父は、無政府主義的、共産主義的な理論の一古典として知られる例の『社会的正義に関する研究』の著者として、マルサスの人口論を駁し、無政府社会の理想を熱切に説いたが、その客間にしばしば現われて深い影響を受けた若者の一人に、後にバイロン、キーツとともに近代イギリスの三大詩人と謳われるにいたったパーシー・ビッシ・シェリーがあった。シェリーははじめ、オクスフォード大学に席をおいたが、『無神論の必要』(一八一一年)を書いて学校から追放され、革命詩人としての天才的光芒をますます鮮かに示しつつあった。マリーは、このシェリーと親しくなり、ついに二人でスイスへの旅に出かけ、シェリーの最初の妻ハリエットが自殺したので、正式に結婚し、イタリアへ移住した。ミラノを振り出しに、ヴェネチア、ナポリ、ローマ、リヴォルノ、フィレンツェ等をめぐり、一八二九年にピサに定住することにした。三年後の一八二二年に、湖水で舟が覆ってシェリーが溺死したことは、ここで言うまでもない。あとに残されたマリーの哀しみは察するに余りがある。
マリーは一八五一年まで生き、そのあいだに、イタリア中世期に取材した『ヴァルペルガ』(一八二三年)、未完成に終った『最後の人』(一八二六年)、なかば自伝的な『ロドーア』(一八三五年)等の作品を書いたり、夫シェリーの詩の編集に従事したり、紀行文を発表したりした。しかし、世界文学史のうえで独特の位置を永遠に要求するのは、夫の生前に書いたこの『フランケンシュタインまたは今様プロメテウス』一作であろう。
その伝記としてはヘレン・ムーアのもの(一八八六年)、F・A・マーシャル夫人のもの(一八八九年)ルーシー・マドックス・ロゼッチのもの(一八九〇年)が、ふつう挙げられている。 (訳者)
底本:「フランケンシュタイン」日本出版協同
1953(昭和28)年8月20日初版発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2009年8月4日作成
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