明治廿二年二月の憲法発布の日はその夜明けまで雪が降った。上野の式場に行幸みゆきある道筋は、はき清められてあったが、市中の泥濘でいねいは、田の中のようだった。
 上野広小路ひろこうじ黒門町のうなぎや大和田おおわだは、祖母に金のことで助けられていたので、その日も私たち子供に、最大公式の鹵簿ろぼを拝観させようと心配してくれた。
 うなぎやの親方は、私の父に揚板あげいたの下のうなぎを見せて、あらいのをざるにあげて裂いた。父は表二階でさかずきを重ねはじめた。今朝けさから、というより昨日きのうから、芽出度めでたい芽出度といって、何かにつけてはお酒を飲んでいるので、あんぽんたんはそれをまた心配していた。
 なぜなら、その目出たい日の午前あさ、文部大臣森有礼もりゆうれいが殺されたと、玄関からけ込んできて知らせたものがあったとき、わけも知らず胸がドキンとした。またすぐあとで、西野文太郎にしのぶんたろうがギザギザに切殺された――死骸しがいを入れた棺桶かんおけが通る――血がポタポタ垂れている――と、ほんとかうそか、ワッという騒ぎが来て、越中島の練兵場で、ズドンズドン並んで、鉄砲でやられているのと、盛んな蜚語ひごが飛んで、人々は上を下へと、よろこんだり青くなったり、そのなかを市中は、菰樽こもだるのかがみをぬいて、角々かどかどでの大盤振舞おおばんぶるまいなのだから(前章参照)、幼心には何がなんだかわからず、大きな鰻をさかせたり、お酒をのんだりしている父と、戸外そとにいることがたよりなかった。
 思えば父たちのよろこびは、父祖ふそみな、町人といやしめられてきた長い長いからを破りうる、議会政治をむかえるため、ここに新憲法の成立発布を、どんなにどんなにか祝したく思ったのであろう。江戸に生れて、志望を立てたのか、流行でなったのか知らないが、剣を学んだ壮士が、幕府の倒壊をよそに見、朝臣ちょうしんとなり、転じて自由党に参加して野人やじんとなり、代言人となった彼は、自由民権といい、四民平等ということに、どんなにか血をかしたのであろう。それは一人の江戸町人のせがればかりではない、国をあげて平民はよろこんだのだ。
 ――おれたちの時世がくる――
 それが六十二議会で、議会はただれきったものになって民心に嫌厭けんおをさえ感じさせるようになろうなどとは思いもかけず、彼は赤黒くなるほど飲んで祝したのだ。

 私は十才とおにならない小耳にも、よく父が、
「俺は六十になったら代言人(弁護士となっていたかもしれない)をよす。若いものも、はなやかに隠退させるといっている。」
と口ぐせのように言っていたのを覚えている。淡白で、頑固で、まけずぎらいで、鼻っぱりだけ強い、やや軽率と思われているほど気の早いところのある、粘着性のうすい、申分ないほど、末期的江戸気質タイプを充分にもった、ものわかりはよいが深い考えのない、自嘲じちょう的皮肉に富んだ、気軽で、人情深くユーモアな彼は、なんとしても自分が法律なんぞという畑の人間でないことを、事ごとに思いあたっていたものであろう。だが、生れ土地で、地盤というものを、すこしでももっていたためか、選挙時にはゴタゴタしていた。
 ――日本橋区選出議員は改進党の藤田茂吉ふじたもきち氏だったが、その後楠本正隆くすもとまさたか氏が、政友会から出る時、輸入候補だというので、地元への折合を担ぎこまれていた。いわゆる顔役――そんな時に、人を担いで顔をうっている区内の政治好きが、楠本氏に草鞋わらじ穿かせ、はかまのももだちをとって連れてきた。握飯にぎりめしも持っているのだという。旅から来て、新選挙地に草鞋をぬぎ、土着どちゃくになるのを意味するのだときいたが、嘘の皮で、その前日にも打合せに来ている。区内になんぞ住みもしなかったが、ともあれ、選挙ブローカーが附いて、その姿で戸別訪問をはじめた。だが、おひとよしの町人は――日本橋区は金で動かないからという策略があたって、握飯をもって、草鞋で歩くとは、清廉せいれんな人だと当選させた。楠本氏はえらい人だというのに、こんな芝居めいた所作しょさをするのが、あんぽんたんには、代議政治を委任される代議士というものが、妙なものとして印象された。

 深川の木場きばが、震災の幾年か前まで、土地っ子で帽子をかぶったものが歩いていなかったように、日本橋区大門通辺では、明治三十年ごろでも、帽子をかぶって歩いているものはすけなかった。それは大よそゆきの旦那だんなに限られた。旦那たちもひもまでこった前掛まえだれをかけている。ましておみせの人は羽織を着たのもすけない。男の子は日清戦争後、めくらじまうわっぱりを着るようになって筒袖つつそでになった。やっぱり盲目縞めくらじまの(黒無地の木綿)前垂れをしめている。小僧さんが筒袖になったのはそれよりずっとあとだ。それもやや文化的商業、鉄物屋とか機械商とか、横浜と取引関係のある店からあらためはじめた。
 だが、そんな小さな改良のかげにも、あらそわれない物の推移があった。父は家業がら、近所の商家からの依頼をうけるので、店の推移について心を動かされもしたのであろう、よくこんなことを言った。
「黒い、大きなはんこが、朱肉になってくると、商業あきないの具合がちがってくるな。」
 紫色のスタンプなぞは、まだ見られないのだった。問屋筋のかたぎのうちでは、大きな、極印ごくいんのような判をベタベタと押した。実印も黒色くろだった。それが朱肉の、奇麗な印判いんばんになると、自然古い商業の、法則と反したものが流れてきて、古い取引が倒れたり、新らしいやりかたが破産したりしたものと見える。
 あたしの家の近所で、一番早くなくなったのが、両換屋りょうがえやと、煙管キセルらお問屋だ。
 大問屋町にすむと、土地の名によって、地方取引先の信用につなげるので、この大店おおたなの中にあって、びっくりするような小店舗がある。こういう人はきっと他所よそから、必ず成功しようと、掻分かきわけてもぐり込んでくるのだから意気込みが違う。笑われようとあきれられようと、そんな事にはむとんちゃくで、活気が資本もとでだ。
 隣り蔵と隣り蔵との間に、便宜上露路のある場処がある。片っぽの土蔵のほんのさしかけが、露路口にあって、縄をしまう納屋にでもなっていると、その、たったたたみ一畳もない場所を借りうけようと猛烈な運動をする。昔から土一升、金一升の土地でも、にはならない高いことをいって、断わっても借りてしまう。とにかく畳一畳へ造作をして、昼間は往来へはみださした台の上へ、うず高く店の商物しろものを積みあげる。この割込みが通れば一ぱしのものだ。いつの間にか、露路上へまで乗り出し、差かけ二階が出来上り、どこへあれだけの人数が寝るのだろうと思うほどの店員が住んで働らき出す――実際古くさい大店おおみせの、よどんだ中に、キビキビとそんなのが仕出すと、小気味がよいが、近隣の空気はどことなく変って、けいはくになってくる――
 そこで、あんぽんたんの家庭うちにも、少々変革があった。それは弟が生れたからだ。
 ひなの節句の日に、今夜、同胞きょうだいが一人ふえるから、蔵座敷に飾ってあるお雛さまをしまえと言いつけられた。その宵、私たち小さくかたまって、おとなしくしていると、八十二になっていた祖母が引裾ひきすそを、サヤサヤと音たてて、チンボだよチンボだよと言いながら父の方へいった。
 国会開設前であった。父は一体遅い子持ちなのに、思いがけなく男の子が出来たので、興奮したのか、国会太郎としようかのと、変な名を言い出したりしたが、凡庸であった時に困るであろうから、きわだった名はつけぬものだと、祖母にいさめられていた。
 生れた弟は弱い子で、真綿とフランネルと絹にくるまっていた。
 男の子を生む――家督取あととりを生んだということが、旧式な家庭における主婦の位置を、どんなに高めたか――
 親類というものからも、出入でいりというものからも、お手柄でございましたという讃詞さんじと、張込んだ祝いものがくる。そこで、母の勢力が増して強くなった。
 議事堂が焼けた。議事堂炎上ということは、人の足を空にした。
 あたしうちでも、いくつ弓張りや手丸提燈てまるちょうちんを入れて出してやったかわからない。議事堂です、議事堂ですと、各自みんなが口々に言った。丸の内の火事は、旧幕時代でも、町奉行、火消掛、お目附めつけその他役附老中の出馬、諸大名の固め、町火消、諸家おかかえ火消と繰出して、持場持場についたものだが、当今、城は宮城であり、何しろ議事堂の失火だからと、父ははなしてくれた。単に建築物が焼け滅びるという言葉意外に、大きな衝動をうけたに違いない。

 そのころは、まだ写真術が幼稚だったし、新聞の号外もまだ早く出なかったから、私たちに目から教えたものは、やはり木版ずり三枚つづきの錦絵にしきえだった。ここに入れるのに丁度よい議事堂の火事の絵をもっていたのだが、どこへか失ってしまった。私は昨日も今日も、随分たんねんにたずねたが見えないのですこしがっかりしている。

 人は何かあると、家の中になんぞいられるものではないと見える。童女のあんぽんたんの知る憲法発布もそうだったが、日清戦争のはじまった時もそうだった。ただ、ワアーと男たちが外へ飛出した。ただすたすたと駈けてゆく。下駄で、前垂まえだれがけの、縞物しまものの着つけの人ばかりの町だ。かわった風体ふうていのものが交ったって目にもはいりはしない。なんだか妙に、にぎやかにさびしく、興奮した顔というのか、近火へでも駈けつけるように、誰も話しあいもしないで、すたすたと、各自めいめいバラバラに駈けていった。女たちは落附かない、びっくりしたような、ポカンとした顔を門口かどぐちに並べていた。
 戦争だ!
と誰かが叫んだ。みんなが駈けてゆくさきは交番だった。何か張紙がしてあって、巡査さんが熱そうな顔をしていた。交番の前は、遠くから黒山の人だかりでもみあっていた。そろそろ帰ってゆくものもあって、その人たちは、青くひきしまった顔附きで家へと急いだ。今思えば、宣戦布告と召集の張紙であったのであろう。もう涙ぐんでいる娘さんや、前垂れを眼にあてているひともあった。何しろ下駄の音は絶間なく走った。
 ここで一言いわせてもらえば、ここまで書いてきた日本橋で、あたしという子供が、すこしでも小利口に見えるようならば、書きかたが大変わるく、なっていないのだ。一月ほど前に北京ペーピンから帰ったあんぽんたんの妹おまっちゃん(前出)が、成城女学部にいるめいをつれてきて、何かクスクスにこついていたが、いわく、
「あなたって子は、ずいぶん呑気のんきな、阿呆あほったらしい子でしたがねえ、ええ、かなり大きくなったって、何だかぼんやりしてたわ。」
 まさにその通り、総領の甚六と、利発な妹とであったのだ。
 その甚六が俳句をつくる真似まねをする――私は和歌のつもりだったのだが――当時父が俳書をひねっていたので、母は一概にそうきめてしまって、父の方へ抗議がいった。
「あなたが、そんなくだらないものを読んで、考え込んでおいでなさるから、子供のくせに真似をして黙りこんでいて、溜息ためいきなんかつくから、陰気くさくって困るじゃござんせんか。」
 父はおかしな人だった。恐縮して俳句をやめ、私をしからないで、あんの山からこんの山へ、飛んでくるのはなんじゃろか、と頭に二本、指だか扇子だかを、兎の耳のようにおったてる小舞こまいを、能の狂言師をまねいて踊りだしたが、そんな小謡こうたいは父が汗を出して習うより早く、障子しょうじにうつる影を見て、子供たちの方がおぼえてしまった。
 あんの山よりこんの山へとか、かしらに二つ、フッフッとか、誰もかれもがうたい、踊りだすので、父が照れてめて、こんどは茶の湯、家中が、そろりそろりと畳をすってあるく――だが私の溜息ためいきをついたのは、別段、父の真似をして黙想したのではなく、胸にやまいをもちはじめたのを誰もが思いもつかなかったのだ。堅い棒で肩をたたいたり、肋骨ろっこつをもんだりするのを、ただ読物のせいにばかりした。机によりかかっているからだと厳しくとめられた。
 ところで、悲惨なことに――あんぽんたんにとっても悲惨なことに、源泉学校は(前出)やっと尋常代用小学校となったのに、校長秋山先生が疫病えきびょうで急に死んで学校がなくなった。温習科二年にたった一人の生徒あたしは、それをしおに学問はやめ、裁縫おしごと稽古けいこにやられる運命になった。

 ここに、日本橋住人の一家族として紹介しなければならない人たちはまだ沢山ある。思えば私はおかしな人たちの中にばかり育ってきたものだった。今日の尺度ものさしでは、ちょいとはかりきれない間伸まのびのしたものだ。甚だのんきなもののようだが、首都日本橋に面影をとどめた、三百年封建制度の膝下しっかにあった市民の末期と、新しく萌上もえあがる力との、間に生きたある層の、ありのままの風俗である。
 あたしはまた、ふたたび日本橋を書きつづける日を持とうと思っている。

底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
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