農村が町となり、ながめが好く空気もきれいなので、だんだん新しい家が出来て、住む人も多くなつて来た。町のひらけ始めた時分に出来た十軒ばかりの家は、それぞれ屋根の色がちがひ坪数もちがつてゐるが、どの家もみんなみづみづしい生垣で、庭に椿や海棠やぼけ、また木犀や山茶花なぞ植ゑてあり、門前の道は何時もきれいに掃かれてこの辺一帯は裕福なインテリ層のすまひとすぐわかる。その中の一軒に、六十四五のおばあちやんがたつた一人で暮してゐた。
 ずうつと前からここにゐる人で、前にはだんなさんも一しよだつたが、それは三四年前に亡くなり、一人の息子さんは結婚してもつと都心に近いところのアパートに暮してゐるといふ噂だつた。おばあちやんは時々は息子の家に遊びに行つて泊つて来るし、息子夫婦も日曜日にあそびに来ることもあつて、よそ目には愉しい静かな暮しと見え、八百屋や魚屋に買物に出かけるおばあちやんはわかい主婦たちに負けず元気であつた。或る日そのおばあちやんがゐなくなつてしまつた。近所の人たちもはじめ三四日は知らなかつた。となりの家では息子さんの所へ泊りに行つてるのだらう位に思つてゐたが、それきり帰つて来ず、窓も玄関も閉つたまま一週間になつた時、そこへ古いお友達だといふこれも隠居らしい人が訪ねて来て、隣家の奥さんと話をした。ひさしぶりで来たのにと残念がつて、それでは息子さんのアパートへ寄つてみませうと言つて帰つて行つた。その人のおかげでおばあちやんの不在がわかつて、息子さんはすぐ親類や知合の人たちに連絡してみたが、どこにもゐず、このごろ久しく会はないとみんなが言つた。おばあちやんの家はきれいに片づいて、食器は戸棚に、着物はたたんで乱ればこに入れてあり、どこへ出かけると書き残した紙きれもなかつた。やがて警察の手を借りて、親類も昔の出入りの人たちも総動員で東京じう探し廻つた。もしや途中で脳溢血になりどこかの病院にゐるのではないか、もしや急に気が変になつて近県の田舎にでも行つて迷子になつてゐるのではないか、彼等はありとあらゆる推理をはたらかして、別にあてどもなく探してみたが、彼女はどこにもゐなかつた。
 一月ほど経つて警察から知らせがあつて、両国の方のどこかの井戸に水死人があつたが、着物の様子でもしやと思はれる、来て見るやうにと言はれて、息子と近い身寄の人たちが行つてみると、正しくおばあちやんだつた。彼女はちやんと外出着に着かへて帯のあひだには、家出する少し前に息子から渡された一万六千円の紙幣がちつとも使はれずにちやんとしまつてあつて、遺言も何もないからどういふわけで死んだかも分らないといふ話だつた。葬式もその時世なりに立派に行はれて、おばあちやんは仏さまになり、おばあちやんの家にはその後息子さん夫婦が移つて来て住んでゐる。これは二年前の話である。
 ひそひそと近所の人たちの話すことでは、女といふものは、年寄でも若い人でも、たつた一人で暮してゐるとはかない気持になるものだから、おばあちやんも一人で生活することに倦きて欲も得もなくなり、死にたくなつて死んだのだらうと、まづそれよりほかに考へやうもなかつた。欲も得もなくなるといふ言葉は、疲れきつた時や、ひどく恐ろしい思ひをした時や、あるひはまた、お湯にゆつくりはいつて好い気持になつた時に味はふ感じのやうである。
 私は先だつてその家の横の道を通つた折、棕梠の樹のかげの応接間から、ピアノの音がきこえて来て、奇妙に悲しい気分になつた。あの人がこんなにきれいな家の人でなく、もつと貧乏なもつときうくつな生活をしてゐたら、死ななかつたらうと思つたのである。たとへば、今月はこれこれの金が必要だ、内職のお金がこれだけはいる、竹の子をすればいくらいくら手にはいるといふやうに計算を始めたら、その欲につられてそのお金のはいるまでは死ぬ気にはならないだらう。たとへ僅かの物でも手に持つことは愉しい。のんきな気もちで人から貰つた金では自分が苦労して取つた物ほどたのしい味がないやうだ。びんばふといふものには或るたのしさがある、幸福といふ字も当てはまるかもしれない。死んだおばあちやんはびんばふは知らないで死んでしまつた。
 むかしむかし、私が女学生の時分、(その時代にもびんばふ人は沢山ゐた)一週間に三度ぐらゐ寄宿舎のまかなひにお料理の手伝ひに行つた。そのまかなひに、一日に三度、朝昼晩と三人の小母さんが女中代りの手伝ひに来て、御飯をたき水を汲み食器を洗ひ、すつかり片づけて帰つて行つた。まかなひ夫婦もむろんよく働いたが、その手伝ひたちのゐることが一日の仕事をきちんと手際よくかたづけて、彼等は来るたびに各自が小さいお櫃ときりだめを持つて来て、生徒たちの残飯をお櫃に入れ、おさいの残り物をきりだめに入れて帰つてゆく。それが彼等の一日の働きのお礼なのだつた。家にはそれぞれ若夫婦や子供たちがゐて、充分に食べてゆくのは骨であつたが、かうやつて小母さんたちが持ち帰る三度の物は一家の生活に大きなうるほひを与へてゐた。その人たちはみんなが麻布十番のうら街から通つて来た。私は子供ごころに彼等を見て、愉しさうだと思つた。じつさい、たのしく働いてゐたやうである。もう若くない人たちが働く仕事を与へられるのはこの上もない幸福であることを、若い人たちは知らないだらう。
 亡くなつたおばあちやんは働きをする必要もなかつたけれど、たとへ紙一枚ほどの事でも働かせて上げたかつた。
 先だつて或るをぢさんのわかい時分の話をきいた。彼がまだ十八九でラムネの配達をしてゐた時分のこと、あたらしいラムネのびんを配達して、からのびんを取つて来るのださうで、それは牛乳配達にも似てゐるけれど、牛乳のやうに個人の家にもつて行くのでなく、駄菓子屋や氷屋の店に相当の数を問屋から届けるのである。少年であつたをぢさんは毎夕きまつて鮫ヶ橋の道を通る。東京の貧民窟として有名だつた鮫ヶ橋はこの上もなくごたごたと賑やかな所だつた。橋のたもとに大きな酒屋さんがあつて(今もあるだらうと彼は言つてゐた)、夕方になるとその酒屋では店の前に大きな台を出して、味噌を一銭二銭三銭と竹の皮包にして台の上にならべて置く。ちやうどその時分鮫ヶ橋の住人たちは職人も人夫もだれもかれも一日の賃金をもらつて帰つて来る。そしてその店で一日の賃金の中から一銭でも二銭でも勝手に味噌を買つてゆく。三銭以上はちやんと目方をかけて見てから包んでくれたさうだが、一日分のおみそ汁には三銭以上なんて不用の時代であつた。いま、街の店々に十円二十円三十円のピーナッツの袋や乾物の袋が並べてあるのは、その時分の一銭二銭三銭からはじまつた事だらうと彼は言つてゐた。落語に出てくる長屋の連中と大家さんと御隠居の組合が思ひ出される。鮫ヶ橋のかれらの生活は、びんばふはびんばふなりに明るく幸福だつたのだらうと考へてみた。自分たちのびんばふは人のせゐでなく、自分たちの運なのだと思つて、別に腹もたてず、のんきに安住してゐたのである。私は羨むともなく、その昔の彼等をなつかしく思ふ。
 かういふ夢の寝言みたいな私の感想をある人が聞いて「あなたはびんばふの本当の味を知らないから、そんな夢を見てゐるのですよ。赤貧洗ふが如しといふその赤貧の本当のびんばふ加減を知つてゐますか? 米もなし、おさいもなし、味噌もなし、炭もなし、むろん一枚の紙幣もなし、竹の子に出す一枚の着物もなし、電燈料が払へないから夜は真暗で寝るし、夏になつても蚊帳がなし、病気になつても薬が買へないと、ない物づくしの生活を赤貧といふのです。お世辞にもびんばふは愉しいと言へるはずはありません」と彼が言つた。それは正しい。赤貧の境地にはずつと距離のあるびんばふだけを私は知つてゐる。雑誌が買ひたくても来月までは一冊も買はない。或る人にいろいろとお世話になつても何も贈物が買へない。白米の御飯がたべたくても外米をありたけ食べ続ける。庭の椿が枯れかけてゐるけれど今月は植木屋を頼まない。これはたぶん赤でなくピンクいろぐらゐのびんばふなのだらう。このピンク色の世界に住むこともずゐぶん苦しいけれど、びんばふだからいざ死なうといふ気にはなれない。私は欲も得もすつかりは忘れきれない人間だから、懐中になにがしかのお金を持つてゐれば、そのお金のあるあひだは生きてゐるだらう。赤貧となつては、土に投げ出されたお池の鯉のやうに死ぬよりほか仕方があるまい。死ぬといふことは悪い事ではない、人間が多すぎるのだから。生きてゐることも悪い事ではない、生きてゐることをたのしんでゐれば。

底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:伊藤時也
2010年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。