一

「黄櫨成列隴※[#「縢の糸に代えて土」、107-上-4][#「※[#「縢の糸に代えて土」]」は底本では※[#「月+祭」]]間 南望平々是海湾 未サガ三五駅 忽林際[#「際」は底本では「※[#「縢の糸に代えて土」]」]タリ温山。」
 とはこれ頼山陽が「見温仙岳うんぜんだけ」の絶句――この詩を誦し去りて、われらは先づ肥前の国に入る。「温泉うんぜんはちまき、多良頭巾たらづきん」といふこと、これをその国のある地方にて聴く、専ら雲のありさまを示せるもの、おもしろき俚諺ことわざならずや。温泉岳と、多良岳と、かれに焦熱の地獄あれば、これに慈悲の精舎しようじやあり、これに石楠花しやくなげの薫り妙なれば、かれに瓔珞やうらく躑躅つゝじの色もゆるがごとし、いつは清秀、他は雄偉、ともに肥前の名山たることはしばしば世に紹介せられたりし、かつ題目の制限を超ゆるあたはざれば、これより直に、北のかた、松浦あがたの空を望まむかな。
 南、島原半島の筑紫富士(温泉岳)と遥にあひたいし、小城をぎと東松浦との郡界の上に聳え、有明海沿岸の平野を圧するものを天山てんざん――また、あめやまともいふ――となす。この山ことに高しとにはあらざれども、もつともはやく雪を戴くをもて名あり。けだしその絶巓いただき玄海洋げんかいなだをあほり来る大陸の寒風のくに当ればなり。
 更に転じて西松浦の郡界に到れば、黒髪山くろかみやまほしいまゝに奇趣を弄ぶあり、巉巌ざんがんむらがり立てるはこれ正に小耶馬渓せうやばけい。いにしへ大蛇あり、そのたかんなのごとき巌に纏ふこと七巻半、鱗甲りんかふ風にうごき、朱をそゝげる眼は天を睨む、時に鎮西八郎射てこれをたふし、その脊骨数箇を馬に駄す、その馬重きに堪へず、嘶いて進まざりしところ、今に駒鳴峠こまなきたうげの名を留めたり。
 黒髪山の近くに源を発するもの、有田川あり、伊万里川あり、松浦川あり、その流域は「松浦あがた」のうち最主要なる部に属す。有田川は西南に流れて皿山を過ぐ。ここははやくより、磁器の製造をもて、その名世にく。いはゆる有田焼の名産を出すところなり。維新の前、藩侯の通輦つうれんあるや、つねに磁土を途に布きて、その上に五彩を施せしといふ、また以て、窯業えうげふの盛なるを想ふに足るべし。
 次に伊万里川は北に流れ、大河内の近くを過ぎ、伊万里町を貫き、有田川の末とおなじく、牧島湾に注ぐ。大川内は「御用焼」もて知られしところ、今はたゞ蕭条たる一部落の煙を剰すに過ぎず。伊万里町は殷賑いんしんなること昔時に及ばずといふ。ここより盛に陶磁器を輸出せし時代やいかなりけむ。ロングフェロオが「ケラモス」と題したる詩のうちに、世界の窯業地えうげふちとしてその名をかずまへ、うるはしき詞もて形容せる数行の句はいささか現今の衰勢を慰むるに足りなむか。町の一端に岩栗神社あり、孝元天皇第四の皇子を奉祀す。天平のむかし藤原広嗣一万余騎の兵を嘯集せうしふし、朝命にそむき、筑前、板櫃川いたびつがはに拠る、後やぶれて、松浦郡なる値嘉島ちかのしまに捕へらる。時の副将車、紀飯麻呂きいひまろこの地に到り、祭壇を設けて紀氏の祖を祀りしに創れりと伝ふ。因にいふ伊万里の名称は飯麻呂の転訛なりと、いかゞあるべき。
 いかづち夕に天半なかぞらを過ぐ、烏帽子、国見の山脈に谷谺こだまをかへせしその響は漸く遠ざかれり、牧島湾頭やがて面より霽れたれども、退く潮の色すさまじく柩を掩ふ布のごとき雲の峯々の谷間に埋れゆくもものうげなり。くしや、この黄昏の空より吹きおろす秋風はにはかに万点の火を松浦富士(越岳こしだけ)の裾野に燃しいでたる。焔は忽ちさかりなり、とみれば、また、かつがつうちしめて滅し去る、怪みて人に問へば、これおの/\わが家の悲しき精霊しやうりやうの今宵ふたたび冥々の途に就くをいたみ、そが奥津城おくつきどころに到りて「おくり火」焚くなりと教へられし一夜をわれは牧島村長の小高きをかの上の家に宿りたりし。
 いで、次に松浦川の流はそも如何なる風色をか呈し来る。伊万里の東二里ばかり、桃川の宿あり。南より流れ落る水は滝つ瀬をなしたるが、ここにて、その響のたゞならぬを聴く、これ松浦川の上流。
 山間の冷気は夜松浦川の渓を襲ひ、飽くまで醸しなされたる狭霧は恰も護摩壇の煙のごとし。そが中に屡々しばしば悪魔のごとき黒山の影の面を衝いて揺くにおどろきつ。流を左に沿ひて大河野おかのに到り、右に別れて駒鳴の宿に入るや既に深夜を過ぎたり。駒鳴峠の嶮坂を越ゆれば、松浦川の支流なる波多川はたがはの沿岸に下るをうべし、われは新開の別路をえらべり。篝火かがりびの影の濃き霧に映ずるところ、所々に炭坑を過ぐ。夜はいまだ明けざるなり。途にて荷車を曳きゆく老爺と、うらわかき村の乙女の一隊との唐津からつへ出づるに遇ふ。我ははなはつとめたりといへども、こころよく笑ひゆく彼等に続くあたはずして、独のこされしことの殆夢のごとかりき。いな、これより二時ふたときばかりを熟睡のうちに過したるなり、醒むれば雑草ふかくとざせる、荒屋の塵うづたかき竹椽の上に横れる。
 ああ、まのあたり何等の活図画かつとぐわぞや! 今や天地は全く暗黒の裡を脱して明麗なる朝の景を描き出だす。簇々むら/\とまろがりゆく霧のまよひに、対岸の断崖は墨のごとく際だち、その上に生ひ茂る木々の緑のうるほへる色は淀める水の面なづる朝風をこころゆくばかり染めなしたり、川くまを廻り来る船はとまをかかげて、櫓声ゆるく流を下す、節おもしろき船歌の響を浮べ、白き霧は青空のうちにのぼりゆく、しかもなほ朝日子あさびこの出でむとするに向ひてかの山の端を一抹したる、看るからに万物生動の意はわが霊魂たましひを掩へる迷妄まよひの雲をかき払ひて我身さながら神の光のなかにかけりゆくここちす。すなはち自然の秘をさぐる刻下のたのしみは、わがつかれとうゑ[#「えゑ」に傍点]とを忘れしめたるなり。ややあれば、瑠璃の艶あざやかなる朝顔の籬の下を走りくる童あり、呼びとどめ、所の名を問へば久保と答ふ。地図に就て案ずれば、ここより唐津に到るにはなほ三里を余す。前なる流は正しく松浦川の下流。
 佐賀市を距る十数里、小城をぎを通ぜる国道と会し、往方ゆくてたひらかなること砥のごとく、しばらくにして牟田部むたべをすぐ、ここも炭坑のあるところなり。松浦川もまた養母田やもたにて波多はた川の水と合し、夕日山の麓にそひ、幾多雅趣ある中洲をめぐり来り、満島みつしまの岸を洗ひ、舞鶴城の残趾を噛みて、つひに松浦潟に注ぐ。

     二

 満島は松浦川の口に構へられたる一小寰区せうくわんくなれども商業活溌なり、唐津の旧城下とあひむかへて、共に益々ます/\発達の勢を示せり。唐津は望みある土地なり、これを伊万里に比するに、まづ天然の風気に於て優に幾十段の懸隔あるをおぼゆ。彼にありては牧島湾、浅く、狭く、且つ年々に埋りゆけば、おのづから船舶の出入に不便を感ぜざるをえず、僅かに魚塩の利を保つに過ぎざらむとす。これに代つて起つものあに唐津にあらざらむや。
 鎮守府の佐世保(北松浦にあり)、石炭の唐津、しかも後者は白砂青松、おほくえやすからざる遊覧地なるをや、ただに遊覧地なるのみならず、その近傍は上代及近世に亙りて、歴史の上に関はるもの尠からず、また山光といはず、水色といはず、乃至、一茎の撫子、一羽のかち烏(肥前の特産)にも、飄霊の精気活躍するを看れば悉く詩歌のこころに洩るるはあらじ。
 筑前一帯の海岸は福岡、博多を中心としてやや世人に知られたり。しかれども海の中道なかみちを称するもの多からざるを悲む。そが明媚なる沙線の一端に連なるは志賀島しかのしまなり、この島の白水郎あまの歌などいひて、万葉集に載するものくさぐさあり、皆可憐の趣を備ふ。天平六年、新羅しらぎに遣はさるる使人等の一行は、ここ志賀の浦波に照りかへす月光を看て、遠くも来にける懐郷の涙をしぼり、志摩郡の唐泊からどまりより引津泊ひくつどまりに移り、可也かやの山べに小男鹿さをしかの声の※(「口+幼」、第4水準2-3-74)えう/\たるを聴き、次で肥前国しまに船をとどめたりしその夜の歌にいはく

たらし姫みふねはてけむ松浦のうみ
   妹がまつべき月にへにつつ

と、そのかみ、神功皇后韓国からくにをことむけたまひ、新羅の王が献りし貢の宝を積みのせたる八十艘のかぢを連ねてこの海に浮べるを憶ひおこし、はしなくも離れ小島の秋かぜに荻の花の吹きちるをながむる身は、朝廷みかどの大命の畏くて、故郷に残しおきつる妻子の今宵や指かがなへて帰るを待つらむなど、益荒武雄ますらたけをの心ながらも宛ら磯礁いそいはに砕くる白波に似たりけり。一首の三十一文字のむねまことにかくのごときものあり。
 出でて裏浜うらはま(唐津町の)の真砂の上に※(「彳+尚」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)しやうやうの歩を移せば海上呼べば応へんとすばかりなる鳥島より右に後ろにさけて高島はその名のごとくそばだち、なほ遥かに左にかたよりたるところに島の影のひくく見ゆるが、これぞ――かしは(神集)島なり。万葉集にしまと書きたる、字面の謬あるよしは前人もすでに言はれき。ここにて軍議をこらせしことありしやに朧ろげながらいひ伝ふ。もとより上代のことならむ。
 鳥島と裏浜とはあひること僅に数町にすぎず、そのあひだ※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)さざなみつねに穏かなり、かつ遠浅なれば最も海水浴に適す。夏の暁、潮風涼しく、松の林の下道こぼるる露のおほきとき、三々また五々、老幼を問はず、男女を択ばず、町に住める人々の争て、浜辺に下りゆくを見る。清きうしほにひたりつつ、かうべをあげてまさに日の出でむとする方に向へば、刃金はがねいかづちの連亙起伏する火山脈の極るところ、形塩尻のごとき浮岳は勃※ぼつそつ[#「山/卒」、110-上-21]として指顧のあひだに聳ゆ――雲をかつぎて眠れるがごときもの漸く醒め来れば半面の微紅は万畳の波に映じ、朝霧のはれわたるままに、遠き海づらは水銀みづがねのごとく耀きて志摩半島の翠螺すゐらをのぞむ。
 また、おもむろに舟を遣り、やがて鳥島にともづなを繋ぐ。島は周廻幾ばかりもあらぬが悉く岩石の累々たるのみ。堅緻けんちなる火山岩は統ぶるものなくうちみだれたり、これとかれと互に合はむとして曾て合はず、満ちし潮のいつしかその罅隙ひまに溢れたるが、はげしき夏の日にあたためられ、ここに適度の温浴を供す。もし松浦潟の冷かなる波をかつげるのち、凍えたる手足を恣に投ずれば温泉身を浮ぶること雲のごときあらむ。折しも鴎の鳥のうち羽ぶきゆくあり、そが雪なす翅の巴絵ともゑを描くにみちびかれて、いまここより舞鶴城の残趾を回視かへりみむはえがたき好機会なるべし。
 城のくるわに用ひられたる石材はこの島よりりいだしきといふ。海よりただちに高く築き上げられたる外観の極めて美はしく、逞しきは、古三韓の地も優に指揮にまかすべく、その風姿せまらざるものあり。聞く、豊太閤の名護屋にきづくは結構宏壮を極む、後こぼちて、そをここに移したりきと、すなはち広沢氏、大久保氏より伝へて、近くは小笠原氏の居城たりしなり。封建の制度の弛めると共に、天守台の影も失はれ、櫓の姿も消え遂に拓かれて公園地となるに至りたれば、もとの面影の十が一をも想像するに難かり。ただ歳古る木々の梢を交へて蓊鬱をううつたるが、深藍いろの空を噛みて悠遠なる歴史を語らんとする――あに豊公以後三百年とのみ言はむや、連想ははやく吾人を駆つて南北朝に遡り、源平の代に遡りては、いはゆる「松浦党」の生活を捜らしめ、更に上つ代に、気長足姫命おきながたらしひめのみことの大なる稜威のほどを称へまつらくす。
 唐津岳は、後景ばつくぐらうんどに布き、裏浜および虹の松原は左右の翼のごとく飜り、満島より続きたる城下の市街の白堊はその間を点綴てんていし、澄みわたる大空に頭をもたげ、万斛ばんこくの風を呼吸し、はるかに靺羯まつかつの大野原を見さけんとするは、この城の姿勢なり――厳かなれども、せまらず。うべ、「まひづる」の称の因あることや、また、誰かその鳴く音の高くして清きを聴かむと欲せざる。
 われ鳥島にあそびしその日の夕、舟を松浦川口にとどめ、ひそかにおもひに堪へざりしことの今なほ記憶に新たなるものあり、キイツが「いかばかり、われは愛づるよ、うるはしき夏のゆふべに」のソンネットは洵にここに於て唱へらるべきをおもふ、二度、三度唱へて、その意ますます尽きざらむ。只看れば、日の入るかたの空は黄金いろに燻りて名残の光のさまよへる、また匂はしき西風は一片の白雲を静かにただよはせたるよ。――詩人が愛づるを言ひしは、かかる折なりき。ながむるに卑しき念を脱し、塵の世のわづらひよりのがれ、理路のむづかしきを辿らで、のびやかなるこころは、たやすく自然の美もて装はれたるさかひの薫はしきあたりに到りうべく――ここに快楽の裡に包まれたる霊魂たましひ――燃ゆるがごとき胸に響く愛国のしらべ、――ミルトンの運命と、シドニイの最期さいご、――続いて歌ひけらく、「つひには彼等名士が面影をして、まのあたりに現ぜしめざれば飽かざらむとす。もし幾たびか、清き涙を揮ひつつ、歌のつばさもて天かけるそが姿をみかふる時しあれ、わが双の眼を封ぜむとするは一種朗かサムメロオヂヤスなる悲みサロオにあらずや」と。
 明麗なる夏の夕の感慨まことにかくのごとし。暢美の景に対して熱誠をもとめ、闊達の気象のうちに涙をふくむもの。いにしへ、国のために力を尽しし歌人の思想を汲み運命を偲び、そが韻律の朽せぬにほひを慕ふにあたり、おのづからなる感情は、正に「ほがらかなる悲み」ならむかし。神功皇后の大稜威、はた豊太閤の事蹟おほくこの松浦の地にかかはる、山光、水色ために異彩を添へ、神助を人事と及び天然とあひ経緯する歴史の偉観はすなはち大なる叙事詩なり。しかれども人や遂にむなしくその事を伝へて今日に到れるあひだ、歳月は一様の律調リズムを刻むといふものから、なほ時と代とによりて、その声の高低なくばあらざりき。しかも現今、その精神のますます発揚せられむとするとともに、東洋の前途いよいよ危し。そもや、わが「やまと民族」の運命はいかなるべき、日夜憂へて止まずといへども、これなほ過去を憂ふるごときものならむか。ながめ麗はしく、こころひろやかなる松浦の天地はあたかも望を未来に属し、闊達の気象を修養すべきわが国民の胸懐に似たるものあり。かくて、われ憂ふるところのものありとすれば、「朗かなる悲み」の語は、移してわが感慨を表すに余あるをおぼゆ。
 石炭の唐津は既に特別輸出港の栄誉を担ひたり。鉄道の工事まさにらんとす、交通の便大に開くべきなり。さもあらばあれ、詩歌の唐津は、白雲と湖のにほひとのうちに埋れて、いかに大雅の士をまつことの久しきかをわれは知らざるなり。

     三

 満島より東、浜崎に到るのあひだ、松浦川と玉島川とのさしはさめる一帯の海岸なるかな、そもそも何によりてかただちに人を魅するの力ある、さながら夢幻の境のごときもの、これ虹の松原!
 ある人、の松原の称は二里の松原の訛れるなりといふ。ああ、まことに二里松原か――あにその数量に於て寸分の差違なきを得んや。しかり、われは唯里程の概算をうるの益あるよりも、寧ろ恍惚として、わが一歩をだに忘れむとするの楽を択ぶなり。天人の羽衣もて劫の石を撫づるてふ譬喩ひゆのいかに巧に歳月の悠久なる概念を与ふるかを知らば、おなじく「虹の松原」とうたひてこそ、はじめて尽ざる趣は感情の底より湧き来り、未だその地の真景に接せざるも、はやくその概相の瞭然たるものあらむ。
 近き海上に高島ありといへども、玄海灘の潮は殆ど遮るものなく押寄せ来り、極まるところ、玉島川及び松浦川の水とあひ激し、あひ待ちて、この海岸に最正しき沙線をたわめたるなり。潮の色や青く、砕くる波や白し、いさご明かなり、松みどりなり、加ふるに東雲しののめのむらさきと、夕映のくれなゐとは、波を彩り、いさごにうつり、もろもろの麗はしき自然の配色は恣に変幻するがごときも、しかもつつましくこれを渚の弧線の上に繋ぎて、いみじくも優しき調和を見せたり。想へば恵まれたるながめなるかな、ただ要時しばし、中空にかかりぬべき虹の橋は、やがて常住の影をここにあらはすがごとし、そのかがやく欄干おばしまりて、わが霊魂たましひは無限の歓喜を受けたりき。
 以太利いたりやの風光にあくがれし詩人、シェレエが「ピサに近きカシネの松ばら」と題してものしたる歌の中に就きて、回想せし楽しき逍遥の日は「なよ風松が枝に巣ごもり、荒波海ぞこにをさまれりし」なり、われ虹の松原に遊べる折やまたかくのごとかりき。
 背後に屏風をたたむは、これ領巾振山ひれふりやま――虹の松原の絶景をして平板ならざらしむるはこれあり、うち見るところ、造化の作の中にありて極めて拙劣なるもの、なげうつてこれを棄て、あやまつてここに横へたりしがごとし。もしその尾上をのへうそぶきたち、大海原のあなたを見わたさむか、雲と濤とあひまじはり、風は霧のごとく、潮は煙に似たる間を分けわく船の帆影は、さながら空なる星かと見まがふばかりなり。さては遠きに倦みたる眼を伏せて、羊腸やうちやうたる山路の草かげに嫋々なよ/\と靡ける撫子なでしこの花を憐れむも興あるべし。やがて胸はその花のごとく燃ゆるをおぼえ、こころはかの帆影の星のごとくただよふをわかざらむとす、そは佐用姫さよひめの古事を憶ひいづればなり。姫が狭手彦さでひこの船を見おくりつつ、ここより空しく領巾ひれふりけむと、かきくるる涙にあやなや、いづれを海、いづれを空、夢かうつつかのそれさへ識るの暇もなく、あたかも狂へるものの如くに山を下り、松浦川を渉りしをりのかたみとて、その川の畔に、姫が踏みしめし足かたの今もなほ石にくぼめるがありといふ。
 狭手彦の軍をひきひて、任那みまなを鎮め、また高麗こまちしことはふみに見ゆ。すべてそのころの歴史の局面は、遠く、ひろく、三韓の野山を包み、干戈かんくわつねに動きて止まず、任那の日本府また危からんとするの間に於て、悲壮なること、酸鼻なること、太だすくなしとせず。征討の軍の中には妻子をも具したり、悲さは独り佐用姫のところのみならむや。
 英雄(秀吉)の一喝をうけて、鳴く蝉の声を聴かずといはるる松原の中ほど、浜崎街道にのぞみて三軒茶屋の名を留むるがあり。千利休得意の茶を点じて豊太閤に薦めしところなりといふ。
 浜崎を過ぐれば、ただちに玉島川の水瀬の音のさざれに響くを聴く、流の清く澄めることたぐひなし。いきほひ海に尽きたる山脈を分ちて、筑前国、怡土郡いどごほりと界す。かの「みこころしづめの石」もて知られたる深江ふかえの里を隔つること僅かに数里。
 川のかなたに大村神社あり、広嗣の霊を祀る。彼れが時まつりごとの得失を指し、表をたてまつりて、僧の※(「日+方」、第3水準1-85-13)げんばうとともに除かんとせし吉備真備きびのまきびの創建なりといふ。天平十八年、太宰府観世音寺の、造営るをつげ、その供養の日、導師をつとめたる紫袈裟の破戒法師(玄※(「日+方」、第3水準1-85-13))は、※(「倏の犬のかわりに火」、第4水準2-1-57)たちまち虚空の中に捉へ去られ、その首、のちに興福寺の唐院に墜ちたりと、世の人伝へて広嗣が霊の祟となす。太宰少弐(広嗣)この世にれられず、謬て賊名をとりきといへども、たちどころに軍卒一万余を嘯集せるがごとき、敗れて値嘉島ちかしまより船出したるがごとき、その胆略計るべからざるものあり。「われは大忠臣なり、神霊何ぞ棄てむや。」とののしりしに至つては、意気のさかんなること焔のごとし。また松浦明神として祀られしなど、すこぶる天慶の将門に似たらずや。
 さあれ、玉島川といふ、鮎の名産あるを知るとともに、神功皇后の事蹟をおもひ起さずばあらず。川に沿ふて上ることしばらく、両岸の山あひしじまり、渓せまく、煙しづかにして、瀬のおといよ/\たかし、南山の里に入れば緑なるをかの上に皇后の祠を拝するの厳かなるを覚ゆ。嵐うづまくところ、老樹の枝は魂あるもののごとく、さながら当年の金鼓の響を鳴すに通ふ。そが下にたてる「垂綸碑すゐりんのひ」は篆字てんじはやく苔むして見ゆ。殿堂金碧の美なしとはいへ、おのづから粛穆しゆくぼくの趣あり。俯して谷川をのぞむ、皇后そのかみの卯月、河の中の磯にいまして年魚あゆを釣りたまひけるところ。「われ西のかた、宝の国を求めむとおぼす、もしことならば川の魚つりくへ。」とみたまへる御声の朗かなるを、水脈みをしろく漲り落つる瀬のおとの高きがうちに聴くがごとき心地す。やがては、乙女のまよびきのごと、はた天つ水影の押伏せて見ゆる向津国むかつくにも御軍の威におそまつろひけむをおもふ時、われは端なくも土蜘蛛、熊襲くまそなんどの栄えたりし古の筑紫に身をおくがごとくて、すみやかに神の御前を去りあへざりき。
 されどまた試みに憶良の歌を誦すれば、いとも優しき玉島川は歴史以外におのづから絶えせぬ情の水の清くしてゆるやかなるものあるべし。――

松浦なる玉島川にあゆつると
   たたせる子らが家ぢしらずも

何ぞそのこころの遠くして、その調のあがれることや。

     四

 唐津より西北、佐志をすぎ、唐房からぶさより上りて一帯の高原をよぎる、くだればすなはち呼子よぶこ、そのあひだおよそ五里ばかり。
 この高原の玄海洋げんかいなだ斗出としゆつするところ、奇巌をあらはすものを「七ツ釜」となす。その巌は削れるがごとくそばだち、刻めるがごとく畳みたり、荒波の間より起り、大空をかぎれるさまの荘厳なるはいふばかりなし。こは玄武げんぶ岩とか、おのおの六角の柱をなす、あるは縦ざまに、あるは横ざまに、恣に錯綜するがごときも、その裏に崩すべからざる式と律とを具へたりと見ゆ。否、しかく造りいだせるちからは、再び量るべからざる勢を現し、まのあたり、破壊のしわざは振りあぐる槌を下すのひまに起らんかを想像せざれば止まざらむとす。随てはやてか、随てつなみか、――此時感情の海と思想の空とは、恰も雲走り、潮うづまくのありさまを制するあたはずして、百千ももちの巌はその一箇をだも動かすべからず、はた寸毫も犯すべからざるがごとし。進んでは、かかる天然の城廓のうちに籠れる神霊の座に到らむとおもふ精進の一念、つひに棄つるに難かり。さばかりにして、風や濤や幾千万年、動かすべからず、犯すべからざる巌をつき崩しえて深き洞窟を穿ちたる、そを数へて、所謂「七ツ釜」の称は、いつしか、玄海洋の海岸より伝へられけるなり。
 さをさして小舟を洞窟のうちにやれば、たちまち身は凄まじきものの呼吸に触るるをおぼゆ、袖のあたり、頭のうへ、船べりのもと、悉く、危き岩石の牙を噛めるにあらざるはなく、そが罅隙こげきよりしぼりいださるる水は膠のごとく滴り、ここに通へる潮の色はあやしき光を漾はすところ、ただ暗黒のつばさに覆はれたる冥界の消息の幽かに声ならぬ声に伝へらるるあるのみ。かかれば、洞窟の深きは知るべからずといふ、さあれ今、一個の伝説を抜き来り、そが解釈を味ふの頗る旨ふかきをおもふ。筑前、某所の海岸におなじく一つの洞窟あり、海水日夜に流れ入ること毫も潮の干満に関することなければ、必ず冥路の底に通ふものとして知られたり。古、ところの漁夫、そぞろ好奇のこころにかりたてられ、洞窟のきはまるはてを探らむとおもひ、一日舟を進め入れたりしなり。冥界の大魔がみくだす潮の流は矢よりも疾し。舟は※(「倏の犬のかわりに火」、第4水準2-1-57)たちまち暗黒の裡に衝いて奔り、人は急転の勢を制する暇なく、以上ただ運命の司配に任すありしのみ。いよいよ深き所に到れば、一異人の遮りて大呵するに遇ふ、曰く――ここより進まば再び世に帰ることあたはざらむ、なんぢはすみやかに黄泉の国に到らむなり、やよ、舟をかへせ。と漁夫はそのことばを聴くやすでに魂魄こんぱくのあるところをおぼえず、夢のごときものわづかに醒むれば、この時彼が身はもとの浜べに、しかもつつがなく、しかも乗れる舟は朽ちて、――朽ちて、土よりも脆きなり。その悦ばしさとこの訝しさとに、浜の真砂路もみ迷はれて、彼はただちに村に入る、光景の何ぞ全く変りはてたることや、世の転変は一日にして見られたるなり。されば、家どころももとむるによしなく、途に逢ふ人々の怪しむさまはしるきに、はじめておのが姿をみとめつつ、白髪の地に曳くばかりなるを撫し、かばかり老いさびたりしをおどろくに堪へざりしも、ことわりなり、とく千年の日月はこの翁が冒険の夢の裡に過ぎ去りにき。――と、上のごときはその伝説なり。また古人が、かかる洞窟にかかはる想像のいかなるものなりしかは知るに難からじ。
「七ツ釜」にあそぶには、呼子よぶこより船をやとふこと便なり。「呼子、片島、殿の浦」――まづ、その調子の盛んなるに聴けば、ほぼこの港の状況も察せらるべし。加部かべ島は湾口をおほひて風波をさへぎり、雅致ある鷹島には私立の燈明台そびえ、弁天島、小瀬戸を界として名護屋港に連り、海深く、潮あぶらのごとし。今は商権殆ど唐津に移れるより、昔時の繁盛を見るなしといふ。されども夕に、ともしびの紅なるもの波にくだけて、かれは片島(加部島の一端)、これは殿の浦、呼子とあひ対して、絃歌の興は舟人の酔をたすけたり。もしそれ、夜半の月、ほばしらのうへに傾く時、この景にむかふもまた一脈の情致なくばあらず。
 あしたには霧あはくかけわたす、加部島をながむれば、模糊たる影、水彩を薄絹にほどこせるがごとし。ゆふべには大気さわやかなり、外界よりたえず吹きくる軟風は最も呼吸にかなふ、鷹島の側面は狂瀾のあと弧を描きたるが、やうやく黄昏のかげを含み、いただきに建てる燈台の光は疾く夕庚ゆふづつとかがやきを争はむとす。これら凡てこまやかなる自然の布置ふちまことに愛すべきものあり。
 呼子の市街を纏へるをかの半腹には、愛宕あたご、天満、権現、八幡などの諸殿堂、その他二三の寺院は緑樹のあひだに連り、かしこにあけの欄干はその半勾をほのめかし、ここに苔しろき石燈はその数段をあらはし、全景のうへより見たるところ、おのづから一ていの絵画をひらくに似て、いともうるはし。この阜のいただきに公園地あり、木の下道清くはらひて、瀟洒なる茶亭を設く。呼子湾を圧するながめこころよし。ここよりは小川、加唐かからの島々をも指点しうるべく、東南の空はるかに筑紫富士をのぞむ。
 加部島には田島神社あり、狭依姫さよりひめ湍津姫たぎつひめ田霧姫たごりひめ、三柱の姫神を祀る、天平十三年の創営なり、大同元年祭祀料十六戸を付せられ、貞観元年従四位下を贈られ、元慶八年従三位に進み、明治維新の後、国幣中社たるもの。社境内に佐用姫神社の小祠あり、かの有名なる望夫石を納めたり。姫、領巾振山を下り、松浦川を渉りここに到りて、船路はるけく灘の沖に連るところ、慕へる人の面影は見るあたはず、あだ波の寄せては返す小島の渚に転び伏し、声をのみて嘆けどもすべもなく、滂沱ぼうだたる涙にあらはるる身は、さながら一塊の石と化したりきと伝ふ。
 また本社の拝殿に一の扁額をかかぐ、神庫にをさめられし小鷹丸の艦材を刻めるものなり。このふね、文禄征韓の役に用ひられ、迅速なること神のごとかりしかば、豊太閤あやしみて、これを神庫にをさめきといふ。一片の扁額、なほ当年の遺物たり。そも名護屋の古城趾は如何の観かある。
 呼子より殿の浦の背後を上り、やがて名護屋の渡りに下る湾頭きはまるところ更に入江をなし、あひせまれる両岸の崖は、影を清き潮に※(「くさかんむり/(酉+隹)/れっか」、第3水準1-91-44)ひたす。涼風は※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)さざなみを吹きよせたり、渚のさざれは玉よりも滑かなり、眠れる渡守を呼び醒し悵然ちやうぜんとして独り城山に対す。この時、「荒城臨古渡 落日満秋山」の感慨しきりにうごくといへども、あにさばかり意気の銷沈したるものあらんや。
 さあれ、城山に登りて見る、本丸、二の丸、三の丸の跡は、青き苔と、女蘿ひかげ、蔦などに掩はれたる石垣の所々に存するあるにすぎず。それさへ歳々とし/\くづれ墜つといふ、保存の至らぬは悲むべし。しかのみならず、一片の碑だに、英雄の事蹟を誌しとむらふなきに於ては、誰かはそを憾みとせざらむ。朝鮮の俘虜を囚へこめしところのあとといふも、夏草の生ひ茂るにまかせ、うばら、からたち、ややもすれば足をいるるの隙なからむとす。征韓のことは洵に豊公一代の経営なるかな、されども、この海角の荒野原をあますにだも漸く難からむとするを看れば、英雄といへども、一たび地下に瞑するや、千古の威名、はた虚栄に過ぎざるごとし。「公の薨後三百年、ことし、京都阿弥陀峯なる奥津城どころを修め、追弔紀念つゐてうきねんの祭典をあげたり、いささか公が御霊を慰むるものあらむか。」公かつて鎌倉山に覇気の寒きをあはれみ、頼朝の像を撫すること、恰も垂髫児うなゐを愛づらむがごとかりき。はしなくもこのことありしを思ひいで、かくも荒れはてたる城山の空しき風に対する時、さしもの雄図も、今や、日月と共に、遠き過去に属したるをいたむの情いよ/\深からざるを得ざるなり。
 風くろく、雨しろし、いかづち轟き、濤いかる、壱岐海峡の気圧ます/\低し。――自然の気象はたま/\当年の威武を回想するに好箇の紀念を供すべきなり。おもひを馳せて遠きをのぞむ、壱岐の島煙波ふかく鎖し、近海の諸島――「加唐かから加部島かべしま波戸はと馬渡まだら」なるもの悉く双の眸に映じ来る。地はかくのごとく形勝を占め、眺望太だ闊達なり、ために大に、この胸の鬱を放ち、かの心をして宏うせしむるものあり。
 時に松風ひびきあがり、野飼の駒たてがみを振ひ、首をもたげ、高くいばゆることやまざりき。傍に砕けたる瓦のうづたかきがあり、そのあひだをきいでて、姫百合の一もと花さくもあはれなり。
 草場船山せんざんの句あり、かの瓦もてつくりたる硯に題する古詩のうちに――

豈図故国大星墜   七年辛苦空涕涙、
高城依旧臨※(「土へん+斥」、第3水準1-15-41) 無蛾眉佐歓酔。
如今更幾星霜   城墟只見草茫々、
田火有時拾遺瓦  猶認桐花旧徽章。

瓦に桐花の紋章を焼きたるものは既に殆あさりつくされたり。
 諸将陣営のあとは所々に散在す、みな数株の松を植う。広沢寺の庭に有名なる大蘇鉄そてつあり、韓土よりもたらし来りしもの、寺は豊公の寵姫ちようき広沢姫ひろさはひめの居りしところといふ。
 ああ、かくて城山を下る。
 この地方に来りて忘るべからざるは捕鯨のことなり。呼子近海には小川島名だかし、されど、北松浦の平戸生月を最も盛んなりとす。露伴、幸田氏のものされたる、「いさなとり」をひもとけば、その壮観、目に親しくるがごとき詳細なる記述に接す、われ敢てここにぜいせず。

巨鬣掀潮噴雪花 万夫攅矛海門譁
頼 山陽
     *

 われ、すこしの閑をえて、以上の地に遊びたるは、二十八年、八月のことなりき。天さばかり風景に留連するの日子をたまはず、北松浦には一歩をも踏み入れざりし、これ洵に遺憾なりとす。されば、蒙古の襲来と、「国姓爺こくせんや」の戯曲とをもて有名なる平戸の島、さては黄海の風潮を観て、ただちに東亜の危機に処せんとするわが海軍の根拠地たる佐世保に就ては、未だ述ぶるあたはざるなり。
 これを要するに、「松浦あがた」の地、殆その全部に亙りて山嶽縦横に連り、海岸はおほむね断崖をなし、出入はなはだしく、また所々に港の良きものを開く、佐世保、仮屋かりや呼子よぶこ、及び唐房とうばう湾の如きは、その例なり。大小の島々に至りては数へつくしがたし、かかれば海岸の風光、つねに、大に多様多趣なるなきあたはず、そのながめや麗はしく、その彩色や明かなり。
 山間の地は勢ひ人煙薄からざるをえざれども、ひとり有田に於てしからず、このごろ益々繁栄を来せり。すべて土地高燥なれば、気おのづから爽かなり。
 しかれども山の高きと、川の広きと、はた肥沃なる平野の大なるものとを欠けば、これを筑前の国に比するに、彼にありては、博多(福岡)、よく自然的に、はた歴史的に、現今の地位を占めえたる――かくのごとき進歩はこの地に見るあたはざりき。外国との交通により、窯業えうげふの発達せしことは一たび伊万里の名声をあげしめたりき、豊太閤の「名護屋御滞陣」は、一時天下の耳目を聳動しようどうしたりといへども、単にこれをその他の盛衰に観るも、なお唯豪華の夢に過ぎざりけり。
 さもあらばあれ、松浦川といひ、玉島川といひ、領巾振山といひ、平戸といひ、名護屋といひ、伊万里といふその名はすでに世の人の耳に熟せり。地は筑紫のはてにありて、かばかりの注意をひきえしもの、豈ゆゑなしとせんや。今や、唐津に、佐世保に、新たに松浦の風気を揚げむとす、大に栄えむことは、或は地勢や阻まむ、しかも永く衰ふべからざるなり。
 わが「松浦あがた」の記はまさにをはるといへども、なほひそかに飽かぬここちのとどめがたきものあり、そは人の未だこの地に遊びて、爽快なる大気のうちに嘯きしことを聞くの少なきを悲むがために。

底本:「ふるさと文学館 第48巻 【佐賀】」ぎょうせい
   1994(平成6)年7月15日初版発行
底本の親本:「現代紀行文学全集 南日本編」修道社
   1960(昭和35)年
初出:「読売新聞」
   1898(明治31)年6月6日〜10日、12日、13日
※冒頭の頼山陽の詩は、底本では「際」が「※[#月+祭]」になっており、なおかつ「※[#月+祭]」と「※[#「縢の糸に代えて土」]」の場所が入れ違っていましたが、近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)の「山陽詩鈔」(明治12年刊)を元に修正しました。
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
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2005年1月6日作成
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