ここに憑き物系統とは、俗に狐持・犬神筋などと言われる所謂「物持筋」の事である。これがもし昔時の或る術を修得した暦博士や陰陽師の徒の、任意に識神しきじんを使役すると信ぜられたものの様に、その個人限りが有する一種の不可思議力であったならば、そこに系統も糸瓜へちまもあったものではない。この場合もしその術を何人にも伝える事なくして、その人が死んでしまった時には、その術はその人の死とともに永く世に失われてしまって、よしや血を分けた子孫がそこに幾らも存在していても、全くその術からは無関係な、ただの人間になってしまうのである。算木さんぎ一つの置き方で人を笑い死ぬまで笑わせたり、お座敷の真ん中に洪水を起して、畳の上で人を溺らせたりした様な恐ろしい奇術者も、僅かに今昔物語や吾妻鏡にその霊妙なる放れ業の記事を止めているのみで、後世その伝説が全く失われてしまったのはこれが為である。しかしこの様な技能を有する術者でも、やはり子は可愛い、孫はいとしい。ことにこれが為に社会から畏敬せられ、生活の安泰を保障される様なことであってみれば、どこまでもこれを子孫に相続させたくなる。ここにおいてか一子相伝とかいう様なことが始まり、はてはただ一子のみならず、一切の子孫がすべてこれを相伝することにもなる。かくてもとは師資相承であった筈の術道も、いつしか血脈相承となる。すべてのものが家柄によって保持せられることとなるのである。またこれを子孫の側から云ってみれば、父祖の有した或る霊妙なる不可思議力を継承するとして世間から認められる必要もあったので、なるべくそう見られる様にと努力したに相違ない。かくて彼らはその秘法の外間に漏れることを恐れて、なるべく俗人等との間に平凡な交際を避け、みだりに結婚を通ずる様なこともなく、遂にはここに立派な「筋」が成立するのである。かの陰陽筋おんみょうすじ神子筋みこすじ禰宜筋ねぎすじなどと云われて、時としては世間から婚を通ずるをはばかられる様な家筋のものの中には、当初はこの類けだし少からぬことであったと察せられる。
 かく云えばとて、しからば後世所謂「物持筋」の人々は、もとみなこれら術道家の子孫であったか、と、そう手軽に早合点して貰ってはならぬ。そこにはまた別に古来或る民族的差別観を以て、世間から見られた或る部族の存在を考えねばならぬ。そしてその根原が一般に忘れられた後になっても、或る地方或る部族に限っては、何らかの事情からその差別観が比較的後の世までも頑強に保持せられ、その理由は何人も知らないながらも、ただ何となく一所になりにくいという系統の、今なお各地に存在することを考えてみねばならぬ。その最も適切なる一例として、同じ憑き物系統と言われる中にも、多少他とは様子の違ったところのある飛騨の牛蒡種ごんぼだねを捉え来って、これが民族的研究を施してみたいと思う。

 国そのものが山間にあるところの飛騨において、しかもさらにその山間の或る一地方には、牛蒡種ごんぼだねと呼ばるる一種の系統が今も認められているという。
 由来狐憑・狸憑・犬神憑等、憑き物に関する迷信は広く各地に存して、その憑くものの種類は種々に違っていても、とにかく或る人間に使役せられた或る霊物が、他の人間に憑いて災いを為すという信仰においては、殆ど同一であるが中に、ひとりこの飛騨の牛蒡種のみは、これらとはやや様子が違って、直ちに人間が人間に憑くと信ぜられているのである。この牛蒡種の人に恨まれると、その恨まれた人はたちまち病気になる。のみならず、その霊妙な力はよく非情の上にも働いて、もし牛蒡種の人が他の農作物の出来の善いのを羨ましく思うと、それがだんだん萎縮して、遂には枯れてしまうのだと言われている。これについては郷土研究(一ノ三・二八)に柳田君(川村杳樹)の説がある。なお同誌には野崎寿君(四ノ四・九四)や、住広造君(四ノ六・六九)の報告も出ている。自分が飛騨出身の押上中将から直接伺ったところもほぼ同様であるが、住君がその本場と言われる吉城よしき上宝かみたから村を数回旅行せられて、永い間注意せられたにもかかわらず、まだ牛蒡種に憑かれたという者を見られた事もなく、単に漠然世間話にのみそんな事を言い触らすのを耳にせられたに過ぎなかったといえば、文明開化の今日では、もはや評判程にはないものとなってしまっているものと思われる。
 牛蒡種の起原は一つだと伝えられているらしい。住君の報告によると、吉城郡上宝村を本場として、国府村や袖川村にも多少はあるが、それは上宝村から移住したり、伝播したりしたものらしいとある。また野崎君の報告によると、大野・吉城の二郡から、益田郡及び美濃の恵那郡の一部にまで散在し、信州の西部にも少しはあるという。これは犬神筋や狐持と同じで、結婚によって他に伝播するものらしい。また、牛蒡種のものが世に恥じてこれを免れんが為には、金につけてこれを道路に捨てるので、その代りそれを拾った慾張りは、たちまち牛蒡種になるのだとも住君の報告に見えている。
 さてその牛蒡種の本場だと云わるる上宝村は、さすがに山間の飛騨だけあって、面積は非常に広く、東西約九里二十町、南北七里十町にも及び、他の国の普通の一郡よりもまだ大きい程である。されば人民住居の村落は、やっと高原川及びその支流の双六すごろく川・蔵柱川に沿うて、散在しているに過ぎないという有様で、そこには天狗住居の伝説も存し、昔の人の目から見れば、全く物凄い魔界の山村なのであったのである。したがってそこにはすこぶる古い風習も少からず遺っていたと見えて、斐太後風土記によると、新甞にいなめとも云うべき早稲食饗わさけのふるまいや、茅輪潜ちのわくぐりと云って、氏子一同氏神の社に詣で、藁で作った輪を潜って、後をも見ずして走って帰るという奇態な神事もあったという。また氏神には白山社が甚だ多い。これはひとり上宝村のみに限った訳ではなく、飛騨一体にその信仰は盛んならしいが、特に野崎君の報告に、全部落ことごとくこの家筋だと噂されるという双六谷には、部落内の七社の氏神がことごとく白山社である趣きに後風土記には見えている。加賀の白山は言うまでもなく天狗の本場である。したがってこの事実は、この地の天狗伝説と相啓発して、所謂牛蒡種の性質を考える上において、最も注意すべき材料だと思う。

 これについてはまず考えてみたいのは、所謂牛蒡種という名称である。その由来については、牛蒡の種に小さいとげがあって、よく物にひっつく様に、この人々は容易に他人にひっ憑くから、それでこの名を得たのだと言われている。これも一と通り聞こえた説明ではあるが、自分は別に本来それが「護法胤ごほうだね」ではなかろうかと考えているのである。
 護法とは仏法の方の術語で、護法善神・護法天童・護法童子などの護法である。本来は仏法を守護するもので、所謂梵天・帝釈・四大天王・十二神将・二十八部衆などいう類みな護法善神である。その護法善神に使役せられて、仏法護持に努める童形の神を、護法天童とも護法童子ともいう。不動明王の左右に侍する可愛らしい矜迦羅こんがら※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)せいたかの二童子、その他八大童子の類、すなわち所謂護法童子である。これらの童子はあんな可愛らしい姿貌すがたかたちをしていても、時には随分思い切った神通力を振り舞わすと信ぜられたもので、今昔物語十に、漢土の或る修行者が宮迦羅くからすなわち矜迦羅こんがら童子を念じて、毎晩宮中から三千の宮女中の最美人を、山奥なる自己の庵室に盗んで来て貰ったという話もある。そしてその宮迦羅を、同書には明らかに「護法」と云っているのである。
 我が国では、仏教家が地主神を多く護法神として仰いでいる。修験道の元祖たる役行者が、葛城山で鬼神を使役したというのも、やはり一種の地主神を護法に使ったのであった。今も大峯山中には、一寸前編に云った様に、この時行者に使役せられた鬼の子孫だと称するものが住んでいる。
 地主神とは多くの寺に附き物で、ことに山間のそれに多い。比叡山の地主神大山咋神おおやまくいのかみは、最澄によって山王権現として祭られている。高野山の地主神丹生津姫神にゅうつひめのかみは、空海によって高野明神として祀られている。これらはつまりその寺の護法神なのである。これを人事から解すれば、畢竟前からその地に土着していた先住の民族を従えて、或いはこれと妥協して、自分の寺の保護者としたという事なのである。役行者についで修験道で名高い泰澄に関係しても、また護法神の話が多い。続古事談四巌間寺の事の条に、

此の寺の護法は熊野の権現、金峯山蔵王きんぶせんざわう、白山の権現、長谷寺の龍蔵権現なり。龍蔵は大徳(泰澄)彼の寺に詣でゝ帰りけるに、随逐し給ひければ、いはひ奉るとぞ。清瀧権現は地主にておはするなり。三井寺の叡効律師といふ人、此の寺に二三年行ひて、無言にて法華経を六千部読み講じき。夜毎に三千べん拝しけり。さて堂のひつじさるの桂木にのぼりて、我不愛身命但惜無上道と誦して、谷へ身を投げければ、護法袖を広げて受取りて、露塵異かりけりと、此事一定を知らず。

 とある。この文でよく我が古代における護法の思想が解せられよう。中にも加賀の白山は泰澄によって開かれたといわれる山で、その白山権現が現にまた一つの護法として、泰澄の巌間寺を守る護法達の中の一員であると信ぜられていた事と、飛騨でもことに牛蒡種の多いと言われる上宝村双六谷の地方に、この白山祠の特に多い事との間には、或る何らかの関係が見出されえぬであろうか。
 護法の事はいろいろの場合に現われている。しばしば験者の手先になって、悪魔を追い払うことなどをもつとめている。宇治拾遺物語一、宇治殿倒れさせ給いて、実相房僧正験者にめさるる事の条に、

是も今は昔、高陽院造らるゝ間、宇治殿御騎馬にて渡らせ給ふ間、倒れさせ給ひて、心地たがはせ給ふ。心誉僧正に祈られんとて召しに遣はす程に、未だ参らざるさきに、女房の局なる女に物憑きて申して曰く、別の事にはあらず、と目見入れ奉るによりて、斯くおはしますなり。僧正参られざるさきに、護法先だちて参りて、追ひ払ひ候へば、遁げ終りぬとこそ申しけれ。則ちよくならせ給ひにけり。

 とある。これは心誉僧正についている護法が、僧正の為に先んじて、憑き物を追っ払ったというのである。この外にも護法の事は古い物語や小説などに、送迎に遑ない位にも多く出ている。そしてその護法はこれを使役している人の為に、しばしば第三者の身に取り憑くもので、護法に憑かれた場合には、その人は甚だしく身振いするものだと信ぜられていたらしい。今昔物語十九に、左大臣藤原師尹の侍童が、大臣秘蔵の硯を破って恐れ慄く状を記して、「護法のつきたる者の様に、振ひて目も暮れ心も騒ぎて」、また同じ巻に越前守孝忠の侍の戦慄の状を記して、「早朝に此の侍の男浄めすとて、護法のつきたる者の様に振ひけるを、守見て、汝和歌読め」など見えている。この不可思議なる動作は、今も稲荷下げや験者など言わるるものが、現に行っているところで、彼らが幣帛を持ってガタガタと振るい出し、先達や信者の問に応じて、雑多の事を口走るのがすなわちこれである。この意味において狐や犬神もまた一種の護法であるが、これらの護法はみな人間以上の能力ある霊物として信ぜられたもので、諸山諸寺の護法なる地主神が、前からその地を領していた先住民族の代表者であってみれば、いずれその子孫がそこらに遺っておってもしかるべき道理である。現に役行者に使役せられたという護法の鬼の子孫が、今も大峯山中に前鬼の村人として存在しているというではないか。さればこれを人事について言ってみれば、自山を擁護して破邪折伏の任務に当る祇園の犬神人つるめその如きは、身分は低いがやはり一種の護法と云ってしかるべきものである。そして彼らは現にそれを使役する山門の衆徒の指揮の下に、しばしば反対者に打撃を与えるべく活躍したものであった、護法の子孫がなお祇園の犬神人のそれの如く、一種普通民と違った筋のものとして、世間から認められるということはありそうなことである。この意味において自分は、問題の牛蒡種は護法胤ごほうたねではあるまいかと思うのである。

 土俗の学に堪能なる柳田國男君はかつて郷土研究(二の六、四一頁)に護法童子の事を論じて、作陽志から美作の修験道の寺なる本山寺の、護法祈の事を引いておかれた。

 護法社。本殿の後に在り、毎年七月七日護法の祈を行ふ。其法は性素樸なる者を択び、斎戒潔浄せしむ。俗に之を護法実ごほうざねと謂ふ。七日に至り東堂の庭に居らしめ、満山の衆徒盤環呪持すれば、此の人忽ち狂躍を示し、或は咆吼忿嗔して状獣属の如く、力大磐をぐ。若し触濁の人あれば、則ち捕へて数十歩の外に※[#「抛」の「九」に代えて「尤」、148-2]擲するなり。呪既に終れば、則ち護法水四桶を供へ、桶毎に水一斗五升を盛る。其人蓋く飲み終って、後俄然と地に仆れ、即ち本に復して敢て労困するなし。又自ら之を知らざるのみ。之を護法を墜すと謂ふ。

 これは所謂護法実ごほうざねに護法が憑いた現象を示したものである。この外にも美作には、護法祈をする寺の少からぬことを柳田君は引いておかれたが、美作と飛騨と、同じく川上の山国である点において、形勢の一致しているのにも注意が惹かれる。ことにその護法祈があるという久米郡吉岡村大字定宗、龍川村大字下二箇、大垪和おおはか村大字大垪和東の如きは、極めて山間の地で、あたかも飛騨で上宝村を連想せしめる様な場所であるのみならず、そんな山間でない津山町の近所にさえ、高野・中山など、久しく神社に人身御供を奉る習慣があったと今昔物語に伝えられている程の美作に、それがあるのが面白い。
 しかし護法祈は美作の山間ばかりではない。京都に遠からぬ鞍馬にも、今にそれが伝えられているのである。もっとも鞍馬は京都に近い所だとは云え、やはり極めての山間で、その東南一里半ばかりの土地には、かつて自ら鬼の子孫だと称した八瀬童子の後裔が、今も現に住んでいる程であるから、鞍馬の護法たる地主神が威霊をもっぱらにして、護法祈が行われるには極めて適当しているところである。
 鞍馬の護法祈は毎年六月二十日の夜に行われたとある。すなわち所謂竹切の会式えしきで、まず十六日に護法善神社に参拝し、水場注連縄張の事、加持作法の事を行い、十八日に竹釣の行事がある。東が近江方、西が丹波方で、竹の数が各四本の設備をする。二十日の暁に至って大松明おおたいまつの事、引続き竹ならし切の事、鳴鐘。午刻出仕して蓮華会を修する。すなわち竹伐修行の事で、法会、列讃、行道賛。伽陀畢って相図指揮の事、法師竹切勝負の事、竹頂戴の事という風に、いろいろの行事が数えられている。
 かくて後に例の護法実を置いて、一種の恐ろしい修法をする行事が今も行われているのである。都名所図会に、「扨又夜に入って、里の俗を一人本堂の中に座せしめ、院衆法力を以て祈り殺し、又祈り活かす事あり。彼の俗人には予て毘沙門天此の事を告げ給へり。役を止むべき時にも告げ給ふ。奇妙不思議の事多かりき。秘して語らず」とある。秘密にしておいて詳しく語らねば、諸書の記事いずれもこの以上の事には及んでいないが、郷土趣味六号に佐々木嘯虎君の「鞍馬の竹切法会」というのがあって、それにはやや委しく見えている。

六月二十日夜戌の刻堂内の明を消して、生贄にする僧(貞云、名所図絵に俗とあるは古い式で、後には僧を以て之に代へたものか)を座せしめ、衆僧も暗中に居て、代る/\陀羅尼や神呪を大声に唱へて、彼の僧を一時祈り殺す。こゝに至つて護法神は人味を受納せられたといふので、これで、法式が終る。その死んで居る僧を板に載せて、堂の後にかついで行つて、大桶七つ半の水を注ぎ流して、身にかけてやるとやがて蘇生する。そこで裸体のまゝ護法宮に参詣する。之を護法附の行といふのであります。今日では此僧を祈殺し祈活かすといふ様な、法力実験の事は致しませぬ。

 とある。美作の護法実が水を飲んで正気に戻るのとよく似た行法で、狐憑きや犬神憑きの患者や、稲荷下げなどの挙動と甚だよく似ているのである。
 この鞍馬の護法善神社は、本堂の後右の閼迦井あかいの辺にあるので、地主神たる大蛇を祭ったのだとある。昔峰延上人この山で修法の時、後山から雌雄の大蛇が出現したが、上人の法力で雄の方がずたずたに切れた。所謂竹切の会式は、その大蛇の切れた形を取って修するのだという。上人その雌に向って、我れこの山にて秘法を修するに、閼迦あかの水を求めんとす、汝この山を守護すべしと云ったところが、たちまち清泉湧き出でた。これ今の閼迦井である。すなわちその大蛇を祭って、今も閼迦井護法堂とて小さい堂があるのだというのである。(俗説には峰延上人を鑑真だと云っているが、古くその説はない。)
 本号所載宮武省三君の憑物雑話の中に、南洋にも全くこれと同じ様な行事のあることが見えているが、かくの如きことは古今東西を通じた心理状態の一種の発露で、それが護法の所為であるならば、所謂憑き物はやはり護法の所為というべく、憑き物系統はすなわち護法系統であらねばならぬ。所謂護法に関する思想は、かく種々の形になってあらわれてはいるが、結局はそれが地主すなわちその地の先住民と妥協して、これを護法に使役するというのであってみれば、ここに自ずからその子孫なる、護法系統の存在が認められる訳である。すなわち「護法胤」なるものが存在する所以である。

 鞍馬では右の護法堂の大蛇以外、別に天狗という名高い護法のあることを忘れてはならぬ。所謂魔王大僧正を始めとして、霊山坊・帝金坊・多聞坊・日輪坊・月輪坊・天実坊・静弁坊・道恵坊・蓮知坊・行珍坊以下、名もない木の葉天狗・烏天狗の末に至るまで、御眷属の護法が甚だ多いので、一とたび足を鞍馬の境内に入れたものは、何人もたちまち天狗気分の濃厚なるを感ぜぬものはなかろう。寺伝によると所謂魔王大僧正は、当寺の本尊毘沙門天の化現だともある。しかし天狗はひとり毘沙門天を祭った鞍馬のみのことでなく、他の名山霊嶽にも、同類の護法の信仰は甚だ多い。そしてこれらはやはりその地の地主神すなわち先住民の現れと見るべきものであろうと解せられる。
 加賀の白山の天狗は鞍馬寺所伝天狗神名記によるに、白峰坊大僧正というとある。そしてその下には正法坊という眷属天狗の名も見えているが、無論その外にも配下の天狗達は甚だ多いに相違ない。何しろ日本の天狗界には、部類眷属族合して十一万三千三百余というのであるから、後世にその名は伝えられずとも、有象無象の天狗達の各地に多かったことは言うまでもない。
 護法としての天狗達は、その所属の社寺を護り、またしばしば牛若丸に剣法を授けた鞍馬の僧正坊の様に、真面目な事もやってはみるが、もし一朝その怒りにでも遇おうものならば、たちまち八つ裂きに引き裂かれて樹の股にかけられたり、或いは恐ろしい罰に苦しめられたりするものだとして怖れられていた。ことに鎌倉時代の思想では、その恐ろしい方面のみが頻りに宣伝せられて、鞍馬の天狗の大将が魔王大僧正と呼ばれている様に、本来護法であるべき筈のものが、いつしか仏法の妨げをしたり、或いは人間に憑いて世の中を乱す魔神として見做されていたのである。源九郎義経が後白河法皇にせまって、兄頼朝討伐の院宣を強請したについて、法皇やむをえずこれをお許しになったところが、頼朝の憤慨甚だしいのに恐れをなし給い、これを慰諭し給うべく、義経のこのたびの事は、全く天狗の所為だと仰せ出された。これに対して頼朝は、日本第一の大天狗は他にあらざるものかと言って、法皇がその世を乱す天狗の大将であるとの意を述べた事が吾妻鏡に見えている。
 天狗はかく恐るべきものとして信ぜられたから、人間はなるべくこれに親しまず、これを畏怖敬遠するの途を取る。飛騨の上宝村において、白山を祭った氏神の社に詣でた氏子一同の人々が、毎年茅輪を潜って後をも見ずに遁げて帰るというの行事は、言うまでもなくこの恐ろしい護法の天狗に捕えられるのを免れんとの作法であろう。しかもその氏子達は、さらに他からはこの恐ろしい護法の眷属くらいに見なされて、なるべくその護法胤には触らないようにと敬遠せられるに至ったのではあるまいか。

 大分護法の研究に脱線したが、いよいよこれから問題は飛騨の牛蒡種に戻る。
 所謂牛蒡種の本場なる上宝村双六谷が、もともと護法なる天狗の棲処すみかであったということは、果していかなる意味であろうか。山城北部の八瀬の村人は、かつては自分で鬼の子孫であることを認めておったもので、それは村人自身の記した八瀬記にそう書いてあるのだから間違いない。そしてその子孫を今に八瀬童子と呼んでいるのは、先祖の鬼を護法童子と見做しての名称であるに相違ない。かの酒呑童子や茨木童子の「童子」という名前も、やはり鬼を護法童子と見てからの称呼であるのだ。しからば八瀬人また一つの「護法胤」と見てよいのであろう。しかし鬼の子孫というものはひとりこの八瀬童子のみには限らぬ。大和宇智郡の鬼筋の事は本誌二巻三号(四〇頁)に、田村吉永君が報告しておかれた。それによると、五条附近の安生寺垣内あんじょうじかいとに十四五軒、表野・丹原・池芝などにも一二軒宛あるという。これらは三月五日の節句の行事などにも、普通の家筋のものとは幾らか違った作法があるそうな。安生寺縁起によると、同寺の国生明神は地主神で、これが為に役行者えんのぎょうじゃが鬼面を作って国生の祭を始めたとあって、ここの所謂鬼筋はその地主神の子孫であるらしい。また今西伊之君の談によると、同国字陀郡[#「同国字陀郡」はママ]篠楽ささがく足立あだち、また磯城郡の白河しらがなどにも、同じく鬼筋というのがあるという。この鬼筋の事については、かつて本誌二巻六号(一七頁以下)「祭礼の行列に出る鬼」という文中に説いておいた事があり、また五巻二号(一四頁以下)にもいささか論及しておいたから、今くどくどしくそれを繰り返しは致さぬが、つまりは里から遠く離れて住んだ地主たる先住民の或るものが、里の文化の進歩や生活の向上に伴わなかった結果として、だんだん生活風俗等について里人との間に著しい差別を生じたので、ついには彼らは人間以外の非類である、或る特別の霊能を有する鬼類であると信ぜられる様になり、地主側の方でもまた時にはそれをよい事にして、所謂鬼を標榜して民衆の畏敬を受け、渡世のたずきとなしていたものもあったが為に、ついに全く筋の違うものと見做されるに至ったのであろうと言うのである。現にかの八瀬童子の如きは、本来筋の違う山人の子孫であるという事を以て、御所に薪炭を供給し、駕輿丁にも採用されたので、後の世までも一種変った伝説と風俗とを保持し、御所と特別の関係を有していたのであった。そしてそれが霊的の或る能力を有するものとして認識された場合に、或いは護法筋ともなり、その他陰陽筋・神子筋・禰宜筋などと言われて、卜筮祈祷者等の徒ともなるのである。異民族がある霊的の能力を有すると信ぜられた事は、南北朝の頃にまでかのアイヌなる蝦夷の族が、霧を起し風を起すの術を有すると信ぜられたが如きものであって、その例は他の民族にも甚だ多いのである。そしてそれは多く先住民の系統に属するもので、神武天皇御東征の時に、大和の土人に猪祝いのはふり居勢祝こせのはふりなどという土蜘蛛がいたとあるのもこれである。これけだし祝部はふりべすなわち神と人との間に立って、霊界との交通をつかさどる能力あるものが、土人すなわち地主側のものの後裔に多く存する事を示したものと解せられる。
 我が神代の古伝説によっても、天津神系統の天孫民族は現界うつしよを掌り、国津神系統の先住民族は、幽界かくりよの事を掌ると信ぜられていた。大国主神が国土を天孫に譲り奉ったというのは、実は現界の統治権のみであって、神事幽事はやはり保留しておられたのであった。この神が医薬禁厭の元祖として伝えられているのもこれである。そして大国主神は、一に大地主神とも言われて、実に我が国の地主神の代表者とますのである。そしてこの神がみずから神事幽事を掌り給い、ことにその魂を大和の大三輪の神奈備かんなびに鎮め、その御子神達をもそれぞれに大和各所の神奈備に鎮めて、皇孫尊すめみまのみことの近き護りとなり給うたということは、その一族挙げて我が皇室の為に、護法神の地位に立たれたという意味に解せられるもので、以て所謂地主側の先住民と、「おおみたから」として天孫民族の仲間となったものとの関係が察せられよう。
 勿論地主側のものがすべて山人となったものではない。またその山人のすべてが後世鬼と言われたものではない。中にははやくに足を洗うて里人に同化し、所謂オオミタカラになってしまっているものが多数にあるには相違ない。それと同時に山人ばかりでなく、海岸島嶼に離れて住んだ海人あまの徒が、またしばしば鬼と呼ばれていた事は、かの鬼が島の童話や、能登の鬼の寝屋の話や、今も出雲の北海岸の漁民を俗に夜叉と呼んでいることからでも察せられ、今も僻地の住民の中には、一村こぞって他と縁組せぬという村落が所々にあることによっても推測せられるのである。そしてこれら山人や海人の中の或る少数の者が、何らかの都合で後世までも幽界に出入りするの能力あるものと認められているのであるが、今はその問題の錯雑に流れるのを避けて、しばらく主として山人の側のみについて説をなしているのである。
 鬼の伝説が各地に多く遺っているのと同じ様に、天狗の伝説もまた各地に多い。鬼が嶽・鬼が城などの地名が各地に多いとともに、天狗嶽・天狗城などの地名もまた各地に多い。つまりは鬼も天狗も、もとは同じく山人の或るものについて呼んだもので、祭礼の行列に出る鬼の代りに、天狗の面を被ったものの出る場合の多いのも、猿田彦神の嚮導という解釈以外に、やはり山人参列の名残りを止めたものと解したい。
 鬼が護法である様に、天狗もまた護法なのだ。そして飛騨の牛蒡種が、天狗の棲処なる双六谷にその本場を有しているということは、この意味からして了解されるものではあるまいか。天狗は一つの護法であると同時に、また鬼と同じく或る霊能を有して、人間に取り憑いて災いをなす事があると信ぜられているものである。この思想は今昔物語を始めとして、中古の物語にはうるさい程見えているのである。そしてこの双六谷の牛蒡種と呼ばれる人々が、やはり他からは人に憑くものと認められているのであってみれば、それが護法胤すなわち護法たる双六谷の天狗の子孫として、他から認識された結果であると解して、名実ともに相叶うものではあるまいか。
 元来飛騨は山奥の国であって、なお大和吉野の山中に国栖人くすびとと呼ばれた異俗が後までも遺っていた様に、また播磨風土記に同国神崎郡の山中には、奈良朝初めの現実になお異俗が住んでいたとある様に、ここでは中古の頃までも、未だ里人に同化しない民衆が住んでいたのであった。弘仁元年の太政官符にも、「飛騨の民は言語容貌既に他国に異なり」とある。彼らは所謂飛騨のたくみで、農業の代りに木材の扱いに慣れていたが為に、その慣れた木工の業を以て賦役に当て、調庸の代りにたくみとして京都へ番上したのであった。しかるにその飛騨の山国へもだんだんと里人が入り込んで、土地を開墾し、先住民もまたこれに同化して、次第に農民に変って来たが中に、特に山間に僻在して同化の機を捕えそこなった或るものが、比較的後までも異俗として原始的の生活を継続し、自然に筋の違ったものだとして里人から差別的の目を以て見られ、はては山人である、天狗であるとして、恐れられるに至ったのはけだし自然の趨勢であらねばならぬ。かくてそれがついに天狗の子孫とも呼ばれ、護法の胤であるともして認められるに至ったに無理はない。また彼らも時としては、自己生存の便宜上から、世間のその迷信を利用することも或いはなかったとは言われない。かの英邁なる白河法皇を閉口せしめ奉った叡山の山法師は、何人も抵抗し難い呪詛という武器を持っておったのであった。それが為に彼らはかなり無理な希望をでも、しいて押し通すことが出来たのである。所謂護法胤の人々が、これを有力なる武器として社会の圧迫に抵抗し、山間に安全なる幽棲地を保有しえたことはこれを想像するに難くないのである。
 かくの如きはひとり飛騨にのみ認められるのではない。各地に同様の経過をとったものが、けだし少からなんだに相違ない。しかるに彼此ひしの人口漸く増加して、これまでまるで別世界の変った人類であるかの如く考えられていたものも、だんだん境を接して住まねばならぬ事となる。狩猟や木の実の採集のみで生きていた従来の山人も、それでは食物不足とあって農耕の法を輸入する。次第に里近くまで出て来る様になる。里人もだんだん狭隘を感じて、次第に山人の範囲に割り込んで来る。はては同じ一と村の中に双方雑居することともなる。所謂地主筋のものも、客筋のものも、同一の場所で同一の生活をすることとなるのである。かくて今まで風俗や生活の上に著しい差違があって、全く変ったものの様に思いつ思われつしていたものも、いつしか同じ風俗となり、同じ生活を営むこととなってみれば、鬼の子孫も、天狗の子孫も、普通の人間と何ら違ったところはない。ただ違うところは「筋」を異にするというのみで、所謂鬼筋や護法胤はかくの如くにして、他の点ではすべて融和した同一人民の間にあっても、永くその「筋」の区別を保存するの傾向を免れ難いものなのである。そしてその中でも特に祖先の有した不可思議力が伝統的に信ぜられたところに、所謂「物持筋」すなわち憑き物系統が認められるのである。
 中について飛騨の牛蒡種は、名そのものが既に護法胤であることを表わしている様に、実に双六谷の如き魔界に住んだ護法天狗の後裔として、子孫の末々に至っても或る特別の能力を有するものと誤解せられ、今に至ってはなお筋の違った者として、頑強に他から区別さるるに至ったのであろう。
 しかし護法胤という名称もひとり飛騨ばかりの特有ではなかったらしい。他の地方において同じ経過をとったものは、多くはそれぞれに異った名を以て呼ばれているが故に、世人からは全くこれらと別物の如くに考えられてはいるが、それらの中には同じ護法の名を以て呼ばれたものも、昔はけだし少くなかったのである。安永年間の安芸国佐伯郡観音寺村林小六所蔵文書弾右衛門支配下の四十八座(「公道」雑誌所載、大江天也師の「旧賤民の由来」所引)というものの中に、陰陽師や神子みこなどと並べて「山牛蒡」というのがある。広文庫所収穢多巻物の中には、それを「山野御房」とあって、これは大宝元年綸旨によって許されたとある。これらの文書が附会もとより取るに足らぬものである事は明らかであるが、ともかく陰陽師や神子などの徒とともに、かつて「山牛蒡」もしくは「山野御房」と呼ばれた一種の人民が、所々に存在していたことは疑いを容れない。自分がはじめ広文庫所引の「山野御房」を見た時には、これ或いは山住の御坊おんぼう、すなわち俗に所謂隠亡おんぼうの徒ではなかろうかとも考えてみたのであったが、一方にそれを明らかに「山牛蒡」と書いてあってみれば、疑いもなくこれは山の護法で、飛騨の牛蒡種と同一名称のものであることを信ぜざるをえなくなった。そしてそれは飛騨の牛蒡種という様な、或る局限的の固有名詞ではなくして、陰陽師や神子と同じく普通名詞であるところに、その普遍的の名称であった事が知られるので、所謂護法筋と認められたものが、所々に存在した事の証拠たるべきものと信ずるのである。勿論護法筋のものが必ずしもことごとく憑き物系統として、いつまでも区別せられたと言うのではない。それは大和の鬼筋や山城の八瀬童子について、何らその様な信仰のないと同様である。しかし八瀬人が八瀬童子と呼ばれるその名の根原が、果して護法童子の意味であるならば、彼らもかつては或る霊能を信ぜられたのであったであろうが、それは後世忘れられて、その名称のみが残っているのかもしれぬ。ただその中にたまたま飛騨の牛蒡種のみが、何らかの関係から強くこの誤解を受けたのであろう。それはこの人達にとってまことに迷惑千万なことと同情に堪えないのであるが、或いはこの人達の先祖が里人の圧迫に対して、自ら護法のたねであることを標榜して、自衛の道を講じたことが子孫に累をなしたのであったかもしれぬ。

 牛蒡種の外に狐持・外道持・犬神筋等、各地その名称を異にし、また幾分その憑依の現象をも異にするものの甚だ多いことは既に述べた。しかし実際上これら各種の憑き物の間にそう著しい区別のないことは、本号に紹介した各地の報告に見ても極めて明白な事実である。ただ飛騨の牛蒡種のみは、人そのものが直接に来て他人に憑依すると信ぜられ、他の憑き物系統のものは、その系統の人の使役する或る霊物が来て、他人に憑依するという点において相違があるのみである。すなわち飛騨の牛蒡種は人そのものが直ちに護法であり、普通の物持筋は、その有する護法が他に憑くという点において相違あるのみである。
 およそ物が人に憑くというには、或る霊能を為すものが直接に出て働くか、或いは他の人に使役せられた霊物が来て働くか、この二つの場合以外にはないのである。かの鬼神・生霊を始めとして、狐・狸・貉、猫・蛇などの動物の類が来て憑くというのは、この第一の場合である。犬神使い、外法げほう使つかい・狐持、外道持げどうもちなどいわれるものは、この第二の場合である。古い物語や口碑に存するところでは、昔は別に他の紹介を要することなくして、霊物そのものがただちに来て人間に憑くと信ぜられたのが多かった様である。しかしながら、鬼神にしろ、生霊にしろ、また狐・狸・貉・猫・蛇の類にしろ、そう訳もなく人に取憑いて悪戯をする道理もない。したがって人間の方で前以て用心してその怒りに触れず、その恨みを買う様な事を仕出かしさえせねば、これらの憑き物に対してはまず以て無難であると謂わねばならぬ筈である。ことに世の中が開けて、狐狸妖怪の棲処が人間近くに少くなり、またこれらのものがそう無暗に人間をかすという様な思想が減じて来ては、物のの災いは多くは噂ばかりであって、実際にはそうたびたびあるものではなくなって来る。そしてそれよりも恐ろしいのは、かえって同じ仲間の人間だとなって来るのである。ことに所謂「筋」を異にして、平素あまり接触の機会もなく、何となく心を置かれる様な人間が最も怖い。ことにそれが或る霊物を使役すると信ぜられたものである以上、自分には意識せずとも、いつどこでどんな恨みを買って、その霊物を追いかけられるかもしれないのである。かくて全く偶発の疾病災禍の場合にでも、しばしば原因をここに求める。その結果としてその伝統が暗示を得た精神病的被害者は、ここにとんでもない挙動を現わしたり、思いもよらぬことを口走ったりするものであるから、これを見た単純な頭の人々は、わけもなくただちにそれにめてしまうのである。かくてその人が仮に「物持」であると認められた以上、その系統のものに対しては皆一様に警戒せねばならぬ事となる。ここにおいてか物持筋すなわち憑き物系統を恐るるの観念は、遂に世人の頭に染みついて容易に除去し難いこととなるのである。
 人に使役せられる霊物にも、生あるものとないものとの区別がある。昔は多くは或る呪詛を施した動物の頭蓋骨や、時としては所謂外法頭げほうあたまの人の頭蓋骨を秘蔵して、それに祈って第三者に災いを与えるという思想の方が多かったものの様である。或いは一種の護符の類、その他守護神として肌身離さず所有する木偶・土偶の類に祈って、所謂禁厭咒詛の法によって、第三者に禍いを与えうるものだと信ぜられた場合が多かったのである。しかしそれはその霊物とその禁厭咒詛の術を伝えられたもののみに、その効能が継承されるのであって、その伝えを失った場合には、その憑き物は通例消滅してしまうべき筈である。したがってこれらは必ずしも子々孫々にわたって、所謂筋をなすものではない。しかるにその霊物がもし生あるものである場合には、当人の子孫が繁衍するとともにその霊物も子孫を殖やして行く。所謂七十五疋の眷属などと言われるものが、人間の目にこそ見えね、その血筋の人の数だけは、常に増殖してついて廻っているものだと信ぜられるのである。したがってここには立派に物持筋が成り立つ。山人や海人など、地主側の同化の機におくれていた人々と里人との間に、接触が多くなればなる程この問題は頻繁に起って来る。勿論これらの接触の場合において、その地主側のものが常に物持筋となるには限らぬ。現に阿波の広筋・狭筋の様に、ただ「筋」が違うというだけで、通婚の場合にのみ問題が起るに止まる程度の場合もあり、全くその区別が忘れられて、全然同化融合してしまった場合も最も多いのであるが、それが何かの都合で霊能あるものとして憚られた場合において、所謂物持筋は立派に成立するのである。この以外祈祷卜筮等を渡世とする浮浪性の陰陽筋・神子筋・禰宜筋などのものが、足だまりを得て土着した場合において、そのある者がしばしばその仲間として他から見られる結果、いつしか物持筋になる場合の少からぬことは言うまでもない。

 自分の物持筋すなわち憑き物系統の起原に関する解釈は右の通りで、大抵は里人たるオオミタカラが先住民に対して有する偏見に起因するものだと信ずるのである。かく言えばとて彼らがあえて里人とその民族を異にするという訳ではない。自分の考察するところによれば、所謂オオミタカラなる里人といえども、その大部分はやはり国津神を祖神と仰ぐべき先住民の子孫である。ただ彼らは早く農民となって国家の籍帳に登録せられ、つとに公民権を獲得したが為に自らその系統に誇って、同じ仲間の非公民を疎外するに至ったに外ならんのである。一方公民権獲得の機を逸して、比較的後の世までも帳外浮浪の民として遺ったものでも、いつしか里人の文化を享得して一定の住所を有し、所謂「新に戸に編せられ」て農民となったものは、大抵は全く区別のないものになってしまっているのである。また最後まで取り残されたものでも、そのすべてが他から異なった筋のものだと認められると限った訳ではなく、おそらくその多数はもとの素性を忘れられて、全く同一のものとなってしまっているのである。ただその中において何らかの事情から貧乏くじを引き当てた、最も不運のもののみが、或いは鬼筋だの、護法胤だのと呼ばれて、他から差別的の目で見られる事になるのであるが、それでもなおそのすべてが物持筋として憚られる訳ではない。ただ「筋」が違っているということの為に他から通婚を忌まれ、或いは他からこれを忌まれる前にまず自ら他と婚するを拒む様なものも少くない。ことにそれは山間海岸の僻陬村落に往々見受けられるのである。或いは自らこれを拒む意志はなくとも、他からあまり近づいて来ずして、自然に姻戚的交渉を開かない部族も各地に少くない。しかしそれが為に今日そう彼此ひしの間の社会的地位に差別があるでもなければ、恐ろしいものとして憚られているもののみでもない。かの飛騨の牛蒡種の如く、一村民ことごとく憑き物系統だと見られているが如きはよくよくの場合である。もっとも雪窓夜話にも、中国の或る村々は一村ことごとく犬神持だとある様に、他にもそんな例がまんざらない訳ではあるまいが、大抵は「筋」を異にしながら同じ村内に雑居して、他からアレだと指斥される場合が多いのである。そしてその中の最も不運なものが、物持筋として疎外せられているのである。しかもその物持筋だとして疎外せられるもの、必ずしも皆同一系統という訳でもない。中には急に資産が殖えたが為に、他から疑われて誰言うとなくその筋にされてしまうのもあれば、人に恨みを買って中傷された結果、ついにその仲間にされるのもあり、ことにたちの良くない祈祷者などの口から、或いはその祈祷者の暗示をうけた精神病者の口から、本人が一向思いもよらぬ間にその仲間にされているのも甚だ少くないのである。またその物持筋は結婚によって他に伝播すると信じられたが故に、従来全くのシロであったものまでも、その筋のものと結婚したが為に遂に仲間にされたというものが甚だ多く、なお阿波の広筋・狭筋の関係において、広筋のものが次第に殖えて行くと同じ様に、物持筋も次第に殖えて行くのである。現に出雲においても、村中の住民の過半が狐持であって、所謂白米のものは比較的少数だというのが少くないのである、さればこれを民族的に論ずれば、本来彼此の間に何ら区別のないものであって、したがってこれを疎外すべき理由は毛頭存在しないものである。しかも今においてなおこれを区別するということは、まことにたわいもない事の様ではあるが、しかもこの僻見が容易に除去されずして、特に出雲地方の如く頑強にこの僻見を保持している所のあるのは、大正時代の恨事であり、またその地方民の恥辱であると謂わねばならぬ。既にも言った如くもし結婚の際などに警戒すべき「筋」がありとしたならば、それは憑くと言われる所謂「物持筋」の側ではなくて、自ら憑かれたと信じてとんでもないことを口走る様な、神経中枢のどこかに幾らか欠陥のある患者筋の側になければならぬ次第である。

底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「民族と歴史 第八巻第一号」
   1922(大正11)年7月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年8月7日作成
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