この話は、今から四年ばかり以前にさかのぼる。その使いが初めて私の家へ来たのは、何でもその年の九月頃ではなかったかと、覚えている。一週間ばかり私が、伊香保の温泉へいっている間に、六十くらいの下男風の老爺が来て、麹町のお邸から来たものだが、若旦那様が折り入ってお眼にかかりたいといっていられる。が、御病中で動けないから、ぜひこちらの先生に、いらしていただきたいと頼みに来たと、いうことであった。
名前は、麹町の五番丁に住む、柳田とかいったということである。もちろん、私が不在だと妻は断った。では、お帰りになった時分に、またお伺いすると老爺は、帰っていったというのである。
私が帰って来たら、妻がその話をした。私には、柳田などという家に、知り合いはない。第一、私は見ず知らずの家から、迎えに来られる身ではない。打抛っておけ! と、いっておいた。
五、六日たったら、その老爺はまた来たそうであったが、その時も私は、留守であった。が、妻は私の性質を知っているから、主人がいましても、多分存知ないお宅へは、お伺いしますまい、どんな御用か知りませんが、お直りになってからでもお手紙で、そう仰しゃって下さいと、断ってしまったということであった。
それでいいでしょう? というから、ああいいとも、結構だ! と私はいった。用もいわずに人を呼び付けるなぞとは、無礼である。また何のため、そんな見ず知らずの家へ呼び付けられるのか、その理由もわからぬ。私は不快に感じた。
それっきり、その妙な家との交渉は、絶えた。後で聞くと、それから一、二度手紙をくれたということであったが、それも記憶にない。いずれにせよ、その婦人の来訪を受けたのは、その翌年の五月頃であった。
なるほど老爺がお邸といっただけあって、相当な家なのであろう。婦人は自家用車に、乗って来た。車を待たせておいて、用談にはいったが、人品も服装も卑しからぬ、五十二、三くらいの婦人であった。
この婦人の話によって、私にはなぜ老爺が若旦那様は御病中御病中をふり回したのか、使いの主が私を呼び付けようとしたのか? その理由もハッキリ納得がいったのであったが、この婦人は、私に手紙をよこして再三老爺を使いによこした人の、母親だというのである。
そして、若旦那様と老爺の呼んでいる、その人というのはまだ二十五歳の青年で、胸の病気でもう二年越し、寝た切りの身の上だというのであった。
「一言わたくし共へ話してさえくれますれば、わたくしなり主人なりがお伺いして、こちら様の御納得のおいきになりますよう、事を分けてお話も申上げ、またお願いもいたしたのでございますが、何せ昨日初めてそんなことも聞かせてくれたようなわけでございまして……使いの者が、どんな失礼なことを申上げましたやら、さぞ、お気持をお悪くしていらっしゃいましたことと、ねえ」
と物慣れた静かな口調で、詫びた。用件はその息子の青年が、ぜひ一度私に逢って、お願いしたいことがあるというから、お呼び付けするようでまことに失礼だとは思うけれども、子供に逢ってやっていただけないだろうか? という頼みなのであった。
電話ででもお知らせ下されば、御都合のいい時いつでも、車をお迎えに出しますからというのである。そして言葉を継いで、子供も薄々は感づいているが、もうこの夏を通り越すか越さぬかのところまで、病気が来ているということを内々医者からも、耳打ちされている。ひとり息子ではあるし、できるだけのことはして、当人の思い残すことのないようにしておいてやりたいと思いまして……。
それで、こんな不躾なお願いにも伺いましたようなわけで、どうぞ御不快に思召し下さいませんように、と袖で涙を拭いているのを見ると、私も暗い気持がして、言葉が出なかった。傍らで妻も、眼頭を拭いている。そういう重篤な青年が、なぜ私に逢いたいのか、どんな用があるのか、それはわからぬがともかく、母親の言葉を聞いているうちに、私は今日までの不快がまったく、消え失せるのを覚えた。消え失せたばかりではない、いいようなく胸が痛んできた。
「では、これから、お伺いしましょう!」
「まあ、これからスグに?」
「いけませんか?」
「いいえ、飛んでもない! そうお願いできますれば、もうこの上ございませんけれど……でも、それではあんまり、押し付けがましいようで……」
と、母親の眼には、また涙がうかんでくる。ひとり息子の重病で、気が弱くなってちょっとした人の行為にも、スグ涙ぐんでいるのを見ると、今日までの二年間、親の方がどんなに苦しんでいたか私にも察しられるような気がした。
そうして上げて、貴方、そうして上げて頂戴! と、私の方を向いている妻の眼が、瞬いている。牡丹はもう散ったが、薔薇は花壇一杯、咲き乱れている。フーペルネ・デュッセとかグローリアス・デ・ローマとか、なるべく艶麗なのを選んで妻が花束を拵えているのを見ると、
「そんなにまでしていただいて……まあ、もう、結構でございますから、奥様」
と母親は縁側に佇んで、おろおろしている。それを見ながら私が考えたのは、なるほどそういう長い病気では、手紙を書くというわけにはゆかぬであろうが、せめてもう少し気の利いた使いでもよこして、事情さえ説明してくれたら、私ももっと早くにそんなに病気の重くならぬうちに、飛んでいったものを! と、何だか胸を噛まれるような気持がしたことであった。
ともかくこれが、柳田というその青年の家へ足を運んだそもそもであったような、気がする。三年前の五月頃……薔薇の花の、真っ盛り時分であった。
はしがきの二
私が行くことになったので、喜び切っている母親から、車の中で聞いたところでは、その青年は病気になるまで、東大医学部の三年に在学していたということであった。
「ではお友達たちはもうみんな、一人前のお医者さんになってますね」
といってから、心ないことをいったと、自分でも後悔した。
「それはもう、皆さん……免状もお取りになって……」
といいさして、案の定、母親は声を呑んで、賑やかな通りに眼を落している。その放心したような淋しげな横顔が心を打ったから、
「清瀬村の病院へ行くと、肋膜の骨を切って直すとか、やってるそうですが、そんなことをなさっても駄目ですかね?」
と、話題を変えてみたが、それもすでにやって、今では右の胸に肋骨はほとんどない、という話であった。
「どんなことをしましても、もう当人に、それだけの寿命しか、ないんでございましょうねえ。ほんの、気胸だけで丈夫になってらっしゃる方も沢山おありになりますのに……」
いつか車は、冠木門の大きな邸内へ入って砂利を敷いたなだらかな傾斜を登っている。気が付いたことは、こんな大きな邸に住んでいるひとり息子では、私のような素人が清瀬村や肋骨を切る話なぞを、持ち出すまでもなく、あらゆる療法は、ことごとく試み尽しているであろうということであった。内玄関もあれば、車寄せの大玄関もある幽邃な庭園が紫折り戸の向うに、広々と開けている。車が玄関へ滑り込むと、並んでいた大勢の女中が一斉に小腰を屈める。
「早速先生が、お訪ね下さいましたよ、わざわざ御一緒に……」
と婦人に声をかけられて、女中頭らしい四十年配の婦人が、
「まあ、……恐れ入ります、若旦那様が、さぞお喜びでございましょう」
と一際丁寧に、迎えてくれた。磨き込んだ板の間から大階段を上って、案内されたのは南向きの庭の見晴らされる、二階の奥座敷であったが、この座敷の広いこと、二十畳くらいは優に敷けるであろうと思われた。
小間使が茶を運んで来たり、菓子を運んだり、やがて母夫人が現れて、改めて来訪の礼を述べる。お通しして、病人を昂奮させてもいけぬから、おいでになったことを、当人に通じて来る間しばらく、お待ちを願いたいということであった。
やがて通されたのは、この廊下を東の方へさらに、間数四つ五つも越えた奥座敷である。なんとバカげて、大きな邸だろうか? とびっくりしたが、これが日本拓殖銀行総裁の柳田篤二郎という人の邸であって、迎えに来たのがその夫人、寝ている病人というのがそのひとり息子と後で聞いては、なるほど大きな構えをしているのも無理はないなと、思ったことであった。
病人は、その奥座敷の床の間寄りに、厚い蒲団に仰臥している。見る陰もなく瘠せ衰えて、眼が落ち凹んで……が、その大きな眼がほほえむと、面長な眼尻に優しそうな皺を湛えて、眉だけは濃く張っている。元気な時はさぞ上品な人だったろうと、昔の偲ばれるような凜とした、顔立ちであった。
裾に、看護婦が二人畏まっている。ともかく仰臥しながら私を迎える瞳も光を失って、何さま、重篤な病人であることは一目でわかるが、こんな若い年で、後二、三カ月の命と宣告された親の気持は、どんなであろうと再び暗い気持に襲われた。持って来た薔薇を、看護婦が生けている。
「長い間お眼にかかりたいと思っておりましたが……先生よく来て下さいました……」
と喘ぐように、病人がいう。
「……有難うございました……何とお礼を……申上げていいか……」
声が嗄れて、語尾が口の中で消えて、痛々しい。
「去年から……一遍先生にお眼にかかって……話を聞いていただこうと思っていましたが……ほんとに、よく来て下さいました。……もううれしくて……うれしくて……」
痰が喉に絡まるのであろう、看護婦が綿棒で取ってやっている。
「手紙が書けないものですから……使いにわけを話して……お迎えに上げたのですが……私のいうことが、ちっとも伝わりませんで…」
「…………」
もっと気の利いた使いが来て、事情さえわかればこんな酷くならないうちに、来たものを! と再び後悔した。
「看護婦に頼んで、お手紙も差上げましたが……それも伝わらなくて……でも……よく来て下さいました。ほんとに何と……お礼を申上げて……よろしいやら……」
疲れるとみえて、言葉を切っている。話をしても差し支えないかと聞いたら、どうぞ! という看護婦の返事であった。看護婦二人が気を利かせて、隣の部屋へ退く。
「もう……わたくしも……そう長い命ではありません。……昨日も母が……しておきたいことがあったら、何でもして上げるから……遠慮なくおいい! といいますので……先生のことを話しましたら……今日早速……いってくれまして……」
「御事情を、存ぜぬものですから……御病気ならお直りになってから、御用を手紙で仰しゃって下さったらよろしいと、その時は失礼なことを申上げました。しかし、今日、お母様にお眼にかかって、御事情もよくわかりました。こんなことなら、もっと早くに伺って、私のできることは何なりと、いたして差上げればよかったと、後悔しております」
と私は、わざと笑って見せた。
「しかし、もうこうやって伺っているのですから、そんな済んだことなぞはどうでもよろしいじゃありませんか! 私の方でも勘違いしていたことがあり、貴方の方にも、御意志の伝わらなかった点があったでしょうが、済んだことはもう、お触れにならないで、それより私にどういう御用がおありになるのか? それを伺って、できることは喜んで、致そうと思っています。御用を、仰しゃってみて下さいませんか」
「そういって下されば……この上もありませんけれど……」
と病人は、天井に眼を投げながら、咳こんだ。ともかく病人のいうのには、人に話したら間違いなく、一笑されるであろうけれど、しかし自分だけには絶対に、笑うことも打ち消すこともできぬ、不思議きわまる出来事がある、というのであった。不思議というか恐ろしいというか? 病気になって以来まる二年間、こうして寝ていても一日として、その出来事は頭から離れぬ。
いいや、離れぬどころか! この半年ほどは、ほとんど四六時中……殊にこの頃は死期が迫ったとみえて、一時たりとも脳裏を去ったことのない、恐ろしい出来事がある、というのである。おそらく誰に聞かせても、こういう話を真実としては、受け取ってくれぬであろう。偶に、受け取ってくれる人があるとしても、おそらく顔色変えて逃げ出してしまうくらいが関の山であろう。事件の性質上、今日まで父母にもヒタ隠しにしていた話だというのであった。
それで今まで使いを出したり、看護婦に頼んで手紙を書いてもらったり……それがためにかえって、自分の意志も伝わらなかったが、先生ならばこういう話を聞いて下さっても、決して笑いもなさらなければ、逃げもなさらないで、きっと親身になって聞いて下さるに違いないという気がする。それが一度先生にお眼にかかって、とっくりとこの話を聞いていただいて、自分もこの世に思い残すところなく安心して行くところへ行きたいと思っていたと、こういうのであった。
要領を掻い摘まんでみれば、大体、こういうことになる。が、そうかといって、この話を聞いていただいたからとて、今日先生に小説に書いていただきたいと思うのでもなければ、また世の中にこういうことがあるものかないものかなぞと、先生に質疑したいと思っているわけでもない。先生がお書き下さったからとて、もう自分は余命いくばくもない身の上だから、それまで生きてもいないだろうし、第一、先生に、質疑するだけの気力もない。ただこの話を聞いて下さるだけで、もう充分に、満足なのである。
ただ、できれば一つだけお願いしたいと思うことは、どこそこの何というところに、コレコレこういう恰好をした、墓が二基並んで建っている。いつか先生が御都合がよろしい時に……十年たってもいいし、十五年先でもかまわぬけれど、もし向うの方へ御旅行になった時にでも、私の申上げたところを一度実地に見て下さって……私はあまりの恐ろしさに、到頭見ずに逃げて帰って来てしまったが、もし私に代って先生がその墓を見て下さったならば、どんなにどんなに、うれしいか……先生、私は、草葉の陰から手を合わせて先生に、お礼を申上げています……。
私は耳を澄ませて病人の話を聞いていた。
「……死にかけてる人間が……何を夢のようなことをいうと……長い病気で……長い病気で……」
と病人は息を弾ませた。
「いい加減なことをいってると……先生はお思いになるか知れませんけれど……先生、ウソではないのです……私は決して……ウソを申上げてはいないのです……」
「わかりました……わかりましたから、そう昂奮してはいけません」
と、私は制した。
「お易い御用です」
と、承諾した。
「貴方のお話が、ウソなぞと決して思いません。思うくらいなら、こうやってお話を伺ってはおりません。……ただ……ただ、お聞きしたところで私には、何のお役にも立つことができませんが、しかしそれで貴方のお胸が晴れるのなら、喜んで伺わせてもらいましょう。どうぞ、気の済むまで、お聞かせ下さい。……それから、その土地へ行って貴方の仰しゃったお墓を、見るということ。外国では困りますが日本国内なら、どこでも結構です。都合なんぞかまいません、スグ行ってみることにしましょう。行って貴方の代りに、見て来ましょう。ハッキリとお約束します」
「先生、もう何にも……何にも……申上げる言葉が……ありません……」
と瘠せ衰えた頬に、ポロポロ涙を伝わらせながら蒲団に顔を隠して、枯木のような手を差し出した。その手を握りながら、病人の話しやすいように、もう一膝私が乗り出したといったならば、もはやこれ以上くだくだしくいわずとも、この物語がこの病青年から出たものであるということは、読者にもおわかりになったであろうと思われる。病人が亡くなったのは、その時訪ねて三日ばかり間を置いて、もう一度訪ねてから都合二回の私の訪問の後、おそらく一週間か、十日目くらいではなかったかと思われる。
今でも眼を閉じると、持っていった薔薇を喜んで花瓶に挿して、その日薔薇の花弁より、もっともっと青白い顔で天井を瞶めながら、喘ぎ、ポツリポツリ、話していたあの時の姿が、眼に見えるような気がする。では、青年の話へ移ることにしよう。
ただし、物語の性質が性質だけに、現住の人々に迷惑をかけてはいけぬから、土地の概念だけは適当に私が変化しておくことにする。その辺に無理が起るといけぬから、あらかじめ御諒承を願っておこう。
一
「私がそこへいったのは、ちょうど医学部の三年になったばかりの頃……二十二の時でしたから、今から三年ばかり前……まだ身体が丈夫で、元気一杯の時だったのです」
と壮健だった時分を愛おしむような調子で、病人は語り出した。何度もいうとおり、声が掠れて低く、時々痰が絡んでぜいぜいと苦しそうに喘ぐのであったから、聞いているのも容易ではなかったが、面倒臭いからそういう病気の描写は、一切抜きにしよう。
「出かけていったのは、雲仙です。詳しくいうと、長崎県の南高来郡ということになりますが、別段友達がいたわけでもなければ、用事があったわけでもありません。
雲仙国立公園のパンフレットなぞを見ているうちに、子供の頃から山が好きなものですから、無性とあの辺の山へ登ってみたくなって……ちょうど学校が休み続きなもんですから、一人でブラッと出かけていったのです。……宮部さん、そこに地図がある。ちょっと取って下さい。そう……その次の抽斗に……」
と、看護婦の差し出した参謀本部の十万分の一の地図を、私の前にひろげさせた。
「もう今では、その時の記念は全部処分してしまって、何にも残っていませんが……」
病人にとっては、懐かしい思い出の地図なのであろう、が、使用した後でもしょっちゅう眺めていたと見えて、紙は皺くちゃになって、おまけに手摺れで真っ黒になっていた。
「あの辺には、相当な山が沢山にあります。吾妻山……鳥甲山……国見岳……山へ登っては温泉へ泊り、温泉へ泊っては山へ登って、一週間余りも遊び暮したでしょうか? 最後に高岩山へ登って、あれから戸石川の渓谷に沿って南有馬へ出て、景色のいい千々石湾の海岸をバスに揺られて小浜、諫早へ出て帰るつもりで計画を立てていたのです。
そのために、到頭一生忘れられぬ記憶を、刻み付けられてしまいましたが……塔沢岳、稲荷山……地図に磁石を当て当て、道を南へ取って進みました。あの辺の山は、そう驚くほどの高さではありません。精々四、五百メートルから七、八百メートルくらいです。北アルプスや立山を踏破してきた身には、何でもありませんが、割合に奥行きが深くて、どこまでいっても山脈が尽きないのです。松や杉の木立が、鬱蒼と繁っています。
私が、一番最後に登った高岩山の麓から、三脱という部落を過ぎて南有馬の町は、まっすぐ南へ直線コースで大体、三里半ぐらいと踏みました。そしてやがて畑や水田や、麦畑が見えるはずなのに、いくら歩いてもいくら歩いても、そんなものが出て来るどころではないのです。叢道の両側は、見上げるような山ばかりで、蓊鬱とした杉の木ばかり、聳えています。二時間歩いていても、三時間歩いても、人っ子一人行き逢わない淋しさです。出ているでしょう? 高岩山からちょっと下ったところに……少し左へ寄って、戸石川というところが……」
なるほど、出ている、出ている、内中尾という側に、戸石川というところが……。
「それを私は、道を間違えて、その辺で東南に下るところを、景色のいい回りの山に騙されて西南の方角へ踏み入っていたのです。ですから、どこまでいっても平坦な道へ出ずに、めった深い山の中へ迷い入っていたのです。そして気が付いた時は、磁石もどこかへ落としていました」
私は十万分の一の地図を眺めているが、もうすっかり頭へ入っているのであろう、病人は細かい地名までことごとく宙で諳じているのであった。正確無比な話であった。
「そうして大分南へ下がっても、人っ子一人行き逢わぬ山の道で、ふと気が付いた時は、今から考えれば、……その地図の下の方に出ているでしょう? 笹田というところあたり、だったかも知れません。もうさっきの戸石川という分岐点からは、二、三里ぐらいも過ぎていたろうと思います。
失敗った! と、思いました。しかし、もうこの道を、後戻りするのも面倒ですから、なるべく南へ下らずに、北東へ道を取っていっそのこと小浜の町へ、出てしまおうと考えました。そうすれば、今夜はもう仕方がないから、その辺で野宿をして、明日は朝の七、八時頃には、小浜へ行き着けるに違いないと思ったのです」
と言葉を切って、しばらく休んでいた。
「でも、もうそんな山の中の話なぞは、お厭でしょう? 簡単に、申上げてしまいましょう。その晩は到頭その山の中で、野宿をしてしまいました。元気な時でしたから、碌な仕度もせず、碌な食糧一つ持たずに、平気の平左だったのです。
そして、翌る朝は夜が明けるとスグに、歩き出しました。私の辿っている道は、最短距離のつもりでわざと、山の背伝いの細道を、分けていたのです。そして今朝歩き出してからでも、もう三時間くらいは歩いていましたから、野宿したところからでも三、四里ぐらいは来ていたろうと思います。
やっと、吻っとしました。今頂に立って、大きな赤松の枝の間から眼を放った遥かの端れに、涯しもない海が、真蒼な色を見せているのです。地図にも載っていませんから、ここが何というところかわかりませんが、いよいよ海岸へ出端れて来たのです。南高来郡の西端、千々岩湾の海岸へ、抜けることができたのです。この海岸に沿っていけば、小浜の町へ辿り着けることは、もう間違いありません。
まさか、こんなところで野宿しようとは思いませんから、昨日宿を出る時に拵えてもらった、昼の弁当の残りを詰め込んでいるばかり、疲れてもいますが第一、腹が空き切ってペコペコです。が、いよいよ目指す海岸へ出た喜びに、その辺の百日紅の手頃な枝を切って、洋杖なぞを削りながら足も軽やかに、山を降りていたのです。と、岩躑躅の一杯に咲き乱れた、そこの岩陰を曲った途端に、――もうそこは、山の麓になっていたのです。
突然ウーッ! と、地響きのするような猛烈な唸り声を立てて、小牛ほどもある真っ黒な猛犬に、襲い蒐られました。
「呀っ……コラ!」
とびっくりして、私は、持っている岩躑躅を投げ付けました。敵対すると思ったのでしょう、犬は項の毛を逆立てて、眼を瞋らせて、いよいよ獰猛な唸りを立てて、飛びかかって来ます。まだ私は、こんな恐ろしい犬を見たことがありません。小刀を投げ付け、洋杖で右に払い左に薙いで、必死に禦ぎましたが、犬はヒラリヒラリと躍り越えて、私は顔色を失いました。この時ばかりは、駄目だ! と、観念したのです。と、その途端、
「ペリッ! ペリッや、どうしたの? ペリッ!」
と優しい女の声がして、私の眼の前に、ついそこの岩陰から姿を現したのは、立派な白馬に跨った、洋装の若い女です。
「これ、ペリッ! もうわかったからいいのよ、咆えるんじゃないといったら!」
女主人の制止に、仕方がないと諦めたように、犬はウウッーと喉音を立てながら、後退りして行きました。が、驚破といえばまだ躍り蒐らんばかりの、凄まじい形相です。私はやっと吻っとしましたが、こんなところで、こんな物凄い犬に襲われようとも思わなければ、馬に乗ったこんな綺麗な女に出逢おうなぞとは、夢にも思いません。呆気に奪られて私は洋杖を振り上げたまま、夢に夢見る気持で、女の姿を見上げていたのです。
しかも、見れば見るほど何という、美しい女でしょう。年頃はまだ十七、八、あるいは十八、九くらいかも知れません。ふさふさとした亜麻色の髪が、キラキラと陽に輝いて、紛う方ない混血児です。その髪を両耳掻き上げて、隆い鼻、不思議そうに私を見守っている、透き徹るような碧い眸……真っ白なブラウスに、乳色の乗馬洋袴を着けて、艶々した恰好のいい長靴を、鐙に乗せています。
そして、細い革鞭を持って、娘の方でも思いがけぬところへ現れた私の姿に、びっくりしているのです……手綱を絞られたその馬のまた、逞しく大きくて、立派なこと! まったくこんなところでこういう人に出逢おうとは、夢にも思わぬことでした。昨日から山の中ばかり歩いて、人の姿というものを……いいえ、人の姿どころか! 人家一軒見当らないのです。山を降りて、豁然として視野の開けた今でも、まだその辺見える限りは、ただ小高い丘や野草の咲き乱れた、高原ばかり! 断崖と見えて、もう海は見えませんが、ただ、荒涼として、落莫として、人家一軒眼に入らないのです。その荒涼寂寞たる中へ、突然この犬や人が、現れようとは! 穴のあくほど人の顔を見守っていた後、
「これ、ペリッ」
ともう一度振り返って、また咆えかかった犬を叱り付けました。
「貴方は、どこへいらっしゃるの?」
咎めるようにいった言葉は、立派な日本語です。
「僕は、小浜へ行きたいんです……」
「小浜は、向うよ」
と娘は、グルッと鞭で半円を描いて、指さしました。
「まだ六里もありますわ」
「六里?」
と私は、途方に暮れました。
「じゃ、仕方がありません、どこかこの近所に……食事をさせて、休ませてくれるようなところは、ないでしょうか?」
「食事?」
と、娘はびっくりしたように眼を瞠りました。
「村へ行けば、ないことはありませんけれど……でも、一番近い村だって、三里ぐらいはありますわ」
「三里……? まだ三里も?」
といよいよ私は、途方に暮れました。
「ここは何というところですか?」
「東水の尾……水の尾村の東水の尾というところよ……でも、ここは、わたしの家があるだけよ。村のあるところは、もっとずっと向うですわ」
鞭の指さしているのは、今私の降りて来た躑躅山の、もっとずっと左側の、雑木林の奥の方! ここが一番近くて、それすら三里離れているというのです。そして小浜は、遥か左手の霞んだ、海岸線の北の方! この疲れと饑えの足で、まだ六里では私は落胆しました。もう足が意地にも、進まないのです。が、今来た道をその水の尾という村へ戻る気には、どうしてもなれません。
ここから四里ばかり離れて、小浜の町へ行く途中に、大野木という村があると聞いて、私は歩き出しました。その大野木まで行けば、小浜行きの乗合が出るということですし……仕方がない、草臥れても饑じくても、大野木まで行くほかはないのです。
艾や芒を分けて、私の歩いて行く後方から娘はゆったりゆったりと、馬を打たせて来るのです。まだ時々、胡散臭そうに唸っている犬を制止しているようでしたが、どんなに美しくても、珍しい混血児でも、こんなに落胆した気持の時では、もう何の興味でも好奇心でもありません。夢見心地でぼんやりと私は、肉刺のできた足を引き摺っていましたが、その姿が哀れだったのかも知れません。
「どこからいらしたの?」
と背後から声をかけられました。
「あの山の向うから、来たんです」
と、私は山を指さして、また歩き出しました。しばらく馬の跫音が続いていました。
「じゃ、豊沢の方から……?」
ややあって、また聞こえてきました。
「そんなところ、僕、知りません。僕は雲仙から来たんです。南有馬へ出るつもりで、道を間違えて……」
「まあ、雲仙から?」
「道を間違えて、面倒臭いから小浜へ出ようと思ったら、また間違えて、昨夜は野宿しちまったんです」
ぼんやりと俯いて歩いていましたから、もう、娘が何を聞いたかを、覚えておりません。歩いていたら、娘がまた、呼んでいるのです。
「そっちへ行くと、違うわよ! ……こっちの方、こっちの方!」
いうことが飲み込めなくて、立ち停まって顔を眺めていたら、
「じゃ、家へ寄って、休んでらっしゃるといいわ……パパに、そういいますから」
娘の家は、その辺から曲るのか、大分離れた草原の中に馬を立てて、こっちを眺めているのです。私もぼんやりと、娘の姿を眺め返していました。あんまり草臥れて、ガッカリした時には、急に礼なぞは出てこないのかも知れません。
「わたしの家へお寄りになるんなら、こっちよ」
そういうわけで私は、碌々礼もいわずに、この娘の後に跟いていったのです。
二
今度は娘の後からついて行きますと、草むら隠れに小径がうねうねと、そのうちに山に囲まれたこんな無人の地帯には珍しい、白砂利の陽に燦めいたまるで都会のような道路へ、出て来ました。
そして、どこからその道が曲ったのか? いつか、御影石を敷き詰めて枝も撓わに、五月躑躅の両側に咲き乱れた、広い道路を上った小高い丘の中腹には、緑の山々を背景にした立派な家が、聳え立っているのです。豪壮というよりも、瀟洒といった方が、いいかも知れません。
大きな門柱から鉄柵が蜿蜒と列なって、その柵の間から見えるゆるやかな斜面の庭には遥かの麓まで一面の緑の芝生の処々に、血のように真赤な躑躅や五月が、今を盛りと咲き誇っています。眼も絢な芝生の向うには、滴らんばかりの緑の林が蓊鬱と縁どって、まるで西洋の絵でも眺めているような景色でした。家の右手の方もまた、一面の芝生に掩われて、処々に蔓薔薇の絡みついた白ペンキ塗りのアーチや垣根が設けられて、ここにも白やピンク、乳白、紅、とりどりの花が一杯に乱れています。
その間に、新築間もないらしい日本家屋と白壁作りの異国風な情緒を漂わせて、洋館が聳えているのです。私は狐につままれたような気持で、突っ立っていました。藁葺き屋根の農家でも、あろうことか! この山の中に……近い村まで三里もあるという、この人っ子一人姿を見せぬ淋しい山の中に、この美しい庭や清々しい家屋とは! 東京の町の中にもこれほどの美しい住居は、滅多にありますまい。呆気に奪られて私は、眺めていました。
娘は門前で馬を降りて、出て来た農夫体の五十ぐらいのオヤジに手綱を渡すと、そのまま右手のアーチを潜って、私を導き入れました。よほどの花好きとみえて、芝生の間にも幾つかの花壇があって、紅、白、銅、レモン、黄、ありとあらゆる大輪の薔薇が、眼も醒めんばかりにあざやかな色を見せています。
このアーチを潜った奥が、初めて広々としたテラスになって、籐椅子の三、四脚が取り囲んだ向うに、五十七、八とも思われる洋服のデップリとした紳士が、怪訝そうな面持でじっとこちらに、眼を留めているのです。と、娘はいきなり高い混凝土の床に駈け上って行って、紳士の首へ手を回して、何か小声で話しています。紳士が可愛げに頷きながら、私の方を眺めています。
そして、娘が話し終って傍らを離れていると、
「さ、おはいりなさい!」
とアーチのところに佇んでいる私を、麾きました。初めてテラスに上っていって、私はこの紳士に挨拶をしたのです。
「道にお迷いになったとか! 娘がお役に立って何よりでした。よろしかったら、どうぞ、ごゆっくり、お休みになって……さ、おかけ下さい」
立派な日本人ですが、さすがに混血児の父親だけあって、海外生活でも送った人らしく人を逸さぬゆったりとした応対でした。この山の中に住みながら、紳士は血色のいい赭ら顔で、半白の頭髪をキチンと梳って、上衣は着けていませんが、ネクタイにスエターを纏っているのです。赤革の靴といい……この人気のない山の中に、誰が一体、来る人があるのでしょうか? 娘といい父親といい、身嗜みの正しさには、驚かずにはいられません。そこにかけて、問われるままに昨日雲仙を出て、南有馬へ行くのに道に迷い、小浜へ行くにもまた北の道を取り損って、山を降りたところで偶然娘さんに出逢ったこと、連れられてここへ来たことなぞを、話したのです。
「貴方の、越えておいでになった山は」
と紳士は、肥った煙管の手を挙げて、例の犬に咆えられた山を、指さしました。
「この辺では、周防山と呼んでいます」
紳士の問いに答えて、初めの予定では南有馬から、島原鉄道で口の津へ出て、口の津から小浜までは海岸美がすばらしいと聞いていることから、ここを歩いて小浜から乗合で諫早へ出て、帰京するつもりだったということなぞ……。
「ほう、貴方は東京にお住いですか」
と、いうことから今麹町の番丁に住んで、大学の医学部へいっていること、そしてパンフレットを見ているうちに、無性に旅へ出たくなって、ここまで出て来たというような話になってきたのです。
「わたしはまだ、東京は一度も行ったことがないが……さぞ、賑やかでしょうな? そんな賑やかな都会からおいでになったら、随分淋しいところだとお思いでしょうな?」
紳士は、穏やかにほほえみました。そして私の旅行話に興味を持ったらしく、小形の地図なぞを出して、フムフムと相槌を打っていましたが、そのうちに例の娘は珈琲を淹れて、運んで来てくれました。
どういう淹れ方か? 私は一遍、東京で土耳古風の淹れ方だとかいって、叔父の相伴をしたことがありましたが、ちょうどそれと同じでした。小さな茶碗に、苦味の勝った強い珈琲をドロドロに淹れて、それが昨日から何にも入っていない胃の腑へ沁み込んで、こんな旨い珈琲は、口にしたこともありません。
その珈琲を御馳走になってるところへ、にこにことほほえみながらまた一人、美しい娘が現れて来たのです。
「ジーナ、お前もかけて、珍しいお客様のお話でも、伺ったら?」
と紳士が勧めましたが、スパセニアが働いてますから、わたしも手伝って! とか何とか、いったようでした。そして顔を染めながら、逃げるように行ってしまいました。その娘の美しさにも、私は眼をみはらずにはいられませんでした。
二十一、二か、三ぐらい、さっきの娘の姉なのでしょう、妹とよく似た面差しはしていますが、これは妹と違って細面の、艶やかな瞳……愛らしい口許……隆い鼻……やっぱりふさふさとした金髪を、耳の後方へ撫で付けて、丈も妹よりは、心持ち高いように思われます。妹の利かなそうな様子に較べて、見るからに温和しそうな、混血児にも似ぬ淑やかさを感じました。
紳士といい今の姉娘といい、またさっきの妹といい、いずれ劣らぬ美しい上品な親娘が、訪う人も来る人もない淋しい山の中の一軒家で、一体、何をしているのでしょう? そして、形も崩さず、礼儀正しく生活している不思議さ? しかも今の父親の話によれば、まだ東京へ行ったこともないというのです。
父親が東京を知らないのなら、娘たちとても都は知らないのでしょうが、東京でさえめったに見られないような人たちが、こんな山の中にこんな清らかな住居を構えて、一体どういう身の上の人なのだろうか? と、私は燃えるような好奇心を、感ぜずにはいられなかったのです。
そのうちに、笑いながら妹娘と姉娘とが、縺れ合って出て来ました。活発な妹娘が、父親に寄り添って何かいいますと、
「こんな山の中で、お口に合うようなものもありませんが、食事の仕度が整ったと申しておりますから、どうぞ!」
と紳士は促しました。あんまり図々しいようですが、堪え難い空腹なのでこれも遠慮なく御馳走になることにしました。娘たちの後からついていった部屋は廊下を鉤の手に回った奥の西洋間らしい階段の下の、スグ取っ付きの部屋でした。明け放した廊下からは、例の眼も絢な芝生が、一望遮るものもなく遥かの麓まで、なだらかに開けています。そして処々に一かたまりの五月や躑躅が、真っ白、真っ赤な花をつけて、林を越して向うには、広々と群青色の海の面が眺められます。
ここが食堂なのでしょう、清潔な卓布をかけた長方形の卓子が据えられて、短いカーテンに掩われた食器棚や、戸棚や……そよそよと芝生を撫でて来る柔らかな風がそのカーテンの裾をなぶって、椅子に凭れていると、恍惚と眠けを催すほど、長閑な気持になってきます。そして、美しい娘二人の並べてくれたこの食事の、どんなに美味なことだったでしょう。
「生憎今日は、御飯を炊いてませんのよ、お口に合いますまいけれど、どうぞ!」
と妹の勧めてくれるおいしい裸麦の麺麭や、カルパス、半熟卵、チーズだとか果物、さっきのような強い珈琲……どんなに生き返ったような気がしたか、遠くの海を眺めながら、そして庭の緑に眼を放ちながら、麺麭をちぎり卵を抄い……私が饑えを満たしている間、娘二人は両端に座を占めて、紅茶を飲みながら久しぶりの客をもの珍しそうに、東京の話、私の通って来た雲仙からの道中、登って来た山々の話なぞ、それからそれと話し合っていました。なるほど私の想像していたとおり、同じような顔立ちながら、姉の方は無口とみえて恍惚と細目に眸を開いて、ただ夢のようにほほえんでいるばかり、私の相手は妹に任せている風でした。
そして、今でも覚えているのは、この眺めている海には一艘の船もなく、船どころか! 見える限りの景色のどこにも、また家の中にもこれ以上の人はいないように思われます。あんまり寂寞過ぎて、なんだかそれが私には、不思議でなりません。ですから飽きずにそんな質問ばかり、繰り返していたような気がします。初めのうちは、酔興でどこかこの辺の都会地の人が別荘でも構えているのか? と思いましたが……。
「こんな山の中に、こんな立派な家を構えて……お父様でも貴方がたでも、そんな綺麗にしてらっしゃって……」
と、私はもう一度、格天井に眼を放ちました。
「実際不思議です、僕にはそれが、不思議でならない……どこを見ても、誰一人人はいやしないし……なぜ、こんな淋しいところに、住んでらっしゃるんですか?」
「だって、父がここが好きで、住んでるんですもの、仕方ありませんわ」
と姉娘が笑い出しました。
「淋しくないんですか?」
ちっとも! という返事です。
「わたしたちもう七年も、ここに住んでますけれど、淋しいなんて感じたことなんか、ありませんわ」
「へえ!」
と私は、感心しました。
「よく、淋しくないもんですね! 僕なんか意気地がなくて、とても住んでられやしない……」
「ペリッがいますわ! ペリッがいれば、もう怖い人が十人くらいかたまって来たって、何ともありゃしませんわ。夜だって、見回ってくれますし……わたしたち碌々、戸締りなんかしたこともありませんのよ」
と妹娘が眼をクリクリさせて、口をはさみました。ペリッというのは、犬の名前なのです。そして私たちの話は自然、犬のことに移りました。ペリッは生まれた国では、牛犬といって、この犬一匹いれば猛牛二頭を倒すと、昔からいわれているのだそうでした。元々はコリー同様、牧羊犬なのだそうですが、今ではもっぱら番犬として珍重されて……しかし、原産地地方でも今では数が尠くて、ほんとうの牛犬はそう沢山にはいないというのです。
が、今いるのは生粋の牛犬だと教えてくれました。ついこの一月までは、雌雄番でいたけれど、心臓を患って今では雄一匹になってしまったのだと、仲好しらしい妹娘の方が残念そうにそういうのです。
「じゃ、さっき、貴方が制止して下さらなかったら、僕は噛み付かれたか知れませんね」
と、妹娘の脚の下に、長々と蹲っている巨大な犬を眺めながら、私は今更のように竦然としました。
「どこで、生まれたんですか? 僕も、こういう奴を飼いたいな……こんな猛烈な奴を、まだ見たことがない」
私も、犬は嫌いではありません。家にも、シェパードが二匹います。世界で一番巨大な犬は、セントバーナードとグレートデーンだといわれています。セントバーナードは見たことがありませんが、この牛犬はまず、グレートデーンをもう一回り大きくして、逞しくしたと思えば間違いありません。
「オシエックというところで、生まれましたの、クロアティアの」
「クロアティア?」
「ええ、クロアティアの……ユーゴ・スラヴィアの……」
という返事です。
「欧州のユーゴ・スラヴィア……? へえ! そんな遠いところから、お買いになったんですか?」
「買ったんではありませんの、持って来たんですわ。……わたしたち帰る時、一緒に連れて来ましたの、ですからもうお爺さんですわ……」
「じゃ、貴方がたは、ユーゴ・スラヴィアに……? そんな遠いところに、お住いだったんですか?」
「ええ、日本へ帰るまで、ずっと向うにいましたの、向うで生まれたんですもの……ですからわたしたち、日本のどこも知りませんのよ」
だからペリッチという犬の名も、ユーゴ語だと教えてくれました。
これでいくらか謎が、私にも解けたような気がしたのです。ここへ足を入れた時から、何か違ってる違ってると思っていたのは、まったくその雰囲気の違いだったのかも知れません。東京で見慣れている、亜米利加人の生活様式なぞとは、まったく異なっているのです。たとえば今私の座っている、この部屋の装飾一つでも、どっしりした彫刻の施してある、卓子一つでも……そして部屋の片隅に置いてある、大きな電気蓄音器でも。
たとえば、娘たちの手にしている紅茶茶碗にしても、それは私たちの使っている陶器の、茶碗ではありません。スッポリと洋杯全体が嵌るような把手のついた、彫りのある銀金具の台がついているのです。そしてさっき私が家へはいる時に見た、厚い白壁作りの洋間も、何か外国の油絵でも見てるような感じだと思っていた原因が、今やっと腑に落ちてきたのです。
東欧羅巴のユーゴ・スラヴィアという、日本にも馴染のない国の建築だったのです。
さて、腹も張って他愛もない雑談を交えているうちに、昨夜藪蚊に食われて碌々眠ってない顔に、眩しい朝暾が当ってくると、堪らなく眠くなってきて……娘たちにも私の疲れているのが、わかるのでしょう、一眠りして行けと、勧めてくれるのです。
「父が、いってましたわ……途中で道が分れてますから、後で誰かにお送りさせるって……わかるところまでわたしたち、連れてって上げてもいいですわ、……一眠りしていらっしゃい!」
初めての家で、そんな迷惑までかけては済まないと思いましたけれど、こう眠くてはヤリキレマセン。ついでにこれも、好意を受けることにしました。
姉娘の導いてくれたのは、スグそこの階段を上った、二階の取っ付き部屋でした。緋の絨毯を敷き詰めた洋間でありながら、ブェランダ紛いの広い縁側がついて、明け放した大きな硝子戸からは海や谷底を見下ろして、さっきよりもっと眺望のいい部屋でした。
部屋の真ん中には、真新しい敷布に掩われた大きな寝台が据えられて、高い天井や大きな家具、調度類……皺くちゃになった襯衣のまま、横になるのが憚られるような、豪華さでした。さて、そうして寝台に身を投げてはみましたが、その時の私の気持を、何といい現したらいいものでしょうか?
子供の頃に読んだ千一夜物語の中には、バグダッドの町を彷徨い歩いた荷担ぎの話なぞがよく出ています。夕暗の立ちこめた町の小路で、ふと行き摺りの美女に呼び留められて、入り込んだ邸の中が眼の醒めるような宮殿で、山海の珍味でもてなされたような物語が、よく出てきます。その時の私の気持が、ちょうどその荷担ぎだったといったら、いいでしょうか?
今は午前中で、まだ黄昏でもありませんし、またここがそれほどの宮殿とか、山海の珍味だとかいうのではありませんけれど、それでもなんだか狐につままれたような、心地です。頭の芯がトロトロと微睡んでるような、それでいて好奇心が胸一杯にはびこって、眼が冴えてくるような、何ともいえぬ妙な気持がしてくるのです。
母親らしい人の姿は、ちっとも見当らぬけれど、なぜここの家には母親がいないのだろうか? そしてそれよりも、こんな人里離れた山沿いの淋しい海岸に、なぜこんな家だけが、ポツンと建っているのだろうか? 立派な父親と、綺麗な娘たちだけが住んでいて……なぞと取り留めもないことを思いうかべているうちに、そよそよした風に誘われていつかグッスリと、眠り込んでしまいました。
三
やっぱりくたびれ切っていたのでしょう? ほんの一時間か二時間、微睡むつもりでいたのに、私が眼を醒ました時はもう夕方とみえて、天井には電気が、……さすがに電気はないとみえて、これも故国の習慣なのかも知れません、部屋の隅には金の燭台に大きな西洋蝋燭が、二つも朦朧と照らしているのです。
見知らぬ異国へでも、彷徨い込んだような気持がして、寝呆け眼でぼんやりと、焔を瞶めているうちに、ハッとして私は跳ね起きました。いけん、ここは知り合いの家ではない! と、気が付いたのです。いつの間にか硝子戸も閉ざされたとみえて、模糊と漂っている春の夕暮れの中に、さっきまでの明るい紺青の海ももうまったくの、ドス黝さに変っているのです。
もう間もなく、夜の帳も降りるでしょう。暮れるに間のないこの夕暮れ眼がけて、この見知らぬ高原へ飛び出す勇気はありません。慌てて階下へ飛んで降りて、ちょうど勝手口から出て来た、姉か妹かわかりませんが出逢い頭の娘に、私はペコペコと頭を下げて、眠り過ぎてしまった不覚を謝りました。
そして、暮れかかるところを眼がけて飛び出すのは、どうにもヤリキレヌから厚顔しい願いだけれど、もう一晩だけ泊めて欲しい、その代りさっきのような、あんな立派な部屋でなくても結構だから……納屋の隅でも、かまいませんからと、本音を出して頼んだのです。
「オホホホホホホホ」
と娘は面白そうに、笑い出しました。
「そんなに仰しゃらなくても、いいんですのよ、……そうですとも、こんなに暗くなってからお出かけになんか、なれやしませんわ。そんなところに立ってらっしゃらないで、こっちへいらっしゃい!」
さっきの食堂にも蝋燭が点っていれば、その隣にも、また隣にも、間ごと間ごとに蝋燭が瞬いて、殊に暖炉のある居間には、壁にも蝋燭が点いていれば、卓子の上にも、丈高い燭台に三本も点って、電気と違わぬ明るさです。闇で私の謝った娘は、姉の方だったのです。
妹娘は安楽椅子にからだを埋めて、明るい燭台の下で厚い洋書らしいものを、読んでいました。きまり悪げに頭を掻いている私を見ると、
「よく眠ってらっしゃいましたわね」
と笑いながら、顔をあげました。
「さっき、お起しして差上げようかって、……いいえ、灯を点けに行く前に……ジーナに相談したら、よくおやすみになってらっしゃるんなら、お起ししない方がいいわっていってましたの。……わたし、戸を閉めに上がったの、御存知ないでしょう?」
ジーナというのは、姉娘の名前でした。私は頭を掻きながら、赧くなりました。
「ジーナが仕度してますから、お食事、もうちょっと待って下さいね……わたしたち、一日交替で食事拵えしてますのよ」
と娘は、にっこりしました。
「お父様は?」
と聞いてみたら、
「昼からお山よ! 馬でいきましたの。貴方が越えておいでになった周防山の、もう少し右手寄りに、禿山があるの、御存知? 今日はそこへいきましたの。その山からマンガンが出るんですって! とても良質のマンガンが出るんですって……パパは鉱山技師よ」
父親は男ですから、こんな無人の高原を何とも思わないかも知れませんが、さて耳を澄ませたこの夜の静けさというものは、ないのです。あちらこちらで梟がホーホーと啼いて、夜の七時といえば都会では、まだほんの宵の口です。銀座なぞは人で、さぞ雑踏しているでしょう。
が、この無人の高原地帯では、万籟寂として天地あらゆるものが、声を呑んで深い眠りに落ちているのです。私の越えて来た山でも野でも、もう夜の獣たちが暗に紛れて、ムクムクと頭をもたげている頃でしょう。若い娘二人で、よくこんなところに住んでられるもんだなと、思いました。
「怖くないんですか?」
とまた喉まで出かかって、私は呑み込んでしまいました。幾度聞いてみたからとて、そんなことは同じ返事だからです。優しい顔をしながら、肝の太いもんだなとつくづく舌を捲きましたが、娘二人は慣れ切ったもので、何の物怯じするところもなく、私に電蓄をかけて――父親が拵えたとかいう、電気代りの回転装置をかけて、耳慣れぬユーゴの流行唄の二つ三つを聞かせてくれたり、それが終るとまた三人で食卓を囲んで、湯気の出るスープや鶏のソテーや、新鮮なアスパラガスやセロリーのサラダなぞ……。
「こんな不便なところで、食べ物は、どうするんですか?」
と聞いてみましたら、別棟に住んでいる馬丁や農夫たちが、二日おき三日おきに馬で四里離れた大野木まで買い出しに行くというのです。麺麭は家で焼かせているし、野菜はこの向うに農場があって、そこでセロリーでもパセリでもアスパラガスでも作らせているから、ちっとも不自由しないということ。
「手紙もやっぱりいったついでに、郵便局から取って来ますの」
ユーゴとはまだ、戦争中の断絶した国交のままになっているから、滅多に来ることもないけれど、それでも偶には向うで伊太利領のトリエステまでいって飛行機に積むとみえて、どうかした拍子には来ることもあるというような話なぞを、してくれたのです。
寝るのにはまだ時間が早いし、父親は戻って来ませんし、食事の済んだつれづれに、しばらく二人と雑談していましたが、その時私は初めて、この辺一帯の土地が――昨日私が降りて来た周防山のこっちから、海の方は遥かの断崖の下まで、そして北は四里先のその大野木という村の入り口まで、もちろん今父親のいっているという、そのマンガン鉱の山まで含めてこの広大な土地が、全部この家の物であるということを知ったのです。
「ほう! 大変なもんですね。それじゃ貴方のお家は、大金持じゃありませんか」
と私は眼を円くしましたが、
「別段、お金持じゃありませんわ。……ただ地所が少しあるというだけですわ……」
と姉娘のジーナは穏やかに、ほほえんでいるのです。何万エーカーとか、何十万エーカーとかいいましたけれど、そんな莫大な数量は忘れてしまいました。ともかく、東水の尾というこの字だけは、全部父親の物だというのです。そして四里先の大野木村の端れには、父親の故郷の平戸島から二十軒ばかりの百姓を連れて来て、今、開墾させているというのです。
「そうそう……この奥の方に……家から半道ばかりいったところに、綺麗な湖がありますのよ。柳沼っていって……回り一里半ばかりの、小さな湖なんですけれど、水門を作ってそこから開墾地まで、溝渠が拵えてありますのよ。ほんとうは、開墾地へ水を送るために作ったんですけれど、向うにも池があって……水の上を下れるようにって、半分はウォーターシュート用の娯楽に作ってありますの。娯楽にしない時は、荷物運搬用にもなるようにって! とても面白いんですのよ、明日の朝、いって御覧になりません?」
「ほう!」
とまた私は、歓声を発しました。
「大したもんですね、……いってみましょう、見せて下さい……明日、連れてって下さい……でも、夜になると困るから、朝のうち連れてって下さい。そして、昼っから、僕、発とう!」
「お発ちになるの、かまわないじゃありませんか? よろしかったら、ごゆっくりなさいな……」
と姉娘が、艶やかな笑みを見せました。
「そうだわ、お連れしたらきっと乗るって、仰しゃるわよ。……でも、駄目ねえ、まだ水が冷たいから……そのうち暑い日が、きっと来ますわ、その日まで遊んでらっしゃいよ」
と妹娘も口を揃えて、いうのです。乗る乗らぬはともかくとして、明日はその湖水と溝渠を見せてもらってから発とうと、私は考えていたのです。こうして話を交わしているうちに、門のところで馬の嘶きが聞こえました。
「スパセニア、ほら、パパがお帰りになったわよ」
父親が帰って来たら、今夜また泊めてもらった礼をいおうと思っていましたが、そんなことは自分たちから知らせておくからかまわないといいますし、姉娘は父親の食事の支度に勝手口へ立ちますし、疲れて帰って来た父親の食事の妨げをしてもいけないと思いましたから、勧めてくれるまままた私は、二階の寝室へ上がって寝台に横になりました。こうしてその晩も到頭、その家へ厄介になってしまったのです。
もちろん、私の心の中からこの家に対する不思議さが、消えてしまったわけではありません。なぜ、こんなところにこの人たちは住んでいるのか? そしてこの家にはなぜ、母親がいないのだろうか? なぞと、いいえそんなことが、不思議だったくらいではありません。今夜娘たちの話を聞くと、いよいよ謎のように解けぬものが、私の心の中で止め度もなく、拡がってくるばかりです。
妹のスパセニアの話によれば、父親は鉱山技師だというのです。あの周防山の麓から、明日私の行こうとしている小浜のこっちの大野木村の入口まで、この広大な土地を持っているということは、容易なものではありません。大変な金持です。その大金持が、なぜ世の中に隠れて、こんな淋しいところに引っ込んでいるのか? 引っ込んでいるのはともかくとしても、そして大野木村の開墾地まで、用水を引いているのもともかくとしても、その蜿蜒たる四里の溝渠が、なぜ、ウォーターシュートの水遊びを兼ねているのか? まさか、この二人の娘たちのためばかりではありますまい。
一体あの父親というのは、どういう人なのだろうか? なぞとそれからそれへと疑問が果てしもなく湧き起って、尽きるところがないのです。しかも、そうした疑問を抱きながらも、寝台や羽根蒲団は、相変らずふくふくとして柔らかく、円かな夢を結ぶには、好適この上もありません。考え込んでいるうちに、蝋燭の仄な光でまた私は、朝まで何にも知らずにぐっすりと眠り込んでしまいました。
満ち足りた眠りから醒めた、快い翌る日の朝は、日本人の私が慣れない肉やパンのお付き合いではお辛いでしょうと、特別に私のために米の飯を炊いてくれ、味噌汁も拵えてくれました。父親は、マンガンで夢中になっているのでしょう、その朝も早く出かけてしまったとかで、私が起きた時にはもう、姿も見えませんでした。
さて、五月晴れの麗らかに晴れた青空の下を、馬にも乗らぬ娘二人に案内されて、四頭の逞しい馬のいる馬小屋を見て――そのうち栗毛の馬だけは、今父親が乗って行って留守でしたが、もちろんこれらは、農耕用の輓馬ではありません。いずれも御料牧場育ちの、四歳、五歳という乗馬用のアラブ種ばかりです。
その立派な馬を見てから、爪先上がりの草原を海岸へ足を向けて、娘たちの家からいくつの丘を越え林を越え、野を越えて来た頃でしょうか? 風致のいい赤松の丘の中ほどで、呀っ! と思わず私は立ち停まりました。この山の中に……この山の中に! そしてそれは、なんという壮大さでしょう。
広々とした深い地下を掘り返して、縦横に鉄柱が峙ち、鉄梁や鉄筋が打ち込まれて、地下工事が施されているのです。しかも雨に打たれ風に晒されて、鉄柱も鉄筋も赤く錆びて、掘り上げられた土が向うに、山をなしています。荷揚げ機やブルドーザーなぞも打っ棄られたまま、工事半ばの立ち腐れを見せているのです。
「ほう!」
と、もう一度私は、驚嘆の叫びを上げました。もちろん今眺めているものは、地下工事だけであって、それ以上のものではありません。が、しかし、この交通不便な山の中へ、これだけの資材を搬んで、これだけの建設を進めるとは! この地下工事の費用だけでも、何十万円か何百万円か、私なぞには見当も付きません。
「何です、これは、一体? 何を作るはずだったんです?」
「父はここに、ホテルを作るつもりだったんですわ。地下一階の、地上四階の、……一時にお客が、四、五百人くらいも泊れるような……」
と感慨深げに姉娘のジーナが――昨夜の雑談で、すっかり馴染になって、もうその頃は私も姉娘をジーナ、妹娘をスパセニアと呼んでいましたが、その姉娘のジーナがしゃがんで、感慨深げに中を覗き込んでいるのです。
「東洋一の観光地を作るんだって、随分、楽しみにしていましたけれど……でも、もうそれも、パパの夢物語になってしまいましたわ。止めたんですの……止めたというよりは、お金が続かなくて、できなくなったんですわ」
「悲観しなくたっていいわよ、パパですもの、このまま引っ込んでおしまいに、なりはしないわ。またきっと、立派にやり遂げなさるわ! わたし、パパを信じているわ……今にマンガンが当れば、こんなもの、造作なくでき上がるわ」
「それは、そうでしょうけれど、……でも今のところは、一時立ち腐れね」
「ほう、東洋一の観光ホテルを!」
「そして、ここから大野木を抜けて小浜まで、自動車道路を作るつもりで、予定していたんですけれど……」
とジーナはふり向いて、丘の彼方を指さしました。口では強そうなことをいいながらも、残念なのかスパセニアも――残念そうといって悪ければ、名残惜しそうに工事の残骸を、見返り見返り金髪を靡かせながら、男のように洋袴の足を運んでいます。
これだけの広大な地所を買い占めて、これだけの雄大な大計画を立てた、娘たちの父親という人は……パパは鉱山技師だと、スパセニアはいいましたけれど、一体、どういう人なのだろうか? と、私はそんなことを考え考え、娘たちは仕事の挫折した父親の心の中を察していたのかも知れません。黙々として歩を運んでいるうちに、潮の香がプウンと強烈に鼻を衝いて、道が砂だらけになって、ようやく岬の突端へ立つことができました。
いよいよ、東水の尾岬の突端へ、出て来たのです。工事場からここまで、十二、三町くらいはあったでしょうか? そして、たった今工事場で驚嘆の叫びを上げた私は、この瞬間、またもや嘆声を発せずにはいられなかったのです。見ゆる限り海波が渺茫として、澎湃として、奔馬のごとくに盛り上がって、白波が砕けて奔騰し、も一度飛び散って、ざざーっと遥かの眼下の巌に、飛沫をあげています。
豪宕というか、壮大無比というか!
「あ、危ない、まだそこの欄干が、できていませんわよ……」
落ちたら最後、もちろん、命はありません。からだが粉々に砕け散ってしまうでしょう。眼下数百呎というか、数百丈というか? 切り立つように嶮しい断崖です。その断崖の真下に打ち寄せて来る波は、千千石湾から天草灘を越えて――万里舟を泊す天草の灘、と、頼山陽の唄ったあの天草の灘から、遠く東支那海へと列なっているのでしょう。
そして右手の方、紫に淡く霞んでいるのは、早崎海峡を隔てて天草本島かも知れません。点々として、口の津らしいところが見えます。加津佐あたりと思しい煙も、見えます……瞳を転ずると、小浜の港が、指呼のうちに入ります。万里の海風が颯々として、ここに立っていても怒濤の飛沫でからだから、雫が滴り落ちそうな気がします。
景観……大景観……無双の大景観です。父が旅行が好きなので、伴われて私も随分各地の景色を、見て歩きました。が、まだ、これほどまでに雄大無双の景観というものは、眼にしたこともありません。もう一度私は、さっきの地下工事場を、ふり向いて見ました。
あすこにもし、四階建ての大ホテルでも聳えたならば、ホテルは夜の不夜城のごとく海原遠く俯瞰して、夏知らずの大避暑地を現出するでしょう。たしかに、東洋一の大景勝地ホテルの名を恥ずかしめはしないでしょう。父親ならずとも私だって、金さえあればここへホテルを、建てたいくらいです。
「道だけは、あすこへ拵えてありますのよ。降りて御覧になります?」
なるほどジーナの指ざすとおり、二、三町先には絶壁をえぐって、急な幾百階かの岩の階段が、斜めに刳り抜いてあります。危険を慮って、そこにだけはさすがに鉄の鎖で、欄干が設けられて、波打ち際まで攀じ降りするようになっていますが、しかし私は降りませんでした。降りたところでただ飛沫に打たれるばかり、この辺の海は荒くて泳ぎも海水浴も、できる場所ではありません。ここから七里小浜近くまで行かない限り、波は穏やかにならないということです。
スパセニアのいう柳沼という湖は、そこから草原を南の方へ二、三十分ばかりの距離……なるほど、そう大きな湖水ではありません。が、水は清冽で底の藻草や小石まで、透いて見えるかと疑われるばかり、そして四周を緑濃い山々が取り囲んで、鳴き交う小鳥と空飛ぶ白雲のほかには、訪れるものもない幽邃さです。
恍惚と私は、眺め入りました。眺めても眺めても、眼に入る限り雲と山と、小鳥と鬱蒼たる樹木ばかり……もしさっきの雄大な景観がなかったとしても、浮世の塵に汚されぬこんな美しい湖一つだけでも、もし私が大人だったならば、ホテルの一つぐらい作りたくなったかも知れません。
「ホテルを作ったら、ここに白鳥を放して、快走艇や遊覧ボートをうかべて、日本へ来る外人客をみんな呼ぶんだって、パパは楽しみにし切ってましたのよ……」
湖畔に、朽ちて倒れた楢の大木があります。その幹に腰を降ろして、ジーナがいうのです。私も並んで腰をかけました。スパセニアが番人にいい付けて、水門を開いて水を落して見せるのだと、私たちを離れて遥かの小舎の方へ駈け去っていった時でした。
この辺の地所もまたこの湖も、みんな父親のものだとジーナがいうのです。一体貴方のお父様という方は、どういう方なんです? 鉱山技師でありながら、こんなドエライ土地を持って、おまけにあんなすばらしい大工事をやりかけて、こんな湖までお買いになって……お母さんもおいでにならないで、……こんな淋しい山の中なぞに住んで……と堪らなくなって到頭私は、昨夜以来聞きたい聞きたいと思っていたことのすべてを、みんな一時に口へ出してしまいました。そしてその時初めて、ジーナから詳しい身の上を聞く機会を持ったのです。
四
「父は、ほんとうにえらい人ですわ。娘の口から、そんなことをいっては、おかしいかも知れませんけれど……どんな苦しいことがあっても、決して愚痴はいいませんし……」
と溜息を吐いて、ジーナは語り出しました。父親というのは、同じ長崎県でもここからは北の端れに当る、平戸島の人だというのです。漁師の家に生まれて貧しいために、学校の教育も碌々受けられないで、子供の時から漁師仕事ばかりしていたというのです。
十四の時には到頭、外国船の給仕に売られて……が、船の待遇が悪くて虐待されるのであっちへ着きこっちで積荷して、流れ流れてアドリア海のスプリトという、小さな港で木材を積み込んだ時に、到頭脱走して、陸地へ逃れてしまったというのです。
今から思えばそこが、ピーター陛下治世当時のセルビア王国、今のユーゴ・スラヴィア国のダルアチア州だったのですが、十四ぐらいの無学な子供に、自分の逃げ込んだ土地が英国なのか、伊太利なのか、仏蘭西だか何が何やら、わかったものではありません。ただ、鬼のような船長に見つかりたくない一心で、暗雲に奥へ奥へと逃げ込んで、農家の水汲みをして昼の麺麭を恵まれたり、麦畑の除草を手伝って晩飯にありついたり、正規の入国手続きを踏んでいないのですから、官憲の眼を忍んであっちへ逃げこっちへ逃げして、言語に絶する辛酸を舐め尽しました。それでも翌年の春には、ゼニツアという鉱山で働くことができたというのです。
そしてその働いているところが、ある日、鉱山主の眼に留まって、言葉もわからぬ異郷でいたいけな日本の子供が苦労しているのを哀れに思った鉱山主のお陰で、昼は働きながら夜は鉱山経営の夜学校へ通わせてもらうことができるようになったというのです。
が、案外成績がいいので教師たちから惜しがられて、今度はイドリアの中学校へ……そこを終るとさらに高等学校へと、いずれも思いのほかに成績がいいのに驚いて、鉱山主も本式に身を入れ出しました。そして高等学校を終ると正式に学資を出してくれて、首都のベルグラードの大学へ入れてくれました。もう働かなくても、勉強できる身の上になったのです。
専攻は、採鉱冶金学……もともとが、無理な生いたちをしているのですから、学校も年を取ってから出て、二十九の年にやっとベルグラード大学を卒業することができました。そして鉱山主の頼みで、その長女と結婚して鉱山主の事業を助けることになったというのです。
「その鉱山主がドラーゲ・マルコヴィッチといって、わたくしたちの祖父……長女というのが、母ですわ。でも、祖父の鉱山といったところで、そう大きな銅山ではありませんのよ。その時分は、三流四流の小さな銅山だったということですけれど、結婚して一心に祖父を助けて、二十年ばかりのうちに父の努力一つで、銅山は採量が増して、今ではユーゴ国内で一、二を争う産出額を持つようになりましたの。そのほかに、銀山の大きなのを一つと、クロアティアのマイダンペックに、モリブデンの鉱山まで、持てるようになりましたの」
鉱山主の長女である姉妹の母親は、スパセニアが生まれると間もなく世を去って、姉妹とも母の味というものを、ほとんど知らないというのです。物心ついてからは、ただ父親の慈愛一つに育まれて、その時分姉妹の住んでいた本邸は、首府のベルグラード郊外、そこで三十人近くの召使に侍かれて、別邸は銅山の所在地のゼニツアの町に一つと、ボスニア・ヘルツェゴビナ州のサライエボという美しい都会にも、避暑用として一つ……。
ユーゴの銅山王マルコヴィッチの孫娘と呼ばれて、二人とも生まれて世の中の不自由というものを、何にも知らずに育ってきたというのです。ただ、どんなに多くの召使に囲繞せられても、母のない身の淋しさだけが、いわば唯一の淋しさだったということができましょう。
祖父も言葉を尽して再婚を勧めましたが、父親は違った母を持たせては子供たちが可哀そうだと、何としても再び結婚しようとはせず、大恩受けた祖父のために身を粉にして、その事業を助けてきました。その父親が、やっと故国へ帰ろうかという気になったのは、ジーナもスパセニアも大分大きくなった頃……心血を注いだゼニツア銅山が、押しも押されもせぬユーゴ一の大銅山になった安心があったからなのでしょう。
パパの生まれたお国へ、一遍いってみたいわ、連れていって頂戴よう! と、ある晩スパセニアが冗談をいったことから駒が出て、パパが日本を出てから、もう三十六年にもなるから、生きているか死んでいるかわからぬが、お前たちにも一遍日本のお祖父さんお祖母さんを逢わせてやりたいなあということで、急に日本へ帰ることになったのです。帰って来たのは、一九三九年の四月……。
「わたくしが、ベルグラードの中学校へ入った年、スパセニアが十歳の春でしたわ」
もともとユーゴは日本とは関係の深い国ではありません。日本の事情なぞは、まるっきりわからないのです。姉妹はもちろんのこと、父親とても十四くらいで離れているのですから、まったくのユーゴ人になり切っているのです。いくらかでも日本語を忘れずにいたのが不思議なくらいでした。
「ですから帰りたては、言葉をスッカリ忘れていたとみえて、とんちんかんなことばかりいって、日本人同士、言葉がわからなくて困ってるのが、日本語のわからないわたくしたちにも、随分おかしゅうございましたわ」
とその時のことを思い出したのでしょう、ジーナは声を立てて、ホホホホホホホと笑い出しました。
「わたくしたちが帰って来た時は、もう支那と戦争が始まっていて、大東亜戦争の始まるちょうど、二年半ばかり前でした。長崎に住居を定めて、日本語がわかりませんからわたくしとスパセニアは、ジョレース女学院というのへ入りました。ここは仏蘭西の修道院経営の宗教女学校で、スパセニアは小学部へ、わたくしは女学部へ。故国では英語は一切使いませんけれど、仏蘭西語は子供の時から習ってましたから、この学校が都合がよろしかったのです。
そして二年ばかりは、ほんとうに楽しく暮していましたでしょう……家も大きいし、女中たちも大勢いましたし……自家用車もありましたし……初めは言葉がちゃんぽんになって日本の友達たちに笑われていましたけれど、そのうち日本語も困らぬようになりました。
……今思えば、その頃にユーゴへ帰ってしまえば、こんな苦しい目にも遭わなかったのかも知れませんけれど。でもまさかこんなに早く、戦争になろうとは夢にも思いませんでしたし……」
とジーナは、淋しそうな眼をしているのです。
「そして、平戸のお祖父さんお祖母さんに、逢わなかったんですか?」
と聞いてみましたら、
「もうみんな亡くなって……ただ叔父と叔母だけが住んでたそうですけれど……面白くないことがあったとみえて、父は愚痴っぽいことはいいませんけれど、お金だけ上げて、さっさと帰って来てしまいましたの。
お前たちを、食い物にするような人たちだから、決して近づいてはいけないって……お前たちの頼る人は、やっぱりユーゴのお祖父様や、叔父様叔母様のほかにはないって、いいましたの」
と、もっともっと、淋しそうな顔をしているのです。
「もともと父は、帰りっ切りに日本へ帰るつもりはなかったのです。せっかく帰って来たのだから、三、四年くらいいてまたユーゴへ戻ろうって! ……そして二、三年おきにユーゴと日本をいったり来たりするつもりでいましたの。ですから初めはこの家もこんなところへ住むつもりではなくて、ホテルを作るのに、父が出入りに不自由なもんですから、ほんの夏場の別荘のつもりで、建てただけなんですの。温泉が湧くものですから、やがてユーゴへ帰ったら、また祖父をつれて遊びに来るつもりで……」
「ほうここに、温泉が湧くんですか?」
「お気づきになりませんでして……?」
とジーナがおかしそうにほほえみました。
「昨日お入りになったの、あれ、温泉ですのよ」
いわれてみれば、私にも思い当るところがあります。西洋人やあちら帰りの人の風呂といえば、日本人の大嫌いな西洋風呂なのですが、ここの家の風呂だけはゆったりと大きくて、窓の色硝子や広い洗い場や、おまけにタイルの浴槽からざぶざぶと湯がこぼれて、まるで温泉場みたいだなと、不思議な気がしていたのです。
父親の好みで拵えた温泉だったのかも知れません。泉質はリューマチを患っている祖父に、一番効く食塩泉だというのです。
「温泉があって、泉質がいいばっかりに、発掘権を手に入れて、別荘のつもりで、ここを建てましたの。とても父が、気に入ったもんですから、それで観光地も作ろうという気になって……。
日本にはほんとうの外人向きの温泉がないから、ホテルを拵えてここへ日本一の温泉場を作って、祖父や叔父叔母みんなを連れて来て、喜ばせてやろうって気になりましたの。それで湖を買ったり、断崖に階段をつけさせたり、手を拡げ出したんですわ。でもその時分は、向うから持って来たお金もありましたし、ユーゴからお金も自由に取り寄せられましたから、ちっとも困りはしませんでしたけれども、大東亜戦争に入る半年ぐらい前から欧州からの手紙も送金も、パッタリ途絶えてしまって……。
独逸は、前からソ連や英国と戦っていましたから、戦局の具合で国内が混乱してきたのではなかろうかって、心配して手を尽してみても、東欧の様子は少しもわかりませんし、そのうち日本も亜米利加との間が険しくなって、もういくらヤキモキしても欧州へは、行くことも帰ることもできなくなってしまって……。
故国から送金さえ来れば、こんなホテルや観光地ぐらい、わけなくできますのに、来ないばっかりにみんな、行き詰りになってしまったんですわ……」
「それで貴方がたは、ここへお移りになったんですか?」
「それは、もっとほかの事情からですわ……ヤキモキしているうちにやがて亜米利加と、戦争になってしまいましたでしょう? もう外国人は、本国へ帰ることも自由に国内を旅行することも、できなくなってしまいましたの。……でも、それだけならば、わたくしたちまだこんなところへは引っ込んでしまいはしませんけれど……」
父親は、日本の籍を持って日本人だけれど、自分たちはユーゴ国籍で、日本の籍を持っていないというのです。戦争と同時に姉妹二人は、三日にあげず日本の憲兵隊から厳重な取調べを受けて、日本の国籍を取得して日本人としての登録をしなければ、父親と引き離して姉妹だけは他の敵性国人同様、萄領の澳門まで送ってそこで国外追放に処されなければならなくなったというのです。
慣れぬ他国も同然の日本へ来て、父に引き離されてわたくしたち二人だけ、身も知らぬ澳門なんぞへ追放されてしまったら、一体どうして生きていったら、いいんでしょう? スパセニアはまだ子供でしたけれど……わたくしたち生きた心地もなくて、毎日抱き合って、泣いてばかりいましたの。パパが心配して百方奔走して、日本国籍を取得しようとしましたが、わたくしたちの日本滞在日数が、二年と何カ月ではどうにもならず、毎日のように憲兵隊へ日参して、しまいにはその人が公使館武官でベルグラード在勤中、少しばかりのお世話をした縁故を辿って西部軍管区司令官の許まで、頼みにいってやっとのことでここに引っ込んで、――東水の尾の別荘に閉じ籠って、三里四方へ踏み出しさえしなければ、大眼にみておくという条件で、辛うじて国外追放だけは、免れたというのです。
「それで急に、こんな不便なところへ、越して来てしまいましたの。そうでなければわたくしたち、父と引き離されて澳門へつれて行かれなければならなかったんです。……わたくしたち女中も使っていませんでしょう? 敵性国人と見られて、監視されているんだから、辛くても謹慎して、少しでも憲兵隊の心証を害なってはいけないと、父が心配して……わたくしたち、ラジオも写真機も、持っておりませんでしょう? 憲兵がここまで家宅捜査に来て、みんな没収していってしまったんですわ……」
それならもう、戦争も済んだんですから、いつでも長崎へ帰れるじゃありませんか! といったのに対して、ジーナは切れ長な眼を潤ませながら、こういう話をしてくれました。憂い辛いその四年間も過ぎて、いよいよ戦争も済んで、欧州の事情の判明した途端、この一家を驚かせたものは、独逸の滅亡でもなければ、ソ連の東欧衛星国家群の確立でもありません。故国のユーゴ・スラヴィアが、チトー元帥を主班とする共産政権下の支配に移って、国内財閥の事業も財産もことごとく政府に没収されて、今では民間の資本というものが、ユーゴ国内に一つも存在しないということだったのです。
営々として心血を注いだ父親の一生の仕事は、まったく水泡に帰してしまったというのです。いいえ、一生の仕事が水泡に帰してお金のなくなったことなぞは、諦めのつくことです。どうしても諦めのつかぬことは、その国内の混乱の最中に、旧財閥や旧富豪階級は、ことごとく共産政権の粛正の血祭りにあげられて、投獄されたり、追放されたり、死刑になったものも数知れずある、という噂だったのです。
今日まだ行方のわからぬものが、三万何千人とか! その筆頭第一に、大切な祖父のドラーゲ・マルコヴィッチの名前があげられて、叔父のウラジミールも、叔母のヴィンチェーラも、一族一門ことごとく、消息を絶っていることだったのです。
「あれから七年、……もう誰も、生きているわけもありませんわ。殺されているのか、乞食のようになって、国内のどこかで死んでしまったのか? ……おわかりでしょう? 父はここを離れることが、できないのですわ。ここを処分して、新しい住居へ移ることが、できないのですわ。ここならば、祖父も叔父も叔母もみんな、住所を知っています。ここを動いてよそへいったら、もし自分を頼って日本へ落ちのびて来た場合、さぞみんなが困るだろうって……。
もうホテルの夢もなければ、観光地の夢も何もなくて、ただ祖父や叔父叔母みんなの消息だけを待っているのですわ。どうしても諦めがつかなくて……今日は亡くなった知らせが来るか、明日は乞食のようになって、誰か頼って来るかって……。
お前たちは若いのだから、こんなところにいる必要はない、長崎へお帰りって……でも……父を見棄てて、どうしてわたくしたちばかり、そんな賑やかなところへ帰れましょう? いますわ……いますわ……わたくしもいますし……スパセニアも、いますわ……父と一緒に……一生涯でも! ……もうわたくしたちには、ここを離れて、帰るところは……どこにも……ありませんわ……」
陽が雲に遮られて、湖水の上が薄らと、翳ろってきました。が、その瞬間に、私には今日まで二日間の疑問が、淡雪のように消え去るのを覚えました。
なぜこの人たちには母親もなくて、そして明るい美しい立派な人たちでありながら、なぜこんな淋しい山奥の無人の高原なぞに、親子三人だけで暮してるのだろうか? という、今日までの疑問のすべてが腑に落ちても、何としても私には、彼女を慰める言葉が見出せなくて、じっと、うなだれていたのです。
五
もちろん、彼女は暗い面持で、ボソボソと人の哀れみなぞを惹くような調子で、身の上語りをしていたのではありません。また日本政府や憲兵隊の取り扱いぶりを、非難しているのでもありません。時々思い出して涙ぐんではいましたが、大体にきわめて明朗に、淡々として、好奇心で私の問うに任せて、こんな話をしてくれたに過ぎないのです。
そしてまた、本国の財産が没収されようと、長崎の帰る家はなくなろうとも、彼女たちは決して貧しいという身の上ではありません。昔の境遇に較べれば、烈しい転変を見せてるとはいえ、まだこれだけの厖大な地所を持って、立派な家があって、庭園があって……たとえこの湖や、地所の一部農場の一つも手離したとしても、おそらく普通の人には想像も及ばぬ、莫大な金が入ってくるに違いありますまい。まったくの貧乏な身の上というのではありません。
が、しかし、仮にもユーゴの、銅山王とまでいわれた人の孫娘たちが、山の奥に住んで立ち腐れの工事場を抱えて、戦争の痛手を受けて何もかも、滅茶滅茶になっていると知っては、まったく何といって慰めていいかが、わからないのです。殊に、私の心を打ったのは昔の恩人である祖父の安否を気遣って、当てにもならぬ消息を待って、この山奥に暮している父親の尊い心と、その心の中を察して、世の中の華やかさ賑やかさを振り向きもせず、この人気のないところに住んでいる娘たちの優しい心持だったのです。それが、何ともいおうようない気持を私に起させて、私は涙ぐましい感激に打たれました。
彼女は膝の上に両肘を凭せて、頤を支えながらじいっと、湖へ瞳を投じています。彼女に膝を並べて、私も言葉もなく、湖を眺めていました。何の不自由もない富豪の家に生まれながら、なじまない父の国に憧れて来たばっかりに、数奇な運命に弄ばれている娘……そして今では、ここよりほかに国も家も持たぬ娘……妹と父親のほかには、一家一門おそらくは死に絶えてしまったのであろう孤独な身の上……と、思うと、彼女は別段暗い面持もしてはいませんが、それだけに私の心の中には、暗い侘しさが水のように忍び寄ってくるのです。
そして、適当な言葉が口に出てこなくて、この瞬間ほど私は、彼女を抱いてその孤独な魂を慰めてやりたいと、思ったことはありませんでした。が、いくら同情しても、私のような学生の身の上では、どうすることもできぬ、相手の境遇です。いわんや、何度もいうとおり、運命に翻弄されているとはいえ、決して彼女は現在貧乏な身の上ではありません。
「面白くもない話……おイヤだったでしょう?」
「お気の毒だと、思っています……何といったらいいかと、さっきから僕は考えていたところです」
運命の打開を図って、今も山へ行っている父親のことでも彼女は、思いうかべているかも知れません。湖の向う側の、林の上に聳えている赭ちゃけた禿山に、じいっと彼女は、眼を留めているようです。長い睫毛の先が、濡れたようにそよいで、象牙彫りのようにキメのこまかな横顔……キラキラとした、亜麻色の髪……しかも、膝と膝が触れ合って、彼女の身体を流れている温かい血が、脈管へも皮膚へも、息苦しく伝わってきます。夢のように、しいんとした何分かが過ぎ去って、私はハッとして、手を引っ込めました。さっきから、もう、何度彼女の手に触れようとして、背へ手を回そうとして、そのたんびに胸を轟かせていたか、知れないのです。そしてこの時ほど私はスパセニアが帰って来なければいいと、思ったことはありません。
からだ中が燃えるようにかっかとして、顔が火照って頭が茫っとして、こうしていても躍り出したくなる無性に楽しいような気がしてきますけれど、それでいて彼女と膝が触れ合っていることが、また堪えられなく全身をムズ痒くさせてくるような……この時ほどスパセニアが帰って来てくれなければいいと、肚の中で思っていたことはないのです。
「お差し支えなかったら……もっと、遊んでらっしゃいません? こんな山の中ですから、面白いことなんぞ何にもありませんけれど……」
艶やかな眸が、にっこりとのぞきこんできます。
「スパセニアも、とても喜んでますし……パパも喜んでますのよ。ね、およろしいでしょう? もっと遊んでいって下さいません?」
「僕は……僕は……かまいませんけれど……でも……そんなに遊んでて、お宅に御迷惑じゃないでしょうか……?」喉が掠れて、他人が喋っているような気がしました。
「迷惑どころじゃありませんわ……もう、わたくしたちみんな、楽しくて……このままお別れ、できないような気持ですわ。……初めていらした時から……初めていらした時から……わたし……いい方がいらして下さったと……」
「え?」
と、私は耳を疑いました。途端に全身がかっとして、燃えるようにまたにっこりと赧らめているジーナの顔が、ぽうっと花の咲いたように眼の前に躍って、この瞬間ほど私は、自分を幸福だと思ったことはありません。そしてその瞬間、もし眼を向うの方へ走らせて、ハッとしなかったらおそらくあるいは、夢中で彼女のからだを引き寄せてしまったに、違いありません。
が、瞬間私は、草原の中を疾風のように馬を走らせて来る、スパセニアの姿を認めたのです。そしてびっくりして、突っ立ち上がりました。見果てぬ楽しい楽しい夢を、引き破られたような気がして、何ともいえぬ腹立たしさを感じました。
「お待ちどおさま、……随分手間どったでしょう? 六蔵ったら……いくら探しても、いないのよ、散々探して、大野木へいこうとしている途中まで追っ駈けてって、やっと連れて来たわ」
とそこに、馬を立てているのです。
「ほら、あすこへ来るでしょう?」
なるほど、湖の遥か東側に、草原の中を歩いて来る人の姿が見えます。スパセニアは家まで戻って、馬でその六蔵という男の行方を探し回っていたのでしょう、温かい陽に蒸されて、上気したようにポウッと眼の縁が染まって、汗ばんだ髪がビッショリと、頬についています。
「いらっしゃいよう! ……さ、今、水門をあけさせますから!」
馬から降りたスパセニアを先立てて、私たちはまた草むらを水門の方へ向いました。が、今の私にはもう、そんな溝渠を見たいという願望なぞは、少しもありません。それよりも、もっともっとジーナと二人っ切りで、話していたくて……話ができなくても二人っ切りでただじいっと腰かけてたくて、スパセニアの後からついて行きながらも、ともすればシーナの手が握りたくて、からだが触れ合うたんびに、胸を轟かせていたのです。
そして漠然とした未来を、取り留めもなく考えていました。私の父も母も、私がたった一人の息子ですから万事に干渉して、その五月蠅いこと、五月蠅いこと! 何でもかでも子供みたいにおせっかいを焼いて、つくづくひとり息子なぞに生まれるものではない! と、先から感じていたのです。
何の事件も起っていない今日までですらそれですから、九州のこうこういうところで知り合った混血児の娘と、結婚したいなぞといい出したら、母なぞはびっくりして、眼を回してしまうかも知れません。その驚き顔が、今から眼の前に散らついてくるようです。しかし、どうしても結婚させてくれと私が頑張れば、結局は折れて私のいうことを容れてくれるに違いありますまい。ただその承知させるまでが、大変です。
死ぬとか生きるとか、かなり狂言も、して見せなければなりますまい。そして結局は容れてくれるとしても、今私は大学の三年ですから、後一年たって卒業したら、期限つきで許してくれるかも知れません。それとも、もう二、三年たって、インターンも済んで、一人前の医者になるまで待て! といい出すものでしょうか? そんなことばっかり思いめぐらしながら、黙々として道を歩いていたような気がします。
そして、そんなことばっかり考えながら歩いている私にとって、やがて水門に佇んで眼の前に展開されてきた、眼も遥かな混凝土の溝渠は、興味でも何でもありませんでした……といいたいところですが、実際はこれもまた、大変な驚きだったのです。ジーナも恋も忘れて、私は眼をみはらずにはいられませんでした。なんというこれもまた、壮大きわまりない設備だったでしょう。なるほど二人の姉妹が、私に見せたがったのも無理はありません。
これこそ父親が、大野木村にある開墾地へ水を送るため、すべての施設に先立ってまず第一に、手をつけたものに違いありません。これだけはもう立派に完成しているのです。
幅二間ばかり、側面が二尺ばかりも高く盛り上がった、厚い混凝土の溝渠が、二十五度ぐらいの傾斜を帯びて、眼路も遥かに霞んで、蜿蜒とうねうねとして、四里先の大野木村まで続いていると聞いては、ただその規模の雄大さに嘆声を発せずにはいられません。
さすがに子供の時から異郷に彷徨って、自分を助けてくれた恩人を、国内一の銅山王に仕立て上げたような人は、すること為すこと考えていることやっぱり、日本人離れのした肝の大きなものだな! とつくづく舌を捲かずにはいられなかったのです。
大野木村の入口には大きな池が掘ってあって、そこへこの溝渠の水は流れ込んで、そこから幾つかの小川に分れて、開墾地を灌漑してるというのですが、その途中にも二里くらいのところに、かなりの混凝土の池がもう一つ設けられて、矢のように下っていった舟はそこへ水煙立てて滑り落ちる、涼味スリル万斛のウォーターシュートの娯楽施設を、兼ねているというのです。もちろん、ホテルの客の娯楽を目的としたものに違いありません。
「あすこに建ってるでしょう? 石造りの小屋が……」
なるほど、物置小屋の二倍くらいの建物が、水辺に建っています。
「あれが、自家発電所になってますの。あすこで、電気を起して水門の調節をしたり、家へ電気も点くように、なってるんですけれど、戦争中からやってませんの。じゃ、今、爺やに捲き揚げさせますわね……あ、何か板切れでも、あるといいんだけれど……」
「嬢さま、これじゃ、どげんもんじゃろうかね?」
それが六蔵でしょう、私に目礼しながら六十ぐらいの頑丈そうなオヤジが、大きな板切れを出しました。
「じゃそれをうかべて頂戴! 流すんだから」
「ようごぜえますか? じゃ、水を、出しますだよ……よっこらしょと! ――」
と、六蔵の手が捲き揚げ機へかかって、ガラガラと重い水門の扉が、少しずつ開き始めます。ヒタヒタと、やがてチョロチョロと……次第次第に水嵩を増して、やがて板切れは矢のように、流れ出しました。
「ほうら、速いでしょう? あんなに速く……もっともっと水が増すと、ボートや板に乗って、ちょうど、あのくらいの速さで、下るんですのよ。……ね、ほらほら、あんなに速くなるでしょう……?」
手を叩いてスパセニアがハシャイでいるとおり、なるほどこのスリルと爽快味だけは、見たこともない人には、到底想像も及ばぬでしょう? 次第次第に水嵩と速度を増して、板切れは視界の向うに、見えなくなってしまいました。
「あの速さで四里下って、大野木の池まで行けば、どんな暑い日でも寒けがするくらい、涼しくなりますわよ。ね、暑い日が来るまで、遊んでらっしゃいよ、一緒に一遍乗りましょうよ……」
姉妹は手を叩いたり、笑ったりしていますが、六蔵爺だけは汗だくの大奮闘でした。水量も水勢も、いよいよ増してきます。
「嬢さま……まだ出しますだかね?」
「どう? もっと出しましょうか?」
「もういいわよ、スパセニア! そんなに出したって、今水遊びするわけじゃ、ないんですもの」
「有難う、爺や! じゃ、もう、いいわよ! ……ついでにジュールも、厩へ繋いどいて頂戴!」
そして私たちは、その溝渠に沿った野原をブラブラと小一里ばかりも下って、その辺の景色を見ることにしましたが、そんなに溝渠の話ばかり申上げても、面白くないでしょうからこのくらいで止めておきましょう。ともかくこの溝渠を見ての私の感じでは、規模が大きいとか着想が雄大だとか、そんなことよりもこれだけの施設を整えながら、中途で挫折してしまってさぞ残念だろうと、父親の心の内を推量せずにはいられなかったのです。
そしてもう一つは、これらのすべての施設が全部完成して、動き出したならば、きっと日本一の、外人招致の温泉遊覧地になったに違いないのに! と、それを他人事ならず残念に思わずにもいられなかったのでした。
私はもちろんジーナの勧めに従ってもう二、三日滞在することに料簡を決めてしまいましたが、散歩から帰って来ると、パパのお部屋も見せて上げましょうか? とスパセニアが、初めて東端れにある父親の書斎を見せてくれました。もちろん、父親はまだ帰っていませんが、広々とした四周の壁を埋めている、何千巻という金色燦爛たる書物! なるほど大学出の鉱山技師だけあって、その夥しい蔵書にも眼を奪われずにはいられませんが、いずれもユーゴや仏蘭西の書物ばかりとみえて、私なぞには一冊たりとも表題すら読めるものではありません。
大体ユーゴの言葉はブルガリアなぞと同じく露西亜語と同語源のスラヴ語だというのでしたが、そのスラヴ語が私にはわからないのだから、仕方ありません。父親の部屋が済んで次はジーナの部屋……スパセニアの部屋……いずれも若い娘たちの部屋らしく、日本の人形やユーゴの郷土人形なぞを飾って、こぢんまりと居心地よく、父親同様書物好きとみえて、そして書物だけがこの淋しい生活の、唯一の友達とみえて、ユーゴの書物もあれば仏蘭西の書物もあり……一歩戸外に出れば、荒涼落莫たる無人の高原でありながら、部屋の中にいさえすれば、東欧羅巴文化の唯中に佇んでいるような、錯雑した気持を覚えたことを、今に忘れることができません。
ジーナに呼ばれて、リューマチに効くという温泉に入ったり、湯上がりの生き返った気持で芝生に佇んだスパセニアや、ユーゴの人形を抱いたジーナ、そして薔薇に埋もれたスパセニアなぞの、五、六枚の写真を撮りましたが、私はその後二年ばかりたって竦然とするような事件のために、身震いしてこれらの写真をことごとく燃やしてしまいました。
今この写真さえあれば、貴方にも御自身の眼で見ていただいて、私の話も信じていただけるのに! とつくづく残念な気がしてならないのです。
六
パパも喜んでますのよ、とジーナはいいましたが、その言葉に偽りはありませんでした。翌る日、二、三日ぶりで私は父親と居間で顔を合わせましたから、居心地のいいに任せてこうして、無遠慮に御厄介になっていて申訳ないと謝りますと、いやいやそのお礼は、私の方からこそと、父親は丁寧な調子でいうのです。
こんなところで何のおかまいもできないと、自分は忙しくて碌々お相手もできないが、貴方がおいでになって二人の娘が、どんなに喜んでるかわからない。あんなに二人が楽しそうな様子をしているのは、戦争以来初めてといっていいかも知れぬ。差し支えなかったら、幾日でもどうぞ、ゆっくり滞在していって欲しいというのです。娘たちの楽しげな様子を見ているほど、父親としてうれしいことはないのだからと、言葉を添えました。
そして、明日から山のことで自分はちょっと、長崎の鉱務署まで出かけなければならないが、そのついでに二、三人調査に連れて来なければならぬ人もあるので、四、五日留守をするが、その間もし遊んでいってもらえるなら娘たちもどんなに心強いか知れないというのです。初めて来て、どこの馬の骨だかわからない人間が、お留守に遊んでいって大丈夫でしょうか? と聞いてみましたら、わたしは何の取り柄もない人間だが、どんな人か? 偽りをいうような人かどうか? ということだけは自慢ではないが一目でわかるつもりだと、しまいには笑い話になりましたが、行き届いた人とみえて、親御さんが心配されているといけぬから、手紙をお書きなさい、わたしが明日小浜から出しておいて上げましょうということですから、この父親に手紙を頼んでおくことにしました。
さて、父親も翌る日出かけて、私はジーナやスパセニアとまたどんなに楽しい日々を過ごしたことでしょうか? 先生、貴方に同じようなことばかり並べ立てていても、仕方がありませんから略しますが、例の岬へも足を向ければ、湖水へもまた何度かいってみました。ジーナとスパセニアと馬を並べて、静かな湖の回りを散歩したり、豪宕な天草灘の怒濤を脚下に見下して、高原の夏草の間を、思う存分に馬を走らせたり……学校はまだ休暇ではないのです。ほんの十日ばかりのつもりで出かけて来た旅が、こんなにも遊び過ごしてしまって、早く帰らなければならぬならぬと心では、絶えず思いながらもつい一日のばし二日のばして、勧められるままにウカウカと、それからまた五、六日ばかりを、夢のように暮してしまいました。
私はこの話の初めの方で、この家はまるで千一夜物語の中の、迷路に呼び込まれた荷担ぎのような気がすると、申上げたような気がします。こうして遊んでいるうちに、そういう夢幻感は消え失せてしまいましたが、その代り今度襲うてきたのは日本の昔話にある、浦島太郎の物語でした。昔、浦島太郎は助けた亀に乗って、竜宮城へいって乙姫様に歓待されるまま、そこで何日かを遊び暮して元の浜へ帰って来た時には、白髪の翁になっていたといいますが、今の私の場合にも、何かそんな気がしてならないのです。しかも、そういう気がする一方、もしそうならそれでも仕方がないと、度胸を決めていました。ともかく、日一日と私はこの二人に惹き付けられて――二人というよりも、この二人の住んでいる世界にといった方がいいかも知れません。その世界の中に溶けこんでしまって、どうしても一思いにここを離れ去ることができなくなってしまったのです。
馬丁の福次郎や水番の六蔵や農夫たちが、二日おき三日おきに大野木へいった時に、取って来てくれますから三日遅れの新聞もあれば雑誌もありますが、そんな新聞雑誌に眼を通すでもなければ、ラジオや映画があるでもなく、近代感覚なぞというものは凡そ薬にしたくもない、こんな無刺戟な単調な山の中で、何が面白くてそう長く遊んでいられるのか? と、先生、貴方はお考えになるかも知れませんが、それがそうではないのです。
ここにいる限り、その日その日が夢のように楽しくて、まるで薔薇の花弁の中ででも眠っているような気がするのです。西洋の小説に、薔薇の花弁に包まれているような気がするとよく書いてありますがまったくそういう気がして、二人と一緒にいる限り毎日毎日がこの上もなく楽しいのです。しかもそれでいて、別段私はスパセニアの隙を見て、ジーナと二人切りになる機会ばかり、窺っていたというのでもありません。打ち明けていえば初めはいくらか、それも私の心の中にありましたが、二人と親しんでくるに従って一体私という人間は、どっちがほんとうに好きなのだか、自分にもほんとうの自分の気持が、わからなくなってきたのです。なるほどあの時はスパセニアに楽しい夢を破られたような気がしたのは、事実です。が、日が過ぎるにつれて、優しくて濃艶な姉もいいけれど……もちろん堪らなく魅惑的ですけれど、勝気で気品の高い妹の眸鼻立ちの清らかさにも、たとえようなく心が惹かれてくるのです。
結局、正直なところどっちがほんとうに好きなのだか、私にも見当がつかなくなってしまいました。ですから、もし、強いて無理に決めろといわれれは、欲ばっているようですけれど――先生、貴方は困った男だとお思いになるかも知れませんけれど、二人とも! と答えずにはいられなくなってくるのです。
朝早くジーナが、栗毛のプルーストを飛ばせて大野木まで、買い物にいったことがありました。その時私は二階の部屋で、友達へ出す手紙を書いていました。お邪魔じゃありません? と声をかけて、スパセニアが切ったばかりのカーネーションやアイリスや、薔薇の花なぞを持って上がって来たのです。枕許の花瓶に生けて、壁や柱の花筒に挿して、
「ここから眺めると、海が広くて、気持が晴れ晴れするでしょう?」
と縁側に佇んで、海へ眸を投げていました。その恍惚と眺めている、キリッと引き締まった横顔や恰好のいい鼻、愛らしく結んだ唇なぞを眺めているうちに……クッキリと盛り上がった胸や柔らかな腰の線に見惚れて思わず手紙を書く手をやすめてしまいました。ふと気が付いてスパセニアは、振り返ってにっこりと靨をうかべましたが、欄干にからだを凭せて、悪戯っぽそうに、聞いてくるのです。
「覚えていらっしゃる? こないだ溝渠を見にいらした時に、……わたし、ほら! 六蔵を探しにいったことがあったでしょう?」
「……そう……」と私はうなずきました。
「岸に腰かけて……木の幹に腰かけて、ジーナと随分長いこと、話してらっしゃったわね? ……何のお話、なさってらしたの?」
「何の話ってことも、ないですけれど……」
あの時、もうちょっとのことで、ジーナの手を握りかかったことを思い出して、私は赧くなりました。
「貴方は、知ってたんですか……?」
「どうしても六蔵が見つからないから、諦めて戻ろうとしたら、お話してらっしゃったでしょう? ですからわたし……お邪魔しちゃ悪いと思って、もう一遍六蔵を探しにいきましたの。ジーナと仲よく話してらっしゃるの、わたし、うれしかったから……もっと、話してらっしゃればいいって思って……」
「……別段……どうっていう話でもないけれど……貴方たちがユーゴから帰っていらした時のことや、長崎にいらした時分の話を聞いてたんです……」
「…………」
しばらくしてから、
「ジーナお好き?」と聞いてくるのです。
「そりゃ、僕……好きですよ……」
「ジーナも、仲よくして上げてね。ジーナは優しいいい人ですわ。誰にでも親切で、素直で……パパにも孝行で……よくできるのよ、学校なんか、いつも一番でしたわ……ピアノも上手ですし……ジーナのピアノ、お聞きになったことある?」
「いいえ……まだ……」
「じゃ、帰って来たら、聞いて御覧なさい……とても上手よ」
「貴方は……?」
「わたしは駄目なの、何にもできやしませんわ……」
私の方へ横顔を向けて、後は独語のように、「わたしは、優しくもないし……親切でもないし……戦争で滅茶滅茶になって、学校も何も止めてしまったし……」
オホホホホ、と今にも笑い出しそうに、悪戯っぽそうな声でしたけれど、その悪戯っぽい声の中に何か妙に、淋しさが籠っているような気がしました。
「……ジーナも、仲よくして上げてね……わたし、ジーナを幸福にして上げたいの……学校も何も止めたのに、わたし本が読めるようになったの、みんなジーナのお陰ですわ。……ジーナの恩は、一生忘れませんわ……ジーナと、仲よくして頂戴ね……」
「僕のできることは、何でもしますけれど……でも……僕は貴方も、好きだな……貴方のような方も、大好きだな……」
これはほんとうです。決して、ウソをいったのではありません。優しいジーナも好きですけれど、わたしは駄目、何にもできないのといってるくせによくできるという、勝気のどこかに淋しげなところのあるスパセニアも、ジーナに負けず劣らず好きなのです。
いつかジーナのいったことを、思い出しました。日本文字はジーナよりもっと読めないけれど、頭がよくて本国語や仏蘭西語ならば、今ではどんなムズカシイ本でも読みこなせて……そして作曲も馬の調教にもすばらしい天分を持って……もう今からでは遅いけれど、あれだけのすぐれた天分があったのに、戦争でこんな辺鄙なところに引っ込んで、才能を磨かせられなかったのが残念ですわ……ほんとうに残念ですわと、いつかジーナのいったことを思い出したのです。
しかもそれをいうとかえってスパセニアの方が、ジーナを慰めてくれるというのです。ピアノやヴァイオリンの奏法なら独学ではできないかも知れないけれど、作曲なら独学だって、山の中に住んでたって、できるわ。べートゥヴェンは聾になっても、作曲したわ。バヴロヴィッツは盲目で作曲家になったわ、わたしもなるわ……ひとりで勉強して山の中で作曲家になってみせるわ……。
バヴロヴィッツというのは、ユーゴ一といわれる作曲家だそうです。海風に髪を嬲らせている、繊っそりとしたスパセニアの姿を眺めているうちに、私は勝気なくせに淋しそうな娘の、美しいからだを力一杯抱き締めてやりたいような、またいつかのジーナに対するような熱情を感じました。
「ピアノができなくたって、学校なんかできなくたって、いいじゃありませんか、かまわないじゃありませんか! 貴方は綺麗なんだもの……おまけにそんな美しい心を持ってれば、誰だって貴方が好きになる……」
「わたし……なんか……誰にも、好かれやしませんわ……」
「だって……だって……僕は……僕は……貴方が好きだもの……」
「まあ! 貴方が? 貴方が……? ほんとうに?」
真っ赤になってうなずいた私を見ると、円にみはった眸の中から大粒な涙が、転がり出たと思った次の瞬間、身を翻してスパセニアはたちまち脱兎のごとく、階下へ駈け降りていってしまいました。そしていったかと思うと、気が違ったようにピアノの鍵盤が、鳴り出して……。
「いらっしゃいよう、いらっしゃいよう……早く、降りていらっしゃいよう! マズルカ弾いてますのよう! 踊りましょう」
と、狂ったような彼女の声が、響いてきたのです。その声を聞きながら、顔を赧らめながら私は、階段の上り口に茫然として突っ立っていました。もう一度くり返しますけれど、スパセニアに向って私のいったことは、みんなほんとうのことなのです。決して心にもないことを、いったわけではありません。
が、それでも何だか、スパセニアを釣ったような気がして、悪いことでもいったような気がして、しばらく私はぼんやりと突っ立っていました。もう手紙を続ける気もしなければ……さりとて彼女を追って行くだけの勇気はなく……と、申上げましたら、先生、貴方は私を、なんて情熱のない、老人臭い引っ込み思案な男だろう! と、お思いになるかも知れません。そして、そのとおりなのです。
ですからその時も、私自身、そう思いました。こんなに熱情は、私のからだの中を駈けめぐりながら、なぜもう一歩というところで私には、男らしく踏み込む気力が、ないのだろうか? そのただ老人臭く、自制心ばかりが湧いてきて! おそらくそれは、私の親が私のこととなると人一倍ヤカマシクてユーゴのどんな名流であろうとも、九州の片田舎に住む混血児の娘との結婚なぞを、許してくれるはずがないという諦めが、私の心のどこかに巣食っていたからかも知れません。それ以上の無責任なことをいって、相手を不幸に陥れまいとするばかりの警戒心が、絶えず私の心の中一杯に、とぐろを巻いていたせいかも知れません。ともかく小さい時から親に可愛がられ抜いて、我儘なくせに人一倍気が弱くて優柔不断な私には、もうそれ以上に踏み出すことが、どうしてもできなかったのです。そのくせ、自分ながら物足らぬ自分の性格に腹が立って、ぼんやりと突っ立っていたのです。
そして私は一体、スパセニアが好きなのかジーナの方が好きなのか? またもやわからなくなってきましたが、今思えばもしあの時、もっともっと突っ込んで、私が自分の意志を表明してさえいたら、あるいはこんな惨劇も起らなかったのではなかろうか、という気がしてなりません。それを考えて、すべてのことは、みんな私自身の煮え切らぬ性格から招いた罪のような気がして悔まれてならないのです。
と病人は昔のことを思い出したのか、苦しげに言葉を切った。
「お疲れならば、しばらくお休みになったらどうですか?」と私は勧めた。
「また後で伺った方が、よくありませんか?」
「いいえ、かまわないのです、どうせ同じことですから」と、病人はいった。
「じゃ、ちょっと、枕の具合だけ、直してもらいますから。……松下さん、ここを……」
看護婦が、枕の具合を直す。
「ともかくそういうわけで……」
と病人はまたボソボソと、話し始めた。
「私には、ジーナにも突っ込んだことがいえなければ、スパセニアにもそれ以上のことが、何にもいえなかったのです。ですからジーナもスパセニアも、あるいは私の態度が不満だったかも知れませんが、しかしその時は別段そういう素振りも見えませんでした。
そして私だけのつもりでは、姉妹と相変らず楽しい日を送っていたつもりでしたが、そうしてまたも四日ばかりもうかうかと送って、私がこの家へ来てから都合十三日ばかりも、日がたった頃のことのように思われます。
その時分に、大野木までいった水番の六蔵が、父からの手紙を齎してきました。スグに帰って来いという文面です。ほんの七、八日、長くても十日ぐらいのつもりで家を出て、母も心配し切っているし、そうそう学校を休んで遊んでいるというのも、ふだんのお前にも似合わしからぬこと。ともかくこの手紙を見次第、スグに帰って来い。もし何だったらこちらから、迎えを出してもいい。お前の御世話になっている石橋さんというお宅へは、ほんの心ばかりの品をお送りしておいた。よろしくお礼をいって、スグに帰って来なさい。
という手紙です。私は父や母の性格をよく知っていますから、知り合いになったこの家に、ジーナとスパセニアという、妙齢の美しい娘がいるということなぞは、絶対に洩らしてはいません。親の安心するように、家の立派なことや景色のすばらしいこと、そして主人が外国帰りの教養のある鉱山技師だというようなことばかりを並べたてていたのです。
が、それでも私の帰京が遅れれば、迎えを出すという騒ぎです。また実際、二十幾つになる息子に迎えもよこしかねない、子煩悩な親なのです。そしてその迎えでも来て、ここに混血児の娘たちがいて、それが今まで私の足を釘付けにしていたのだということなぞがわかったら、家中でどんな騒ぎを起さぬとも限りません。私は父の手紙を受け取って初めて、楽しい夢幻の世界から、また現実の儘ならぬ世界へ、引き戻されたような気になりました。ともかくその手紙を見せて名残は惜しいが一先ず帰京することに決めました。ジーナもスパセニアももうしばらくいらっしゃい……もうちょっとと引き留めて已みませんでしたが、そういうわけなら親御さんも心配しておいでだろうから、お帰りになるのも已むを得ぬ。その代り、夏休みになったらまたぜひ、遊びに来ていただいたらいいじゃないか……という父親の言葉に、不承不承承知して、途中まで送って来てくれることになったのです」
「それで、お帰りになったというわけですね?」と、私がうなずいた。
「そうなんです。……それで娘たちは、大野木まで送って来てくれたのですが……」
と、いいかけて、病青年は言葉を切った。
「そう、そう……一つ、いい残していることがありました。どうしても忘れられないのは、その発つ前の日に……そのことも、もう一つ、申上げておきましょう」
七
その父親からの手紙が来て、いよいよ帰ると決まったら、娘たちはやいやいいいましたが、結局父親が言葉を挿んで今いったとおり、帰ることにしました。が、それにしてもそう決まったら、もう一日だけ遊んでって下さいというわけで、中一日おいた明後日の朝早く帰ることに決めました。
そしてその翌る日は、いよいよ今日がお名残の日というので、また岬から工事場の跡、湖の畔まで姉妹と連れ立って、遊びに出かけましたが、その日はとても蒸し暑い日でした。いくら暑くても、まだ六月半ばですから、水が恋しくなるというほどでもありません。が、それでもいよいよお別れだというので、娘たちはどうしても例の、ウォーターシュートを実験して見せなくては、気が済まなかったのでしょう。
六蔵にいい付けて、到頭水門の扉を全部あけさせてしまいました。そして奔流のように流れ出てくる水の上へ、波乗り板と同じくらいの大きな板をうかべさせて、私にもぜひ乗ってみろ乗ってみろ! と勧めるのです。絶対に危険はないというのですが、逆巻く矢のようなこの急流を見ると、さすがに尻ごまずにはいられません。
「じゃ、わたし、やってみるわ!」とお侠なスパセニアがまず、上衣を脱ぎ始めました。誘われてジーナも笑いながら、無言で上衣を脱ぎ始めるのです。私には溝渠の傍らの道を下って一キロばかり下の第一の曲り角のところまでいって欲しい、そこで止めて岸へ上がって、一緒にまたこの道を戻って来ようというのです。
承知して私は道を下り始めましたが、姉妹は湖でボートでも漕ぎながら私が曲り角近くまで下ってゆくのを計っていたのかも知れません。私が三分の二くらいも下って来て、遥かの下方に曲り角を俯瞰すあたりくらいまで来た時に上流からまずスパセニアの姿が、ポツリと板に乗って視界に入ってきました。
段々に大きく、向うでも私の姿を認めたのでしょう、笑いながら手を振っています。間もなく姿は大きく、ついそこの上流に! 板の上に突っ立っているところを、見せたかったのでしょう。豊満な水着姿が、つと立ち上がったと見る間もなく、たちまち中心を失って、ドボンと水煙立てて!
ハッとして中をのぞきこんで見たら、慣れてるとみえて水に押し流されながら、また板に取り付いて這い上がりながら私の方を振り返って笑って、そのまま姿は曲っていってしまう。続いてこれも板に乗った、ジーナが! さすがにスパセニアのように、お転婆な真似はせず温和しく広い板の上に腰を降ろして、手を振りながらやがて曲っていってしまいました。姿は見えなくなっても私の眼の前から、今の二人の姿だけは消え失せないのです。なんという、人魚のような婀娜やかさだろうと思いました。頸筋、背、太腿も露に、真っ白なからだに二人とも水着を着けて、その水着がズップリ濡れてからだ中キラキラ陽に輝いて、すらりとしながら引き締まって均整の執れた手肢……恰好のいい胸の隆まり! 私に見せた笑い顔がまだ眼前に散らついて、私は喘いで胸で息をしたいような気になりました。
たださえ暑い陽が一層眩しく、じっとりと手足が汗ばんできて、痛いほど全身が擽り回されるような、気がしてくるのです。しかも茫っとしてものの考えられぬ頭で、ただばかのように私は結婚結婚ということばかり、思い詰めていたのです。スパセニアの肢体が眼の前で跳躍して、ドブンと水煙立てて……ジーナが婉麗な身体をくねらせ、手を上げて眼の前を過ぎてゆく!
しかも考えながら、一体どっちと結婚したらいいのか! もう私には、ジーナもスパセニアも、区別がつかなくなったのです。二人とも欲しい、いくら欲ばっていると考えてみても、堪らなく二人とも欲しいのだから、仕方がありません。艶麗は艶麗でいいし、凜々しいのは凜々しいので、堪らない。もし二人を持つことが許されないのなら、その一人でもいいから、早く欲しい! 早く、からだをクッつけたい! ……とは思いますけれど、もしどっちかを得たら残る一人にも、さぞ私は、心が惹かれるでしょう。ああこの二人とも、持つことができたらなア! と、私は肚の底から呻かずにはいられませんでした。
私が道を降り切らぬうちに、二人とも曲り角で混凝土の側壁へ這い上がったのでしょう、やがて私にはわからぬ母国話で、嬌声を挙げながら、縺れ合って小径を上って来ました。
「ねえ、面白かったでしょう? ……とても、すごいでしょう? ……でも、まだ少し、冷たいわねえ! 夏おいでになった時は、御一緒に貴方も、しましょうね。あら、イヤーよ、ジーナ! そんなに水を跳ね返しちゃ!」
私は二人と、口をきく気にもなれません。ただ、からだ中をのたうっている息苦しさ悩ましさに、胸を喘がせ切っていたのです。二人とも、軽そうな水浸しの運動靴で、ピチャピチャと土を濡らして歩いています。悩ましい肢体を惜しげもなく陽に晒して、海水帽を除ってキラキラと黄金色の髪を振り乱しながら……その二人に囲まれて、ただ私は黙々として上気し切っていたというよりほか、いう言葉がありません。
今でも私は、そう思っているのです。もしスパセニアがいなくて、ジーナとただ二人だったならば、おそらく私は前後の見境もなく、ジーナをネジ伏せてその場に思いを遂げてしまったでしょう。同じこと、もしジーナがいなくてスパセニアだけだったとしても、私にはスパセニアをあのままのからだにはしておけなかったに違いありません。
水へ入るのは、まだいくらか肌寒く、歩くには暑いさんさんたる太陽の直射を浴びながらただもう夢中で、私は肉の疼きだけをモテアマシ切っていたのです。そしてやっとのことで、湖の水門のあたりまで辿り着きましたが、まったく私にはもう、窈窕も凜々しさもお侠も淑やかさも何もかもが、一切合切区別つかなくなってしまいました。
ともかく二人揃っているばかりに、辛じて私は理性を奮い起して、不躾な真似もせずどうにかこうにか最後の一日も、楽しく送ることができましたが、さてその翌る日発つ時には、父親は門口まで、そしてジーナとスパセニアは四里離れた大野木村のバスの乗り場まで、私を送って来てくれました。私にはイルシューという赤毛の一番温和しそうな馬を、スパセニアは例の白馬を、そしてジーナは栗毛のプルーストの鼻面を並べて……話といって何にもありません。来月夏の休みになったら、きっとスグいらしてねえ、とただそれだけのことを思い出したように、何度も何度もくり返しているだけです。随分長いのねえ、まだ今日から三十何日もあるわ! わたくし今日から一枚一枚、カレンダーに記けとくわ! とジーナが淋しそうにいうのです。いよいよ大野木の乗合の乗り場に着いてから小浜まで三里、麦畑と切り断ったような断崖の間を、乗合は走っているのです。二人が心を込めて作ってくれた弁当を持って乗り込むと、停留所の前に馬を停めて、ジーナは私の乗って来たイルシューの手綱を控えて手をふっています。側にはこの十二、三日の間に、すっかり馴染になったペリッチが畏まって尾を振っています。そして、スパセニアの姿が見えぬと思ったら、馬術の名手といわれる彼女は今馬を煽って、動き出した乗合の後からまっしぐらに、追って来るところです。
乗合が速さを増すと、同時にスパセニアの馬も、砂塵を蹴たてて追って来ます。私の車と摺れ摺れに駈けながら、片手を伸ばして車の窓硝子を叩いているのです。やっと窓をあけると投げこんだのは、いつも胸につけている大きな銀の襟飾りです。髪をなびかせながら大声に何か、叫んでるようでしたがそれはもう、聞こえません。車は急に、速力を増してきました。さすがにスパセニアの姿も、見る見る遠ざかって、それでもまだ必死に馬を飛ばせながら、鞭を持った手を狂気のようにふっています。それに答えているうちに、車はカーブを切って石礫だらけの山角を曲って、到頭姿は見えなくなってしまいました。
私は襟飾りを拾い上げて、やっと座席に座り直しましたが、これが二人との別れだったのです。眼を閉じると今でも手をふって、別れを惜しんでいたジーナの姿が、ありありとうかんできます。馬上に身を伏せて、必死に手綱を絞っているスパセニアの姿も、ありありとうかんでくるのです。しかもその時私は、この別れがこんな凄まじい結果を齎そうなどとは、夢にも思ってはいませんでした……。
八
東京へ帰ってからも、どんなにこの姉妹の俤が、眼の前に躍って離れなかったか知れません。うかうかと、大分遊び暮してしまいましたから、帰って来れば、スグ学校へ出なければなりませんし、友達からノートを借りて遅れていた講義の整理もしなければならず、一週間十日は、眼の回るような忙しさでした。
が、その忙しい間も、あるいは従妹たちが遊びに来て家中で食事している時も、一緒に笑いもすれば、また従妹が何か聞けば、受け答えもしていましたが、心の中では寸時も忘れずジーナとスパセニアの俤を偲んでいたのです。
父も母もハッキリと、口へ出したわけではありませんから、あるいはこれは私だけの思い過ごしかも知れませんけれど、父母は行く行くはこの従妹を、私と結婚させるつもりでいたのではないかと思われました。どうもそういう様子が仄見えるのです。
そして私も、別段この従妹が嫌いというのではありません。今までは綺麗だなと思ってもいましたが、それは、九州へ出かけるまでの話であって、あの二人に逢った後は、まったく事情が異なってきたのです。
この従妹なんぞ、あの二人に較べれば月と鼈ほどの違いです。私には、上手に女の比較なぞはできませんが、姉のジーナは靨を刻んでパッと眼が醒めるように艶麗ですし、スパセニアは大空の星でも眺めるように、近寄り難い気品を漂わせて、ほんとうの美人というのは、こういうのを指すのだろうかという気がします。二人とも卵を剥いたようなすべすべの皮膚をして、どんな点を較べてみても、こんな従妹なんぞ問題ではないのです。そして変なことをいうようですが、ジーナの前へ出ても、スパセニアと話していても、私は堪え難い情欲に悩まされました。しかも悩まされながらその情欲が、また何ともいおうようなく生き甲斐というか、充実した人生というようなものを、私の胸一杯に感じさせていたのです。が、こんな従妹となぞ、小半日鼻突き合わせていても、そうしたものの片鱗さえも感じはしないのです。私はまったくもう、あの二人に捉われ切っていました。
ともかく夏休みになったら、夏休みになったらと、半月後に来る夏休暇を、どのくらい待ち焦がれたか知れませんでしたが、困ったことに休暇に入る四、五日前から、身体の具合が思わしくなくて、到頭寝込んでしまいました。
以前に患った肋膜の再発だと、医者はいうのですが、ただ再発だけなら、親もそれほどは驚かなかったかも知れません。が、左肺がかなり進行しているから、絶対安静にしろ! といわれて、レントゲンだ、ほら血沈だと、母なぞは今にも死ぬような心配をしているのです。
暑い間は、伊東の別荘で寝て暮すことにして、行くのにも自動車を徐行させて、牛の這うようにノロノロと……車中で寝ていられるように、扇風機を取り付けたり、氷柱を入れさせたり、引っ繰り返るような騒ぎを演じているのです。その親心を、有難いと思わぬではありませんが、こんな病気くらい、一思いに九州へ飛んでいって、ジーナやスパセニアと馬の二、三回も走らせれば、スグ癒ってしまうのに! と、その時も儘ならぬひとり息子の身の上を、どんなに小五月蠅く感じたか知れませんでした。
到頭その夏は、秋風が立って十月赤蜻蛉の飛び交う頃まで、体温計と首っ引きで、伊東で寝て暮してしまいました。気候がよくなってから、やっと東京へ戻って来ましたが、医者がヤカマシクいうものですから、その翌年の四月頃までも、寝ていましたでしょうか?
今に起きられるようになったら、今年の夏こそどんなことでもして、二人に逢いに行こうと寝ながらもそのことばっかり考えて暮していましたが、せっかくよくなったと喜んだ甲斐もなく、暑くなりかけてきた二月後の六月半ば頃から、またからだの違和を感じて、父と母の厳命で、その年の夏から秋へかけては、到頭七里ヶ浜の湘南サナトリウムで、懊悩しながら療養の日を送ってしまいました。
来月休暇になったらスグ訪ねると約束して、二人に見送られて大野木から発って来たのが、去年の六月の十四日……休みになっても到頭行くことができず、また今年の夏も行くことができず、さぞ二人が待ち切っているだろうと思うと、寝ていても気が気ではないのです。
永い秋の日を、一日一杯寝椅子で安臥している病院生活の間中、寝ても醒めてもただうつらうつらと、日となく夜となく頭の中で私にほほえみかけてくるものは、ただジーナとスパセニアの二人だけだったと申上げたら、その時の私の焦慮と焦心が察していただけるかも知れません。そして、頭を掻きりたいほど、ただ自分の意気地のないからだが……、いいえ、からだというよりも、二十三にもなる大の男の身でありながら、自分の思うに任せぬひとり息子の身の上を、どれほど情けなく思ったか知れません。
そんなに気を揉んでいたのなら、行くことができなければ、せめて、手紙でもどんどん出してたらいいじゃないかと、先生はお思いになるかも知れませんけれど、相手があの二人の場合には、手紙ということがまったく私には、不可能に近いのです。
というのは、日本へ来ている外人たちと同じくジーナでもスパセニアでも、聞くこと話すことは、日本人と寸分変りない流暢さですが、字だけは全然読むことも書くこともできないのです。
漢字はもちろん、平仮名さえムズカシクテ、一字も読めません。わずかに、片仮名だけがどうかこうかわかる程度……、尋常一年生の書いたような字で、一時間もかかって、やっと七、八行も綴り得る程度だったでしょうか? その代り仏蘭西語なら本国語同様自由自在でしたが、その仏蘭西語は私にわからず、私にわかる英語、独逸語はまた二人に通じませんし、手紙となっては、いかんともお互いに意思の通じようがないのです。仕方がありませんから、どうかこうか通じると思われる片仮名で、私は看護婦にも頼み、自分でも時々手紙を書いてみました。
が、本字を一字も使わずに、片仮名だけで書くということが、外国語を使うよりも、どんなにムズカシクテ、はかの行かないものであるかということは、先生もよくおわかりでしょう? 二、三字書くと、本字が出て、慌てて消し、また三、四行続けると、本字や平仮名が出てその部分を消し、消しては書き、消しては書きして真っ黒になって、仕方がありませんから清書して出すのですが、これでは到底詳しい事情や、こまかい意思なぞの現わせるものではありません。
ワタクシハマタベウキ……ハはワでなければならず、病気もベウキと書いては、二人には判じられないのです。ビヨウキと直さなければなりません。ココノベウインニニユウインシテイマス……ただそれくらいのほんの切り詰めた用件を知らせるだけが、精一杯です。
「ベウインじゃ駄目だ、ビヨウインと書かなきゃ駄目だといってるじゃないか!」
と、何度癇癪を起して、私は看護婦をドナリつけたか知れません。
早く逢いたい! 逢いさえすれば、アレもいおう、コレも話そう……ついでに、片仮名で手紙の書けなかったわけも話そう……と諦めて、私はペンを投げ棄ててしまいました。逢って話しさえすれば二人ともほほえんで、造作なくわかってくれることなのですから……。
そのワタクシハの、ハの字を消して、ワと書き直して、ワタクシワマタベウキを消してビヨウキと書いて、コノベウインヘをまた消して、ビヨウインエ……と直した消しだらけの手紙を出すと、ジーナやスパセニアからもまた、お手本でも見て書いたらしい、尋常一年生のような手紙が来ます。
時々、ABCとも亜剌比亜文字とも[#「亜剌比亜文字とも」は底本では「亜刺比亜文字とも」]つかぬ日本にない大変な恰好の片仮名が交って、おまけにあちらこちら消しだらけなのですから、いくら懐かしがってみても、どうしてもその意味がわからないのです。向うでも私の手紙を見て、頭をヒネッテいたかも知れませんが、私も二人の手紙を見てわけがわからないところばかり、両方で苦労しながら、とんちんかんな手紙のやり取りばっかりしていました。
この頃では二人とも苛れて、六蔵か馬丁の福次郎にでも書かせるのか、時には一層読めぬ、恐ろしくたどたどしいくせに、妙にいかめしい葉書が飛びこんで来てみたり……、逢えばわかるんだとばかり、到頭私はこの面倒臭い手紙に匙を投げてしまいました。姉妹からは、相変らず手紙の催促が、時々来ます。が、ただ幸いなことには、このたどたどしい字のお陰で、いくら手紙をよこしても、母には、姉妹の年の判別だけは少しもつきませんでした。
「オテガミクダサラナイノデ……ワタクシタチ……マイニチシンパイシテオリマス……ドウナサツタノ……デスカ……」と判じ判じ読んで、オホホホホホホホと、母は笑い出しました。
「お前の御厄介になっていた石橋さんとかいう外国帰りの技師の方のお家には、可愛いお嬢さんがいらっしゃるとみえるね。おいくつ? ……一年生でもないだろうけれど……自分で葉書が出せるんだから、尋常二年生くらいか知らねえ……?」
と見舞いに来た母は、枕許の葉書を取り上げて、可愛らしがっていました。尋常二年生どころか! この笑っている母が、実物を見たが最後、いずれも花を欺くような美しい混血児と知ったら、腰を抜かしてしまうだろうと、私は苦笑せずにはいられませんでした。
飽き飽きするほど、退屈な病院の生活から解放されて、やっと私が家へ帰ったのは、その年の暮れ頃でしたでしょうか? 大晦日近くに帰って来て、翌年の三月時分頃まで家でブラブラして、四月の新学期から許されて、やっとどうやら学校へも通えるようになりました。が、学校へ通えるようになった私の第一の喜びは、自分の健康の回復したことでもなければ、また学業が継続できるということでもありません。おそらく親は私の深い心の底は知らなかったでしょうけれど、起きられるようになって有難い! 今年こそあの二人にも逢いに行けるぞ! ということばっかりだったのです。
病気のことばかりクドクド申上げて、先生はおイヤだったかも知れません。もう簡単に切り上げますが、そうして夜となく昼となく思い詰めながら、二度の夏を……一昨年と去年と、二度の夏を送ってしまったちょうどその時分から身辺に時々妙なことが起ってきたのです。
四月の新学期からまた学校へ通っていましたが、ある日探したい本があって神保町の東京堂までいったことがありました。あすこは狭い通りに混み混みといつも人が雑踏しているところですが、今店へ入ろうとした途端、呀っ! と思わず叫びを挙げました。スグ前の人混みを行く五、六人連れの向うに、一人の婦人が! おう! ジーナだ、ジーナだ! ジーナが歩いている! と私は躍り上がりました。どんな服を着ていたか覚えもありませんが、繊細とした腰といい、縮れた亜麻色の髪……恰好のいい鼻……口……横顔……ジーナそっくり、いいえそっくりといったのでは当りません。間違いもないジーナその人なのです。決して、私の見誤りではないのです。
なぜ一言の知らせもなく、東京へ来ているんだろうか? 東京へ来ていながら、知らせてくれもしないのか? もうそんなことは、考える余裕もありません。
「ジーナ」
と夢中で人波を分けて、追いかけました。
私のところから幾らも離れてはいないのです。直径にして、ほんの五、六間ぐらいのものだったでしょうか? 笑いながら道を塞いでいる四、五人連れの大学生の間を摺り抜けて、手を曳かれた子供を突き飛ばしそうにして、あっちにブツカリこっちを摺り抜けた時には、ジーナはまた五、六間向うを歩いて……。
「ジーナ、ジーナ」
と見栄も外聞もなく大声を上げて、やっと角の救世軍の煉瓦建ての前あたりを歩いているところへ追い着いた時には、どこへ曲ったのか? フッとその姿は消え失せてしまいました。どこかの家へ入り込んだのか? と、その辺の店をのぞき込んでみたり、横丁へ駈けてってみたり、また引っ返してしばらくはぼんやりと、狐につままれたように、そこに佇んでいました。ただガヤガヤと目眩しく雑踏して、白昼夢のように取り留めもない騒がしさばかりです。
姿を見失った淋しさは、食い入らんばかりの寂寥を伝えてきましたが、もともと、九州の山の中にいるジーナが、こんな東京の真ん中になぞ、いるはずもないことですし、いわんや、東京へ来るという一言の挨拶もなしに! やっぱり心の底で考えてるから、こんな錯覚が起るのか知ら? と、苦笑しいしい帰って来た時の気持を、今でも忘れることができません。
九
が、苦笑はしても、ジーナが東京にいるはずがないとは思いつつも、今でもその時のことを思い出しさえすれば、どうしても私にはあれが単なる私の幻覚や人違いだったとは、絶対に考えられないのです。キラキラした髪……挙措、恰好……ちらと横から見た、睫毛の長い眸……優しい頤……決して決して、私の幻覚や見誤りなぞでは、ないのです。しかもジーナが東京にいるはずはなく、こんな奇怪なことがまたとあり得ることでしょうか?
早速私は、大野木郵便局気付で、ジーナへ電報を打ちました。まだそこにいるかどうか? そして返事は電報でなく、手紙で欲しい! と父母の眼を憚って書いてやりました。が、いくら待っても到頭返事は来なかったのです。しかも、その返事も来ないうちに……無理にコジツケテ、ジーナはあるいはその時の私の幻覚だったかも知れないとしても、それならばその電報の返事も来ないうちに、またもや起ったもう一つの不思議な出来事は、それも私の幻覚なり錯覚だと、いうことになるのでしょうか?
父はまだ銀行から帰らず、母もその時どこかへ出かけていました。そして、そろそろ夕闇の迫る頃だったと思います。私はテラスの椅子に凭れていました。バタバタバタバタと小走りに何だか玄関の方が、騒がしい様子です。
「何だい? 幾! どうしたんだい?」
と私は、廊下を通りかかった女中頭の幾に聞いてみました。
「何を騒いでるんだい?」
「厭でございますねえ、若様!」
と幾は恐ろしげに首を竦めました。
「若い女が泣きながら、お邸の中を覗いてるんだそうでございますよ」
「若い女が? どうしてだい?」
「さ、どうしてでございましょうか? 二、三日前にも、薄闇くなってから門の前に立って、じろじろお邸の中を、覗き込んでたそうでございますがね。……またその女が覗いてるとかって……みんなで、騒いでるんでございますよ」
「……へえ! フウン」
と頷きましたが、別段私の心を打つ何ものでもありません。
「とても綺麗な、混血児のお嬢さんですとか……」
「何? 混血児?」
途端に私は椅子を蹴って躍り上がりました。いつかのジーナを、思い出したのです。
ジーナが来ている……私に逢いたくて、泣いている! テラスを飛び降りて、奥庭の柴折り戸を突っ切って、どこをどうして門の砂利道まで躍り出たか覚えがありません。夢中で飛び出して、門の柱に身を寄せた女と眼が合った途端、おう! スパセニアだ! と私は大声を上げました。ジーナではありません、スパセニアだったのです。
しかもそのスパセニアが、私の姿を見ながら、確かに私と真正面に顔を合わせながら、懐かしむどころか! 涼しい眸に、憤りとも怨みとも付かぬ非難の色をうかべて、涙ぐみながら唇を噛み締めて、じっと睨み付けているのです。
「スパセニア、スパセニア!」
と私は門前へ躍り出しました。が、不思議にも! その時はもうスパセニアの姿は、掻き消すように、見えなくなってしまったのです。
「スパセニア! スパセニア!」
と狂気のように私は、右手の坂を駈け降りて見、また左手の坂を駈け降りて見……私の家は、三番丁と五番丁と両方の坂の上に建っている、高台です。が、何としてもスパセニアの姿は、見当りません。ただ、ひたひたと濃い黄昏ばかりがあたり一面に垂れ込めてくるばかりでした。
が、今一瞬の間に顔を合わせたスパセニアの映像だけは、網膜深く刳り付いて、忘れようとしても忘れられるものではありません。上品な黒のアストラカンの外套を恰好よく着こなした、スッキリとした姿! 屹っと見据えていた切れ長な眸許……口惜しそうに涙ぐみながら、睨み付けていた姿!
なぜスパセニアは、私を睨んでいたのだろうか? 何を私は、スパセニアに怨まれるようなことを、したというのだろうか? ともかくジーナもスパセニアも、東京にいることだけは、間違いない……返事の来ないこないだの電報のことを思い出して、その解けぬ謎を考え倦ねながら、私はいつまでもいつまでも薄暗の中に突っ立っていました。
「ハッキリとは記憶しませんが、それは何でもジーナに逢ってから五、六日の後、四月の二十五、六日頃ではなかったかと、思います。その時そんな凄まじい事件が、姉妹の上に起ってようなぞとは夢にも私は……し……知らなかった……の……です……」
と青年の言葉が、糸のようになって消える……。
「おや! どうかなさいましたか?」
と私が覗き込んだ刹那、突然青年は、さし俯いた。ゴホゴホと絶え入れるように咳入って、片手がまさぐるように、枕許のハンカチへ行く。苦しげに口許を抑えたハンカチへ、突然べっとりと真っ赤な血が!
「ど、どなたかいられませんか? 早く、早く、来て下さい!」
私の喚いたのと、隣室から二人の看護婦の駈け込んで来たのが、同時であった。続いて真っ赤なものがまたどっと! 喀血であった。大喀血であった。
「江崎さん、早くその注射器を! 大丈夫、大丈夫! スグ納まる……貴方は氷を砕いて来て! ……じっとしてらっしゃい、じっとして……しばらく、じっとしてらっしゃい」
夢中でオロオロしてたから、もはや私はそれからのことを覚えない。物慣れた看護婦が注射をして、病人を安臥させる。これではもう、話も何もあったものではない。あんまり話に身を入れ過ぎたのが、いけなかったのか? 長い話が、身体に障ったのか? 遠慮して階下へ降りようとするところで、階段を急いで来た母夫人と、女中頭に出逢った。
「恐れ入りますが、しばらく応接室の方で……幾や、御案内申上げて……!」
この取り込んでいる最中に、もはや話も何も、あったものではない。喀血の後では、当分の安静も必要であろう。他日を期して私は帰路に就いたのであったが、この病人が亡くなったのは、その時訪ねて三日ばかり間を置いて、もう一度訪ねたから「都合二回の私の訪問の後、おそらく一週間か、十日目ぐらいではなかったかと思われる」と、最初に私の書いたその第一回の訪問はここまでなのである。
続いて第二回の訪問……来て欲しいと、また車をもっての迎えであったから、もう具合は直ったのか? 少し早過ぎはしないのかな? と眉を顰めながらも、約に従って第二回の訪問をする。
「若旦那様、お薬の時間でございます」
と、次の間から看護婦が薬の盆を捧げて来た。それを済ませて、仰臥しながら、病人はまたこないだの続きを話し出す。話の方によほど気が急くのであろう? どうも顔色が悪い、土気色をして、もうこれは生きてる人間の顔色ではない。それに息切れが眼立って酷い。もうしばらく話をせずに、安静にしていた方がいいのではないか? と気になるが、病人の精神の安らぐ方が第一だから、余計なことはいわずに、またこないだのとおり耳を傾ける。
「こないだは、どこまで申上げましたでしょうか? ……幸い、四月からまた学校へ行くことができるようになりましたというところまで、お話したような気がします……」
もうしばらくの間話をせずに、安静にしていた方がいいのではないか? とどうも気になって仕方ないが、仕方ない、耳を傾けることにする。そこで四日前の話の続き!
「……今度は、どうやら懸念していた梅雨時も無事に通り越すことができました。木の芽時といって、私のようなからだには、入梅頃から新緑へかけての気候が一番いけないのですが、どうやらその時季も無事に通り越して、待ち切っていた夏休暇も迎えることができました。
休暇に入ればもちろん、私にとっては九州が第一の問題です。が、去年も患い、今年もまた患ったこのからだでは、どんな理由をつけたからとて日帰りならともかく、一週間十日に亘る単独の旅行なぞに、父母が出してくれようはずがありません。何とか親をゴマカス旨い手段はないかと、伊東の別荘へ行けと勧める母の言葉を渋って、無理に東京で考えこんでいたのですが、偶然にも、父が休暇を取って、道後の温泉へ行くことになったのです。道後ならお前のからだにもいいしということになって、二週間ばかりの予定で、父の供をして行くことになりました。どんなに私は、それを喜んだかわからないのです。
父ならば母ほど喧しいこともいいません。母はまるで十二、三の子供くらいにしか私を扱いませんが、父は、もう少しは私に理解も持ってくれれば、一人前の大学生としても扱ってくれます。母と離れて暮す二週間……この間に何とか父に頼んでみようと思いました。そして、道後へ着いてからも、毎日毎日退屈な日を、父の謡を聞かされたり、碁の相手をいいつかったりして暮しながら、何と父に持ちかけようか? とその機会ばっかり窺っていました。
道後へ来てから、五、六日もたった頃でしょうか?
「どうだ退屈したか?」
「退屈はかまいませんけれど……お父様! 僕は少しお父様に、相談があるんです。……友達のところへ、ここへ来てるといってやったら、ここまで来てるんなら、寄ってくれたっていいじゃないか? といって来たんです。僕、いって来てもいいか知ら?」
「いって来たらいいじゃないか!」
と、父は好きな唐詩撰を読んで、殊に機嫌がいいのです。
「だっていけばスグには帰れませんから、三日ぐらいかかりますよ、かまわないか知ら?」
「三日?」
と初めてびっくりして本から眼を離しました。
「なんだ、ここじゃないのか?」
「山口県の宇部というところなんです。一緒に宇田中の温泉へ行こうと、楽しみにして来てるんです。特別親しくしてるもんですから……」
「宇部とは遠いのう! お父さんひとりスッポカシテ、そんなところへ行かんだっていいじゃないか! お母さんだって、お前ひとりやれば心配されるだろうし……」
「もう、僕だって子供じゃなし……お母様は、あんまりいつまでも、子供扱いされるんで、困るんです! お父様は、わかって下さるけれど……」
「お前が大切だから、アレもつい、度を過ごすのだろう。ま、お父さんは、もう一人前の人間と思うとるから、あまりこまかいこともいわんようにしとる」
行ってよろしいともいわず、行ってはならぬともいわず、有耶無耶のうちに到頭無理やりに父の承諾を得た時は、どんなに躍り上がったか知れません。まだ煮え切らずに、何も夜になるところを眼がけて行かなくともいいじゃないか! 明日の朝行けばいいじゃないか! と止める袖をふり払って私は、父の気の変らぬうちに飛び出してしまいましたが、考えてみればあれからちょうど二年と三カ月……、ジーナもスパセニアも、どんなに待って待って待ち抜いていたかと思えば、逢わぬ先からもう心は、遠く南九州の空へ飛んでいました。
長崎急行に乗り換えて、宇部も宇田中もクソもあったものではありません。それからは一直線に長崎へ! この前は、島原から雲仙へ出て、山道を歩いて東水の尾へ出ましたが、これは偶然のまぐれ当りです。今度はもう道を知っていますから、長崎からまっすぐ小浜へ! そして一刻も早く二人に逢いたい一心に、気もそぞろにタクシーを急がせて、大野木村を経て、あの二年三カ月前に、三人で馬を並べて下った四里の道を、今度は逆に東水の尾へ登っていったのです。
この前のとおり、大野木を出端れるともう、人っ子一人の姿も眼に入りません。登るに従ってやがて車の左側に、例の混凝土の溝渠が蜿蜒と列なっているのが見えます。山の陰に隠れたり、また姿を現したり、さらに半道ばかりもいったところで、道は一町ばかりこの溝渠と並行して走ります。そして一段低く、溝渠の中は、車窓から見下ろせます。
おや! と私は眼を瞠りました。この前三人で水遊びをしたのは、六月の始め頃、飛沫を浴びるとまだ鳥肌だつ頃だったのです。今は七月も過ぎて八月の五日……茹るような暑さです。溝渠はさぞ満々たる水を湛えて走っていると思いのほか、なんと一滴の水もなく、カラカラに乾き切って混凝土の底は、灰色の地肌を見せているのです。しかも底には処々黒い土がこびりついて、そこには雑草が生い茂っているのです。ということは、ここ半年にも一年にも、水なぞは一滴も通ったことがないという証拠です。どうしたんだろう? と私は名状し難い不思議な気持に打たれました。
溝渠はまた道から離れて、やがて山の向うに入ってしまいました。そして、車はいよいよ雑草の茂るに任せた、高原地帯へ踏み入って来ました。右手遥かに海が咆え、やがて断崖の上に張りめぐらした鉄鎖らしいものが眼に入ってきます。
「そうだ! そこを左の方へ曲って……もうちょっと行ったところで……そこだそこだ! そこを右手へ曲って、もう一度左へ行って……」
「この辺にゃ、誰も住んじゃいねえんですかい? ……酷く荒れたところですな……こんなところは来たこともないが、旦那、こりゃ何方かの、地所内ですかい?」
その道もない草の中を、あっちへ行き、こっちへ曲り、二年昔の朧な記憶を呼び起してやっとのことで、例の、向うに赤松の丘を眺める、ホテルの建築場跡の広場へ辿り着くことができました。鉄梁や鉄筋の残骸があり、鉄柱が峙ち以前と何の変りもありません。ただ相変らず人気のない淋しさのみが、沈々として身に迫ってくるばかりです。
「ほう! こんなところになア……こういうものがなア……へえ!」
と車を降りて来て、運転手も感に堪えて、穴の端に佇んで工事場跡を眺めています。
十
ここで車を返して、私は彼女たちの住居の方へ足を向けました。もう、そう遠い道ではありません。期していたこととはいいながら、寂寥とも寂莫とも、何ともかともいいようのない孤独さです。ただ夏草だけが、人の胸のあたりまでも茂って、松の梢を鳴らしてゆく風の音が、魂に沁み入るような気持です。
が、目前に迫った彼女たちとの再会に胸を躍らせて、別段私は淋しいとも思いませんでした。淋しいどころか! 今日来るとも予期していない彼女たちの背後へ回って、ワッと驚かせてやる時のことを考えると、喜悦で胸もハチ切れんばかりの思いです。優しいジーナは、あの艶やかな眼に涙ぐんで、凜々しいスパセニアは、涼しい瞳に一杯涙を溜めて、さぞびっくりして喜んでくれるでしょう。
鬱蒼とした山の陰が、いよいよ眼の前に近づいて、いつか初めてスパセニアに連れられた、あの白砂利の道に出て来ました。左手へ曲ったそこに、いよいよ御影石の舗道が見えて……、もう歩いているのももどかしく、私は走り出しました。
見覚えのある太い門柱が、陽を浴びて立っているのが眼に入ってきました。叫びたいのを我慢して、一気に駈け上って行った途端……呀っ! と叫んで、私はへなへなと崩おれてしまいました。見よ、見よ! あの瀟洒な家が全部燃え落ちてしまって! ただ二本の門柱と鉄柵のみが、悄然と立っているばかり……そして焼け跡には、混凝土の土台だけが残っているばかり! 眼に入る限り、荒涼とも落莫ともいわん方ない、ただ無残な一面の廃墟です。
茫然として私は、突っ立っていました。やがて気が付いて、中へはいってみました。真っ黒に焼けた柱の燃え残りが、あちらこちらに不気味に突っ立って、テラスの混凝土の床だけが残っているのが、何ともいえぬ凄惨さです。
よほど火の回りでも早かったのでしょうか? ことごとく焼失して、在りし日のあの豪奢さ、瀟洒なぞというものは跡形もありません。しかも焼け跡を歩き回ってるうちに、またもや私はおや! と眼を峙てました。
焼け跡には、名も知れぬ雑草が一杯にはびこって、白、黄、紫の小さな花をむすんでいるのです。とすれば、ここが焼けたのもまた、昨日や今日のことではありません。何カ月か以前……尠くとも半年やそこいらは、過ぎているはずです。さっき来る時に見た、あの溝渠の底に雑草が茂っていたことといい、何かそこに妙な関連があるような気がします。
そうするともう彼女たちも父親も、ここには住んでいないのでしょうか? やっぱりみんな、東京にいってしまったのでしょうか? それならなぜ私に、住所を知らせてよこさないのでしょう? 人に知らせもくれないで……! が、突然五月ばかり前、スパセニアから受け取った葉書を思い出しました。あの夕方門の前に佇んでいた以来は、何の消息もありませんが、しかしその五月前の葉書には、確かに南高来郡大野木村郵便局留置と、いつもの住所が書いてあったのです。と、すれば、二人ともやはりこの辺のどこかに住んでいるはずです。その葉書には、いつものように、ゼヒゼヒイラシテクダサイ、オマチシテオリマス……と書いてあったのです。
来い来いといったところで、新しい住所を教えてくれなければ、訪ねて行けないじゃないか! と一瞬私は、腹立たしい気になりました。焼け跡に何か、立ち退き先でも残してないか? と調べてみましたが、それらしいものも見当りません。ともかく、こうなれば、どこに彼女たちが住んでいるかを探すことが、第一の急務です。ああ、自動車を返すんじゃなかった! とじだんだ踏みたいような気になりましたが、いくら後悔したからとて、もう追っ付くものではありません。
が、その瞬間、また突然頭に閃いたのは、ゼヒゼヒイラシテクダサイ、オマチシテオリマスという葉書も、そのまた前の葉書も手紙も、ことごとく東京で、ジーナやスパセニアの姿を見た以前のものばかりで、それ以来は何にも受け取っていないということだったのです。
家が焼けたことといい、殊に焼け跡や、例の溝渠に夏草の茂っていたことといい、それらに結び付けて、何かジーナやスパセニアの身の上に間違いでも起っているのではなかろうか? と、急に、いても立ってもいられぬ不安な気が起ってきたのです。
道後を夜発って、東水の尾へ着いたのが翌々日の朝の九時頃でした。眩かしい太陽のかんかん照りつけている長い夏の一日を、どんなに夢中になって私が、その辺一帯を足を棒にして歩き回ったかは、到底先生にも想像していただけないであろうと思われます。
いつか姉妹に最初に案内された厩舎へもいってみました。これは以前のままに残っていましたが、もうそこに馬は、一頭もいませんでした。ガランとした煉瓦建ての厩のみが、真昼の直射を浴びて立っているばかりです。厩舎に付属した和室には、馬丁の福次郎が住んでいると聞いていましたから、そこの戸も引き開けてみました。が、誰も人の住んでいるけはいはありません。キチンと片付いて、何一つ道具とてもない黴だらけの琉球畳だけが、白々と光っているばかりです。
ジーナと語り合った柳沼へも、足を運んでみました。湖の面は、相変らず肌寒い水を漫々と湛えて、幽邃な周囲の山々や、森の緑を泛べて、あの自家発電用の小屋も、水門の傍らに建っています。が、しいんと静まり返って、もちろん、人っ子一人の姿もあるものではありません。湖畔には、朽ちた巨木があの時同様影を浸して、そこに凭れて疲れをやすめていると、あの時、こうして一緒にかけて、故国のユーゴの話をしてくれたジーナの優しい俤が映ってきます。同時に、馬で草原の彼方から駈けて来る、上気したようなスパセニアの姿も……。
ジーナ! スパセニア! 僕だよう、やっと訪ねて来たんだよう! と、声を上げて叫びたいような気がしてきます。が、無人の境では、大声を上げることさえ何か空恐ろしいような気がして、私はまた起ち上がりました。
もう一度引っくり戻って、あの立ちかけの地下工事場のあたりを探し、どうどうと飛沫を上げている断崖のふちまでいって見、最後には海水着の姉妹と三人でもつれ歩いた、あの溝渠の傍らの小径に沿うて、一キロばかり第一の曲り角のあたりまでもいって、空しくまた引き揚げて来た時には、私は疲れと暑さで、くたくたになりました。
滝のような汗がシャツを浸し、ワイシャツをグッショリにし、おまけにこういうことになろうとは、夢にも思いませんでしたから、また今度も昼食の用意はなく、腹は空るし、喉は渇くし、暑さで眼も眩みそうな気がしました。
前にもいいましたように、この年になるまで父母の溺愛を受けて、ここまで旅行に出るということは、私にとっては容易な業ではないのです。このまま東京へ帰ったら、いつまた来れるか見当も付かないのです。やっぱりみんな東京へいってしまったのか知ら? と落胆しました。
だが、来たついでだ! ようし! 今夜はこの村の役場のある水の尾村へ泊って、明日は役場へ行って、どこに住んでいるか調べてみよう。
そこでわからなかったら、明日はもう一度ここへ来て、その足で今度は大野木村へ行って、平戸から来ている開墾地の農家を訪ねて聞いてみることにしよう。それでもまだわからなかったら、一応父の許へ帰った上で、長崎の市役所なり、警察なりへ、照会状を出してみることにしよう。
そう心を決めて、陽も大分傾いてきましたから、私は初めて来た時にスパセニアから教えられた、水の尾という村へ向って歩き出しました。いつか私が岩躑躅を折りながら降りて来て、突然子牛のようなペリッに咆えられた、あの周防山に並んだ樹木のこんもり生えた、山道へ分け入っていったのです。
陽は山に遮られて、山は木が真っ暗に繁って、その下をつづら折りに登って行くのですから、涼風は面を打って、暑いことは少しもありません。が、草臥れ抜いたからだに、これから四里の道はまったくうんざりします。でも、仕方がありません。疲れ切った足を引き摺って、ぼんやりと私は、そのつづら折りの山道を登っていましたが、登り詰めると、今度は山の背を大分行ったところで……こんもり繁った大きな木の下あたりで、もう一つ、右手の山をめぐる小径に分れているらしい様子です。
さっきからもう小一里近くは、来ていたかも知れません。そこで私はしばらくやすんでいました。が、うとうととして、ハッと気が付いて顔を上げましたら、そこの小暗い木陰の道から、サヤサヤと誰か草でも分けて来るような音がしていました。疲れていましたし、気もぼんやりしていましたから、その時のことをハッキリと今、思い出すことはできないのですが……。
「先生、その地図には出ていません、こまかいところですから……水の尾村とした左手の方に笹目沢というところがありましょう? その右手の赤名山と、その笹目沢との中間ぐらいのところなのです」
と地図を見ている私に、病青年は注意した。
「おう! 僕だよう……やっと来たんだよう!」
と、私は夢中で躍り上がりました。
「ジーナ! スパセニア! 僕だよう!」
にこにことほほえみながら近づいて来るのは、なんとなんと! 今の今まで、一日一杯私が探して探して探し倦ねていた、ジーナとスパセニアだったのです。
「おう、ジーナ! スパセニア! 僕だよ、僕だよう! やっと来たんだよう!」
と私は、狂気のように手を振りながら、駈け寄りました。
「どこにいたんです? 僕は探して探して……厩からあの海岸から……湖水の方まで行って……しまいには溝渠に沿って曲り角まで降りていって……もうへとへとに疲れちゃって……ど、どこにいたんです?」
私は、自分が夢中でしたから、二人が何といったか、どんな顔をしていたかを、もう覚えていません。今から考えると、ほほえみながらも妙に沈み切った、青白い顔をしていたような気がします。
「僕は病気をして、どうしても一昨年も去年の夏も、来ることができなかったんです。今年もやっと、三月頃から起き出して……この夏、もっともっと早く来ようと思ってたんですが家がやかましくてなかなか、出られないもんですから……」
と、私は息急き切って、病気で来ることのできなかった今日までの事情を、まず詫びました。
「貴方がたのお住居を調べるために、これから水の尾村へ行って、明日は村役場へ行ってみるつもりでいたんです。しかし、貴方がたに逢えば、もうその必要はない。これで安心した……さ、どこにお住居です? 連れてって下さい……今どこに……?」
「わたくしたち、火事に遭いまして……それに父も亡くなりまして……」
「お、お父様が、お亡くなりになったんですか……知らなかった、知らなかった……それで今、どこにいるんです?」
「このずっと先に……みんなで小さな家を建ててくれまして……二人で、そこに住んでおりますの……」
「じゃ、さあ、行きましょう、そんなら何も、水の尾なぞに、行く必要はないんです」
と私は勇み立ちましたが、なぜか二人は浮かぬ顔をしているのです。
「でも、そこはほんの二人だけの……陋くるしいところですから……せっかくいらして下さっても、お泊めすることもできませんの。……ですから、せっかくいらして下さいましたけれど……今夜は水の尾へお泊りになって……明朝もう一度訪ねていただけません? そうすれば……わたくしたち途中までお迎えに上がりますから……」
あとから思えば、せっかくこれほどまでに意気ごみ切って逢えたのですから、二人とも、もっともっと喜んでくれてもよさそうなものを……と、多少不本意に思わぬでもありません。二人とも妙に口数が尠くて……そして気のせいか、それとも薄暗い木陰のせいか、顔色が青ざめ切って、悄然としているように思われます。
が、今聞けば、家が焼けたさえあるに二人の頼りにし切っている父親まで亡くなったというのですから、これでは気の浮こう道理はありません。そして約束を破った私に腹を立ててもいるのでしょうから、沈み切っているのも無理はない……とその時は思ったのです。
ともかく聞いてみたいことは山ほどあります。父親も亡くなったのに、なぜまだ二人は、こんな山の中に住んでるのか? それなのにどうしてこの春は、神保町でジーナに逢い、スパセニアはわざわざ私の家まで訪ねて来たのか? 水番の六蔵や馬丁の福次郎、農夫たちの姿も見えなかったようだが、みんなまだいるのかどうか? そして今見れば、ペリッもいないようだが、あの犬や馬はどうしたのか? それからそれと聞きたいことは胸一杯わき起っていましたけれど、では何事も明日にしようと……そして女二人のいるところへ押し掛けては悪いから、では今日はこのまま山を下って、水の尾村に泊って、明日の朝はスグここへ飛んで来て二人から詳しい事情を聞くことにしよう! と思いました。そして二人に勧められるまま一先ず山を下ることにしたのです。が、二人ともこの先まで、道がわかるところまで送って行くと、私と連れ立って山道を辿り始めました。
疲れ切っていましたからハッキリとは覚えませんけれど、その時はもう五時過ぎぐらいではなかったかと思われます。山の陰、木の陰は薄らとしていましたが、遠くの空は八月ですから、まだ明るく冴えていました。私も草臥れていましたし、二人も沈み切って、お互いに黙々として歩いていたのです。
私が口を開かなければ、二人とも別段口をきくでもなく、ただ時々眼が合うと、ジーナもスパセニアもにっこりとほほえんでいましたから、私にも別段それ以上、奇異な感じも起らなかったのです。
暗い湿っとりした谷間を通って、道はまた次の山へ登りになって、やっと最後のこんもりとした山の中腹を回ると、眼下遥かの向うに、村らしい家々の屋根が、模糊たる夕靄の中に点々と眼に入りました。
「あれが水の尾ですか?」
言葉はなくて、ジーナがかすかにうなずきました。
「ではもう、いいですよ……もうわかりますから……明日は早く訪ねて行きますから、さ、貴方がたはもう、お帰りなさい、帰りが大変だから……」
「でも、わたくしたち……この辺は慣れていますから……もう少し行きましょう」
お帰りなさい、お帰りなさいと口ではいってるくせに、実際は私も別れたくありませんから、また、いつの間にか連れ立ちましたが、別段話とてもなく、それからでも、半道や小一里近くは送って来てくれたかも知れません。山はいよいよ暮れて、もう木の下、足許にはずんずんと黄昏の色が、濃く漂ってくるのです。やっと私も気が気でなくなって、今度こそ真剣に何度帰るように勧めたか知れません。もうちょっと……もうちょっと……ほんのそこまでと、名残惜しそうに送って来てくれるのです。
ようやく何度目かの勧めで、やっと、では、というように二人が立ちどまった時には、もう小半町先は、ものの弁別も分かぬ薄暗に包まれていました。
「では明日また、この辺までお迎えに上がりますから」
「いいえ、いいんです、いいんです! こんな遠くまで……では、明日は早くいきますよ……さっきお逢いした、あの木の下を左へ曲ったところですね……家が建ってるのは……?」
暗の中で、二人がうなずいたように思われます。
「それならここで……さようなら……」
二人はほほえみながら、そこに立ちどまりましたが、やがて縺れ合いながら段々と、暗の中へ溶け込んで……到頭見えなくなってしまいました。そして、見えなくなっても、ぼんやりとまだ私は、二人の後を見送って佇んでいたのです。
二人の送って来てくれたところは、村境とみえて、そこには夕暗にも著く、大きな自然石を並べた橋が架かって、橋の向うはもう坦々たる村道になっているのです。遥か彼方に、灯が瞬いて、私の方はこの村道に沿ってさえ行けば、やがて教えられた村の宿屋にも行き着くでしょう。が、二人はこれからあの淋しい夜道を……空に星が燦いているとはいえ、あの淋しい山道を、二里半もどうやって帰って行くのでしょうか?
馬に乗ったからとて淋しいし、犬を連れたからとて淋しいのに、その馬もいなければ犬もなく、あんな淋しい山の中を、一体どうやって帰って行くのでしょう? ……懐中電灯でも持っているのか知ら? ああ、もっと早くあの二人に帰ってもらえばよかった! と、私はぼんやりして気づかなかった自分を後悔して、二人の消えた暗を見送っていました。
そして、なぜ今もそんな淋しいところに、家を建てて住んでるのか知ら? どうして山を離れる気になれないのだろう? なぞと取り留めもないことを考え耽っていましたが、いくら後悔して立っていたからとて、もう見えなくなってしまったものを、仕方がありません。
まごまごすれば、夜の帳はいよいよ迫って来て、村まで行くにさえ、差し支えそうになってきます。気を取り直して私は、星空を頼りに、その村道を辿り始めました。もう人家間近まで来てながら、二人に別れた後は、いよいよ身を切るばかりの寂寥が襲ってきて、この時ほど私は心の底から淋しさを感じたことはありません。
十一
姉妹の教えてくれた肥後屋という旅籠屋は、村の中ほどにありました。私が疲れ切った足を引き摺って、この宿屋へ着いたのは、夜ももう八時近くだったでしょうか? 辺鄙な片田舎の宿屋ですし、泊り客もないとみえて、静まり返っていましたが、さて奥まった部屋に通されて、やっと食事も済ませて人心地ついたからだを伸ばしている時に、朴訥そうな四十五、六の亭主が、
「お客様、さきほどはまことにご丁寧さまに」
と、さっきやった茶代の礼に、はいって来ました。
お客様、明日はどちらの方へおいでになりますか? 山越えで雲仙へでも? とか、どちらからおいでになりました? とか、どこも変らぬ宿屋の亭主らしい挨拶をしていましたが、亭主のつもりでは、こんなお愛想の一つ二つも並べて、引き下がるつもりだったかも知れません。が、私が小浜から大野木村を過ぎて、東水の尾から四里の山越えをして来たと聞くと、何ともいえぬ好奇の眼を輝かせました。
「ほう、珍しいところを通っておいででございましたな? どなたかあの辺に、お知り合いでも……?」
「そう……ちょっとあったんだけれど……今度来てみたら、そこがすっかり焼けてしまってね……驚いたよ。おまけに亡くなったんだって聞かされて……」
「ほう! 旦那様、よう御存知で……どこでお聞きになりました?」
「なあに、やっと出逢ってね、その人の娘さんが、そういったよ」
「へえ……お嬢様が……? お嬢様にお逢いになって……?」
「君の家も、その娘さんたちに教えられて……」
ここまではいいのです。ここまでは何でもありません。が、そのお嬢様と仰しゃるのは、おいくつぐらいで? と亭主が聞きますから、上の方は二十二、三……三、四くらいか知ら? 妹の方は二十歳……二十一くらい……といった途端に、颯っと亭主の顔色が変りました。
「ではどうぞ……御ゆっくり……と」
と宿帳を引ったくり取って、逃げるようにアタフタと階下へ降りていってしまいましたが、それから十分ともたたぬ間に、
「唯今はどうも、失礼をいたしまして……」
と、またはいって来たのです。小女でも床をとりに来たのかと思いのほか、今の亭主がいいようもない緊張した顔で、はいって来たのです。しかもミシリ、ミシリと、誰か障子の外で聞き耳を立てているらしいけはいです。
「旦那様……実は家内に話しましたところが、家内がもう一度伺って来いと申しますんで……さきほど手前どもの家を、お教えになったとか仰しゃいましたのは、石橋様の……お亡くなりになりました石橋弥七郎様の、お嬢様でいらっしゃいましょうか?」
私の方が呆気に奪られるくらい、真面目な顔付きです。真面目というよりも、土気色のオドオドした顔といった方がいいのかも知れません。
「そう……お父さんはたしか、石橋弥七郎とかいわれた……」
「石橋様のお嬢様とすれば……たしか……アノ……向うのお方で……?」
「そう……混血児だよ……教えてくれただけじゃない……あすこの橋のところまで……村の入り口に、石の橋が架かってるだろう? あすこまで、送って来てくれたよ」
「あの……橋のところまで送っていらして……ではつかぬことをお伺いいたしますが、旦那様は東京で、大学へいっていらっしゃいますんで」
「そう、僕は大学生だけれど?」
それがどうしたんだといわんばかりに、私は聞き返しました。途端に、亭主の顔の色といったらないのです。唇まで血の気をなくして、
「だ……だ……旦那様……そ……それは」
と震えて口がきけないのです。その瞬間、逃げ出すようにドドドドドドと、階段を駈け降りて行く跫音が聞こえます。
「旦那様……た、た……容易ごとではございません。そ……それは……」
真っ青になって手足ばかり震わせているのです。
「幽霊でございます……石橋様のお嬢様の、幽霊に違いございません」
「…………」
「旦那様、どちらの方でございます? 上のお嬢様でございましょうか? 下のお嬢様でいらっしゃいましょうか?」
「二人で送って来てくれたよ! ……生きてるのに、幽霊なぞと……そんなバカなことが、あるものか!」
「生きてではございません。お二人とももう……」
「何……?」
途端に私も全身から血の気が引きました。
「四カ月ばかりも前にお亡くなりでございます……」
夢中で私は起き上がりました。
「……何でも、東京の大学生とかを、えらく怨んでたという噂でございましたが……ああ、やっぱり噂のとおりだった……恐ろしいこんで……恐ろしいこんでございます。よっぽど、御用心なさらぬといけません……。且那様、それはもう容易ごとではございません」
「しかし……しかし……あの木の下から曲ったところで……赤名山という山の麓を曲った辺に家を拵えて住んでるといった……確かにそういった……」
「家ではございません……お嬢様のお墓がそこにございます……お墓が二つ、並んで建っております……ああ、旦那様は魅込まれておいででございます……旦那様があの道をお通りになったんで、それでお嬢様たちが出ていらしたに違いございません……ともかく旦那様、えらいことでございます。詳しいことを知っておりますものが、スグ向うに住んでおりますから……今、その人間を呼んでまいりますから、チョックラお待ち下さいまし」
魂も身に添わぬらしく、またソソクサと亭主は出ていってしまいましたが、夢に夢見るような気持で茫然としているうちに、私にも、自分の顔色が変ったのが、自分ながらわかるような気持でした。
なるほどそういわれてみれば、あるいは、ジーナもスパセニアも死んでいるに違いありません。さっき逢ったあの顔! あれは確かに、この世の人間の顔ではありません。久々で私に逢いながら、あの青白い顔……沈み切った力ない顔……ほほえみながら口も碌々きかずに……。
しかも、その二人が怨んで死んでいったと、さっきの亭主の言葉を思うと同時に、歯の根も合わず、ガタガタと私も烈しくからだが震え出しました。
やがて亭主と一緒に入って来たのは、四十七、八、これも同じように、田舎者まる出しの朴訥そうな、印半纏を着た小肥りのオヤジでした。
「旦那様、この人が石屋の伊手市どんといいまして、あすこのお墓を刻んだ人でして……詳しいことを、よう知っとりますで……」
私が、ジーナとスパセニアの亡霊に見送られて来たということを、もう亭主が口走ってしまったものとみえて、ほかに三十二、三になる農夫体の男が一人、田舎者の無作法さでノッソリと座敷へはいって来て、腕組みをしながらその伊手市どんという男の背後で、聞き耳を立てています。そして、気味が悪くてこれも一人ではいることもできないのでしょう、青い顔をした内儀さんまでが、いつの間にか、はいり込んで来て、恐ろしそうに肩をすくめているのです。ハハア、さっき障子の陰で聞き耳を立てていたのは、この女だなと気が付きました。
「石橋様のお嬢様がお亡くなりになったチュウことを、旦那様はなかなかふんとうになさらねえということでやすが」と、その伊手市どんという男が話し出しました。
「藤どんのいうこたア、確かにふんとうの話でやすで……」
藤どんというのが、亭主の名前でしょう。
「水番の六蔵どんや、馬丁の福次郎どんに頼まれて、わしが現にこの手でお嬢様たちのお墓を刻んだでやして……」
重い口でポツリポツリと話し出しました。もう姉妹の死を疑うところはありません。いいえ、疑わぬどころか! 凄惨とも、陰惨とも、申訳ないとも、気の毒とも……聞いているうちに私は、何ともかともいおうようのない気がしてきたのです。
この男たちが、自分自身見たのではありませんから、痒いところへ手の届くようなというわけにはゆきませんが、ともかく村の噂によると、石橋様のお邸は、何でも去年の九月頃とかに火を出して、全部燃えてしまったでやす……というのです。そして焼けた後しばらくは、近くに馬小屋とかがあって、馬丁のいたその一間に、石橋様というお大尽も、お嬢様たちも住んでいられたようであったというのです。が、やがてその石橋様というお大尽は、ある日、湖の近所で拳銃で頭を打ち抜いて自殺してしまわれたというのです。
噂では、何でも欧羅巴の何とかいうムズカシイ名前の国に長いこといられて、その国一番とかいうもの凄いお金持でいられたが、戦争でその財産が滅茶滅茶になってしまったのと、もう一つは、広大な地所を売り、柳沼を売り、大野木の開墾地まで手離して、金を注ぎ込んでいられたマンガン鉱山とかが思わしくなく、それやこれやで、気がおかしくなって、自殺されたらしいという噂だったというのです。
父親の死後も、娘たちは二人で、その馬小屋の部屋に住んでいたようでしたが、その時分、大野木村の郵便局へよく二人連れで馬を並べて、郵便物を受け取りに来る姿が見られたというのです。そして、東京から郵便が来てるはずだがと、来るたんびに気にかけて問うていたのが、見受けられたというのです。
「東水の尾の混血児娘たちア、何であんなところにいつまでもこびり付いてるんだろうなア、一匹売り、二匹売り……もう馬だって一匹しか残ってやしねえや!」
と、この村でも噂しているものがあったというのです。
農場の農夫たちは、父親の在世中から、もう疾くに散り散りバラバラになっていましたが、この頃から馬丁の福次郎も、水番の六蔵も山を降って、あの淋しい山の中には、ただ娘たち二人っ切りが住んでいたのですが、しかもそのうちに、仲のいいこの姉妹の間に争いが起ったらしく、あろうことか、あるまいことか! 妹は到頭、姉を撃ち殺してしまったというのです。
もちろん、人の往来とてもないこの山の中ですから、その時はスグにそんなことがわかったわけではありません。が、後になって、小浜の警察署から刑事たちが登って来て調べたところでは妹が姉を殺したのは、おそらく今年の四月中頃ではなかったろうか? という推定だったのです。
姉の亡くなった後も、一週間か十日ばかりは、妹の姿が……白い馬で、村の郵便局へ通って来るのが見受けられました。よほど東京からの手紙を待っていたらしく、四里の道をほとんど毎日のように、通って来るのが見受けられたというのです。姿を見せなくなった最後の日なぞは、まだ何にも来ていないと聞かされると、ハラハラと涙をこぼして、しばらくは立ち去れずに、郵便局前の電柱に凭れて泣いていたと、見て来た人が村にもあるというのです。
前にもいったとおり、この話はこの石屋の伊手市という男が、自分で見たというわけではなく、主に村の噂を中心として聞かせてくれたことなのですが、
「どうも旦那さんを前に置いちゃ、いいにくいことでやすが……」
と前置きして言葉を続けるのです。
噂では何でも、前々年の夏とかに、東京から米た大学生とかがあって、その大学生が姉の方にも、妹の方にも調子のいいことを並べ立てて立ち去ったばっかりに、姉妹ともそれを真に受けて、初めは父親の死後も二人で仲よく轡を並べて、郵便局へ手紙を取りに来ていたが、姉妹間に争いが起ったというのもその大学生が両方にいいことを並べたばっかりに、姉は大学生が自分を思っていると思い込み、妹の方は自分を思っていると思い込んで、お前がいるからあの方は来て下さらないんだわ、いいえ姉さん、貴方がいるからよ、といい争いが昂じて、勝気な妹が、到頭姉に拳銃を向けるようなことになったのではなかろうか? と、この邸の馬丁をしていた福次郎が、この村へ来た時に、知り人に話していたというのです。そして赫っとした弾みに、姉に発射はしたものの、やっぱり大学生からは何の音沙汰もなく、父も姉もいなくなった淋しさに堪え切れずに、その勝気な妹も湖水に身を投げて死んでしまったのではなかろうか? という福次郎の話だったというのです。
しかし福次郎とても、家が焼けてしまってからは、農場の農夫や、水番の六蔵ともども大野木村の開拓民たちのところへ行って、滅多に山へ上ることもないのですから、詳しいことを知ろうはずもありません。ただ、多分そうであろうという推察だけなのですが、ここにその推察を裏書きするものは、さっきもいったとおりに……。
十二
「そ、そこんところは藤どん、わっしから且那に申上げよう。わっしは、現にこの眼でお嬢様たちの死体の上がったところを、見てるだから……」
と、亭主の言葉を引き取って、石屋の伊手市が膝を進めました。
姉妹間に殺傷が行われて、姉の姿が見えなくて妹も入水したらしいという風評を耳にした刑事や巡査の一隊が東水の尾へ登って来たのは、五月の六日頃……明日は水の尾村の鎮守のお祭りだというその前の日でした。
日傭で雇われて手伝いにいったものは、大野木村から平戸の農民たち四、五人、山から降りていた馬丁の福次郎と、水番の六蔵、この村からはその時用があって小浜にいっていた、この石屋と、もう一人庄どんという農夫の、二人だったというのです。
「その庄吉は、一昨日からこの先の鰍沢さいって、まだ戻んねえでやすが……」
湖は周囲一里半、山の影を映し、森を映して静まり返っていましたが、二、三日前に降った雨が、湖岸の森や林を洗って、殊にくっきりと鮮やかさを増しているように思われました。
水番小舎の付近に繋留された小舟四隻に分乗して、湖心に漕ぎ出しましたが、湖底へ碇綱を下ろす必要も何もありません。この湖は一番深いところでも二丈ぐらいといわれていますから、透き徹って湖底の礫一つ、水草一本さえ数えられるかと疑われるばかり……スパセニアの死体が上がったのは、舟を出してから二時間余りの後だったというのです。
「おうい上がったぞう! てえ知らせでしたから、わっしも人の背後からのぞきこんだでやすが、それは綺麗なもんでやした。どこにも怪我がなくて、足でも顔でも、透き徹るようで……美しいという評判の方でやしたが、まったく綺麗なもんでがした」
スパセニアの死体の上がったのは、湖の東南方、湖心に十五、六町ばかりのところでしたが、そこからまた十七、八町離れたところから、ジーナの死体も上がったというのです。
二人とも死後二、三週間ばかりと推定されましたが、ジーナの方は、スパセニアと違って見るから無残に腐爛して……。
「ああ、見るもんじゃねえ、見るもんじゃねえ! いくら別嬪でも、こうなっちゃお仕舞いだな!」
と、さすがの刑事たちもスグ顔にハンカチをかぶせてしまったというのです。
「生きてなさった時は、妹さんに負けず劣らずの美しさで評判でしたが、死体は爛れてフヤケテ、皮膚が剥けて、もう滅茶滅茶だという話でやした」
おまけに、検診していた警察医が、大声を上げました。
「おう……殺られてる……殺られてる……やっぱり殺られてる! 眉間を撃たれてるぞう!」
弾は額を貫通しているらしく、ベロリと皮の剥けた眉間のあたりに、ピンセットを入れて警察医は頻りに弾の摘出をしているらしい様子でした。
「見るな、見るな! といわれるだから、わっしはこの方はハッキリと顔を見たわけではねえでやすが、……両方とも屍体の上がったことも、撃たれて死んでるチュウことも、決して間違いのねえこってやす……」
妹に撃たれて死んだという風評も、これで確実になったわけです。しかも当の妹の方も死体になってるのですから、噂の真偽さえ確かめればそれでよしということにして、どうせこんな山の中の警察では、もうその上の穿鑿もしなかったのでしょう。死体は解剖に回しもせずに、そのまま湖岸西北方の、例のマンガン鉱山を南に仰いだ小山の麓に――父親の眠っている墓の傍らに、一時仮埋葬をすることにしたというのです。が、その後何日かたって、水番の六蔵と馬丁の福次郎が来て……。
「そうさ……あれはいつ頃じゃったっけなア……何でも二十日ばかり過ぎた時分じゃ、なかったけがと思うでやすが」
と、石屋は頻りに思い出そうとしているのです。
水番の六蔵と、馬丁の福次郎とが来て、
「お嬢様たちはいつもわたしたちはあすこが一番好きだから、死んだらあすこへ埋めてもらうのよ! と口癖のようにいってなさっただから、今度警察の許可を貰うて、葬れえ直すことにしただ。済まねえが一つ墓を彫ってくんどという頼みでやしたから、わっしが字を彫ったでがす……」
「その伊手市どんの彫った墓が、旦那様がお逢いになったというあの笹目沢と赤名山との間の、栃の木の下の分れ道になってるところを、何でも十二、三町ばかり下っていった原っぱに、建ってるんだそうでして……私はいって見たこたアございませんが、松の木が二、三本生えてる根っ子で、えらく景色のいいところだとか……」
「そして、墓は何と彫ったのです……?」
「お嬢様の名前でやすが……何てったっけなア……えらくムズカシイ名前で……石橋……スサ……バンナ……スサバンナ……てったっけなア……?」
「スパセニアでしょう?」
「そうそう……スパセニア……スパセニア……石橋スパセニアの墓……もう一つ……これは覚えとるでがす。石橋ジェンナの墓……」
「……ジーナ……」
「そうでやす、そうでやす……ジーナ……ジーナ……石橋ジーナの墓……」
そして大きさはこのくらいと、手で示したところを見れば、大体一尺二、三寸くらい……ごく小さなものですが、石はこの辺から出る三根石という、やや暗紫色がかった艶のある石に、刻んだというのです。これで、もういくら私が疑がってみたところで、いよいよジーナも、スパセニアも、死んだことに間違いはありません。
聞けば聞くほどただ私にとっては、夢を見るようなことばかりです。もちろん私にも覚えがありますから、石屋の伊出市や亭主のいうことがウソだとは、決して思いません。そして、決して私に、悪意があったことではありませんけれど、そんなに待っていたのなら、どんなに書き辛かろうとも、また書き損なって真っ黒々の消しだらけにしようとも、なぜもっともっとせっせと片仮名のハガキや手紙を出さなかったろう? ……と。二人は、さぞ私を恨んで死んだろうと思うと、いても立ってもいられぬくらい、心苦しさが感じられて、夢に夢見る気持のうちにも、ただそのことばかりが、痛切に胸を刳ってならなかったのです。
が、しかし、亡くなったということは、それで確実だとしても、さっき一緒に連れ立って来たあの二人が、亡霊であろうとは! これだけは何としても、信じられません。そんなバカげたことが、今の世の中に一体、あり得ることでしょうか? 今の世の中に、人間の亡霊なぞということが!
が、しかし、そうして二人が死んでしまっていることが確実とすれば……それなればさっき連れ立って来た、ほほえんでいたあのジーナとスパセニアは、一体何者だということになるのでしょうか?
しかも、さっきあの二人は、明日の朝また迎えに来ると……この橋のところまで、迎えに来るといっているではありませんか! バカバカしい、山の中のこんな無知な宿屋の亭主や、石屋のオヤジなぞと話してるよりも、明日の朝になれば、一切わかることなんだ……きっと死んでる人が、人違いかも知れないんだと、私は心の中で叫びました。……が、しかし……さっき逢ったあの二人も、そういわれてみれば、何だか寒けのするような人だったし……。
その私の考えが顔に出て、自然亭主や石屋にも感じられたのかも知れません。
「明日またいらっしゃるなぞとは、飛んだことでございます。絶対に、いらっしゃってはなりましねえ。旦那様をお連れするために、出ていらしたに違えございません。旦那様は、魅込まれてらっしゃる! 恐ろしいこんだ……恐ろしいこんだ! 旦那様、決していらっしゃっちゃなりましねえ……命はごぜいましねえ!」
「しかし、幽霊なぞと……そんなバカなことが! 信じられん……どうしても、僕には信じられん!」
「いくら旦那様が仰しゃっても、幽霊が出たものは、仕方ねえじゃごぜいやせんか? では、早い話が旦那様! 旦那様はさっき仰しゃいましたでしょうが! 村の境の石橋のところまで、送って来てくれたと。それでございます。……一体その時刻は何時でございます? その時間に、いくら星は出ていても、この暗の中さ、山ん中へ、あれから二里も三里も、弱い女の足で、どうして帰れるでやしょう? 足はともかくとしても、恐ろしくて若い女なぞに、どうしてあの山ん中へ……」
「でもこの辺は慣れてるといってた……」
「冗談じゃございません。いくら慣れてるとこだって、この真っ暗な晩に、人っ子一人通らぬ山ん中へ、三里も四里も……さっきそれを伺った時から、もうからだがゾクゾクして……ああ恐ろしい! こげんに恐ろしいこたアわしも初めてだ……」
亭主の陰に身をちぢめて、内儀さんなぞは生きた顔色もありません。
ともかく、あの可哀そうなお嬢さんを騙した薄情な大学生は、どうせ碌な死に方はしまいという、村の評判だというのでしたが、
「旦那様がそのお方だとは、夢にも知りましねえで……ただ、村方でそういう噂をしとりますもんで……お気をお悪くなすっちゃ困るでやすが」
と、亭主は気の毒そうな色を泛べました。
「でも、まあ、よく訪ねておいでになりました。これでお嬢様二人も、お泛ばれになりやすでしょう。それで、お二人で喜んで、そこまで送っておいでになったに違えごぜいません」
と茫然と考えてる私を、慰めてもくれました。
そんな話のうちに、夜もふけて、やがて人々は別れ去って、私も疲れたからだをやっと蒲団に横たえましたが、どんなに私が輾転反側してその夜一晩、まんじりともせずに夜を明かしたかは、もう先生、貴方にも想像していただけるであろうと思います。
その晩、私の部屋では別段、明日の朝どうこうという相談もなかったように思いましたが、私の部屋を出た後ででも、あるいはそういう相談が纏まったのかも知れません。
翌る朝眼が醒めた時には、怖いもの見たさからか、好奇の色を泛べた村の若い者たちが七、八人、手に手に棍棒や鳶口を持って草鞋脚絆姿で、その間には昨夜の石屋のオヤジもいれば、またその背後にいた三十二、三の男、宿屋の亭主も交じって、意気込んでいます。もし幽霊が出たら、それで切ってかかるつもりか、中には大きな鎌を持った男もいます。
もちろん、幽霊などが出るはずはありませんけれど、もしも何かの間違いということがあって昨夜逢ったのがほんものの姉妹で、もし今日私を迎えに出て来てくれた場合、いきなり暗雲に切ってかかられてはなりませんから、その大鎌だけは見合せにしてもらいました。
ともかく、私は昨夜まんじりともしていないのです。二時が鳴ったのも知っています。三時を打ったのも知っています。そして四時も……つい、とろとろとしたら、もう朝の五時……遠くで鶏が鳴いたかと思ったら、もうワイワイと棍棒、鳶口の一隊です。
亭主に催促されるまま、朝飯もそこそこに私も身支度を整えましたが、今考えてみてもその時の自分の気持だけは、私にも、どうしてもわからないのです。昨日までの私は、ただジーナやスパセニアが懐かしい、恋しい気持で一杯でした。しかし、今はもうそんな気持は微塵もないのです。ただ絶えず襟元首を冷たい手で撫で回されてるような、ゾクゾクした気持で一杯です。そしてその中から、この一隊のことを笑えない好奇心にも燃えていました。
ただ違うのは、棍棒や鳶口の一隊は、幽霊ということにすべての好奇心が動いていたのでしょうが、私のは何かの行き違いということもあって、墓の主になっているのはジーナやスパセニアではなくて、あの二人はひょっとしたらやっぱり今日、私を迎えに出てくれるのではなかろうか? というところに、万一の好奇心が動いていたといった方が、いいのかも知れません。
十三
ともかく昨夜の怯え切っていた姿はどこへやら! 今朝は大勢仲間がいるからかも知れませんが、いずれも意気颯爽として、燃えるような好奇の眼を光らせています。雄風凜々として、鬨の声を上げんばかりの張り切りようです。夏の早暁の、爽やかな朝風を衝いて、昨夜二人と別れたあの石橋のところまで来ました。
「旦那様、ここまで送って来たとか仰しゃいましたな?」
と、亭主が寄って来ました。
もちろん、森も、山も、野も丘も、まだみんな深い朝靄の中に眠って、姉妹の姿なぞの、その辺に見えようはずもありません。一同の緊張がいよいよ増して、昨日二人の分け入っていったあの萱や、薄、茅なぞの胸まで掩うた細い山道にかかります。小暗い繁みも抜けて、つづら折りの第一の山道にさしかかります。
この辺では、この山を矢上山と呼んでると、一人が教えてくれました。一里ばかりもその山を登ると、その奥がいくらかだらだら下りになって、道は山の中腹をいく曲りもいく曲りも……右手に深い谷を隔てて、層々として深い山脈が走っています。渓谷を越えて、また二里ばかりの深い山道……いよいよ東水の尾へ抜ける最後の山の背梁になりますが、足の弱い女連れ、殊に昨夜は疲れて薄暗い夕方のせいか、心気朦朧として、随分手間取った道も今日は男ばかりの、しかも元気一杯に、朝の十一時頃にはもうその山の背梁も越え終って、いよいよ赤名山を左手に眺め始めました。
しかも、半信半疑で、今に現れるか、今にその辺の木陰から、二人が迎えに出るか? と胸を躍らせていたにもかかわらず、到頭どこにも姿は見当りません。してみると……してみると……やっぱり昨日の二人は……? と疑念が胸に忍び寄ってきた時分、
「旦那様来やしたぜ、いよいよ来やしたぜ……昨夜お逢いになったのは、あの辺と違えやすかね?」
と石屋が寄って来たのです。
遥かの下方に見えると栃の大木の、一際蓊鬱した木陰、そこで道は二つに分れています。一つは東水の尾へ下って行く道……すなわち、私が昨日登って来て、その下の方で一休みしたところです。左手の草むら隠れの小径は、あの二人が現れて来た道です。
「あの道でやしょう? 旦那様! 出て来たと仰しゃるのは……?」
「そう……あの木の下あたりから……」
「間違えねえ、旦那様! 確かにお嬢さんの幽霊だ! ほら、早く来て御覧なせえ! ……そこを駈け上ると、見えまさア! ずっと向うにお墓がある!」
急に勇み立った四、五人の後から、急いで小径を駈け上ってみると、なるほど、なるほど、見えます、見えます! 左手遥かに眼の下が開けて雑木林の陰になって、道はうねうねと夏草や熊笹隠れに、眼も遥かに下方へ下って、なんという素晴らしい眺めでしょう?
四周を紫色や濃紺の山々に画られた、夏草茂る盆地……ゆるやかな一面の大野原……しかもしかも、その野草の中ほど小高い丘の上に二、三本の松の木がヒョロヒョロと聳えて、その根元にハッキリと並んだ二つの墓……。
もう疑いはありません、ジーナとスパセニアの墓です。そしてそしてあの墓の下に、額を撃たれて糜爛したジーナと、スパセニアの亡骸が私を恨んで、横たわっているかと思うと、見えも恥もなく、総毛だってガタガタと私は、震え出しました。
もう間違いはなく、あの二人は亡霊だったのです。今の世の中にあるもないも何もあったものではありません。私が訪ねて来たことを知って、水の尾村へ行くことを知って、墓から抜け出して、この態笹の道を通ってあの栃との木陰から、姿を現したものに違いありません。
しかも、そうとは知らず、あの淋しい薄暗い山道を、二時間も三時間も連れ立って……あの青白い顔、淋しいほほえみ……また明日お迎えに……上がりますわ……。
その瞬間、私の思い出したのは、あの神保町の人混みの中で見たジーナの姿だったのです……それから一週間ばかりたって、門前に佇んでいた、あの恨めしそうなスパセニアの顔だったのです……そうだ、もうあの時は、二人とも死んでいたのだ。そして死ぬとすぐ二人とも、私を迎えに魂が飛んで……来た……のだ!
「おうい、ちょっと待ってくれえ! 旦那様、どうしましたえ? 早くいらっしゃいませえ!」
と、亭主は向うから声をかけましたが、私は立ちどまったまま、足が竦んで進まないのです。ただ意気地なく、からだがガタガタ震えて……。
何と叫んだか、もう覚えがありません。気が付いた時は夢中で、私は山を駈け上っていたのです。今来た水の尾への道を!
そして、私が逃げて来ると同時に、先に進んでいた連中もワーッと血相変えて、算を乱して駈け上って来るのは覚えていましたが、ただそれだけ! 悪寒のようにからだがブルブルブルブル止め度もなく震えて、息を継いでは走り、また継いでは走り、そのほかのことは何の覚えもありません。ただ、いくら走っても走っても、今見た墓の恐ろしさだけが眼に焼き付いて、何としても離れないのです。
昨夜は一頻り雨が降っていましたが、この辺にも烈しい夕立ちがあったのでしょうか? 空が曇って、低く雲が垂れて、しかもその曇った雲の切れ目から薄日が洩れて、一際濃い彼方の山の中腹から、麓を照らし出していたもの凄さ……凄まじさ……その山を背にして、しょんぼりと松の木の下に立っていた二つの墓! 物心ついてからまだ私は、あんな凄愴極まる景色は見たことがありません。
もう、くだくだしいことは申上げませんでも、先生にはおわかりになるでしょう。私は道後まで逃げて来たようなものです。道後まで逃げて来ても、まだ気が落ちつかず、父を促して東京まで逃げて来たようなものでした。
先生、私はさっきいいましたでしょう? ジーナやスパセニアの写真を五、六枚撮りましたけれど、その後二年ばかりたって、竦然とするような事件のために身震いして、ことごとく燃やしてしまいました、と。その時に、みんな燃やしてしまったのです。そして、燃やすことのできない、銀の襟飾りだけは……あのスパセニアが、自動車の窓から投げ込んだ銀の襟飾りだけは、前の青葉通りのお濠端へ飛び出して、青く澱んだ濠の中へ投げ込んでしまいました。
「私の病気はそれからまた悪くなったのです。……こういう呪われた病気ですから、もう回復するわけはないのです。……二人に魅込まれている……の……です……から……」
「私はさきほど、先生……貴方に十年さきでも十五年さきでも結構ですから、もし向うへおいでになるおついででもおありになりましたら、どうか私に代って、このお墓を見ていただけませんか? とお願いしましたのは、このわけなのです。決して、お墓を拝んでいただきたいなぞというのではないのです。
世の中には、こんな事情で死ぬ人間もあるのだと……こんな事情で連れて行かれる人間もあるんだということを、先生、貴方にだけは信じていただきたくて……私の申上げた話がほんとうかウソか、わかっていただきたくて……それでお願いしたの……です……」
大分苦しい息遣いであった。
「……いかがです? しばらくお休みになったら……」
と私は勧めてみた。
「…………」
それには返事をせず、しばらくまじまじと天井をみつめていたが、休むとも休まぬとも返事がなく口を開いた。
「……もう、私には……自分でも、生きてる日がそう長くないことは……わかっているのです。ついこないだも……ついこないだも……二十日くらい前になるかも知れませんが、こうして寝ていますと……真夜中の一時二時頃に、なっていたかも知れません。ギョッ! として、突然全身が凍り付いたような気がしました。先生、貴方の今座っていらっしゃる、そのスグ背後の廊下を……」
というのであった。
サ……サ……サ……サ……と幽かな音をさせて、……袴の裾でも、障子に触れるような音であったという。その静かな音をさせて、誰か二階の上り口から、こちらの方へ跫音を忍ばせて来る様子であった。
譬えようのない恐ろしさに、震えながら青年は息を殺していた。跫音はかすかにかすかに、段々に座敷の方へ、近づいて来る。
ス……ス……ス……ス……とそこの障子が少しずつ、少しずつ開き始める。
「確かに誰か、廊下に膝まずいて、引き手に手をかけている様子です。冷たい風が頬を撫でて、竦然と襟元から、冷水でもブチカケられたように……スウッと誰かが入って来たと思った瞬間、怺え怺えていた恐怖が一時に爆発して、
「誰だ、そこにいるのは!」
と夢中で精一杯の気力を奮い起しました。その声に驚いて、次の間から看護婦が飛んで来てスタンドを拈っても、ただ、スタンドが天井に大きな影を投げているだけで、家の中は森閑として、深夜の眠りを眠っているだけなのです。誰もいはしないのです。が、確かに閉めておいたはずのそこの障子が、半分ばかりあいているのを見た時には……。
「まあ、誰か知ら? あんなとこをあけて!」
と看護婦がびっくりして叫んだ時には、またゾゾーッと、頭から冷水をブチかけられたような気がしたのです、先生……私の家には、看護婦が二人おりますでしょう? 仰々しく二人置いてあるわけではないのです。一人でいいのです……一人でいいのです……けれども一人でいるのなら暇を欲しいと、それ以来、看護婦が怯え切っていますので……」
そしてしばらく言葉を切って、胸を休めていた。
「……ジーナが来たのかスパセニアが来たのか……それはわかりませんけれど……もう今度来た時には……今度来た時には……もう私はこの世に生きてはおり……ません……」
これで、青年の話は終った。もう一度繰り返すが、青年が亡くなったのは、それから一週間か十日目ぐらいではなかったかと覚えている。青山斎場で行われた葬式には、柳田家の懇請で私も親族席に立った。黙念として唇を噛んでいる、父親の総裁柳田篤二郎氏の姿も侘しかったが、嗚咽しながらフラフラと倒れた母夫人の姿には、親の心さもこそ! と私も熱いものの迸り出るのを禁じ得なかった。
あとがきの一
青年の死後十日、約束により、万障放棄して六月九日朝九時、特急つばめで東京駅を発つ。妻の注意によって、途中京都で降りて、名香幽蘭香を用意する。下の関山陽ホテルで水の尾村助役牧田耕三郎氏が、門司まで出迎えてくれることを知る。
六月十二日、小浜に着く。目抜き通り呉服町にある小浜警察署を訪う。突然の来訪に、受付の警官は胡散臭そうに、剣もホロロな顔をしていたが、事情を説明すると渋々古い帳簿なぞを調べてくれる。捜査したのは昭和二十五年五月六日、捜査のため山へ登ったのは、部長刑事の木下昭造氏、刑事佐藤捷平、刑事山田金次氏たちのほか巡査二人……木下部長は警部補に昇進して愛野警察の捜査主任に転出し、佐藤刑事は県下矢筈町に出張中、山田刑事は病気のため欠勤中とのこと。
受付の警官は私のために、湖中から引き揚げた姉妹の屍体検案書を帳簿から抜き出して見せてくれた。なるほど石橋スパセニア(二十歳)は無疵の溺死体であるが、石橋ジーナ(二十三歳)は額に盲管銃創を負っている。
そういうわけなら、ともかく署長に逢って欲しいと頻りに勧めてくれるが、検案書を調べてみても、警官の話によって当時の状況を符合してみても、故青年の話と一点一画の違いもないことを確かめたから、私の警察署訪問の目的は達した。これ以上、署長に聞くこともなければ、刑事たちに逢う必要もないから、受付氏に礼を述べて署を出る。大野木村へ向う。
大野木村から北西へ十六町、木俣川に架せられた橋を渡るとそこに、三十町ばかりの水田が開けてくる。管轄は大野木村に属して字佐久間新田と呼ばれているが、これが一区画をなして、平戸から来ている石橋氏の、開墾農民団なのだという。
石橋氏がマンガン鉱山失敗の結果、現在では平戸殖産興業会社の経営に移っている。農民の世話役をしている、都留五八氏の案内で一巡する。
最初は二十四軒あったが、故郷恋しで平戸へ帰ったものもあり、殊に石橋氏の鉱山失敗が農民たちの間にも動揺を与えて、博打に身を持ち崩したもの、他郷へ出奔したもの、せっかく石橋氏の親切も仇に、今では落ち着いてるものわずかに、十四軒のみだという。
「最初石橋の旦那のおつもりでは、御自分の故郷の平戸の百姓の、貧しさを気の毒にお思いになったのでやしょうが、それともう一つは、東水の尾に大きなホテルができると、そこへ来た外人客の食事の材料も、雲仙方面へ出す野菜類も、みんなここで作らせるつもりでおいでになったでやす。
ですから最初は、米のほかにライ麦の麺麭を拵えるための裸麦とか、メリケン粉用の小麦……大麦……野菜もキャベツ、セロリーなぞを作ったでがすが、それが戦争でホテルが駄目になってからは、大急ぎで水田に切り換えて、野菜もここいらの百姓と同じようなものを、何でもやり出したでがす。それやこれやで、大分初めの予定と狂いができて、どうせ儲かんねえ普通の百姓をするなら慣れぬところで苦労するより、いくら貧乏でも生まれ故郷さ帰った方がいいと、平戸へ帰るものも出やしたし、一人欠け二人欠け、今じゃさっき申上げたように十四軒だけ……。石橋の旦那もお亡くなりなすったし、みんなで心を合わせて、旦那のお気持に酬いにゃなんねえと、必死にやってるでがす」
ということであった。
「一体石橋さんという人は、どういう方ですか?」
と聞いてみたら、
「そうでやすな、一口にいったら……途方もなく肚の大かい……日本人にゃ珍しい肚の大きな方でござんすな。それに親切な……小さい時から外国で苦労して、大金持になった方だけあって、考えなさることが日本人にゃ思いも付かねえような、大けえお方でやすな。
これはと思ったら、思い切った金をかけて、物惜しみなさらねえ……御自分も苦労なすった方でやすから、憐れみが深くて、実にようでけたお方でやす。あの方のことを悪くいうもんなんぞ、一人もねえでがす」
「じゃ、貴方がたが御覧になった石橋さんという方の、欠点とでもいったようなものは……一口にいったら、どんなところでしょうか?」
「わし共、有難てえ方だと思ってやすで、別段欠点といったことも、気が付いたこたアねえでやすが……そうでやすな……」
とあまり触れたがらぬ様子であった。
「……そうでやすな……欠点といえるかどうか、知らねえでやすが……あんまり長く外国にいらしたで……日本の事情に、通じてなさらねえてところで、やしょうかな? 日本は、旦那のいたとこと違うて、コセコセした小さな国でがすで……」
これで朧げながら、石橋氏という人の輪郭が、飲み込めたような気がする。まだいろいろ話は出たが、これ以上くどくどと並べたてたところで仕様がない。
水番の六蔵……山の農園の農夫が二人……馬丁の福次郎、いずれも石橋家が焼けた後は、山を降って一時ここで働いていた。が、石橋家没落後、水の尾村有となった柳沼の水番に雇われて、六蔵だけは、再び山へ戻ってここにいないという。農夫の一人はここで働いているが、一人は平戸へ引き揚げ、福次郎はやっぱり馬丁をすると、やがて伝手を求めて福岡へ出て行った。今も福岡にいると聞いている、ということであった。
手紙類が留置になっていたという、村の郵便局へ、牧田助役とともに車を走らせる。村の中央、消防の火の見櫓の傍にある、ほんの二、三人ぐらいで働く小さな郵便局である。
五十恰好の、白髪の多い父親と、二十三、四のよく似た顔の娘が、働いていた。そうですね、私も知らぬことはありませんが、娘の方が詳しいですから、ちょっとお待ち下さい、今呼びますからと、座敷へ娘を呼んでくれた。
引っ詰め髪に黒い上っ張りを着けた、素朴な娘である。指の先を炭酸紙で青く染めている。ハキハキと答えてくれる。
「……ハイ、お二人ともようく存じております、評判のお嬢さんですから。……お綺麗です。お綺麗ともお綺麗とも、お二人とも、眼の醒めるような方です。ジーナさんという姉さんの方は、いつも優しくにこにこと……妹さんのスパセニアさんという方は、キリッと口を結んで悧巧そうな……負けず劣らずお美しくて……ハイ、どっちがどっちともいえませんでした。でも、わたくし、仕事のほかのことでは、そうお話したことありませんです……」
「……いつもお二人で、立派な馬に乗って、郵便物を取りにおいでになります。元は農場の農夫さんや、馬丁さんたちばかり来ましたけれど。その大学生の方の評判が立ってからは、お二人で仲よくいらっしゃいました。
別段わたくしたちには、何にも仰しゃいません。ハイ、東京からは時々、片仮名の手紙が来ていました。絵葉書もまいりました。その時のうれしそうなお顔ったら! ハイ、覚えております、外国からも時々お手紙が来ますし、いつも四、五本ばかり郵便物をお渡ししますけれど、ほかの郵便なんぞ眼もくれずに、東京からの絵葉書だけ抜いて、窓口でお二人で顔を寄せて、読んでおいででした。向うの方は、そりゃ無邪気でいらっしゃいますから」
「……あの、郵便来ておりまして? と入っていらっしゃいますけれど、お二人同士は向うの言葉でお話しなさいますからハイ、わたくし共にはわかりませんです。
時々そういう葉書の来ている時、眸を細めてうれしそうに、
『フヴァーラ……フヴァーラ・ワム』
なぞと仰しゃることがございました。仏蘭西語なのかお国の言葉なのか、わかりませんです。そしてお二人で笑って読んでいらっしゃいますけれど……ハイ、お帰りになる時は、
『ありがとう……ありがとう』
とわたくし共ににっこりしてお礼を仰しゃって、外に繋いである馬でお帰りになります。あのお嬢さんたちがいらした時は、若い男の人たちは大騒ぎでございます。でも、向うの方ですし……欧州で名高い大金持のお嬢様だと、みんな知っておりますから、ただ、溜息を吐いてたばかりじゃないかと思います……」
「……姉さんの方がいらっしゃらなくなってからは、妹さんがお一人でおいでになりました。お一人で白い馬に乗って……毎日のように一週間ばかりの間、おいでになりました。大変馬がお上手だとかで……ハイ、わたくしも一遍外で、お見かけしたことがございます。パッパッと馬をあおらせて、房々した髪の毛を靡かせて、お綺麗な顔一杯に汗ばんで……これも村中の大評判でございました。外国の方は、どうしてああ恰好がいいものか! と見惚れたことがございます」
「……でも、お一人でおいでになった時は、お姉さんもお亡くなりになって、あの方がたった一人であの山の中に住んでいらっしゃるんだと後で聞かされました。……お父様もお亡くなりになって、お姉さんもお亡くなりになって、たったお一人でどんなにお淋しいことかと、涙が流れるような気がしました。でも、外国の方というものは、どうしてそう気丈なのだろうかと思いました。ハイ……いくら、みんながそういっても、あの方がお姉さんを拳銃で撃って、湖へお運びになったとは……どうしても思われませんです。
そんな恐ろしいことをなさるような方とは、どうしても思われませんです。警察の手で、みんなハッキリわかってるんだそうですけれど、それでも、今でもそう思えませんです。わたくしばかりではございません。村の人は今でもみんな、そういっております」
「……一番最後の時と仰しゃっても、その時がおしまいだとは知りませんでしたから、特別に覚えておりません。ただ、後から気が付いてみると、その時、何にも郵便はまいっておりませんと申上げましたら、特別に落胆なさって、随分じいっと考えていらっしゃったような気がいたします。そういえば、外へ出てからも、馬でお帰りになる時、何だかしおしおとなさって……。
父が、お前、お嬢さんは、電柱の陰で泣いていらしたようじゃないか! と、いっていたような覚えがあります。後で、その馬も大きな犬も、帰りにみんな開拓地へお預けになって、四里もあるところを歩いてお帰りになって、その晩、湖の中へ身を投げておしまいになったと聞いて、お心の中がどんなだったろうかと……泣けて、泣けて、仕方がありませんでした。
もうその時は、死ぬ覚悟をなすっていらしたんだなと思って……あんな可哀そうなお嬢さんたちに、旨いことばかり並べ立てた、薄情な大学生が憎らしくて憎らしくて、早く死んじまえばいいと思って……ハイ、その人が亡くなったと仰しゃっても、ちっとも可哀そうだと思いませんです。いい気味だと思って……」
「……ハイ、そう仰しゃれば、今思い出しました。四月の中頃、東京から電報が来たことがございます。その時は、もうお姉さんはいらっしゃらなくて、妹さんが一人で通っていらっしゃる時でしたが、その電報をお渡ししましたら、大変悲しそうな顔をして、読んでらっしゃったことを覚えております。
返電は確か、お打ちにならなかったように思いますけれど……そこんところは、ハッキリしませんです……」
これが、故青年が神保町の通りで、ジーナの姿を発見して打ったという、例の電報のことであろう。もうその時は、ジーナが射殺せられた後であろうから、思いつめている青年から、ジーナが上京したかどうか? と、ジーナの安否ばかり尋ねた電報が来て、スパセニアは悲しんだのであろう。
いよいよ話は、私の最も知りたいと思っていた、核心へ入ってくる。
「……お姉さんをお撃ちになった時のことは、みんなが知りたがっていますけれど、誰も見たものがないのですから、どうしてもハッキリしたことは、わかりませんです。
お姉さんが一番最後に郵便局へいらしたのはいつ頃か? その点を聞きたいと父も私も二度ばかり、小浜の警察へ呼ばれました。事件が起ったのは、四月の十四、五日頃から十六、七日くらいの間だろうと刑事さんもいっていられました」
「……何でも、事件の起る二日ぐらい前とかに、馬丁の福次郎さんという人が、用があって東水の尾へ、登って行きましたそうです。その時はまだお姉さんの方も、生きていらっしゃったそうですけれど……。
家へ入ろうとしたら、ふだん仲のいい姉妹が声高に諍いをしていられましたから、福次郎さんも躊躇して、しばらくそこに、立っていたのだそうです。お姉さんの声は、聞こえませんでしたけれど、
「わたしと貴方と、どちらかがいなくなれば、スグ解決のつくことなんだわ。どうせわたしだって、もう、生きてようとも思わないけれど、死ぬ前に黒白だけは、つけたいわ。あの方の真意も知らずに、死ぬのは死んでも死に切れないわ」と、大変昂奮して妹さんの方が仰しゃるのを聞いたとか、後で山田さんという刑事の方が、家へ見えられた時に話していられました。
どうせまたあの大学生のことで、姉妹の間に諍いが起ったんだろうと、その時は福次郎さんも思っていたんだそうですけれど、そのほかには誰も山へ登ったものがありませんから、詳しい経緯はどうしても、わかりませんそうです」
「……ハイ、山田刑事さんの仰しゃるのには、四月の十四、五日頃から十六、七日くらいの間に、お二人がお父様のお墓詣りをしていられた時に、また諍いが起ってその時かっとして、妹さんがお姉さんをお撃ちになったんだろうって……。
そして、死体を湖へ引き摺り込んだに違いないと、そういっていられました。お姉さんの死体の上がった場所や何かから見て、警察の方ではそういうことに、決まってるという話でございました」
靴を隔てて痒いところを掻くような、物足りなさは感じるが、四里四方一軒の人家もない山の中の姉妹間の争いであり、処理したのが田舎の警察では、これ以上聞き質してみても仕方のないことと、私も諦めた。
小浜に引き返し、牧田氏の案内で亀屋旅館に投宿する。
先刻の都留五八氏が訪ねて来てくれた。夕食後、牧田氏、都留氏と卓を囲んで会談する。話によれば、平戸にいる故石橋氏の弟、妹たちから欲に絡んで、東水の尾にある残余の地所、ホテル建設用の地下工事の資材、同じく大野木村に至る、四里の混凝土の溝渠等、マンガン鉱山の担保になっていなかった一切の資産に対する、継承権の訴訟が起されていたが、生前から平戸の親戚一同を好まなかった石橋氏の遺志を尊重して、水の尾村が主体となって法廷でようやく勝訴の判決を得て、水の尾村では近く、柳沼の水を水不足の沢谷郷方面へも供給すべく、水路の開鑿工事を行う予定だということであった。
スパセニアが投身自殺を遂げた最後の日、開拓地へ残していった愛馬のジュールと、犬のペリッ……ジュールは八十五万円、ペリッは二十七万円で、それぞれ小倉と長崎の素封家へ引き取られて、これらの金は、ことごとく水の尾村役場の石橋家財産管理委員会へ納められたが、管理委員会は目下外務省に依頼して、ドラーゲ・マルコヴィッチ氏一族を捜査中であると、都留氏ともども牧田助役から聞かされる。
あとがきの二
六月十三日、牧田氏、都留氏同行、東水の尾へ車を走らせる。
なるほど万里の長城のごとくに蜿蜒として、見事な混凝土の溝渠が走っている。彼方の丘に見え隠れして、時々車窓近くに並行してくる。故青年が二度目に来た時には、混凝土の底に、雑草が茂っていたと話していたが、今は溢れんばかり満々たる急流を湛えて、矢のような勢いで走っている。
それを眺めていると、人亡びて山河あり、といった言葉がしみじみと思い出される。この大規模な溝渠を設けた人も、そこに遊び戯れていた娘たちもすでに亡く、その話を私に伝えてくれた青年も、もはやこの世の人ではない。
人の命の脆さ儚さが、今更のように胸に迫ってきて、哀切一入深きものがある。
東水の尾岬の突端に立つ。なるほど、故青年が激賞したとおり、天下の大景観である。
断崖の直下、脚下遥かの岩に砕くる数丈の飛沫は、ここに立つもなお、全身の濡れそぼれる心地がする。魂飛び眼眩めくというのは、こういう絶景を形容するに用いる言葉であろう。
万里の波濤を俯瞰し睥睨する大ホテル現出の雄図、空しく挫折した石橋弥七郎氏の悲運に同情するもの、ただひとり故柳田青年のみならんや!
見終って、地下工事場跡へ歩を転じた時、水番の六蔵の出迎え来たったに逢う。
「到頭あのお若けえ書生さんも、お亡くなりなせえやしたか? そりゃまあ、お気の毒なこんで……さぞ親御様も、お嘆きでござらっしゃりましょう」
と朴直そうな六十爺は、湖岸から半道あまりを駈けつけて来た禿げ頭の汗を押し拭いつつ、悔やみを述べる。
「でもまあ、有難てえ、といっちゃ悪いでやすが、……こいでまあお嬢様お二人も、もうこの世に何にも思い残しなさることもねえようなわけで……今頃はお三人で、楽しく三途の川原ででも、遊んでおいででやしょう……なむまいだぶ……なむまいだぶ……」
六蔵に連れられて、牧田氏、都留氏ともども、地下工事場跡を見る……故石橋氏邸の焼け跡を見る……柳沼を見る。
壮大とか、瀟洒とか、幽邃とか、余計な形容詞なぞは、一切省くことにしよう、ことごとく青年の話の中に詳しいから。
ともかくこれらを見た私の感じを一言にしていえば、故青年が私に話してくれたところには、一点一画のウソも偽りもないということであった。
地下工事現場には、大勢の人夫が入り乱れて、福岡の貝塚合名会社地所部とした貨物自動車が、十二、三台、盛んに取り毀した工事場の鉄梁や、鉄柱を積み込んでいた。
福岡に建つ大きな六階建てのデパートの、建築資材にするのだという。湖の回りにも、人夫や測量師体の男たちが入り乱れていた。
邸の焼け跡では、淋しく花をつけた蔓薔薇の二、三枝を折りとった。あとで、石橋氏の墓前に、供えたいと思ったからである。
大分雑草も刈りとって、自動車道路が設けられてあるから、昔日の高原の趣きとは、いくらか違っているかも知れぬ。待たせておいた車を駆って、いよいよ湖岸西北方、故人が涙を呑んだ例のマンガン鉱山を、南方の碧空に仰いだ小山の麓に、石橋弥七郎氏の墓を訪う。
水番小屋より、ここまで二十一丁……それがこの辺産出の三根石というのであろう、鈍い紫色の膚を光らせて、さして大きからぬ墓一基、黙々としてそそり立つ。
訪う人も来る人もなく、ただ一基……折しも陽雲にかくれて晩春の気蕭条! ここに数奇の運命の人眠る。裏の林に名も知れぬ小鳥啼いて、鳥の心……石橋氏の心……ただ何となく、涙のしたたり落ちてくるような気持がする。
なむまいだぶ……、なむまいだぶ……と、六蔵の念仏のみが、痛切に胸に沁み込んでくる。合掌して、焼け跡から折り取って来た生前遺愛の蔓薔薇を供え、香を焚く。運命の人よ! 八十年生きるも百年生くるも、人の世はすべてこれ夢! 地上すべての煩しさを断って、悠々と安らかなる眠りを眠られよ!
牧田氏の知らせによって四里の道を越えて故青年の所謂、伊手市どん……水の尾村の石工、吉永伊手市氏と、肥後屋の亭主、半田藤五郎氏が来てくれる。藤五郎氏が背負って来た弁当を、自動車中で認めて、いよいよ姉妹の墓に詣ずるべく湖岸を西に向って歩き出す。
故石橋氏の遺志を継いで、東水の尾岬一帯を水の尾村営の温泉観光施設とすべく、すでに水の尾より二里ばかりの間は、自動車路が完成したという。が、こちら側はまだできていないから、これから一里半ばかり姉妹の墓のあるところまでは、歩かなければならぬ。
「湖は、真ん中よりもかえって、この辺の方が深いでがして……」と六蔵が教えてくれる。
「スパセニア嬢様の死体は、発電小舎の近所から上がったでやすが、ジーナ嬢様の死体は、ついその辺から上がったでがして……」
とすれば、左前頭部に一弾を受けて、ジーナが血煙立てて倒れたのも、またこの辺であろう。万籟闃として声を呑む、無人の地帯にただ一人、姉の死体を湖の中へ引き摺り込むスパセニアの姿こそ、思うだに凄愴極まりない。その辺になお血痕斑々として、滴り落ちているかと疑われんばかり、肌に粟の生ずるのを覚ゆる。
このあとがきをつけるのは、正確な記録を申上げるためなのだから、まず山の名から詳細に書いてゆこう。今登ってる山を唐倉山という。この山腹を伝い登ること約三十町、志方野を越えて、さらに次の山路に入る。この山を朝倉山という。スグ続いて赤名山の山腹に入る。
この三分の一行程ぐらいのところで、いよいよ問題の細道……と栃の大木の繁り合った、草むらへ出るのであるが、これらの山道は、いずれもさほど急峻なものではない。が、頭上に山の頂や隣の峰々が高く聳え立ち、全山ことごとく樹木鬱蒼として昼なお暗く、夏でも鳥肌立って、寒けを感ずるであろうと思われる。
「ほら! あすこでごぜえます……あすこであの旦那様は、休んでいらっしゃったでごぜえます」
不気味そうに藤どんなる藤五郎氏の指さすところに、なるほど一際こんもりとした、老樹が二本縺れ合っている。
「うとうとしていられると、ちょうどあの木の下から、お嬢様がお二人で、降りていらしたでごぜえます」
もはや噂はこの辺の、静かな山村一円にも拡がっているのであろう。
なむまいだ、なむまいだ、と六蔵が眼を閉じて、また念仏を唱える。いよいよ問題の老樹の下に立つ。
「じゃ、こんだア、こっちの方へ登りますで……大分狭くなってめえりますで、足許に気イお付けなすって……」
詳しくいえば、水の尾村字亀瀬というところだそうである。姉妹二人は墓からこの道を伝わって、さっきの木の下へ出た、と連中はいうのであるが、これは道とは名のみ! 幅一尺もあるかないかの小径に過ぎぬ。それが幾年にも人の通ったけはいもなく、両側から丈高い熊笹に掩われている、胸許までといっては大ゲサ過ぎるかも知れぬが、股のあたりくらいまでは、確かにあったであろう。
それがビッシリと小径を掩い隠して、木の下からこの辺まで約五町くらいもあろう。この辺から黄櫨の木立が、眼立って多くなってくる。
「この辺でごぜえやす。この辺まで下って来ますと、あの旦那様が、ワァーッ! と逃げ出しになったので、みんな怯気づいて、出たア! と、いやもう大変な騒ぎで逃げ出したでがす」
藤五郎氏、伊手市氏両人とも、それ以来ここへ来るのは、今日が初めてだという。
「旦那様、見えますでやしょう? あすこに小さく……あれがお墓でごぜえやす」
なるほど、ポツンと二つ墓も見えるが、それよりもこの景色! なんという素晴らしさ! なんという美しさ、さっき飛沫を上げる東水の尾岬に立って発した感嘆とは、また異なった嘆声をもう一度、私も上げざるを得ぬ。
傾斜を下り切って、今この野原に立って眼を上げる。見ゆる限り草蓬々たる大野原! 四周を画って層々たる山々が、屏風のごとくに立ち列なり、東北方、山襞の多い鬱然たる樹木の山のみが、その裾を一際近くこちらに曳いている。
陽はその中腹あたりの岩肌をキラキラと輝かせているが、天地万物寂としてしかも陽だけが煦々として、なごやかにこの野原に遊んでいる。
向うの山の頂に美しい白雲が泛んで、しかもその白雲の翳を落としているあたり、ヒョロ高い松が二、三本聳えて、その根元に墓が二つ……。
あすこに、美しい娘たちが眠っているのかと思うと……青年ももはや亡く、ただ不思議な縁で、何のゆかりもない私が今、その墓詣りに来ているのかと思うと、万感こもごもわき起ってくる。
「あ、旦那様、足許がお危のうごぜえます……」
「貴方が、あのお嬢さんたちのお墓を彫ったんだそうだね?」
「へえ、左様でごぜえます。手前が……」
「お嬢さんたちは、生前ここが大好きだったから、それでここへ葬ったとか……」
「旦那様は、大層よう御存知で……」
「ここからあすこまで、どのくらいあるのかね?」
「近くに見えとるでやすが、さ、まだ七、八町の余もごぜえましょうか?」
熊笹がいよいよ多くなる。ますます黄櫨の木が殖えてくる。もはや人はほとんど通らぬとみえて、六蔵や、伊手市氏、牧田氏、藤五郎氏たちが先に立って踏み分けてくれるからついて行けるが、私ひとりだったら、とても行き着くことは思いも寄らなかったろう。
無言でしばらくガサゴソと、熊笹を分ける。蛍草や竜胆風の花が、熊笹のあちらこちらに見える。野生の石楠花が処々に咲いている。
この景色を最も好んでいたとはいえ、死後もなおそれを忘れずに、二つの屍体を運び、重い二つの墓石を運んだ馬丁の福次郎と六蔵との純情にも感ずるが、この二人をして、それほどまでにも追慕させている、亡くなった二人の姉妹の心の温かさも偲ばれる。
十六町の道を、全部踏み分け終って、今ようやく墓の前に立つ。
二本の松は赤松であった。その根元の小高い丘の上に……今私の立っているこの足許に、もはや姉と妹ととは争いもなく、平和に眠っているのであろう。
三根石は、紫色の膚を光らせて、台石もなく土の上に突っ立っている。
向って右が、
石橋 スパセニアの墓
左が、
石橋 ジーナの墓
幽蘭香を焚いて合掌する。香煙はゆらゆらと立ち昇って、墓の面を掠め、そして、私は憮然として、墓をみつめて立つ。死後の世界では、人間はことごとく霊のからだと化して、恋もなければ愛もなく……嫉妬……怒り……悲しみ……嘆き……肉に属するもの一切は、ことごとく消え失せてしまうという。
そして、ただ幼児のように楽しく遊んでいると聞く。
石橋スパセニア嬢よ、石橋ジーナ嬢よ、生きていればこそ、人間愛欲の争闘もあれ! 死んだ今となっては、地上の悩み一切を忘れて、ただ楽しく……ただ楽しく……三人で幼児のように楽しい日をお送りなさい! と私は眼を瞑じて黙祷した。
「こんな淋しいところに親子別々に葬っておくのは、可哀そうじゃありませんか! お父さんのお墓も、ここへ一緒にして上げたら、いいじゃありませんか!」
と私は牧田氏を顧みた。
「そうするでがす。わしもそう思うとるでがす」
と、牧田氏の言葉はなくて、六蔵が引き取った。
「今日までは幽霊だとか何だとか、わしも気味悪かったでやすが、旦那様がおいでになって、もうなんともねえでがすから、早速そうするでがす……」
風が梢を颯々と鳴らして、香煙がゆらいでいた。