法學博士 尾佐竹 猛
古來名判官といへば大岡越前守にとゞめをさすが、その事蹟といへば講談物や芝居で喧傳せられて居るのに過ぎないので、眞の事蹟としては反つて傳はつて居るものは少いのである。所謂大岡裁判なるものは、徳川時代中期の無名の大衆作家の手に成り、民衆に依つて漸次精練大成せられて、動かすべからざる根據を植付けられたのであるから、その生命は最も永いのである。我國に於ける大衆文藝として最も優れたるものゝ一つである。
その何が故にかゝる聲譽を得たかといへば、これは我國の文藝に乏しき探偵趣味のあるのが、その主たる原因である。
古い處では青砥藤綱はあるが、これはあまりに古く、また事柄も少いから、一般人士の耳には入りがたい、さりとて本朝櫻陰比事の類はあるが、これは支那種でもあり、少し堅過ぎる。大岡物はこの間にありて異彩を放つて民衆向である。中には支那種の飜案物もあるが巧みに其種を知らしめざる程日本化して居る。それに當時の民衆の最も敵としまた最も非難多き奉行の處置振りに慊らざるものは理想的の大岡物を讀んで、密に溜飮を下げたといふのも、大岡物を謳歌する一理由ともなつたであらう。
しかし嚴格にいふときは大岡裁判は探偵趣味といふよりは、寧ろ裁判趣味といつた方が適當である。巧妙なる探偵術に依つて犯人を搜査するといふよりも、法廷に曳かれて白状せざる奸兇の徒を如何にして白状させたかといふことに、興味がかゝつて居るのである。勿論その白状さす爲めには種々の探偵術を用ひて居るが、物語の骨子は證據はあつても白状せぬ被告人を白状させる處に、大岡越前守の手腕を見るのである。
これは徳川中期の産物であるから、かゝる作品が出來たのである。犯罪の搜査も裁判も町奉行の職權であるから、與力同心さては目明し岡ツ引輩の探偵の巧妙だけでは町奉行は光らない。否その巧妙な探偵もこれは奉行の指※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、2-5]から出るのが原則であるから、町奉行の手柄としては白状させることに重きを置かなくてはならぬ。
それに當時は拷問を用ふることは當然とされて居つたが、それも漸次進んで、今日の言葉でいへば、拷問は訴訟手續であつて、證據方法では無いのである。即ち證據を得る爲めに拷問するのでは無くて、證據が十分あつても白状せぬものを白状させる爲め、換言すれば如何に證據十分でも本人が白状せぬ以上は裁判することは出來ぬから、その手續を完結する爲め、拷問を用ふるといふのが、當時の法制の原則であつた。
そこで奉行は證據を集めつゝ、その證據に基いて白状せしむるといふのが、大岡裁判物の狙ひ所である。
また一面、當時の裁判の實相といへば、奉行の實權は與力に、與力は同心に、同心は目明し岡ツ引の徒に、漸次權力は下推し、奉行は單に形式的に裁判し、盲判を押すに過ぎなかつたから、こゝに明斷察智の超人的奉行を主人公とし、その縱横の材幹に由り、疑獄を裁斷するといふことが時流に投じたのである。
古くは最明寺時頼の廻國物語、近くは水戸黄門の廻國記の如き、密に諸國の人情風俗、政治の良否を知り、是非を裁斷するといふ英雄崇拜の片影ともいふべき物語が、民衆の頭に成長しつゝあつた處へ、わざ/\廻國はせなくても、一大理想的奉行があつて、淨玻璃の鏡に照すが如く、如何なる疑獄難獄も解決するといふ物語の出現したのであるから、大向ふの喝采するのも尤である。それに實際大岡越前守は事務に練達湛能の能吏であつたから、これを理想的に祭り上げ何んでも箇でも持つて行つて、名判官一手專賣としたのも、自然の勢である。
こゝに於てか、大岡越前守は理想的名判官として民衆の間に活きて居るのである。
そこで、所謂大岡裁判なるものに付て述べんに、大岡裁判を書いたものは板本に「大川仁政録」があり、寫本には「板岡實録」「大岡板倉二君政要録」「大岡政要實録」など數種あり、また一事件毎に單行本として傳はつて居るものがある。講談の種本は概ね此單行本である、或は講談物を單行本としたかと思はるゝものもある、また「大岡政談」「大川政談」として殘つて居るものもあるが、これは右の單行本を纒めたものらしい。大岡政談といへる始めからの一册本が後に數種の單行本と分れたものと見るよりも、寧ろ單行本を纒めたのが大岡政談といふ方が正しいやうである。謂はゞなんでも名裁判物語を書き立てゝ、これを大岡越前守に持つて行くから、一層これを纒めて一册にしたならばといふのが大岡政談らしい、後には件數に依り「大岡十八政談」といつたものもある。こんな工合であるから「大岡政談」といつても各事件毎に文體筆勢が異り、記述の態樣も區々であるが。多年無名の民衆に依つて作り上げられたる眞の大衆向のものであるから、幾多の大岡物の内からこの「大岡政談」を採録したのである。
斯く大岡物にも幾多の種類があるから、その事件の數も各書に依つて異同がある。内田魯庵氏が
大岡政談が越前守以前の「櫻陰秘事」更に又以前に遡つた傳説野乘の作り換へであるのは誰も氣が附く、其の中にソロモン傳説が混入して居るのは必ずしも伴天連僧の持つて來たもので無く、或は亞剌比亞や波斯を經由して支那から傳はつたものであるかも知れぬが、切支丹僧が多くの傳説や神話を授けたのは爭はれない。(日本文學講座第十八卷「日本の文學に及ぼしたる歐洲文學の影響」)
の所謂ソロモン傳説たる、二人の女親と稱する女に子供の兩手を引張らせて眞僞を判じた事件はこの政談の中に入つて居ないから割愛するが、通常「大岡政談」に收められてあるものは、天一坊、白子屋お熊、烟草屋喜八、村井長庵、直助權兵衞、越後傳吉、傾城瀬川、畔倉重四郎、小間物屋彦兵衞、後藤半四郎、松田お花、嘉川主税、小西屋、雲切仁左衞門、津の國屋お菊、水呑村九助
の十六件である。この内最初の天一坊一件は大岡裁判の中最も有名で、この事件の爲め大岡越前守が立身した如く喧傳せられて居るが、その實大岡越前守に關係はないのである。尤もこの事件と相似たものに、關東郡代伊奈半左衞門の手で審理せられたるのがあるから、これを大岡越前守に持つて來たとも見られるから、その事件の概略を述ぶれば
天一坊惡事露顯の端緒は享保十四年三月五日の事とかや浪人本多儀左衞門、關東御郡代伊奈半左衞門の屋敷に來り、當御支配内の儀に付御用役衆へ御意得たくと申出、半左衞門用人遠山郡太夫面會の處、儀左衛門申樣、下品川宿秋葉山伏赤川大膳方に居られ候源氏坊天一と申すは、當上樣の御落胤にて、大納言樣御兄の由、内内に日光御門主まで仔細申上られ、既に上聞にも達し、御内々一萬俵つゝ御合力米下し置かるゝ由申弘め、浪人共多分御抱入に付、我等も目見いたし奉公相望候てはと申勸るものあり、右源氏坊は全く左樣の御方にて候や、御支配内の儀に付此段内々御樣子承度との儀なり、郡太夫聞て大に驚き、そは怪しからぬ次第なり、支配内に左樣の疑しきもの罷在事是まで少くも存ぜず候、貴殿御咄にて初めて承り候、最早其儘には捨置がたく早速吟味を遂ぐべく、御迷惑ながら其許を勸めたるものも其許も掛合にて候間、名前書出すべく左樣御心得あるべしと申すに儀左衛門仰天なして早々歸りたり。郡太夫は直に此事を主人半左衛門へ申聞、早速品川宿名主年寄を呼出して吟味に及びし處、成程去年以來大膳方に富貴なる山伏居候へども、大納言樣御兄とか又は浪人召抱の沙汰は更に承はらず、其故御話も申上ず候との答なり。郡太夫、其山伏事御用の仔細あり、取逃しては相成らず、直樣立歸り逃げざる樣心付べしと申渡し、自分も組子引連、後より品川宿へ出張なし、山伏常樂院方に赴き、源氏坊天一と云へるもの住居致すやと尋ねければ、手前屋敷の裏に住居罷在と答へたり、即ち常樂院を案内に天一居宅に至り見れば、中々に構造も美を盡し、室内に裝置せし諸道具類は皆花葵の蒔繪紋散しにして、座敷の上手には一段高く上げ疊をなし、何樣將軍家の御由緒にてもあるべく思はれたり。程なく天一、白紗綾の小袖に白無垢を重ね、着用して出でけり。郡太夫慇懃に口上を演べ、主人半左衛門儀御尋ね申度仔細あり御同道致すべき樣に申付候、其儘御越し成さるべくと申すに、天一聊か躊躇の氣色もなく、畏り候と傍なる大小刀をも渡したり。郡太夫天一を駕籠に乘せ、常樂院をも共々召連て屋敷へ歸りければ、半左衛門早速對面なせしが、最初の程は將軍家御落胤の虚實も分明ならざりし故、待遇言葉遣も丁寧になし、一室にて密々の取調なり、常樂院をはじめ關係の諸浪人共をも召出して一應訊問に及びし處、全く詐欺なりとの見込ありて、遂に評定所一座吟味となり、夫々取糺せし所、此天一の母は紀州田邊の者にて名をよしと稱し、紀州侯家中某方に奉公中、主人の寵を受けて妊娠なし、若干の手當金を貰ひ郷里に歸りし後、男の子を生み落したり。是則ち天一にて幼名を半之助と稱し、四歳の時母諸共叔父の徳隱といへるもの、江戸橋場總泉寺末某寺の住職たりしを手寄りて出府なし、其世話にて母子共に淺草藏前町人半兵衛方へ縁付しが、天一十歳の時母病死なし、其砌養父半兵衛も身代取續がたき事ありて家をたゝみ、天一は徳隱の弟子となし、自分は何處ともなく廻國六部と成て出たり。母の存生中常に天一への物語に、其方は元來下賤の身の上ならず、歴々由緒あるものゝ胤なれば、何卒して武家に取立たくと申聞け、由緒書もありて叔父徳隱の預り居たりしが、享保六年火災に逢うて燒失せり。其由緒書の内に源氏とありしより、徳隱取て源氏坊天一と名乘らしめしとぞ。然るに徳隱は享保十二年病死せし故、天一傳手を求めて修驗堯仙院の弟子となりたり、天一幼年の時より酒を嗜なみ酒僻ありし故、叔父徳隱存生中は堅く戒めて飮せざりしに、死去の後は頭の押へ手なきより常に大酒を飮み、我が由緒の歴々なるを誇り散らして亂妨に及ぶこと度々なりければ、堯仙院も幾んど持餘し、寺社奉行へ召連出て懲戒を請ひたりしが、酒狂の上なれば能々意見を加へよとまでにて差たる咎もなかりけるより、天一彌増長なし、畢竟我が身分の歴々なる故公儀にても御咎なしと猶も大言を吐て更に愼む樣子なければ、堯仙院も捨置がたく、孫弟子の品川常樂院に仔細を云ひて預けたりしが、此常樂院中々の横着者にて、天一が紀州にて生れ由緒ありと云ふを奇貨として惡計を廻らし、終に將軍吉宗公紀州潜邸の時の御落胤なりと僞り、内々は日光御門主より上聞に達せられ、既に一萬俵づつの御合力米をも下され、追付表向の御對面、御披露もありて御三家同樣の大名にも御取立成さるべき御内意ありたり。抔と觸廻りて金銀を借入又は諸浪人どもを抱へて、夫々の役向をも定めたり。即ち常樂院は自ら家老となり赤川大膳と稱し、其他南部權太夫、本多源右衛門の兩人を用人となし或は番頭、旗奉行、槍大將又は大目附、町奉行、勘定奉行、小納戸役、近習、使番抔種々役々を申付しもの數十人に及び、次第に世間へも聞え、終に浪人本多儀左衛門の口より洩れて惡事露顯に及び一同逮捕せられて刑に處せられたり。
これが天一坊事件の梗概である。四月二十一日於評定所申渡之覺
天一坊改行
酉三十一
僞の儀どもを申立浪人共を集め公儀を不憚不屆に付死罪の上獄門に行ふもの也常樂院
改行申旨に任せ浪人共集候儀其分に仕改行宿を仕所の役人へも不屆重々不屆に付遠島申付るもの也本多源左衛門[#「本多源左衛門」はママ]
南部權太夫
矢島主計
改行慥成儀も不糺身非一人無筋儀を申觸し浪人大勢引付公儀を不憚仕方不屆に付遠島申付るもの也次に「白子屋阿熊一件」これは實際大岡越前守の取扱つた事件である。芝居でする「お駒才三」である。
お熊が引廻しの際、上に黄八丈の大格子、下着は白無垢、髮は島田に結ひ上げ薄化粧さへ施し、手には水晶の[#「水晶の」は底本では「水昌の」]珠數をかけ馬上に荒繩で結られて行く凄艷なる有樣は好箇の劇的場面であつた。本文に
此時お熊の着たるより世の婦女子、黄八丈は不義の縞なりとて嫌ひしは云々
とあるのは眞實である。「煙草屋喜八一件」は『耳袋』にある。「煙草屋長八」の事件に似て居る。長八一件ならば大岡越前守より後の依田豐前守正次の江戸町奉行在勤中の事柄にて勿論大岡越前守に關係が無い。
「村井長庵一件」これは架空の物語である
「直助權兵衛一件」これは實在の事件である。
本書に
近き頃まで、諸所の關所に直助が人相書有りしを知る人に便りて見たる事あり、云々
とあるは眞實で、有名な事件であつた爲め、芝居の「四谷怪談」に「直助權兵衞」といふ一人物あるは、此事件からの思ひ付きである。「越後傳吉一件」は大岡に關係なく、津村宗庵の「譚海」中にある物語である。これが後には「鹽原多助」の粉本にもなつて居る。
「傾城瀬川一件」は吉原耽美の風潮に迎合した小説である、本文に
遊女が鑑と稱られ夫が爲め花街も繁昌せし由來を尋るに云々
とあるのが作者の本音であらう。「畔倉重四郎一件[#「畔倉重四郎一件」は底本では「畦倉重四郎一件」]」これは伊奈半左衞門の取扱つた事件と傳へられ居り、そのことも多少疑問はあるが、兎に角大岡には關係の無い事件である。
「小間物屋彦兵衞一件」は支那種の飜案である。
「後藤半四郎」「松田お花」「嘉川主税」はいづれも文士の筆の先で出來た物語に過ぎぬ。
「小西屋一件」これは支那種で、同種の飜案に「會談與晤門人雅話」がある。
「雲切仁左衞門」「津の國屋お菊」はいづれも小説、「水呑村九助一件」は支那種に近世的探偵趣味を多分に盛つてある。特にその首と屍のことは「棠陰比事」の『從事函首』から出て居ることは明白である。
「大岡政談」の正味を一々檢討すれば以上に述べた如くである。
しかしなにしろ、多年大衆向きとして、講談に芝居に叩き上げられたことなれば、益精練せられて今では殆んど確定的の事實として、大岡越前守の名奉行振りを稱へられて居る。謂はゞ大衆向きの作品としてこれ程大なる價値を有するものは無い。
さればとて、大岡政談が悉く事實でないから大岡越前守は凡庸の町奉行に過ぎなかつたかといへば、さうでは無い、町奉行二十年寺社奉行十六年といふ勤續である。この多年の經驗だけでも他に比肩するものは無い。啻に奉行といはず他の如何なる職でも、これ程永く勤續したものは無い。これ丈けでも立派な模範官吏である。しかも太平の世の中に何等の武勳無くして、六百石の旗本から一萬石の大名に陞進したのである。徳川時代としては空前絶後の出身といつても可なる程目醒しい昇進振りである、如何に事務に練達湛能であつたかを知るべきである。
その一生の事蹟を仔細に研究すれば、行政上の治蹟が著名であつて、反つて司法上の事蹟に付てはさまで顯揚して居らぬのは、世評と正反對の奇なる現象である。これは一體に行政事務は華やかで、司法事務はヂミなのが常であることは今日でも同じである。大岡の江戸町奉行に就任した際は、市政も未だ整つて居らなかつたときであつたから、充分腕を振ふ餘地もあり、從つて其事業も華々しかつたのである。司法に關しては法典編纂の一人として、「科條類典」即ち徳川初期よりの法令並に先例判決例を蒐集したもので、徳川氏最初の立法事業に干與して居る。それから個々の裁判例に付ても幾多の法律問題に苦心したことの見るべきものが多い。司法事務本來の性質としてヂミな骨の折れる職務に數十年從事したといふこと丈けでも充分立派な明判官たる資格があるのである。所謂大過なくして永年勤務したといふこと夫れ自身が非凡なる人材である。
世人は往々にして大岡時代は法律の適用解釋が自由であつたから、理想的の裁判が出來たといふものがあるが、遵據すべき正確なる條文無き時代に事相に適する裁判を爲すことは反つて骨が折れるのである。立派な條文が完備して居れば寧ろ裁判には樂であるともいひ得られるのである。況んや法律の解釋適用は自由なりとはいひながら、故例格式の八釜しかつた幕府時代に於ては、その無意味の桎梏の力強くこれを打破するに足る法理の無かつたことは、或は觀方に依つては法律の解釋適用は[#「解釋適用は」は底本では「解釋遖用は」]今日よりも不自由であつたともいひ得らるゝのである。然るにも拘はらず永く名判官の名聲を維持して、昇進したのは偉材といはねばならぬ。
本書の首卷に「大岡越前守出世の事」の一卷がある、これは何等かの隨筆物などの一節で、この記事が大岡越前守の事蹟の全體若くは逸事であつたものが、後に他の幾多の物語が出來た爲め、茲に首卷として採録したものらしい。その始めに
當世奉行役人百姓を夜中にてもかまはず呼出し、腰かけに苦勞させ、おのれら我意に任せて退出後にゆる/\休息し、酒盛などして夜に入て評定し又もなかれて歸すなど云々
とありて、時の裁判振りを慨する徒輩が、大岡裁判に假託して時事を諷したとも見らるゝが、この首卷の中の事柄は眞實の事らしい。猶ほ官歴のことも書いてあるが、十分でないから、左にその大要を掲げんに
延寶五年江戸に生る、大岡美濃守忠高の四男、幼名求馬
貞享三年十二月 大岡忠右衞門忠眞の養子となる、十歳
貞享四年 通稱を市十郎と改め、忠相と稱す、十一歳
元祿十三年七月、養父病死、家督を相續し、養家歴代の通稱忠右衞門と改む。六百石寄合旗本無役、二十四歳
元祿十五年五月、御書院番士 二十六歳
寶永元年十月 御徒頭 二十八歳
同 年十二月 布衣
同 四年八月 御使番 三十一歳
同 五年七月 御目附 三十二歳
正徳二年正月 伊勢國山田奉行
同年三月 從五位下 能登守
この時山田に赴任し、有名なる紀州領と松坂の住民との訴訟を裁判し、後年江戸町奉行に榮轉の素地を爲したのである。しかしこゝに注意すべきは山田奉行といふからには、田舍の區裁判所判事の如く思ひ、從つて江戸町奉行の轉任は未曾有の拔擢の如く考へるものがあるが、山田奉行の地位は伊勢神宮所在地なるが爲め、重要なる地位である。故に從五位下能登守と叙爵したので、謂はゞ指定地の勅任所長ともいふべきで、それが、東京地方裁判所長に轉任したのであるから、榮轉は榮轉であるが、未曾有の榮轉といふ程でもない、即ち能登守が越前守に轉じた叙爵の形式から見ても想像がつく、貞享三年十二月 大岡忠右衞門忠眞の養子となる、十歳
貞享四年 通稱を市十郎と改め、忠相と稱す、十一歳
元祿十三年七月、養父病死、家督を相續し、養家歴代の通稱忠右衞門と改む。六百石寄合旗本無役、二十四歳
元祿十五年五月、御書院番士 二十六歳
寶永元年十月 御徒頭 二十八歳
同 年十二月 布衣
同 四年八月 御使番 三十一歳
同 五年七月 御目附 三十二歳
正徳二年正月 伊勢國山田奉行
同年三月 從五位下 能登守
享保元年二月 御普請奉行 歸府 四十歳
同 二年二月 江戸町奉行、越前守 四十一歳
同 十年九月 二千石加賜、遺領と併せて三千七百二十石 四十九歳
元文元年八月 寺社奉行 二千石加賜 猶ほ廩米四千二百八十俵を足高とし、一萬石の高となし、大名の格式となる、六十歳
同年十二月 雁の間席並
寛延元年閏十月 奏者番 寺社奉行故の如し、從前の足高廩米を廢し更に四千二百八十石加賜、全く一萬石藩列に入る、七十二歳、三河國額田郡西太平を居所とす。
寶暦元年十一月病の爲め職を辭す、寺社奉行を免じ奏者番を許されず
此年十二月十六日薨ず、享年七十五歳、法名松運院殿興譽仁山崇義大居士
墓は神奈川縣高座郡小出淨見寺にあり、裏面には「御奏者番寺社奉行俗名大岡越前守藤原忠相行年七十五歳」と刻してある。また別に、芝區三田聖坂功運寺にも墓がある、これは後年追墓合葬したもので、數多の戒名があり、右より五番目に「松運院殿前越州刺史[#「刺史」は底本では「剌史」]興譽仁山崇義大居士、寶暦元年辛未十二月十六日」と刻してある。功運寺は其後、府下野方町に移轉し、淨見寺は大正十二年の大震災にて大破したから、有志に於てこれが修繕の擧ありと聞く。寶暦元年十一月病の爲め職を辭す、寺社奉行を免じ奏者番を許されず
此年十二月十六日薨ず、享年七十五歳、法名松運院殿興譽仁山崇義大居士
淨見寺の東南、土地高濶遙かに富士山を望み要害の地がある、これは大岡氏の陣屋址で、二代目忠政の時こゝに土着したが、後江戸に移住したのである。
大岡越前守は曩に從四位を贈られたが、これは主として民政上の功に依る。とのことである、司法官としての功績に付ては未しであるのは遺憾である。
大正四年十一月四日 穗積陳重博士淨見寺の墓に詣でて
問ひてましかたりてましをあまた世を
へたてゝけりな道の友垣
と詠ぜられ、穗積八束博士また參詣せられた、この二大法曹の參詣を受けては地下の大岡越前守も定めて滿足したであらう。へたてゝけりな道の友垣
――解題終――
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大岡政談首卷
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大岡政談[#ルビの「おほをかせいだん」は底本では「おほをかせいだい」]首卷
大聖孔子の曰訟へを聞事我猶人の如くかならずうつたへなからしむとかや今いふ公事訴訟願ひ事になりたとへば孔子聖人には公事訟訴出來たる時は諺にちゑなきとの事我猶人の如くと也さりながら孔子聖人奉行となつて其訴へ自然と世の中にたえるやう天下ををさめ仁義をもつて民百姓をしたがへ道に落たるをひろはず戸さゝぬ御代とせんとなりまことに舜といへども聖人の御代には庭上に皷を出し置舜帝みつから其罪を糺しあらためあしき御政事當時は何時にても此皷を打て奏聞するに帝たとへば御食事の時にても皷の音を聞給ひたちまち出させ給ひ萬民の訴を聞給ふとなりまことにありがたき事なり然るに當世奉行役人は町人百姓を夜中にてもかまはず呼出し腰かけに苦勞をさせおのれら我意に任せて退出後にゆる/\休足し酒盛などして夜に入て評定し又もなかれて歸すなとよく/\舜帝の御心を恐れながらかんがへ學ぶへき事なり然るに舜帝のつゝみ[#「つゝみ」はママ]世こぞつて諫鼓のつゝみと[#「つゝみと」はママ]云其後程なく天下よく此君にしたがひ徳になつきければ其皷自然とほこりたまり苔を生し諸鳥も來りて羽を休めけるとなん此事を諫皷苔ふかうして鳥おどろかずと申あへりいまもつぱら江戸大傳馬町より山王御祭禮に皷の作りもの出し祭禮の第一番に朝鮮馬場において上覽是あるなり往古常憲院さま御代までは南傳馬町の猿のへいをもちし作りものゝ出でしを第一番に渡し諫皷は二番に渡しけるが或時の祭禮に彼猿の出し作ふひまに先へ拔たり此時よりして鳥の出し一番に渡るとの嚴命にて長く一番とはなりにけり是天下太平の功なり
此猿の面は南傳馬町名主の又右衞門といふもの作りて主計が猿といふよし今以て彼方にあるよしなり
然りといへども繁華の日夜に増けるゆゑ少々つゞの[#「少々つゞの」はママ]訴へはふん/\として更にやむことなしさればこそ奉行は是をえらむべきの第一也三代將軍の御代より大猷公嚴有公の兩君にまたがりて板倉伊賀守同周防守同内膳正は誠に知仁の奉行なりと萬民こぞつて今に其徳をしたふか板倉のひえ炬燵とは少しも火がないといふ事なり非と火と同音なればなり夫より後世の奉行いつれも堅理なりといへども日を同じく語るべからず然るに享保の初大岡越前守忠相といふ人町奉行となつて年久しく吉宗公に勤仕しける此人あつぱれ大丈夫にして其智萬人にすぐれ遠き板倉の輩に同じされば奉行勤仕勤功同越前守よく/\上をうやまひ下を憐みてすたれたるをおこしたへたるをつくろひ給ふ事誠に賢なりといふべし扨大岡忠右衞門とて三百石にて御書院番勤し其後二百石加増あつて五百石と成を越前守家督を繼て御小姓組と成勤仕の功を顯し有章公の御代に御徒頭となり其後伊勢山田奉行仰付られ初て芙蓉の間御役人の列に入りけるなり諺にいはく千里の道を走る馬常にあるといへども是を知る伯樂もなく其智者にあへはなしとかや人間も又同じ忠信義信の人多くあつても其君のこゝろくらくして是を用ゆる事なくんばむなしく泥中玉をうづめんが如くに成りて過るなしすべての人の君たる人はよく/\これ察すべきことなり舜も人なり我も人なり智に臥龍(孔明の事なり)勇に關羽の如きもの當世の人になからんや爰に有章院殿の御代大岡越前守伊勢山田奉行となりてかしこに至り諸人公事に彼地にて多く裁許あり先年より勢州路紀州領の境論の公事ありてやむ事なし山田奉行替りのたび事にねがひ出るといへども今もつて落着せず是は先來紀州殿非分なりといへども御三家の領分を相手なれば御大身をおそれ時の奉行も捌きかねてあつかひを入て濟すといへども扱ひ崩れ訴へ出る事たび/\なり然るにこの度大岡越前守山田奉行と成て來りしかば百姓ども又々境論を願ひ出づるを忠相段々聞れける所紀州殿方甚非分なりとてあきらかに取捌けり只今までの奉行いかなれば穩便にいたし置けるにや幸ひに越前守相糺すべきなりとて紀州の方まけと成て勢州山田方理運甚だしかりき爰において年頃のうつぷんを散じ大いに悦び越前守の智をかんじける誠正直理非全ふして糸筋の別れたるが如くなりしとかや其後正徳六年四月晦日將軍家繼公御多界まし/\[#「御多界まし/\」はママ]則有章院殿と號し奉る御繼子無是によつて御三家より御養子なり東照宮に御血脉近きによつて御三家の内にても尾州公紀州公御兩家御帶座にて則ち紀州公上座に直り給ふ此君仁義兼徳にまし/\吉宗公と申將軍となり給ふ其後諸侯の心を考へ給ふ處におよそ奉行たる者は正路にあらざれば片時も立難し其正直にて仁義のもの當世に少し然るに大岡越前守伊勢山田奉行として先年の境論ありし時いづれの奉行も我武威をおそれ我方非分と知りながら是を捌く事遠慮する所彼越前守は奉行となつてたちまち一時に是非を糺し我領分をまけになしたる段あつぱれ器量は格別にして智仁勇三徳兼備の大丈夫なり彼を我手取に呼下し天下の政事を統しなば萬民のためならんとの上意にて則ち大岡殿を江戸へ召寄られける夫より越前守早速はせ下り吉宗公の御前へ出けるにぞ則ち忠相を以て江戸町奉行仰付られけり誠君君たれば臣臣たるとは此事にて有るべき
享保の初の頃將軍吉宗公町奉行大岡越前守と御評議あつて或は農工商罪なるものに仰付けられ追放遠島の替りに金銀を以て罪をつぐのひ給ふ事初り今是過料金といふなり大に益ある御仁政然るに賢君の御心をしらず忠臣の奉行をしらざる輩は此過料金の御政事を難していはく人の罪を金銀を以てゆうめんする事上たる人の有ましき事なり第一欲にふけり以の外いやしき掟てなり然らば金銀あるものは態と惡事なしむつかしき時にはわづか金銀を出せば濟事也と抔高をくゝり惡事をなさん是却て罪人多くならん媒也とあざけりし人多しとかや是非學者の論なりといにしへより我朝の掟にぞかゝる事なけれども利の當然なり新法を立らるゝ事天晴器量といひ其上唐土にも周の文王民百姓の罪あるものを金銀を出させて其罪をつぐなうとあれば聖人の掟にも有事なり然らば惡き御政事にてはなきと决せり又非學者の難じて曰く文王は有徳な百姓町人の罪死けいに非るものを過料を出させて其金銀を以て道路にたゝずみ暑寒をしのぐ事あたはざるもの飢に[#「飢に」はママ]うれふるものには其金銀を與へてくるしみを除き給ひしが當時のありさまを見るにさしてこゝ一日人を救ひ給ふ事もなし皆公儀の用意なるはいかにと言是又上の御賢慮奉行の良智をしらざるゆゑなりその者よびとひて聞せん今江戸其外所々より出す過料金銀は公儀に御入用抔には決して用給ず唯橋道等の御修復金と成る多くは橋の普請のみ入用に成事なり是にて飢ゑ凍ゑる人を救道利にてみな此内にこもる聖君の御賢慮御いさをし也
橋功徳經[#ルビの「くとくきやう」はママ]にいはく
渡りに船を得たるが如く暗夜にともし火を得たるが如なり將經文の心を得たるが如く也此經文の心にて見ればうゑたるもの食を得たるか旅人のこめなればひとへに裸なる者衣類を得たるか如くにてあれはこゝえる人に衣を下さるをなさけに同じ事なりうゑたるもの食を得たるが如くとあれば御憐愍の御政事爰を以て知るべし有る時常憲院樣五十の賀の時何をもつて功徳の長と成べきと智化の上人へ桂昌院樣一位樣御尋ね遊ばされしに僧侶答て申上げるは凡君たる人の御功徳には橋なき所へ橋をかけ旅人のわづらひを止め給ふ事肝要ならんと申ければ則兩國橋と永代との間へ新大橋を懸られ諸人の爲に仰付られけるとかや右過料の御政事※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、6-13]に當りて誠諸人の爲と成て可なりしとかや江戸池の端本門寺は紀州の御菩提所なれば吉宗公と御簾中本門寺御葬送を被遊て源徳院殿と號し奉るなりよつて去頃家重將軍是へ爲成候に付御成まへ俄にあたら敷御成門として出來ければ淨土宗のともがら是をねたみ御成門へ夜の内に大文字にて祐天風の南無阿彌陀佛と書たり誰とも知れざれども不屆の仕方なりよつて御成門を又々改め新に立直し奉行所へ申上て昨夜御成門へ徒仕りしが南無阿彌陀佛と書しは淨土宗のともがらねたみしと相見え申候如何計申べしや何卒公儀御威光を以て徒ら者これなきやう仰付られ下し置れ度願ひ奉るとぞ訴へおけるが大岡越前守是を聞給ひもつともの願ひなり御成門の儀は大切にかきりなし夫をわきまへずして大膽の者ども不屆千萬言語同斷の致し方なり然しながら御門の事なれば其方ともにも嚴敷取計も成難し斯せよとて大岡殿白紙へ一首の狂歌をなされ是を御門へ張べしとなり其狂歌にいはく
西方のあるじと聞し阿彌陀佛
今は法花の門番となる
斯の如く遊されて本門寺へ渡し是を御門へ張置べしと仰渡されけり依て右の狂歌を張置ければ是に恥て重ねてさやうないたづらをばせざりしとかや今は法花の門番となる
大岡政談首卷終
[#改丁]
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天一坊一件
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天一坊一件
下野國日光山に鎭座まします東照大神より第八代の將軍有徳院吉宗公と稱し奉つるは東照神君の十一男[#ルビの「なん」は底本では「たん」]紀伊國和歌山の城主高五十五萬石を領する從二位大納言光貞卿の三男にて幼名を徳太郎信房と稱し後に吉宗と改たむ御母は九條前關白太政大臣第四の姫君お高の方にて御本腹なり
假令三家方にても奧方は江戸に在べき筈なり紀州にての御誕生を本腹なりとは大納言光貞卿紀州和歌山にて大病につき奧方國元へ入せられ直に看病遊ばされたきよし度々の願ひ先例にはなく共格別の家柄ゆゑ聞濟に成り國許へ登らせられ御看病遊ばし平癒の後懷姙なる故和歌山にて御誕生ありしなり
扨[#「扨」は底本では「扱」]奧方ある夜の夢に[#「夢に」は底本では「夜に」]日輪月輪を兩手に握ると見給ひ是より御懷姙の御身とはなり給ふ夢は五臟のわづらひといひ傳ふれども正夢にして賢人聖人或は名僧知識の人を産むは天竺唐土我朝ともにその例し少なからず已に玄奘法師は[#「玄奘法師は」は底本では「玄裝法師は」]夢を四ツにわけ一に現夢二に虚夢三に靈夢四に心夢とす現夢とはうつゝまぼろしのごとく見ゆるをいふ虚夢とは心魂の勞れよりして種々樣々の事を見るをいふ靈夢とは神靈佛菩薩の御告をかうむるをいふ心夢とは常平生こゝろに思ふ事を見るをいふなりこの時奧方の見給ふは靈夢にして天下の主將に成べき兆を後々思ひしられたり
奧方にはあまりふしぎなる夢なれば迚大納言光貞卿に告給へば光貞卿深く悦びこの度懷姙の子男子ならば器量勝れ世に名を上る程のものならんと仰ありしことなり頃は貞享元甲子正月廿日卯の刻玉の如くなる御男子誕生まし/\ければ大納言光貞卿をはじめ一家中萬歳を祝し奉つれり奧方看病のため國元へいらせられ若君誕生にては公儀へ對し憚りありとて内々にて養育のおぼし召なりまた大納言光貞卿は當年四十一歳にあたり若君誕生なれば四十二の二ツ子なり何なる事にや昔しより忌きらふ事ゆゑ光貞卿にも心掛りに思召ある日家老加納將監をめし其方の妻女近き頃安産いたせしと聞及ぶ然るに間もなく其兒相果しよし其方は男子の事なれば左程にも思ふまじけれども妻女は定めて懷さびしくも思ふべし幸ひこの度出生せし徳太郎は予が爲には四十二の二ツ子なり依て我手元にて養育致し難し不便には思へども捨子にいたさんと思ふなりその方取上げ妻女の乳を以て養ひくれよ成長の後其方に男子出産せば予が方へ返せ若又男子なくばその方の家名相續いたさすべしと仰ありければ將監謹んで忝けなくも御本腹の若君を御厄年の御子なりとて某に御養育を命ぜらるゝ儀有がたく存じ奉つる然しながら上意のおもふき愚妻へ申聞かせ其上にて御請仕つりたし小兒養育の儀は偏に女の手に寄處にて私しの一存に行屆申さずとて急ぎ御前を退き宿へ歸りて女房に御内命の趣きを申し聞せければ妻女大に悦びさりながら御本腹の若君を我々が手に下されん事は勿體なし御幼年の内は御預り申上御成長遊し候後は太守樣の御元へ御返し申上何方へなりとも然るべき方へ御養子に入らせらるゝ樣に御取計ひ有て宜しかるべし當家相續などとは思ひも寄らず私し今日より御乳を奉つりて御養育を申上んといふにぞ將監も道理なりと同心し早速御前へ出て妻が申せし趣きを言上に及ぶに光貞卿深く悦び然らば暫らくの内其方へ預け置べしとて城内二の丸の堀端に大木の松の木あり其下へ葵紋ぢらしの蒔繪の廣葢に若君を錦につゝみ女中一人外に附の女中三人添の捨子とし給ふ加納將監は乘物を舁せ行き直樣拾ひ上乘物にて我家へ歸り女房に渡して養ひ奉つりぬ加納將監は本高六百石なるが此度二百五十石を里扶持として下し置れ都合八百五十石と成いよ/\忠勤を盡けり爰に徳太郎君は日を追て成長まし/\器量拔群[#ルビの「ばつくん」はママ]に勝れ發明なれば加納將監夫婦は偏に實子の如く寵くしみ育ける扨或日徳太郎君に附の女中みな集り四方山の咄などしけるが若君には御運拙なき御生れなりと申すに徳太郎君御不審に思めし女中に向ひ其方ども予が事を不運なりとは何故ぞと仰せければ女中ども若君には實は太守光貞卿の御子にておはし候へ共四十二の御厄年の御子なりとて御捨遊ばされしを將監御拾ひ申上將監の子と成せ玉ひしは御可憐き御事なり御殿にて御成長遊ばし候へば我々とても肩身ひろく御奉公も勤むべきに殘念の事なりと四人ともども申上しを聞しめし然らば予は太守光貞卿の子とやと仰せありしが夫よりは將監が申事も御用ゐなく殊の外我儘氣隨に成せ給へりある日書院の[#「書院の」は底本では「書院院の」]上段に着座[#「に着座」は底本では「に着座」]まし/\て將監々々[#ルビの「/\/\」はママ]と呼せ給ふ聲きこえければ將監大いに驚ろき何者なるや萬一太守の御出にもと不審ながら襖を少し明けるにこは何に徳太郎君には悠然と上段に控へ給ふ將監この形勢を見て大いに驚ろき其方は狂氣せしか父に向ひて無禮の振舞何と心得居るやと申ければ徳太郎君仰けるはいかに隱すとも予は太守光貞の子なり然れば其方は家來なるぞ以後はさやう心得よと仰ありて是迄は將監を實の親の如く敬ひ給ひしが其後は將監々々と御呼なさるゝ故加納將監も是よりして徳太郎君を主人の如くに敬まひ侍づき養育なし奉つりける扨徳太郎君は和歌山の城下は申すに及[#ルビの「およば」は底本では「およぼ」]ず近在なる山谷原野の隔なく駈廻りて殺生し高野根來等の靈山後には伊勢神領まであらさるゝ故百姓共迷惑に思ひしが詮方なく其儘に捨置けり爰に勢州阿漕が浦といふは往古より殺生禁斷の場なるを徳太郎君此處へも到り夜々網を卸されける此事早くも山田奉行大岡忠右衞門聞て手附の與力に申付召捕には及ず只々嚴重に追拂ふべしと申含ければ與力兩人その意を得て早速阿漕が浦へ[#「阿漕が浦へ」は底本では「阿漕の浦へ」]到り見れば案に違はず網を卸す者あり與力聲をかけ何者なれば禁斷の場所に於て殺生いたすや召捕べしと聲を掛くれば彼者自若として予は大納言殿の三男徳太郎信房なり慮外すな此提灯の葵の紋は其方どもの目に見えぬかと悠然たる形容に與力は手荒にすべからずと云付られたれば詮方なく立歸り奉行大岡忠右衞門に此趣きを達すれば殺生禁斷の場所へ網を卸せしと見ながら其儘に差置難し此度は自身參べしとて與力二人を召連れ阿漕が浦に到れば其夜も徳太郎君例の如く網を卸して居られし故忠右衞門大聲にて當所は往古より殺生禁斷の場所なれば殺生する者あれば搦捕るなりと呼はるを徳太郎君聞給ひ先夜も申聞すごとく予は紀伊大納言殿の三男徳太郎信房だぞ無禮致すな提灯の紋は目に見えぬか慮外せば赦さぬぞと宣まふ大岡大音あげ紀伊家の若君が御辨へなく殺生禁斷の場所へ網を入させ給ふべき這は全く徳太郎君の御名を騙る曲者それ召捕と烈しき聲に與力ども心得たりと左右より組付難なく繩をぞ掛たりける徳太郎君當然の理に申譯なければ是非なく山田奉行の役宅へ引れ給へり扨其夜は明家へ入れ番人を付て翌朝白洲へ引出し大岡忠右衞門は次上下に威儀を正し若ものを發たと白眼汝れ何者なれば殺生禁斷の場所を穢し剩さへ徳川徳太郎などと御名を騙不屆者屹度罪科に行べきなれども此度は格別の慈悲を以て免し遣す以後見當候はゞ決して赦さゞるなり屹度相愼み心を改むべしと申渡して繩を解てぞ放しける徳太郎君は何となるべきと案じ煩ひ給ひしに斯赦され蘇生せし心地し這々の體にて和歌山へ立歸り此後は大人くぞなり給ひけるとなん斯て徳太郎君追々成長まし/\早くも十八歳になり給へり此年加納將監江戸在勤を仰付られけるにぞ徳太郎君をも江戸見物の爲に同道なし麹町なる上屋敷に住着たり徳太郎君は役儀もなければ平生閑に任せ草履取一人を連て兩國淺草等又は所々の縁日熱閙場へ日毎に出歩行給ひければ自然と下情に通ず萬端如才なく成給へり程なく一ヶ年も過將監も江戸在勤の年限果ければ又も徳太郎君を伴ひ紀州へこそは歸りけれ爰に伊豫國新居郡西條の城主高三萬石松平左京太夫此程病氣の所ろいまだ嫡子なし此は紀伊家の分家ゆゑ家督評議として紀州の家老水野筑後守久野但馬守三浦彈正菅沼重兵衞渡邊對馬守熊谷次郎南部喜太夫等の面々打より跡目の評議に及びける時水野筑後守進出て申けるは各々の御了簡は如何か存ぜざれ共左京太夫殿お家督の儀は御國許加納將監方に御預け置れ候徳太郎君を然るべく存ずると申出たり一同此儀然るべしと評議一決しければ急ぎ此趣き和歌山表へ早飛脚を以て申送れば國許にても家老衆早々登城の上評議に及ぶ面々は安藤帶刀同く市正水野石見守宮城丹波川俣彈正登坂式部松平監物細井※書等[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、15-1]なり江戸表よりの書状を披見に及べば此度松平左京太夫殿御病死の所御世繼これ無に付ては加納將監方へ[#「加納將監方へ」は底本では「加藤將監方へ」]お預け遊し候徳太郎君御跡目しかるべしとの事なり此儀尤もの事なりとて早速加納將監へ[#「加納將監へ」は底本では「加藤將監へ」]其段申渡しければ將監かしこまり急ぎ立戻りて其趣きを徳太郎君に申上出立の用意に及び近々江戸表御下りとは相成ける。爰に又和歌山の城下より五十町道一里半ほど在に平澤村といふ小村あり此處へ先年信州者にて夫婦に娘一人を連し千ヶ寺參の平左衞門と申者來りぬ名主甚兵衞は至て世話好にて遂に此三人を世話して足を止め甚兵衞は己が隱居所を貸遣し置り其後平左衞門病死し後は妻のお三と娘なりお三は近村の産婆を渡世としお三婆々と呼れたり娘も追々成長して容貌も可なりなるにはや年頃に成ば手元に置も爲によからじ何方へ成とも奉公に出さんと口入の榎本屋三藏を頼み和歌山の家中加納將監方へ奉公住込たりこゝにて名を澤の井と呼腰元[#ルビの「こしもと」は底本では「ごしもと」]をぞ勤ける此女へ何時しか徳太郎君の御手が付人しれず馴染を重ね終に澤の井懷姙してはや五月帶を結ぶ時とぞ成にき澤の井密に徳太郎君に向ひかね/\君の御情を蒙り嬉しくもまた悲しくいつか御胤をやどり最はや五月に相なり候と申上げれば徳太郎君聞し召甚だ當惑の體なりしが稍有て仰けるは予は知る如き部屋住の身分箇樣の事が聞えては將監が手前も面目なし予もまた近々に江戸表へ下り左京太夫殿の[#「左京太夫殿の」は底本では「左京大夫殿の」]家督を相續する筈なれば首尾よく右等の事の相濟し上は呼迎へて妾となすべし夫迄は其方の了簡にて深く愼み猥に口外致すべからず併五月にも相成る上は奉公も太儀なるべし其方は病氣と披露し一先宿へ下り母の許にて予が出世を相待ち懷姙の子を大切に致すべしとて御手元金百兩を澤の井へ遣はされたり澤の井は押戴き有難よしを御禮申上左樣なれば仰に隨がひ私儀は病氣の積りにて母の許へ參るべし併ながら御胤を宿し奉りし上は何卒御出生の御子を世に立度存じ奉れば後來迄も御見捨なき爲に御證據の品を下し置れ度と願ければ徳太郎君も道理に思し召て御墨付に御短刀を添て下されけり澤の井は押戴き御短刀を能々拜見して偖申やう此御短刀は私し望御座なく候何卒君の常々御手馴し方を戴き度旨願ひければ君も御祕藏の短刀を遣はさるゝは御迷惑の體なりしが據處なく下されて仰けるは此品は東照神君より傳はれるにて父君にも深く御祕藏の物なるを先年自分に下されしなり大切の品なれども其方の願も點止し難ければ遣はすなりと御墨付を添て件の短刀をぞ賜はりける其お墨付には
其方懷姙のよし我等血筋に相違是なし若男子出生に於ては時節を以て呼出すべし女子たらば其方の勝手に致すべし後日證據の爲我等身に添大切に致候短刀相添遣はし置者也依而如件
と成され印を据し一書を下し置れ短刀は淺黄綾の葵の御紋染拔の服紗に包て下されたり。扨又徳太郎君には道中も滯ほりなく同年霜月加納將監御供にて江戸麹町紀州家上屋敷へ到着と相成り夫より左京太夫殿家督相續萬端首尾よく相濟せられたり。然に澤の井は其後漸く月重り今は包に包まれず或時母に向ひ恥かしながら徳太郎君の御胤を宿しまゐらせ御内意を受け御手當金百兩と御墨附御短刀まで後の證據に迚下されしこと逐一物語ればお三婆は大いに悦び其後は只管男子の誕生あらんことをぞ祈りたるが已に月滿て寛永三年[#「寛永三年」はママ]三月十五日の子の上刻に玉の如くなる男子を誕生し澤の井母子の悦び大方ならず天へも昇る心地して此若君の生長を待つより外は無るべし寛永二申年[#「寛永二申年」はママ]十月
徳太郎信房
澤の井女へ
然にお三婆母子は若君誕生ありしに始めて安堵の思ひをなせしが老少不定の世の習ひ喜こぶ甲斐もあら悲しや誕生の若君は其夜の七ツ時頃虫の氣にて終に空くなり給ひぬ母澤の井斯と聞より力を落し忽ち産後の血上り是も其夜の明方に相果ければ跡に殘しお三婆は兩人の死骸に取付天を仰ぎ地に俯し泣悲しむより外なきは見るも哀れの次第なり近邊の者ども婆が泣聲を聞つけ尋ね來り見れば娘の澤の井と嬰孩の死骸に取付樣々の謔言を言立狂氣の如き有樣なれば種々賺し宥め兩人の死骸を光照寺といふ一向宗の寺へ葬むりしがお三婆は狂氣なし種々の事を叫び歩くにぞ名主の甚兵衞も持あまし其隱居所を追出しけり然ばお三婆は住家を失なひ所々方々と浮れ彷徨しを隣村平野村の名主甚左衞門は平澤村の[#「平澤村の」は底本では「平野村の」]甚兵衞名主の弟なるがこれも至つて慈悲深者にてお三婆の迷ひ歩行を氣の毒に思ひ何時まで狂氣でも有まじ其内には正氣に成べしとて己が明家に住せ此處にあること半年程にて漸やく正氣に成しかば以前の如く産婦の世話を業として寡婦暮しに世を渡りける。爰に寶永三年四月紀伊大納言光貞卿[#「光貞卿」は底本では「貞光卿」]御大病の處醫療叶はず六十三歳にて逝去まし/\ける此時松平主税頭信房卿は御同家青山百人町なる松平左京太夫の養子となり青山の屋敷に在せり扨また大納言光貞卿の惣領綱教卿は幼年より病身と雖も御惣領なれば強て家督に立給しが綱教卿も同年九月九日御年廿六歳にて逝去なり然るに次男頼職卿も早世なるに依紀伊家は殆ど世繼絶たるが如し三男信房卿同家へ養子と成せられて間は無れ共外に御血筋なき故まづ左京太夫頼純の四男宗通の次男を左京太夫頼淳と號して從四位少將に任じて家督とし主税頭信房卿は是より本家相續に相成り紀州和歌山にて五十五萬五千石の主とは成玉へり舍兄綱教卿は忌服十二月朔日に明け翌二日從三位中納言に任ぜられ給ひけり。扨寶永は七年續きて八年目の五月七日に正徳元年と改元あり正徳は五年續き六年目の三月朔日に享保元年と改元ある然るに正徳三年の九月六代の將軍家宣公御他界あり御幼年の鍋松君當年八歳にならせ給ふを七代の將軍と崇め家繼公とぞ申したてまつる此君御不運にまし/\間もなく御他界にて有章院殿と號したてまつる是に依て此度は將軍家に御繼子なく殿中闇夜に燈火を失ひたる如くなれば將軍家御家督の御評定として大城へ出仕の面々には三家十八國主四溜老中には阿部豐後守政高。久世大和守重之。戸田山城守忠實。井上河内守正峯。御側御用人間部越前守詮房。本多中務大輔正辰。若年寄には大久保長門守正廣。大久保佐渡守常春。森川出羽守俊胤。寺社奉行には松平對馬守近貞。土井伊豫守利道。井上遠江守正長大目付には横田備中守重春。松平安房守乘宗。中川淡路守重高等なり此時井伊掃部頭發言により松平陸奧守綱村卿進み出て申されけるに天下の御繼子の儀は東照神君御血筋近き方より繼せ玉はす事こそ順當なるべし然れば紀州公は神君の御彦に當らせ給へり紀州公こそ然べからんとぞ申されける諸侯其儀道理然るべしと異口同音に賛成なれば彌々紀伊家より御相續と相極まる是に因て同年八月吉宗公と御改名あり
正二位右大臣右近衞大將[#ルビの「うこんゑのたいしやう」は底本では「こんゑのたいしやう」]征夷大將軍淳和奬學兩院別當源氏長者
右の通り御轉任にて八代將軍吉宗公と申上奉つる時に三十三歳なり寶永四年紀州家御相續より十月目にて將軍に任じ給ふ御運目出度君にぞありける是に依て江戸町々は申すに及ず東は津輕外が濱西は鎭西薩摩潟まで皆萬歳をぞ祝し奉つる別して紀州にては村々在々まで殊の外に喜び祝しけるとぞ。扨も平野村甚左衞門方に世話に成居るお三婆は此事を聞より大に歎き悲み先年御誕生の若君の今迄も御存命に在まさば將軍の御落胤なれば何樣なる立身をもすべきに御不運にて御早世なりしは返す/″\も殘念なりと獨り泣悲しむも理りとこそ聞けれ扨も八代將軍には或時御側御用取次に御尋ね有やうは先年勢州山田奉行を勤し大岡忠右衞門と申者は目今何役を致し居るやと御尋に御側衆申上げる樣大岡忠右衞門儀未だ山田奉行勤役にて罷在る旨を申上ければ吉宗公上意に忠右衞門は政事に私なく天晴器量ある者なり早々呼出すべしとの事故に台命の趣を御老中に申達しける是に依て御月番より御召出の御奉書勢州山田へ飛脚を以て遣さる大岡忠右衞門には御奉書到來し熟々考ふるに先年徳太郎君まだ紀州表に御入の節阿漕が浦にて召捕吟味せし事あり此度計ずも將軍に成せられたれば此度の召状は必定返報の御咎にて切腹でも仰付らるゝか又は知行御取上かさらずば御役御免なるべしと覺悟し用意も々に途中を急ぎ程なく江戸表へ着しければ早速御月番御老中へ到着の御屆に及び此段上聞に達しければ早々忠右衞門に御目見仰せ付らるべきの趣きなれば大岡忠右衞門早速御前へ罷出て平伏しける時に將軍の上意に忠右衞門其方は予が面體に見覺え有かとの御尋なり此時忠右衞門畏まり奉る上意の通り私し儀山田奉行勤役中先年阿漕が浦なる殺生禁斷の場所へ夜々網を入れ殺生する曲者ありとの訴へに付私し出役仕つり引き捕へ吟味仕り候處に彼曲者は紀伊家の徳太郎信房卿の御名前を僞はる曲者ゆゑ篤と吟味に及び候恐れ乍ら右曲者の面體君の御容貌によく似申す樣に存じ奉るとぞ御答申上ければ將軍家には深く其忠節を御感心遊ばされ忠右衞門宜くも申たりとて御譽の御言葉を下され直に江戸町奉行をぞ仰付られける。是に因て越前守と任官し大岡越前守藤原忠相と末代までも名奉行の名を轟かしたるは此人の事なり將軍家には其後も越前は末代の名奉行なりと度々上意ありしとかや爰に長門國阿武郡萩は江戸より路程[#ルビの「みちのり」は底本では「のちのり」]二百七十里三十六萬五千石毛利家の城下にて殊に賑はしき土地なり其傍らに淵瀬といふ處あり昔此處に萩の長者といふありしが幾世をか經て衰破斷滅し其屋敷跡は畑となりて殘れり其中に少しの丘ありて時々錢又は其外種々の器物など掘出す事ある由を昔より云傳たりまた里人の茶話にも朝に出る日夕に入る日も輝き渡る山の端は黄金千兩錢千貫漆千樽朱砂千斤埋ありとは云へど誰ありて其在處を知る者なし然ども時として鷄の聲などの聞ゆる事ありて此は金氣の埋れ有故なりと評するのみ又誰も其他を定に知るもの無りける然るに其屋敷の下に毛利家の藩中にて五十石三人扶持をとる原田兵助と云者あり常々田畑[#ルビの「でんばた」は底本では「だんばた」]を耕作する事を好みしが或時兵助山の岨畑へ出て耕作しけるに一つの壺瓶を掘出たり密に我家へ持ち歸り彼壺を開き見るに古金許多あり兵助大いに喜び縁者又は親き者へも深く隱し置けるが如何して此事の漏たりけん隣家の山口六郎右衞門が或日原田兵助方へ來り稍時候の挨拶も終りて四方山の咄に移りし時六郎右衞門兵助に向て貴殿には先達て古金の入し瓶を掘出されし由を慥に承まはり及たり扨々浦山敷事なり何卒其古金の内を少々拙者へ配分致し賜れと云ふに兵助は發と思へど然有ぬ風情にて貴殿には然ことを何者にか聞れし一向蹤跡なき事なり拙者毛頭左樣の事存じ申さずと虚嘯き何にも不束なる挨拶なるにぞ六郎右衞門は勃とし彼奴多分の金子を掘り出しながら少の配分をも拒み夫のみならず我に對して不束の挨拶こそ心得ぬよし/\其儀なら爲ようこそあれと急ぎ我家へ立歸り直樣役所へ赴むき訴へける樣は原田兵助事此度畑より金瓶を掘出し候處上へも御屆申上げず密に自分方へ仕舞置候旨をば訴へに及びたり役人中此由を聞き吟味の上兵助を役所へ呼寄其方事此度畑より古金の瓶を掘出し其段早速役所へ屆け出づべきに然は無して自分方に隱置其方一個の得分に致さんとの心底侍にも似合ず後闇き致し方にて重々不屆に思召さる依て相當の御咎をも仰せ付らるべきを此度は格別の御慈悲を以て永の御暇下し置る早々屋敷を引拂ひ何方へなりとも立退べし尤も掘出せし器物は其儘に上へ上納すべき旨申渡されける原田兵助は驚ながらも御請致し是全く六郎右衞門が訴人せしに相違なしとは思へど今更詮方なければ掘出せし金瓶は役所へ差出し家財は賣拂ひ一人の老母を引連て泪乍らに住馴し[#「住馴し」は底本では「住馳し」]萩を旅立て播州加古川に少の知音のあれば播州さしてぞ立去ける老母を倶せし旅なれば急ぐとすれど捗行ず漸々の事にて加古川に着たれば知音を尋ね事の始末を委く咄し萬事を頼みければ異議なく承知し暫くの内は此處の食客となりしが兵助は外に覺えし家業も無ければ彼の知音の世話にて加古川の船守となり手馴ぬ業の水標棹もその艱難云ん方なし然ど原田兵助は至て孝心深き者なれば患難を事ともせず日々加古川の渡守して貧しき中にも母に孝養怠らざりし其内老母は風の心地とて臥ければ兵助は家業を休み母の傍らを離ず藥用も手を盡したれど定業は逃れ難く母は空敷なりにけり兵助の愁傷大方ならず然ど歎て甲斐無事なれば泣々も野邊の送りより七々四十九日の法なみもいと懇ろに弔[#ルビの「とふら」は底本では「やむら」]ひける。扨又山口六郎右衞門も此度訴人の罪に依て是亦永の暇となりて浪人の身となり姿を虚無僧に替て所々を徘徊せしがフト心付き原田は播州へ行しとの事なり今我斯樣に浪々の身となり艱難するも元は兵助が事より起れりと自身の惡事には氣も付かず只管兵助を怨みいざや播州へ赴き兵助に巡逢此無念を晴さんと夫より播州指てぞ急ぎける所々方々と尋ぬれど行衞は更に知ざりしが或日途中にて兵助に出會しも六郎右衞門は天蓋を冠りし故兵助は夫とも知ず行過んとせしに一陣の風吹來り天蓋を吹落しければ思はず兩人は顏見合ける此時兵助聲をかけ汝は山口六郎右衞門ならずや我斯零落せしも皆汝が仕業ぞと傍にある竿竹を把て突て掛る六郎右衞門も心得たりと身を飄し汝此地に來りしと聞渺々尋ねし甲斐有て祝着なり無念を晴す時到れり覺悟せよと云さま替の筒脇差にて切かゝり互ひに劣らず切結びしが六郎右衞門が苛つて打込脇差にて竿竹を手元五尺許り斜かけに切落せり兵助は心得たりと飛込其斜かけに切れし棹竹にて六郎右衞門が脇腹目掛て突込だり六郎右衞門は堪得ず其處に倒とぞ倒れたり兵助立寄[#ルビの「たちより」は底本では「たりより」]六郎右衞門が持し脇差にて最期刀をさし無念は晴したれど今は此地に住居は成じと直樣此處を立去り是よりは名を嘉傳次と改め大坂へ出夫より九州へ赴き所々を徘徊し廻り/\て和歌山の平野村と云へる所に到りける此平野村に當山派の修驗感應院といふ山伏ありしが此人甚だ世話好にて嘉傳次を世話しければ嘉傳次は此感應院の食客とぞ成り感應院或時嘉傳次に向ひ申けるは和歌山の城下に片町といふあり其處に夫婦に娘一人あり親子三人暮しの醫師なりしが近頃兩親共に熱病にて死去し娘計りぞ殘れり貴公其所へ養子に行て手習の指南でもせば宜からんといふ嘉傳次是を聞成程何時迄當院の厄介に成ても居られず何分にも宜しくと頼みければ感應院も承知なして早速彼片町の醫師方へ往右の咄をなし若御承知なら御世話せんといふに此時娘も兩親に離れ一人の事なれば早速承知し萬事頼むとの事故相談頓に取極りて感應院は日柄を撰み首尾よく祝言をぞ取結ばせける夫より夫婦間も睦しく暮しけるが幾程もなく妻は懷妊なし嘉傳次は外に家業もなき事なれば手跡の指南なし傍ら膏藥など煉て賣ける月日早くも押移り十月滿て頃は寶永二年戌[#「寶永二年戌」はママ]三月十五日の夜子の刻に安産し玉の如き男子出生しける嘉傳次夫婦が悦び大方ならず程なく七夜にも成りければ名をば玉之助と號け掌中の玉と慈しみ養てける然に妻は産後の肥立惡く荏苒と煩ひしが秋の末に至りては追々疲勞し終に泉下の客とはなりけり嘉傳次の悲歎は更なり幼きものを殘し置力に思ふ妻に別れし事なれば餘所の見目も可哀しく哀れと云ふも餘りあり斯くて有べき事ならねばそれ相應に野邊の送りを營み七日々々の追善供養も心の及ぶだけは勤めしが何分男の手一ツで幼き者の養育に當惑し晝は漸く近所隣に貰ひ乳などし夜は摺粉を與へ孤子なればとて只管不便に思ひ養ひけり扨て玉之助も年月の立に從ひ成長しければ最早牛馬にも踏じと嘉傳次も少しく安堵し益々成長の末を祈りし親の心ぞ切なけれ其夏の事とか嘉傳次は傷寒を煩ひ心の限り藥用はすれども更に其驗なく次第々々に病氣の重るのみなれば或日嘉傳次は感應院を病床に招き重き枕を上て偖申けるは抑々私しが當國に杖を止めしより尊院の御厚情に預りし其恩を謝し奉つらずして此度の病氣迚も全快は覺束なし何卒此上とも我なき跡の玉之助が事偏に頼み參らすると泪ながらに述にける感應院は逐一に承知し玉之助の事は必ず氣に懸られな萬一の事あらば拙者が方へ引取て世話し遣すべし左樣の事は案じず少も早く全快せられよ夫れには藥用こそ第一なれなど勸ければ嘉傳次は感應院を伏拜み世にも嬉げに見えにけるが其夜嘉傳次は獨の玉之助を跡に殘し後れ先立習ひとは云ひながら夕の露と消行しは哀れ墓なかりける次第なり感應院夫と聞き早速來り嘉傳次の死骸をば例の如く菩提寺へ葬り僅かなる家財調度は賣代なし夫婦が追善の料として菩提寺へ納め何呉となく取賄ひ最信實に世話しけり然ば村の人々も嘉傳次が死を哀み感應院の篤き情を感じけるとかや
光陰は矢よりも早く流るゝ水に宛似たり正徳元年辛卯年と成れり玉之助も今年七歳になり嘉傳次が病死の後は感應院方へ引取れ弟子となり名をば寶澤と改めける感應院は元より妻も子もなく獨身の事なる故に寶澤を實子の如く慈みて育けるが此寶澤は生ながらにして才智人に勝れ發明の性質なれば讀經は云に及ず其他何くれと教るに一を示して十を覺るの敏才あれば師匠の感應院も末頼母しく思ひ別て大事に教へ養ひけるされば寶澤は十一歳の頃は他人の十六七歳程の智慧有て手習は勿論素讀にも達し何をさせても役に立ける此感應院は兼てよりお三婆とは懇意にしけるが或時寶澤を呼て申けるは其方の行衣其外とも垢付し物を持お三婆の方へ參り洗濯を頼み參るべしと云付られ元來寶澤は人懷のよき生れなれば諸人皆可愛がる内にもお三婆は取分寶澤を孤子也とて愛しみ味き食物等の有ば常に殘し置て遣はしなどしける此日師匠の用事にて來りける折から冬の事にて婆は圍爐裡に煖りゐけるが寶澤の來るを見て有あふ菓子などを與へて此寒いに御苦勞なり此爐の火の温ければ暫く煖まりて行給へと云に寶澤は喜びさらば少時間あたりて行んと頓て圍爐裡端へ寄て四方山の噺せし序で婆のいふやうは今年幾歳なるやと問ふに寶澤は肌を寛ろげ掛し守り袋取出してお三婆に示せば是を見るに寶永二年[#「寶永二年」はママ]三月十五日の夜子の刻出生と印し有ければ指折算へ見るに當年恰十一歳なり忘れもせぬ三月十五日の夜なるがお三婆は頻に落涙しテモ御身は仕合物なりとて寶澤が顏を打守りしみ/\悲歎の有樣なれば寶澤は婆に向ひ私し程世に不仕合の者はなきに夫を仕合とは何事ぞや抑も當歳にて産の母に死別れ七歳の年には父にさへ死れ師匠の惠に養育せられ漸く成長はしたるなり斯墓なき身を仕合とは又何故にお前は其樣に歎き給ふぞと尋けるお三婆は落る涙を押拭ひ成程お身の云ふ通り早く兩親に別れ師匠樣の養育にて人と成ば不仕合の樣なれ共併しさう達者で成長せしは何よりの仕合なり譯と云ば此婆が娘の産し御子樣當年まで御存命ならば恰どお身と同じ齡にて寶永三戌年[#「寶永三戌年」はママ]然も三月十五日子の刻の御出生なりしと語り又も泪に暮る體は合點のゆかぬ惇言と思へば扨はお前のお娘の産し孫ありて幼年に果られしやは又如何なる人の子にて有しぞと問に婆は彌々涙にくれ乍らも語り出る樣私に澤の井といふ娘あり御城下の加納將監樣といふへ奉公に參らせしが其頃將監樣に徳太郎樣と申す太守樣の若君が御預りにて渡らせ給へり其若君が早晩澤の井に御手を付け給ひ御胤を宿したれど人に知らせず婆が許へ呼取しも太守樣の若君樣が御胤なれば竊かに御男子が御出生あれと朝夕神佛へ祈る甲斐にや安産せしは前にも云へる如く御身と年月刻限まで同じ寶永二年の[#「寶永二年の」はママ]三月十五日夜の子刻なりき取揚見ば玉の如き男子なれば娘やばゝが悦びは天へも上る心地なりしが悦ぶ甲斐もあら情なや御誕生の若君は其夜の明方無慘や敢なく御果成れしにぞ澤の井は是を聞と齊しく産後の血上り是も續きて翌朝其若君の御跡慕ひ終に空しく相果たり獨り殘りしばゝが悲み何に譬へん樣もなく扨も其後徳太郎樣には御運目出度ましまし今の公方樣とは成せ給ひたり然ば娘の持奉りて若君の今迄御無事に在まさば夫こそ天下樣の落胤成ば此ばゝも綾錦を身に纒ひ何樣なる出世もなる筈を娘に別れ孫を失ひ寄邊渚の捨小舟のかゝる島さへ無身ぞと叫と計りに泣沈めり寶澤は默然と此長物語を聞畢り實に女は氏なくて玉の輿と運が有ば思の外の事もあるものと心の内に思ふ色を面には顯さず夫は氣の毒にも惜き事なり併し夫には證據でも有ての事か覺束なし孫君の將軍の落胤でも輙く出世は出來まじ過去し事は諦め玉へと賺し宥ればばゝは此言葉を聞宜くも申されたり實に幼くして兩親に離るゝ者は格別に發明なりとか婆も今は浮世に望みの綱も切たれば只其日々々を送り暮せど計ずも孫君と同年と聞思はず愚痴を翻したり偖も干支のよく揃ひ生れとて今まで人に示ざりしが證據といふ品見すべしと婆は傍への古葛籠を明け彼二品を取出せば寶澤は手に取上先お短刀を熟々見るに其結構なる拵へは紛ふ方なき高貴の御品次に御墨付おし披き拜見するに如樣徳太郎君の御直筆とは見えける諺に云へる事あり蛇は一寸にして人を噛の氣あり虎は生れながらにして牛を喰ふの勢ひ有とか寶澤は心中に偖々此婆めが善貨物を持て居ることよ此二品を手に入て我こそ天下の落胤と名乘て出なば分地でも御三家位萬一極運に適ふ時はと漸と當年十一の兒が爰に惡念を起しけるは怖ろしとも又類ひなし寶澤は此事を心中に深く祕し其時は然氣なく感應院へぞ歸りける偖翌年は寶澤十二歳なり。其夏の事なりし師匠感應院の供して和歌山の城下なる藥種屋市右衞門方へ參りけるに感應院は奧にて祈祷の内寶澤は店に來り番頭若者も皆心安ければ種々の咄などして居たり然るに此日は藥種屋にて土藏の蟲干なりければ寶澤も藏の二階へ上りて見物せしが遂に見も慣ざる品を數々並べたる傍には半兵衞と云ふ番頭が番をして居たり寶澤側へ寄て色々藥種の名を聞ば半兵衞も懇篤に教へける中に遙か離して一段高き所に壺三ツ并べたり寶澤指さし彼壺は何といふ藥種の入ありやと尋ければ半兵衞のいふ樣彼こそ斑猫と砒霜石と云ふ物なるが大毒藥なれば心して斯は遠くに離したりと聞て膽太き寶澤は態と顏を皺めテも左樣の毒藥にて候かと恐れし色をぞ示したり折節下より午飯の案内に半兵衞は暫し頼みまする緩々見物せられよと寶澤を殘し己は飯喰にぞ下りけり跡には寶澤只一人熟々思ひ廻らせば今此の二品を盜み置かば用ゆる時節はこれ斯と心の中に點頭つゝ頓て懷中紙を口に啣へ毒藥の壺取卸し彼中なる二品を一塊づつ紙に包て盜取跡は故の如くにして何知らぬ體にて半兵衞が歸るを待居たり半兵衞は頓て歸り來り偖々御太儀なりしお小僧にも臺所へ行て食事仕玉へと云ひければ寶澤は嬉し氣に下行食事も畢ける頃感應院も祈祷を仕舞ひければ寶澤も供して歸りぬ彼盜取し毒藥は竊に臺所の縁の下の土中へ深く埋め折を待て用ひんと工む心ぞ怖しけれ
頃は享保三丙申年霜月十六日の事なりし此日は宵より大雪降て殊の外に寒き日なりし修驗者感應院には或人より酒二升を貰ひしに感應院は元より酒を少しも用ひねば此酒は近所の懇意の者に分與へける寶澤師匠に向ひ申やうは何卒那酒を少し私しへ下さるべしと乞けるに感應院其方飮ならば勝手に呑べしと云ふ否々私しは爭でか酒は用ひ申べきお三婆は常々私しを可愛がり呉れ候へば少し戴きて渠に呑せたしといふ感應院これを聞て能こそ心付たれ我は婆の事に心付ざりし隨分澤山に遣はせと有ければ寶澤は大いに悦び早速酒を徳利へ移し肴をば竹の皮に包み降積もりたる大雪を踏分々々彼お三婆の方へ到りぬ今日は怪からぬ大雪にて戸口へも出られずさぞ寒からんと存じ師匠樣より貰ひし酒を寒凌ぎにもと少しなれど持來りしとて件の徳利と竹皮包を差出せばお三婆は圍爐裡の端に火を焚居たりしが是を聞て大きに悦び能も/\此大雪を厭ず深切にも持來り給へりと麁朶折くべて寶澤をも爐端へ坐らせ元より好の酒なれば直に燗をなし茶碗に汲て舌[#ルビの「した」は底本では「ひた」]打鳴し呑ける程に胸に一物ある寶澤は酌など致し種々と勸めける婆は好物の酒なれば勸めに隨ひ辭儀もせず呑ければ漸次に醉出て今は正體無醉臥たり寶澤熟々此體を見て心中に點頭時分は宜と獨り微笑み傍を見廻せば壁に一筋の細引を掛て有に是屈竟と取卸し前後も知らず寢入しばゝが首に纒ひ難なく縊り殺し豫て認置し二品を奪ひ取首に纒ひし細引を外し元の如く壁にかけ圍爐裡の邊りには茶碗又は肴を少々取並べ置死したるお三婆が體を圍爐裡の火の中へ押込み如何にも酒に醉潰れ轉げ込で燒死たる樣に拵へたれば知者更になし寶澤は然あらぬ體にて感應院へ歸り師匠へもばゝが厚く禮を申せしと其場を取繕ひ何喰ぬ顏して有しに其日の夕暮に何とやらん怪しき匂ひのするに近所の人々寄集りて何の匂やらん雪の中にて場所も分らず種々評議に及び斯る時には何時も第一番にお三ばゝが出來り世話をやくに今日は如何せしや出來ぬは不思議成とて囁きける爰に名主甚左衞門の悴がフト心付お三ばゞの方へ到り戸を押明て見れば此は抑如何にお三ばゝは圍爐裡の中へ頭を差込死し居たり匂ひの此處より發りしなれば大いに驚ろき一同へ告げ親甚左衞門へも此事を通じけるに名主も駈來り四邊近所の者も追々に集り改め見れば何樣酒に醉倒れ轉込死したるに相違なき體なりと評議一決し翌日此趣きを郡奉行へ屆ければ早速檢使の役人も來り改め見しに間違もなき動靜成ば名主始め村中は口書を取れ大酒に醉伏燒死たるに相違なき由にて其場は相濟たり是に依て村中評議の上にてお三ばゝの死骸は近所の者共請取菩提寺へぞ葬りける隣家のお清婆と云は常々お三ばゝと懇意なりければ横死を聞て殊更に悲歎の思ひをなし昨日の大雪にて一度も尋ざりしゆゑ此事を知ざりしぞ不便なれとて歎きけるとぞ是より日々墓へ參詣して香花を手向ける扨も寶澤はお三ばゝを縊殺し彼二品を奪ひ取旨々と打點頭此後は我成長して此品々を證據とし公方樣の落胤と申上なば御三家同樣夫程迄ならぬも會津家ぐらゐの大名には成べし併ながら將軍の落胤なりと欺く時は如何なる者をも欺き負すべけれども爰に一ツの難儀といふは師匠の口から彼者は幼年の内斯樣々々にて某し養育せし者なりと云るゝ時は折角の巧も急ち破るゝに相違なし七歳より十二歳まで六ヶ年が其間養育の恩は須彌よりも高く滄海よりも深しと雖ども我大望には替難し此上は是非に及ばず不便ながらも師匠の感應院を殺し誰知ぬ樣になし成人の後に名乘出べしと心太くも十二歳の時始て起す大望の志ざしこそ怖ろしけれ既に其歳も暮て十二月十九日と成ければ感應院には今日は天氣も宜れば煤拂ひをせんものと未明より下男善助相手とし寶澤にも院内を掃除させけるが稍片付て暮方になり早殘る方なく掃除を仕舞ければ善助は食事の支度をなし寶澤は神前の油道具を掃除しけるが下男の善助は最早膳部も出來たれば寶澤に申ける御膳も出來候へばお師匠樣へ差上給へといへば寶澤は此時なりと兼て巧みし事なれば今われ給仕しては後々の障りに成んと思ひければ善助に向ひ我は油手なれば其方給仕して上られよと頼むに何心なき善助は承知して今水一荷を汲て後に御膳を差上べしといひ表の方へ出行たり跡に寶澤は手早く此夏中縁の下へ埋置し二品の毒藥を取出し平と汁の中へ附木にて匕ひ込何知ぬ體にて元の處へ來り油掃除して居たりけり善助は爭で斯る事と知るべき水を汲終り神ならぬ身の是非もなや感應院の前へ彼膳部を持出し給仕をぞなし居たり感應院が食事仕果し頃を計り寶澤も油掃除を成果て臺所へ入來り下男倶々食事をぞなしぬ胸に一物ある寶澤が院主の方を密かに窺ふに何事もなし扨不審とは心に思へど色にも顯さず已に其夜も五ツ時と思ふころ毒藥の効總身に廻り感應院は俄に七轉八倒して苦み出せば寶澤はさも驚きたる體にて泣ながら先近所の者へ知せける土地の者共驚き慌て早速名主へ知せければ名主も駈付醫者よ藥と騷しに全く食滯ならんなど云儘寶澤は心には可笑けれど樣々介抱なしゐしが夥だしく血を吐て遂に其夜の九ツ時に感應院は淺ましき最期をこそ遂たりける名主を始め種々詮議すれば煤掃の膳部より外に何にも喰ずとの事なり依て膳部を調れども更に怪しき事なければ彌々食滯と決し感應院の死骸は村中より集り形の如く野邊の送りを取行ひける扨此平野村には感應院より餘に修驗もなきことゆゑ村中に何事の出來るとも甚だ差支へなりと名主甚左衞門は[#「名主甚左衞門は」は底本では「名主善右衞門は」]感應院へ村中の者を集め扨相談に及ぶは此度不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、27-16]も感應院の横死せしが子迚も無ればあと目相續さすべき者なし然とて何時迄も當院を無住にも爲て置れず我思ふには年こそ行ねど寶澤は七歳の時より感應院が手元にて修行せし者なり殊には外の子供と違ひ發明なる性質にて法印の眞似事は最早差支なし我等始め村中が世話してやらば相續として差支へなし然すれば先住感應院に於ても嘸かし草葉の蔭より喜び申すべし此儀如何と述ければ名主どのゝ云るゝ事なり寶澤は七歳の時から感應院の手元で育ち殊には利發で愛敬者なり誰か違背すべき孰も其儀然るべしと相談爰に決したり
斯て名主甚左衞門は寶澤を招き申渡しける樣は扨も先達て師匠の死去せしより當村に山伏なし且又感應院には子もなければ相續すべき者なし依て今日村中を呼寄相談に及びしは其方は幼年なれども感應院の手許にて教導を受し事なれば可なりに修驗の眞似は出來べし我々始め村中より世話をすれば師匠感應院の後住にせんと村中相談一決したり左樣に心得べしと申渡せば寶澤は謹んで承はり答へけるは師匠感應院の跡目相續致し候樣と貴殿を始め村中の厚き思し召の程は有難く幼年の私しの身に取ては此上もなき仕合に存じ奉つり早速御受すべき處なれど師匠が存命中申聞せ候には凡山伏と云者は日本國中の靈山靈場を廻り難行苦行をなし或は野に伏し山に伏し修行をする故に山伏とは申なり扨亦山伏の宗派といツパ則ち三派は分れたり三派と云は天台宗にて聖護院宮を以て本寺となし當三派は眞言宗にて醍醐三寶院の宮を本山とす出羽國羽黒山派は天台宗[#ルビの「てんだいしう」は底本では「ていだいしう」]にて東叡山一品親王を以て本山と仰ぎ奉る故に山伏とは諸山修行の修學の名にて難行苦行をして野に伏し山に宿し戒行を勵ゆゑに山伏といふ又修驗といツパ其修行終り修行滿たる後の本學とあれば難行苦行をなし修行終て後の本名なり故に十界輪宗の嘲言に徹すれば厭ふべき肉食なし兩部不二の法水を嘗れば嫌ふべき淫慾なしと立る法なり三寶院は聖護大僧正を宗祖とし聖護院は坊譽大僧正を宗祖とするなり然ども何も開山と申は三派ともに役の小角が開き給ひしなり扨亦山伏が補任の次第
小阿闍梨 大々法印 金蘭院 律師 大越家 一山大先達 内議僧 院號 坊號笈籠 權大僧都
七道具左之通
篠掛 摺袴 磨紫金 兜巾 貝 貝詰 護摩刀
評に曰此護摩刀のことは柴刀とも申よし是は聖護院三寶院の宮樣山入の節諸國の修驗先供の節柴を切拂て護摩の場所を拵へる故に是を柴刀とも云なり
斯の如く山伏には六かしき事の御座候よし兼て師匠より聞及び候に私事は未だ若年にて師匠の跡目相續の儀は過分の儀なれば修驗の法を一向に辨へずして感應院後住の儀は存じも寄ず爰にされば一の御願ひあり何卒當年より五ヶ年の間諸國修行致し諸寺諸山の靈場を踏難行苦行を致し誠の修驗と相成て後當村へ歸り其時にこそ師匠感應院の院を續度存ずるなり哀れ此儀を御許し下され度夫迄の内は感應院へは宜き代りを御入置下され度凡五ヶ年も過候はゞ私し事屹度相戻りますれば何卒相替らず御世話下されたし尤とも此事は師匠存命の内にも度々相願しかども師匠は私しを慈しむの餘り片時も側を離すを嫌ひて幼年なれば今四五年も相待べしと止め候故本意なくは思へども師匠の仰せ默止難く是迄は打過候なり此度こそ幸ひに日頃の宿願を果すべき時なり何卒此儀をお許し下されと幼年に似合ず思ひ入たる有樣に聞居る名主を初め村中の者は只管感心するより外なく皆々口を閉て控へたり此時名主甚左衞門進出て申す樣只今願の趣き委細承知致したり扨々驚き入たる心底幼年には勝りし發明天晴の心立なり斯迄思込し事をむざ/\押止んも如何なれば願ひに任すべしさらば五ヶ年過て歸り來る迄は感應院へは留守居を置べし相違なく五ヶ年の修行を遂げ是非とも歸り來り師匠の跡目を繼給へとて名主を初め村中も倶々勸めて止ざりけり偖も寶澤は願ひの如き身となり旅の用意[#ルビの「ようい」は底本では「ちうい」]もそこ/\に營なみければ村中より餞別として百文二百文分に應じて贈られしに塵も積りて山の譬へ集りし金は都合八兩貳歩とぞ成にける其外には濱村ざしの風呂敷或は柳庫裏笈笠蜘の巣絞の襦袢など思々の餞別に支度は十分なれば寶澤はさも有難げに押戴き幼年よりの好誼と此程の淺からぬ餞別重々有難き仕合せと恩を謝しいよ/\明日の早天に出立致す故御暇乞に參り候なりと村中へ暇乞に廻れり此時寶澤は漸く十四歳の少年なり頃は享保三戌年二月二日成し幼年より住馴し土地を離るゝは悲けれど是も修行なれば決して御案じ下さるなとて空々敷も辭儀をなし一先感應院へ歸り下男善助に向ひ明朝早く出立すれば何卒握飯を三ツ許り拵へ呉よと頼み置き床房へ入て休ける其夜丑滿の頃に起出て彼の握り飯を懷中なし兼て奪取し二品を所持し最早夜明に程近し緩々と行べしと下男善助に[#「善助に」は底本では「善介に」]暇乞し感應院をぞ立出たり馴路とて闇をも厭はずたどり行に漸々と紀州加田浦に到る頃は夜はほの/″\と明掛りたり寶澤は一休せんと傍の石に腰を打掛暫く休みながら向を見れば白き犬一疋臥居たり寶澤は近付彼の握飯を取出し與へければ犬は尾を振悦び喰居るを首筋を掴んで曳やつて[#「曳やつて」はママ]投つけ起しも立ず用意の小刀を取出し急所をグサと刺通せば犬は敢なく斃れたり寶澤は謀計成りと犬の血を己が手に塗付て笈笠へ手の跡を幾許となく捺り付又餞別に貰ひし襦袢風呂敷へも血を塗て着たる衣服の所々を切裂これへも血を夥多に塗付誰が見ても盜賊に切殺れたる體に拵へ扨犬の死骸は壓を付て海へ沈め其身は用意の伊勢參宮の姿に改め彼二品を莚包として背負ひ柄杓を持て其場を足早に立去しは恐しくもまた巧みなる企てなり稍五ツ時頃に獵師の傳九郎といふが見付取散せし笈摺并に菅笠を見れば血に塗れたる樣子は全たく人殺しにて骸は海へ投込れしなるべしと早速土地の名主へ屆けゝれば年寄等が來り改めしに死骸は見えねども人殺しに相違なければ等閑ならぬ大事なりと此段奉行所へも屆出しにぞ其事平野村へ聞えければ同村の者共馳來れり此品々を見れば一々寶澤へ餞別に遣はしたる品に相違なし依て平野村の者より右の次第を濱奉行に訴へ私し共見覺ある次第を述村方感應院と申す山伏が昨今病死し其弟子當十四歳なる者五ヶ年間諸國修行の願にて昨日出立につき村中よりせん別に遣したる金子は八兩貳歩あり此品々も跡々より贈し物なり幼年にて多分の金子を所持し候を見付られ斯の仕合全く賊の爲に切害せられ候なるべしと申上ければ濱奉行も是を聞如何樣盜賊の所爲なるべし此品々は其方共へ戻す譯には參らず欠所藏へ入置るゝなり何分にも不便の至りなりとて其場は相濟たり偖も寶澤は加田浦にて盜賊に殺され不便の者なりとて師匠感應院の石塔の側に形ばかりの墓を立てられ村中替々香花を手向跡念頃に弔らひけるとなん評に曰此護摩刀のことは柴刀とも申よし是は聖護院三寶院の宮樣山入の節諸國の修驗先供の節柴を切拂て護摩の場所を拵へる故に是を柴刀とも云なり
寶澤は盜賊に殺害されし體に拵らへ事十分調ひぬと身は伊勢參宮の姿に窶一先九州へ下り何所にても足を止め幼顏を失ひて後に名乘出んものと心は早くも定めたり先大坂へ出夫より便船を求めて九州へ赴かんと大坂にて兩三日逗留し所々を見物し藝州迄の便船あるを聞出て此を頼み乘しが順風なれば日ならずして廣島の地に着せしかば先廣島を一見せんと上陸をぞなしにける抑々此廣島は大坂より海上百里餘にて當所嚴島大明神と申は推古天皇の五年に出現ましませし神なり社領千石あり毎月六日十六日祭禮なり其外三女神の傳あり七濱七夷等を廻り夫より所々を見物しける内一疋の鹿を追駈しが鹿の迯るに寶澤は何地迄もと思あとを慕しも終に鹿は見失ひ四方を見廻らせば遠近の山の櫻今を盛りと咲亂れえも云れぬ景色に寶澤は茫然と暫し木蔭に休らひて詠め居たり此時遙の向より年頃四十許の男身に編綴といふを纏ひ歩行來りしが怪しやと思ひけん寶澤に向ひて名を問ふ寶澤答て我は徳川無名丸と申す者なり繼母の讒言により斯は獨旅を致す者なり又其許は何人にやと尋ね返せば彼者芝原へ手を突へ申けるは徳川と名乘せ給ふには定めて仔細ある御方なるべし某事は信濃國諏訪の者にて遠州屋彌次六と[#「遠州屋彌次六と」は底本では「遠州屋彌六次と」]申し鵞湖散人また南齋とも名乘候下諏訪に旅籠屋渡世仕つれり若も信州邊へ御下りに成ば見苦くとも御立寄あるべし御宿仕らんと云にぞ寶澤は打點頭扨は左樣の人なるか某も此度據なき事にて九州へ下るなれ共此用向の濟次第に是非とも關東へ下向の心得なれば其節は立寄申べしと契約し其場は別たり扨寶澤は九州路を徊歴し肥後國熊本の城下に到りぬ爰は名に負五十四萬石なる細川家の城下なれば他所とは替り繁昌の地なり寶澤は既に路用を遣ひ盡しはや一錢も無なりいと空腹に成しに折節餠屋の店先なりしが彳みて手の内を乞と暫縁の下に休ひぬ餠屋の店には亭主と思しき男の居たりしかば寶澤其男に向申けるは私しは腹痛致し甚だ難澁致せば藥を飮たし御面倒樣ながら素湯一ツ下されと乞けるにぞ其男は家内に云付心よく茶碗へ湯を汲て與へたり寶澤は押戴き懷中より何やらん取出して飮眞似せり此時以前の男寶澤に向ひ尋けるは其方は年も行ぬに伊勢參宮と見受たり奇特の事なり何の國の生なるやと問ふ思慮深き寶澤は紀州と名乘ば後々の障なるべしと早くも心付態と僞りて私しは信州の生れにて候と云亭主此を聞て眉を顰め信州と此熊本とは道程四五百里も隔りぬらんに伊勢參宮より何ゆゑ當國迄は參りしやと不審を打れ敏速の寶澤は空泣して扨も私しの親父は養子にて母は私しが二ツの年病死し夫より祖母の養育に成長しが十一歳の年に親父[#ルビの「ちち」は底本では「ぢぢ」]は故郷の熊本へ行とて祖母に私しを預け置て立出しが其後一向に歸り來らず然に昨年祖母も病死し殘るは私し一人と成り切ては今一度對面し度と存ず夫故に伊勢參宮より故郷を跡にして遙々と父の故郷は熊本と聞海山越て此處迄は參り候へ共何程尋ても未だ父の在所が知申さず何成過去の惡縁にて斯は兩親に縁薄く孤子とは成候かと潸然々々と泣沈めば餠屋の亭主も貰ひ泣し偖々幼少にて氣の毒な不仕合者かなと頻に不便彌増偖云やう其方の父は熊本と計りでは當所も廣き城下なれば分るまじ父の名は何と申し又商賣は何渡世なるやと尋ねられ寶澤は泣々父は源兵衞と申し餠屋商賣なりと口より出任に答ければ亭主は是を聞き實事と思ひ然らば我等と同職なれば委く尋る程ならば譬へ廣き御城下でも知ぬ事は有まじ今夜は此方に泊り明日未明より餠屋仲間を一々尋ね見るべし我も仲間帳面を調べ遣んとて臺所へ上て休息させける扨其日も暮に及び夕飯など與へられ夜に入て亭主は仲間帳面を取出し源兵衞といふ餠屋や有と繰返し改めしに茗荷屋源兵衞と云があり是は近頃遠國より歸し人と聞及ぶ定めて此成んと寶澤にも是由を云聞せ明朝は其家に至り尋ぬべしと云れたり翌朝夫婦共に彼是と世話し件の茗荷屋源兵衞の町所を委く書認めて渡されしにぞ寶澤は態と嬉げに書付を持茗荷屋へと出行たり其夕暮寶澤には歸り來りいと白々しく今朝茗荷屋源兵衞樣方へ參り尋ねたれど私の親父にては是なきゆゑ夫より又々所々尋ねたれ共相知申さずと悄々として述ければ餠屋夫婦も氣の毒に思ひ其夜も泊て遣し又翌朝も尋に出したれ共元來知る筈はなし其夜寶澤は亭主に向申けるは扨々是迄淺からぬお情にて御城下は荒まし尋ねたれども何分父の居所は相知申さず何時迄も仇に月日を送らんも勿體なし明日よりは餠を背負てお屋敷や又は町中を賣ながら父を尋ね度存ずるなり此上のお情に此儀を御許し下されなば有難しと餘儀なげに頼むに夫は宜思付なり明日より左樣いたし心任せに父の在所を尋ぬべしとて翌日より餠を背負て出せしに元より發明の生なれば屋敷方へ到りても人氣を計り口に合やうに如才なく商ふゆゑに何時も一ツも殘さず皆賣て夕刻には歸り來り夫から又勝手を手傳などするにぞ夫婦は大に悦び餠類は毎日々々賣切て歸れば今は店にて賣より寶澤が外にて商ふ方が多き程になり夫婦は宜者を得つと名も吉之助と呼び實子の如く寵愛しけり或夜夫婦は寢物語に吉之助は年に似氣なき利口者にて何一ツ不足なき生れ付器量といひ人品迄よくも揃し者なり我々に子無れば年頃神佛に祈りし誠心を神佛の感應まし/\天よりして養子にせよと授け給ひし者成べし此家を繼せん者末頼母しと語合を吉之助潜に聞て心の内に冷笑へど時節を待には屈強の腰掛なりと心中に點頭これよりは別して萬事に氣をつけ何事も失費なき樣にして聊かでも利分をつけ晝夜となく駈廻り働く程に夫婦は又なき者と慈しみける扨も此餠屋と云は國主細川家の御買物方の御用達にて御城下に隱もなき加納屋利兵衞とて巨萬の身代なる大家に數年來實體に奉公を勤め近年此餠屋の出店を出て貰ひ夫婦とも稼暮す者なりフト吉之助の來てより家業も忙がしく大いに身代を仕出たり光陰矢の如く享保も七年とは成ぬ吉之助も當年は十八歳と成けり夫婦相談して當年の内には吉之助へも云聞せ良辰を撰みて元服させ表向養子の披露もせんとて色々其用意などしける處に或時本店の加納屋より急使來り同道にて參るべしとの事故餠屋の亭主は大いに驚き何事の出來せしやと取物も取敢ず急ぎ本店へ赴きけるに利兵衞は餠屋を奧の一間へ呼入れ時候の挨拶終り扨云やう今日其方を招しは別儀にも非ず此兩三年はお屋敷の御用も殊の外鬧敷相成ど店の者無人にて何時も御用の間を缺甚困り入が承まはれば其方に召仕ふ吉之助とやらんは殊の外發明者の由なり拙者方へ召使たしとの事なるが何共迷惑に思ども主人の頼なれば否とも云れず據なく承知なし早々我家へ歸り女房にも此事を相談しければ妻も致し方なく頓て吉之助を呼び今日本店よりの使は斯々にて本店無人に付暫くの内其方を借たしとの事なり未だ其方に話は致さねども當年の内には元服させ養子にせんと思しも本店へ引取れては我が所存も空しく殘念なれども外々ならば如何樣にも斷わり申すべきが本店の事なれば是非に及ばず明日よりは彼處へ參り一入出精し奉公致し呉べしと申渡しければ吉之助は心中に悦び是ぞ運の向處なり我大家に入込まば一仕事が成べしと思ふ心を色にも見せず態と悄々として是迄の厚き御高恩を報じもせずして他家に奉公致す事は誠に迷惑なれども御本店の事なれば致し方なしと誠に餘儀なき體に挨拶をぞなしにける
然程に吉之助は其翌日彼加納屋利兵衞方へ引移り元服して名をば吉兵衞と改め出精して奉公しける程に利發者なれば物の用に立事古參の者に増りければ程なく番頭三人の中にて吉兵衞には一番上席となり毎日々々細川家の御館へ參り御用を達しける萬事利發の取廻しゆゑ重役衆には其樣に計ひ下役人へは賄賂を贈り萬事拔目なきゆゑ上下擧つて吉兵衞を贔屓し御用も追々多くなり今は利兵衞方にても吉兵衞なくては叶はぬ樣に相成けり然共吉兵衞は少も高ぶらず傍輩中も睦しく古參の者へは別して親みける故内外共に評判よく利兵衞が喜び大方ならず無二者と思ひけり然に吉兵衞は熟々思案するに最早紀州を立退き夥多の年を過したれば我幼顏も變り果見知る者無るべし然ば兩三年の内には是非々々大望の企てに取掛るべし夫に付ては金子なくては事成就し難し率や是よりは金子の調達に掛らん物をと筆先十露盤玉にて掠め始めしが主人は巨萬の身代なれば少しの金には氣も付ず僅に二年の内に金子六十兩餘を掠め取り今は熊本に長居は益なし近々に此土地を立去んと心に思ひ定めける頃しも享保十巳年十二月二十六日の事なりし加納屋方にて金四十七兩二分細川家の役所より[#「役所より」は底本では「役所なり」]請取べき事あり右の書付を認め吉兵衞に其方此書付に裏印形を申請御金會所にて金子受取參るべしと云遣けるにぞ吉兵衞は彼書付を懷中なし爰に彌々決心し兼て勝手を知し事なれば御勘定の部屋に到り右の書付を差出ければ役人は是を改め見るに金四十七兩二歩とあり頓て調印をなし渡されたり此部屋に勘定役四五人有て夫々に拂方を改ため相違なければ役所にて金子何程錢何貫文書付に引合せて渡さるべしと裏印なし其書を金方の役所へ廻し金方にて拂を渡す事なり今吉兵衞が差出たる書付も役人が改め添書に右の通り認め調印して渡ける此勘定部屋と金方役所とは其間三町を隔ちたり吉兵衞は御勘定部屋より金方の役所へ行道[#ルビの「ゆくみち」は底本では「みちゆく」]にて件の書付を出し見るに〆高金四十七兩二分と有しかば竊に腰より矢立を取出し人なきを窺ひ四十の四の字の上へ一畫を引て百十七兩二歩と直し金方の役所へ到り差出し加納屋利兵衞御拂を下さるべしといふ役人請取改むるに勘定方の添書印形も相違なければ頓て百十七兩二分の金子を吉兵衞に渡されたり吉兵衞は悠々と金子を改め一禮述て懷中し歸宅の上主人利兵衞へは四十七兩二歩を渡し殘六十兩は己が物とし是迄に掠取し金と合せ見るに今は七百兩餘に成ければ最早長居は成難しと或日役所にて態と聊かの不調法を仕出し主人へ申譯立難しとて書置を認め途中より加納屋へ屆け其身は直に熊本を立退先西濱指て急ぎ行り此西濱と云は湊にて九州第一の大湊なり四國中國上方筋への大船は何も此西濱より出すとなり然に加納屋利兵衞方にて此度天神丸と名付し大船を造り極月廿八日は吉日なりとて西濱にて新艘卸しをなし大坂へ廻して一商賣せん積りなりし此事は兼て吉兵衞も承知の事なれば心に思ふ樣是より西濱に到り船頭を欺き天神丸の上乘して[#「上乘して」は底本では「上飛して」]上方筋へ赴かんと胸に巧み足を早めて西濱に到ければ天神丸ははや乘出さん時なり吉兵衞は大音上オヽイ/\と船を招けば船頭杢右衞門が聞つけ何事ならんと端舟を卸して漕寄見れば當時本店にて日の出の番頭吉兵衞なれば杢右衞門は慇懃に是は/\番頭樣には何御用にて御出成れしやと尋ければ吉兵衞答て御前方も兼て知らるゝ如く此吉兵衞は是迄精心を盡して奉公せし故御主人方にても此兩三年は餘程の利分を得られたれば此度旦那の仰に別家でも出し遣すべきか幸ひ天神丸の新艘卸なれば其方上乘して大坂へなり又は江戸へなり勝手な所で一旗揚べしとて手元金として七百兩を下されたり若も商賣の都合で不足なれば何程でも助力して遣さんと御主人の厚きお心入辭退も成ず夫故斯火急の出立にて參りしなり今日より天神丸の上乘方と成り一まづ上方へ參る積なりと申ければ船頭杢右衞門は是を聞て大きに悦び是迄何事に依ず御運強き吉兵衞樣の商賣初といひ天神丸の新艘卸し傍々以て御商賣は御利運に疑ひなしお目出度/\と祝ひつゝ吉兵衞を端舟に乘て天神丸へぞ乘移しけり扨杢右衞門は十八人の水主を呼出し一人一人に吉兵衞に引合せ此度は番頭吉兵衞樣御商賣のお手初め新艘の天神丸の上乘成るゝとの事なり萬事御利發のお方なり正月三日の[#「正月三日の」は底本では「正月三月の」]お祝は番頭樣の奢り成ぞ皆々悦び候へと語りければ水主等は皆々手を突て挨拶をぞなしたり其夜吉兵衞には酒肴を取寄せ船頭はじめ水主十八人を[#「十八人を」は底本では「十八八を」]饗應し酒宴を催しける明れば極月廿九日此日は早天より晴渡り其上追手の風なれば船頭杢右衞門は水主共に出帆の用意をさせ然ばとて西濱の港より友綱を解順風に眞帆十分に引上走らせけるにぞ矢を射る如く早くも中國四國の内海を打過ぎ晝夜の差別なく走て晦日の夜の亥の刻頃とは成れり船頭杢右衞門は漸く日和を見て水主等に此處は何所の沖なるやと尋けるに水主等は確とは分らねど多分は兵庫の沖なるべしと答けるにぞ杢右衞門は吉兵衞に向番頭樣貴所の御運の能ゆゑに僅た二日二夜で數百里の海路を走り早攝州兵庫の港に參たり明朝は元日の事なれば爰にて三ヶ日の御規式を取行ひ四日には兵庫の港なり共大阪の川尻なり共思し召に任せ着船すべしと云ふ吉兵衞熟々考ふるに今大阪へ上りても兵庫へ着ても船頭が熊本へ歸り斯樣々々と咄さば加納屋利兵衞方より追手を掛んも計難し然ば一先遠く江戸表へ赴きて事を計ふに如ずと思案し杢右衞門に向申けるは我種々と思案せしが當時大阪よりは江戸表の方繁昌にて諸事便利なれば一先江戸を廻りて商賣を仕たく思ふなり太儀ながら天氣を見定め遠く江戸廻りして貰たしといふ杢右衞門は頭をかき是迄の海上の深淺は能存じたれば水差も入らざりしが是から江戸への海上は當所にて水差を頼までは叶ふまじといへば吉兵衞は夫は兎も角も船頭任なれば宜樣に計ひ給へとて其議に決し此所にて水差を頼み江戸廻りとぞ定めける
享保十巳年も暮明れば同き十一午年の[#「十一午年の」は底本では「十一酉年の」]元日天神丸には吉兵衞始め船頭杢右衞門水主十八人水差一人都合二十一人にて元日の規式を取行ひ三が日の間は酒宴に日を暮し己が樣々の藝盡して興をぞ催しけるが三日も暮はや四日と成にける此日は早天より長閑にて四方晴渡り海上青疊を敷たる如く青めき渡ければ吉兵衞も船頭も船表へ出て四方を詠め波靜なる有樣を見て吉兵衞は杢右衞門に向ひ兵庫の沖を今日出帆せんは如何といふ杢右衞門は最早三が日の規式も相濟殊に長閑なる空なれば御道理なりとて水差を呼て只今番頭樣より今日は殊によき日和ゆゑ出帆すべしとの事なり我等も左樣に存ずれば急ぎ出帆の用意有べしといふ水差是を聞て如何にも今日は晴天にて長閑にはあれど得て斯樣なる日は雨下しといふ事あり能々天氣を見定て出帆然るべしといふ吉兵衞始め[#「始め」は底本では「初め」]皆々今日のごとき晴天によも雨下しなどの難は有べからずと思へば杢右衞門又々水差に向ひ成程足下の云るゝ處も一理なきにも有ねど餘り好天氣なればよも難風など有まじく思ふなり強て出帆すべく存ずると云に水差も然ばとて承知し兵庫の沖をぞ出帆したり追々風も少し吹出し眞帆を七分に上て走せハヤ四國の灘を廻り凡船路にて四五十里も走しと思ふ頃吉兵衞は船の舳へ出て四方を詠め居たりしが遙向に山一ツ見えけるにぞ吉兵衞は水差に向ひ彼高き山は何國の山なりや畫に描し駿河の富士山に能も似たりと問ふ水差答へて那山こそ名高き四國の新富士なりと答ふる折から此は抑何に此山の絶頂より刷毛にて引し如き黒雲の出しに水差は仰天しすはや程なく雨下しの來るぞや早く用心して帆を下よ錨をといふ間も有ばこそ一陣の風飄と落し來るに常の風とは事變り潮波を吹出て空は忽ち墨を流せし如く眞闇やみとなり魔風ます/\吹募り瞬時間に激浪は山の如く打上打下し新艘の天神丸も今や覆へらん形勢なり日頃大膽の吉兵衞始め船頭杢右衞門十八人の水主水差都合二十一人の者共肝を消し魂を飛し更に生たる心地もなく互[#ルビの「たがひ」は底本では「たがし」]に顏を見合せ思ひ/\に神佛を祈り溜息を吐ばかりなり風は益々強く船を搖上げ搖下し此方へ漂ひ彼方へ搖れ正月四日の朝巳の刻より翌五日の申の刻まで風は少しも止ず吹通しければ二十一人の者共は食事もせす二日二夜を風に揉れて暮したり漸く五日の申の下刻に及び少し風も靜まり浪も稍穩かに成ければ僅かに蘇生の心地して悦びしが間もなく其夜の初更に再び震動雷電し颶風頻りに吹起り以前に倍して強ければ船は搖上げ搖下され今にも逆卷浪に引れ那落に沈まん計りなれば八寒八熱の地獄の樣も斯やとばかり怖ろしなんども愚かなり看々山の如き大浪は天神丸の胴腹へ打付たれば哀やさしも堅固に營らへし天神丸も忽地巖石に打付られ微塵に成て碎け失たり氣早き吉兵衞は此時早くも身構へして所持の品は身に付ゐたるが天神丸の巖石に打付られし機會に遙の岩の上へ打上られ暫は正氣も有ざりける稍時過て心付拂と一息吐夢の覺し如く然にても船は如何せしやと幽かに照す宵月の光りに透し見ば廿人の者共は如何にせしや一人も影だになし無漸や鯨魚の餌食と成しか其か中にても我獨辛も命助かりしは能々運に叶ひし事かな然ど二日二夜海上に漂ひし事なれば身心勞れ流石の吉兵衞岩の上に倒れ伏歎息の外は無りしが衣類は殘らず潮に濡惣身よりは雫滴り未だ初春の事なれば餘寒は五體に染渡り針にて刺れる如くなるを堪て吉兵衞漸々起上り大事を抱へし身の爰にて空しく[#「空しく」は底本では「空して」]凍死んも殘念なりと氣を勵まし四方を見廻せば蔦葛下りて有を見付是ぞ天の與へなりと二品の包みを脊負纒ふ葛を力草漸々と山へ這上りて見ば此は何に山上は大雪にて一面の銀世界なり方角はます/\見分がたく衣類には氷柱下り汐に濡し上を寒風に吹晒され髮まで氷りて針金の如くなれば進退茲に極まりて兎にも角にも此處で相果る事かと思ふ計りなり時に吉兵衞倩々思に我江戸表へ名のり出て事露顯に及時は三尺高き木の上に命を捨る覺悟なれども今爰て阿容々々凍死んは殘念なり人家は無事かと凍えし足を曳ながら遙か向ふの方に人家らしき處の有を見付たれば吉兵衞是に力を得て艱苦を忍び其處を目當に雪を踏分々々たどり行て見れば人家にはあらで一簇の樹茂りなれば甚く望みを失ひはや神佛にも見放され此處にて一命の果る事かと只管歎き悲みながら猶も向を詠やれば遙向ふに燈火の光のちら/\と見えしに吉兵衞漸やく生たる心地し是ぞ紛ひなき人家ならんと又も彼火の光を目當に雪を踏分々々たどり行て見ば殊の外なる大家なり吉兵衞は衣類も氷柱[#ルビの「つらゝ」は底本では「つゝら」]垂れ其上二日二夜海上に漂ひ食事もせざれば身體疲れ果聲も震へ/\戸の外より案内を乞しに内よりは大音にて何者なるや内へ這入べしといふ吉兵衞大いに悦び内へ入りて申やう私し儀は肥後國熊本の者なるが今日の大雪に道踏迷ひ難澁いたす者なり何卒御情にて一宿一飯の御惠を願奉ると叮嚀に述ければ圍爐裡の端に年頃卅六七とも見ゆる男の半面に青髭生骨柄は然のみ賤しからざるが火に煖りて居たりしが夫は定めし難澁ならん疾々此方へ上り給へ併し空腹とあれば直に火に煖は宜からず先々臺所へ行て食事いたし其後火の邊へ依玉へと最慇懃に申けるに吉兵衞は地獄で佛に逢たる心地なし世にも情あるお詞かなと悦び臺所へ到りて空腹の事ゆゑ急ぎ食事せんものと見れば何れも五升も入べき飯櫃五ツ竝べたり飯も焚立なりければ吉兵衞は大きに不審し此樣子では大勢の暮しと見えたれども此程の大家に男は留守にもせよ女の五人や三人は居べきに夫と見えぬは最不審如何なる者の住家ならんと思ひながら飢たる儘に獨り食事し終り再び圍爐裡の端へ來りて彼男に厚く禮を述ければ先々緩りと安座して火に煖り給へといふ吉兵衞は世にも有難く思ひ火に煖れば今まで氷たる衣類の雪も解て髮よりは雫滴り衣服は絞るが如くなれば彼男もこれを見て氣の毒にや思ひけん其衣類では嘸かし難儀なるべし麁末なれども此方の衣服を貸申さん其衣類は明朝まで竿にでも掛て乾玉へと殘る方なき心切なる言葉に吉兵衞はます/\悦び衣類を借て着替濡し着類は竿に掛け再び圍爐裡の端へ來りて煖れば二日二夜の苦しみに心身共に勞れし上今十分に食事を成して火に煖まりし事なれば自然と眠氣を催しける然ど始めて宿り心も知れざる家なれば吉兵衞は氣を張居れども我知ず頻りに居眠りけるを彼男は見兼たりけん客人には餘程草臥しと見えたり遠慮なく勝手に休み給へ今に家内の者共が大勢歸り來るが態々起て挨拶には及ばず明朝まで緩りと寢れよ夜具は押入に澤山ありどれでも勝手に着玉へ枕は鴨居の上に幾許もありいざ/\と進めながら奧座敷は差支へ有れば是へは猥りに這入給ふな此儀は屹度斷わりたりと云ふに吉兵衞委細承知し然らば御言葉に隨ひ御免蒙るべしとて次の間へ到り押入を明て見るに絹布木綿の夜具夥多く積上てあり鴨居の上には枕の數凡そ四十許りも有んと思はれます/\不審な住家なりと吉兵衞は怪みながらも押入より夜具取出して次の間へこそ臥たりける
扨も吉兵衞が宿たる家の主人を何者成と尋るに水戸中納言殿の御家老職に藤井紋太夫と云ふあり彼柳澤が謀叛に組して既に公邊の大事にも及べき處を黄門光圀卿の明察に見露し玉ひお手討に相成ける然るに紋太夫に一人の悴あり名を大膳と呼べり親紋太夫の氣を受繼てや生得不敵の曲者成ば一家中に是を憎まぬ者なし紋太夫が惡事露顯の節に扶持高も住宅をも召上られ大膳は門前拂となり據ころなく水戸を立去り美濃國[#ルビの「みのゝくに」は底本では「みのゝくみ」]各務郡谷汲の郷長洞村の日蓮宗にて百八十三箇寺の本寺なる常樂院の當住天忠上人と聞えしは藤井紋太夫が弟にて大膳が爲には實の伯父坊なれば大膳は此長洞村へ尋ね來り暫く此寺の食客となり居たりしが元より不敵の者なれば夜々往還へ出て旅人を刧し路用を奪て己が酒色の料にぞ遣ひ捨けり初の程は何者の仕業[#ルビの「しわざ」は底本では「しわさ」]とも知る者無りしが遂に誰云ふとなく旅人を剥の惡黨は此頃常樂院の食客大膳と云ふ者の仕業なりとをさ/\評判高くなり何と無く影護くなり此寺にも居惡く餘儀なく此處を立退一先江戸へ出ん物と關東を心ざし東海道をば下りけり懷ろ淋しければ道中にても旅人を害し金銀を奪ひ酒色に酖り急がぬ道も日數經て漸やく江戸へ近づき神奈川宿の龜屋徳右衞門といふ旅籠屋へ泊り隣座敷を窺へば女の化粧する動靜なり何心なく覗き込ば年の頃は十八九の娘の容色も勝て美麗きが服紗より一ツの金包を取出し中より四五兩分て紙に包み跡をば包て床の下へ入し嵩は百兩ほどなり強慾の大膳は此體を見るより粟々と喜び乍らも女の身として斯る大金を所持し一人旅行するは心得がたしと先宿の下女を招き密に樣子を尋ねければ口惡善なき下女の習慣那こそ近在の大盡の娘御なるが江戸のさる大店へ嫁入なされしが聟樣を嫌ひ鎌倉の尼寺へ夜通の積りにて行れるなり出入の駕籠舁善六と[#「駕籠舁善六と」は底本では「籠駕舁善六と」]いふが強ての頼み今夜は茲に泊られしなりと聞かぬ事まで喋々と話すを大膳は聞濟し夫は近頃不了簡の女なりなど云程なく枕には着たり已に其夜も追々に更わたり丑滿頃となりければ大膳は密かに起出間の襖を忍明ぬき足に彼女を窺へば晝の疲かすや/\と休み寢入居り夜具の上より床も徹れと氷の刄情なくも只一突女は苦痛の聲も得立ず敢なくも息絶たれば仕濟したりと床の下より件の服紗包を取出し大膽にも己が座敷へ立戻り何氣なき體にて明方近くまで一寢入し俄に下女を呼起し急用なれば八ツ半には出立の積り成しが大に寢忘たり直に出立すれば何も入ず茶漬を出し呉よと逆立てられ下女は慌て膳拵すれば大膳は食事を仕舞ひ用意も底々に龜屋をこそは出立せり最前の如く江戸の方へは行ず引返して足に任せて又上の方へと赴きける主人の徳右衞門は表の戸を明しに驚き偵が旅宿屋の主人だけ宵に斷りもなき客の急に出立せしは何にも不審なりとて彼の座敷を改めしに變る事も無れば隔座敷を窺ふに[#「窺ふに」は底本では「窺がふに」]是も靜なれど昨日駕籠屋善六に頼まれし若き女なればと案じて座敷へ入り見れば無慚や朱に染て死しゐたり扨こそ彼侍が女を殺して立退しと俄かに上を下へと騷動し追人を掛んもハヤ時刻が延たり併し當人を取迯しては假令訴へ出るとも此身の科は免かれ難し殊には一人旅は泊ぬ御大法なり女は善六の頼みなれば云譯も立べけれど侍ひの方は此方の落度は遁れ難し所詮此事は蔽すに如じと家内の者共に殘ず口留して邊の血も灑拭ひ死骸は幸ひ此頃植し庭の梅の木を引拔深く掘りて密に其下へ埋ける爰に駕籠舁の善六と云は神奈川宿にて正直の名を取し者なり昨日龜屋へ一宿を頼みし女中は今日は通駕籠にて鎌倉迄行べき約束ゆゑ善六は朝早く龜屋へ來り亭主に斯と言入れ約束の駕が迎ひに參りたりと云せたり徳右衞門は南無三と思ふ色を隱し何氣なき體にて彼女中の客人は今朝餘程早く立れたり貴樣の方へは行ずやと云善六頭を振左樣の筈はなし其譯は昨日途中にて駕籠へ乘時駕籠蒲團許りでは薄しとて小袖を下に布しが今日も乘るゝ約束成ば小袖は其儘我等が預り置て只今持て參りたり然ば一應の咄も無て出立すべき筈は無と云ば徳右衞門押返しいや決して僞り成ず實に昨夜女中よりの咄には明日鎌倉の尼寺まで通駕籠で參る約束はしたれ共那駕籠屋は何とやらん心元なし明朝迎ひに參らば程能斷り呉よと頼まれたり若僞りと思はゞ家探しなり共致さるべし何とて詮なき僞り申すべきやと云ひけるに善六は此を聞不審とは思へ共兎にも角にも爭そふも詮方なし勿論昨日の駕籠賃はまだ受取ず今日一所に貰ふ筈なりしが早立しとなれば是非もなし過分なれど此小袖は昨日の駕籠賃の質に預り置べしと善六は駕籠を舁げて出行たり跡は徳右衞門を始め家内の者もホツト溜息を吐計なり斯て善六は神奈川臺へ行て駕籠を下し棒組と咄しけるは只今龜屋方の挨拶に昨夜の女客の今朝早く出立せしとは不審なり殊に亭主の顏色といひ何共合點の行ぬ事なりと咄居る處へ江戸の方より十人計の男の羽織股引にて旅人とも見えず然とて又近所の者には非ずと見ゆるが息を切て來りつゝ居合はせし善六に向ひ尋ぬる樣に昨日年頃十八九の女の黒縮緬に八丈の小袖を襲着せしが若や此道筋を通りしを見懸られざりしや後の宿にて慥に昨日の晝頃に通りしと聞り若見當り玉はゞ教玉はれといふに善六は件の小袖を取出し[#「取出し」は底本では「出取し」]其尋ぬる人は此小袖の主にや此は斯々にて今朝迎ひに參りしが龜屋の亭主に傳言して先刻お立なされしとの事なり此小袖は昨日の賃錢に私が預りたり私へ沙汰なしに立れしは合點行ずと今も咄てをる所なり不審に思はれなば精くは龜屋にて尋ね給へといふにぞ中にも年倍の男が進出尋ぬるは此人に相違なし扨も駕籠の衆種々とお世話忝けなしと一禮述實は我々仔細有て其女中を尋る者なり何共御太儀ながら今一應其旅籠屋まで案内して呉まじきやと云にぞ夫れは易き事なりと善六は先に立件の人々を伴なひて龜屋徳右衞門方へ到り人々を亭主に引合はせぬ徳右衞門は一大事と尚も然氣なく善六に答へし如く此者どもにも咄たり然ばとて十人の内より三人を鎌倉の尼寺へ遣はし殘り七人は其儘龜屋に宿りて鎌倉の安否を相待ける其日の夕暮に及び尼寺へ行し人々は立歸けるが女中にはまだ彼寺へは來らざる由なれば皆々只驚く計りなり就ては龜屋徳右衞門に不審が掛り追々疑はしきこともあれば此事終に代官所の沙汰となり吟味強くなりて龜屋徳右衞門の家内は殘らず呼出され跡へ役人來りて家搜せしに庭の梅の木の下の土の新しければ怪しとて掘發すに果して女の死骸の埋め有しとぞ龜屋徳右衞門は其儘牢舍せられ度々の吟味に始めて前の次第を逐一に白状には及ぬ然ば殺害せしと思ふ當人を取逃し殊に御法度の一人旅を泊し落度の申譯立ちがたく罪は徳右衞門一人に歸し長き牢舍のうち憐むべし渠は牢死をぞなしたり一旦の不覺悟にて終に一家の滅亡を來せしは哀れなりける災難なり
爰に大膳は神奈川の旅店にて婦人を切害し思ひ懸ぬ大金を奪取たれば江戸は面倒なるべし如ず此より上方に取て返し中國より九州へ渡んにはと遂に四國に立越しが伊豫國なる藤が原と云ふ山中に來り爰に一個の隱家を得て赤川大膳と姓名を變じ山賊を業として暫く此山中に住居しが次第々々に同氣相求とむる手下の出來しかば今は三十一人の山賊の張本となり浮雲の富に其日を送りける然るに一年上方に住し折柄兄弟の約を結し藤井左京と云者あり此頃藤が原へ尋ね來り暫く食客と成て居たりしが時は享保十一午年正月五日の[#「正月五日の」は底本では「此月十五日の」]事なりし朝より大雪の降出しが藤井左京は大膳に向ひ某し去冬より此山寨へ參り未だ寸功もなく空く暮すも殘念なり我も貴殿の門下となりし手始めに今日の雪を幸ひ麓の往來へ罷出一當あてんと存ずるなり就ては御手下を我等に暫時貸給へ一手柄顯はし申さんと云ふ大膳斯と聞て左京殿に我手を貸はいと易けれど此大雪では旅人も尾羽を束ね通行する者あるべからず折角寒氣を犯し行かれしとて思ふ如き鳥も罹るまじ先今日は罷に致し玉へ手柄は何時でも成る事と押止めけれど思ひ込たる左京は更に聞き入れず思立しが吉日なり是非とも參りたしと強ての懇望なれば然程に思はれなば兎も角もと手下の小賊を貸與たれば左京は欣然と支度を調へ麓を指て出で行きし跡に大膳は一人つぶやき左京めが己れが意地を立んとて此大雪に出で行きたれ共何の甲斐やあらん骨折損の草臥所得今に空手で歸り來んアラ笑止の事やと獨り言留守してこそは居たりけり
却て説吉兵衞は宿りし山家の樣子何かに付て疑はしき事のみなれば枕には就けど寢もやらず越方行末のことを案じながらも先刻主人の言葉に奧の一間を見るなと固く制せしは如何なる譯かと頻りに其奧の間の見ま欲くて密と起上り忍び足して彼座敷の襖を押明見れば此はそも如何に金銀を鏤ばめ言語に絶せし結構の座敷にて先唐紙は金銀の箔張付にて中央には雲間縁の二疊臺を[#「二疊臺を」は底本では「二壘臺を」]設け其上に紺純子の布團を二ツ重ね傍らに同じ夜具が一ツ唐紗羅紗の掻卷一ツあり疊の左右には朱塗の燭臺を立床の間には三幅對の掛物香爐を臺に戴てあり不完全物ながら結構づくめの品のみなり内ぞ床しき違棚には小さ口の花生へ山茶花を古風にたり袋棚の戸二三寸明し中より脇差の鐺の見ゆれば吉兵衞は立寄て見れば鮫鞘の大脇差なり手に取上鞘を拂て見るに只今人を殺めしが如くまだ生々しき膏の浮て見ゆれば偵に吉兵衞は愕然として扨ても山賊の住家なり斯る所へ泊りしこそ不覺なれと後悔すれど今は網裡の魚函中の獸また詮方ぞ無りければ如何はせんと再び枕に就ながらも次の間の動靜を如何ぞと耳振立て窺へば折節人の歸り來りて語る樣は棟梁の仰の通今日は大雪なれば旅人は尾羽を縮案の如く徒足なりしとつぶやきながら臺所へ上る其跡に動々と藤井左京を初め立戻り皆々爐の端へ集まりぬ此時左京は大膳に向ひ貴殿の御異見に隨はず我意に募て參りしか此雪で往來には半人の旅客もなし夫ゆゑ諸方を駈廻り漸く一人の旅人を見つけ溌さりやつて見れば一文なしの殼欠無益の殺生に手下の衆を勞し何とも氣毒の至りなり以來此左京は山賊は止申すと云ふに大膳呵々と打笑ひ左京どの沙彌から長老と申し何事でも左樣甘くは行ぬ者なり山賊迚も其通り兎角辛抱が肝心なり石の上にも三年と云へば先づ/\氣長にし給へ其内には好事も有るべし扨また我は今宵の留守に勞せずして小千兩の鳥を押へたりと云ふに左京は是を聞て大いに訝り我々は大雪を踏分寒さを厭はず麓へ出て網を張ても骨折損して歸へりしに貴殿は内に居て爐に煖り乍ら千兩程の大鳥を掛られしとは更に合點の參らぬ事なり此は貴殿の異見をも聞ず徒骨折しを嘲弄さるゝと思はれたりと云へば大膳は莞爾と打笑否とよ此大膳何しに僞を申べき仔細を知らねば疑はるゝも道理なりいで其譯は斯々なり宵に御身たちが出行し跡へ年の頃廿歳許の容顏麗しき若者來れり何れにも九州邊の大盡の子息ならずば大家に仕はるゝ者なるべし此大雪に道を踏迷ひ此處へ來りて一宿を乞し故快よく泊置て衣類は濡たれば此方のを貸遣したるが着替る時に一寸と見し懷中の金は七八百兩と白眼だ大膳が眼力はよも違ふまじ明朝まで休息させ明日は道案内に途中まで連出して別れ際に只一刀大まいの金は手を濡さずと語る聲を次の間に寢入し風の吉兵衞は委く聞取り扨こそ案に違はざりし山賊の張本なりけり斯深々と穽の内に落し身の今更迯とも迯さんや去乍ら大望のある身をむざ/\と山賊どもの手に懸り相果るも殘念なりと頻りに思案を廻らしける此時藤井左京は大膳に向ひ某し近頃此地へ參り貴殿の門弟とは相成たれど未だ寸功も立てざれば切て今宵舞込し仕事は何卒拙者に料理方を讓り給はるべし手始めの功とも致したく明朝とも云ず今宵の中に結果申すべしと云ふに大膳のいふ樣貴殿が手始めの功にしたしと有るからは仕事を讓り申べしと聞て左京は大に悦び然ば早々埓明んと立上るを大膳は暫しと押止め先々待たれよ今宵の仕事は袋の物を取り出すよりも易し先々一盃呑だ上の事とて是より酒宴を催しける次の間なる吉兵衞は色々と思案し只此上は我膽力を渠等に知らせ首尾よく謀らば毒藥も却て藥になる時あらん此者共を刧やかし味方に付る時は江戸表へ名乘出るに必ず便利なるべしと不敵にも思案を定め彼奧座敷に至り燭臺に灯りを點し茵の[#「茵の」は底本では「菌の」]上に欣然と座を占め胴卷の金子は脇の臺に差置き所持の二品を恭々敷正面の床に飾り悠々として控へたり大膳左京の兩人は斯こととは爭で知るべき盃の數も重なりて早十分に醉を發し今は好時分なり率や醉醒の仕事に掛らんと兩人は剛刀を携へ次の間へ至りて見れば彼若者は居ず大膳不審に思ひ然にても慥に此處へ臥せしに何方へも行氣遣ひなしと此所彼所と探して奧座敷へ至れば此は抑如何に若者は二疊臺の上に威儀堂々と恐れ氣も無控へたれば兩人は肝を潰し互ひに顏を見合せて少時し言葉も無りしが大膳は吉兵衞に向ひ我こそは赤川大膳とて則ち山賊の棟梁なりまた此なるは藤井左京とて近頃此山中に來りて兄弟の縁を結びし者なり汝當所へ泊りしは運命の盡る處なり先刻見置し金子はや/\拙者どもへ差出せよと荒々しげに申ける吉兵衞は少しも惡びれたる氣色もなく此方に向ひ兩人ども必ず慮外の振舞を致す事なかれ無禮は許す傍近く參るべし我は忝けなくも當將軍家吉宗公の御落胤なり當山中に赤川大膳といふ器量勝れの浪人の有るよしを聞及びしゆゑ家來に召抱へたく遙々此處まで參りしなり聊かの金子などに心を掛る事なく予に隨身なすべし追ては五萬石以上に取立て大名にし遣はすべし迷を取ず聢と返答致すべしとさも横柄に述けるに兩人再び驚きしが大膳は聲を勵し汝天下の御落胤などとあられもなき僞りを述べ我々を欺むき此場を遁れんとする共我何ぞ左樣の舌頭に欺むかれんや併し夫には何か證據でも有て左樣には申すか若も當座の出たらめなれば思ひ知すと睨付れば吉兵衞莞爾と打笑ひ其方共の疑ひも理なきにあらず先づ是を見て疑念を散ずべしと彼二品を差示せば大膳は此品々を受取先御墨附を拜見するに正しく徳太郎君の御名乘に御書判をさへ据られたり又御短刀を拜見し暫く見惚て有りしが大膳急に座を飛退り低頭平身して敬ひ私儀は赤川大膳とて元水戸家の藩中なれば紀伊家に此御短刀の傳はりし事は能々知れり斯る證據のある上は將軍の御落胤に相違なし斯る高貴の御方とも存じ申さず無禮の段恐れ入り奉りぬ幾重にも御免しを蒙り度此上は我々共御家來の末に召し出さるれば身命を抛つて守護仕[#ルビの「しゆごつかまつ」は底本では「しゆごつかま」]るべし御心安く思し召さるべし然れども我々は是迄惡逆をなせし者なり江戸表へ御供致せば惡事露顯いたすべし然れば忽ち罪科に行はれんが此儀は如何あらんと云ふに吉兵衞は答へて予が守護を致し江戸表へ參り親子對面する上は是迄の舊惡は殘らず赦し遣すべしとの言葉に大膳は有難く拜伏し茲に主從の約をなし左京をも進めて此も主家來の盃盞をさせにける此時吉兵衞は布團の上より下り兩人に向ひ申けるは我將軍の落胤とは全く僞りにて實は紀州名草郡平野村の修驗者感應院の弟子寶澤といふ者なるが平野村にお三婆と云ふ者あり其娘こそ誠にお胤を孕し此御墨附と御短刀を戴きしが其若君は御誕生の日にお果なされ其娘も空しくなり此二品は婆の持腐にしたるを我十二歳の時婆を殺し此品々を奪取江戸へ名乘出んとは思しが師匠感應院の口より泄んも計りがたければ師匠は我十三歳の時に毒殺したり尚も幼顏を亡さん爲に九州へ下り熊本にて年月を經り大望を企つるには金子なくては叶ふまじと此度金七百兩を掠め取り出奔なし船頭杢右衞門を誑りて天神丸の上乘し不慮の難に遇て此處まで來れる事の一伍一什を虚實を交へて語りければさしもの兩人も舌を卷き恐れ其不敵なるを感じ世に類ひなき惡者も有れば有る者とます/\心を傾けて兩人とも一味なして寶澤が運を開き西丸へ乘込の節は兩人とも五萬石の大名に取立らるゝ約束にて血判誓詞にぞ及びける
扨も赤川藤井の兩人は寶澤の吉兵衞に一味なしけるが此時大膳は兩人に向ひて我手下は今三十一人有ども下郎は口の善惡なき者なり萬一此一大事の手下の口より漏んも計り難し我に一の謀計こそ有後の災ひを避んには皆殺しにするより外なし夫には斯々と密に酒の中へ曼多羅華といふ草を入惣手下の者へ酒一樽與へければ爭でか斯る工のありとは思はんや夢にも知ず大に歡び頓て酒宴を開きけるに皆々漸次に酩酊して前後を失ふ[#「失ふ」は底本では「失なふ」]程に五體俄に痿痺出せしも只醉の廻りしと思ひて正體もなきに大膳等は此體を見て時分は宜と風上より我家に火をば懸たりける折節山風烈くして炎は所々へ燃移れば三十一人の小賊共スハ大變なりと慌騷ぐも毒酒に五體の利ざれば[#「利ざれば」は底本では「利ざれは」]憐れむべし一人も殘らず燒燗て死亡に及ぶを強惡の三人は是を見て大に悦びまづ是にて災の根は斷たれば更に心殘りなし大望成就は疑ひなし今は此地に用はなし急ぎ他國へ立越ん幸ひ濃州谷汲の長洞村法華山常樂院長洞寺の天忠日信と云は親藤井紋太夫の弟にて我爲には實の伯父なるが斯る事の相談には屈強の軍略人にて過つる頃大恩を受し師匠の天道と云を縊殺し僞筆の讓状にて常樂院の後住と成り謀計に富たる人なりと云ば寶澤は打點頭そは又妙なりとて則ち赤川大膳が案内にて享保十一丙午年正月七日の夜に伊豫國藤が原の賊寨を立去三人道を急ぎ同月下旬美濃國なる常樂院へ着し案内を乞拙者は伊豫國藤が原の者にて赤川大膳と申す者なり參りし趣き取次玉はるべしといふ取次の小侍は早速此事を奧へ通じたれば天忠聞て大膳と有ば我甥なり遠慮に及ばず直に居間へ通すべしとの事なれば取次の侍案内に及べば大膳は吉兵衞左京の兩人を次の間へ控させ己れ獨り居間へ通り久々の對面に互ひに無事を賀し暫し四方山の話に時をぞ移しける時に天忠は大膳に向ひ先達ての手紙にて伊豫の藤が原とかに住居たる由は承知したり彼地にて家業は何を致し候や定めて忙しき事ならんとの尋に大膳は然氣なく御意の如し藤が原に浪宅を營み候へ共彼地は至て邊鄙なれば家業も隙なり夫故此度同所を引拂ひ少々御内談も致度事これありて伯父上の御許へ態々[#ルビの「わざ/\」は底本では「わさ/\」]遠路を厭ず參りしと云ば天忠聞て其は又何事ぞや夫には何ぞ面白き事でも有やと申けるに大膳答て參候隨分面白からぬにも此なし萬よく仕課せなば五萬石位の大名には成るゝ事なれ共夫には我々の短才では行屆き申さず依て伯父御の智慧を拜借仕つり度是迄推參候といふに強慾無道の天忠和尚滿面に笑を含み夫は重疊の事なり扨其譯は如何にと尋ぬるに大膳は膝を進め聲を低くし申けるは此度藤が原より召連れ候者あり只今御次に控させたり其中一人の若人吉兵衞と申す者實は生國は紀州名草郡平野村なる感應院と申す修驗者の弟子にて寶澤と申す者なりしが今より十餘年前此平野村にお三婆といふ産婆ありその娘の澤の井と云が紀州家の家老職加納將監方へ奉公せし折將軍家は其頃徳太郎君と申し御部屋住にて將監方に在しけるが彼澤の井に御手を付させられ懷姙し母お三婆の許へ歸る砌御手づから御墨付と御短刀を添て下し置れしが御懷姙の若君は御誕生の夜空しく逝去遊ばせしを見より澤の井も産後の嘆きに血上りて此も其夜の中に死去したり依てお三婆は右の二品を所持なせど更に人には語る事も無りしが寶澤は別して入魂の上に未だ少年の事なれば心も許して右の次第を物語りしかば寶澤が十二歳の時彼婆を縊殺[#ルビの「しめころ」は底本では「くめころ」]し其二品を奪ひ取大望の妨げなればとて師匠感應院をも毒殺し其身は諸國修行と僞り平野村を發足し其翌日加田浦にて白犬を殺し其血にて自分は盜賊に切殺されし體に取拵へ夫より九州へ下り肥後の熊本にて加納屋利兵衞といふ大家に奉公し七百兩餘の金子を掠め夫を手當として江戸表へ名乘出んとせし船中にて難風に出合船頭も水主も皆々海底の木屑となりしが果報めで度吉兵衞一人は辛ふじて助かり藤が原なる拙者の隱れ家へ來り右の次第を物語れり證據の品も慥なれば我々も隨從して將軍の御落胤なりと名乘出ん所存なり萬々首尾よく仕課せなば寶澤の吉兵衞には西の丸へ乘込か左無とも三家の順格位は手の内なれば此度同道仕つりしと詳らかに物語れば天忠は始終を聞て思ず太息を吐驚き入たる大膽の振舞[#「振舞」は底本では「振動」]其性根ならんには首尾よく成就なすべしと偵の天忠も密に舌をば卷て先兎も角も對面せんと大膳に案内[#ルビの「あんない」は底本では「あいない」]させければ吉兵衞左京の兩人は天忠和尚に對面にぞ及びたり此天忠の弟子に天一と云ふ美僧あり年は廿歳許なり三人へ茶の給事などして天忠の傍らに控へける此時天忠は天一に向ひ用事有ば呼べし夫迄臺所へ參り居よと云ば天一は勝手へと退きける強慾の天忠は兩人に向ひ委細の事は只今大膳より聞及び承知したり併し箇樣の大望は中々浮たる事にては成就覺束なし先根本より申合せて巧まねば萬一[#「萬一」は底本では「萬 」]中折して半途に露顯に及ぶ時は千辛萬苦も水の泡[#ルビの「あわ」は底本では「あか」]と成計か其身の一大事に及ぶべし先名乘出る時は必ず其生れ所と育し所を糺さるべし其答が胡亂にては成ず即ち紀州名草郡平野村にて誕生と申立る時は差向紀州を調べられんには忽ち化の皮の顯るゝなり此儀は既に疾差支なく整のひ居るにやと問に大膳始め吉兵衞左京も未だ其邊の密議に及ばねば礑と返答に當惑なしぬ時に大膳は了簡有氣に其儀は先達てより心付き種々工夫は仕つれど未だ然るべき考へも付ず願くは伯父上の御工夫をといふを聞て天忠暫し兩手を組て默然たりしが稍有て三人に向ひ拙僧少し所存あり夫は只今此所へ茶を汲て參りし者は當時は拙者弟子なれども元は師匠天道が[#「天道が」は底本では「道天が」]弟子にて渠は師匠が未だ佐渡の淨覺院の持主たりし時門前に捨て有しを拾上げ養育して弟子と成ける者なり天道遷化の後は拙僧が弟子となして永年召使ふ者なれば何にも不便には存ずれど大功は細瑾を顧みずと依て彼を殺し其後吉兵衞殿に剃髮させ面ざしの似たるを幸ひ天一坊と名乘せ御出生の後佐州相川郡尾島村の淨覺院の門前に御墨付と御短刀を添て捨て有しを天忠が拾上げ養育なし奉つり其後當所美濃國常樂院へ轉住の頃も伴なひ奉つりたれば御成長は美濃國と申立なば誰有て知者あらじ然すれば紀州の調べも平野村の糺も無して事の破る氣遣なし此儀如何にと申ければ三人は感じ入誠に古今の妙計と一同是に同じける此時常樂院また申けるは今天一を殺は易けれど爰に一ツの難儀といふは小姓次助佐助の兩人にて渠は天一とは幼年より一所に育し者なれば天一を殺せば兩人の口より密計の露顯に及は必定なり然ば兩人とも生し置難し無益の殺生に似たれど是非に及ばず[#「及ばず」は底本では「及ばす」]此兩人をも殺害すべし扨彼兩人を片付る手段といふは明日各々方に山見物させ其案内に兩人を差遣はすべし山中に地獄谷と云處あり此所にて兩人を谷底に突落して殺し給へ必ず仕損ずる事あるまじ其留守には老僧天一を片付申すべし年は老たれどもまだ一人や二人の者を殺すは苦もなし拙僧の儀は御氣遣有べからず呉々小姓共は仕損じ給ふな[#「給ふな」は底本では「給なふ」]と約束し夫より酒宴を催し四方山の雜談に時を移し早子の刻も過たれば皆々臥房へ入にける天忠は翌朝は何時より早く起出小姓の次助佐助兩人に今日は御客人が山見物にお出なれば其方共御案内致すべし別して地獄谷の邊は他國の人には珍らしく思はるべければ能々御案内申せよと言付られ神ならぬ身の小姓兩人は畏まりしと支度して三人を伴ひ立出たり
去程に常樂院の小姓次助佐助の[#「小姓次助佐助の」は底本では「小性次助佐助の」]兩人は己が命の危きをば知よしなく山案内として大膳吉兵衞左京の三人を伴ひ山中さして至る事凡一里許なり爰は名に負地獄谷とて巖石恰も劔の如きは劔の山に髣髴たり樹木生茂りて底も見え分ぬ數千丈の谷は無間地獄とも云なるべし何心なき二人の小姓は師匠の詞に從がひ爰こそ名に高き地獄谷なり能々御覽あれと巖尖に進て差示せば三人は時分は宜ぞと竊に目配すれば赤川大膳藤井左京直と寄て次助佐助が後に立寄突落せば哀れや兩人は數千丈の谷底に眞逆樣に落入て微塵に碎けて死失たりまた常樂院は五人の者を出し遣し後に天一を呼近づけ今日は次助佐助は客人の山案内に遣し留主なれば太儀ながら靈具は其方仕つるべしと云に天一畏まり品々の靈具を取揃へ先住の塚へ供にと行跡より天忠は殊勝氣に法衣を着し内心は惡鬼羅刹の如く懷ろに短刀を用意し何氣なき體にて徐々と歩行寄けり天一は[#「天一は」は底本では「天 は」]斯る惡心ありとは夢にも知ず靈具を供畢り立上らんとする處を天忠は隱し持たる短刀を拔手も見ず柄も徹れと突立れば哀むべし天一は其儘其處へ倒れ伏ぬ天忠は仕遂たりと法衣を脱捨裾をからげ萬毒の木の根を掘て天一が死骸を埋め何知ぬ體に居間へ立戻り居る所へ三人も歸來り首尾よく地獄谷へ突落せし體を告囁けば天忠は點頭て拙僧も各々の留主に斯樣々々に計ひたれば最早心懸りはなし然ばとて大望の密談をなし已に其議も調のひければ急に本堂の脇なる座敷に上段を營へ前に簾を下し赤川大膳藤井左京の兩人は繼上下にて其前に控へ傍らに天忠和尚紫の衣を着し座す其形勢いと嚴重にして先本堂には紫縮緬に白く十六の菊を染出せし幕を張り渡し表門には木綿地に白と紺との三筋を染出したる幕を張惣門の内には箱番所を置き番人は麻上下の者と下役は黒羽織を着し者を詰させ檀家の者たりとも表門の通行を禁じ裏門より出入させ墓場への參詣をば許せども本堂への參詣は堅く相成ざる由を箱番所の者共より制させける是則ち天一坊樣の御座所と唱へて斯の如く嚴重に構へしなり又天忠は兩人の下男に云付る樣は天一坊御事は是迄は世を忍び拙僧が弟子と披露し置候へ共實は當將軍家の御落胤たるゆゑ近々江戸表へ御乘出し遊ばされ公方樣と御親子の御對顏あれば多分西の丸へ入らせ給ふべしさすれば再び御目通りは叶はざる樣なり依て近々御出立前に格別の儀を以て當寺の檀家一同へ御目見を仰付らるべし此旨村中へ申達すべしとの事なり下男共何事も知らざれば是を聞て肝を潰し此頃迄臺所で一つに食事をせし天一樣は將軍樣の若君樣なりしか然ばこそ急に簾の中へ入せられ御住持樣も[#「御住持樣も」は底本では「御住侍樣も」]打て替り御主人の樣に何事も兩手を突て平伏なさると下男共は此等の事を村内へ觸歩行しゆゑ村中一統此頃の寺の動靜扨は然る事にて天一樣は將軍家の御落胤にて今度江戸へ御出立に成ば二度御目通り成ねば當前然ば今の内に御目見を仰付らるゝは有難い事迚村中の者共老若男女殘りなく常樂院へ集來り天忠に就て取次を頼めば和尚は大膳に向ひ拙寺檀家の者共天一坊樣御暇乞に御尊顏拜し奉り度由哀れ御聞屆願はんと申上れば是迄の知因に御對面仰付らるゝとて御座の間の簾を卷上れば二疊臺に雲間縁の疊の上に天一坊威儀を正して着座なし大膳が名前を披露に及べば天一坊は言葉少なに孰も神妙と計り大樣の一聲に皆々低頭平身誰一人面を上て顏を見る者なかりしと爰に浪人體の侍の身には粗服を纏ひ二月の餘寒烈きに羊羹色の絽の羽織を着て麻の袴を穿柄の解れし大小を帶せし者常樂院の表門へ進み入んとせしが寺内の嚴重なる形勢を見て少し不審の體にて箱番所の前を行過んとすれば箱番所に控へし番人は聲をかけ貴殿には何人にて何へ通り給ふや當時本堂は將軍の若君天一坊樣の御座所と相成り我々晝夜相詰罷ありと咎れば浪人は拙者は當院の住職天忠和尚の許へ相通る者なりと答ふ然ば暫時此處に御休息あるべし其段拙者共より方丈へ申通じ伺ひし上にて御案内せんといふに彼浪人も夫は尤もの事なりと自分も番所へ上れば番人は浪人の姓名を問に只先生が參りしと申給へと云ば番人は顏見合せ先生と許では何先生なるや分り申さず御名前を承まはりたしといふ左樣ならば方丈へ山内先生が參りしと申し給へとの事なれば早速其趣きを通じければ山内先生の御出とならば自身に出迎べしと何か下心のある天忠が出來る行粧は徒士二人を先立自身は紫きの法衣に古金襴の袈裟を掛頭には帽子を戴き右の手に中啓を持左の手に水晶の念珠爪ぐり沓を踏しめ徐々と出來る跡には役僧二人付そひ常に替し行粧なり頓て門まで來り浪人に向ひ恭々しく是は/\山内先生には宜こそ御入來成たり率御案内と先に進ば浪人は臆する色なく引續いて隨ひ行ぬ扨此浪人の山内先生とは如何なる者といふに元は九條前關白殿下の御家來にて山内伊賀亮と稱せし者なり近年病身を云立九條家を退ぞき浪人して近頃美濃國の山中に隱れ住ければ折節この常樂院へ來り近しく交はる人なり此人奇世の豪傑にて大器量あれば常樂院の天忠和尚も此山内伊賀亮を敬まふ事大方ならず[#「大方ならず」は底本では「 方ならず」]今日計ずも伊賀亮の來訪に預かれば自身に出迎ひて座敷へ請じ久々にての對面を喜び種々饗應して四方山の物語りには及べり天忠言葉を改め山内先生には今日幸ひの處へ御入來なりし拙僧も大慶に存ずる仔細は拙僧が甥なる赤川大膳と申者此度將軍家の御落胤なる天一坊樣のお供致し拙寺へ御入にて御逗留中なり近々江戸表へ御名乘出にて御親子御對顏遊ばす筈ならば時宜に依ては西の丸へ居らせらるゝか左無とも御三家順格には受合なり然時は拙僧も立身の小口に先生も御隨身の思召あらば拙僧御吹擧に及ぶべしといふ伊賀亮は是を聞暫し思案して申ける樣和尚は何と思はるゝや拙者大言を吐に似たれども伊賀亮程の大才ある者久しく山中に隱れて在は黄金を土中に埋むるに均し今貴僧の咄さるゝ天一坊殿にも此伊賀亮の如き者一人召抱に相成ば此上もなき御仕合と申もの也我も立身に望なきにあらず老僧宜く取計ひ給へと申ける常樂院大に喜こび早速大膳にも相談[#ルビの「さうだん」は底本では「さんだん」]に及びし所ろ大望を企つるには一人も器量勝れし者を味方にせねば成就し難し夫は屈強の者なりといふにぞ天忠は打悦び天一坊へ申けるは今日拙寺へ參る所の客人は舊京都九條家の御家來にて當時は浪人し山内伊賀亮と申す大器量人なり上は天文地理を悟り下は神儒佛の三道に亘り和學軍學に至るまで何一ツ知ずといふ事なき文武兼備の秀才士なり此人を御家來と成れなば何なる謀計も成就せん事疑ひなしと稱譽して薦ければ天一坊は大に悦喜し左樣の軍師を得る事大望成就の吉瑞なりと云ば天忠は早々御對面ありて主從の契約あるべしと相談茲に一決し天忠は次へ退ぞき伊賀亮に申樣只今先生の事を申上しに天一坊樣にも先生の大才を御稱美ありて早速御召抱へ成るべくとの由なれば直樣御對面あらるべし就ては先生の御衣服は餘り見苦し此段をも申上たれば小袖一重と羽織一ツとを下置れたり率御着用有りて然るべしと述ければ伊賀亮呵々と笑ひ貴僧の御芳志は忝けなけれど未だ御對面もなき中に時服頂戴する謂れなし又拙者が粗服で御對面成れ難くば夫迄の事なり押て拙者より奉公は願ひ申さずと斷然言放し立上る勢ひに常樂院は慌て押止め然ば其段今一應申上べしまづ/\御待下されと待せ置て奧へ行き暫時にして出來り然らば其儘にて對面有べしとの事なりと告れば伊賀亮は然も有べしと頓て粗服のまゝ天忠に引れて本堂の座敷へ到れば遙の末座に着座させられぬ
此時上段の簾の前には赤川大膳藤井左京の兩人繼上下にて左右に居並び常樂院天忠和尚が披露につれ大膳が簾を卷ば雲間縁の疊の上に錦の褥を敷天一坊安座し身には法衣を着し中啓を手に持て欣然として控へたり頓て言葉を發して九條家の浪人山内伊賀亮とやらん其方の儀は常樂院より具に承知したり此度予に仕んとの志ざし神妙に思なり以後精勤を盡すべし率主從の契約盃盞遣さんと云ばこの時兼て用意の三寶に土器を載藤井左京持出て天一坊の前に差置ば土器取あげ一獻を飮干て伊賀亮へ遣す時に伊賀亮は頭を上つく/\と天一坊の面貌を見て土器を取上ず呵々と打笑ひ將軍の御落胤とは大の僞り者餘人は知らず此伊賀亮斯の如き淺はかなる僞坊主の謀計に欺むかれんや片腹痛き工かなと急に立退んとするを見て赤川大膳は心中に驚き見透されては一大事と氣を勵まし何に山内狂氣せしか上に對し奉つり無禮の過言いで切捨んと立よりて刀の柄に手を掛るを伊賀亮ます/\わらひ茲な刀架め其方如き者の刄が伊賀亮の身に立べき切ば見事に切て見よと立掛るを左京と常樂院の兩人は中へ分入押止めければ天一坊は疊の上より飛下伊賀亮に向如何に伊賀亮予を僞者との過言其意を得ず何か證據が有て左樣には申すや返答聞んと詰寄ば伊賀亮動ずる色なく慥に證據なくして麁忽の言を出さんや其證據を聞んとならば禮を厚して問るべし先第一に天一坊の面部に顯はれし相は存外の事を企つる相にて人を僞るの氣慥なり又眼中に殺伐の氣あり是は他人を切害せし證據假初にも將軍家の御落胤に有べからざる凶相なり僞物と申せしがよも誤りで厶るかと席を叩て申ける天一坊始め皆々口を閉て茫然たりしが大膳堪へ兼御墨付と御短刀を持出し伊賀亮どの貴殿只今の失言聞惡し則ち御落胤に相違なき證據は是にあり篤と拜見あるべしと出し示せば伊賀亮苦笑しながら然ば拜見せんと手に取上これは紛なき當將軍家の御直筆なり又御短刀を拔て詠むるに是も亦違もなき天下三品の短刀なりと拜見し畢りて大膳に戻し成程御證據の二品は慥なれ共天一坊殿に於ては僞物に相違なしといふ此時天忠席を進み遖れなる山内先生の御眼力恐入たり左樣に星を指て仰らるゝ上は包み隱すに益なし此上は有體に申べし實に斯樣なりと大望を企てし一部始終落なく物語り此上は何卒先生の知略を以て此證據の品に基づき事成就致すやう深慮の程こそ願はしと述ければ伊賀亮は欣然と打笑ひ左こそ有べし事を分て頼むとあれば義を見て爲ざるは勇なしとか惡とは知ども一工夫仕まつて見申べしと稍暫く思慮に及びけるが人々に向ひ先天一殿の面部は當將軍家の幼稚の御相恰に能似しのみか音聲迄も其儘なれば十が九ツ此企て成就せんと云に皆々打悦び茲に主從の約をぞ結び五人頭を差寄て密談數刻に及びける伊賀亮申す樣斯樣なる大望を企てるには金子乏しくては大事成就覺束なし第一に金子の才覺こそ肝要なれ其上にて計らふ旨こそあれ各々の深慮は如何と申ければ天一坊進出て其金子の事にて思ひ出せし事あり某[#ルビの「それがし」は底本では「れれがし」]先年九州へ下りし砌り藝州宮島にて出會し者あり信州下諏訪の旅籠屋遠藤屋彌次六と云ふ者にて彼は相應の身代の者のよし語ひ置し事も有ば此者を手引とし金子才覺致させんには調達すべき事もあらんと云に任せ遂に其儀に決し密々用意して天一坊と大膳の兩人は長洞村を出立し信州下諏訪へと赴たり漸く遠藤屋彌次六方へ着し案内を乞先年の事を語れば彌次六は先年の事を思出し早速出迎へ能こそ御尋ね下されしと夫より種々の饗應に手を盡しける天一坊は大膳を彌次六に引合せ種々と内談に及びぬ爰に諏訪明神の社人に諏訪右門とて年齡未十三歳なれど器量拔群[#ルビの「ばつくん」はママ]に勝れし者有り此度遠藤屋へ珍客の見えしと聞より早速彌次六方へ來り委細を聞遂に彌次六の紹介にて天一坊に對面を遂げ是も主從の約をぞ結びける是より彌次六は只管天一坊を世に出さんものと深く思ひ込兎角して金子を調達せんと右門にも内談をなすに右門の申樣は我等同職の中にて有徳なるは肥前なり此者を引入なば金子の調達も致すべし此儀如何有んと申ければ彌次六も大いに悦び早々夫となく彼肥前を招き樣々饗應ゐる内天一坊には白綾の小袖に紫純子の丸蔕を緊め態と庭へ出て小鳥を詠め居る體にもてなし肥前が目に留りて心中に怪しと思はせん者と※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、55-15]るとは毫知らざれば肥前は亭主の彌次六に向ひ只今庭へ出給ふ御方は如何なる客人にや當人とは思はれずと云に彌次六は仕濟たりと聲をひそめ彼御方の儀に付ては一朝一夕に述がたし先は斯樣々々の御身分の御方なりとて終に天一坊と赤川大膳に引合せ則ち御墨付と御短刀をも拜見させらるれば元より肥前は篤實の者故甚く恐れ敬ひぬ彌次六右門の兩人は爰ぞと何れにも天一坊樣を御世に出したし夫には少し入用もあり何卒貴殿の周旋にて金子の御口入相成まじきやと餘儀もなく頼みければ肥前は然る儀なれば拙者には多分の儀は出來兼れど少々は工夫せんと聞て兩人は大に悦びいよ/\金子御調達下さるれば天一坊樣江戸表にて御親子御對顏相濟なば當明神を御祈願所と御定め一ヶ年米三百俵づつ永代御寄附ある樣に我々取計ひ申べし然すれば永く社頭の譽れにも相成候事なり精々御働き下されと事十分なる頼みの言葉に肥前の申樣は御入用の金子は何程か存せねど拙者に於ては三百兩を御用立申べし其上は自力に及び難しといふ彌次六申やう御入用高は未だ篤と相伺はねば先貴殿方の御都合もあれば夫だけ御用立下さるべしと云に肥前は委細承知なして歸宅せしが早速右の金子三百兩持參しければ此旨天一坊大膳へ申し談じ則ち天一樣御出世の上は永代米三百俵づつ毎年御奉納有べしと認めし證文と引替にし金子をば受取一先美濃國へ立歸らんと天一坊は大膳右門遠藤屋彌次六との三人を同道して常樂院へ歸り來りて右の首尾を物語れば常樂院もさらば拙僧も一目論して見よと庚申待を催し講中の内にて紺屋五郎兵衞蒔繪師三右衞門米屋六兵衞呉服屋又兵衞の四人を跡へ止め別段に酒肴を調のへ一間へ招きて酒も餘程廻りし頃常樂院申けるは各々方も御承知の如く是迄は拙僧の弟子と致し世を忍び給ひし天一坊樣は實は佐州相川郡尾島村の淨覺院の門前に捨られ給ひしを師匠天道和尚の拾ひし上弟子に致置れしが全くは當將軍家の御部屋住の内の御落胤なり此度御還俗遊ばし我々御供にて江戸表へ御上り遊ばすなり御親子御對顏の上は御三家同樣の御大名にならせらるゝは必定なり夫に付ては差向金子御入用なるが只今御用金とし金百兩差上る者には則ち三百石の御高を下され五十兩には百五十石三百兩ならば千石其餘は是に准じて宛行はるゝ思召なり然れば各々方も今の内に御用金を差上られなば御直參に御取立に成樣師檀の好みを以て拙僧宜く御取持せん思し召もあらば承まはらんと説法口の辯に任せて思ふ樣に欺りければ四人の者共は先頃よりの寺の動靜如何樣斯有んと思へど誰も貯へは無れど永代の家の株と無理にも金子調達仕つらんそれには御實情の處も伺ひたしといふに心得たりと常樂院は奧へ赴ぶき此由を咄し直に四人を伴なひて客殿の末座に待せ置き其身も席へ列なりける四人は遙か向ふを見れば上段の簾の前に頭は半白にして威有て猛からぬ一人の侍ひ堂々として控へたり是ぞ山内伊賀亮なり次は未壯年にして骨柄賤しからぬ形相の侍ひ二人是ぞ赤川大膳と藤井左京にて何れも大家の家老職と云とも恥かしからざる人品にて威儀を正して控へたれば其威風に恐れ四人の者は只々頭を下る計なり
扨も常樂院は紺屋五郎兵衞を初め四人の者共に威を示し甘々と用金を出させんと先本堂の客殿に請じ例の正面の簾を卷上れば天一坊は威有て猛からざる容體に着座す其出立には鼠色琥珀の小袖の上に顯紋紗の十徳を着法眼袴を穿たり後の方には黒七子の小袖に同じ羽織茶宇の袴を穿紫縮緬の服紗にて小脇差を持たる剪髮の美少年の面體雪を欺くが如きは是なん諏訪右門なり其傍らに黒羽二重の小袖に煤竹色の道服を着したるは遠藤屋彌次六一號鵞湖山人なり孰も整々として控たれば四人の者は思はず發と計りに平伏す時に天一坊聲清爽に其方共此度予に隨身せんとの願ひ神妙に存ずるなり依父上より賜はりし證據の御品拜見さし許し主從の盃取らすべしとの詞の下藤井左京は彼二品を三寶へ戴て恭々敷持出し四人の者へ拜見致させたり四人は此二品を拜見して驚き入り何卒御家來に御召抱下され度と詞を盡して願ひける是に依て四人より金子四百兩を才覺して差出し御判物を戴き帶刀苗字をゆるされしかば夫々に改名して家來分となりにける先紺屋五郎兵衞は本多源右衞門[#ルビの「ほんだげんゑもん」は底本では「ほんだげんゑももん」]呉服屋又兵衞は南部權兵衞蒔畫師の三右衞門は遠藤森右衞門米屋六兵衞は藤代要人と各々改名に及びたり中にも呉服屋又兵衞は武州入間郡川越に有徳の親類あれば彼方か御同道下さらば金千兩位は出來すべしといふにより山内伊賀亮は呉服屋又兵衞を案内として武州川越在の百姓市右衞門方へ到着し是又以前の手續にて辯に任して諸人を欺き櫻井村にて右膳權内馬場内にて源三郎七右衞門川越の町にて大坂屋七兵衞和久井五兵衞千塚六郎兵衞大圓寺自性寺其外寺院にて七ヶ寺都合廿七人金高二千八百兩出來せり偖千塚六郎兵衞は帳本にて金子は常樂院へ持參の上證文と引替る約束にて伊賀亮に附從ひ川越を發足せしが此六郎兵衞は相州浦賀に有徳の親類有ばとて案内し伊賀亮又兵衞と三人にて浦賀へ立越六郎兵衞の勸に因て江戸屋七左衞門叶屋八右衞門美作屋權七といふ三人の者より金子八百兩を差出して天一坊樣御出府の節は途中迄御出迎仕つらんとぞ約束をなし是より伊賀亮等の三人は美濃へ立戻り川越浦賀の兩所にて金子は三千兩餘出來せしと物語れば皆々大に悦び先六郎兵衞に夫々の判物を渡せしかば六郎兵衞は是を請取川越の地へ歸りけり跡に皆々此※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、58-5]を外さず近々に江戸表へ下らんと用意にこそは掛ける先呉服物一式は南部權兵衞是を請込染物は本多源右衞門塗物の類は遠藤森右衞門が引請夜を日に繼で支度に掛ば二月の末には萬々用意は整のひたり爰に皆々を呼集め評定に及ぶ樣は直さま江戸へ下るべきや又は大坂表へ出て動靜を窺はんやと評議區々にて更に決着せざりしにぞ山内伊賀亮進み出て申樣は直に江戸表へ罷下らん事先以て麁忽に似て然べからず其仔細は先年駿河大納言殿の御子息長七郎君も先大坂へ御出の吉例も有ば此先例に任せ一先大坂へ出張ゆる/\關東の動靜を見定め變に應じて事を計らはんこそ十全の策と云べしと理を盡して申ければ皆一同に此議に同ず道理の事とて評議は此に決定したり然ば急ぎ大坂へ旅館を構へ是へ御引移有べしとて此旅館の借受方には伊賀亮が内意を受則ち常樂院が出立する事にぞ定まりぬ頃は享保十一午年[#「十一午年」は底本では「十一酉年」]三月朔日常樂院は美濃國長洞村を出立し道を急ぎ大坂渡邊橋紅屋庄藏方へぞ着しける此紅屋といふ旅人宿は金比羅參りの定宿にて常樂院は其夜主人の庄藏を呼近づけ申樣は此度聖護院の宮御配下天一坊樣當表へ御出張に付御旅館取調べの爲に拙寺が罷越候なり不案内の事ゆえ萬端其許をお頼申なりとて手箱の中より用意の金子を取出しこれは些少ながら御骨折料なりと差出しければ庄藏は大いに悦び委細畏こまり候と翌日未明より大坂中を欠廻り遂に渡邊橋向ふの大和屋三郎兵衞の控家こそ然るべしと借入のことを三郎兵衞方へ申入れしに早速承知しければ庄藏は我家へ歸り其趣きを常樂院へ物語れば常樂院は偏に足下の働らきなりしと賞賛し庄藏を案内として大和屋三郎兵衞方に赴き辯を飾りて申樣此度拙寺が本山天一坊樣大坂へ出張に付旅館として足下の控家を借用の儀を頼入しに早速の承知忝けなしと述終り此は輕少ながら樽代なりと金子を贈り借用證文を入れ則ち借主は常樂院請人は紅屋庄藏として調印し宿老へも相屆け萬端事も相濟たれば常樂院は尚も紅屋方に逗留し翌日より大工泥工の諸職人を雇ひ破損の處は修復を加へ新規に建添などし失費も厭はず人歩を増て急ぎければ僅の日數にて荒増成就したれば然ば迚一先歸國すべしと旅館へは召し連下男一人を留守に殘しいよ/\天一坊樣御出張の節は斯樣々々と紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人に萬端頼み置き常樂院には大坂を發足し道を急ぎ長洞村へ歸り大坂の首尾斯樣々々の場所へ普請出來の事まで申述ければ常樂院が留守中に此方も出立の用意調ひ居れば然あらば發足有べしとて其手配りに及びける頃は享保十一年四月五日いよ/\常樂院の許を一同出立には及びたり其行列には第一番の油箪掛し長持十三棹何れも宰領二人づつ附添その跡より萠黄純子の油箪白く葵の御紋を染出せしを掛し長持二棹露拂二人宰領二人づつなり引續きて徒士二人長棒の乘物にて駕籠脇四人鎗挾箱草履取長柄持合羽籠兩掛都合十五人の一列は赤川大膳にて是は先供御長持預りの役なり次に天一坊の行列は先徒士九人網代の乘物駕籠脇の侍ひは南部權兵衞本多源右衞門遠藤森右衞門諏訪右門遠藤彌次六藤代要人等なり先箱二ツは手代とも四人打物手代とも二人跡箱二ツ手代とも四人傘持草履取合羽籠兩掛茶辨當等なり引續いて常樂院天忠和尚藤井左京山内伊賀亮等孰も長棒の乘物にて大膳が供立に同じ惣同勢二百餘人其體美々しく長洞村を出立し大坂指て赴き日ならず渡邊橋向の設けの旅館へぞ着したり伊賀亮が差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、59-14]にて旅館の玄關に紫縮緬に葵の御紋を染出せし幕を張渡し檜の大板の表札には筆太に徳川天一坊旅館の七字を書付て門前に押立玄關には取次の役人繼上下にて控へ何にも嚴重の有樣なり是等は夜中にせし事なれば紅屋大和屋も一向に知ざる處ろ翌朝に至り市中の者共は是を見付て只膽を潰すばかりにて誰云となく大評判となり紅屋は不審晴ず兎も角もと大和屋三郎兵衞方へ到り前の段を物語り後難も恐ろしければ何に致せ表札と幕をば一先外させ申べしとて兩人は急に袴羽織にて彼旅館へ赴き中の口に案内を乞ば此時取次の役人は藤代要人成しが如何にも横柄に何用にやと問ば庄藏三郎兵衞の兩人は手を突私共は紅屋庄藏大和屋三郎兵衞と申て當町の者なり何卒急速に常樂院樣に御目通り願ひ相伺ひ度儀ありて推參仕れり此段御取次下さるべしと慇懃に相述れば藤代要人は承知し中の口に控させ此趣きを常樂院へ申し通じければ天忠和尚は偖は紅屋等が何か六かしき事を申越たかと伊賀亮へ此由を談ずれば伊賀亮打點頭夫こそ表札幕などの事にて來りしならん返答の次第は斯々と委細に常樂院へ差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、60-5]したりける
斯て常樂院は伊賀亮の内意を請徐々と[#「徐々と」は底本では「除々と」]出で來り彼庄藏三郎兵衞の兩人に對面するに兩人は口を揃て申す樣何とも恐入り候事ながら貴院先達て仰聞られ候には聖護院宮樣の御配下にて天一坊樣の御旅館とばかり故庄藏御世話申三郎兵衞の明店御用立差上候ひしに只今御玄關を拜見仕つるに徳川天一坊樣御旅館との御表札あり又御玄關には葵御紋の御幕を張せられしが右樣の儀ならば前以て私共へお話の有べき筈なり若し此事町奉行所より御沙汰あらば貸主三郎兵衞は勿論世話人の庄藏までの難儀なり何卒右の表札と御玄關なる御紋付のお幕はお取外しを願ひ候といふに常樂院は兩人の言葉を聞て打笑乍ら申けるは成程仔細を知ねば驚くも無理ならず然ども御表札と御紋付の幕を暫時なりとも取外す儀は叶ひ難し其故は聖護院宮樣御配下天一坊樣御身分は當將軍吉宗公の未だ紀州公御部屋住の時分女中に御儲けの若君にて此度江戸表へ御下向あり御親子御對顏の上は大方は西の丸へ直らせらるべし左樣に輕からぬ御身分にて徳川は御苗字なり又葵は御定紋なり其方輩が少しも案じるには及ばず若も町奉行より彼是を申出ば此方へ役人を遣はすべし屹度申渡すべき筋も有其方共も落度には毛頭相成ず氣遣ひ無用なり何分無禮の無樣に致すべしと云渡しければ兩人は是を聞て肝を潰し將軍の御落胤との事なれば少こし安堵しけれども後々の咎を恐れ早速名主組合へ右の段を屆け夫より町奉行の御月番松平日向守殿御役宅へ此段を訴へける是に依て東町奉行鈴木飛騨守殿へも御相談となり是より御城代堀田相模守殿へ御屆に相成ば御城代は玉造口の御加番植村土佐守殿京橋口の御加番戸田大隅守殿へも御相談となりしが先年松平長七郎殿の例もあり迂濶には取計ひ難し先々町奉行所へ呼寄篤と相調べ申べしと相談一決し御月番なれば西町奉行松平日向守殿は組與力堀十左衞門片岡逸平の兩人を渡邊橋の天一坊の旅館へ遣はさる兩人は玄關より案内に及べば取次は遠藤東次右衞門なり出て挨拶に及ぶに兩人の與力[#ルビの「よりき」は底本では「よりぎ」]の申には我々は西町奉行松平日向守組與力なるが天一坊殿に御重役御意得たし少々御伺ひ申度儀ありと述ぶ取次の遠藤東次右衞門は早速奧へ斯と通ぜんと先兩人を使者の間へ請じ暫く御待有べしと控へさせける間毎々々の立派に兩人も密かに肝を潰し居しが頓て年頃は三十八九にて色白く丈高く中肉にて人品宜しき男の黒羽二重の小袖に葵の御紋を付下には淺黄無垢を着し茶宇の袴を靜々と鳴して出來るは是なん赤川大膳なり頓て座に就て申樣拙者は徳川天一坊殿家來赤川大膳と申者なり何等の御用向にて參られしと尋ければ與力等は平伏して私し共は當月番[#「當月番」は底本では「當日番」]町奉行松平日向守組與力堀十左衞門片岡逸平なり奉行日向守申付には天一坊樣へ日向守御目通り致し直に御伺ひ申度儀御座候得ば明日御役宅迄天一坊樣に御入來ある樣との趣きなりと述ければ大膳は篤と聞濟し其段は一應伺ひの上御返事に及び申べしと座を立て奧へ入しが暫く有て出來り兩人に向ひ御口上の趣き上へ伺ひしに御意には町奉行の役宅は非人科人の出入致し穢はしき場所の由左樣の不淨なる屋敷へは予は參る身ならず用事と有ば日向守殿に此方へ來られよとの御意なれば此段日向守殿へ御達し下されと言捨て奧へぞ入たり兩人は手持無沙汰據ころなく立歸り右の次第を日向守へ申聞れば此は等閑ならぬ事なりとて又も御城代堀田相摸守殿へ申上らるれば左樣の儀ならば是非なし御城代屋敷へ呼寄對面せんと再び堀片岡の兩人を以て御城代堀田相摸守殿屋敷へ明日天一坊殿入せられ候樣にと申入ける此度は異儀なく承知の趣きの返答あり依て日向守殿には與力同心へ申付る樣天一樣定めし明日は乘物なるべし然ど御城代の御門前にて下乘致さすべし若も下乘なき時は屹度制止に及ぶべしと嚴重にこそ申渡し翌を遲しと待れける頃は享保十一丙午年四月十一日天一坊は供揃ひして御城代の屋敷へ赴むく其行列には先に白木の長持二棹萌黄純子に葵御紋付の油箪を掛け宰領二人づつ跡より麻上下にて股立取たる侍ひ一人是は御長持預りの役なり續いて金御紋の先箱二ツ黒羽織の徒士八人煤竹羅紗の袋に白く葵の御紋を切貫し打物を持せ陸尺十人駕籠の左右に諏訪右門本多源右衞門高間大膳同じく權内藤代要人遠藤東次右衞門等また金御紋の跡箱二ツ簑箱一ツ爪折傘には黒天鵞絨に紫の化粧紐を懸銀拵への茶辨當合羽籠兩掛三箇跡より徒士四人朱網代の駕籠侍ひ四人打物を持せ常樂院天忠和尚引續いて同じ供立にて黒叩き十文字の鎗を持せしは山内伊賀亮なり其次にも同じ供立に鳥毛の鎗を持せしは藤井左京なり少し離れて白黒の摘毛の鎗を眞先に押立麻上下にて馬上なるは赤川大膳にて今日の御供頭たり右の同勢堂々として渡邊橋の旅館を立出下に/\と制しをなし御城代の屋敷を指て來りければ道筋は見物山をなして夥だしく既に御城代屋敷へ到り乘物を玄關へ横付にせん氣色を見るより今日出役の與力駈來る是ぞ島秀之助といふ者なり大音上て下乘々々と制せしが更に聞ぬ風して尚も門内へ舁込んとす此時島秀之助駈寄天一坊の乘物の棒鼻へ手を掛て押戻し假令何樣なる御身分たりとも此所にて御下乘あるべし未だ公儀より御達し無うちは御城代の御門内打乘決して相成申さず是非御下乘と制して止ざれば然ばとて餘儀なく門外にて下乘し玄關へこそは打通りぬ
島秀之助が今日の振舞後に關東へ聞え器量格別の者なりとて元文三年三月京都町奉行を仰付られ島長門守と言しは此人なりし同五年江戸町奉行となり延享三年寅年免ぜらる
此時天一坊の裝束には鼠琥珀に紅裏付たる袷小袖の下には白無垢を重ねて山吹色の素絹を着し紫斜子の指貫を帶き蜀紅錦の袈裟を掛け金作り鳥頭の太刀を帶し手には金地の中啓を握り爪折傘を差掛させ沓しと/\と踏鳴し靜々とぞ歩行ける附從がふ小姓の面々には麻上下の股立を取て左右を守護しける引續いて常樂院天忠和尚は紫の衣に白地の袈裟を掛け殊勝げに手に念珠を携へて相隨ひ山内伊賀亮には黒羽二重の袷小袖に柿染の長上下その外赤川大膳藤井左京皆々麻上下にて續て隨ひ來る其行粧は威風堂々として四邊を拂ひ目覺しくも又勇々敷ぞ見えたりける斯て玄關に到れば取次の役人兩人下座敷まで出迎へ案内して廣書院へ通せしを見るに上段には簾を下し中には二疊臺の上に錦の褥を敷て座を設けたり引れて此處へ着座すれば左右には常樂院天忠山内赤川藤井等の[#「常樂院天忠山内赤川藤井等の」は底本では「常樂院天忠山内伊賀藤井等の」]面々威儀を正して座を占たり大坂御城代堀田相摸守殿の屋敷へ天一坊を請し書院上段の下段に御城代相摸守殿を初として加番には戸田大隅守殿同植村土佐守殿町奉行には松平日向守殿鈴木飛騨守殿大番頭松平采女正殿設樂河内守殿御目附御番衆列座し縁側には與力[#「與力」は底本では「興力」]十人同心二十人出役致しいと嚴重に構へたり時に上段の簾をきり/\と卷上れば御城代堀田相摸守殿平伏致され少し頭を上て恐れ乍ら今般如何なる事ゆゑ御上坂町奉行へ御屆もなく理不盡に御紋付の御幕を御旅館へ張せられ町家には御旅宿相成候や剩さへ御苗字の表札を建させ給ふ事不審に存じ奉る此段伺ひ申さん爲今日御招き申したり御身分の義明かに仰聞せられたしとぞ相述らる時に天一坊言葉を柔げ相摸殿よく承はられよ徳川は予が本性ゆゑ名乘申す又葵も予が定紋なる故用ゆる迄なり何の不審か有べきとの詞を聞より相摸守殿は恐ながら左樣の仰聞らるゝ計にては會得も仕つり難し右には其御因縁も候はんが其を委敷仰聞られ下されたしといふ其時伊賀亮少しく席を進み相摸守殿に向ひ相摸守には上の御身分を不審せらるゝ御樣子是は尤も千萬なり御筋目の儀は委敷此伊賀より御聽せ申べし抑々天一樣御身分と申せば當上樣未だ御弱年にて紀州表御家老加納將監方に御部屋住にて渡らせ給ひ徳太郎信房君と申上し折柄將監妻が腰元の澤の井と申女中に御不愍掛させられ澤の井殿御胤を宿し奉つり御形見等を頂戴し將監方を暇を取生國は佐渡なれば則ち佐州へ老母諸共に立歸りしが其後澤の井殿には若君を生奉つり産後肥立兼相果られ其後は老母の手にて御養育申せしが右の老母病死の砌り若君をば同國相川郡尾島村淨覺院と申す寺の門前に御證據の品を相添捨子として有しを是なる天忠淨覺院住職の砌り拾ひ上て御養育申上し處間もなく天忠には美濃國各務郡谷汲郷長洞村常樂院へ轉住致し候に付若君をも伴ひ奉つれり依て御生長の土地は美濃國にて候此度受戒得道なし奉つり常樂院の後住にも直し申べくと存じ候得ども正しく當將軍の御落胤たるを知つゝ出家になし奉らんは勿體なき儀に付今度我々守護し奉つり江戸表へ御供仕つるに就ては一度江戸表へ御下りの上は二度京坂の御見物も思召に任せられざるべしと依て只今の内京坂御遊覽の爲當表へは御出遊されしなり委細は斯の如し相摸殿にも是にて疑念有べからずと辯舌滔々として水の流るゝ如に述たり是を聞居る諸役人御城代を始めとし各々顏を見合せ誰有て一言申出る者なく如何にも尤もの事と思ふ氣色なり此時御城代相摸守殿申さるゝ樣は成程段々の御申立委細承知せり併し夫には慥に御落胤たるの御證據を拜見願ひたしと申さる依て伊賀亮は天一坊に向ひ御城代相摸守より御證據拜見の願ひあり如何仕まつらんと云に天一坊は願の趣き聞屆けたり拜見致させよとの事なり則ち赤川大膳御長持を明て内より白木の箱と黒塗の箱とを取出し伊賀亮が前へ差出す時に伊賀亮は天一坊に默禮し恭しく件の箱の紐を解中より御墨附と御短刀とを取出し相摸殿率拜見と差付れば御城代初め町奉行に至る迄各々再拜し一人々々に拜見相濟む是紛もなき正眞の御直筆と御短刀なれば一同に驚き入る是に於て疑心晴相摸守殿には伊賀亮に向ひ斯確なる御證據の御座ある上は將軍の御落胤に相違なく渡らせ給へり此段早速江戸表へ申達し御老中の返事を得し上此方より申上べし先夫れ迄は當表に御逗留緩々御遊覽有べき樣言上せらるべし御證據の品々は先御納下さるべしと伊賀亮へ返しぬ是より種々饗應に及び其日の八つ過に御歸館を觸ぬ此度は相摸守殿には玄關式臺迄御見送り町奉行は下座敷へ罷出で表門を一文字に推開けば天一坊は悠然と乘物の儘門を出るや否や下に/\の制止の聲々滯ほりなく渡邊橋の旅館にこそ歸りける今は誰憚る者はなく幕は玄關へ閃き表札は雲にも屆くべく恰も旭の昇るが如き勢ひなれば町役人どもは晝夜相詰いと嚴重の待なり扨御城代には御墨附の寫し并びに御短刀の寸法拵へ迄委敷認め委細を御月番の御老中へ宛急飛を差立らる爰に又天一坊の旅館には山内伊賀亮常樂院赤川大膳藤井左京等尚も密談に及び大坂は餘程に富地なり此處にて用金を集めんと評議に及び即ち紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人を招き帶刀を許し扨申談ずる樣は天一坊樣此度御城代の御面會も相濟たれば近々江戸表よりの御下知次第江府へ御下り有て將軍へ御對顏相濟ば西の御丸へ直られ給に相違なし依て兩人より金三百兩づつ御用金を差出すに於ては返金は申に及ばず御褒美として知行百石づつ下し置れる樣拙者どもが屹度取り計ひ遣すべし若し御家來に御取立を望まずば永代倉元役を周旋すべし依て千兩は千石の御墨附と御引替に下し置るべしと語らうに兩人とも昨日の動靜に安堵しければこの事を所々へ取持たれば其を聞傳へて申込者は鹿島屋兵助鴻池善右衞門角屋與兵衞天王寺屋儀兵衞襖屋三右衞門播磨屋五兵衞等を初として我先にと金子を持參し少しも早く御用立る者は知行多く下さるとて毎日々々紅屋方へ取次を頼み來る有徳の町人百姓又は醫師など迄思ひ/\に五百兩千兩と持參する者引も切ず其金高日ならずして八萬五千兩に及びければ一同は先是にて差向の賄ひ方には不自由無し此上案じらるゝは江戸表の御沙汰ばかり今や/\と相待ける
扨も大坂御城代の早打程なく江戸へ到着し御月番御老中松平伊豆守殿御役宅へ書状を差出せば御同役松平左京太夫殿酒井讃岐守殿を始め自餘の御役人列座の席にて伊豆守殿大坂御城代よりの書面の儀を御相談あり何れも慥なる證據と有上は大切の儀なり宜しく上聞に達し御覺悟有せらるゝ事成ば急ぎ當地へ御下り申し其上何樣とも思召に任せ然るべしと評議一決しけるが此儀を上へ伺ふには餘人にては宜からず兼々御懇命を蒙る石川近江守然るべしとて近江守を招かれ委細申し含め御機嫌を見合せ伺ひ申べしとのことにて先夫迄は大坂の早打は留置との趣きなり近江守は甚だ迷惑の儀なれども御重役の申付是非なく御機嫌の宜き時節を待居たり或日將軍家には御庭へ成せられ何氣なく植木など御覽遊ばし御機嫌の麗く見ゆれば近江守は御小姓衆へ目配せし其座を退ぞけ獨り御側へ進寄聲を潜て大坂より早打の次第を伺ひたれば甚だ御赤面の體にて知ぬ/\との上意なれば推返して伺ひけるに成程少し心當りはあり書付を遣はせし事ありとの上意なれば近江守は御答の趣き早速松平伊豆守殿へ申通じければ又々御役人方御評議となり御連名にて返翰を遣されたり其文は先達て仰越れ候天一坊殿の儀石川近江守を以て御内意伺ひし處上樣には御覺悟有せらるゝとの仰なり隨分粗略なく御取計ひ有べく候尚御機嫌を見合せ追て申達すべしとの返翰なり斯樣に江戸表より粗略にすべからずとの儀なれば御城代の下知として俄に天一坊の旅官を前後左右に竹矢來を結び前後に箱番所を取建四方の道筋へは與力同心等晝夜出役して往來の旅人馬駕籠は乘打を禁じ頭巾頬冠りをも制し嚴重に警固せり天一坊方にては此樣子を見て先々江戸表の首尾も宜しき事と見えたりとて各々悦び勇み居たりけり
去程に御城代より天一坊の旅館を斯く嚴重に警固有ければ天一坊伊賀亮大膳左京常樂院等の五人は一室に打寄事大方は成就せりと悦び然ば此上は近々の内當所を引上出立し京都に赴き諸司代にも威勢を示し其より江戸表へ下る可と相談一決せしが未だ御家來不足なり大坂にて召抱んと夫々へ申付此度新規に抱たる者共には米屋甚助事石黒善太夫筆屋三右衞門事福島彌右衞門町方住居の手習師匠矢島主計辰巳屋石右衞門番頭三次事木下新助伊丹屋十藏事澤邊十藏酒屋長右衞門事松倉長右衞門町醫師高岡玄純酒屋新右衞門事上國三九郎鎗術指南の浪人近松源八上總屋五郎兵衞事相良傳九郎と各々改名させ都合十人の者を召抱へ先是にて可なり間に合べし然らば片時も早く京都へ立越べしと此旨を御城代へ屆ける使者は赤川大膳是を勤む其節の口上には近々天一坊京都御見物の思召あれば御上京遊ばすに付當表の御旅館御引拂ひ成べくに付此段お達しに及ぶとの趣きなり夫と聞より大坂の役人中は疫病神を追拂ふが如くに悦び片時も早く立退かせんと内々囁やきけるとなり斯て天一坊の方にては先京都の御旅館の見立役として赤川大膳は五六日先へ立て上京し京中の明家を相尋ねしに三條通りの錢屋四郎右衞門[#「錢屋四郎右衞門」は底本では「錢屋四郎左衞門」]方に屈竟の明店有を聞出し早速同人方へ到り掛合樣此度聖護院の宮御配下天一坊樣御上京に付拙者御旅館展檢の爲上京し所々聞合せしに貴所方明店然るべしと申事なり何卒御上京御逗留中借用致し度との旨なりしが四郎右衞門は異儀なく承知しければ同人の口入にて直樣金銀を吝まず大工泥工を雇ひ俄に假玄關を拵らへ晝夜の別なく急ぎ修復を加へ障子唐紙疊まで出來に及べば此旨飛脚を以て大坂へ申越ば然ば急々上京すべし尤とも此度は大坂表へ繰込の節より一際目立樣にすべしと伊賀亮は萬端に心を配り新規召抱の家來へも夫々役割申付用意も荒増に屆きたれば愈々明日の出立と相定め伊賀亮常樂院等の連名にて大膳方へ書翰を以て彌々明十日大坂表御出立明後十一日京都御着の思召なれば其用意有べしと認め送れり頃は享保十一丙午年六月十日の早天に大坂渡邊橋の旅館を出立す其行列以前に倍して行粧善美を粧ひ道中滯りなく十一日晝過に京都四條通りの旅館へぞ着なせり則ち大坂の如くに入口玄關へは紫き縮緬の葵の紋の幕を張渡し門前へは大きなる表札を立置ける錢屋四郎右衞門は是を見て大に驚き赤川大膳に對面して仔細を問に天一坊樣は當將軍の御落胤なれば徳川の表札御紋付の幕も更に憚る儀にあらずと彼紅屋等に語りし如く空嘯ふいて告ければ四郎右衞門は今更詮方なく迷惑が無ればよしと心中に思ふのみ乍ら捨置ては無念ならんと此段奉行所へ町役人同道にて訴へ出其趣は此度錢屋四郎右衞門方へ聖護院宮樣の御配下天一坊樣御旅舍の儀明家の儀なれば貸申候に昨夜御到着の後玄關へは御紋付きの御幕を張剩さへ徳川天一坊旅館との表札を差出され候故其仔細承はり候に天一坊樣には當將軍家の御落胤にて徳川は御本姓葵は御定紋との趣きなり依て此段念の爲御屆申上るとの趣きを書面にし訴へ出町奉行所にては是ぞ大坂に噂の有者併し理不盡の振舞なりとて早速役人を出張せしめ速かに召連參るべし仰せ畏り候とて手附の與力兩人を錢屋方へつかはさる兩人の與力は旅館に到り見るに嚴重なる有樣なれば粗忽の事もならずと先玄關に案内を乞重役に對面の儀を申入取次は斯と奧へ通じければ頓て山内伊賀亮繼上下にて出來り與力に向ひ申す樣各々には何用の有て參られしやといふに答て餘の儀に非ず譬何樣の御身分なりとも町旅館なさるゝ節は當所支配の奉行へ一應御屆有べき筈なるに其儀もなく剩さへ徳川の御表札に御紋付の御幕は其意を得ず依て町奉行所へ御同道申さんため我々兩人參て候なりと聞て伊賀亮は態と氣色を變へ夫は甚だ心得ざる口上なり各々には如何樣の身分にて恐れ多も天一坊樣を奉行所へ召連奉らん抔と上へ對し容易ならざる過言無禮とや言ん緩怠とや言ん言語に絶せし口上かな忝なくも天一坊樣には當將軍家の御落胤にて既に大坂城代より江戸表へも上申に相成御左右次第江戸へ御下向の御積其間に京都御遊覽の爲め上京此段町奉行にも心得有べき筈不屆至極の使者今一言申さばと威丈高に遣込其上汝知らずや町奉行所は科人罪人の出入する不淨の場所なり左樣なる穢れし場所へ御成を願ふは不埓千萬なり伺ひ度儀あらば奉行が自身に參上すべき筈なり今般の儀は役儀に免じ御許しあるべし此趣き早々罷歸り奉行に申達すべしと云捨て伊賀亮はツと奧へ入ば兩人は散々に恥しめられ凄々と御役宅へ歸り奉行へ此由を申せば其は捨置難しと早速諸司代へ到り牧野丹波守殿へ此段申上るに然ば諸司代屋敷へ相招ぎ吟味を遂相違無に於ては當表よりも江戸へ注進すべしと評定一決し牧野丹波守殿より使者を以て招がれける此方は思ふ壺成ば此度は異儀無參るべしと返答し諸司代の目を驚かし呉んものと行列を粧ひ諸司代屋敷へ赴むきしかば牧野丹波守殿對面有て身分より御證據の品の拜見もありしに全く相違なしと見屆け京都よりも又此段を江戸表御月番御老中へ御屆に相成る先達て御城代堀田相摸守殿よりの早打上聞に達せしに御覺悟有せらるゝの上意なれば京都に於ても麁略無樣計らひ申さるべしとの事故然ば其儘に差置れずと俄に組與力等出張せしめ晝夜とも嚴重に固めさせける此方にては愈々上首尾と打悦び又も近邊の有徳なる者どもを進め用金をば集めける京都にても五萬五千兩程集まり京大坂にて都合十五萬兩餘の大金と成ば最早金子は不足なし此勢に乘じて江戸へ押下りいよ/\大事を計らはんは如何にと相談有しに山内伊賀亮進出て云やう京坂は荒増仕濟したれど江戸表には諸役人ども多く是迄とは違ひ先老中には智慧伊豆守あり町奉行には名代の大岡越前など有ば容易には事を爲難し依て一先江戸表へ御旅館を修繕篤と動靜見計ひ其上にて御下り有て然るべし其間には江戸表の御沙汰も相分り申さん變に應じて事を計らはざれば成就の程計難しといふに然ば江戸表に旅館を構ゆる手續に掛らんとて常樂院の別懇に南藏院と云江戸芝田町に修驗者あれば此者方へ常樂院の添状を持せ本多源右衞門に金子を渡し先江戸表へ下しける源右衞門は道中を急ぎ江戸芝田町南藏院方へ着し常樂院の手紙を渡し其夜は口上にて委細咄に及べば南藏院は篤と承知し早速懇意なる芝田町二丁目の阿波屋吉兵衞品川宿の河内屋與兵衞本石町二丁目の松屋佐四郎下鎌田村の長谷川卯兵衞兩國米澤町の鼈甲屋喜助等の五人を語らひ品川宿近江屋儀右衞門の地面芝高輪八山に有を買取て普請にぞ取掛りける表門玄關使者の間大書院小書院居間其外諸役所長屋等迄殘る所なく入用を厭はず晝夜を掛て急ぐ程に僅かに五十日許りにて荒増出來上り建具屋疊張付諸造作庭廻りまで全く普請は成就して壯嚴美々敷調ひけり依て本多源右衞門と南藏院の兩名にて普請出來せし旨を京都へ申遣はしければ天一坊は伊賀亮大膳等の五人と密談を遂いよ/\江戸の普請成就の上は片時も早く彼地へ下り變に應じ機に臨み施す謀計は幾計もあるべし首尾能御目見さへ濟ば最早氣遣ひなし然ば發足有べしと江戸下向の用意にこそは掛りける
斯て江戸高輪の旅館出來の由書状到來せしかば一同に評議の上早々江戸下向と決し用意も既に調ひしかば諸司代牧野丹波守殿へ使者を以て此段を相屆ける頃は享保十一午年九月廿日天一坊が京都出立の行列は先供は例の如く赤川大膳と藤井左京の兩人一日代りの積りにて其供方には徒士若黨四人づつ長棒の駕籠に陸尺八人跡箱二人鎗長柄傘杖草履取兩掛合羽籠等なり其跡は天一坊の同勢にて眞先なる白木の長持には葵の御紋を染出したる萌黄緞子の[#「萌黄緞子の」は底本では「萌黄純子の」]油箪を掛て二棹宰領四人づつ次に黒塗に金紋付紫きの化粧紐掛たる先箱二ツ徒士十人次に黒天鵞絨に白く御紋を切付し袋の打物栗色網代の輿物には陸尺十二人近習の侍ひ左右に五人づつ跡箱二ツ是も同く黒塗金紋付紫きの化粧紐を掛たり續いて簑箱一ツ朱の爪折傘は天鵞絨の袋に入紫の化粧紐を掛たり引馬一疋銀拵への茶辨當には高岡玄純付添ふ其餘は合羽籠兩掛等なり繼いて朱塗に十六葉の菊の紋を付紫の化粧紐を掛たる先箱二ツ徒士五人打物を先に立朱網代の乘物には常樂院天忠和尚跡は四人の徒士若黨長棒の駕籠には山内伊賀亮外に乘物十六挺駄荷物十七荷桐棒駕籠五挺都合上下二百六十四人の同勢にて道中筋は下に/\と制止聲を懸させ目を驚かすばかりいと勇ましく出立し既に三河國岡崎の宿へぞ着しける此岡崎の城下は上の本陣下の本陣迚二軒あり天一坊は上の本陣へ旅宿を取表に彼の大表札に徳川天一坊旅宿と書しを押立玄關には紫き縮緬の幕を張威儀嚴重に構へたり此時下の本陣には播州姫路の城主酒井雅樂頭殿歸國の折柄にて御旅宿なりしが雅樂頭殿上の本陣に天一坊旅宿の由を聞及び給ひ御家來に仰らるゝ樣兼々江戸表にも噂有し天一坊とやら此度下向と相見えたり此所にて出會ては面倒なり何卒行逢ぬ樣にしたしと思召御近習を召て其方密かに彼が旅宿の邊へ參り密々明日の出立の時間を聞合せ參るべしと申付らる近習は頓て上本陣の邊りへ立越便宜を窺がへば折節本陣より侍ひ一人出來りぬれば進み寄て天一坊樣には明日は御逗留なるや又は御發駕に相成やと問けるに彼の侍ひ答て天一坊樣には明日は當所に御逗留の積なりとぞ答へたり是は伊賀亮が兼ての工にて若も酒井家より明日の出立を聞合せて參るまじきにも非ず其時は逗留と答へよと下々迄申付置しに是は雅樂頭殿に油斷させ明朝途中にて行逢威光を見せんとの謀計なりしとぞ斯る巧のありとは夢にも知ず其言葉を實と思ひ早速立歸て雅樂頭殿へ此由を申上れば然ば明朝は未明彼に先立出立せん其用意致すべしと觸出されける然ば其夜何れも寢る者なく早も用意に及び寅の刻にも成ければ出立いたされ暗きに靜々と同勢を繰出さる天一坊方には山内伊賀亮が計ひにて忍びを入れ此樣子を承知して遠見を出し置雅樂頭殿出門有ば此方も出門に及ぶべしと悉く夜の内に支度を調へ今や/\と待居たり只今雅樂頭出門との知せに直此方も繰出せり酒井家は斯あらんとは少しも知ず行列嚴重に來懸る處此方は御墨附御短刀の長持を眞先に進ませ下に/\と制止を懸れば雅樂頭殿是を聞玉ひ驚かれしが今更跡へ引返さんも如何なり何とかせんと猶豫の内に最早御墨附の長持と行逢程に成たり此に至つて[#「至つて」は底本では「至て」]雅樂頭殿は據ころなく駕籠より下て控られ御墨附の通る間雅樂頭殿には頭を下て居給へり元來巧し事なれば天一坊の乘物も此日は此長持に引添て來り天一坊は駕籠の中より聲を懸酒井殿乘打御免と云捨て馳拔ければ思はずも雅樂頭殿には天一坊にまで下座をし給ふ此は無念なりと蹉なして怒給ひしが今更詮方も無りしとぞ假初にも十五萬石にて播州姫路の城主たる御身分が素性もいまだ慥ならぬ天一坊に下座有しは殘念と云も餘りあり天一坊は流石の酒井家さへ下座されしと態と言觸し其威勢濤の如くなれば東海道筋にて誰一人爭ふ者はなく揚々として下りけるは大膽不敵の振舞と云べし扨も享保十一午年九月廿日に京都を發足し威光列風の如く十三日の道中にて東海道を滯りなく十月[#「十月」は底本では「十二月」]二日に江戸芝高輪八山の旅館へ着せり玄關には例の御紋附の幕を張徳川天一坊殿旅館と墨黒に書し表札を押立たれば之を見る者扨こそ噂のある公方樣の御落胤の天一坊樣といふ御方なるぞ無禮せば咎も有んと恐れざる者もなく此段早くも町奉行大岡越前守殿の耳に入り彼所は當奉行支配の地なれば捨置難しと密々調べられし上この段御老中筆頭松平伊豆守殿へ御屆に及ばるれば早速御老中若年寄御相談の上先伊豆守殿御役宅へ相招き實否取糺しの上にて御落胤に相違なきに於ては速かに上聞に達し取計ひ方も有べしと評議一決し則ち松平伊豆守殿より公用人を以て八山なる旅館へ申遣しける趣きは此度天一坊樣御下向に付ては重役の者一統相伺ひ申度儀こそ有ば明日五ツ時伊豆守御役宅へ御出あらせられ度との口上を申入るれば頓て山内伊賀亮出會し再び出來り御申越の趣き伺ひし處明日伊豆守殿御屋敷へ入せられ候儀御承知の御返答なり其節萬端宜く伊豆殿に頼み入趣きなりとの挨拶なり扨翌朝になり八山にては行列を揃へ今日は先供として山内伊賀亮御墨附の長持を宰領す供には常樂院大膳左京等皆々附隨がふ程なく伊豆守殿御役宅に到るに開門あれば天一坊の乘物は玄關へ横付にしたり案内の公用人に引れ廣書院へ通り上段なる設の席に着す常樂院伊賀亮等は次の間へ着座す又此方に控へらるゝ御役人方には御老中筆頭松平伊豆守殿を始め松平左近將監酒井讃岐守戸田山城守水野和泉守若年寄には水野壹岐守本多伊豫守太田備中守松平左京太夫御側御用人には石川近江守寺社奉行には黒田豐前守小出信濃守土岐丹後守井上河内守大目附には松平相摸守奧津能登守上田周防守有馬出羽守町奉行には大岡越前守諏訪美濃守御勘定奉行には駒木根肥前守筧播磨守久松豐前守稻生下野守御目附には野々山市十郎松田勘解由徳山五兵衞等の諸御役人輝星の如く列座せらる此時松平伊豆守殿進出て申されけるは此度天一坊殿關東下向に付今日御役人ども御對面を願ふとの趣なり此時隔の襖を押明れば天一坊威儀を繕ろひ然も鷹揚に此方を見廻せば一同平伏ある時に伊豆守殿は伊賀亮に向はれ申さるゝ樣天一坊殿御出生の地并に御成長の所は何の地なるやと尋らるゝに此時常樂院は懷中より書付を取出し御身分の儀は委細是に相認め御座候と差出す伊豆殿請取て開き見らるゝに佐州相川郡尾島村淨覺院の門前に御墨附に御短刀相添て捨是有しを淨覺院先住天道是を拾ひ揚て弟子とし參らせし處天道先年遷化の後天忠即ち住職仕つり其砌に天一坊樣をも附屬致され後年御世に出し參らすべしとの遺言なれば天忠御養育なし參らせし處其後天忠美濃國谷汲郷長洞村常樂院へ轉住せしに付御同道申上同院にて御成長に御座候と書認めたり伊豆殿見終り玉ひ御書面にて先御誕生後御成長迄は分りたれども未だ如何なる御腹に御出生ありしや不分明なり此儀は如何にと問れたり
此時山内伊賀亮座を進申樣天一坊樣御身分の儀は只今の書付にて委しく御承知ならんが御腹の儀御不審御尤ともに存候されば拙者より委細申上べし抑當將軍樣紀州和歌山加納將監方に御部屋住にて渡らせ給ふ節將監妻の召使ふ腰元澤の井と申婦女の上樣御情懸させられ御胤を宿し奉りし處御部屋住の儀成ば後々召出さるべしとの御約束にて夫迄は何れへ成とも身を寄時節を待べしとの上意にて御墨附御短刀を後の證據として下し置れしが澤の井儀は元佐渡出生の者故老母諸共生國佐州へ歸り間もなく御安産なりしが産後の血暈にて肥立かね澤の井樣には相果られ其後は老母の手にて養育申上しが又候老母も病氣にて若君の御養育相屆かず即はち淨覺院の門前に捨子と致し右老母も死去致したるなり淨覺院先住天道存命中の遺言斯の如し依て常樂院初め我々御守護申上何卒御世に出し奉らんと渺々御供申上候なりと辯舌水の流るゝ如く滔々と申述ければ松平伊豆守殿初め御役人方いづれも詞は無く只點頭ばかりなりしが然ば御身分の儀は委敷相分りたり此上は御證據の品々拜見致し度と申されければ伊賀亮は天一坊に向ひ伊豆殿御證據の御品拜見を相願はれ候如何計ひ申さんといふに天一坊は許すと計り言葉少なに言放せば大膳は鍵取出し二品を取出し三寶に載持出伊豆守殿の前に差置にぞ伊豆守殿初め重役の面々各々手水して先御墨附を拜見に及ばる其文面は例の如く
其方懷妊の由我等血筋に相違是なし若男子出生に於ては時節を以て呼出すべし女子たらば其方の勝手に致すべし後日證據の爲め我等身に添大切に致し候短刀相添遣し置者也依て如件
とあり御直筆に相違なければ面々恐れ入り拜見致されまた御短刀をも一見するに紛ふ方なき御品なれば御老中若年寄には愈々將軍の御落胤に相違なしと承伏し伊豆守殿則ち伊賀亮を以て天一坊へ申上られける樣は先刻より重役ども一同御身の上委細承知仕り斯の如く慥なる御證據ある上は何をか疑ひ申べき將軍の若君たるに相違なく存じ奉る此上は一同篤と相談仕り近々に御親子御對顏に相成候樣取計ひ仕るべし夫迄は八山御旅館に御座成れ候樣願ひ奉ると言上に及ばる是にて御席相濟伊豆守殿より種々御饗應有て其後歸館を相觸らる此度は玄關迄伊豆守殿初め御役人殘らず見送りなればいとゞ威光は彌増たり是にて愈々謀計成就せりと一同安堵の思ひをなしにけり扨又伊豆守殿御役宅には天一坊歸館の跡にて御老中には伊豆守殿松平左近將監殿酒井讃岐守殿戸田山城守殿水野和泉守殿若年寄衆は水野壹岐守殿本多伊豫守殿太田備中守殿松平左京太夫殿等御相談の上にて御側御用御取次を以て申上られけるは先達て大坂表より御屆に相成りし天一坊樣御事今般芝八山御旅館へ御到着に付今日伊豆守御役宅にて諸役人一同恐れ乍ら御身分の御調べ申上げ御證據の品々拜見仕りしに御血筋に相違御座なくと存じ奉り候今日は御歸館なさせ奉りしが何れ近日吉日を撰び御親子御對顏の儀計らひ奉るべく就ては御日限の儀御沙汰願ひ奉るとの儀なれば將軍吉宗公には是を聞し召れ限りなき御祝着にて片時も早く逢度との上意なりし御親子の御間柄また別段の御事なり扨も大岡越前守殿には數寄屋橋の御役宅へ歸り獨熟々勘考有に天一坊の相貌不審千萬なりと思はるれば翌朝未明伊豆殿御役宅へ參られ御逢を願はれしが此日も伊豆殿の御役宅には御内談有て松平左近將監殿酒井讃岐守殿御出なり其席へ越前守を招かれける時に越前守低頭して恐れながら越前守申上候は昨日御逢これ有りし天一坊殿の儀御評議如何候や伺ひ度參上せりと聞れ伊豆守殿の仰せに天一坊殿の御身分の儀昨日拙者どもにも御落胤に相違無と存ずれば依て上聞に達せしに上にも御覺悟有らせられ速かに逢度との上意なれば近々吉日を撰び御對顏の儀取計ひ其上は上の思召に[#「思召に」は底本では「思召に」]任すべきに決せりとの事なり此時まで平伏せられし越前守頭を少し上げて伊豆守殿に向ひ御重役方の斯く御評議御決定に相成候を越前斯樣に申上候は甚だ恐入候へ共少々思付候仔細御座候是を申述ざるも不忠と存候此儀私事には候はず天下の御爲君への忠義にも御座あるべく依て包まず言上仕り候越前儀未熟ながら幼少の時より人相を聊か相學び候故昨日間は隔ち候へ共彼の方を篤と拜見候處御面相甚だ宜しからず第一に目と頬との間に凶相現はる是は存外の謀計を企つる相にて又眼中殺伐の氣あり是は人を害したる相貌なり且眼中に赤き筋ありて此筋瞳を貫くは劔難の相にて三十日立ざる内に刃に掛り相果るの相なり斯る不徳の凶相にして將軍の御子樣とは存じ奉り難し越前守が思考には御品は實なれど御當人に於ては何とも怪しく存ずるなり愚案は御目鏡には背き候へども何卒此御身の上は今一應越前へ吟味を相許し下されたし越前篤と相調べ其上にて御親子御對顏の儀御取計ひ有るとも遲かるまじくと存ず此段願ひ奉るとの趣きなり伊豆守殿斯と聞給ふより忽ち怒り面に顯れ越前守を白眼へ越前只今の申條過言なり昨日重役ども並に諸役人一同相調べし御身分將軍の御落胤に相違なしと見極め上聞にも達したる儀を其方一人是を拒み贋者と申立慥なる證據もなく再吟味願ひ出るは拙者どもが調べを不行屆と申にや何分にも重役どもを蔑しろに致す仕方不屆至極なりと叱り玉へば越前守には少しも恐るゝ色なく全く越前自己の了簡を立んとて御重役を蔑しろに致すべきや此吟味の儀は御法に背き候とは苟くも越前御役をも相勤る身分なれば辨へ居候へども只々天下の御爲國家の大事と存じ聊か忠義と心得候へば何卒枉て御身分調の事一應越前へ御許し下されたしと押て願ひ申されける此時松平左近將監殿仰せらるには是越前其方は重役共の吟味を悖き再吟味を願ひ若將軍の御胤に相違なき時は其方如何致す所存にやと仰られければ越前守愼んで答らるゝ樣御意に候再吟味願の義は越前が身に替ての願ひに御座候へは萬一天一坊殿將軍の御子に相違なき時は越前が三千石の知行は元より家名斷絶切腹も覺悟なりと御答に及ばれける此時酒井讃岐守殿の仰には越前其方は飽まで拙者共を蔑しろにし押て再吟味願ふは其方の爲に宜しからぬぞ控られよと仰せらるれども假令身分は何樣に相成候とも苦しからず君への御爲天下の爲なり幾重にも再吟味の儀御許し下され度偏に願ひ奉と再三押て願はれければ伊豆殿散々に氣色を損ぜられ其方左程に再吟味致し度とあれば勝手にせよと立腹の體にて座をば立たまひたり是に依て御列座も皆々退參と相成りければ跡に越前守只一人殘て手持なき體なりしが外に詮すべもなくて凄々として御役宅を立ち去り歸宅せられしが忠義に凝なる所存を固め種々に思案を廻し如何にも天一坊怪敷振舞なれば是非とも再吟味せんものと思へど御重役方は取上られず此上は是非に及ばず假令此身は御咎を蒙るとも明朝は未明に登城に及び直々將軍家に願ひ奉るより外なしと思案を極め家來を呼び出され明朝は六時の御太鼓を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、76-2]に登城致す間其用意いたすべしと云付けられたり寛永二申年[#「寛永二申年」はママ]十月
徳太郎信房
澤の井女へ
扨も松平伊豆守殿には大岡越前守の戻られし跡にて熟々と思案あるに越前定めし明朝は登城なし天一坊樣御身分再吟味の儀將軍へ直に願ひ出るも計り難し然ば此方も早く登城し越前に先を越申上置ざれば叶ふ可らずと是も明朝明六時のお太鼓に登城の用意を申付られたり既にして翌日御城のお太鼓六の刻限鼕々と鳴響けば松平伊豆守殿には登城門よりハヤ駕籠をぞ馳られけり又大岡越前守には同く六のお太鼓を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、76-8]に是も御役宅を立出たり然るに伊豆守殿御役宅は西丸下なり越前守の御役宅は數寄屋橋御門内なれば其道筋も隔たれば伊豆守殿には越前守より少しく先に御登城あり御用取次は未だ登城なく御側衆の泊番高木伊勢守のみ相詰たり乃ち伊豆守殿芙蓉の間に於て高木伊勢守を召れ突然と尋ねらるゝは貴所には當時の役人中にて發明は誰れとの評判と存ぜらるゝやと尋らるゝに伊勢守は不思議の尋なりと當惑ながら暫く思案して答へられけるは御意に候當節御役人の中には豆州侯其許をこそ智慧伊豆と下々にては評判も致し御筆頭と申し其許樣に上越す御役人はこれ有まじとの評判に候と申さるゝに伊豆守殿是を聞かれいやとよ夫は差置外々の御役人にては誰が利口發明なる噂にやと仰せらる其時伊勢守參候外御役人にては町奉行越前など發明との評判に御座候やに承まはる旨を答らるゝに伊豆守殿點頭れ成程當節は越前を名奉行と人々噂を致すやに聞及べり然ど予は越前は嫌ひなり兎角に我意の振舞多く人を輕んずる氣色ありて甚だ心底に應ぜぬ者なりと申されける是は只今にも登城に及び若直願の取次等を申出るとも取次させまじと態と斯は其意を曉らせし言葉なるべし
扨又大岡越前守には明六のお太鼓を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、77-1]に登城なされしが早伊豆守殿には登城ありて芙蓉の間に控給ひ伊勢守と何か物語りの樣子なれば越前守には高木伊勢守を密に招き語る樣は此度江戸表へ御下向有て芝八山の御旅館に在ます天一坊樣儀は一昨日松平伊豆守殿御役宅にて御身分調べあり御重役方は御相違なしとて近々御對顏の儀取計らはるゝ趣き拙者に於ては萬事其意を得ざる事と存ず其譯と申すは天一坊樣の御面相を拜するに目と頬の間に凶相顯はれ中々以て高貴の相貌にあらず拙者の勘考には御證據の品は實ならんが御當人は贋者なりと決したり依て天下の爲再吟味を重役方へ願ひしが早評議一決の由にて聞屆られず由々敷御大事ゆゑ君への御奉公再吟味の儀御許し下され候樣に直願仕り度何卒此段御取次下され度と思ひ込で申ける高木伊勢守も打聞て甚く驚きしが先刻の口上もあれば迷惑に思はれたり其故は越前守の願ひ言上に及べば御發明の將軍家御許も有べし然すれば伊豆守殿には不首尾と相なるべし當時此人に憎まれては勤役なり難しと思案し斯は大岡越前守が願ひ取次も御採用ひなき樣に言上するより外なしと思案を定め伊豆守殿の方へ向き目配せしつゝ越州御願の趣むき早速上聞に達し申さんと立て奧の方へ到り將軍の御前へ出て申上ける樣は恐れ乍ら言上仕り候此度御下向にて芝八山の御旅館に在ます天一坊樣御事は先達て伊豆守役宅へ御招き申上御身分篤と御調申上しに恐れながら君の御面部に其儘加之ならず御音聲迄も能似遊ばし瓜を二ツと申事且つ又御墨附御短刀も相違御座なく在せらるれば近々御親子御對顏の御儀式執計ひ申すべき段上聞に達し候處芝八山は町奉行の掛りなれば越前再吟味願度由此段伺ひ奉ると言上に及びければ將軍には聞し食れ天一は予に能似て居るとや音聲迄も其儘とな物の種は盜むも人種は盜[#ルビの「ぬす」は底本では「むす」]まれずと世俗の諺さもあり爭はれぬ者かな早々天一に逢度との上意なり世の中の親の心は闇ならねど子を思ふ道に迷ふとか云ひて子を慈しむ親の心は上將軍より下非人乞食に至る迄替る事なき理りなり其時また上意に芝八山は町奉行の支配なりとて越前我意に募り吟味を願ふとな既に重役ども取調べ予が子に相違なきに極りしを一人彼是と申拒むは偏執の致す處か再吟味は天下の法に背く相成ぬと申せとの事なれば伊勢守は仰せ畏まり奉り候迚頓て芙蓉の間へ出來り上座に着越前上意なりと申渡さるゝに越前守には遙に引下りて平伏なす此時高木伊勢守申渡す樣は八山御旅館に居らせられ候天一坊身分越前我意に募り再吟味願の儀は已に重役ども篤と相調べ相違なきを一人彼是申拒むは重役を蔑しろに致す所行殊に再吟味は天下の大法に背く間相成ぬとの上意なりと嚴重にこそ申渡しける越前守は發とばかり御受を致され恐入て退出せらる跡より大目附土屋六郎兵衞下馬より駕籠に打乘御徒士目附御小人目附警固して越前守を數寄屋橋内の御役宅へ送られ土屋六郎兵衞より閉門を申渡し表門には封印し御徒士目附御小人目附ども晝夜嚴重に番をぞ致しける良藥は口に苦く忠言耳に逆ふの先言宜なるかな大岡越前守は忠義一※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、78-7]に凝固まりて天一坊の身分再吟味の直願を致されしが輕からざる上意にて今は閉門の身となりけれど此事は中々打捨置難き大事なれば公用人平石次右衞門吉田三五郎池田大助の三人を招かれ申されけるは予は天一を贋者と思ひ定め再吟味の儀を重役へ願ひしが自己の言状を立んとて取上られず據ろなく今朝直願に及びしが是又御親子の御愛情に惹され給ひ筋違ひの事重役を蔑如し大法に背くとの趣きにて重き上意を蒙り予は閉門を仰付られしが一同とも神妙に致し居る樣申付くべしとの言葉に三人は平伏して御意の趣き委細承知仕れり實に月に浮雲の障り花に暴風の憂ひ天下の御爲忠義を思召ての再吟味の御願ひ御許しなきのみか剩さへ閉門を仰付られ候段は誠に是非もなき次第なり此上は何樣の御沙汰有んも計り難しと愁傷の體なれば越前守には此體を見られ々と落涙せられ此方はよき家來を持て滿悦に思ふなり三人の忠節心體見えて忝けなし去りながら我深き存意も有れば密かに申聞すべし近ふ/\と三人を側近くこそ進ませたり
其時越前守は平石次右衞門吉田三五郎池田大助の三人を膝元へ進ませ申されけるは其方共家の爲め思ひ呉る段忝けなく存るなり依て越前が心底を申聞すなり今越前不慮の儀に及び候へば明日にも御對顏仰せ出さるゝは必定なり萬一御對顏の後に贋者と相分るも最早取戻しなり難し然すれば第一天下の恥辱二ツには君への不忠なり依て越前は短慮の振舞致さず今宵計略を以て屋敷を忍び出んと思なり仔細は斯樣々々なり先次右衞門其方の老母病死なりと申僞り不淨門より出て小石川御館へ推參し今一應再吟味の儀を願ふ所存なり萬一小石川御屋形に於ても御取用ひなき時は越前が運命の盡る期なり其時予は含状を出して切腹すべし然有時は將軍にも何程御急ぎ遊ばすとも急ぎ御對顏は能ふまじ其内には天一坊の眞僞必ず相分り申べし依て今一應小石川御屋形へ此段を願ひ申さんと思ふなれば急ぎ其支度を致すべしと申付られける公用人等は早速古駕籠一挺古看板三ツ并びに帶三筋女の掛無垢等を用意なし日の暮をぞ相待ける扨夜も初更の頃に成しかば越前守は掛無垢を頭より冠りて彼古駕籠に身を潜むれば公用人三人は中間體に身を窶し外に入用の品々は駕籠の下へ敷込二人にて駕籠を舁き今一人は湯灌盥に杖を添て荷ひ不淨門へ向ひ屆ける樣は今日用人平石次右衞門老母儀病死致候依て只今菩提所へ送り申なり御門御通し下さるべしと斷りけるに當番の御小人目附は錠を明け駕籠を改め見るに如何さま女の掛無垢を冠りしは死人の體なれば相違なき由にて通しけるこれより數寄屋橋御門へも此段相斷りそれより御堀端通りを行鎌倉河岸まで來りたれば先此所にて駕籠を卸し主從四人ほツとばかり溜息を吐ながらも先々首尾よく僞り出しを喜び最早氣遣ひなしと爰にて越前守には麻上下を着用なし三人は何れも羽織袴に改め駕籠等は懇意の町人の家に預置小石川指て急ぎ行に夜は次第に更稍四ツ時と覺しき頃小石川御館には到りたり頓て御中の口へ掛りて案内を乞に取次出來れば越前守申さるには夜中甚だ恐入存ずれど天下の一大事に付越前推參仕つて候何卒中納言樣へ御目通の儀願上奉る旨を述らる取次は此段早速御奧へ申上ければ中納言綱條卿は先達てより御病氣なりしが追々御全快にて今日は中奧に移らせ給ひ御酒下されて御酒宴の最中なり中にも山野邊主税之助と云ふは年は未だ十七歳なれど家老職にて器量人[#ルビの「ひと」は底本では「びと」]に勝れしかば中納言樣の御意に入りて今夜も御席に召れ御酒頂戴の折から御取次の者右の通申上ければ中納言樣の御意に越前夜陰の推參何事なるか主税其方對面致し委細承まはり參るべしとの御意に山野邊主税之助は表へ出來り越前守に對面して申けるは拙者は山野邊主税之助と申する者なり越前殿には中納言樣へ御目通り御願の由然る所中納言樣には先達てより御所勞なり夜陰の御入來何樣の儀なるや御口上承まはる可との御意なりと叮嚀に相述ければ越前守頭を下扨申されけるは越前斯夜中をも省みず推參候は天下の御大事に付中納言樣へ御願ひ申上度儀御座有ての儀なり此段御披露頼み存ずるとぞ述られたり主税是を聞て尋常の儀ならんには主税及ばずながら承まはり申べきが[#「申べきが」は底本では「申べがが」]國家の御大事を拙者如き若年者の承まはる可事覺束なし兎も角も中納言樣へ言上の上御挨拶すべし暫く御控へ有べしと會釋して奧へ入り綱條卿に申上げるは町奉行越前守に對面仕り候處天下の一大事出來に付夜中をも憚からず推參仕り候趣き若年の私承たまはらん事覺束なく存じ此段言上仕り候と申上らる中納言綱條卿聞し召深く驚かせ給ひ天下の一大事出來とは何事ならん夫は容易ならざる事なるべし越前を書院へ通すべし對面せんとの仰なり是に依て侍ひ中御廣書院へ案内せらる最早中納言樣には御書院に入せられ御寢衣の儘御着座遊ばさる越前守には敷居際に平伏せらる時に中納言樣には越前近ふ/\との御言葉に越前守は少し座を進み頭を下て申上らるゝ樣御恐れながら天下の御大事に付夜中をも省みず推參候段恐入奉り候御病中も厭せ給はず御目通仰付られ候段有難き仕合に存じ奉ると申上らる此時綱條卿には御褥を下られ給ひ天下の一大事たる儀を承たまはるに略服の段は甚だ恐れ有と病中の儀越前許し候へとの御意なりしと此時大岡越前守は恐入て言上に及ばれけるは定めて御承知も有せらるべきが此度八山御旅館へ御下向有し天一坊樣儀先達て伊豆守御役宅へ御招ぎ申し御身分調申せしに將軍の御落胤たるに相違無御證據の品も御座あれば近々御對面の御儀式有せらるべき間取計ひ申べしとの事に候然るに私聊か相學を心掛候に付き間も隔候へども伊豆守御役宅に於て天一坊樣御面部を竊に拜し奉りしに御目と頬の間に凶相あり此は存外なる工みあるの相にて又眼中に赤筋有て瞳を貫き候は劔難の相にて三十日以内に刄に掛るべき相もあり旁々斯る凶惡上將軍の若君たるの理あるべからず如何にも御證據の品は實なるべきが御當人に於ては贋者必定と見究め候依て重役共へ再吟味の儀度々申立候へども相許さず據ろなく今朝登城仕り高木伊勢守を以て言上に及び再吟味の儀直願仕りしが御親子の御愛情にや越前が願ひは御聞屆なきのみか重役を蔑しろに致候上再吟味は天下の御大法に背くとて重き上意の趣きにて越前閉門仰付られ既に切腹とも存じ候へ共若明日にも御對顏ある上萬一贋者にてもある時は取返し相成らず御威光にも拘はり容易ならざる天下の御恥辱と存じ越前惜からぬ命を存らへ御尤めの身分を憚からず押て此段御屋形樣へ言上仕り候此儀御用ひなき時は是非に及ばず私し儀は含状を仕つり其節切腹仕るべき覺悟に候然らば當年中にはよも御對顏の運びには相成まじく其内に眞僞判然も仕らんかと所存を定め候間今晩は亡者の姿にて不淨門の番人を僞り御屋形へ推參奉りて候とまた餘儀もなく言上に及ばる綱條卿聞し食され越前其方が忠節頼母しく存ずるなり能も其所へ心付きしぞ予は病中成れども天下の一大事には替難し明朝登城し將軍家へ拜謁し如何樣にも計らふべき間其方安心致し此上心付候へとの御意にて又仰せには明朝予が登城致す迄に萬一切腹の御沙汰あらんも計り難し假令上使ありとも必ず御請を致さず押返して予が沙汰に及ばざる内は幾度も御斷り申立べし是は其方より上意を背には非ず言ば我等が御意を背儀なれば少しも心遣ひなく存じ居べしと御懇切なる御意を蒙り越前守感涙肝に銘じ有難く坐ろに勇み居たりけり
水戸中納言綱條卿は越前守に打對ひ給ひ其方死人の體にて不淨門より出たりとの事なれば歸宅むづかしからんとの御意に越前守平伏して御意の通御役宅を出候には番人を僞はり候へども歸の程甚だ當惑仕まつると申上ければ中納言樣には主税之助を召れ其方越前を宅迄送屆け申べし此使は大切なるぞ其方より外に勤る者なし必ず後れを取候な其刀を遣す程に若無禮の振舞致す者あらば切捨に致せ予が手打も同前なるぞと仰せらる主税之助は委細畏まり奉つると直に支度を調へ侍ひ兩人に提灯持鎗持草履取三人越前守主從四人[#「四人」は底本では「三人」]都合十人にて小石川御屋形を立出數寄屋橋御門内なる町奉行御役宅を指て急ぎ行早夜も子の刻を過ぎ屋敷に近付一同に表門へ懸り小石川御館の御使者山野邊主税之助なり開門あるべしと呼はれば夜番の御徒士目附答へて越前守には閉門中にて開門叶ひ申さずといふ主税之助越前殿閉門は誰より申付候やと尋ぬるに御徒士目附申やう土屋六郎兵衞殿の申付なりと此時主税之助態と憤りの聲を振たて何と申され候や土屋六郎兵衞の詞が夫程重きか中納言樣の御詞を背くに於ては仰付られの心得ありと大音に呼はりければ何れも肝を潰し時を移さず開門に及べば山野邊主税之助先に立て門を通らんとする時御徒士目附[#「御徒士目附」は底本では「御役士目附」]聲を懸暫らく御待有べし小石川御屋形の御使者御供の人數を調べ申さんと有ゆゑ主税之助答へて篤と念入調らるべしと主税之助主從十人と數へてぞ通しける主税之助は越前守の主從を無難に屋敷へ送込奧へ通り呉々も越前守に申含めけるは明朝早々御屋形御登城有て御取計ひ有べし夫迄は大切の御身と主人よりも申付て候何樣の儀候とも小石川御屋形の御意と御申立あるべし其内には屹度宜しき御沙汰有べしと申置暇乞して歸りには主從六人にて表門へ出來り小石川御屋形の御使者只今歸申す開門ありたしと申ければ番人また人數を改め四人不足なれば主税之助に向ひ最前の御人數は侍ひ分六人中間三人主從十人に候處只今御人數は侍ひ四人不足なり如何の儀に候やと云主税之助は威丈高になり各々には何と申さるゝや先刻よりは人數四人不足とや御手前方は何の爲に閉門の御番をば致さるゝや小石川御館にては閉門の屋敷へ參り居殘致す者は一人もなし狼狽たる申分かな彼是申さば切て捨んと大言に叱り付られ番衆も據なく開門して通しける主税之助は首尾能仕課せ急ぎ小石川へ歸り御前へ出て右の次第を委敷言上に及びければ中納言樣には深く御滿悦遊ばし汝ならでは然樣の働きは成まじとの御賞美の御意なりまた御意には越前はさぞ夜明が待遠成べし明朝は六ツ時登城すべし然樣に計ひ申す可との御意なれば夫々の役々へ御登城の御觸出しに及びける夫よりは御寢所へも入せられず直樣御月代を遊ばされんとの趣きなれば主税之助初め御病中御月代の儀は御延引遊ばし然るべしと申上らる中納言樣には長髮にて登城し將軍の御前へ出るは失敬なり我將軍を敬はずんば誰か將軍を重ずべき病中とて苦からず月代せよとの御意なれば掛りの役人も是非なく御櫛を取上ける夫より御行水相濟頃はハヤ御本丸の六ツの御太鼓遠く聞えれば御供揃にて直に御登城遊ばせしが時刻早ければ未だ御役人方は一人も登城なく御側衆泊番太田[#ルビの「おほた」は底本では「おばた」]主計頭のみなり主計頭を召れ天下の一大事に付將軍へ御逢の爲登城に及べり此段取次申せとの仰なれば主計頭其趣きを言上に及ばれける將軍家聞し食させ大に驚かせ給ひ早速御裝束を改めさせられ御對面あるに此時將軍家の仰に中納言殿には天下の一大事の由何事なるやと御尋あれば中納言綱條卿には衣紋を正し天下の一大事と申候は餘の儀にも候はず先伺ひ度は町奉行越前を名奉行と宣ひしは抑も誰にて候やとの御尋なり是は先年松平左近將監殿へ御意に大岡越前は名奉行なりと仰せられし事を中納言家には御存じゆゑ斯樣に仰上られしものなるべし此時將軍には御不審の體にて御在ますにぞ又申上らるゝ樣は斯綸言は汗の如しまた武士に二言なしとか君のお目鏡にて名奉行と仰せられ候越前天下の御爲を存じ君へ忠節を盡す心底より天一坊殿御身分再吟味願候に越前へ閉門仰付られしと承まはる町奉行たるものが支配内の事を吟味致すに筋違とは如何なる儀にや此段承まはりたしと御老人の苦り切たる有樣なれば將軍にも御當惑の體にて偵が名君の理に伏し見え給ひ殆ど御困の御樣子にて太田主計頭を召し上意には其方只今より越前宅へ罷越呼參れとの上意なれば主計頭は御受に及び直樣馬を飛せ鞭を加へて一散に數寄屋橋の御役宅へ來り御上使々々々と呼はりければ大岡の屋敷にては上下是を聞付スハ切腹の御上使と一家中色を失なひ噪ける表門には御上使と有に開門しければ主計頭には急ぎ玄關へ通り越前守に對面ありて上意の趣きを相述べ急ぎ登城あるべしとの事なり越前守委細承知し則ち馬を急し家來に申付火急の御用なり駕籠は跡より廻せと申付麻上下に服を改め主計頭と同道にて登城にこそは及ばれたり跡には皆々打寄只今御上使と御同道にて御登城有しは迚も御存命覺束なし是は將軍の御手打か又は詰腹か兎に角大岡の御家は今日限り斷絶成べし行末如何成事やらんと主の身の上より我行末迄も案じやり歎に沈まぬ者もなし扨も將軍家には中納言綱條卿と御對座にて御座まし越前が登城今や/\と待給ふ時しも太田主計頭が案内にて越前守恐る/\御前へ出遙か末座に平伏す時に主計頭座を進み只今越前召連て候と申上るにぞ將軍の上意に芝八山に旅館の天一坊身分再吟味の儀越前其方が心に任申付るぞと仰なれば越前守には發と計り御請申上らる將軍は又も中納言樣に向はせ給ひ水戸家只今聞せらるゝ通り越前へ右の如く申付たり御安心これ有たしと宣ふに綱條卿には實に御名將の思召潔よく御座候と申上られ是より中納言樣には御老中御列座の御席へ渡らせ給ひ越前守をも此席へ召れて中納言樣の仰に芝八山に旅宿致さるゝ天一身分再吟味の儀今日より越前に任すとの上意なれば一同左樣に心得られよ取分予が申渡すは天一身分吟味中越前が申す事は予が言葉と心得られよ越前も又左樣相心得心を用ゆべし越前には少身の由萬端行屆まじお手前達に於て宜く心付致さるべしとの御意なれば越前守は願の通り再吟味の台命を蒙り悦こび身に餘り勇み進んで下城にこそは及ばれたり下馬先には迎の駕籠廻り居て夫に乘徐々と歸宅せられたり頓て屋敷近くなりし頃押へが一人駈拔て表門よりお歸り/\と呼はれば此を聞て家來の男女はまた驚き恙なき歸りをば悦び且疑ふばかりなり
扨も大岡越前守には三人の公用人を呼出され今日より天一坊吟味の儀越前が心任せとの台命を蒙り又天一坊吟味中越前が申詞は小石川御館樣の御言葉と心得よとの御意なり然ば次右衞門其方は只今より八山へ到り明日辰の上刻天一坊に越前が役宅へ參り候樣申參べし必ず町奉行の威光を落すなと申付られ又吉田三五郎には[#「吉田三五郎には」は底本では「吉田五三郎には」]天一坊の召捕方を[#「召捕方を」は底本では「名捕方を」]池田大助には召捕手配方を申付られたり是に依て吉田三五郎は江戸三箇所の出口へ人數を配り先千住板橋新宿の三口へは人數若干を遣し固めさせ外九口へは是又人數若干を配り海手は深川新地の鼻より品川の沖迄御船手にて取切備船は沖間へ出し間々は鯨船にて取固め然も嚴重に構へたり扨又平石次右衞門は桐棒の駕籠に打乘若黨長柄草履取を召倶し數寄屋橋の御役宅を出芝八山へと急ぎ行次右衞門道々考へけるは天一坊家來に九條殿の浪人にて大器量人と噂ある山内伊賀亮には逢度なし然ば赤川大膳を名差にて對面せんと思案し頓て芝八山なる天一坊が旅館の門前に來りける箱番所には絹羽織菖蒲皮の袴を穿控居し番人大音に御使者と呼上れば次右衞門は中の口に案内を乞けるに此時戸村次右衞門と云者次上下にて取次に出來れば次右衞門は懷中より手札取出し拙者は町奉行大岡越前守公用方平石次右衞門と申者なり天一坊樣御重役赤川殿へ御意得て越前守が口上の趣きを申述度存ず何卒此段御取次下さる可と云に戸村は承知して大膳に斯と申通ずれば大膳は聞て眉を顰め町奉行大岡越前守より使者の來る筈は無しと不審に思へば伊賀亮が居間に到り只今町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申す者來り某しに面會し主人越前が口上を述たしとの事なれど町奉行より使者の來る譯はなき筈ぢやが如何の者かと聞ければ伊賀亮成程越前より使者を遣はす筋無れど貴殿名差とあれば何用とも計れず兎角御逢めさる方然るべし併し目の寄る所へ玉とか申し越前守は大器量人なり然ば使者の平石とやらんも一癖あるべし貴殿應對は氣遣ひなりと小首を傾けられて大膳は氣後れし然らば拙者は病氣と披露して貴殿面會し給はれと云ふに伊賀亮夫は何より易けれども平石次右衞門と手札を出し大膳殿へ御意得たしと申せし時に大膳儀は不快ゆゑ同役山内伊賀亮御目に懸るべしと申せば宜に今となりて大膳儀病氣なれば伊賀亮御目に掛ると申す時に赤川は取に足ざる者ゆゑ出會ぬと見えたりと貴殿の腹を見透さるゝ樣な物なり夫共事成就の上此伊賀亮は五萬石の大名に御取立になり貴殿は三千石の御旗本位是が御承知ならば伊賀亮何樣にも計ひ對面すべしと云に強慾無道の大膳是を聞夫なれば某し對面し口上を承まはらん併し返答に何と致して宜しかる可やと云に伊賀亮打笑ひ未だ對面もせぬ先に返答の差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、85-18]は出來ず夫こそ臨機應變と云者なり向ふの口上に因て即答あるべきなり口上を聞もせぬ内其挨拶が成べなやと云ば大膳は益々氣後せし樣子に伊賀亮も見兼て大膳殿左程に案じ給ふならば極意を教べし先平石の口上を聞て返答に差詰りし時は暫く控へさせ上へ伺ひ申して後返答致すべしとて奧へ來り給へ其口上に依て返答の致し方は種々ありと教ければ然らば對面致すべしと取次の者を呼で次右衞門を使者の間へ通すべしと申渡せば戸村は中の口へ來り平石に向ひ率御案内申すべしと先に立使者の間の次へ來る時戸村は御使者には御帶劔を御預り申さんといふ平石次右衞門脇差を渡さんと思ひしが待暫し主人が八山へ參り町奉行の威光を落すなと仰られしは爰なりと平石は態と聲高に拙者は何方に參るも帶劔を致す身分なればお預申事は相成がたしと云に戸村は町奉行公用人衆は外々の公用方と御身分違候や何の公用方でも此處にて帶劔は御預り申候御老中方公用人の御身分は何なる物にやと問ければ御老中方の公用方は御目附代ゆゑ御直參同樣に候と答へけるまた御城代公用方の御身分は如何と問に是は中國四國九州の探題の公用方なれば矢張御直參同樣に候と答へける戸村然ば御城代諸司代御老中と夫々の公用人何れも帶劔を御渡し成るゝに町奉行の公用人のみ御渡し成れぬは御身分でも違ひ候やと言ければ平石は町奉行の公用人とて別段身分は違はず併し乍ら赤川大膳殿には何程の御身分にて帶劔の儘お目に懸れぬや又此處は天一坊樣の御座の間近ければ帶劔のならざるや又大膳殿には御座の間近くより外へは御出席なされぬや拙者は只赤川殿に御目に懸り主人越前守の口上を述候へば夫にて使者の役目は相濟事なれば假令御廊下の端御玄關の隅にても苦からず帶劔の出來る所にて御目に懸り度存候なり此段御伺ひ下されと申けるにぞ戸村も此詞に閉口し大膳に右の次第を委しく咄せば大膳はいよいよ驚き迚も平石に對面は致し難しと又々伊賀亮の居間に來り貴殿の眼力の通り越前守が使者と申奴は頗る秀才の者と見えたり其譯は今戸村が使者の間へ案内し帶劔を預らんと申せしに斯樣々々の挨拶の由拙者對面しなば後々の障碍と成べし伊賀亮殿御太儀ながら御逢下さるべしと又餘儀もなく頼むにぞ伊賀亮も承知なし成程目の寄所へ玉とは能も申たり越前守は能家來を持羨ましと譽めながら戸村を呼彼使者に大膳殿は今日御上御連歌の御相手にて御座の間より外へ出席成難し同役山内伊賀亮非番なれば代りて御目に懸らんと御使者の間へ通すべしと言付られて此趣きを平石へ申通じける平石は伊賀亮と聞て迷惑に思へども今更詮方なく控へ居る頓て山内伊賀亮は黒羽二重の小袖に繼上下を着出來り申けるは町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申は其方なるか拙者は天一坊樣重役山内伊賀亮なり未だ大岡には對面せねど勤役中太儀と然も横柄の言葉なり平石次右衞門は平伏し御意の通り大岡が使者平石次右衞門に候天一坊樣益々御機嫌能く恐悦に存じ奉つり候大岡參上し以て申上べき處當八山は奉行支配場にて參上仕り兼候間使者を以て申上奉つり候明日辰の上刻天一坊樣大岡役宅へ入せられ候樣申上奉つるとの口上なり山内聞いて町奉行宅は罪人科人の出入する穢の場所なり左樣な不淨の處へ天一坊樣には入せられまじ假令御入成るとの御意ありとも此の山内に於て屹度御止め申なり此段立歸り大岡殿へ申されよと云にぞ平石は案に相違しけれど此儘にては天一坊には御役宅へ來らじと言葉を改め申けるは此度天一坊樣御身分調の儀に付ては越前守申す事は小石川御屋形の御言葉と心得よとの儀にて大岡が言葉を背かるゝは則ち上意を背くも同然の事なりと云ふにぞ山内も上意とあれば輕からざる儀なり先づ一應伺ひの上返答致すべし暫く控へられよとて奧へ入り良ありて再び出で來り次右衞門に向ひ町奉行大岡越前守より申上の趣き伺ひし處大岡の申す條なれども公方樣の上意とあれば如何にも其の刻限に御出あるべしとの上意なり明日は山内にも御供を仰付られたれば何れ大岡殿に對面致すべし宜しく申し傳へ給はるべしと謂捨て奧へは入たり次右衞門はホツと溜息を吐き門前より駕籠を急がせお役宅さして歸りける
扨も平石次右衞門はお役宅へ歸り來り早速主人のまへにいづれば大岡の曰く次右衞門其方に申付べき事をツヒ失念したり天一坊の家來に山内伊賀亮といふ器量人あり渠に逢ては惡かりしが何人に逢しやと尋らるゝにぞ次右衞門いふ私しも左樣に心づき候ゆゑ名差にて御重役赤川大膳殿へお目に懸りたしと申入しに赤川殿は御連歌のお相手にて御座の間より外へ出席なり難故非番の山内伊賀亮が對面致すとて面談せしに明日刻限通り參らるべしとの儀なりと述ければ越前守大きに悦び明日は大器量人の山内伊賀を越前が一言の下に恐れ入せんものとぞ思はれける爰に八山には次右衞門の歸りしあとにて山内は役人を招ぎ御上には天文お稽古中なれば天文臺へ入せらるゝなり其用意すべしと申付るにぞ役人は早速其用意をなし先天文臺へは五色の天幕を張廻し長廊下より天文臺まで猩々緋を布續ける山内は天文臺へ天文教導の役なればとて先に立ち續いて天一坊常樂院天忠和尚赤川大膳藤井左京の五人にて進み行けり扨臺上へのぼりて山内は四人に向ひ町奉行越前宅より使者を以て明日我々を呼寄るは多分召捕了簡と見えたりと述ければ大膳は肝を潰し果して大事の露顯なす上は是非に及ず皆々切腹なさんといふ山内また云やう未だ二度に切拔る事も有べし早計玉ふな明日大膳殿には先驅なれば某しが警戒べき事あり其は越前守の役宅にて必ず無禮を働くべし決して怒を發し刀などに手を掛給ふな町奉行の役宅にて劍※[#「卓+戈」、U+39B8、88-10]の沙汰に及べば不屆者と召捕て繩を掛ん呉々も怒を愼み給へと云含め猶種々と密談に及びし内既に黄昏になりしかば山内は四方を屹と見渡し大いに驚き大膳殿品川宿の方に當り火の光見るが那を何とか思るゝやと問へば大膳是を見て那こそは縁日抔の商人の燈火ならんといふに山内首を打振否々然に非ず夫等の火光は人氣和融なれば自然とそらへ丸く映るべきに今彼光は棒の如く尖りて映れり彼人氣勇烈を含むの氣にて火氣と云ひ旁々我々を召捕んとて出口々々を固めたる人數の篝火なるべし此人數は凡そ千人餘ならんと又一方を見渡し深川新地の端より品川沖まで燈火の見るは何舟なりやと問ふ大膳那こそ白魚を漁る舟なりと云ば伊賀亮大に打笑ひ那燈火も矢張我々を召捕ん爲舟手にて固めたる火光にして其間に丸く見る火光こそ全くの漁船なり海陸とも斯の如く手配せしは越前が我々を召捕べき手筈と見えたりと聞て四人は色を失ひ各々顏を見合て然ば今宵の内に皆々自殺なさんと云ば伊賀亮推止め未だ驚くには及ばず明日こそは器量人の越前を此伊賀が閉口させて見すべければ呉々も大膳殿明日は怒を發し給ふなと戒め夫より翌日の支度にぞ掛りける早其夜も明て卯の上刻となれば赤川大膳先驅として徒士四人先箱二ツ鳥毛[#ルビの「とりげ」は底本では「とりけ」]の一本道具を駕籠の先へ推立長棒の駕籠に陸尺八人侍ひ六人跡箱二ツ引馬一疋長柄草履取合羽等にて數寄屋橋内町奉行の役宅へ來り門前にて駕籠を下表門へ掛る此時大膳は熨斗目麻上下なり既にして若黨潜門へ廻り徳川天一坊樣の先驅赤川大膳なり開門せられよと云に門番は坐睡し乍ら何赤川大膳ぢやと天一坊は越前守が吟味を受る身分なり其家來に開門は成ぬ潜より這入べし彼是[#「彼是」は底本では「是彼」]云ば繩目に及ぞと云に大膳斯と聞て伊賀亮が戒めしは爰なりと思ひ大膳一人潜より入り家來は殘ず門外に殘し置玄關へかゝれば取次として平石次右衞門[#「平石次右衞門」は底本では「平石次衞門」]出來りて大膳を伴うて間毎々々を經庭へ下り向の物置部屋へ案内したり爰には數十人の與力同心番をなし言語同斷の無禮を働くにぞ大膳は元來短氣の性質なれば無念骨髓に徹すれども伊賀亮が戒めしは此所なりと憤怒を堪へ居たりける斯て八山の天一坊が行列には眞先に葵の紋を染出せし萌黄純子の油箪を掛たる長持二棹黒羽織の警固八人長持預り役は熨斗目麻上下の侍ひ一人其跡は金葵の紋付たる栗色の先箱には紫の化粧紐を掛雁行に并べ絹羽織の徒士十人宛三人に并び黒天鵞絨へ金葵の紋を縫出せし袋を掛たる長柄は金の葵唐草の高蒔繪にて紫縮緬の服紗にて熨斗目麻上下の侍ひ持行同じ出立の手代[#ルビの「てがはり」は底本では「てかはり」]一人引添たり又麻上下にて股立取たる侍ひ十人宛二行に並ぶ次に縮ら熨斗目に紅裏の小袖麻上下にて股立取たるは何阿彌とかいふ同朋なりさて天一坊は飴色網代の蹴出付黒棒の乘物にて駕籠脇十四人熨斗目麻上下にて股立とり跡より沓臺持一人黒塗に金紋付の跡箱紫きの化粧紐を掛乘物の上下には朱の爪折傘二本を指掛簑箱一ツ虎皮の鞍覆たる引馬一疋豹の皮の鞍覆たる馬一疋黒天鵞絨に白く葵の紋を切付たる鞍覆馬一疋供鎗三十本其餘兩掛合羽駕籠茶瓶等なり續て常樂院天忠和尚四人徒士にて金十六菊の紋を附たる先箱二ツ打物を持せ朱網代の乘物にて陸尺六人駕籠脇の侍ひ四人跡箱貳ツ何も紫きの化粧紐を掛たり黒羅紗の袋を掛たる爪折傘に草履取合羽籠等なり引續て藤井左京も四人徒士にて長棒の駕籠に乘若黨四人黒叩き十文字鎗を持せ長柄傘草履取合羽駕籠等なり少し後て山内伊賀亮は白摘毛の鎗を眞先に押立大縮ら熨斗目麻上下にて馬上なり尤も若黨四人長柄草履取合羽駕籠等相添へ右の同勢にて八山を出下に/\と呼り數寄屋橋を指て練來るしかるに往來の横々は木戸を〆切町内の自身番屋には鳶の者火事裝束にて相詰たり程なく惣人數は數寄屋橋御門へ來しに見附は常よりも警固の人數多く既に天一坊の同勢見附へ這入ば門を〆切夫を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、90-4]に外廓の見附は何も〆切たり斯て越前守の役宅へ近付ければ只今天一坊樣入せられたり開門せよと呼れば此日は池田大助門番を勤め何天一坊が參しとや天一坊は越前守が吟味を受る身分開門は相成ず潜りより這入れと云に徒士等之を聞て膽を潰し其旨供頭の伊賀亮へ告ければ伊賀亮は天一坊の乘物の側へ來り奉行越前は將軍の御名代なれば開門致さぬとの事潜より御通り然るべく存じ候と申ければ天一坊は父君の名代と有ば是非に及ばず潜りより通る可と云ひて乘物を下沓を穿て立出ける其衣服は葵の紋を織出したる白綾の小袖を着用し其下に柿色綾の小袖五ツを重ね紫きの丸帶を締古金襴の法眼袴を穿ち上には顯文紗十徳を着用し手に金の中啓を持頭は惣髮の撫附にて威風近傍を拂つて徐々と進み行く續いて常樂院天忠和尚は紫きの直綴[#ルビの「ぢきとぢ」は底本では「ぢきてつ」]を纏ひ蜀紅錦の袈裟を掛けて手に水晶の念珠を爪繰たり其の跡は藤井左京麻上下にて續いて山内伊賀亮は上下なり四人の者潛りより入りて玄關式臺の眞中を悠然として歩み行く門内には與力同心の數人スハと云へば搦め捕んと控へたり
既にして天一坊玄關へ來ければ取次案内として平石次右衞門出迎へ平伏し先に立て案内す天一坊は沓の儘にて次右衞門に伴られ行に常樂院は天一坊の未だ沓を脱ざるを見て其の前へ走寄り沓へ手を掛ければ天一坊は常樂院を見るに早沓を脱たりまた後を振返り伊賀亮左京をも見に何も履物を穿ざれば天一坊も沓を拔捨ける夫より案内に從ひ行き遙か向を見れば一段高き床を設け其上に越前守忠相丸に向ふ矢車の定紋を付繼上下にて控へ左右に召捕手の役人數多並び居るにぞ如何なれば大坂御城代を始京都所司代御老中の役宅にても自分を上座に据ゑしに越前守のみは自ら高き處に着座なすやと不審に思ひつゝ立止れば此時越前守には先達て伊豆守殿役宅にては間も隔し故若見違もやせんと思ひしが今天一坊の面貌熟々視るに聊か相違なければ彌々僞物に紛なしと見究しも未だ確なる證據なき故召捕ること叶はず如何にせんと思ひしが屹度して大音に天一坊下に居れ此賣主坊主餘人は欺くとも此越前を欺かんとは不屆至極なりと叱付れば天一坊は莞爾と打笑ひ越前は逆上せしと見えたり此頃まで三百俵の知行なりしが三千石の高祿になり當時町奉行を勤め人々尊敬すればとて慢心増長なせしか若予が答を爲ば不便や其方切腹せねば成まじ唯聞流にして遣さんに篤と勘考すべしとて悠然と控へければ頓て常樂院を始め皆々着座なす時に常樂院天忠和尚進出越前守殿には只今上に對し賣主坊主僞物なりとの過言を出さるゝは何故なるぞ大坂京都及び老中の役宅に於て將軍の落胤に相違なしと確認の附しを足下のみ左樣に云るゝは如何なりと云に越前守假令大坂御城代并に御老中迄將軍の落胤なりと申さるも此越前が[#「此越前が」は底本では「此越前か」]目には僞物に相違なしと思はるゝといふ常樂院又云ふやう夫は越前守殿の上を委く承知なされぬ故なり兎角に知ぬ事は疑心の發るもの然ば拙僧が詳細認めて御目に掛んと筆を取出し佐州相川郡尾島村淨覺院門前に捨子に成せられしを此天忠拾ひ上參らせ御養育なし奉りしが其後天忠美濃國各務郡谷汲郷長洞山常樂院法華寺へ轉住すれば御成長の地は美濃國なりと認め差出すに越前守は是を受取再三見終り如何にも斯樣に委しき證據あれば概略は知たりと云つゝ又熟々思案するに斯る事に繋り居ては面倒なり山内めを呼出し渠を恐入らせんとて大音に御城代所司代[#「所司代」は底本では「司所代」]并に御老中の役宅にて喋々と饒舌し者は此席に居や罷出よ吟味の筋ありと呼はれば山内は最前より餘人に尋んより我に問ば我一言の下に越前を屈服させんと待處なれば今此言を聞て進み出京都大坂并に老中の役宅にて取切て應答せしは拙者なりと云にぞ越前守は其方なるか然ば手札を出すべしと云ふに山内懷中より手札を差出す越前守は手に取克々見て其方の名前は山内伊賀亮かと尋ねられしに如何にも左樣なりと答ふ越前守推返して伊賀亮なりやと問ひ扨改めて伊賀亮といふ文字は其方心得て附たるや又心得ずして附たるやと尋ねらるゝに山内その儀如何にも心得あつて附し文字なりと答ふ越前守また心得有て附たりと有ば尋る仔細あり此亮と云文字は則ち守といふ字にて取も直さず其方の名前は山内伊賀守なり天一坊の家來にて何を以て守を名乘るやと咎むれば山内答へて越前守殿よく聞かれよ此の山内の身分は浪人は愚か如何に零落するとも正四位上中將の官は身に備りたりと云ふにぞ越前守は大音聲に默れ山内其方以前は九條家の家來と有ば正四位上中將の官爵も有べけれど退身すれば官位は指おかねば成ぬ筈なり然るを今天一坊の家來也とて正四位上中將の官位にて山内伊賀亮と名乘は不屆なりと叱り付れば山内から/\と打笑ひ越前守殿には承知なき故疑ひ有も道理なり此伊賀亮の身分に正四位上中將の備りある次第を咄さん拙者は九條家の家來なり一體公家方は官位高く祿卑きもの故に聊か役に立者有ば諸家方より臨時お雇ひに預る事あり拙者九條家に在勤中は北の御門へ御笏代りに雇れ參りし事折々なり此北の御門とは四親王の家柄にて有栖川宮桂宮閑院宮伏見宮を四親王と稱す當時は伏見宮を除き三親王なり此伏見宮を稱して北の御門と云其譯は天子に御世繼の太子在さぬ時は北の御門御夫婦禁庭へ入る宮樣御降誕あれば復たび北の御門へ御歸りあるなり扨御門の御笏代を勤る事は正四位上中將の官ならでは能はず其時には假官をなし大納言と爲るなり扨御笏代りとは北の御門參殿の節笏にて禁中の間毎々々に垂ある簾を揚て通行在せらることにて恐れ多くも龍顏を拜し玉ふ時は此笏を持事の叶はぬ故御笏代りとて御裾の後に笏を持ち控居て餘所乍ら玉體を拜するを得者なり拙者先年多病にて勤仕なり難きゆゑ九條家を退身の節北の御門へ奏聞を遂しに御門は御略體にてお目通りへ召れ山内其の方は予が笏代りをも勤め龍顏をも拜せし者なれば縱令九條家を退身し何國の果へ行も存命中は正四位上中將の官より下らず死後の贈官正二位大納言たる可との尊命を蒙むれば山内此末非人乞食と成果るも官位は身に備れば[#「備れば」は底本では「備れは」]伊賀亮の亮の字も心得て用ひ候也と辯舌滔々と水の流る如くに述ければ流石の越前守も言葉なく暫時控られしが稍有て山内に向かひ其方の身分委く聞ば尤もなり併し天一は似物に相違なければ召捕可といふに伊賀亮容を改め越前守殿何故に天一樣を似者と云るゝやと尋ければ越前守然ば似者に相違なきは此度將軍へ伺ひしに毫も覺なしとの御事なれば天一は似者に紛なしと云ふなりと山内是を聞將軍には覺なしとの御意合點參ず正く徳太郎信房公お直筆と墨附[#「墨附」は底本では「黒面」]及びお證據のお短刀あり又天一樣には將軍の御落胤に相違なきは其御面部の瓜を割たるが如きのみか御音聲迄も其儘なり是御親子に相違なき證據ならずや今一應將軍へ御伺ひ下されたし克々御勘考遊ばされなば屹度御覺有べしと[#「御覺有べしと」は底本では「御覽存べしと」]述れば越前守は大音に伊賀亮默れ天一坊の面體よく將軍御幼年の御面部に似しのみならず音聲まで其の儘とは僞り者め其方紀州家の浪人ならばいざ知ず九條家の浪人にて將軍の御音聲を知べき筈なしと咎められしに山内は嘲笑御面部また御音聲まで似奉[#ルビの「にたてまつ」は底本では「にせたてまつ」]る事お咄し申さんに紀州大納言光貞公の御簾中は九條前關白太政大臣の姫君にてお高の方と申し其お腹に誕生まし/\しは則ち當時將軍吉宗公なり御幼名を徳太郎信房君と申せし砌拙者は虎伏山竹垣城へ九條殿下の使者にて參りお手習和學の御教導をも爲し故御面部は勿論御音聲までも能承知致せばこそ將軍の公達に相違なしとは云しなり如何に越前守殿お疑ひは晴しやと言詰るに越前守は亦た言葉なく何を以て此の山内を言ひ伏んやと暫し工夫を凝して居られける
扨も大岡越前守は再度まで山内に言ひ伏られ無念に思へども詮方なく暫時思案ありけるが屹度天一坊の乘物に心付き心中に悦こび此度こそは閉口させんと山内に打對ひ天一坊は將軍の公達ならば官位は何程なるやと問ふに山内最初の官なれば宰相が當然なりと答ふ越前守又宰相は東叡山の[#「東叡山の」は底本では「當叡山の」]宮樣と何程の相違ありやと問ふに山内宮樣は一品親王なり夫一品の御位は官外にして日本國中三人ならではなし先天子の御隱居遊されしを仙洞御所[#ルビの「せんどうごしよ」はママ]と稱し一品親王なり又天子御世繼の太子を東宮と云是又一品親王なり又東叡山の宮樣は一品准后にして准后とは天子の后に准ずる故に准后の宮樣とは云なり然ば宮樣の御沓を取者の位さへ左大臣右大臣ならでは取事叶ざれば御登城には御沓取なくお乘物を玄關へ横付にせられ西湖の間にて將軍に御對顏あらばお沓はお用ひなし故に宮樣と宰相とは主從の如くなれど今少し官位の相違有んかと答へらる越前守是を聞れ然らば天一坊を召捕といふ山内また何故に天一坊を召捕と云はるゝやと云せもあへず越前守大音に飴色網代蹴出黒棒は勿體なくも日本廣しと雖も東叡山御門主に限るなり然程に官位の相違する天一坊が宮樣に齊き乘物に乘しは不屆なれば召捕と云しなり此の時山内から/\と打笑ひ越前守殿左樣に知るゝなら尋ぬるには及ばず又知ざれば尋ねらるゝ事もなき筈なり今ま山内が此所にて飴色網代のお咄申さんに先將軍の官職より解出さゞれば解し難し抑々將軍に三の官ありしは征夷大將軍とて二百十餘の大名へ官職を取次給ふの官なり尤も小石川御館のみは直に京都より官職を受るなり二は淳和院とて日本國中の武家を支配する官なり三は奬學院とて總公家を支配する官職なり然れど江戸にて斯京都の公家を支配する譯は天子若關東を※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、94-9]せらるゝ事有ては徳川の天下永く續き難き故東照神君の深慮を以て比叡山を江戸へ移し鬼門除に致したしと奏聞ありしが許されず二代の將軍秀忠公へ此事を遺言せられしに秀忠公も亦深慮を廻され京都へ御縁組遊ばし其上にて事を計はんと姫君お福の方を後水尾院の皇后に奉つらる之を東福門院と稱し奉つり此御腹に二方の太子御降誕まし/\ける其末の太子を關東へ申降し給ひ比叡山延暦寺を關東へ移し東叡山寛永寺を建立す是宮樣の始めにて一品准后の宮と稱し奉つり天子御東伐ある時は宮樣を天子として御綸旨を受る爲なり然ども天子には三種の神器あり此中何れにても闕れば御綸旨を出す事能はざるなり故に三代將軍家光公武運長久を祈る爲と奏聞有て草薙の寶劔を降借せられ其後返上なく東叡山に納たり夫寶は一所に在ては寶成ず故に慈眼大師の御遷座と唱へ毎月晦日に三十六院を廻るは即ち此寶劔の事なり尤も大切の寶物ゆゑ闇の夜ならでは持歩行事ならず依て月の晦日は闇なれば假令晝にても燈火照して御遷座あるは此譯也斯く如く宮樣の御身分は今にも天子に成せ給ふや又御一生御門主にて在せらるゝや定めなき御身の上なればお乘物の中を朱塗になし其上に黒漆を掛るは是日輪の光りに簇雲の覆し容を表したるにて是を飴色網代蹴出黄棒の乘物といふ今天一坊樣の御身も御親子御對顏[#ルビの「ごたいがん」は底本では「ごたいめん」]の上は西丸へ直らせらるゝや又御三家格なるや將會津家越前家同樣なるや抑々御譜代並の大名に成せ給ふや定めなき御身分ゆゑ朱塗の上に黒漆を掛て飴色網代に仕立しは此伊賀亮が計ひなり如何に越前守此儀惡かるべきやと問詰れば越前守は言葉なく無念に思へども理の當然なれば齒を切齒りて控へられしが稍ありて然ば證據の御品拜見せんと云ふに山内は天一坊に向ひ奉行越前御證據の御品拜見願ひ奉つると云ひければ天一坊は奉行越前へ拜見許すと云ふ頓て藤井左京長持の錠を開て二品を取出し越前守の前に出す越前守は覆面もせず先墨附を拜見するに將軍の直筆に相違なく亦短刀を拜見するに疑ひもなき天下三品の短刀にて縁頭は赤銅斜子に金葵の紋散し目貫は金無垢の三疋の狂獅子作は後藤祐乘にて鍔は金の食出し鞘に金梨子地に葵の紋散し中身は一尺七寸銘は志津三郎兼氏なり是は東照神君が久能山に於て御十一男紀州大納言常陸介頼宣卿へ下されし物なり又同じ拵へにて備前三郎信國の短刀は御十男尾張大納言義直卿へ又同じ拵へにて左兵衞左文字御短刀は御十二男水戸中納言左衞門尉頼房卿に下されたり是を天下三品の御短刀と稱す斯て越前守は拜見し終りて故へ收め俄に高き床より飛下低頭平身して斯の如き御證據ある上は疑ひもなく將軍の御息男に相違有ましく越前役儀とは申乍ら上へ對し無禮過言を働き恐れ入り奉つる何卒彼方へ入らせらるゝ樣にと襖を明れば上段に錦の褥を敷前には簾を垂て天一坊が座を設たり頓て赤川大膳をも呼來り簾の左右には伊賀亮常樂院其次には大膳藤井左京等並居る此時越前守は遙か末座に跪づきてお取次を以て申上奉つる役儀とは申乍ら上へ對し無禮過言の段恐れ入り奉つる是に依て越前差控へ餘人を以て吉日良辰を撰み御親子御對顏の御式を取計ひ申べくと云ければ伊賀亮此由披露に及ぶ簾の中より天一坊は越前目通り許すとの言にて簾をきり/\と卷上天一坊堂々と越前守に向ひ越前予に對し無禮過言せしは父上の御爲を思ひてなれば差控へには及ばず越前とても予が家來なり是迄の無禮は許すといひ又越前片時も疾く父上に對面の儀取計ふべしと有ば越前守は恐れ入て有難き上意を蒙り冥加に存し奉つる近々御對顏の儀取計ひ申べければ夫れまでは八山御旅館に御休息ある樣願ひ奉つると云へば山内も越前殿呉々も取急ぎて御親子御對顔の儀頼み入と云に越前守には何れにも近々の内取計らひ申べしと返答に及れける是より歸館を觸出して天一坊は直樣敷臺より乘物にて立出れば越前守は徒跣にて門際まで出て平伏す駕籠脇少し戸を引ば天一坊は越前居かと云に越前守ハツと御請を致されたり斯て天一坊の威光熾盛に下に/\と呼りつゝ芝八山の旅館を指て歸りける此時大岡越前守には八山の方を睨付て云と計り氣絶せしかば公用人を始め家來等驚いて打寄氣付藥を口へ吹込顏に水を灌ぎなどしければ漸々にして我に復りホツと息を吐乍ら今日こそは伊賀亮を閉口させんと思ひしに渠が器量の勝れしに却つて予が閉口したれば餘り殘念さに氣絶したりと切齒をなして憤られしも道理なる次第なり
去程に大岡越前守は今日社は山内伊賀亮を恐入せ天一坊始め殘らず召捕んものをと手當にまで及びしが思ひの外越前守は言伏られ返答にさへ差閊へたれば一先恐入て天一坊に油斷させ自ら病氣と披露し其内に紀州表を調んものと池田大助を呼で御月番の御老中へ病氣の御屆けを差出させ又平石次右衞門を呼で八山へ使者に遣しける八山にては天一坊を始め常樂院藤井左京等打寄て越前を恐入せし上は外に氣遣ふ物なし近々の内には大岡の取計ひにて御對顏あるに相違なし事大方成就せりと悦びけるが山内は少しも悦ぶ色なく鬱々とせし有樣なれば大膳は山内に打ち向ひ今日町奉行越前を恐入せしからは近日事の成就せんと皆々悦ぶ其中に貴殿一人愁ひ給ふは如何成仔細に候やと尋ねければ山内は成程各々方には今日越前が恐入しを見て實に閉口屈伏したりと思はるゝならんが此伊賀亮が思ふには今日大岡が恐れ入りしは僞りにて多分病氣を申立引籠るべし其内に紀州表を調ぶるは必定越前が恐入しは此伊賀亮が爲に一苦勞なりと云に大膳始め皆々驚愕然ば大岡が恐入しは僞りなるか此後は如何して宜らん抔案じけるに山内笑ひて大岡手を變へて事を成ば我又其裏をかく詮方ありと皆々に物語る處へ取次戸村馳來り只今町奉行方より平石次右衞門使者に參り口上の趣きには天一坊樣御歸り後大岡氣脱致し候や癪氣さし起り候に付今日より引籠候との由なりと云ふに山内是を聞て扨こそ只今申通り我々を召捕了簡と相見たりと云へば皆々山内が明察を感じて止ざりしと扨も越前守は若黨草履取を供に連紀州の上屋敷へ到り門番所にて尋ねらるゝ樣此節加納將監殿には江戸御在勤なるやといふに門番答へて加納將監樣には三年前死去せられ只今は御子息大隅守殿御家督に候と云ければ一禮を述加納大隅守殿の長屋を聞合せ直樣宿所へ趣き案内を乞大隅守殿へ御目通り仕つり度儀御座候に付町奉行越前守推參仕まつり候御取次下さるべしと云に取次の者此由を通じければ大隅守殿早速對面あり此時越前守には率爾ながら早速伺ひ申度は今より廿三年以前の御召使ひに澤の井と申女中の御座候ひしやと聞に大隅守殿申さるゝは親將監三年以前に病死致し私し家督仕つり候へども當年廿五歳なれば廿三年跡の事は一向辨へ申さずと答へらる越前守推返して然らば御母公には御存命に御座候やと申さるに大隅守殿拙者儀は妾腹にて養母は存命いたし候へども當年八十五歳にて御逢なされ候とも物の役には立申さずと言るゝに越前守御老體御迷惑とは存候へども御目通り願ひ度候と言るゝに大隅守殿は據ころなく奧へ行き養母正榮尼に向ひ只今奉行大岡越前守殿參られ御目通り願ひ候が定めて御政事の事なるべし母上には御當病と仰られて逢なされぬ方宜からんと云に正榮尼いやとよ奉行越前守が折角來り給ふを對面せぬも無禮なり逢申べし大隅心遣ひ無用なり假令何事を申す共八十五歳の老人後々の障になることは申すまじよし申にもせよ老耄致し前後の辨へ無と申さば少も其方の邪魔には成申すまじ氣遣ひ無此方に案内致す可と申さるゝ故大隅守殿には越前守殿を案内せられ老母の居間へ來らる越前守殿正榮尼に初ての對面より時候の挨拶を述次に御六か敷とも御母公へ伺ひ度儀あり此廿二三年以前に御召使ひの女中に澤の井と申者候ひしやと尋らるゝに母公答て私し共紀州表に住居致し候節召使の女も五六人宛置候が澤の井瀧津皐月と申す名は私し家の通名にて候故何の女なりしや一向に分り兼候と云越前守然らば其中にて御家に御奉公長く勤め候女中御座候やとあるに母公然ば和歌山在西家村の神職伊勢が娘の菊と申者私し方に十五年相勤候此外に長く居し者なく其菊と申すは當時伊勢の妻に成しと承まはり候と云るゝに越前守更に手懸なく然ば廿二三年跡の澤の井が證文御座候やと聞けるに正榮尼申けるは奉公人の證文は一通も御座無斯樣に計り申ては何か御不審も有べけれど紀州の國法にて男女共に主人方にては奉公人の宿は存じ申さず其譯は和歌山御城下に奉公人口入所二軒あり男の奉公人は大黒屋源左衞門世話致し女は榎本屋三藏世話にて此二軒より主人方へ證文差出し抱へ候にて主人方にては一向奉公人の宿を存申さず親元よりは口入人の方へ證文を出し候由承まはり候然ば奉公人の宿を御尋成り候には紀州表にて口入人を御調なされずは相分り申まじと云に越前守委しく承まはり左樣ならば紀州表へ參らずば相分り申まじ然らば御暇申べしと一禮述急御役宅へ立歸り公用人平石次右衞門吉田三五郎を呼出し其方兩人は是より直樣紀州表和歌山へ赴き大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を調べ澤の井が宿を尋ね天一坊の身分を糺し參べし萬一澤の井の宿榎本屋三藏方にて分り兼候はゞ和歌山在西家村の神職伊勢の娘菊と申す者加納將監方に十四五年も相勤め居候由成ば此者を呼出しなば手懸にも相成べし此旨心得置べし此度の儀は國家の一大事家の安危なるぞ急げ/\途中は金銀を吝むな喩にも黄金乏ければ交り薄しと云へり女子と小人は養ひ難しとの聖言を守るなと委細に申付られしかば次右衞門三五郎の兩人は主命畏り奉つると早速先觸を出し直樣桐棒駕籠に打乘白布にて鉢卷と腹卷をなし品川宿より道中駕籠一挺に人足廿三人を付添酒代も澤山に遣す程に急げ/\と急立ける御定法の早飛脚は江戸より京都迄二日二夜半なれども此度は大岡の家改易に成か又立かの途中なれば金銀を散財して急がせける程に百五十里の行程を二日二夜半にて紀州和歌山へ着しける此時和歌山の町奉行鈴木重兵衞出迎へ彼奉行所本町東の本陣に旅館致させけるに次右衞門三五郎の兩人は休息もせず鈴木重兵衞へ申達し大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を呼出し澤の井の宿所を尋ねしに大黒屋源左衞門は男のみ世話する故女の奉公人の儀は存じ申さずとの事なれば然ばとて榎本屋三藏に澤の井が宿所を糺けるに親三藏は近年病死致し私しは當年廿五歳なれば廿二三年跡の事は一向覺えなしと云にぞ然らば廿二三年前の奉公人の宿帳を調べしと申付るに三年以前に隣家より出火致し古帳は殘らず燒失致し候と云故少も手懸り無れば次右衞門三五郎は三藏に向ひ和歌山に西家村と云處有やと云へば是より一里許り在に候と答へけるにぞ寺社奉行へ達し西家村の神職伊勢同人妻菊同道にて東の本陣へ罷り出べき旨差紙を遣はしける神職伊勢は差紙を見て大いに驚き女房に向ひ申けるは何事にや有らん是は定めて其方和歌山加納樣方に奉公致し居候節の事なるべし御本陣へ參りて御役人より何事を尋ねらるゝ共一向覺え申さずと云ふべし憖ひに知顏なさば懸合となりて甚だ面倒なりと能々申合ければ菊女も委細承知なし少しも案じ給ふ事なかれ何事も知らずと申すべしとて夫れより夫婦支度をなし急ぎ本陣へ赴きけり
神職伊勢は女房菊同道にて東の本陣へ到り此由通じければ早速兩人を呼出さる吉田三五郎は伊勢に向ひ西家村の神職伊勢同人妻菊と申すは其方なるかと云に漣で御座ると答へける又取返して伊勢の妻菊と申すは其方なるかと尋るに只々漣で御座ると答へ一向に分り兼れば平石次右衞門心付き伊勢には舞太夫を致さるゝやと尋ねけるに御意の通り舞太夫を仕つり候と答へければ然ば妻女の名前を漣太夫と申さるゝやと聞に如何左樣に候と答ける此時次右衞門漣太夫に尋る儀あり其方事は加納將監方に數年奉公したりと聞實以て左樣なるやと尋ければ菊は一向存申さずと云に押返して將監方に奉公致たるに相違有まいなと尋るに更に存申さずと答へければ否々廿二三年跡其方奉公中傍輩に澤の井と申す女中有しと存じ居べしと尋ねけれ共一向存申さずと云に次右衞門は是は伊勢より女房に口留したるに相違なしと心付たれば懷中より小判十枚取出し紙に包みて差出し漣どの此金子は將軍樣より其方へ下さるゝ金子なれば有難く頂戴致されよとて渡し更めて申けるは當將軍樣には加納將監方にて御成長遊ばし御幼名を徳太郎君と申し其方には厚く世話になり玉ひし由依て此金子を遣はせとの上意なり又澤の井をも召出し御褒美下さるゝとの儀にて我々澤の井の宿を調べに參りし也其方存じ居ば教へ申可と和かに諭ければ菊は十兩の金を見て心打解成程考へ候へば加納將監樣の呉服の間に澤の井と申て甚だ不器量の女中御座候やに存じ候去乍宿の儀は存じ申さずと面なげに云を次右衞門は聞て然ば澤の井の宿を存じたる者は無やと尋ぬるに菊は暫く考へ成程其節小買物を致惣助と申者澤の井に頼れ手紙を持て折々宿へ參りし事有と云に其惣助と申す者は當時何方に居や申聞すべしといへば只今は御普請奉行小林軍次郎樣方に中間奉公致し居候と申にぞ然ばとて早速使を仕立御差紙を以て小林軍次郎召使惣助同道にて早々本陣へ罷り越べき旨申達せしに軍次郎は大に驚き惣助を腰繩にて召連來れば直に惣助を呼出し其方事加納將監方に奉公中澤の井と云女中に頼まれ手紙使に折々宿へ參りし由定めて澤の井の宿を存じ居べし何方に候やと尋けるに一向に覺え御座なく候と答へける吉田三五郎懷中より又金子十兩を取出し菊へ渡して此金子を其方より惣助へ遣はし澤の井の宿を尋呉よと言ければ菊は惣助に向ひ此金子は徳太郎樣より其方に下さるゝとの御事にて澤の井樣をも召出し御褒美下さるゝ筈なれ共今は宿を知たる者なしお前は頼まれて度々お宿へ參りし事あれば能々考へて御役人樣へ申上られよと聞き惣助も十兩の金子を見て肝を潰し頻りに金の欲さに樣々と考へ成程澤の井さんに頼まれて折々手紙を持參りしが其頃澤の井さんの申には糸切村の茶屋迄持て行ば宿へは直に屆くと申されしゆゑ茶屋迄は度々持參りしと云にぞ能こそ知したりとて彼十兩は惣助へ遣し然らば惣助を案内として其糸切村へ參らんと支度をなし神職夫妻には暇を遣次右衞門三五郎寺社奉行差添小林軍次郎奉行遠藤喜助同道にて夜四ツ時過より淡島道五十町一里半を揉に揉で丑滿の頃漸々にて糸切村に着し彼の茶見世を御用々々と叩き起せば此家の亭主何事にやと起出るに先惣助亭主に向ひ廿二三年跡に澤の井樣より手紙を頼まれ毎度頼み置し事有しが其手紙は何方へ屆けしやと尋ねけるに亭主答へて私し方は道端の見世故在々へ頼まれる手紙は日々二三十本程も有ば一々に覺え申さず殊に二十二三年跡の事なれば猶更存じ申さずと答へけるにいよ/\澤の井の宿所の手懸なく是に依て次右衞門三五郎の兩人は色を失なひ斯迄千辛萬苦して調ぶるも手懸りを得ず此上は是非に及ばじ此旨江戸へ申送り我等は紀州にて自殺致より外なしと覺悟を極めしが三五郎フト心付き懷中より又金十兩取出し亭主に向ひ其方澤の井の手紙を頼まれ宿へ參らず共村名位は覺の有さうな物なり今十兩遣はす程に能々考へて思ひ出せと申にぞ亭主は金を見て思ひも寄ず十兩に有付事と兩手を組で樣々と思案をし稍暫く有て思出しけん申樣澤の井殿の宿の村名は私しの弟の名の字を上へ付候樣に覺え申候と云に其方の弟の名を何と申すやと尋ぬるに弟は平五郎と申し候と答へけるに郡奉行へ談じ急ぎ平の字の付たる村々を調べさせけるに十三ヶ村有れば是を始より一々亭主へ讀聞すに平澤村と云に到りて亭主礑と手を拍其村で御座候といふに然らば是より平澤村へ立越んと爰にて大勢支度をし先平澤村へ先觸を出し其跡より百五十人餘の同勢にて平澤村指て急ける扨此平澤村と云は高二十八石家數僅二十二軒にて困窮の村なり澤の井の事に付ては是迄度々尋ね有しか共懸り合を恐村中相談なし何時も知ぬ旨趣を申立通したりとか然ば平澤村には先觸來れば又例の澤の井の調べなるべし是迄の通り村中少しも存じ申さずと言放し懸り合に成ぬ樣に致事第一なりと申合せ役人の來るを待しに此度は是迄とは變り凡百五十人餘りの大勢にて名主甚兵衞方へ着し直に村中へ觸を出して十五歳以上の男子を殘らず呼集め次右衞門三五郎正座に直り座傍には寺社奉行并びに遠藤喜助小林軍次郎等列座にて一人々々に呼出し澤の井の宿を吟味に及ぶも名主を始め村中殘ず存じ申さずとの答へなれば少しも手懸りはなきに次右衞門の思ふ樣是は村中申合せ掛り合を恐れて斯樣に申立るならんと席を改ため威儀を正して申けるは是名主甚兵衞其外の百姓共能承たまはれ將軍の上意なれば輕からざる事なり然るに當村中一同に申合せ知ぬ/\と強情を申募るに於ては是非に及ばず此大勢にて半年又は一年懸りても澤の井の出所を調ねばならぬぞ左樣に心得よと威猛高になりて威すにぞ村中の者肝を潰し此大勢にて十日も逗留されては村中の惣潰れと成るべし如何はせんと十方に呉誰有て一言半句を出す者なし此時末座より一人の老人進み出で憚りながら御役人樣方へ申上ます私しは當村の草分百姓にて善兵衞と申す者なるが當時此村は高廿八石にて百姓二十二軒ある甚だ困窮の村方なれば斯御大勢長く御逗留有ては必死と難澁に及ぶべし澤の井の一條さへ相分り申せば早速當村を御引取下され候やと恐る/\申すにぞ次右衞門答へて澤の井の一條さへ相分り候へば何故に逗留すべき直我々は出立致すなり其方存じ居るやと尋ねければ善兵衞は然ばにて候澤の井が身の上は村中に覺え居候者は有間敷只だ私し一人委細心得罷り在候間申上可當村の名主甚兵衞と申は至つて世話好にて先年信州者にて夫婦に娘一人を連同行三人にて千ヶ寺參り旁々當地へ參りしを彼甚兵衞世話致し自分の隱居所を貸遣はし世話致し候ひしに兩三年過右當人平右衞門死去致し跡には女房お三と申婆と娘の兩人に相成しがお三婆は産の取揚を家業とし娘を育てしが追々成長するに隨ひ針仕事を教へ居し内年頃にて相成候へば何處ぞへ奉公に出し度由お三婆より私へ頼みに付私し右娘を同道致し城下へ參り榎本屋三藏に頼み加納將監樣へ御針奉公に出し遣し候に其後病氣なりとて宿へ下り母の許に居候が何者の胤なるか懷姙致し居候故村中取り/″\噂を致し候に翌年三月安産せしが其夜の中に小兒は相果娘も血氣上りて是も其夜の曉に死去致し候に付き近邊の者共寄集り相談するも遠國者故菩提所も無依て私しの寺へ頼み葬むり遣し候其後お三婆は狂氣致し若君樣を失なひて殘念なりと罵詈狂ひ歩行候ゆゑ甚兵衞も迷惑に存じ隱居所を追出せしにお三婆は宿なしと相なりしを隣村の名主甚左衞門といふ者當村の名主甚兵衞が弟にて慈悲深人にて是を憐み何時迄狂氣でも有まじ其内には正氣に成るべしとて連歸り是も隱居所へ入置遣はせしに追々正氣に相成ければ又々以前の如く産婦の取揚を致し候が十年程以前病死致し候由に御座候是にて澤の井の一條は御得心に相成候やと云に次右衞門三五郎は是を聞何にも概略は相分りたり其若君と澤の井を葬ぶりし寺は當村なりやと尋ぬるに向ふに見え候山の麓にて宗旨は一向宗光照寺と申し候と聞て然らば其節の住持は未だ存命致し居やと有に參候其節の住持祐然と申すは未だ壯健に候と答へける吉田三五郎然ば光照寺住持祐然を爰へ呼參る可との事なれば早速村の小使を走せ江戸表より御着の役人方より御用の由早々名主宅迄御出なさるべしと云すれば祐然は聞て驚き何事やらんと支度なし急ぎ甚兵衞方へ赴きけり
光照寺祐然は江戸表より御役人到着にて召呼るゝと聞き何事やらんと驚きながら役人の前へ出ければ次右衞門三五郎の兩人祐然に對ひ廿二三年以前當村に住居致し候お三が娘澤の井并に若君とかを其方寺へ葬りし趣きなるが右は當時無縁なるか又は印の石塔にても建ありやと尋けるに此祐然素より頓智才辨の者故參候若君澤の井の石塔は御座候も香花を手向候者一人も是なし併し拙僧宗旨の儀は親鸞上人よりの申傳にて無縁に相成候塚へは命日忌日には自坊より香花を手向佛前に於て回向仕つり候なりと元より墓標も無を取繕ひ申にぞ次右衞門三五郎口を揃へて然らば其石塔へ參詣致し度貴僧には先へ歸られ其用意をなし置給へと云に祐然畏まり候と急ぎ立歸りて無縁の五輪の塔を二ツ取出し程能所へ据置左右へは新らしき樒の花を香爐臺に香を薫し前には莚を敷て今や/\と相待ける所へ三五郎次右衞門寺社奉行郡奉行同道にて來りしかば祐然は出迎へ直に墓所へ案内するに此時三五郎は我々は野服なれば御燒香を致すは恐あり貴僧代香を頼み入と云に祐然則ち承たまはり代香をなし夫より皆々本堂へ來り過去帳を取出させ委細を調べける
寶永二酉年[#「寶永二酉年」はママ]三月十五日寂 釋妙幸信女 施主 三
寶永二酉年[#「寶永二酉年」はママ]三月十五日寂 釋春泡童子 同人
右の如くに記し有しかば住持祐然に書寫させ其奧へ右之通り相違御座なく候に付即ち調印仕り候以上月日寺社奉行何某殿と奧書を認めさせ次右衞門是を受取ば三五郎懷中より金二十兩を取出し祐然に與へ是は輕少ながら我々より當座の回向料なり尚又江戸表へ立歸らば宜く披露致し御沙汰有之候樣取計ひ申すべしと挨拶に及び夫より祐然に暇を告げ光照寺をば立出ける是にて平澤村の方は調べ埓明しかば直樣隣村平野村へ立越名主甚左衞門方へ落付村中殘らず呼集次右衞門三五郎の兩人は名主甚左衞門に向ひ其方に尋ねたき仔細あり今より廿二三年以前に平澤村のお三と申す婆當村へ參りしと承まはるが其者は未だ存命なるやまた何方へか參りしやと尋けるに甚左衞門仰の通り慥に寶永二酉年[#「寶永二酉年」はママ]三月頃と覺え候が右お三儀は其娘澤の井と申者相果候より狂氣なし平澤村を追出され所々を流浪致し居不便に存候故途中より連歸り私し明家へ住居させ候に追々狂氣も治り正氣に立歸り以前の如く渡世致し居候内享保元申年十一月廿八日かと覺え候が其日は大雪にて人通りも稀なるにお三には酒に醉ひ圍爐裏へ轉び落相果申候と聞て次右衞門三五郎は役柄なれば早くも心付其死骸を見付し者は何者なるやと尋けるに甚左衞門彼の死骸を最初に見出し候者は私し悴甚之助に御座候其仔細は同日の夕刻雪も降止候に何となく怪き臭致せば近所の者共表へ出で穿鑿致し候に何時何事にても人先に出て世話致し候お三婆のみ一人相見え申さざれば私し悴甚之助不審に存じ渠が家の戸を明初て見出し申候と云に次右衞門は悴甚之助は其頃何歳なりしやと尋るに然ばに候悴儀は寶永元年の生れにて十三歳の時に御座候と答へけるに然らば其甚之助は只今以て存命なるやと尋ねるに甚左衞門參候親の口より我子を譽候は恐入候へ共幼年より發明なれば末頼母敷存居しに生長に隨ひ惡事を好み親の目に餘り候事度々なれば十八歳の時御帳に附勘當仕つり候其後一向に行衞相知申さず村の者共渠が噂を申し甚之助には能方へ赴けば鎗一筋の主共成るべきが惡方へ趣けば馬の上にて鎗を跡へ持せる身に成るべしと專ら取沙汰致候程の者なれども親の心には折々思出し不便に存じ候と涙ながらに申立しにそ此時次右衞門三五郎は顏を見合せ互に心中は今江戸表八山に居る天一坊は多分此甚之助に相違あるまじくと思ひしが然あらぬ體にて其方の悴甚之助は生れ付體面如何有しやと尋ぬるに甚左衞門私し悴は疱瘡重く候故其痕面體に殘り甚だ醜く候と云に扨は人違ならんと又問けるは其方の悴に同年か又一二年違の男子が當村に居しやと尋ぬるに甚左衞門は即ち人別帳を調べ寶澤と申す者有しが夫は盜賊に殺されしと云に其仔細は如何にと尋ぬれば甚左衞門は答へて右寶澤と申すは九州浪人原田何某の悴にて幼年の頃兩親に別れ夫より修驗者感應院の弟子と成りしが十三歳の暮感應院には横死いたし候に付右寶澤へ跡を繼候樣村中相談の上申聞候に渠は幼年ながら發明にて我々へ申候には山伏は艱行苦行する者にて幼年の私し未だ右等の修行も致さず候へば暫く他國致し苦行を修め候上立戻り師匠の跡を繼申度と強て申聞候故村中より餞別に取集め遣はし候金子八兩二分を所持致し出立せしが右金子を所持せし故にや加田の浦にて切害され死骸は海中へ入申候しか相見え申さず此浦には鰐鮫住候故大方は鮫の餌食と相成候事と存られ候衣類并に笠は血に染り濱邊に打上是有候故濱奉行へ御屆に相成候且村中不便に存じ師匠感應院の墓の側へ塚標を相立懇篤に弔ひ遣し候と云に兩士は是を聞より其寶澤の身の上こそ不審なりと思ひ其寶澤と云は常々お三婆の所へ往復致せしかと尋るに如何にも寶澤は常にお三婆の所へ參り既に相果候跡にて承はり候へば其日寶澤は師匠より酒肴を貰持參せし由其酒にて醉伏相果候事と存じられ候と聞より彌々不審思ひ次右衞門申樣右寶澤の顏立下唇に小き黒痣一ツ又左の耳の下に大なる黒痣有しやと聞に如何にも有候と答るにぞ然ば天一坊は其寶澤に相違なしと兩士は郡奉行遠藤喜助に對ひ其寶澤の衣類等御座候はゞ證據にも相成るべく存じ候へば申受度と云に喜助申樣夫は先年某濱奉行勤役中にて笈摺笠衣類は缺所藏の二階の隅へ上置候へば當時の濱奉行淺山權九郎へ申談じ差上申べしと其旨濱奉行へ申達し右の品々を取寄兩人の前に差出せば次右衞門三五郎は改めて見に笠衣類笈摺等一々疵付有共其疵口の不審さに流石は公儀の役人是は盜賊の所爲ならず寶澤人に殺されし體に自身に疵付し者ならんと血に染たる所を見れば年限隔りて黒染みの[#「黒染みの」はママ]樣なれば人間の血の染たるとは大に異なりしかば寶澤こそ天一坊に相違なしと三五郎は名主甚左衞門に向ひ山伏感應院の死去せしは病氣なりしやと尋ねけるに甚左衞門病氣は食滯と承はり候と云然らば其時は醫師に見せ候やと聞に參候當村に清兵衞と申す醫師有て夫に見せ候と答ふ然らば其醫師を是へ呼べしとの事に早速人を走らせ清兵衞を呼寄ける三五郎清兵衞に向ひ其方醫道は確と心得ありやと尋けるに少しは心得罷居候と云に又押返して確と醫道を心得居るやといふに今度は確と心得候と答へける然らば感應院病死の節は其方病症をば慥に見留たるやと申すに清兵衞答て感應院の病症は大食滯に候去ながら私し事は病症見屆けの醫には候はず病氣を治す醫師なれば食滯と申し其座を立退候病症見屆の醫師に候はゞ大食滯を申立其場は立去申まじと答ければ感應院の死去は全く毒殺と社知られけり抑々此清兵衞と云は元紀伊大納言光貞卿御意に入の醫師にて高橋意伯とて博學の者なりしが光貞卿の御愛妾お作の方といふに密通なし大納言殿の御眼に觸れ其方深山幽谷に住居すべし家督は悴へ申付捨扶持として五人扶持を遣はすとの御意にて暇になり又た作の方も直に永の暇となり意伯と夫婦に成べしとの御意にて是も五人扶持下し置れしかば意伯はお作の方と熊野の山奧に蟄居し十七年目にて御目通りなし又増扶持として五人扶持下し置れ都合十五人扶持にて平野村に住居し名を清兵衞と改めしなり斯る醫道に精き人なれば今此返答には及しなり然ば天一坊は寶澤に相違なしと郡奉行の荷物を持來し善助と云ふ者元感應院に數年奉公せし故能存じ居ると云を郡奉行へ相談の上見知人の爲江戸表へ連行事と定めけれど老人なれば途中覺束なしと甚左衞門をも見知人に出府致す樣申渡し直に先觸を出し東海道は廻遠し難所にても山越に御下向有べしとて勢州田丸街道へ先觸を出し桐棒駕籠[#「桐棒駕籠」は底本では「桐棒籠駕」]二挺には次右衞門三五郎打乘宿駕籠[#「宿駕籠」は底本では「宿籠駕」]二挺には見知人甚左衞門善助の兩人打乘笈摺衣類の證據に成べき品々は駕籠の上に付紀州和歌山を出立なし田丸越をぞ急ぎける寶永二酉年[#「寶永二酉年」はママ]三月十五日寂 釋春泡童子 同人
此時江戸表には八代將軍吉宗公近習を召れ上意には奉行越前守は未だ病氣全快は致さぬか芝八山に居る天一坊は如何せしやと發と御溜息を吐せ給ひながら是は内々なり必ず沙汰す可らずと仰られたるが斯吉宗公が溜息を吐せ給ふは抑々天一坊の身の上を思し召ての事なり世の親の子を思ふ事貴賤上下の差別はなきものにて俚諺にも燒野の雉子夜の鶴といひて鳥類さへ親子の恩愛には變なし忝なくも將軍家には天一坊は實の御愛息と思召ばこそ斯御心を惱せられし成るべし此は容易ならざる事成と御側御用御取次より御老中筆頭松平伊豆守殿へ此由を申達せらるゝに伊豆守殿も捨置れずと御評議の上小石川御館へ此段申上られける此時中納言綱條卿思召るゝ樣奉行越前病氣屆致せしは自ら紀州表へ取調に參し者か但は家來を遣はしたるか何にも今暫らく日數も掛べし然ながら捨置がたしと伊豆守殿へ仰けるは越前守役宅へ上意の趣き申遣はすべしとの事なれば早速伊豆守殿より使者を以て越前守方へ此度將軍の上意に越前守には未だ病氣全快致さぬか芝八山に居る天一坊は如何せしやとの御事なれば明朝は早速に登城致し御返答申上らるゝか今宵の内に御役御免を願ふか兩樣の内何共決心致さるべしとの趣きを申遣はしたるに此方は越前守は公用人次右衞門三五郎の紀州表へ出立せし其日より夜終行衣を着し新菰の上にて水垢離を取諸天善神に祈誓を懸用人無事に紀州表の取調べ行屆候樣丹誠を凝し晝は一間に閉籠りて佛菩薩を祈念し別しては紀州の豐川稻荷大明神を遙拜し晝夜の信心少しも餘念なかりしに斯る處へ伊豆守殿より使者を受け口上の趣きを聞き茫然と天を仰ぎて歎息なし指屈て數ればハヤ兩人出立なしてより今日は七日目なり行路三日歸り路三日紀州表の調べ早して三日なり然ば九日ならでは歸り難し然るを今宵の中に御役御免を願ば今宵か明日は御親子御對顏あるに相違なし然すれば是迄盡せし千辛萬苦も水の泡となり諸天善神へ祈誓を懸し甲斐もなく嗚呼是非もなし明朝六ツの時計を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、107-15]に悴忠右衞門を刺殺し我自ら含状を致して切腹なすべし然らば當年の内はよも御對顏は有まじく其内には紀州へ遣はせし兩人も調べ行屆て歸るべし斯れば我果しとて後忠義の程顯るべしと覺悟を定め當年十一歳なる悴忠右衞門を呼出し委細に言含め又家中一同を呼出して今宵は通夜を致し明朝六ツの時計を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、107-18]に予は切腹致すなりと申渡されけるに家中の面々大に驚き今宵こそは殿樣への御暇乞なりとて不覺に涙を流し各々座敷へ相詰ける越前守は家中一同を屹度[#「屹度」は底本では「吃度」]見て池田大助を側近く呼て申樣汝に遺言する事あり明朝は忠右衞門も予と共に切腹致せば予がなき跡は三日を待ず其方并びに次右衞門三五郎は當御役宅へ奉公すべし必らず忠臣二君に仕へずとの聖言を守るなよ此三人は予が眼鏡に止りし者なれば屹度御役に立者なり必ず/\此一言を忘るゝな次右衞門三五郎等歸府なさば此遺言を申し聞すべしと言又家中一同の者へ其方共予がなき跡は三日を待ず夫々へ奉公すべし兩刀を帶する者は皆々天子の家來なるぞ必ず忠臣二君に仕へずとの言葉を用ゆるな浪人を致して居て越前の行末かと後指を指るゝな立派な出世致すべし斯てこそ予に對し忠義なるぞと申聞られ一人々々に盃盞を下され夫より夜の明るを待ける此時越前守の奧方には奧御用人を以て明朝君には御切腹悴忠右衞門も自害致し死出三途の露拂ひ仕つるとの事武士の妻が御切腹の事兼て覺悟には御座候へども君に御別れ申其上愛子に先立れ何を樂みに此世に存命べきや何卒妾しへも自害仰付られ度と願はれければ越前守是を聞道理の願なり許し遣はす座隔たれば遲速あり親子三人一間に於て切腹すべければ此所へ參れとの御言葉に用人は畏こまり此旨奧方へ申上げれば奧方には早速白裝束に改められ此方の一間へ來り給ひ涙も溢さず良人の傍に座て三人時刻を待は風前の燈火の如く哀れ墓無有樣なり皆々は目を數瞬き念佛を唱へ夜の明るを怨に長き夜も早晩更行き早明六ツに間も有じとて切腹の用意に掛らるゝに明六ツの時計鳴渡れば越前守は奧方に向ひ悴忠右衞門切腹致さば其方介錯致せ其方自害せば予が直に介錯すべし予が切腹せば介錯には大助致すべしと言付て又忠右衞門に向ひ最早時刻なるぞ後れを取なと言るゝに忠右衞門殊勝にも然らば父上御免を蒙り御先へ切腹仕つり黄泉の露拂ひ致さんと潔よくも短刀を兩手に持左の脇腹へ既に突立んとする折柄廊下をばた/\と馳來人音に越前守悴暫しと押止め何者なるやと尋ぬれば紀州よりの先觸と呼はりける越前守是を聞き先觸を此處へと申にぞ其儘に差出せば急ぎ封押開見て是は三五郎の手跡なり此文體にては紀州表の調方行屆たりと相見え勇たる文段なり然ながら兩人の着は是非晝過ならん夫迄は猶豫成難し餘念ながら是非に及ばず悴忠右衞門後を取な早々用意を致せと云言葉に隨て然ば御先へと又短刀を持直しあはや只今突立んとする時亦々廊下に物音凄じく聞えければ越前守何事やらん今暫くと忠右衞門を止めて待るゝに次右衞門三五郎の兩士亂髮の上を白布にて卷野服の儘にて刀を杖に越前守殿の前に駈來り立乍ら大音上天一坊は贋者にて山伏感應院の弟子寶澤と云者なり若君には寶永二酉年[#「寶永二酉年」はママ]三月十五日御早世に相違なし委細は是に候とて書留の控へ差出し兩人は撥と平伏なし私共天一坊贋者の儀を早々申上御安堵させ奉つらんと一※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、109-5]に存じ込君臣の禮を失ひ候段恐入奉つり候依て兩人は是より差控仕つる可と座を退かんとするを越前守大音上次右衞門三五郎暫待と呼止れども兩士は強て退座せんとするに兩人參らずんば越前守直に夫へ出向ぞと言に兩人は是非なく立戻り越前守が前に出て平伏す是時越前守には次右衞門三五郎の手を取られ兩人の丹精忝けなく思ふなり予が家來とは思はぬぞや迚夫より伊豆守殿より使者に預り捨置難ければ親子三人覺悟なし只今既に忠右衞門切腹するの所ろ兩人の歸着こそ神佛の加護とはいへ全たく誠忠の致す所なりと物語られ悴忠右衞門一代は兩人をば伯父々々と呼べしと言ければ兩人は有難涙に暮厚く御禮申上召連し見知人甚左衞門善助は名主部屋へ入置休息致させける是に依て越前守には池田大助に命じ全快屆の書面を認めさせ公儀へこそは差出されける
扨も越前守には紀州より兩臣歸着にて逐一穿鑿行屆たれば直樣沐浴なし登城の觸出し有て御供揃に及び御役宅を出で松平伊豆守殿御役屋敷を指て急がせられ既に伊豆守殿御屋敷御玄關へ懸て奉行越前守伊豆守殿へ御内々御目通り致度と申入るに取次の者此趣きを申上ければ伊豆守殿不審に思はれ奉行越前は昨夜の内に御役御免を願ふ筈なるに今日全快屆[#ルビの「ぜんくわいとゞけ」は底本では「せんくわいとゞけ」]を出し予に内々逢たしとは何事ならんと早速對面ありしに越前守申さるゝには少々御密談申上度儀候へば御人拂ひ願ひたしとの事故公用人一人殘し餘は皆退けらる越前守は再び公用人をも御退け下さるべしと言るゝに伊豆守殿顏色を變是れ越前其方は役柄をも相勤候へば斯程の事は辨へ居るべし老中の公用人は目付代りなり役屋敷に於て密談致す事は元より御法度なりと申さるゝを越前守[#ルビの「ゑちぜんのかみ」は底本では「ゑつぜんのかみ」]少しも臆せず左樣に候はゞ是非に及ばず天一坊儀に付少々御密談申上度存じ態々推參仕つり候御聞屆無に於ては致し方なし然れば御暇仕つらんと立懸るに伊豆守殿天一坊の事と聞て何事やらんと心懸りなれば言葉を和らげられ越前天一坊儀と有ば伊豆守も承はらねばならぬ事也とて頓て公用人をも退けられ今は全く二人差向ひに成れける此時越前守申さるゝ樣は私し先達てより天一坊の身分再吟味の役を蒙り候處病氣に付御屆申上引籠り罷在其内に家來を以て紀州表へ調方に遣はし候ひしが今朝漸く歸府仕つり逐一相糺し候處當時八山に旅宿致し居天一坊といふは元九州浪人原田嘉傳次と申者の悴にて幼名を玉之助といひ幼年にて父母に別れ紀州名草郡平野村の山伏感應院の弟子となり名を寶澤と改め十二歳の時お三婆を縊殺し御墨附短刀を奪ひ取十三歳にして師匠感應院を毒殺し十四歳の時村中を僞り諸國修行と號し平野村を立出其夜加田の浦にて盜賊に殺されし體に拵へ夫より同類を語らひて將軍の落胤なりと名乘出候に相違有間敷候此度見知人も是有彼地より兩人同道にて連參候なりと委敷申述けるに伊豆守殿斯と聞て仰天し暫々言葉も無りしが稍有て仰けるは越前は能も心付たり定めて御褒美として五萬石は御加増有べし夫に引替此伊豆守は半知と成て御役御免に相成可しと悄々として言ければ越前守打點頭私し儀御加増を望立身を心懸候心底には候はず左樣の存じ寄あらば何とて今日御役宅へ御密談に參り可申や配下の身として御重役の不首尾を悦ぶ所謂なし只今申上候御密談と申は外の儀に候はず伊豆守殿には拙者より先へ御登城なされ將軍家へ天一坊儀は重役共より先達て身分相調べ候處全く將軍の御子樣に相違なく存じ奉つり此段言上仕り候へ共退いて能々勘考仕つり候へば不審の廉々も御座候故奉行越前心付し體に仕り内々吟味致させ候に天一坊儀は全く贋者にて山伏感應院の弟子寶澤と申す賣僧に御座候と仰上られなば伊豆守殿の御落度にも相成まじ又私しよりも伊豆守殿の御心付にて御内密仰含められ候に依て内々にて吟味仕り候處贋者に紛れ御座なく候と言上仕り候らはゞ双方の言葉符合致すべしと云に伊豆守殿には聞て大に悦び給ひ然らば越前其方が申通り伊豆守より言上致すべし其方も相違なく左樣に言上致され候や其節に及び双方の申立相違致ては伊豆守が身分にも相懸候儀なれば能々承知有たし只今の口上に異變なきやと再應仰らるゝにぞ越前守顏を正し私しより申上候儀なれば毛頭相違は御座なく候と答へらるゝに然らば越前同道にて登城可致と御供觸を出され御同道にて御登城に及ばれ伊豆守殿には御用御取次を召て仰けるは伊豆守越前守倶に言上の儀有之候に付御目見得下し置れ候樣御取次有べしとの事なれば御用御取次は此段早速言上に及ばれける將軍家にも奉行越前病氣全快と聞し召れ御悦氣にて早速召出され御目見仰付らる此時伊豆守殿には天一坊儀上樣の御落胤に相違なしと存じ奉つり先達て此段上聞に達し候へ共退きて倩々考へ候へば聊か不審の事も御座候故御證據は慥の御品ながら當人は若紛らはしき者にやと心付候へ共重役共一同申上候儀を變じ候も如何と存じ奉つり越前へ内意仕つり同人心付候由にて吟味致させ申候處果して天一坊儀は贋者に相違御座なく候と委敷言上に及ばれければ將軍には能々聞し召れ越前守に向はせ給ひ予は全く越前が心付しと存ぜしが實は伊豆が心付て内意有たるに相違なきや越前如何ぢやとの上意に越前守發と平伏なし只今伊豆守より言上仕り候通り毛頭相違御座なく候委細は此書面に認めしとて書付を出さるれば御用御取次是を受取將軍家へ差上る御直に御覽あるに當時天一坊と名乘候者は元九州浪人原田嘉傳次の悴にて幼名玉之助と呼幼年にて兩親に別れ平野村の山伏感應院の弟子となり寶澤と改名し十二歳にしてお三婆を縊殺御墨附御短刀を奪ひ取十三歳にて師匠を毒殺し十四歳の春紀州加田の浦にて盜賊に殺されし體に取拵へ夫より所々を徘徊なし同類を語らひ此度將軍家の御落胤と名乘出候に相違御座無確と記し有を御覽遊ばし殊の外御顏色變らせ給ひ憎き坊主めが擧動なり[#「擧動なり」は底本では「振動なり」]仕置の儀は越前が心に任すべし此段兩人同道にて水戸家へ參り左樣に申べしとの上意に直樣伊豆守殿越前守同道にて小石川の御館さして急行ける小石川にては綱條卿今朝奉行越前病氣全快屆けを出せし由定めて屋形へも越前參るべしと思召遠見を出すべしとの御意にて則ち遠見の者を出されけるに此者下馬先にて越前守伊豆守殿と同道にて小石川御屋形の方を指て來るを見るより急ぎ馳歸りて只今松平伊豆守殿大岡越前守御同道にて御館を指て參られ候なりと申上るに中納言綱條卿斯と御聞とり遊し伊豆守同道とは何事ならんと御待有けるに間もなく兩人御館へ參られ伊豆守越前守同道參上仕り御目見を願ひ奉つると取次を以て申上るに中納言綱條卿は如何思召けん伊豆守は控させよ越前守ばかり書院へ通せとの御意にて越前守を御廣書院へ通し伊豆守殿をば使者の間へ控へさせられたり間もなく綱條卿には御廣書院へ入らせられ越前守に御目見仰付らる此時越前守少しく頭を上申上らるゝ樣は先達て私し心付候由にて天一坊身分再吟味の儀願ひ奉つり則ち御免を蒙り候へ共是は私しの心付には御座なく全く伊豆守心付なり然共先達て將軍の御落胤に相違なしと上聞に達し其後の心付なりとて一旦重役共申出し儀を相違仕つり候ては御役儀も輕く相成候故私しの内意仕つり候に付私再吟味御免を蒙り其後病氣と披露仕つり引籠り中家來を以て紀州表相調べ候に天一坊儀は贋者に相違是なく委細は此書面に御座候と差上らるゝに綱條卿是を御手に取せ玉ひ御覽有るに全くの若君には寶永三酉年[#「寶永三酉年」はママ]三月十五日御誕生にて直御早世澤の井も其明方に同じく相果平澤村光照寺へ葬り右法名共に寫し有て且天一坊は原田嘉傳次が子にして幼名を玉之助といひ七歳にて兩親に捨られ山伏感應院の弟子となり十二歳の時お三婆を縊殺し十三歳の冬師匠感應院を毒殺し十四歳の年諸國修行と僞り加田の浦にて盜賊に殺されたる體にし夫より諸國を經廻り同類を語らひ今般將軍の御落胤なりと名乘出候に相違御座なく候と認めたれば扨々憎き惡僧なり如何に越前此調は伊豆守の内意を受て紀州表を吟味致したりと申せ共全くは左樣には非ざるべし其方が心付しに相違有まいな其方重役の身を思ひ功を他に讓る心なるべし予が眼力によも相違は有るまじと再三仰らるゝに越前守恐れながら言葉を返へし奉つるに似候へ共私存じ仕候樣に申上しは僞言にて實は伊豆守よりの内意を受候に相違御座なく候と申上げるに綱條卿の御意に越前予に對して詞を返へし候段は忘れて遣すとの御意なりしか
此時中納言綱條卿の御意には伊豆守を是へ呼出すべしとの事なれば伊豆守殿には案内に連て恐々出來り平伏ある中納言綱條卿には芝八山に旅宿致居る天一坊の身分調方伊豆其方が心付にて内意致し奉行越前が心附し體に計ひ再吟味を願ひ紀州表を相調べ穿鑿方行屆候由只今越前より左樣に申せしが伊豆が内意致せしに相違なきやとの御意なれば伊豆守殿には恐入越前より言上仕り候通り相違御座なく候と申上げれば綱條卿には伊豆守は能配下を持て仕合者なりとの仰せに伊豆守殿は胸中を見透され針の莚に坐する如く冷汗流して控へらる此時綱條卿には越前天一坊の仕置の儀は其方が勝手に致べし予が免ぞ越前は小身者なれば天一坊召捕方の手當等はむづかしからん伊豆其方より萬端助力致遣はし早々其用意を致べしとて御暇を下し置かる是に依て伊豆守殿には發と息を吐漸く蘇生したる心地して退出なし役宅へこそ歸られける扨越前守は跡へ殘り御懇意の御言葉を蒙り御暇を給はり面目を施して勇進んで御役宅へ歸り早速公用人二人を呼出し次右衞門に言付けるは其方是より芝八山へ參り明る巳の刻越前役宅へ天一坊參候樣申聞べし必ず悟られるなと心付られ又三五郎を呼て其方は天一坊召捕方手配を致べしと仰付られ池田大助には天一坊召取方を申付らる是に依て三五郎は以前の如く江戸出口十三ヶ所へ人數を配り先品川新宿板橋千住の大出口四ヶ所へは人數千人宛固させ其外九ヶ所の出口へは人數五百人宛を守らせ沖の方は船手へ申付深川新地より品川沖迄御船手にて[#「御船手にて」は底本では「御船手には」]取切御備の御船は沖中へ押出し其外鯨船數艘を用意し嚴重に社備ける然ば次右衞門は桐棒の駕籠に打乘若徒兩人長柄[#ルビの「ながえ」は底本では「なかえ」]草履取を召連數寄屋橋御門内御役宅を出芝八山を指て急ぎ行しが道々思案するには先達て赤川大膳を名指にせしが此度も又大膳[#ルビの「だいぜん」は底本では「だいせん」]に對面なさんか否々若し山内伊賀亮が側より聞て悟らば一大事なり然ば此度は伊賀亮を名指にて渠に對面して欺き課せん者をと工夫を凝し頓て八山の旅館に到り案内を乞ふに中村市之丞取次として出來れば次右衞門申やう町奉行大岡越前守使者平石次右衞門天一坊樣御重役山内伊賀亮樣に御目通り致し申上度儀御座候此段御取次下さるべしと有に市之丞此旨伊賀亮へ申通じけるに伊賀亮熟々思案するに奉行越前病氣と披露し自分に紀州表へ調べに參りしに相違なし然ば往三日半歸り三日半調べに三日懸るべし越前病氣引籠りより[#「病氣引籠りより」は底本では「病氣引籠より」]今日は丁度八日目なり十日過ての使者なれば彌々役宅へ呼寄て召捕工風なるべけれど四五日早く使者の來る處を見れば謀事成就せしと相見えたり迚次右衞門を使者の間へ通し頓て伊賀亮對面に及びたる此時次右衞門申けるは越前先日以來病氣に候處少しく快き方にて御座候故今日押て出勤致し候一體越前守參り以て申上べきの處なれど未だ聢と全快も仕つらず候故私しを以て此段申上奉り候明日は吉日に付御親子御對顏の御規式を御取計ひ仕り候尤も重役伊豆守越前役宅迄參られ天一坊樣へ御元服を奉り夫より御登城の御案内には伊豆守は勿論西の御丸へ直らせられ候節は酒井左衞門尉より御鎗一筋獻上仕り候事吉例に候へ共左衞門尉は在國出羽鶴が岡に罷り在候に付名代として伊豆守より猿毛の御鎗一筋獻上仕り候上樣よりは御祝儀として御先箱一ツ御打物一ト振右は雨天に候節は御紋唐草の蒔繪の柄晴天に候へば青貝柄の打物に候大手迄は御譜代在江戸の大名方出迎へ御中尺迄は尾州紀州水戸の御三方の御出迎にて御玄關より御通り遊ばし御白書院に於て公方樣御對顏夫より御黒書院に於て御臺樣御對顏再び西湖の間に於て御三方樣御盃事あり夫より西の丸へ入せられ候御事にて御高の儀は吉例四國なれば上野國にて廿萬石下總國にて十萬石甲斐三河で廿萬石都合五十萬石上野國佐位郡厩橋の城主格[#ルビの「じやうしゆかく」は底本では「じやうしゆかくた」]に御座候と辯舌爽に申述猶申殘しの儀は明日成せられ候節越前直々に言上仕つり候と申演終れば伊賀亮是を聞て扨は事成就せりと心中に悦びける是餘人成ば城中の事委くは知ざれば疑しく思べけれ共伊賀亮は城中の事を能心得居る故今次右衞門のいふ處一々理に當れば偵の伊賀亮も心を弛し此計略には乘られたるなり扨伊賀亮は奧へ來り皆々に此趣を申聞せ伊賀亮所持の金作の刀を持出て次右衞門に向ひ越前守より申越れし段上樣へ申上候處御滿足に思召し明日巳の刻に越前役宅へ參るべしとの上意なり是は余が所持の品如何敷候へども其方へ遣はすとて一刀を差出せば次右衞門は此刀を申請厚く禮を述暇を告て門前迄出先々仕濟したりと發と一息吐て飛が如くに役宅へ歸り此趣きを越前守へ申上彌々召捕手筈をなしにける斯て八山には皆々打寄實に明日こそ御親子御對顏に相成に付最早事成就せりと次右衞門が計略に乘りしとは知らず大いに悦び斯樣なる悦しき事は一夜を待明すなりとて伊賀亮が計ひとして金春太夫觀世太夫を呼で能舞臺に於て御悦びの御能を催しける然るに其夜亥の刻とも覺敷頃風もなくして燭臺の燈火ふツと消えければ伊賀亮不審に思ひ天文臺へ登りて四邊[#「四邊」は底本では「四邊」]を見渡すに總て海邊は數百艘の船にて取圍み篝を焚品川灣を初め江戸の出口十三ヶ所へ人數を配固めたる有樣なれば伊賀亮驚き最早事露顯せしと見たり今は是非に及ばず名も無者に召捕るゝは末代迄の恥辱なり名奉行と呼るゝ越前守が手に掛らば本望なり大坂御城代京都諸司代御老中迄も欺きし上は思殘す事更になしと自分の部屋へ來りて鏡を取出し見れば最早顏に劔難の相顯れたれば然ば明日は病氣と僞り供を除き捕手の向はぬ内に切腹すべしと覺悟を極め大膳の許へ使を立伊賀亮事俄に癪氣差起り明日の所全快覺束なく候間萬端宜敷御頼み申也と云送り部屋へ引籠り居たりける扨其夜も明辰の上刻と成ば天一坊には八山を立出で行列