それは春とは云つても、まだ寒い頃であつた。北の海から冷々としたうら寂しい風が吹いて来て、空にはどことなく冬のやうな底重い雲が低く垂れ込めてゐた。庭の植込みを囲んであつた「雪除」がやつと取外されて、濃い緑色をした蘇鉄や棕櫚竹などが、初めて身軽になつたと[#「なつたと」は底本では「なったと」]いふ風に、おづ/\と枝を張り幹を伸して、快げに自分々々の身を持返した。さうして、時をり降りそゝぐ小雨が、しと/\と湿つぽい温気をもたらしてくると、ふと庭の隅々から小さな草の芽生を見出すことが出来た。それでも北国の春はやつぱり寒いのであつた。どんよりとした鉛色の重い雲にとざゝれた陰鬱な日が、幾日も/\打ちつゞいた。
 ある日――その日も朝から空が灰汁をまいたやうに薄暗くわびしげに曇つてゐた。その午後であつた。街から二里ばかり離れた村に住んでゐる源右衛門といふ男がお町の家を訪ねて来て、お町の父の為造と奥の座敷でひそ/\と何か話をしてゐた。二人の話が何となく家の人だちに或不安を与へた。為造にその頃さういふ風な内密らしいことが度々あつた。家の人だちはさういふ場合に接するのを、いつとなく虞れるやうになつてゐたのである。
 為造はこの一二年前に、ある投機的な仕事に手を出して大きな失敗をした。さうして、一時殆ど失神したやうになつて倒れてゐた彼は、ふと思ひついて金貸業をはじめたのであつた。彼は自分の莫大な損失に対する償ひを、貪欲と無慈悲との結果から産み出さうと決心した。彼は世間のあらゆる人々に対して、もはや全く血も涙も持たない、一個の守銭奴と化し去つたのである。
 源右衛門は最近に於ける負債者の一人であつた。彼は歯のまばらに脱け落ちた、人品のよくない、真黒に日に焼けた百姓爺であつたが、何処か生一本な、律儀さうな処の見える五十年輩の男であつた。その日二人はしめやかに話し合つてゐたが、その声が妙に低くさゝやくやうで、どうしても何か密談を凝らしてゐるとしか思へなかつた。さうして、二人の話は却々果てさうもなかつた。為造の妻のお幾は黙つて茶の間で針仕事をしてゐたが、とき/″\深い溜息を吐きながら、座敷の方に耳を傾けてゐた。
 やがて、しばらくすると、二人の話声が急に調子づいて来た。その揚句にだん/\と声高に罵り合ふやうになつた。お幾は姑のお八重と一緒にふと起つて、心配らしい顔を合はせながら襖の傍に身を摺り寄せた。その時に座敷の二人は突然取組合をはじめたのである。ドタン、バタンと二人の体が代る代るに襖に打突かつて、ピリ/\と唐紙の上に波動を浮かせた。源右衛門の口からは絶え間なく為造を罵る言葉が口穢なく吐出された。為造はそれを押し伏せるやうに、
「何ツ。」
 と叫びながら、源右衛門に激しく掴みかゝつた。
 お町はその時丁度、生れて間もない赤ん坊をお負つて悦んでゐたのであつたが、その騒ぎに驚いて、後から引かれるやうに重い体をよち/\と踏みこたへながら座敷の方に気を配つた。座敷の中には今怖ろしい争闘がはじまりつゝあつた。彼女はすぐに引返して、そつと玄関から表の方を見た。門口にはもう人が一杯にたかつて、各自に爪立をしながら、家の中の様子を知らうとして血眼になつてゐた。二人の女中も台所から出て来て、頻りと座敷の方を覗かうとした。彼女はわな/\と顫ひながら、赤ん坊を揺振り揺振り台所を往つたり来たりしてゐた。座敷の争闘がどうなるのかと怖ろしくてならなかつた。お町は到頭赤ん坊をお負つたまゝ、土蔵の中へ逃げて行つてしまつたのである。
 お町は平常から、何か怖ろしいことがあると、よく土蔵へ這入つてゆくのであつた。そのくせ、弟などがいたづらをしたりした時に、母が凄い眼色をして、
「土蔵へ入れてやるぞ。」
 と威かしてゐるのを聞くと、土蔵の中は何でも怖い処にちがひないとお町は考へてゐた。けれど、お町は自分で悲しいことなどがあると、不思議にその怖い処だと思つてゐる土蔵の中へ這入つてゆく気になつた。彼女は自分がさうやつて、土蔵へ這入つた時に、若し外から錠をおろされて、その上に土の扉までも閉鎖されてしまつたらどうしよう――と云ふやうなことを空想しながら、一度そんな目に遭つた自分を見たいやうな気がしてゐた。併し、その中にだん/\と或恐怖に襲はれて、やがて彼女は慌立しく土蔵を出てしまふのが常であつた。
 その日も土蔵へ這入ると、お町は行成刃物か何かでスイと首筋を撫でられたやうな、鋭い冷気を感じた。彼女は土蔵の重い戸を開けた瞬間に、いつも考へる「土蔵の神様」といふものを幻に描いたのである。土蔵の中へ這入つたら、大きな声さへも出してはならぬといふ風に、常に謹慎してゐることを教へられてゐるお町は、祖母たちが土蔵の神様、土蔵の神様といふたんびに、土蔵にはどんな神様が棲んでゐるのだらうと思つてゐた。それは屹度昔語りに聞いて想像する、真白の長い髭を貯へた仙人のやうな姿の翁にちがひないとも考へた。その神様が厳粛な顔つきをして、土蔵へ這入つて来るものを、一人々々監視してゐるのかも知れないとお町は思つてゐた。
 土蔵の中には何となく人間の体を吸ひ込んでゆくやうな、神秘的な湿つぽい空気が隅から隅までに行き渡つてゐた。さうして、小さな西の窓から僅ばかり射し込んでくる鈍い光線に透かして見ると、其処等中一杯に家財道具が詰められるだけ詰まつて、黴臭いやうな饐えたにほひが、其処此処に流れ漂つてゐた。二重にも三重にもかさなつた正面の棚に、何年も手をつけられたことのない埃塗れの箱入物がならんでゐた。「仏具」と大きく書いてある幾つかの箱の中には、法事などの際にのみ座敷に飾られる、とつときの輪燈や、蝋燭立などが納つてあるのであつた。お町はそんな物に対しても、いつも感ずる一種の無気味を感じながら、暗い二階の方にちよいと眼をやつた。この頃その責任を果し得なかつた債務者のある家から差押へられて来た大きな柳行李が二つ、二階のすぐ上り口に投り出されてあるのが、お町には不愉快な忌はしいものであつた。その行李の中から出た女の児の着物を、そのまゝ彼女の小さな妹に着せられてあることも、年には割合老せた少女心には、浅ましく、情なく思へてならなかつたのである。その他に抵当に預つてあるいろ/\の品物などを見るのが、お町にはもう気が咎めて為方がないのであつた。
「私のお父さんはいやな商売をしてゐらつしやる。」
 お町は常にさう思つて、子供ごゝろにも苦々しくて堪らなかつた。
 彼女は今土蔵へ這入りは這入つても、父のことが心配になつてならないので、戸前の金網にピツタリと摺り寄つた。さうして、背中の赤ん坊をしつかりと後手でかゝへて、網の目から庭越しに家の様子を窺つた。祖母だの母だのがうろ/\として、縁側を駈け廻つてゐるのが見えたり、男の怒鳴る声が聞えたりした。お町はもう気が気でなかつた。土蔵の中にゐることの無気味さが、いつもよりも、もつと強く犇々と彼女に感じられて来たのである。
 彼女はやがて忍び足になつて、隠れ家のやうな土蔵を出た。長い板敷の内廊下を通つて、台所から茶の間の方へ、丁度お町がおづ/\顔を出さうとした時に、其処へバタ/\と為造と源右衛門とが暴馬のやうにトチ狂ひながら、掴み合つて出て来た。二人とも顔を真赤にして、鳩尾の辺まではだけて、獣のやうな胸毛をあらはしてゐた。着物の前が酔漢のやうにしどけなく乱れてゐた。為造は源右衛門を突き出し突き出し、玄関まで向ひ合つたなりで突き進んで行つた。
 源右衛門は川へでも投り込まれたやうに、跣足のまゝで意気地もなく土間へ突き落とされた。彼は狂暴な為造の振舞を憤つて、再び家へ上らうと※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いた。それでも為造は必死になつて、力一杯に源右衛門の頑丈な体を圧しつけた。源右衛門は焔のやうな息を吐いて、いきなり其処に有合はせた男の下駄を片方拾ひ上げた。その瞬間に、したゝかに為造の眉間を打ち据ゑた。
「己れツ。」
 為造は猛獣のやうな呻き声を発して、その下駄を素早く源右衛門の手から奪ひ取つた。刹那に又源右衛門の額を目がけて思ひ切り彼を擲りつけた。源右衛門の日に焼けた黒い額からは、タラ/\と血汐が滲み出た。彼は丸で夢中になつて怒り狂つた。そして、
「泥坊!」
 と物凄まじい濁音で一声叫んだきり、人垣をわけて何処かへ駈け出して行つてしまつた。見物人はざわ/\とどよめいて、彼の跡を追かけて行つた。その残りの幾人かゞ、やつぱりぢつとして家の様子を見ようと乗り出してゐた。
 そのときお町は父の顔を見るのすら怖くなつて、又台所へ引込んで行つた。そして、泣きもせぬ背中の赤ん坊を拍子を取つて揺振つて歩いた。
 座敷では祖父母だちやお幾などが、今苦しさうに喘いでゐる為造を取巻いて、一生懸命に押なだめてゐた。お幾は夫の口へ茶碗の水と宝丹をすゝめながら真青の顔をしてゐた。為造は太い息を吐いては「畜生、見てやがれ」などと口走つてゐた。お町はぶる/\と顫ひながら、祖父母や母に取巻かれた父の険悪な相好を唐紙の隙間から怖ろしさうに透見してゐた。此突然な出来事に対する目前の結果に、或不安と恐怖が家の人だちの胸を一杯にしめてゐたのである。
 やがて其処へ警官が来た。そして、為造と横柄な調子で押問答をはじめた時には、家の人だちの恐怖が更に更に大きくひろがつて行つた。為造は流血した真赤な眼の中に、陰険な底冷たい光りをみなぎらせて、腕まくりのまゝ警官に向つて源右衛門の不当の乱暴を訴へた。お町はその時、自分の父のそんな風に取り乱した醜い姿を、警官や見物の人だちに見られるのを恥ずかしく思つた。自分の父があんな賤しい百姓爺などゝ喧嘩をして、遂に警官などの厄介になるやうな、そんな賤しい男であるかと自分も驚き、且つ他所の人にもさう思はれるのが、彼女には口惜しいのであつた。
 警官は為造の話をきゝながら、又しても表の人群りを制してゐた。けれど、それは何の効もなかつた。見物は此事件の成行を知れるだけ知つてゆかうといふ風に、だん/\と玄関の土間近くにまでも押しよせて来た。お町はもう怖ろしさにふるへるばかりで、歯の根も合はなかつた。体中に悪寒が来てぞく/\と寒かつた。彼女の耳には源右衛門が最後に叫んだ「泥坊」と云ふ一言が、幼い胸を抉られたやうに強く響いてゐるのだつた。
「なぜ私のお父さんのことを泥坊だなんて云つたのだらう。」
 お町はさう思つて寧ろ不思議でならなかつた。それと同時にあんな田舎の百姓爺などに「泥坊」と呼ばれた自分の父は、なんといふ価値のない人だらうと考へて情なかつた。お町は幼心にも自分の父に対する尊敬の念をひどく殺がれた気がした。そして、その上に又家庭に対する一種の陰惨な疑惑の影が、小さな胸に漠然と湧いて来た。彼女はその時喚くやうな荒くれた声を出して警官と争つてゐる父に対して、何ともいへぬ親しみがたい憎悪の念を抱いたのである。父の額に筋張つてゐる忿怒の現はれが、やがて彼女に最も醜く見苦しく思はれてきた。
 為造と警官は大分長い間、昂奮した言葉と、冷静な言葉とを戦はしてゐた。警官は結局為造を引致しようと云ふのであつた。
 為造は再三それを拒んだ。引致される理由が此方にないと云ひ張つた。けれど、警官はどうしても肯かなかつた。為造は遂に怒りに焼きたゞらされたやうな膨れ上つた顔つきをして、座敷に駈け込んだ。
「オイ、着物を出せ、着物を出せ。」
 かう叫んで彼は忙しなく引きちぎるやうに帯を解きはじめた。お幾は泣くやうな、哀訴へるやうな声で、夫に私語いて何か力強い言葉を一言でも訊かうとした。けれど、為造はそれどころではなかつた。彼が表面の気強さに似合はず狼狽してゐる苦しい表情が、お幾にはよく解つてゐるのだつた。お幾は不承々々に箪笥の抽斗をぬいて、夫の着物を一枚づゝ出した。お八重が其処へ来てお幾の手を押へながら、しよぼ/\とした眼に涙を一杯にためて、
「どうなるのぢやらうない、どうなるのぢやらうない。」
 と云ひ云ひ泣いてゐた。為造はふう/\と切ない息をしながら、殺気立つた形相をして、手早く着物をきかへた。そして、誰とも口を利かないで、只咄嗟の弁明に懊悩してゐるやうに、彼はそのまゝ警官と一緒に外へ出て行つてしまつたのである。

 お町は父の上に自分で想像出来るだけの、いろ/\な忌はしい疑惑を一杯にのせて見た。大手を振つて警官と一緒にならんで街を行つた父の後姿が、彼女のいたいけな眼に辛く沁み入つた。彼女はたゞならぬ怖ろしいことの暗い聯想を喚起した。お町は何にも分らないで、只悲しいと云ふことゝ、傷ましいといふことゝの溶け合つた、幼い感傷に浸されて、家の人だちと一緒になつて、メソ/\と襖の蔭で泣いてゐた。

 激しい争闘と驚愕のあとの寂寞に返つて、家の中は森とした。すゝり泣く女の声があつちからもこつちからも洩れ聞えた。薄暗い室々の空気が憂鬱にしめつぽくとざされて、今にも何等かの凶事が此家を襲ふやうに、うそ寒くわなゝいてゐた。併し、お町は夕方にでもなつたら父が帰つて来るのだらうと考へてゐた。賢しい彼女は母だちの傍に接近して、なるたけその話振りを聞き取らうとした。けれど、母も祖母も只黙つて、しく/\と泣いてゐるばかりであつた。母と祖母はやがて二階から祖父によばれて静かに上つて行つた。
 お町は一人其処へ残されてつまらなくなつた。そして、さつき背中からおろしてもらつた赤ん坊の寝てゐる枕元へ行つて、ぢつと坐つてゐた。
「雪ちやんは何も知らない。」
 さう思つて赤ん坊の寝顔をしげ/″\と見入つてゐると、スヤ/\と眠つてゐる赤ん坊の小さな唇が少し歪んで、ニツと疳笑ひをした。彼女はそれが又無気味であつた。
 やがて、お町は二階に集つてゐる母だちの様子が知りたいやうな気がしてならなかつた。けれど、今自分が二階に行つては悪いと思つた。三人は屹度今日の父のことについて何か相談してゐるのにちがひない、と云ふことが考へられた。併し、彼女はやつぱり気になつた。彼女はやがて足を忍ばしてそつと梯子段の中程までのぼつて行つた。つかつかと上つて行つては悪い、さう思ふと、急に体がふるへて来た。二階からは何の声も響きも聞えなかつた。彼女は又一段、二段とのぼつた。そして、あともう三段ばかりの処で、身を縮込ませて、ぢつと息を殺したのである。
 その時、二階の老人の部屋の中に屏風が引廻されて、三人はひそ/\と語り合つてゐた。三人の話し声が屏風の中でしめやかに縺れてゐた。お幾は平常自分が冷たい待遇を受けてゐる二人の舅姑から、為造のことについて、頻りと訊問されるのを不快さうにして、静かに口を利いてゐた。
「何しろ、私には平常何も話がありませんから、ちつとも分りませんが、あの源右衛門の一件だけは私にも幾らか見当がつかないでもありません………」
 自分だち二人の子の愛を一人で奪つた憎い嫁――といふ風に、常に敵視されてゐる舅姑の前に、お幾はそんな返事をするのが、痛快なやうな気がした。
「ふゝむ、そりや一体どういふ事ぢやらうな。」
 老人の声が皺枯れて咽喉にからんでゐた。暗い心配が老人の凹んだ眼の廻りに隈を取つてゐた。
「何を為出来してくれたのぢやらう、あゝあ、心配なことになりました。」
 お八重は鼻をすゝつて泣じやくつてゐた。髪の生際にそゝけ立つた白い短かい毛の沢山が、嫁苛りで評判を立てた老女の、あるすさまじさを表示してゐるやうにも見えた。
「私もしつかりとは分りませんけれど、あの源右衛門が怒鳴つてゐた口振りをきくと、若しや、と思へば思はれぬこともありませんのですが、まさか、そんな悪い事もなさるまいと思ひますよ。」
 お幾は平常自分に秘密事をしてゐる夫の過去の疑はしい行為を顧みることよりも、差しづめ今後の成行が心配になつて堪らないのであつた。お幾はこれまでに何遍それとなく注意したか知れない夫の行為に対する黒い疑惑を、今はどうしても消すことが出来ないのだつた。お幾はそれを考へると、今更に夫が怨めしく思はれて、肺の臓から自然に深い深い太息がもれた。自分や子供たちの行末――といふことも頻りと苦になつた。
「こんな商売をはじめたのが悪いのぢや」
 老人はその上お幾に糺さうとはしなかつた。糺すことを恐れた。
 只そう云つて、白い眉毛をピク/\させては考へ込んでゐた。お八重は兎角為造を庇護ひたい思ひにのみ先立たれて意識が混沌してゐた。「泣く」といふことの外取る術もなかつた。お幾はいろ/\と思ひ出される一つ一つに脳髄を刺戟されて眼が眩みさうだつた。キツと唇を噛み〆めたお幾の眼から熱い涙がハラ/\とこぼれた。

 その晩為造は家へ帰つて来なかつた。老人が夜になつてから外から戻つて来て又お八重とお幾とを招いて屏風の中に語り合つた。老人からは此事件を或弁護士に依頼して来たことが話された。
 お町等兄弟はその晩早くからいつもの部屋に寝かされてあつた。お町は寝際に母に向つて、父がいつ帰るのかといふことをふと訊ねようとしたけれども、其瞬間に胸がドキ/\鳴り出したので止めた。さうして、いつまでも眠れなかつた。祖父が帰つてから、母が二階から下りて来て、下から何か持つて上るらしい忍びやかな足音などがお町の耳に入ると、それが何か容易ならぬ一大事でも企てられるものゝやうに推られたりして、彼女は怖ろしさに汗を絞つてゐた。
 皆が寝静まつて、大分夜が深けてから、二階の三人はそつと動き出した。ミシリ、ミシリ、と梯子段を下りる三人の衣摺れが、寝静まつた家の中の一隅に起つてゐた。三人は子供だちの寝てゐる部屋の襖の外を、そつと摺るやうに浮足で通つてゐるのであつた。
 お町は寝床の中で身を縮込ませながら、その気勢ひを感じてゐた。胸がハツとして轟いた。その時障子の中程にぼんやりした赤い灯の影がゆらめいて、黒い人影が動いて行くのを見た。お町は蒲団から脱け出して、縁の障子を細目に開けた。母がぼんぼりを持つて先に立つてゐるのだつた。その後から二人の老人がしよぼしよぼと尾いてゆくのがお町の眼に映つた。三人は突当りの板戸を押して、スツと脱けると、土蔵につゞいてゐる暗い廊下へおりて、又その板戸を閉めてしまつた。
「土蔵へ行つたのだ。」
 お町はさう思ふか否や、又胸がドキンとした。こんな夜中に母だちが何のために土蔵へなんかゆくのだらう、とそれが彼女には分からなかつた。お町は蒲団を被つて、そのまゝとろ/\と眠つてしまつたのである。

 土蔵の中の三人は、蒼ざめた顔をぼんぼりの仄赤い灯にほんのりと照らされて、低い天井の下にうろ/\と突立つてゐた。其処等を捜したら、為造の嫌疑に関する何物かゞ発見されるかも知れない――といふ疑懼が、三人の心を暗くし、臆病にしてゐた。三人は息をのんで行李の蓋を取つたり、用箪笥の抽斗をぬいたりした。貸金の證書などは見附かり放題、老人の懐中に捻ぢ込まれた。

 暁方に三人がやつと寝床へ這入つたことを、他の者は誰も知らなかつた。
 お町が朝になつて眼を覚ました時には、母はちやんと隣りの部屋に赤ん坊と添寝をしてゐた。祖父も祖母もいつもと同じに奥の仏壇の間に静かに臥つてゐた。別に何も変つた様子がお町の眼に入らなかつた。
 その日もやつぱり曇つてゐた。頭を圧しつけられでもするやうな鬱陶しい空であつた。皆が淋しい顔を突き合はして朝飯を済ました処へ、突然に警吏が大勢ドカ/\と家へ侵入して来た。そして、一人づゝ無遠慮に室々の押入などを開けて、行李や箱のやうなものを引摺り出した。さうして、紙に書いてあるものは一枚々々折目をひらいて読んで見た。或者はそれをポケツトへ捻ぢ込んだ。その間、家の者は残らず一室に封じ込められた。一人の背の高い警吏が襖の傍に立つて、その見張りをしてゐた。家宅捜索が全く終るまで、家の者は自由な行動を取ることを許されないのであつた。お町は祖父母や女中だちの間に割り込んで、きよろ/\としてゐた。各自の心には激しい危懼が波を打つてゐた。お幾を伴れて二階に上つた一人の警吏は、却々下りて来なかつた。お町は自分の家の中が、此人だちの手に取調べられるのだ、といふことだけがうなづかれた。
 大分してから、今度は又お幾に案内させて、警吏だちはぞろ/\と土蔵へ行つた。一室に封じられた人だちはオド/\として落着かなかつた。腹を空かして此怖ろしい事の終りを待つより外為方がなかつたのである。
 午後になつても、日が暮れても、誰も土蔵からは出て来なかつた。そして土蔵へはぼんぼりが幾つも運ばれた。寒い風が土蔵の後の畑からひや/\と吹いてゐた。
 一室の人だちがやつと許された時に、お町は狐鼠々々と台所からまはつて土蔵の方を見た。土蔵の入口の石段の傍に警吏が一人のつそりと魔の影のやうに、白壁の前に突立つてゐるのが見えた。細い月が斜つかいに白壁に淡りと映つてゐた。
 その時警吏だちは土蔵の床板をまくつて、其処へぼんぼりを差しつけながら、皆して腰を折つて床下を覗いてゐた。一人の顎髭の濃い警吏は、もう大分怪しいと認めた書類を見出したやうに、大切さうにして抱へてゐた。お幾はかうなつたら度胸を据ゑてしまつた、といふ風に、気の揚つた眼つきをして、彼等の云ふがまゝに何処でも開けて見せた。それには昨夜よつぴてかゝつて、自分だちが先に調べておいたといふ安心も幾らか伴つてゐた。高く翳されたり、低く床下へ落ちたりするぼんぼりの灯が、金網の中から人魂のやうにチラ/\してお町の方に見えた。お町は只管に怖ろしいと思ふ外何もなかつた。「土蔵の神様が見てゐられる」さう考へて彼女は顫ひ上つた。
 ひつそりと寂滅したやうにしいんとした家の中に、ときどき赤ん坊の鋭い泣き声が蹴立たましく聞えてゐた。その夜も為造は帰つて来なかつた。

 幾日経つても為蔵は家へ帰つて来なかつた。お町はその訳を母に訊ねなくとももう分つてしまつたやうな気がしてゐた。母に訊ねて確にさうと答へられた時の自分自身の悲しみが思はれて、お町は強いてそれを訊ねまいと決心したのである。
 ある朝お町は何気なく台所へつか/\と走つて行つた。その時母が春慶塗の重箱に弁当を詰めてゐるのを見た。牛肉の山椒煮だの、慈姑の旨煮などがつめられた。お町はそれを不思議に感じて、わざと気付かないやうな風を装ひながら、ぢつと傍から眸をそゝいだ。その弁当が毎日つゞいた。お町はその弁当を何処かで自分の父が喰べるのにちがひないと思つた。お幾は毎朝その弁当箱を下げて外へ出て行くのだつた。雨が降つても風が吹いても、彼女は自分でそれを持つて出た。そして、帰りには屹度空の弁当箱を下げて来た。
 お町は父が過日巡査と一緒に出て行つたきり戻つて来ないのだから、父は今だにまだ警察にゐるのだらうか、そして、其処で父はあのお弁当を一人で喰べるのだらうか、などといろ/\に考へた。警察では父の弁解にまだ疑惑を抱いてゐるので、それで父を家へ帰してくれないのだらうと思ふと、源右衛門が最後に叫んだ「泥坊」といふ言葉が彼女の小さな魂を脅かすのであつた。
 お町は兄と弟と三人で毎日小学校へゆくのだつたが、この頃は誰も友達にしてくれないので、一人で黙つて運動場の隅などで泣いてゐることがあつた。つひ此間まで仲よくして遊んでくれた友達も、父が家にゐなくなつてからは、けろりとして振り向かないのであつた。遠慮がちなお町はかうなると、決して彼女の方からは勧んで友達を求めなかつた。そして、他の人が楽しさうに遊んでゐるのを羨しげに妬ましい眼でながめてゐたのである。

 その後弁護士がお町の家へ出入りして、始終二階で相談事があつた。「いくら金が掛つても宜しうござります。どうか無事に帰りますやうにお助け下さりませ。」
 老人はくしや/\した眼をしば叩いては、かう云つてその弁護士の前に頭を下げてゐた。お八重は弁護士を後から拝むやうにして、一人で何やら呟いてゐた。お幾は深い黙想にのみ陥つて、弁護士の顔を見ると、只縋るやうな表情をおくつたきり口を噤んでゐた。
 これまで出入りした人だちは、皆云ひ合はせたやうに戸田の家に足踏みしなくなつた。下女も一人暇を取つた。厄介に来てゐた夫婦者も、いつか去つた。家の中はだん/\と人気を離れ、世間から遠ざかつて、洪水のあとのやうに孤独な淋しさに浸つてゐた。さうして春も逝いた。
 夏が来た。太陽の光線がやがて強い光を軒並の低い街に投げて、新緑を吹くそよ/\した微風がそよいだ。空が明るくなつて、北国の暗さに慣れた人々の顔にも、どことなく生々とした活気が見えて来た。お幾は黒い洋傘に沈んだ顔を深くして、まだ弁当箱を下げながら青葉の蔭を縫つて出る日がつゞいてゐた。
「お父さんはもうぢつきお家へお帰りになるよ。」
 お幾はとき/″\彼女の方から子供だちにさう云つて、自分自身を慰めるやうにした。けれど、父は何の為めに何処へしばらく行つてゐるのか、それは決して子供だちに話さなかつた。沈黙と静寂と暗鬱と秘密と、そんな気分の中に夏の熱い日が送られて、子供だちは萎みがちに育つて行つた。
 もう秋になつた。北の海の寒い風が早くもお町等の家の周囲を襲つて、陰気な空気が室々に行き渡つた。
 その日は為造の公判の日であつた。老人とお幾は朝から裁判所に出かけた。「金力」で為造の或嫌疑が晴らされるものなら、残りの財産の全部を擲つてもいゝ――さう思つて出来る限りの奔走をしたのだが、若し何としても動かすことの出来ない有力な証拠が現はれたらどうしよう――と舅嫁ふたりは胸をとゞろかせて出て行つたのであつた。
 しと/\と絹糸のやうな細い秋雨が静かに落ちてゐた。お町は何も知らないで学校から帰ると、机の上に本をひろげておとなしくしてゐた。もう淋しくて/\どうすることも出来なかつた。自分にはお父さんがあつてもないと同じであるやうな気がして、此頃の肩身の狭さがつく/″\思はれた。
 夕方になつて、老人とお幾はしほ/\と帰つて来た。そして、お八重をよんで二階に駈け上つた。お町はふと怖ろしい凶事の暗示に打たれて、バタ/″\と母の跡から二階に上つて行つた。其処で母と祖母とが気狂ひのやうに身を悶えて泣いてゐるのをお町は見たのであつた。お町は一緒になつてわあと泣き出してしまつた。
 為造は遂に「無罪」にならなかつたのであつた。皆は死人のやうに青ざめて、取返しのつかない絶望の底に陥つてゐたのであつた。
 その翌くる日から、お幾は弁当箱を下げて出ることを止めてしまつた。悲惨な運命の手がだん/\といよ/\大きくひろがつて、一家の幸福が永遠に失はれてしまつたのであつた。

 木の葉が紅葉しかけた頃に、もう北国の冬が来た。時には霙まじりの冷たい雨がじく/″\と低い軒に降りそゝいだ。お町の家の中は一日々々と暗さを増して行つた。
「誠にはア何とも申訳がござりませぬ。如来様に申訳がござりませぬ。勿体ないことでござります。」
 掻き口説くやうに、さう云つては仏壇の前に額づいてゐる老母の姿が、哀れにも可憐らしく見えた。観音開きの金の扉に、ちよろ/\と映る蝋燭の灯影が、朝から晩まで絶え間なくゆらめいてゐた。此家の最後の運命が、やがて悉くその赤く黒い灯影の渦の中に葬られてゆくのだつた。
 春になつて取外された「雪除」が再び庭の植込を取かこんだ。栗の葉が土蔵の裏手にほろ/\とこぼれては、堆く積まれて行つた。
 二三日あたゝかい小春日和がつゞいた。ある日お町は兄や弟だちと一緒に、祖母と母とに伴れられて、何気なく外へ出た。何処へつれて行かれるのか、子供たちは知らなかつた。
「いゝ処へつれて行つてあげるよ。」
 とも何とも母は云はないで、黙つて子供だちを外へ伴れ出したのであつた。父がゐなくなつてからは、凡てに一層沈黙を守つてゐるお町は、ぢつと母の顔色を読むばかりで、それを訊かうともしなかつた。この頃は外へ出るたんびに、街の人から自分だちの顔を注目されるやうで、お町等は気が引けてならないのだつた。母と祖母は肩をすぼめるやうにして、彼女等の知合の家の前をなるだけ避けて、裏通り裏通りと忍びやかに子供等を伴れ出してゐた。子供だちは街の人々を見るのを虞れるやうに、母と祖母とに別々に手を引かれて、なるだけ眼に立たないやうに、路の両側から離れ/″\に歩いてゐた。

 街端れの大川に長い長い橋が架つてゐた。昔は船をつないでその上に板を並べて、僅に人を通してゐた、と云ふので、その橋は今でもやつぱり「船橋」と呼ばれてゐた。お町等はしばらくその橋の上に立つて、広々とした静かな四辺の秋色を眺めてゐた。遠くに霞む加、越、能の低い山脈が、只ぽつとして雲のやうに望まれたが、近くの麓に木の葉の紅葉したのが、美しく油画のやうに仄されてゐた。遊園地などのある一里ばかり先の山へ、茸狩などに散策する女だちの赤い蹴出しや、茵を肩にした泥酔の男だちが、ぽつり、ぽつりと橋向ふから帰つて来るのもあつた。街の人だちは春秋の二季に、その山へ遊山に行くのを、一年中の娯楽の一つとしてたのしんでゐるのであつた。お町等子供の胸には、今年はそんな遊山にも行かれなかつたことが、やつぱり悲しいことの一つに数へられた。
 川の水の音もなく橋の下にひや/\と流れてゐた。お町等は此川へ去年の夏までは、七夕の夜になると、各自に新しい浴衣の粋を競ひながら、皆して賑かに短冊を結びつけた笹を流しに来た。盂蘭盆になれば、街の人々と争つて我先きと精霊の迎ひ火や送り火を焚きに来たのである。
「お精霊! お精霊!」
 河原のあちこちに大人や子供だちのそんな声が聞えた。ペロ/\と赤い火焔を吐き出す麻木の一束の尖に燃える火が、嬉しげに、楽しげに子供だちの小さい手によつて渚に振翳された。母親に手伝はれてやつと麻木を振つてゐるまだ頑是ない子もあつた。川には流し火が沢山にながされて、消えては燃え、燃えては消えつ、流れに添うて、下手へ下手へと相寄り相去りながら微笑み交はして、水の上を流れて行つた。子供等はその映しい光景に見恍れて、どんなに歓喜の声を上げたか知れなかつた。
 けれど、今年は全く幽閉された門内に、いぢ/\としてお町等は育てられた。七夕の短冊も書くにはかいたが、その夜遅くに人々の出盛つた跡で、こつそりと家僕の手で川へ投り込まれてしまつたのである。
 さうして盂蘭盆の精霊は、墓に灯を入れて帰ると、その儘家の二階から、僅に赤く仄された川の方の空をおのゝいだ心で仰ぎ見たゞけであつた。
 お町はそんなことを考へて、悲しくやる瀬ない幼い涙が眼瞼に滲んで来た。何も彼も父一人の所為である――源右衛門が悪いのだ、とさう思つて涙が滲んで来た。
 一年々々とだん/\水量を減じて行つて、今では全くひろ/″\となつた河原に今雨に洗はれたやうな、褪めた朱色の筒袖と洋袴をつけた囚徒だちが大勢出て、何処からか切々と砂を運んでゐた。川から打上げられては真白に乾いた小石の多いその河原に、点々として描き出された朱色の一つ/\が、うらゝかな暮秋の光りに包まれて、画を見るやうに散りこぼれてゐた。黒い制服をつけた役人が、あちこちにうろ/\と立つて、彼等の労働を監視してゐた。
 お町は外へ出た時に、ちよい/\街端れの監獄に収容された囚徒だちが、看守に伴はれて往来を通るのを見た。そのたんびにお町はその囚徒だちが、嘗て何か悪い行為をしたからこんな賤しい姿になつてゐるのだと思つて気持がわるくてならなかつた。お町は今も河原に苦役してゐる沢山の囚徒たちを見て、小さな胸を緊められるやうな気がした。こんな醜い、浅ましい姿になるやうな、そんな悪い行為を、なぜ彼等はしたのだらう、とお町の可愛らしい眸がいつか又潤んで来た。柔かい日光の下に溶け合つた囚徒だちは、いづれも自分々々の定められた運命に従つてゐるやうに、奴隷の如くに点々としてその労働に努めてゐた。静かに晴れ渡つた美しい自然は、彼等運命児の一団をひろ/″\と取巻いて、のどかな優しい慰めを齎らしてゐた。彼等は二人づゝもつこを担いでは往つたり来たりしてゐた。
 お幾はさつきから一心に何者かを見附け出さうとして、一生懸命になつて彼等の仕事を忙しい眼遣ひで眺めまはしてゐた。
「あれ/\、彼処のそれ、今看守の後で沙をあけてゐる、此方の方のがそれでござんす。あの大きな沙山に二人して沙をあけてゐませう。あの背の低い方にちがひありませんよ。分りましたか、すつかり年をお老りなすつてね。」
 ふとかう云つてお幾は姑の手を取つたのをお町は見た。祖母はどれ/\と橋の欄干にしつかりと獅噛みついて伸をしながら、しよぼ/\した眼を一杯に※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。祖母は「為造の姿が見附かつた」と云ふ刹那の意識に幻惑されて、怖ろしい物でも見るやうに意気地もなくよち/\と足を踏んまいてゐるのだつた。気丈なお幾も、かうやつて遠くから見下して見た我夫の現在の姿に、胸が一杯になつて涙がつき上るやうに迫るのを覚えた。
「好い塩梅でござんしたね、見附かつて。」
 お幾は声をふるはせながら半巾を眼にあてた。
 やがてお幾は姑と三人の子供を促して、何気なさゝうに橋の下へおりて河原へ出た。ぶら/\と晩秋の郊外を散策する気楽な家族の一群のやうに、お幾は装うてゐるのであつた。囚徒等は入り代り立ち代り、向ふの沙丘から二人して畚を担いで来ては、沙を打撒けて行つた。彼等の労働には一分間の油断も許されなかつた。彼等は丸で器械のやうに手足を動かして、沙を運んで来ては打あける、といふそれだけの単純な仕事を、何度となく日の暮れ方まで繰返すのであつた。その間には無論他の者との対話も出来なかつた。彼等は唖の如くに口を噤んだきり、役人の無慈悲な見張の下に、孜々として苦役してゐたのだつた。
 彼等の様子を熟視してゐたお幾は、むづ/\とした手つきで、脇に抱へてゐた風呂敷包を解いて、中からそつと紙に包んだ丸い物を取り出した。さうして、お幾はさつき橋の上で眼をつけておいた二人の囚徒を見出さうとして、頻りと用心深い眸を配つた。お幾の眸が脆くも涙ぐまれて、唇がぢきにピリ/\とふるへた。その時に向ふの小高い丘から下つて来た二人の中の、背の低い方の囚徒が、沙をあけしなにふとお町等の一行に鋭い視線を向けた。さうして、又そのまゝ何喰はぬ風に彼方の崖を越えて行つた。彼の眼に涙が滲んでゐた。短かく刈り込まれた頭髪に、いつか白い毛が一杯光つてゐた。お幾は唇を噛みながら、看守の眼を忍んで、今の二人が盛つて行つた沙山の辺をぶらつきはじめた。看守はそろ/\とお幾の方を後にして他の囚徒を見守つてゐた。
 お幾が紙に包んだ丸い物を手早くその沙山の一部に埋め込んだことを看守は知らなかつた。お幾は間もなく引返して、此方の崖に腰をかけて煙草を飲みはじめてゐた。
 併し、お町は母のすることをぢつと此方から瞶めてゐたのである。あの紙包は母が途中で買つた「大福」であることを、彼女は知つてゐた。お町はどうなることかと、忽ち或抑へがたい恐怖に襲はれた。
 しばらくすると、さつきの二囚徒が又畚を担いでやつて来た。彼等は例の沙山に沙をあける時に、背の低い、顔色の脆弱さうな方が、素早く沙の中の秘密の贈物を見附け出した。彼は畚の下で掴み出した大福餅を、もう一人の相棒にも握らせた。さうして、彼等は物の見事にそれを二つ三つ頬張つた。お幾は急いで老母や子供たちの耳に口を寄せた。
「あれがお父さんだよ。」
 取り詰めたやうな、熱い息を吐いて云ふ母の言葉を耳にした時に、お町はぎよつとした。母が今父と呼んだ方の囚徒が、長い間自分の心に求めて止まなかつたその父であらうとは、お町にはどうしても信じられないのであつた。お町はすぐに家へ逃げて帰りたくなつた。此春、巡査と一緒に家を出て行つた父が、到頭こんな群の一人となつてゐるのかと思ふと、父を慕ふ少女心には、それが屹度人違ひでなければならなかつた。お町はもう一度注意してよく/\彼を見た。彼は全く自分の父に相違なかつた。自分を最も寵愛してくれた、その父に相違なかつた。彼は沙をあけにくるたんびに、窃に対面に出て来た年老つた母や、いとしい妻や、可愛い子供等の佗しさうな姿を、懐かしげに、悲しげに見やるのであつた。干乾びた彼の頬に幾条となく涙が流れた。
「いとしやまあ、いとしやまあ、あないな醜態になつて、どないにか辛からう。恥かしからう!」
 祖母は云ひ/\、しく/\と泣き沈んでゐた。
「年老られましたね、でもまあ思つたよりは丈夫さうでござんすよ。」
 母は泣咽くつては鼻をすゝつてゐた。子供たちは淋しさうに其処にたたずんでゐた。

 その頃から一月に一度ほどづゝ、お町の家へ夜おそくにこそ/\と忍んで訪ねてくる人があつた。その人は来るとすぐ二階に通つて、家の人だちとしめやかに話し合つてゐた。それはお幾の遠縁にあたる人で、為造が収監されてゐる獄内の看守だつた。その人の顔を見ると、皆は手を合せないばかりにして、為造の安否を訊ねた。時には小さな手紙の丸を為造に渡して貰へることもあつた。
「便所の窓から投げてやるのです。」
 彼は遺族に対する憐愍の情から、とき/″\さうやつては為造に秘密の通信をしてくれたのである。或時は為造からの簡単な言伝を齎してくることもあつた。けれど、あらゆる手段も方法も、与へられた苦役の年月内に、為造を家へ伴れ戻し得る便宜とはならなかつた。為造の特赦を、機に乗じて典獄の前に挙げてくれるその人の好意も、容易に功を奏しさうにもなかつた。
 一月に一度か、二月に一度、稀に訪ねてくれるその看守が来て行つた翌くる日になると、何処かで屹度為造に会へるのだつた。ある時は船橋の河原に、ある時は街の地守に、面伏な傷ましい姿の為造を家の人だちが見出すことが出来た。お幾はだん/\と「すし」や「きんつば」などを小脇に隠してゆくやうになつた。一言をも交へることを許されない、さうした悲しい親子夫婦の対面が、その後幾度かつゞいて行つたのである。
 併し、お町は最初に一度河原へ母だちと行つたきり、再び行かうとは云はなかつた。「父」といふものに対する生々しい傷手が、だん/\とその疵痕を深くして幼なき身に喰ひ入つて行くのだつた。お町は父を慕ふの念と、父を嫌悪する念とに小さな頭脳を昏乱された。さうして、お町はもはや永久に父を失つたやうな気がした。淋しい頼りない涙が、ひとりでに彼女の乳色した頬に流れた。
 その頃からお町の幼い頭脳に、此家を出よう、あの父を生んだ此暗い家庭からいつかは離れてゆかねばならない、といふやうな思慮が、ぼんやりとそのいとけない胸に兆して来たのであつた。

底本:「ふるさと文学館 第二〇巻 【富山】」ぎょうせい
   1994(平成6)年8月15日初版発行
初出:「文章世界」
   1910(明治43)年4月号
※「しげ/″\」「バタ/″\」「じく/″\」は、底本通りです。
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2011年3月27日作成
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