あらすじ
「新撰組」は、幕末の動乱期に生まれた、官許「浪士組」から派生した組織です。清河八郎の建白によって結成された「浪士組」は、攘夷を掲げながらも、その実態はさまざまでした。尊攘派、公武合体派、そして幕府の思惑が入り乱れ、やがて内紛により分裂。近藤勇率いる試衛館派が中心となり、「新撰組」と名乗り、京都の治安維持という新たな使命を担います。
 れ非常の変に処する者は、必らず非常の士を用ふ――。
 清河八郎得意の漢文で、文久二年の冬、こうした建白書を幕府政治総裁松平春嶽まつだいらしゅんがくに奉ったところから、新撰組の歴史は淵源するのだが、この建白にいう「非常の変」には、もうむろん外交上の意味ばかりでなく、内政上のいみも含まれていた。さて幕末「非常時」の主役者は、映画で相場がきまっているように「浪士」と呼ばれたが、その社会的素性は何とあろうか。
 文久二年の春の伏見ふしみ寺田屋てらだや騒動、夏の幕政改革、秋の再勅使東下――その結果将軍家は攘夷期限奉答のため上洛することとなり、その京都ではすでに「浪士」派の「学習院党」が陰然政界を牛耳ぎゅうじっている。時をえた浪士の「非常手段」は、文久二年師走以来の暦をくってみるだけでも、品川御殿山ごてんやま英国公使館の焼打、廃帝故事を調査したといわれたはなわ次郎の暗殺、京都ではもうひとつあくどくなって、「天誅てんちゅう」の犠牲の首や耳や手やを書状に添えて政敵のもとへ贈り届ける。二月になると京都の岡っぴきは皆怖がって引退する。
 このような事態のうちに、清河八郎の建白による「浪士組」が、組織され、やがて分裂してそのなかから新撰組が、討幕派浪士を検索する京都特別警備隊としての役割につくが、こちらのほうもやっぱり同じ「浪士」である。この浪士とかの浪士の、同一性と差異性をあきらかにするには、それによってひろくは幕末非常時諸戦士の社会的素性の問題にも触れ、やがて新撰組の歴史を釘づける運命的な地盤そのものに達するには、伏見寺田屋事件をかえりみるのが近道だろう。
 幕政改革をめざす折衷派の盟主島津久光しまづひさみつが上洛するその直前をねらって、七百の同志をもって伏見と江戸で同時に事を挙げ、京都所司代しょしだいと江戸閣老を斃し、公武合体派を抑制しつつ一挙「鎌倉以前の大御代を挽回」するというのが、寺田屋に憤死した「浪士」派の、粒々半カ年にわたる工作の荒筋だった。この工作途上に、ことに前半、非常に大きな宣伝煽動家の役割をしたのが清河八郎、庄内しょうないの酒造家で豪農で郷士だった家柄の長男に生れ、江戸へ出て文武の道場を開いていた。ブルジョア地主出身のいわばインテリで白皙はくせき長身、満々たる覇気と女郎買いをしたことまで日記につける律気さがある。文久元年秋から二年春へかけての彼の活躍の跡を、なかんずくその連絡の結節をたどってゆくと興味深い。
 清河一味を京都における討幕派巨頭田中河内介たなかかわちのすけに紹介したのは京都の同志で医師を職業とした西村敬蔵けいぞう。河内介その人も本来但馬たじまの医師の次男坊で、中川家諸大夫田中氏の養子となったものである。万延以来、鹿児島の町人で郷士是枝柳右衛門これえだりゅうえもんを通じて薩州その他九州の尊攘派と連絡がついているので、中山忠愛ただなる卿の教旨を持たせて清河らを肥後ひごに送った。肥後の同志は直接ブルジョア的地盤を欠いている点に特色があったが、それだけ極端な尊攘派で、国学者や神主やを中心に、軽格士族が多く組織されていた。ところで肥後に会同した清河その他に、薩藩左派の抬頭を報じてやがて薩藩極左派と連絡できる素因をつくったのは長州竹崎の商人白石廉作しらいしれんさくである。薩藩は文久元年十月来公武合体派たる誠忠組の天下となって、応じて極左尊攘派も進出して、その領袖は藩校の国学教師有馬新七ありましんしち、無数の糸で町人身分と連がる外城郷士達が組織されていた。
 寺田屋事変前後彼らはすべて脱藩してその限りで「浪士」であった。だが全体としての寺田屋派を仔細に見れば、烈々たる士たり農たる諸要素はいわば鉄片であって、どこかブルジョア的導線につながる一脈の黄色い火薬がこれと点綴していることが伺われる。この導線こそ維新変革史を通じて一貫した「左派」の特質であった。
 これにたいして清河八郎の建白によって成った官許「浪士組」は、もう右の導線からは遮断された存在だった。いかにもそこにはすべての範疇の「浪士」が含まれた。一片一片の要素としては「左派」浪士団に存在したすべてのものがここにもまた馳せ参じていた。文武道場の主として民間に覇を称えた者も、水戸長州等東西南北の脱藩士も、地主層出身も、「甲斐かい祐天ゆうてん」事山本仙之助一党のごとき無職渡世流も――。
 しかもすべてがこの場合もまた、あるいは身分制度にたいする言路壅蔽げんろようへいにたいする、外夷跳梁にたいする、物価暴騰世路困難にたいする、それぞれのうつぼつたる社会的不満を、ひとしく「尊攘」の合言葉にかけて馳せ参じたものである。
「幕府の御世話にて上京仕り候へども、一点の禄相受け申さず候間、尊攘の大義相願ひ奉り候。万一皇国を妨げ私意を企て候ともがらこれあるに於ては、たとへ有司の人たりとも、いささか用捨なく譴責仕りき一統の赤心せきしんに御座候」(朝廷への「浪士組」建白書)。
 嘘でもペテンでもなく、またあながち幕府への謀叛とも断ずるわけにはゆかなかった。けだし文久非常時の合言葉「尊王攘夷」は、幕政改革以来少くとも表面ではまだ幕府の――すなわち薩越一橋水戸などの公武合体派の指導下に立った改造幕府の――合言葉ともなっていたから。
 清河八郎の役割は――その意志はべつとして――ただスイッチを切り換えたのである。近代資本の方向に通ずる導線から封建支配の中央部へじかに連結するそれへ。すでに彼は寺田屋事件の直前、その煽動家的資質がわざわいして従前の同志から除名されていた。「浪士組」組織後はもとの関西同志から裏切者として指弾された。それにもかかわらず八郎の素志が、老中板倉周防守いたくらすおうのかみの刺客にたおれる瞬間まで、いささかも変らぬ尊攘の赤心に貫かれていたことは、遺稿からも一点疑を容れぬ事実である。一歩進んで、八郎のこんたんが幕府の力で浪士を集め機を見て討幕に逆用するにあったという、稗史はいしの臆測を是としてみてもかまわない。問題は意志――ただしこの場合討幕の――いかんにあるのではない。非常時建白の瞬間から、意志実現のための客観的地盤を永遠に喪失したという、意志の彼方かなたの事実のなかに横たわっている。

 京都守護職松平容保は純情一徹の青年政治家である。公武合体=尊王攘夷のたてまえに――この、本来過渡的な、折衷的な政治綱領を過渡的折衷的なそれとせず、純一むくにこれに終始せんとした珍しく一本な政治家だった。官許「浪士組」に馳せ参じた諸浪士たちはこの松平容保のなかに、そのいみで自己の同一物を見出すことができたであろう。
 非常時京都の警視総監として何よりも検索しなければならぬ「浪士」のなかに、松平容保は他のあらゆるものを――たとえば身分制度にたいする、言語壅蔽にたいする、外夷跳梁にたいする、物価暴騰世路困難にたいする彼らの不満を。またたとえば彼らの背後にある時は「長州」を。のちには「薩州」を――認識することができたが、ただ一つ、これらの基底にあって、これらすべてを「歴史」の爆薬に転ずる一筋の黄色な導線にだけは、最後まで気がつくことができなかった。
 守護職松平肥後守は、「浪士」を無下むげに弾圧する代りに、これを理解し、善導することを念願した。清河と一緒に「寺田屋」派から分離しのち天誅組の謀主となって斃れた藤本鉄石ふじもとてっせきらまで、一時は黒谷くろだにの肥後守を訪れることがあった。
「攘夷御一決のこの節、御改革仰せ出され候に付ては、旧弊一新、人心協和候様これなく候ては相成らざる義に候ところ、近来輦轂れんこくの下、私に殺害等の儀これあり、畢竟ひっきょう言語壅蔽ようへい諸司不行届しょしふゆきとどきの致す所と深く恐れ入り候次第に付、上下の情実貫通し皇国の御為御不為に係り候儀は勿論、内外大小事となく善悪とも隠匿致し居り候事ども、いささか憚りなく、筋々へ申し出づべく候。但し忌諱きいを憚り候儀もこれあり候はゞ、封書にて直様すぐさま差出し申すべく、また(肥後守)自身聞き届け候儀もこれ有る可く候」(文久二年二月)
と布告してもみた。浪士の暴状にたまりかねた将軍後見職一橋慶喜ひとつばしよしのぶが一網打尽的弾圧政策を肥後守に強要したのにたいして、職けんを賭してあくまで反対し、ついに反対し切ったのもその頃だった。「浪士組」が関東から上洛してきたとき、松平肥後守の手文庫のなかには、べつに藤本鉄石以下の「京都方浪士人別にんべつ」というのが秘められていた。要は「浪士」の要求を聞き、公武一和して尊攘にまい進すれば、文久非常時を立直すことができると、かたく彼は信じていたのだ。
 だが、はたして「尊攘」はすべての矛盾を解決する鍵たりえたか? それどころか、討幕派にとって「尊攘」は矛盾をいよいよ発展させるための合言葉としてとりあげられていたのではないか。尊攘挺身隊をもって自任する合法「浪士組」と、同じく尊攘挺身隊をもって自任する「京都方浪士人別」とをすら、わが肥後守はもう握手させることができなかったではないか。それどころか、合法「浪士組」と非合法浪士派とは、京都で顔を合わせた瞬間からもう挑みあい、掴みあい、警視総監としての肥後守をいっそう多忙ならせたではないか。
 そこで「浪士組」は滞京わずか二十日ほどで再び江戸へ帰された。公式の理由は、折から切迫した英幕危機に備えて、関東で攘夷先頭を承われというにあった。だが彼らが肥後守と京都を後にした瞬間から、江戸幕府にとっては、ただまっとうに「攘夷」の素志があるというだけですでに厄介な代物だった。英幕危機が高潮に達し、同時に英幕講和が極秘裡に画策されつつあった四月中旬に、清河以下「浪士組」領袖が、長州でも肥後守でもなく幕閣の秘密命令で一網打尽にされるには、必らずしも清河らの討幕陰謀を必要としまい。領袖を奪われて改組された「浪士組」――「新徴組しんちょうぐみ」は、もうただ従順な幕府の番犬だった。
 とすれば、「浪士組」東下に際して、特に「尽忠報国有志の輩」として、総員二百二十一名のうちから二十名足らず、京都にふみとどまって組織した「新撰組」は、どんなものであろうか。

 わずか一割に足らぬ残留組の中心は常陸ひたち芹沢村の郷士芹沢鴨を首班とする水戸浪人の一派で、京都の政情に望みをかけ、中央――京都における合体尊攘方策の即時実現をまだ夢みていた。武田耕雲斎たけだこううんさいのごとき水戸尊攘派領袖が慶喜側近として京都に頑張り、見込違いをまだまだ悟りきれなかった折柄のことである。他半は近藤勇こんどういさみ一派。
 三月に組織されたときの新撰組では芹沢が局長筆頭で、三名の局長中二名まで水戸派、第三筆頭が近藤になっている。守護職肥後守の管轄に属し、組としての最初の建白は
「叡慮につて大樹公御上洛の上、攘夷策略御英断これあり候事と、一統大悦奉り候ところ、明(三月)二十三日大樹公御東下の由承り驚き入り奉り候。大樹公攘夷の為しばらく洛陽に御滞留遊ばさるべき旨御沙汰に付、天下人心安穏に相成り候ところ、はからず明二十三日御下向の趣承り、天下の安危此時に懸り、止むを得ず毛塵の身を顧みず愚案申し上ぐべく候。し御下向遊ばされ候ては天下囂然ごうぜんの節、虚に乗じ万一謀計を為す者も計り難く候。何卒今暫く御滞留遊ばされ候儀然るべくと恐れながら奉り存じ候。云々」。
 時局収拾のため合体尊攘即行に望をかけた水戸派および肥後守のたてまえをそのまま表現したものだが、いつまで経っても事志と違うにつれて、芹沢派はいよいよただの乱暴者に還ってしまった。
 こんなふうで文久三年三月から九月までの新撰組の最初の半カ年間は、ほとんど仕事らしい仕事をしていない。この間に文久政変中最大のクーデターだった八月十八日の変が起って、新撰組は当日御所警備を命ぜられ、翌日から市中見廻りの任務についたが、いわゆる「新撰組」調子の大活躍は、芹沢一派の人をくった乱暴沙汰を除いては、なに一つまだ見られない。
 九月十六日、新撰組は肥後守の内命によって芹沢一派の清掃を決行し、近藤勇の峻厳な統制の下に改組された。この日から松平肥後守は、新撰組において、はじめて腹の底から信頼できる自己の手足を見出したのである。

 前年の冬、江戸で「浪士組」に馳せ参じた、清河のいわゆる「非常の士」二百数十名の中で、近藤勇を盟主とする試衛しえい館派数名は、何ほどの注意にも値しないものに見えた。勇は単なる平隊士、芹沢鴨は本部付幹部、上洛の宿々では芹沢のため宿舎割の苦労もなめた。
 勇にはそれまで国事に奔走した経歴もない。どこそこの藩士でも脱藩者でもない。牛込柳町うしごめやなぎまち天然理心流道場試衛館の若主人といったところで、道場試合は巧者でもなく、名が売れていたわけでもない。勇の身上はただその気性と胆にあったと、稗史はいしはすべて説きあかすが、気性の胆なら「非常の士」二百五十名、みんな一かどの者ばかりだった。
 ただ勇の試衛館は、たとえば斎藤弥九郎さいとうやくろうの練兵館、桃井春蔵もものいしゅんぞうの士学館――この二人とも、文久二年十二月、清河建白書の趣旨通り、与力よりき格をもって幕府に召抱えられた――同様に、しかし月とすっぽんほどの段違いの格で、江戸市中に門戸を張る武術道場の一つではあったが、斎藤、桃井らの道場とちがった一つの特徴をもっていた。特徴というのはほかでもない。試衛館が、江戸にありながら、実質上は武州ぶしゅう多摩たま郡一帯の、身分からいって「農」を代表する、農村支配層の上に築かれていた点である。
 それは手作てさくもするが「家の子」も小作も持ち、一郷十郷に由緒を知られ、関八州が封建の世となってこの方数知れぬ武家支配者を迎送しながら、「封建制度」の根底的地位に座して微動もせず存続してきた特定社会層である。
 同じ関八州でも渋沢栄一しぶさわえいいち一門や高島嘉右衛門たかしまかえもんのように、また地方はちがうが前に見た清河八郎のように、この同じ社会層のなかから同時にブルジョア的要素をも代表するものが発生して、幕末の政治史経済史を多彩にいろどっている。農村富農から藍玉あいだま仲買業や酒屋や山林業者やが派生して、必然的な道筋に添うて初期資本家を形成しても、他面彼らが依然たる封建制根底者的富農の資格をうしなっていないこと、それどころか、二つの資格は相互にからみあって、幕末維新史上の一つの特質を打ち出していること――これらについて多くいわぬとして、ここに、一方における近代的資格をほとんどまるで具えていないところの農村富農の一範疇はんちゅうが、文久非常時を契機として政治の舞台にせり出してきたとき、どんな役割をすべきか、したか。これを見るうえで、試衛館一派の歴史は珍重なものといえるであろう。
 天然理心流二代目近藤三助さんすけは武州多摩郡加住かずみ村の出、八王子はちおうじを中心に多摩地方の農村富農の子弟を「武術」の上で組織した。二代目を継いだ近藤周助しゅうすけも多摩郡小山村の「農」。その養子となって三代目を、すでに道場は江戸へ移っていたが、継いだのが近藤勇で同郡調布上石原ちょうふかみいしはら村の「農」の三男、勇の同門で盟友で幕下第一将たる土方歳三ひじかたとしぞうは同郡石田村の大百姓の末子である。道場は江戸にあっても、たえず多摩地方の農村青年の間に泊りがけで出稽古をする。試衛館何天王に数えられる沖田おきた山南やまなみ、原田、井上、永倉らといった手合のうちに、白河、仙台、松山諸藩の脱藩士があるが、このやり方ですべて多摩地方の豪農地盤と多年密接に結びつけられてしまっている。
 芹沢派清掃後の新撰組は、試衛館以来のこれら手足を意の任に動かして、近藤、土方、両名の完全な独裁が布かれた。以来、新撰組の離合集散出処進退は、この両名が代表する社会的地盤に照すことなしには理解されない。

 近藤勇が、輝ける新撰組隊長として切り結んだ敵手と同じく――否それ以上にいつまでも――腹からの「尊攘」論者だったといっても、右の地盤に照すとき不思議はなかろう。
 文久三年十月中旬といえば、すでに重だった芹沢派の清掃が済んで新撰組に近藤支配が樹立されたのちである。そのころ幕府が江戸の新徴組と共に新撰組を禄位ろくいをもって優待しようとしたのにたいして、肥後守へ上表して辞退した近藤勇署名の文中
「全体私ども儀は尽忠報国の志士、依て今般御召に相応じ去る二月遙々上京仕り、皇命御尊載、夷侠攘斥の御英断承知仕りき存志にて滞京まかり候。外夷攘払のさきがけつかまつり度き趣旨は是れ迄愚身を顧ず度々建白奉り候通り、未だ寸志の御奉公も仕らざるうち禄位等下し置かれ候ては云々」。
 そのころまた、京都における合体派諸藩の政客が万亭よろずていに会同して時局を議した席上、勇は新撰組を代表して、「薩長はさきごろ攘夷を行ったとはいえ、いずれも一藩の出来事、皇国一致して外夷をほふるの壮挙は、まだ行われていないのである。去る八月以来公武合体が実現している今日となっては、すべからく皇命を奉じ、幕府をたすけ、上下協力して国論を定め、もって攘夷の効を奏すべきである」と論じて将軍家再上洛の必要を力説した。
 翌る文久四年正月、すでに長州はじめ討幕派陣営の塵もとどめぬ、合体派天下の京都へ将軍は再び入洛したが、四月になっても攘夷方策はおろか、長州征伐の段取りすら一決せず、諸侯は気をくさらせて退京しはじめ、虚に乗じて筑波つくばに討幕の旗があがり、洛中にも怪しげな物の気配が香いはじめたというとき、将軍はあわを食って東帰を言上した。
 このとき新撰組は必死となって――隊を解散するぞといって反対した。その建白書の中で、われわれは本来公武一和攘夷決行の御召によって上京した者であって、市中見廻りのため御募りに相成ったわけでも、また見廻りの奉公のつもりで御勤めしている次第でも絶対にないのだから、攘夷御決断もなくそのまま東帰さるるようなら、末の見込もないことで迷惑の結果は、自然銘々の失策もでき、かえって公儀の御苦労にも及んでは恐入奉おそれいりたてまつるので、万一このまま御発駕になるのでしたらわれわれ一統に離散仰せつけられたい、と鬱ぼつたる語気をみなぎらせている(五月三日付老中への建白書)。
 将軍はさっさと帰っていったが、守護職松平肥後守の故に、新撰組は黙って市中見廻りを継続しているうち、一カ月目に、池田屋いけだや事件が起ったのである。
 かねてにらんでいた四条小橋の古道具屋に踏みこんで、主人を検挙して吐かせてみたら……有名なこの一件について書くまでもあるまい。池田屋で秘密に会合した討幕派の陰謀は、すでにもう「攘夷」ではなく、かえって尊攘実現のためせる思いをしつつある松平肥後守以下京都における真正合体派の権力を、一挙に清掃して政権を奪取することに懸っていた。この日以後近藤勇の新撰組には、攘夷遷延のゆえに幕府当路を責めることよりも何よりも、さしあたり第一、「尊攘」実践のための第一前件と考えられた公武合体そのものを死をもって護る使命が課せられた。それはさしづめ「長州」の、やがては「薩長」のくらやみの使徒にたいして現制度を死守する、特別警備隊の仕事であった。ブルジョア的要素に一筋の連結も持たぬ、多摩農村の封建的根底部分を百パーセント武装化した、試衛館独裁下の新撰組ほど、この任務のために不敵、真剣、精励たりうるものがおよそ他に考えられようか。

       *   *   *

 ちょうどこれで紙数も尽きた。池田屋事件の文久四年(元治元年)から、鳥羽伏見とばふしみのいくさに敗れて東帰するまでの三年間、新撰組如上の本質に、何一つ変化がなかったばかりか、隊士の離合、隊勢の発展のたびごとに、いよいよ本来の姿を明確にしてゆく。東帰後はいうもさらなり。試みに読者、しかるべき幕末史観に照しつつ、材料詳細をきわめた二つの新撰組記録、子母沢寛しもざわかん氏『新撰組始末記』、平尾道雄氏『新撰組史』、いずれも昭和三年版について考案したまえ。

底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
   1973(昭和48)〜1975(昭和50)年
初出:「歴史科学」
   1934(昭和9)年9月号
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年7月18日作成
2011年4月4日修正
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