あらすじ
「武鑑譜」は、明治時代初期の官僚制と社会構造を、当時の官僚名簿「官員録」を題材に、興味深く考察したエッセイです。著者は、官僚制の形成過程や、官僚たちの身分や権力、社会における役割などを、豊富な資料と鋭い洞察力をもって描き出します。現代の私たちが忘れかけている明治時代の官僚社会のリアルな姿を、鮮やかに浮かび上がらせる、読み応えのある作品です。戦争まえまでは、古書展でもさまで珍しがられず、古地図などにくらべて値も安かった。銀座の松坂屋まえの露店に、十数年古本をあきなっている山崎さんなどは、この方面が好きで、いつも何冊か仕入れていたが、値は特別に安かった。
もっともそれは、わたしの漁るものが珍品として値の高い古い時代のものでなく、当時ざらにあった幕末から明治初年のものにかぎられていたせいもあろう。終戦後も、山崎さんの露店は、嬉しいことにそのままもとの位置に復活しているが、幕末ものさえすでに珍奇となった。
一口に武鑑というが、大名や幕府役人の全部について巨細にしるした四冊ないし五冊ものの『大成武鑑』だの『慶応武鑑』だのと銘うったもの、それの省略懐中本で二寸に四寸五分ほどの一冊本、同じ型で頁数八、九十丁、慶応二年須原屋茂兵衛版『袖玉武鑑』というのは、大名については記さず幕府官僚のみについての武鑑であるなど、いろいろの種類があり、版元も、日本橋南一丁目の上記須原屋茂兵衛は有名だが、横山町一丁目の出雲寺万治郎以下この道の老舗がある。
ところで、さきに幕末から明治初年にかけての武鑑と書いたのを奇異に思われたむきもあろう。版籍奉還がおこなわれた明治二年七月までは、幕府はなくなって朝廷が旧幕領を直轄したというだけで、諸大名は旧体制のまま残っていたのであり、版籍奉還ののちになっても、大小名の名目が知藩事とかわり、独立の封建領主が形ばかり天皇制の官僚となったというまでのことである。
この時代の珍重すべき武鑑は――もはや武鑑とはいわず『藩銘録』と題されているのだが、わたしの手もとにあるのは明治三年庚午初春荒木氏編輯、御用書師和泉屋市兵衛、須原屋茂兵衛共同出版の、袖珍十九丁ものである。
それは藩名をイロハ順に編別したもので、イの一番は厳原(イツハラ)藩、対馬十万石の宗従四位むろん徳川時代に厳原などという藩名はなかった。以前の長州藩松平大膳大夫はここでは山口藩毛利従三位であり、前将軍家は、シの部の筆頭に静岡藩、駿河七十万石徳川従三位とあるのがそれだ。武鑑で大名は壱岐守、伊賀守、周防守であったものが、ここではすべて正二位から従五位にいたる廷臣としての序列でならんでいる。武鑑の御老中の欄に交替した譜代大名はおおむね従五位のならび大名と化しており、正二位は広島の浅野ただ一人、かれは討幕派諸大名中の長老である。薩長は従三位、土肥は従四位、これにたいして、この『藩銘録』には出てこない中央新官僚政府の指導者たちは、版籍奉還直後明治二年七月の官制改革いらい、たとえば大隈は、「民部大輔兼大蔵大輔従四位守管原朝臣重信」と下手くその筆で署名したのである。
「馬鹿にしている!」と『藩銘録』のお歴々はつぶやいたにちがいない。
このとき彼等はおしなべて、華族という身分を与えられたのであるが、そのかわりにそれまで彼等が中央政治に参与する仕組であった「上局会議」も廃止され、政治の面では完全な無力者となってしまっていた。「知藩事」での地位さえも、この『藩銘録』のでたとし明治三年の十一月には、一同東京居住を命ぜられたから、廃藩をまつまでもなく名目だけのものとなったのである。
十五年めの明治十七年、あんたんたる農業危機をバックとする自由民権運動の革命化に備えて、違警罪即決例、爆発物取締規則とともに華族令が布かれ、公侯伯子男と雛壇づけられた中へ、成上り官僚の重信朝臣や博文朝臣が頑丈な肩幅を割りこんできたかわりには、明治二十二年の発布を約束されている欽定憲法の中で、十五年前から彼等が喪失したきりの政治的発言権の特等席を、「準備してありますよ」と、耳うちされたことでもある。
その光輝ある第一議会が開かれる明治二十三年の二月の、京橋の博公書院の発行で、武鑑でおなじみの須原屋茂兵衛や出雲寺万治郎が販売書林として名をつらねている『改正官員録 甲』という一冊もここにある。
和紙四つ折百八十六丁、五号活字二段組でぎっしりつまっているのが、内閣総理大臣兼内務大臣陸軍中将従二位勲一等伯爵山県有朋を筆頭とし、監獄石川島分署看守副長十等野口正義を末尾とするところの、当年の大日本帝国文武百官の一覧簿をなしているのだからみものである。
まったく、わたしはこの一冊を入手してこのかた、ここに盛られた人数を数えあげてみたいという衝動にいくたびか駆られたことを告白する。内閣、枢密院、宮内省外務省以下各省、と目次風に披露しただけではピンとこないだろう。
だが、たとえば陸軍省の調べでは本省から憲兵隊から参謀本部監軍部はもとより、近衛、第一ないし第六師団の全部について、各連隊もしくは特科大隊にわけて士官候補生以上はすべて記されており、海軍などは軍艦別にして上等兵曹、機関士、船医師まで記されているのだから、「防諜」の恐怖耳底に存する者は顛倒するであろう。警視庁と各警察は警部補まで、この調子で裁判所、大学、高等中学校からはては官営工場たる富岡製糸所にいたるまで、およそ「官員」たる者のいっさいがつくされ、その全部に位階勲等があり、巻頭の年俸表月俸表と対比すればただちに各人の俸給がわかり、おまけに長と次長のつく者については住所まで書かれているのである! そのサンプルを、秘書官原敬や三等技師下後藤新平や、奏任五等珍田捨巳等々について示せば興味はつきぬだろうが紙数がつきた。
ところで、この書こそまさに固有名詞として集計された明治官僚制そのものであった。徳川時代の官僚名簿は「武鑑」とよばれたが陸海軍まで網羅した明治官僚簿が「官員録」と表題されていたことは、ことの本質にふれているともいえるのである。
了
底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
1973(昭和48)〜1975(昭和50)年
初出:「文藝春秋」
1947(昭和22)年7月号
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年8月4日作成
2011年4月4日修正
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