「額の男」の著者が普通の小説家を以て任ずる人でない事は云ふまでもない。從つて尋常の小説を書く積りで、「額の男」を書いたのでない事丈は誰の目にも明らかである。こゝ迄は此の書を一寸二三頁でも引剥がしたものにはすぐ氣がつく。けれども其れ以上の問題になると中々分からない、「額の男」を通讀して其の批評を書くつもりの余にも述作上にあらはれたる如是閑とは如何なる人で、如何なる意味で此の書を著はして、又何が故にかゝる調子の變つたものを公にして、又何が故に斯う云ふ變り方を選んだものであるか甚だ不明瞭である。それ所ではない。此書の普通の小説と變つてゐる所はどこが特色だらうと思つて、一寸人に説明したくても容易に判然たる即答が浮かんで來ない位である。
して見ると、此の書が普通の小説と、どういう風に違つてゐるといふ箇所を擧げる丈でも既に一角の批評である。決して無益な事とは思はれない。それを極粗末ながら一言で述べて見たい。
普通の小説に於て興味の中心となるものは篇中人物の關係甲が如何にして乙に移り行くかを讀者に指示する所にある。此の關係甲が移らんとして移り得ぬ場合や、又は乙に行くべくして却て丙に行く場合や、又は甲から動いて再び甲に戻る場合は皆此のうちに含まれた特別の場合にある。偖此甲が乙に移るには昔風の運命といふものが手傳ふかも知れない、又今の人が唱へる神祕的な要素が働くかも知れない、或は偶然な外界の事情に制せられるかも知れない、若しくは篇中人物の主義の有無、教育の高低、地位の上下と其の意志の強弱とによつて制せられるかも知れない。
此れ等の要素が入り亂れて、人物がどう動くかといふ有樣を、篤と納得させる樣に書き卸して行く所に、讀者の興味が集中して來るのである。
して見ると普通の小説では、移ると云ふ事が主眼になる。如何に旨く移る、如何に自然に移る、如何に讀者を啓發する樣に移る、如何に讀者を驚かす樣に移る、如何に讀者の頭を屈伏させる樣に必然に移る、――是等が此の興味を圍繞する諸條件である。
所が「額の男」を見ると此の移るといふ事が殆どない。篇中人物の關係は始めから終わり迄略同樣である。よし多少の變化があつても、書中に書いてある諸條件から因果律で押し轉がされて移つたものではない。頁以外から抛げ込まれた外發的の因數で移つて居る。だから「額の男」の興味は、普通の小説のそれの如く、篇中人物の關係甲が乙に移る所に存すとは云はれない。
では「額の男」の興味は何處にあるか、余の見る所では、全く篇中人物の意見其のものゝ興味である。篇中人物の意見と云ふ意味は、まあ斯うである。――普通の小説の中で第一流の作と稱せられるものゝうちでも篇中人物の抱いてゐる意見丈拾つて讀むと極めて詰らないものがある。それはその筈で、隨分下等社會の勞働者や、山の中の無教育ものが雄篇大作の主人公にならんとは限らぬからである。必竟は以上述べた理由で、普通の小説の面白味は篇中人物の意見で左迄に支配されないからそんな事は第二義第三義に落ちて仕舞ふのである。だから若し昔風の婆さんや姐さん、もしくは裏店の神さん、もしくは黒人上りの女房抔を捕へるとすると、其の會話の内容は自然貧弱でなければならない。唯其の貧弱な會話が、前後相竢つて始めて人間として有意義な一種の響きを傳へるからそれで凡てが償はれるのである。
もし其の斷片的の意見(會話にあらはれたる)を拾つて其の價値を穿鑿したら實に馬鹿氣たものになつて仕舞ふ。
所が「額の男」に出て來る會話――しかも此會話は常に人物の意見を代表する以外に何事をも進行させてゐないが此の會話は會話としてそれ丈に色彩がある。無論意見としての色彩だから他の色彩と混同してはならんが、あんなに社會上、人事上、學問上に於て意見を持つた人が寄り合つて、さうして始めから仕舞迄意見の交換を遣つて居る小説はあるまい。さうして其意見が悉く奇拔なひねくれたもの許りである。眼新しい耳新しいもの許りである。「額の男」の興味は全く此連續した一調子變つた意見から出る刺激だと云はなければならない。
余は此の連續不斷の意見を逐一に讀みながら、深く如是閑君の才氣の煥發縱横なるに感服した一人である。他の作家をして片言隻句すら容易に纏めしむる餘裕を與へぬ先に如是閑君は滔々として常人の思も寄らぬ事を、五頁でも六頁でも繋げて行く、實に驚くべき才力である。
然し一言如是閑君に忠告したい。あの意見は、世の中を傍觀する、頭腦的な遊藝に似た所がある。ヰツトは無論あり餘る程あるが、惜しいかな眞正の意味に於いての眞理、摯實なる觀察としての概括とはどうも受けとり惡い。
いくら社會上人事上重大な問題に渉つても、派出で華奢な感が先へ立つてならない。無論さう云ふ場所も場面も必要には相違なかろうが「額の男」はあまりに其の色彩で蹂躙されて居る。
だから讀者の方では、難有い教訓を得て啓發されたと思ふよりも、やあ又面白く地口たな才子だなと感ずる。又警句を吐いて人を驚かさうとして居るものと考へる。
尤も此警句の中には決して安つぽいもの許はない。且君の學問の範圍、知識の領域に至つては我々老生をして眞に感服せしむる丈の素養は十分認められるが如何にせん一面から話すと以上の弊を帶びてゐる樣な氣がするから己むを得ない。
もう一つ申したいのは、――普通の小説でも篇中の人物が中々意見家である場合がある。其の意見家の場合が單に意見として興味を惹く場合は如是閑君の場合と同一であるが、其の時は此の意見なるものは單に裝飾的道具に使用されてゐる。だから小説の本義とは殆ど沒交渉である。最前述べた、小説の興味の中心に影響してくる樣な意見になると、單なる意見では濟まなくなる。其の人物の意見が篇中人物の關係を動かして來なくてはならなくなる。言葉を換へていふと、意見が人物の頭の奧へ飛び込んで其處で、一仕事しでかさなければ效目がなくなつてくる。斯うなつた時に、平面で敍述された意見が漸く立方體に變化して奧行きのある樣な心持ちがするのである。余は如是閑君の篇中の人物の取り/″\に面白い意見を面白いと思つたから讀んだにも拘わらず其意見は遂に仕舞迄平面でのべつに平たい感じがした。それは全く此の原因だらふと思ふ。然し既に普通の小説でないと斷りながら、普通の小説の資格を以て再び「額の男」に向ふのは我ながら矛盾である。たゞ是は如是閑君の御參考に申す迄である。
以上は「額の男」を讀んだ時の感じを後から考へて理窟を附したものである。斯う明らさまに理窟を附けてみると、如是閑君に濟まない樣な失禮な箇條も出て來たが仕方がない。我々批評家は好い加減な事を云つて作家に媚びるよりも、自分の思ひ通りを、作家の前に披瀝して、潔く罪を作家に得た方が自分に對しても作家に對しても義務ある所爲と考へる。
夫れから余も批評もやるが創作もやる。此の「額の男」の批評中で移して余自身の小説の上に持つて來て非難しても構はないものもあるかも知れない。如是閑君も其の邊は御容赦あつて、一體御前の小説は何うだ抔と遣り込められざらん事を希望する。
――明治四二、九、五『大阪朝日新聞』――