下から室の中に呼び入れ、「わすの子供も屹度停学処分を受けることと思ふが、それでも君のやうに心を入れかへる機縁になるなら、わすも嬉しいがのう」と黯然とした涙声で愬へた。私の裡に何んとも言へぬ川島先生へ気の毒な情が湧き出るのを覚えた。
ほど無く私は幾らかの喝采の声に慢心を起した。そして何時しか私は、独りぼつちであらうとする誓約を忘れてしまつたのであらうか。強ち孤独地獄の呻吟を堪へなく思つたわけではないが、或偶然事が私を伊藤に結びつけた。伊藤は二番といふ秀才だしその上活溌敏捷で、さながら機械人形の如く金棒に腕を立て、幅跳びは人の二倍を飛び、木馬の上に逆立ち、どの教師からも可愛がられ、組の誰にも差別なく和合して、上級生からでさへ尊敬を受けるほど人気があつた。彼は今は脱落崩壊の状態に陥つてゐるが夥しい由緒ある古い一門に生れ、川向うの叔母の家からぴか/\磨いた靴を穿いて通学してゐた。朝寄宿舎から登校する私を、それまではがや/\と話してゐた同輩達の群から彼は離れて、おーい、お早う、と敏活な男性そのもののきび/\した音声と情熱的な眼の美しい輝きとで迎へた。私は悩ましい沈欝な眼でぢつと彼を見守つた。二人は親身の兄弟のやうに教室に出入りや、運動場やを、腕を組まんばかりにして歩いた。青々とした芝生の上にねころんで晩夏の広やかな空を仰いだ。学課の不審を教へて貰つた。柔道も二人でやつた。君はそれ程強くはないが粘りつこいので誰よりも手剛い感じだと、さう言つて褒めたと思ふと、彼独得の冴えた巴投げの妙技を喰はして、道場の真中に私を投げた。跳ね起きるが早いか私は噛みつかんばかりに彼に組みついた。彼は昂然とゆるやかに胸を反らし、踏張つて力む私の襟頸と袖とを持ち、足で時折り掬つて見たりしながら、実に悠揚迫らざるものがある。およそ彼の光つた手際は、学問に於いて、運動に於いて、事毎にいよ/\私を畏れさせた。このやうな、凡て、私には身の分を越えた伊藤との提携を、友達共は半ば驚異の眼と半ば嫉妬の眼とで視た。水を差すべくその愛は傍目にも余り純情で、殊更らしい誠実を要せず、献身を要せず、而も聊の動揺もなかつた。溢るゝ浄福、和やかな夢見心地、誇りが秘められなくて温厚な先生の時間などには、私は柄にもなく挑戦し、いろ/\奇矯の振舞をした。
Y中学の卒業生で、このほど陸軍大学を首席で卒業し、恩賜の軍刀を拝領した少佐が、帰省のついでに一日母校の漢文の旧師を訪ねて来た。金モールの参謀肩章を肩に巻き、天保銭を胸に吊つた佐官が人力車で校門を辞した後姿を見送つた時、さすがに全校のどんな劣等生も血を湧かした。
「ウヽ、芳賀君の今日あることを、わしは夙に知つとつた。芳賀君は尤も頭脳も秀でてをつたが、彼は山陽の言うた、才子で無うて真に刻苦する人ぢやつた」と、創立以来勤続三十年といふ漢文の老教師は、癖になつてゐる鉄縁の老眼鏡を気忙しく耳に挟んだり外したりし乍ら、相好を崩した笑顔で愛弟子の成功を自慢した。
「ウヽ、この中で、誰が第二の芳賀になる? ウヽ、誰ぢや?」
教室を出ると私は伊藤の傍に走り寄つて、
「伊藤君、先生は君の顔を見た、たしかに見た、第二の芳賀に君は擬せられとる!」と私は息を弾ませて言つた。
「ちよツ、馬鹿言ふな、人に笑はれるぜ、お止しツ」と伊藤は冠せるやうに私を窘めた。
私は中学を出れば草深い田舎に帰り百姓になる当てしかない。もう自分などはどうでもいゝから、と私は心で繰返した。幾年の後、軍人志望の伊藤の、肩に金モールの参謀肩章を、胸に天保銭を、さうした彼の立身出世のみが胸に宿つて火のやうに燃えた。時として遠い彼方のそれが早くも今実現し、中老の私は山の家で、峡谷のせゝらぎを聞き、星のちらつく空を仰ぎ、たゞ曾ての親友の栄達に満悦し切つてゐるやうな錯覚を教室の机で起しつゞけた。ふと我に返つて伊藤が英語の誤訳を指摘されたりした場合、私の心臓はしばし鼓動をやめ、更に深く更にやるせない一種の悲壮なまでの焦燥が底しれず渦巻くのであつた。
「君は黒い、頸筋なんぞ墨を流したやうなぞ」
と言つて伊藤は私の骨張つた頸ツ玉に手をかけ、二三歩後すさりに引つ張つた。私の衷を幽かな怖れと悲しみが疾風のごとく走つた。
「僕も黒いか? ハツハヽヽ」
畳みかけて伊藤は真率に訊いた。相当黒いはうだと思つたが、いや、白い、と私は嘘を吐いた。
毫も成心があつてではないが、伊藤は折ふし面白半分に私の色の黒いことを言つてからかつた。それが私の不仕合せなさま/″\の記憶を新にした。多分八九歳位の時代のことであつた。私の一家は半里隔つた峠向うに田植に行つた。水田は暗い低い雲に蔽はれて、蛙も鳴かず四辺は鎮まつてゐた。母がそこの野原に裾をまくつて小便をした。幼い妹が母にむづかつてゐた。その場の母の姿に醜悪なものを感じてか父は眉をひそめ、土瓶の下を焚きつけてゐた赤い襷がけの下女と母の色の黒いことを軽蔑の口調で囁き合つた。妹に乳をふくませ乍ら破子の弁当箱の底を箸で突つついてゐた母が、今度は私の色の黒いことを出し抜けに言つた。下女が善意に私を庇うて一言何か口を挟むと母が顔を曇らせぷり/\怒つて、「いゝや、あの子は産れ落ちるとから色が黒かつたい。あれを見さんせ、頸のまはりと来ちや、まるきり墨を流したやうなもん。日に焼けたんでも、垢でもなうて、素地から黒いんや」と、なさけ容赦もなく言ひ放つた。その時の、魂の上に落ちた陰翳を私は何時までも拭ふことが出来ない。私は家のものに隠れて手拭につゝんだ小糠で顔をこすり出した。下女の美顔水を盗んで顔にすりこんだ。朝、顔を洗ふと直ぐ床の間に据ゑてある私専用の瀬戸焼の天神様に、どうぞ学問が出来ますやうと祈願をこめるのが父の言付けであつたが、私は、どうぞ今日一日ぢゆう色の黒いことを誰も言ひ出しませんやう、白くなりますやう、と拍手を打つて拝んだ。一日は一日とお定りの祷りの言葉に切実が加はつた。小学校で学問が出来て得意になつてゐる時でも、黒坊主々々々と呼ばれると、私の面目は丸潰れだつた。私は色の白い友達にはてんで頭が上らなかつた。黒坊主黒坊主と言はないものには、いゝ褒美を上げるからと哀願して、絵本とか石筆とかの賄賂をおくつた。すると、僕にも呉れ、僕にも出せ、と皆は私を取り囲んで八方から手を差出した。私は家のものを手当り次第盗んで持ち出して与へたが、しまひには手頃の品物がなくなつて約束が果されず、嘘言ひ坊主といふ綽名を被せられた。私は人間の仕合せは色の白いこと以上にないと思つた。扨はませた小娘のやうに水白粉をなすりつけて父に見つかり、父は下司といふ言葉を遣つて叱つた。なんでも井戸浚への時かで、庭先へ忙しく通りかゝつた父が、私の持出してゐた鍬に躓き、「あツ痛い、うぬ黒坊主め!」と拳骨を振り上げた。私は赫とした。父は私が遊び仲間から黒坊主と呼ばれてゐることを知つてゐたのだ。私は気も顛倒して咄嗟に泥んこでよごれた手で鍬を振り上げ、父の背後に詰寄つて無念骨髄の身がまへをした。その日は出入りの者も二三人手伝ひに来て、終日裏の大井戸の井戸車がガラガラと鳴り、子供ながらに浮々してゐたのに、私はすつかりジレて夕飯も食べなかつた。夏休みになつて町の女学校から帰つて来た姉の顔の綺麗なのに驚いた私は、姉のニッケルの湯籠の中の軽石を見つけ、屹度これで磨くのに違ひないと思ひ定め、湯殿に入つて顔一面をこすると、皮膚を剥いて血がにじみ出た。
「あんたはん、そや、キビスをこする石やつたのに、まア、どうしようかいの」
見るも無惨な凸凹の瘡蓋になつた私の顔に姉は膏薬を塗つてくれながらへんな苦が笑ひをした。私は鏡を見て明け暮れ歎き悲しんだのであつた。
不思議にこゝ一二年、心を去つてゐた色の黒い悩みが、不意に伊藤の言葉によつてその古傷が疼き出した。私は教室の出入りに、廊下の擦り硝子に顔を映すやうになつた。ちやうど顔ぢゆうに面皰が生じ、自習室の机に向いても指で潰してばかりゐて、気を奪はれ全然勉強が手につかなくなつた。その頃、毎日のやうに新聞に出る、高柳こう子といふ女の発明で(三日つけたら色白くなる薬)といふ広告を読み、私は天来の福音と思つて早速東京へ送金した。ところが、日ならず届いた小包が運わるく舎監室に押収され、私は川島先生に呼びつけられた。
「君、これはどうした? 色白くなる薬……」
川島先生は、つぶれた面皰から血を吹いてゐる私の顔を、きびしい目付で見詰めた。
「そ、それは母のであります」
「お母さんのなら、何故、舎から註文した?」
「お父さんに隠したいから、日曜日に持つて帰つてくれちうて母が言ひました……」
先生は半信半疑で口尻を歪めて暫し考へてゐたが、兎も角渡してくれた。私はいくらか日を置いて小包を開き、用法の説明書どほり粉薬を水に溶き、人に内証で朝に晩につけた。色こそ白くはならなかつたが、面皰のはうには十分効目があつた。川島先生の何時も私の顔にじろじろと向けられる神経質な注視に逢ふ度、私はまんまと瞞したことに気が咎め、何か剣の刃渡りをしてゐるやうな懼れが身の毛を総立たせた。
天長節を控へ舎を挙げて祝賀会の余興の支度を急いでゐる時分、私と小学校時代同級であつた村の駐在巡査の息子が、現在は父親が署長を勤めてゐる要塞地の町の中学から転校して寄宿舎に入つて来た。前歯の抜けた窪い口が遙か奥に見えるくらゐ半島のやうに突き出た長い頤、眼は小さく、額には幾条もの太い皺が寄り、老婆そのまゝの容貌をしてゐたので、入舎早々ばア様といふ綽名がついた。ばア様といふ綽名は又如何にもそのこせ/\した性情をよく象徴してゐて、実に小言好きの野卑な男で、私の旧悪を掘り出して人毎に曝くことを好んだ。黒坊主黒坊主と言つて私を嘲弄したことを、それから私が黒坊主と言ひそやされる反動で、奇妙な病気から鼻の両脇に六つの小鼻が鈴生に累結してゐる子供を鼻六ツ々々々と言つて泣かせ、その弱味につけこみ覗メガネの絵など高価に売りつけたり、学用品を横領したりしたことを。猶又、駄菓子屋の店先に並んだ番重の中から有平糖を盗み取る常習犯であつたことまで数へ立てて、私を、ぬすツと、と言つて触れ廻つた。さうした私の悪意を極めた陰口と見え透いたお世辞とによつて彼は転校者として肩身の狭い思ひから巧に舎内の獰猛組に親交を求め、速に己が位置を築くことに汲々としてゐた。ばア様は私の室の前を、steal, stole, stolen と声高に言つて通つて行く。私は無念の唇を噛み緊め乍らも、のさばるばア様を何うしようもなく、たゞ/\おど/\した。無暗にあわてた。折りも折、舎内で時計やお鳥目の紛失が頻々と伝はつた。私は消え入りたい思ひであつた。泥棒の噂の立つ毎に、ひよつとして自分の本箱や行李の中に、ポケットなどに他人の金入れが紛れこんではゐないか、夜臥床をのべようと蒲団をさばく時飛び出しはしないか、と戦々兢々とした。正しいことをすればする丈、言へば言ふ丈、その嫌疑を免かれる方便の如く思ひ做された。冬期休業が来て舎生が帰省の旅費を下附された晩、七八人もの蝦蟇口が誰かの手で盗まれ、たうとう町の警察から来て、どうしても泥棒は舎内のものだといふ鑑定で、一課目残つてゐる翌日の試験中に三人の刑事は小使や門衛を手伝はして各室の畳まで上げて調べ、続いて試験場から帰つて来た一人々々を食堂の入口でつかまへ、制服を脱がせ靴を脱がせして調べた。私の番になるとばア様は二三の仲間を誘ひ、意味ありげに陰険な視線と薄笑ひとを浴びせ乍ら、私の前を行きつ戻りつした。強ひて心を空しうしようとすれば、弥が上に私の顔容はひずみ乱れた。が、逐一犯罪は検挙され、わツといふ只ならぬ泣声と共に、私たちは食事の箸を投げて入口に押しかけると、東寮の或三年生が刑事の前に罪状を告白して泣き伏してゐた。私は自分が刺されたやうに胸が痛んで、意識が朦朧と遠くなつた。
人もあらうに、どうしてか、其頃から伊藤はばア様と親しく交はり出した。従来伊藤の気づいてない私の性分をばア様が一つ/\拾ひ立てて中傷に努めてゐた矢先、藩主の祖先を祀つた神社の祭に全校生が参拝した際、社殿の前で礼拝の最中石に躓いてよろめいた生徒を皆に混つてくツ/\笑つた私を、後で伊藤がひどく詰つた。これと前後して、二人で川に沿うた片側町を歩いてゐた時、余所の幼い子供が玩具の鉄砲の糸に繋がつたコルクの弾丸で私を撃つたので、私が怒つてバカと叱ると、伊藤は無心の子供に対する私のはした無い言葉を厭うて、「ちえツ、君には、いろ/\イヤなところがある」と、顔を真赤にして頬をふくらませて下を向いた。そして、それまでは並んで歩いてゐた彼は、柳の下についと私を離れ、眉を寄せて外方を見詰め口笛を吹き出した。
日増に伊藤は私から遠去り、さうした機会に、ばア様はだん/\伊藤を私の手から奪つて行つて、完全に私を孤立せしめた。思ふと一瞬の目叩きの間に伊藤は私に背向いたのであつた。私は呆れた。この時ばかりは私は激憤して伊藤の変節を腹の底から憎んだ。私は心に垣を張つて決して彼をその中に入れなかつた。避け合つても二人きりでぱつたり出逢ふことがあつたが、二人とも異様に光つた眼をチラリと射交し、あゝ彼奴は自分に話したがつてゐるのだなア、と双方で思つても露に仲直りの希望を言ふことをしなかつた。私はやぶれかぶれに依怙地になつて肩を聳やかして己が道を歩いた。
長い間ごた/\してゐた親族の破産が累を及ぼして、父の財産が傾いたので、三年生になると私は物入りの多い寄宿舎を出て、本町通りの下駄屋の二階に間借りした。家からお米も炭も取り寄せ、火鉢の炭火で炊いた行平の中子のできた飯を噛んで食べた。自炊を嫌ふ階下の亭主の当てこすりの毒舌を耳に留めてからは、私はたいがい乾餅ばかり焼いて食べてゐた。階下の離座敷を借りてゐる長身の陸軍士官が、毎朝サーベルの音をガチヤンと鳴らして植込みの飛石の上から東京弁で、「行つて参ります」と活溌な声をかけると、亭主は、「へえ、お早うお帰りませ」と響の音に応ずる如く言ふのであつた。私は教科書を包んだ風呂敷包みを抱へて梯子段を下り、士官の音調に似せ、「行つて参ります」と言ふと、亭主は皮肉な笑ひを洩しながら、「へえ」と、頤で答へるだけだつた。私は背後に浴びせる亭主はじめ女房や娘共の嘲笑が聞えるやうな気がした。仄暗いうちに起きて家人の眼をかくれ井戸端でお米を磨いだりして、眠りの邪魔をされる悪口ならまだしも、私が僻んで便所に下りることも気兼ねして、醤油壜に小便を溜めて置きこつそり捨てることなど嗅ぎ知つて、押入を調べはすまいかを懸念した。誰かそつと丼や小鍋の蓋を開けて見た形跡のあつた日は、私はひどく神経を腐らした。そこにも、こゝにも、哀れな、小さい、愚か者の姿があつた。と言つても、背に笞してひたすら学業にいそしむことを怠りはしなかつた。
俄然、張り詰めた心に思ひもそめない、重い/\倦怠が、一時にどつと襲ひかゝつた。恰もバネが外れて運動を止めたもののやうに、私は凡てを投げ出し無届欠席をした。有らゆる判断を除外した。放心の数日を過した。
私は悄々と村の家に帰つて行き、学校を退くこと、将来稼業を継いで百姓をするのに別段中学を出る必要はないこと、家のものと一しよに働きたいと言つた。
父と母と縁側に腰かけて耳に口を当て合ふやうにし何かひそ/\相談をした。
「左様してくれるんか。えらい覚悟をしてくれた。何んせ、学問よりや、名誉よりや、身代が大切ぢやで、えゝとこへ気がついた」と父が言つた。所帯が苦しいゆゑの退学などとの風評を防ぐ手だてに、飽まで自発行動であることを世間に言ふやうにと父は言ひ付けた。
半生の間に、母が私の退校当座の短時日ほど、私を劬り優しくしてくれたためしはなかつた。母はかね/″\私を学校から引き退げようと、何程陰に陽に父に含めてゐたかもしれなかつたから。私は午前中だけ野良に出て百姓の稽古をし、午後は講義録を読んだ。私は頓に積年の重たい肩の荷を降した気がした。こゝでは、誰と成績を競ふこともなく、伊藤も、ばア様も、川島舎監長も、下駄屋の亭主もゐなかつた。在るものは唯解放であつた。私は小さいながら浮世の塵を彼方に遠く、小ぢんまりした高踏に安んじ、曇りのない暫時の幸福なり平安なりを貪つてゐた。
が、飽くことない静穏、それ以上不足を感じなかつた世と懸け離れた生活も、束の間の仇なる夢であつた。父の生命の全部、矜りの全部としてゐる隣人に対する偽善的行為に、哀れな売名心に、さうした父の性格の中の嘘をそつくり受け継いでゐて何時も苛々してゐる私は、苦もなく其処に触れて行つて父を衝撃した。私と父とは、忽ち諍ひ、忽ち和解し、誰よりも深く憎み、誰よりも深く赦した。夜中の喚き罵る声に驚いて雨戸まで開けた近所の人達は朝には肩を並べて牛を引いて田圃に出て行く私共父子を見て呆気にとられた。臆病に、大胆に、他を傷つけたり、疑つたり、連日連夜の紛争と愛情の交錯とはいよ/\こじれて、長時の釈け難い睨み合ひの状態になつた。
家庭の風波の渦巻の中で私は雪子の面影を抱いて己を羽含んだ。雪子はまだ高等小学の一年生で、私の家から十町と隔たらない十王堂の高い石段の下の栗林の中に彼女の家はあつた。私が八歳の幼時、春風が戸障子をゆすぶる日の黄昏近くであつたが、戸口の障子を開けると、赤い紐の甲掛草履を穿いたお河童の雪子が立つてゐた。何うして遊びに来たものか、たゞ、風に吹かれて紛れ込んだ木の葉のやうなものであつた。私は雪子の手を引いて母の手もとに届けてやつた。偶然に見染めた彼女の幻はずつと眼から去らず、或年の四月の新学期に小学校に上つて来た彼女を見附けた日は私は、一夜うれしさに眠就かれなかつた。相見るたびに少年少女ながら二人は仄かな微笑と首肯との眼を交はし、唇を動かした。私は厚かましく彼女の教室を覗き、彼女の垂髪に触れたり、机の蓋をはぐつてお清書の点を検べたりした。何んと言つても雪子は私一人のものであつた。盂蘭盆が来て十王堂の境内からトントコトコといふ音が聞え出すと、私はこつそり家を抜け出し山寄の草原径を太鼓の音の方に歩いて行つて、其処で人目を忍ぶやうにして見た、赤紐で白い腮をくゝつて葦の編笠を深目にかぶつた雪子の、長い袖をたを/\と波うたせ、若衆の叩く太鼓に合せて字村の少女たちに混つて踊つてゐる姿など、そんな晩は夜霧が川辺や森の木立を深くつゝんでゐて、家に帰つて寝床に入つてからも夜もすがら太鼓の音が聞えて来たことなど、年々の思ひ出が頻りに懐しまれるに従ひ、加速度に奇態な、やる瀬ない、様々な旋律が私の心を躍動させた。これが恋だと自分に判つた。私は用事にかこつけて木槿の垣にかこまれた彼女の茅葺屋根の家の前を歩いた。彼女を見たさに、私は川下の寺へ漢籍を毎夜のやうに習ひに行つてはそこへ泊つて朝学校へゆく彼女と路上で逢ふやうにした。下豊の柔和な顔であるのに私に視入られると雪子は、頬をひき吊り蟀谷のかすかな筋をふるはせた。この恋の要求が逸早く自分の身なりに意を留めさせ、きたない顔を又気に病ませた。それまで蔭で掛けては鏡を見てゐたニッケルの眼鏡を大びらに人前でも掛けさせた。ちやうど隣村へ嫁入つてゐる姉の眼が少し悪くて姑の小言の種になつてゐた際で、眼病が一家の疾のごと断定されはしまいかとの虞れから、母は私の伊達眼鏡を嫌ひ厭味のありつたけを言つたが、しかし一向私は動じなかつた。私は常に誰かに先鞭をつけられさうなことを気遣つて、だから年端のゆかぬ雪子にどうかして一日も早く意中を明かしたいと、ひとりくよ/\胸を痛めた。好都合に雪子の母がひそかに私の気持を感附いてくれ、それとなく秋祭に私を招いて、雪子にご馳走のお給仕をさせた。下唇をいつも噛む癖があつて、潤つた唇に薄桃色の血の色が美しくきざしかけてゐる雪子は、盆を膝の上にのせて俯向いてゐた。お膳が下げられて立ち際に私がかゝへた瀬戸の火鉢が手から滑り落ちて粉微塵に砕けた。雪子は箒と塵取とを持つて来てくれ、私は熱灰を塵取の中に握り込むやうなことをしたが、畳の上にあちこち黒焦げが残つた。私は真赤に顔を染めて雪子の父に謝つた。
遂に私は無我夢中に逆上して、家へ出入りするお常婆を介して、正式に許嫁の間にして貰へるやう私の父母に当つて見てくれと頼んだ。一方私は俄に気を配つて父や母を大切にし出した。お常婆は雨の降り頻る或晩、弓張提灯など勿体らしくつけて、改まつて家へ来た。
「恥ぢを知れ!」
母はお常婆を追ひ返すと、ばた/\走つて来て私の肩を小突き、凄い青筋をむく/\匐はせ眼を血走らせて、さも憎々しげに罵つた。
「どうも、此頃、様子がへんと思うちよつたい。われや、お祭にもよばれて行つたちふこつちや。お常婆に頼うだりしち、クソ馬鹿!」
「お母ア! わツしや、ホトトギスの武夫と浪子のやうな清い仲にならうと思うたんぢや。若い衆のとは違ふ。悪いこつちやない!」と、私は室の隅に追ひすくめられ乍らも、余りの無念さに勃然として反抗した。
「えーい、何んぢやと、恥ぢを知れ!」と、母は手を上げて打たうとした。
父の不賛成は言ふまでもなかつた。曾て雪子の父と山林の境界で裁判沙汰になるまで争つたのだから。でも固く口を緘してゐた。二三日したお午、果樹園から帰つた父は裸になつて盥の水を使ひ乍ら戸口に来たきたない乞食を見て、「ブラ/\遊んでをる穀つぶしめア、今にあん通りになるんぢや」と私に怖い凝視を投げて甲走つた声で言つた。即座に母が合槌を打つた。下男も父母に阿つた眼で私を見た。私は意地にも万難を排し他日必ず雪子と結婚しようと思つた。さう心に誓つてゐて、私は自棄の気味と自からなる性の目覚めとで、下女とみだらな関係を結んだ。入り代りに来た、頬の赤い、団子鼻の下女の寝床に、深夜私は蟹のやうに這つて忍び込んだが、他に男があるからと言つて、言ひ寄つた私に見事肘鉄砲を喰はした。男の面目を踏み潰された悔しさから私は、それならせめて贈物だけでも受けてくれと歎願し、翌日は自転車に乗つて町へ買ひに行き、そつと下女に手渡すと、下女は無愛想にボール箱の蓋を開け、簪をつまみ出し、香水の瓶をちよつと鼻の先に当てて匂ひを嗅ぐと、礼も言はずに戸棚の中に蔵つた。
そんなことも忽ちバレてしまつた。最早私は、家のものからも、近所の誰からも軽蔑された。道を歩けば、子供でさへ指を差して私のことを嗤つた。私は道の行き過ぎに私を弥次る子供が何より怖くて、子供の群を見つけると遠廻りしても避けるなど、日々卑屈になつて行つた。
二年の月日が経つた。それまで時をり己が変心を悔いたやうな詫びの便りを寄越してゐた伊藤が、今度中学を卒業し、学校の推薦でK市の高等学校へ無試験で入る旨を知らせて来た。私が裏の池のほとりにつくばつて草刈鎌を砥石で研いでゐるところへ、父はその葉書を持つて来て、
「われも、中学を続けときや、卒業なれたのに、惜しいことをしたのう。半途でやめて、恥ぢばつかり掻いて……」と、如何にも残念さうに言ひ放つて、顔を硬張らせ、広い口を真一文字に結んで太い溜息を吐いた。
徴兵検査が不合格になると私はY町の瓦斯会社の上役の娘と結婚した。中学に入学した折、古ぼけた制服を着た一人の生徒の、胸のポケットの革の鉛筆に並べてした、赤や青や紫やの色とり/″\の鉛筆と、それ等の鉛筆の冠つた光彩陸離たるニッケルのカップとが、私の眼を眩惑させたのであつた。その生徒は英語が並外れて達者なので非常な秀才だらうと驚きの眼をもつて見てゐたのに、後で分つたがそれは落第生であつた。私の妻はその落第生の姉であつたことを知つて、くすぐつたいやうな妙にイヤな気がした。それに何んといふ手落ちな頓馬なことであつたであらう、婚礼の晩の三三九度の儀式に私はわなわな顫へて三つ組の朱塗の大杯を台の上に置く時カチリと音をさせたが、彼女は実に落着払つてやつてのけたのも道理、彼女は三三九度がこれで二度目の出戻りであつたことを知つたのは子供が産れて一年もしてからであつた。私は彼女の鏡台を足蹴にして踏折つた、針箱を庭に叩きつけた、一度他家に持つて行つたものを知らん顔して携へて来るなど失敬だと怒つて。さうして性懲りのない痴情喧嘩に数多の歳月をおくつた。
子供が七歳の春、私は余所の女と駈落して漂浪の旅に出、東京に辿りついてさま/″\の難儀をしたすゑ、当時文運の所産になつたF雑誌の外交記者になつた。
囚はれの醜鳥
罪の、凡胎の子
鎖は地をひく、闇をひく、
白日の、空しき呪ひ……
罪の、凡胎の子
鎖は地をひく、闇をひく、
白日の、空しき呪ひ……
酒好きの高ぶつた狂詩人は、斯う口述して私に筆記をさせた。
「先生、凡胎の子――とは何ういふ意味でございませうか?」
貧弱な徳利一本、猪口一箇を置いた塗りの剥げた茶餉台の前に、褌一つの真つ裸のまゝ仰向けに寝ころび、骨と皮に痩せ細つた毛臑の上に片つ方の毛臑を載せて、伸びた口髭をグイ/\引つ張り/\詩を考へてゐた狂詩人は、私が問ふと矢にはに跳ね起き顎を前方に突き出し唇を尖らせて、「凡人の子袋から産れたといふことさ。馬の骨とも、牛の骨とも分らん。おいら下司下郎だといふことさ!」
狂暴な発作かのやうにさう答へた時、充血した詩人の眼には零れさうなほど涙がぎら/\光つた。と咄嗟に、私にも蒼空の下には飛び出せない我身の永劫遁れられぬ手械足枷が感じられ、堅い塊りが込み上げて来て咽喉もとが痞へた。
――鎖が地をひき闇をひきつゝ二十年が経つちまつた。囚はれに泣き、己が罪業に泣き、凡胎の子であることに泣き、そして、永い二十年の闇をひいて来た感じである。囚はれを出で、白日の広い世界をどんなにか思ひ続けて来たであらう! 囚はれのしこ鳥よ、汝は空しき白日の呪ひに生きよ!――こんなふうの詩とも散文とも訳のわからない口述原稿を、馬糞の多い其処の郊外の路傍に佇んで読み返し、ふと気がつくと涙を呑んで、又午後の日のカン/\照つてゐる電車通りの方へ歩いて行くのであつた。そして私は、自分が記者を兼ね女と一しよに宿直住ひをさして貰つてゐる市内牛込の雑誌社に持ち帰つたことであつた。一九二八年の真夏、狂詩人が此世を去つてしまつた頃から私の健康もとかく優れなかつた。一度クロープ性肺炎に罹り発熱して血痰が出たりした時、女が私に内証で国許に報じ、父が電報で上京の時間まで通知して来たが、出入りの執筆同人の文士たちに見窄らしい田舎者の父を見せることを憂へて、折返し私は電報で上京を拒んだ。中学時代、脚絆草鞋で寄宿舎へやつて来る父を嫌つたをり父が、オレで悪いといふのか、オレでは人様の手前が恥づかしいといふのか、われもオレの子ぢやないか、と腹を立てた時のやうに、病む子を遙々見舞はうとして出立の支度を整へた遠い故郷の囲炉裏端で、真赤に怒つてゐるのならまだしも、親の情を斥けた子の電文を打黙つて読んでゐる父のさびしい顔が、蒲団の中に呻いてゐる私の眼先に去来し、つく/″\と何処まで行つても不孝の身である自分が深省された。略これと前後して故郷の妻は子供を残して里方に復籍してしまつた。それまでは同棲の女の頼りない将来の運命を愍み気兼ねしてゐた私は、今度はあべこべに女が憎くなつた。女のかりそめの娯楽をも邪慳に罪するやうな態度に出て、二人は絶間なく野獣同士のごと啀み合つた。凡てが悔恨といふのも言ひ足りなかつた。自制克己も、思慮の安定もなく、疲労と倦怠との在るがまゝに流れて来たのであつた。
或年の秋の大掃除の時分、めつきり陽の光も弱り、蝉の声も弱つた日、私は門前で尻を端折り手拭で頬冠りして、竹のステッキで畳を叩いてゐた。其処へ、まだまるで紅顔の少年と言ひたいやうな金釦の新しい制服をつけた大学生が、つか/\と歩み寄つて、
「あなたは、大江さんでせう?」と、問ひかけた。
「……」私は頬冠りもとかずに、一寸顔を擡げ、きよとんと大学生の顔を視上げた。「あなたは、どなたでせうか?」
「僕、香川です。四月からW大学に来てゐます。前々からお訪ねしようと思つてゐて、ご住所が牛込矢来とだけは聞いてゐましたけれども……」
「香川……あ、叉可衛さんでしたか。ほんとによく私を覚えてゐてくれましたねえ」
私はすつかり魂消てしまつた。香川は私の初恋の娘雪子の姉の子供であつた。私は大急ぎで自分の室を片附け、手足を洗つて香川を招じ上げた。そして近くの西洋料理店から一品料理など誂へ、ビールを抜いて歓待した。彼の潤んだ涼しい眼や、口尻のしまつた円顔やに雪子の面影を見出して、香川を可愛ゆく思ひ、また夢見るやうな儚い心地で、私は遠い過去の果しない追憶に耽るのであつた。
私がY町で女と駈落ちしようとして、旅行案内を買ひに町の広小路の本屋に行くと、春のショールを捲き、洋傘をかゝへた蒼ざめた雪子が、白い腕をのべて新刊の婦人雑誌の頁をめくつてゐるのに出逢つた。――彼女は私の結婚後一二年は独身でゐた。家が足軽くらゐのため、農家には向かず、なか/\貰ひ手がなかつた。雪子の父の白鬚の品の好いお爺さんは、「頼んでも大江へ貰うて貰へばよかつたのに」と、残念がつてゐるとのことを私は人伝に聞いた。後、海軍の兵曹の妻になつてH県のK軍港の方に行き難儀してゐるらしかつたが、病気に罹つて実家に帰りY町の赤十字病院に入院してゐるといふ噂であつた。その頃私は妻子を村に残してY町で勤めをしてゐたが、一日父が私のもとに来て、「あの娘は肺病ぢやげな。まあ、ウチで貰はんでよかつた」と私に言つた。その時は既に、私は妻も子供も家も棄て去る決心でゐたので、ひどく父を気の毒に思つて言ひ知れぬ苦しい吐息をついた。帰りがけに父は町の時計屋で蔓の細い銀縁の眼鏡を私に買つてくれた。――それから約そ一週日を経ていよ/\決行の日、思ひ設けず雪子に邂逅したわけである。二人はちらと視線を合せたが、彼女の方が先に眼を伏せた。私はあわてて店頭を逃げ、二三の買物を取纏め、裏通りから停車場の方へ、小石を洗ふやうにして流れてゐる浅い流れの川土手の上を歩いた。疎らに並んだ古い松が微風に緩やかにざわめいてゐた。突如、不思議と幾年か昔中学に入るとき父につれられて歩いた長い松原の、松の唸りが頭の中に呼び返された。さうして今、父も、祖先伝来の山林田畠も、妻子も打棄てて行く我身をひし/\と思つた。と頭を上げると、一筋道の彼方からパラソルをさした雪子がこちらに近づいて来てゐた。今度は双方でほゝゑみを交はしてお叩頭をした。「何ゆゑ、わたしを貰つて下さいませんでした?」といふ風の眼で面窶れた弱々しい顔をいくらか紅潮させて私を視た。行き違ふと私は又俯向いた。私は妻を愛してないわけではなく、彼女が実家に去ると言へば泣いて引き留めたものだが、でも彼女が出戻りだといふことで、どうしても尊敬することが出来ず生涯を共にすることに精神上の張合ひがなかつた。私はもしも自分が雪子と結婚してゐたら、彼女の純潔を尊敬して、かういふ惨めな破綻は訪れないだらうと思つた。私は直ぐ駅で待合せた女と汽車に乗つたが、発ち際のあわたゞしさの中でも、彼を思ひ、是を思ひ、時に朦朧とした[#「朦朧とした」は底本では「朧朦とした」]、時に炳焉とした悲しみに胴を顫ひ立たせ、幾度か測候所などの立つてゐる丘の下を疾駆する車内のクッションから尻を浮かせて「あゝゝ」とわめき呻いたのであつた。……
足掛け六年の後、雪子の甥の香川を眼の前に置いて、やはり思はれるものは、若し雪子と結婚してゐたら、田舎の村で純樸な一農夫として真面目に平和な生涯をおくるであらうこと、寵栄を好まないであらうこと、彼女と日の出と共に畠に出、日の入りには、鍬や土瓶を持つて並んで家に帰るであらうこと。一生の間始終笑ひ声が絶えないやうな生活の夢想が、憧憬が、油をそゝいだやうに私の心中に一時にぱつと燃え立つた。と同時に私は自分の表情にへばりつく羞恥の感情に訶まれて香川を見てはゐられなかつた。
香川は字村の人事など問はるゝまゝに話した。六年の間に自殺者も三人あつたといふこと、それが皆私の幼友達で、一人は飲食店の借金で首がまはらず狸を捕る毒薬で自害し、一人の女は継母と婿養子との不和から世を厭うて扱帯で縊れ、水夫であつた一人は失恋して朝鮮海峡に投身して死んだことを話した。我子の不所行を笑はれてゐた私の父母も、近所に同類項を得て多少とも助かる思ひをしただらうといふ皮肉のやうな憐憫の情を覚えたりしたが、又それらがすべて字村に撒いた不健全な私自身の悪い影響のせゐであるとも思へ、アハヽヽヽと声を立てては笑へなかつた。
「この暑中休暇に帰省した時でしたがね、何ぶん死体が見つからないので、船室に残つてゐた単衣と夏帽子とを棺に入れて舁ぎ、お袋さんがおい/\泣きながら棺の後について行つてH院の共同墓地に埋めましたがね、村ぢゆうに大へんなセンセイションを捲き起しましたよ」と、泡立つビールのコップをかゝへた手を中間で波のやうに顫はせて香川は声高に笑つた。
このセンセイションが私を微笑させた。雪子に思ひを寄せてゐたころ幼い香川が家に遊びに来るたび、私は叉可衛さん/\と言つて菓子などやつてゐたのに、何時の間にそんな外国語を遣ふやうになつたのか。見れば見る程、彼の顔は、あどけなく、子供々々してゐた。
私は彼を酔はしてその間に何か話をさせようともして見た。
「あなたの叔母さん、雪子さんは、御達者ですか、御幸福ですか?」
私は斯う口に出かゝる問ひを、下を向いてぐつと唾と一しよに呑み込み呑み込みし、時に疎ましい探るやうな目付を彼に向けた。恐らく香川は彼の叔母と私との不運な恋愛事件については何も知つてはゐないだらうに。
年が明けて雑誌が廃刊された。私は雑誌の主幹R先生の情にすがり、社に居残つて生活費まで貰ひ、処方による薬を服んで衰へた健康の養生に意を注いだ。そして暇にまかせて自叙伝を綴つた。描いて雪子への片思ひのところに及び、あの秋の祭に雪子の家に請待を受けて、瀬戸の火鉢のふちをかゝへて立つと手から辷り落ち灰や燠が畳いつぱいにちらばつた時の面目なさが新に思ひ出されては、あるに堪へなく、この五体が筒の中で搗き砕かれて消えたかつた。
「あツ、あツ」と、私は奇妙な叫び声を発して下腹を抑へた。両手の十本の指を宙に拡げて机の前で暴れ騒いだ。
「何を気狂ひの真似をなさるんです。えイ、そんな気狂ひの真似する人わたし大嫌ひ」
片脇で針仕事をしてゐる女は憂欝に眉をひそめてつけ/\詰つた。
「そんな真似をしてゐると、屹度今に本物になりますよ」他の時かうも言つた。
私は四十になり五十になつても、よし気が狂つても、頭の中に生きて刻まれてある恋人の家族の前で火鉢をこはした不体裁な失態、本能の底から湧出る慚愧を葬ることが出来ない。その都度、跳ね上り、わが体を擲き、気狂ひの真似をして恥づかしさの発情を誤魔化さうと焦らずにはゐられないのである。この一小事のみで既に私を終生、かりに一つ二つの幸福が胸に入つた瞬間でも、立所にそれを毀損するに十分であつた。
満一年の後に雑誌が再刊され、私はふたゝび編輯に携はつた。矢張り同人組織ではあつても今度のはやゝ営利主義の相当な雑誌で、殆ど一人で営業方面まで受持つた私の多忙は、他人の想像をゆるさない程のものと言つてよかつた。編輯会議、執筆依頼状、座談会への人集め、焦躁、原稿催促、幹部の方の意見を聴いて編輯、兎角締切りののびのび、速達、電報、印刷所通ひ、へたくそ校正、職長さんとの衝突、写真製版屋の老人への厭味、三校を幹部の方に見ていたゞいて校了、製本屋を叱咤、見本が出来た晩は一ト安心、十九日発売、依託雑誌の配本、返品受付、売捌元集金、帳簿、電話――あれに心を配り、これに心を配り、愚な苦労性の私には、まるで昼が昼だか夜が夜だか分らなかつた。しかし私はてんてこ舞ひをし乍らも、只管失業地獄に呻吟する人達に思ひ較べて自分を督励し、反面では眼に立つ身体の衰弱を意識して半ば宿命に服するやうな投遣りな気持で働いた。
五月号が市場に出てこゝ三四日は何程かの閑散を楽しまうとしてゐる夜、神楽坂署の刑事が来て、発売禁止の通達状をつきつけ、残本を差押へて行つた。私はひどく取り乱して警視庁へ電話で事の顛末を訊き合せたが、内務省へ出頭したらいゝとやらで、要領を得なかつた。つぎの日の朝私は女に吩咐けてトランクから取出させた春のインバネスを着て家を出た。春のインバネスは雑誌記者になりたて、古参の編輯同人の誰もが着てゐるので田舎ぽつと出の私は体面上是非着るべきものかと思つて月賦のやりくりで購つたものだが、柄に不相応で極り悪く二三度手を通しただけで打つちやつてしまつてゐた。幾年かぶりで着て見ても、同じくそぐはない妙にテレ臭い感じである。行くうち不図、この霜降りのインバネスを初めて着たをり編輯長に「君は色が黒いから似合はないね」と言はれて冷やツとした時の記憶が頭に蘇生つた。と思ふと直に、先月或雑誌で私を批評して、ニグロが仏蘭西人の中に混つたやうな、と嘲笑してあつた文字と思ひ合された。幼年、少年、青年の各時代を通じて免かれなかつた色の黒いひけ目が思ひがけぬ流転の後の現在にまで尾を曳くかと淡い驚嘆が感じられた。今日に至つた己が長年月のあひだに一体何んの変化があつたであらう?
禍も悩みも昔と更に選ぶところない一ト色である。思想の進歩、道徳の進歩――何んにも無い。みんな子供の頃と同じではないか! と又しても今更のやうな驚嘆を以て、きよろ/\自分を見廻しながら電車通りへ歩いて行つた。電車の中に腰を掛け項を垂れて見ると、インバネスの裾前に二ヶ所も虫が小指大の穴を開けてゐるのに気づいた。あゝ惜しいことをした、と私は思はず呟いて手をのべてその穴に触つて見た。
大手町で電車を降り、停留場前のバラック仮建築の内務省の門衛に訊き、砂利を踏んで這入つて、玄関で竹草履に履きかへてゐると、
「やあ」と誰やら、肩幅の広い、体格のがつしりした若者が、私の前に立ち塞がつて言つた。「兄さんですか?」
「えツ!」
私は一瞬慄毛を振るつて後退るやうにして面を振り立てた。とそこに、袖丈の短い洋服からシャツのはみでた無骨な手に黒革の手提トランクを提げ、真新しい赤靴を穿いて突つ立つてゐる男は、別れた妻の三番目の弟の修一ではないか。厚い唇を怖ろしくぎゆツと噛み締めた顔を見ると、私は一も二もなく観念して眼を足もとに落した。二人は一寸の間無言で相対した。
「どうも済みません」と、私は存外度胸を据ゑて帽子を脱いで特別叮嚀なお辞儀をして言つたが、さすがに声はおろ/\震へた。
「いや、もう、そんなことは過ぎたことですから」と修一は言下に打消したが、冠つたまゝの黒の中折の下の、眉間の皺は嶮しく、眼の剣は無気味に鋭かつた。「牛込のはうにいらつしやるさうですね。僕、昨年から横浜に来てゐます。こゝへは用事で隔日おきにやつて来ます」
瞬きもせず修一は懐中から名刺を一枚抜いて出した。横浜市××町二ノ八、横浜メーター計量株式会社、としるしてある名刺を見詰めて私は、額に生汗をにじませ口をもぐ/\させてしどろもどろの受け答をしたが、何んとかして早く此場が逃げたくなつた。
「いづれ、後日お会ひして、ゆつくり話しませう。……今日は急ぐので」
「えゝ、どうぞ訪ねて来て下さい。僕も、ご迷惑でなかつたら上つてもいゝです。あなたには、いろ/\お世話になつてゐるので、一度お礼旁々お伺ひしようと思つてゐました」
二人は会釈して玄関の突き当りで右と左とに別れた。給仕の少年に導かれて検閲課の室に入ると、柿のやうに頭の尖がんだ掛員は私に椅子をすゝめて置いて、質素な鉄縁眼鏡に英字新聞を摺りつけたまゝ、発禁の理由は風俗紊乱のかどであることを告げて、極めて横柄な事務的の口調で忠告めいたことを言ひ渡した。私はたゞもう、わな/\慄へながら、はあ、はあ、と頷いて聞き終ると一つお叩頭をして引き退つた。また修一に掴まりさうで、私は俯向いて廊下を小走り、外へ出ても傍目もふらず身体を傾けて舗道を急いだ。
雑誌の盟主であるR先生の相模茅ヶ崎の別荘に、その日同人の幹部の人達が闘花につめかけてゐるので、私は一刻も早く一部始終を報告しようと思つて、その足で東京駅から下り列車に乗つた。私は帽子を網棚に上げ、窓枠に肘を凭せ、熱した額を爽やかな風に当てた。胸には猶苦しい鼓動が波立つてゐた。眼を細めて、歯を合せて、襲ひ寄るものを払ひ除けようとしてゐた。
反の合はない数多い妻の弟達の中で、この修一だけは平生から私を好いてゐた。大震災の年に丁度上京してゐた私を頼つて修一も上京し、新聞配達をしつゝ予備校に通つてゐたが、神田で焼き出されて本郷の私の下宿に遁れて来た。火に迫られて下宿の家族と一しよに私が駒込西ヶ原へ避難する時、修一は私の重い柳行李を肩に舁いでくれたりした。私は修一の言葉遣や振舞の粗野を嫌ひ、それに私自身も貧乏だつたので、宥めすかして赤羽から国へ発たせたが、汽車の屋根に腹伏せになつて帰つたといふ通知を受けたときは、私は彼を厄介視した無慈悲が痛く心を衝いた。修一は私が下宿の娘と大そう仲がいゝとか、着物の綻びを縫つて貰つてゐるとか妻に告口したので、間もなく帰国した私に、「独身に見せかけて、わたしに手紙を出させんといて、へん、みな知つちよるい!」と、妻は炎のやうな怨みを述べたのであつた。
自分が妻や、妻の弟妹達に与へた打撃、あれほど白昼堂々と悪いことをして置いて、而も心から悪いと項垂れ恐れ入ることをしない私なのである。何んと言ふなつてない人間だらう? 現に先程修一にぶつかつた場合の、あの身構へ、あの白々しさ、あの鉄面皮と高慢――電気に触れたやうにさう思へた刹那、私は悚然と身を縮め、わな/\打震へた。次から次と断片的に、疚しさの発作が浮いては沈み、沈んでは浮びしてゐるうちに、汽車は茅ヶ崎に着いた。
息切れがするので海岸の別荘まで私は俥に乗つて行つた。さまで広からぬ一室ではあるが、窓々のどつしりした絢爛な模様の緞子のカーテンが明暗を調節した瀟洒な離れの洋館で、花に疲れた一同は中央の真白き布をしたテエブルに集まつて、お茶を飲み、点心をつまみ、ブランスウヰックのバナトロープとかいふ電磁器式になつてゐる蓄音機の華やかな奏楽に聞蕩れてゐた。私が入ると音楽は止んだ。私は眼をしよぼ/\させて事の成り行きを告げると、出し立ての薫りのいゝお茶を一杯馳走になつて直ぐ辞し去つた。そして松林の中の粉つぽい白い砂土の小径を駅の方へとぼ/\歩いた。地上はそれ程でもないのに空では凄じい春風が笞のやうにピユーピユー鳴つてゐる。高い松の枝がそれに格闘するかの如く合奏してゐた。私はハンカチーフで鼻腔を蔽ひながら松風の喧囂に心を囚へられてゐると、偶然、あの、十四歳の少年の自分が中学入学のをり父につれられてY町に出て行く途上で聞いた松の歌が此処でも亦耳底に呼び起された。と、交互に襲ひ来る希望と絶望との前にへたばるやうな気持であつた。痛恨と苦しい空漠とがある。私はふいに歩調をゆるめたりなどして、今歩いて来た後方を遙に振り向いて見たりした。――私が春のインバネスを羽織つてゐたことを修一から別れた妻が聞いたら、「おや/\、そないなお洒落をしとつたの、イヨウ/\」と、嘸かし笑ふであらう。そのはしやいだ賑やかな笑ひ、笑ふたびの三角な眼、鼻の頭の小皺、反歯などが一ト時瞳の先に映り動いた。私は相手の幻影に顔を赧らめてにつこり笑ひかけた。私は修一に、「姉さんは、何うしてゐます? どこへ再婚しました? 今度は幸福ですか?」と、謙遜なほゝゑみを浮べて、打開いた、素直な心で一言尋ね得たらどんなによかつただらうにと思つた。彼女は、此頃やうやく新進作家として文壇の片隅に出てゐる私の、彼女と私との経緯を仕組んだ小説も或は必定読んでをるにきまつてゐる。憎んでも憎み足りない私であつても八年の間良人と呼んだのだから、憎んでも憎み甲斐なく、悪口言つて言ひ甲斐もないことなのである。失敗しないやう陰ながら贔屓に思つて念じてくれてゐるに違ひないのだ。たとひ肉体の上では別々になつてゐても一人の子供を、子を棄てる藪はあつても身を棄てる藪はないと言つて妻に逃げ出されて後は、ひとり冷たい石を抱くやうにして育つて行つてゐる子供を中にして、真先に思はれるものは、私の妻として、現在同棲の女でなく、初恋の雪子でもなく、久離切つて切れない静子であるのだから。いとし静子よ! と私は絶えて久しい先妻の本名を口に出して呼ぶのであつた。お前の永遠の良人は僕なのだから――と私は声をあげて叫び掛け、悲しみを哀訴し強調するのであつた。行く手の木立の間から幾箇もの列車の箱が轟々と通り過ぎ、もく/\と煙のかたまりが梢の上にたなびいてをるのを私は間近に見てゐて、そこの停車場を目指す自身の足の運びにも気づかず、芋畠のまはりの環のやうな同じ畦道ばかり幾回もくる/\と歩き廻つてゐるのであつた。一種蕭条たる松の歌ひ声を聞き乍ら。
(昭和七年二月)