あらすじ
宮沢賢治の「台川」は、生徒たちを連れて、釜淵へと向かう教師の姿を描いた作品です。教師は道中、生徒たちに地質や植物について解説をしながらも、彼らの反応は薄く、教師は寂しさを感じます。しかし、教師は生徒たちの無関心にめげずに、熱心に教え続け、生徒たちは教師の言葉に耳を傾け始めます。やがて、生徒たちは教師と共に釜淵へとたどり着き、そこで壮大な自然を目の当たりにします。
〔もうでかけましょう。〕たしかに光がうごいてみんな立ちあがる。こしをおろしたみじかい草。かげろうか何かゆれている。かげろうじゃない。網膜もうまくかんじただけのその光だ。
〔さあでかけましょう。行きたい人だけ。〕まだ来ないものは仕方しかたない。さっきからもう二十分もったんだ。もっともこのみちばたの青いいろの寄宿舎きしゅくしゃはゆっくりしてさわやかでよかったが。
これからまたここへ一遍いっぺん帰って十一時にはむこうの宿やどへつかなければいけないんだ。「何処どごさ行ぐのす。」そうだ、釜淵かまぶちまで行くというのを知らないものもあるんだな。〔釜淵まで、一寸ちょっと三十分ばかり。〕
おとなしい新らしい白、みどりの中だから、そして外光の中だから大へんいいんだ。天竺木綿てんじくもめん、その菓子かしつつみはいて行ってもいい。雑嚢ざつのうや何かもここのしばへおろしておいていい行かないものもあるだろうから。
「私はここで待ってますから。」校長だ。校長はふとってまっ黒にいで立ちたしかにゆっくりみちばたの草、林の前に足をひらいてげ出している。
〔はあ、では一寸行ってまいります。〕木の青、木の青、空の雲は今日も甘酸あまずっぱく、足なみのゆれと光のなみ。足なみのゆれと光の波。
粘土ねんどのみちだ。かわいている。黄色だ。みち。粘土。
小松こまつと林。林の明暗めいあんいろいろの緑。それに生徒せいとはみんな新鮮しんせんだ。
そしてそうだ、向うのがけの黒いのはあれだ、明らかにあの黒曜石こくようせきの dyke だ。ここからこんなにはっきり見えるとは思わなかったぞ。
よしうまい。
むこうのがけをごらんなさい。黒くて少しき出したはしらのような岩があるでしょう。あれは水成岩すいせいがんれ目にんで来た火山岩です。黒曜石です。〕ダイクとおうかな。いいや岩脈がんみゃくがいい。〔ああいうのを岩脈といいます。〕わかったかな。
〔わかりましたか。向うの崖に黒い岩がたてき出ているでしょう。
あれは水成岩のなかにふき出した火成岩ですよ。岩脈ですよ。あれは。〕
ゆれてるゆれてる。光のあみ
〔この山は流紋凝灰岩りゅうもんぎょうかいがんでできています。石英粗面岩せきえいそめんがんの凝灰岩、大へん地味ちみわるいのです。赤松あかまつとちいさな雑木ぞうきしかえていないでしょう。ところがそのへん、ふもとゆる傾斜けいしゃのところには青い立派りっぱ闊葉樹かつようじゅ一杯いっぱいえているでしょう。あすこは古い沖積扇ちゅうせきせんです。はこばれてきたのです。割合わりあい肥沃ひよく土壌どじょうを作っています。木の生え工合ぐあいがちがって見えましょう。わかりましょう。〕わかるだろうさ。けれどもみんなだまって歩いている。これがいつでもこうなんだ。さびしいんだ。けれども何でもないんだ。
うしろでだれかこごんで石ころをひろっているものもある。小松ばやしだ。んでいる。このみちはずうっと上流じょうりゅうまで通っているんだ。造林ぞうりんのときはなえや何かを一杯つけた馬がぞろぞろここを行くんだぞ。
志戸平しどたいらのちかく豊沢とよさわ川の南の方にすぎのよくついた奇麗きれいな山があるでしょう。あすことこことはとても木の生え工合やくらべにも何にもならないでしょう。むこうは安山岩あんざんがん集塊岩しゅうかいがん、こっちは流紋凝灰岩です。石灰せっかい加里カリ植物養料しょくぶつようりょうがずうっと少いのです。ここにはとても杉なんかそだたないのです。〕うしろでふんふんうなずいているのは藤原清作ふじわらせいさくだ。あいつは太田おおただからよくわかっているのだ。
もっとも向うのすぎのついているところは北側きたがわでこっちは南と東です。その関係かんけいもありますがそうでなくてもこっちは北側でも杉やひのきはえません。あすこのがけで見てもわかります。この山と地質ちしつは同じです。ただ北側なため雑木ぞうきが少しはよくそだってます。〕いいや駄目だめだ。おしまいのことをったのは結局けっきょく混雑こんざつさせただけだ。云わないでおけばよかった。それでもあの崖はほんとうのわかみどりや、はいいろのや、かばの木の青やずいぶん立派りっぱだ。佐藤箴さとうかんがとなりにならんで歩いてるな。桜羽場さくらはばがまた凝灰岩ぎょうかいがんひろったな。ほおがまっかみあかいその小さな子供こども
雲がきれてるしもう雨は大丈夫だいじょうぶだ。さっきも一遍いっぺん云ったのだがもう一度いちどあの禿はげところひらべったいまつ説明せつめいしようかな。平ったくて黒い。かげちている。どこかであんなコロタイプを見た。及川おいかわやなんか知ってるんだ。よすかな。いいや。やろう。
〔さあ、いいですか。あすこに大きな黄色の禿げがあるでしょう。あすこの割合わりあい上のあたりに松が一本生えてましょう。平ったくてまるでつぶれたきのこのようです。どうしてあんなになったんですか。土壌どじょうあさくて少しをのばすとすぐ岩石でしょう。下へびようとしても出来ないでしょう。よこに広がるだけでしょう。ところが根とえだ相関現象そうかんげんしょうたような形になるんです。枝も根のように横にひろがります。さくらの木なんかえるとき根をたばねるようにしてまっすぐに下げて植えると土から上の方もほうきのように立ちましょう。広げれば広がります。〕
「そんだ。林学でおらならった。」何とったかな。このせいの高いの大きな生徒せいと
さかになったな。ごろごろ石がちている。
「先生この石何て云うのす。」どうせきまってる。
〔凝灰岩。流紋りゅうもん凝灰岩だ。凝灰岩の温泉おんせんため硅化けいかけたのだ。〕
光があみになってゆらゆらする。みんなの足並あしなみ。小松の密林みつりん
釜淵かまぶちだらおらぁ前になんぼがえりも見だ。それでも今日も来た。」
うしろで云っている。あの顔の赤い、そしていつでも少し眼が血走ってどうかするといているように見える、あの生徒せいとだ。五内川ごないかわでもないし、何と云ったかな。
けれどもそのことばはよく分っているぞ。よくわかっているとも。
巨礫きょれきがごろごろしている。一ついて見せるかな。うまくいった。パチンといった。〔これは安山岩あんざんがんです。上流かみの方からながれてきたのです。〕
すっと歩き出せ。せきさんだ。「この石は安山岩であります。上流から流れてきたのです。」まねをしている。堀田ほっただな。堀田は赤い毛糸のジャケツをているんだ。ものを言う口付くちつきが覚束おぼつかなくてはどこを見ているかはっきりしないで黒くてうるんでいる。今はそれがうしろのよこでちらっと光る。
そこの松林まつばやしの中から黒いはたけが一まい出てきます。
(ああ畑も入ります入ります。遊園地ゆうえんちには畑もちゃんと入ります)なんてだれだったかな、っていた、あてにならない。こんな畑を云うんだろう。おれのはもっとずっと上流の北上きたかみ川から遠くの東の山地まで見はらせるようにあの小桜こざくら山の下の新らしくひらいた広い畑を云ったんだ。
全体ぜんたいどごさ行ぐのだべ。」
「なあに先生さいでさぃ行げばいいんだじゃ。」また堀田だな。前の通りだ。うしろで黄いろに光っている。みんな躊躇ちゅうちょしてみちをあけた。おれが一番さきになる。こっちもみちはよく知らないがなあにすぐそこなんだ。みちから見えたら下りるだけだ。防火線ぼうかせんもずうっとうしろになった。
〔あれが小桜山だろう。〕けわしい二つのりょうち、くらくて雲かげにいる。少し名前に合わない。けれどもどこかしんとして春のそこかばの木の気分はあるけれどもそれは偶然性ぐうぜんせいだ。よくわからない。みちが二つにわかれている。この下のみちがきっと釜淵かまぶちに行くんだ。もうきっと間違まちがいない。
小松こまつだ。みつだ。んでいる。それから巨礫きょれきがごろごろしている。うすぐろくて安山岩だ。地質調査ちしつちょうさをするときはこんなどこから来たかわからないあいまいな岩石もの鉄槌かなづちを加えてはいけないと教えようかな。すぐの前を及川おいかわ手拭てぬぐいくびいて黄色のふくいそいでいるし、おうかな。けれどもこれは必要ひつようがない。かえって混雑こんざつするだけだ。とにかくひどくさかになった。こんな工合ぐあい丁度ちょうどよく釜淵かまぶちに下りるんだ。遠くで鳥も鳴いているし。下の方でたにがひどく鳴っている。ことによるとここらの下が釜淵だ。一寸ちょっとのぞいてみよう。
黒いまつみきとかれくさ。みんなぞろぞろいてくる。渓が見える。水が見える。なみや白いあわも見える。ああまだ下だ。ずうっと下だ。釜淵は。ふちの上のたきたいらになって水がするする急いで行く。それさえずうっと下なのだ。
このがけは急でとても下りられない。下にりよう。松林だ。みちらしくまれたところもある。下りて行こう。やぶだ。日陰ひかげだ。山吹やまぶきの青いえだや何かもじゃもじゃしている。さきに行くのは大内おおうちだ。大内は夏服の上に黄色な実習服じっしゅうふくむすびをこしにさげてずんずん藪をこいで行く。よくこいで行く。
急にけわしいだんがある。木につかまれ木は光る。雑木ぞうきは二本雑木が光る。
「じゃ木さばくこなしだじゃぃ。」だれかがうしろでさけんでいる。どういう意味いみかな。木にとりつくとかえってうしろのものをたたくというのだろうか。
光って木がはねかえる。おれはそんなことをしたかな。いやそれはもうよく気をつけたんだ。藪だ。もじゃもじゃしている。大内はよくあるく。
がけだ。たきはすぐそこだし、ここを下りるより仕方しかたない。さあ降りよう。大内はよく降りて行く。急だぞ。この木は少し太すぎる。はいいろだ。急だぞ、草、この木は細いぞ、青いぞあぶないぞ。なかなか急だ。大丈夫だいじょうぶだ。この木は切ってあるぞ。〔ほう、〕そこはあんまり急だ。
おりるのか。仕方ない。木がめまぐるしいぞ。「一人ぢればみんな落ぢるぞ。」誰かうしろで叫んでいる。落ちてきたらまったくみんな落ちる。大内がずうっと落ちた。
河原かわらまで行ってやっととまった。
おれはとにかく首尾しゅびよくりた。

少し下へさがりぎた。たきまで行くみちはない。
凝灰岩ぎょうかいがんが青じろく崖となみとの間に四、五すんつづいてはいるけれどもとてもあすこはつたって行けない。それよりはやっぱり水をわたってむこうへ行くんだ。向うの河原は可成かなり広いしたきまでずうっと続いている。
けれどもあしはやっぱりぬれる。折角せっかくぬらさないためにまわり道して上から来たのだ、飛石とびいしを一つこさえてやるかな。二つはそのまま使つかえるしもう四つだけころがせばいい、まずおれはくつをぬごう。ゴム靴によごれた青の靴下か。〔一寸ちょっとって、今わたるようにしますから。〕
この石はうごかせるかな。流紋岩りゅうもんがんだかなりの比重ひじゅうだ。動くだろう。水の中だし、アルキメデス、水の中だし、動く動く。うまくいった。なみ、これも大丈夫だいじょうぶだ。大丈夫。引率いんそつの教師が飛石をつくるのもおかしいがまたえらい。やっぱりおかしい。ありがたい。うまくいった。
ひとりが渡る。ぐらぐらする。あぶなく渡る、二人がわたる。
もう一つはどれにするかな もう四人だけ渡っている。飛石の上にりょうあしをそろえてきちんと立って四人つづいてっているのは面白おもしろい。向うの河原のを動かそう。かげのある石だ。
てるかな。持てる。けれども一番いちばん波の強いところだ。おそらく少し小さいぞ。小さい。波が昆布こんぶだ、して行く。もう一つ持って来よう。こいつはこけでぬるぬるしている。これで二つだ。まだぐらぐらだ。も一つる。小さいけれども台にはなる。大丈夫だ。おれははだしで行こうかな。いいややっぱり靴ははこう。面倒めんどうくさい靴下はポケットへめ、ポケットがふくれて気持きもちがいいぞ。
あしにゴムぐつでぴちゃぴちゃ水をわたる。これはよっぽどいいことになっている。前にも一ぺんどこかでこんなことがあった。去年きょねんの秋だ。腐植質フィウマスの野原のたまり水だったかもしれない。むこうに黒いみちがある。がけしげみにはいって行く。これが羽山はやまえて台にるのかもわからない。帰りにのぼるとしようかな。いいや。だめだ。曖昧あいまいだしそれにみんなも越えれまい。
「先生、この石何す。」一かけひろってっている。〔ふん。何だと思います。〕「何だべな。」〔凝灰岩ぎょうかいがんです。ここらはみんなそうですよ。浮岩質ふがんしつの凝灰岩。〕
みんなさっきはあしをぬらすまいとしたんだが日がるし水はきれいだし自分でも気がつかず川にはいったんだ。
もうずんずんたきをのぼって行く。cascade だ。こんな広いたいらな明るい瀑はありがたい。上へ行ったらもっと平らで明るいだろう。けれども壺穴つぼあな標本ひょうほんを見せるつもりだったが思ったくらいはっきりはしていないな。多少失望しつぼうだ。岩は何という円くなめらかにけずられたもんだろう。水苔みずごけえている。すべるだろうか。滑らない。ゴム靴のそこのざりざりの摩擦まさつがはっきり知れる。滑らない。大丈夫だいじょうぶだ。さらさら水がちている。靴はビチャビチャっている。みんないい。それにみんなは後からついて来る。
苔がきれいにはえている。じつに円くやわらかに水がこの瀑のところをけずったもんだ。この浸蝕しんしょくの柔らかさ。

もう平らだ。そうだ。いつかもここをのぼって行った。いいや、此処ここじゃない。けれどもずいぶんよくているぞ。川の広さも両岸りょうがんの崖、ところどころのの青草。もう平らだ。みんな大分溯ったな。
〔ここをごらんなさい。岩石のけ目に沿って赤く色がかわっているでしょう。裂け目のないところにも赤いすじの通っているところがあるでしょう。この裂け目を温泉おんせんが通ったのです。温泉の作用で岩が赤くなったのです。ここがずうっとつちのそこだったときですよ。わかりますか。〕
だまっている。なみがうごき波が足をたたく。日光がる。この水をわたることのこころよさ。菅木すがきがいるな。いつものようにじっとひとの目を見つめている。
〔ここをごらんなさい。岩にけ目があるでしょう。ここを温泉おんせんが通って岩を変質へんしつさせたのです。風化ふうかのためにもこうう赤いしまはできます。けれどもここではほかのことから温泉の作用ということがわかるのです。〕
ずいぶん上流じょうりゅうまで行った。実際じっさいこんなに川床かわどこたいらで水もきれいだし山の中の第一流だいいちりゅう道路どうろだ。どこまでものぼりたいのはあたりまえだ。
むこうのきしの方にうつろう。
「先生この岩何す。」千葉ちばだな。お父さんによくている。〔何に似てます。何でできてますか。〕だまっている。〔わかりませんか。礫岩れきがんです。礫岩です。凝灰質礫岩ぎょうかいしつれきがん。〕及川おいかわだな。〔いいですか。これは温泉おんせんの作用ですよ。この裂け目を通った温泉のために凝灰岩が変質へんしつけたんです。〕
みんなわかるんだな。これは。向うにも一つたきがあるらしい。うすぐろい岩の。みんなそこまで行こうと云うのか。草原があって春木もんである。ずいぶんのぼったぞ。ここは小さなだんだ。
「ああ云う岩のすき間のごと何て云うのだたべな。ならったたんとも。」
〔やっぱり裂け目です。裂け目でいいんです。〕習ったというのは節理せつりだな。節理なら多面ためん節理、これを節理と云うわけにはいかない。裂罅れっかだ。やっぱり裂け目でいいんだ。壺穴つぼあなのいいのがなくてこまるな。少し細長いけれどもこれで説明せつめいしようか。elongatedpot-hole〔ここがどうしてこうれるかわかりますか。石ころ、礫がこれを掘るのです。そら水のために礫がごろごろするでしょう。だんだん岩を掘るでしょう。ふかいところが一層いっそう深くなるはずです。もっと大きなのもあります。〕
日光の波、日光の波、光のあみと、水の網。
「ほこのあなこまん円けじゃ。先生。」
ああいい、これはいい標本ひょうほんだ。こいつならってこいだ。
〔さあ、見て下さい。これはいい標本です。そら。この中に石ころが入ってましょう。みんな円くなってるでしょう。水ががりがりこすったんです。そら。〕
じつにいいれきだ。まっ白だ。まん円だ水でぬれている。ってしまった。だれかがまたまわす。もうない。あとは茶色だし少し角もある。ああいいな。こんなありがたい。あんまりのぼる。もう帰ろう。校長もあのみちわかれ目でっている。
〔ほう。もどれ。ほう。〕むこうのがけは明るいし声はよく出ない。聞えないようだ。市野川いちのかわやぐんぐんのぼって行く。〔ほう、〕「戻れど。お。」「戻れ。」
向いた向いた。一人向けばもういい。川を戻るよりはここからさっきの道へのぼったほうがいい、傾斜けいしゃもゆるく丁度ちょうどのぼれそうだ。〔みんなそこからあの道へ出ろ。〕
手をったほうがわかるな。わかったわかったわかったようだ。市野川が崖の上のみちを見ている。
うしろのたきの上でだれさけんでいる。大竹おおたけだ。「おら荷物にもついてきたがらこっちがら行ぐ。」よかろう。〔よおし。〕もう大竹が滝をおりて行く。すばやいやつだ。二、三人またついて行く。それからも一人おくれてひどく心配しんぱいそうに背中せなかをかがめて下りていく。斉藤貞一さいとうていいちかな。一寸ちょっとこっちを見たところには栗鼠りすかるさもある。ほんとうに心配なんだ。かあいそう。
市野川やみんながぞろぞろ崖をみちの方へ上って行くらしい。
そうすればおれはやっぱり川を下ったほうがいいんだ。もしも誰か途中とちゅうで止っていてはわるい。もっと靴下くつしたもポケットに入っているしかならず下らなければならないということはない、けれどもやっぱりこっちを行こう。ああいい気持きもちだ。鉄槌かなづちをこんなに大きく振って川をあるくことはもう何年ぶりだろう。なみが足をあらい水はつめたくしている。
「先生ぁ、ずいぶん足ぁ早ぃな。」富手とみてかな、菅木すがきかな、あんなことをっている。足が早いというのは道をあるくときの話だ。ここもたいらで上等じょうとうの歩道なのだ。ただ水があるばかり。
「先生、あのがけのどご色かわってるのぁ何してす。」かんだ。崖の色か。
〔あれはむこうだけは土がちたんです。すべって。〕
うん。あるある。これが裂罅れっか温泉おんせんの通った証拠しょうこだ。玻璃蛋白石はりたんぱくせきみゃくだ。
〔ここをごらんなさい。岩のさけ目に白いものがつまっているでしょう。これは温泉から沈澱ちんでんしたのです。石英せきえいです。岩のさけ目を白いものがめているでしょう。いい標本ひょうほんです。〕みんながかこむ。水の中だ。
らえなぃがべが。」「いいや、此処こここのまんまの標本だ。」
「それでも取らえなぃがべが。」〔取ってみますか。取れます。〕
中々面倒めんどうだ。
「先生こっちにもっと大きなのあるんす。」あるある。これならネストとってもいい。これなら取れる。ハムマアのとがった方ではだめだ。ひらたい方は……。
水がぴちゃぴちゃはねる。そっちの方のものがげる、ふん。
〔水がはねますか。やっぱりこっちでやるかな。〕
白く岩にきずがついた。二所ふたところついた。
とれる。とれた。うまい。新鮮しんせんだ。青白い。
緑簾石りょくれんせきもついている。そうじゃないこれはこけだ。〔いいですか。これは玻璃蛋白石です。温泉から沈澱したのです。晶洞しょうどうもあります。小さな石英の結晶けっしょうです。っておいでなさい。〕
だれがけの上でさけんでいるのは。
「先生。おら河童捕かっぱどりしたもや。河童捕り。」藤原健太郎ふじわらけんたろうだ。黒の制服せいふく雑嚢ざつのうをさげ、ひどくはしゃいでわらっている。どうしていまごろあんな崖の上などに顔を出したのだ。
「先生。下りで行ぐべがな。先生。よし、下りで行ぐぞ。」
〔うん。大丈夫だいじょうぶ。大丈夫だ。〕おりるおりる。がりがりやって来るんだな。ただそのおしまいの一足だけがあぶないぞ。はだかの青い岩だしきゅうだ。
〔おおい。もう少しななめにおりろ。〕おりるおりる。どんどん下りる。もう水へ入った。〔どうしたのです。〕「先生。河童捕りあ※[#小書き平仮名ん、135-11]すた。ガバンも何も、すっかりぬらすたも。」〔どこで。……〕
もう下ろう。たきに来た。下りているものもある。水のながれるところこけは青く流れない所は褐色かっしょくだ。みんなこわごわ下りて来る。水の流れる所は大丈夫すべらないんだ。〔水の流れるところをあるきなさい。水の流れるところがいいんです。〕
あれは葛丸くずまる川だ。足をさらわれてふちに入ったのは。いいや葛丸川じゃない。空想くうそうのときのくらい谷だ。どっちでもいい。水がさあさあっている。「いいな。あそごの水のかえところよ。」
うん、いい早池峯山はやちねさん七折ななおりたきだってこんなのの大きなだけだろう。
もうみんなおりる。おれもおりる。たった一人あとからやって来る人がある。こわそうだ。
〔水の流れるところをあるくんです。水の流れる所を歩くんですよ。〕
そうだ。そうだ。いい気持きもちだ。

底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店
   1996(平成8)年3月25日初版発行
底本の親本:「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房
   1995(平成7)年5月
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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