「ここもなかなか暑いね」道太は手廻りの小物のはいっているバスケットを辰之助にもってもらい、自分は革の袋を提げて、扇子を使いながら歩いていた。山では病室の次ぎの間に、彼は五日ばかりいた。道太の姉や従姉妹や姪や、そんな人たちが、次ぎ次ぎににK市から来て、山へ登ってきていたが、部屋が暑苦しいのと、事務所の人たちに迷惑をかけるのを恐れて、彼はK市で少しほっとしようと思って降りてきた。
「何しろ七月はばかに忙しい月で、すっかり頭脳をめちゃくちゃにしてしまったんで、少し休養したいと思って」
「それなら姉の家はどうですか。今は静かです」
「さあ」道太の姪の家も広くはあるし、水を隔てて青い山も見えるので、悪くはないと思ったけれど、未亡人の姪が、子供たちと静かに暮らしているので厄介になるのも心苦しかった。
「とにかく腹が減ったね」
「え、どこか涼しいところで風呂に入って御飯を食べましょう。途中少し暑いですけれど、少しずつ片蔭になってきますから」
それから古道具屋などの多い町を通って、二人は川の縁へ出てきた。道太が小さい時分、泳ぎに来たり魚を釣ったりした川で、今も多勢子供が水に入っていた。岸から綸を垂れている男もあった。道太はことに無智であった自分を懐いだした。崖の上には裏口の門があったり、塀が続いたりして、いい屋敷の庭木がずっと頭の上へ枝を伸ばしていた。昔から持ち続いた港の富豪の妾宅なぞがそこにあった。
「あれはどうしたかね、彦田は」
「ああすっかり零落れてしまいました。今は京都でお茶の師匠をしているそうですが……」
道太は辰之助からその家にあった骨董品の話などを聞きながら、崖の下を歩いていた。飯を食う処は、その辺から見える山の裾にあったが、ぶらぶら歩くには適度の距離であった。道太はいたるところで少年時代の自分の惨めくさい姿に打つかるような気がしたが、どこも昔ながらの静かさで、近代的産業がないだけに、発展しつつある都会のような混乱と悪趣味がなかった。帰るたびに入りつけた料理屋へついて、だだっ広い石畳の入口から、庭の飛石を伝っていくと、そこに時代のついた庭に向いて、古びた部屋があった。道太は路次の前に立って、寂のついた庭を眺めていた。この町でも別にいいというほどの庭ではなかったけれど、乾いた頭脳には、じじむさいような木石の布置が、ことに懐かしく映るのであった。
「少し手入れをするといいんですけれど」辰之助はそう言って爪先に埃のついた白足袋を脱いでいたが、彼も東京で修業したある種類の芸術家なので、この町の多くの人がもっているようなお茶の趣味はもっていた。骨董品――ことに古陶器などには優れた鑑賞眼もあって、何を見せても時代と工人とをよく見分けることができたが、粗野に育った道太も、年を取ってからそうした東洋趣味にいくらか目があいてきたようで、もし金があったら庭でも作ってみたいような気持にたまにはなることもあった。
料理を誂えておいて、辰之助が馴染の女でも呼ぶらしく自身電話をかけている間に、道太は風呂場へ行った。そして水をうめているところへ彼もやってきた。
「去年の九月を思いだすね」道太は湯に浸りながら言った。
「さよさよ。あの時はどうも……」
去年のあのころ、道太の頭脳はまるで鉄槌で打ちのめされたようになっていたので、それを慰めるつもりで、どうせ今日は立てないからと、辰之助は彼をこの家へ引っ張ってきた。それは四日の日で、道太は途中少し廻り道をして、墓参をしてから、ここへやってきた。そして大きな褄楊枝で草色をした牛皮を食べていると、お湯の加減がいいというので、湯殿へ入っていった。すると親類の一人から電話がかかって、辰之助が出てゆくと、今避難者が四百ばかり著くから、その中に道太の家族がいるかもしれないというのであった。道太はおぼつかないことだと思いながら、何だか本当に来るような気がして、あわててお湯を飛びだした。誰々がここまで来る幸福をもっているだろう。それでも生き残った二人か三人を迎えることができるかしら――彼はそんなことを思いながら、ぽつぽつ落ちてくる雨をくぐって、気ばかり駅へ急いだものであった。道太は湯に浸りながら、駅で一人一人救護所へ入っていった当時の避難者の顔や姿まで思いだすことができた。
「今日の容態はどうかしら」道太は座敷へ帰ってから、大きな鮎の塩焼などに箸をつけながら、兄が今ごろどうしているかを気づかった。
「さあ、後ほど電話できいてみましょう」そう言って辰之助はどっちり胡坐を組んで、酒を呑んでいた。
そこへ女が現われた。おひろといって、道太も子供の時から知っている女であった。その家も少年のおり、父につれられて行きつけていた。道太の祖父の代に、古い町家であったその家へ、縁組があった。いつごろそんな商売をやりだしたか知らなかったが、今でも長者のような気持でいるおひろたちの母親は、口の嗜好などのおごったお上品なお婆さんであった。時代の空気の流れないこの町のなかでも、こんな人はまた珍らしかった。小柄なおひろはもう三十ぐらいになっている勘定であった。
「お久しぶりですね」おひろは瘠せた膝をして、ぴったりとそこに坐った。
「相変らず瘠せているね。やっぱり出てるんだね」道太は浅黒いその顔を見ながら話しかけた。
「ええ、効性がないもんですから、いつお出でたんですの」おひろは銚子を取り上げながら辰之助に聞いたりした。
「伯父さんの病気でね」
「ああ、松山さんでしょう。あの体の大きい立派な顔の……二三日前に聞きましたわ。もう少し生きていてもらわんと困るって、伊都喜さんが話していらしたわ」
伊都喜というのは、道太の兄のやっている会社の社長の弟であった。
それからその一家の経済的窮状や、死活問題の繋っている鉱山の話などしながら、次ぎ次ぎに運ばれる料理を食べていた。
おひろの家へ行ってみると、久しく見なかったおひろの姉のお絹が、上方風の長火鉢の傍にいて、薄暗いなかにほの白いその顔が見えた。涼しい滝縞の暖簾を捲きあげた北国特有の陰気な中の間に、著物を著かえているおひろの姿も見えた。
「おいでなさい」お絹は二人を迎えたが、母親とはまた違って、もっときゃしゃな体の持主で、感じも瀟洒だったけれど、お客にお上手なんか言えない質であることは同じで、もう母親のように大様に構えていたのでは、滅亡するよりほかはないので、いろいろ苦労した果てに細かいことも考えるようになってはいたが、気立ては昔し踊り子であったころと少しも変わらなかった。
道太はこの子の踊りを見たことはなかったけれど、七八つ時分から知っていた。秋祭の時、廓に毎年屋台が出て、道太は父親につれられて、詰所(検番)の二階で見たことがあったが、お絹の母親は、新調の衣裳なぞ出して父に見せていたことなどもあった。今はもう四十五六にもなって、しばらくやっていた師匠を止めて、ここの世話をやきに来ているのであったが、地蔵眉毛が以前より目立って頬は殺げたけれど、涼しい目や髪には、お婆さんらしいところは少しもなかった。丈はすらりとした方だが、そう大きくもなく、姿態がほどよく整っていた。
道太たちが長火鉢に倚ろうとすると、彼女は中の間の先きの庭に向いた部屋へ座蒲団を直して、
「そこは暑いぞに。ここへおいでたら」と勧めた。
「この家も久しいもんだね。また取り戻したんだね」
「え、取り戻したというわけじゃないけれど、お母さんが長くつかっていた処ですから」
庭も、庭の向うに見える縄簾のかかった厠も、その上に見える離房の二階も、昔のままであった。十年も前にいったん人に取られたことは、道太も聞いていたが、おひろのまた下の妹が、そのころ別に一軒出していて、お絹は母親といっしょに、廓の外に化粧品の店を出すかたわら、廓の子供たちに踊りを教えていた。道太はそこへも訪ねたことがあったが、廓を出てからの親子は何となし寂しげに見えた。
「この家も古いもんや」辰之助は庭先の方に、道太と向かいあって坐りながら言ったが、古びていたけれど、まだ内部はどうもなっていなかった。以前廂なぞ傾いでいたこともあったけれど、いくらか手入れもしたらしかった。
「古びのついたところがいいね」
「もうだめや。少し金をかけるといいけれど、私の物でもないんですから」
「おひろさんのかね」
「ええまあ」
「僕はあすこにいて悪いかしら」道太は離れの二階を見上げながら言ったが、格式ばかりに拘泥っているこの廓も、年々寂れていて、この家なぞはことにもぱっとしない方らしかった。
「どこか静かで気楽なところをと思っているんだけれどね、ここならめったにお客もあがらないし、いいかもしれませんぜ」辰之助も言った。
「おいでなさい。離れでのうても、二階は広いから、どこでもかまいません」
「そうお決めになったらどうです。そうすれば荷物を取りにやりますから」
「そうしてもいいが、温泉へ行くとしたらどこだろう」
「ごく近いところで、深谷もこのごろはなかなかいいですよ」
「石屋ならいい座敷がありますけれど、あすこも割に安くつかんぞな」
「さしあたってちょっと触れたくない問題があるんでね。どうせ何とかしなくちゃならないにしても、今は誰にも逢いたくないんだ」道太はあの時病躯をわざわざそのために運んできて、その翌日あの大地震があったのだが、纏めていった姪の縁談が、双方所思ちがいでごたごたしていて、その中へ入る日になると、物質的にもずいぶん重い責任を背負わされることになるわけであった。それを解決したところで、今までのようにルーズな姉の生活と、無能な甥や、虚栄心の強い気儘な姪の性質を、根本的に矯正しない以上、何をしでかすか判らなかった。道太は宿命的に不運な姉やその子供たちに、面と向かって小言を言うのは忍びなかった。それに弱者や低能者にはそれ相当の理窟と主張があって、それに耳を傾けていれば際限がないのであった。
辰之助もその経緯はよく知っていた。今年の六月、二十日ばかり道太の家に遊んでいた彼は、一つはその問題の解決に上京したのであったが、道太は応じないことにしていた。今になってみると、道太自身も姉に担がれたような結果になっているので、人のよすぎる姉に悪意はないにしても、姪の結婚に山気のあったことは争われなかった。
「何しろあの連中のすることは雲にでも乗るようで、危なくてしようがない」
「ふみ江ちゃんが琴やお花のお稽古で、すましているものですから、先でも買い被っていたに違いないんです。東京へ言ってやりさえすれば、金はいくらでも出るようなことも言っていたようです。こっちには松山の伯父さんもいられるし、これもうんと力瘤を入れているように吹聴したでしょう」
「どうもそうらしいね。ふみ江のいけないのはむろんだが、姉にもそういうところはあるね。それに姉も先方の身上を買い被っていたらしいんだ。そこは僕も姉を信じたのが悪かったけれど、大変いいような話だったからね」
「ふみ江さんが片づきなすったんですか」お絹が訊いた。
「それでごたごたしているんだがね」
「あの方もいい縹緻でしたね。しばらく見ませんけれど、山やに商売に出ているお友だちがあって、ちょいちょいおいでた。その縁談がうまくゆかないんですの。そんなら逢うてお話してあげなすったらいいでしょうに。お婿さんはどんな方です」
「医大の生徒なんだ。どっちがどうだかわからないけれど、悪くいえばふみ江が引っかけようとした形さ。本当に引っかけたのならそれもいいけれど、そこがあやふやだから困る。もっともそれを見究めなかったのは、己にもあやふやなところがあるからだ」道太はそう思うと、この事件の全責任が道太に繋っているように言う一部の人たちの言草にも、厳粛にいえば、相当の理由のあることを認めないわけにいかなかった。
道太は温泉へ行こうか、ここに御輿を据えようかと考えていたが、そのうちに辰之助がかけた若い女が来たりして、二階へ上がって、前にも二三度来たことのある奥座敷で、酒を呑んでいた。常磐津のうまい若い子や、腕達者な年増芸者などが、そこに現われた。表二階にも誰か一組客があって、芸者たちの出入りする姿が、簾戸ごしに見られた。お絹もそこへ来て、万事の話がはずんでいた。
道太がやや疲労を感じたころには、静かなこの廓にも太鼓の音などがしていた。
離れの二階の寝心地は安らかであった。目がさめると裏の家で越後獅子のお浚いをしているのが、哀愁ふかく耳についた。
「おはよう、おはよう」という人間に似て人間でない声が、隣の方から庭ごしに聞こえてきた。その隣の家で女たちの賑やかな話声や笑声がしきりにしていた。
「おつるさん、おつるさん」こわれた器械からでも出るような、不愉快なその声がしきりにやっていた。
道太は初め隣に気狂いでもいるのかと思ったが、九官鳥らしかった。枕もとを見ると、舞妓の姿をかいた極彩色の二枚折が隅に立ててあって、小さい床に春琴か何かが懸かっていた。次ぎの間にも違棚があって、そこにも小さい軸がかかっていた。青蚊帳に微風がそよいで、今日も暑そうであったが、ここは山の庵にでもいるような気分であった。お絹はもう長いあいだ独身で通してきて、大阪へ行っている大きな子息に子供があるくらいだし、すっかり色の褪せた、おひろも、辰之助の話では、誰れかの持物になっていた。抱えは二人あったけれど、芸道には熱心らしかったけれど、渋皮のむけたような子はいなかった。道太はというと、彼は口髭がほとんど真白であった。彼をここへ連れてきたことのある、そのころの父の時代をも、おそらく通り過ぎていた。お絹の年をきいて、彼は昨夜驚いたのであった。道太の妻よりも二つも上であった。しかし踊りやお茶の修養があるのと、気質が伝統的に磨かれてきているのと、様子がいいのとで、どことなし落ち著いていた。辰之助の言うとおり、現在別に世帯をもっているおひろの妹と、他国へ出て師匠をしているお絹の次ぎの妹と、すべてで四人もの娘がありながら、家を人手に渡さねばならなかったほど、彼女たちの母子は、揃いも揃って商売気がなかった。
「いいわいね、お金ができれば持っていらはる」いつも気軽そうに長火鉢の前に坐っていた彼女たちの母親は、いつでもそういうふうであった。
「またいいこともある。悪いことばかりはないもんや」それも彼女の口癖であった。
実際また彼女の若い時分、身分のいい、士たちが、禄を金にかえてもらった時分には、黄金の洪水がこの廓にも流れこんで、その近くにある山のうえに、すばらしい劇場が立ったり、麓にお茶屋ができたりして、絃歌の声が絶えなかった。道太は少年のころ、町へおろされたその芝居小屋に、二十軒もの茶屋が、両側に並んで、柿色の暖簾に、造花の桜の出しが軒に懸けつらねられ、観客の子女や、食物を運ぶ男衆が絡繹としていたのを、学校の往復りに見たものであった。延若だの団十郎だの蝦十郎だの、名優の名がそのころ彼の耳についていた。金が夢のように費いはたされて、彼らが零落の淵に沈む前に、そうしたこの町相当の享楽時代があった。道太の見たのはおそらくその末期でしかなかったが、彼女はその時代を知っていた。
下へおりていくと、お絹が流しの方にいた。白い襦袢に白い腰巻をして、冬大根のように滑らかな白い脛を半分ほど出してまめまめしく、しかしちんまりと静かに働いていた。
「お早よう」道太は声かけた。
「お早よう。眠られたかどうやったやら」
「よく寝た」そう言って道太が高い流しの前へ行くと、彼女は棚から銅の金盥を取りおろして、ぎいぎい水をあげはじめた。そして楊枝や粉をそこへ出してくれた。道太は楊枝をつかいながら、山水のような味のする水で口を漱いだ。
「昨夜はお客は一組か」
「え、一組、四時ごろに帰ってしまいました」
「それじゃ商売にならんね」
「ならんわに」お絹はそう言いながら、かんかん炭をたいて飯をたいていた。幅一間ばかりの長い廊下で、黒い板がつるつる光っていた。戸棚や何かがそこにあった。
廊下つづきの入口の方を見ると、おひろがせっせと雑巾がけをしていた。道太は茶の室へ出ていって、長火鉢の前に坐って、煙草をふかしはじめた。
「みんな働くんだね」
「働かんと姉さん口煩いから」おひろは微声で答えたが、始末屋で奇麗好きのお絹とちがって、面倒くさそうにさっさっとやっていた。
箪笥や鏡台なんか並んでいる店の方では、昨夜お座敷の帰りが遅かったとみえて、女が二人まだいぎたなく熟睡していて、一人肥っちょうの銀杏返しが、根からがっくり崩れたようになって、肉づいた両手が捲れた掻巻を抱えこむようにしていた。
お絹は電話で、昨夜道太が行った料亭へ朝飯を註文した。
「御飯も持ってきてね、一人前」
それからまた台所の方にいたかと思うと、道太が間もなく何か取りかたがた襦袢を著に二階へあがったころには、お絹は床をあげて、彼の脱ぎ棄ての始末をしていた。
「ここもいいけれど、昼間は少し暗い」道太はそう言ってちょっと直しさえすれば、ぐっと引き立ってくるだろうと、そんな話をしかけた。
「そんなことも考えるけれど、私のものでもないんですから」
「誰のものなんだ」
「いったん人手に渡ったのを、京ちゃんの旦那が買ったんです。あの人はここへお金をかけるのは損だから、売ってしまおうと言っているんですけれど、何しろお母さんが長くやっていた所ですから」
「じゃ絹ちゃんが借りてやっているわけだね」
「ここのお神さんはおひろちゃんですよ。私は世話焼きに来ているだけなんです。いつまでこんなこともしていられないんです。働けるうちに神戸へ行って子供の守でもしてやらなければ」そして彼女は汚れた肌襦袢を取りあげて、
「これ洗濯に出してもいいんでしょう」
「そうね。出してもらおうか」道太は東京を立つ時から繃帯をしていた腕首のところが昨日飲みすぎた酒で少し痛みだしていたので、信州で有名な接骨医からもらってきたヨヂュームに似たような薬を塗りながら、
「お芳さんの旦那ってどんな人なの」
「青物の問屋。なかなか堅いんですの。旧は夜店で果物なんか売っていたんですけれど、今じゃどうして問屋さんのぱりぱりです。倶楽部へも入って、骨董なんかもぽつぽつ買っていますわ。それで芳ちゃんが落籍される時なんか、御母さんはああいう人ですから、いくらも貰わなかったんですよ。いいわいねといったいつもの調子で、だけれど、いい人なの。なかなか解っているんです」
「じゃまあ芳ちゃんは仕合せだね」
「でも旦那は躯が弱いから」
道太は掃除の邪魔をしないように、やがて裏梯子をおりて、また茶の室の方へ出てきた。ちょうどおひろが高脚のお膳を出して、一人で御飯を食べているところで、これでよく生命が続くと思うほど、一と嘗めほどのお菜に茄子の漬物などで、しょんぼり食べていた。店の女たちも起きだして、掃除をしていた。
「独りで食べてうまいかね」
「わたい三度の御飯は、どんなことがあっても欠かさずきちんきちん食べる方なの。御飯も三膳ずつに極めているの」
おひろは痩せた小さい体の割りには、声がりんりんして深みがあった。それに後で気のついたことだが、四人の姉妹のうち一番頭脳のいいのもこの子であった。
道太の食物が運ばれた時分には、おひろは店の間へ出て、独り隅の方で、トランプの数合せに没頭していた。お絹は手炙りに煙草火をいけて、白檀を燻べながら、奥の室の庭向きのところへ座蒲団を直して、
「ここへ来ておあがんなさい」と言うので、道太は長火鉢の傍を離れて、そこへ行って坐った。
「今日は辰之助を呼んで鶴来へでも遊びに行こうじゃないか」道太は言いだした。
「鶴来なら鮎もおいしいし、岩魚や鮴料理もありますよ」
「それからあの奥に吉野谷という仙境があるだろう。子供の時分遠足に行ったことがあるんで、一度行ってみようと思いながら、いつもどこへも行かずに帰ってしまうんだ。まだ山代さえ知らないくらいだ」
それから遊び場所の選択や、交通の便なぞについて話しているうちに時が移っていった。山嵐のような風がにわかに出てきて、離れの二階の簾を時々捲きあげていたが、それもひとしきりであった。お絹たちは京阪地方へも、たいてい遊びに行っていて、名所や宿屋や劇場のことなぞも知っていた。最近では去年大阪にいる子息のところへしばらく行っていたので、その嫁の姻戚でまた主人筋になっている人につれられて、方々連れて歩かれた。
「それじゃ辰之助さんに電話をかけましょうか」お絹自身はあまり悦びもしなかったが、行きたくなくもないふうで、そう言って電話をかけたが、辰之助は少し忙しいので、あまり進まないらしかった。道太も女連ばかりで行くのはいくらか気が差した。
いつの間にか電話をかけたとみえて、昨夜酒のあとで、辰之助が言いだした夏の季節の鯨餅という菓子が取り寄せられて、道太の前へ現われた。寒晒の粉のつぶつぶした、皮鯨に似た菓子である。夏来たことがめったにないので、道太には珍らしかった。
「おいしいかどうだか、食べてごらんなさい」
「これあうまい。いろんな菓子があるんだね」道太は一つ摘みながら言った。
それからむだ話をしているうちに、じきに夕刻になった。道太は辰之助が来てから何か食べに行こうと思って待っていると、やがて彼はやってきた。そして三人そろって外へ出た。おひろだけはお化粧中だったので、少し遅れてきた。
道太はすっかり御輿をすえてしまった。離れの二階は陰気だったけれど、奥の方の四畳半の窓の下へ机をすえれば、裏の家の羽目に鼻が閊そうであったけれど、けっこう仕事はできそうであった。
お絹はいつでもお茶のはいるように、瀟洒な瀬戸の風炉に火をいけて、古風な鉄瓶に湯を沸らせておいた。
「こんな風炉どこにあったやろう」道太を見に来た母親は、二階へ上がると、そう言ってその風炉を眺めていた。
「茶入れやお茶碗なんか、家にはずいぶんよいものもあったけれど、下の戸袋のなかへしまいこんでおいたものは、いつの間にかお客がみんな持っていってしもうて……」お絹はそんな話をしながら、
「軸ものも何やら知らんけれど、いいものだそうだ。たぶん山水だったと思う。それも辰之助が表装をしてやると言うて、持っていったきり、しらん顔をしているんですもの」
「蕪村じゃないかな」
「何だか忘れたけれど。今度そう言って持ってきてもらおうかしら」
それでも酒の器などには、ちょっと古びのついたものがまだ残っていて、ぎやまんの銚子に猪口が出たり、ちぐはぐな南京皿に茄子のしんこが盛られたりした。
お絹は蔭でそうは言っても、面と向かうと当擦りを言うくらいがせいぜいであった。少し強く出られると返す言葉がなくなって、泣きそうな目をするほど、彼女は気弱であった。いつかの夜道太は辰之助と、三四人女を呼んだあとで、下へおりて辰之助の立てたお茶なぞ飲んでいると、そこへ毎日一回くらいは顔を出してゆく、おひろの旦那の森さんがやってきて、電話をかけて芝居の場所を取ってくれた。
「先生、おひろもどうぞひとつ」森さんは道太に言っていた。
森さんは去年細君に逝かれて、最近また十八になる長子と訣れたので、自身劇場なぞへ顔を出すのを憚かっていた。
森さんはまたお茶人で、東京の富豪や、京都の宗匠なぞに交遊があったけれど、高等学校も出ているので、宗匠らしい臭味は少しもなかった。
鴈治郎の一座と、幸四郎の組合せであるその芝居は、だいぶ前から町の評判になっていた。廓ではことにもその噂が立って、女たちは寄るとさわると、その話をしていた。長唄連中の顔ぶれでは、誰れが来るとか来ないとかいうことも問題になっていた。観劇料の高いことも評判であった。
道太は格別の興味も惹かなかったけれど、ある晩お絹と辰之助とで、ほとんど毎晩の癖になっている、夜ふけてからの涼みに出て、月光が蛇のように水面を這っている川端をぶらぶらあるいていると、ふとその劇場の前へ出た。お絹はそういうときの癖で、踊りの型のように、両手を袖口へ入れて組んでいたが、足取りにもどこかそういったやかさがあった。
「ちょっと見てゆこうかね」道太は一度も入ったことのないその劇場が、どんな工合のものかと思って、入口へ寄って、場席の手入れや大道具の準備に忙しい中を覗いてみたが、その時はもう絵看板や場代なんかも出ていて、四つの出しもののうち、大切の越後獅子をのぞいたほか、三つとも揃って大物であることが判って、その盛りだくさんなのにいくらか興味を感じたので、つい一桝おごることにしたのであった。
森さんが電話をかけてくれた時分には、場所はたいてい約束済みになっていた。そして桝が四人詰であったところから仲間を誰れと誰れとにしようかと、そんな評定をしているうちにお絹が少し困った立場に立つことになってきた。女たちが三人行くことになれば、辰之助には気の毒なことになるし、辰之助を誘えば、誰かが一人ぬけなければならなかった。
「京ちゃんは自分で行けばいいのに」お絹は蔭で言ってはいたが、やはりお義理があるらしいので、面と向かっててきぱきしたことは言えなかった。
「辰之助が当然遠慮していいんだ。東京でいいものを見てきたのだから」道太は言った。
「そやそや、どっちか一人ぬければいいわけだわ。姉さん京ちゃんにそう言ったんですか」おひろは言った。
「私何だってそんなこと言うもんですか。でも京ちゃんはいっしょに行くことに決めているさかえ」
「だからいいじゃないか。辰之助にそう言っておけば」
「それも工合がわるい。あの人もいっしょに行くつもりにしているのやさかえ」
お絹からいえば、道太に皆ながつれていってもらうのに、辰之助を差し措くことはその間に何か特別の色がつくようで、気に咎めた。辰之助を除外すれば、色気はないにしても、慾気か何かの意味があって、道太を引きつけておくように、道太の姉たちに思われるのが厭であった。それでなくとも辰之助の母である道太の第一の姉には、お絹たちはあまり好感をもたれていなかったし、持ってもいなかった。それは辰之助が今は隣国で廓のお師匠さんをしている、お絹のすぐ次ぎの妹のお芳と関係していた時分からのことであった。二人のあいだには子まであった。お芳は一度は辰之助の家へ入ったけれど、母親との折合いがつかなかったので、やがて二度の勤めをするようになった。
それに今一つの理由としては、辰之助の妹婿の山根がついこのごろまでおひろと深い間であったことで、恋女房であった彼の結婚生活が幸福であった一面に、山根はよくおひろをつれて温泉へ行ったり、おひろの家で流連したりして、実家の母をいらいらさせた。最近山根は酒をやめた。そしておひろとも手が切れたけれど、どうかするとよその座敷などで、おひろは山根と顔を合わすこともあった。
それに辰之助も長いあいだ、ほとんど地廻りのようにこの巷に足を入れていて、お絹たちとはことに深い馴染なので、芝居見物のことなどで、彼の気を悪くさせるのも、あまり好ましいことではなかった。
道太にすれば、芝居はたいした問題ではなかった。誰れが行こうが脱けようが、それもどうでもよかった。しかし一人のお絹を連中から喰みだしてはならなかった。お絹なしには芝居見物はむしろ無意味で、怠屈で、金の濫費であった。お絹に働きかけてゆく気は、今の彼にはないといった方が確かであったけれど、お絹ほど好きな女は、どこにも見当たらなかった。もし事情が許せば、静かなこの町で隠逸な余生を楽しむ場合、陽気でも陰気でもなく、意気でも野暮でもなく、なおまた、若くもなく老けてもいない、そしてばかでも高慢でもない代りに、そう悧巧でも愚図でもないような彼女と同棲しうるときの、寂しい幸福を想像しないではいられなかった。
ある日の午後も、隣りの狂気鳥が、しきりにでたらめのを囀っていた。
三声五声抱えの芸名なんかを呼んでいたかと思うと、だんだん訳がわからなくなって、調子に乗ってぎゃあぎゃあ空虚な声で饒舌りつづけていた。
「またやっているな」道太は下の座敷の庭先きのところに胡坐を組んで、幾種類となくもっているおひろの智慧の輪を、そっと押入から出して弄っていた。その中には見たこともない皮肉なものもあった。鉄で作った金平糖のようなえらの八方へ出た星を、いくらか歪みなりにできた長味のある輪から抜き取るのや、象牙でこしらえた小さい角棒の組合せから、糸で繋いだ、それよりも小さい砕片を潜らせるのや、いろんなのがあった。おひろはそんな物が好きであった。トランプや花も好きであったが、本を読むことも彼女の日課の一つであった。
道太は暇つぶしに、よく彼女や抱えの女たちと花を引いたが、弱そうに見えるおひろは、そう勝ちもしなかったけれど、頭脳は鋭敏に働いた。勘定も早かった。その声に深みがあるように頭脳にも深みがあった。無口ではなかったけれど、ぶつくさした愚痴や小言は口にしなかった。常磐津の名取りで、許しの書きつけや何かを、みんなで芸者たちの腕の批評をしていたとき、お絹が道太や辰之助に見せたことがあった。
「なるほどね、二流三流どこは、こんなことをして田舎で金を捲きあげているんだね」道太はその師匠が配った抹茶茶碗を箱から取りだして撫でまわしていた。もちろん常磐津に限ったことではなかった。芸と品位とで、この廓は昔しから町の旦那衆の遊び場所になっていたが、近ごろはかえって競争相手ではなかった西の方の廓の方でも、負けを取らないくらいに、師匠の選択を注意していた。町の文化が東から西へ移ってゆく自然の成行きから、西の方のすばらしい発展を見せているのも、是非がなかった。
「ここは格式ばっているだけ損や」お絹は言っていたが、あながち絶望もしていなかった。
「さあ格式を崩したら、なおいかんじゃないかしら。東の特徴がまるでなくなってしまやしないかね」辰之助は言っていた。
「けれど少し腕のあるものは、皆なあちらへ行ってしまうさかえ」
「そうや。このごろでは西の方にどうしてなかなか美しい子がいる」
お絹の説明によると、おひろは踊りもひとしきり高潮に達した時期があって、お絹自身が目を聳てたくらいだったが、やっぱりいろいろな苦労があって、芸事ばかりにも没頭していられなかった。
「今の人はほんとに、ちょろつかなもんや。私に限らず、家の人はみな内気でだめなんですわ。あるだけのものを、どうしても働かしてゆけない運命にできているの。私たちに比べると、世間の人はそれこそしゃあしゃあしたもんや。私なんかそばではらはらするようなことでも平気や」おひろは珍らしく気を吐いた。
「いつ見ても何となしぱっとしないようだな」
「ぱっとできるようなら、今時分こんな苦労していませんよ。それでいいもんや。さんざ男を瞞した人の行末を見てごらんなさい。ずいぶんひどいもんや」
そしてお絹がそういう女の例を二つ三つ挙げると、最近客と京都へ行っていて、にわかに気の狂った近所の女の噂で、またひとしきり持ちきった。
道太は何をするともなしに、うかうかと日を送っていたが、お絹とおひろの性格の相違や、時代の懸隔や、今は一つ家にいても、やがてめいめい分裂しなければならない運命にあることも、お絹が今やちょうど生涯の岐路に立っているような事情も、ほぼ呑みこめてきた。そして一番寂しい道に立っているのは、何んといってもお絹であった。
道太は九官鳥が一生懸命にお饒舌をつづけているのを聞きながら、ついに果てしない寂しさに浸されてきた。お絹の話では、その九官鳥は、隣りの主人によって、満州か朝鮮から持ってこられたのであった。
「あれでも歌のつもりですよ。お稽古の真似や」
「己もだんだん長くなってしまったね。まだ誰もここにいるとは思っていないようだけれど」
「ちっとどこぞへ遊びにおいでたら」
「そうするとまたここへ訪ねてくるからね。この間も兄にきかれて困った。嫂はたぶん感づいていても知らん顔をしているけれど、嫂の兄さんがばかに律義な人でね、どこだどこだってしきりに聞くんだ」
「そんな秘し隠しをしなくともいいじゃありませんか。別に悪いところにいるというのじゃないし、女を買うわけでもないんですもの。山中なんかへ行ってるよりか、よほど安心なもんや」
「それにもうしばらく兄の容態も見たいと思っているんだ。今日いいかと思うと、明朝はまた変わるといったふうだから、東京へ帰って、また来るようなことになっても困る」
そのころ病人は少し落ち著いたところで、多勢の人たちによって山から降ろされて、自分の家の茶室に臥ていた。兄はしばらくぶりで、汽車の窓から顔を出している道太を見て、さも懐かしそうな目を見張った。
道太はその日も、しばらくそばについていたが、山にいた時からみると、意識はほとんど完全に恢復されていた。
「今どこにいるんだ」兄は道太に尋ねたりした。
「ええちょっと人を避けているんで」道太は笑いながら答えた。
道太はここにいてほしいような兄の気持は解ったけれど、一つ家に寝起きをしていれば、絶えず接近していなければならないし、人の出入りの多いのに、手数をかけるのも忍びないことであった。それに山でもそうだったように、看護や食べもののことについて、出すぎた世話をやいたりしてもいけないので、少し離れている方がいいと思った。
その後も、花を生けに行く辰之助と連れ立って見舞いに行ったが、病状には目立った変化もなかった。どうかすると、兄は悶えながら起きあがって、痩せた膝に両手を突きながら、体をゆすりゆすり苦痛を怺えていた。
「人の知らない苦労するよ」
我慢づよい兄の口からそう言われると、道太は自分の怠慢が心に責められて、そう遠いところでもないのに、なぜもっと精を出して毎日足を運ばないのかと、みずから慚じるのであった。それにもかかわらず、少し勉強しすぎた道太は、この月こそ、旅で頭脳の保養をしようと思っていたので、毎日辰之助に電話をかけてもらいながら、つい出るのを億劫にしていた。
そんな話をしているところへ、届けてきた月並を、お絹は菓子器に盛って、道太の前へ持ってきた。
「お茶をいれましょうか」
「そうね。何んだかんだと言って、毎日菓子ばかり食っているね」
「ほんの少ししかあがらんじゃありませんか。このごろはそれでもよくあがるけれど」
「辰之助もよく食べるね」
「あの人は何でもや。来るたんびに何かないかって、茶棚を探すのや。お酒も好きですね」お絹は癖で、詰まったような鼻で冷笑うように言った。
「今でもやっぱり遊ぶのかね」
「どうやら。家へあまりいらしゃらんさかえ。前かって、そうお金を費ったという方じゃないですもの」
道太は嫂たちが騒ぐのに対する「弁解だな」と思った。
「ただあの人はああいう人ですから、どこでも知っているんですわ。それに妓たちにもてる方や。今は男ぶりもちょっと悪るなったけれど。若いとき綺麗な人は、年取ると変になるものや。でもなかなか隅っこにおけんのや。何しろ胡蝶さんが、あの人に附文をしたんですさかえ」
「胡蝶は僕も一番芸者らしい女だと思う」
「神田で生れたんですもの。なかなか気前のいい妓や。延若を喰わえだして、温泉宿から電報で家へお金を言ってこようという人ですもの。ああいうのが芸者でしょうね。どうして腕っこきですよ。あの人が……それもこの家で、ちらと辰之助さんを見て、すぐ呼出しをかけたわけなんです」
「なるほどね。それじゃ家に燻ぶっちゃいられないわけだね。今でも続いているの」
「さあどうやら」お絹は擽ったい顔をしていた。
「あれは兄弟じゅうで一番素直だ。僕の家でも評判がいい」
「十円もする香水なんか奥さんに貰ってきたんですて」
「少し吹いてやしない」道太は苦笑した。
「そう、少し喇叭の方かもしれん」
「家のやつも人を悦ばせるのは嫌いな方じゃないけれど」
「庄ちゃん(お絹たちの弟)が讃めていたから、いい人でしょうね。けど奥さんもずいぶん骨が折れますわ。幾歳だとか……」
「絹ちゃんより少し若い。巳年だ」
「巳は男好きだというけれど……」お絹はいささか非をつけるように言って、躯を壁ぎわの方へ去らして横になった。
「それあ何だね」道太は何だかいっぱい入っている乱れ函の上にある、二捲の反物に目をつけた。
「これ? 何だかこんなもの置いていったんですけれど。何というお品や」お絹は起きあがってその反物を持ちだしながら、「わたし一反だけ羽織にしようかと思って。やがて大阪へ行かんならんさかえ。どっちも四十円がらみのもんや」
それは色のくすんだ、縞目もわからないような地味なものであった。
「こんな地味なもの著るの。僕なんかにいいもんだ」
「私は人のように派手なこと嫌いや。それにたんともないさかえ、こんなものなら一枚看板でも目立たんで、いいと思って」
道太は一反買ってやってもいいと思ったけれど、何か意味があるように思われるのが厭なので、わざと言わないでいた。
「僕も何かお礼をしなけあならんけれど、いずれ後にしよう」
「何のお礼をいに、あほらしい。芝居でたくさんや。多勢短冊も書いてもらいましたし」
「おれも金があると、資本ぐらい少し助けてもいいんだが、金に縁のない方で」
お絹は微笑していた。
「あんたももう二三年やろがいに」
「そうかもしれない」
「私も大阪へ行きさえすれば、こんなことしていないでもいいのやけれど、ここも芳ちゃんが旅から帰ってくると、いっしょにやりたいようなことも言うし……。それもやるとすれば、少しお金をかけて売れる子を二人も抱えなければ……」お絹はしみじみ話しだした。
「大阪の方はよほどいいのかね」
「あの子は誰にでも可愛がられる質やさかえ。御主人にも信用がありますけれど、お祖母さんという人に、大変に気に入られているんです。嫁さんも御主人の親類筋の人で、四国でいい船持ちだということです。庄ちゃんなんか行って、私をむずかしい女のように言っていたんですけれど、逢ってみればそんなじゃないなんて、ずいぶんよくしてくれるんです。それやどうして、学校出のちゃきちゃきですから気の利いたもんや。だけれど健ちゃんこのごろ少し遊びだしたようで……今年の春も、えらいハイカラな風してきたのや。洋行でもするようなお荷物でもって。ちょっとも私なんかと話しちゃいないですわ。方々飲みあるいてばかりいるんです。年もゆかないのに大酒飲みやさかえ、私も心配でこの間少しいることがあって千円ばかり送るように言ってやったけれど、何とも返事がない」
「ここに借金かね」
「借金といっては別にあるわけもないけれど……」お絹は微笑した。
「とにかくここを続けようというんだね」
「先きのことはわからないけれど、お婆さんのいるうちはね」
「お婆さんは庄ちゃんがみればいいじゃないか」
「どうして、あべこべにお婆さんが出す方や。庄ちゃんが困っていると、そんなら私のお金が少しあるさかえ、あれ使うことや、といったようなもんや」
お絹の口ぶりによると、弟娵がいつでも問題になるらしかった。そしてそれを言うのはお絹だった。弟は妻のために、お絹姉さんを、少し文句の多すぎる小姑だと思っていた。
しかし、お絹は、ここでもあまりおひろと気の合った方ではなかった。おひろには森さんがあった。次ぎのお京には、青物問屋の旦那があった。
「けれども、たまに行けばお互いに懐かしいが、大阪の家だって、長くいればおもしろい日ばかりは続かないだろう」
「だから私も自分の小遣ぐらいもってゆかなければ。子供を連れだしたって、いちいち嫁さんから小遣もらうのは厭やし、お寺詣りするにしても、あまりけちけちした真似をしたくないと思うから」
「月々大阪からいくらか仕送ってもらって、こっちで暮らすわけにゆかない。商売するにしても、何か堅気なものでなくちゃ。お絹ちゃんなんかには、こんな商売はとてもだめだ」
「けど女のする商売といえば、ほかに何にもないでしょう」
「さあね」
お絹はやがて、風呂の火を見に立っていった。
風呂はめったに立たなかった。綺麗好きなお絹は人にお湯を汚されるのをひどく嫌った。その上心臓が弱いので、水を汲みこむのが大仕事であった。その日は、辰之助が昨夜水を汲みこんでいってくれた。お絹は炭火で、それを沸かした。
道太はやがて風呂場へ行った。もう電燈がついていた。
「どんなです、沸いていましょう。少し少ないけれど、多いと沸きが遅うて」お絹はそう言って、釜の下を覗いたり、バケツに水を汲んできたりした。
湯から上がると、定連の辰之助や、道太の旧知の銀行員浅井が来ていた。
観劇は案じるよりも産みやすかった。
季節が秋に入っていたので、夜の散歩には、どうかするとセルに袷羽織を引っかけて出るほどで、道太はお客用の褞袍を借りて着たりしていたが、その日はやはり帷子でも汗をかくくらいであった。
その前々晩に、遠所にいるお芳から電話がかかってきて、芝居の景気ををたずねて、場所の都合がどうかと言ってきた。お芳のいるのは土地の大きな妓楼で、金瓶楼という名を、道太はここへ来てから、たびたび耳にしていた。それはお絹も、家が没落したとき、土地にいるのが恥ずかしくて、そこでしばらく師匠をしていたので、何かの話のおりにその家と楼主の噂が出るのであった。
「商売のできるくらいの金は、きっと持たして返すという話やったけれど、あっちの人はすす鋭いから結局旅のものが取られることになってしまう。私もあすこへ行ってから、これでもよほど人が悪くなった」お絹はそんなことを言っていた。
でもお芳の方はいくらか溜めているらしかった。
その金瓶楼主が、きっと多勢引率して芝居にくるだろうと、お絹は思っていたので、電話がかかってくると、飛んでいって受話機を取った。
「芳沢さんや」お絹がかけ手の声をきくと、そう言って笑いながら、いつにない浮き立った調子で話していた。お芳も出てきて、三通話にわたった。
「芳沢さんってお爺さんのことか」
「ううん、運転士。どこも景気が悪いとみえて、芳ちゃんとお神さんと二人しか来んのや」
「けどこの上二人も来ちゃやりきれないじゃないか。僕は明朝辰之助にも断わろうと思っている」
「あの人たちはあの人たちで、どうかなりますわ」
「そんな気楽なことを言っていちゃ困るじゃないか」
そこにおひろもいて、話がまた紛糾を来した。道太は別に強く言ったつもりではなかったけれど、心臓でも昂進したようにお絹が少し目をうるませて、困惑しているのに気がつくと、にわかにいじらしくなって、その日は道太は加わらないことにしてしまった。兄の養嗣子の嫁の実家で、家族こぞって行くということも、辰之助から聞いていたので、むしろ遠慮した方が穏当のようにも考えられた。
「私も行かれるやらどうやら」お絹も言っていた。
彼女はあいにく二三日鼻や咽喉を悪くして、呼吸が苦しそうであった。腹工合もわるいと言って、一日何んにも食べずに中の間で寝ていたが、昨夜按摩を取ったあとで、いくらか気分がよくなったので、茶の間へ出てきて、思いだしたように御飯を食べていた。
その日になると、お絹は昼ごろ髪を結いに行って、帰ってくると、珍らしくおひろの鏡台に向かっていたが、おひろもお湯に行ってくると、自分の意匠でハイカラに結いあげるつもりで、抱えの歌子に手伝わせながら、丹念に工夫を凝らしていたが、気に入らなかったらしく、しばらくするとまた別の女優髷に結いなおしていた。おひろはお絹に比べると十二三も年が少なかったけれど、髪が薄い方なので、お化粧をするのに時間が取れた。蝋燭を二梃も立てて一筋の毛も等閑にしないように、鬢に毛筋を入れているのを、道太はしばしば見かけた。それと反対で毛並みのいいお絹の髪は二十時代と少しも変わらなかった。ことにも生えぎわが綺麗で、曇のない黒目がちの目が、春の宵の星のように和らかに澄んでいた。芸人風の髪が、やや長味のある顔によく似あっていた。
お絹は著ものを著かえる前に、棚から弁当を取りだして、昨夜から註文をしておいた、少しばかりの御馳走やおすしを、お箸で詰めかえていた。山遊びの弁当には酒を入れる吸筒もついていて、吼の蒔絵がしてあった。
「今でもこんなものを持ってゆくのかい」道太はその弁当をもの珍らしそうに眺めていた。
「あまりいいものでもないけれど」
「この弁当は」道太は子供のように今一つの弁当を捻くっていた。
「それは演舞場へお稽古に行くときのお弁当や」
「しかし芝居見物もこんなふうにしてゆくとおもしろいね」
「こちらかって、幕のうちもあるし、鰻でも何でもあります。でもこれも楽しみやさかえ」お絹はそう言って、それからこの間どこからか貰ってきた大きな蒸鮑を、母親に切ってもらっていた。老母は錆びた庖丁を砥石にかけて、ごしごしやっていた。
「これおいしいですよ。私大事に取っておいたの」お絹は言っていた。
「その庖丁じゃおぼつかないな」道太はちょっと板前の心得のありそうな老母の手つきを、からかい半分に眺めていた。
「庖丁はさびていても、手が切れるさかえ」老母はそう言って、刃にさわって見ていた。
やがて弁当の支度を母親に任かして、お絹は何かしら黒っぽい地味な単衣に、ごりごりした古風な厚ぼったい帯を締めはじめた。
「ばかにまた地味づくりじゃないか」道太がわざと言うと、お絹は処女のように羞かんでいた。
道太は今朝辰之助に電話をかけて、場所がないから、女連だけやることにした。後で二人ゆっくり行こうと言って断わっておいたけれど、お絹が勧めるので、やっぱり行くことにして、二階で著物を著かえて、下へ来ていた。お芳はまだ著かえなかった。
しかし劇場へ行ってみると、もう満員の札が掲って、ぞろぞろ帰る人も見受けられたにかかわらず、約束しておいた桟敷のうしろの、不断は場所のうちへは入らないような少し小高いところが、二三人分あいていた。お絹にきくと、いつもはお客の入らないところだけれど、場代さえ払えば融通してくれるはずだというのであった。
「これあいい。こんな所があるなら、二人くらい来たって平気だ。ここを取っておいて、辰ちゃんを呼ぼう。このくらいなら、何もそう案じることはなかったじゃないか」
「一人や二人どうにでもできますよ」
「せっかくこういう処があるんだから、辰之助に電話をかけよう。それとも車をやるか」
しかしお絹ははきはきしなかった。お芳とその連れが来たときのことも考えているらしかった。やがて座を立っていったが、幕があいた時分にやっとかえってきた。
「ここの電話じゃ急のことには埒があかないから、わたしお隣の緑軒でかけてきましたわ」お絹はそう言って、鼻頭ににじみでた汗をふいていた。
辰之助は序幕に間に合った。
「河内山」がすんで、「盛綱陣屋」が開く時分に、先刻から場席を留守にしていたお絹が、やっと落ち著いた顔をして、やってきた。
「お芳さんがあすこに立っていたから、行って見てきましたの。いい塩梅に平場の前の方を融通してくれたんですよ」
「そう。お芳さんも久しく見ないが、どこにいる」
お絹は指ざしして教えてくれたけれど、疎い道太の目には入りかねた。
肌でもぬぎたいほど蒸し暑い日だったので、冬の衣裳をつけた役者はみな茹りきっていた。
「勧進帳なんかむりだもんね。舞台も狭いし、ここじゃやはり腕達者な二三流どこの役者がいいだろう」
「そうかもしれません」
「鴈治郎はよくかけ声か何かで飛びあがるね」
「ほんとうにおかしな人。私あの顔嫌いや」
「おもしろい役者じゃないか」
大切の越後獅子の中ほどへくると、浅太郎や長三郎の踊りが、お絹の目にも目だるっこく見えた。
川端へ出ると、雨が一雫二雫顔に当たって、冷やかな風がふいていた。
家へ帰ってくると、道太は急いで著物をぬいで水で体をふいたが、お絹も襦袢一枚になって、お弁当の残りの巻卵のような腐りやすいものを、地下室へしまうために、蝋燭を点して、揚げ板の下へおりていった。
「こんなもの忘れていた」お絹はしばらくすると、鮎の塩焼をもって上がってきて、匂いをかいでみながら、「これで一杯おやりなさい」
それは森宗匠がわざわざ遠方から取り寄せてくれたものであった。
「芝居はどうやったいに」老母は尋ねた。
「何しろ暑いんでね」
「越後獅子は誰が踊るのや」
「長三郎に魁車がつきあうのやけれど、すいた水仙のところなんか、何だか変なもんや。私いくつ時分だったか、一本歯をはいて、ここの板敷を毎日毎日布を晒らしてあるいていたもんや」お絹はそう言って、銚子にごぽごぽ酒を移していた。
廓はどこもしんとしていた。
そこへお芳も連れの楼主のお神といっしょにやってきた。
ある日も道太は下座敷へ来て、茶の間にいるお絹や、中の間で帳づけをしているおひろと話していた。
金瓶楼のお神はどこかへ行って、お芳だけが残っていたが、彼女はこまこまとよく働いていた。
「おい、己ののも一遍調べてみておいておくれ」道太はからかうように言った。
「かしこまりました」おひろは答えた。
「いくらあるもんですか」お絹は言ったが、「お料理の方は辰之助さんがお持ちやそうですし、花代といったところで、たんともないさかえ」
「そうはゆかない。勘定は勘定だ。だいぶ長くなったから、もうそろそろ御輿をあげるとしよう」
「お仕事はもうおしまいですか。何だかちょこちょことやって、もうそれでいいの」
「まあね」
「まだ何か食べたいものはないんですか」
「もう食べあきた。どこへ行っても同じものばかりで。女を買おうと思えば、少しいいのは皆んな封鎖だろう」
「そういったような工合だけれど、この節はあながちそうとも限らんのや」
電話が二度も演舞場からかかってきて、何やらの踊りの鼓を受け持つことになっている歌子の来ようが遅いので、一度は後と廻しにしたけれど、早く来てくれないと困るというのであった。
「今使いを出しましたから、帰ってくるとすぐ上げます。お気の毒ですね」お絹は答えていた。
抱えといっても歌子は丸抱えではなかった。二三日またぐれだして、保険会社の男とかと、始終どこかへ入り浸っていた。
お絹はぶつぶつ言っていた。
「この家は、これでいったいなり立ってゆくのかね」道太はおせっかいに訊いた。
「さあどうやら、見こみないでしょう。私厭だと言ったんだけれど、皆なしてやらすようにしたんです」おひろはお絹に当てつけるように言うのであった。
お絹は黙っていた。
おひろは細君を亡くした森宗匠のところへ、納まりたい腹でいたが、宗匠も来るたんびにおひろを女房扱いにしているのであった。おひろは今でも辰之助の妹婿の山根に心が残っていたけれど、お絹に言わせると、金には切れ放れはよかったし、選びもおもしろい山根ではあったけれど、別れぎわが少し潔くない点があったので、その手前としても、おひろはのめのめ商売なぞしているのは厭だった。お絹はおひろを、宗匠の家へ入れるには、相当条件をつけなくてはならないと考えていたが、それよりもそうなれば、自分独りでこの家を持ち続けてゆくか、解散するか、二つのうち一つを択ばなければならない破滅になっていた。
今朝も珍らしく早く起きたおひろは茶の室でお芳にさんざん不平を訴えていた。よく響くその声が、道太のうとうとしている耳にも聞こえた。お絹も寝床にいて、寝たふりで聞いていた。
道太は裏の家に大散財があったので、昨夜は夜中に寝床を下へもってきてもらって、姉妹たちの隣りの部屋に蚊帳を釣っていた。冷え冷えした風が流れていた。お絹はお芳に手伝わせて、しまってあった障子を持ちだしたりした。
「しかし姉さんはお芳さんと組んでここをやってゆきたいんだろう。姉さんの立場も考えなくちゃね」
「姉さんは大阪へ行けばいいんです。それこそ気楽なもんや。こんな貧乏世帯を張っているよりか、どのくらいましだか。お芳姉さんは、商売なんかする気はないでしょう。あの人にしたところで、辰之助さんの子が、今年兵隊検査に帰ったくらいですもの」おひろはぐんぐん言った。そして帳簿をつけてしまうと、ばたんと掛硯の蓋をして、店の間へ行って小説本を読みだした。
その時入口の戸の開く音がして、道太が一両日前まで避けていた山田の姉らしい声がした。
道太は来たのなら来たでいいと思って観念していたが、昨日思いがけなく兄のところで見た様子によると、子供のころから姿振に無頓著すぎる質であったとはいえ、近ごろはあまり見いい風をしていないのが、姉妹たちの手前恥ずかしかった。
しかしお絹は愛相よく迎えて、うまく取り繕っているらしかった。
「山田さんの奥さんがおいでた」お絹は道太の部屋へ来て、取り次いだ。
「しかたがない、逢おう」
姉はしばらく躊躇した果てに、やっと入ってきた。見るとふみ江もいっしょであった。
ふみ江は母とは反対に、相変らず派手な姿をして、子供をかかえていた。道太は子供が脊髄病のために、たぶん片方の脚が利かないであろうことを聞き知って、心を痛めていたので、今ふみ江の抱いている子供のぽちゃぽちゃ肥った顔を見ると、いっそう暗い気持になって、しばらく口も利けなかった。
「先日は失礼しました。ふみちゃんは今どこにいるの」道太がきいた。
「松山の伯父さんの病気見舞いといって、出てきたんですけれど」ふみ江は嗄れたような声でぐずっている子供をすかしながら答えた。
ふみ江の良人の家は在方であったが、学校へ通っている良人の青木は、町に下宿していたけれど、ふみ江は青木の親たちの方にいることになっていた。
「子供はどうなんだ。脚が悪いそうじゃないか」
「え、それで……」
すると姉がすぐ引き取って、興奮の色を帯びながらその子供の病気の今までの経過について語りだした。手術をすれば、たぶん癒るであろうが、青木の親たちは、手術は惨いから忍びないと言って、成行に委すことにしたのであった。
姉の口ぶりがひどく感傷的になってきたので、道太は妙な感じがした。
「それに話しがちがうとか支度がないとか言って、このごろ老人たちが私に当たってばかりいるんです」
「万事は僕がよく話しておいたんだが、そんなことを言えば、こっちだって当てが違ったんじゃないか。ばかにいいような話だったからね」
「それは悪いことはない」姉が言うのであった。
「ふみ江ちゃんなんかの仕事は、とかく山かんだから困るよ。どうせ人の厄介にならないでやろうというのなら、もっと何とかいうのを見たてるがいい。あんな吝ったれな百姓なんかしかたがないじゃないか。だから財産はなくても、ちゃんと独立のできる男でなければ。青木も意気地がないじゃないか。あれほど望む結婚なら、もっと何とかできそうなものだ。あれではまるでこっちの親類を背景にして、ふみ江さんをもらったようなもんだからな」
「え、あの人両親の前では、何にも言えないんです」
「しかし、もうそうなっちゃ、どちらもおもしろくなかろう。動機がお互いに不純だから、とうていうまくゆくまい」
「さあ、そうでしょうかね」姉は太息をついていた。
「ふみ江さんも人の言うことを肯かんからいけない。何でも皆んなに相談してやるようにしなさい。お父さんがいないんだから、そのつもりでもっとまじめになって、今までのように、びらしゃらして楽をしていないで、自分で自分の運命を切り拓いてゆくように、心を入れかえなくちゃいかん。ここの家なんか、こんな稼業をしているけれど、めいめい自分の生活については、相当苦しんでもいるんだからね」
「それあそうや」姉は頷いていた。
それから別れる場合の、話しのつけ方と、交渉にあたる人とを、道太は指名した。
「どうも僕じゃ少し工合がわるい。つい厭なことも言わなけあならないから」
「そうや。どうも法律を知っているといって、力んでいるそうやさかえ」
「まあしかし、円くゆくものなら、このまま納めた方がいい。そうなれば、金の方は後でどうにか心配するけれど、今はちょっとね」
「二度ばかり、松山の伯父さんとこへお尋ねしたそうですが、青木さんが叔父さんに逢ってお話したいそうですがいずれ私たちの悪口でしょうと思いますけれど」
道太はそれは逢ってもいいと思った。幸いに彼の話を受け容れることができさえすれば、道太自身にももっとこの問題に深入りすることができるかもしれないと思った。
二人はいくらか気が安まったらしく、やがて引き取っていった。
「どうもお世話さま」道太は茶碗を片づけに来たお絹に言った。
「奥さんもえらい年をお取りになって。ふみ江さんも縹緻が少し下がった」
「姉だけなら来てもらいたいって、家でも言っているんだけれど、何か自分でなまじっかにやろうとするもんだから、かえって苦しむんだ」
「誰でもそうや。なかなか思うようにゆくもんじゃないんです。おひろさんだって、森さんのとこへ納まったにしたところで、姑さんもあるし、あの体で、あの大屋台の切りまわしはとてもできませんわ」
日が暮れると、判で押したように、辰之助がやってきた。道太は少し沮げていたが、お絹がこの間花に勝っただけおごると言うので、やがて四人づれで、このごろ披露の手拭をつけられた山の裾の新らしい貸席へ飯を食べに行った。それはお絹からみると、また二た時代も古い、芸者あがりの女が出したものであった。
道太はそんな物も、ちょっと見ておきたいような気がした。が、それにかかわらず、お絹も道太が時々気をぬきに来るように、もし手ごろな家を一軒かりてでもおくなら、留守番をしていてもいいような話もあったので、それも頭脳に描いていた。
お絹がだいぶ前から苦にしていた大掃除の日が来た。頼んでおいた若い稼ぎ人が来て、道太の陣取っている離れの方から手をつけはじめて、午後には下の部屋へ及んできた。お絹たちは単衣の上っ張りを著て、手拭を姐さん冠りにして働いていた。「さあ京ちゃんところへ行こう」老母はそう言って、孫といっしょに道太を促したてた。
お京の家はつい近くの屋敷町の方にあった。その辺も道太が十三四のころに住まったことのあるところで、川添いの閑静なところにあったそのころの家も、今はある料亭の別宅になっていたけれど、築地の外まで枝を蔓らしている三抱えもあるような梅の老木は、昔と少しも変わらなかった。
お京はちょうど来客があって、下座敷で話していた。いつでも脅かしに男下駄を玄関に出しておくのが、お京の習慣で、その日も薩摩下駄が一足出ていた。米材を使ってはあったけれど住み心地よくできていた。
不幸なお婆さんが、一人そこにいた。お絹の家の本家で、お絹たちの母の従姉にあたる女であったが、ほかに身寄りがないので、お京のところで何かの用を達していた。おばあさんは幾年ぶりかで見る道太を懐かしがって、同じ学校友だちで、夭折したその一粒種の子供の写真などを持ってきて、二階に寝ころんでいる道太に見せたりして、道太の家と自分の家の古い姻戚関係などに遡って、懐かしい昔の追憶を繰り返していた。
「和田さんの家は器量統で、その人も美しかったという話や。お士から町家へお嫁づきなすった」
とかく道太と、そして道太と同じ腹から生まれた姉妹とは、その系統はずれであった。
「しかしいくつです」
「もう七十四です。このお婆さんより二つ上です。少い時分私がこの人を始終お負ぶしてね」
道太はそんながりがりした老婆をかつて見たことがなかった。
「奥さんのお墓参りなさいましたか」
「いずれ帰るまでには……」道太は笑っていた。
「私も一遍おまいりしたいと思うて」
道太はお絹の母である方のお婆さんにも、たびたびそれを言われていた。
そのお婆さんは、自分で手拍子を取りながら、唄を謳って、四つの孫に「春雨」を踊らせていた。子供は扇子を持って、くるくる踊っていたが、角々がきちんと極まっていた。
「お絹ばあちゃがお弟子にお稽古をつけているのを、このちびさんが門前の小僧で覚えてしまうて……」祖母は気だるそうに笑っていた。
それがすむと、また二つばかり踊ってみせた。御褒美にバナナを貰って、いつか下へおりていった。
「ここでも書きものができましょうがね」老母はそう言って、目の先きに木の生い茂っている山を見上げながら、
「山の青々したものはいいもんや」
するうち二人とも横になって、いい心持にうとうとしていた。
辰之助が来たのは、山の上に見えた日影が、もうだいぶうすれたころであった。
「大掃除はどうかね」
「やがて片づくでしょうが、今東京から電報が来まして、りいちゃんが病気だそうだ」辰之助は緊張した表情でそう言って、電報を道太に渡した。
道太はまたかと思って、胸がにわかに騒いだ。
電文は三音信ばかりあった。「リツコジウビヨウビヨウメイミテイダイガクヘニウインシタアトフミ」そういう文言であった。
道太はひどく狼狽したが、かろうじて支えていた。
「こっちへ来ると、何かあるのも変だな」道太は呟いたが、何か東京の方へ通信があって、それで呼び返すための電報じゃないかと、ちょっとそういう疑いも起こった。ここへ来てから、彼は東京へ一度しか音信をしていなかった。しかしその疑いは何の理由のないことは自分も承知していた。
「いったい何時だろう」
「四時です」
断定的に帰宅を促した電文が、それから間もなく辰之助の家からお絹の家へ届いて、道太はにわかに出立を急ぐことになった。
支度をしに二階へあがると、お絹もついてきて、荷造りをしてくれた。
「こんなものはバスケットがいいんでしょう」お絹はそこにあった空気枕や膝掛けや、そうした手廻りのものを、手ばしこく纏めていた。
下へおりると、おひろが知らしたとみえて、森さんももうやってきて、別製の蓮羊羹なぞをおびただしく届けさせてきた。
「先生、これはちょいといいもんです。おひろ一本切ってきてごらん」
道太は二三日前に、芝居のお礼か何か知らんが、辰之助といっしょに、ある閑寂な貸席で、宗匠の御馳走になっていた。宗匠はそこで涼の会や虫の会を開いて町の茶人だちと、趣向を競った話や、京都で多勢の数寄者の中で手前を見せた時のことなどを、座興的に話して、世間のお茶人たちと、やや毛色を異にしていることを、道太に頷かせた。
「こんな物でもお気に入ったら」おひろはそう言って、例の智慧くらべを出してくれた。
荷物を森宗匠に頼んで、道太が辰之助とそこを出たのは、もう六時少し過ぎたころであった。
「わたしは皆さんがおいでると悪いさかえ、お見送りはしません」お絹は幾折かの菓子を風呂敷に包みながら断わった。
「何だかまだ忘れものがあるような気がしてならない」道太は立ちがけに、わざと繰り返した。
兄のところへ行くと、姉が悦び迎えて、
「じつはお出でを願おうかと思っておりました。看護婦がちょっと粗匆をしましたので、あれほど信用しておいでたのに、たいそう腹を立てて薬もいっさい飲まんと言っておいでるので……」
看護婦が傍に泣いて詫びていた。
道太はやがて、兄の枕頭に行ってみた。兄は少しいらだっていたが、少し話をすると、じきに頷いてくれた。
「それから私もちょっと用事ができて、きゅうにいったんかえることになりましたので」道太は話しだした。
「どうもありがとう。わしはまあこれで心配はないから」兄はそう言って、道太が思ったよりさっぱりしていた。
道太はやっと安心して、病室を出ることができたが、しかし次の部屋まで来ると、にわかに兄の歔欷が聞こえたので、彼は思わず足が竦んでしまった。
それから兄の傍を離れるのに、また少し時間がかかった。そして子供のない兄の病床の寂しさを思いながら、辰之助と連れ立ってそこを辞した。
ステイションへは多勢来ていた。二人の姉もふみ江も来ていた。宗匠もおひろも見えたが、道太はそれでもお絹が来ておりはしないかと、乗ってからもあたりに目を配っていた。
すると間もなく、お絹がにわかにそこへ姿を現わした。皆んなは目をそばめた。お絹はちょっと躊躇していたが、やがて窓ぎわへ寄ってきて、
「はいお弁当」と、立つとき言っていた弁当を、手を延ばして道太に渡した。
「それからこれシャボンと歯磨」
「それあ、どうも……」道太はそれを受け取って、ちょっとお辞儀をした。
汽車が出てしまった。いくら心配しても、それだけの時間は、飛躍を許さないので、道太は朝まではどうかして工合よく眠ろうと思って、寝る用意にかかったが、まだ宵の口なので、ボーイは容易に仕度をしてくれそうになかった。
道太は少しずつ落ち著いてくると同時に、気持がくすぐったくなってきた。二十日ばかりのお絹との接触点を振り返えると、今でもやっぱり彼女は謎であった。
底本:「日本文学全集 8 徳田秋声集」集英社
1967(昭和42)年11月12日発行
初出:「中央公論」
1925(大正14)年1月
入力:岡本ゆみ子
校正:米田
2010年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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