楊弓場の軒先に御神燈出すこといまだ御法度ならざりし頃には家名小さく書きたる店口の障子に時雨の夕なぞ榎の落葉する風情捨てがたきものにて※[#「候」のくずし字、161-10]ひき。その頃この辺の矢場の奥座敷に昼遊びせし時肱掛窓の側に置きたる盃洗の水にいかなるはづみにや屋根を蔽ふ老樹の梢を越して、夕日に染みたる空の色の映りたるを、いと不思議に打眺め※[#「候」のくずし字、162-1]事今だに記憶致をり※[#「候」のくずし字、162-2]。その頃まではこの辺の風俗も若きは天神髷三ツ輪またつぶしに結綿なぞかけ年増はおさふねお盥なぞにゆふもあり、絆纏のほか羽織なぞは着ず伝法なる好みにて中には半元服の凄き手取りもありと聞きしが今は鼻唄の代りに唱歌唄ふ田舎の女多くなりて唯わけもなく勤めすますを第一と心得※[#「候」のくずし字、162-5]故遊びが楽になりて深く迷込む恐れもなく誠に無事なる世となり申※[#「候」のくずし字、162-6]。
後藤宙外子が作中たしか『松葉かんざし』と題せし一篇あり。浅草の風俗を描破する事なほ一葉女史が『濁江』の本郷丸山におけるが如きものとおぼえたり。天外子が『楊弓場の一時間』は好箇の写生文なり。『今戸心中』と『浅瀬の波』に明治時代の二遊里を写せし柳浪先生のかつて一度も筆をこの地につけたる事なきはむしろ奇なりといふべくや。『湯島詣』の著者また浅草を描きたることなきが如し。巷に秋立ちそめて水菓子屋の店先に葡萄の総凉しき火影に照さるるを見る時、わが身にはいつも可笑しき思出の浮び来るなり。およそ看る物同じといへども看る人の心異ればその趣もまた同じからず。一茶が句には
一番の富士見ところや葡萄棚
といふがあり。葡萄の棚より露重げに垂れ下る葡萄を見上れば小暗き葉越しの光にその総の一粒一粒は切子硝子の珠にも似たるを、秋風のややともすればゆらゆらとゆり動すさま、風前の牡丹花にもまさりて危くいたましくまたやさしき限りなり。島崎藤村子が古き美文の中にも葡萄棚のこと記せしものありしやに覚ゆ。
今わが胸に浮出る葡萄棚の思出はかの浅間しき浅草にぞありける。二十の頃なりけり。どんよりと曇りて風なく、雨にもならぬ秋の一日、浅草伝法院の裏手なる土塀に添える小路を通り過ぎんとして忽ちとある銘酒屋の小娘に袂引かれつ。大きなる潰島田に紫色の結綿かけ、まだ肩揚つけし浴衣の撫肩ほつそりとして小づくりなれば十四、五にも見えたり。気の抜けし麦酒一杯のみて後娘はやがてわれを誘ひ公園の人込の中をば先に立ちて歩む。その行先いづこぞと思へば今区役所の建てる通の中ほどにて、町家の間に立ちたる小さき寺の門なりけり。門の中に入るまで娘は絶えず身のまはりに気をくばりてゐたりしが初めて心おちつきたるさまになりてひしとわが身に寄添ひて手をとり、そのまま案内も請はず勝手口を廻りて庫裡の裏手に出づ。と見れば葡萄棚ありてあたり薄暗し。娘は奥まりたる離座敷とも覚しき一間の障子外より押開きてづかづかと内に上り破れし襖より夜のもの取出して煤けたる畳の上に敷きのべたり。
あまりといへば事の意外なるにわれはこの精舎のいかなる訳ありてかかる浅間しき女の隠家とはなれるにや。問はまく思ふ心はありながら、また寸時も早く逃出でんと胸のみ轟かすほどに、やがて女はわが身を送出でて再び葡萄棚の蔭を過ぐる時熟れる一総の取分けて低く垂れたるを見、栗鼠のやうなる声立ててわが袖を捉へ忽ちわが背に攀ぢつ。片腕あらはに高くさしのべ力にまかせて葡萄の総を引けば、棚おそろしくゆれ動きて、虻あまた飛出る葉越しの秋の空、薄く曇りたれば早やたそがるるかと思はれき。本堂の方に木魚叩く音いとも懶し。
われその頃より友人に教へられてかのモオパッサンが短篇小説読み始むるほどに、曇りし日の葡萄棚のさま、何となく彼の文豪が好んでものする巴里の好事の中にもあり気なる心地せられて遂に忘れぬ事の一つとはなりけり。怪しきかの寺なほありや否や。
大正七年八月