京都に足かけ十年住んだのち、また東京へ引っ越して来たのは、六月の末、樹の葉が盛んに茂っている時であったが、その東京の樹の葉の緑が実にきたなく感じられて、やり切れない気持ちがした。本郷の大学前の通りなどは、たとい片側だけであるにもしろ、大学の垣根内に大きい高い楠の樹が立ち並んでいて、なかなか立派な光景だといってよいのであるが、しかしそれさえも、緑の色調が陰欝いんうつで、あまりいい感じがしなかった。大学の池のまわりを歩きながら、自分の目が年のせいで何か生理的な変化を受けたのではないかと、まじめに心配したほどであった。
 京都から時々上京して来たときにも、この緑の色調の相違を感じなかったわけではない。しかし三日とか五日とかの短い期間だと、それはあまり気にならず、いわんや苦痛とまではならなかった。それが、引っ越して来て居ついたとなると、毎日少しずつ積もって行って、だんだん強くなったものと見える。いわゆる acceleration の現象はこういうところにもあるのである。とうとうそれはやりきれないような気持ちにまでこうじて行った。自分ながら案外なことであった。京都に移り住む前には二十年ぐらいも東京で暮らしていたのであるが、かつてそういう気持ちになったことはない。
 気になり始めると、いやなのは緑の色調ばかりではなかった。秋になって、樹々の葉が色づいてくる。その黄色や褐色や紅色が、いかにもえない、いやな色で、義理にも美しいとはいえない。何となく濁っている。さわやかさが少しもなく、むしろ不健康を印象する色である。秋らしい澄んだ気持ちは少しも味わうことができない。あとに取り残された常緑樹の緑色は、落葉樹のそれよりは一層陰欝で、何だか緑色という感じをさえ与えないように思われる。ことに驚いたことには、葉の落ちたあとの落葉樹の樹ぶりが、実におもしろくなかった。幹の肌がなんとなく黒ずんでいてきたない。枝ぶりがいやにぶっきら棒である。たまに雪が降ってその枝に積もっても、一向おもしろみがない。結局東京の樹木はだめじゃないか。「森の都」だなどと、嘘をつけ、と言いたくなるほどであった。
 こんなふうにして不愉快な感じがいつまでも昂じて行くとすれば、閉口するのはほかならぬ私自身であって、東京ではない。これは困ったことになったと思っていると、幸いなことに東京の春がそれを救ってくれた。樹木に対して目をふさぐような気持ちで冬を過ごしてしまうと、やがてほりばたの柳などが芽をふいてくる。いかにも美しい。やっぱり新緑は東京でも美しいんだなと思う。次々にほかの樹も芽を出して来て、それぞれに違った新緑の色調を見せる。並木に使ってあるけやきの新緑なども、煙ったようでなかなかいい。などと思っているうちに acceleration が止まったのである。東京の新緑が美しいといってもとうてい京都の新緑の比ではないが、しかし美しいことは美しい。やがて新緑の色が深まるにつれ、だんだん黒ずんだ陰欝な色調に変わって行くが、これも火山灰でできた武蔵野の地方色だから仕方がない。樹ぶりが悪いのは成長が早すぎるせいであろう。一体東京の樹木は、京都のそれに比べると、ゲテモノの感じである。ゲテモノにはゲテモノのおもしろみがある。などと、自分で自分を慰めるようになった。

 が、こういう経験のおかげで、私は今さらに京都の樹木の美しさを追想するようになった。
 大槻正男君の話によると、京都の風土は植物にとって非常に都合のよいものであるという。素人目にもそれはわかる。水の豊富なこと、花崗岩かこうがんの風化でできた砂まじりの土壌のことなどは、すぐ目についてくる。ところでその湿気や土壌が植物とどういうふうに関係してくるかということになると、なかなか複雑で、素人には見とおしがつかない。ただほんの一端が見えるだけである。
 京都の湿気のことを考えると、私にはすぐ杉苔すぎごけの姿が浮かんでくる。京都で庭園を見て回った人々は必ず記憶していられることと思うが、京都では杉苔やびろうど苔が実によく育っている。ことに杉苔が目につく。あれが一面に生い育って、緑の敷物のように広がっているのは、実に美しいものである。桂離宮の玄関前とか、大徳寺だいとくじ真珠庵の方丈の庭とかは、その代表的なものと言ってよい。嵯峨さが臨川寺りんせんじの本堂前も、二十七、八年前からそういう苔庭になっている。こういう杉苔は、四季を通じて鮮やかな緑の色調を持ち続け、いつも柔らかそうにふくふくとしている。ことにその表面が、芝生のように刈りそろえて平面になっているのではなく、自然に生えそろって、おのずから微妙な起伏を持っているところに、何ともいえぬ美しさがある。従ってそういう庭は、杉苔の生えるにまかせておけば自然にできあがってくる道理である。臨川寺の庭などは、杉苔の生えている土地の土を運んで来て、それを種のようにして一面にふりまいておいただけなのである。しかしその結果として一面に杉苔が生い育ち、むらなく生えそろうということは、その場所にちょうどよい条件がそろっていることを示している。杉苔は湿気地ではうまく成長しないが、乾いた土地でもだめである。その上、一定の風土的な条件がなくてはならぬ。京都はそういう条件を持っている。それが京都の湿度だと思う。
 私は永い間東京には杉苔はないと思っていた。東京で名高い名園などでも杉苔を見なかったからである。しかし京都から移って来て数年後に東京の西北の郊外に住むようになってみると、杉苔は東京にもざらにあることがわかった。農家の防風林で日陰になっている畑のくろなどにはしばしば見かける。散歩のついでにそれを取って来て庭に植えたこともあるが、それはいつのまにか消滅してしまった。杉苔を育てるのはむずかしいと承知しているから、二度とは試みなかった。ところが五、六年前、非常に雨の多かった年に、中庭の一部に一面に杉苔が芽を出した。秋ごろには、京都の杉苔の庭と同じように、一坪くらいの地面にふくふくと生えそろった。これはしめたと思って大切に取り扱い庭一面に広がるのを楽しみにしていたのであるが、冬になって霜柱が立つようになると、消えてなくなった。翌年も少しは出たが、もう前の年のようには育たなかった。雨の少ない年には全然出て来ないこともある。昨年はいくらか出たが、今年は比較的多く、庭のところどころに半坪ぐらいずつ短いのが生えそろっている。りゅうひげの間にもかなり萌え出ているところがある。しかし冬は必ず消えるのであるから、京都の杉苔のようになる望みは全然ない。それを見て私には、東京と京都との風土の相違がかなり具体的にわかったのである。
 これは杉苔だけのことであるが、しかし杉苔にこれほど顕著に現われている相違は、他のあらゆる植物にもあるに相違ない。樹の葉の色の相違などは、たぶんそこに起因するものであろう。東山や嵐山などを包んでいる樹木の種類は非常に多いのであるが、そういう多種類の樹木の一々が、非常に具合のいい湿気に恵まれて、その樹木に特有な葉の色を、最も純粋に発揮しているのかもしれない。あるヨーロッパの画家が、新緑ごろの嵐山を見て、緑の色の種類のあまりに多いのに驚嘆した、という話を聞いたことがある。特に京都でそういう印象を得たということは、京都の樹木の種類が多いことを示すとともに、また一々の樹の特徴が他の地方でよりもくっきりと出ていることを示すのであろう。しいの樹は武蔵野の原始林を構成していたといわれるが、しかし五月ごろの東山に黄金色に輝いている椎の新芽の豪奢ごうしゃな感じを知っているものは、これこそ椎だと思わずにはいられない。
 が、湿気と結びついて土壌が重要な役目をしていることも見のがすわけには行かぬ。樹木の姿の相違などはそこに起因しているように思われる。武蔵野の土は、岩石の風化でできた土とは、非常に違ったものである。いくら掘ってみても同じようにボコボコしているし、石などは一つも出て来ない。植物の根がのびて行くのを邪魔するものは何もない。たぶんその結果であろう、武蔵野の樹木はのびが非常に早い。それが樹の姿に野育ちの感じを与える。その代表的なものはつつじだと思う。一間も二間もの高さに育ったつつじなどは京都付近では見ることができない。それと同じに松の樹の枝ぶりがまるで違うし、桜に至っては別の種類ができあがっている。かえでなどでも成長の速度が恐ろしく違う。そういう相違はあらゆる樹木の種類について数え上げて行くことができるのである。京都の東山などは、少し掘って行けば下は岩石である。そういう、あまり厚くない土壌の上に、相当に大きい樹木が生い茂っている。ああいう樹木の根は、まるで異なった条件の下にあるといってよい。同じ丈をのばすのに、二倍三倍の年数がかかるかもしれない。しかしそれは無駄ではないのである。早くのびた樹の姿は、いかにも粗製の感じで、かっちりとした印象を与えない。また実際に早く衰える場合も多い。それに対して、同じ大きさになるのに二倍三倍の年数をかけた樹は、枝ぶりに念の入った感じがあるばかりでなく、かえって耐久的なのである。そういう樹々が無数に集まって景観を形成するとすれば、景観全体がすっかり違った感じになるのは当然であろう。

 私は東山のふもとに住んでいた関係もあって京都の樹木の美しさを満喫することができた。
 新緑のころの京都は、実際あわただしい気分にさせられる。疎水端そすいばたの柳が芽をふいたと思うと、やがて次から次へといろいろな樹が芽をふき始める。それが少しずつずれていて、また少しずつ色調を異にしている。樹の名は一々は知らないが、しかしとにかく種類が多い。楓が芽をふき始めるのは四月の中ごろであったと思うが、若王子にゃくおうじの池畔にある数十本の楓だけでも、芽の出る時期は三、四段に分かれており、新芽の色もはっきり四、五種類に見分けることができた。若王子神社の伊藤快彦氏の話では、ここには十何種類かの楓が集めてあるということであった。その楓の新芽が、日々に少しずつ色を変えて葉をのばして行き、やがてほぼ同じ色調の薄緑の葉を展開し終わるのは、大体四月の末五月の初めであったが、その時の美しさはちょっと言い現わし難い。実に豊かな、あふれるような感じであった。ことにそのころがちょうど陰暦の十四、五日にでも当たっており、幸い晴れた晩があると、月光の下に楓の新緑の輝く光景を見ることができた。その光と色との微妙な交錯は、全く類のないものであった。
 楓だけでもそれぐらいであるが、東山の落葉樹から見れば楓はほんの一部分である。新緑のころ、東山の常緑樹の間に点綴てんてつされていかにも孟春もうしゅんらしい感じをかもし出す落葉樹は、葉の大きいもの、中ぐらいのもの、小さいものといろいろあったが、それらは皆同じように、新芽の色から若葉の色までの変遷と展開を五月の上句までに終えるのである。そうしてそのあとに常緑樹の新芽が目立ち始める。椎とかかしとかの新芽である。前に言ったように椎の新芽の黄金色が、むくむくと盛り上がったような形で東山の山腹のあちこちに目立ってくるのは、ちょうどこのころである。やがてその新芽がだんだん延びて、常磐樹ときわぎらしく落ちついた、光沢のある新緑の葉を展開し終えるころには、落葉樹の若葉は深い緑色に落ちついて、もう色の動きを見せなくなる。そうなるともうすぐに五月雨さみだれの季節である。栗の花や椎の花が黄金色に輝いて人目をひくのはそのころである。
 松のみどりがだんだん目につくようになってくるのも、そのころからであったと思う。新芽の先についた花から黄色の花粉のこぼれるのが見えたと思ううちに、やがて新芽の新しい針葉がのびて来て、古い葉と層々相重なった、いかにも松の新緑らしい形になる。なるほど土佐絵の画家はこれを捕えたのであったかと気づかざるを得ないような形である。東京で松の新緑を見ても、必ずしもそういう印象を受けるとは限らないのであるが、東山などでは、最も数の多い松の樹が、そろってそういう形になるのである。落葉樹の緑色も、常磐樹の緑色も、もうすっかり落ちついて、新緑らしい鮮やかさのなくなったころであるから、この松の新緑は、非常に鮮やかな美しい印象を与える。
 松の新緑が出そろってしまうのは、もう土用も遠くない七月の初めであったと思う。やがて一、二週間もすると、この新緑も落ちついた色に変わってしまう。柳の芽が出始めて以来、三、四個月の間絶えず次から次へと動いていた東山の緑色が、ここで一時静止する。それはちょうど祇園祭りのころで、昔は京都の市民が祭りの一週間とその前後とで半月以上にわたって経済的活動を停止した時期である。
 しかしこの静止状態が続くのは、せいぜい三週間であって、一個月にはならなかったと思う。土用の末ごろにはもう東山の中腹の落葉樹の塊りが、心持ち色調を変えてくる。ほんの少しではあるが、緑の色が薄くなるのである。ここで動きがまた始まる。八月から九月の中ごろ、秋の彼岸のころへかけては、非常に徐々としてではあるが、だんだん色が明るくなって行き、彼岸が過ぎたころには、緑の色調全体がいかにも秋らしい感じになる。
 少しずつ黄色が目立ちはじめるのは、十月になってからであったと思う。新緑の時に樹の種類によって遅速があり、またその新芽の色を著しく異にしていたように、緑があせて黄色が勝ち始める時期も、またその黄色の色調も、樹によってそれぞれ違う。十月の中ごろにはそういう相違がはっきりと感じられるようになる。ならであったか、形のいい大きい葉で、実に純粋な美しい黄色を見せるのもあった。それからはぜのような真紅な色になる葉との間に、実にさまざまな段階、さまざまな種類がある。それが大きい樹にも見られれば、下草の小さい木にも見られる。
 私が初めて東山の若王子神社の裏に住み込んだのは、九月の上旬であったが、一月あまりたってようやく落ちついて来たころに、右のような色の動きが周囲で始まった。書斎の窓をあけると、驚くような美しい黄葉が目に飛び込んで来る。一歩家の外に出ると、これまで注意しなかったいろいろな樹が、美しく紅葉しかけている。それが毎日のように変わって行く。十月の下旬になると、周囲がいかにも華やかな、刺戟しげきの多い気分になって、書斎の中に静かに落ちついていることができなくなった。これは飛んだところへ引っ越して来た、と幾分あわてるような気持ちにさえなった。
 そういう紅葉の代表的なのは楓の紅葉で、その楓の樹は家の前の池のまわりに数十本植えてあった。その楓の種類が多く、新芽の出る時期や新芽の色が一々違っていることは、前にちょっと述べたが、紅葉の時にまたその相違が現われてくる。真紅になるのもあれば、紅の要素が非常に少なく、ほとんど黄色に近いのもある。芽の色に赤味が勝っていた樹は、紅葉の時の赤みも濃い、というような関係も目立ったが、また芽の出の最も遅かった樹がまっ先に紅葉するというような、逆の関係も目についた。年によると、この相違が非常に強く現われ、早い樹はもう紅葉が済んで散りかけているのに、遅い樹はまだ半ば緑葉のままに残っている、というようなこともあった。そういう年は紅葉の色も何となくえない。しかし気候の具合で、三年に一度ぐらいは、遅速があまりなく、一時に全部の樹の紅葉がそろうこともあった。それは大体十一月三日の前後で、四、五日の間、その盛観が続いた。特に、夕日が西に傾いて、その赤い光線が樹々の紅葉を照らす時の美しさは、豪華というか、華厳けごんというか、実に大したものだと思った。しかしその年の紅葉がそういうふうに出来がよいということの見透しは、その間ぎわまではつかないのである。手紙で打ち合わせをして東京から客を呼ぶ、というだけの余裕はなかった。老人は、夏が旱魃かんばつであればその秋の紅葉は出来がよい、と言ったが、それは必ずしも当たらなかった。たぶん、気候の条件がそろっている上に、その年のしもの降り具合が仕上げをするのであろうと思う。いずれにしても、高山とか高原とかでなくては見られないような美しい紅葉が、大都会の中で見られるのである。
 紅葉は大体十一月一杯には散ってしまう。楓の樹が数十本もあると、その下に一、二寸に積もっているもみじの落葉を掃除するのはなかなかの骨折りであった。もみじの落葉をいて酒を暖めるというのが昔からの風流であるが、この落葉で風呂をかしたらどんなものであろうと思って、大きい背負しょかごに何杯も何杯も運んで行って燃したことがある。長州風呂でかまどは大きかったのであるが、しかしもみじの葉をつめ込んで火をつけると、大変な煙で、爆発するようにたき口へ出て来た。そのわりに火力は強くなかった。山のように積み上げたもみじの葉を根気よくたき口から突き込んで、長い時間をかけて、やっとはいれる程度に湯がわいた。湯はもちろん薪で焚いたのと一向変わりはなかったが、しかしこの努力でできた灰は大したものであった。さらさらとしていて、何となく清浄な感じで、灰としてはまず第一等のものである。
 紅葉のなくなったあとの十二月から、新芽の出始める三月末までの間が、京都を取り巻く山々の静止する時期である。新緑から紅葉まで絶えず色の動きを見ていると、この静止が何とも言えず安らかで気持ちがよい。緑葉としては主として松の樹、あとは椎や樫のような常緑樹であるが、それらの落ちついた緑がなかなかいい。落葉樹の白っぽい、骨のような幹や枝が、この常緑と非常によく釣り合っている。色彩という点から言っても、この枯淡な色の釣り合いが最もよいかもしれない。
 これは私には非常な驚きであった。東京では冬の間樹木の姿が目に入らなかったのである。まれに目に入ると、それはむしろいやな感じを与える。早く春になって新芽が出るとよいと思う。しかるに京都では、この落ちついた冬の樹木の姿が、一番味がある。われわれの祖先の持っていた趣味をいろいろと思い出させる。
 中でも圧巻だと思ったのは、雪の景色であった。朝、戸をあけて見ると、ふわふわとした雪が一、二寸積もって、全山をおおうている。数多い松の樹は、ちょうど土佐派の絵にあるように、一々の枝の上に雪を載せ、雪の下から緑をのぞかせる。楓の葉のない枝には、細い小枝に至るまで、一寸ぐらいずつ雪が積もって、まるで雪の花が咲いているようである。その他、ひのきとか杉とか椎とか樫とか、一々雪の載せ方が違うし、また落葉樹も樹によって枝ぶりが違い、従って雪の花の咲かせ方も趣を異にしている。それを見て初めて私は、昔の画家が好んで雪を描いたゆえんを、なるほどとうなずくことができたのである。四季の風景のうちで、最も美しいのはこの雪景色であるかもしれない。
 しかしこの美しさは、せいぜい午前十時ごろまでしか持たない。小枝の上にたまった雪などは非常に崩れやすく、ちょっとした風や、少しの間の日光で、すぐだめになってしまう。枝の上の雪が崩れ始めれば、もう雪景色はおしまいである。だから市中に住んでいる人にこの景色を見せたいと思っても、見せるわけには行かなかった。
 こういう雪景色と交錯して、二月の初め、立春の日の少し前あたりから、池の鯉が動きはじめ、小鳥がしきりに庭先へ来る。そういう季節が、紅葉と新緑とから最もへだたっていて、そうして最も落ちついた、地味な美しさのある時である。昔の人はちょうどそのころに年の始めを祝ったのであった。
(昭和二十五年九月)

底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新潮」
   1950(昭和25)年10月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年10月21日作成
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