あらすじ
石川啄木と野口雨情は、北海道で新聞社勤務中に親交を深めます。しかし、その関係は長くは続きませんでした。啄木は、雨情の死を悼み、彼との短いながらも濃密な時間を振り返り、共に過ごした日々や雨情の人物像を、率直な言葉で綴ります。作品には、二人の間で起こったある出来事が描かれており、それが雨情の北海道時代における唯一の波乱であり、啄木の雨情に関する記憶の中でも重要な部分であることを示唆しています。
◎本年四月十四日、北海道小樽で逢つたのが、野口君と予との最後の会合となつた。其時野口君は、明日小樽を引払つて札幌に行き、月の末頃には必ず帰京の途に就くとの事で、大分元気がよかつた。恰度ちやうど予も同じ決心をしてゐた時だから、成るべくは函館で待合して、相携へて津軽海峡を渡らうと約束して別れた。不幸にして其約束は約束だけに止まり、予は同月の二十五日、一人函館を去つて海路から上京したのである。
◎其野口君が札幌で客死したと、九月十九日の読売新聞で読んだ時、予の心は奈何どうであつたらう。知る人の訃音に接して悲まぬ人はない。辺土の秋に客死したとあつては猶更の事。若し夫野口君に至つては、予の最近の閲歴と密接な関係のあつた人だけに、予の悲みもまた深からざるを得ない。其日は、古日記などを繙いて色々と故人の上を忍びながら、黯然として黄昏くわうこんに及んだ。
◎野口君と予との交情は、あへて深かつたとは言へないかも知れぬ。初めて逢つたのが昨年の九月二十三日。今日(二十二日)で恰度満一ヶ年に過ぎぬのだ。然し又、文壇の中央から離れ、幾多の親しい人達と別れて、北海の山河に漂泊した一年有半のうちの、或一時期に於ける野口君の動静を、最もよく知つてゐるのは、予の外に無いかとも思ふ。されば、故人を知つてゐた人々にそれを伝へるのは、今日となつてはあながち無用の事でもない。故人の口から最も親しき人の一人として聞いてゐた人見氏の言に応じて、予一個の追悼の情を尽す旁々かたがた、此悲しき思出を書綴ることにしたのは其為だ。
◎予は昨年五月の初め、故山の花をあとにして飄然北海の客となつた。同じ頃野口君が札幌の北鳴新聞に行かれた事を、函館で或雑誌を読んで知つたが、其頃は唯同君の二三の作物と名をしてゐただけの事。八月二十五日の夜が例の大火、予の仮寓は危いところで類焼の厄を免がれたものの、結果は同じ事で、其為に函館では喰へぬ事になつて、九月十三日に焼跡を見捨てて翌日札幌に着いた。
◎札幌には新聞が三つ。第一は北海タイムス、第二は北門新報、第三は野口君の居られた北鳴新聞。発行部数は、タイムスは一万以上、北門は六千、北鳴は八九百(?)といふ噂であつたが、予は北門の校正子として住込んだのだ。当時野口君の新聞は休刊中であつた。(此新聞は其儘休刊が続いて、十二月になつて北海道新聞と改題して出たが、間もなくまた休刊。今は出てるかうか知らぬ。)
◎予を北門に世話してくれたのは、同社の硬派記者小国をぐに露堂ろだうといふ予と同県の人、今は釧路新聞の編輯長をしてゐる。此人が予の入社した五日目に来て、「今度小樽に新らしい新聞が出来る。其方そつちへ行く気は無いか。」と言ふ。よし行かうといふ事になつて、色々秘密相談が成立つた。其新聞には野口雨情君も行くのだと小国君が言ふ。「※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんな人だい。」とくと、「一二度逢つたが、至極穏和おとなしい丁寧な人だ。」と言ふ。予は然し、実のところ其言を信じなかつた。何故といふ事もないが、予は、新体詩を作る人と聞くと、どうやら屹度自分の虫の好かぬ人に違ひないといふ様な気がする。但し逢つてみると、大抵の場合予の予想が見ン事はづれる。野口君の際もそれで、同月二十三日の晩、北一条西十丁目幸栄館なる小国君の室で初めて会した時は、生来礼にならはぬ疎狂の予は少なからず狼狽した程であつた。気障きざ厭味いやみもない、言語ことばから挙動ものごしから、穏和おとなしいづくめ、丁寧づくめ、謙遜づくめ。デスと言はずにゴアンスと言つて、其度ちよいと頭を下げるといつたふう。風采は余り揚つてゐなかつた。イをエと発音し、ガ行の濁音を鼻にかけて言ふ訛が耳についた。小樽行をたるゆきの話が確定して、まぐろの刺身をつつき乍ら俗謡の話などが出た。酒は猪口で二つ許り飲まれた様であつた。予は三つ飲んで赤くなる。小国君も下戸。モ一人野口君と同伴して来た某君、(此人は後日まで故人と或る密接な関係のあつた人だ。)病後だとか言つて矢張あまり飲まなかつた。此某君は野口君と総ての点に於て正反対な性格の人であるが、初め二人が室に入つて来た時、予は人違ひをして、「これが野口か。」と腹の中で失望して肩を聳かした事を記憶してゐる。十二時頃に伴立つれだつて帰つたが、予は早速野口君をい人だと思つて了つた。其後一度同君の宅を訪問した時は、小樽の新聞の主筆になるといふ某氏の事に就いて、或不平があつて非常に憤慨してゐた。「事によつたら断然小樽行を罷めるかも知れぬ。」と言ふ。予は腹の中で「※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)そんな事はない。」と信じ乍ら、これは面白い人だと思つた。予は年が若いから、憤慨したり激語したりする人を好きなのだ。
◎予と札幌との関係は僅か二週間で終を告げた。二十七日に予先づ小樽に入り、三十日に野口君も来て、十月一日は小樽日報の第一回編輯会議。此新聞は、企業家としては随分名の知れてゐる山県勇三郎氏が社主、其令弟で小樽にゐる、これも敏腕の聞え高き中村定三郎氏が社主を代表して、社長は時の道会議員なる老巧なる政客白石義郎氏(今年根室郡部から出て代議士となつた。)、編輯は主筆以下八名。初号は十五日に出す事、主筆が当分総編輯をやる事、其他巨細議決して、三面の受持は野口君と予と、モ一人外交専門の西村君と決つた。
◎此会議が済んで、社主の招待で或洋食店に行く途中、時は夕方、名高い小樽の悪路を肩を並べて歩き乍ら、野口君と予とは主筆排斥の隠謀を企てたのだ。編輯の連中が初対面の挨拶をした許りの日、誰が※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんな人やらも知らぬのに、随分乱暴な話で、主筆氏の事も、野口君は以前まへら知つて居られたが、予に至つては初めて逢つて会議の際に多少議論しただけの事。若し何等かの不満があるとすれば、其主筆の眉が濃くて、予の大嫌ひな毛虫によく似てゐた位のもの。
◎此隠謀は、野口君の北海道時代の唯一の波瀾やまであり、且つは予の同君に関する思出の最も重要な部分であるのだが、何分事が余り新らしく、関係者が皆東京小樽札幌の間に現存してゐるので、遺憾ながら詳しく書く事が出来ない。最初「彼奴あいつ何とかしようぢやありませんか。」といふ様な話で起つた此隠謀は、二三日の中に立派(?)な理由が三つも四つも出来た。其理由も書く事が出来ない。兎角して二人の密議が着々進んで、四日目あたりになると、編輯局に多数を制するだけの味方も得た。サテ其目的はといふと、我々二人の外にモ一人硬派の○田君と都合三頭政治で、一種の共和組織を編輯局に布かうといふ、頗る小供染みた考へなのであつたが、自白すると予自身は、それが我々の為、また社の為、好い事か悪い事かも別段考へなかつた。言はば、此隠謀は予の趣味で、意志でやつたのではない。野口君は少し違つてゐた様だ。
◎小樽は、さらでだに人口増加率の莫迦に高い所へ持つて来て、函館災後の所謂「焼出され」が沢山入込んだ際だから、貸家などは皆無といふ有様。これには二人共少なからず困つたもので、野口君は其頃色内橋いろないばし(?)の近所の或運送屋(?)に泊つてゐた。予は函館から予よりも先に来てゐた家族と共に、姉のうちにゐたが、幸ひと花園町に二階二室貸すといふ家が見付つたので、一先ひとまづ其処に移つた。此を隠謀の参謀本部として、豚汁をつついては密議を凝らし、夜更けて雨でも降れば、よく二人で同じ蒲団に雑魚寝をしたもの。或夜もうして寝てゐて、暁近くまで同君の経歴談を聞いた事があつた。そのうちには男爵事件といふ奇抜な話もあつたが、これは他の親友諸君が詳しく御存知の事と思ふから書かぬ。
◎野口君は予より年長でもあり、世故せこにもけてゐた。例の隠謀でも、予はがなすきがな向不見むかふみずの痛快な事許りやりたがる。野口君は何時でもそれを穏かに制した。また、予の現在つてゐる新聞編輯に関する多少の知識も、野口君より得た事が土台になつてゐる。これは長く故人に徳としなければならぬ事だ。
◎それかと云つて、野口君は決して
[明治四十一年九月二十一日起稿]

底本:「石川啄木全集第四巻 評論・感想」筑摩書房
   1980(昭和55)年3月10初版第1刷発行
   1882(昭和57)年11月20初版第3刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新聞の雨情逝去の報道で、直ちに執筆しはじめたが、誤報とわかり中断しています。
入力:林 幸雄
校正:noriko saito
2010年5月18日作成
2011年1月17日修正
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