一

 北海道の留萌るもい港……正確に言えば、天塩国留萌郡留萌町てしおのくにるもいぐんるもいまちであろうが、もちろんこんな辺陬へんすうの一小港などが諸君の関心をいていようとも思われぬ。
 札幌から宗谷本線稚内わっかない行に乗って三時間、深川という駅で乗り換えて更に一時間半、留萌本線の終端駅と言えばすこぶる体裁よく聞えるが、吹雪のえ狂う北日本海の暗い怒濤どどうの陰におびえながら瞬いているようなわびしい漁師町と思えば間違いはない。
 十余年前の一月半ばのある寒い日の夕方、私はここへ行ったことがある。何のために、こんな北のはずれの小さな港町などへわざわざ行ってみたのか、今考えてみてもハッキリとは覚えていないが、大体その時北海道を旅行して歩いたというのが別段これぞという目的があったわけでもなく、いよいよ私も北海道を去って東京へ出ようと決心していた頃であったから、その時分気心の合っていた札幌の芸者で君太郎という二十一になる自前のと、しばらく人眼を避けて二人だけになりたい一種の逃避行なのであった。
 だから行く先なぞはどこでも構わない。ただその時その時の気任せに、なるべく人眼に付かない辺鄙へんぴな静かな場所ばかり飛んで歩いていたようなものでもあった。
 その時も、大晦日を眼の前に控えた暮の二十五、六日から札幌を発って、有珠うす登別のぼりべつ音威音府おといねっぷ名寄なよろと言った、いずれも深々しんしんと雪に埋もれて眠ったような町々ばかり、今にもまた降り出しそうに重苦しく垂れ込めた灰色の空の下を、これというめた計画もくろみもなく旅を続けていた。お互いに別段、そう熱を上げて夢中になっていたというのでもなかったが、さりとてひと思いに他人になってしまうだけの決心もつかず、ただ何となくズルズルと、一日でも長くこうして一緒に暮していたいような気持が、金のなくなるまでまだまだこんな旅行を続けているつもりなのであった。
 ……が、まあ、そんなことなぞはどうでもいい。なにも君太郎のことを書こうというわけではなかったから。そんな余計な穿鑿せんさくなぞはどうでもいいが、ともかく私たちが留萌の港に着いたのは夕方の五時頃ではなかったかと思われる。北海道の原野はもう蒼茫そうぼうと暮れ果てて雪もよいの空は暗澹あんたんとして低く垂れ下っていた。
 そして町は停車場前の広場から両側のうずたかく掃き寄せられた雪の吹き溜りの陰にチラチラと灯をのぞかせていたが、私たちはもちろんこんな淋しい港町なぞに一人の知り人があったわけでもない。灯をかざして迎えに出ている番頭に連れられるまま、駅前の丸源という三階建のこの辺としてはかなりの宿屋に案内せられた。
 ともかくひと風呂暖まって、丹前にくつろぎながら、夕餉ゆうげの膳を囲んでゆっくりと飲みはじめたのであったが、こんな辺陬な駅への区間列車なぞはこれでおしまいだったのであろう。機関車の入れ換え作業でもしているのか、機関庫と覚しいあたりからは蒸気を吐き出す音と一緒に鈍い汽笛の響きが、雪をはらんで寂然ひっそりとした夜の厚い空気をふるわせて、いかにも雪深い田舎の停車場らしい趣を伝えてきた。
 そんな空気の中で私と君太郎とは、さっき女中のき付けて行ったストーヴにどんどん薪をほうり込みながら、炬燵こたつの上で熱いやつをみ交していたが、もう十日の余もこうして場所を換えては飲み汽車の中では飲みして酒にただれ切った喉には今更変った話があるというでもなければ酒の味が旨いというのでもなく、いい加減に切り上げて、各々床にもぐり込んでしまった。そしてさあ、時間にしてどのくらいも経った頃であったろうか。

      二

 ふと私は、ただならぬ表の騒がしさに夢を破られて、がばと跳ね起きた。沈々と更け行くてついた雪の街上を駈け抜ける人の跫音あしおと、金切り声で泣き叫ぶ声、戸外からは容易ならぬ気色けしきを伝えてくる。
 てっきり火事だと私は直観した。子供の時分から、火事と聞くと一応飛び出して検分してこぬことには、どうしても気の納まらぬ性分であった。いわんや、こんな知った人もない一小都邑とゆう! 風はないようであったが、旨く行って町中総めの大火にでもなってくれれば有難いぞと念じながら、私は丹前の上にしっかりと帯を締め直していると、眠っているとばかり思っていた君太郎が、重そうな丸髷まるまげの下から、パッチリとを開いた。これもさっきから表の騒がしさに眼がめていたらしい。
「火事だっていうと、こんなところへ来てまで飛び出すのねえ。方角も知らずにいて、迷子にでもなったらどうするの?」
 と微笑ほほえんだが、
「そんな恰好をして、風邪でも引かないように気をつけて頂戴!」
 と夜具のえりに頬を埋めてまぶしそうに薄眼をしながら言った。
 そのうちに、宿屋の者も起き出たらしい。ガラガラと大戸の開く音がしたが、途端に、
「あらあら、大変だ! 大変だ! どうしましょう、番頭さん! 早く来て下さいよう! 早くさあ!」
 と、涙ぐんだ甲高い女の叫びがした。
 私は、大急ぎで階段を駈け降りて、有合ありあわせの下駄を突っ掛けたが、一足躍り出した途端に思わず固唾かたずを呑んで、釘付けになった。
 街路の上、人の腰の高さほども雪は踏み固められて、そこが冬中の通路となって、カチカチに凍りついていた。そして家々の軒の脇には、屋根までも届くくらい、掃き寄せられた雪や吹き溜りの雪が小山のように賑やかに林立していた。その高い通路の上を今、こけつまろびつ、小山の陰になって、見えつ隠れつ、全身いき不動のように紅蓮ぐれんの焔を上げた三人の男女が、追いつわれつ狂気のようになって、走り狂っているのであった。
 そして廻りを囲んだ人々は、火をみ消そうとして、家からかついできた蒲団を往来に投げ出すやら、座蒲団を持ってこの三人を追い駈けるやら、必死になって口々に何か呶鳴どなり合っているところであった。
 しかも焔に包まれた三人が雪崩なだれを打って転がり込んで来る向う側の店々では、家に火の付くのを恐れてあわてて戸を閉め出すやら、未だかつて私は、生れてこれほどのすさまじい光景を見たことがなかった。夜眼よめにもほの白い雪の街路を転がり廻っているこの紅蓮の焔の周囲を遠巻きにして、黒い人影は右往左往にただ混乱し切っていた。
 幸いに、私のたたずんでいたところからは家数にして五、六軒ばかりも離れていたから、こちら側へ転がって来る危険はなかったが、私の側に震えている女たちは、生きた心地もなく身もだえしながら、
「早く、どうにかして! あ、早く消して上げて! あ! ああ!」
 と身も世もなくおろおろ声をふり絞っていた。
 その間にも、組んずほぐれつ、焔のかたまりは互いに往来をいつ転げつしていたが、私にもようやくおぼろ気ながらに、この場の様子が呑み込めてきた。走り狂っていると思ったのは私の見誤りであった。
 男一人と女二人、全身火焔に包まれた年若い娘の火を揉み消そうとして、これも火焔に包まれた年増としまの女が必死に追っ駈けている。そのまた女を追って火焔を上げた男が、女の火を叩き消そうとして狂気のようにあせっている。火の玉が三つどもえになって、互いに追っ駈け合っているのであった。そしていずれも烈しい焔を全身から放った火達磨ひだるまのような恰好で、組んず解れつ街路を転げ廻っている。無残とも凄惨とも評しようのない地獄絵のような場面なのであった。

      三

 私も夢中で宿屋の中へ駈け込んで、帳場から座布団をはこび出そうとしたが、もうその時には、奥から男衆たちがどんどん蒲団をかつぎ出すところであった。
「幸さん! しっかりしなよう! もう大丈夫だあ! 今医者様が来るでなあ! すぐに医者様が来るでなあ!」
「お内儀かみさん! 大丈夫だぞう! 妹さんは助かったぞう! 気をしっかり持ちなせえよう! 大丈夫だからしっかりしなせえよう!」
 喧騒の中からは、口々に勢いをつけている声が入り乱れて耳を打ってきた。そしてたたずんでいた女たちがたまらなくなったのであろう。ワッと泣き出す声やすすり上げる声が、一時にそこここから湧き起ってきた。
 そして私が歯の根も合わぬくらいガタガタと胴震いしながら、搬び出される蒲団の後についてまた表へ飛び出した時には、もう廻りにいた人たちが、やっとのことでおどかかって蒲団蒸しにして三人の火を揉み消したところと見えた。ジリジリと皮膚の焦げる何とも言えぬ異様ななまぐささがプウンと鼻をいて、人垣と人垣の間や往来に散らばった土嚢どのうのような蒲団の隙間から、ガヤガヤと黒い影が大声にののしり合っていた。
 それでもやっと助かったなと人事ならず私もほっとしたが、ちょうどその時であった。ギャッ! と悲鳴ともつかず絶叫ともつかぬ異様な叫びが挙がると同時に、提灯ちょうちんの光があわただしく飛び退いて私の眼前に立ちはだかっていた人波が一時に崩れ立った。
 その人雪崩なだれに危うく突き倒されそうになって、身をかわした途端、崩れ立った人垣の間から私は、見るべからざる物を眺めてしまったのであった。それは往来の、丸められた蒲団の下からムクムクと起き出した女が――ボロボロに焼け焦げた着物の恰好から、私も確かにそれを年増の方の女だと見たのであるが――突然に泳ぐような足取りで、フラフラと立ち出でて、二足三足歩み出したかと思う間もなくたちまち、バッタリ倒れて、
「いけねえ、いけねえ! もうみんな助かっていると言うのに! お内儀かみさん! 動き出しちゃいけねえじゃねえか!」
 と叱りつけるようにして、その後から一人の男が大急ぎで蒲団を広げて追っ駈けてゆくところであった。
 時間にして、わずか五秒かものの十秒とも経たぬ瞬時の出来事なのであったが、私の生涯忘れることのできぬ映像を焼きつけられたのは、立ち上った時のそのお内儀さんの顔であった。頭髪も眉毛も皮膚もすっかりただれ落ちて、頭の皮ががれてしまったと見えて顔頭の区別もなくただベロンとノッペラボウに腫れ上って、もう視覚も失われていたのであろう。あらぬ方へ向ってフラフラと踏み出した、その刹那せつなの顔であった。
 思わず私は、眼を閉じた。しかしそれも瞬間! 倒れてパッと上から蒲団がかぶせられたと見ると、怖いもの見たさで一遍崩れ立った人垣はまたし犇しと廻りへ取り囲んで行った。方々から啜り泣きの声が一層烈しく湧き起った。
「あねえになっても、やっぱり妹さんの事が気にかると見える。なむあみだぶ! なむあみだぶ! お内儀かみさん、案じることはねえだぞい! おめえさんの一念だけでも妹さんはきっと助かるぞい! なむあみだぶ! なむあみだぶ!」
 と口の中で唱名しょうみょうを称えているお婆さんもあった。
 私はその夜着いたばっかりで、妙な抑揚のある土地の言葉に馴染なじみがなく、人々の叫ぶ言葉の意味がよくわからなかったが、おそらく医者や病院の名を口々に呼んでいたのであろうと思われる。振りかざされる提灯ちょうちんの灯がますます殖えて、巡査や医者も駈けつけて来たらしく、人出と喧騒は刻一刻とその度を増してきた。懐手ふところでをしていた私の手に、突然袖口から金氷のように冷たい物が触ってきた。場合が場合だけに思わず竦然ぞっとして振り向いたが、そこには君太郎が大きなに涙を一杯溜めて、訴えるように私を振り仰いでいたのであった。
「見てたのかい?」
 と聞いたら、
「ええ」
 と睫毛まつげをしばたたいたが、
「助かるでしょうか? どうかして助けて上げたいわ」
 とうるんだ声でつぶやいた。
 無言でうなずきながらふところの中で君太郎の華奢きゃしゃな手を握りしめていたが、私もこの時ほど君太郎をいとおしく感じたことはなかった。
 この世の中というものは、何時いつ思いも掛けぬ災難が降りかかってくるかわからぬ、一寸先は闇の世界だから、なまじっか、野心なぞ起さずに、もう東京へもどこへも行かないで、どこか北海道のはてへでも行って君太郎と一緒に世帯を持って生涯を送ってしまおうかと、胸の迫るような感慨に打たれたのであった。
 そして、今手を握り合って佇んでいる君太郎と私との関係が芸妓とお客とか、芸妓とその情人とか言ったようなものとはどうしても考えられず、私にはまるで頼りどころない、妹の手でもきながら、この厳粛な人生の出来事を凝視みつめているような心地がしたのであった。そんな思いを胸一杯にたぎらせながら、私はそこに茫然ぼうぜんと突っ立っていた。
「もう運ばれて行ってしまったわ。さあ、はいりましょうよ。ね」
 と、不仕合せな人たちの方へしゃがんで掌を合せていた君太郎に促されて、私もようやく座敷へ戻って来たが、酷寒北海道の真夜中はおそらく零度を五、六度くらいは下っていたろうと思われる。
 今までは気もつかなかったが、部屋へ戻って来ると一時に寒さが身にこたえてきてブルブルと胴震いがして、急には口もきけなかった。しかも口がきけなかったばかりか、もう眼が冴えて、床へ潜り込んでもなかなか眠れるものではなかった。ただ眼先にちらついてくるのは、たった今のあのフラフラと立ち上った時の顔も頭も区別のつかないノッペラボウなお内儀さんの姿ばかりであった。
「……どうしても眠れないわ。ちょいと! 起きて下さらない? ね、起きてお酒でも飲んで話してましょうよ」
 と、これもいったん床へはいった君太郎がムックリ起き上ったのを機会しおに、私も蒲団を離れてしまった。
 ごうごうと音だてて燃え盛っているストーヴの合間合間に耳を澄ませると、表はまだざわめいて、階下したでも起きて話しているらしく、まだみんな異常な出来事の昂奮から落ちつきを取り戻していないらしい様子であった。
 そしてやっと酒の仕度を整えて来た女中は、真っ青な動悸どうきの静まらぬ顔をして、
「とんだお騒がせをしましてん」
 と自分が粗相でもしでかしたかのように、謝った。

      四

 この女中に聞くと、怪我人たちはすぐ側の池田病院とかいうのへ運ばれて行ったが、三人とも全身焼けただれてとうてい命は取り留め得なかろうということであった。
 発音の聞きとりにくいこの地方の浜言葉であったから、明瞭にはわからなかったが、すぐ七、八軒先の向い側の小さな時計屋の亭主とお内儀さんと亭主の妹との三人で、夜業よなべをやっていながらふとした粗相で傍に置いてあった揮発きはつの大罐に火が移って、三人とも頭からその爆発を浴びてしまったというのであった。亭主がお内儀さんの火を揉み消そうとせず、お内儀さんが亭主の妹の火を消そうともせずまた妹が兄の火を揉み消そうとあせらないで三人とも、それぞれに自分たちの身体についている火さえ消そうと努めたならば、まさかあんな大事にもならなかったであろうが、あんまり夫婦兄弟の情合の深いのもこういう時にはしだというふうなことを、まだ震えの止まらぬらしいこの女中は、幾分腹立たしそうに朴訥ぼくとつな言葉で話してくれた。すんでのところ火事になりかかったのをその方だけは隣りの乾物屋の親父とかが揉み消してしまったということであった。
「まあま、お酌もせんどいて、えろう済まんことしてしまいましたけん。冷えてまずうなりましてん?」
 と、女中は気がついて銚子を取り上げたが、別に酒がそんなに飲みたい気もしなかった。
「いいよ、いいよ、自分でするから」
 と女中を帰した後で、冷えた盃を持ったままメラメラと燃えしきるストーヴの焔を眺めながら、通り魔のような夜前やぜんの出来事を考えていると、
「世の中なんて、何時いつどんな災難が降って湧くかわからないものねえ、やっぱりあたし、東京へなんか行って出世してもらわなくてもいいわ。こっちで一緒に暮しましょうよ。人の命なんて何時どんなことになるかわからないんですもの」
 とふだんの勝気にも似ずしみじみ感じたように、しかし幾分甘えた口調で君太郎が言った。が、それでも私が無言でストーヴをみつめて考え込んでいると、ふと気を変えたように、「明日発つ時、その池田病院とかいうのへ、ちょっと玄関だけでも見舞って行きましょうね。そうしておけば、後まで嫌な思いが残らないで済みますから」
 と、しんみり言った。
「ああ、そうしよう! そうしよう!」
 と、私も賛成した。君太郎に勧められるまでもなくそうでもしなければ、今の私にも到底このままでは、このむごたらしい記憶に幕が降ろせそうもないのであった。丸髷には結っていても一見誰にでもすぐそれとわかる君太郎なぞを連れてそんなところへ顔出しするのは、いかにも人の不幸のところへ心ない遊蕩児ゆうとうじ気紛きまぐれな仕業しわざと人に取られるかも知れなかったが、思う人には何とでも思わせておいて、明日はぜひそうしておいてからこの留萌の町を去ってしまおうと考えていたのであった。
 床へはいってみたり、ストーヴの前へ座を占めてみたり、そして東京へ行くとか行かないとか、ポソポソと二人でしゃべり合ってとうとう私たちは一晩中眠らずじまいであった。
 翌る朝この妙な因縁の町を発つ時には、もちろん病院の門口まで私たちは見舞に行った。停車場から二、三町足らずの距離であったが、町の世話役らしい人々が多勢詰めかけて、病院の入り口はごった返していた。そしてそこには私たちの泊った丸源の亭主もいたが、眼敏めざとく私たちの姿を見つけると大急ぎで飛出して来た。
「とんだ御迷惑をお掛けしまして……またどうぞおりなく、ぜひお近いうちに」
 と、頭を下げた。それにつれてその辺にいた人々も何かは知らず頭を下げた。
「とうとういけませんでした。一人残った妹の方も、つい今し方息を引き取りました」
 と亭主は身寄りの者にでも話すかのようにしんみりとそう言った。
 わずかばかりではあったが霊前へ供えてくれるように頼んでおいて、逃げるように私たちはまた停車場へ出て来たが、身を切るように寒い朝の町はしいんとしてまだ人っ子一人通ってもいなかった。もちろんまだ札幌へ引揚げようという気持も起らず、さりとてこれからどこへ行こうと決めていたわけでもなかったが、ともかくやっと汽車が動き出してほかに相客もない二等車の中でガチガチ震えながら、だんだん遠ざかって行く国境の連山のすそにこの不思議な思い出の町を眺めていると、やっと私にも昨夜からの気持が納まって人心地が徐々についてくるような気持がしたのであった。

      五

 ……あれからもう十何年かになる。私はやはり君太郎の留めるのを振り切って東京へ出て来たが、もうそれっきり彼女には逢わなかった。この頃人てに聞けば、彼女は今では札幌見番でも一、二を争う大きな芸妓家の女将おかみになって、最近では裏の方に新築を始めて、料理屋も始めるらしいという噂であったが、私はこの昔馴染なじみを思い出すごとに、いつでも決まって忘れ得ぬ留萌の不思議な一夜を思い出さずにはいられなかった。
 そして、留萌の悲惨な出来事を想い出しさえすればきっと決まって美しかった君太郎のおもかげを懐かしく想い出す。今年の夏あたりは、ぜひ札幌へ行って、一度その後の彼女にも逢ってみたいと思っているが、逢うのはいいがまたあの時の話が出るかと思うと、それだけはしみじみ逃げたいような気持がする。

底本:「橘外男ワンダーランド 怪談・怪奇篇」中央書院
   1994(平成6)年7月29日第1刷発行
初出:「新青年」
   1937(昭和12)年10月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月3日作成
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