私の作品はたいがいそうであるが、特にこの「冒した者」では「現代」そのものが直接的に主題になり主人になっている作品である。
 それはこの中に描かれた事件や人物が実際において私の身近に起きた事件であり実在の人物であると言う意味だけでは無い。もっと深い意味で――つまり主題の押し出し方や材料の処理のしかたそのものが「現代」なのである。現代では「私」の問題を真に追求するためには世界を除外することが出来ないし「世界」の問題を考えるのに「私」を切離して答えを出してみても無意味である。個と全体、主と客体、自と他は既にそのように結び合わされてしまっている。それが現代と言うものの一番大きな性格である。「私」の問題が提出される時には、その問題そのものが「世界」の問題でなければならぬし又「世界」の問題が解決される時には、その解決そのものが「私」の問題にも同時的に答え得るものでなければ、解決とはいえない。――私はそう思っている。そう思っている私の考えを、そのまま戯曲の形でまとめて見ようとした。それがこの作品だ。
 次に、私はこの作品の中からこれまでの戯曲のすべてに在った演劇的な約束や大前提を投げ捨ててしまった。これまでの戯曲ではその戯曲をよく読みその演劇をよく見ていれば、その中に書かれている事が完全に理解できるようになっている。そういう約束や大前提のもとに書かれている。ところが、この作品ではそれが捨てられているために、唯単にこの作品を読みこの演劇を見ても、必ずしも、普通いう意味での「理解」は得られまいと思う。又そのような「理解」を私は望んでいない。問題は、これを読み、この芝居を見てくれる人が「現代人」であるか否かにかかっている。現代人ならばわかってくれるだろう。それも「理解」というよりも「悟」ってくれるだろうと思う。つまり作品理解の大前提のカギを作品の外つまり読者と観客のまんなかに投げ込んでしまった作品である。それを私は意図して行った。その良し悪しを私は知らない。私としてはどうしてもそうせざるを得なかったから、そうしたまでである。そして此の点だけに就いて言えば、それが成功しているか不成功に終っているかは別として、全く新しい作品だと言う事が出来よう。
 作品の随所に採用してあるシュール・リアリズム風の要素や手法などは、作者が意図したもので無くこの主題とこの材料に取組んでいる間に、自然に無意識のうちにそのような要素や手法が出て来てしまったものである。寧ろ私はシュール・リアリズムは嫌いである。嫌いなものがひとりでに出てしまったわけで、その点では、この作品は作者の私にとっても新しく妙な作品である。
(一九五二年八月)

底本:「三好十郎の仕事 第三巻」學藝書林
   1968(昭和43)年9月30日第1刷発行
初出:「毎日新聞」
   1952(昭和27)年8月22日
入力:富田倫生
校正:伊藤時也
2009年4月25日作成
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