あらすじ
夏休み、農場実習の合間に、生徒たちは「イギリス海岸」と名付けた場所によく遊びに行きました。そこは、北上川の西岸にある、青白い泥岩層が露出した場所です。まるでイギリスの白堊海岸を歩いているような気分になることから、生徒たちはそう呼んでいました。その場所は、かつては海の渚だった場所で、泥岩層には、昔の海の生き物の化石や、植物の化石などが残っていました。そして、ある日、生徒たちはイギリス海岸で驚くべき発見をします。それは、昔の動物の足跡だったのです。
 夏休みの十五日の農場実習のうじょうじっしゅうの間に、わたくしどもがイギリス海岸かいがんとあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事しごとが一きりつくたびに、よくあそびに行ったところがありました。
 それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川のきしです。北上きたかみ川の西岸でした。東の仙人峠せんにんとうげから、遠野とおのを通り土沢つちざわぎ、北上山地を横截よこぎって来るつめたい猿ヶ石さるがいし川の、北上川への落合おちあいから、少し下流かりゅうの西岸でした。
 イギリス海岸には、青白い凝灰質ぎょうかいしつ泥岩でいがんが、川に沿ってずいぶん広く露出ろしゅつし、その南のはじに立ちますと、北のはずれにる人は、小指こゆびの先よりもっと小さく見えました。
 ことにその泥岩そうは、川の水のすたんび、奇麗きれいあらわれるものですから、何ともえず青白くさっぱりしていました。
 所々ところどころには、水増しの時できた小さな壺穴つぼあなあとや、またそれがいくつもつづいたあさみぞ、それから亜炭あたんのかけらだの、れたあしきれだのが、一れつにならんでいて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。
 日が強くるときは岩はかわいてまっ白に見え、たてよこに走ったひびれもあり、大きな帽子ぼうしかむってその上をうつむいて歩くなら、影法師かげぼうしは黒くちましたし、まったくもうイギリスあたりの白堊はくあ海岸かいがんを歩いているような気がするのでした。
 町の小学校でもいしまきの近くの海岸に十五日も生徒せいとれて行きましたし、となりの女学校でも臨海りんかい学校をはじめていました。
 けれどもわたくしたちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上きたかみ河谷かこく上流じょうりゅうの方にばかりた私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層でいがんそうをイギリス海岸とびたかったのです。
 それに実際じっさいそこを海岸と呼ぶことは、無法むほうなことではなかったのです。なぜならそこはだいと呼ばれる地質時代ちしつじだいおわごろ、たしかにたびたび海のなぎさだったからでした。その証拠しょうこには、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央分水嶺ちゅうおうぶんすいれいふもとまで、一まいいたのようになってずうっとひろがっていました。ただその大部分だいぶぶんがその上につもった洪積こうせき赤砂利あかじゃり※(「土へん+盧」、第3水準1-15-68)ローム[#「土へん+母」、57-14]、それから沖積ちゅうせきすな粘土ねんどや何かにおおわれて見えないだけのはなしでした。それはあちこちの川のきしがけあしには、きっとこの泥岩が顔を出しているのでもわかりましたし、また所々ところどころ井戸いど穿うがったりしますと、じきこの泥岩そうにぶっつかるのでもしれました。
 第二に、この泥岩は、粘土ねんど火山灰かざんばいとまじったもので、しかもその大部分だいぶぶんしずかな水の中でしずんだものなことは明らかでした。たとえばその岩には沈んでできたしまのあること、木のえだくきのかけらのうずもれていること、ところどころにいろいろな沼地ぬまちえる植物しょくぶつが、もうよほど炭化たんかしてはさまっていること、また山の近くには細かい砂利のあること、ことに北上山地のへりには所々この泥岩層の間に砂丘さきゅうあとらしいものがはさまっていることなどでした。そうしてみると、いま北上の平原へいげんになっている所は、一度いちどは細長いはば三里ばかりの大きなたまり水だったのです。
 ところが、第三に、そのたまり水がしおからかった証拠しょうこもあったのです。それはやはり北上山地のへりの赤砂利から、牡蠣かきや何か、半鹹はんかんのところにでなければまない介殻かいがら化石かせきが出ました。
 そうしてみますと、第三紀の終り頃、それはあるいは今から五、六十万年あるいは百万年を数えるかも知れません、その頃今の北上の平原にあたるところは、細長い入海か鹹湖かんこで、その水は割合わりあいあさく、何万年のながい間には処々ところどころ水面すいめんから顔を出したりまた引っんだり、火山灰や粘土が上につもったりまたそれがけずられたりしていたのです。その粘土は西と東の山地から、川がはこんでながんだのでした。その火山灰かざんばいは西の二れつか三列の石英粗面岩せきえいそめんがんの火山が、やっとしずまったところではありましたが、やっぱり時々噴火ふんかをやったり爆発ばくはつをしたりしていましたので、そこからって来たのでした。
 そのころ世界せかいには人はまだなかったのです。ことに日本はごくごくこの間、三、四千年前までは、まったく人が居なかったといますから、もちろんだれもそれを見てはいなかったでしょう。その誰も見ていないむかしの空がやっぱりかえし繰り返しくもったりまた晴れたり、海の一とこがだんだんあさくなってとうとう水の上に顔を出し、そこに草や木がしげり、ことにも胡桃くるみの木がをひらひらさせ、ひのきやいちいがまっ黒にしげり、しげったかと思うとたちまち西の方の火山が赤黒いしたき、軽石かるいし火山礫かざんれきは空もまっくらになるほど降って来て、木はつぶされ、められ、まもなくまた水がかぶさって粘土ねんどがその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでしょう。考えてもへんな気がします。そんなことはほんとうだろうかとしか思われません。ところがどうも仕方しかたないことは、わたくしたちのイギリス海岸かいがんでは、川の水からよほどはなれた処に、半分石炭せきたんかわった大きな木の根株ねかぶが、その根を泥岩でいがんの中にり、そのみきとえだを軽石の火山礫層かざんれきそうに圧し潰されて、ぞろっとならんでいました。もっともそれは間もなく日光にあたってぼろぼろにけ、度々たびたびの出水につぎから次とけずられて行きましたが、新らしいものもまた出て来ました。そしてその根株のまわりから、ある時私たちは四十近くの半分炭化たんかしたくるみのひろいました。それは長さが二すんぐらい、はばが一寸ぐらい、非常ひじょうに細長くとがった形でしたので、はじめは私どもは上のおも地層ちそうし潰されたのだろうとも思いましたが、たてに埋まっているのもありましたし、やっぱりはじめからそんな形だとしか思われませんでした。
 それからはんの木の実も見附みつかりました。小さな草の実もたくさん出て来ました。
 この百万年むかしの海のなぎさに、今日は北上川が流れています。昔、おおきななみをあげたり、じっとしずまったり、だれも誰も見ていないところでいろいろに変ったその巨きな鹹水かんすい継承者けいしょうしゃは、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴたむかしなぎさをうちながら夜昼南へながれるのです。
 ここを海岸かいがんと名をつけたってどうしていけないといわれましょうか。
 それにも一つここを海岸と考えていいわけは、ごくわずかですけれども、川の水が丁度ちょうど大きなみずうみきしのように、せたり退いたりしたのです。それはむこがわから入って来る猿ヶ石さるがいし川とこちらの水がぶっつかるためにできるのか、それとも少し上流じょうりゅうがかなりけわしいになってそれがこの泥岩層でいがんそうの岸にぶっつかってもどるためにできるのか、それともまったくほかの原因げんいんによるのでしょうか、とにかく日によって水がしおのように退きするときがあるのです。
 そうです。丁度一学期がっき試験しけんんでその採点さいてんおわりあとは三十一日に成績せいせき発表はっぴょうして通信簿つうしんぼわたすだけ、わたくしのほうからえばまあそうです、農場のうじょう仕事しごとだってその日の午前でむぎ運搬うんぱんも終り、まあ一段落いちだんらくというそのひるすぎでした。私たちは今年三度目どめ、イギリス海岸へ行きました。瀬川せがわ鉄橋てっきょうを渡り牛蒡ごぼう甘藍かんらんが青白いうらをひるがえすはたけの間の細い道を通りました。
 みちにはすずめのかたびらがを出していっぱいにかぶさっていました。私たちはそこから製板所せいばんしょ構内こうないに入りました。製板所の構内だということはもくもくした新らしい鋸屑おがくずかれ、のこぎりの音が気まぐれにそこをんでいたのでわかりました。鋸屑には日がって恰度ちょうどすなのようでした。砂の向うの、青い水と救助区域きゅうじょくいきの赤いはたと、向うのブリキ色の雲とを見たとき、いきなり私どもはスウェーデンの峡湾きょうわんにでも来たような気がしてどきっとしました。たしかにみんなそう云う気もちらしかったのです。製板の小屋こやの中はあいいろのかげになり、白く光る円鋸まるのこが四、五ちょうかべにならべられ、その一梃はじくにとりつけられて幽霊ゆうれいのようにまわっていました。
 私たちはそのよこを通って川の岸まで行ったのです。草の生えた石垣いしがきの下、さっきの救助区域の赤い旗の下にはいかだもちょうど来ていました。花城かじょう花巻はなまき生徒せいとがたくさんおよいでおりました。けれども元来私どもはイギリス海岸に行こうと思ったのでしたからだまってそこを通りすぎました。そしてそこはもうイギリス海岸かいがんの南のはじなのでした。わたくしたちでなくたって、折角せっかく川の岸までやって来ながらその気持きもちのいいところに行かない人はありません。町の雑貨商店ざっかしょうてん金物店かなものてん息子むすこたち、夏やすみで帰ったあちこちの中等ちゅうとう学校の生徒せいと、それからひるやすみの製板せいばんの人たちなどが、あるいははだかになって二人、三人ずつそのまっ白な岩にすわったり、またあみシャツやゆるい青の半ずぼんをはいたり、青白い大きな麦稈帽むぎわらぼうをかぶったりして歩いているのを見ていくのは、ほんとうにいい気持きもちでした。
 そしてその人たちが、みな私どもの方を見てすこしわらっているのです。ことに一番いいことは、最上等さいじょうとうの外国犬が、むこうから黒い影法師かげぼうし一緒いっしょに、一目散いちもくさんに走って来たことでした。じつにそれはロバートとでも名のきそうなもじゃもじゃした大きな犬でした。
「ああ、いいな。」私どもは一度いちどさけびました。だれだって夏海岸へあそびに行きたいと思わない人があるでしょうか。ことにも行けたら、そしてさらわれて紡績工場ぼうせきこうじょうなどへ売られてあんまりひどい目にあわないなら、フランスかイギリスか、そう云う遠いところへ行きたいと誰も思うのです。
 私たちはいそがしくくつやずぼんをぎ、そのつめたい少しにごった水へつぎから次とみました。まったくその水の濁りようときたら素敵すてき高尚こうしょうなもんでした。その水へ半分顔をひたしておよぎながら横目よこめで海岸の方を見ますと、泥岩でいがんの向うのはずれは高い草のがけになって木もゆれ雲もまっ白に光りました。
 それから私たちは泥岩の出張でばったところりついてだんだん上りました。一人の生徒はスイミングワルツの口笛くちぶえきました。私たちのなかでは、ほんとうのオーケストラを、見たものもいたことのあるものも少なかったのですから、もちろんそれは町の洋品屋ようひんや蓄音器ちくおんきから来たのですけれども、恰度ちょうどそのように冷い水はながれたのです。
 私たちは泥岩そうの上をあちこちあるきました。所々に壺穴つぼあなあとがあって、その中には小さな円い砂利じゃりが入っていました。
「この砂利がこの壺穴を穿るのです。水がこの上を流れるでしょう、石が水のそこでザラザラうごくでしょう。まわったりもするでしょう、だんだん岩が穿れていくのです。」
 また、赤い酸化鉄さんかてつしずんだ岩のけ目に沿って、そうがずうっとみぞになってくぼんだところもありました。それは沢山たくさん壺穴つぼあな連結れんけつしてちょうどひょうたんをつないだように見えました。
「こうう溝は水の出るたんびにだんだんふかくなるばかりです。なぜならながされて行く砂利じゃりはあまりこの高いところを通りません。溝の中ばかりころんで行きます。溝は深くなる一方でしょう。水の中をごらんなさい。岩がたくさんたてぼうのようになっています。みんなこれです。」
「ああ、騎兵きへいだ、騎兵だ。」だれかが南をいてさけびました。
 下流かりゅうのまっさおな水の上に、朝日橋あさひばしがくっきり黒く一れつうかび、そのらんかんの間を白い上着うわぎを着た騎兵たちがぞろっとならんで行きました。馬の足なみがかげろうのようにちらちらちらちら光りました。それは一中隊ちゅうたいぐらいで、鉄橋てっきょうの上を行く汽車よりはもっとゆるく、小学校の遠足の列よりはも少し早く、たぶんは中隊長らしい人を先頭にだんだん橋をわたって行きました。
「どごさ行ぐのだべ。」
水馬演習すいばえんしゅうでしょう。白い上着を着ているし、きっと裸馬はだかうまだろう。」
「こっちさ来るどいいな。」
「来るよ、きっと。大ていむこぎしのあの草の中から出て来ます。兵隊だってだれだって気持きもちのいい所へは来たいんだ。」
 騎兵はだんだん橋を渡り、最后さいごの一人がぽろっと光って、それからみんな見えなくなりました。と思うと、またこっちのたもとから一人がだくでかけて行きました。わたくしたちはだまってそれを見送みおくりました。
 けれども、まったく見えなくなると、そのこともだんだんわすれるものです。わたくしたちはまたつめたい水にんで、小さなわんになった所をおよぎまわったり、岩の上を走ったりしました。
 誰かが岩の中にもれた小さな植物しょくぶつのまわりに、水酸化鉄の茶いろなが、何重なんじゅうもめぐっているのを見附みつけました。それははじめからあちこち沢山たくさんあったのです。
「どうしてこの、出来だのす。」
「この出来かたはむずかしいのです。膠質体こうしつたいのことをも少しくわしくやってからでなければわかりません。けれどもとにかくこれは電気の作用です。この環はリーゼガングの環といます。実験室じっけんしつでもこさえられます。あとで土壌どじょうのほうでも説明せつめいします。腐植質磐層ふしょくしつばんそうというものもたようなわけでできるのですから。」私は毎日の実習じっしゅうつかれていましたので、長い説明が面倒めんどうくさくてこう答えました。
 それからしばらくたって、ふと私は川のむこぎしを見ました。せいの高い二本のでんしんばしらが、たがいによりかかるようにして一本の腕木うでぎでつらねられてありました。そのすぐ下の青い草のがけの上に、まさしく一人のカアキイ色の将校しょうこうと大きな茶いろの馬の頭とが出て来ました。
「来た、来た、とうとうやって来た。」みんなは高くさけびました。
水馬演習すいばえんしゅうだ。むこがわへ行こう。」こう云いながら、そのまっ白なイギリス海岸かいがん上流じょうりゅうにのぼり、そこから向う側へおよいで行く人もたくさんありました。
 兵隊へいたいは一れつになって、崖をななめに下り、中にはさきに黒いかぎのついた長い竿さおった人もありました。
 間もなく、みんなは向う側の草の生えた河原かわらに下り、六れつばかりによこにならんで馬から下り、将校の訓示くんじを聞いていました。それが中々ながかったのでこっち側にる私たちは実際じっさいあきてしまいました。いつになったら兵隊たちがみな馬のたてがみにりついて、泳いでこっちへ来るのやらすっかりちあぐねてしまいました。さっき川をえて見に行った人たちも、浅瀬あさせに立って将校の訓示を聞いていましたが、それもどうも面白おもしろくて聞いているようにも見え、またつまらなそうにも見えるのでした。うるんだ夏の雲の下です。
 そのうちとうとう二せきふねが川下からやって来て、川のまん中にとまりました。兵隊たちはいちばんはじの列から馬をひいてだんだん川へ入りました。馬のひづめそこ砂利じゃりをふむ音と水のばちゃばちゃはねる音とが遠くの遠くのゆめの中からでも来るように、こっちぎしの水の音をえてやって来ました。わたくしたちはいまにだんだんふかところへさえ来れば、兵隊へいたいたちはたてがみにとりついておよぎ出すだろうと思ってっていました。ところが先頭の兵隊さんはふねのところまでやって来ると、ぐるっとまわって、またむこうへもどりました。みんなもそれにつづきましたのでれつは一つのになりました。
「なんだ、今日はただ馬を水にならすためだ。」私たちはなんだかつまらないようにも思いましたが、また、あんなあさい処までしか馬を入れさせずそれに舟を二せき用意よういしたのを見てどこか大へん力強い感じもしました。それから私たちは養蚕ようさんの用もありましたのでいそいで学校に帰りました。
 そのつぎには私たちはただ五人で行きました。
 はじめはこの前のわんのところだけおよいでいましたがそのうちだんだん川にもなれてきて、ずうっと上流じょうりゅうなみあらのところから海岸かいがんのいちばん南のいかだのあるあたりへまでも行きました。そして、つかれて、おまけに少しさむくなりましたので、海岸の西のさかいのあの古い根株ねかぶやその上につもった軽石かるいし火山礫層かざんれきそうの処に行きました。
 その日私たちは完全かんぜんなくるみのも二つ見附みつけたのです。火山礫の層の上には前の水増みずましの時の水が、ぬまのようになって処々たまっていました。私たちはその溜り水からせきをこしらえてたきにしたり発電処はつでんしょのまねをこしらえたり、ここはオーバアフロウだの何のながいことあそびました。
 その時、あの下流かりゅうの赤いはたの立っているところに、いつもうでに赤いきれをきつけて、はだかに半天はんてんだけ一まいてみんなの泳ぐのを見ている三十ばかりの男が、一ちょう鉄梃かなてこをもって下流の方からのぼって来るのを見ました。その人は、町から、水泳すいえい子供こどもらのおぼれるのをたすけるためにやとわれて来ているのでしたが、何ぶんひまに見えたのです。今日だって実際じっさいひまなもんだから、ああやって用もない鉄梃なんかかついで、うごかさなくてもいい途方とほうもない大きな石を動かそうとしてみたり、丁度ちょうど私どもが遊びにしている発電所のまねなどを、鉄梃まで使つかって本統ほんとうにごつごつ岩をって、浮岩うきいわの層のたまり水をそうとしたりしているのだと思うと、私どもはじつは少しおかしくなったのでした。
 ですからわざと真面目まじめな顔をして、
「ここの水少ししたほういいな、鉄梃をしませんか。」とうものもありました。
 するとその男は鉄梃でとんとんあちこちいてみてから、
「ここら、岩もやわらかいようだな。」と云いながらすなおに私たちに貸し、自分はまた上流じょうりゅうなみあらいところにあつまっている子供こどもらの方へ行きました。すると子供らは、その荒いブリキ色の波のこっちがわで、手をあげたりあし俥屋くるまやさんのようにしたり、みんなちりぢりにげるのでした。わたくしどもはははあ、あの男はやっぱりどこか足りないな、だから子供らがおにのようにこわがっているのだと思って遠くからわらって見ていました。
 さてそのつぎの日も私たちはイギリス海岸かいがんに行きました。
 その日は、もう私たちはすっかり川の心持こころもちになれたつもりで、どんどん上流のの荒いところからみ、すっかりつかれるまで下流かりゅうの方へおよぎました。下流であがってはまた野蛮人やばんじんのようにその白い岩の上を走って来て上流の瀬にとびこみました。それでもすっかり疲れてしまうと、また昨日の軽石層かるいしそうのたまり水の処に行きました。救助係きゅうじょがかりはその日はもうちゃんとそこに来ていたのです。うでには赤いきれを巻き鉄梃もっていました。
「おあつうござ※[#小書き平仮名ん、69-9]す。」私が挨拶あいさつしましたらその人は少しきまりわるそうに笑って、
「なあに、おうちの生徒せいとさんぐらい大きな方ならあぶないこともないのですが一寸ちょっと来てみたところです。」と云うのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんとうに少かったのです。もちろん何かの張合はりあいだれかがおぼれそうになったとき間違まちがいなくそれをすくえるというくらいのものは一人もありませんでした。だんだんはなしてみると、この人はずいぶんよく私たちを考えていてくれたのです。救助区域くいきはずうっと下流のいかだのところなのですが、私たちがこの気もちよいイギリス海岸に来るのを止めるわけにもいかず、時々べつの用のあるふりをして来て見ていてくれたのです。もっとはなしているうちに私はすっかりきまり悪くなってしまいました。なぜなら誰でも自分だけはかしこく、人のしていることは馬鹿ばかげて見えるものですが、その日そのイギリス海岸かいがんで、わたくしはつくづくそんなかんがえのいけないことをかんじました。からだをされるようにさえ思いました。はだかになって、生徒せいとといっしょに白い岩の上に立っていましたが、まるで太陽たいようの白い光にめられるように思いました。まったくこの人は、救助区域きゅうじょくいきがあんまり下流かりゅうの方で、とてもこのイギリス海岸まで手がおよばず、それにもかかわらず私たちをはじめみんなこっちへも来るし、ことに小さな子供こどもらまでが、何べんしかられてもあのあぶないところに行っていて、この人の形を遠くから見ると、げてどてのかげさわのはんのきのうしろにかくれるものですから、この人は町へ行って、もう一人、人をやとうかそうでなかったら救助の浮標ブイうかべてもらいたいと話しているというのです。
 そうしてみると、昨日きのうあの大きな石を用もないのにうごかそうとしたのもその浮標のおもりに使つか心組こころぐみからだったのです。おまけにあの瀬の処では、早くにもおぼれた人もあり、下流の救助区域でさえ、今年になってから二人もすくったというのです。いくら昨日までよくおよげる人でも、今日のからだ加減かげんでは、いつ水の中で動けないようになるかわからないというのです。何気なくわらって、その人と談してはいましたが、私はひとりではげしく烈しくわたくし軽率けいそつめました。じつは私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、ただんでいって一緒いっしょに溺れてやろう、死ぬことのむこがわまで一緒についていってやろうと思っていただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻いっこくがそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それがわるいことだとはけっして思いませんでした。
 さてその人と私らはわかれましたけれども、今度こんどはもう要心ようじんして、あの十けんばかりのわんの中でしか泳ぎませんでした。
 その時、海岸のいちばん北のはじまでのぼって行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走ってもどって来ました。
「先生、岩に何かの足痕あしあとあらんす。」
 私はすぐ壺穴つぼあなの小さいのだろうと思いました。だい泥岩でいがんで、どうせむかしぬまきしですから、何か哺乳類ほにゅうるい足痕あしあとのあることもいかにもありそうなことだけれども、教室でだって手獣しゅじゅう足痕あしあとの図まで黒板こくばんに書いたのだし、どうせそれが頭にあるから壺穴までそんな工合ぐあいに見えたんだと思いながら、あんまり気乗きのりもせずにそっちへ行ってみました。ところが私はぎくりとしてつっ立ってしまいました。みんなも顔色を変えてさけんだのです。
 白い火山灰層かざんばいそうのひとところが、たいらに水でがされて、あさはばの広い谷のようになっていましたが、そのそこに二つずつひづめあとのあるおおきさ五すんばかりの足あとが、いくつかつづいたりぐるっとまわったり、大きいのや小さいのや、じつにめちゃくちゃについているではありませんか。その中にはうす酸化鉄さんかてつ沈澱ちんでんしてあたりの岩から実にはっきりしていました。たしかに足痕がどろにつくやいなや、火山灰がやって来てそれをそのまま保存ほぞんしたのです。私ははじめは粘土ねんどでそのかたをとろうと思いました。一人がその青い粘土もって来たのでしたが、蹄の痕があんまり深過ふかすぎるので、どうもうまくいきませんでした。私は「あした石膏せっこう用意よういして来よう」ともいました。けれどもそれよりいちばんいいことはやっぱりその足あとを切りって、そのまま学校へ持って行って標本ひょうほんにすることでした。どうせまた水が出れば火山灰のそうが剥げて、新らしい足あとの出るのはたしかでしたし、今のはかまわないでおいてもすぐこわれることが明らかでしたから。
 つぎの朝早くわたくし実習じっしゅう掲示けいじする黒板にこう書いておきました。
     八月八日
農場のうじょう実習 午前八時半より正午まで
  除草じょそう追肥ついひ   だい一、七組
  蕪菁かぶら播種はしゅ    第三、四組
  甘藍かんらん中耕ちゅうこう    第五、六組
  養蚕ようさん実習    第二組
午后ごごイギリス海岸かいがんおいだい偶蹄類ぐうているい足跡標本そくせきひょうほん採収さいしゅうすべきにより希望者きぼうしゃ参加さんかすべし。)
 そこで正直をもうしますと、この小さな「イギリス海岸かいがん」の原稿げんこうは八月六日あの足あとを見つける前の日のばん宿直室しゅくちょくしつで半分書いたのです。わたくしはあの救助係きゅうじょがかりの大きな石を鉄梃かなてこうごかすあたりから、あとは勝手かってに私の空想くうそうを書いていこうと思っていたのです。ところがつぎの日救助係がまるでちがった人になってしまい、泥岩でいがんの中からは空想よりももっとへんなあしあとなどが出てきたのです。その半分書いた分だけを実習じっしゅうがすんでから教室でみんなに読みました。
 それを読んでしまうかしまわないうち、私たちは一ぺんにび出してイギリス海岸へ出かけたのです。
 丁度ちょうどこの日は校長も出張しゅっちょうから帰って来て、学校に出ていました。黒板こくばんを見てわらっていました、それからまゆを売るのがんだら自分も行こうとうのでした。私たちは新らしい鋼鉄こうてつの三本ぐわ一本と、ものさしや新聞紙などをって出て行きました。海岸の入口に来てみますと水はひどくにごっていましたし、雨も少しりそうでした。雲が大へんけわしかったのです。救助係に私は今日は少しのおれいをしようと思ってその支度したくもして来たのでしたがその人はいつものところに見えませんでした。私たちはまっすぐにそのイギリス海岸を昨日きのうの処に行きました。それからていねいにあのあやしい化石かせきりはじめました。気がついてみると、みんな大抵たいていポケットに除草鎌じょそうがまを持ってきているのでした。岩が大へんやわらかでしたから大丈夫だいじょうぶそれでけずれる見当がついていたのでした。もうあちこちで掘り出されました。私はせわしくそれをとめて、二つの足あとの間隔かんかくをはかったり、スケッチをとったりしなければなりませんでした。足あとを二つつづけてろうとしている人もありましたし、も少しのところでこわした人もありました。
 まだ上流じょうりゅうの方にまたべつのがあると、一人の生徒せいとが云って走って来ました。私はあついので、すっかりはだかになっておよぐ時のようなかたちをしていましたが、すぐその白い岩を走って行ってみました。そのあしあとは、いままでのとはまるで形もちがい、よほど小さかったのです、あるものは水の中にありました。水がもっと退いたらまだまだ沢山たくさん出るだろうと思われました。その上流の方から、南のイギリス海岸のまん中で、みんなの一生けん命っているのを見ますと、こんどはそこは英国えいこくでなく、イタリヤのポンペイの火山灰かざんばいの中のように思われるのでした。ことに四、五人の女たちが、けばけばしい色の着物きものを着て、むこうを歩いていましたし、おまけに雲がだんだんうすくなって日がまっ白にってきたからでした。
 いつか校長も黄いろの実習服じっしゅうふくを着て来ていました。そして足あとはもう四つまで完全かんぜんにとられたのです。
 わたくしたちはそれをみぎわまでって行ってあらいそれからそっと新聞紙につつみました。大きなのは三貫目がんめもあったでしょう。掘り取るのがんであのあらところからんで行くものもありました。けれども私はそのおぼれることを心配しんぱいしませんでした。なぜなら生徒せいとより前に、もう校長が飛び込んでいてごくゆっくりおよいで行くのでしたから。
 しばらくたって私たちはみんなでそれを持って学校へ帰りました。そしてさっきももうしましたようにこれは昨日きのうのことです。今日は実習じっしゅうの九日目です。朝から雨がっていますので外の仕事しごとはできません。うちの中で図を引いたりしてあそぼうと思うのです。これから私たちにはまだむぎこなしの仕事がのこっています。天気がわるくてよくかわかないでこまります。麦こなしはのぎがえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。百姓ひゃくしょうの仕事の中ではいちばんいやだとみんながいます。このへんではこの仕事を夏の病気びょうきとさえ云います。けれどもまったくそんな風に考えてはすみません。私たちはどうにかしてできるだけ面白おもしろくそれをやろうと思うのです。
(一九二三、八、九、)

底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店
   1996(平成8)年3月25日初版発行
底本の親本:「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房
   1995(平成7)年5月
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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