さびれ切つた山がかりの宿のはづれ、乗合自動車発着所附近。上手に待合小屋、下手に橋。奥は崖、青空遠く開け、山並が望まれる。
 夏の終りの、もう夕方に近い陽が、明る過ぎる。よそ行きの装をした百姓爺の笠太郎が、手紙らしいものを右手に掴んで、待合の前に立ち、疲れ切つた金壺まなこを落込ませ、ヤキモキしながら延び上つては橋の向ふを注視してゐる。待合の板椅子の上には下駄を脱いであがり込んでペタンと坐つてゐる娘クミ。よそ行きの装に、見たところ少し唐突に思へる蝶々に結つた髪はよいが、ボンヤリして口を少し開いてゐるのは疲れ過ぎてゐるのだ。クミの膝を枕にしてクークー小さな寝息で眠つてしまつてゐるのは、十歳になる六郎少年で、これは後に出て来る区長の六平太の末の子である。右手に紙製の小さな聯隊旗を握つたままである。――間。

笠太 そんな筈、にやあて! 来にやあ筈、無あ。来にや……(しきりと延び上つて見る。――間。遠くに自動車のラツパの響)おい、あれだわい! あれだわい! (言ひながら橋の方へ走り出して行く。ラツパの響遠くなり消える。)あんだあ畜生、高井行きだあ。(戻つて来る。疲れてゐるので石につまづいてヒヨタヒヨタ倒れさうになるのをやつとこらえて)くそつたれ!
クミ ……もう帰ろよう、父う!
笠太 甚次といふもんは、チヤツケエ時分から口の堅い奴ぢやつた。まあ待て、来にや筈無え。
クミ そいでも昨日も朝から待つてゐて、おいでんならんに。処女会や青年団からまでああして出迎へん来て貰ふてさ、そいで、おいでんならんもの。私あ面から火が出よつた。
笠太 あやつ等は、甚次が来たら寄附ばして貰はうといふ下心で出迎へなんぞに来よつたんぢや。慾にからんでさらすで、油断ならんわ。甚次が昨日着かなくて却つて都合よかつたのだ。
クミ 父うぢやとて、慾ぢやが。
笠太 あにをつ※(感嘆符疑問符、1-8-78) あにが、此のオタンコナスめ、貴様の亭主にならうと云ふ男ば迎へに出るが、あにが慾だ! 親の慈悲ば、ありがたいと思へ。
クミ ……(欠伸をして)くふん。甚次さんのお嫁さん、甚次さんのお嫁さんと云ふちや、処女会の人が私の事を、ひやかす。私あ、なんぼう、てれ臭いわ。
笠太 あにを! ぢや手前、甚次、嫌えか?
クミ 嫌えにも好きにも、顔も憶えちよらんに。
笠太 今に見ろ、今に見ろ。永年東京で磨き上げた男ぢやぞ、こねえな山ん中で山猿共の面ばつかり見てゐた手前の眼がでんぐり返らよ。ポーツと来ねえように気をたしかに持つちよれてば。アツハツハツハ。アハハハハ。(一人むやみと上機嫌に哄笑するのである)アハハハ。辺見笠太郎の体面に関すらよ。あんまりだらし無くおつ惚れんな。ハハハ。
クミ んでも、来なきや仕様あんめ。今日も、はあ、もうお日さんが一本松の股んとこまで落ちたで、日が暮れらね。(笠太郎ケロリと笑ひ止む)
笠太 読んで見ろ。これ読んで見ろえ。
クミ 何度読んだとて同じぢや。小生一生の事に就き伯父上に御相談致したく、だ。来月二十八日篠町着にて御伺ひいたす……あんまり何度も読まされたで暗誦してしまうた。九月の二十八日とは昨日ぢやが。
笠太 そこが二十四や五の女子にや解らんとこよ。積つて見ろえ、先は安多銀行てえ、あんでも東京でも一二の所に務めてゐる身体だ、都合で一日伸びと云ふ事有ら。うん。
クミ そりや、さきおととし来た手紙に書あて有つた事ぢやろが。……あああ。私、もう帰るから、自動車賃くれろ。
笠太 帰んなら帰れ。金は無え。足が有ら、けつ。三十銭なんて払へつか!
クミ 昨日から三度行つたり来たり、四里ぢやから三四十二里、私あ太腿さシンが入つたわ。乗合が有んのに乗らねえんだもん。乗合通はすの、んなら、村でことわればええに。
笠太 此の女郎! オタンコナスめ、あんにでもケチを附けるたあ、貴様あ、六平太の小父きにソツクリぢや。帰れ、クソ!
声 あにが私にソツクリぢやね?(言ひながら、当の妻恋六平太が、酔つた顔をして右手から現はれる。山高帽をかむり、袴を着けてゐるが、どう云ふつもりか、袴の両モモダチを上げてゐる。待ちあぐねて、直ぐ近くの茶店に行つて一杯ひつかけて居たのらしい)ああん、帰れとは?
笠太 ははん? ……あんたも、もう帰つてくれろ。
六平 帰つてくれろ?
笠太 ははい。もう、こんだけ待つて来ねえのぢやから、何か差しつかえが出来たのぢやろ。
六平 お前も帰るかなあ?
笠太 私あ、ついでだ、もう少し待つて見つからね。あんたあお先い帰つてくれろ。金え使はしたりして気の毒だあ。
六平 お前が待つて居るなれば、私も待つた居べよ。ああに、太田屋で一二杯飲む分にや、知れたもんだ。やれ、どつこいしよ。六郎め、よくねぶつてけつから。ああ、酔うたわ。(笠太郎は、さう云ふ六平太を憎さげにチロチロ睨んで、ヂレてゐる)うーい。ああ、本年も、もう秋だのう。こら六郎、もうチツトそつちへ寄らんか。いやあ、甚次公も、えらい骨を折らせる男よ。早いとこスパツと帰つて来ねえかのう。丸二日ぢやからねえ、こいつは二日分の手間代だけはおごらせんならんなあ。ハハハ。束京へ出ると、苦学をして、夜の実業学校ば卒業したと云ふなあ。そいで、その銀行につとめてさ、初めは、どうせペイペイぢや、そこがそれトントントンと段々にのう。ハハ。そもそも甚次君と云ふ青年は、以前からして、ほかの子供とは少し違うて居た。私は伯父として、当時から――(とベラベラと埓もなく喋りまくる)
笠太 (さえつて)お言葉中でがすが、区長さん、あんた甚次の伯父かね?
六平 しかしまあ、伯父見たいなもの。左様、あれの死んだ母親の叔母が内の大伯母のいとこだ。私あ伯父として当時から、これは仕向け方一つで物になると――。
笠太 お言葉中でがすが、あんたが伯父なれば、此の私あ、あんかね?
六平 あん?(話の腰を折られて、急に口をつぐみ、見上げ見下して相手を睨みつける)ふうーん。(二人は毒々しい程の眼付で睨み合ふ。その間も六郎が寝こけてゐるのは勿論のこと、クミの方も、父と六平太のこんな争ひは何度も聞いて飽きてゐると見えて先刻からコクリコクリと居眠つてゐる)(短い間)
六平 私が伯父であれば、お前、御迷惑〈で〉がすかい?
笠太 ……私が伯父であれば、あんたさん、お気に召さん向きがお有りかいや?(両人の言葉が丁寧になつたのは、それだけ感情が険悪になつた証拠なのである――間)
六平 ……ハハ。私あ区長やつとんぢやから、区から成功者が出れば、名誉じやから歓迎もする訳合いでのう。
笠太 全くでがす。(と殆んど呪ひを込めて言ひ放つて)私あ、血こそつながつて居らんけどもが、伯父ぢやから、とにかく伯父ぢやから、伯父としてあやつをもてなさんならんと思うとります。伯父として――。(二人それつきりフツツリと黙る。今迄互ひに睨み合つてゐた眼を双方そらして傍を向いてしまふ――間)
六平 ……(せき払ひをして、今迄とはまるで違つた調子で)高山の林ん下の二段田は妻恋一の上田ちう事は皆が知つとる。(とまるきり出し抜けな事を言ひ出すのである)ところが、登記をすんのに三百両ぢやからな、ま、そこで高井の染谷君も二の足をふむ道理か。ハハ。
笠太 (これも別の事を言ふのである)染谷々々と言ふけれどもが、家屋敷から田地悉皆しつきやあ、農工銀行に抵当に入つてゐる上に、篠町の月田の穀問屋へ二重に入つとるげな。内輪を見れば似たり寄つたりだ。他人の世話あ焼かんものよ。のう。ハハハハ。
六平 (カツとして向き直つて)お前、皮肉ば申さるるかつ! 染谷に私が借金しとるのは、嘘でないとも! しかしぢや、私の手元が都合つかんで染谷の方で裁判沙汰にしようとまでなつたと言ふは、肥料代三月も溜めて居る上に耕地整理の際のカカリまで未だに払へもせぬ癖に、たゞもう餓鬼の様に、よい田地とさえあれば物にしようとかかつて居る高山やお前みてえな暴の者が有るからぢや!
笠太 餓鬼とはあんでがすか餓鬼とは! そりや、そりや、あんたに借りが有る者は実正でがす。そりや、返せばようがせう? へん、返し申す、しかし、それとこれとは話が別ぢや。そもそも私等が食ふ物も食はんで、高山の方へ二段田の手附けを打つたといふものが、血の出るやうな――(皆まで言はせず、六平太いきなり立ちかける。丁度そこへ奥で自動車のラツパが鳴つて近づく)
六平 あにが、血の――(そつちを見て)お、来た! こんだ篠町からぢや!(と、口論の方は始つた時と同じく突然に打切つて左手へ走り出す。笠太郎も、これに続いて走つて消える。ラツパの音)(あとには舟をこいでゐるクミと、眠つてゐる六郎)(右手から包みを持つたトヨが出て来る。スタスタ歩いて左寄りの橋の上まで来て立停り、今自分の歩いて来た山の方をヂツと見てゐる。ヒヨイと振返つて待合小屋を認め、急にくたびれが出たらしく休んで行く気になり、その方へ歩み戻る)
トヨ はれまあ、クミちやん? 六郎さんだ。(と声を掛けようとするが、思い返してよして、黙つて、先刻六平太の掛けてゐた場所に掛ける。美しい顔だが、何分にも産後でやつれてゐる。間)
クミ あーあ。あーあ(欠伸。右手を伸して肱をポリポリ掻き、眼を醒す)まだかえ、父う? あれ! まあ、トヨさ……。どうしたん? いつ来たん?
トヨ たつた今ぢや。……まだ身体が本調子でねえけれ、くたびれてねえ。
クミ 歩いてかい?
トヨ うん。コンデンメルクば二つ買うたら車賃なぐなつてしまうて。
クミ 赤は、んぢや置いて来たん?
トヨ 新家の婆ん所、あづけて来たわね。……甚次さん、まだ着かねえの?
クミ んぢや、んぢや、お前も迎へに出て来たんか。いらん世話ぢやがねえ。
トヨ 違ふ。私あ少し遠方へ出かける。
クミ んなら、どうして知つてゐるの、甚次さんの帰つて来るのば?
トヨ そいでも村中で偉い評判ぢやが、黙つてゐても耳にはいるもの。あんでも、えらく出世して金持ちになつて帰つておいでるそうな、ね? ……私、甚次さんとは仲好くして貰うて居た。小せえ時、甚次さんにも二親がなかつたし、私にも、おつ母だけしかなかつた。
クミ フーン。……(急に意地悪くニヤニヤ笑つて)トヨさよ、お前ん産んだ赤のお父うは誰だえ?
トヨ ……(返事をせずに、クミの顔をジツと見てゐてから下を向いてしまふ)
クミ 誰だえと云うたら誰だえ? 高井村の染谷の二番目の若旦那だて云ふ噂だぞ。製材の朝鮮人の阿呆だと云ふ噂も有らあ。なぜ言へんの? ふーん、なぜ言へんのか、トヨさ? なぜさ?
トヨ ……(顔を上げてクミを見詰める。唇をかんでゐる顔が泣きさうになつてゐる。しかし言葉は無表情に)……言へん。
クミ フーン。さう、フーン。……さうさう、もう私に声は掛けて呉れんな、トヨさ。お前と口利いてゐるの処女会に見られると、仲間はづれにされつからな。
トヨ ……私から声をかけられる心配なぞ、これから、せずともよくならあ。……(ヂツと前を向いたままの両眼から涙がタラタラ流れてゐる)
(間)
(六平太と笠太郎が、ガツカリして無言で戻つて来る。待ち人が来てゐなかつた事が一見して解るのである)
笠太 ……(石に蹴つまづき、口の中で)……チキシヨウ!
六平 ……(無意識に歩いて待合の方へ行き以前に掛けてゐた席に掛けようとして、そこにトヨが居るのを認めてギヨツとして)はあ、斎藤トヨで無やあか。(トヨ返事をせぬ)……トヨどうして此処さ来た?(言はれてもトヨは返辞をするのも忘れてヂツと相手を見詰めてゐる)
笠太 あに? トヨだと? はれまあ、トヨだ。いかん、いかんぞ、こらトヨ! お前みたよなイタズラ娘が、甚次ば迎へに来ると言ふ法無あぞつ! 帰れ。うん、帰れ! 子供ん時は好え仲だとか、許婚だつたとか、そら、ホンマであつたとしてもだ、そりは、貴様の身性がマツトウであつてこそだ。何処の誰ともわからん者の子なんぞ産みやがつて――貴様そいでも、甚次の来るのば待つてゐて、あんとか又話ば――。
トヨ 笠太郎の小父さ。……私あ、迎へに来たんでない。篠町へ出て、汽車ん乗つて、久保多の町の方へ行きます。くたびれたで、休んで居るだけぢや。(これで笠太郎は口をふさがれて石の様に黙つてしまふ)
六平 ふーん、ぢや、久保多の三業の方に話が出来たと云ふはホンマかい?
トヨ ……へい。
六平 子供あ新家に置いてか?……んだがお前、三味線ひとつ引けめえに、三業と云うたところで、事は知れてら。気の毒――。
トヨ ……へい。……誰がしたんでも無あ、自分で自分ば売るんぢやから。
六平 赤の父親ば打開けて言へばよかろに。
トヨ ……婆と私の二人で、いぐら芝あ担いでも、おかいこ飼つても、口過ぎ出来なかつたです。そんで……。(短い間)
六平 一体が、その男にしてからが、悪気が有る訳でも無かろよ。又、心当りに話しとかあ。よし、ぢや、とんかく産後ではキツからうで、篠までは乗合に乗つて行きな。さ、私が、賃金は出してやつから。さ、遠慮いらね、取つときな。
トヨ ……へい。いりません。
クミ いただいといたら、えゝに、折角人が――。
トヨ いらねえ。
笠太 ……いけ、剛情な――。
(間)
クミ はあ、もう、おつつけ日が暮れら。
笠太 (又出しぬけに、六平太に向つて)区長さん、あんたもう帰つてくだせ、よ。
六平 (これも亦、火が付いた様になつて)そもそも高山の二段田と云ふは、本村では、三石が少し切れると申す取れ高一番の上田であつて見れば、ねらつてゐるのは、尊公一人と思ふと当がはづれるぞ。娘一人に婿八人、えゝと、婿は七人だつたかいな……(クミがクスクス笑ふ。六平太は自分で自分の話の脈絡を失つて、尚一層の馬力で喚く)そ言つた訳! 尊公が高山に対して手附の上にいくら貸金が有るか知らんが、その尊公にあいだけの貸しが有るのは私だ。その私が又、どうにもかうにも染谷への払ひが出来ず染谷は染谷で分散しかけてゐるとあつて見れば、これは全体どう云ふ理窟になるか! うん? そもそもあの二段田の落着き先と云ふもんは――。
笠太 お言葉中でがすが、お言葉中ぢやが――。(その時右手から野良着のままのオヤヂが酔つてユデダコの様に赤い顔に手拭ひ頬被り、右手に大型の稲刈鎌の光つた奴を握つて、気が立つてゐる様子で小走りに出て来る)
オヤヂ 逃がしはしねえぞつ! 畜生! 待ちやがれ! (言ひながら、待合に飛込む。アレと叫ぶクミ)やいやい! (自分の顔を相手の鼻先に突き付ける様にして、五人の顔を順々に覗き込む。しまいに寝てゐる六郎の顔まで覗き込むが、目的の顔にはぶつつからぬと見えて)畜生、どこい行きあがつたのだ! 出ろ、出て来い! (外へ飛び出る)他人からクスネたこうじで拵えた酒ぢや無えのだつ! よけいな世話あ焼きあがつて! 告発するが聞いて呆れらあ! へん、おカミがあんでえつ、私等のたつた一つの楽しみば、告発だとつ! クソツ、見付けたら最後、うぬの首あ、かつさばいてやつから見てやがれつ! 人の怨みが有るものか無いものか!(キヨロキヨロ左右を見た末、持つた鎌で何かを散々に斬る真似をしてから再び右手へ走つて行つてしまふ)
クミ あんだえ、あの人※(感嘆符疑問符、1-8-78)
六平 酒ば告発だなんて言つてるが、まさか検査官が来たんではあるめえな?
笠太 へーい! 検査官? すると――(眼の色を変へてゐる)
六平 今のは確か高井村のなわ手の小作だ。しかし、まさか――。
笠太 チヨツクラ、私訊ねて来て――。(右手へ行きかける。そこへ左手の方で自動車が着いた音とラツパ。それを聞くや六平太はその方へ行きかける。笠太郎はどつちへ行つたものかと右へ四五歩、左へ三四歩ウロウロ迷つた末、六平太の後を追うて走り出す。トタンに出しぬけに大きな声で仇六の歌声。六平太と笠太郎はビツクリして立止つてしまふ)
(酔つて歌ひながら、踊つて左手から出て来る仇六。左肩には、空になつたマユ袋をしばり付けテンビン棒をかついでゐるので、踊ると云つても右手を差上げたり、腰をグラグラさせるだけのものである)
仇六 はあーあ、踊る阿呆よ、踊らぬ阿呆、同じ阿呆なら踊らんと損ぢやい、と。トコドツコイ、ドツコイサ! 踊らんと損ぢやい。トコドツコイ。おい君、こら、吹きなよ、ハーモニカ吹かんかよ、おい君、紙芝居君!(後ろを振返つてわめく。見ると、みすぼらしい和服の三十歳位の男が、背に幼児を負うて、仇六について出て来る。仇六から、おい君吹かんかよと言はれて、困つて笑つてゐるのである)吹けえオイツ! 吹かにやかつ!(男、仕方なく持つてゐるハーモニカを二声三声吹く。仇六は踊る)ハ、ドツコイドツコイ、ドツコイサ、音頭とる子が橋から落ちたあ、流れながらも、音頭とる、ハ、ドツコイ……。あれえ、なぜ吹くば止すのだつ?
紙芝 (弱つて)此の子が目を醒して泣きますから。
仇六 かまん、かまん! ハ、ドツコイ……。
六平 仇六、今帰るか? えらい景気だの!
仇六 はあ、区長さんかね? 景気も景気、大景気さ。家中の者、夜も日も寝ねえで夏中かかつて出来したおカイコが、いぐらだと思ふ? へん、いぐらだと思ふ? へん、大枚十四両と二分だあ。問屋場ぢや一円七十銭の値が崩れようとしてけつからあね。大枚十四両と二分だあ! どうでい、大分限者だぞつ!
笠太 ヘーイ、さう言ふ事になつて来たんかのう!
仇六 桑の代だけも十両ばかかつてゐるんだぞ。へん、俺あ泣けて来たで、泣く代りにドブロクひつかけて来たんぢや。景気が好いのがあにが悪いかつ! 俺あ十四両の大分限者でい!
笠太 私んとこも、そいでは、早く秋蚕の始末にかからんと。
仇六 はあ、お前は笠太郎のオヤジでは無えか! どうだ、その甚次公の金持ちは戻つて来たのか? 戻つて来たら、うまくハメ込んで、借金やら二段田やら、いろいろ金え引張り出さうと云ふコンタンか知らねえが、さううまく行ぐかのう? どだ? うまく行つたら、銀行ば立てろ。な! そして抵当なしでドンドン金貸してくれ。頼むぜ。妻恋農工銀行ちうのだ、ええかつ! 妻恋農工銀行万才! 万才!(その間に、はじめビツクリした後、モヂモヂして皆を見廻してゐた紙芝居屋は、休息するために待合の方へ行きかける)
六平 仇六、お前、篠町から乗合で来たのか?
仇六 誰があ! 半額にまけろといくら掛合うても、まけくさらん。歩いて来たでさあ。此の人と、なあ(と男を目で捜して、歩きかけた男の肩を掴む)吹けよ、おい君!
紙芝 くたびれてゐるから。
笠太 甚次らしい若い男、篠町辺で見かけなんだか?
仇六 知らん。知るもんか。へん、笠太公、お前あんまり慾の皮突張らすのよしな。お前の待ちこがれて居るのは、甚次で無くて、甚次の金だろが?
笠太 阿呆つけ!
仇六 へん。そいで無かつたら、甚次が、――さうだ此の人であつても、構はん理窟ぢや。なあ君、君は紙芝居であるけれどもが、君が辺見甚次君だろ、アハハハそんねな事、どうでもええわい、さ、ハーモニカ吹いちくれ! 吹けつ!(言はれた男は既に、待合は満員なのでその外の盛土の上に、グツタリと腰をおろしてゐる。弱つたなあと口の中で言つて仕方なくハーモニカを二吹三吹する)ア、コリヤサツト、マユがさがれば、百姓の目が釣り上る(デタラメに歌ひながら、ズツコケて来たマユ袋を頭から引つかぶつて踊り出す)こんな踊り見た事あんめ! マユ売る阿呆に、マユ売らん阿呆、同じ阿呆なら飲まなきや損ぢや。スツトコドツコイ、ドツコイシヨと!
クミ あれまあ、アハハハハハ! ハハハ!
女車掌 妻恋行きが発車しまあす!(と呼びながら、左手から出てくる。橋の上へ来て)妻恋行きにお乗りの方ありませんかあ? 妻恋行き、ありませんかあ? はれ、まあ!(と袋をかぶつて踊つてゐる姿を認めて、ノコノコ近付いて来て見てゐる)あれえ、こん爺さんだよう、篠町からこつち車の後さぶら下つちや、賃金半額にしろと云ひ通してとうどう乗らんかつた人!
仇六 あにをつ!(袋から顔を出して)よう、べつぴんさん! あにを、憎まれ口を叩くでい! お前だろ、そんダンブクロ見てえな制服の下から、赤いユモジぶら下げて澄まして篠町まで行つた車掌ちうのは!
女車掌 好かん! 馬鹿つ! はーい、妻恋行きが出るが、乗る人無あですか?
クミ 父う、乗つて戻ろうよ。
笠太 あにを云ふ!(車掌に)乗る人あ一人も無えさ。無え無え! 私等あ帰る時が来れば歩いて帰らあ。
女車掌 チツ、車あ人が乗るために定期で通つてるもんだよう。昨日から四度通つて一人もお客が無あとは呆れたわい。こんな事ならば、定期やめるぞ。ケチツ臭え!
六平 ちよいと聞くが、昨日か今日、篠町か高井の方から此方へ乗つて来た客で洋服を着た人無かつたかな?
女車掌 へい? 洋服?
笠太 まだ若い男だがの?
女車掌 有りますよ、今日、ホンの先刻だあ。
六平 な、な、な、有るのか? 篠町から?
女車掌 いいえ、高井からだけどねえ、眼鏡かけて、革のゲートル巻いた三十四五の人でしうが?
笠太 ど、ど、どこで降りたね、そん男?
女車掌 ホン、そこの松の木の宿で降りて、飯ば食ふには何処がええと聞いたから、私が松島屋ば教えてやつたで、食つてんだろ。
笠太 こら、いかん。さ、さ、(と駆け出しかけて、クミを思ひ出して走つて引返し、クミの手を取つて引立てる)さ、来う! さ!
六平 (同様に寝こけてゐる六郎を引ずり起して)さ、こら、六! シヤンとせえ!(手を取つて走り出す。既にその時には笠太郎はクミの手を引いて左手の橋を渡りかけてゐる)
女車掌 松島屋へ行くんだら、通りを行くより、直ぐそこんキビ畑左い折れるが近道だよう。
六平 さ、こら!(と負けじと走りかけるが、寝呆けてゐる六郎の身体が足もつれになつて前へ行けず、ドツと転ぶ。その間に六郎が小旗を振り振り夢中で左手の方へ走り出す「はあ、万才! 万才!」と叫びながら。それを追掛けて腕を掴んで引戻して)こん野郎、そつちで無えわい!(六郎を殆んど引ずる様にして左手へ橋を渡つて走り去る)
女車掌 あーんだえ、ありや! 豚の尻つぽさ、火が付きあしめえし!
仇六 豚だか馬だか知んねえが、尻つぽさ火が付いたは、ホンマらしいて。アハハハハ! どりや、帰るべいや。ドツコイシヨ。
女車掌 乗らんかね、あんたあ?(男に)
紙芝 乗らん。私あ此処で――。
仇六 乗せてくれるんか? ホンマか、べつぴん?
女車掌 あれま、あんたユンベ篠の祭に出てゐた紙芝居の人でにやあかね?
紙芝 ……見たんですかい? ハハ、きまり悪いなあ。
女車掌 面白かつたで、おしまひまで見てしまうたよう。沓掛時次郎つうの好いわえ。(声色)太郎吉よ、もつともだ、俺も逢ひてえ、逢つて一言……あの辺好いわえなあ。
紙芝 ありがとうさん。まだ下手だ、私あ。
女車掌 これから又商売行くの?
紙芝 へえ、まあ……。
仇六 おい、乗せてくれるんかい? べつぴん、ホンマに乗せるか?
女車掌 あんだい、いやらしい、こん助平!(仇六の頬を平手で一つ喰はして、ドンドン左手へ行つてしまふ)
仇六[#「仇六」は底本では「仇七」] タツ! アハハハ。ワーンワーンワーン!(泣き真似。しかし涙を流してゐる)ワーン! 待て、この女郎め! 帰るから待ちなつ! ワーン(手を振り振り、左手へヨロヨロ小走りに、踊りの手附きで、唄ひつつ去る)マユ売る阿呆に、マユ売らん阿呆、同じ阿呆なら、飲まねや損ぢやい……。
(後に残されたトヨに、紙芝居。暫く二人ともヂツとして身動きもしない。……やがて紙芝居ノツソリ立上つて振返つて見てから待合の中へ入つて行く)
紙芝 やあ、御免なさい。休ませて下さい。
トヨ あい、どうぞ……。
(紙芝居掛ける。紙芝居はボンヤリ何か考へ込んでゐる。――間)
トヨ あんたさん、赤ちやんば下しておやりんなればよいに。……そいでは苦しそうぢや。
紙芝 へえ。……ぢや、まあ。(帯を解き、子を背からおろす。無言でそれに手を貸してやるトヨ)
トヨ 幾月かな? 四月位かね?
紙芝 へえ、五月になりますよ。……(子を膝に置いて再び掛ける。トヨも前の処に掛ける)
トヨ まあよく眠つて。……どうしたお子かいな?(問ふともなく、一人言の様に)
紙芝 ……(前を向いたまま)女房に死なれちやつて。
トヨ 難儀ぢやろうなあ。
紙芝 (自然な気持の流れを自分でせき止める様に)……ハハハハ。なんですねえ、かうして方々を見て来ると、村方でも近来これで、楽ぢや無さそうですね。聞いてこそ居たが、まさかこんなに酷からうたあ思はなかつた。
トヨ お乳にお困りんなんだろね?
紙芝 方々で米作がひでえし。もつとも、いくら良くても、値が下がれば、同じ事か。
トヨ お乳はどうなさるかいね?
紙芝 へ? ええ、シンコ溶かして煮てやります。どうもね、一々面倒で……。
トヨ お砂糖は?
紙芝 へえ、少し入れてね。いやあ、やつぱり母乳にはかなわんと見えて、五月でも、まだこんなに小さい。ハハ、生れて来るのもよしあしだ。……(トヨが不意にクククとすすり上げて泣き出す。残して来た子の事を思ひ出したのであらう。紙芝居びつくりして、はじめてトヨをまともに見る)どうなすつたんです?……どうなすつたんです?
(間。……泣いてゐるトヨ。やつと泣き止んで顔を上げる)
トヨ ごめんなせ。つい……(微笑して見上げる)
紙芝 ……(立つて)あんたあ――?
トヨ (涙を拭きながら)妻恋の者でねえ、こいから遠い所さ行くだけど、いろんな事思ひ出しちまつて。……(相手がマヂマヂ見詰めてゐるので、眼のやり場に困つて)実言ひば、生れたばつかりの赤が、私にも有んで……。
紙芝 ……それを?
トヨ 仕方無えので、置いて行きます。……赤ば絞めて自分も死なうと考へた事もあます。因果に生まれてきた子だがどう云ふもんかヤツパリ可愛い。私あ四日も五日も眠らねえで思案したです。自分で自分にかう云うてね、トヨ、お前は赤ば殺して自分も死ぬか、それとも久保多の町でダルマになつて子ば育てるか……。
紙芝 ……ウム。
トヨ ダルマは死ぬより辛いと云ふ。直きに病気になるげな。(と次第に独言の様になる)二人で生きて居れんなれば、どつちか一人は死なんならんのぢや。好きで産んだ子でも無いに、生れて見れば可愛うて、自分の身はたとえ死んでも子供の手足は伸してやりたい。これはどう云ふ訳でがせうね? 神様がわし等ばこらしめなさるのぢやらうか? 罰ばお当てんなるのかね? ……かうして居ても乳が張つて、わし等は苦しいのです。わし等に子供がいとしいのは、やつぱり罰が当るのぢやらう。
紙芝 ……罰をねえ。……子供さんのお父つあんは?
トヨ……(ツト立つて相手を見詰める。父と云はれて不意に湧いた反感がその顔に認められる。ヂツと見詰めてゐたが、相手に皮肉の意味が全然無いのを見て、我れに返つて)……ハハハ、あんた様は村の人では無かつたけ。村の人ならば、私にそんな事ば、真面目になつて問ひはせんもの。ハハ。……食いぶちだけは仕送るから、末は必ず嫁にするからと、無理に私をだまくらかして……。それに、それに、私あ……。
紙芝……?
トヨ (声をしぼつて)何でもええから、自分を可愛がつてくれる人が欲しかつたんぢや。寂しかつたんぢや。そこへやさしい事言はれて、ツイほだされてしまうた。私と云ふ者は小さい時から、人に可愛がつて貰うた事がなかつたのぢや。寂しかつた。ああ。……ズツと前可愛がつてくれた人が一人だけは有つた。学校帰りにはアケビば取つてくれては、私の口に入れてくれた。その人はどんな気でゐたか知らぬ、私はその人のお嫁になる積りで居た。その人は東京で偉い出世ばしてゐるげな。……さうでなくても、かうなれば、もう駄目ぢや。もう駄目ぢや。はあ、もう駄目ぢや。……(フツツリ黙る。紙芝居何か言はうとするが言へず、これも黙つてゐる)
(余り離れてゐない太田屋で、酒を喰ひ酔つて喚いたり唄つたりしてゐる高井村のオヤヂの声が聞えて来る)
トヨ ……(又我れに返つて、フト気を変へる。少しきまりも悪いのである)ああ、私ああにをベラベラ喋くつたかいね? ハハハ、初めて会うた、あんた様つかまえて。ハハ。んだが、あんたさんであればこそ聞いて下さる。村の人あ皆私とは口も利いてくれんもんね。ヤツト、ヤツトの事で胸ん中の事スツカリ人に話して、セイセイして元気が出たやうな気がします。村を出て行く今日と云ふ日ぢやけれ、どうか、こらえて下せえ、よ。
紙芝 なあに、そんな事あ……。だが、余計な事言ふ様だが、相手の、その父親に当る人の事を村の人達にも打開け、当人にもそう言つて、村に居て何とか身の立つ様にして貰つたら――
トヨ 向ふは物持の息子だし、どうせ嫁にする気は有りはせん。嫁取りの話がほかで進んでるやもの。このままで居れば俺の家も分散するばかりぢやけれ、持参金の財産目あてに、俺はいやでたまらんけれども篠の穀問屋の娘を取ることになつた、お前の事がバレると何もかもぶちこわしだで、どうか助けると思うて俺の事は世間へ云ふてくれるな……さう言ふて私を拝んで泣くのぢや。……拝まれたつて私あ元の身体にはなりはせぬ。……しかしこれを世間へ打ち開けてその男ば困らせて見たところで、元の身体にならぬは同じぢや。ハハハ、私には同じことだもの。ウンと言ふてしまうたでさ。ハハ。私あ小せえ時からのツムジ曲りだ、人の情にすがつて楽をするよりは、八つ裂きにされた方がましです。久保多へもその気で行くですわ。ハハハ。
紙芝 ……八つ裂きにね? ……えらいなあ。そこへ行くてえと私なざあ……。
トヨ 自分の事ばかり喋くつてゐたが、あんた様、紙芝居とやらで――。
紙芝 ハハ、いやどうも。自分で自分の気が知れないんだ。商売なんかぢやない。ウロウロして歩くのに都合が好いから、やりはじめた。何をしていいかわからないんだ。……半年前までは、これでもチヤンとツトメを持つてゐたんです。そこをチヨイとした事、さう、知つた男に金を十円貸してやつた。軍需品工場の事務員だつたが、それが赤だつたと云ふのだ。なに私は直ぐ警察から戻されたが、社では否も応もない、首になる、女房が病気になる、此の子を生む、後直ぐ死んぢまふ。ボンヤリしてしまいましてね。悲しいと云ふんぢやない、八つ裂き、とまでは行くまいが、四つ裂き位にはなつたかね、まあ筋が抜けちまつた。もともとイクヂの無い男なんでしよう。そいで一度ヂツクリ、とまあ……そいでかうして居ますよ。ハハハハ、ムキになつて働いても、どうせどうにもなるもんか、と、まあね、ハハハハ。もつとも、此方で働く気でも、さうでなくても失業地獄の当世に、子持の上に、シンパ嫌疑で首と云ふケチの付いた男だもの、片つぱしから、相手にもなつてくれない。ハハハ、そいでとうだう、旅費も無しね、自分にも思ひもかけない、かうして――(と忘れて手に持つてゐたハーモニカが眼について吹き鳴らす)
トヨ まあ! ハハ。
紙芝 (声色)生れ故郷の沓掛宿、はるかに望む秋の野を、泣くな泣くなよ太郎吉と、ひたすら急ぐ時次郎、てなわけだ。ハハハハ、ハハハハ!
トヨ ハハハ、ハハ、のんきでえゝわいね!
紙芝 のんきだあ! ハハハハ、のんきだあ! ハハハハ! (哄笑するが顔は泣きさうである)
(左手から、洋服、ゲートル姿の男が楊枝で歯をせせりながらツカツカ出て来る。一度橋の上に停つて時計を出して見て、それから陽を見て、ブツブツ呟いてから、待合の方へ。中の二人をヂロヂロ見る)
洋服 ……あんた等も妻恋行きかね?
紙芝 (涙を指で拭きつつ)へえ? いいえ。
洋服 妻恋行は、たしかもう一度出る筈だね?
紙芝 さあ。(トヨに)出るんですか?
トヨ へえ、五時のが出る。(紙芝居に)あんたさん、どつちへ行くん?
紙芝 へえ、さあ、と……妻恋――村の高井に祭があるさうで。さう、高井へ行きませう。
トヨ 祭なれば妻恋のお薬師さんも今夜が宵宮だで。
紙芝 いや高井へ行きますよ。
洋服 五時半はもう過ぎとる。どうも時間が不確かでいかん。此処で待つて居ればええかね?
トヨ 五時の妻恋行は、お客が一人もなければ、行かねえ事も有つから、行くんなら下の車庫ささう言つとかんと、いきませんが。
洋服 そら、いかん。そら、いかん!(と左手へソソクサ行きかける)
(そこへアワを食つて左手から走り出て来る六平太、笠太郎、クミ、六郎の四人。洋服の男とバツタリ出くわす)
六平 (息を切りながら、相手を見上げ見下し)はあ、すると云ふと……はあ、これだ、これだ! 早道をしたで行違いになりをつた!
笠太 こ、こ、こりや! こりや立派になつたのう、甚次! 面突き合しても、こいでは甚次たあ解らんわえ! ほう! 立派になつた、立派になつた! 甚次よ!
六平 (負けないで)はあ、立派なものだ! 出世したもんよのう! 甚次君、六平太の小父だやう! どうだい、辺見甚次君だ! 万才々々!
六郎 バンザーイ。バンザーイ。
笠太 甚次よ、あにをボンヤリして居る。伯父の笠太郎ぢやが! よかつた、よかつた、私あ、私あ、なんぼう嬉しいか解らんぞよ。こら、クミ、来い! あにを羞かしがつてゐるや! それ、これがその甚次だ! ハハハハ、甚次よ、これがクミぢや。見てやつちくれ。ハハハ。
六平 いやあ妻恋の名誉の段では――。
笠太 辺見一家でこれ程の出世ば――。
洋服 (すがり付いて来る手を振りほどいて、後ずさりして、呆れて見廻してから)……何がどうしたでが? さうガヤガヤと――。
笠太 はあ、俺あ嬉しくつて嬉しくつて、お前を迎へるのに昨日から此処に立つて待つてゐたわな。ハハハ、いやあ、大したもんよ!
六平 大出世だあ! 私も昨日からズツと歓迎しようと思うての、ハハ。
洋服 私を歓迎――?
(トタンに右手から前出の高井のオヤヂが、又酒を飲んだと見えて、殆んど泥酔に近い状態で、鎌を振り廻しながら走り出して来る)
オヤ (わめく)検査官が、あんでえつ! 畜生! 人の怨みが有るものか無えものか! バラしてやつから、出て来いつ! 出せつ! どこさ逃げあがつたつ! 自分の手で自分のクズ米で、ドブロク拵えるのが、あにが悪いかつ!(といきなりクミの肩を掴む)
クミ キヤア!
オヤ キヤアたあ、あんだつ! 出せ、やいつ、検査官出せ、殺してやつから!
洋服 おお、お前、先刻の松川ぢやないか。殺すと?
オヤ おお殺すとも……(酔眼を近寄せて相手を調べる)フエーイ、あんただあ! はあ。(今迄の威勢はどこへやらヒヨタヒヨタ坐つてしまふ)
洋服 なんだ? えらい元気だなあ!
オヤ そ、そ、それ……いえ、いえ、その、頼まうと思うて追ひ掛けて来たでがす。わしが悪い、悪いから、今度だけは告発すんのだけは、許して下せえよ。こん通りだ、こん通りだ。(手を合せて拝む)
洋服 (笑ひ出して)人を殺すのはいかんよ。悪い事をしたのはお前さんだからな。ハハ。今度だけは今度だけはで、これで君あ三度目ぢやなかつたかな。罰金も払へんと言はれれば、私も事情には同情はするけつども、知つた上は仕方がない。
オヤ そこん所ば、こん通りだ。こん通りだ。(六平太と笠太郎は事情がわかつて見れば、待つてゐた甚次ではないので、一度にガツカリして塩をかけられた青菜の様になつてゐる。クミと六郎は、地に坐つて拝んでゐるオヤヂを、呆れて口を開けて見てゐる。待合のトヨと紙芝居も覗いて見てゐる)
洋服 私はかうしては居られん。急ぐのだ。
(トツトと橋を渡つて左手へ消える)
オヤ こん通りだ。(それを追ひすがり)こんだ罰金になれば牛まで売らんならん。立ち行かんです。それでなぐてさえ、飯米買ふ金もなぐて、困つてるの何ので無えだから。お願ひだ。お願ひ――(左手へ去る)
(間)
(口を利く元気もなくして呆然立ち尽してゐる四人。六平太がフラフラ待合の方へ休むために歩いて行く)
六平 ハーああ! ……まだ居たのかトヨ?
トヨ へい、もう直きん、行きます。(クミがシクシク泣き出す。左手で自動車の音)
笠太 (それを叱り飛ばす気もなくなつてボンヤリ下手を見てゐたが、ラツパの音で不意にビクツとして)……はあ、検査官は何処へ行くんぢやらう、区長さん?
六平 そんな事知るかえ。……甚次は来ねえわ。
トヨ 今の人は妻恋へ行くと云うて乗合に乗つたですよ。
笠太 あにい※(感嘆符二つ、1-8-75) 嬬恋だと※(感嘆符疑問符、1-8-78)
六平 そかつ! こら、いかん! (二人顔を見合せてゐる)こら、急がんと、いかんわ!(二人いきなり駆け出しかける)
笠太 さ、来いクミ!
クミ (しやくり上げつつ)乗合でなきや、いやだ。
笠太 あん大将より先い着かんならん。乗合なんぞに乗つて居れるか! 駆けるんぢや。(クミの手を掴んで走り出す)
クミ あれ! んで、甚次さんはあ?
笠太 甚次は又明日ぢや、さあ!(そこへ、黙つて六郎の手を引いて走つて来た六平太が突き当る)たツ!(混乱して)区長さん、あんたあ、お先い帰つてくだせえ、気の毒だあ!
六平 あにを申すか、貴様、二段田あ……(殆んど歯をむき出して相手になりかけるが、フイと止めて)帰つてんぢや無やあかい! 阿呆たれつ! さ、来う六郎! (六郎の腕を掴んで左へ走り去る。同じく笠太郎も、とうとう声を上げて泣き出したクミを引立てて走り去る)
紙芝 ……(驚いて待合の外に出て来てゐたが、呆れて四人を見送つてゐた後)……アハハハハハハハ。アハハハハ。
トヨ アハハハハ。アハハハ。(二人が自然に笑ひ止むと、四辺は急に静かになる。笑つた後だけに殊更に寂しくなつて、紙芝居は子を抱いたまま、再び待合に入つて掛ける)
(間)
トヨ ……はあ、あんたさん、まだ行かねえの?
紙芝 あんたは?
トヨ ボツボツ行こかなあ。
紙芝 久保多だつて言ひましたね?
トヨ 久保多の三業で茶屋の青柳と言ふ、表向きは仲働きぢやと云ふがね。名前はおトヨ。通りがかつたら寄つて下せ。
紙芝 ……青柳。……そいで、全体、いくらで?
トヨ 前借二百円です。……手取りが百十円。しかし、それば、新家の借家の借金の方へ廻したら、一文も残るどころか、まだ足らん。赤の養育料は向ふで稼いで送らんなりません。しかし、ああに、死んだと思へば、あんでも無えさ。私、やります。
紙芝 死ぬ時は、その髪の毛を抱いてお死によ。おかみさん――(眼は前の方をヂツと見詰めてゐる)
トヨ へ、あんですの?
紙芝 いやあ、これは芝居のセリフだ。(先程から男の腕の中でモズモズしてゐた幼児が泣き出す)
トヨ ああ、泣き出した。
紙芝 よしよし、腹が空いたのか。よしよし。
トヨ 私が乳をあげよう、先刻から張つてならぬから。どれ(と幼児を抱き取る)
紙芝 すみませんねえ。
トヨ (惜しげもなく、丸い乳房を出して幼児にふくませる)あれま、こんねに、むしやぶり付くわ。(紙芝居は外へツカツカ出て行つて、何となく崖の方を向いて立つてゐる)……ああ、妻恋では、私が赤も泣いて居るぢやろな。
(間)――(崖の端に立つた街燈の裸かの電球にポカツと灯が入る。山間の常で急に夕闇が立ちこめるのである)
トヨ ……ああ電気、ついた。
(間)――(紙芝居は硝子越しに乳を飲ませてゐるトヨを覗いてゐる。青い顔になり、総身ガタガタふるえはじめる)(遠くで、眠さうな自動車のラツパ)
トヨ あれ、もうええのかや? はあ、飲んでしまうたら、直ぐ寝よる。これでよい。さあ、あんたさん、どうしたの、あんたさん。
紙芝 (顫える掌で、むやみと顔中をこすりながら)あつしでござんす。信州の旅人時次郎でござんす。一旦出て行く事は出て行つたが耳に付く子供の泣声……ハハハ、ま、かう言つた調子だ。ハハハ(と言ひながら入つて来る)これはありがたう。(幼児を受取る)
トヨ 寒いのかねえ、えらく顫えて?
紙芝 いいえ、何でもない。
トヨ んでも、えらく顫えてさ。
紙芝 何でもない。ハハ(と笑ひかけるが、喰いしばつた歯が笑はせないのである)……ウーム。
トヨ さうれ。寒いのでせうが。此の辺は陽が落ちると急に冷える。
紙芝 な、何でもない!(歯をカチカチ言はせる)
トヨ 大事になさらんと、いけんぞえ。あんたが病気になつたりすると、赤さん可哀さうだ。
紙芝 ……ありがたい、ありがたいなあ。……苦しいままに、苦しいままで(と訳のわからぬ事を独言しかけるが、ヒヨイと我れに返り)……あんた、日が暮れてしまふと、困りやしないかね?
トヨ はあ、もう下り一方ぢやから。
(左手から女車掌の声)
声 あーい、篠行き、乗る人無えかーあ。篠行きの終車だぞーお。篠行き無えかーい!(自動車のラツパの音)
紙芝 あ、あれに乗つて行つたらよい。さうしなさい。
トヨ 歩きます。賃金〈車賃カ〉無あで。
紙芝 私に有る。三十銭でせう。それ。
トヨ ……(黙つて相手を見てゐた後、その眼は相手の眼を見たまま、すなおに)……いたゞきます。あいがたうさん。あんたは?
紙芝 私あ高井。そこから、ズツとしつかり稼いで、一度東京へ帰つて見ます。……久保多町の青柳でしたね?
トヨ あい、どうぞお大事になあ。(涙ぐんで手を出しかける)
紙芝 (その手を避けて、一二歩身を引いて)急がんと、乗り遅れる。
(トヨ思い切つてスタスタ待合を出て左手へ。橋の上で一度立停り、そのままの姿でヂツと考へて立つてゐた末、ヒヨイと振返るが、別に何も言ふ事が見付からぬので、再びスタスタ左手へ歩いて消える)
(黙つて見送つてゐる紙芝居)
紙芝 ……トヨ、か。ふん……(間)……二百円、か……(左手で自動車の響とラツパ。紙芝居は眠つた子を背へ廻して、帯でキリキリとしばる。ガチヤンと落ちるハーモニカ。それを拾つて)アハハハハ。よからう! ああ! 日暮れか? 朝の様な気がするんだが……。(声色)おお行かうぜ、坊や、(外へ出る)坊や、深い馴染みの宿はあすこだ! (崖のふちに立つて暮れかけた山の方をヂツと見てゐる)深い馴染の宿は……(ハーモニカを吹いて見る。暫く吹いてゐて不意にピタリと吹き止め、目を据えたかと思ふと、そのハーモニカをバリバリ噛みくだく。歯ぐきが切れて少し血が出る)畜生、馬鹿!(言ふなり、そのハーモニカを待合小屋へ力一杯叩きつける。ハーモニカは窓硝子に当つて、硝子はバリンバリンバリンと鳴つて破れるのである)……ハハハ、よし! さやうなら、よ! (崖のふちを離れ、右手の方へスタスタ歩き出してゐる)

底本:「三好十郎の仕事 第一巻」學藝書林
   1968(昭和43)年7月1日第1刷発行
初出:「新潮」
   1935(昭和10)年2月号
※字下げ、アキの不統一は、底本通りにしました。
※「〈〉」内は、底本編集部による注記です。「…カ」は、不確かな推測によるものをあらわしています。(底本では、「〈〉」はきっこう括弧です。)
入力:伊藤時也
校正:及川 雅・伊藤時也
2010年4月7日作成
2011年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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