夜の汽車から浪に映る宮島の燭を見ようと思つてゐたが、旅の疲れですつかり眠つてしまつて、眼がさめたころは夜はすでに明けてゐた。中国特有の低い砂山の松の間には赤い百合の花が咲いてゐた。芒の穂につつまれた磯の、広い塩田には朝の露が重く、まだ人の影一つ見えなかつた。
 静かな朝の入り江は、低い砂山をめぐつてさらに眠りからさめたばかりの静かな入り江へとつづいた。潮に沿うて露重げに夾竹桃が咲いてゐた。
 島の影が光り、海の色が磨き上げられたやうにかがやきはじめたころは汽車の窓からは下ノ関の山が見えた。
 わたくしたちはステーション前の俥を雇つて壇の浦見物に出かけることにした。ステーションの前にも、波止場にも、市場にも白い服の朝鮮人たちが群をなして立つてゐた。真夏の日がぎらぎらとかがやいてゐた。殊に藁履のやうなものを穿いた朝鮮の女が、その夫らしい逞しい男の後ろから異邦人の間を、小胯で急ぎ足に歩いてゆく姿は旅人の心を惹きつけた。
 二三日前の雨のために壇の浦に沿うた高い崖はくづれて半ば道を塞いでゐた。そこにも二三十人の朝鮮の人が、日本の工夫たちに交つて土を運んでゐた。
 恰度退き潮だつたので早鞆の瀬戸は白い渦を巻いて流れてゐた。
 二位の尼に抱かれて安徳帝が身を投げられたといふ海の上は道からわづかに三四十間とははなれてないところであつた。そこには赤い浮標がつながれてあつた。御裳裾川が流れてゐたといふあたりには、古びた二階建の家が七八軒も海に沿うて並んでゐた。崖の下の磯では二人の少年がしきりに貝をあさつてゐた。
 四国の山であらうか、九州の山であらうか、縹緲たる煙波をへだてて波の上に横たはつてゐた。かつてそこでは恐らく幾万の人々がわめき叫んで、人の血を貪つたことであらう。戦旗が翻つたことであらう。人間のあらゆる光栄と、努力と、勇気と華やかさと、残忍さとが波の上に描き出されたことであらう。
 黒い波のみが流れてゐた。岸の芒を吹く風は秋のやうに白かつた。
 赤間神社の森は暗いほどに茂つてゐた。網目になつた木の根につつまれて二位の尼、知盛以下二十人ばかりの小さな墓が並んでゐた。それは名もなき行路病者の墓を聯想させた。恐らく里の人々が、岸に流れついたかれ等の死骸を一つに集めて山の根方に葬つたものであらう。苔につつまれたあはれな墓の前に立てば瞼の裏がほてるやうな感じに打たれる。安徳帝の御陵は一段低いところにあるが、わたくしたちが訪ねた日は恰度御命日にあたるといふので開かれてゐた。
      *
 急ぐ旅でもないので博多に下りることにした。
 何といふ宿屋がいいのか知らないので、旅行案内を出して見たが三つの旅館の名が出てゐた。人に訊ねるわけにもゆかぬので眼をつむつてゐて指でさした宿に落ちつくことに決めたが、その宿は去年の冬焼けたといふことであつたので水野といふ旅館にゆくことにした。
 わたくしたちの部屋の直ぐ下は広い河になつてゐて、そこからは青い空も見え、河に臨んだ大きな建物も見えた。箱崎だの千代の松原だのとあわただしく市中をかけめぐつたが、古城の白い水が一番旅人の頭に深い印象を刻みつけた。
 博多は夜の町である。
 夕焼けの空の色と雲の色がこの上もなく美しい。すべての建物も人の言葉も人の姿も、一つの柔かなリズムの中に律動してゐる。
 近松時代から既にうたはれてゐる柳町は恐らく今の場所にあつたのではない筈だが、ともかくその柳町を見ることにした。電車の終点から間もなく、青い稲田にとりかこまれた一廓がある。大門をくぐつて取附きの家からすでに厚化粧をした若い女たちが簾をかけた格子の前に腰を卸して浮かれ男を待つてゐるのであつた。人の善ささうなやりて婆さんが若い女たちと一緒に店の前に立つては夕焼けの空を見たり、笑つたりしてゐた。肌を脱いで化粧をしてゐる女の姿が簾を通して見られる家もあつた。助六の舞台に見られるやうな古風な遊女町の名残りがまだこの青田の中の廓にはそのままに取りのこされてゐるのであつた。
 廓を通りぬけてしまつてから、わたくしたちは紅く燃えた夕焼けのあまりに美しいのに惹きつけられて、しばらく田の中に立ちつくしてゐた。濃く白粉を塗つた女たちが廓の横の橋の上に出て川の面を見つめてゐたりした。
 夜になれば水に沿うて燭がまたたきはじめた。月が夕焼けの雲の間から照りはじめた。人々はわたくしたちの宿の直ぐ下の川にボートを浮かべた。わたくしたちもボートを借りることにした。わたくしは十幾年振りに月下にボートを漕いだ。橋の下をくぐり、又橋の下をくぐりながら幾度かボートを橋杭に打ち突けながら川を下つた。
 わたくしたちはボートを下りて夜の街を歩いた。
 東京への土産にと思つて博多人形をあさつて歩いたが、近ごろのものは立派にばかりなつてゐて気品が乏しいので買ふことは止してしまつた。
 夜の十二時幾分の汽車で鹿児島に立たなければならぬので、わたくしたちは早く寝ることにしたがほとんど眠れなかつた。十二時ちかくなつてわたくしは起きた。水の上にも月が照つてゐた。街の人通りも絶えてゐた。水の上にも広告塔の電燈の光りが赤い、青い光脚を投げてゐた。水をへだてて梟の声が聞えた。まだ誰も眠つてゐた。
「これからまた遠い旅をつづけなければならぬ」わたくしは眠つてゐる人々の顔を覗きながらかう思つた。冷たい微風が川の面から流れて来た。旅といふ感じがしみじみと迫つて来るのであつた。
「起きるんですよ」わたくしは少年を揺りうごかした。少年は容易に起きなかつた。少年は眼をさましてはわたくしを見て微笑んだ。かれは再び眠るのであつた。わたくしは少年を揺り起した。少年は眼をさましてはわたくしを見て微笑んだ。かれは三度眠りこけた。
「さあ、もう起きるんですよ。汽車に乗るんですよ」わたくしは一層のこと翌日まで時間を延ばさうかとさへ思つた。旅といつては東京から箱根以西に出たことのない少年が、はじめて親の手から離れてわたくしだけを頼りに、遠い旅までも踉いて来るのだと考へるといぢらしい気にもなるのであつた。わたくしは少年が寝ぼけたままわたくしの顔を見て微笑むたんびに涙ぐましい気にさへなるのであつた。少年は起き上つた。そしてなほ眠つてゐた。
 わたくしたちは冷たい真夜中の微風に吹かれながらステーションへ行つた。わたくしたちは再び梟の声を聴いた。
 疲れた旅人たちはいぎたなくクッションの上に眠つてゐた。
 鹿児島行きの汽車は殆んど満員であつた。蒸すやうに暑かつた。それでもわたくしたちは博多の宿では三十分ぐらゐしか眠らなかつたし、ひどく疲れてゐたので直ぐに眠つてしまつた。筑後川を渡つたことも知らず、熊本を過ぎたことも知らなかつた。殊に球磨川に沿うて千七百尺の矢岳を越えて、鹿児島に入るまでは幾十といふトンネルをくぐらなければならなかつたのであつたが、眠つてゐたので何も知らなかつた。
 S少年の声が聞えた。
「人吉には下りないのですか?」
 少年はわたくしが前夜、「都合によつては人吉に下りて古城の跡を見よう」と語つたことを記憶してゐたのであつた。
「止しませう。もうすこしおやすみなさい」わたくしはかう言つて少年を寝床に就かせた。まだ夜はほの暗かつた。
 五時少し過ぎたころからであつたらうか。わたくしは急に横腹がひきつるやうに痛むのを感じた。どうしてもわたくしは眠れなくなつた。夜が追々に明けて来た。
 七時幾分かにわたくしたちの汽車は吉松に停まつた。ここは日向線の分岐点である。
 夜明けたばかりの山はまだ朝霧につつまれてゐた。高原の寂しい駅である。青い山につつまれた盆地である。わたくしたちはそこで次の汽車を待つために一時間ばかりも待たなければならなかつた。わたくしは刻一刻にはげしい腹痛を感じた。わたくしは一時間ばかりの間に二度厠に立たなければならなかつた。
「昨夜博多で海月を食つたが、あれが悪かつたのかも知れぬ」などと詮もなきことなどを考へたりした。
 ステーションの前の山では老鶯がしつきりなしに鳴いてゐた。のうぜんかづらの[#「のうぜんかづらの」は底本では「のうぜんかつらの」]花が青い木立に対して輝くほどに咲いてゐた。
 牧園に着くまでの汽車の間でもわたくしはかなりひどく苦しんだ。
 偶然にも汽車の中で逢つたK氏は沿線の山を指さしながら「この附近の山の間には最も古雅な舞が残つてゐます。誰か来て真面目に研究して貰ひたいものですが……いつたいこの附近は昔から藩主自身非常に舞を奨励したもので、地頭などは農民を狩り出して無理にも踊らせたものです」などと語つた。
 芭蕉も南国らしい葉の美しさを輝かしてゐた。谿といふ谿には美しい竹の林があつた。そこには見るからに小さな農家があつた。山には絶えず鶯が啼いてゐた。
 牧園といふ小さな駅に下りて、そこから四里の山道を自動車に揺られなければならぬのであつた。この附近は国分煙草の本場なので刈りのこされた煙草の葉が山の畑にすくすくと繁つてゐた。軒には赤い葉が吊されてゐた。自動車は草山を縫ひ、谿をめぐつて歩一歩霧島に近づいてゆくのであつた。山は雲につつまれてゐた。振りかへれば桜島が見え薩摩潟が見えた。種馬所の仔馬が柔かな草をはみながら母馬をめぐつて戯れてゐるのもいぢらしかつた。谿川の音が深い森林の底に、響いて来た。
 栄之尾えのお温泉から三四丁手前で自動車を捨てて、そこからは谿川に沿うて歩かなければならなかつたが、わたくしは再び腹痛になやまされた。先づ妻を温泉にやり人手を借らうとしわが言葉が通ぜず、十歩にして止まり、五歩にしてたたずみながら雨あがりの山道を辿つて行つた。
 温泉宿にたどり着くと共にわたくしは寝床を敷いて貰つて寝た。悪寒に全身がわなわなと顫へるのであつた。わたくしはかつて芭蕉と病んだ曽良とが旅に別れた折のことなどを思ひ出した。
「ゆきゆきてたふれふすとも萩の原」わたくしは曽良の句を人ごとならず口ずさんだ。
「空が美しい、山の色が美しい」などと人々は窓の外を眺めて言つた。わたくしは眼を開く勇気もなく俯向いたまま寝てゐた。蜩の声と谿川の音にまじつて老鶯の鳴く音が部屋まで響いて来るのであつた。
 霧島の山腹の、種馬所附近に住んでゐるNといふ医師が馬に乗つて見えた。恰度宿の主人がその日肋骨を折つて倒れたため三里隔てた牧園からN氏はかけつけて来たのであつた。その序に医師はわたくしを診てくれた。少し熱があるから、すつかり下剤をかけた方がいいだらうといふので、蓖麻子油を飲むことにした。五十グラムまでは大丈夫だと言つてN氏は五郎八茶碗になみなみと蓖麻子油を注いでくれた。
 わたくしは眠りに落ちてはまた胸苦しさに眼をさました。
 わたくしが眼をさましたころは日が暮れかかつてゐた。桜島をつつんだ暮色が刹那々々に移り変つてゆくのであつた。国分から加治木あたりの谿はすつかり白い霧の底にかくれてしまつた。湯治客の白い浴衣の影が流れの縁や、繁みの下に消えてゆくのをわたくしはじつとながめてゐた。
 夜の十一時ごろであつた、宿の老人が「大隅の市来さんが只今牧園から山に着かれました」と教へて来た。市来先生はわたくしの中学時代の唯一人の恩師である。
「直ぐお伺ひいたすのですが、体を悪くして臥つてゐますので、失礼ですが先生にお越しを願ひます」とわたくしは老人の使にことづけてやつた。あまり遅いからといふので市来先生はその夜は見えられなかつた。
 翌日はわたくしたちは市来先生と一緒に硫黄湯だの、明礬湯だのをたづねてまはつた。そこは、到底東京近くの温泉地に見ることのできない原始的なものであつた。人々はたいていは自炊をやりながら逗留してゐるのであつた。こけら葺きの古い傾きかかつた湯の宿は、いかにも山の湯らしい落ちつきを与へた。湯治客たちは谿に沿うて柴を拾ひ、山水に米を洗うてゐた。
「最も真剣に神を愛するがゆゑに教会を捨てた」市来先生は人生の苦痛といふ苦痛を嘗めつくして二十年振りにわたくしの前を歩いてゐるのであつた。今では家を捨てて、一人の婦人と共に大隅の小ひさな町に、かつて先生自身予想もしなかつたであらうやうな生活を送つてをられるのであつた。
 市来先生が大隅のはてから山を越え、海をわたつて霧島までわたくしをたづねて来られたことを思ふと、わたくしは何と言つていいかわからないほどの感激に打たれた。それでゐてわたくしたちは殆んど何も語らなかつた。
 月が霧島の谿をも照らした。月も星も、今までに見たことのないほどに美しい光りを持つてかがやいてゐた。虹のやうな月の輪が魔の淵のやうな大空にかかつてゐた。
 山の麓の野も谿も霧の海につつまれてしまつた。月の光りが香ふばかりの霧を照らしてゐた。
 夜が更けるまでわたくしたちは市来先生と語つた。中学時代に市来先生の家にゐたMが欧洲航路で死んだことや、またTの弟が自殺したことなどが話題に上つた。
 市来先生は翌朝山を下りて大隅に帰られた。まだ麓の谿は霧にとざされてゐた。山の嶺だけが霧の海の上に恰度群島のやうに浮かんでゐた。霧の海の底を先生の俥は下つて行くのであつた。
 午後わたくしたちは韓国嶽からくにだけに上ることにした。霧島第一の嶺である。栄之尾の湯の宿の直ぐ後から道は非常に急であつた。一人の案内者を先達にしてわたくしたちは三抱へも四抱へもあるかやだの、ゑんこうもみぢだの、赤松だのの茂つた処女林を一里ばかりも歩かなければならなかつた。山は茂つてゐたが明るかつた。何といふ小鳥であらう、梢から梢の間を囀りながら飛んでゐた。葉の光りのあまりの美しさに恍惚としてわたくしたちはしばしば立ち止まつた。そこでは路傍の一茎の羊歯の葉すら捨てがたき輝きと香とを持つてゐた。かけすや鶯の声が谿川の音につれて絶えず響いて来るのであつた。巨躯を横たへた倒木を越ゆるごとにわたくしたちは幹の冷たい苔に手や頬を触れて見た。
 霧は樺の林の中を音もなく走つて行つた。わたくしたちは野苺を摘んでは食つた。
 処女林を通り過ぐれば山は急に展けて、そこには柔かな草の葉が八月の日の光りを曠野いつぱいににほはせてゐた。
 躑躅や、空木の間から、草の光りを滑るかのやうに、鶯の声が流れて来た。
大波おほなみの池が見えます」と案内の男が叫んだ。韓国嶽を背景として、千年の処女林につつまれた大噴火口は海抜五千尺の雲と霧を凝り集めて碧緑の大波池を湛へてゐるのであつた。周囲二里の、絶望に凭れる森林に抱かれたる山頂の池は、千尺の崖下に万古の聖泉を撫しつつ昼は紺碧の空を宿し、岫を出づる白雲を泛かべ、夜は銀河の影を沈め、月光を祕するのであらう。
 何といふ聖麗、何といふ静寂! 韓国の青い岫を出でたる白雲は大波の池に銀影を投げては、柔かな高原を草を舐めて谿に落ちて行く。
 韓国の影と空の影と交はるところに一脈の銀線が池中を二分して、波は池の半面にかすかなささやきを立てた。
 わたくしは未だかつてこのやうな静かな、美しい山上の池を見たことがない。人間が近づいて行くにはあまりに聖い池である。それは天空と、星と白雲の影のみを宿すために神によつて作られた池であるやうにすら思はれた。
 わたくしたちは崖を下りて池の岸に立つた。案内者に踉いて来た五郎といふ犬が真つ先きに池の中に飛び込んだ。そしてかれはわたくしたちが池の縁にゐた間殆んど一時間余も水中に突き出た岩の上にしやがんだまま身じろぎもしなかつた。わたくしは池の霊気に打たれた五郎を興味深く観た。
 池の面をかすめて郭公が鳴きながら飛んで行つた。七八丁も隔つてゐるであらう向う岸から絶壁の古林にこだましつつ響いて来る笛の音の如き哀韻を聴いた。河鹿の声である。荘重といふべきか、森厳といふべきか、人間の技を絶したる大自然の交響楽である、わたくしはあまりの感激に草の中に踊り上つた。
 わたくしたちは岩に腹這ひになつて池の水を飲んだ。聖泉とはこんな泉を指すのであらう。
 山も池の面も雲につつまれてしまつた。わたくしたちは薄暮の山道を下つた。
 昔、日向の大酒屋の美しい娘が大波の池に沈んで、池の主となつたという伝説などを案内の男は語つた。
 夜は十五夜の月が水の如く澄んでゐた。わたくしは眠るのが惜しくて真夜中まで起きて谿川の縁を歩いた。大波の池に映つてゐるであらう月光の美しさを想像しては空を眺めた。ここでは月も星もまつたく大空に浮き出てゐる。平面ではなく一つの球体そのものとなつて空間に燃えてゐる。
 桜島も、加治木も月光の下に淡彩の絵を描いてゐるのであつた。
 わたくしは不図、わたくしを呼ぶ声に立ち止まつた。牧園村長M氏であつた。M氏の風貌は霧島の自然そのものの如く朴々たる無量の温かさを感じさせる。
 M氏等は月下にこの地方特有の焼酎飲みをやつてゐるのであつた。
 月明の夜に焼酎をあふつて、歌ひ舞ふ素朴な生活はわたくしをしてバアンズの詩に見るスコットランド人のそれを想はせた。
 長者に対する美風、豪健なる薩摩隼人の意気、それ等は恐らくこの国の山、この海に於いて純朴なる焼酎飲みの[#「焼酎飲みの」は底本では「焼酒飲みの」]間に養はるるものであらう。
 月は霧の海を照らし、山を照らしてゐる。耳を傾くればわたくしたちは黝い森林の奥から、霧の海の底から焼酎飲みの哀々たる歌を聴くであらう。
 翌日の午後わたくしたちは鹿児島に立たなければならなかつたが、わたくしは再び大波の池を訪ねて行つた。
      *
 山の人々に送られてわたくしたちは自動車に乗つた。急峻なる赭土道を駈け下り狭い曲り角に来るたんびにわたくしたちは腋下に冷汗を覚ゆるのであつた。
 四里の山を下つて牧園に着いた時は、夕焼空の色が放牧の馬の背にたゆたうてゐた。竹林につつまれた小ひさな農家や、栴檀の並木の下の乗合馬車などが遠い南国の旅に来たといふ感じをしみじみと湧かせた。
 電話をかけてゐる若い駅員の言葉は恰かも女のやうにやさしかつた。子供等は泉をめぐつて水を掬んでゐた。
 国分を出て間もなく隼人塚といふのを見た。線路に沿うた小高い丘に二基の塚と、他に甲冑武者のやうな石像とが竝んでゐる。塚は塊のやうな形になつてゐてかなり大きなものである。昔熊襲の征伐のころ、かれ等の霊魂を慰めるために建てられたものだといふ伝説があると案内の男が語つてゐた。
 月は薩摩潟を照らしてゐた。桜島を背景とした薩摩潟の月は、須磨で見た月以上に落ちつきと、寂しさを持つてゐた。芭蕉がつひに薩摩潟を見ることなくして死んだことや、西郷と月照とが相擁してここの海に投じたことなどを思ひながらわたくしは桜島を眺めてゐた。海に沿うて鹿児島の街の燈が明滅するのを見た刹那、ほんたうに遠い旅をつづけて来た寂しさが涙ぐましいほどに胸を突いた。
 鹿児島の駅から山下の薩摩屋の別荘まで行く間にわたくしたちは夜の鹿児島の町を見た。
 白い浴衣がけの人々が石塀の多い町を歩いてゐた。枝のままのバナナがどこの果物屋にもつるされてあつた。二つに割つた大きな西瓜だの、まくはうりだのの多いのも南国らしい感じを抱かせた。
 旅館は元島津公の茶亭であつたといふことであるが、質素なものであつた。
 朱欒の葉が蓮の池をめぐつて繁つてゐた。夜つぴて枕もとの池で蛙が鳴いた。この附近ではお茶盆といふものが深い曲げ物になつてゐて、一つ一つ蓋をつけてあるのが古風な感じを与へる。わたくしたちは蚊を追ひながら、夜更けまで月をながめた。
 翌日は県庁のM氏の案内で磯別邸や集成館を見た。集成館には維新前にすでに島津家に輸入されてゐた十八呎の旋盤や、紡績機械や、またここで作られた極めて上品な切り子の硝子や、所謂古代薩摩焼などを見た。今の集成館の場所は元、紡績工場があつた場所で、集成館そのものは紡績工場をそのまま使用して作られたものであるといふことであつた。
 島津家の文化が如何に他藩に比較して進んでゐたかといふことについてわたくしたちはしばしば驚嘆の声を洩らした。南洲翁以下の墓を展した時、わたくしは十四年或ひは十五年といふやうな少年たちの墓を見た。わたくしは南洲翁の人格の偉大さと同時に、頼母しい人間の心の美しさに涙ぐまずにはをられなかつた。
 南洲翁の墓の裏の参考館では、わたくしたちは会津戦争に於いて戦死した一薩摩隼人の守袋を見た。その中には京都滞陣中に井筒屋の或る子と馴染んだ手紙だの、その女の写真などがはひつてゐた。
 またそこでは天吹といふ尺八を小ひさくしたやうな竹の楽器を見た。昔は陣中に携へたものださうである。音は尺八に似てさらに哀切なるものである。南洲翁を始め薩摩隼人なるものがいかに多感の士であるかを想像せずにはをれなかつた。
 夕焼けの空に映る薔薇色の桜島の眺めは、城山の墓と共に最も強くわたくしの印象に刻まれた。城山が落ちたのは九月二十四日の払暁であつた。記録によると二十一日は満月であつたやうだ。さうすると二十三日の夜も恐らく美しい月の夜であつたらうと思ふ。汚れた軍服を脱ぎ捨てて、新しい薩摩絣に着替へて、月明りに照らされたかれ等の誕生の町を眼下に見ながら、死を決したであらうかれ等の歴史は、壇の浦の哀史に次ぐべき美しい詩である。
      *
 鹿児島を出でて人吉ひとよしに入り、さらに自動車を駆つて球磨くま川沿ひの林温泉に泊ることにした。窓によれば球磨川の流れは十尺の下にあり、ここにも老鶯啼き、五位鷺は絶えず河をさかのぼつて翔つてゐる。湯の設備もすこぶるいいといふことであつたが、噂通りに湯も美しかつた。
 汽車を人吉に下りた唯一の目的は球磨川下りであつた。
 わたくしたちは宿の直ぐ後ろから軽舟に乗つた。梶は舳についてゐて二十ばかりの船頭と、その弟らしい十歳くらゐの男が梶をとり、棹をさすのであつた。
 わたくしたちの舟と前後して更に一艘の舟が流れを下つた。
 切り岸のやうな山の上には青々とした杉の林があり、そこには雪のやうに白い一羽の鷺が朝の日の光りを浴びてゐた。
 舟は瀬を下るごとに銀潭の中に舳を沈める。そのたんびに人々は快哉を叫ぶ。舟は巧みに岩と岩との間の狭い奔湍を越えながら矢の如く走る。
 崖に沿うて家があり、径がある。たまたま馬を追うて行く村娘を発見すれば人々は急流の中から山径を仰ぎて叫ぶ。娘たちも答へる。
 一勝地、舅落し、清正公などと船頭はわたくしたちを振りかへつて叫ぶ。
 槍倒し岩といふところを下るのが一番愉快であつた。水が岩の根を噛んで恰かもトンネルを縦半分に切つたやうな形になつたかなり長い岩の中を舟は急流と共に走る。そこだけは、人吉の城主相良氏も槍を倒さなければ通れなかつたといふのでこんな名が出たといふことであつた。
 矗々たる山と、山との間に八月の空がわづかに展けてゐる他には、満目悉く奇岩と銀湍のみである。瀬を下つては幾度か全身飛沫を浴びて快限りなきを覚える。南画に見るやうな軽舟を舫つて、人々は急流に鮎を釣つてゐる。亦、一点景である。
 林から白石まで約六里、三時間の航程である。白石を下つて間もなく流れは淀み河幅は展ける。白帆を孕ませた軽舟が碧水をさかのぼつて来る。
 白石から汽車に乗つて、球磨川に沿うて熊本に行つた。
 去年遊んだ雲仙嶽が有明の海を隔てて車窓に迫つてゐた。山には雲がかかつてゐた。妻の叔母にあたる人がかつて、江戸を去つて天草に住んだことがあつた。わたくしたちはその不運な老人のことを話しながら天草を眺めた。
 阿蘇に行く宮地線の汽車を待ち合はせるためにわたくしたちは熊本駅で下りた。その間の時間を利用して水前寺すゐぜんじを見ることにした。
 水前寺の水は、その水の量も二十年前のわたくしの記憶に比ぶれば涸れてゐたやうな気がした。そこの茶亭の印象は暗かつた。
 わたくしは熊本駅附近の店から店へと歩いて行つた。そしてそこではわたくしの水前寺に於ける暗い印象はすつかり改められてしまつた。人々はみな親切であつた。どの店に於いてもわたくしは旅人が感ずるホスピタルなやさしさを抱くことができた。
 鹿児島に於いてわたくしは殊に人の心のあたたかさを感じた。熊本に於いてもわたくしは美しい人々の心を感じた。
      *
 熊本を出て間もなく汽車は阿蘇の高原地帯へかかるのであつた。老杉の並木と、輝く煙草の畑が高原の間を縫つてゐた。
 すさまじいほどの大煙柱がもくもくとして高原の涯に立ち昇るのであつた。空は輝き燃えてゐた。
「阿蘇だ!」わたくしたちは窓を明けて巨人の姿を見た。
 立野で汽車を捨てて、さらに一里余の峻路を懸崖に沿うて俥を[#「俥を」は底本では「伸を」]やらなければならなかつた。
 栃の木温泉といふ深谿の温泉宿についたのは薄暮であつた。
 ここはまだ極めて原始的な温泉場である。自炊をする客が多いといふことだが、馬の背に運ばれた小笹の束が宿の前に積み重ねられてゐる。馬はいつたいに小ひさいが、みなおとなしい。一人の女で二頭の馬と、さらに仔馬を連れてゐる。或ひは牛と馬とを一緒に曳いて来るものもある。
 宿の下の谿川に出て薪を拾ふ老媼もある。
 幽谿につつまれた温泉宿の窓からはわづかに天の一方しか見られない。夜になれば河鹿が鳴く。
 蜩が鳴くころになれば宿の人々は河原に出て遊ぶ。
 夜明け方になつてわたくしたちは初めて有明の月影のみを窓の下の流れに見る。谿があまり深いために月も星も一部分しか見ることはできぬ。
 わたくしはまた昨日から病んだ。今日は一里半ばかり離れた阿蘇の病院から馬に乗つた若い医師が見えた。若い医師は去年都会地から阿蘇の高原地に移つて来たといふことであつた。家が山間に遠く散在してゐるために一人の患者を見廻るに三時間はかかるといふことであつた。
 かれは人懐かしげにいつまでも話して行つた。ここでは夕暮の風は秋よりも寒い。

底本:「現代日本紀行文学全集 南日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
入力:林 幸雄
校正:岩澤秀紀
2012年11月23日作成
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