はじめに

 次の小文は、昭和十一年の春、長野県砂防協会の第三回総会に招かれたその席上での小講演要項である。会合された方々、すなわち聴講者の内容は県庁内のその方面の方々を初め、実際各地の崩壊地において直接その方面の事業に携わって苦労されておられる技術家の方々、および直接その崩壊被害のために年々苦難されておられる長野県各地の市町村長および助役といったような方々で三〇〇余名の会合であった。
 会合の場所が木曾福島町であり、翌日はその木曾地方の崩壊地およびその砂防工事の見学ということが予定されておった。
 したがって講演の資料を努めて信州各地の実例にとり、しかも木曾地方の資料をやや過分に取入れることに考慮した。しかし講演の本旨は、とにかくそういった崩壊、すなわち被害に直面し、どちらかといえば、その自然の偉力に対し常に対抗するかの境遇に立っておられる方々の集りであるから、ともすれば「自然征服」といったような考えと意気とを持って向われておられる方々がないとは断じ難い。あるいはそういった考えを明瞭に意識されておらないまでも、いつとはなしに、それが頭のどこかに入っているという心配は十分にある。
 もちろん、山野の崩壊の中には、その原因として、(1) 濫伐とか開墾とか、あるいは無理な道路の開鑿とかいった人工的のものと、(2) そこの地盤の隆起沈降といった自然的のものとの二つがある。多くの場合、この両者の共同といったような場合が一番多いかも知れない。したがってその自然的原因に対しては、とうていわれら人力の勝手にはならない。いっそうのこと、逆にその崩壊を善用するという態度に出るのが当然である。いずれにしても「自然力征服」という考えは完全に拭い去ることが必要である。与えられた時間がわずか一時間半という短時間ではあり、とうてい十分の成果を挙げることはできないとしても、その点に主眼をおいた。
 もちろん、われわれ地理教育者の大きな、しかも、直接の使命は「風土性に対する正しい認識と理解」の向上普及にあることは言うまでもないが、その風土性というものが、すでにそれが大自然の一部、一要素なのであるから、その風土性に対する徹底した認識や理解を得るためには、さらに遡って、一般人士の大自然に対する正しい認識と理解とが重要視されるわけでもあるし、また考えようによっては、地理的教育直接の目標である風土性の認識・理解も、やがては大自然そのものの認識・理解への一課程と見るべきものでもある。したがって、本講演では、直接地理学そのものを表面に振りかざしてはおらないが、もちろんその話がいかに粗末なものであったとしても、私の講演であるから、実は地理教育直接の目的を片時も忘れておったわけではなかった。が、とにかくこの際は、聴講者のすべてが、皆それぞれの指導的位置に立っておられる方々であったから、その指導原理、指導精神の中へ、また思い切った欲を許して頂くならば、中へではなく、その基調とまでして、自然礼讃、自然順応という思想を把握していただき、それをもって日常その指導の局に当ろうといった決意を持っていただけるような方の、せめて一人でも二人でもできたならばと、それが大きな念願でこの演壇に立ったわけであった。

        本論

 先頃、本日ここに、皆様の御会合が催されますにつきまして何か一場のお話を申上げるようにとの御案内を頂きましたので、及ばずながらお引受はいたしておきましたものの、さて、平素こういった方面の研究には直接携わっておりませんので、どういったお話を申上げたならば、といろいろ考えました末、ここに掲げていただきましたような題の下に卑見の一端を申上げさせて頂こうかと存じまして、簡単に原稿を認めて参りました。しかしとくにまとまったようなお話もできず、それに先刻来きわめて有益なお話のありました後のことでもあり、かたがたまことに御迷惑のこととは存じますが、暫くの間御清聴を煩わしたいと存じます。
 まず、今日の情勢を、これを文化史的に考えまして、最も私どもの目につきますその一つは、おそらくそれは、交通の発達ということでございましょう。海には汽船、陸には汽車や電車や自動車が、それに空には飛行機、なおまた、通信方面では電信・電話の普及発達は申すまでもなく無電、ラジオ、テレビジョンといったようなわけで、まことにすばらしい勢いで、時々刻々また、地方から地方へと普及し発達して参っております。現にこの木曾地方にいたしましたところで、かつてはここが中仙道中の最も難関な場所と言われておったこの土地が、今日では汽車や自動車が盛んに通るようになり、それがひいては、ここの有名な産業の一つとなっております牧畜業から、さらに農業方面へまでも、しかも普通のお方ではちょっとお気づきにならないような方面にまでも、影響して変化させて参っているのでございます。
 実は、先ほども、ちょっと時間がありましたので、かねがね調べて見たいと思っておりましたこの地方の稲の苗代田の調べをして参ったのでありますが、御承知でございましょうか、如何ですか、ここの苗代はその様式において一つの特徴をもっておりまして、すなわちその広い「ヌルメ田」を持っておりますことは、それは冬、水を灌漑いたしております地方の一般の景色で、とくに珍しいというほどのことでもございませんが、苗代田が、その広い「ヌルメ田」の中央に、さながら島状にできているものが、今なおその各部に散見しているそれについてであります。これは以前まだ、この地方に汽車や自動車の入って参りませんでしたその当時、その春先き、この地方の農家では、その飼馬を毎日野放しにしたのでありますが、その際、その苗代の苗が、その馬からの被害を免れるがための、それへのきわめて巧妙な対策の結果であったということでありますが、それが前にも申しましたように、汽車や自動車が通るようになってからは、その放馬もできなくなり、したがってそういった様式の苗代の必要もなくなったのであります。もっとも今なおその各所に散見いたしますのは、いよいよその田植時、その苗代田の跡へ直ぐに植付けることのできるように、前もって畦塗りをしておくことのできる便宜上からだとのことであります。その田植日の早晩に一日を問題としているこの地方としては、これもまたまことに当然の様式ではありますが、とにかく、その内容はすなわち意味は変っているわけであります。
 とにかく、これはほんのその一例でございますが、そういった交通の発達ということが、さらに意外な方面に、しかも偉大な影響と変化とを及ぼしていることを、私どもは注意しなくてはならないと存じます。
 もともと、こういった交通機関の発達というものは、その直接の原因は「科学の発達」によるものであることは申上げるまでもない明瞭なことでございます。したがって、現代は交通発達の時代でもありますが、また見ようによっては一面「科学発達の時代」と言う方がより適切かも存じません。すなわちそれは、それらの器機や機関のそのすべてが、科学の力によってできたわけだからでございます。したがって科学が発達すればするほど、そういった便利な器械や器具が発達することになり、ついには御承知の如く、誰言うとなく「科学万能」というような声さえ用いられて来るようになりました。
 しかし、科学が万能かどうかということは、科学そのものの本質を考えて見ますれば直ちに解決のつきますことで、なにもそう面倒なことではございません。御承知のように、科学というものは、私どもの持っている五つの感覚を透して、いや五つの感覚だけを透して、物の真相を明らかにしようと努めている、われわれ人類のもつ一つの指向であります。しかし、ちょっとお考えになってもお解りになりますように、必ずしも物の真相が、単にわれわれの持合せている五つの感覚だけで、完全にそれを明らかにし得るかどうかということは疑わしいものであります。おそらくは至難であり、いや不可能かとさえ思われてならないのであります。もちろん、究めるほどその真相へ近づくことはできるかも知れません。が、これについては、日常、自身直接その科学に従事されておられる学者は、十分その点を理解されております。かの科学に従事されている学者の方々が、しかも権威ある方々が、いや権威ある方々ほど、「調べれば調べるほどわからなくなる」といっておられます。また、大学卒業以来大学の教授として長い間研究を続けられ、その後停年制のために、惜しくもその席をお引きになったその時の御感想に、「どうも卒業した当時が一番ものが判っておったような気がする。ところが、卒業後、今度はいよいよ直接自分でその研究に携わって見れば、今までのいずれの研究に対しても、ただ、疑問が深まるだけで、何一つ判らなくなってしまった」と述懐になっておられます、そういったお方を幾人も私は承知いたしております。また、中には、「努力に努力を重ねて行ったならば、やがては、その真相の把握もできるであろうと信じて、毎日研究を続けているのである」といっておられる科学者もございます。しかしそれは「信じて」の上のことであり、しかも「やがて」のことであって、決して現在のことではございません。その点をよくよく注意しなくてはならないと存じます。
 早い話が、なるほど今日の科学は、電気や磁気といった物質科学の方面の研究は相当の域にまで進んではおりますが、生命科学の方面では如何でございましょうか、御承知のように、まだアメーバ一匹人工では作られてはおりません。それどころか、その生命の本質究明をその使命とすべき生物科学者が、中には「生命は永遠の謎である」などといって、手を触れそうにもしない学者さえございます。まして、精神科学の方面の如きいかにそれがまだ幼稚であるかは十分想像していただけることと存じます。
 これは、なにもその方面の学者がなまけているというのでは決してございません。およそ物には順序というものがありまして、まだそこまで進んでおらないということでございます。したがって、実はまだまだ科学万能どころの話ではございません。きわめて初歩の時代であると考えるのが妥当とさえ考えたいのでございます。
 もちろん、私どもは、仮の宿とは承知しながらも、時にはその調べた「事実」に対しまして、「説明」を試みることがよくあります。しかし、事実と説明とを混合してはならないと存じます。説明はどこまでも、それは仮の宿りであります。即ち仮説であります。時に科学者の中には、その不安に耐え切れず、ついに、宗教へ転向とまではならなくとも、深い関心をお持ちになるようになられたお方も決して珍しくはありません。私もまた、これがまことに当然の帰趨かと考えているのでございます。物質科学にしたところで、実は生命科学や精神科学の方面が進歩しなければ、とうてい十分の説明のできる筈のものではございません。
 しかしこれは、直接その科学の研究に従事されておられる学者のことでありまして、科学者以外の方々の間には、不幸にして、その科学に対する認識の不徹底から「科学万能」というように考えておられる人たちが、また決して少なくないようでございます。しかも、その科学なるものが、私ども人類のその意欲の建設したものである結果、それがついには、「人間万能」というような思想を招来させまして、それに対して、さらにその人間の他の一方に、その人間の意欲を抜きにした、大自然というものをその対象として押し立て、言い換えますと、その大自然と人間とを対立させまして、かつては私ども人類の驚異の対象であり、いや畏敬のシンボルとさえ考えられておりましたその自然に対しまして、「自然征服」というような言葉を、いや言葉だけならまだしも、そういった思想までも持たれるようになって来ておりますことは、否定できない事実でございます。昨今、かの新聞に、雑誌に、あるいは大衆向きのよく用いられております「征服」という言葉の乱用(?)は、まことにそれを実証いたしているかのように思われます。飛行機が空を飛んだというので「空中征服」、汽船が海を渡ったというので「海洋征服」、夏の休暇にちょっとそこいらの高い山へ登って来たからといって「山岳征服」、それも命からがら登ったり飛んだりしておりながら、そういった言葉が、しかもきわめて無造作に用いられるのが昨今の世相の特徴とさえ申したいほどであります。幸い、御当地の御岳さんは、今も昔もその霊山であることには変りはございませんが、御岳さんだけではなく、あらゆるもろもろの山岳は皆霊山である筈であります。それへ登って来たからといって、「征服」して来たというような考え方は、どう考えて見ても浅ましい考え方としか受取られないのであります。何という敬虔の念の乏しい考え方ではないかと痛感されてならないのであります。
 昨今、登山者の増加ということももちろんございましょうが、その敬虔の念の薄らいだということも、かの遭難者を頻発させる、その大きな原因とさえ私は考えているのであります。
 どなたでも首肯されることと思いますが、事実、飛行機はかの鳥や蜻蛉の格好に、汽船は魚の、汽車は蛇のそれぞれその格好に似せて造ってあるではございませんか。幸か不幸か、鳥や魚が、ちょっと、われわれに判るような言葉で喋っておらないから、私どもはうっかりしており、いや、自惚れているのではございますが、いったい彼ら鳥や獣は、われわれの行動をどう見ていることでありましょうか。「人間というものは、よくもこうわれわれの真似をしたものだ」と半ば感心し、半ば不思議がっているに違いないと思うほどであります。
 世間で「自然を征服した」といっているその事実をよくよく吟味して見ますなら、いずれも実はその自然の持っている「大法則にしたがっている」のであります。すなわちその自然の持っている法則を発見し、その法則に完全に従えばこそ、外面的には征服したかのようにも見えるのであります。
 そもそも、自然は時間的にも空間的にも、それが一大綜合体としての存在であります。一見、木は木、石は石というふうに、個々別々のように見えますのは、私ども人間が勝手に、あるいはわざわざそう見るからであります。その直径が、わがこの地球の一〇九倍もあるあの太陽、またその太陽の直径の二〇〇倍、時には五〇〇倍もの直径を持っているものさえあると言われている天界の星辰、しかも、そういったわが太陽級の天体が、九〇の右へ零を二〇も付けた数、位があまり大き過ぎて、ちょっと位の名前さえ思い出せないほどの多数のものが、それがまた今度は九の右脇へ零を一〇もつけた光年半径、すなわち光の速さで通っても九〇〇億年もかかるほどの広い半径の中に散在してできているのがこの大宇宙でございます。したがって「その偉力や思うべし」であります。それを、ちょっとアメリカかヨーロッパへ行って来るにさえ、三ヶ所も四ヶ所もで送別会を開いて貰わないことには容易に出発できないほどのわれわれ人間に比べては、まったく問題にならない。して見ますと、自然はまことに明らかな超人間的存在であります。大自然であります。確かに「神」であり「大生命」であります、そう考えるよりほかにわれわれの立場がないのでございます。いや実はそう考えてこそ初めてそこにわれわれの立場も立つのでございます。すなわち万物即神であるのであります。われわれ人間も、その人間固有の意欲を綺麗さっぱりと払い退け、素直にその大自然に融合し、完全にその大自然の一部と化しきった時は、もちろん、その神となることができるのであります。すなわち、それが「即身成仏」なのであります。しかし、人間の人間たる悲しさ、なかなかそれは容易のことではないのでございます。
 しかしまた、考えようによっては、とうてい取去ることのできない意欲であり煩悩でありますものならば、そうして、その意欲をできるだけ全うしようと考えるならば、思い切ってその自分をその大自然の中へ打込んで、大自然の懐へ入って、あるいはその大自然を背景として、さらに宗教上の言葉で申しますならば、神人合一の境地に立つことのできますように、その意欲を整えることもまたその一法かと思われるのでございます。事実、こんにち文明の利器として現れて来ておりますその多くは、例えば前にも引合いに出しました飛行機にしても汽船にしても、海水や大気の性状はもちろん、電気やガスの性質に順応し得た、その賜物であると考えるのが妥当だと思います。
 いやしくも川の工事をしようとするものは、まずそれをそこの川に訊き、山の工事をしようとするためにはそこの山に訊いて、その言葉に従ってするということが、いわゆる成功の捷径でありましょう。細かい地名が想い出せないで残念でございますが、高知県に春野神社という社があるそうでございます。これは、その昔、例の殖産、土木業の奨励者として有名な、かの野中兼山の当時、ある一つの河から田用水を引き上げるために、まずその河を堰き止める工事に着手しまして、その両岸から苦労して次第に堰止めて行く。ところが、いよいよあとわずかのところで堰止めきるという時になると、折角の工事がついその河の威勢で押し流されてしまう。何回となくそれを繰返しては見るが、どうしても目的が果たせない。ところがある日のこと、こうしたところへふと通りかかったのが「はるの」というお婆さんでありました。お婆さんは、そこの河岸に立止まって、暫くその工事を見ておりましたが、やがて、「これではとうていこの河を堰止めることはむずかしい」と独り言をしながら立去ろうとしました。傍でそれを聞き込んだ役人たちは、ただでさえ、むしゃくしゃしている矢先のことでございましたから、「なにを小癪な」と、一時はいかなることかと心配のほどでありましたが、たまたまその中の上役の一人が、「まあとにかく、どんな考えを持っているのか、一つ訊いて見ようではないか」というので、「いったいそれでは、どうすれば堰止めることができるというのか」と聞いて見ると、婆さんの言うには「なにも、私に聞かれても、私だところでそれは困る。知らない」。だが「少なくとも川に手をつけようとするからには、まずその川に訊いて始めなければ嘘だ」。「なに、河がものを言うか」。「いやものは言わない。しかし訊きようによっては、川の心持ちはいくらでもよく判る。それには、この川の両岸に立って一筋の繩の両端をお互いに持ち、その繩を静かにゆるめながらこの河へ流して見る、そうして、その繩の流されるその形に従って堰堤を築けば、堰止めることができる筈ではあるまいか」といって立去ってしまった。なるほどまんざらでもないようであるというので、そのお婆さんの言う通りにやって見ると、初めて見事にそれが成功した。そこで最初の憤怒にも増し、大きな感謝を持って報いられ、ついにその河岸に「春野神社」として祀られるようになり、今もなお現存しているとのことでございます。
 この「川に訊いて見てやる」という、その思想がまことに大切なのでございます。
 ある山の麓に道路を作ろうとする場合、その道路の両側の勾配をどの程度にまで急にしてよいかは、その付近の地形を調べ、その地形のもつ勾配に順って、ならって、すなわち「聞いて」決めるべきであるということは、すでによく言われていることであります。
 各地に地辷りとか、山崩れとかができる。これについてのその対策にしてもまた同様で、やはりそこの山なり谷なりにまず訊いて、その上で着手されるということが大切だと存じます。
 これを、われわれの立場から申しますと、その山崩れとか地辷りとかいうのは、いずれもそれは地盤の一種の浸蝕現象でございまして、すなわち一種の水の営力としての現れでございます。元来、この地表の水は、常にその高地に対しては浸蝕を、そうして、低地に対しては堆積という作用を営んでいるのでございます。そうしまして、その高地というのは多くは地盤の隆起により、低地というのは沈降によって持ち来たされるのでございます。
 ちょっとお考えになりますと、なに、そんなにこの地盤が上がったり下がったりしてたまるものかと御心配になられるかも知れませんが、この地盤は、実は上下にも水平にも絶えず動いているのでございます。よく、「動かざること山の如し」と言われたのは、ごく短時間、しかもごく大ざっぱに観察してのことで、今日、精密な測量の結果は、明らかに大地の隆起沈降を証明いたしております。中仙道を初め、三州街道や糸魚川街道、さらに北信では、あの千曲川から信濃川に沿って、その道路上に二キロ毎に設けられてあります水準点の高さの変動を測って見ますと、わずか三〇年そこそこの間にさえ、場所によっては二〇〇ミリも隆起している地方があり、また一〇〇ミリ近くも沈降している地方もございます。この信州だけで申しますと、だいたいその西南部が隆起し、東北部が沈降しております。どちらかと申しますと、飛騨、木曾、赤石等を含む高山地帯のある方面が隆起しまして、千曲川の下流方面が沈降しております。要するにこれらの山岳地方は、只今のところ、年々隆起を続けているわけでございます。今日のこういった高い山岳も、結局はその隆起の結果と考えられるのでございます。また地質的には水成岩の地方よりもとくに花崗岩系、すなわち深成岩系の地域の方がより大きく隆起しつつあるようにも見えます。いったい、深成岩そのものが地表に現れているというのが、すでにそこの隆起、そうして、それに伴って働いて行くところの浸蝕の結果を実証しているわけでもございます。
 こういった、隆起に伴われて浸蝕されて行くことを、地形学上からは「回春」または「若返り」と呼んでおります。そうして、この回春現象は、まずその地方の河底部に現れて参ります。河の下流から河身に沿って、そこの河床部の次第に高まって行くその行き方を調べて見ますと、遷急点といって、ある地点だけがとくにその高まり方が急になっている処がございます。そういった遷急点が、その河身の中に幾ヶ所あるかということで、だいたいその地方の回春の因数を決定することもできます。わがこの信州の中だけでは、どの河にも二、三ヶ所、とくにその明瞭な処が現れております。
 またそういった回春現象は、ひとり河だけではなく、そこの河の両岸に、かの段丘地形となって現れて来ております。したがって、これもまた、大きくは二、三段に区別することができますが、天竜川の両側のように、さらにその各段が、また幾つにも細かく分かれている処もございます。とにかくいずれも地盤の隆起や沈降と、それに伴う浸蝕や堆積の結果として現れたものでございます。さらにまた、古い地形の処では、かの山の尾根の、その傾斜の角度の変化の上にも現れて来ております。あまり専門にわたりますから略しますが、こういった地盤の変動や河川の働きによって、もちろんこのほかいろいろの働きも手伝ってはおりますが、私どものこんにち目の前に見ておりますような地形ができているのでございますが、私どもはその地形の発達程度によりまして、それを幼年期、壮年期、老年期の三つに分けております。
 そうしてもし、こういった地形の処へ道路をあけるとしましたならば、それぞれその地形の幼・壮・老によって、そのあける場所がほぼ定まっているのであります。それは、幼年期の地形の場所では、道路はそこの尾根部に開かれるのが普通であります。もっとも尾根部といっても、幼年期の地形では谷はごく狭く、そこの谷底はほとんど全部河床となっており、両岸もまた絶壁に近いような急斜面であるのに、かえって尾根部には広い平坦面さえ持っているからであります。ところがそれが、壮年期の処ではその道路が谷底部に下り、老年期の処では中腹部に移るといったようになっております。それで、新道等を開鑿するような場合に、万一この条件に外れたような地点にその道路が設けられますと、開鑿後毎年のように修繕を要しまして、工費を喰って、非常な難儀をしなければならないことになるのであります。
 例えば、あの上高地へ通る稲核から奈川渡、中の湯方面の梓川の谷に沿った道路について申しますと、現在、日本アルプスの地形は、その大地形から申しますと壮年期の地形でありますが、あそこが、まだその壮年期の中頃に例の回春をやりまして、現在その谷の部分では明らかな幼年期の地形を示しております。したがって、こういった場所へ道路ができるとしますれば、尾根部と申しましても、それが壮年期で再び回春しておりますから、そこには平坦面がございません。したがって、現在の幼年期の谷壁のその最高部、旧壮年期の谷底部に相当する地点、現河床部から見ますと相当高い処へその通路をあけるのが、将来一番安全な方法だと思われるのであります。それを、わずか五、六年の観察から、谷底部に多少の余裕があるからというので、そこへ道路を設けましたならば、たまたま数年に一度、あるいは十数年に一度といった大洪水によって、その谷底全部が、その川の水によって占領され、われわれ人間の力から見れば、さすがはと思われるような、コンクリートの堅牢な工事も、まことにたわいもなく、めちゃめちゃに破壊されてしまうことになります。そうして、その都度、単に道路だけではなく、その両側の谷壁を浸蝕して行くのであります。かの奈川渡から上流、釜トンネル付近までの道路において破壊の繰返されておりますのは、私は、おそらくそうしたことが最も大きな原因となっているのではありますまいかと考えております。ところが、これに対して、奈川渡から下流の道路は、きわめてよくあそこの地形に順応して造られ、御承知のように道路をぐっと高い処へ引き上げてありますので、比較的安全のように思われます。これはいま若返りつつある谷のまことに当然の帰趨なのでございます。まったく、これは一つの自然現象であり、自然の偉力によるのでございまして、私どもはただ素直にそれに従うよりほかに途はないのでございます。
 もっとも崩壊の中には、さきほど佐藤博士の御講演の中にもございましたように、われわれ人間が、いたずらに山の木を伐ったり、急傾斜な処を開墾したり、時に植樹をしたとしたところで、その丈の高い割合に根の浅いような樹を植えたりいたしますと、かえってその崩壊、すなわち浸蝕を促進させるような場合も決して稀ではないと存じます。その点はすでに、皆様の方の御専門に属しますことですから差控えることにいたしますが、要するに、自然に起りますものは、かの地震や噴火と同様に、われわれ人力の如何ともいたし方のないものでございます。河の氾濫が堤防さえ高くすればそれで防ぎ得るとお考えになっておられる方、よしやそんなお方はございますまいが、万が一にもあるとすればよほどそのお方は頭の単純なお方と申さなければなりません。すなわち堤防を高くすれば河床が高くなり、河床が高くなれば、河水は必ずしもその堤防を乗越えては氾濫しないまでも、今度はその堤防の下を潜って両側の低地へ滲み出して、そこの地下水面を高め、やはりいわゆる氾濫同様の結果を招来いたします。ただしかし、地震は起さないわけには参りませんが、震災を蒙らないようにすることはできると言われております。が、それと同様に、山崩れをなくすることはできないが、その災害をなくすることは必ずしも不可能のことではございますまい。私はまったくの素人であって分りませんが、今後の研究は、こういった方面により多くの力を用いられるべきではありますまいか、と考えているのでございます。
 いや、こちらの態度如何によりましては、さらにその山崩れそのものを、単にそれに順応しているというだけではなく、積極的にそれを利用することさえできるのではないかとまで考えさせられるのであります。こうした事実を私は各所で見聞いたしておるのでございます。
 かの神奈川県の三浦半島の葉山の付近は、年々豌豆のはしりを市場へ出すことができ、まことによい場所として知られておりますが、御承知のように、豌豆は連作のきかない作物であるにもかかわらず、あそこの赤土が、その毎冬、毎日のように、そこの斜面にできる霜柱によってざらざらと崩れ、そこの畑へ新しい土壌を供給しますので、年々同一の畑でその豌豆が栽培せられております。また、これはきわめて各所で見ることでありますが、下伊那郡の南部地方や佐久・諏訪等では、そこの山麓にあたって切取って作られてある道路や畑地において、その春、霜溶けの際、その切取面の小さな崩壊を利用して、「うど」の軟化栽培をやっている処、またつい数日前、長野市外の善光寺温泉に参りましたところ、あそこの裏山の崖の下のその崩壊の砂の中にしかも自然にできるのだといって、あざみの軟化したのを料理して出して貰いました。もっとも、これらは崩壊と言ってよいかどうかちょっと判らないような程度のものではありますが。
 そのやや大規模な崩壊利用といたしましては上伊那郡西春近村の白沢部落かと記憶しておりますが、あそこでは、その地方一帯は赤土の段丘地でありますが、その上に一個所だけ、あそこの裏山の崩壊で押出された広い石礫地区ができております。それをここでは、とくにその部分を春蚕専用の桑園地として利用しております。発芽も赤土の処よりは早く、まことに好都合だといっておられるのであります。一時は蚕種用の歩桑桑園とまでして利用したことさえあるとのことでございました。
 また、更級郡大岡村の下大岡という部落でありますが、ここは犀川の谷底近くにできているわずかに十数戸の部落でありながら、年々十車以上もの生柿を生産するという、素晴らしい柿栽培部落であります。しかも、よくある、かの隔年結果というようなことがここの部落のものにはほとんどないのであります。しからばその栽培方法はというと、別にこれというほどのこともなく、ただ年々その秋、柿の成熟期に、その枝の折れるのを防ぐために、弱い枝に支柱を立ててやるくらいが関の山だとのことでございます。よく調べて見ますと、この部落の中でもとくにその柿の成績のよい場所は、河畔の、時に氾濫時には水を被り、新しい土砂を次第に堆積されるような所と、それにいま一ヶ所、この部落の上方、そこの山腹に当る旧山崩れ跡が、そこの押出した土壌が深く、したがって柿の木の根張りも深く、それがとかく耐乾性の弱い例の柿のためには好都合で、年々豊作地となっているということが判ったのでございます。
 また、かの善光寺地震の際の大崩落地として有名な、同じく更級郡更府村のわく池という部落でありますが、今もなおその地盤が安定しないので困っております。しかし、不思議にもこの地帯一帯は大豆の生育が素晴らしく良く、普通他所では二粒宛播いておりますあの大豆を、ここでは一粒ずつで、しかも見事に大きくもなり結実もよいのであります。どちらかといえば、大豆も湿性の作物でありますが、ここの土壌の深いということに恵まれており、しかもそれが、ここの崩壊地であるということに原因していることを想い合せますと、世の中には、ぜんぜん無駄なもの、無用なものというものはない、「つまらぬと言うは小さき知恵袋」という名句や、「無用とは利用せざることなり」と言われている警句が、よく胸に落ちるような気がいたすのでございます。
 御当地の例では、明日皆様の御見学になられます木曾の三留野から、さらにその南へかけて、その昔山崩れで押出されて来た花崗岩の大塊で、一個千円もの価で取引されたというその石を見たことがあります。花崗岩は、何も珍しい岩石ではございませんが、近年いろいろの大建築が各所で企てられ、それには質はもちろん、色の揃ったものが要求されます。そのためには小さいばらばらのものでは役に立たない、したがって大きなものが、しかも、鉄道近くで得られるものが便利なので、こういったことになったものと考えるのでございます。
 石の話では、上伊那郡伊那里村地方では、そこに流れている三峯川が年々のように氾濫するので、大変あの地方の人々は迷惑を蒙っているようでございますが、しかし一方には、あの川は赤石山脈一帯の古生層地帯から流れ出して来ているのであります。由来、わが国の「盆石」の名産地としましては、鴨川とか那智川とかいったように、その流域あるいは上流部に古生層地帯を持っているその下流が、それに当っているのであります。ところが、この三峯川もその流域に広い古生層地帯を持ち、その河原は盆石産地として十分資格を持っていると私は考えております。事実、私も昨年の夏、この村の青年の幹部の諸君と一、二時間この河原をぶらついて見たのでありますが、いかにも雅趣のありそうな自然石が目について驚いたことでありました。それがひとわたり拾ってなくなった頃になると、また氾濫しては新しい石礫を上流の方から運んで来てくれるので、いかにもかえってそれが好都合であります。もちろん、この村にはまだ鉄道は入ってはおりません。しかも「盆石」は、花崗岩等の建築用材とは違って、さらに高価のものでありますから、運賃等はほとんど問題にはならないと存じます。しかもこの河原は、ひとり盆石の産地として有望なだけではございません。とくにその生育栽培に処女地を要求しております「あざみごぼう」の栽培地としても、有望なのであります。事実、すでにこの河原にはたくさんそれが自然に繁殖し、またこの地方の人々はそれを採集して来て、テンプラの心などにして食用にもいたしております。氾濫の恩恵を受けているのは、ひとりエジプトのナイル河の流域だけだと思っておっては、はなはだ認識不足と申さなくてはならないのでございます。
 この木曾地方にしましたところで、その若返りつつあります木曾川両岸の谷壁の岩山は、すでに盆栽植物の産地として知られており、またこの地方の村々を訪れて見ましても、この地方ほど、その各戸に盆栽の作られている村を私はあまり他所では見受けないのであります。専業とまでしては如何がなものかとは存じますが、副業として将来まことに注意すべきものであろうと思っております。
 話がいつとはなく農山村の産業の方面へ移ってしまいまして、今日の御会合の席にはあるいは御迷惑かとも存じますが、しかし、一方皆様の大多数の方々は直接その農林業に御従事なさっておられるので、私はそれを幸い、いま少し、とくにこの方面について卑見を申し上げ、御批正を仰ぎたいと考えている次第でございます。いま暫く時間を頂きたいと存じます。
 私に申させますと、いったい昨今その農山村で栽培されているものが、「なす」とか「キャベツ」とか、「トマト」とかいったように、あまりにもその蔬菜としても熟化され過ぎたものばかりが、いや、そういったものだけにその栽培が向き過ぎ、是が非でもそれを自分の村で栽培しようとしておられるかの傾向が濃厚過ぎはしないだろうか、とさえ思われてなりません。私は先年、昨今スキー場として知られ出して来ましたあの諏訪の霧ヶ峯につきまして、あそこで何か作って見たいが何を栽培したらよいかという御相談に対し、あの霧ヶ峯一帯の黒のっぺ、すなわち黒土、腐植質土の発達しているあそこに行って見ますと、諏訪地方では「これ」といっておりますが、かの「ぎぼうし」のおそろしい繁殖繁茂振りにヒントを得まして、まずこれをここに畑を作って肥料、肥料と申しましてもそこのヒュッテに泊った客から当然される人糞尿なのでありますが、それを施して栽培したらと申上げたことがありました。ところがそれが次第に成績を上げまして、昨年はついに東京方面からの、それもわずか一軒の某料理店の需要に応じ切れなかったと聞いております。(第1、2図参照)
[#底本ではギボウシの写真入る]
 なにもこれは「これ」に限ったことではございません。前にもちょっと申上げました「あざみ」にしても、あるいは「たんぽぽ」「なずな」「しうで」といったようなものにしても、「しうで」はちょっと栽培は困難のようでございますが、いわゆる「山菜の栽培」を私は強調いたしたいのでございます。もちろんそれも、まずそこの「土地土地に聞いて、」即ち、そこにどんな山草が繁茂しているかを調べて見て、その上で選択すべきであることは申上げるまでもございません。
 また、必ずしも栽培というほどの手数をかけないでも、相当の収益を挙げることのできるものも少なくはないのであります。もっともこれは特例ではございましょうが、この地方では決して珍しいものではない、かの「たらの木の芽」の話でありますが、あれが如何でしょう。これは私の友人の経験談ではありますが、先年、銀座の有名な某食堂で友人四、五名を招待して会食した時のこと、たまたまその料理の中へ、例のたらの芽が出た。わずかに二芽ばかりずつ、いかにも珍品らしくそれぞれ小皿に入れて配られた。なるほどおいしい。一同も非常に喜ばれたので、お代りを要求した。すると今度は少し大きな丼へ二〇芽ほど入れて持って来た。ところが会計の時に調べて見ると、その丼一つが参円についている。
 そこで変だとは思ったが、あまり高価なので何かの間違いではないかと思ったので訊いて見た。すると先方では、「いや別に間違いではない。なんでもこの木のある処は深山で、しかも棘のたくさんある木で、しかも誤ってその棘を刺すと、そこから肉が腐る。だからこの芽を採るのには、ほとんど命がけでなくては採れないそうです」と、その高価なのはいかにも当然であるといったような返事をされたのには、その高価以上に驚いてしまった。(第2図参照)
[#底本ではたらの木の写真入る]
 他の会食者はいずれも東京で生れ東京で育ったものであったので、誰も彼も感心して聞いておったふうであった。そこでその私の友人は、帰郷後さっそく、一日人夫を雇って、その「たらの芽」を採って貰い、それを贈るも贈る、一かます荷造にして先日会食した一人の方へ贈り届けた。すると間もなく、きわめて鄭重な答礼の手紙と一緒に、子供服二着、それに大人の服地一人分、合計、どう見ても時価で約四十円見当のものを贈り返してくれた。これにもまた驚いてしまった、と過般その当の本人が私に話されたことがございます。
 なるほど、いかに「たらの木の芽」だからといっても、一芽十銭も十五銭もしてはやや高過ぎると思いますが、しかし、とかく山の人たちは、今まで山を軽視しており過ぎた、山を馬鹿にしており過ぎた、「山へ行けばいくらでもあるんですから」とか、「たかが山のものですから」とか言って、いかにも山のものを粗末に考えており過ぎたではないでしょうか。山は山として、すなわち「山地は山地として、そこには絶対的の価値を持っている」ということを私どもは忘れてはならないと存じます。とかく都市のものは人工物が多く、それに対して田舎のものには自然物が多い。したがって、都市のものには残念ながら紛れ物がよくある。紛れ物の程度ならまだ辛棒もいたしますが、それを通り越して、毒物や危険物さえもあることは、時々新聞紙上で皆様も御承知のことと存じます。
 それに比べて田舎のもの、すなわち自然物はいかにも純であり正であります。神の姿そのままなのであります。軽視どころの話ではないと存じます。昨今御承知のように、いろいろの問題になっている産業組合の如きも、その純正なものを需要し供給するという点にその第一の本旨をおくべきものだ、と私は考えておりますが如何なものでございましょうか。そこに産業組合存在の根本的意義をおくべきだと考えておりますが、御賛成は願われないでしょうか、御一考を願いたいと存じます。
 いやどうも、あまり話が横へ逸れ過ぎたようでございますから、こういった方面はいずれ他の機会に譲り本軌道へ戻すことにいたしますが、とにかく、山菜だけではございません。昨今、著しく一般の注意をひくようになって参っておりますかの果物の方面にしましても、りんごや梨の栽培も決して悪いとは申しませんが、私は「くるみ」とか「くり」とかないしは「さねかずら」「しらくちづる」「またたび」等のいわゆる「山果」とも申すものの栽培に御注意を願ったらと考えているのでございます。すでに菓子でも三盆や大白といったような、おそろしく人工化された砂糖を使ったものよりは、かの大島の黒砂糖を主にした大島羊羹・大島センベイといったふうのものが、よりいっそう悦ばれるような世の中となって来ておりますことは、私どもの注意すべき点ではなかろうかと存じます。もっとも、これまたすでに人工物でありますから、名前の通りかどうかは十分の警戒を要しましょうが、とにかく、そういった名前だけでも人を引きつける力を持って来ていることは注意してよいと思います。
 もちろん、この場合にも、そこの自然によく訊いた上で選択もし、栽培の方法も考案されるべきであることは申上げるまでもございません。要は「そこの土地、すなわちそこの自然を生かす」という思想が根本となっておらなくてはならないと存じます。
 信越国境の姫川流域での所見でありますが、あそこの山野、ことに雪崩れなどで押出されてできておりますそこの処女地には、その処女地を好む「すぎな」を初め、例の「あざみ」、それに「やまぜり」という草が非常に繁茂しており、しかもその「やまぜり」が春先き、そこの雪の下から芽を出して来るその際のものは、風味といい、軟かさといい、なんとも申分のないものだと聞きました。すなわちこれは、まったくあそこの深い雪に恵まれての生産物であります。なにも「ゆきな」だけが多雪利用の蔬菜ではないのであります。何故それをたくさん作って、中央の市場へお出しにならないのですか、と私は申上げて来たことでございます。またあの辺の山野一帯に繁茂しております、いわゆる「木桑きぐわ」は、それがあの地方の春蚕の主要な飼料ではありますが、一方それが木桑であるために、たくさんの実が、しかも美味しい実がなるのであります。しかし、今日のところでは、わずかにそれが、しかもただほんの一部分が、この地方の子供のすさび位にしか利用されておらないようで、それを果物として市場へ出荷すること等はもちろん、それを原料として罐詰の製作とかジャムの製造ないしは桑の実酒の醸造等、何一つ企てられておらないことは、まことにもったいないことのようにも思って見て来たのでございます。
 こういった、農村工業についてでありますが、今ここでも例に出しましたように、一つには、その地方の生産物をさらに加工して行くということも、確かに意義のある途でないとは申しませんが、それよりも、もっと真にその地方の工業として意義のある点に力を入れなければならない、と思われることがたくさんにございます。ところが、不幸にして不思議にもあまり多くの人々からも注意されておらないことは、要するに、単にその地方に工業を興すという考えよりも、より「その地方の気候風土を生かして行く」、すなわち、そこの風土に則した工業を興すという点に第一の主眼をおかれないため、と私は考えているのでございます。
 原料といったようなものは、交通の発達しております今日および将来では、特殊の原料、例えば水のようなものとか果物ならば桃のようなもので、きわめて持ちが悪いといったようなもの以外は、相当輸送にも耐えますので、無理にその生産地でそれを使って製造しなければならないというほどのこともないと思いますが、風土だけはまったく輸送不可能のものでございますから、それに立脚した工業であってこそ、真に強みのある、いわゆる意味のある地方工業と私は考えているのでございます。すでに皆様も御承知のことと存じますが、直ぐこの北にある、あの鳥居峠の南北両側において、北には平沢という漆器の製造部落があり、南側には藪原という昔から有名な、今日もこの会場の入口に陳列されておったようでありますあの「お六櫛」の産地がございます。ところが、あの漆器の製造には、どちらかと申しますと、そこの空気の乾燥しているということが希望されておりますし、これに対して、櫛の製造においては、なんとしてもあの細かい歯を一枚一枚挽くのでございますから、空気の湿っている方が悦ばれているのでございます。現に藪原の櫛の工場は、いずれも西日を避けて設けられております。また事実、この両方の部落で調べて見ますと、藪原の方では六、七月頃の梅雨時が一番よい品物ができるといわれているのに、平沢の方ではその梅雨時と九月の雨期とが一番仕事がしにくいと申しております。まだそれでも、この平沢では、ごく多湿の年以外は年中製作してはおりますが、他府県の漆器製造地では年々その雨期には、ついにその製作を中止している地方さえもあるほどでございます。
 しかしそれをその鳥居峠の南北両斜面について、あそこの植物について調べて見ますと、その乾燥性に強い「はぎ」の、しかも数メートルもの丈に延びた大きなのが、峠の北側には非常に繁茂しておりますのに、南側には懸賞で探しましてもどうかと思われるほど少ないといったように、著しい対象を見せております。
 そうしてこれは、まったくあそこの峠という地形に対し、そこに発達しております風の影響によるのでございます。この峠付近は年中南風のよく吹いているところなのでございます。幸いあそこの峠の頂には、森林測候所がございまして、その観測の結果から最も信用のできる資料を知ることができますが、つまり、南風がこの峠の南斜面を這い登り、時にはそこに霧さえ起し、今度はそれが北側へ吹き下す時には、一種のフェーン型のものとなりまして、かえって乾くのでございます。また事実、測候所の観測によりましても、南側には霧が多く北側にはきわめて少ないと申しております。
 もちろん、農業とは違って、工業方面では、割合にその仕事場が狭くてすみますから、ある程度までは、そこに人工で、その工業の要求に近い気候すなわち人工風土を作り出すことはできましょう。しかしそれだけ、生産費の嵩むことになります。もっともその工業の要求通りの自然的気候を持つということは、そうたくさんにはありえないことでありますから、多少は常に、そこに人工的の気候を作って補わなければならないことになりますが、それにしても、気温の高過ぎるのを低くするよりも、低いのを高くする方が容易でありますし、また、湿度の高いのを低くするよりも高める方がかえって容易でもあり、かつ安価にもできます。ですから、その工業に対して、どちらかといえば多少低温すぎるとか、乾燥過ぎる方が、その反対の性質を持っている風土よりは気候的に恵まれていると考えてよいと思います。平沢の漆器はその点からは明らかに恵まれております。すでに慶長年間から、家内工業として起ったものだとのことで、今では部落のほとんど全体が漆器工業化されており、従業員四〇〇人で年額三三万円の生産を挙げており、さらに近いうちに五〇万円近くまでも発展させてやろうと意気込まれております現状は、まことに偶然ではないと私は考えております。実に両部落とも、そこの風土を生かしている、実に見事な地方産業であると私は礼讃申している次第でございます。
 昨今、わがこの信州の各所に勃興いたして来ております早漬大根にしましても、あれは確かに、かの秋風の吹くようにならなければ、よい質の大根はできないといわれているその大根に対し、わがこの信州の持つ早冬的気候が手伝っているのでありまして、まことに信州のもつその風土性を織込んだ産業として美しい一つと考えますが、ただその製造に当って、米糠や大根以外にことさらに砂糖や絵具を加えて、人工的にしかも一時的に味や色を出そうとされるかに思われる現状に対しては、深く考えさせられるのでございます。私はそれよりも、この信州の冷涼な気候を利用しまして、できる限り品質のよい大根を作り、純粋の大根と米糠といったような原料だけできわめて長い時間をかけてじりじりと漬け込んで行き、いっそうのこと、それを翌年の早漬大根の出るよりやや少し以前に市場へ出すようにするということが、ほんとうではないかと考えるのでございます。
 それを一日でも早く市場へ出そうという考えから、長日性である大根を、すでに五月上旬頃から播き付け、もちろん抽薹しますが、抽薹すれば、わざわざその薹軸を折り取り、なおかつ硬化したその大根の上部をも切取って、漬け込むといったような、いかにも無理の籠った産業は、私は遺憾ながら、それを安全な産業として賛成し奨励申上げることができないのでございます。どうしても、真の土地利用だとは思われないのであります。
 そもそも「土地利用」としましては、その根本的問題といたしましては、毎日その土地へ太陽から送られる熱や光を初め、その他いろいろのエネルギーをできる限り完全にキャッチするということであろうと考えているのでございます。この付近といたしましては、年々かの太陽から送られる熱量は、約六〇〇万カロリーと申されております。そうして、これに対しまして、われわれがその生活のために要する熱量は、年々一人平均約二〇〇万カロリーあればよいといわれております。でありますから、その一坪へ送られる熱量をわれわれが完全に捕獲いたしますれば、すなわち、それができますれば、一坪に対して三人ずつの人が生活でき得るわけでございます。したがって、その暁には日本の土地が狭いの、人口が多いのという心配は当然解消されてしまうわけでもあります。私はこの「熱量捕獲」ということを、土地利用の根本問題と考えているのでございます。そうして、その捕獲としましては、おそらく今日のところでは、「地表の緑化」、すなわちできるだけ植物を繁茂させ、その葉緑素の力を借りることによりほかに良案は考えられておらないようでございます。いかに市場での相場がよいからといって、まことに不適当な土地に、ひょろひょろしたような貧弱な小麦を、しかも凍寒害を蒙って禿頭病にかかったような麦畑を耕作しておりますよりも、少し極端な言い分かは存じませんが、真青に草でも繁らかしておく方がより利用度は高いわけであります。もちろん、その草の中には直接食物として、あるいは工芸の原料として使用できないものも決して少なくはございません。しかしそれを、ありがたいことにはそこへ動物を配することによって、それらは動物の飼料として役立ち、その動物の乳なり、肉なり、力なりとしてどのようにでも、私どもは有用化することができるのであります。
 先年来時々襲われたかのように宣伝されております東北の飢饉の如き、がんらい高温多湿を要求しているあの稲を、いたずらに、いや無理に、低温なあの地方へ栽培しようとしたことからくる当然の結果でありまして、今日、わが日本の国としましては、おそらくどんな地方でも、またどんな冷湿な年柄でも、草の生えない地方はないと存じますが、その草を中心に山羊なり羊なりを飼育いたしましたならば、立派に衣も食も足りる筈ではないでしょうか。要するに、私に言わせますれば、東北の飢饉は、あれは一種の「人工飢饉」である、とさえ申上げたいほどであるのであります。
 要は土地利用ということは、一方はそこの土地に訊き、一方はその作物なり家畜なりに聞いて、その両者の最もよく調和する、言い換えれば、もっともそこの、その自然に近い形におく。さらに根本的には、そこの地表を緑化する、でき得る限り濃緑化する。山ならば木を育て、さらに下木、下草を繁茂させるといったようにすることだと考えております。もっともこれは、すでに皆様の、とくに日夜お骨折りを願っておられることで、この点からも砂防工事ということはまことに意義のある貴い御事業でございますが、そういったふうにすべきではあるまいかと私は堅く信じているものでございます。
 雨も、雪も、風も、寒さも、さては、山も河も、なにも自然という自然に悪いものは一つもない筈であります。善悪はただ人間界だけの問題であります。「溺れた水は、また一面浮ばせる水でもあった」筈でございます。
 この立場からは一木一石も私どもは粗末にしてはならないと考えるのでございます。かのわが信州一帯の主要産業であります夏秋蚕の如き、違うというよりも違わせていると思われる場合が非常に多いようでございます。要するにあれは涼しいことを要求する虫であります。したがって、風通しをよくするとか、せいぜい日遮林を、もちろん風通しを考えてその上でさらにそういった樹木を仕立てることによって、非常に飼いよくしているといった実例は枚挙に暇なしと申すほどでございます。これにつきましては、先年その卑見の一端を「長野県農会報」に発表いたしておきましたから、今日は簡単にいたしておきたいと存じます。
 伊那の谷の養蚕業の盛んなその一つの、しかも有力な原因として、私はあそこが、その風のよく吹き通す地方であるという、それを見逃してはならない、無視してはならないと存じます。風のために割合に蚕、とくに夏秋蚕についてでありますが、それが飼いよいこと、もちろん、その折角の風を蚕室に入れるように工夫しなくてはだめでありますが、それだけでなく、あの恐ろしい※(「郷/虫」の「即のへん」に代えて「皀」、第4水準2-87-90)蛆の蝿が、風の強い所の畑の桑の葉には卵を産み付けることの少ないこと、また、常に相当の風のあることが葉そのものを充実させ、その飼料的価値を高めること等、風の効果はきわめて大きいのでございます。もちろん強過ぎる風は困りますが、しかし考えて見ていただけば容易にお判りになることでございます通り、その風を防ぐことは、いわば防風林の施設等でそう大した費用もかけずにできるのでありますが、万一あの風をわざわざ夜となく昼となく吹かせるとしたならば、並大抵の資金でできることではございますまい。
 雪にしてもその通りでございます。今でもこの木曾の開田村方面では実行されているとのことでございますが、かの麻布を晒すために、また、飯山地方ではあの紙の原料である楮の皮を晒すのにそこの雪を利用いたしております。あの美しい、しかも丈夫な紙の生産も一つには確かにこの雪の賜物でございます。
 かの四、五月の頃信濃川下流のその沿岸沖積地に、まったく目の醒めるばかりの美しいチューリップの花畑を展開させておりますのも、確かにあそこの多雪の影響であります。信越国境方面は別としまして、割合に雪の浅いわがこの信州にしましたところで、そこが日陰で、冬中雪に被われているような場所に作られたチューリップはとくによく育ち、もちろん美しい花を咲かせますことや、また本年のようにとくに雪の深かった年において、不幸にして親竹は寒凍害を蒙ったが、その代り、筍は例年になくたくさん出たというような例を私は各所で見聞いたしておりますが、すべては雪の働きと申さなくてはなりません。ところがもしもこの雪をわざわざ降らせるとしたら、それこそ大事業で、もちろん不可能なことでございましょう。
 物でも人でもそうでありますが、単にその半面、しかも害的半面、すなわち短所のみを見るのは職工気分だと申されております。私どもはできるだけその長所を認め、長所を発揮させることのできるように努力いたし、常に人間らしい、言い換えますと、「長官気質」を持ちたいものでございます。
 作物を栽培するにせよ、家畜を飼うにせよ、さては工業から商業にいたるまで、ないしは皆様の御専門の土木事業に至るまで、一方にはそこの風土を調べ、一方にはその作物、家畜、製作品、土工の性質を究め、できるだけその両者の調和し融合するようなものを選択し、取込んで来るということが、言い換えますれば、きわめて自然に近いような形に整えて行くということが最も意義のある地方開発というもので、われわれ人間はただ素直に一種の「触媒」としての役割を持っているものとして考えておってこそ、真に人間としての、すなわち天命の役割を果たし得たものと私は考えかつ信じているのでございます。
 要するに、自然を征服するどころの話ではない。また、もちろん征服のできるものでもございません。否、かえってその「自然を生かそう」とする思想こそ、きわめて大切であると考えたいのでございます。そうしてそれが、やがて、真に力強くわれわれ「人間の生きる途」ともなるわけでございます。そうしてまた、真にそれを生かす、これをわれわれ人間本位の言葉で申しますと、「利用する」ためにはすべてそれをその大自然に聞いて、すなわち順応し、協調して行くのが、そもそもの本体であると考えなくてはならないと思うのでございます。
 科学の研究は、なにも自然を征服する武器を発見するためではない、自然への順応する途を求めるための努力でなくてはならない、と私は考えているものでございます。「地方の開発もその自然に対する、正しい認識から」ということを、常に私はモットーといたしているものでございます。先年来、「自力更生」という考えが奨励され普及されて参っております。まことに結構のことには違いありませんが、その自力更生も、さらにその根底に「自然力更生」という強い念願があってこそだと私は確信しているのでございます。
 私は、本日皆様にお目にかかり得たこれを機縁に、満堂の皆様の御助勢を仰ぎまして、われわれ人類が、そのあらゆる活動に際し、その大自然を背景として立とう、常に大自然に相談をし、大自然、すなわち神の命にすなおに順って活動し、自然も生かし、同時に人間もよりさらに大きく生き得る、さらに言葉を換えて申しますれば、真に「神人合一」の心境で、より人間を偉大にかつ幸福なものにするような、そういった将来を念願して止まないものでございます。
 最後に私は、かの世界的英傑としておそらくどなたでもが承知し、かつその人自身でさえ「自分の辞書には不能という言葉はない」とまで言っておったと言い伝えられているそのナポレオンが、「あらゆる病気というものはわれわれ人間が素直に自然に順わなかった結果で、したがって一度病気にかかったならば、素直に自然に順っているに限る」といった意味のことを言い残しているということを聞きましたが、さすがのナポレオンも大自然には従順であったのか、もちろんそうあるべき、またなくてはならないわけであります。が、実はナポレオンの偉大も、その真の偉大である大自然を日常ひそかに、その背景として持っておった、その反映ではなかったかと私には頷かれる点があるのでございます。そういったことを御参考までにここに申添えておきたいと存じます。
 まことにまとまりのつかない、しかもくどくどしいお話を申上げました。なんとも恐縮に堪えない次第でございます。しかるに、それにもかかわらず長い間御清聴を頂きましたことに対しまして、深く感謝をいたしまして、この壇を下ることにいたします。

        あとがき

 病後初めて演壇へ立ったことではあり、それに会合の性質がとくに研究を主としてのものでもなし、それにとくに心配であったことは、県庁関係の方にしても地方の出張所関係の方にしても、ないしは市町村役場方面の方にしても、いずれももっぱら、それぞれそこの長としての方々の会合であったので、よしその時間はわずかに一時間半ではあったものの、なおまたその上に、私より先に佐藤林学博士のお話が一時間以上もあったことではあり、万一講演の中途で中座されたり、雑談が交わされたりするのではということであった。
 したがってそれに相当の注意を払いながら拙話を進めたのであったが、約一時間も経ったが、幸いそういった気色も見えない。これはありがたいと感謝しながら話を進めているそこへ、傍の幹部の席から小紙片が渡された。見ると、「話は予定の時間より三十分や一時間長くなってもよろしいから、考えていることを徹底的に述べるように」との注意であった。さてこれは、いくぶん共鳴して戴けた結果と思えばまことにありがたくもあり、元気も数倍したが、とにかくすでに原稿を作っていることではあり、かたがたにわかに変更するほどの力もなく、ただ多少ゆっくりした気分で予定のことだけを申上げて控室へ引上げた。
 控室には会長、副会長を初め三、四幹事の方々がお見えになっただけであった、話はただいま会場でお話したそれについて、それを中心に、さらに具体的・実際的・地方的へと次第に深入りをするようになり、またそれだけ興味も加わり、ついに講演前私の観察しておいた、福島町郊外にある夏季の卓越風による柿の木の特殊な樹景およびそこの空中湿度によるその柿の木の幹にできている「スギゴケ」の実地見学に出かけるというところまで進んでしまい、いずれも、とくに当日は多忙の方々であったにもかかわらずその貴重な時間を割いて、共に野外にまで立っていただくということになった。
 しかも、それだけではない。ついに会長が、その御郷里においては、村長と農会長とを兼ねておられるというので、その村の風土調査に実地に携わるようにとの重任までもお引受けするようになってしまった。きわめて粗末な講演ではあったが、とにかく、少なくとも幹部の方々のいくぶんの共鳴なりを得たことは確かであった。
 ところがその後、約一ヶ月も経ってからのことであったと記憶するが、たまたま今私の在住しているこの諏訪郡およびそれに含まれた岡谷市とからなる、いわゆる市町村吏員会の幹事の方がお見えになり、「自分は過般木曾での会合に直接話を聴いた一人であるが、ああいった話をわれわれにだけでなく、吏員の全部で聴きたい。ついては幸い、こんどそれらの人の総会があるからそれに出席するように」との案内を受けた。
 ところが幸い、さらにまたそれが起因となって、その吏員の総会に出席された某村長氏の厚意により、その村の青年会と農会との共同の会合に出席する機会を与えられた。もちろん話の内容は、それが時に全信州であったり、全諏訪であったり、時には単にその一町村だけであったりしたから、その広狭に応じてできるだけ実際的の、すなわちその時の聴講者の直接実見・観察のできるいわゆる実例をなるべく多く提供することにし、演題もその都度変えては臨んだが、自分の使命達成、言い換えれば「風土性に対する認識並びに理解の向上普及」という点が中心であったことについては寸分の変りはなかった。
 要するに、如上の講演要項によっても窺知できるように、なにもとくに珍しい見方・考え方を発表したわけではなかった。私としてはきわめて当然な普通な、考えようによっては平凡な発表であるにもかかわらず、かく多数の方々の共鳴を得たということは、最近の世相そのものに、こういった方面が不幸にしてとくに忘れられがちになっておった、あるいは今もなお忘れられているということを察するに十分である。これではいけない。及ばずながら、さらに進んでより広く深くこれを提唱して行くべきである。その使命の重大かつ急務を痛感するのであるが、ただ何分にも、現在私の病躯はそれを許してくれない。そこできわめて不備とは承知しながらも、ここに重ねて、その当時の拙講の要項を掲げて、より大方の批正を仰ぐことにしたわけである。

底本:「三澤勝衛著作集 3 風土論(二)」みすず書房
   1979(昭和54)年6月25日初版発行
   1980(昭和55)年4月15日第2刷発行
底本の親本:「新地理教育論」古今書院
   1937(昭和12)年
入力:田中敬三
校正:小林繁雄
2009年8月15日作成
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