目次
南球五万哩余程、沐雨梳風嘆独行、帰入旧廬有相識、一窓梅月照寒更。  甫水 円了道人

(南半球五万マイル余の行程、雨で髪を洗い、風にくしけづり、たったひとりで旅するを慨嘆する。わが家に帰えればなじみのものがあり、窓より見る梅に月は寒さの深まりを照らしている。)
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 今回の南半球の周遊は、二百九十七日間に五万七十五マイルを踏尽せし故、一日に百六十九マイルずつを急行したる割合なり。かかる電光的旅行なれば、精細の観察は到底望むべからず、ただ瞬息の間に余の眼窓に映じたる千態万状を日記体に書きつづりたるもの、すなわち本書なり。
 余は元来無器用にして、写真術を知らず、スケッチはできず、余儀なく耳目に触れたる奇異の現象は、言文一致的三十一文字、または二十八言等にて写しおきたれば、本書中にその糞詩泥歌をもあわせて録し、もって読者の一笑を煩わすに至れり。
 南半球の旅行中に、便船の都合にて英国を経由し、欧州を歴訪したれば、その紀行を本書中に加え、もって欧州最近の実況をも読者に紹介することとなせり。
 本書刊行の目的は、わが同胞をして、今後ますます進んで南球の別天地に活動せしめんとする意にほかならず。今日の青年は「埋骨豈唯故郷地、南球到処有青山」(骨を埋めるのはなにも故郷の地だけとは限らない、南半球の地の至るところに骨を埋めることのできる青山はあるのだ)の気慨あるを要す。いやしくもこの気慨あるものは、自国を遊園とし、海外を工場とし、よろしく遠く天涯万里に向かって雄飛活躍せざるべからず。国運発展の道も、けだしここにあらんと信ず。
 もしこの瑣々たる小紀行が、いくぶんたりともわが同胞の海外発展を資するを得ば、大幸これに過ぎざるなり。
明治四十五年二月十五日
著者しるす
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 近年もっぱらわが国の社会教育、地方教育、民間教育に従事せし以来、自ら思うに、戦勝国の国民として世界に活動するには、海外の事情に通ずるを要す。ことに戊申詔書の聖旨のごときは、世界の大勢に伴って国運を発展するゆえんを示したまえるものなれば、これを奉戴服膺するにも、万国の形勢を知るの必要あり。しかるにわが国において、北半球の国情、民俗は比較的熟知せられ、かつ余も二回欧米各国を周遊したれば、一とおりの質問に応ずることを得るも、南半球にいたりては世間その事情に暗く、余もいまだ足跡をしるしたることあらず。ゆえに、地方巡遊中もときどき豪州の民情、あるいは南米の風土等に関し、尋問を受くることあるも、これに応答するを得ず。これ、余の自ら遺憾とするところなり。ここにおいて断然意を決して、南球周遊の途に上るに至る。
 けだし、北半球はこれを人の年齢に比するに老朽せるもののごとく、これに反して南半球は血気さかんなる青年時代のごとくなれば、今より後、吾人の活動すべき舞台は、北半球にあらずして南半球にありとは、余が断言するをはばからざるところなり。例えば地積と人口との比例を見るに、北半球は一方マイルに五十人くらいの割合なるに、南半球は一方マイルに四、五人に過ぎざるべし。年代につきては、その懸隔のはなはだしきこと言をまたざるなり。余、かつて一絶を賦してその意を述ぶ。
青年興業欲何求、須別天涯下、東亜西欧齢已老、南球独有春秋
(青年が事業を興すに何かを求めようとするならば、別天地のはてに向かうべきである。東亜も西欧もすでに老成しており、むしろ南半球の地はなにごとも年若いのだから。)
 果たしてしかりとせば、自ら南球を一周し、各州各島の風土に接触して、その実況をわが民間に紹介するは、地方教育上今日の急務と信じ、ここに南遊の志を起こすに至る。その周遊の時日限りありて、詳細の視察は到底望むべからざるも、諺に「百聞一見にしかず」というが、余は「百読一見にしかず」と思い実地見聞の必要を認め、にわかに旅装を整え、まず豪州に向かいて発程す。本邦を去るに臨み、左の書簡をもって知友に告別す。
 のぶれば拙者事、明治二十三年十一月より本年二月までに、前後二回全国を周遊し、御詔勅の聖旨にもとづき、修身道徳の大要を演述し、その開会の場所は、琉球、台湾、樺太、朝鮮、小笠原までを合わせ、八十七国、一千五百七十九市町村に達し申し候。なお今後も余命のあらん限り、引き続き全国各郡残る所なく、周遊巡了つかまつりたき志望にこれあり候につき、南洋および南米植民地の風教視察の必要を感じ、四月一日の便船にて、豪州へ向け航行つかまつるべく候(以下これを略す)。左の拙作三首を添う。
東去西来知幾年、壮心一片老逾堅、微衷聊欲皇運、遥上南洋万里船。
(東に行き西に行くこと幾年であろうか、一片のさかんな志をいだき、老いてますます堅い。わずかな忠心で少しでも国運の隆盛をたすけようと思い、はるかに南洋万里に向かう船にのったのである。)
北馬南船送老涯、今年又背墨堤花、死山斃海何須厭、天地元来是我家。
(北では馬、南では船に乗って老いのきわみをすごし、今年はまた墨田の土堤の花を背にして行く。山に死し海にたおれるともなんのいとうところがあろうか、天地は元来わが家なのだから。)
老来擲却百家書、意気揚揚鵬不如、樺海台山猶覚狭、垂天翼向遠洋舒。
(老いしたがってかえって多くの書を投げすて、意気揚々として鵬もおよぶまい。樺太の海、台湾の山もなお狭さを覚え、空の果てまでおおう翼をもって遠い海洋に向かってゆったりとゆくのである。)
 明治四十四年四月一日、曇晴。午前八時、多数の知友に送られて新橋を発車し、十時、郵船会社日光丸に入乗し、正午、横浜を出港す。本船のトン数は五千五百四十七トンにして、八木政吉氏その船長たり。上等客約二十人、みな白人なり。波静かなるも風寒し。
 四月二日(日曜)、快晴。ただし風寒きこと前日のごとし。午後一時、神戸に入港す。大阪毎日新聞記者藤枝範氏来訪あり。楠公社内に県下の共進会ありというを聞きたれども、上陸せず。
 三日(神武天皇祭)、雨終日やまず、かつ寒し。わが軍艦五隻入港す。
 四日、晴れ。北風強くして冬のごとし。午後四時抜錨す。内海の風光を夢裏に看過して門司に向かう。
 五日、晴れ。午前十一時、門司に入港す。午後、上陸して散歩を試む。一千二百六十トンの石炭を八時間にて積了せり。その迅速なること、外人の目を驚かす。
 六日、晴れ。暖気ようやく加わり、春天の融和を見る。筑山・壱州に応接して、午後四時、長崎に入港す。桜花満開の期を過ぎ、八重桜の最中なり。小島町正覚寺に至り、有馬憲文氏を訪問す。親鸞上人御忌執行中なるも、好意にて別杯を具せらる。夜に入りて帰船す。
 七日、晴れ。午後五時解纜す。崎陽三十六湾、春色を装ってわが行を送る。たちまちにして暮雲雨をはらし、鎮西の諸山煙裏に埋没し、また本邦の山河を望むを得ず。
崎陽三十六湾湾、看過風光瞬息間、更上船橋高処望、暮雲忽鎖鎮西山。
(長崎三十六の湾それぞれの風景をまたたく間に見送る。さらにデッキの高い所にのぼって一望すれば、夕暮れの雲はたちまちに九州の山々をとじこめてしまった。)
 夜暗くして波光りあり。
 八日、雨。暁窓四面山影を見ず。
単身去国向南球、昨夜船牀夢壮遊、回首暁窓無触目、東天白処是皇洲。
(たった一人で国を去って南半球に向かう。昨夜の船のベッドでは壮大な旅遊を夢みた。頭をめぐらせて暁の窓をみれば目に入るものは何もなく、東の空のしらじらとするところこそすめらみくになのである。)
 ときどき雲煙前路を遮るために、汽笛を鳴らして過ぐ。潮流、暖を送り来たる。午時、一声の雷あり。腰折れ二、三首、左に録す。
海原に絶えて桜のあらざれは、波の花みて春をしのばん
吹く風よ東の国にかよひなば、己が音信を家に伝へよ
天さかる家路やいつらながむれど、雲より外に見る影もなし
 四月九日(日曜)、曇り。午前、消火の演習あり。終日陸端を見ず、また船舶に会せず。晩来、天ようやくはれ、星文を見る。
茫茫波上望難分、山歟非山都是雲、日落南溟天漸霽、船牀仰臥※(「竹かんむり/弄」、第3水準1-89-64)星文
(ひろびろとした波の上では一望しても何もわからず、山かと思えば山にあらず、すべては雲なのである。日がしずんで南の大海は、空もようやくはれて、船のベッドに仰臥して星もようをかぞえたのだった。)
 夜に入り、シナ東南に当たりてタイアン灯台を望み、亜細亜号英船に会す。わが船すでに台湾海に入る。
 十日、曇晴。順風、波また高からず。暁天、アモイの沖にあり。淡水港と往復の帆船を波間に見る。
波間帆影浮、知是台湾近、挙首望山端、白雲深処隠。
(波の間に帆の影が浮かび、これぞ台湾に近しと知った。ふり仰いで山の端を望めば、白雲が深々とかくしていた。)
 午後、シャンハイとホンコンとの間を往復する汽船二隻に会す。ホンコンの近づきたるを推知するに足る。船中に豪州の婦人、その齢七十七歳にして、老後の保養のために日本に東遊し、帰国の途に就きたるものと同乗す。その勇気には驚けり。わが婦人の遠く及ぶところにあらず。
 十一日、晴れ、かつ暖。午前七時、ホンコンへ入港す。ホンコンは台湾南部とともに熱帯圏内にあれば、わが内地の七月ごろの気候なり。船檣の湾内に林立せるありさまは、東洋第一の要港たるの名に背かず。海上より岸頭を望むに、四階、五階の洋館櫛比せるが、焼余の廃屋のごとくに見ゆるは奇観なり。これ、家屋の前面はシナ式に構造せるによる。横浜よりここに至る海路、一千八百五マイルあり。
横浜――神戸==三百四十五マイル、神戸――門司==二百四十マイル、門司――長崎==百五十マイル、長崎――ホンコン==一千七十マイル、合計一千八百五マイル。
 午前上陸、正金銀行支店および郵船会社支店を訪問して帰船す。当夕九時、英船仏山号に移りてカントンに向かう。ホンコンの夜景は海上より一見するに、全市万灯中にうずめらるるの趣あり。山媚水明に加うるに、この夜景をもってし、大いに吟情を動かす。
峰巒繞海海如湖、船与船連舳抱艫、入夜港頭更添趣、万灯光裏泛全都
(山の峰が海をめぐり、それ故に海は湖のように静かである。船と船とはへさきを連ね、船尾をくっつけあっている。夜に入って港のあたりは趣を増し、幾万のともしびのなかに香港ホンコンのすべてがうかぶのである。)
香港の山につゝける電灯の、光りは星とあやまたれけり
 十時出港。通宵汽船、珠江にさかのぼる。ときに陰暦十三夕にして、淡雲を隔てて涼月を望む。すこぶる幽趣あり。
 十二日、曇りのち雷雨。午前六時半、カントンへ着岸す。両岸、小艇の群れをなして櫛比せるを見る。これ、その名の高きカントン水上生活の実況なり。人口百五十万中、八十万は水上生活と称するも、その実三十万人くらいならんとの説なり。この水上に住する人民は一種の賤民にして、陸上に住するものと交際せず、冠婚葬祭も陸上とは全くその縁を絶ち、水居仲間にてこれを行う。教育も水陸別途なり。ゆえに、水上に別に寺院船ありて、その中にて葬儀を行い、また別に学校船ありて、その中にて教育を授くという。一船は一家にして、父子同棲するも、子長ずれば別に船を設けて分家せしむ。夜間は岸辺に集まるも、昼間は集散常なし。これを遠望するに、無数の木葉の江上にうかぶがごとし。その動くや男子櫓をこぎ、女子楫をとるも、男子船外に出ずるときは、女子自ら櫓をこぐなり。一家の生活費、一カ月三円ないし五円くらいなりという。仏山号の着せし岸は植民州と名づけ、外国人の寄留地にして洋館並立す。その州外に着するや、岸頭にわかに市を成し、その声囂々たり。
広東一路泝珠江、看過船居幾万艘、繋纜殖民洲外岸、市声楼影入玻窓
広東カントンへの路は珠江をさかのぼる。船を住まいとする幾万艘をみつつ行く。ともづなをつなぎとめたのは植民州のはずれの岸であるが、市中の音や楼閣の姿がガラス窓を通して入ってくる。)
 たちまちにして見物案内者、争って船中に入る。余も案内を雇い、椅子つきの轎に駕し、三人これをかつぎて半日、市の内外を周覧す。案内者はみな英語に通ず。
 カントン街路はその狭隘なること、一間ないし二間に過ぎず。轎と轎と相会するときは、徐行してようやく過ぎ去る。下に石を敷き、上に日よけを張り、白昼なお薄暮のごとくなる等は、台湾鹿港の市街に同じ。かく街路狭く、家屋高く(みな二階造り)、空気の流通あしきために、異様の臭気鼻をつききたる。西人これを評して、カントンには三百六十とおりの臭気ありという。はじめに市街の諸店を通覧し、つぎに五百羅漢、道教寺院、仏教寺院、陳氏祖廟、富豪墓所等を一巡し、丘上なる鎮海楼(五層楼)上にのぼりて休憩し、小餐チーフェンを喫す。楼上にありて一望するに、カントン全市眼下にありて、街区は碁盤の目のごとく、江上の行舟は蟻の動くがごとし。
五層楼上望無辺、占得満城風月権、羊港布碁家比比、珠江散葉艇翩翩。
(五層の楼の上から一望すれば果てはなく、広東カントン全市の風と月の鑑賞の権利を一人占めにした思いである。広州の路は碁盤のように区画されて家が立ちならび、珠江には木の葉を散らしたように小舟がひらひらと行きかう。)
広東の山よりみれば珠江なる、舟は木の葉の浮ぶかと思ふ
 楼を下りて、さらに孔子廟、水時計等、三、四カ所を歴観して帰船す。雷雨はげしく来たり、満身ためにうるおう。少憩の後、郵船会社支店長松平市三郎氏を訪い、杯をふくみ話を交ゆること約一時間にして、領事館に移り、総領事代理瀬川浅之進氏に面会す。五時乗船、驟雨ようやく晴る。領事館書記相原庫五郎氏の帰朝せらるるに会し、同乗してホンコンに向かう。江上に画船(船の周囲をえがきたるもの)の、幾百の清人をのせて上下するあり。船側に小汽船を連結してこれを動かす。その数三百艘ありという。一奇観なり。船中より市街を側観して、野外の晩景を迎う。高塔パゴダの丘上または岸頭に屹立するもの数基あり。行くことようやく遠くして、河水ようやく広く、その河口に至れば広さ八マイルありという。当夜十一時半、ホンコンに着す。ときに雨はなはだしく至る。ゆえに船中に一泊す。
 十三日、曇り。ときどき驟雨一過、わが梅雨の時のごとし。午前七時、小舟サンパンにて本船に帰る。カントン往復水路、およそ百九十マイルあり。午時領事館に至り、総領事代理船津辰一郎氏に面会し、同氏の好意により香港倶楽部楼上において午餐を喫す。窓前に踞して湾内を一瞰すべし。新聞室、図書室の設備あり。午後市街を散歩し、日本人倶楽部に少憩し、郵船会社支店長楠本武俊氏の案内にて、同氏の邸宅に至り、特に船津領事等と日本食の晩餐をともにするの好遇を受く。邸宅は公園の背上、山腹にありて、山海の風光、軒前に懸かり、あたかもパノラマを対観するがごとし。
軒前高廈圧林邱、望裏送迎来去舟、漢客勿誇岳陽景、万千気象在斯楼
(ひさしの前の大きな家は林や丘を圧するかのごとく、見渡すうちに客を送迎する舟が去来する。中国の旅客よ、岳陽楼の風景だけを誇らしげにいうなかれ、ありとあらゆる天然の景色はこの楼にあるのだ。)
 楠本氏の配意により夜九時、小汽船をもって本船に送られ、朦朧たる満月をいただきて帰船す。船中、別に一詩を案出す。
香港海如嚢、万船出入忙、炭煙迎暁雨、汽笛送斜陽
香港ホンコンの海はふくろのごとく、万をもって数えるほどの船が忙しく出入する。船の出す石炭の煙はあけがたの雨を迎えるようにたなびき、汽笛の音が夕陽を送るように響くのである。)
 十四日、曇り(満月)。ヤソ教のいわゆるグッドフライデーなり。正午十二時、ホンコンを抜錨す。左に、カントンおよびホンコン市街にて目に触れたる迷信の二、三を付記すべし。シナ人は営利の念強く、福を祈ることはなはだし。街路に往々、福徳祠と名づくる小石室あり(台湾もまたしかり)、その中福神の像を安置す。その貌ややわが大黒、恵比須に似て、服装を異にす。その前に香花を捧ぐ。また、毎戸の前隅に聚宝碑と名づくる小石碑あり。その碑面に「来竜聚宝接引財神」と刻し、あるいは「門戸土地福神」と題し、その左右に「銀甕排山入、金船駕海来」(銀のかめは山をおしひらいて入り、金の船は海を渡って来たる)と記し、あるいはまた「金枝時発枝銀樹日開花」(金の枝は時に枝を生み、銀の樹は日々花を開く)と記し、あるいはまた「招財進宝、堆金積玉」(財宝を招き入れ、金玉をうずたかくつむ)とも記するあり。各商店の軒下に、「富客常臨、百福盈門、貨如輪転、其門如市、五福臨門、客似雲来、後来更好」(富裕の客がみえ、もろもろの福が門にみちて、貨財はどんどん回転し、その門前は市のように繁昌して、五つの福(長生・富・健康・道徳・天寿)が門にあつまり、客は雲のように来て、将来はさらによし)等の文字を記したる紙を貼付す。また、わが国の守り札のごときものを貼付せるあり。「文帝宝誕喜助※(「酉+焦」、第4水準2-90-41)金何輛、老福徳宮宝誕、天后聖母宝誕※(「酉+焦」、第4水準2-90-41)金何輛」と片紙に印刷したるものを貼付せるを見る。案ずるに、シナ人は金紙銀紙を神前において焼きて福を祈る、そのときにこの片紙を受けて帰るものならん。わが国の護摩札のごとし。また、街上に売卜者多し。わが浅草観音の門前のごとし。題するに「毎事卦資二仙」とあり。また、室内をうかがい見るに、あるいは観音の像をかけ、あるいは関帝を祭り、あるいは壁上に神字を刻したるものを崇拝す。カントンの寺院の前には乞食多く集まりて旅客を煩わす。ホンコンの人力はその色赤黒くして、おのずから一種の特色を有す。これを力車と呼ぶ。わが同胞のここに寄留せるもの約千人にして、寺院および学校の設備あり。ホンコンを出帆してより、わが船南東に向かいて進行するに、東北風に送られて少しく揺動す。しかれども、マニラ行の一等船客多数に入乗せるをもって、船中盛況を現す。
 十五日、晴れ。暁来、暑気大いに加わる。風静かに波穏やかなるも、シナ海のひろき、終日一物の目に触るるなし。
茫茫支那海、唯見水連空、赤道将遠、満帆三伏風、
日沈暑威減、風転晩涼従、月下船南進、雲涯是呂宋。
(ひろびろと果てしない支那海は、ただ水と空と連なっているのをみるのみである。赤道もそれほど遠くではなく、帆は夏三伏のような暑気の風をはらむ。日落ちて暑さの猛威もようやくおとろえ、風は一転して夕暮れの涼をともなう。月のもと船は南に進み、雲の果てこそが呂宋ルソンである。)
 当夕より晩食にアイスクリームを出だし、夜中電扇ファンターを動かす。
電扇送風使夢醒、深更何響枕頭聴、或疑隔壁群蜂叫、又訝衆僧遠誦経。
(扇風器が風を送り夢より見覚めさせ、夜もふけて何の響きか枕元にきこえてくる。その響きはあるいは壁のむこうで蜂の群れが飛ぶ音かと思い、また多くの僧侶が遠くで経を誦しているかとあやしむのであった。)
 四月十六日(日曜)、晴れ。ヤソ昇天日なれども、日本船なれば、船中にて礼拝式を行わず。早朝よりフィリピン群島を望見して進航す。
晴波涼月汽声閑、船向南辰星下攀、暁入玻窓何処影、摩尼拉海呂宋山。
(はれやかな波と涼しげな月、汽笛の音ものどかに、船は南方の星の下をよじのぼるように行く。あかつきにはガラス窓にいずこかの陸影がみえた。それは摩尼拉マニラ湾の呂宋ルソンの山である。)
 午時、マニラ湾に入港。三時より八木船長とともに上陸し、馬車を駆りて領事館に至る。当所は昨今酷熱の候にして、わが八月の暑気以上なり。昼間の温度は九十度に上るも、日没後は大いに清涼を覚ゆ。副領事杉村恒造氏とともに電車に駕して市内を巡見し、公園に佇立して楽隊の奏楽を聞く。当日はイースターの大祭日なれば、園内の群集一方ならず、その人数、万余に及ぶ。これより杉村氏の好意により、メトロポリタンホテルにて晩餐をともにす。料理はスペイン式にして、多少趣を異にするところあり。しかして建築はフィリピン式なり。夜九時、杉村、八木両氏と相伴って帰船す。
 マニラ市はフィリピン群島三千七百州の首府にして、その中の最大島たるルソン島にあり。ホンコンよりここに至る海路、六百六十マイルとす。市中の人口二十二万ありて、そのうち一万人は外国人なり。周囲は平原にして、山岳望中に入る。樹木の日光を遮るなく、汚水の諸方に滞留するあり。人家は多く二階建てなり。室内は土間のままにて床を張らず。別にシナ街あり、日本街あり、四百人前後の日本人、なおここに住すという。当地の風俗として第一に旅人の目に映ずるものは、婦人の服装なり。その両袖の張りたるありさまは、蝉または蝶の羽を開きたる形に似たり。わが昔時のカミシモは、この服装より起こりしならんとの説あり。また、わが昔話の三保の松原の天の羽衣は、フィリピン人の服を見て想像をえがきたるものならんとの説あり。物を運ぶに、女子のみならず、男子まで頭戴をなす。炎天に道を行くに、すべて傘を用いず。また、土人は手に入れ墨をするを常とす。村落に入れば顔にも入れ墨すという。西洋人にしてここに住するものの多数は、手に入れ墨をなせるを見る。これ、好奇に出でたるものなるべし。遊戯、娯楽につきて、その最も盛んなるものは闘鶏の一事なり。鶏の足に刃物を結束し、死生を決するまで闘わしむという。宗教は概してヤソ旧教にして、寺院にはすこぶる広壮なるものあり。草木は台湾南部に似て、芭蕉、檳榔および荊竹多し。また、水牛を用うることも台湾に同じ。小舟は木身竹屋より成り、竹を編みて屋根をおおう。また、船の両側に竹縁を有す。これをこぐにはシャモジ形の板を用うるもまた奇なり。余が所見を賦したる詩および歌、おのおの二首あり。
肥馬軽車街路平、無風無樹暑如烹、日将暮処涼先動、女似飛蝉翅行。
(肥えた馬と軽やかな車のゆく街路は平らかに、風なく樹もなくにるような暑さである。日が暮れようとするときに涼しさがまず起こり、女性は飛ぶ蝉のように袖をひるがえして行くのである。)
呂宋第一都、苦熱骨将枯、日落涼風起、六根漸覚蘇。
呂宋ルソン第一の都会は、はなはだ熱く、骨も枯れ果てるかと思われた。日暮れて涼風が起こり、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)はようやく生き返る思いがしたことだった。)
吹く風も流るゝ水も熱ければ、マニラや熱の地獄なるらん
夏よりも暑きマニラの旅枕、わが故郷の風ぞこひしき
 十七日、晴れ。午前上陸、暑さを恐れてただちに帰船す。午時出帆して木曜島に向かう。進航中は涼風入り来たり、かえって暑さをしのぐにやすし。
 十八日、炎晴。穏波軽風、朝来ときどき小巒州の波間に隠映するあり。午時太陽を仰ぐに、頂天よりやや北方にあるを覚ゆ。船中に遊泳場を設け、朝夕客をして浴泳をなさしむ。夜に入り黒雲四方に遮り、はるかに電光を見るも、雷雨来たらず。
 十九日、炎晴。早朝わが船海峡に入り、左右に林巒の鬱然たるを指顧して過ぐ。これより海ようやくひろく、終日また山影を見ず。風あれども風また熱し。夜に入るも暑さなお減ぜず、海水の温度は八十度に達し、甲板上に横臥するも、なお発汗を免れず。朝六時に日昇りて、夕六時に没し、没後ただちに暗黒となる。まことに昼夜平分なり。これ、赤道の近きを知るに足る。幸いに風波穏やかにして、船の動揺を覚えず。
呂宋海上向南東、吹送炎氛赤道風、午下知吾皇国遠、太陽已在北天中
呂宋ルソンの海上を南東に向かい、ほのおのような大気を送って赤道の風が吹く。ひるさがりにわが皇国の遠いことを改めて思う。太陽はすでに北天の中央にある。)
 また、五絶二首を得たり。
太陽直下洋、水与風双熱、電扇送涼来、人皆呼快絶
(太陽の真下の海は、水と風とふたつながら熱い。扇風器が涼しさを送ってきたので、人々はこぞって快よさこのうえなしという。)
熱帯圏中路、火輪蹴浪趨、暮天雲断処、夕日赤於朱
(熱帯圏の航路に、双輪の船は浪をけちらして走る。暮れなずむ空の雲の切れ間に、夕陽が朱よりも赤く染めてしずむ。)
入日影いとしも空に赤ければ、むべ赤道と名をつけにけむ
 二十日、炎晴。朝来、驟雨二回来たる。一帯の連山に接見す。これ、オランダ領セレベス島なり。軽風平波、前日のごとし。暑気いまだ減ぜず、室内に入れば満身たちまち発汗す。夕陽の没せんとするや、満天紅を流し、その自然の美は到底画工のよく写すところにあらず。当夕九時、まさしく赤道を経過す。ときに汽笛一声を放ちてこれを報ず。これより船員の妖怪行列ありて、一大喝采を博せり。海上は無月暗黒、ただ中天に点々、四、五の星宿を認むるのみ。
郷国三旬、船入他球節物新、孤客何無多少感、始為赤道以南人
(日本を旅立ってからまだ三十日にもならず、船は異域に入ってしるしの物も新しい。一人旅の身にとってもどうして多少の感慨なしといえよう。はじめて赤道より南に身をおく人となったのだから。)
赤道を踰えししるしか南より、吹きくる風のいとも涼しき
 二十一日、炎晴。暁窓触目なく、午時に至り再びオランダ領群島の対峙するを望む。その形わが富峰のごとく、円錐形をなせるもの多し。
赤道の雲を隔つる旅路にて、富士のみ山の面影を見る
 赤道をこえて以来、耳目に触るるもの、なんとなく人をして異様の感を起こさしむ。
故郷も同じ月日とながむれど、見しにはかはる心地こそすれ
いかばかり故郷遠くなりぬらん、日月の影を南にそみる
 また、夜中電扇の声を聞きてよみたる一首あり。
夜もすがらはうつファンターの声きけば、眠る心も涼しかりけり
 二十二日、晴れ。炎威いくぶんを減じ、朝夕ややしのぎやすきを覚ゆ。終日、風静かに波滑らかにして、海面油のごとく、また鏡に似たり。ときどき小巒の海上に突起せるを見るは、大いに旅情を慰むるに足る。上等船客西洋紳士十六人中、鬚髭の有無を検するに、有せざるもの十二人、有するもの四人、すなわち四分の三は無髯者なり。これによって、鬚髭を剃去する風の流行せるを知る。
 四月二十三日(日曜)、晴れ。わが船すでにセレベス海を去りて、ニューギニア海に入る。終日島影を見ず。午後、驟雨来たること二回。軟風穏波、暑気ようやく減じて、わが七、八月大暑の時のごとし。午前にまた消火の演習あり。
 二十四日、晴れ。朝来、驟雨数回襲い来たるも、霎時にして快晴となる。太陽北方より照らし、涼陰を南方に求む。終日、雲影波光を見るのみ。夜に入りてまた驟雨あり、はるかに電光を望む。
 以下、「豪州紀行」に入る。
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 明治四十四年四月二十五日、快晴。午前七時、木曜島に着岸す。これ豪州の北端なり。検疫および旅行者の調査あり。この辺り小嶼海中に群立す。月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜の六島その主なるものなり。昔時、キャプテン・クックが一日に一島ずつ発見して、これに曜名を付し、日曜日は休みたるために、日曜島なしと伝う。木曜島はその周囲三、四マイルに過ぎざる小島なれども、港湾の比較的深くして巨舶をつなぐに適すると、渓谷間に清泉の湧出するありて飲用水を有するとによりて、ここに人の輻湊するに至り、自然に小都邑をなせり。ほかの諸島は飲用水なく、すべて雨水を用うという。この地は真珠の産地にして、各国各種の人種相集まり、その間に雑婚して、混血の人種を生じ、白・黄・赤・黒諸色の人種博物館の観あり。日本人も七百人寄留すと聞くも、目下みな真珠採集のために遠海にあり。市街の住民約二千人と称するも、寂寥たる小都邑なり。家屋はすべて木造、トタン屋根にして、二階を限りとす。気候は年中夏のみにて春秋冬なく、街頭は樹木に乏しく、わずかに檳榔樹くらいを見るのみ。ゆえに、日光ただちに赤土に反射し、人をして日射病を起こさしむるの恐れあり。市外の山麓渓間に入れば、多少の樹陰ありて、涼をいるるに足る。ここより飲用水を運ぶに、布ぶくろを用い、黒色炭のごとき土人がこれを運搬す。インドにて街上の散水みずまきに、土人が皮ぶくろに水をいれて運ぶと好一対なり。
船木曜島南湾、路入濠洲最北関、赤日炎風涼何在、只余熱帯樹陰山。
(船を木曜島の南の湾につなぎとめ、海路は豪州最北端に入った。照りつける太陽に炎熱の風が吹き涼しさはどこにもない。ただそのほかには熱帯の樹の影を作る山があるのみである。)
 マニラ港よりここに至る航程、二千二百マイルなり。午時纜を解き、走ること三時間にして、海峡の約十丁くらいの狭所に達す。これ、豪州東北隅クイーンズランド州なり。両岸に蟻の巣の塔形をなすもの、赤土色を呈して林立せるを見る。その最も大なるは、高さ三丈、周囲二丈二、三尺に達するあり、すこぶる奇観なり。蟻はその身長一分に過ぎざるに、なお高さ三丈の巣を作りてこれに住す。人の身長五尺とすれば、高さ一万五千尺の家を作りてこれに住すると同じ割合なり。もとより多数共同の力とはいえ、蟻にしてこの作業あるは、実に驚かざるを得ず。この近海はさめ多く住し、海中に浴泳するときは、たちまち来たりて一のみにすという。その危険知るべし。
 二十六日、晴れ。朝八時、郵船会社八幡丸に相会し、互いに汽笛を吹き、応接して過ぐ。これより、右方には北豪州クイーンズランド州の連山にそいて南走す。ところどころ無数の珊瑚州の点在するあり、その間を縫いて行く。これを望むに、一帯の白砂のごとし。往々その上に草木の茂生せるあり。陸上の連山は喬木なく、岩石と野草を見るのみ。風光すこぶる荒涼なり。海岸には人家絶えてなく、ただ灯台船(灯台をのせたる船)の水上に漂えるを見るのみ。この近海はなお熱帯圏内にあれば、昼間は赤日炎々たれども、朝夕の南風はすでに秋冷を送り来たる。豪州はわが国と正反対にして、四月は中秋の期節なり。
夢ならぬ世にも夢かと思ふかな、卯月の末に秋風ぞふく
 晩に至り風力ようやく加わり、これに逆行して進む。ゆえに船少しく旋動す。
風払煤煙船破濤、珊瑚洲外汽声高、岸頭一帯千山続、起伏如竜是北濠。
(風は船の煙を吹き払って波濤を破るようにすすみ、珊瑚の島の外を汽笛も高く行く。岸のあたり一帯は山々が続き、その起伏のさまは竜のごとく、これぞ豪州の北部なのである。)
 二十七日、快晴。青空碧波、一点の雲影をとどめず。連山に沿いて航進すること前日のごとし。小嶼を波間に見ること数回なり。
 二十八日、快晴。未明、タウンズビル湾前の島陰に投錨す。八時半、箱形の小汽船に移り、行くこと四マイルにして同市に着す。市街は山麓をめぐり、一条の街路五、六丁にわたれる小都会なり。人口一万五千人ありという。しかしてホテル四十余戸、酒舗また四、五十軒を算す。もってその新開地たるを知るべし。一時はこの界外に日本人千人以上寄留して労働に従事したりしも、異人種排斥のために、今日残留せるものわずかに数十人に過ぎず。その当時はわが領事館もここにありしという。家屋は木造、石造、煉瓦造り相混じ、屋根はすべてトタンぶきにして、二階建てを限りとす。昨今秋冷の候なれども、その日光の強きこと、わが三伏の時のごとし。店前はホンコン、マニラ、木曜島とともにひさしを出だし、台湾のいわゆる亭子脚のごときものありて、炎天および雨天の歩行によろし。地は赤質にして茂林なく、ただ熱帯植物の散立するのみ。市背の山は石骨を露出し、ジブラルタルの山勢に似たるところあり。木曜島よりここに至る海路、六百五十四マイルなり。午時帰船、ただちに進航に就く。夜に入りて、ほかの汽船と相会す。
 二十九日、晴れ。風軽く波平らかなり。今朝、すでに熱帯圏内を脱して暖帯に入る。熱帯は赤道の南北二十三度半を限りとす。右方に豪山の脈々たるを望み、左方に小嶼の波間に点在するを見る。朝気やや秋冷を覚ゆ。
火輪蹴波走波間、看過濠山気象雄、探勝何須吟杖、南球秋色映※(「木+龍」、第4水準2-15-78)
(船の外輪は海をけたてて波のまを走り、豪州の山の景色が雄壮であることをみる。景勝を探すにどうして吟詠のための杖を必要としようか、南半球の秋の色は船のこうし窓にうつっているのである。)
熱帯を踰ゆる今日こそうれしけれ、日々に涼しくならむと思へば
故郷はいつくなるかと人問はゞ、大地の下と今ぞ答へん
昨日まで日かげにばかりひそみしが、今日は日向も涼しかりけり
 四月三十日(日曜)、晴れ。夜来逆風加わり、波高く船躍る。早朝より他船と並行して南走す。午時なお秋涼を感ず。午後五時、海中に灯台を望む。これ河口なり。
水の色の濁りて浪もしづまりぬ、陸路近づくしるしなるらん
 これより河口をさかのぼること数里にして、ピンキンバ駅に着す。タウンズビルよりここに至るまで、六百九十マイルあり。これよりクイーンズランド州の首府たるブリズベーン市まで九マイルあり。このごろはわが十月末と同じく短日にして、六時半、天すでに暗し。しかして、気候は秋期彼岸ごろに似たり。当夜は船中に停泊す。メルボルンの蠅、ブリズベーンの蚊、ともに豪州名物なりとの評あれども、秋冷の加わりたるために、蚊軍の襲来を聞かず。
 五月一日、晴れ。早朝汽車に駕して、ブリズベーン市に至る。途上田野を一望するに、概して赤土荒原にして、殺風景を極むるが、すべて牛馬の牧場なり。その間に木造トタンぶきの家屋点在す。一階にして、床の高さ六、七尺に及ぶ。聞くところによるに、この辺りは毎年河水氾濫し、屋下に浸入するためなりという。午前九時より鈴木某氏の案内にて、市街および植物園を通覧す。当日は祝日にして、諸店閉鎖し、博物館、美術館も入場するを得ず。ただ街上の行人、織るがごときを見るのみ。植物園は川に臨み、前岸の風光やや佳なり。園内またひろく、多く熱帯樹の繁茂せるを見る。その一隅に小動物園を並置す。また、日本より移植せるつつじあれども花なし、ただ秋花の艶を競うを見るのみ。当市は豪州中の人口にては第四に位する都会なり。
第一はシドニー市(ニューサウスウェールズ州首府)、人口五十九万二千百人。
第二はメルボルン市(ビクトリア州首府)、人口五十四万九千二百人。
第三はアデレード市(サウスオーストラリア州首府)、人口十八万一千二百八十五人。
第四はブリズベーン市(クイーンズランド州首府)、人口十三万七千六百七十人。
 右のごとく第四に位するも、人の活気に富めるはシドニーをしのぐの勢いありという。家屋は石造、煉瓦造りなれども、五階の間に二階造りを挟み、高低不規整なり。午前十一時、汽車にて帰船す。(往復十八マイル)の汽車賃、九ペンスすなわちわが三十六銭。汽車に一等、二等ありて三等なきは、豪州の特色なり。車室は粗悪にして、その二等はわが三等よりもあしし。十二時半出港。海上多少の風波ありて、船少しく傾動す。
 二日、曇り。午前、虹霓一弓、驟雨一過、南風冷を送り、秋気船窓に入るの心地あり。また、晩に船欄にれば新月の西天に印するを見る、また大いに幽趣あり。
濠陽風物動吟情、晩倚船欄遠晴、日没西山天未暮、一痕新月印空明
(豪州の南の風物は吟詠の情をゆり動かし、日暮れて船の欄干によりかかって遠く晴れた空をめでる。太陽は西の山に沈むも空はまだ暮れはてたわけではなく、一片の新月がすきとおる空にある。)
 また、別に三十一文字一首を浮かぶ。
南極のま近くなりししるしにや、彼方よりくる風の涼しき
 三日、晴れ。暁煙眼光を遮る。朝七時、豪州第一の都会たるシドニーに入港す。検疫のために港外に船をとどむ。医師入り来たる。その身長七尺四寸ありて、豪州第一の巨人との評なり。十時、埠頭に着す。ブリズベーンよりここに至る海路、四百五十五マイルあり。領事館書記林忠作氏、三井物産会社支店長市川純一氏、船中へ来問せらる。繋纜地は電車の集合点にして、八方へ上下往復するの便あり。この日午後、八木船長とともに郵船代理店および領事館を歴訪す。当日、総領事斎藤幹氏および郵船代理人バクスター氏に面会す。また、三井支店を尋問す。これより独行して公園(ハイドパーク)、博物館、ローマ教本山カテドラルを巡覧す。博物館は壮大にして、かつこの種の建築としては、豪州最古のものなりという。館内に土人の遺物を陳列せる所、最も興味あり。旧教本山もまた美大なり。市街はロンドンを模し、街名もグリニッジ、ウォータールー、オックスフォード、リージェント等、みなロンドンの名称をとり、街路の狭くして曲折せるところも、ロンドンを擬するもののごとくなれば、よろしく南球の小ロンドンと名づくべし。
高楼夾路昼如昏、二六時中車馬喧、漠漠南球新世界、何図有此小倫敦
(高い建物が街路をはさんでたち、ために道は昼なお暗く、一日中車馬が往来してかまびすしい。広々とした南半球の新世界に、どうしてこのような小倫敦ロンドンがあると思えよう。)
 シドニー市は豪州最古の都府にして、キャプテン・クックが一七八八年に、シドニー湾上にはじめて植民を開きし当時に起源す。クックの碑はシドニー公園にあり。爾来漸次に発展し、百二十年にして今日の盛況を見るに至れるは驚くべし。家屋は三階ないし五階にして、欧米の大都会と異なるところなし。港湾は東半球にはほかに見ざる天然の良港にして、西半球のリオデジャネイロ港とともに世界にその名を知らる。海外より曲折して湾内に入る。湾また湾をなし、沿岸の水陸出入多し。多数の船舶をして自在に着岸せしむ。その自然の地形はわが長崎港に似たるところあるも、その湾曲の多くしてかつ繋船の自在なるは、同日の比にあらざるなり。湾内の風景、また吟胸を洗うに足る。
 四日、快晴。一天片雲なく、天気清朗、極めて爽快を覚ゆ。わが十一月ごろの快晴に同じ。しかして気候はわれよりも温暖なり。午前、植物園を通観す。園内広闊にして、地形高低あり。かつ海湾に浜し、内外の風致、自然の美を呈す。ときに秋芳色を競い、なかんずく菊花全盛を極む。
国三旬海作家、路過赤道天涯、南球風物亦多趣、五月濠都賞菊花
(日本を去ってから三十日、海をわが家と心得るままに、航路は赤道を通りすぎて天の果てに至った。南半球の風物もまたおもむき多く、五月のシドニーはさかんに菊花の鑑賞がおこなわれている。)
 つぎに美術館、図書館を入覧す。蔵書二十四万冊ありという。借覧料を要せず、入場者をして勝手に書籍の出納をなさしむ。すべて州立、公立にかかるものは、一切入場料を徴集せず。議院、病院、造幣局、市場、市庁等は外部より一覧す。議院はみるに足らず、市庁は広大なり。つぎに動物園に入るに、園内広くしてかつ美なり。また、英国宗の本山を見るに、その美大なるは旧教に及ばず。最後にシドニー大学を参観す。一八五二年の創立という。外観は広壮なれども、内容はこれに伴わず。その中に図書館、博物館あるも、いまだ完成せず。晩景に及び帰船せるに、日光丸船長の会主にて、在市日本人三十余名を船中に招き、日本料理をもって饗応せらる。余もその席に連なり、千里眼につきて卑見を述ぶ。席上において、南極探検隊長白瀬中尉および開南丸船長に面会す。聞くところによれば、わが船にさきだつこと二日、シドニーに寄港す。期節おくれたるために目的地に達することあたわざれば、ここに解氷の期を待つという。一行みな健全なり。余、長編を賦して隊長に贈る。
忠肝如鉄堅於船、賭生遥向南極天、日月不照時不利、氷山遮路船難前、徒入魚腹願、回船濠洲将尽辺、世評紛紛何足意、士気倍旧更揚然、暫待天候回復日、突進極地先鞭、我在濠都始相会、挙杯重祝一行全、前途遼遠請自愛、只望君攀極山巓、聖明天子今長在、早樹国旗凱旋
(忠義の心は鉄のように船よりも堅く、生命をかけてはるかに南極のかなたに向かう。日月は照らさず、時に利なく、氷山は進路をさえぎって船はすすみがたい。いたずらに命をすてて魚腹に葬られるは願うところではなく、ここに船を豪州の果てにめぐらす。世の評判は紛々と起こるも、どうして気にかける必要があろう、士気は前よりもさらにあがる。しばらくは天候の回復する日を待ち、極地に突進して先鞭をつけんとするのである。私は豪都シドニーにおいてはじめて会い、杯をあげてかさねて一行の安全をいのった。前途ははるかに遠い、請う自愛せよ、ただただ君が極地の山頂にのぼるように望む。聖明の天子はいまも健在である、一日も早く国旗をかの地にたてて凱旋を奉上されよ。)
 一行は南緯七十四度まで進航して船を回せりという。
 五日、また快晴。船医秋洲長美氏とともに車行して、クロイドン村なる総領事の宅を訪い、さらに車行してパラマッタ町に至る。小市街なり。行程十四マイルあり。さらに馬車に駕し、悪道二マイル余をむちうちて、津頭に達す。これ輪船の起点なり。これより屈曲せる河流を下りてシドニーに着す。両岸の風光自然に秋色を帯び、林間の瓦壁、黄葉と相映ずるところ、大いに吟賞するに足る。
一帯清流曲幾回、千涯秋影入舟来、風光自与故山異、黄葉林間瓦壁堆。
(帯のように清らかな流れが曲折し、高い崖の秋の気配が舟にしのびよる。風景はおのずから故郷の山とは異なり、黄ばんだ葉のある林間に瓦の壁がたちふさがっている。)
 午後三時帰船。小憩の後、市川純一氏の招待により、斎藤総領事、八木船長およびバクスター氏とともにホテルオーストラリアにおいて会食し、かつ演劇をみるの好意をかたじけのうす。海外においての観劇は、これを第三回とす。市川氏にはさきにインド・ボンベイにおいてはじめて相知り、ここに九年を隔てて、さらに豪州において再会を得たるは奇遇というべし。一詩を賦してその歓を述ぶ。
一別以来已十霜、西天夢跡去茫茫、濠陽今日再相会、依旧喜君心自芳。
(ひとたび別れて以来、すでに十年、印度インドの空に描いた夢のあともはるかなものとなった。豪州の東で今日再会し、かつての君の心が芳ばしくそのままであることを喜ぶ。)
 別にシドニー客中所感の小詩一首あり。
花時去国、五月到濠南、春夢猶如昨、客庭秋已酣。
(花見の時節に故国を去り、五月には豪州の南部に至った。春の夜の夢は昨日のように思いおこされるが、いま旅宿の庭は秋もたけなわである。)
 六日、また快晴。早朝、歩を市街に散ずるに、救世軍の一行(みな婦人)、各街角に銭函を携えて佇立し、来往の人に一ペンスずつ恵与を請う。懐中の銅貨たちまち空となる。また、犬の背上に銭函を結び付け、無言の動物をして人に代わりて恵金を請わしむるもあり。これ新意匠なり。午前十一時出港。開南丸が旭旗を晴風に翻して湾内にあるを見る。二百トンの小艇なり。海上風なく波平らかにして、春海のごとし。ほかの汽船と並行して南走す。
 五月七日(日曜)、曇り。暁天、虹影を見る。風ようやく寒く、天まさに雨ふらんとす。一帯の連山を右岸に望む。これ、すでにビクトリア州なり。午後、降雨あり。今夕、船医秋洲氏の好意により、牛鍋会を催す。一酔の後、戯れに「ヤギと聞き羊ならんと思ひしが、日光丸の大船長」の狂歌を船長に贈り、
日光船内有名医、吾始遇君如旧知、濠気堂堂誰得敵、秋津洲裏一男児。
(日光丸の船内には名医がいて、私ははじめて会ったのに旧知の人の思いがした。豪気の持ち主で堂々としてだれもかなわない。日本国の一男児である。)
の狂詩を船医に贈り、もって告別の辞に代う。
 八日、曇りのち晴れ。午前十時、ビクトリア州の首府メルボルン市に入港す。シドニーよりここに至る海路、五百七十七マイルあり。さらに小河をさかのぼること数マイルにして、市の中央に着岸す。横浜よりこの港まで七千四十一マイルありという。秋洲船医およびウィルキンソン氏の紹介により、フィッツロイ公園の傍らに寓居を定む。メルボルンの気候はシドニーよりいくぶんか冷気の加わりたるがごときも、朝夕冬服、昼間夏服の気候にして、わが十月はじめごろに似たり。この地冬期といえども、ほとんど降霜を見ることなく、降雪は絶無なりという。ゆえに、家屋は多く暑さをしのぐに適して、防寒の設備を欠くもの多し。しかれども、余の滞在当時は南風黄葉を吹き散じ、菊花多少凋落に傾けるを見る。しかして黄葉ありて紅葉なきは、降霜せざるためならん。
驟雨欲来雲脚低、客窓独坐昼凄凄、濠南秋色転堪愛、黄葉半庭菊一畦。
(いまやにわか雨がふろうとして雲は低くたれこめ、旅宿の窓べにひとり座して昼なおさむざむとした思いをいだく。豪州の南の秋景色はともあれいとおしむに足り、黄葉のなかばする庭には菊のひとむらがある。)
 九日、曇り。晴雨定まらず。市中を一過するに、シドニーのごとく繁忙ならざるも、道路広く、街区正しく、遊園多く、なんとなく清閑を覚ゆ。ただし、中央一部の市街はシドニーに譲らざるも、その区域を離るるときは田舎市街のごとし。両市は万事に競争の態度をとり、メルボルン人はメルボルンをもって豪州に冠たりといい、シドニー人はシドニーをもって豪州第一とす。局外よりこれをみるに、シドニー第一、メルボルン第二と定めざるべからず。もし年代の上より比較すれば、メルボルンはシドニーより四、五十年の後に開市せるものにして、今より七十三年以前には一人の白人種を見ざりし地なりという。しかるに僅々六、七十年間にして今日の隆盛をきたせるは、驚くべき発展というべし。博物館、美術館、図書館(以上並立)を一覧す。いずれもシドニーに一歩を譲る。ただし、図書館内に一八三二年以来の各種の新聞を保存せるには驚けり。つぎに博覧会陳列場跡なる水族館に至る。その闊大なるは、他にいまだ見ざるところなり。
 十日、雨。秋雨蕭々、南風颯々、晩秋の趣あり。日光丸帰航の途に就くをもって、訪問して船長および船員に一別を告げ、歩を転じて植物園に至る。園内の広くしてかつ美なるはシドニー以上にして、欧米の植物園をしのぐというも過賞にあらず。この落葉蹊をうずむるの晩秋に当たりて、緑草紅花、満園春の光景を呈す。当日サベージクラブ(当市紳士の共楽団)より、臨時名誉会員となすの通牒を得。夜に入りて、その主幹たるシャウ氏来訪あり。
 十一日、雨のち晴れ。メルボルン大学に至り、生物学教授スペンサー氏に面会し、校内を一覧す。シドニー大学より歴年浅きも、互いに伯仲の間におる。聞くところによるに、一千十三名の学生中、百六十一人は女学生なりという。シドニー大学の女学生はややこれに倍すとは驚かざるを得ず。豪州は婦人まで男子同様に選挙権を有するだけありて、婦人の活動せるは格別なり。ただし、実際の勢力は米国のごとくはなはだしからず。さらに埋葬地および動物園を一覧して、帰路サベージクラブに立ち寄り、二、三の会員と談話を交ゆ。当日、郊外にて詠じたる一首あり。
暁雨漸収雲未収、卜晴郊外試吟遊、満蹊落葉無人掃、風冷南洲五月秋。
(あけがたの雨がようやくおさまったが、雲はまだ空をおおって、晴れることときめこんで郊外に吟詠の遊びをした。谷をみたす落葉は人の掃くこともなく散り敷いて、風も冷たい南国の五月の秋である。)
 十二日、曇り。海岸の風景を一望せんと欲し、車行してブライトンビーチおよびサンドリンガムに至る。時すでに冬季にせまり、寒潮岸を洗い、浴客あとを絶ち、埠頭寂寥たり。茶亭に一休し、温湯に一浴して帰る。海上は茫として、風光の目に入るなし。往復二十五マイルあり。当夕、シャウ氏の案内にてホテルに至り会食す。
 十三日、曇り(満月)。早朝寓所を出でて、車行二十九マイル、ヒールズビル村に至る。山間の小駅なり。メルボルンよりここに至り、はじめて渓山を見る。山上に登躋すれば、ビクトリア州の平原を一望するに足るというも、雲煙のために眼界を遮塞せらる。よって、ただちに帰路に向かい、クロイドン駅に降車す。林丘あり河流ありて、夏時の遊歩場に適す。その流水はヤラ川の源流に当たる。この川、メルボルンに至りて海に入る。この辺り概して牧場にして、牛羊の得々として遊ぶを見る。牧場のほかに果林多し。穀類の耕作地はいたってすくなし。路傍の樹木はオーク樹多く、目下落葉最中なり。松、杉に類する樹もまた多し。人家希有にして、車行数里の間に二、三戸を見るのみ。ゆえに野外は寂寞荒涼を極め、目を慰むべき風景なし。これを一言すれば殺風景なり。わが国の野外とは雲泥の相違あり。午後四時帰宅す。夜に入りて天ようやくはれ、一輪の秋月北天に懸かる。詩思おのずから動く。
雨過秋宵露気寒、家書不到思漫漫、知吾独有故山月、飽見北天光一団。
(雨一過して秋の宵に露の気配も寒々しく、家からの手紙もとだえて思いはみだれる。私を知るものはただ故郷の月のみ、あくまで北の空にかかる円い月光をみる。)
 五月十四日(日曜)、快晴。一天洗うがごとく、四面片雲を見ず。かつ、その暖なること春のごとし。午前、ローマ教の本山および英国宗の本山に詣するに、いずれも壮大にして、二千人以上の信者を収容し得べきに、旧教の方は千二、三百人来集し、英宗の方はわずかに四百人くらい就席しおれり。これによりてみるも、旧教の方勢力あるに似たり。さらにほかの新教の寺に詣するに、これまた堂内三分の二の空席を余す。聞くところによるに、当日は久しぶりの快晴にて、早天より野外に遊動に出でたるもの多き故なりという。帰路トリジュリー公園を散歩し、その中に日本庭園あるを一覧す。ここに楓樹あれども、紅葉せずして凋葉す。また、議院の前を通過せるに、シドニーよりははるかに広闊なるを認む。午後車行十マイル、ウィリアムズタウンの海浜に遊ぶ。ブライトンビーチの対岸に当たる。磯辺を歩する数丁、石と貝とを拾いて帰る。
濠南城外歩秋晴、黄葉無風葉有声、想見家山春已尽、緑陰堆裏杜鵑鳴。
(豪州南部の郊外、秋晴れの下を歩けば、黄ばんだ木の葉が風もないのに落ちて音をたてる。思い出すに家郷の山はすでに春もおわり、緑の重なるうちにほととぎすが鳴いているであろう。)
濠洲のあらふる風にもみぢ葉も、まだ染めやらで先ぞちりける
 当夕、また明月の清輝を放つを望む。
 十五日、晴れ。前日のごとく、秋期にもかかわらず春天駘蕩の趣あり。午前、今回南アフリカ行を約するホワイトスター会社汽船ペルシック号を訪い、船長モルガン氏に面会す。午後、知友を訪いて告別し、プレーン氏の案内にて、市中の石造七階館の屋上に上り、全市を一瞰し、つぎにイネルニー氏を訪問して、氏とともに市庁の内部を一覧す。その中に三千人を入るるべき大集会所あり。これより帰寓して、南アフリカ行の準備にかかる。
 豪州は群島を合して、その地積三百四十五万五千八十マイル[#「三百四十五万五千八十マイル」はママ]、人口七百十二万人ありとす。その大きさは欧州より十分の一小なるのみ。そのうち、政治上の統一を有する豪州は左の諸州に分かる。
(一) ニュー・サウス・ウェールズ州、三十一万三百七十二方マイル、百三十五万四千八百四十六人
(二) ビクトリア州、八万七千八百八十四方マイル、百二十万千七十人
(三) クイーンズランド州、六十七万五百方マイル、四十九万八千百二十九人
(四) サウス・オーストラリア州、九十万三千六百九十方マイル、三十六万三千百五十七人
(五) ウェスタン・オーストラリア州、九十七万五千九百二十方マイル、十八万四千百二十四人
(六) タスマニア州、二万六千二百十五方マイル、十七万二千四百七十五人
      合計、二百九十七万四千五百八十一方マイル、三百七十七万三千八百一人
 これ、豪州最近の統計なり。これを日本帝国(朝鮮を含む)の地積二十六万一千五百三十四方マイルにして、人口六千二百五十七万一千四百六十一人に比するに、豪州はわが日本の約十二倍の地積を有して、人口はわが十七分の一に過ぎず。もし人口と地積とを平均すれば、
豪州は一方マイルにつき一人半弱なり。
日本は一方マイルにつき三百人弱なり。
 その差極めて大なるを見るべし。気候はわが国の正反対にして、わが春はかの秋、かの夏はわが冬なり。冬分の気候はわれよりも暖にして、沿海の地は霜雪を見ざるほどなり。これに反して、夏時は寒温針百度以上に上がり、ことに北風の襲い来たるときは、庭陰の暑気百二十度以上に達することありという。毎年五月より八月までは雨期にして、八月より翌五月までを晴期とす。内部に入りては、二カ年または三カ年くらい全く雨を見ざる所ありという。豪州にて大河と称すべきものはただ一川あるのみにして、そのほかは雨期に大河となり、晴期にはほとんど水なきもの多し。上流に水ありて下流になきものあり。樹木には世界第一の喬木と称せらるる、高さ四百八十尺に達する大木あり。また山間には、百合ゆりの高さ三十尺なるものあり。動物カンガルーの高さ五尺、目方二十四貫目なるものありと聞く。豪州土人は世界中の蛮民中、最下等に属する人種にして、いかなる虫類にてもこれを食し、なかんずく彼らの嗜好するものは、トカゲ、蛇、蛙、毛虫の類なりという。以上、深く内部に入らざるをもって、自ら実視せるにあらず、ただ伝聞のままをここに録するのみ。
 本年は春花を見て国を去り、途上盛夏の大暑をおかして豪州に入り、さらに南球の秋に遇う。わずかに一カ月前後にして春夏秋の三期を迎送するは、なんとなく夢のごとくに感ぜらるるなり。
桃李開時去故丘、菊花凋日在濠洲、自驚客裏年如夢、一月送迎春夏秋。
(桃やすももの花咲くときに故郷の丘を去り、菊の花のしぼむ日に豪州にいる。自分でも驚くのだが旅客としての歳月は夢のごとく、一カ月のうちに春夏秋の季節を経たのだ。)
 ここに豪州の視察をおわり、南アフリカに向かいて進航せんとす。一言もって所感を述ぶれば、概して豪州人は国民としては日本人に対して極めて薄情にして、個人としてはいたって深切なるがごとし。教育は比較的普及し、公立小学の数七千七百十四校あり。人口に比例すれば、五百人(百戸)につき一校の割合となる。また、大学も既設の分四校ありというも、その程度はいたって低きを知る。宗教は教育にたずさわることなく、大学中にも神学部を置かず。宗教は全く政治の外に独立すというも、日曜日に諸店を閉鎖せしめ、礼拝の時間には汽車の運転を中止するがごときは、いくぶんの干渉ありといわざるべからず。各市街につきて検するに、寺院と医家と酒舗の比較的多きを見る。百戸に満たぬ小駅に四個のチャーチあり、各市に医家軒を連ぬる市街数カ所あり、また酒舗一丁内に数戸ある等、けだし新開地、新植民地にはこの三者の必要あるもののごとし。物価は高直にして、英国よりも二割くらい高し。なかんずく酒とタバコは国税のために非常の高価を告げ、日本酒正宗一瓶一円五十銭なりという。また、人口不足のために労働賃銀高く、人足一時間わが七十五銭を要求すという。また、ストライキの多きも、その名物の一つなり。車夫や下女のストライキまでありという。また、シドニーの電車賃市内一ペンス(わが四銭)なるは安価なるも、メルボルンのケーブル車の三ペンス(わが十二銭)なるは高価なり。メルボルン市は電車を用いずして旧式のケーブルを用うるは、あに奇ならずや。四月本邦を去りて豪州に至るまでの紀行を一約して、七言律に賦したるものあれば、左に録す。
花四月去郷関、探勝何論華与蛮、梅雨送雷香港海、蕉風吹暑呂宋山、路踰熱帯涼初起、船入珊洲景漸斑、看到濠陽秋已老、紛紛黄葉落晴湾
(咲く花に背をむけて四月に家郷を去り、景勝の地をたずねるに、なんぞ文化の地と野蛮の地を問題にしようか。梅雨が雷を送る香港ホンコンの海、ばしょうの風が暑熱を吹き送る呂宋ルソンの山、航路は熱帯の地をこえてはじめて涼風起こり、船は珊瑚礁の地に入って景色はまじりあう。豪州の東に至れば秋はすでにたけているのをみ、紛々と舞う黄葉は明るい湾に落ちる。)
 そのほか、豪州中タスマニア州および西豪州紀行あれども、記事の都合にて、「南インド洋船中日記」に入る。
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 明治四十四年五月十六日、晴れ。午前十時寓所を去り、ホワイトスター汽船ペルシック号に投乗す。同号は一万千九百七十四トンの巨舶なれども、客室は一等、二等なく、ただ三等あるのみ。室数は九十四号まであり、一室中に四人または八人の寝台を有す。ゆえに、船客四百人くらいをいるる余地あり。その番号中に十三番室なきは、欧米の迷信に起因す。西洋人の十三の数をいとうは、わが邦人の四の数を忌むよりもはなはだし。余の船室は第八十号なり。今回の乗客を統計するに、総員二百五十四人中、男子百十五人、女子百三十九人となる。女子の男子より多きは驚くべし。男客の中に僧侶二人、医者二人、武官一人、船長一人、ロシアのユダヤ人二人、東洋人としては余一人、そのほかはみな英国、豪州および南アフリカの商工農にして、すべて中等社会と下等中の上等連なり。婦人のうちにて細別すれば、既婚七十二人、未婚六十七人となる。未婚者の多きもまた驚かざるを得ず。船内は粗大にして清美を欠く。わが日光丸とは雲泥の差あり。食事は毎回二、三品に過ぎず、一品を幾回重ぬるも任意なり。茶は朝食のときを限りとし、そのほかは湯水のほかは供せず。ゆえに、乗客みな茶菓および茶器を携帯しおれり。食事のときは一卓十八人に対し、ボーイ一人、その混雑もまた一興なり。余はこの旅行によりて、西洋の中等社会の実況を知るの便を得たるを喜ぶ。当夜十二時、メルボルン港より出航して、七千マイルの長途に上る。
 十七日、曇り。タスマニア州の首府ホバートに寄港するために、海峡を通過し、同州の東岸に沿いて南進す。午天雨を帯び、南風冷を送る。終日小嶼に接見す。波平らかに船静かなり。
 十八日、曇り。海霧あり、船徐行す。午後一時に至り、ますます濃厚を加えたるために船をとめ、五分ごとに汽笛を吹く。夕六時に至り濃霧ようやく晴れ、進航に就く。波穏やかなれども、自然に大波動の寄せ来たるを見る。夜半入港。メルボルンよりホバートまで、海路四百七十二マイルあり。
鯨浪暁来堆作山、寒烟鎖海路難攀、南風吹雨天将雪、船入濠陽尽処湾。
(大きな波が夜明けに高きこと山のごとくきたり、さむざむとした霧が海をとざして船はすすみがたい。南風は雨に吹いて空は雪にかわろうとし、船は豪州の南の果ての湾に入る。)
 ホバートは豪州最南端の港湾にして、ニュージーランドをさること最も近し。その最近距離九百四十マイルにして、日程三昼夜を要す。
 十九日、晴れ。早朝上陸、ホバート市を一覧す。人口三万五千人、小都邑なれども、直立三千尺以上のウェリントン山の麓にありて、丘陵にまたがり、海湾を抱き、風色に富みたる良港なり。湾形はシドニーを小規模にしたるものにして、わが長崎港に類似す。背後の高山は大岩石、中空にかかり、一見わが豊後玖珠郡内の岩扇山に似たり。人家は二階造りにして、煉瓦壁多きも、屋根はトタンぶきを赤色に塗りたるもの多く、往々板ぶきを見る。市外は多く木造板ぶきなり。博物館、美術館、図書館を一覧するに、その規模みな小なり。旧教本山および英国宗本山を入観するに、これまた大ならず。当市には寺院二十カ寺もあり、埋葬所十カ所もありという。午後植物園に至るに、比較的風致ありて、かつ整頓せるには感心せり。そのほか、当市には一大遊歩林あり。その周囲三、四マイル、極めて広闊にして、また眺望に富む。夜に入りて雨来たる。
 二十日、晴れ。雨やみたるも、風冷ややかにして冬に入りたるを覚ゆ。数日前、山上に降雪ありたりという。電車にて市外に往返せるに、各戸庭前に数種の菊花を栽培せるありて、車上観菊の遊をなすを得たり。
思ひきや同じ月日の照る国で、五月の頃に菊を見んとは
 郊外は果林または牧場のみ。本州は目下りんごの収穫期にして、わが船に積載せる函数四万八千個に及ぶ。当市の電車は二階造りにして、二階の上にさらに屋根あれば、一見三階造りのごとく、すこぶる奇観なり。当地の郵便切手の大なること、わが切手の二倍あり。これ、電車の奇と好一対とす。当日、マーキュリー新聞社主および博物館長を訪問し、さらに大学に登校す。わが中校よりも小なり。これよりフットボールの大競技あるを聞き、参観に出かけたるに、入場料一シリング(わが五十銭)なるにもかかわらず、広闊なる場内立錐の地なく、観客約二万人と目算せらる。聞くところによるに、フットボールは豪州第一の国技と名づくべきほどに盛んに行われ、その競技のあるごとに大群集をなさざることなしという。小学校の放課時間に児童がフットボールを試み、家庭の運動に幼児がフットボールをもてあそぶ等を見て、その遊技のいかに歓迎せらるるかを知るに足る。
 五月二十一日(日曜)、雨。午前六時、未明解纜。港外に出ずるに及び、一鯨波の俄然押し寄せ来たり、食堂の横窓に打ち込み、十余人の貴女、紳士、朝餐最中に頭上より海水を浴びせられ、食堂の一騒動を醸せるも、長旅の一興なり。終日斜風細雨、波高く船動き、ことに日曜なれば遊技を弄するものなく、あるいは読書し、あるいは横臥し、船内はその静かなること夜のごとし。
暁雲四鎖昼冥濛、狂浪巻船鯤海風、人臥客牀静如夜、雄飛只有信天翁
(あけがたの雲があたりをとざして昼なおうすぐらく、狂ったような大波が船をとり巻いて大海の風が吹く。人々は客室のベッドに臥して静かなることは夜にも似て、おおしく飛ぶのはただ信天翁あほうどりだけである。)
 信天翁は海鳥にして、俗称阿房鳥という。洋語にてアルバトロスと呼ぶ。赤道をこえて以来、毎日この鳥の風浪の間に雄飛するを見ざるはなし。渺茫たる万里の太平洋およびインド洋を自在にはうち渡るものは、ただこの鳥あるのみ。これ決して阿房にあらず。荘子のいわゆる大鵬は、これを形容せしものならんと思わる。よって、余はこれを海王鳥と名づけんとす。その大なるものにいたっては、両翼の長さ六尺ありという。案ずるに、阿房鳥とはアルバトロスの訛伝ならん。当夕ヤソ教礼拝式ありて、乗客半数出席す。
 二十二日、雨。寒さらに加わる。南風の強きためなり。波また高し。終日、山光島影に接せず。午後日光を漏らすも、寒気依然たり。三冬の季節なるを知る。
濠洋茫不見、雲裏浪層層、極地応遠、南風冷似氷。
(豪州の海ははるかにして見えず、雲のかなたからくる波浪は重なるようにきたる。いよいよ南極の地はそれほど遠くではない。なぜならば南の風は冷たいこと氷を思わせるからだ。)
 二十三日、晴れ。軽風穏波、寒気大いに減ず。四面渺然、雲影波光を見るのみ。
 二十四日、曇り。北風暖を送り来たり、寒気大いに減ず。ただし怒濤船をゆらし、横浜出航以来、食卓にワクをはめたるは今日をはじめとす。その狂風激浪の中に、悠然として雄飛するものは信天翁のみ。終日風雨やまず、夜に入りてさらに劇甚となる。
 二十五日、風雨、怒濤ますますはなはだし。午後雨やみたるも、風力さらに加わり、海潮を甲板上に打ち込むこと幾回なるを知らず。船病者多し。ただし風位一変、西南より吹き来たるために、また冬寒を覚ゆ。
 二十六日、曇晴。暁天、雲破れて日光を吐くあり。船上より山影を望む。これ西豪の連山なり。風波大いに減ず。
海暗狂風捲怒濤、不知何処是西濠、暁天雲破吐紅旭、認得北涯山影高。
(海は暗く狂風は怒濤をまきあげ、いずれの所が西豪州かもわからない。あかつきの空に雲の切れ間より日光が差しこみ、北の果てに山影の高く連なるのをみた。)
 午前十一時、西豪州オールバニー港の桟橋に着す。ホバートよりここに至る海路、一千四百八十八マイルあり。桟橋より市街まで一マイルのところ、汽車をもって連絡す。その乗車賃、下等六ペンス(わが二十五銭)なり。おそらくは世界第一の高価ならん。市街は一条の通路二、三丁の間に諸店あるのみ。人口三千四百人、小市街なり。西豪州の首府パースをさること三百四十マイルあり。しかしてその港湾は、ホバートに似て風景に富む。かつ一帯の海浜白砂雪のごとく、往々奇※(「山/品」、第3水準1-47-85)その形動物に似たるものあるは奇景なり。山野に大岩山の自然に並立せるありさまは、わが笠置山に似たり。
一帯峰巒繞碧湾、風収檣影落波間、濠西夕照何辺好、在此港頭雨後山
(この地一帯の峰々はみどり色の湾をめぐり、風もおさまって帆柱の影が波間にうつる。豪州の西岸の夕陽はいったいどこがよいかといえば、このオールバニー港の雨後の山にあるのだ。)
 当夕六時出港。これより直航して南アフリカ・ナタール州ダーバン港に向かう。
 二十七日、曇晴。早暁より山影を見ず。終日、雲波深所に向かいて西走す。夜、余興会あり。
跋渉濠陽山又河、秋風今日向南阿、不知喜望峰何在、船破雲烟暗処過。
(豪州の山や河をふみわたり、秋風の吹くこんにち南アフリカに向かう。喜望峰がどこにあるかはわからぬが、船は雲かすむほの暗さを破るようにして行くのである。)
 五月二十八日(日曜)、好晴。軽風暖を帯び、穏波碧を送る。宛然、春海の洋々たるがごとし。午前十時半、礼拝式あり。食堂に集まるもの百五十人、男女相半ばす。終日、閑談静読、遊戯を行わず、船内粛然たり。夜八時、また礼拝式あり。列するもの百三十人なり。その式は英国教宗の定むるところによる。
天為屋壁海為筵、自笑吾身亦似船、東去西来無定宿、南溟尽処送今年
(天を屋根と壁にし、海をむしろとする思いに、おのずからわが身もまた船に似ると笑う。東を去って西に来たるも定まった宿もなく、南の果ての尽きるところでこの年を送るのである。)
 二十九日、晴れ。風あれども波高からず。昼夜ともに遊技の競走なり。晩食のときに、優勝者に与うる賞与金の募集あり。終日、雲波と信天翁のほかに目に触るるものなし。
竺海雲連水、風濤和汽声、水禽有何意、終日逐船行。
インド洋は雲が水に連なり、風と濤は汽笛にあう。水鳥はいかなることを思ってか、終日船をおうようにして行く。)
 三十日、曇り。晴雨不定。暁窓はるかに帆影を望む。インド洋を風走する帆船なり。南風波を巻き、その寒さ冬のごとし。甲板上に種々の遊技あり。小児のポッテット競走、大いに人をして笑わしむ。
 三十一日、晴れ。中天雲なく、終日日光を見る。軟風軽寒、南緯三十一度に達するも、なおわが十一月ごろの寒気を覚ゆ。今夕、また食堂において大合奏会あり。
 六月一日、晴れ、かつ暖。暁天、雲波相連なる所、虹霓半弓を見る。また信天翁の潮風に舞うあり。
印度洋無際、暁天虹半弓、鯨波浮旭影、海鵝舞‐潮風
印度インド洋は果てもなく、あけがたの空に弓のような虹がかかる。大きな波に朝日の光がきらめき、信天翁が潮風に舞い飛ぶ。)
 海鵝とは信天翁をいう。陸地を離るること一千六百マイル以上の地点に来たり。インド洋の中心にありて、阿房鳥のひとり飛揚するを見て戯れによむ。
阿房とはたが名づけしか大海を、はうちて渡る影ぞいさまし
 風穏やかなれども、海水波動をえがく。午後、小児の盲目競走および大人の障害物競走あり。
 二日、晴れ。晨起遠望するに、渺茫無涯の海天、断雲日面をおおい、その間隙より旭光の放射せるを見るは、すこぶる壮快なり。午後、大人が鶏の形を擬してすもうをなし、猿猴の水を泳ぐ形を装って競走せるは、大喝采を博せり。
 三日、晴れ。北風暖を吹き来たり、にわかに初夏の候に入るの思いをなす。午後、記念のために撮影す。午前、一天雲なきに当たり、船上にありて回望するに、蒼々たる天壁、海碧を囲繞するありさまは、あたかも盆中に水を盛り、一片の繊塵をその中央に浮かぶるがごとし。その塵はすなわち、わが所乗の汽船なり。その中に一点の白影の波間に動くを認む。これ海鵝なり。
蒼波万頃浩無津、海接天辺自有垠、眼界平円似盆水、載吾船是一繊塵。
(青い波はひろびろとして果てしなくうねり、岸辺もない。海は天と接するあたりにはおのずからさかいがあろう。眼のとどくかぎり平らかで円を描き、あたかも盆中の水に似て、私をのせる船は、まさに一片の小さな塵のようなものと思われた。)
 夜に入れば新月天に懸かる。その形、鎌のごとし。
 六月四日(日曜)、晴れ。暁雲雨を帯びて暗かりしも、後に天開きて日影を見る。はるかに大鯨の一過せるを望む。晩に驟雨来たる。風位北方に転じたるために、にわかに暖気加わり、冬服を脱して夏服を襲う。朝夕ともに礼拝式あり。
濠旬日未山、身在鵬天鯤海間、新月一痕檣影淡、穏波万頃汽声閑、行雲含雨晴猶暗、游鳥追風去又還、屈指欲知幾週後、繋船南亜尽頭湾。
(豪州を去って十日を経たがまだ山も見えず、身はおおとりの飛ぶ空と鯤という大魚がおよぐ海の間にある。新しく月はその一片をかかげ、そのために帆柱も影もおぼろであり、おだやかな波がひろびろとひろがり、汽笛ものどかである。行く雲は雨気をはらんでなおうすぐらく、たわむれの海鳥は風を追うように去ったかと思えばまたきたる。指を折って数えて、いったい幾週を経たのちに、船をとめる南アフリカ南端の港につくかを知りたいと思う。)
 五日、晴れ。暁天、二重の虹霓を見る。たちまち驟雨一過、雲天を洗い去りて快晴となる。終日、風をつきて西走す。晩来また驟雨あり。夜に入れば天涯一片の雲なく、ただ半輪の孤月の高く北天に懸かるを望むのみ。満懐雄壮を覚え、快極まりなし。
六旬不見夏山青、回首客程雲緯経、暮雨一過四涯霽、北天秋月照南溟
(六十日間、夏山の青さを目にせず、みまわせば旅の道のりは雲のかなたの緯度経度をわたる。日暮れの雨がひとたびすぎれば四方の果てまではれわたり、北の空には秋の月が南の海を照らすのである。)
 今夕また奏楽会あり。
 六日、晴れ。ときどき驟雨来たり、たちまち晴れ、たちまち雨。逆風激浪、インド洋の真面目を現す。昼間、喫煙の競走あり、夜間は余興会幹事慰労のために懇親会あり。飲酒放歌、深更に及ぶ。昨今の気候は夏服にて不寒不熱、わが蒲暑の時のごとし。
 七日、晴れ。ときどき驟雨あること前日のごとし。しかして逆風激浪は一層その度を加え、波濤連山のごとき間を航進す。船の傾動はなはだしきために、一切の余興を廃することとなる。
天風捲海動乾坤、万丈浪花檣上翻、探句試題此光景、乱山堆裏一船奔。
(上空からの風は海をまきあげ天地をもゆり動かし、高々と立つ波の花は帆柱の上にまとう。詩句を求めて試みにこの光景を表現しようとすれば、乱れたつ山のごとき波のなかに一船が奔弄されると詠じよう。)
 八日、晴れ。高浪暁天にみなぎり、一望凄然たり。ただ海鵝の波頭に舞うを見るのみ。今日食卓にワクをはむるも、なお器物転倒を免れず。甲板上には両側波よけをつけ、中間に縄を張り、歩するものをしてこの縄にたよらしむるも、ときどき高浪の波よけをこえて打ち込むあれば、危険を免れず。二十四時間の船の航程、平日三百マイル前後なるに、今日はわずかに百二十三マイルに過ぎず。かかる風波船動の中、食堂へ列席せざるものは十四、五人くらいにして、そのほかはみな喫飯せり。もって船客のいかに船に強きかを知るを得べし。今朝、約九百マイルを隔てて、南アフリカ・ダーバンより無線電信にて通信あり。午前虹霓を見、午後驟雨来たり。風位は西方より西南隅に転じたるために、やや冷を覚ゆ。夜に入れば、雲間より半輪の明月を漏らし来たるあり。
山よりも高き波間にゆられ行く、船やいづこの岸につくらん
波風のくるふ船路に仰ぎみれば、空行く月もいさましけなる
 九日、晴れ。ただし、ときどき驟雨あり。風位西南より南方に漸転す。激浪漲天の勢いは依然たるも、午後より風力の減ずるに従い、波勢もまた減ず。この日、マダガスカル島の正南三百五十マイルを離れたる地点にありて西走す。当夕、競技の優勝者に賞品の授与あり。
 十日、曇り。軟風穏波、海鵝無数、船を追いて来たる。当夕、大余興会ありて、船客四、五十名、おのおの奇異の装いを競い、あるいは男子が女に化し、あるいは黒奴を模し、あるいは動物を擬し、行列を作りて甲板にあらわれ、最後に舞踏に変ず。その奇装の喝采を得たるものに賞品を授与す。
 十一日(日曜)、快晴。ただし北風強く、浪花翻る。午後二時半、はるかに山影および灯台を望む。去月二十一日以来、はじめて陸端に接見す。これ、南アフリカ・ナタール州の東端なり。四時、ダーバン港に着岸す。オールバニーよりダーバンまで、海程四千四百九十二マイルあり。
竺海浪如山、阿山雲似海、茫然又漠然、不識身何在。
(インド洋の波は山のごとく、アフリカの山にかかる雲は海のようである。遠くひろびろとして、またぼんやりとしてとりとめもなく、この身はいったいどこにいるのかさえわからない。)
舟車跋渉幾山河、回首天涯遊跡多、濠野三千程白霧、竺洋百万頃蒼波、風花雪月望中転、春夏秋冬夢裏過、看尽吟情猶未飽、更探奇勝南阿
(舟と車でわたりあるいた幾山河、ふりかえれば、天の果てまで遊歴の跡は多い。豪州の野の三千里の白い霧、インド洋百万畝の青い波、風花雪月の景色はみるみるうちにかわり、春夏秋冬の季節は夢のようにすぎた。尽くしても詩情はなおあきたらず、さらにすぐれた景勝を求めて南アフリカに入ったのである。)
 ダーバン市は人口七万人、そのうち欧人一万九千人、土人一万八千人、インド人および他のアジア人一万八千人なり。欧人は大半英人にして、これに次ぐものオランダ人、そのほか各国人とす。多少のユダヤ人もこれに加わる。インド人中にはバラモン教徒、イスラム教徒、火教徒あり。そのほかにはマレー人、シナ人、アラビア人等ありて労働に従事せるが、その各種および土人の間の紛争絶えずという。日本人は四、五人、この市にありて洗濯業に従事すと聞けり。まず当地の奇観を挙ぐれば、人力車の右に出ずるものなし。車の大きさはわが国の二倍ありて、二人はもちろん、三人同乗することを得べく、極めて粗大なり。そのうち比較的美なるものには、欧人のみに用うるの符号を記す。しかしてこれをひく車夫は、すべて黒奴なり。頭上に異種の冠をいただく。その両角には水牛の角をつけ、中央に鶏の羽を飾りたて、腰の周囲には赤きキレを垂れ、脚にはあるいはゴフンを塗るありて、一見鬼のごとき装いをなす。
顔色如塗炭、頭装似夜叉、路傍成列立、呼客勧乗車
(顔の色は塗炭のごとく、頭のよそおいは夜叉に似る。路傍に列をなして立ち、客に呼びかけて人力車に乗ることをすすめる。)
 電車は二階付きにして、ホバート式なり。乗車賃、一マイル八銭、二マイル十六銭とす。波止場より市中まで約一マイルあり。市街は大ならず、家屋は高からずといえども、すべて欧州式なり。ただし屋上はトタンぶきのみ。市庁と郵便局を除きては、みるべき建築なし。しかして市外に小丘をめぐらし、中間に海湾を挟み、すこぶる風光に富む。ことに目下三冬の節に当たるにもかかわらず、その気候は台湾南部の冬期と同じく、緑葉紅花いたるところに満つ。なかんずく猩々木の各所に繁生して、霜後の楓葉よりも赤し。ここに住するものはみな夏服のみを用う。着岸後、歩を市中に散ずるに、日曜にて諸店を閉鎖す。夜に入りて帰船すれば、一天片雲なく、満月檣頭にかかり、虫声露光、あたかもわが三五の明月を望むがごとく、壮快極まりなく、吟情勃然として動く。
船入南阿尽処郷、環湾皆屋一街長、阜頭風月冬如夏、人去人来晩納涼。
(船はアフリカ南端の町に入り、湾をめぐる家屋が長く連なる。阜頭の風景は冬も夏のごとく、人の往来するうちに日暮れて涼気をさとる。)
アフリカの潮風あらき海の上も、月の光りはかはらざりけり
すみ渡る今宵の月に照されて、黒奴の家も賑ひにけり
 南アフリカは、イギリス領に属するもの十二州あり。
(一) ケープ・コロニー(Cape Colony)二十八万方マイル
(二) ナタール(Natal)三万五千三百七十一方マイル
(三) ズールーランド(Zululand)一万四百五十方マイル
(四) トンガランド(Tongaland)五千方マイル
(五) スワジランド(Swaziland)六千五百方マイル
(六) バストランド(Basutoland)一万三百方マイル
(七) ベチュアナランド(Bechuanaland)二十七万五千方マイル
(八) ローデシア(Rhodesia)四十万方マイル
(九) 南ローデシア(Southern Rhodesia)十四万四千方マイル
(十) ニアサランド(Nyasaland)五万三百九十二方マイル
(十一) オレンジ川コロニー(Orange River Colony)五万三百九十二方マイル
(十二) トランスバール(Transvaal)十一万千二百方マイル
 総計百数十万方マイルはイギリス領なれば、南アフリカ全部英国植民地と称して可なり。そのほか西岸にはドイツ領あり、東岸にはポルトガル領およびドイツ領あり、中部にはフランス領あり、イタリア領あり、べルギー領ありて、欧州列国の植民地、アフリカに集中し、互いに対抗の勢いを持す。そのうち英国が過半の勢力を独占す。
 十二日、快晴。ダーバンはひとりナタール州の要港たるのみならず、トランスバール州に通ずる関門なり。その国境まで三百七マイルにして、中間、先年の戦地多し。ナタール州の首府ピーターマリッツバーグは、ダーバンより七十マイルあり。この日、午前市中を散歩し、午後市庁内の美術館、博物館を一覧し、さらに電車に駕して植物園に至る。いずれも豪州のシドニーなどに比すれば狭小なり。帰路、偶然土人の小学校を入覧す。南アフリカはいまだ義務教育を実施するに至らざるも、慈善的に土人の小学校を設くるあり。幅二間、長さ十間、四壁および屋上みなトタンを用う。市中に酒舗バーのいたって少なきは、豪州と異あるところなり。その原因は、労働者はみな土人およびインド人にして、彼らは別に飲食する所あるによる。しかして、瓶詰の酒類を売る商店は豪州よりも多し。これ、ここに住する欧人は酒舗に入らずして、自宅にて飲酒する故なり。当地の物価は英国の二倍、豪州より三、四割高し。絵葉書一枚八銭以上、ビール一杯二十五銭とす。ただ安きものは果物にして、パイナップル一個三銭なり。夜に入るもなお土人が裸体になり、炭のごとき色して、石炭を積み込むに、その歩きおるところは、あたかも石炭の大塊が自然に動きおるがごとく見ゆるは奇観なり。また、土人の水牛の角をキセルとして喫煙するところを写真にて見れば、大根をかじりおるがごときも奇なり。当夕また明月清輝を放ち、その海水に映ずるところ、ことにうつくし。
万里雲晴月一輪、清光入海海如銀、船窓今夜眠難就、照殺天涯孤客身。
(万里の雲はれて明月がうかび、その清らかな光は海を照らして銀色にかがやく。この風景を船窓よりみる今夜は眠るに惜しく、月光はこの天涯に一人旅する身を照らすのである。)
 十三日、快晴(満月)。未明ダーバン出航。軽風平波、右方に一帯の連山を望みつつ南進す。その山二千尺前後の高さにして、その色蒼然たり。
暁払烟波海門、檣頭残月照余昏、阿山脈脈看難尽、聞説此間蔵富源
(あかつきに朝もやを打ち払うようにしてせまい海を出るとき、帆柱の上には残りの月がうす暗がりを照らしている。アフリカの山々は連なってことごとくは視野に入れがたく、聞くところではこの辺りは豊かな資源があるという。)
 十四日、晴雨不定。暁天残月懸かり、虹霓を見る。たちまちにして驟雨来たり、南風強く、激浪翻り、甲板に打ち上ぐること幾回なるを知らず。寒気また加わる。右岸の連山、雲煙の中に隠る。
 十五日、晴れ。暁来、驟雨たちまち来たりたちまち晴れ、逆風をきりて西進す。風力、波動ともに、昨日よりいくぶんか減じたるを覚ゆ。昼間は山影を見ざりしも、暮天陸端を認む。その上に灯台あり。これ、アフリカ州の最南端なり。実に名のごとく喜望の感あり。
南阿旧蹤、狂風捲海怒濤衝、檣頭認得青如髪、山是当年喜望峰。
(南アフリカに入ってかつておとずれた地をたずねようと思えば、狂風を巻き上げ怒濤はつきあげる。帆柱の上に青みが髪のごとく見え、その山こそがむかしの喜望峰である。)
波あらき大海原の沖越えて、喜び望む峰に来にけり
大海のながめにあきて見る山は、昔も今も喜望峰なり
 また、喜望峰懐古の一首を得たり。
阿海波如万岳重、火輪蹴破自従容、一帆七十年前路、生死任風入喜峰
アフリカの海の波は多くの山が重なるように寄せ、双輪船は波をけたててゆったりと進む。一帆船が七十年前にすすんだ路は、生も死も風にまかせて喜望峰に入ったのである。)
 十六日、快晴。暁海、風和らぎ波滑らかにして、ただ緩漫なる大波動を見るのみ。アフリカ州南端の連山、眼前に起伏す。その形、奇※(「山/品」、第3水準1-47-85)の屹然角立せるあり、これを鬼峰デビルピークと名づく。懸岩屏風のごとくにして、そのいただきの平坦なるあり、これを卓子テーブル山と称す。また、丘陵の平円なるあり、これを信号丘シグナルヒルと呼ぶ。その西麓に港湾あり、これケープタウンなり。地形すでに奇観を呈す。その雄大なるは耶馬渓の遠く及ばざるところなり。あるいは交ゆるに白砂の雪のごときあり、あるいは敷くに野草の氈のごときあり。その山と海の間に高楼大廈、石屋瓦壁の櫛比せるありて、その勝景は、けだし南球中に傑出せるものならん。
南阿暁望気何濠、喜望峰頭残月高、船入西湾更回首、層楼大廈繞林皐
アフリカ南部のあかつきにケープタウンを望めばまことに豪壮で、喜望峰の上には残りの月が高くかかる。船は西の湾に入り、さらに四囲をみれば、なん層もの高楼や大きな建物が林や丘をめぐってたっている。)
 午前十時入港。小艇にて埠頭に渡り、さらに一マイル半の間、汽車の往復するあり。
懸崖有路鉄車趨、忽入南阿第一都、卓子山根屋如櫛、渓間無処不街区
(屏風のごとく立つ崖があり、そこに路があって汽車が走り、たちまちにしてアフリカ南部第一の都市ケープタウンに入る。卓子テーブル山の麓に家屋がびっしりと並び建ち、谷間もすべて街が造られているのだ。)
 市街はシドニー市、メルボルン市に比するに、人口の点は大差あれども、家屋の壮観は伯仲の間におる。市内および市外を合わせて、口数十六万九千六百四十四人という。そのうち過半は欧州人なり。わが邦人古谷駒平氏、ここに十三年前より商店を開き、その名をミカドストアと称し、目下小売店、卸店両戸を有し、日本の製産を販売して大いに成功せりというを聞き、氏を訪問したり。かかる日本人の一人もおらざる天涯万里の異域に単身突入して、成功の彼岸を見るに至るまでの苦心は思い知るべし。氏の案内により公園を一過し、議事堂、博物館、礼拝堂カテドラル等を外部より一覧して、レストランに入り午餐を喫し、閑談数十分にて手を分かつ。聞くところによれば、南アフリカの日本人排拒は豪州よりもはなはだしく、労働者は絶対的に入港を許さざるのみならず、近年は商店を開くことを許さず。地方を旅行して宿泊せんとするに拒絶する旅店多く、劇場、料理店すらも、入るを許さざるほどなりという。気候は冬期なるも、不寒不熱にして、年中霜雪を見ず。草木凋落せず、ただオーク樹のいくぶん落葉せるを見るのみ。市外を望めば野草なお青色を帯びて、春郊のごとし。
南阿冬七月、風暖気如春、喜望峰頭路、行看草色新。
アフリカ南部の冬七月、風は暖かく陽気は春のようである。喜望峰のあたりの道に、行くゆく草の色の新鮮さをみるのである。)
 イギリス領の政府は喜望峰にあらずして、プレトリア市にあり。その地、ケープをさること一千四十一マイル、ダーバンを離るること四百八十二マイルの内地にあり。しかして、連合議会はケープにて開くという。余は最初、南アフリカに滞在して内地を視察する予想なりしも、南アフリカは物価高直にして、英国もしくは豪州の二倍なりといい、これに加うるに、日本人拒絶のために旅行の非常に困難なりというを聞きて、南アフリカの視察は開港場だけにとどむることに決定せり。喜望峰より南米に渡らんとするに、直航の客船なきをもって、やむをえず英国を経由することに定め、豪州より乗船せるペルシック号にてロンドンまで続乗することに約せしに、同号がロンドン着を急ぐために、喜望峰の停船をわずかに五時間に限りたれば、同地の見物すらも十分できざりしは遺憾なりとす。ただし、南アフリカは豪州と大同小異にして、ただその異なるは土人の多く労働に従事する一事なり。南アフリカ人の日本人に対する不深切なる原因も、旧来土人および異人種を虐待せし習慣あるによる。また人物そのものにつきても、豪州に移住せしものと南アフリカに移住せしものとは、品格上高下の相違あるを見る。両地ともに新開地なれども、豪州は全くイギリス人のみの植民地なり。これに反して、南アフリカは対土人、対オランダ人等の植民地にして、戦闘流血の間に発展しきたれる新開地なれば、自然にこれに移住せるものも、品性上の相違あるべきは勢いの免れざるところなり。
 南アフリカ紀行はこれにて筆を擱し、以下は「英国行日記」に譲る。ダーバンより喜望峰まで八百十二マイル、メルボルンよりここに至るまで七千二百六十二マイルなり。しかしてダーバンより陸路汽車によるときは、一千四百六十三マイルありて、八十四時間を要す。
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 明治四十四年六月十六日、午後三時、南アフリカ喜望峰を解纜し、英国ロンドンへ向け進航す。その汽船はすなわちホワイトスター会社ペルシック号なり。夜陰に入るまで南端の連山を迎送しつつ、西北を指して走る。
 十七日、快晴。早朝より陸地を見ず、ただ一痕の残月を望むのみ。風軟らかに波穏やかにして、大西洋に入りたる心地せず。終日、無数の海鵝の船尾に従うを見る。
 六月十八日(日曜)、晴れ。軽風平波、船室内にありて座するに、海上たるを覚えざるがごとし。かつ当日は日曜なれば、極めて静粛なり。暑気とみに加わる。
 十九日、晴れ。朝来、風かえって冷ややかなり。穏波前日のごとし。万里一碧、なんらの触目なし。暮天ことに穏やかにして、波滑らかなること油のごとし。この日午前、熱帯圏内に入る。
 二十日、快晴。炎暑の感あり。食堂に電扇を動かすことを始む。午後、汽船に際会す。当日、ナポレオン翁遠謫の地たるセントヘレナ島と、南アフリカ大陸との中間を航過す。同島は面積四十七方マイル、人口四千人、大陸をさること最短距離一千百六十マイルあり。まことに絶海の孤島なり。よって、西方数百マイルを隔てて、はるかに雲影を望みて、所感の詩を賦す。
半世英名絶衆芬、老余凋落没奇勲、拿翁一夢当年跡、空作極南孤島雲
(半生における名声はもろもろの人々よりぬきんでて、老いて後は落ちぶれてすぐれた功績も埋没してしまった。拿翁ナポレオンの一場の夢の当時の跡は、むなしく南の果ての孤島の雲となっているのである。)
躙中欧武威、露原一敗事皆違、独将枯骨万人恨、絶海潮風晒血衣
(欧州を蹂躙して武の勢威をふるい、ロシアの野に一敗して事ごとに差違が生じた。ひとり枯骨万人の恨みをもって、絶海の潮風に血によごれた衣をさらしたのである。)
 二十一日、快晴。平穏連日のごとし。今日より船中に浴泳場を設け、毎朝随意に浴泳せしむ。日光は炎々たるも、これを遮蔽せる場所は清風入り来たりて清涼を覚ゆ。午時、汽船と近く相接す。ドイツ船なりという。夜に入りて、英王戴冠式を祝するために合奏会あり。
 二十二日、晴れ。終日無風、しかもはなはだしく暑からず。午前十時四十分、甲板上にて戴冠式の祝典を開催せられ、唱歌および祈請あり。午後一時四十分、祝砲を発火し、船長より無線電信をもって英王へ向け祝電を発送す。晩食後煙火あり、引き続き舞踏会ありて深更に及ぶ。
 二十三日、晴れ。同じく平穏無風、炎威ようやく強し。喜望峰を去りて二日間海鵝を見たりしが、その後また見ず。午後、乗客中豪州人と南アフリカ人と両方に相分かれ、綱引きの大競争をなし、豪州人の勝利に帰す。
日落南溟風未生、汽煙直立一船横、客牀夜半眠難熟、苦熱人攀甲板行。
(日が沈んで南の果てに風はまだ起こらず、汽船の吐き出す煙もまっすぐに立ちのぼって船の所在を示す。船客のベッドは真夜中になっても熟睡できぬ。それ故に暑さに苦しむ人は甲板にあがってすごすのである。)
 二十四日、炎晴。朝来風なく、汽煙直立す。海面にさざなみをただよわすは、風の力にあらずして、潮流あるためならん。赤日炎々、はじめて酷暑を覚ゆ。当夜十一時、赤道を横断して北半球に入る。
客衣欲二洲塵、更向西欧此身、一夜報来過赤道、喜吾復作北球人
(旅の衣服についた豪州とアフリカ南部の塵をうち払いたいと願って、さらに西欧に向かってこの身を運ぼうとしている。一夜赤道を越えたというしらせがきて、自分がふたたび北半球の人となったことを喜ぶ。)
 詩中二州とは、豪州と南アフリカをいう。
 六月二十五日(日曜)、晴れ。軟風船に入りて清涼なり。暑気は前回赤道を横断せしときほどに強からず。天晴るるも空気は湿気を帯び、夕日はマニラ海のごとくに紅を流さず。ゆえに、晩景の目をたのしましむるなし。朝夕二回、甲板上にて礼拝式あり。
 二十六日、晴れ。終日、清風船を送り来たり、甲板上に踞すれば、ほとんど炎熱を覚えず。午前十時、船客中十余人、仮装して海神ネプチューンの行列をなし、裁判を開き、有罪と認むるものを水中に投ずる古例の祭式を擬し、大いに喝采を博す。毎回赤道を一過するときに、船中の余興にこれを行うという。午後三回汽船を見る。
南進舟踰赤道回、欲残熱晩銜杯、酔余一枕涼如湧、風自大西洋外来。
(南に向かって進んだ船は赤道をこえてかえり、余熱をとり除こうとしておそくに杯を傾けた。酔った後にベッドに横になれば涼気が湧くがごとく感じられ、その風は大西洋のかなたからくるのである。)
 二十七日、曇り。夜来驟雨あり、四面雲とざして遠望するあたわず。風位は西北風にして、船中暑さを知らず。午後、無数のイルカ魚(英語ポーパス)の列を成し、船にそいて進むを見る。船中無聊のあまり、喜望峰出航以来、毎日ただ白雲に対して客懐を寄するの意を述べたる七律を賦す。
飽南阿尽処遊、与船有約向欧洲、月残喜望峰頭暁、風冷大西洋上秋、旭影生霓知雨到、星光入水見波収、二旬無物迎吾意、只対白雲客愁
アフリカ南部の窮まる地を遊歴することに飽きたわけではないが、客船の予約によって欧州に向かう。残月の喜望峰上のあかつき、風冷ややかな大西洋上の秋、旭光は虹を作って雨の来たるを知り、星影が水にうつって波の静かなるを見る。二十日余り私の意をみたすものにも遇わず、ただ白雲について旅愁を思うのみである。)
 赤道直下は短日にして、午後六時半には全く暗黒となる。昨今月なく夜暗きも、明星の光を水上に流すありさまは、月夜を欺かんとするほどなり。
 二十八日、晴れ。北風涼をもたらし、朝夕秋冷を覚ゆ。午時、飛魚の群れをなして波上を飛行せるを見る。また長途の一興なり。当夕、合奏会あり。
 二十九日、快晴。北風ようやく強く、海面白波をあぐ。満船の清風、人をして夏を忘れしむ。正午太陽を望むに、ほとんど天頂にあるがごとし。暮天一鉤の新月を望むところ、大いに雅趣あり。終日片雲なきも、水蒸気の空中に満つるありて、清朗ならず。春天朦朧の観あり。
船出南球北球、潮風洗熱夏如[#「潮風洗熱夏如」はママ]、暮天難禁吟情動、百尺檣頭月一鉤。
(船は南半球より北半球に入り、潮風は暑熱を洗い落として夏にもかかわらず秋の気候のようである。日暮れて詩情のかきたてられるのを止めがたく、なにしろ百尺の高い帆柱の上には鎌のような月がかかっているのだ。)
 三十日、晴れ。午前中に熱帯をこえて暖帯に入る。正午、北緯二十四度にあり。太陽は少しく南方に傾き、日陰をやや北方に見るに至る。風力、風位ともに前日のごとし。船これに逆行して北進す。夜に入りて船客の行列あり。種々異様の装いをなし、女が男に化し、男が女となり、あるいは黒奴を擬し、あるいはインド人をかたどり、あるいは日本婦人をまねるあり、あるいは車夫、あるいは巡査、あるいは郵丁を模擬する等、すこぶる奇装を競い、笑声沸くがごとし。後に投票を行い、その多数を得たるものに賞品を与えり。これまた船中の閑散無事を破る良案なり。
 七月一日、曇り。北風いよいよ強く、白浪海面に連なるも、船の揺動するに至らず。朝来、カナリア群島の間に入る。雲気のために右方の島を望むことを得ざるも、左方のテネリフェ島の山容には近く接するを得たり。この島は全く高山によりて成り、その最高峰はわが富士山と同じく海抜一万二千尺ありというも、雲煙に閉じられて望むことを得ざるは遺憾なりとす。ここに陸地を見たるは十五日目なれば、船客みな旧知に再会せる心地をなす。この島内に三千年を経たる竜樹ドラゴンツリーありという。午時、帆船二隻、汽船一隻に逢遇す。当日、一首を浮かぶ。
漠漠雲烟繞客舟、模糊影裏一峰浮、葡山未近英巒遠、知是加南利亜洲。
(遠くはるかに連なる雲ともやが客船をとじこめ、ぼんやりとしたなかに一つの峰が浮かぶ。ポルトガルの山は遠く、英国の山々も遠い、とすればここは加南利亜カナリア諸島なのである。)
 七月二日(日曜)、晴れ。風波昨日よりもその度を減じ、やや平穏に復す。暑気強からざれば、食堂において礼拝式あり。左に船中所詠の五言絶句を掲ぐ。
大西洋漠漠、尽日只看雲、入夜無余響、風濤枕上聞。
(大西洋はひろびろとして、一日中ただ雲をみるのみ。夜に入ってほかに聞こえるものもなく、風と波の音を枕べに聞くのである。)
一葉向竜動、洋中日月長、人皆生倦怠、屈指待終航
(木の葉のような船は竜動ロンドンに向かい、海洋に送る日月は長かった。人々にはみな倦怠の感が生まれ、指を折ってこの航海の終わりを待っている。)
阿西海無際、雲与水相銜、白影波間泛、近看是布帆。
アフリカの西の海は果てもなく、雲と水とがおたがいにふくみあう。白い影が波間に浮かぶをみる。近づいてみればそれは布の帆であった。)
 暮天虹霓を見、少雨来たる。
 三日、曇り。朝すでにジブラルタル海峡と同緯度の地点に航進するも、その距離なお五、六百マイル西方にあり。雲煙濛々として四涯をとざし、ために遠望するあたわず。北風に逆らいて走り、船上にわかに冷気を覚ゆ。午後、ドイツ郵船に会す。晩に至り、船客みな外套を用う。
 四日、晴れ。暁風寒きこと前夕のごとし。日中に至り、大快晴となるとともに暑気を覚ゆ。午後、はるかに汽煙を認むるも船体を見ず。夜に入りて、スペイン海を過ぎてビスケー湾に入る。
 五日、快晴。北風に向かいて航走す。多少の白浪を海面に見るも、ビスケー湾としてはすこぶる平穏なり。気候は不寒不熱にして、爽快を覚ゆ。午前二時、汽船を見る。当夕、最後の大合奏会あり。
 六日、快晴。軟風北より涼を送り来たり、海上わずかにさざなみの紋をなすのみ。有名なるビスケー湾にして、この穏波を見るは意外なり。午時、汽船の遠く煙を吐いて走るを望む。正午、英国南端プリマス港をさる九十マイルの地点に達す。これより時々刻々、汽船、帆舟を見る。午後四時、日木軍艦二隻、戴冠式をおえて帰航の途に上るに会す。ときに風全く収まり、海水油のごとく滑らかに、鏡のごとく明らかなり。今日はじめて、無数の海鳥のにわかに来たりて船の前後に群集するを見る。四時半、灯台および陸端を認む。夕七時、船ようやくプリマス港に入り、五十余名の乗客を移して、ただちに出港す。停船約三十分間なり。九時半、天ようやく暗し。ときに半輪の明月の碧波に映射し、一帯の林巒の船にそいて走り、前後の灯台の白光を送るありて、清風船に満ち、涼影窓に入る。実にこの良夜をいかんせんの観あり。余の英国に遊ぶは、ここに三回に及ぶ。よって、左の詩を賦す。
万里蒼波一葉軽、檣間遥認陸端横、吾生堪喜良縁続、三駕長風大英
(万里の青い波濤をこえて一葉のごとき船は軽やかに、帆柱の林立する間からはるかに陸岸の端が横ざまにみえる。わが生を喜び、その良い縁は続いて、三たび遠くから吹く風にのって大英帝国に入ったのであった。)
 七日、晴れ。朝霧のために林巒を望むを得ず。数回汽船、漁舟を送迎して転進す。穏波晴影、前夕のごとし。午後二時、ドーバー海峡を通過し、六時半、テムズ河口に入る。九時半、チルベリードックに停船す。喜望峰よりここに至る、六千百八十一マイルあり。これよりロンドン市中まで、さらに二十七マイルあり。
 八日、晴れ。朝七時半、船よりおりる。喜望峰を辞してより二十三日目にして、はじめて陸地を踏むを得たり。ここに税関の調査を受け、臨時汽車にてロンドンに向かう。水谷猶象氏ドックに来たりしも、相会するを得ざりしは遺憾なり。ロンドン寓所を友人サンマース氏の宅に定む。午後、大使館を訪う。
 七月九日(日曜)、晴れ。昨今ロンドンの気候は、あるいは暑く、あるいは冷ややかに、朝夕は秋のごとし、日中は夏のごとし。午前、郵船支店長根岸練次郎氏の宅を訪う。午後、ローマ教本山を一見す。
 十日、晴れ。領事館、郵船会社および正金銀行を訪問す。当夕、同宿大場忠氏と歩を散じて、水谷氏の寓所に至る。ときに月まさにまどかなるも、その位置低く、光輝十分ならず。英国などに観月の雅遊なきは、これがためなり(当夕満月)。
 十一日、晴れ。戴冠式場たるウェストミンスター・アベーを拝観す。式日当時の実況を示し、珍宝貴什を陳列せり。
 十二日、快晴。水晶宮に往復す。イギリス領植民地の陳列館ありて、入場者群れをなす。
 十三日、快晴。ハンプトン・コート宮に至る。庭園の百花、栄を競う。暑気強し。
 十四日、快晴。午前、博物館および図書館に入覧し、午後、日英博覧会の跡たるイギリス領各州の共進会を一見す。当夕、根岸氏の宅にて日本料理の晩餐を設けらる。
 十五日、晴れ。午前、ミルトン墓所に至る。また、スペンサー翁の故居をたずねしも探り得ず。今日は急に秋冷を催し、金風颯々の趣あり。
 七月十六日(日曜)、晴れ。水谷、大場両氏とともに、もと王室の所有にかかりしエッピング・フォレストに遊ぶ。その森林数里にまたがり、樹下の清風襟を洗うに足る。
 十七日、晴れ。風冷ややかにして落葉を見る。詩賢シェークスピアの遺跡をストラトフォード町に訪う。同所は詩賢の誕生地にして、その古屋依然として存し、遺物遺墨を陳列し、遠近より来訪するもの日々百をもって数う。また、同翁の洗礼を受けたる寺院、教育を受けたる学校あり。そのほか記念の劇場、銅像等あり。エーボンと名づくる一帯の清流、その傍らに走る。ロンドンより往復二百五マイルあり。
去吟※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)西又東、英盆江畔訪沙翁、依然三百年前跡、遺墨余香満故宮
(詠詩のための杖をたずさえて西へ行き東へと行き、英盆エーボン川のほとりに沙翁シェークスピアの跡を訪ねた。依然として三百年前の遺跡が存し、筆跡はなお香りたって故屋に満ちる思いがした。)
 十八日、晴れ。理学の泰斗ニュートンの誕生地たるコルスターワース村、字ウールズソープをたずねんと欲し、早朝キングズ・クロス駅を発し、リンカーンシャー州グランサム駅に降り、さらに馬車を駆りてここに至る。はじめに同翁の洗礼を受けたる寺門をたたく。小庵なり。つぎにその古屋を訪う。農民これに住す。壁上に詩人ポープの賛を題せり。庭前にりんご数株あれども、後年の栽培にかかる。古樹はすでに朽ちたりとて、その形を写して扁額となす。一人の来訪者なく、寂寥たるありさまなり。左の二首はそのときの所感を写す。
遥訪孤村晩駐車、老農猶守古賢廬、壁間留得林檎影、知是千秋不朽書。
(はるかにぽつんとある村を訪ねて、日暮れに車をとどめた。老いた農民がこのいにしえの賢者の古屋を守っている。壁にはりんごの絵が残されて、千年朽ちざる書と知ったのである。)
得遺蹤屋陰、観今懐古感殊深、読書窓下当年燭、照到天人造化心。
(残された跡を探して古屋のかたわらに座し、今を考えいにしえをおもって特に深く感じ入る。書を読んだであろう窓の下に当時の燭台があり、天・人・造化に対する心を照らしたのであろう。)
 その地寒村にして、四隣みな農家なり。ロンドンより往復汽車二百十一マイル、馬車十二マイルあり。この間は牧場少なく、農田多く、麦すでに熟し、薯なお青く、わが国の田野を望むがごとし。リンカーンシャー州は英国唯一の農産地なりという。
 十九日、晴れ。終日古人の遺跡をたずね、ミル父子の住家、ダーウィンの古屋、フランクリンの寓所等を探り得たり。午後日本人クラブを訪い、晩に至り根岸氏の宅にて牧野義雄氏と会食す。同氏は画をもって英人に知られ、その名高し。
 二十日、晴れ。朝、サンマース氏の監督せる公立小学校を参観す。生徒、男女を合して四百名、屋上に体操場あり。女子には割烹および洗濯までを教授す。午後、詩人カーライルの遺跡を訪う。テムズ河畔にあり。遺物を集めて小博物館となす。岸頭に銅像あり。余、ロンドンに遊ぶこと前後三回なり。第一回は明治二十一年にして、第二回は三十六年の初めなり。第二回より九年目に、さらにここに来たる。その前後を比較するに、多大の相違あり。第一はロンドンが市外に向かいて膨脹し、各方面に人の輻湊する場所を生ぜること、第二は地下鉄道の電気に変じたること、第三は市街の乗合馬車が多く自動車となりたること、第四は街上の敷石がたいてい敷木にかわりたること、第五は燕尾服、シルクハットの減じたること、第六は髯髭を全く剃去する風の流行せること、または全部を剃去せざるものあること、第七は英人の誇れるホームライフが変遷しつつあること、第八はヤソ教の勢力の減じたること、第九は日曜の午後に酒舗を開くに至りたること、第十は婦人にして喫煙し、またはパブリックバーに入りて飲酒するものあること等なり。概して言えば保守的の英国にして、欧州大陸風に漸化せる傾向あるを見る。あるいはまた、米国風に感染せるところあるがごとし。しかれども、ロンドンの日就月将の繁栄は、ただ驚くよりほかなし。余がその盛況を賦したる一律あり。
十里廷無河上塵、収容七百万余民、街皆築岳高低屋、路自翻波来去人、管道車中夜欺昼、水晶宮裏夏猶春、日新月盛成其美、天下何都能比倫。
(十里の市街区には河上の塵もなく、七百万余の人民をいれている。街はみな山の重なるような高低の家屋が建ち、路はおのずから波の打ち返すように人が去来する。地下鉄の車中は夜も昼かと思うほど明るく、水晶宮の中は夏にもかかわらず春のようである。日々新しく月ごとに盛んに文化の繁栄をなし、天下のいかなる首都も肩を並べることはできない。)
 別に五絶一首および和歌一首あり。
車塵遮白日、炭気鎖青天、市外望竜動、茫茫只見烟。
(車のあげる塵は日光をさえぎり、石炭の排気は青空をとじこめる。市外より竜動ロンドンの市街を眺めれば、みわたすかぎりぼんやりとして、ただ煙をみるのみ。)
電灯の光りに地下も照されて、文明の世は暗なかりけり
 また、テムズ川の月を望みてよみたる一首あり。
テームスの川は烟にとざゝれて、月の景色は見るかけぞなき
 二十一日、炎晴。北極海観光の途に就く。サンマース氏夫婦および大場氏、余を送りて停車場に至る。その紀行は別編目となす。
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 明治四十四年七月、英京ロンドン客中にわかに思い立ち、北極海観光の一行に加わり、欧州最北地点なるノルウェー・ノールカップにおける夜半の太陽を望見せんことを期し、パケット会社の観光船エーボン号に搭乗することを約す。かくして二十一日(金曜)炎晴をおかして、午前十一時半、キングズ・クロス停車場より臨時汽車に駕し、グリムズビー港に至りて乗船す。その鉄道里程百五十五マイルあり。エーボン号は一万一千七十三トンにして、上等客室四百五十人をいるるべき設備あり。実に華美を極めたる客船なり。乗客総計二百八十三人のうち、男百四十二人、女百四十一人、その女子のうち、既婚者七十四人、未婚者六十七人、みな上流の紳士令嬢にして、英人過半を占め、米人これに次ぎ、その他はフランス人、ドイツ人、南アフリカ人等なり。
 午後六時出航。天気清朗、風波穏静、海水油のごとく、夕照朱のごとし。汽煙直立して動かず。漁舟、商船去来たえず。終夜、英蘭東北岸に沿いて北走す。灯台前後相迎送し、一時に四、五の灯光に応接するあり。ときに一詩を賦す。
虞林港外夕陽傾、船向北氷洋上行、英北灯台何処尽、一光相送一光迎。
虞林グリムズビー港外に夕日が沈もうとし、船は北氷洋上に向かって行く。英国の北の灯台はいずこで終わるのであろうか、一灯台の光に送られると次の灯台の光が迎えてくれるのである。)
 この日、意外に炎暑を覚え、わが日本の夏に会するの思いをなす。夜に入るも減暑せざりしが、暁天に至りてにわかに冷気を催す。当夕は陰暦月末に近く、暗夜なるも、満天の星光炳然たり。
 二十二日、晴れ。朝来、北風冷を送り来たり、夏衣を脱して冬衣を襲う。海上白波を翻す。スコットランドの連綿たる丘陵を左方に目送しつつ、午前十時リース湾内に入る。エジンバラの市街およびフォース・ブリッジの大橋梁を望む。午十二時、さらに出港して北進す。北風いよいよ加わり、夜に入り寒暖五十四、五度に下がる。九時に日没するも、十一時後まで西天に余光をとどめ、あたかも月夜のごとし。詩をもって夜景を述ぶ。
海禽飛去欲斜陽、一帯青山蘇国長、看到夜闌天未暗、波光雲影両蒼茫。
(海鳥が飛び去って太陽は斜めにあり、一帯の青山は蘇国スコットランドの長大さを示す。真夜中に至るも空は暗くならず、波のきらめきと雲の影はふたつながらひろびろと果てもなく見えた。)
 その緯度は樺太の北端よりはるかに北方にあり。
 八月二十三日(日曜)、晴れ。午前礼拝式あり。列席者約百名。席上、慈善金を集めしに、たちどころに七十三円を得たり。風位一変、南方より微風を送り来たり、暖気ようやく加わる。汽煙直立せるに、海面に多少の波動を見るは潮流のためならん。正午、北緯六十度三十六分の地点に達す。露都よりも北位にあり。午後四時に至り、ノルウェーの連山に接す。五時、汽船および漁舟を見る。沿岸一帯すべて突兀せる石山のみ。おのおの異様の地勢を有す。その高さ海抜一千尺ないし二千尺くらいに過ぎざるも、峰頂残雪の点在するを認む。山麓に細草を見るも、樹木に乏し。海岸は湾曲すこぶる多く、ほとんど幾折なるを知らず。夜十時に至りようやく太陽を失うも、天なお明らかにして昼のごとく、星光力を失い、ただ二個の星宿を認むるのみ。夜半試みに書をひらきて検するに、四号文字はもちろん、五号文字もやや読み得るなり。当日の寒暖は昼間六十度以上、夜間五十五、六度なるを覚ゆ。
 二十四日、晴れ。午前十時、船トロンヘイム港に入る。その前後すべて群巒列島の間を縫いて航行す。両岸の風光は、わが内海の勝も三舎を避くるほどなり。港口に着するや、軽舟に移りて上陸す。当州第三位におる都会なり。
第一は首府クリスチャニア市   人口二十二万六千五百人
第二はベルゲン市        人口八万六千人
第三はトロンヘイム市      人口三万八千二百人
 市街は一面湾を抱き、三面丘山をめぐらし、湾外は群嶼屏立し、すこぶる風致に富む。市内の壮観は中央街路の尽頭に立てる大寺院なれども、目下修繕中にて閉鎖せり。その境内に墓地あり。その墓碑はわが国のものとよく相似たり。街路はすべて石を敷き、家屋たいてい木造、二階建てにして、北米カナダ辺りの家屋を見るがごとし。中央に一帯の江流あり。その水の清きこと、わが川にひとし。気候は意外に暑く、ロンドン市中の温度に異ならず。丘上には樹木繁生せるが、その多くは松杉族にして、樺太松に類す。市中を一過して、背面の丘上に登りて少憩せるに、往々麦田、薯圃あるを見るも、その色なお青く、わが五月初めごろの野外を望むがごとし。
海峰巒自作屏、曲湾尽処客舟停、那西七月夏猶浅、入眼山田麦漸青。
(海をめぐる峰々はおのずから屏のごとく、湾の曲折した奥に旅客を乗せた軽舟をとどむ。ノルウェーの西部は七月の夏の気候にしてもなお浅く、眼に入る山や田の麦はようやく青さをみせている。)
 午後六時半、同港を抜錨す。風軽く波静かに、群島海をめぐりて、天然の湖形をなす。ときに、身は琵琶湖上にあるがごときの思いをなす。両岸に漁家点在するを見る。木壁を塗るに、あるいは白色ペンキ、あるいは赤色ペンキを用い、白赤相映じて大いに人目を引く。夜十時に至り、西北の天際遠く晴れ、夕日波上に映射し、上下に太陽を見るは実に奇観なり。ときに、水中に一道の光芒を浮かべて、眼眸に映じ来たるところ、その美妙ほとんど言語に絶す。かくして十時半、太陽地平線下に入る。その没する所は正北と西北隅との中間なり。日没後十二時に至るも、西北はその明らかなること白昼のごとく、東南やや蒼然たるを見る。しかして水天相接する所は余光なお赤し。夜半灯光を用いずして、大小の文字ことごとく弁ずべし。昼間の気候は、船中にありてはわが四月ごろのごとく、陸上にては六月ごろのごとし。しかして夜間は北風冷を送り来たり、三、四月の交のごとし。
 二十五日、晴れ。午前八時半トルガッテン島に着船し、九時上陸す。その島形は帽子の海上に浮かぶがごとし。全島一巌石より成る。婦女子出で来たりて、牛乳または果酒を売る。その頭髪は長幼をわかたず、みな黄白色なり。青草緑苔、石上に敷き、また灌木の渓畔に横たわるあり、野花の岸頭に笑うありて、実に仙境の趣をなす。石径を攀ずること三十分間にして、天然隧道なる勝地に達す。孤山の中腹にあり、海抜四百尺ありという。その幅十間、高さ二十間、深さまた二十間、隧内より背面の天地を洞察するを得るはまことに奇なり。
帽子峰頭暁繋船、傍渓緑蘇自成氈、更攀石径山腹、洞内浮来洞外天。
(帽子のごとき島の峰に近きあたりに、早朝船を停める。島の谷にそって緑あざやかなこけがおのずとじゅうたんの趣をなす。さらに石の小道をのぼって山腹に至れば、天然の洞穴があり、洞内から外の天地が浮き出すように見えるのである。)
 ここに攀躋するや、悪道険峻、満身汗を流し、昨冬小笠原母島を跋渉せるときを想出す。高所に達して一望するに、四面みな山、その間に海水を挟み、湾曲幾弓なるを知らず。遠近の諸山は残雪をとどめ、あたかも春時わが信越間の諸山を望むがごとし。山下渓間には細草灌木あるも、絶えて田圃なし。午後に至り、海峡の狭くして川のごとき所を進航す。わが尾道近海を渡るがごとし。その両岸には、全く岩石より成れる連山の数里にわたるあり。一株の木はもちろん、一根の草をも生ぜず、まことに裸体山なり。ただ残雪の斑文をなすを見るのみ。極北の山にしてなおかくのごとし。堆石巌々たるは、ひとり南山に限るにあらず、これより北進するに従い、雪色天にみなぎるを見る。海岸にそいたる地には、往々麦田の漁家を擁するあり。その屋壁ともに赤くして、万緑叢中紅点々たり。
那山残雪白如沙、又認渓頭夏色遮、万緑叢中紅点点、麦田薯圃繞漁家
ノルウェーの山々は残雪が白砂のようにみえ、また谷のあたりには夏の色彩がおおう。すべて緑の叢中に紅の壁の家が点々として、麦畑と薯畑が赤い漁師の家をめぐっている。)
 漁人の小舟を浮かべて釣魚をなすもの、わが船客と互いに呼応して過ぐ。当夕七時半、まさしく寒帯に入る。ときに発砲してこれを報ず。太陽は六時、七時の間は西方にあり、これよりようやく北方に移り、夜十一時日の没するときは、ほとんど正北に近き方位にあり。没後北天紅を吐き、毫も白昼と異ならず。ひとり室外のみならず、室内にても灯なくして書を読むを得。太陽のまさに地平線下に入らんとするや、前夜のごとく波上に光明の一道を漂わし、わが視線に映射し来たる。
雲断天涯望不窮、北洋風色入※(「木+龍」、第4水準2-15-78)、水禽収影夜将半、夕日※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)波一道紅。
(雲の切れる天の果ては一望するもみきわめることはできず、北洋の風景を船のれんじ窓を通してみる。水鳥の影もみえず夜もなかばに達しようとして、夕日は波にまといついて一すじの紅がただよう。)
 今夕、長鯨の潮を吹きて走るを見ること一回、小汽船に会すること二回なり。所々に灯台あるも、一つも点火せず。当夜一時十五分ごろより、日輪の上端の地平線上に放光するを見る。これより遅々として昇るに、その全面の海上に現出するまでに、およそ三、四十分間を要せり。ときに天涯遠く晴れて片雲なく、清朗の北天に旭日を懸け、その光気の海水に映射する光景は、言亡慮絶の妙趣を実現せり。終夜天明らかにして、一点の星光を認めざるは前夕のごとし。
 二十六日、快晴。朝来、連山の奇骨をあらわし、残雪を冠するもの、前後左右に並立するを見る。終日、風むなしく波滑らかにして、湖中にあるがごとし。午後四時、船トロムセー港に入る。四山雪なおうずたかきにもかかわらず、陸上は七十度以上の温度にして、夏服を要するほどなり。この市街は人口八千人ありて、海岸にそい、五、六町の間、商店軒を連ぬ。家屋は木造二階だて瓦ぶきにして、防寒の設備さほど厳ならず。けだし、冬期も比較的寒気の強からざるを知る。住民は長髯を蓄え、その風采一見ロシア人に似たり。当市の商業は、多大の魚類を輸出するのみ。また、ここにラップと名づくる蛮族あり。もとスウェーデンのラップランドより移住し来たるものなり。獣皮を着、異帽をかぶり、道を遮りて、トナカイの角にて造りたる物品を販売す。一見わがアイヌに似たり。午後七時半出港して北進す。過ぐる所、目に入る山谷の残雪、その深さ幾百尺なるを知らざるあり。当夜は十二時に至るも太陽地下に入らず、まさしく北天にかかり、徐々として東方に移る。一天片雲なきも、また星光を認めず、全く白昼なり。寒暖は六十度以上なるを覚ゆ。船客、多く徹夜して太陽を望む。なんとなく奇異の感に打たる。夜半十二時砲火を発し、かつ汽笛を鳴らす。これ、初めて夜半の太陽を見たるを報じ、かつ祝するの意なり。
船入北洋知幾程、初看白日照三更、晴空如昼星難認、真是人間不夜城。
(船は北洋に入ってどれほどの里程であるのか、初めて白日の真夜中を照らすのをみた。晴れた空は真昼のごとく、星もよく見えず、まことに世間でいう不夜城であろう。)
今夜三更昼未除、船窓対日読残書、夢乎非夢吾何在、疑是須弥山頂居。
(今夜は真夜中にもかかわらず昼間のようであり、船窓よりさす日の光によって読み残しの本を読む。夢か夢ではないのか、自分はどこにいるのか、仏教でいう須弥山頂にいるのかと思われた。)
北極も今や間近くなりぬらん、夜昼かけて日そ照しける
 二十七日、快晴。午前四時、船すでにリンデン湾に着す。人家四、五十戸の漁村なり。阜頭に三層旅館一戸、雑貨店一軒あるのみ。山上は雪色皚然たるも、海に面したる方は雪すでに消して、青草地に敷き、樹木も繁茂し、わが春野を望むがごとし。麦田あるも、その長さ七、八寸に過ぎず。駅道は縦横に貫通す。渓にそいて山隈に入ること十四、五町にして、ラップ人種の部落に達す。家屋は樹木を結び、その上に土を載せ、一見塚のごとき形をなす。頂上に煙出しの口を開く。屋内は床を張らず、木の枝を敷くのみ。中央に地炉ありて、自在鍵を用う。石をもって椅子に代う。夜寝るときは、毛皮を敷きてこれに臥す。わがアイヌの住家よりも劣等なり。衣類は獣皮にて作るも、決して洗濯することなく、ときどき日光にさらすのみなれば、垢のために黒く染まり、臭気はなはだし。赤子はこれを獣皮にて包む。その形、エジプトのミイラに似たり。平素トナカイを養いて生活す。実に太古の遺民なり。途中、あおばえに苦めらる。暑気七十四、五度に上がれり。夜に入り、二回小汽船に逢遇し、互いに汽笛を鳴らして過ぐ。今夜もまた終宵太陽の没することなし。夜半には天全く晴れ渡り、日光明朗、自然の美を現し、その風光奇にしてかつ妙なり。これを昨夜に比するに、前夕は夜半、太陽の全面地平線上にありしのみなりしが、今宵は太陽と水面との間に、さらに一個ないし二個の太陽をいるるべき余地を存せり。海上に停船およそ一時間、汽笛を吹くこと数回にしてようやく進航す。
 二十八日、晴れ。未明、船すでにハンメルフェスト港内にあり。この港は北緯七十度四十分の地点にありて、欧州最北の港たるはもちろん、世界最北の都会なり。人口二千三百人、官舎、寺院にいたるまでみな木造なり。全市漁業に従事し、魚類を乾燥して輸出す。ゆえに、街上の魚臭鼻をつききたる。わが北海道天塩北見辺りの港内にあるがごとき思いをなす。市街は海と山との間四、五町にわたりて軒を列するも、見るべきほどの店なし。ただし、港内に帆船相集まり、連檣林立、幾百艘なるを知らず。欧州各国の船舶ここに至りてとどまるという。聞くところによれば、この港は毎年五月十三日より七月二十九日までは太陽の没することなく、十一月十八日より一月二十三日までは太陽を見ることなし。しかして冬期二カ月間以上の長夜は、電灯をもって日光に代う。冬中の寒気は厳なることもちろんなれども、ロシア、スウェーデンおよびドイツの北部ほどにはなはだしからずという。けだし、暖潮を受くるためなり。歩して市外に至れば、諸山みな赤壁のごとく岩石を露出し、断崖千仞なるあり。その間に残雪堆をなすも、山麓には青草※(「くさかんむり/千」、第4水準2-85-91)々として茂り、ようやく春に入るがごとき風色なり。午時出港。これより、まさしく目的の終航点たるノールカップに向かいて急航す。四時以後は左方に渺茫たる北極海を望み、右方に屹立せる絶壁を見て北走するに、崖下に無数の小禽の上下するあり、あたかも群蝶の風に舞うがごとし。風光荒涼、自然に北極に近づきたるの心地をなす。
 かくして同日午後六時、まさしく欧州最北の岬端ノールカップに着す。即時上陸。千仞の巌頭屹立して頭上に懸かる。縄索にたすけられて断崖十余町を攀じ、さらに峰頭一マイルを歩すれば茶店に達す。夏時、観光客の休憩にあつるものなり。その傍らに一碑あり、ここにて一望すれば北極までも眼中に入るべし。ただし、西北二方面は蒼溟茫々、いずれの所に尽くるを知らず。この地、北緯七十一度十一分に位し、実に欧州の極北なり。東方にはさらに一岬の突出せるを見る。しかして、後方の連山は白雪なお皚々たり。風光雄大、眺望絶佳、これに加うるに満目凄涼蕭颯の趣ありて、太古の海山に接するの思いあり。その壮快実に極まりなし。ときに夕日高く北天に懸かり、多少の雲煙を帯ぶ。同行とともにシャンパンを傾け、万歳を呼びて帰る。その絶壁を上下する石径の険悪なること、台湾生蕃界の山路を想出するに足る。その岬頭の最高点は海抜一千十七尺あり、山上には岩石あるのみ。これに緑苔の蝕するを見る。岩陰には雪なお累々たり。もし、山麓の海に浜せる地に至りては小草繁茂し、微花媚を呈し、すこぶる幽趣あり。当夕、風なくして温暖、水陸ともに寒暖六十度なり。夏時は遊覧者のために、海浜に臨時郵便取扱所を設く。また、記念物を販売する野店あり。その価廉ならず。
岬頭赤壁幾千尋、攀到三更日未沈、踞石銜杯呼北極、一宵養得百年心。
(岬の突端は赤壁のごとく高々とそびえ、これにのぼりて真夜中に至るも太陽は沈まない。石に腰かけて杯をあげ、北極に呼びかけた。この宵は変わらぬ心を養うことができたのであると。)
行尽欧洲最北郷、極洋風物不尋常、這般消息成禅語、夜半天心懸太陽
(欧州最北端の村に行きつく。北極海の風物は尋常ではない。このようなようすを禅のことばであらわせば、夜中の天の中心に太陽がかかっていると。)
寐さめしてみれば夜中に日影あり、まだ吾夢のさめやはてざる
 深夜再び上陸し、石を拾い花を折りて帰船す。終宵、海穏やかにしてむしろのごとく、一点の波痕を見ず。夜半は北天に微雲ありたれども、なお太陽の光影に接するを得たり。その位置前夜より一層高く、地平線上より九尺ほどの高所に懸かるがごとく、わが目に映じきたる。ここに停船すること午前二時に至る。船客、一人の寝に就くものなし。その雄壮かつ奇絶なる光景を望みて余念なく、あるいは歌いあるいはうそぶき、ほとんど徹夜の快遊をなす。当夕また船員の主催により、釣魚の競技会あり。船客中その最も多く釣り得たるものに賞品を与え、もって余興を助く。
 二十九日、晴れ。午前二時、号砲を放ちて出航し、ようやく帰程に上る。十時ボスコップ湾に入る。船客またみな上陸す。人家数戸あるのみ。その前後の丘陵は松林数町連なり、野草繁生し、夏花の愛すべきものありといえども、丘頂に至ればただ巌石あるのみ。しかして、遠近の諸山は残雪なおうずたかし。いたるところ石磐を採出す。この日、風なくして暑さひどし。ときに正午太陽の位置を見るに、わが冬日の太陽よりも低きを覚ゆ。午後二時出港。風ようやく生じ、冷気ようやく加わる。三時少雨来たるも、たちまちにしてやむ。英国出船以来雨を見るは、今日をはじめとす。一隻の帆船に会す。両岸の風光は連日の観と異なることなし。当夜十時半より、太陽は雲と山との間に隠れて見ることを得ざりしも、夜半なお白昼のごとし。
 八月三十日(日曜)、晴れ。西北の風強きために寒冷を覚ゆ。正午十二時、ジゲルミューレンに着岸す。寒村なり。ここに、その海抜一千四十八尺の岩山聳立す。満身汗をしぼり、石径を攀ずること二マイルにして、頂上に達す。道すこぶる険悪なり。山上の風光はノルウェー第一と称し、自然の大画幅に対するの観あり。実に天地の一大パノラマなり。四面の連山はみな奇巌骨立、幾層なるを知らず。その岩陰は、ことごとく残雪をもって封鎖せらる。しかして遠山の雲煙の間に隠見するところ、さらに趣を添う。かつ、渓谷の間は海水縦横に湾入す。これをフィヨルドと称す。これに浜したる地は草木茂生するも、山腹はすべて岩石のみ。
奇巌骨立幾峰峰、七月猶看残雪封、歩到渓頭草如[#「歩到渓頭草如染」はママ]、春風路上対三冬
(すぐれてめずらしい岩がむき出しに立つ峰々が連なり、七月であるのになお残雪にとじこめられている。徒歩で谷のあたりに至れば草にいろどられ、春のごとき風の吹く路上は冬の三カ月にあたる。)
 その景の雄壮なるは、はるかにスイスをしのぐの勢いあり。絶頂に茶店一戸あり。また、ドイツ皇帝登臨の記念碑あり。帰路、野花を折りて船に移る。午後六時、新月を望みたるも光気薄し。これ、夕日の高く懸かりたるためなり。昨日以来南進せる結果、夜十時半、太陽すでに地平線下に入る。しかれども、夜半なお灯を要せず、不夜城を継続す。
 三十一日、快晴。朝来一点の雲なく、風力減じて暖気加わる。左右の両岸には連山群島に応接しつつ、峡間を一過す。午前七時、寒帯を脱して温帯に入る。終日航進を継続し、いずれへも寄港せず。正午甲板にありて、試みに自ら太陽に向かいて起立せるに、その日陰の長さ六尺ありて、わが身長よりも長し。午後一時以後、岩石より成る小巒数百、海中に群立せる間を縫いて走る。その地形わが松島以上なるも、ただ樹木なきをもって荒涼を覚ゆ。二時に至り、海峡の最も狭くして、スエズ運河のごとき間を過ぐ。この日にわかに炎熱を感ず。今夕は九時十五分より太陽ようやく地平線下に沈みかかり、三十分に至りて全くその形を没す。ときに一天片雲なく、没後残光をとどめ、夜半なお余明あり。その光景、筆端のよく模写するところにあらず。太陽の地下に入るとき、新月なお西天に印して、一段の風致を添う。夜十一時半夜陰に入るも、なお暗黒なるに至らず。
 八月一日、快晴。午前七時、船すでにオンダールスネス湾にあり。九時上陸す。奇峰峻嶺、互いに比肩し、頂上には残雪をとどめ、山麓には樹木繁茂し、渓流の両岸には麦田のすでに熟して、黄を帯ぶるを見る。徒歩して渓間に入り、さらに行くことマイルばかりにして橋頭に達す。その岸上に懸かる奇巌の風光は、わが寒霞渓に幾倍する壮観を有す。この山間にして所々に旅館の設備あるは、欧州各国より避暑観光に来遊するもの多きによる。日中は炎暑を覚ゆるも、朝夕はすこぶる清涼なり。その緯度はロシアの首府より三度北方にあり。蚊なく蠅多きなどは、すべてわが飛騨山中の夏時に異ならず。
渓辺有路歩堪移、看到断橋行自遅、疑是那山存鬼窟、巨巌戴雪半空欹。
(谷間に道があり、遊歩するによく、眺めつつたち切れた橋に至るも歩行はおのずから遅くなる。ノルウェーの山には鬼の住む洞窟でもあるかと思われ、巨大な巌には雪をのせて空のなかばにそばだっている。)
 午後三時出港して、五時モルデ港に入る。一小市街なり。人口一千八百人に過ぎず。木造の寺院あり、その中に有名の神画を懸く。この地には旅館の美かつ大なるもの多し。その市外および海州には樹木鬱然として、幽邃を極む。実に避暑の良地たり。市中には箱根細工のごとき木細工を販売する商店多く、また古器物店もすくなからず、わが日光および箱根の諸店のごとし。港内にはドイツ軍艦、前後五隻碇泊せるを見る。七時出津。夜に入りて船中に盛んなる行列あり、舞踏あり。これ、観光の無事帰航を祝するの意なり。ときどき帆舟に会す。
 二日、晴れ。午前十時、ベルゲンに入津す。当市はノルウェー第二の都会なり。十一時、観光団と手を分かちて上陸し、さらに欧州大陸の周遊に就く。よって、観光日記はここに筆を擱す。英国グリムズビー港よりノールカップに往復してベルゲンに至るまで、航海里程二千七百七十六マイルに達す。
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 明治四十四年八月二日、北極海観光船を辞して、ノルウェーのベルゲン市に上陸し、ホテル・メトロポールに入宿す。市街は山水を襟帯して、風光すこぶる明媚なり。終日市内を遊覧す。ノルウェーの石造煉瓦造りは、ここに来たりてはじめて見る。壮大の寺院および博物館あり、また公園の幽雅なるあり。夕六時、少雨来たる。
 三日、晴れ。午前八時ベルゲンを発して、首府クリスチャニアに向かう。汽車ようやく渓流にそいて山間に入る。岸頭に多少の麦田あり、その色黄を帯ぶ。往々ロシア式の木造を見る。これ農家なり。そのほかは森林のみ。しかして山岳はみな巌石より成り、峰頂に至れば一株の樹なく、一根の草なく、ただ残雪を見るのみ。車窓よりこれを望むに、渓流のあるいは走りて川となり、あるいはたたえて湖となり、風光実に秀絶なり。ようやく上り窮まりて絶頂すなわち分水嶺に達する前後は、トンネルまたは雪よけ小屋の中のみを通過するも、水にそいたる一方は、雪屋に窓を開き、眺望の妨げとならざるように注意を施せり。およそ数十マイルの間は、岩石と残雪と湖水のみを見る。その風光は、わが耶馬渓のごとき小規模のものにあらず。スイスの山水も、雄大の点においては三舎を避くる勢いなり。
那渓一路漸崔嵬、仰見半空残雪堆、登到水青山白処、風光自圧瑞西来。
ノルウェーの谷ぞいの一路はしだいに岩石の険しさを増し、仰ぎみれば空のなかばには残雪がつもる。登れば水青く山の白雪のあるところに至れば、その風光はスイスを圧倒するものがある。)
 すでに分水嶺を一過し、下ること数里にして、両岸森林の鬱々蒼々たる所に出ず。松檜の類最も多し。これみな人工的植林なり。その前後に渓流の湖をなすものいくたあるを知らず。
汽笛声中度雪岑、鉄車傍水入岩陰、渓頭百里那東路、不行人只見林。
(汽笛の音の響くうちに雪の峰をすぎ、汽車は川流にそって走り岩陰に入った。谷のほとり百里ほどはノルウェーの東の路、行く人の姿は見えず、ただ林をみるのみである。)
 嶺頭に近き所に旅館あるは、避暑客を迎うるためなり。午後四時後はようやく渓山を出でて、原野に入る。多少の林丘あるも、概して麦田なり。川上には無数の材木のただよいおれるを見る。これ、いわゆるクダナガシなり。諸川の流下すること緩慢にして、渓流といえども水声を聞かざるは、わが国と大いに異なるを覚ゆ。夜十時後クリスチャニア市に着し、公園に接したる所に旅館を定む。この日、行程三百六マイルに達す。当夕、炎熱はなはだしかりしが、夜半に至り雷鳴あり、驟雨来たる。
 四日、雨。夜半の雷雨いまだやまず、ときどき雷鳴あり。公園、王宮、大学、博物館等を一覧す。市街は石造にして、往々壮大の建築あるを見る。午後六時発車夜行にて、スウェーデンに向かう。この間平原麦田のみ。江流にそいて進行し、国境に至りて停車し、税関の検閲あれども厳ならず。終宵車中に臥す。
 五日、晴れ。午前七時半、スウェーデン首府ストックホルムに着す。午前、わが公使館を訪問し、午後、公園、博物館、王宮、議事堂、寺院等を一覧す。当市は人口三十三万二千七百五十人ありて、クリスチャニアより多きこと十万余なり。しかして建築の壮大、市街の美麗、往来の頻繁なる等は、到底クリスチャニアの比較にあらず。パリ、ベルリン、ウィーンに次ぐべき都会なり。ことに市街に海水を挟み、州あり橋ありて特種の風致を帯ぶるは、欧州第一と称して可なり。日中は暑気強く、わが三伏の時に譲らず。聞くところによるに、本年は近年希有の大暑なりという。しかして林下に入れば、枯れ葉の落下を見る。ゆえに、左の一絶を得たり。
一湾曲水繞王宮、夕照※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)波橋幾弓、歩入公園落葉、典都八月秋已風。
(湾内の曲がりくねる水は王宮をめぐり、夕日は波に照り映えて橋は弧を描く。公園に歩き入れば落葉多く、スウェーデンの首都の八月はすでに秋風が吹いている。)
 当夜は停車場前ホテル・コンチネンタルに宿す。
 八月六日(日曜)、晴れ。午前十時半発にてデンマークに向かう。スウェーデンはノルウェーと全く地勢を異にし、平原広野多く、したがって農業大いに開け、市外はみな農田なり。昨今麦すでに熟し、おおよそ刈り尽くせり。
瑞典の原は露士亜に連りて、雲のやどらん山の端もなし
林野茫茫駅路長、麦田繞屋半村黄、隴頭尽日児扶老、八月典州農事忙。
(林と野ははるかに続き、駅への道は遠い。麦の畑が家をめぐり村の半ばは黄色に染まっている。畑のうねのかなたに一日中児童が老人をたすけて、八月の典州スウェーデンは農事に多忙である。)
 車窓より村落の農家を望むに、屋根は赤瓦またはブリキを赤く塗りたるを用い、木壁もまた赤く塗り、緑樹の間に紅を点ずるの観あり。しかして風景の賞すべきものあらず。九時半マルメ駅に着す。これより渡船に駕して海峡を渡る。マルメの街灯のいまだ隠れざるうちに、デンマーク首都コペンハーゲンの灯台を認む。ときに煙月微茫、清風船に満ち、すこぶる幽趣あり。
やる舟路マルモのあかり消えぬ間に、コペンハゲンの灯火を見る
烟月微茫檣影孤、風収嗹海静如湖、電光一射灯台照、暗裏分明認忽都
(けぶる月がかすかに、帆柱の姿も孤独に見え、風はおさまってデンマークの海は静かで湖のようである。電光のひとすじ照らすのは灯台の灯であり、暗いなかにもすっきりと忽都コペンハーゲンがみとめられる。)
 この間、汽船来往はなはだ頻繁なり。十一時半、コペンハーゲン市に着船す。税関の検閲を終わりて旅店を探るに、たいていみな空室なし。一時後ようやく入宿す。
 七日、晴れ。終日市内を散歩し、王宮、市庁、寺院等を一覧し、チボリー公園に入りて小休し、ラウント高塔にのぼりて全市を一瞰す。しかして、いずれに向かいて遠望を放つも、山影の目に触るるなし。同市は人口五十一万四千を有し、スカンジナビア三国中の最大都なり。毎夕チボリー園内には、納涼および遊覧者群集す。そのうちには種々の興行ものありて、わが浅草公園に似たり。午後八時、ベルリン行きの急行に投ず。市外はすべて農田にして、風車の転々として晩風に舞うを見る。夜に入り、明月清風の旅情を慰むるあり。これに加うるに、前後二回汽船にて汽車を渡す所ありて、壮快極まりなし。当夕所吟数首あり。
一路秋生冷客衣、風車転転夕陽微、忽辺城外茫如海、遥見牧童引犢帰。
(一路に秋の気配が生じて旅人の衣を冷やし、風車はめぐりて夕陽はかすかになる。忽辺コペンハーゲンの市外のあたりはひろびろとして海のごとく、はるかに牧童が子牛をひいて帰るのが見えた。)
嗹国江山送壮遊、客程夜半到津頭、汽船忽載汽車去、夢覚初知入独州
デンマーク国の川や山はさかんな旅遊を送ってくれる。旅人の行くところ、夜半に渡し場に至る。汽船は急いで汽車をのせて行き、夢よりさめて、はじめてドイツ国に入ったことを知ったのである。)
波の上を今宵汽車にて渡りけり、明日は船にて山に上らん
 八日、晴れ。暑気はなはだし。午前七時ベルリン着。プリンツ・アルブレヒト旅館に宿す。終日市街および公園を散歩し、今昔の変遷いかんをみる。地下鉄道の布設と自動器械の流行は、先年いまだ見ざりしところなり。スカンジナビア三国にも自動器械流行し、料理店にて食品を得るに人の手を煩わさず自動器械を用い、停車場にて郵便切手を売りさばくに自動器械を用い、昇降器にて階上へ上下するにも自動的なる等は、意外に感ぜり。また、ベルリン街路には自動靴をうがちて来往するものあるも、はじめてこれを見る。ベルリン客中作一首あり。
街路如碁又作叉、鬱然四十万余家、行吟林典街頭月、看酔智阿園裏花。
(街路は碁盤のごとく、あるいは枝わかれするかのように、繁栄する四十万余家の都市である。行くゆく林の道や街頭の月に吟詠し、智阿園テイアガルテン内の花をみて酔いしれたのであった。)
 九日、炎晴。正午十二時、ベルリン発車。午後三時半、ライプチヒ市に着す。友人エッシェー氏、自動車にて歓迎せらる。即時に同氏の宅に至り、冷茶を喫す。ドイツにては、暑中は氷水にて茶を喫すること流行するという。これより博物館、公園、遊覧台、植物園等を巡覧す。
独逸路は海より広き大野なり、雲のはてまで山かけもみず
 夜に入りて、さらに同氏の宅にて晩餐をおわり、食後街路を緩歩す。ときに明月高く懸かり、清風熱を洗いきたる(当夕満月)。茶亭に休憩すること夜半に及び、一時の急行に駕してミュンヘンに向かう。その間、エッシェー氏の周到なる注意と懇特なる歓待をかたじけのうせるは、大いに深謝するところなり。
 十日、炎晴。午前十時、ミュンヘン着。金子恭輔、井出健六、瀬木本雄諸氏の出迎えあり。これより瀬木氏の案内にて、博物館、美術館、公園、宮城等を周覧し、有名なるビール店ホフブランハウスに至りて喫飯せり。宿所はクリストル・ホスピッツ旅館なり。当夕、井出氏の寓所において、久しぶりにて牛鍋の日本料理を試む。
 十一日、晴れ。前日のごとく瀬木氏の案内にて遊園および寺院等を一覧し、さらに汽車にてシュタルンベルク湖に遊ぶ。湖水の大きさはわが函嶺湖のごとし。その風景はスイスの模型と称して可なり。ときに詩歌各一首を浮かぶ。
明辺城外有仙関、舟過湖光巒影間、日欲斜時雲亦断、一青影是瑞州山。
明辺ミュンヘンの郊外には世俗を離れた所があり、舟は湖面の光と山の影をよぎる。日が斜めに移る時に雲もまた断ちきれて、ひとつの青い山影は瑞州スイスの山なのである。)
暑き日に木陰たよりて知りにけり、蝉のなかざる里もありとは
 十二日、晴れ。午前十時、金子とともにスイスに向かいて発車す。リンドウ駅より汽船に移り、税関の検閲を受く。湖ひろくかつ長く、わが琵琶湖に似たり。ローマンシオル駅よりさらに汽車に駕し、午後五時半、チューリヒに着す。途上は比較的平坦にして、車外ただ農田を見る。しかして、遠近に連山の起伏せるを望む。チューリヒは目下観光の客、四方より雲集し、旅館ほとんど空室なし。晩に至り納涼の客湖畔を徘徊し、橋上の来往織るがごとし。
瑞渓窮処水成湾、更駕湖舟石関、風払残雲晩来霽、長空一碧是伊山。
スイスの谷間の尽きるところに水が湾を作り、さらに湖の舟にのって石の関所のごときをよぎる。風は残りの雲を吹き払い、夜にははれて、遠い空の一つのみどりはイタリアの山である。)
画にかきしよりも妙なる景色とは、瑞西の山の姿なるらん
 八月十三日(日曜)、晴れ。金子と手を分かち、単身独行してジュネーブに向かう。途中、ベルンおよびローザンヌに暫時足をとどめて遊覧す。ローザンヌの山水の雄大なるは、チューリヒの比にあらず。午後六時ジュネーブに着し、インターナショナル旅館に入宿す。同市は小パリと名づくべき美観を有す。屋高く街ひろく、旅館のすこぶる美大なるものあり。これに加うるに、湖上の風光のまことに画を欺くがごときものあり。その湖集まりて川となり、市を一貫して流る。これを接続するに幾条の橋路をもってす。夜に入れば、岸頭無類の電灯は清流に映射して、いちだんの風致を添う。けだし、風光の明媚にしてかつ清雅なるは、スイス中第一位にあり。野吟一首を得たり。
暮山已被紫煙埋、一碧湖光映両崖、此景何人能守坐、復鞭疲脚前街
(日暮れの山はすでに紫煙のうちにうもれ、一つのみどりなす湖の光は両岸の崖をてらす。この景色はなんびともただ座視できず、また疲れた脚に鞭うつようにして町なかを歩むのである。)
 暑気、夜に入るもなお減ぜず。聞くところによるに、スイスにては本年ぐらいの暑気は、幾年にも経験せざるところなりという。
 十四日、晴れ。正午十二時、ジュネーブ発車、フランスに向かう。スイスとフランスとは、時間に一時間の相違あり。国境にて税関の調査を受け、午後五時半、リヨンに着す。途中車窓より一望するに、農田多くは桑園なり。
走出瑞山入仏原[#「走出瑞山入仏原」はママ]、隴頭無処不桑園、午風漸動車窓冷、看過廬尼河上村。
(汽車はスイスの山よりいでてフランスの草原に入れば、畑のうねはすべて桑田である。まひるの風がようやく吹いて車窓も冷ややかさをおぼえ、みるみるうちに廬尼ローヌ河のほとりの村をとおりすぎた。)
 停車場前に旅宿を定め、夜に入るまで市街を散歩す。
 十五日、炎晴。リヨンは二条の清流これを貫き、数条の橋梁これにかかり、かつ一方の岸頭は丘山を成し、風光に富める市街なり。午前、寺院、博物館等を一覧し、午後、わが領事館に至り、副領事木島孝蔵氏を訪わんと欲せしも、同館閉鎖せられ、入ることを得ず。自ら察するに、暑中休暇にて同氏旅行不在ならんと思い、むなしく旅館に帰りしが、後に聞けば、同氏は当日余の来たるを知り、自宅にて特に日本食を整え、終日待ち設けおられし由。同氏の宅を訪わざりしは実に遺憾なり。
一水二条貫市流、岸頭茶店幾層楼、夜深猶聴電車走、人在万灯光底遊。
(水はふたすじの川となって市街をつらぬいて流れ、岸べの茶店が幾層もの高楼をなしている。夜もふけてなお電車の走る響きをきく。人々は万灯の光のもとに遊歩しているのである。)
 当夕は独歩して江上の納涼を試む。夜景またよし。市中を貫流せるローヌ河は、水清く色青く、大いに風光を添うるも、その両岸に連繋せる船屋はみな洗濯屋なるは、やや殺風景を感ぜり。
 十六日、晴れ。午前九時出発、急行にてパリに向かう。野外桑園多く、また葡田あり。連日の炎晴、数旬の間降雨なく、野草枯れ、塵埃みなぎる。午後六時着。旅館セントジェームス・ホテルに入る。当夕は市中に遊歩を試む。
 十七日、晴れ。午前、公園に遊び、帰路わが大使館をたずね、栗野大使に面会す。午後、セーヌ河南に散策し、夜また市街を緩歩して帰る。
巴黎城外歩林皐、英弗塔尖依旧高、自動截風来又去、車声恰似万松号
巴黎パリ郊外の林や丘を遊歩するに、英弗エッフェル塔は天を指して旧時のように高くそびえている。自動車は風をきって走りきたり、あるいは去る。車の音はあたかも多くの松が風に鳴るのに似ているのだ。)
青葉しける林に入れば電灯の、光りも染みて緑りとぞなる
 パリもベルリンと同じく、前後三回歴遊を重ねしが、そのつど多少の改変あるを見る。地下鉄道の布設と自動車の流行は、第一に注意を引けり。自動車は各都会に流行せるも、パリ最も盛んなるを見る。また、パリはコーヒー店、ブドウ酒の名物なりしが、近年英国風および独国風これに入り、市街にイングリッシュバーと題する酒舗あり、またミュンヘンビールと題する酒店ありて、レストランにおいてビールを傾くるもの多く、酒店に入りて酒の立ちのみするもの多きを見るは、英独の感染なるべし。市中人車の雑踏せるも、先年と大いに異なるを覚ゆ。しかして、セーヌ河畔に古書をひさぐ露店あると、エッフェル塔尖の雲をしのぎて聳立せるとは、旧時の観をとどむ。
 十八日、晴れ。午前十時パリを発し、急行にてロンドンに向かう。フランスのジエップ駅とイギリスのニューヘブン駅との間の海峡は、汽船をもって連続す。船上にあること四時間なり。ニューヘブンにて税関の検閲を経てさらに乗車し、七時後、ロンドン・ビクトリア駅に着す。水谷、大場両氏のここに迎うるありて、ともに駅前の料理店に入りて会食し、これより自動車を雇いて、スタンフォードヒルなるサンマース氏宅に帰寓す。同氏は避暑のために、アイルランドおよびスコットランド地方に旅行して不在なり。ノルウェーのベルゲンよりロンドンに帰着するまで、二千八百五十八マイルを過了せり。英国は当時大ストライキの最中にして、ロンドンのごとき、その同盟に加わりて罷工せるもの十万人の多きに及べりという。これがために汽車の運動を休止せる所あり、物価もその供給を欠けるために騰貴をきたせり。各停車場内には兵隊の警備せるあり、あたかも戦場に入るがごとき形勢なり。しかれども、労働者の暴行なきは文明的罷工というべし。
 十九日、炎晴。ロンドンも四十日間降雨なきために炎暑はなはだしく、四十年来未経験の大暑なりという。午後、水谷氏とともに市外に至りて飛行機を一覧す。
昔し人よもや夢にも見ざりけん、羽根なき人の空かけるなり
 帰路、雷雨にあう。久旱のために草枯れ、木葉も枯死せんとするに際し、この膏雨あり。その喜びはひとり農民のみならんや。
 八月二十日(日曜)、晴れ。水谷、大場両氏とともに車行および歩行して、セント・ジャイルズ村落に至り、ミルトンコッテージを訪う。ミルトンは当時ロンドンの疫を避けてここに幽栖し、その間に傑作『パラダイス・ロスト』を完成し、さらに『パラダイス・リゲインド』を起草せりという。室内に遺書および遺物を保存す。
詩賢避疫臥孤村、一夢結成千万言、追慕遺風古屋、老婆為我説民敦
(詩賢の人は疫病を避けてこの片田舎に臥し、ひとたびの夢むすびて千万言の書をなす。その遺風を慕ってこの古屋をたずねると、老婆は私のために民敦ミルトンについて話すのであった。)
 この日、往復五十二マイルなり。帰路、雷雨にあう。生稲亭にて日本料理を会食して帰る。料理中に更科蕎麦を出だせるは意外なりき。
 二十一日、晴れ。二回の雷雨のために、気候にわかに秋冷を帯ぶ。郵船会社を訪いて根岸支店長に面会す。
 二十二日、晴れ。ロンドン北部ハイゲート墓地に至り、哲学大家スペンサー翁の墳墓に拝参す。墓石大ならず、なんらの装飾なく、自然に同翁の性格を示すもののごとし。翁の遺言により火葬に付し、遺骨をここにうずむという。所感の詩二首あり。
墓門一過路三旋、尋到荒墳独悵然、落葉蕭蕭天欲雨、秋風声裏吊前賢
(墓門をすぎれば路は三たびめぐり、荒れた墳墓にたずね至って、ひとりうらみなげいた。落葉は散り天は雨ふらんとし、秋風の鳴るなかで賢者スペンサー翁をとぶらったのである。)
一生不娶避塵縁、心血凝成五大編、埋骨倫敦城北地、余光千載照黄泉
(一生めとらず、俗世間の縁を避け、心血を結集して五大編を書きあげた。骨は倫敦ロンドン郊北の地に埋葬されて、ありあまる光輝は千年もよみじを照らすであろう。)
 帰路、牧野義雄氏をその僑居に訪う。氏自筆のテムズ川の月夜の景を示されたるにこたえて、拙作を贈る。
君在英京画田、常揮妙手神仙、廷無河上朦朧月、忽放清輝大千
(君は英京にいて画の修業をし、常にすぐれた腕をふるって神仙をも感心せしめている。廷無テムズ河のほとり、光もぼんやりとした月、それがたちまち清らかに輝き広大無辺の世界をてらすのである。〈君の画業もまた、やがてはこの月の光のごとく輝くことであろう。〉)
 二十三日、晴れ。わが領事館に至り領事に面会す。文豪および史家たるマコーリー氏の古屋を、カムプデンヒルにたずねたるも、探り得ず。
 二十四日、晴れ。当日、リバプール出航の約なるパシフィック会社汽船オルコマ号は、ストライキのために延期の報を得たれば、当時漫遊中の阪谷男爵をハイドパーク・ホテルに訪う。ときに、同氏に一詩を呈す。
是尋常風月遊、観欧察米献皇猷、知君智海無涯底、納尽万邦経国籌。
(君の旅はただの風月の遊びではない。欧州・米国を観察してすめらみことのはかりごとをたてまつる。君の智慧の広さははてのないごとく広く深い。そこにあらゆる国の治国のはかりごとを納めているのである。)
 今回の英国ストライキは空前未曾有なりというを聞き、所感を賦す。
三入英京物情、逐年貧富失衡平、文明今日多余弊、到処集徒雷起声。
(三たび英京ロンドンに来てその様子を見たが、年をおうごとに貧富の差が大きくなって均衡を失っている。文明というものが今日は多くのそれにともなう弊害を生み、いたるところで集徒雷起ストライキが起こっている。)
 集徒雷起とはストライキを訳せるなり。
 二十五日、曇り。汽船出帆の急電に接し、今日午後寓所を発し、ユーストン駅より六時の最大急行に投じ、リバプールに向かう。水谷、大場両氏の送行あり。英国滞在中は、サンマース氏の厚意をになうことすくなからず、また根岸氏の歓待をかたじけのうす。別れに臨み、同氏に一作を賦呈す。
三遊竜動再逢君、気焔依然欲雲、回想同窓皆已逝、共傾寿酒醺。
(三たび竜動ロンドンに旅して再び君に逢う、その意気ごみはいぜんとして雲をつき抜ける勢いがある。思いめぐらせば同窓の士はほとんど死去しているのだ。ゆえに、二人長生の杯をかたむけて酔いを忘れたのであった。)
 氏は同郷にして、その出身の学校も同一なり。その当時の同窓はたいていみな隔世の人となりたるに、海外において再度相会するは好縁というべし。当夕九時半、リバプールに着し、レールウェー・ホテルに宿す。ロンドンよりここに至るまで二百一マイルの間、途中一回も停車せず、三時間半にて着駅せるは、その速力の大なるを知るべし。車窓所見二首あり。
車外牛羊歩夕陽、烟籠野草両蒼蒼、英西風月何辺好、不江山牧場
(車窓の外に牛羊が夕陽に照らされてあゆみ、かすみは野の草をおおってともにあおあおとしている。英国の西部の風月はいずこがよいのであろうか、それは江や山ではなく牧場にあるといえよう。)
英吉利は山川よりも青草の、牧の姿ぞいとまさりける
 二十六日、曇晴。ときどき少雨来たる。終日市街を通覧す。秋冷客衣にせまる。
 八月二十七日(日曜)、雨。午前、寺院を参観し、午後、オルコマ号に乗り込む。以下は「南米行途上日記」に譲る。欧州大陸旅行中の五絶は左に収録す。
八月遊欧北、那山雪幾堆、渓頭移歩去、樹下凍風来。(那威行路所見)
(八月には欧州の北に旅し、ノルウェーの山には雪が幾重にも積もっていた。谷のあたりを歩めば、樹下には凍てつく風が吹いてきたものだった。(那威ノルウェー行路所見))
欧洲欲尽辺、夜半日猶懸、握索攀山角、挙頭望極天。(極北夜半望日)
(欧州の地の果てるあたりは、夜なかばにして太陽はなお天にある。つなを握って山のかどをのぼり、頭をあげて天の果てを眺めたのであった。(極北にて夜半に日を望む))
船声入楼穏、橋影映波明、巴里風光好、不斯徳ストク城。(瑞典首府即事)
(船の汽笛が旅宿に入ってくるもゆったりとして、橋の姿は波にはえて明るい。巴里パリの風光もよいが、斯徳ストックホルムにはおよぶまい。(瑞典スウェーデン首都即事))
嗹郊連独野、坦坦望無涯、万頃田囲屋、如一局棋。(嗹国郊行)
デンマークの郊外の地はドイツの野に連なり、平坦にして遠望するも果てはない。ひろびろとした畑は家屋をかこみ、碁盤をみるような思いがした。(デンマーク国郊行))
独北路漫漫、農田随処寛、又知工業盛、烟柱聳林端。(独逸野望)
ドイツ北部の道は長く遠くつづき、農地はいたるところに広がる。また、工業の盛んなることがわかるのは、煙突が林をこえてそびえたっているからだ。(独逸ドイツ野望))
瑞州風月好、暁望最清新、山色明欺画、湖光濃酔人。(瑞湖暁望)
瑞州スイスの風月は美しく、あかつきの眺めは最もすがすがしい。山の景色もあきらかに画かと思われ、湖のかがやきは濃密に人を魅了した。(スイスの湖の眺め))
客裏尋巴里、曾遊夢未余、世陰セイン河畔路、依旧鬻陳書。(巴里偶成)
(旅遊のうちに巴里パリをたずねた。かつての旅の様子は夢のごとくまだ残っている。世陰セーヌ河のほとりの道には、以前のごとく古書をならべて売っていた。(巴里偶成))
勃婆街上歩、衣湿覚汗生、何薬能除暑、葡萄酒一傾。(同上)
勃婆ポルマー街を遊歩すれば、衣服はしっとりと汗にぬれた。いったいどんな薬がこの暑さを防ぐことができようか、それにはブドウ酒をかたむけることなのだ。(巴里偶成))
 欧州を一巡し、今日の盛況を見て賦したる一律あり。
文運駸駸振古稀、百工万学究精微、波頭無軌車能走、雲上有船人自飛、開拓鬼神幽裏道、発明造化秘中機、喜吾跋渉欧洲野、満手拾新知識帰。
(学問文化は急速に進むことはかつてない。各種の職人やあらゆる学問は精微をきわめ、波の上をレールもなく汽船にのせて汽車はゆき、雲の上に船らしきもの〈飛行機〉があって人はみずから飛ぶ。神秘の奥深いところに道をきり開き、造物主の秘中の機械を発明した。かくのごときことどもを喜びつつ私は欧州の野を歩きまわり、両手一杯に新知識を手にして帰ろうと思う。)
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 明治四十四年八月二十七日、午後五時、オルコマ号に駕して、南米行の長途に就く。同号は一万一千五百四十六トンの巨船なり。船内に昇降機ありて、人をして階段によらざるも、上下し得る設備あり。上等船客百四、五十名、中等下等を合すれば約千名を算す。ときに暮雨蕭々として至る。
阜頭風冷覚秋生、暮雨蕭蕭送我行、仰望天涯南米遠、不知何日到遼城
(阜頭の風は冷たく、秋の来たるを覚え、夕方の雨はものさびしくふりそそいで私の出発を送ってくれる。仰いで天の果てを望めば南米は遠く、何日をへて遼城リオデジャネイロに到達するかわからないのだ。)
 遼城とはブラジル首府リオデジャネイロをいう。
 二十八日、曇り。朝気冷ややかなり。午前中は、英国南端デボンシャー州の南岸に沿いて東走す。夜に入りて、フランス西岸の灯台数光に接見す。その光力の強きものは、雷時の電光を望むがごとし。ときどき汽船に逢遇す。
 二十九日、晴れ。気候やや暑く、正午室内七十四度にのぼる。無数の漁舟、帆を掛けて走るを見る。午後五時、フランス港ラ・ロシェルに入る。上陸し郵便を投じて帰船す。別に見るべきものなし。当夕、徹夜して荷物を積み込む。その多くはブドウ酒なり。ここよりボルドーまで五十マイルあり。
一痕新月印秋濤、浦上清風払鬱陶、英酒濁醪吾已飽、仏南今夜酔葡萄
(一片の新月は秋の波に映じて、海辺の地に吹く清らかな風は気の重さを払ってくれる。英国のにごり酒にはわれすでにあきて、フランスの南部の今夜は葡萄ブドウ酒に酔うのである。)
 三十日、晴れ。午後三時出港。風あれども強からず、波あれども高からず、満船清涼、半輪の明月高く西天にかかる。
 三十一日、晴れ。暑気大いに加わる。午後三時、スペイン港ラ・コルニャに着岸す。同国屈指の海港なり。人口四万余、新旧両市街より成る。家屋は三階、四階にして、欧州ほかの都会と異なることなし。ただ四壁赤く塗り、屋上赤瓦を用い、白赤相映ずるところ、やや人目を引く。市外に林丘あり草野あり、碧湾これをめぐり、大いに風光に富む。ここよりサンチアゴ市まで二百九マイルあり。ここに有名の巨刹ありて、信者四方より雲集すという。コルナ港即事一首あり。
船破長風碧湾、林邱一帯是西班、港頭画屋連青野、望裏紫烟囲暮山
(船は遠くからくる風をうち破るようにして、みどり色の湾に入る。林や丘の一帯は西班スペインである。港のあたりの絵のような家屋は青い野につらなり、一望のうちに紫けぶるもやが暮れなずむ山をとじこめるのである。)
 ひとりこの港のみならず、村落に至るまで白壁赤瓦を用う。ゆえに、左の所詠を得たり。
西州将尽処、石屋繞山根、白壁映丹瓦、看疑画裏村。
西州スペインの尽きようとする地に、石造りの家が山のふもとをめぐるように建つ。白い壁は赤瓦をうつし、見れば絵のなかの村かと思われた。)
西班尼の山辺に立てる瓦屋は、油画かとそ誤たれける
 スペインの名物は乞食の多き一事にして、寺院の門前には群れをなして強請する状あり。よって、さらにまた一吟す。
西班山繞海、点点屋成紋、何寺塔尖聳、門前乞食群。
西班スペインの山は海をめぐらし、点々とある家屋はもようをなす。いずれの寺院も尖塔がそびえ、門前には乞食が群れているのである。)
 午後六時発錨す。清風暑さを洗い、涼味津々たり。
船窓独坐晩凝眸、環海青山未秋、一榻清風吾事足、半輪月下去西州
(船窓に独り座して夕暮れにひとみをこらして見れば、海をめぐる青い山々にはまだ秋がきていない。寝台に清らかな風が吹き、わがこと足れりの思いがする。半輪の月のもと西州スペインを去ったのである。)
 九月一日、朝未明、船すでにビゴ港に入る。同港はなおスペインの管内にあり。人口わずかに一万七千なれども、要港の一つとす。市街は一円丘(孤山)をめぐりて上下に隣比し、四層、五層の石屋、あるいは高くあるいは低く、その間に交ゆるに樹木をもってし、また背面に山岳の雲をつきて屏立するありて、すこぶる風致に富む。
船入西陽尾後ビゴ津、一円邱畔屋成隣、回首青嶂衝雲立、満目風光洗客塵
(船は西陽スペインのビゴ港に入る。一つの円丘のような山あたり石屋が隣り合って建つ。ふりかえれば青い山が衝立ついたてのごとく雲をつき上げるように立ち、見渡すかぎりの風景は旅客の俗塵を洗うかと思われるほど美しい。)
 物品を販売する小舟来たりて本船を囲繞す。下等客、乗船するもの百余人に及ぶ。みな南米に移住するものなり。午前十時出港、午後三時、ポルトガル・レキソス湾に入津す。これ、ポルトガルの一大都会たるオポルト市(あるいは単にポルトとも呼ぶ)に出入する港口なり。同市は人口十七万を有し、この港をさること三マイルあり。港口はめぐらすに防波堤をもってし、背面に林野を控え、地形多少の高低なきにあらざるも、概して平原なり。家屋は二階または三階を限りとし、屋上すべて赤瓦を用うるも、壁色はスペインと同じからず。遠山は雲煙に隔てられて、望中に入らず。寒暖は八十度以上なり。周囲に樹木の鬱蒼を見るは、いささか趣を添う。
保都城北路、樹満昼陰陰、港上清風足、我来此洗襟。
保都ポルト市の北の道は、樹木がうっそうとしげって昼なおくろぐろとしている。港に吹く清らかな風はほどよいものであり、私はこの地に来て襟の洗われるようなすがすがしさを感じたのであった。)
 時間なきためにオポルト市まで往復せざりしは遺憾なりとす。下等船客、群れをなして入船す。その多くはデッキ・パッセンジャーなり。スペインとポルトガルとは言語、風俗に小異あるのみならず、地勢おのずから異同あり。前者の丘山多きに対し、後者は比較的平坦にして、野色一面に青し。左に客中所見一首を掲ぐ。
壮遊何日復帰東、九月欧南寄此躬、草野如春青一面、葡山猶未秋風
(意気さかんなこの旅は、いつの日か東に帰ることになるのであろうか、九月には欧州の南部にこの身を寄せている。この地の草野は春のごとく青一色であり、ポルトガルの山々にはまだ秋風も起こっていないのだ。)
 午後七時発錨す。
 二日、晴れ。午前七時、船すでにリスボン湾に入る。朝食の終わるを待ちて船客一同上陸す。市街は人口三十万余と称し、その区域数マイルにまたがる。地勢は一帯の長丘にして、前に海峡を横たえ、対岸に陸地を控え、すこぶる風景に富む。家屋は街路とともに高低ありて、四階、五階の楼多く、壁色はあるいは白く、あるいは赤く、あるいは青黄、あるいは紋様をなし、遠見はなはだ美なるがごときも、近く接見すれば決して美ならず。室内は不潔の家多く、路上には敝衣を着たる貧民多く、ロンドン東部の窮民窟を見るがごとし。街路は一般に狭隘にして、電鉄縦横に通じ、電車織るがごときも、その行人を傷害せざるは僥倖なり。衣食住ともに不潔なるの結果、異様の臭気を放つ。あたかもシナ市街に入るがごとき思いをなさしむ。
 スペインおよびポルトガル人は髪黒く、目また黒色を帯び、東洋人に似たる点あり。ただ顔色の白きだけは異なるところなり。街上の婦人を見るに、頭に風呂布をかぶり、その上に物貨をいただき、前に前垂れをしめて来往す。そのありさまもまた東洋に同じ。露店には大傘を立てかけ、その下に果物、食品等を販売するも、また東洋式なり。要するに、その市街、その風俗および商店は、西洋風にインドおよびシナ風を混和せるものと見て可なり。物価は一般に安きも、外国人に対しては廉ならず。市外に接したる所に、樹木の繁茂せるあるも、その多くは熱帯樹にして、熱帯圏内の国に入るがごとし。気候は炎威強く、わが三伏の時に異ならず。しかして日光が敷石に反射して、ほとんど行人をしてくらませしめんとす。昔時にありては、リスボン市街は世界中に壮美をもってその名高かりしが、今これを見るに、欧州首府中の最下等に落ち去る。これ、リスボンがかく退歩せるにあらずして、ほかの市街の大いに発達せるによる。リスボン偶成七絶一首あり。
千重屋向一湾開、狭路鎖風風不来、九月葡京猶苦熱、樹陰傾尽納涼杯。
(いくえにも重なるような家屋が湾に向かって建ち、せまい街路の故か風もとめられて吹き抜けることはない。九月の葡京リスボンはなお熱さに苦しみ、樹かげに身をよせて納涼の杯をかたむけたのであった。)
 また、五絶一首および和歌一首を得たり。
九月葡京路、秋来暑未除、納涼何処好、熱帯樹陰廬。
(九月の葡京リスボンの道は、秋の季節にもかかわらず暑熱はまだ続いている。涼を求めるにはいったいどこがよいのか、それは熱帯樹のかげの粗末な草庵がよいのである。)
リスボンの灯台今は暗けれど、昔しは四方の海を照らせり
 午後四時出港。海上は風清く涼満ち、さらに炎暑を覚えず。ことに夜に入りて明月空際に懸かり、清光を送り来たるところ、実に物外の趣ありて、人をして吟情を動かさしむ。また、思郷の念禁じ難し。
壮遊心未炎涼、毎明月家郷、秋風今夜団欒坐、必向西方寿觴
(意気ごんだ旅ではあるが、心はまだ暑さ寒さのわずらわしさを脱却できず、ましてや明月に出会うごとに家郷を思う。秋風の吹く今宵もだんらんの座を思い、必ず西方に向かって長寿を祈る杯をささげるのである。)
 九月三日(日曜)、晴れ。終日渺茫、四涯一物の目に触るるなし。夜に入りて、ただ明月と親しむ。
 四日、雨。朝来雷鳴数回、驟雨を送り来たる。午前一回、汽船に逢遇す。午後二時、船カナリア群島中の主島ラパルマ港に入る。本島はその形わが八丈島のごとく、両側に山岳ありて、右方は小に左方は大、その中間に砂原ありてこれを連接す。市街もまた左右に分かれ、右方は港街、左方は本街なり。家屋は一般に低く、二階造りを限りとす。この島はアフリカの属島なるも、スペインの所領にして、市街は全くスペイン式なり。住民の多数はスペイン人の子孫なるべきも、混血多く、その色赤黒くして、われわれ日本人よりもいくぶんか黒く見ゆ。また、純然たる黒奴もこれに雑居す。物産は果物およびタバコにして、小舟に載せ、本船の周囲に集まる。また、織物を持ち来たりて甲板上に陳列し、乗客に購買を勧む。各旅店より小汽船を出だして来客を迎え、あるいは小舟をこぎ来たりて上陸を勧むる等、非常の雑踏を極む。石炭積載のために、ここに停船すること夜十時に及ぶ。当地はリスボンをさること七百マイルの海上にあり。寒暖は八十五度くらいにして、リスボンほどに暑きを感ぜず。欧州人の避暑避寒に来遊する所なり。山上には樹木なく、平地には熱帯植物の道路にそいて樹立するを見るのみ。港湾は弓形をなす。所吟、左のごとし。
一帯沙原結両山、人家断続擁弓湾、客居誰不郷国、介立大西鯨浪間。
(一帯の砂原が左右の山をむすび、人家が断続して弓のごとき湾の水をかこむ。旅客としてだれが故郷を思わないことがあろうか、ひとりみずからの節を守って大西洋の大波の間に立つ。)
波心孤島臥、繋纜到初更、売果舟来去、人呼海有声。
(波濤のなかにぽつんと島があり、船をつなぎとめたのは日暮れ時であった。果物を売る小舟が往来し、売り声などが海上にしきりである。)
 五日、晴れ。終日、蒼波の間を航進す。汽船にも会せず、海鳥をも見ず。インド洋にて毎日船を追いて来たれる信天翁も、大西洋に入りて以来、さらに目に触れず。風波穏晴、暑気ようやく加わる。夜に入りて天遠く晴れ、月高く懸かるも、水蒸気空中に満ち、春天朦朧の観あり。深更に至り露気天に満つ。今夜、熱帯圏内に入る。
 六日、快晴。天を極めて一点の雲影を見ざるも、天気なんとなく清朗ならず、風もまた湿気を帯ぶ。夜に入り露気多し。深更に至り明月清輝を放つ。
天涯無友与誰親、檣際徘徊月一輪、影入波心光万頃、終宵照殺遠遊人。
(天の果てには友もなく、だれと親しもうか、帆柱のあたりに一輪の月がさしかかる。月光は波のなかに入ってひろびろとひろがり、夜明けまで遠く出遊する人を照らすのであった。)
 七日、雨のち晴れ。夜いまだ全く明けざるに、汽笛一声客夢を驚かす。ときに、船すでにケープベルデ島、セントビンセン港に入る。その島はポルトガルの所領にして、カナリア島をさること八百七十マイルの洋中にあり。まことに絶海の孤島にして、海底電信の要駅なり。南米に往復する汽船は、ここに入りて石炭を積み込み、帆船は風波を避く。全島山岳より成る。山峡の海に向かいて開きたる所に市街あり。赤瓦白壁、スペイン式なり。その両側に海にそいて起伏せる丘山は、草木絶無、焼後の地を見るがごとく、赤土にして黒色を帯び、実に殺風景を極む。ときに雨来たり雲集まり、遠山を望むを得ず。黒奴船外に蟻付し、乗客に向かい、銀貨を海中に投ぜんことを請う。これを投ずれば彼たちまち水中に入り、その貨を拾い得て帰る。これ、か奴の唯一の技術なり。インド・コロンボ港、アラビア・アデン港におけるがごとし。この地、黒奴多く居住す。その港口に一大巨巌の波心に突起せるあり。わが小笠原父島の港口に似たり。これを鳥巌と名づく。けだし、その形より出でたる名称ならん。そのいただきに灯台あり。同島の所詠一首を掲ぐ。
絶海孤津船作群、雨懸浦上望難分、島居却有閑中趣、朝浴潮風夕酔雲。
(絶海の孤島の港には船が群れをなし、雨が降りかかれば海岸のあたりは見わけがたい。島人の住まいはかえってのどかなおもむきがあり、朝には潮風に吹かれ、夕べには雲にかこまれるのである。)
 午前八時出港。イルカ、群れをなして波間に飛ぶを見る。また、一隻の汽船に会す。正午、室内の温度八十五度。夜に入るも減熱せず、夜半八十四度なり。しかれども、甲板上にては清涼の風来たり、炎暑を感ぜず。当夕は満月なれども、微雲に妨げらる。
 八日、晴れ。午後驟雨ありて、やや減熱す。日夜一鳥の飛ぶなく、一帆の浮かぶなく、満目ただ渺茫たり。赤道すでに近きにあれば、昼間短く、午後六時半、夜暗に入る。当夕また浮雲月光を遮る。甲板上にて船客の舞踏会あり。
 九日、晴れ。正午、太陽まさしく頭上にあり。船、北緯四度半に達す。終日南風やや強きも、波高からず、満船清涼を覚ゆ。当夕八時、汽船の五、六丁離れたる所を通航するに会し、船客互いに呼応して過ぐ。夜半仰ぎて明月を望むに、少しく頭上よりも北天に懸かるを見る。熱帯に入りて賦したる詩歌各一首あり。
大西洋上客舟軽、遥向太陽直下行、電扇送風風亦熱、氷和麦酒幾回傾。
(大西洋上に客船の足も速く、はるかに太陽の直下に向かって行く。扇風機は風を送るもその風すらあつく、氷と麦酒ビールとを幾杯かかたむけたのだった。)
赤道の雲ににほへる紅は、夕日のそむる錦なるらん
 九月十日(日曜)、晴れ。午前礼拝式あり。九時半、赤道を横断す。
我身堪笑似虚舟、漂蕩任風不暫留、横断大西洋上路、復踰赤道南球
(わが身はだれも乗っていない舟のようだと笑いをおさえる。風にまかせてしばらくもとどまらずにただよい行くのだ。大西洋の航路を横断して、ふたたび赤道を越えて南半球に入ったのである。)
 終日、南方より涼風を送り来たり、寒暖は昼夜ともに八十一、二度なり。赤道直下として、温度低し。ただし熱帯に入りて以来、昼間と夜中の温度、室内においてはほとんど高低なし。
 十一日、晴れ。日月を北天に仰ぐ。風軟らかに波静かにして、気候またはなはだ暑からず。午後、はるかに汽船を望む。当夕、船中の無聊を慰むるために大合奏会あり。
 十二日、晴れ。好風穏波連日のごとし。昨日正午より今日正午まで一昼夜間に、わが船三百九十一マイルを航走せり。これ、今回の航海中最長距離なり。午後、ほかの汽船に会す。当夕は盛んなる競装行列ありて、乗客中、黒奴に化するものあり、インド人を擬するものあり、シナ人を装うものあり、あるいは日本服を着し、あるいは獣面をかぶり、意匠を凝らして奇装を競い、列をなして甲板を一巡し、後に投票を行い、最も多数の喝采を得たるものに賞品を与うるなり。甲板上には幕を張り旗を掛け、日本式ホオズキ提灯数十個をともし、盛んなる装飾を施せり。夜半後、一時過ぎまでにぎわえり。南米航の無事を祝するためなり。当夜深更に至り、半輪の月を望むに、わが日本にて望むとはその形を異にし、月球の左半面にあらずして、下半面に光を生ぜるを見る(当夕は旧暦七月二十日なり)。
 十三日、晴れ。北風船を追い来たり、暑気しのぎやすし。朝来、鯨魚の潮を吹きて走るを見る。今回の漫遊に関し、所感をつづりたるもの数首あれば、これを左に合録す。
鵬天鯤海陲、雲栖露宿送生涯、昨探濠北阿南勝、今討欧山米水奇
(おおとりの飛ぶ天や鯤がおよぐという海の果てのあたりを見極めようとして、雲をすみかとし、露をこうむってやどりながら生涯を送ろうとする。さきには豪州の北部やアフリカ南部の景勝をたずね、今は欧州の山や米国の水流のめずらしい姿をたずねるのである。)
笑世間歎白頭、吾生老後未曾休、堂堂意気誰能圧、一喝将呑五大洲。
(笑いをおさえる、世の人々が白髪をなげくを。わが生涯は老いた後もいまだかつて休むことはなかった。堂々たる意気はだれがおさえられようか、大声を発して五大州をのみこもうとする。)
五大洲中皆我居、終生北馬又南車、老来漸脱腐儒病、不死書活書
(五大州はみなわが住居として、一生涯北には馬にのり、南には車にのってかけめぐりたい。年老いてようやく古くさい学問の枠を脱け出して、役に立たぬ書を読むことなく、今に役立つ書を読みたいのだ。)
単身跋渉幾山河、九万鵬程無恙過、知否吾家遺法在、毎好事弥陀
(ただ一人で幾山河をふみわたり、九万里をゆくおおとりの道程をつつがなく行く。わが家に遺法があるかいなかは知らぬが、好ましいことに逢うごとに弥陀を念ずるのである。)
 今回はブラジル北部ペルナンブコおよびバイア両港に停船するはずなるも、英国ストライキの結果、発船延期せしために、右両港を経由せずして、ただちにリオデジャネイロへ向け急行す。ペルナンブコ港は人口十九万人を有し、南米の最東端にあり、その市街は小舟にて来往するを得るをもって、西半球のベニスの称ありという。バイア港は人口二十万を有し、上下両市街に分かれ、上市は丘上にありという。食事に多量の唐辛を用うる所なりと聞く。
 十四日、晴れ。朝来、南米の山色蒼然として船窓に映ず。午後一時、リオデジャネイロ港に入る。偶然一作を浮かぶ。
欧洲未塵襟、更向米南遥討尋、夕日浴波光起伏、潮風動夏暑昇沈、路過赤道節俄改、客入他球感自深、繋纜遼津秋九月、一湾春色映檣林
(欧州の旅はまだ俗塵に汚れた襟を洗うまでには至っていない。それ故にさらに南米に向かってはるかに旅を続けるのである。夕日は波に従って光は浮沈し、潮風は夏をゆり動かすように暑さは上下する。行く路は赤道をすぎて気候はにわかに変わり、旅客として南半球に入って感慨もひとしおである。船のともづなをリオ港につなぎとめたのは秋の九月であり、湾は春のごときけしき一色で、帆柱の林のごとく立つあたりにもただよっている。)
 リスボンより諸港を経由してここに至る。その海路四千三百二十四マイル、リバプールより諸港経由の里程五千六百八十四マイルあり。航海中、スペインおよびポルトガルより南米に移民するもの、下等船客として乗り込みたるが、その不潔言うべからず、全く豚小屋同様の生活をなせり。ポルトガル人ことにはなはだし。しかして夜に入れば楽器を弄し、その周囲に男女集まりて相おどる。その歌もそのおどりも、わが盆おどりに似たり。これを見物するは、また船中の一興なり。ただ臭気の襲い来たるに閉口せり。
 四月一日横浜出港以来、九月十四日ブラジル首府リオデジャネイロに着港せるまでの里程は、海陸合計三万三千六十七マイルにして、そのうち海路(汽船)二万九千百三十四マイル、陸路(汽車)三千九百三十三マイルなり。
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 明治四十四年九月十四日、南米ブラジル国首府リオデジャネイロ港に入船す。同市は面積九万マイルの[#「九万マイルの」はママ]間にまたがり、人口八十万を有する大都会なり。そのうち五分の三は白人種、五分の二は黒赤人種となすも、そのいわゆる白人種中に、黒奴およびインデアン土人の血のいくぶんの混ぜざるもの、ほとんどまれなりという。リオ港は湾の曲折多く、群巒連峰のこれを囲繞するあり、また小嶼の散在するあり。これに加うるに、草木の繁茂せると、山容の雅趣に富めるとは、世界万国の都会中、他にいまだ見ざるところなり。船のここに錨を投ずるや、田辺治一郎氏が代理公使藤田敏郎氏の命を帯び、船中に来たりて余を迎えらる。氏とともに短艇に移りて上陸せんとするも、多数の下等船客先を争って船を下らんとし、非常の雑踏を極め、いかんともすべからず。着船後三時間を経て上陸し、下宿所に入る。ときに午後五時、細雨ようやく至る。寒暖六十八度、わが梅雨の候のごとし。リオ港は天然に港湾の美を有するも、築港いまだ完成せずして、巨舶を埠頭につなぐあたわず、船の上下必ず小舟を用いざるを得ざるは、その欠点とす。余が宿所は市街中なるも、渓山の間にありて、四隣静閑、眺望絶佳、夜景ことによし。山腹および海岸に乱点せる電灯、玻窓に映射し来たる。
 十五日、晴れ。午後、田辺氏とともに山県商店、ロンドン銀行に至る。夜に入り、豊島昌、出口峯一郎両氏来訪あり。深更に至り、火光の窓に映ずるあり。驚き見れば失火なり。後に聞くに、政府印刷局全焼せりという。当夜寝牀にありて、リオ港の実況を詩をもって写出す。
遼港風光称絶佳、山為襟帯海為懐、一湾千曲路千転、経緯電車縫万街
リオ港の風光は絶佳と称してよい。山は湾を襟のごとくとりかこみ海をいだいている。湾は曲折して岸に入りこみ、道もまた屈曲窮まりない。縦横に走る電車はその街々を縫うように走っている。)
山海抱街多凸凹、風光如画耐吟嘲、不唯屋壁粧紅粉、人亦白黄銅鉄交。
(山と海が市街をかこみ、凹凸は多く、その風光はえがくがごとく吟詠に足るものである。屋壁は紅くぬられているだけでなく、人々もまた白色・黄色・銅色・鉄色と多種である。)
 電車縦横、全市街に貫通し、いずれの所に至るも電車の便あらざるなし。その設備は米国式なり。街路狭くして高低あり。家屋はポルトガル式にて、あるいは白く、あるいは赤く、あるいは黄なるありて、一見対画のごとし。二階ないし四階を限りとし、高廈大館少なし。住民にいたりては、白色、黄色、銅色、鉄色、黒白混色等ありて、七色に分かつことを得という。これまた一奇観あり。
 十六日、晴れ。午前、美術館を訪う。建築はやや壮観をよそおうも、内容はこれに伴わず、みるべき名画なし。これに隣れる図書館はすこぶる壮大にして、南米第一の評あり。その前に巍立せる劇場は美かつ大にして、リオ市第一の壮観を有す。寺院、学校の建築の遠く及ぶところにあらず。この一事をもって、南米の事情の一端をみるべし。午後、植物園に遊ぶ。市中より五マイルあり。園内広きも熱帯植物のみ。豪州の植物園に比すれば、数等を下る。ただ、パーム樹の両側に並立して、数丁の長さに及ぶもの、一種の趣を添う。最も炎天の遊歩場に適す。
 九月十七日(日曜)、晴雨不定。早朝寓舎を出でて、市中の寺院(旧教)三、四カ寺を訪う。建築は壮大ならざるも、内部の装飾は美を尽くす。ただし参拝者多からず。聞くところによるに、当地は教育を受けたる男子は寺院に近づかず、ただし旧慣によりて寺院の建築、修繕等には競いて納金すという。これより汽車に駕し、ペトロポリスに至る。海抜二千尺の高地にあり、アプト式にて山を登る。二時間を要す。各国外交官の駐在地にして、日本公使館もここにあり。藤田代理公使の歓迎をかたじけのうし、日本料理をもって饗せらる。館員馬場称徳氏、浜口光雄氏に面会し、記念のために二回撮影す。満園の春色、欄干に映じ来たる。細雨粛々として至り、気候やや寒冷を帯ぶ。
彼都ペト自作別乾坤、繞屋林叢鎖世喧、九月米南春已満、椿紅藤紫擁衙門
彼都ペトロポリスはおのずから別天地である。日本公使館をめぐる林や叢は世俗のかまびすしさをとざしている。九月の南米は春がすでに満ちみちて、椿の紅や藤の紫が門を守っているのだ。)
 その地、山に踞し渓にまたがり、幽邃閑雅、避暑に適し、読書によろし。夜に入りて、田辺氏とともにリオに帰る。リオ滞在に関しても、公使の配意を煩わすことすくなからず。当地、目下初春の候なれども、春花すでに散りぬるを見て、一首を浮かぶ。
鶯の来鳴かぬ中に花ちりて、梅の葉しげるブラジルの春
 十八日、晴れ。午後六時、豊島昌氏とともに汽車に投じ、サンパウロ市に向かう。同市は当国第二の大都会なり。その距離二百五十マイル余、夜暗くして山光水色を吟賞するを得ず。
 十九日、晴れ。朝六時、サンパウロに着す。人口二十八万あり。当地第一の物産たるコーヒーの集散地なり。この地方にコーヒーを培養せしは今より二、三十年前にして、その原種はアフリカ・リベリア国より輸入せりという。爾来にわかに盛況をきたし、今日の市街をなすに至れり。街路狭く家屋大ならざるも、商工すべて活気を帯び、将来大いに発展する望みを有す。ここよりサントス港まで二時間を要するも、コーヒー運輸のために汽車の往復頻繁なり。最初に藤崎商店に至り、代理人有川氏に会し、電車をかりて市街を通覧し、さらに青柳郁太郎、上塚周平両氏に会し、ともに午餐および晩餐を喫す。席上所懐一首を得たり。
孤客遠游三保羅、偶逢邦友感懐多、豈図南米塵深処、日本店頭談大和ヤマト
(一人旅の身は遠く三保羅サンパウロに遊歴し、たまたま日本の人に逢って思い感ずることも多い。こうした南米の奥深いところで、日本人の店で日本について語りあうなどとはどうして考えられようか。)
 午後、州政庁に至り、局長に面会し、耕地見分の紹介状を授かる。これより移民収容場を一覧す。その設備すこぶる完備せり。市外および公園をも車上より一瞥す。当市第一の壮観はやはり劇場なり。わが帝国劇場よりも壮大なるを覚ゆ。
 二十日、晴れ。サンパウロより二百二十五マイルを離れて、ガタパラと名づくる一村落あり。わが国の移民ここに住して、コーヒー採収の業に従事すというを聞き、豊島氏と同車してここに向かう。途上、草原林野のみ。往々、黒奴の瓦屋土壁の中に住するを見る。
伯陽一路野連空、草海茫茫望不窮、早晩欲天賦富、無人之境鉄車通。
伯陽ブラジルの道は野が空に連なるかと思われるほどはるかに、草原は海のごとくひろびろとして望めども見窮めることはできない。近い将来には天賦の富を得る道を開かんと願い、無人の境に汽車は行くのである。)
 午後五時着駅。耕地支配人サルトリス氏および副支配人平野運平氏と相会し、ともに便車に駕して、来賓接待所に至り宿泊す。昼間は蠅多きも、夜間は蚊声を聞かず。その代わりに、ランプのある所へは群蜂来たり集まる。寒暖は昼間八十度、夜間七十四、五度なり。
 二十一日、晴れ。暑気強く八十三度以上にのぼる。午前、平野氏の案内にて馬上にまたがり、耕地コーヒー園を一巡す。目下採収期にして、日本人老若男女ともにこれに従事す。採収高一俵につき手間賃一ミル(わが六十銭)とす。多く採収するものは、一日に三俵すなわち三ミル(わが一円八十銭)を得という。採収地よりただちにコーヒーを水に流し、水力にて製造場に輸送する装置あり。この一村落のコーヒー百八十二万八千株ありて、小作人一戸につき平均五千株を作らしむ。その小作料、一カ年六百五十ミル(わが三百九十円)とす。しかして採収料はこのほかなり。ゆえに一家族ここに住すれば、一年に諸生活費を除き、三百円を余すこと難からず。総戸数二百五十戸、人口千五百人、イタリア人過半を占め、日本人これに次ぐ。日本移民四十戸にして、百四、五十人これに住す。小学校あり、旧教寺院あり、医師診察所あり、雑貨店あり、下等のホテルあり。耕地一覧の実況を詩に賦す。
一条赤路貫青郊、馬上無風塵自包、走入果林相識、採珈人是我同胞。
(一本の赤い道が青々と草茂る郊外を貫き、馬の背には風もなく塵がおのずとあたりをつつみこむ。走らせてコーヒー園に入れば知り人もあり、コーヒーを採取する人はわが同胞なのである。)
 午後、支配人の案内にて、事務所、コーヒー製造場、糖酒製造場、医院を一覧し、さらに日本移民の居宅を慰問す。その国籍は山口県、高知県、和歌山県なり。コーヒー園は丘陵の高地にありて、遠望すれば茶林のごとし。近く見ればその枝葉、茶に似てそれよりも大なり。高さ一丈に達するものあり。しかして、その実は茶よりも小なり。村名ガタパラはインデアン語にて鹿を義とすといえるを聞き、余はこれを鹿原と名づく。目下春期にして、暖靄朦々たり。夕陽は霞中に入りて深紅色を呈す。夜に入り、支配人の宅を訪問して謝辞を述ぶ。
 二十二日、晴れ。炎熱前日に異ならず。支配人および平野氏、途中まで送行せらる。午前八時発車。所々に野火を見る。枯れ草を焼くもののごとし。午後六時、サンパウロに着す。上塚、相川両氏、わが帰行を迎えらる。停車場にて喫飯し、両氏および豊島氏と手を分かち、さらに乗車してリオに向かう。ガタパラ行中、豊島氏が通訳の労をとられたるを謝す。車中紅塵の入り来たりて、衣服ために色を変ぜんとす。地質すべて赤土にして、乾燥すればたちまち塵埃となる。その軽きこと灰のごとし。
 二十三日、晴れ。朝六時、リオ都に帰着す。終日寓舎にありて休養す。
 九月二十四日(日曜)、曇り。午前、田辺氏の案内にて、フランス国大家コントの教会ポジティビストの会堂に至る。会長テセラメンデス氏の説教中なり。会堂はおよそ百坪ありて、数百人を収容すべきも、当日の参衆は総計五十二人、うち女子八人のみ。これより博物館に移る。目下修繕中にて閉鎖す。館後の水族館を一見して帰る。その周囲は当地第一の公園にして、人工をもって風致を装い、竹林の隧道の形をなせるあり。
 二十五日、雨。午前、独行して動物園に至る。里程四、五マイルあり。驟雨来たりて、衣ためにうるおう。園内ひろきも動物の種類多からず。すべてかかる学術に関するものは極めて幼稚にして、新開地の所設たるを免れず。
 二十六日、晴れ。午前、田辺氏とともに、当地第一の眺望台たるコルコバド山上に登臨す。その山容すでに奇にして、帽子の形を有す。山巓に一亭あり、登山客の休憩に備う。リオ津の全湾および全街、脚下に平敷す。
奇峰尽頭立、低首瞰遼都、脚下全街伏、恰如地図
(すぐれた峰の頂に立ち、下方にリオ市をみる。脚下に全市が横たわり、あたかも地図を見る思いがした。)
 ひとたびリオに遊ぶもの、この峰頂に登臨せざるものなしという。鉄路ありてここに上下するを得。午後、再びポジティビズム会堂に至りて、会長に面会す。その語るところによるに、ポジティビストの主義は、その本国のフランス国にはかえって振るわず、現に会堂を設けて布教する所は、英京ロンドンとリバプールと南米リオとの三カ所のみ。そのうちリバプールはロンドンよりも盛んに、リオはリバプールよりも盛んなり。全世界のコント教会中、リオ教会が第一に位す。この教会に加わるものは、なるべく肉食を廃して、菜食するを期す。飲酒は一切これを禁じ、コーヒーおよび茶ものまざるをよしとす。飲用は牛乳と湯水を限る。ただし強制するにあらず。戦争を厭忌し、平和を主張す。自衛のために他国と戦うは、今日の勢い万やむをえずとするも、自国の膨張を図らんために、ほかの国を侵奪せんとするは、絶対的に反対なり。会員の結婚式および葬式は、この会堂において行う。結婚式は、男はじめに女の前にひざまずきて誓い、女つぎに男の前にひざまずきて誓う。ひとたび結婚すれば、夫婦の間いずれがさきに死するも再婚を許さずという。リオの市中に会員一百名、賛成者二百名あるのみ。その数僅少なるも、中等以上の教育ある社会なれば、比較的勢力を有し、政治上問題の起こるごとに、必ずその意見をこの教会にただし、これを新聞上にて公表する由。けだし会員の少なきは、その規律の厳に過ぐるためならん。
 二十七日、晴れ。午後一時半、宿所を去りて汽船オリアナ号に投ず。田辺氏、余を送りて船中に至る。リオ滞在中、言語不通なるにかかわらず、なんらの不自由を感ぜざりしは、全く同氏の好意に帰す。ここに告別するに当たり、一杯を傾けて深謝を表す。オリアナ号はトン数八千八十六トンにして、船客、上等四十人、中等下等七、八百人あり。午後六時抜錨。湾内の夜景、実に吟心を動かす。
遼湾風浪晩来恬、涼月印天形似鎌、入夜港頭却多趣、万灯影裏一峰尖。
リオ湾の風浪は夕方になっておだやかとなり、すずしげな月が天空にあって鎌のような形をみせている。夜になってみればこの港のあたりはかえって趣を増し、幾万かの灯火のうちに一つの峰がするどくとがっている。)
 その一峰とは凝糖峰にして、奇巌突立の状、あたかも棒砂糖の形に類す。ゆえにその名あり。あるいはいう、リオ都の山形は巨人の仰臥するの地勢を有し、凝糖峰はまさしくその足端に当たる。
 ここにブラジル首府を去るに際し、その地の実況いかんを述ぶるに、国民の知識、教育の程度いたって低く、文字を解せざる者七分の多きにおるという。はなはだしきにいたりては、数字をも解せざるものあり。言語はもちろん、風俗、習慣ことごとくポルトガルにひとしきも、現時のポルトガル人よりは優等の地位にあり。したがって、ポルトガル人を軽賤する風あり。物価の高きは世界第一と称せらる。その原因は、海関税の重きと労働賃銀の高きとによる。平均の物価表を見るに、英国の三倍、日本の六倍なり。もし北部アマゾン地方に至らば、さらに四倍の高価を命ず。鶏卵一個四十銭、鶏一羽十二円、牛乳一合六十銭、靴一足三十円というにいたりては、なにびとも驚かざるなし。したがって収入また多し。商店の小僧の月給およそ三百円なりという。要するに、ブラジルは世界中、物価最高の国なり。よって、左の小詩を賦す。
空嚢入南伯、何処解吟袍、物価兼関税、高於安岳高
(空にひとしい財布で南伯ブラジルに入ったが、いったいどこにこの吟遊の上衣を脱ごうか。物価は関税を兼ね、安岳アンデスの山の高さよりも高いのだ。)
 当地において第一に他人の目を引くものは、各戸各室に日本の備前徳利に似たる色と形とを有する器物を置かざるなし。これ飲用水をいるる器なり。巡査はスリコギに似たる棒を携帯す。男女ともに物貨を運搬するに頭上を用う。下等社会は木にて作りたる靴(わが国のヤマト靴のごときもの)をうがつ。タバコのその形その色その臭気の、犬糞に似たるものあり。新月および半月が月球の下辺に生じ、その形あたかも鎌をさかさまに懸くるがごとし。鶏の夜十一時に鳴くも奇なり。目下春期にして、椿花桃花を見ると同時に藤花蕣花を見、昼間蝉吟を聞きて、夜中虫声を聴くもまた奇ならずや。食事に多く米を用い、米のスープあり、またササギを食す。酒は糖酒を用う。菓子にわが羊羹に似たるものあり。
 二十八日、晴れ。午前十時、サントス湾に入る。河口をさかのぼりて埠頭に着す。林巒樹木鬱然たり。当港はコーヒーの輸出地にして、岸上積みて山をなす。
河口曲如蛇、市街連浅渚、埠頭一帯舟、皆載珈琲去。
(河口は曲がりくねること蛇のごとく、市街は浅いなぎさに連なって建つ。埠頭のあたりの舟は、すべてが珈琲コーヒーを積んで行くのである。)
 午後二時出港す。
 二十九日、雨。終日大雨やまず。四面雲煙に遮られて、一物を見るあたわず、ただ海鵝の船を追いて来たるを見るのみ。午前、孤巌の海心に突出するを見る。晩に及んで雷鳴一回あり。南米の実況を七律をもって試吟す。
雨棹風車任去留、米南九月試春遊、尼川横断三千谷、安岳縦貫一百州、地底猶埋天賦富、民間誰講国防籌、茫茫沃野無人跡、到処只看青草稠。
(船や汽車にゆられてなりゆきのままに行き、南米の九月に春の遊楽をこころみる。尼川アマゾンは幾千の谷を横断して流れ、安岳アンデスは幾百の州国を縦貫してそびえている。その地中にはなお天与の富が埋蔵されており、民間に誰が国防の計画を考えるのであろうか。茫々とひろがる沃野には人の踏み跡もなく、到るところはただ青草のしげるのをみるのみである。)
 三十日、晴れ。風ようやく寒く、温計六十五度に下がる。雲波霧海遠望するあたわず。一回汽船に逢う。
 十月一日(日曜)、晴れ。早天より陸地を見る。八時、ウルグアイ国首府モンテビデオ港に着す。ただちに小艇にて上陸し市街を通観するに、人口二十七万五千と称し、家屋は石造二階、三階を限りとし、高廈大館を見ざるも、市域やや広く、両側に海水を擁し、中間に小公園を挟みて、すこぶる趣あり。寺院多きもみな旧教に属し、日曜なれども参拝するもの少数なり。日本商店滝波および婦野両店を訪う。寒暖は六十度前後にして、往来の人みな外套を用う。午後十時、汽船ロンドン号に移乗して、アルゼンチン国首府ブエノスアイレス市に向かう。湾水濁りて、その色泥のごとし。
 二日、晴れ。暁窓ようやく明らかなるとき、ブエノスアイレス市の光景に接す。
紋都湾外艇、終夜泝長江、汽笛時驚夢、舞城入暁窓
紋都モンテビデオ市の湾外に船をすすめ、さらに夜明けまでラプラタ川をさかのぼる。汽笛の音が時には夢を破り、やがて舞城ブエノスアイレス市があかつきの船窓に見えた。)
 リオデジャネイロを遼城と訳せるに対し、ブエノスアイレスを舞城または舞埃城と訳せり。しかして、紋都はモンテビデオをいう。この両都の間の巨湾は実にラプラタ川の河口にして、その距離一百二十マイルあり。全湾の色は、あたかも黄河の濁流を見るがごとし。上陸にさきだちて大塚伸太郎氏、埠頭にて迎えらる。同氏とともに止宿所に入り、かつ銀行に至る。午後、日本商松浦、滝波両店を訪う。当地は桃花すでに散じて、李白藤紫、春栄を争うを見る。夜に入りて、半輪の明月玻窓を照らすあり。しかして月を北天に望み、半輪を下辺に生ずるは、やや奇異の感なきあたわず。
 三日、晴れ。朝夕はなお春寒いまだ去らざるを覚ゆ。大塚氏の案内にて公園を一覧す。その傍らに植物園、動物園あり。公園の設計はパリを模し、すこぶる広闊なれども、園池水濁りて風致を損ず。ブエノスアイレス市をリオに対照するに、山水の風景の秀霊なるは、後者の独占するところなり。市街の繁栄、車馬の雑踏、船舶の群集するは、前者の南米第一と称せらるるところなり。家屋の壮大、人口の稠密も、前者は後者をしのぐ。その人口最近の調査によるに、百二十四万六千五百三十二人を有す。すなわち、アルゼンチン全国人口六百四十八万九千二十三人の五分の一は、首府に住する割合なり。年々欧州より移住するうち、六分はイタリア人、三分はスペイン人なりという。ブエノスアイレス市の将来の発展は驚くべきものならん。
層楼櫛比舞埃城、狭路電車縦又横、日欲※(「日+甫」、第3水準1-85-29)時人集散、肩肩轂轂撃摩行。
(高層の建物が櫛の歯のごとくならぶ舞埃城ブエノスアイレス市は、狭い街路を電車が縦横に走る。日暮れ時ともなると人々の集散は激しく、肩と肩とがぶつかり合うありさまで往来するのである。)
 午後四時、市中マヨ街の車馬織るがごとく、フロリダ街の行人雲のごときは、観客をしてくらませしめんとす。
 四日、晴れ。午後、美術館を一覧す。外観美なるも、内容これに伴わず。すべてなにごとにも外観を飾るは、南米の民情なるもののごとし。さらに電車にて全市を一貫するに、僻隅に至れば、草原の中に平家建ての家屋点在するのみ。四時後、降雨あり。
 五日、晴れ。午前快晴。電車にて、市の中央を縦貫せるリバダビット街を一過して市外に至る。この街路の長さ約十マイルあり。これを基線として、全京を東西両域に分かつ。さらに村路数マイルを歩して、牧場を一望して帰舎す。往復里程二十三マイルなり。この日、春光駘蕩の趣あり。
草春郊成結跏、舞埃城外弄清和、牧田千里青如海、一道晴風漲万波
(草をしいて春の郊外で座禅をするごとくすわり、舞埃城ブエノスアイレスの市外ですがすがしさとなごみの気分を味わう。牧場田野が青々と海のごとく広く、道に吹く晴れわたる風は緑草の波うつ上にある。)
草の海に緑りの波ぞたちにける、アルゼンチンの春の牧原
 午後、博物館に至るも、昨今閉鎖中なり。よって、歩を歴史博物館に転ず。南米の歴史に関するもののみを集めたるは、かえって趣味あり。さらに電車に駕して、北部の市街を通覧す。
 六日、晴れ。午後汽車にて、二十マイル余を隔つるチグレ町に至る。小市街なり。その途上は濁流の渺々たるラプラタ川を望み、春草の※(「くさかんむり/千」、第4水準2-85-91)々たる農園牧場を見るは、大いに客懐を散ずるに足る。ラプラタ川はスペイン語にて銀河の義なり。しかして、その色黄赤にして泥のごとし。名実不相応というべし。
平野青如海、長江黄似泥、舞埃城外路、望入碧空迷。
(平野は青々として海のようにひろがり、ラプラタ川の色は黄色ににごってあたかも泥のようである。舞埃城ブエノスアイレス市外の道は、一望すれば空に消えるかと思われるばかりである。)
アンデスの山はいづくに隠れしか、見るものとては雲の峰のみ
 地質はブラジルに異なり、赤土にあらずして白土なり。ただし、その質砂よりも軽く、風来たればたちまち黄塵万丈を起こすことは相同じ。樹木は常葉樹多く、落葉樹少なし。わが松と柳に似たるもの多し。ときに柳は新緑を吐きて、春色まさにたけなわなり。夜に入りて天気ことに清朗、一輪の明月北天に懸かり、清輝客庭に満つ。このときまさしく旧八月十五夜に当たり、南球の春天に三五の明月を仰ぐは、生来未曾有の奇観にして、また一大快事なり。その光景、おのずから吟情をして勃然たらしむ。
秋半米南春欲殫、晩傾火酒酔凭欄、今宵三五月如鏡、人在紫藤花底看。
(秋のなかば南米の春は終わろうとし、日暮れて火のごとき酒をかたむけ、酔いて欄干にもたれる。今宵の十五夜の月は鏡のごとくはえて、人の紫藤のもとにいるのが見える。)
一夜窓前坐、知吾在異郷、春風三五月、光入李花香。
(一夜窓の前に座して、自分が異郷にいることをしみじみと思う。春風のふく十五夜、月の光は李の花にさしこんで香りが高い。)
望の夜の月はありしにかはらねど、今宵は藤の花かけにみる
春の夜に秋のもなかの月をみて、故里遠くなれるをそしる
大空の月も汚れを厭ひてや、ラプラタ川の水にやどらぬ
 七日、晴れ。午前十時より車行二十八マイルにして、ラプラタ町に至る。途中孤村を一過するに、戸々水をくむに風車を用うるを見る。
孤村一路繞田家、転転舞風汲水車、南米春光交夏色、緑楊葉底紫藤花。
(ぽつんとある村の道は畑の家をめぐり、水をくむ風車はくるくると風に舞うかのようである。南米の春の光は夏の色とまじり、緑のやなぎの葉かげに紫藤の花がみえる。)
 この間牧場多く、草野坦々、幾千里なるを知らず。眼界一点の山影を見ざるもまた壮快なり。
路出都門更坦然、山河不礙望無辺、野連空処銕車走、一抹流雲是汽煙。
(道は市街を出てさらに平坦に、山や河のさえぎるものもなく、一望すれば窮まりなし。野のはての空に連なるかと思われるところに汽車が走り、ひとつまみの流れ雲に見えるのは汽車の煙なのである。)
 ラプラタ町は人口六万以上を有し、州政庁所在地にして、街区整然たり。その中央に巍立せる大廈はすなわち州庁なり。町家は一階または二階造りにして、一般に低きも、建築はすべてスペイン式にして、壁色あるいは白く、あるいは赤く、あるいは黄にして、外観人目を引く。公園内に博物館あり。その陳列品はブエノスアイレスのものよりも整頓せりとの評あり。その中に特に髑髏室を設け、千数百の髑髏を陳列せるは、実に奇観にして、他にいまだ見ざるところなり。よろしくこれを髑髏館と名づくべし。これよりさらに乗車、リオサンチアゴ町に至る。濁流中に汽船の碇泊せるを見る。ここに海軍学校あり。午後六時帰舎す。この日、行程往復を合すれば八十マイルとなる。当夕、海軍少佐岡田雄三氏来訪せらる。
 十月八日(日曜)、晴れ。午前、寺院三、四カ寺を訪う。当地第一の大寺は大教正の所住にして、外観装飾を欠くも、内部は壮大美麗を極む。本堂の内側、長さ五十三間、幅二十九間にして、九千人をいるるに足るという。余のこの堂に入るや、まさしく読経最中にして、僧侶十七人列座して読経す。しかして参詣人わずかに十五人、堂内寂寥たり。この一例に照らしても、上等社会の寺院に近づかざるを見るべし。ほかの寺院に至れば、五十人、百人の参拝者あり。もし、下等人の居住せる方面の寺院には、毎日曜満堂の参詣ありという。当国は旧教をもって国教となすにもかかわらず、宗教の勢力実に微々たり。ただ旧慣によりて堂宇を維持するもののごとし。午後、植物園、動物園を一覧す。すべてこの種の設備は、リオデジャネイロよりもやや整頓しおり、植物園内の区域を世界各国に分かちおるは妙なり。帰路、第一の墓地(北)を通覧す。その墳墓の壮美なるは、余のいまだかつて見ざるところなり。これに投じたる金額は、けだし幾千万円に上らん。夜に入りて少雨あり。
 九日、晴れ。午後、第二の墓地(西)をたずぬ。その地域すこぶる闊大にして、旧教墓地、新教墓地、および異教墓地の区界を有す。またその一隅に、城壁のごとく煉瓦にて高く築き上げたる合葬場の設備あり。午後、図書館を一覧す。蔵書七万冊と称す。
 十日、晴れ。午後、大塚氏とともに、普通教育を管理する学務局に至り局長に面会を得て、市内の学校参観を請いたるに、即時に快諾せられ、視学官長に命じて案内せしめらる。まずはじめに市内模範の小学校に至る。建築壮大、設備整頓、なかんずく生徒に対し、日々国旗の前に整列せしめ、国歌を奏して敬意を表せしむるは、愛国心を養成する新奇の考案なるを感ぜり。これより雑誌発行所に至り、最新式の印刷器械を一覧して帰舎す。
 十一日、快晴。午前、視学官長の案内にて、師範学校に至る。校の内外ともに清美なり。生徒は女子のみ。当国の小学教員はほとんど全部女子なりという。午後、岡田氏とともに車行して、約二十マイル離れたる某氏の牧畜場にいたる。その設備は一大公園にして、植物園、動物園を兼設せるもののごとし。ここに無数の牛・羊・馬を畜養するうち、牛種最も多く、その肥大なること実に驚くべきものあり。馬にいたりても一頭数万円を価するものを有す。この日や春天清朗、軽風和日、野外の風光実に客懐を散ずるに足る。当夕、松浦氏の商店に招かれ、日本食の晩餐を具せらる。
 十二日、快晴。午前、また視学官の案内にて男子の中学校を参観す。その校舎清美、その設備斬新、わが国の中学校の遠く及ばざるところなり。生徒は一級十五人ないし三十人を限りとし、極めて少数なり。連日諸学校参観の際、各校において茶またはコーヒーを供せらる。聞くところによれば、茶とコーヒーは時を限らず、来客に差し出だす風なりという。なんぞその風のわが国に似たるや。また、校内にてしもべを呼ぶに手をうつを見る。これまた日本風なり。当日はコロンブス米国発見の日にして、しかも大統領就職の祝日なれば、小学生徒二千人列を成し、国歌を奏し、大統領の席前に敬礼して過ぐるを傍観す。動止整然たり。当日、コロンブス発見の往時を回想して一詩を賦す。
希世壮図何物遮、閣竜究尽水天涯、当年移殖文明種、今作西洲万朶花
(空前の壮大なる意図はなにものがさえぎるであろうか、閣竜コロンブスは海の果て天の果てに到達した。その当時に文明の種が移植されて、いまやこの西の国に多く文明の花が開いている。)
 午後、文科大学に至り、教授アンブロセチ氏の案内を得て、各教室をはじめ、図書室、博物室等を通覧す。その規模いたって小なり。博物室内に、南米より採出せる古骨遺物のみるべきものあり。また、日本の仏像仏具を所蔵せる一室あり。学生中に女子半数を占むるも珍しく感ぜり。これ、中等教育の教員を養成する故なり。当夕、同教授の私邸にて晩餐を授けらる。各室四壁みな古器物をもって満たさる。ここに数日間、教育会長の好意により、自動車をもって迎送せられたるを深謝せざるを得ず。
 十三日、晴れ。午前旅装を整備し、午後大本山事務所に至り、執事に面会し堂内を参観す。アルゼンチン国の宗教統計は、旧教一千十九カ寺ありて、信者四千人につき一カ寺の割合なりとす。新教は六十八カ寺あり。しかして旧教の僧侶の数一千六百人ありという。そのほかユダヤ教の会堂、イスラム教の会所もある由。旧教にては一個の大学を設置しおれり。当夕、告別のために岡田、松浦、大塚三氏を料理店に招きて晩餐をともにす。大塚氏は滞在中各所の案内を兼ね、通訳の労をとられたるは、特に深謝するところなり。夜十時、汽船ブエナス号に投じて出航す。
 アルゼンチン国は独立以来わずかに百年なるも、近年牧場の拡張、交通機関の敷設とともににわかに国運発展し、欧米より移住するもの年々二十余万を算するに至り、人口逐年増殖し、現時にありては南米第一の勢力を有す。しかして、その中心はブエノスアイレス市なり。これまた人口の上よりも物産の上よりも、南米首府中の第一に位す。各国の人種雑居せる実例は、当市発行の新聞(週刊、月刊をも含む)総計百八十九種のうち、スペイン語に属するもの百五十四種、イタリア語の分十四種、ドイツ語八種、英語六種、その他ロシア語、スウェーデン語、トルコ語等なりというを聞きて知るべし。教育は満六歳より十四歳までの児童をしてことごとく就学せしむる規定なるも、いまだ※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)行するに至らず。小学校の数五千二百五十校にして、在学児童わずかに四十万八千人なりという。衣食住のごときはもっぱらパリの風に倣い、外面華美を競うも、内容これに伴わず。その嗜好するところは俗に走りて雅を欠き、理想的趣味を解せざる傾向あり。これ、新開急進の文明国としては免れ難き勢いならん。市中の建築にして壮観を極めたるものは、寺院よりも、学校よりも、劇場とホテルなり。また人心の熱中するものは、富くじと競馬なるを見て、その民情の一斑を知るに足る。建築、道路、衣服等に夥多の資を投ずるも、学校教員の俸給は一般に低廉にして、しかも村落にいたりては、数カ月間も月給を支出せざる所ありと聞けり。しかれども、当国は南米中のほかの諸国に比するに、最勝の地位にありて、将来の発展必ず南米全陸を震動するに至らんこと、決して疑うべからず。これを既往に考うるに、独立以来わずかに百年にして今日の隆運を見るは、すでに驚くに足る。よって吟詠を試む。
建国以来僅百春、駸駸文運逐時新、羅浮河口流沙跡、今作黄金幾万鈞
(独立以来わずかに百年、馬の疾走するがごとく文化は時をおって新たに発展している。羅浮ラプラタ川河口の流砂は積み重なり、いまや黄金幾万の価値を有する豊穰の地となっているのだ。)
ラプラタの川より流す土砂も、積りて今は黄金とそなる
 当地の気候は目下五十五、六度より六十五度の間を昇降するも、冬期の寒気強からず。多少の霜痕を見ることあるも、牧草を枯死せしむるに至らず。しかして、夏期もまたしのぎやすしという。
 十四日、晴れ。朝七時、船モンテビデオ港に着岸す。再び滝波商店を訪い、主人の案内にて夏公園、冬公園を一覧す。この地はブエノスアイレス市と異なりて、衣食住ともに質素を守り、華奢に走らず。したがって、生活費も労働賃銀も安しという。日本の労働者はブエノスアイレス市には三百人も入り込みおるというに反し、当地には一人を見ざるほどなり。午後三時に至り埠頭にて滝波氏と相わかれ、パシフィック会社汽船オリサ号(五千三百五十九トン)に移り、六時抜錨して南進に就く。
斜陽影裏去紋都、汽笛声中没海衢、船入外洋烟漸散、一円邱上砲台孤。
(陽光斜めにさすなかで紋都モンテビデオを去り、汽笛のひびくうちに航路をたどる。船は外海に進んで煙もしだいに消え、対岸の円丘上に砲台がぽつんとおかれているのが見える。)
 モンテビデオ港の対岸に一円丘の平座するありて、その頂点に砲台を設置す。当港第一の勝地とす。
 十月十五日(日曜)、晴れ。暁窓、春寒料峭を覚ゆ。
船衝碧浪南端、雲宿亜然州角巒、日左北天光不遍、春風料峭昼猶寒。
(船はみどりの波をおしわけて南アメリカの南端に向へば、雲のわだかまる亜然アルゼンチン国端の山々がある。太陽は北の空にあり、ゆえに光はかたよってさし、春めく風は冷たく昼にもかかわらず寒いのである。)
 終日、雲波のほかに目に触るるものなし。
 十六日、晴れ。寒暖は五十七、八度なり。満目茫然、ただ海鵝の飛揚するを見るのみ。
 十七日、晴れ。※(「日+甫」、第3水準1-85-29)時に至り、雨来たり風起こり波生じ、船また少しく揺動す。午後六時、煙雨の間にフォークランドの島影を見る。
孤舟衝雨立、冷霧鎖春洋、南米尽処暮、波間島影長。
(ただ一隻で雨のなかをゆき、冷たい霧は春の洋上をおおっている。南米の南の果てに日暮れるころ、波間に島の姿がながながと横たわっているのである。)
 七時、スタンリー湾内に投錨す。モンテビデオよりここに至る海程、一千三十マイルなり。内湾は一大湖のごとく、四面丘陵をもって囲繞し、湾内にありては湾口を見るあたわず。ときに風雨蕭々として来たり、先年北海道利尻島に客居せし当時のごとく、まことに絶海の孤島に来たれるの感を浮かぶ。湾内にはただ帆船二、三艘の碇泊せるを見るのみ。
 十八日、晴雨不定。たちまちにして雨、たちまちにして晴る。わが国北陸道の晩秋の気候に似たり。しかして勁風終日やまず。寒暖は五十度なるも、風強きために、戸外にては四十度くらいに感ずるほどなり。室内にてはストーブを用う。午前十時、小艇に移りて上陸せるに、波の艇中に打ち込むこと数回に及ぶ。この島は南緯五十一、二度の地点にありて、世界における英国所領中、最南端にあるものとす。全島東西二州より成り、その面積総計四千八百五十方マイル、人口二千五十人なれば、一方マイルにつき半人に満たざる割合なり。しかして牧羊の数は七十万頭ありという。全島山岳なく、また樹木なく、ただ牧草の丘上に茂るを見るのみ。地下は多く岩石より成り、所々に石骨を露出せるを見る。高丘にいたりては岩石一面に屹立し、煙を隔ててこれを望むに、初雪を冠するかを疑わしむ。樹木の生育せざるは、年中強風の絶え間なきによる。ただし、風のために雪積まず、野草枯れざるをもって、牧羊に適す。
船入極南斯旦湾、野無樹木陸無山、斜風凄雨春蕭颯、人住寒烟冷霧間。
(船は南の果てフォークランドの斯旦スタンリー湾に至る。野のみで樹木もなく山もない。斜めに吹きつける風とさむざむとふる雨に、春はものさびしく、人々はいてつくもやと冷たい霧のなかに住んでいるのである。)
雪風十月捲春濤、寒徹衣衾烈似刀、法句洲居何所得、一年生計在羊毛
(雪をふくむ風が吹く十月、春さきの波を巻きあげ、寒さは着物も夜具をもつき抜けて、あたかも刀刃のような厳しさがある。法句洲フォークランドに住むとしたらどこに居を構えたらよいのか、ともあれ一年の生計は羊毛によって成りたっているのだ。)
 スタンリーの市街は海岸にそいて数町の間、人家点在するのみ。家屋は煉瓦造りと木造と相半ばし、いずれも低屋なり。ただ、屋根の一様に赤く塗りたるを特色とす。人口わずかに八百人、実に寒村なり。この寒村にも似ず、博物館、図書館を併置す。博物館内には当地にて採集せる物のみを陳列す。また、英国宗のカテドラル(本山)あり。晩天ようやくはれて、夕陽影裏に牧羊の草間に遊ぶを見るもまた幽趣あり。午後七時抜錨して湾を出ず。風ようやく加わり、波ようやく高く、終夜、船大いに揺らぐ。
 十九日、晴れ。勁風激浪、風位西方にありて船これに逆行す。寒暖計四十二度に下る。
狂浪漲天檣欲摧、風従摩世峡間来、船牀横臥人皆病、海鵝揚然去復回。
(狂ったような波は天にとどくかのように打ち寄せ、ために帆柱をくだかんばかりに、風は摩世マゼラン海峡のあいだからきたる。船のベッドに横たわる人々はみな船酔いに苦しみ、海どりが舞い上がって行くかと思えばめぐりかえってくる。)
 また、狂浪の船を打ちて翻り、水煙を生ずる所に、夕陽映射して虹霓を現すを見て一吟す。
勁風吹海面、夕照射波頭、噴沫散為霧、虹霓随処浮。
(強い風が海面を吹きぬけ、夕陽が波頭を照らし、噴き上がる飛沫は霧となり、虹が随所に浮かぶのである。)
 二十日、晴れ。逆風いまだやまざるも、激浪少しく収まる。午後二時より峡間に入り、右方にパタゴニア州の平原の横たわるを望み、左岸にティエラ・デル・フエゴ州の小丘陵の起伏するを見る。
船入峡間風未収、怒濤声裏夕陽収、沙原一帯平如布、知是波多伍若州。
(船はマゼラン海峡に入っても風はまだおさまらず、怒濤の音のひびくうちに夕陽がしずんでゆく。平原は平らかに布のごとくみえ、これこそが波多伍若パタゴニア州であると知ったのである。)
 午後二時、貨物船に遭遇す。夜十一時、峡間の中点たるプンタアレナス港に入りて碇泊す。その地形港湾の形を有せざるも、西方に一帯の山脈ありて西風をとざし、港内は平穏なり。舟中吟一首あり。
眸日日倚※(「木+龍」、第4水準2-15-78)、愛見米山気象雄、春白安天峰頂雪、暁青摩世峡間風、探奇拾勝吟嚢満、酌月傾雲酒債窮、不羨故園觴詠客、東都西洛競観楓
(目をこらして毎日船の格子窓に身を寄せてみれば、このましくみる南米の山のおもむきは雄大である。春日の安天アンデスの峰の頂は雪をのせ、あけがたの空に摩世マゼラン海峡の風が吹く。勝景を探求して吟詠は袋にみち、月に酒を酌み、雲を見ては杯を傾けるうちに酒費もかさむ。うらやましくはないだろうか、故国園遊の杯をあげて吟詠する人よ、東京と京都で観楓の遊覧をきそっているだろう。)
 二十一日、晴れ。風寒きも日暖かなり。市街はスタンリーよりは広く、人家また多く、チリ国極南の一小都会たり。わが船より移民約百名ここに上陸す。同市人口一万と称し、山麓の平陵に連なりて市街をなす。家屋は木造平家多く、屋根は鉄板またはトタンぶきなり。物産は羊毛、羊肉を主とす。野外に青草を見るも、山上は雪をとどめてなお白く、残冬の風致を存す。
湾波漸穏、春草満林巒、峰頂猶留雪、風寒摩世瀾。
(船は湾に入って波もようやくおだやかに、春の草が林や丘山に満ちている。山の頂にはなお残雪が見え、風はさむざむと摩世瀾マゼラン海峡に吹いている。)
 モンテビデオを去りて以来、陸上には砂原草丘のみを見しが、ここに至りて林野峰巒に接せり。しかしてその風光は、わが樺太のごとく荒涼寂漠として、なんとなく太古の風致を存す。
南米尽頭船入津、草邱伏処屋成隣、行過街路林壑、満目荒涼太古春。
(南米の南の果ての港に船が入り、草の丘の低い所に家屋が並んでいるのが見える。街路をよぎって林や山を望めば、見渡すかぎり荒涼として太古の春のような趣であった。)
 背後の連山は最高千尺以下にして、眼界に高峰を見ず。この港にては関税を課せざれば、物価は比較的安し。そもそもマゼラン海峡の舟路は今より約四百年前(一五二〇年)、ポルトガル人マゼラン氏によりて発見せられ、その当時これを一過するに二十八日間を要せしとのことなるが、今は四十八時間にして航了し得るに至る。南端の外洋は風浪あまり激しく、航路至難なれば、万舶みなこの峡間を通過すという。しかしてプンタアレナスは、実にその避難港たり。余はここに来たり、マゼラン氏を追懐して一首を賦す。
極南風浪高難渡、万舶卜晴峡間駐、想見往年摩氏心、一帆賭死開航路
(南の極まるところの風浪は高くして航海し難く、よろずの船は晴れを待ってこの海峡の港にとどまる。往年のマゼラン氏の心中を思いみるに、帆一つに死を賭してこの航路を開いたのである。)
 ここプンタアレナス市は、世界中最南の市街なりという。余はさきに北極海観光のときに、世界中最北の市街ハンメルフェストに寄航せしが、今またこの最南の市街に上陸するを得たり。当市は南緯五十三度の地点にありて、フォークランド島より西方百五十マイルの距離にあり、最南の市街に上陸するを得たり。当夜十一時抜錨し、海峡狭所に向かいて西進す。
 十月二十二日(日曜)、雨。両岸の山光、雲煙を破りて暁窓に入る。千湾万曲の岸頭に、脈々の岩山雪をいただきて走るを見る所、毫もノルウェー西岸と異なることなく、その風光の美は二者伯仲の間におる。ただ遺憾なるは、雨のために遮られて、全景に接するを得ざるにあり。
峡間一路截風行、怒浪打舟窓有声、残雪白辺春自満、岩陰已見緑苔生。
(海峡の間を一路風をきりさくようにしてゆけば、怒れる波は船を打ちつけて船窓に波の音がひびく。残雪の白くみえるあたりには春はおのずと満ちて、岩陰にはすでに緑の苔のもえいずるさまが見られるのである。)
 午後に至り狭所を出でて広峡に入りたるに、両岸全く雲煙の中にとざされ、一物の目に触るるなく、逆風激浪にゆられつつ航走す。夜に入りて船の動揺ことにはなはだし。
四方の海いと広けれど、たぐひなき荒波たつはマゼランの瀬戸
 二十三日、曇り。風ようやくしずまり、雨また収まるも、残雲なお眼界をとざし、天気おのずから濛々たり。ただ太平洋の浩波の凸形をえがきて押し寄せ来たるために、船は依然として動揺を継続す。午後に至りて暫時晴空を見たるも、晩に及んでまた雨となる。
帰舟已入太平洋、仰望天涯只渺茫、峡雨嶺雲何処去、万波一碧染吟膓
(北に向かう船はすでに太平洋に入り、仰いで天の果てを望めば、ただ広くはてもない。海峡の雨と嶺の雲もいずこにか去り、波のすべては碧一色となり、吟詠の人の腸をも染めあげるかのようである。)
 船は海岸をさる数十マイルの波上にあれば、終日チリの陸もアンデスの嶺も眼中に入らず、やや無聊を覚ゆ。
 二十四日、曇り。終日風力よりも波高く、船の傾動はなはだし。ときどき少雨あり。マゼラン峡の風、この沿岸の雨は南米の名物なりという。あたかも台湾にて「新竹の風、宜蘭の雨」というがごとし。
 二十五日、曇り。午後に至り対岸の連山を望む。三時後は濃霧に入り、汽笛を鳴らして進航す。夜九時、チリ国コロネル港内に入りて停船す。
 二十六日、晴れ。温計六十度、林野草色青く、港上の春色暁窓に映ず。
古籠岬畔暁烟収、繋纜鵬程万里舟、汽笛一声山水緑、智南春色満津頭
古籠コロネルの岬のあたり、あかつきのもやが消えて、遠大な道のりである万里を越えた船をつなぎとめる。汽笛一声を発すれば山も水も緑にそまり、チリ南部の春景色は港のあたりに満ちている。)
 夕陽まさに落ちんとするとき、一鉤の新月西天に懸かる。その光を月球の左辺に見る。この港は石炭輸出港にして、汽船みな載炭のためにここに入る。市街は矮屋小店のみなるも、汽車の来往頻繁なるは、石炭輸送のためなり。午後五時抜錨して、夜九時タルカワノ港に入る。これ、チリ国第三に位する都会たるコンセプシオン市の要港にして、また本州の軍港たり。
 二十七日、晴れ。港内に一隻の軍艦碇泊せるを見る。
一帯臥丘傍海長、高低瓦屋映波光、阜頭戦艦吹煙坐、南米猶知講国防
(一帯の低い丘に長く海がひろがり、高低ふぞろいの瓦屋根に波の光がてり映えている。阜頭の戦艦は煙を吹きあげながら碇泊し、南米はなお国防に力を入れていることが知られるのである。)
 午後出港。風和し波平らかにして、夕日紅を流し、半月空に印す。
 二十八日、晴れ。朝七時、バルパライソ港内に入る。
 以下、「南米西部紀行」に譲る。
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 明治四十四年十月二十八日朝、チリ国バルパライソ港に入津するや、千田平助氏、特に船中に来たりて余を迎えらる。ともに上陸して氏の宅に一休し、九時の急行にて首府サンチアゴ市に至る。鉄車は渓谷の間を縫いてようやく登り、登り極まりてまた下る。山に樹木なく、渓に流水なく、殺風景なるも、当面にアンデス連峰の雪をいただきて起伏するを望むは、いささか客懐を慰むるに足る。午後一時、着市す。その里程百二十五マイルあり。公使館在勤藤井実氏、甘利造次氏、三隅棄蔵氏、停車場内にありて歓迎せらる。目下、日置公使帰朝の途に就かれ、藤井氏その代理をなす。ともに馬車に同乗して公使館に至り、藤井氏の好意にて館内に停留するの便を与えらる。三時後、同氏とともに馬車に駕して、コウシノ公園、キンタノルマール公園、サンタルシア山を歴観す。コウシノ公園のごときは、木石の配置大いに趣を成すといえども、園池に水なきを欠点とす。ひとりサンタルシア山の、鬱然として市街の間に峙立するは一大奇観たり。その山もとより一小丘に過ぎずといえども、全部岩石より成り、石間小径岐をなし、人をして深山幽谷に入るの思いをなさしむ。石径を攀じて山頂に達すれば、ここに望台あり。全市を一瞰し、アンデス連山を対望するところ、自然のパノラマ館たり。またその前後、緑樹紅花、石頭に懸かり、宛然日本庭園の趣を有するはまた妙なり。登台の一吟、左のごとし。
阿拉米多街尽辺、蔚然三達舎台円、登臨全市如碁布、安岳為屏鎖半天
阿拉米多アラメダ街の尽きるあたり、草樹のしげる三達舎サンタルシア山は円丘の姿をしている。山頂に登れば市街のすべてが碁石を並べるようにみえ、安岳アンデスの山波が屏のごとくたって空の半ばをとじこめている。)
 帰路、中央街たるアラメダ街を一過するに、その道三十五間ないし四十間の広さを有し、※(「土へん+侯」、第4水準2-5-1)樹陰を成し、樹下来往織るがごとし。この街とかの山とは当市の二大勝なり。夜に入りて、正金銀行員諸橋宏氏来訪あり。
 十月二十九日(日曜)、晴れ。藤井氏と同乗して、午後、寺院、競馬および消防演習を一覧す。当地は旧教をもって国教とすることアルゼンチンにひとしきも、その勢力は同日の比にあらず。ひとり日曜のみならず、平日も午前はみな寺院に参集す。婦人は帽を用いず、全身黒衣をかぶり、一見黒だるまのごとき装いをなして寺院に至る。
怪見街頭黒達磨、五三為列寺前過、身纏緇服頭髪、不問令嬢与老婆
(街頭を行く黒達磨だるまのごとき黒衣の婦人を怪しみ見るに、三人五人と列をなして寺院の前をよぎる。身には黒ぎぬの服をまとい、頭髪をつつみ、令嬢と老婆をとわずすべてがそうなのである。)
 競馬は当国人の最もたしなむところにして、毎日曜これを興行すという。闘牛および富くじは、政府これを禁ず。ゆえに、野外の娯楽はただ競馬あるのみ。消防組は紳士の子弟志願によりて編成せられ、自ら進みて資を投じ、もってこれに加わるを名誉とすというも、他国に聞かざるところなり。一年一回、大演習をなす。本日はすなわちその日に当たれり。
 三十日、晴れ。朝、三隅氏とともに銀行に至り、市場を通観す。午後、独行して市外に聳立せるサン・クリストバル山に登る。山上にマリアの像および天文台あり。遠近の眺望絶佳なり。しかして、アンデス連山の雪を望むところ、ことに壮快を覚ゆ。毎年一定の日に、多数の信者ここに登山参拝すという。ときに、アンデス山の雪を望みてよみたる一首あり。
常葉木の色もうつろふ世の中にアンデス山の雪はかはらず
 三十一日、晴れ。博物館を訪い、また動物園に入る。この二者はアルゼンチンに及ばず。
 十一月一日、晴れ。甘利氏と同乗して墓地に至る。当日は年中一回の墓参日にして、場内群集、墓前献花地に敷く。あたかもわが盆十三日のごとし。墓地の美大なることアルゼンチンに及ばざるも、なお外客の目を驚かすものあり。墳墓設置の費用、最小なるものにても五百円を要し、最大のものにいたりては五、六万円を投ずという。
 二日、晴れ。毎日の寒暖は六十六度より七十度の間を昇降す。午前、大寺院二カ所を入覧するに、第一の寺院は幅二十五間、長さ八十間にして、参詣者五百五十人の列席を見る。そのうち男子わずかに二十人にして、ほかはみな女子なるは異様の感を起こさしむ。第二の寺院は参衆七百人のうち、男子は五人に過ぎず。さらに旧教徒の資産家のみを埋葬せる墓地に至るに、数十間にわたる長屋数棟連立し、その棟下に墳墓を設くるはまた奇観なり。あたかも兵営もしくは学校の寄宿舎を見るがごとし。しかして屋外は百卉千花を栽培し、宛然小植物園たり。午時、電車にてサンベルナルド町に至る。その地静閑にして、別荘的邸宅多きも、風景に乏し。午後五時帰館す。この日、行程数十マイルに及ぶ。
 三日、晴れ(天長節)。午前、三隅、諸橋両氏とともに電車に駕して市外ギンドー村に至り、ホテルローマーにて午餐を喫す。庭園に花樹多く、また菜畦連なり、日本の田園に遊ぶの思いあり。料理は全くチリ式なり。帰路、鈴木某氏の農圃を一覧す。この日、往復二十三マイルなり。午後五時後、公使館内にて聖寿万歳の賀筵を開かる。賀客百三、四十人、みな内外の官吏紳士なり。数十名の楽隊入り来たり、奏楽の間に舞踏あり立食あり、シャンパンを傾けて祝すること幾回なるを知らず。藤井氏主人となりて接待の労をとらる。ときに旧暦九月十三夕に当たり、一輪の明月清輝を送り、あたかもその歓を助くるもののごとし。余はその盛況を写さんと欲して二首を得たり。
此西球尽処郷、微臣堪喜祝天長、満場奏楽春如湧、舞踏声中拝聖皇
(この西半球の果ての村で、身分もない臣下が天長節を喜び祝う。会場に音楽が満ち、春の気配が湧きでるかのように思われ、舞踏のざわめくうちに聖皇を拝したのであった。)
聖寿客来頻、公使館前揚馬塵、奏楽已終歓未尽、十三夜月照佳辰
(天皇誕生日を迎えるにあたり、来客はしきりと至り、公使館の前では馬によって塵が舞い上がる。音楽の演奏もすでに終わっているが歓びの宴はまだ果てず、十三夜の月はこのよい日を照らしている。)
 当日の食品中、日本の練りようかんおよびヒキ茶のアイスクリーム、もっとも来客の称賛を得たり。散会の後、日本人のみさらに相会し、藤井氏の発声にて「君が代」を奏し、聖寿万歳を唱えて深更に至る。
 四日、晴れ。午後、美術館に入覧す。外観すこぶる美大なるも、内容はこれに伴わず。絵画の数少なく、かつ衆目を引くほどの秀逸なるものを認めず。
 十一月五日(日曜)、晴れ。電車にて市外ラパルマに至り、さらに徒歩して数マイルの外に出でて、田舎生活の実況を視察す。当地は市中といえども家屋の多数は煉瓦にあらずして、泥土を煉瓦の形に作り、これを日光に乾かしたるものをもって築き、その外面を塗りて石造のごとくよそおうを常とす。市外に至りては外面を塗らざるもの多く、あたかも台湾村落の農家のごとし。はなはだしきにいたりては、茅をまといて壁に代用せるあり。わがアイヌの家屋に似たり。屋根は草ぶき多く、中にトタン板を用うるもあり。四壁に窓なく、ただ入り口と裏口とに板戸あるのみ。しかして室内は土間なり。サンチアゴ市中にても、貧民の住所はみなこの種の家に同じ。その不潔なるありさまは、アイヌ住家または朝鮮人の家屋よりもはなはだし。アメリカ・インデアンの住家なるかを怪しましむるほどなり。つぎに、道路のごときは塵埃深くして靴を没す。また、往々汚水の毒色を帯びて滞留するあり。これに住する人民は目に一丁字を解せず、身に破褸を着け、垢臭人を襲わんとするも、はだしのもの少なく、裸体せるものにいたっては全くなし。ただ彼らは飲酒をもって最上の娯楽とするがごとく、酒店は貧民の巣窟にことに多し。要するに、チリは上下の懸隔はなはだしく、ほとんど異人種なるがごとき観あり。
塵一路出城門、泥壁茅軒智利村、南米人文何処遍、田家猶未教児孫
(深い塵埃をふんで一路城門を出てみれば、泥壁と茅ぶき屋根のチリの村に行きついた。南米の人々の文化はどこにあるのであろうか、この田舎ではまだ児童を教えるまでには至っていないかのようだ。)
 この日、行程約二十マイルに及ぶ。当夕帰館すれば、明月露気を帯びて、満庭ために白し。
露江山夜気凄、南球春与北秋斉、坐来雲断天如拭、明月高懸安岳低。
(露をふくんだ江や山に夜気はさむく、南半球の春と北半球の秋は同じくおとずれる。座っているうちに雲が断ち消えて空は拭われたようにはれわたり、明月が高くかかり、安岳アンデスの山々が低くよこたわっている。)
故里の近くしあらは我友を、招きて見せんアンデスの月
 六日、晴れ。当日は市内を散歩し、帰りて日本へ向け年賀状をしたためて投函す。夜に入り一天雲なく、明月玻窓に入ること前夕のごとし。
 七日、晴れ。南部地方を一覧せんと欲し、午前九時半発にてタルカ町に向け出遊す。時間の都合にてベレケン駅に降車し、村落一巡の後、さらに乗車して帰行す。その行程、往復百五十一マイル。途上牧田多く、田中に灌漑をなす。連日雨なきがためなり。また葡田あり麦田あり、みな灌漑を要す。郊行一首を得たり。
歩入孤村草色新[#「歩入孤村草色新」はママ]、牧田繞屋緑無塵、連山皆戴千秋雪、一白漲天南米春。
(とある村に立ち入れば草の色も新たに、牧野も田畑も家をめぐって緑一色に塵もない。連なる山々はみな千年の雪をいただき、その白さが天空に映える南米の春である。)
 村落の家は概して陋矮不潔なり。中間の駅名に、前駅をペーン(苦痛)といい、後駅をホスピタル(病院)というものあるは、あに奇ならずや。
 八日、晴れ。午後、甘利氏とともに官省に至り、文部次官に面会し、その紹介を得て文科大学を参観す。その名義は大学なるも、実際は中学教員養成所たり。教師は半数チリ人にして、半数はドイツ人なり。これに付属して、中学校および心理実験部あり。この大学在学生総数約二百人、そのうち三分の二は女子なりという。当国はいまだ義務教育を実施せず、小学校三年、中学六年、大学四年または五年なりと聞けり。
 九日、晴れ。早朝出発、アンデス山行を企て、ロスアンデス駅に至りて降車す。これより狭軌鉄道に駕し、雪嶺を登るべきも、時日を要するをもって果たさず。その光景を詩中に写す。
路掛断崖急似蘿、鉄車攀尽幾嵯峨、連山脈脈峰頭雪、恰是海風揚白波
(路は断崖にかかるように、急なることつたかずらのかかるに似ている。汽車はいくつものけわしい所をのぼりつくす。連なる山々の峰の頂は雪におおわれ、あたかも海風が白波をあげているような姿である。)
 晩に帰館す。その行程、往復百八十八マイルなり。途中、禿頭山多し。あるいはサボテンのみの茂生せる山を見る。アンデス横断鉄道は昨夏より全通し、ブエノスアイレス午前八時二十分発、バルパライソへその翌日午後十時四十分着。すなわち三十八時間余を要す。その距離一千四百三十一キロメートルにして、日本里程の三百六十里あり。汽車賃は寝台を含みアルゼンチン貨幣百四十六ペソにして、わが百三十円に当たる。食費はそのほかなり。毎週夏期三回、そのほかは二回、汽車の往復あり。
 十日、晴れ。午前、藤井氏とともに中学校を参観す。文部次官特に案内せらる。つぎに、応急施療院および慈恵病院を参観す。その病院には六百人の患者をいるるべしという。当サンチアゴ市にて毎年慈善事業に費やす金額は二百万ペソ(わが八十万円)にして、貧民の救助を受くるもの六千人ありという。もし、これをサンチアゴ人口四十万に配当するときは、一人につき五ペソ(わが二円)ずつの割合となり、人口十人につき一人半は救助を受くる割合となるべし。かく慈善事業の発達せる余弊として、貧民はみなその日暮らしにて、毫も貯蓄せんと欲するものなしという。午後、文部属官の案内にて、医科大学および実科師範校を参観す。実科中に木工科、体操科、割烹科等あり。
 十一日、晴れ。午後、三隅氏と同行して、中学校および陸軍学校を一覧す。当夕は藤井氏の案内にてモルラ夫人を訪問し、その所蔵の日本古画、古器物を一覧す。総計数千点あるべく、いずれもすこぶる珍奇なり。
 十二日、晴れ。午後六時、公使館を辞し、バルパライソに向け発車するに際し、公使館諸氏および諸橋氏の送行を得たり。サンチアゴ滞在中は公使館内に寄寓するを許されしのみならず、連日多大の厚意をにない、分外の歓待をかたじけのうせしは、藤井氏および甘利、三隅両氏に対し、深く感謝するところなり。寄寓中所詠五絶二首あり。
駅路春晴続、塵深欲靴、智原青鬱鬱、安岳白峨峨。
(鉄道に春の晴れわたる日が続き、塵埃は深くつもって靴も没せんばかり、チリの草原は青々としげり、安岳アンデスの山々は白くけわしくそびえている。)
花三舎巷、浴月跋波磯、吟客留旬日、満嚢拾句帰。
(花に歩む三舎サンチアゴの港、月の光をあびる跋波磯バルパライソ、吟詠の旅人は十日ほどとどまり、袋一杯に詩句を集めて帰るのである。)
 当夕十時半、バルパライソに着す。千田平助氏、河田国雄氏、杉山、村上等の諸氏とともに千田氏の宅に至り、会談深更に及ぶ。
 十三日、晴れ。午前、千田氏とともに市内を一巡し、午後、市外公園および海浜に散策を試みて帰る。当日、藤井実氏サンチアゴより来港せらる。
 十四日、晴れ。正午十二時、東洋汽船会社紀洋丸(九千七百八十七トン)入港の報を聞き、即時に小舟に駕してこれに移り、帰航の途に上る。船長は東郷正作氏なり。船中まで諸氏の送行あり。ここにバルパライソ滞在中、千田氏が止宿を引き受け、かつ諸事を斡旋せられたる労を謝す。午後五時抜錨してイキケに向かう。同港は山を襟にし海を帯にし、地形ややホンコンに似たり。人口十九万ありて、当国第二の都会とす。ただし、海湾外に開き激浪襲来のおそれあれば、良港とはいい難し。日本人のチリ国内に住するもの総計百人未満にして、サンチアゴ市に二十余人、そのうち飴屋を業とするもの最も多しという。バルパライソ市には七、八人に過ぎず。シナ人の数はこれより多きも、ブラジル国、アルゼンチン国およびチリ国にては、シナ人自ら日本人と偽称しおるもの多き由。これ日露戦役後、日本の国名が南米の天地を風靡せる結果なり。
 チリ風俗の外人の目に映ずる特色を挙ぐれば、第一は、毎朝婦人は頭部より全身に黒衣をかぶりて、寺院に往復する一事なり。この風はスペインの古俗を伝え、そのはじめは倹約の主旨より起これりという。第二は、電車の車掌の多数は女子なること。これ、先年ペルーと交戦せしとき、男子はすべて出征したりしに起因すという。また、停車場にて食品を売るもの女子なり。市街および公園に共同便所を置かざること。停車場内に時間表も汽車賃表も時計も置かざること。寺院の多きこと。サンチアゴ市の地図中に表示せるものだけにても七十四カ寺あり。街上の敷石に小なる丸石を用うること。家屋の壁身はたいてい乾泥なること。巡査が木棒を携うること。そのほか競馬に熱中すること、消防組の勢力あること、民家の不潔なること等は、前にすでに述べたるところなり。そのほかチリの特色とすべきは、市外の農民はケットの中央に長さ一尺くらいの口を開き、ここに頭を入れて肩上をおおい、雨または塵を防ぐの具となす。その名をポンチョという。また、乗馬のアブミのすこぶる大なること、毎日午時二時間は昼食休みと称してすべて閉店すること、外国へ発送する葉書の郵税最も低きこと等なり。葉書の郵税はチリの六銭にして、わが二銭五厘に相当す。なお一つチリの特色として忘るべからざる一事は、紙幣の垢に染みて黒色を帯び、その紙面には幾千万の黴菌を有するものあり。ひとたびこれを手にすれば、消毒を要するとの評なり。
 つぎに、チリと日本とを較してその異同を挙ぐれば、その国域の細長くして南北に連亘せる点は日本に似たり。しかして日本よりも長く、南緯十七度より五十六度に至る。すなわち三十九度、この里程二千八百二十マイルあり。これ、世界中において南北に延長せる最長国たり。山岳の多くして平地に乏しきこと、極熱と極寒の両端を有する等は日本に同じ。しかして、南部は一年間に十三月降雨すと呼ばるるほどに雨多く、北部は年中全く雨なく、したがって草木絶無、ただ硝石を産出せるのみ。中部は冬期三カ月間に雨あり、この間に三十六日降雨すという。春夏秋九カ月間は降雨なきは、日本と大いに異なるところなり。中部の寒暖、なかんずくバルパライソのごときは、冬時五十度以下にくだらず、夏時八十度を限りとすという。夏時の日光は日本より強く感ずるも、風いたって冷ややかにして、樹陰に入れば大いに清涼を覚ゆ。当国は三十年前、ボリビア、ペルー両国と交戦して勝利を得たる歴史を有し、チリ人は南米中最も武勇の気象に富むと称せらるる点は、やや日本に似たるところあるも、教育の普及を欠き、大学の程度低く、共和国たるにもかかわらず、上下の懸隔はなはだしく、無知文盲の愚民多く、上下を通して理想の趣味を解せず、自然の風景を楽しみ、物外の天真を味わうことを知らず。ただ目前の名利を喜び、一時の俗潮に従い、今日主義の楽天観をなす風あるは、わが日本と大いに異なるを覚ゆ。また、地震の多き点は日本に同じ。余がサンチアゴ市に滞在せし間に、二回の微震を感ぜり。毎食米と豆とを用うるも、日本に異ならず。南米一般に豆米を食する風あり。そのほか時間の精確ならざる、商品に掛け値あるがごとき、人に酒食を強うるがごとき、婦人の前に勝手に喫煙するがごとき、僕婢を呼ぶに手をうつがごとき等は、やや日本に近し。わが国にて「紺屋の明後日あさって」と唱えきたるがごとく、「チリのマニアナ(明日)主義」といいて、すべて明日明日と延期する風あり。
 しかして文明の程度は、アルゼンチンよりも十年間おくれおるという。また、郵便物の延着または紛失すること多きは、わが国と同じからず。要するに、世界文明の中心を欧州とするときは、その中心より最も隔たりたる地はチリ国なり。かかる国がたとい多少の欠点は免れ難きも、今日世界の文明国と相伍するを得るに至れるは、驚くべき一事なり。また、その国民をみるに、壮快楽天の風あるは大いによし。余がアルゼンチンにありて聞くところによるに、南米を東亜に比すれば、ブラジルはシナのごとく、アルゼンチンは日本のごとく、チリは朝鮮もしくはシャムのごとしといいたるは、一理なきにあらず。また、チリ人は自尊排他の風ありという。これけだし、従来その位置アンデス山陰の僻陬にありて、ほかと交通を欠けるによるならん。バルパライソを去るに際し一詩を浮かぶ。
帯水襟山対夕暉、万千気象跋波磯、市人不解風流趣、漫入酒家酔帰。
(港は水をめぐらせ山を襟のようにして夕映えに対す、千変万化する気象の跋波磯バルパライソである。この町の人々は風流の趣を解せず、みだりに酒屋に入って酔いを得て帰るのである。)
 そのほか、チリにてはマテと名づくる木葉を熱湯に入れ、茶の代わりに飲用す。これ、ひとりチリのみならず、南米一般に行わるる異風なり。
 十五日、晴れ。終日右岸の連山を望みて北走す。寒暖七十度なり。紀洋丸は甲板上に軽便鉄路を敷き、船内運搬の用に備うるはおもしろし。
 十六日、晴れ。午前中にタルタル港に入る。硝石運載のためなり。地上に一株の木なく、一根の草なく、一線の泉なく、満山焦土のごとし。アラビアのアデン港に似たり。一望殺風景を極む。港頭に市街あるも矮屋のみ。
 十七日、晴れ。終日同港滞在。夜に入りて出航す。
 十八日、晴れ。午前、カリタクロソ港に入り、硝石のために停船す。海岸には市街なく、ただ工場と倉庫あるのみ。この近傍アントファガスタ港よりボリビア国に通ずる鉄路あり。この港もとボリビアの所有なりしが、数十年前の戦争後、チリの版図に入れり。
 十一月十九日(日曜)、晴れ。終日碇泊。この海岸一帯、年中一滴の雨なく、目に入る丘山はみな禿頭なり。わが船中にては、毎週木曜と日曜の晩食に日本料理を設けらる。
 二十日、晴れ。午後出港。この日すでに熱帯に入るも、東南の風冷気を送り来たり、船室清涼、寒暖計カ氏七十度以下なり。
 二十一日、晴れ。午後五時、イキケ港に入船す。バルパライソ港よりここに至るの里程八百五マイルあり。当地はチリ南部の大都会と称するも、市中の家屋は二階建ての木造のみ。道路は敷石をなさず、馬鉄ありて電鉄なし。人口は三万三千人あり。日本人のここに住するもの数十名ありという。
 二十二日、晴れ。午前、乗客西氏とともに市街を一覧するに、全く田舎の小都会に入るの観あり。湾内には、あざらしの群れをなして浮遊するを見る。
 二十三日、晴れ。二千の兵隊、軍艦にて入港す。市内にてはペルー人排斥運動さかんにして、放逐を強制するに至る。この日、甘利氏の紹介をもって硝石鉱を一見せんと欲せしも、同行するものなく、また汽車時間を失えるをもって見合わせたり。ただ、終日船中にありて硝石運載を見る。
更無一草触吟眸、智北連山悉禿頭、満地富源只硝石、年年輸山幾千舟。
(さらに一本の草も吟詠の人の目に触れることもなく、チリの北の連山はことごとく禿山である。しかし地には富の源が満ちてただ硝石を産するのみであるが、毎年の運輸は幾千艘にものぼるのである。)
 これこの地の実況にして、硝石のほかに一物の産出するなく、衣食住、日用品ことごとく、他地方より供給を仰ぐ。
 二十四日、晴れ。終日船中にありて砂漠に似たる山を望み、その中腹に汽車のときどき昇降去来するを見るのみ。この地、目下熱帯圏内の夏季なるにもかかわらず、碇泊中船室内の温度、昼夜の別なく七十四、五度なり。
 二十五日、晴れ。午後四時出港。海風涼を送り、さらに炎暑を覚えず。
 十一月二十六日(日曜)、晴れ。終日太平洋上にありて、渺茫たる蒼波に対す。チリの連山望中に入らず。晩天、新月西天に懸かる。その光は月球の下縁にあり。
望断家郷路渺漫、太平洋上晩凭欄、日沈智利山難認、新月一鉤思万端。
(家郷への路ははるかに遠くその想いを断ち、太平洋上に日暮れててすりにもたれてながむ。日は沈み、智利チリの山々も見えず、新月のかぎのごときがかかって、よろずの思いが湧き起こる。)
 二十七日、晴れ。早暁よりペルーの連山望中に入る。みな草木なき裸体山なり。この日午時、太陽まさしく天頂にあり。しかれども風清く水冷ややかにして、氷を呼び扇を用うるものなし。
 二十八日、晴れ。午前十時、わが船ペルー港カヤオに入津す。イキケよりここに至る海路、六百五十四マイルあり。検疫に時を移し、午後四時、飯田勘之助氏に導かれて上陸。さらに電車にて八マイルを走り、リマ市に入り、ホテル・マウレーに入宿す。
 二十九日、晴れ。当日、市内の大寺院、博物館、墓所等を一覧す。この寺院は南米第一の古刹と称し、一五三六年、リマの開祖たるピサロはじめてその礎を起こし、九十年を経て竣功せりという。堂内に同氏のミイラあれば一見すべし。本堂の長さ七十間、幅二十三間あり。博物館内には、スペイン占領以前におけるインカ王国当時の遺物を陳列す。入覧すこぶる興味あり。墓所はすべて合葬庫式にして、その庫幾列あるを知らず。
 三十日、曇りのち晴れ。領事館芝崎氏とともに汽車にてクララ耕地を一巡し、製糖場を通覧し、日本移民を訪問して帰る。年中降雨なき地なれば、毎日蔗田へ灌漑をなす。山には一根の草木なく、道には灰のごとき塵土深くして靴を没するに至る。製糖場事務所において、代理人テナウド氏の好意にて午餐を喫す。ときに、ペルー名物のピスコ酒およびパルタ果を供せらる。ピスコ酒は砂糖にて製したる焼酎なり。午後五時帰市。領事館に一休の後、博物館の隣地なるホテル・マウレー支店に至り、芝崎、斎藤、金沢、飯田、森本等の諸氏と会食し、さらに領事館官宅に至り、一席の雑話をなす。会する者約三十人。領事代理田中敬一氏は、山地視察の途に上られ不在なり。リマはペルー国の首府にして、人口十三万ありと称す。よって、市街の大きさはサンチアゴ市の三分の一に当たると同時に、家作、道路すべての設備が、その割合に応じて同市より劣る。ただリマの特色としては、年中雨なく、春夏秋の三期は晴天、冬期は曇天にして、ときどき降霧あるのみ。よって家屋に屋根なく、その多くは屋上に泥土を塗りて、日光を防ぐに備う。ゆえに、もし一日大雨あらば、リマ全市たちどころに陥落すべしとの評あり。その建築は平家または二階付きの低屋にして、すべて土壁より成る。街路および公園に便所なきはサンチアゴに同じ。ゆえに、夜中は男女ともに路傍に立ち小便をなすために、往々臭気のはなはだしきを感ず。毎日電車を用いて大仕掛けの水まきをなす。これ、他にいまだ見ざるところなり。リマおよびその付近の者は、生涯全く雨と雷と雪とを知らず。ゆえに、冬時の霧を見て雨なりと称する由なるは、また奇ならずや。ペルー客中作詩歌あり。
裸体峰巒繞碧湾、港頭沙路有誰攀、秘南何処蔵風景、不見破笑微笑山。
(草木もない裸体のごとき山なみがみどり深い湾をめぐり、港のあたり砂地の路をのぼるものはだれぞ。ペルー南部のいずれの地にか目を楽しませる風景をかくしているのか、見つからずして思わず笑うも、笑うべき山もない。)
里馬城頭望漠然、黄塵路与禿山連、終年無雨霑林壑、貯水農夫灌蔗田
里馬リマ市より一望すれば広く果てしなく、黄塵の路は禿山につづく。一年中雨の林や谷をうるおすこともなく、水を貯めて農夫は砂糖きびの畑にまいているのである。)
秘露天無雨、里麻[#「里麻」はママ]街有塵、電車日兼夜、撤水去来頻。
秘露ペルーの空は雨をもたらさず、里馬リマのまちは砂塵のみがある。その塵をおさえるために、電車は昼夜をわかたず水をふりまきながらしきりと往来しているのだ。)
雨露の恵みかゝらぬしるしには、草木もはえで見る色ぞなき
 当地にて最も盛んに行わるるものは闘牛と富くじにして、毎週一回これを行う。また闘鶏も行わる。マニラの闘鶏と同じく、足に刃物をつけて、たおるるまで闘わしむるなり。日本人のペルーにあるもの約六千人、そのうち千人はリマ市に住す。そのうち斬髪業をなすもの五十軒余ありという。市外の民家の不潔なることはチリに同じ。また、土人が頭上にて物を運ぶがごときはブラジルにひとし。山上に十字架を建てて、毎年一定の期日に老弱男女登山参拝するがごとき、婦女子が毎日黒衣をかぶりて寺院に参詣するがごとき、天然痘の今なお流行して痘痕を有する人の多きがごとき、義務教育を実施せず、慈善事業の発展せるがごときは、ペルーとチリと同一なる点なり。寺院の数はリマ市内に五十カ寺、これに住する僧侶二千人ありという。学校は、下等貧民の小学は三年、中等以上の子弟の小学は四年、中学は四年、大学は四年、五年、もしくは七年なりという。毎年慈善事業に用うる金額は、リマ一州にて百二十五万ソル(わが五十万円)を費やし、六個の慈善病院と三個の孤児院を維持すという。この財源の主なるものは富くじの収入なりとす。この慈善事業の盛んなる余弊として、貧民が一日働きて得たる金はみなこれを酒色に投じ、貯蓄の念を起こさざらしむという。
 そのほか、一般に時間を確守せざること、なにごとも明日に延ばす風あること、郵便物の間違い多きこと、応接辞礼に巧みにして意と口と一致せざること、貴賤上下の懸隔のはなはだしきこと、理想の低きこと、趣味に乏しきこと等は、ひとりペルー人の特性なるにあらず、南米一般の常習というべし。これを要するに、文明の程度は、ペルーはチリに数等を譲るというは公評なり。料理にいたりては南米一般に塩辛く、田舎料理たるを免れず。ただし、米と豆とを多く用うるをもって、わが日本人の口に適するところあり。
 南米各国の貨幣の、余が旅行当時における相場を左に示すべし。
ブラジル国一ミル    わが六十銭
アルゼンチン国一ペソ  わが八十七銭
ウルグアイ国一ドル   わが約二円
チリ国一ペソ      わが四十銭
ペルー国一ソル     わが約一円
 当時、英貨一ポンドはおよそわが九円八十銭にして、一シリングはおよそ四十九銭なり。また、南米物産および輸出の概況を示さば左のごとし。
ブラジル国の主要なる物産は、コーヒー、ゴム、砂糖、綿、タバコ等にして、一年の輸出額わが七億五千五百万円に相当す。そのうち三億三千五百万円はコーヒーの収入なり。
アルゼンチン国の物産は、牛馬、肉類、羊毛、麦粉等にして、その一カ年の輸出額七億円余なり。
チリの物産は硝石、銅、ブドウ酒、麦、羊毛等にして、その輸出額二億円余なり。
ペルーの物産は銅、砂糖、米、獣皮、綿、コーヒー等にして、その輸出額六千万円なり。
 南米が近年にわかに発展するに至りしは、欧米各国が資本を投じて、天賦の富源を開鑿せるによる。しかして、商業の全権はドイツ人に占有せられんとする勢いなるも、婦人の衣服や万般の装飾品はフランスに仰ぐ。概して南米はフランスを崇拝する風あり。これに反して鉄道や工業は、英国および北米の経営に出ずるもの多し。また、移民としてはイタリア人の右に出ずるものなし。その数、百万をもってかぞうるほどなり。これに次ぐものをスペイン、ポルトガル両国とす。ただし、行商はほとんどトルコ人の占有に帰し、ブラジル一国だけに百万人のトルコ人住すという。南米人は自ら進みて殖産興業に当たるもの少なきも、その所有せる土地や家屋の借料が工業の隆盛に伴いて騰貴せるために、いながら自然に財産の増殖を見るに至る。その結果、奢侈に流れぜいたくに走る傾向ありて、フランスにて製作する装飾品、美術品の最高価のものの販路は、南米に限るとの評なり。また、南米人の毎年フランス・パリに遊ぶものすこぶる多く、パリを知らざれば交際ができぬといわるるほどなり。アルゼンチン一国だけにて、年々パリに遊びて費やす金額が三千万円の多きに上るという。けだし、南米将来の発展は驚くべきものならん。なかんずくアルゼンチンは南米第一の地位を占むるをもって、その隆運は他州を圧倒するに至らんとは、衆目のみるところなり。
 南米各国中、日本移民をとにかく今日なお歓迎する所は、ブラジル国とペルー国なり。その他の国々は、東洋人の移植をよろこばざる風あり。しかしアルゼンチンやチリのごときは、あえて排斥するにあらず。多少の教育ありてここに入るものは、相当の職に就くことを得るなり。もし、わが国民にしてかの地に入らんとするものあらば、第一に身体の健康、第二に言語の熟達、第三に意志の強固の三要件を備うる必要あり。南米の国語は、ブラジル国はポルトガル語、その他はみなスペイン語なり。英語はかの国々には通ぜず、ただ上等社会はフランス語を解し得るをもって、語学としてはスペイン語、ポルトガル語を知らざるものは、フランス語を修習してかの地に渡るをよしとす。たとい南米は富源地に満つというも、手を懐にして金もうけのできるはずなく、多少の艱難辛苦を忍ぶの覚悟あるを要す。しかしてその覚悟を断行するには、必ず強固なる意志を有せざるべからず。従来、かの地に渡りていくぶんの成功を見たるものは、みな意志の強固なりし人なり。ゆえに、余は健康、言語、意志をもって、南米行の三大要件となす。
 十一月一日、晴れ。午前八時半、領事館芝崎、菅原両氏とともに電車に駕してカヤオ港に至る。人口三万五千人ありて、ペルー第一の要港なるも、バルパライソよりくだること数等、一つの見るべきものなし。ただちに軽艇に移りて本船に帰る。日本人、シナ人、百余人の入船者あり。シナ人中には、本国の革命軍の応接かつ慰問のために帰航するもの七名あり。梁振華氏その長たり。当日午後六時出港。月明らかに風清くして、熱帯にあるを覚えず。いまだ赤道をこえざるも、日はすでに南天に入る。しかして月なお北天にあり。
 二日、晴れ。日中やや炎暑を感ずるも、食時なお発汗するに至らず。終日山影を認めず、晩に至り細雨霧のごときを見る。十月二十四日以来はじめて雨にあう。
 十一月三日(日曜)、晴れ。午前、船中消火の演習あり。風軽く波穏やかに、夜に入りて一輪の明月を頭上にいただく。一望すこぶる壮快なり。
一葉舟浮赤道辺、太平洋上水雲連、回頭判得家郷遠、日在南天月北天。
(木の葉のごとき舟が赤道のあたりに浮かび、太平洋上はるかに水と雲とがつらなって見える。頭をめぐらせて、いかに家郷に遠くはなれているかをいまさらのように思い知る。太陽は南の空にあり、月は北の空に見えるのである。)
 四日、晴れ。朝来ほとんど無風。暑気にわかにのぼりて七十九度に達す。食堂にては食時に器械扇バンカーを運用す。海上飛魚多し。これ赤道の近づきたる印なりとす。
 五日、朝雨のち晴れ。午前九時四十四分、赤道を横断す。余の今回の旅行において、赤道横断はまさしく第四回目なり。この日、海水温度を検するに八十度、室内空気の寒暖も同じく八十度を算す。乗客はじめて炎暑を訴うるの声あり。午後六時十分に、太陽は地平線下に入りてその形を失う。ときに、明月さらに東空に懸かる。当夜は満月なり。六時三十分、全く残光を失う。赤道直下なるによる。八時後、雲ことごとく消して、ただ一輸の明月を仰ぐのみ。船客中ドイツ人ウルリヒ氏とともに船橋上に踞し、観月の宴をなして深更に及ぶ。清風おもむろに来たりて、爽快極まりなし。
日落檣頭夜色新、波間一道海如銀、仰望東天天懸鏡、照見遠遊孤客身。
(日は帆柱のかなたに没して夜の気色も新たに、波間に赤道をよぎれば海は銀色にかがやく。ふりあおいで東の空を望めば、鏡をかけたように月が見え、遠くやってきた孤独な旅人を照らしている。)
 六日、炎晴。穏波軽風。午後四時、本船の姉妹船たる武陽丸に相会し、互いに汽笛を吹きて過ぐ。この日暑気強く、八十四度にのぼる。夜に入りて、海水滑らかなること油のごとく、明月雲間より照らし来たる。
夜をかさね雲の断間に出る月は、長き船路の友にぞありける
 七日、晴れ。終日涼風船熱を洗い去り、ときどき大魚の波間に躍るを見る。当夕、パナマ地峡の運河と同一の地点に来たる。その工事の壮大無比なるを聞き、抜山倒海とはこのことならんと思い、詩歌各一首を賦して所感を述ぶ。
米北米南一峡連、毀山穿石欲船、人文進歩真堪畏、智圧鬼神工勝天。
(北米と南米とは一峡谷によって連なり、山をこぼち岩石をうがって船を通そうというのである。文化の進歩はおそるべきものがあり、人知は鬼神も圧して人工が天然にまさったのである。)
諸人の力に天も畏るらん、パナマの山を海となしける
 深夜天頂を仰ぐに、月まさしく頭上に懸かるを見る。これより後は、月もまた南天に入るべし。
 八日、快晴。暑さ強きも、風ありてしのぎやすし。
四過赤道漸帰東、霜月遠洋三伏風、食後納涼雲自散、家山猶在碧空中
(四たび赤道をよぎりてようやく東に帰れば、霜月(陰暦十一月)のはるかな洋上に三伏〈立秋後最初の庚の日・末伏〉の風が吹いている。食後の納涼には雲もおのずから散り果て、故郷の家も山も遠くふかみどりの空の中にあるのだ。)
 九日、晴れ。これまで汽船速力一時間十マイル以下の割合なりしが、今日は十一マイル余を走れり。潮流に順逆あるによる。夜に入れば一天雲なく、波風清涼たり。
 十二月十日(日曜)、晴れ。早朝六時、メキシコ国サリナクルスに着岸す。カヤオよりここに至る二千七マイルあり。当港は巨船自在に防波堤内に入りて、岸頭に繋留するを得、物貨は汽船よりただちに汽車に移積するを得。かくのごとき設置は、南米においてブエノスアイレスを除くほかには、いまだ見ざるところなり。東郷船長および東洋汽船会社出張員小林氏とともに上陸、小林氏の案内にて市場を一覧す。近在の土人ここに来たりて衣食日用品を調達する所にして、わが日本における田舎の祭日の露店を見るがごとし。男子は広帽をかぶり赤裳を着け、すこぶる異装をなす。かつこの辺りの土人は、婦人よく労働すという。その不潔の度は南米に異ならず。市街および家屋は粗にしてかつ低し。左右に山をめぐらすも、みな高からず、山上には灌木あるのみ。年中風強く雨乏しきが故なり。この地北緯十七度、暑気八十三度に当たる。ここより首府メキシコ市まで三十六時間を要す。時間なきをもって上府せず。また、ここよりメキシコ湾に通ずる鉄道ありて、コアツァコアルコス港まで、横断里程約三百マイルあり。当地所見、各一首を得たり。
残月光中船入津、墨南冬暁暖於春、岸頭成列紅裳歩、不是欧人悉土人。
(なごりの月光のなか船は港に入る。メキシコ南部の冬の朝は春の暖かさよりもあたたかい。岸壁のあたりには列をなして紅い衣装を身にまとった人が歩いている。これは西欧の人ではなく、すべてこの地の人なのである。)
メキシコは冬の旅路も暑ければ、芭蕉の蔭に人はすゞめり
 また、海門に砲台あるを望みて一吟す。
墨南湾一曲、街路繞山根、辺塞成兵備、砲台挟海門
メキシコ南部の湾は曲線を描き、街路は山の根をめぐって続く。はずれの要塞は兵の備えとなり、砲台は湾口を挟んで設置されている。)
 午後六時出航す。
 十一日、晴れ。終日メキシコ連山を望みて北走す。日まさに入らんとするとき、残光天を染めて、夕景もっとも佳なり。
 十二日、晴れ。船中の客は九分どおりシナ人、彼らは終日賭博をなす。
万里長途倦怠生、欲眠食後酒三傾、風軽浪静船窓寂、只聴清人賭博声。
(万里をゆく長い旅路は倦怠を生じ、眠らんとして食後に酒杯を傾けた。風は軽やかに吹き浪も静かで、船窓もまた寂として音なく、ただ清国人の賭博の声がきこえてくるのみである。)
 シナ人の幼児、年齢五、六歳なるもの、一手六指、両手十二指あるを見る。船中の一奇観たり。
 十三日、晴れ。午前十時入港。その地名はマンサニヨなり。サリナクルスより六百マイルを隔つ。峰巒草木茂生し、浜頭また深林鬱立す。久しく禿山のみを見てこの翠影に接するは、大いに目をたのしましむるに足る。
林丘抱海小湾円、翠影参差映碧漣、霜雪不侵墨南地、水明山紫是終年。
(林と丘が海をいだくように、小さな湾が円を形づくり、みどりの影がいりみだれて青いさざなみにうつっている。霜も雪もメキシコ南部の地を侵すこともなく、山紫水明の天然の美しさは一年を通じてのものである。)
 十四日、晴れ。船を進めて桟橋にともづなをつなぐ。岸頭の家屋、小丘の上下に点在し、木造トタンぶきまたは板ぶきにして、みな矮屋のみ。わが北海道北見沿岸の小港に似て、実に寒村の観あり。ただ鉄路のここよりメキシコ市に通ずるあれば、物産の出入港なり。検疫厳なるがために乗客の上陸を禁ぜられ、岸頭にありながら市街に歩を散ずるを得ず。停船中禁足を命ぜられしは、この地を初回とす。当夕降雨あり。メキシコはすべて南米式なり。教育いまだ普及せず、文字を解せざる愚民多く、時間の精確を守らざる等、全く相同じ。旧教の勢力あるも同一なり。某市街にて人口十万に対し、寺院七十カ寺を有する一例を見て推知するに足る。全国の人口一千三百六十万人のうち、百分の十九は白人種、百分の四十三は混血人種、すなわちスペイン人とインデアン人との混血なり。これを通常土人と称す。百分の三十八はインデアン人種なり。そのいわゆる混血種は、血色やや日本人に似たるあり。
 十五日、曇り。終日停船。風なくして暑気蒸すがごとし。夜に入りてことにはなはだしく、室内八十五度にのぼる。
 十九日、晴れ。午前七時より硫黄を焼きて室内を薫ぜしむ。その臭、鼻をつきて人を窒息せしめんとす。これ米国政府より命じて、船内に病者の有無にかかわらず、消毒法を励行せしむるなりという。余は生来はじめて、かかる狐つき虐待同様の場合を経験せり。午後二時出港。海上の清風はメキシコ滞船中の積累を一掃し去りて、気色蘇するがごとし。
 以下、「太平洋帰航日記」に入る。
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 明治四十四年十二月十六日、メキシコ・マンサニヨ港を出航し、六千マイル以上の太平洋を横断して、帰行の途に就く。
 十二月十七日(日曜)、晴れ。暁来陸影全く眼中に入らず、茫々たる太平洋上、ただちにハワイを指して進行す。
 十八日、晴れ。太平洋の所見を賦す。
詩嚢酒瓮客中※(「てへん+雋」、第4水準2-13-52)、探句檣頭酔欲題、米北米南雲断続、道黄道赤暑高低、波為堆処鯨能躍、船不到辺禽自栖、茫渺太平洋上路、家郷遠在夕陽西
(詩を入れる袋と酒のかめを旅中たずさえて、句を求めて帆柱に酔いしれつつ詩題にしようとした。アメリカの南北ともに雲が断続し、黄道赤道に暑熱は高低する。波の高いところに鯨がおどりあがり、船の到達できぬあたりに鳥は住む。ひろびろと広がる太平洋上の航路に、家郷は遠く夕日の西のかなたにあるのだ。)
 十九日、曇り。北風冷を送り来たり、朝気颯々としてにわかに秋に入るの感あり。今朝験温するに、室内七十三度、海水七十四度なり。夜来波ようやく高く、船少しく揺動す。
 二十日、曇り。北風波を起こし、波頭白を冠す。雲煙四涯をとざして、一望濛々たり。
 二十一日、曇り。二個の海鵝の風濤をわたり、船を追いて飛※(「皐+栩のつくり」の「白」に代えて「自」、第3水準1-90-35)するのほか、終日目に触るるものなし。船中徒然のあまり、シナ革命の一絶を賦して、同乗梁振華氏に贈る。
霹靂夜来天地轟、黄竜失墜満廷驚、暁窓傾耳聞人語、四百余州革命声。
(はげしくなる雷が夜どおし天地にとどろき、皇帝は失墜し清朝は驚愕す。あかつきの窓に耳をかたむけて人の話を聞けば、四百余州に革命の声があがっているとのことだ。)
 二十二日、曇り。夜来波さらに高く、甲板上に打ち上ぐること数回、船また横動し船病者を生ず。暁天雨を帯び、ときどき細雨来たる。
 二十三日、晴雨不定。たちまち日光を漏らすかと思えば、たちまち凄雨蕭々として至るあり。今朝、船まさしくメキシコとハワイとの中点にあり。
 十二月二十四日(日曜)、晴れ。ただし二、三回の少雨あり。午前、船中にて消火の演習を行う。風位東方に変じ、船を進むるによし。温度のぼりて七十六、七度に達す。波あれども高からず。ただ太平洋の中心たるをもって、その幅すこぶる大なり。暮天新月を望む。涼また船に満つ。
夕照入波波亦紅、望中得句嘯長風、南溟今夜涼如水、万里檣頭月一弓。
(夕日は波に照り映えて、波もまた紅く、一望のうちに詩句を得て、かなたから吹きよせる風にうそぶく。南の果ての今夜の涼しさは水の冷ややかさに似て、万里の海上に弓のごとき月が帆柱のかなたにかかっている。)
 二十五日、晴れ。当日はクリスマスなりとて、食堂に装飾を施す。午後、汽船に逢う。米国商船なり。晩食にはクリスマス・ディナーあり。食後、涼を納むる。
熱帯風無熱、太平洋不平、満船載涼去、蹴浪向檀洲
(熱帯の風には熱はなく、太平洋とはいえ平らかではない。船いっぱいに涼をのせてゆき、浪をけたてて檀州〈ホノルル港〉に向かうのである。)
 ハワイ・ホノルル港をシナ語にて檀香山という。よって、詩中に檀州の語を用う。
 二十六日、朝雨のち晴れ。夜に入りて一天雲なく、ただ一鉤の涼月を望むのみ。
 二十七日、晴れ。暑気にわかに加わり、盛夏のごとし。東風船を送ること連日に同じ。
日夜船窓望布哇、水天連処浪無涯、家書未到年将暮、好託東風客懐
(日夜船窓から布哇ハワイを望めば、海と空との連なるところに浪は果てしなく、家郷からの手紙もまだ届かぬうちに、年ははや暮れようとする。ならばよし、東風に託して旅人の感懐を伝えよう。)
 二十八日、晴れ。午後驟雨あり、晩に雷鳴を聞く。終日、船中餅つきをなす。元日の近づけるによる。当夜、ハワイ島の灯台を望む。
 二十九日、晴れ。早暁よりハワイの山を前後に見、十時半ホノルル港に入る。検疫すこぶる厳にして、六時間各室を封鎖して、硫黄を焼く。メキシコ港におけるよりもはなはだしく、その煙は目をつき、のどを刺す。俗に「目も口もあけられぬ」とはこのことならん。この日、シナ革命軍が共和政を執行し、孫逸仙大統領に推選せられたりとの電報に接し、当港シナ街にては、各戸新国旗を掲げて祝意を表す。船中よりハワイ島を望むに、厳冬の季節に近きも、山色蒼々として夏山に似たり。全島峰巒より成り、往々赤土を露出し、蔗田蕉園の多きは、わが小笠原島に同じ。
洋心一碧夾孤山、船入蔗田青処湾、冬日暖於春日暖、不寒不熱是仙関。
(太平洋のまっただ中に一つのみどりなす孤山をいだき、船はさとうきび畑の広がる青々とした湾に入った。冬の日であるのに春の暖かさよりもあたたかく、寒からず暑からずのここは仙境への入口かと思うほどである。)
 当夕七時、船を桟橋につなぐ。ときに明月清風窓に入り来たる。
布海波頭月、連檣影動揺、夜深人漸定、港上起涼飆
ハワイの海は波のいただきに月光がきらめき、連なる帆柱の影がゆれ動く。夜もふけるにつれて人影もようやく途絶え、港のあたりに涼しい風が吹きはじめたのである。)
 メキシコ・マンサニヨ港よりここに至る海程、三千十五マイルあり。
 三十日、晴れ。午前、金曜会幹事石田※(「金+圭」、第3水準1-93-14)吉氏、船中へ来訪あり。氏とともに上陸。領事館および領事官舎に至り、総領事上野専一氏に面会す。同氏の好意にて、当夕官舎において晩餐を設けらる。正金銀行支店長赤井氏にも面会す。食後、領事館楼上にて南半球周遊の報告演説をなす。聴衆百五十名、金曜会の主催にかかる。
 十二月三十一日(日曜)、晴れ。驟雨あり、のち晴る。上野総領事とともに自動車に同乗してワイパフ耕地に至り、日本移民の実況を視察す。各戸餅をつき松を飾り、元日の準備に汲々たり。全く日本内地の村落に入るがごとし。家屋は木造にして床高く、室内清潔、衛生に注意せる点は、南米移民の住宅の比にあらず。家族はウスベリを敷きて、日本服を着し、その上に団座す。帰路、某富豪の控邸に入り、純然たる日本建築を見る。数万円を費やせりという。午後、赤井氏の宅を訪問す。この日、往復三十四マイルに及ぶ。船中にて除夕を送るは今回をはじめとす。
 明治四十五年一月一日(元旦)、晴れ。朝、船中に新年拝賀式あり。船長の発声にて両陛下の万歳を三唱しおわり、雑煮を味わい屠蘇を傾け、さらに領事館に至りて新年の遥拝をなし、午後市外の散策を試み、水族館に入る。異様の魚類多し。また、他方面へも電車にて遊覧す。この日の行程また数十マイルに達す。当夕、帰船して所感を賦す。
熱海波頭寄客身、学禅未達歳将新、望中雲綻漏涼月、認得破顔微笑春。
(暑熱の波の上に旅の身をまかせ、禅を学ぶもいまだ悟りを得ずして新年を迎えようとしている。一望のうちに雲のすきまから涼しげな月の光がもれ、思わず顔をほころばせ、微笑をふくんで春を待つ心境とはなった。)
天地作家波作筵、太平洋上遇新年、我元生死海頭客、不怪佳辰身在船。
(天地を家とし波をしきものと考え、太平洋上に新年を迎えた。われはもとより生死を海にたくして旅客となり、それ故にこの佳き日に身を船中においているのである。)
平洋の島にやどりて春見れば、草花さきて青葉しげれり
鶯も鳴かずそあるらん島里は、春とはいへど梅もなければ
 異域の孤島にありて連軒旭旗の風に翻るを見るは、快もまたはなはだし。
 一月二日、晴れ。朝、石田氏と正金銀行支店に至り、各室を一覧す。銀行の新築としては最新式なりという。さらに赤井氏と同乗して、行くこと七マイル、名所かつ古戦場たるパリ峡に遊ぶ。背面の海浜および草野を一瞰し、風光明媚、眺望絶佳なり。ただ、峡間を通過する風力強く、帽を飛ばすの恐れあり。一帯の山勢は屹然として屏風のごとし。巌頭に古戦場の由来を刻せるを見る。帰路迂回して博物館に至り、館内を一覧す。本島および南洋諸島の土人の、衣食住および風俗に関する遺物を陳列せるあり。午時、領事館にて金曜会員とともに撮影し、かつ総領事とともに午餐を喫し、ハワイ中学校に移りて講話をなす。聴衆百余名、本願寺出張所長今村恵猛氏の主催なり。当夕は赤井氏宅にて晩餐を饗せらる。食後、さらに中央学院に至りて妖怪研究の結果を演述す。聴衆満堂約三百名に及ぶ。勝又英次郎氏その校長たり。
 三日、晴れ。石田氏とともに監獄を一覧す。獄内広からず、設備可ならざるも、囚徒を遇することすこぶる寛なりという。日本人にて入獄せるもの六十余人あり。つぎに当地の中学校を参観す。校長スコット氏は今より三十年前、大学予備門の教師にして、余も二年間その教授を受けたることあり。午後、今村氏の案内にて望月料理店に至り、日本式の温浴をなし、かつ日本式の晩餐を喫す。すべての設備は、東京の料理店と毫も異なることなし。庭前には海水の岸頭を洗うありて、風光また佳なり。今夕満月なるも、淡雲ありて清朗ならず。
 四日、晴れ。午時、総領事の好意により、送別の午餐を授けらる。午後五時出航す。上野、赤井、今村、石田、勝又等の諸氏十余名の送行をかたじけのうす。夜に入りて一天片雲なく、明月ひとり皓々たり。
檀山去入有無中、船走斜陽影外風、万頃波頭雲不礙、一輪明月照荒洪
檀山ホノルルを去って有るか無きかの間に入る。船はななめさす陽光のうちを走り、光の外から風が吹いてくる。広々とした海波のかなたには雲一つなく、やがて一輪の明月が果てしない海を照らしたのである。)
 ハワイはまことに絶海の孤島にして、総面積六千四百五十四方マイルあり。これをわが台湾に比するに、約二分の一に当たる。人口十六万人のうち、種々の人種別あれども、日本人多数を占め、大約七万の日本人ありという。ホノルル港のごときは四万の人口中、半数は日本人なり。ゆえに、街上を見るに日本服を着たる婦人、列をなして来往す。時まさに新年にして、軒前旭旗と松竹を飾る家、いたるところに櫛比し、また海岸には漁船の旭旗を掛くるもの多く、一見日本の孤島に来たるの思いをなす。日本新聞も『布哇新報』、『布哇日日新聞』、『日本時事』の三種あり。
 また、当地労働者の毎年日本に送金する金額、大約一千万円と称す。したがって、日本人の勢力のいかんを知るべし。実にハワイは日本移民の一大成功場たり。気候は春夏秋冬の別なく、寒暖は平均を保ち、七十度より八十度の間を出でず、昼と夜との間も、二、三度の相異あるのみ。余の滞在中は日中七十七、八度、夜間七十四、五度なりしが、年中同様の気候なりという。これ、四時のうち夏のみありて春秋冬なしというべし。
 五日、晴れ。南風暑を送り来たり、寒暖計八十度にのぼらんとす。夜に入り雲月曚々たり。
 六日、晴れ。南風のために暑気やや強し。船は西南隅を指して西進す。潮流を利用するためなり。夜に入りて月またよし。
 七日(日曜)、曇り。風位東に変じて船を送り来たる。正午の暑気八十度に達す。午後四時ころより天候にわかに変じ、烈風急雨、天地ために暗し。この風浪の中に、海鵝のひとり飛揚せるあり。夜に入りて風収まり、雨もまたやむ。
檀香山外海、雲散水天青、皇国何辺在、西涯只見星。
檀香山ホノルルの外海は雲も散り果てて水と天とが青々としている。わが国はいったいどのあたりにあるのであろうか、西方のかなたにはただ星をみるばかりである。)
 八日、快晴。前夕の風雨、天地を洗い去りて廓然たり。しかして目に触るるものは蒼波のみ。この日、二十四時間に二百六十六マイルを航過せるは、チリ出航以来の最長里程なり。
 九日、晴れ。南風強きも波高からず。午後三時半、西経を出でて東経に入る。これより再び東半球の人となる。
冬暖太平洋上風、納涼薄暮倚※(「木+龍」、第4水準2-15-78)、何人不喜家郷近、身出西球已入来。
(冬なお暖かい太平洋に風が吹き、涼を求めてくれなずむ船のれんじまどに身をよせる。なんびとも家郷の近づくのを喜ばずにはおれまい。旅の身は西半球をすぎて、すでに東半球に入ったのである。)
 十日、西経より東経に移りたるために、九日よりただちに十一日に飛び越し、十日は零日となる。米国に往航するときには一日の余日を生じ、日本へ帰航するときは一日の空白を生ずるなり。
 十一日、晴れ。ただし驟雨あり。西北風つよく、船の進行を妨ぐ。今日より熱帯圏を出でて暖帯に入る。
 十二日、晴雨不定。朝時紅霓を見る。また、一鳥のいずれより来たりしか、雲天に高飛するあり。この日、船まさしくハワイと横浜との中央点に達す。冷気にわかに加わり、夏より秋に入るの心地をなす。寒暖七十二度なり。
 十三日、晴れ。逆風のために船の進行遅々たり。当夕、四百マイルを離れて、天洋丸より無線電信の通信あり。
連日空濛望不開、逆風捲海浪花堆、船長有報人欹耳、無線電伝音信来。
(連日こぬかあめにとざされて一望すれども明るさもみえず、逆風は海をまき上げるごとく波浪はたかい。船長のもとになにかのしらせが入って人の耳をそばだたせる。無線電信が通信を寄せてきたのである。)
 十四日(日曜)、晴れ。勁風前日に異ならずして、高浪一層はなはだしく、船縦動を継続す。ただし、幸いに天遠く晴れわたり、茫々無一物の南溟に、波頭白をひるがえすを見るもまた壮観なり。乗客みな指を屈して、終船の日の至るを待つ。この夕、一千五百マイルを隔てて落石局と無線電信を交換す。
 十五日、晴れ。逆風激浪いまだ収まらず、船は北緯二十八度にそいて西進す。涼味秋のごとし。今夕、さらに銚子局と無線電信の往復あり。
 十六日、晴雨不定。逆風のために船の速力鈍し。
 十七日、曇り。ときどき驟雨来たる。風波のために、一昼夜わずかに百四十六マイルを航進す。船長の語るところを聞くに、山下機関長行方不明、海中に投身せし形跡あり。これに加うるに、風波のために船行遅々たれば、石炭欠乏のおそれあり。よって、無線電信にて救助船を派遣することを本社へ請求したりし由。これをききて、乗客みな不安の色なり。
 十八日、晴れ。ただし二、三回の驟雨あり。風波少しく減ず。この正午、横浜をさる六百九十一マイルの地点にあり。寒暖は六十五度に下がる。
昨日は春、今日は夏かと思ふ間に、はや我国の冬は来にけり
 当夕、無線電信にて東京なる自宅へ向け延着を報知す。
 十九日、晴れのち曇り。午後より暴風雨となり、電光を見る。終夕眠るあたわず。
 二十日、晴れ。午前中暴風いまだやまず、午後に至りようやく収まりしも、波なお高く、船の揺動はなはだし。ただし船長の報告により、低気圧すでに去り、石炭も不足せざる見込み立ちたれば、救助船を謝絶せりというを聞きて、みな愁眉を開く。
 一月二十一日(日曜)、晴れ。午前より黒潮にかかるも、風静かに波また穏やかなり。午後細雨来たる。夕六時、房州長島の灯台望中に入る。乗客、喜色顔にあふる。夜十一時、相州観音崎下に停船す。
 二十二日、晴れ。八時横浜に入る。長途五万七十五マイルをつつがなく過了するを得たり。ときに検疫あり。九時、家族および安藤弘、鼎義暁両氏、本船に来たりて迎えらる。十時上陸、十一時新橋着。四、五十名の諸氏、余の安着を迎えて停車場内にあり。深くその友情の厚きを謝す。帰着の所感一首あり。
花四月上長途、看尽濠阿欧米都、帰到家山冬未遍、只驚霜雪満吾鬚
(花咲く四月を背にして長い旅路につき、豪州・アフリカ・欧米の都市をみつくした。帰って家郷の山川に至れば冬はまだゆきわたらず、ただ驚くべきことに霜雪のごとき白さが、いまやわがひげにみちていたのだ。)
 以上、すでに五万マイル余の紀行を記述しおわり、さらに余談として、前記に漏れたる韻文を掲ぐ。まず、今回世界周遊の目的は南半球の視察にあれば、その途上、余が耳目に触れたる名勝を集めて十二題を選定し、その風光を吟詠す。これ、余がいわゆる南球十二勝なり。すなわち左のごとし。
  一、木曜島暁嵐(濠洲)
船踰赤道濠南、熱帯風蒸暑不堪、驟雨夜来過木島、暁天涼気醸晴嵐
(一、木曜島の暁嵐(豪州) 船は赤道をこえて豪州南部に向かえば、熱帯の風は蒸すがごとくして暑さに耐えられぬ思いがした。にわかに雨が夜になって木曜島をよぎり、早暁の空には涼しい気配がみちて、晴天に山の気がかもし出されたのであった。)
  二、珊瑚洲秋濤(濠洲)
万里壮遊途未中、珊瑚州外夕陽風、衣寒自覚家郷遠、濠海秋濤連極空
(二、珊瑚州の秋濤(豪州) 万里を行く旅遊の道はまだなかばにもならず、珊瑚州のあたり夕日に風が吹く。着衣は寒くおのずから家郷から遠くはなれたことをさとり、豪州の海の秋のなみははるかな空の果てにつらなっている。)
  三、志度尼汽笛(濠洲)
地挟曲湾街路斜、濠東第一占繁華、千舟来去忙海織、汽笛声埋十万家。
(三、志度尼シドニーの汽笛(豪州) 地は湾を挟んで街路が斜めに走り、豪州東部第一の繁華な都市である。千艘もの船が去来するさまは織るよりも忙しく、汽笛の音は十万の家々をおおって響く。)
  四、米留盆落葉(濠洲)
耶水源頭牧野平、車窓五月聴秋声、無人落葉林間路、只見牛羊任意行。
(四、米留盆メルボルンの落陽(豪州) ヤラ水の源のあたりに牧野が平らかに広がり、五月の車窓に秋の声をききとる。人影もなく落葉しきりの林間の道をゆけば、ただ牛羊のみが気ままに歩いているのである。)
  五、奈達湾冬月(南阿)
竺海風波晩漸収、繋船一夜泊津頭、月光帯露山河白、冬満南阿十二州。
(五、奈達ナタール湾の冬月(南アフリカ) インド洋の風波は日暮れてようやくおさまり、船をつないで一夜を港のあたりにすごす。月光は露をふくんで山河も白々とかがやき、冬は南アフリカ十二カ国に満ちみちている。)
  六、喜望峰暮烟(南阿)
喜望一過波漸円、大西洋上海如筵、夕陽影裏山何去、只留殖民州外烟。
(六、喜望峰の暮煙(南アフリカ) 喜望峰をひとたびよぎれば波もようやくおだやかとなり、大西洋の海はむしろを敷きつめたように静かである。夕べの光のなかで山はいずれかに消え去り、ただ植民の地にたちのぼる煙がとどまるのみである。)
  七、伯剌爾[#「伯剌爾」は底本では「伯刺爾」]珈園(南米)
伯南九月試行吟、駅路春風暑已侵、一望鹿原闊如海、緑波万頃是珈林。
(七、伯剌爾ブラジルコーヒー園(南米) ブラジル南部の九月に吟詠の旅をこころみる。鉄道に吹く春風はすでに暑熱をふくんでいる。一望すれば鹿原(村名ガタパラ―鹿の意)の広きこと海のごとく、緑に波うつ広大な地はすべてコーヒー林である。)
  八、亜然丁牧田(南米)
晴風好日亜然丁、春満牧田天地青、行尽舞埃城外路、牛羊酔草睡烟汀
(八、亜然丁アルゼンチンの牧場(南米) 晴天に風の吹くほどよい日に恵まれた亜然丁アルゼンチン、春は牧場に満ちて天も地も青々としている。舞埃ブエノスアイレス市の郊外の道を行けば、牛羊が草に酔ったかのごとくけぶるようなみぎわにねむっている。)
  九、羅浪江春帆(南米)
羅浮江上暮春天、習習軽風仏暁烟、黄浪渺漫看不尽、白帆如鳥自翩翩。
(九、羅浪ラプラタ江の春帆(南米) 羅浮ラプラタ川のほとり晩春の空、そよそよと吹く風はあけがたのもやを払う。黄色な川波ははるかに広がって見きわめることもできない。白い帆は鳥の羽をひるがえすようにゆくのである。)
  十、安天山夏雪(南米)
林渓深処踞清陰、夏白安天一帯岑、対此千秋不磨雪、何人不起自彊心。
(十、安天アンデス山の夏雪(南米) 林や谷の奥深いところに清らかな陰がつくられ、夏なお白く安天アンデス一帯の峰々に雪が輝く。この千年も消えることのない雪について、なんびとも自彊の心をいだかざるを得ないであろう。)
  十一、摩世闌夜雨(南米)
千湾万曲繞群峰、夢裏不知狂浪衝、峡路終宵風雨暗、船窓全被冷烟封
(十一、摩世闌マゼランの夜雨(南米) 多くの湾がそれぞれ曲線を描いて峰々をめぐり、夢のうちの知らぬままに狂浪をつき破って船は進む。マゼラン海峡の航路は夜をとおして風雨にとざされ、船窓はすべて冷たいもやにとざされていたのである。)
  十二、三舎巷午雲(南米)
城外牧田春草抽、如碁点点是羊牛、摩天連岳明還滅、午下無風雲自流。
(十二、三舎巷サンチアゴの午雲(南米) 市外の牧草地に春の草が伸び、そのなかに碁石のごとく点々と見えるのは羊と牛である。天をさして連なるけわしい山々が見えたりかくれたりして、午後ともなれば風もなく雲はおのずから流れてゆく。)
 また、今回の世界周遊の順路に従い、春時横浜を出航して、冬時横浜に帰航するまで、経過せる途上吟十二首あれば、左に併録す。
    五言律十二首
  一、香港行
花春四月、孤客向西航、福建山明滅、台湾海短長、珠江舟似葉、香港峡如嚢、何物能消暑、開樽酌晩涼
(一、香港ホンコン行  花にそむいて春の四月に、孤独な旅人として西に向かって航海する。福建の山が見えたりかくれたりし、台湾の海はわずかなあいだにすぎる。珠江に浮かぶ舟は木の葉のように見え、香港のせまい海はふくろのようである。いったい何が暑さを消せようか、酒樽をあけて夜の涼を酌みとるのである。)
  二、呂宋行
夜来雷雨過、卜晴出峡間、日沈支那海、船泊呂宋湾、封月思佳句、隔雲望故山、群巒時隠見、知是悉南蛮。
(二、呂宋ルソン行  昨夜からの雷雨がとおりすぎ、晴天をえらんで海峡を船出した。太陽は支那シナ海に沈み、船は呂宋湾に停泊した。月に向かっては佳い詩句を思いめぐらし、雲をへだててはるかな故郷の山を望む。群れたつ山々が時には見えかくれし、これこそがすべて南蛮の地であると知ったのである。)
  三、濠洲行
客中春変夏、侵暑向濠東、孤島黄梅雨、遠洋赤道風、暮潮来漲碧、斜照散流紅、舟過珊瑚海、南山気象雄。
(三、豪州行  旅するうちに春から夏にかわり、暑熱をおかして豪州の東に向かう。孤島の黄梅に雨がふり、遠く洋上の赤道に風が吹く。夕暮れの潮はみどりにいろどられ、斜めさす陽光は紅色を流すようだ。舟は珊瑚海をすぎ、南の山の気象にはひいでたものがある。)
  四、濠洲客中
濠洲山海闊、六域自相分、一島千湾雨、五州万壑雲、天寒人跡少、風戦葉声聞、客裏秋将晩、荒庭菊独芬。
(四、豪州客中  豪州の山も海も大きくひろい、六地域はおのずとわかれる。島の多くの湾に雨がふり、五州の多くの谷間に雲が湧く。寒ざむとした空のもとに人跡もまれに、風はおののき木の葉のふれる音が聞こえる。旅中の身に秋はくれようとし、荒れた庭に菊だけがかおっている。)
  五、南阿行
濠向何処、前路白雲封、竺海四時夏、阿山六月冬、狂風吹不歇、激浪怒相衝、認港舟将入、依然喜望峰。
(五、南アフリカ行  豪州を去っていずこに向かうのか、前路は白雲にとじこめられている。インド洋は四季を通じて夏であり、アフリカの山は六月に冬となる。狂風は吹いてやまず、激浪は怒るごとくぶつかりあう。港をみとめて舟を入れようとすれば、そこはもとのままの喜望峰なのだ。)
  六、英国行
南阿舟解纜、望裏夕陽催、卓子峰将没、大西洋漸開、波山魚跋渉、風路鳥徘徊、北進三旬後、英巒入眼来。
(六、英国行  南アフリカの地で舟のともづなを解けば、一望のうちに夕陽にかわろうとする。卓子テーブル峰は早くも夕暮れのなかに沈みこもうとし、大西洋がようやく開けてきた。山なす波に魚が泳ぎゆき、風の路に鳥が飛びめぐる。北に向かって航進すること三十日の後に、英国の山々が視界に入ってきたのであった。)
  七、欧洲客中
旧欧天地、光風霽月饒、詩琴酒※(「てへん+雋」、第4水準2-13-52)帯、英独仏逍遥、瑞嶺夏留雪、極洋日照宵、欲南米勝、再駕大西湖。
(七、欧州客中  かつてなじみの欧州の天地は、光と風とはれた月とともに心をゆたかにする。詩と琴と酒をたずさえて、英・独・仏をきままに旅した。スイスの山峰には夏でも雪をとどめ、北極海では太陽が宵にもかかわらず照らす。南米の景勝を探し求めようと、再び大西洋航路に身を託したのであった。)
  八、南米行
客舟辞里港、風雨夏将深、仏海涼初湧、葡都暑尚侵、楼灯懸岬角、仙嶼臥洋心、一髪浮波際、伯東港上岑。
(八、南米行  客船はリバプール港より出て、風も雨も夏の深まりを知る。フランスの海で涼気を初めて覚え、ポルトガルの首都では暑熱はなお強かった。灯台のあかりが岬の一角にかかげられ、仙境を思わせる島が大西洋上に浮かんでいる。ひとすじの髪のごとく波のかなたにみえるのは、伯東港の上にそびえる峰であった。)
  九、南米東部客中
驚南米地、随処富源肥、伯野珈林鎖、舞城牧草囲、羅江湾是口、安岳雪為衣、天産蔵無尽、奈何人住稀。
(九、南米東部客中  驚くべきことに南米の地は、至るところ資源がゆたかである。ブラジルの野はコーヒーの林がつらなり、舞城ブエノスアイレスは牧草の地が広がっている。羅江ラプラタ湾をくちとすれば、安岳アンデス山脈の雪をころもとしよう。天然の恵みは無尽蔵であるが、どうして人の住むことが少ないのであろう。)
  十、南米西部客中
南米尽頭海、浪高舟路迷、法洲風颯颯、麻峡雨凄凄、三舎巷雲宿、跋波磯月栖、家山千万里、遠在太平西
(十、南米西部客中  南米の尽きるところの海は、浪高く航路に迷う。法洲パタゴニアでは疾風が吹き荒れ、マぜラン海峡では雨がすさまじく降りそそいでいた。三舎巷サンチアゴに雲やどり、跋波磯バルパライソを月はすみかとす。いまや家郷の山とは千万里も離れて、遠く太平洋の西にいるのだ。)
  十一、本邦帰航
太平洋上路、万里就帰舟、看過巴南峡、行吟墨士州、米山雲裏隠、布島浪間浮、挙首家郷近、灯台先入眸。
(十一、本邦帰航  太平洋上の航路、万里のかなたから帰りの船に乗る。巴南パナマ運河をみて、ゆくゆく墨士州メキシコに吟詠す。アメリカの山々は雲のうちにかくれ、ハワイ島は波のまに浮かんでいた。頭をあげて家郷の近きを感ずるに、まず灯台が目に入ってきたのだ。)
  十二、帰家偶成
春朝曾去国、冬晩此帰郷、赤道四回過、氷洋一度航、寄身幾天地、為客半星霜、欲吾無一レ恙、団欒挙寿觴
(十二、帰家偶成  かつて春の朝に国を去り、冬の夕暮れに故郷に帰ってきた。赤道を四たびもこえて、氷の海にひとたび航行す。身をどれだけの天と地に寄せたであろうか、旅客となって半歳をすごした。われの無事であることを祝おうとして、親しい者がつどい、祝福のさかずきをあげたのであった。)
 海陸総里程五万七十五マイル
    その内訳
海路総計  四万四千百五十六マイル
陸路総計  五千九百十九マイル
 これ、明治四十四年四月一日横浜を出航してより、四十五年一月二十二日横浜に帰航するまで、約十カ月間に跋渉せし海陸総里程なり。その細目、左のごとし。
    海路四万四千百五十六マイルの内訳
一、横浜よりホンコン、マニラ経由、豪州メルボルンまで  七千四十一マイル
一、ホンコンよりカントンまで往復            百九十マイル
一、メルボルンより諸港経由喜望峰まで          七千二百六十二マイル
一、喜望峰よりロンドンまで               六千百八十一マイル
一、北極海往復                     二千七百七十六マイル
一、英国リバプールより諸港経由リオデジャネイロまで   五千六百八十四マイル
一、リオデジャネイロより諸港経由ブエノスアイレスまで  一千二百四十二マイル
一、ブエノスアイレスよりフォークランド島、マゼラン
  海峡および諸港を経てバルパライソまで        三千二百九マイル
一、バルパライソより諸港経由カヤオまで         一千四百五十九マイル
一、カヤオよりサリナクルスを経てマンサニヨまで     二千六百七マイル
一、マンサニヨよりホノルルを経て横浜まで        六千五百五マイル
    陸路五千九百十九マイルの内訳
一、豪州内地汽車行                   百四十五マイル
一、欧州大陸汽車行(海峡渡船を含む)          二千八百五十八マイル
一、英国内地汽車行                   九百三十マイル
一、ブラジル国内地旅行                 一千十マイル
一、アルゼンチン国内地旅行               百八十九マイル
一、チリ、ペルーおよびハワイ内地旅行          七百八十七マイル
    (十マイル以内の短距離往復はこの中に算入せず)
 余の世界周遊は前後三回にして、
第一回は明治二十一年六月より二十二年六月まで。
第二回は明治三十五年十一月より三十六年七月まで。
第三回は明治四十四年四月より四十五年一月まで。
 第一回に歴遊せし国名、停留せし地名を左に掲ぐ。
米国およびカナダ(サンフランシスコ、ソルトレーク市、デンバー町、オマハ町、シカゴ市、ニューヨーク市、ナイアガラ)
英国(ロンドン市、リバプール市、マンチェスター市、オックスフォード町、ケンブリッジ町、ボーンマス町、ソールズベリー町、ヨーク町、ニューカスル町、その他これを略す)
スコットランド(エジンバラ市、グラスゴー市)
フランス(パリ市、ベルサイユ町、マルセイユ市)
ドイツ(ベルリン市、ドレスデン市、ポツダム町、ケルン町)
オーストリア(ウィーン市)
イタリア(ローマ市、チュリン市、ゼノア市、フローレンス市、ボローニャ町、ベニス市)
エジプト(アレクサンドリア、スエズ)
アラビア(アデン港)
インド方面(セイロン島、シンガポール港)
アンナン(サイゴン市)
シナ(ホンコン、シャンハイ)
 第二回の国名および地名
シナ(シャンハイ、ホンコン)
マレー半島(シンガポール、ペナン)
インド(カルカッタ、ダージリン、バガルプル、ガヤ、ブッダガヤ、ベナレス、アラハバード、ボンベイ)
アラビア(アデン)
エジプト(スエズ)
スペイン(ジブラルタル)
英国(ロンドン、ブライトン、へースティングズ、カンタベリー、ブリストル、バース、バーミンガム、チェスター、リーズ、ブラッドフォード、バルレー、イルクレー、リボン)
ウェールズ(バンガー、カーナーボン、スノードン)
スコットランド(エジンバラ、アバディーン、インバネス、ストラスペッフェル)
アイルランド(ダブリン、ベルファスト、ロンドンデリー、ポートラッシュ、ジャイアンツ・コーズウェー、ポータダウン)
フランス(パリ、マルセイユ)
ベルギー(ブリュッセル、アントワープ、オステンデ)
オランダ(ハーグ、アムステルダム、ロッテルダム)
ドイツ(ベルリン、ライプチヒ、ケーニヒスベルク、ウィッテンベルク、フランクフルト)
スイス(バーゼル、チューリヒ、ルツェルン)
米国およびカナダ(ニューヨーク、ボストン、ケンブリッジ、バッファロー、シカゴ、セントポール、シアトル、バンクーバー)
 第三回の国名、地名は今回の紀行中にあれども、一覧の便をはかりて左に表示す。
シナ(ホンコン、カントン)
南洋(マニラ)
豪州(シドニー、メルボルン、木曜島、タウンズビル、ブリズベーン、クロイドン、パラマッタ、ブライトンビーチ、サンドリンガム、ヒールズビル、ウィリアムズタウン、ホバート、オールバニー)
南アフリカ(ダーバン、ケープタウン)
アフリカ離島(ラパルマ、セントビンセン)
英国(ロンドン、リバプール、ストラトフォード、グランサム、ウールズソープ、グリムズビー、セント・ジャイルズ)
ノルウェー(クリスチャニア、トロンヘイム、トルガッテン、トロムセー、リンデン、ハンメルフェスト、ノールカップ、ボスコップ、ジゲルミューレン、オンダールスネス、モルデ、ベルゲン)
スウェーデン(ストックホルム、マルメ)
デンマーク(コペンハーゲン)
ドイツ(ベルリン、ライプチヒ、ミュンヘン)
スイス(チューリヒ、ベルン、ローザンヌ、ジュネーブ)
フランス(パリ、リヨン、ラ・ロシェル)
スペイン(ラ・コルニャ、ビゴ)
ポルトガル(リスボン、レキソス)
ブラジル(リオデジャネイロ、ペトロポリス、サンパウロ、ガタパラ、サントス)
アルゼンチン(ブエノスアイレス、チグレ、ラプラタ、リオサンチアゴ)
ウルグアイ(モンテビデオ)
フォークランド島(スタンリー)
チリ(サンチアゴ、バルパライソ、プンタアレナス、コロネル、タルカワノ、サンベルナルド、ベレケン、ロスアンデス、イキケ)
ペルー(リマ、カヤオ、クララ)
メキシコ(サリナクルス、マンサニヨ)
ハワイ(ホノルル、パリ、ワイパフ)
 第一回は余のいまだ詩をよくせざりしときなれば、一回も試吟せしことなかりき。第二回には船中徒然を慰めんと欲して、あらかじめ初学用の詩本を携え、初めて詩作を試み、数十首を得たれども、当時いたって未熟にして、詩句をなさざるもの多かりしが、今多少の増訂を施して、ここに付記することとなす。まず五言絶句を掲げて、つぎに七言に及ぶべし。その次第は旅行の順路による。
  船過台湾海峡(船は台湾海峡を過ぐ)
支那海南路、猶看皇国山、暮天雲宿処、一抹是台湾。
支那シナ海南の航路は、なお皇国の山をみるように思われる。夕暮れの空に雲のわだかまるところ、ひとなすりするほどの影は台湾である。)
  安南海上吟(安南アンナン海上の吟)
船窓日将午、風死暑如炊、食後呼氷菓、家山飛雪時。
(船窓にさす日差しは真ひるになろうとし、風はそよともなく、暑熱は炊くがごとくである。食後には氷菓子を注文したのだが、思えば家郷はいまや飛雪の時なのである。)
  新嘉坡舟中作(新嘉坡シンガポール舟中の作)
船走南溟上、晩来暑末収、雷声時送雨、涼月掛檣頭
(船は南のくろずんだ海上を走り、暮れがたの暑さはなお消えず、雷鳴のひびく時に雨をもたらし、涼しげな月が帆柱の上にかかったのであった。)
  船入彼南港(船は彼南ペナン港に入る)
西航已二旬、冬日暖於春、船入彼南港、満山緑葉新。
(西に航行することすでに二十日、冬の日にもかかわらず春の日よりも暖かい。船が彼南港に入れば、山には緑の葉が新しくおおい満ちていた。)
  望喜麻拉亜山喜麻拉亜ヒマラヤ山を望む)
竺北摩天雪、千秋照八紘、幾多雄岳裏、独占最高名。
インドの北部に天にせまって雪が見え、千年も天地八方のすみずみまでを照らしている。多くの雄大な山々のなかでも、ひとり最も高いという名称をほしいままにしているのである。)
  印度車行(印度インド車行)
沃野無辺際、通宵駕鉄車、長風三百里、載夢到伽耶
(肥沃な平野は際限もなく広がり、夜を徹して鉄道の客車にのる。三百里も遠いかなたから吹く風の中、車中の夢をむすぶ身をのせて伽耶ガヤに着いたのであった。)
  仏陀伽耶懐古(仏陀伽耶ブッダガヤ懐古)
遠来成道地、俯仰感何窮、正覚山前月、尼連河上風。
(遠く釈迦が悟りを開いた地にきて、大地をみ天上を仰いで感慨とどまるところなし。真正の覚悟に山の月は輝き、尼連ニレン河の上に風が吹く。)
  印度洋中作(印度インド洋中の作)
連日船揺動、波高貿易風、檣頭無触目、渺渺水連空。
(連日船はゆり動き、波は貿易風によって高い。帆柱のかなたなにものも目にふれず、渺々たる水が空に連なっている。)
  船泊亜丁港(船は亜丁アデン港に泊す)
船泊亜丁港、望迷紅海雲、熱風吹不歇、終日酔炎氛
(船が亜丁港に停泊し、望めば紅海の雲にまよわされる。熱をふくんだ風が吹きやまず、一日中ほのおのまがまがしさに酔わされたのであった。)
  蘇士晩望(蘇士スエズ晩望)
沙原連両岸、送暑去来風、蘇士船将泊、関山夕照紅。
(砂原が両岸に連なり、暑さを運んで風が去来する。蘇士に船は停泊しようとすれば、関のある山は夕日がくれないに照りはえている。)
  船入運河(船は運河に入る)
舟行遅似歩、海峡狭如川、埃及山何処、平沙望漠然。
(船の進むことゆっくりと歩みにも似て、海峡のせまいことはまるで川のようである。埃及エジプトの山々はいずこにあるのであろうか、平らな砂原がはるかに広がっているのをみるだけである。)
  地中海上吟(地中海上の吟)
日沈地中海、風定水如油、月下認山影、不知何処洲。
(日は地中海に没し、風もやんで海は油を流したようにおだやかである。月の光のもとに山影をみとめたが、そこがいったいどこの国であるのかわからない。)
  船入伊太利海峡(船は伊太利イタリア海峡に入る)
波入伊峡、船静好凭欄、雲嶂晩来霽、満天雪色寒。
(波を切りさいてイタリア海峡に入れば、船は静かにして好んでてすりにもたれて四方を眺める。雲は屏風のごとくたちはだかっていたが、夜になってはれ、天には雪もようの寒さがみちたのであった。)
  船中望伊山(船中にイタリアの山を望む)
風急舟行疾、伊山望裏遷、岸頭連麦隴、看訝鋪青氈
(風は強く吹いて舟もまた行くこと早く、イタリアの山々はみるまにうつってゆく。岸べは麦のうねが連なり、あたかも青い毛氈かとみあやまるほどであった。)
  馬耳塞港夜景(馬耳塞マルセイユ港の夜景)
電灯光底影、馬塞埠頭船、終夜忙来去、汽声破客眠
(電灯の光のもとに影がつくられ、馬塞マルセイユの埠頭の船は、一晩中いそがしく往来し、汽笛の音が旅客の眠りをさまたげるのである。)
  日拉達海門所見(日拉達ジブラルタル海門所見)
地中海門狭、石壁岸頭欹、峰頂砲台在、舞風英国旗。
(地中海での海峡はせまく、石の壁が海岸にそばだっている。山の峰のあたりに砲台がみえ、風に英国旗がなびいていた。)
  西班尼海望月(西班スペインの海に月を望む)
高浪蹴船去、勁風捲雪来、夜深雲漸散、檣頭月徘徊。
(高い浪が船をけりとばすような勢いで去り、強風は雪を巻きあげるように吹きよせる。夜もふけてから雲がようやくちぎれてゆき、帆柱の上のあたりに月がさしかかったのであった。)
  海上望英国(海上に英国を望む)
陸近潮流急、疾風送客舟、波間煙一帯、知是大英州。
(陸岸に近くなるにつれて潮の流れは速く、はやては客船を送るように吹く。波のまにひとすじの煙が望まれたが、これこそが大英帝国なのである。)
  竜動客中作(竜動ロンドン客中の作)
廷無河畔路、昼日暗風光、車馬忙於織、行人走欲狂。
廷無テムズ河畔の路は、まひるにもかかわらず風光とも暗い。車馬の往来は織るよりも忙しく、行く人の走るがごときは狂えるかと思うばかりである。)
  英国郊行(英国郊行)
車行竜動外、山遠望無辺、草色春如染、青青総牧田。
(車で竜動ロンドン郊外の地をゆけば、山を遠くみて果てもない。草の色にも春が染めあげるかのようにみえ、青々として広がるのはすべて牧場なのである。)
  英国東岸望仏海(英国の東岸にてフランスの海を望む)
館対仏南海、望中夕照収、星光波際見、点点去来舟。
(やかたはフランスの南海に向かって建ち、一望するうちに夕映えも消えた。星の光にきらめく波ぎわをみるに、点々として舟が去来するのである。)
  発英蘭愛蘭舟中作(英蘭イングランドを発って愛蘭アイルランドに至る舟中の作)
浦風晩来静、雲断月如環、船去汽烟起、忽埋英北山。
(浦に吹く風が夜になるにしたがっておさまり、雲の切れ間に月が円くのぞいた。船が去るにつれて煙がたちのぼり、たちまちに英国北方の山を埋めるのであった。)
  愛蘭客楼望蘇山(愛蘭アイルランドの客楼よりスコットランドの山を望む)
街路繞湾曲、波光入客楼、海天望窮処、一髪是蘇州。
(街路は湾の曲がれるにしたがってめぐるように走り、波のきらめく光が旅客の楼に入る。海と空の果てるところを望めば、ひとすじの髪のごとくみえるのはスコットランドなのである。)
  巴里偶成二首(パリ偶成二首)
孤客春風夕、来投巴里城、併看花与月、想起故園情。
(孤独な旅人が春風の吹く夕べに、巴里パリ市に来て身を寄せたのであった。そこでは花と月をともにながめて、遠い故国の風景を想いおこしたのである。)
巴里三春日、満城来往譁、珈琲店頭客、深夜未家。
(巴里の春三カ月の一日いちじつ、市内すべてが人の往来もかまびすしい。珈琲コーヒー店の前には客が席を占め、夜おそくまで家に帰ろうとはしないのである。)
  白耳義車行(白耳義ベルギー車行)
麦隴連蘭野、無涯白義州、車窓春雨暖、風過緑将流。
(麦畑のうねがオランダの野につらなり、白義ベルギー国は果てしない。車窓に春雨も暖かく、風よぎれば緑も流れんばかりである。)
  和蘭野望(和蘭オランダの野を望む)
車入和蘭路、海牙城外煙、夜来霖雨歇、春水漲低田
(車は和蘭の路に入れば、海牙ハーグ郊外は霞がたちこめていた。昨夜からの霖雨がやみ、春の水が低い畑にみちているのである。)
  訪拿翁古戦場拿翁ナポレオンの古戦場をおとなう)
鉄車破緑烟、麦色満春田、古戦場何在、岡頭獅子眠。
(汽車はけぶりたつ緑をつき破って走り、麦の色が春の畑にみちている。古戦場はいったいどこであるのか。岡のあたり獅子は眠る。)
  伯林即事(伯林ベルリン即事)
伯林初夏月、桃李競春栄、薄暮公園路、人傾麦酒行。
(伯林初夏の月、桃やすももが春に咲きほこっている。夕暮れの公園の路を、人々が麦酒ビールをかたむけつつ行くのである。)
  露国郊行(ロシア国の郊野を行く)
麦田欧北野、木壁露人家、五月春猶浅、寒林未花。
(麦畑のひろがる欧北の野に、木の壁をもつロシア人の家がたつ。五月の春はいまなお浅く、寒ざむとした林はまだ花さえつけていないのだ。)
  車入露都(車はロシアの首都に入る)
曠原闊於海、千里鉄車孤、一路天将暮、截風入露都
(ひろびろとした原は海よりも広く、千里をゆく汽車は孤独に走りつづける。ひとすじの鉄路に空はまさに暮れなずみ、風を切りさくようにしてロシアの首都に入ったのであった。)
  瑞西初夏(瑞西スイスの初夏)
駅路春風過、瑞山雪漸消、客楼人未満、湖畔夏寥寥。
(鉄道に春風がよぎり、スイスの山の雪もようやく消えた。しかしながら、旅館の客はなお多くなく、湖畔の夏は淋しげである。)
  米国新約克即事(米国新約克ニューヨーク即事)
港上万船留、岸頭屋作邱、入街堪仰望、三十二層楼。
(港のあたりには多くの船が繋留され、岸辺は家屋が丘を作りあげている。街なかに入れば仰ぎみる、三十二階建ての高層ビル。)
  北米車行三首(北米車行三首)
米野連千里、百花已尽時、車窓何所見、麦色緑無涯。
(北米の野は千里もつづくかと思われるほど広く、ときはもろもろの花のすでに散りおわる時節である。車窓にはいったい何が見られるかといえば、麦の緑が果てしなくひろがっているのである。)
米北湖頭路、鉄車日夜趨、茫茫望無際、何処是俄都。
(米北の湖のほとりの道、汽車は日夜走りつづける。茫々として眺めるも果てはなく、いったいどこが俄都シカゴであろうか。)
洛山三伏日、峰峰残雪堆、隔渓汽烟起、忽見鉄車来。
(ロッキー山脈の三伏の暑い日、峰々には残雪がうずたかくつもっている。谷川をへだてて汽車の煙があがると、たちまちにそれはやってきたのであった。)
 七言絶句は五言と意趣を同じくするもの多く、重複の気味あるも、左にその全部を掲ぐ。
火輪日夜走波間[#「火輪日夜走波間」はママ]、千里猶看皇国山、支那海南望将断、白雲宿処是台湾。
(外輪船は日夜波まを走りつづけ、千里も遠ざかったかと思われたがなお日本の山が見られた。支那シナ海の南のかたを望めばその終わるあたり、白い雲のわだかまるところが台湾なのであった。)
舟向太陽直下馳、安南海上暑如炊、欲涼食後呼氷菓、正是故山飛雪時。
(船は太陽の真下に向かってゆくがごとく、安南の海上は煮えるような暑さである。涼しさを求めて食後にアイスクリームを口にしたが、思うに故郷の山々はいまや飛雪の時節なのである。)
船泊竺洋東北関、連檣林立幾湾湾、晩雷送雨天如洗、涼月高懸赤道山。
(船はインド洋の東北関に停泊して、帆柱が林のごとく連なってほとんどの入り江を埋めている。日暮れて雷が雨をともなってすぎれば空は洗い流したようにきれいになり、涼しげな月が赤道上の山々のかなたにかかっている。)
雪峰巍立碧雲間、鎮圧閻浮幾万関、鶴林一夜煙散後、空留唯我独尊山。
(雪の峰があおみをおびて雲の間にそびえ、人間界のけがれをしずめおさえること幾万。沙羅双樹の林の一夜、煙の散り消えたのちは、ただ唯我独尊の山が残ったのであった。)
岳勢巍巍圧四陬、摩天積雪幾千秋、人間一接斯光景、豪気将呑五大洲。
(山の姿は高大で四方を圧してそびえ、天にとどかんばかりの積雪は幾千年を経たのであろうか。人のひとたびこの光景に接すれば、その豪快なること五大州をのみこむほどである。)
迦耶懐古欲眠難、早起回頭独倚欄、正覚山前残月淡、尼連河上暁風寒。
迦耶ブッダガヤにいにしえをおもえば眠ろうとしてねむられず、早く起きて四囲をみわたして独り欄干に身をよせる。正覚山の前に残りの月も淡く、尼連ニレン河のほとりに夜明けの風がさむざむと吹いているのである。)
卓然高塔抜林墟、堪喜世尊跡不虚、想起三千年古暁、明星光底認真如
(ぬきでてたつ高い塔は林の丘にそびえ、釈迦の遺跡がそのままであることを喜ぶ。想い起こせば三千年もいにしえの夜明け、明星の光のなかに真理を認識したのであった。)
古城依旧恒河辺、聞説如来転法輪、遺跡荒涼何足怪、魔風毒霧幾千年。
(古城は昔のままにガンジス川のほとりにたち、聞くところでは如来が法を説いて巡ったという。遺跡は荒れはてているがどうしてあやしむほどのことがあろうか、魔風と毒霧が幾千年も続いているのだ。)
檣頭回望気何雄、竺海波高貿易風、夕日沈時雲漸散、一痕月印碧空中。
(帆柱の先端より四方を一望すればなんと雄大なおもむきのあることよ、インド洋は波高く貿易風が吹きぬける。夕日の沈むころに雲はようやく消えて、一片の月が青い空に浮かんでいるのであった。)
高浪漲天船欲沈、長風捲雪昼陰陰、大人皆病児童健、始識無心勝有心
(高い波は空にもとどくかのごとく、船も沈むかと思われ、遠くから吹き寄せる風は雪をおびて、白昼であるのにうす暗い。おとなはみな船酔いに苦しみ、子供たちは元気である。そこではじめて無心であることが、なにごとか思う心にまさることを知ったのであった。)
海風吹断月如環、望裏迎英北山、汽笛一声驚客夢、輪船已在愛蘭湾
(海の風が吹きやんで月はまどかに見え、一望するうちに英国の北の山々を送り迎えて船は進む。汽笛一声は船客の夢を破り、外輪船はすでに愛蘭アイルランドの湾内に入っていたのであった。)
北游春夕泊津頭、愛海風光散客愁、雲水渺茫望窮処、青山一髪是蘇州。
(北の旅の春の夕べ港のほとりに宿泊すれば、アイルランドの海辺の風景は旅人の愁いを消すに価する。雲と水がはるかに広がる眺望の果てに、青山がかすかに見えるのはまさに蘇州スコットランドである。)
愛州無物与吾親、林野風寒未春、遥憶故園三月末、東台山下賞花人。
愛州アイルランドでは物と我とともにしたしむものとてなく、林野を吹く風は寒くまだ春のようすもない。はるかに故郷の三月の末を思い起こせば東台山のもとでは花をめずる人がいるであろう。)
愛蘭為客已三週、風雨凄凄気似秋、遺恨花期猶未到、尋春四月入威州
愛蘭アイルランドに旅客となってすでに三週間を経たが、風も雨もさむざむとして秋に似ている。残念ながら花開くの時期はまだ遠く、春をもとめて四月には威州ウェールズに入ったのだった。)
牧田草暖見春晴、牛馬倦遊晩有声、威海蘇山雲忽鎖、鉄車衝雨入英京
(牧草地の草は暖かく、春の晴天をみせて、牛馬は遊ぶにうんだかのように日ぐれに鳴き声をあげる。ウェールズの海もスコットランドの山もたちまちに雲にとざされて、汽車は雨のなかを英国の都に入ったのであった。)
汽笛声声破暁烟、水長山遠望無辺、平原一色草如染、不是麦田渾牧田[#「不是麦田渾牧田」はママ]
(汽笛の音があかつきのもやを破ってひびき、水は広びろとして山は遠く、望むも果てはない。平原はただ一色に緑に染まり、それは麦畑ではなくすべて牧野なのである。)
背山面海望悠悠、月色潮声入客楼、遥認波間星集散、灯台光底仏英舟。
(山を背後にして海に臨めば広々として、月の光と潮ざいの音が旅宿に入ってくる。はるかな波間に星影がちらちらと光り、灯台の光のなかにフランスイギリスの船がうかぶ。)
獅子岡頭一望平、江山何事動吾情、林風時有枝葉、似聴往年兵馬声。
獅子が岡ライオンヒルの上より一望すれば平らかに、江と山がなにごとかわが感情を動かすものがある。林を吹き抜ける風が時には枝葉を鳴らせて、かつての兵馬の音がきこえてくるようであった。)
街灯如昼伯林城、麦酒店頭杯幾傾、深夜往来人不断、夢余猶聴電車轟。
(街灯がまひるのように照らす伯林ベルリンのまちで、麦酒ビールを売る店頭で杯をいくども傾ける。深夜にいたるも往来の人が絶えず、夢のまにも電車のひびきがきこえてきたのであった。)
万里長途一物無、唯看春草満平蕪、車窓認得人烟密、汽笛声中入露都
(万里を行くながい旅路に目に留まるものもなく、ただ春の草があれはてた野に満ちているのをみるのみである。車窓から人々の生活の煙がさかんに見えたとき、汽笛をひびかせながらロシアの都に入ったのであった。)
満目青山雨後新、花光麦色已残春、壮游未脱風流癖、羅印河辺訪古人
(みわたすかぎりの青山は雨に洗われて緑もあらたにみえ、花の色や麦の色にもすでに春の名残を思わせる。この壮大な旅でもなお風流を求める癖からは抜けだせず、羅印ライン河のほとりにむかしの人の跡(ゲーテ・シラー)を訪ねたのであった。)
瑞山雨霽夏光清、駅路重重向仏京、桑野麦田看不尽、鉄車時破緑烟行。
スイスの山々は雨もあがって、夏の光もすがすがしく、鉄道をおもおもしく仏京パリに向かう。桑の野と麦畑がかぎりなくみえ、汽車は時として緑にけぶるなかを打ち破るように進むのであった。)
巴里街頭夜色明、電灯光入樹陰清、満城人動春如湧、酌月吟花到五更
巴里パリの街頭は夜もあかあかとして、電灯の光は樹の陰までもすっきりと見せている。街中の人々が往来し、春の気配は湧くように満ちて、月をめでて酒を酌み、花を吟詠して五更(五時)に至ったのであった。)
遅日暖風渓色濃、車窓一望洗塵胸、蘇山深処春猶浅、白雪懸天涅毘峰。
(春の日、暖かい風が吹いて渓の色も濃く、車窓より一望すれば、胸にたまった旅のつかれも洗われる思いがする。スコットランドの山の奥深いところは春のおとずれも遅く、白雪が天にあるような涅毘ベンネビスの峰がそびえている。)
客楼欄外大湖開、晨起先登百尺台、波上茫茫看不見、汽声独破暁烟来。
(客舎のてすりのむこうに大きな湖がひろがり、朝早くにおきてまずは百尺の台上に登って眺めた。波のかなたは茫々としてみえず、汽笛の音だけがあかつきのもやを破ってきこえてくる。)
雷雨洗天開暁晴、鉄車窓外夏光清、麦田薯圃茫如海、身在緑烟堆裏行。
(雷雨が天を洗うように降って、あかつきの晴れ間をひらき、汽車の窓の外は夏の日差しもすがすがしい。麦畑と薯畑が茫々と海のごとく広がり、わが身はそうした濃い緑のけぶるような中を行くのである。)
行尽湖西幾駅亭、保羅城畔客車停、朝来暑気如三伏、雷雨一過天地青。
(湖の西にあるいくつかの駅を行きすぎれば、保羅セントポール市に客車は停まった。朝からの暑熱はあたかも真夏のごとく、雷雨がひとたび過ぎて天も地も青みを増したのであった。)
洛山高処路崔嵬、七月雪残猶作堆、怪見前峰黒烟起、鉄車忽破白雲来。
ロッキー山脈の高所を行く路はけわしく、七月であるのに残りの雪はうずたかい。あやしいことに前方の峰のあたりに黒い煙の起こるのが見え、汽車が忽然と白雲を破るようにやって来たのであった。)
長程日夜鉄車奔、千里茫茫不村、加水米山雄且大、風光自作別乾坤
(長い道のりを昼も夜も汽車はひた走り、千里の果てまで茫々として村落を見ることもなかった。カナダの湖とアメリカの山々は雄大であり、風景はおのずから別の天地を形づくっている。)
 さらに長編をもって世界一周の順路を詠じたるものあれば、左にこれを録す。
志曾辞文字関、凝眸先認対州山、紅日沈辺或呉越、白雲宿処是台湾、数帯厦門山作浪、一条香港峡如嚢、安南海上風波悪、印度洋中日月長、舟入亜丁山漸見、路過蘇士暑将無、客身猶在地中海、夢境已開欧米都、花開巴里城頭路、月照倫敦橋下船、獅子岡頭尋古跡、海牙街上訪前賢、伊国三冬草已青、瑞山八月雲猶白、吟裏坐花維納春、酔余歩月伯林夕、露北野如烟海闊、大西波似乱山堆、看過米山加水勝、帰舟更向日東来。
(志を立てて日本に別れを告げ、眸をこらしてまず対馬の山をみる。紅い夕日の沈むあたりは呉かあるいは越の国であろうか、白い雲のとどまる所は台湾である。とりまくような厦門の山々は波のごとく、ひとすじの香港ホンコンのせまい海は袋のようである。安南の海上の風波はあらく、印度インド洋では長い日をすごした。船は亜丁アデンに入港してようやく山をみ、航路は蘇士スエズをすぎて暑熱はおさまる。旅の身はなお地中海にあるも、夢のなかではすでに欧米の都市をたずねる。花の咲きほこる巴里パリの街路、月の光のもと倫敦ロンドン橋で船を下りる。獅子が岡ライオンヒルのほとりで古戦場(ワーテルロー)の跡をたずね、海牙ハーグの街では先人賢者(スピノザの銅像)をおとなう。伊国イタリアの冬の三カ月は草もすでに青々として、スイスの山々は八月にもかかわらず白く雪が残っている。吟詠しつつ花をめでた維納ウィーンの春、酔っては月の下、伯林ベルリンの夕に歩いたのである。ロシアの北の野はけぶる海のごとく広く、大西洋の波は乱れたつ山のかさなるがごときであった。アメリカの山とカナダの湖水の景勝をみて、帰国の船はいまあらためて日本に向かって行くのである。)
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 豪州の学術界に関しては、今なお幼稚なりと評せざるを得ず。なかんずく哲学、文学に関しては、最も幼稚を極めおり申し候。
 大学はシドニー、メルボルン、アデレード、ホバートの四市に建設せられ、ブリズベーン市にも新設のことに決定しおり、各州に大学を設立する方針に候えども、そのいわゆる大学すなわちユニバーシティーは、わが高等中学程度くらいのものに見受け申し候。拙者の実際見聞せし大学は、シドニー大学とメルボルン大学との二校に候。メルボルン市には約十日間滞在せしにつき、教授にも会見し内部の情況をも聞き及び候うが、第一に文学や哲学の専門科これなく、ただアーツの科目の下にて論理学、哲学を兼修するに過ぎず。
アーツ科(古文学、歴史学、論理学および哲学、数学、近世語学)
 右の諸学を、一年を限りまたは数年にまたがりて履修する課程に候。しかして全科を修了するに三年間を要するのみに候。
 そのほか教育学、心理学、倫理学は別に二年間の教育科あれば、この方にて兼修する由に候。これを要するに、豪州の教育制度にては、初等小学より高等小学に入り、高等小学在学中に試験によりて大学に入り、三年間にて修了する程度なれば、そのいわゆる大学は、わが高等中学程度なること明了に候。
 ただし、実際の実験応用を主とする方面は、比較的進みおるように見受け申し候。なにぶん本州は新開の植民地にて、各都会みな最近五十年ないし百年の間に建設せられたる市街なれば、各州に大学の設立あるだけが、実に非常の長足の進歩と申すべきものと存じ候。
 ことに大学の建築のごときは、わが東京帝国大学以上の壮観を極め、各大学中に壮大なる図書館あるいは博物館を兼設せるがごときは、仰嘆せざるを得ず候えども、一般の人民の哲学思想に幼稚なるには、これまた驚き申し候。
 ある日、某市の紳士によりて組織せられたる倶楽部に出席し、数名の紳士と談話を交えたることありしが、拙者が哲学専門なりというを聞きて、哲学とはいかなる学問なりやとの尋問を起こすものこれあり。拙者はこれに答えて、人生の本源、宇宙の原始等を究明する学なりといいたれば、一人はこれを評してヤソ教の創世史と同一の学問なりといい、一人は歴史学に同じといい、あるいは地質学と同様なりという異説相起こり申し候。この一例によりて、哲学の知識の程度いかんを見るを得べしと存じ候。なにぶん本州は土地広く、人民少なく、事業多くして人手足らず、一方マイルに二人平均数なれば、目前の事業に追われて、悠然として明窓浄几の下に静座沈思する余暇これなし。したがって、人民の快活にしてよく活動しおるには、実に感心つかまつり候。将来の発展においても、大いに驚くべきものあらんと予想するところに候。
 本州の大学につき奇異なる現象は、女学生の多きの一事に候。メルボルン大学にては総計一千十三名の学生中、百六十一人は女学生に候。シドニー大学にては一千四百名の学生中、三百人は女学生なる由に聞き及び申し候。大学にかかる女学生の多きは無類ならんと存じ候。大学にてもその点を得意とせるものに見受け申し候。しかして女権は(婦人が選挙権を有するにもかかわらず)米国ほどに盛んならざるやに相見え、百般のことが英国三分、米国七分くらいの程度にて、英米の折衷と鑑察を下し申し候。(下略)

 その後、南インド洋七千マイルを横断して南アフリカへ直航。船客は約三百人乗り込みおり、これに船員二百人を加うれば、合計およそ五百人となる。その中にオーストラリア人、南アフリカ人、イングランド人、スコットランド人、アイルランド人の別あれども、要するに大英人種のみである。その中に僧侶二人、医師、軍人、教員、画工、新聞記者各一人ずつあり、その他は農工商にして、なかんずく会社商店の番頭、手代、鉄道土木の技師、技手の人が最も多いように見受けたが、その過半は父子夫婦または兄弟のごとき一家眷族を引きまとめて乗船しておるから、つまり人口五百人の一村落が海中に浮かんでおるようのものです。その人たるや三等船客と申すものの最下等の労働者でなく、中等社会および下等中の上等に属する方である。その多数の中には、日本は赤道の南にあるか北にあるかとたずねるものもあり、豪州と日本といずれが大なるやと問うものもあるくらいなれば、知識の程度の低いものも加わりておる。
 まず第一の奇談は、船中にて乗客の姓を印刷したる表を一同に配付せられたが、その中に拙者の名前がドクトル井上とありたるために日本の医者なりと誤解せられ、ある日、隣室に一時の眩瞑を起こしたる病人が起こり、拙者に向かい、「君は日本のドクトルというを聞いたが、チョット病人を診察してくれ」と頼まれた。拙者はこれまで諸方を旅行していろいろに誤解されたことあるも、医者と見られたことは今回がはじめてである。そのときに拙者の名刺を示し、「ドクトルには相違なけれども、ドクトル・オブ・メディシンにあらずして、ドクトル・オブ・フィロソフィーであるから、医術とは全く関係がない」といって断った。しかるに名刺には Dr. ph. と略記してあるために、ドクトル・オブ・フィジックスと解し、日本の物理博士と申した者もある。船客中には本職の医者が一人いたが、その姓をペーン(Pain)と称しておる。船中の評に、一切のペーン引き受け所という義であろうと申すから、拙者が「日本語ではドクトルは毒をとる意味である」と助言した。そうすると一同が、ドクトル・ペーンは和英相通じて医者相当の名であるとの評が起こった。つぎに、拙者の井上の字義はいかんとたずねられたるに対し、「英語にてアポン・ゼ・ウェルとでも訳すべき字である」と申したれば、ドクトル・アップ・ウェルとの異名を付けられた。
 また、船客中に一人のユダヤ人がおったが、拙者が哲学者であるというを聞きて、「哲学者中にスピノザと名づくる人物があるが知っておるか」とたずねたから、「スピノザは哲学者中の泰斗にして、拙者の平素崇拝しておる一人である。先年、わざわざオランダのハーグ市へ立ち寄りて、同氏の銅像を拝したこともある」と申したれば、ユダヤ人は得意になりて、「そのスピノザは元来ユダヤ人でありて、ユダヤ人中の大学者である」と説明して聞かせしもおもしろかった。
 船中にては各週日曜、朝夕二回礼拝式があるが、その主祭は船客中の僧侶二人が代わり合って引き受けることに相談がまとまった。一人は英国宗(チャーチ・オブ・イングランド)、一人はプレスビテリアン宗であるが、この二宗とも新教なれば、ともかくも一致ができる。しかるに旧教徒が船客の三分の一を占めておるが、新旧の間はなかなか一致がむずかしい。平素の交際にはなんらの隔てもないが、日曜のソルビスのときに判然と旗色が分かれ、新教徒はことごとく出席するも、旧教徒は一人もこれに加わらぬ。
 さきに、拙者が豪州シドニー客中に、旅行の目的に関し尋問を受けたるに対し、「滞在中、事情の許す限り宗教と教育との情態を視察したいものである」と答えたれば、その話がだんだん伝わりて、同市発行の滑稽雑誌に、英国宗の僧正とローマ教の僧正と互いに拳闘しておる図を掲げ、その中間に拙者が平座して、傍観しながらあきれておる図をそえてあった。
 つまり、豪州にては国教宗が新教諸派を代表して、旧教とたえず論争しておるらしい。信徒の数よりいえば、英国宗は百分の四十、ほかの新教諸派は百分の三十五、旧教は百分の二十五の割合にして、新教徒を合計すれば旧教の三倍に当たるも、信仰の度は旧教の方が強く、寺院の建築のごときは豪州いたるところ、旧教は英国宗をしのぐほどである。したがって、その両宗の間に大葛藤の暗潮があるらしい。
 かくのごとく両教徒が互いに反目敵視しておるにもかかわらず、その余情を決して平常の社交上に及ぼさず、新旧両教の可否優劣はもちろん、少しも信仰に関する話すらも言外せぬには実に感心した。
 ある日、英皇戴冠式を奉迎するにつき、英国宗の僧侶がロイヤルティーすなわち忠義という意味の演説をして一同に聴かしたが、その説明中に、「忠義は吾人の人生に処する正当の本務である」といい、その例証に、「しもべとしては主人に対して尽くすべき義務がある、子としては親に対して尽くすべき義務がある、夫としては妻に対して尽くすべき義務がある。これと同じく、国民としては国王に対して尽くすべき義務がある。これすなわちロイヤルティーである」と申した。
 この言をいい換うれば、夫は妻に対して忠義を尽くさねばならぬということになる。聴者はみな適当の例証と思っていたようなれども、拙者一人は、夫が妻に対する本務と、国民が国王に対する本務とを同視するは、奇怪千万と思った。
 この一例によりても、西洋と日本との人倫の説き方の相違が分かる。また船客中の教員が、「日本の高等教育を受けたるものはヤソ教を信じておるか」とたずねたから、拙者はこれに答えて、「わが国にはヤソ教にさきだちて理化学や進化論が学界に輸入せられたために、知識あるものはアグノスチックまたはエイシイストに傾いておる」と申した。そうするとその教員は、「それは奇怪である。理化学や進化論は有神論と一致しておるに、なにゆえに日本人はかかる軌道外に出でたるか」といい、なにやら疑念を抱いておるように見えた。彼らの教育社会ではどこまでも、ヤソ教の有神論は理化学や進化論と一致せるものと信じておるらしい。(下略)

 西洋の風俗にも長所と短所とがあり、わが国の習俗にも長短があるが、その要は、かれの長を取りてわが短を補うようにせねばならぬ。今回豪州行の船名は、郵船会社日光丸でありしが、その船長の話に、前回日本帰航の際、上等船客豪州人六十人乗り込み、その中に宗教家ありて日曜に礼拝式を行い、その席に集まりたる賽銭は、日本の慈善事業に寄付するとの申し出でであった。かくして四回の日曜に集まりたる総額は二百円に達し、これを赤十字社へ寄付したとの話を聞いた。かの国は金の安い国であるけれども、一体に公共慈善に関する事柄には金を出だす国風である。
 豪州より南アフリカへ渡る船中は、英人および豪州人のみなりしが、総数小児までを合すれば約三百人の乗客でありて、それがみな中等もしくは中等以下の社会である。客船がすでに三等乗客のみの設備なれば、上流の人の乗るはずはない。余が第一に感じたるは、よく活動する一事である。もとより船中のことなれば業務はないが、一刻も徒然としておることなく、朝起きてより夜寝るまで遊戯遊動に従事して、寸暇を余さぬほどである。西洋の諺に「よく働きよく遊ぶ」とはこのことであろう。
 また、平日はカルタ遊びやいろいろの勝負事に狂するがごとく熱中しておるが、今回は一度も金をかけて勝負を争いたるを見ざりしは意外であった。あるいは中等社会は上等社会より風儀のよい故か、また豪州に限りてしかるかは、余の判知しあたわざるところである。また、日曜日には一切勝負遊びをなさず、閑読静話のみにて一日を送り、船中粛然として声なきありさまなるには感心した。この点につきては、上等社会よりも中等社会の方のよきことが分かる。
 また、当日は午前夜分両度礼拝式があるが、旧教信者のほかはたいてい参席謹聴しておる。また、平日の運動にもなるべく多数共同して、規律正しくすることを好む風がありて、船中にて運動会を組織し、会長、幹事を選定し、これに一任して日々の遊戯の種類と時間とを定めしむるようにしてある。
 乗客中、男子にして酒をのまざるものは二、三人くらいのもので、ほかはみなよく飲むも、過飲泥酔は一人もなく、喧嘩口論も一回も聞かざりしは賞賛すべき美風である。また、晩食前には必ず顔を洗い、髪をくしけずり威儀を整え、また毎朝必ずひげをそるも美風である。室外に出でては、いかに暑き日にても決して肌を外に示さぬのもよき習慣である。
 子供もたくさん乗り込み、互いに気ままに遊んでおるが、トント喧嘩せぬのは妙である。船中の食事は子供の時間と大人の時間とが違う。子供の方は三十分ずつ前に食事するきまりである。食事すめば別席にて、親たちの食事の間、機嫌よく遊んでおる。五、六歳の幼児が、決してその間は親の許へ近よらぬのは実に感心である。
 以上は船中にて実視したる美風の一端を、紹介までに掲げたる次第である。

 豪州より南アフリカへ進航するに、旅費節減のために三等客船へ乗り込み、メルボルン市を出航して、喜望峰に入港するまで海路七千マイル、日数四週間の長途なれば、船中の奇談積んで山をなすほどである。その中の四、五の談片をここに掲げましょう。
 汽船は一万二千トンにして、一等客船なれども、その設備には一等二等なく、ただ三等のみである。ゆえに、その乗客は小児までを合すればおよそ三百人の多数なれども、みな中等社会もしくはそれ以下の白人と見て、その中には僧侶もあり、軍人もあり、医師もあり、教員もあれども、八、九分どおりは農工商の人である。なかんずく、商店の番頭、手代、土木の技師の人たちが多いように見受けた。まず船中の設備より申すに、日本の三等と違い、客室がありて、一人ずつの寝台が付いておる。一室内に四人入れと、八人入れとの二とおりに分かれておる。総計九十四室ありて、四百人をいるるべき寝台の設備がある。最初、日本より豪州まで、郵船会社日光丸の一等客に加わりたる慣習あるために、船内万事につきて不潔に感じたが、一週間を経過したる後は、その感じがなくなった。
 まず一室内八人室に、洗面器、コップ、尿器、各一個よりほか備えてない。朝起きるときには大混雑である。夜中は一個の尿器に八人分をたくわえるから、これまた大変だ。その器にふたがないから、風雨にて外窓を開くことのできぬ場合には、ずいぶん臭気、鼻を襲い来たる。室内の掃除は一週間一回であるが、南京虫のおらざりしは幸いであった。寝台は一室の四壁に、上下二段になりてできておる。しかして中央には、衣類をかける折れ釘がたくさん付いてあるから、八人の衣服はことごとくこれにかけてある。あたかも柳原の古着店のごとくに見ゆるは奇だ。靴みがきも洗濯も、みな船客自身でせなければならぬ。船の方では一切構わぬというきまりである。ゆえに船客はみな、靴墨から洗濯シャボンまで持参して乗りおるが、拙者は不慣れのためにその用意なく、少し閉口した。
 さて、食事のときは一層大混雑である。およそ食事の時間五分前から、ソロソロ食堂へつめかけ、鐘報を待ち構えておる。一食卓に十八人ずつ互いに向かい合わせて対座するが、給仕のボーイは一人である。しかしボーイの熟練には感心する。スープやほかの料理の皿に盛りたるものを、片手に七個くらい載せて勝手場より運びて来るに、船の波にゆられて、われわれは柱にたよらなくては歩き得ぬ所を、皿一つ落とさず、汁一滴こぼさずに運ぶのは、立派な曲芸である。幾杯かえても、たくさんの皿を少しも間違えぬのも感心である。食事は毎回二品くらいのもので、一品をなんべんおかわりしても差し支えない。拙者などはごく小食の方で、ほかの客は二倍くらいたしかにつめこむにも驚いた。日曜日の晩食に限りて果物が出るが、早く取らぬとすぐになくなってしまう。ジャガタラ芋は三度の食事ごとに卓上に積んである。毎日、朝から晩まで、この芋の皮ばかりむく役目のボーイがおる。その速やかなること、一分間に二十個の大芋の皮をむくこと容易である。これは芋むきボーイとでも呼ぶであろう。
 お茶またはコーヒーは朝食のときのみ差し出だし、昼食および晩食には一切差し出ださぬ。そこで乗客がみな、茶器、茶菓、紅茶、コーヒー、コーコー、チョコレート等、たくさん持参して載っておる。午後三時になると、おのおの己の室より茶菓、茶器を携え来たりて食堂に集まり、互いに己の菓子をほかの者に配付して、互いにモテナシをするありさまは、わが国の花見か遊山に、おのおの弁当を持参して、互いに配付しあうと同一である。また、ほかの客を招きて、己の茶を飲ましむることもときどきある。拙者は右ようのことは全く知らざるために、なんにも準備せずに乗船せしは、今回旅行の一大失策であった。
 乗客の衣服には、なんらの制限なく勝手次第なれば、十人十色である。婦人の寝巻に、日本服を着しいたるもの二人見受けた。カラーをつけておるものは一割くらいでありて、しかもその一割の九分どおりはゴム製カラーである。食堂のほかに喫煙室と読書室があるが、読書室は女子の占領、喫煙室は男子の専有の姿になっておる。そのほか甲板の上は男女共同の遊び場である。
 室内の喫煙は非常に厳重に取り締まりをなし、もしその禁を犯すものあるときは英国の刑法に照らし、十円の罰金かまたは一カ月の禁錮に処することを掲示してあるが、甲板上にタンツバを吐くことの禁制がないためにタンをはき散らす。その下に子供が寝たり、コロゲたりしておるのには、感心ができぬ。中には子供が甲板の上に小便しておるものあるが、それを見てしかりもせぬのは、奇怪である。
 入浴は勝手にできるようになっておるが、十分より長かるべからずの規則であって、着物をぬいだりきたりするに五分かかるから、実際の入浴時間は五分以内である。ゆえに垢を落とす時間がない。腰掛けはすべて板敷きであった。船中、一個の蒲団付きまたはトウ付きの椅子、腰掛けのなきには、痔持ちの拙者は閉口した。たびたび乗り慣れたる人は、自分用の椅子を持参しておる。
 食事は、はじめはマズイように感じたれども後にはオイシクなり、なかんずく、スープはいろいろの余りものを入れて煮出すとみえて、百味のあじを持っておるから非常にオイシク、毎度二杯ずつ傾けた。肉はあまり大切りにて、拙者のごとき歯の弱いものには閉口であった。
 それから毎日、昼夜にかけて遊技会、余興会がありて、なかなかにぎやかである。昼間は午前午後ともに、甲板上で遊技の競争がある。夜に入れば食事にて余興が始まる。日曜日のほかは一日も休みがない。拙者などは無芸であるから、約三十日の間傍観していたが、昼間は毎日、学校の運動会に招かれたと同様で、種々の競走を見た。その中で最もおかしく感じたるは、人が鶏のまねして闘うのと、猿の泳ぐまねをして競技したのである。そのほかの異風の競走は、わが国の運動会にて見たものと別に変わらない。競走の道具はことごとく船中にそなえてあるから、なんでもできる。
 ただ一つわが国にて見るべからざるものは、男が馬になり、女が騎手になりて競走したる一事である。男は馬のごとく、女を背上にのせながら、四足にて走りて競争するが、いかにも奇観であった。夜は余興会として、種々の隠し芸をする。あたかも寄席を見るようである。競走、競技、すべて賞与を与えることにきまっておるから、子供まで熱心になって競争する。その賞与金はときどき募集するが、おのおの競って出金するは妙だ。拙者も日本を代表して、金一ポンド(金十円)奮発して寄付した。
 つぎに、婦人の権力につきて一例を挙ぐるに、船客中に、生まれて三、四カ月くらいの赤子をつれて、夫婦ともに乗船したるものがある。毎日、亭主はその赤子をあるいは抱き、あるいは小さき行李に入れて、介抱しておるに、妻は勝手に、ほかの人々とカルタ遊びをして楽んでおるなどは、わが国において見るべからざる現象である。また、夫婦連れの中には、ほかの者と遊ばずして、終日夫婦同士のみにて、将棋やカルタを楽しみておるものもある。また、婦人しかも老婦人が、男子とともに甲板にて縄飛びをして遊んだり、男子のする運動は、女子もたいていこれに加わりて競争しておる。風俗の相違は奇態なものである。まず、船中の奇談はこれにてとめておきましょう。

底本:「井上円了・世界旅行記」柏書房
   2003(平成15)年11月15日 第1刷発行
底本の親本:「南半球五萬哩」丙午出版社
   1912(明治45)年3月10日初版
   1917(大正6)年8月20日四版
※〔〕内の編集者による注記は省略しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年8月29日作成
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