目次
 瑞西スイスの首都 Z※(ダイエレシス付きU小文字)richチュリヒ をば午後二時十分発の急行列車で立った。そして、方嚮ほうこうを東南に取り、いわば四方から湖に囲まれたという姿の、Rigiリギ の山上に一夜泊ろうとしたのであった。
 汽車の立つ時、窓から首を出して見ていると、向うの丘陵に家のたて込んでいる工合は丁度長崎を思わせるようなところがあった。汽車は急いで走った。だんだん山地になり、その起伏の工合が如何いかにも鮮媚せんぴであるのが通常ではない。遥かの谷間から出て来る川の水は濁って勢づいて流れていた。
 それから汽車は Zugerツウゲル Seeゼエ の湖に沿うて南下した。その湖畔には綺麗で小さっぱりとした村落などが見える。長い短い隧道トンネルを幾つかくぐり、隧道を出ると電気工場などがあった。すでに峻峰しゅんぽうが見え出して来て、その裾に雲がかたまり薄く藍の色に見えている。午後三時頃 Zugツウグ という駅に著いた。ここは前面には湖を眺め、うしろに山を負うた村であった。そこらを通るとき、どうも瑞西の住民は独墺人などとは人種の違うところがある。猶太ユダヤ人などと共通の顔貌をした者が幾らもいるなどと思ったのであった。ただ鼻が大きく眉の濃い者がいて、それが山人さびた重厚の感じを与えた。
 Arthアルト-Goldauゴルダウ というところからいよいよ登山車に乗り換えた。山に登るに従って眼界がひろくなり、西北の方にも、東南の方にも湖が見える。そうして、湖の水の光っているところ、影になって紺青にくろずんでいるところ、そういう趣が段々と変って行った。紅葉した木々もそろそろ見えるようになった。高い峰の方から流れて来る水が滝となって懸かっているところもある。くびに鈴をつけた牛が直ぐ近くにいて、耳を動かしてこちらを見ていたり、幾つかの鈴の音が下の谿たにの方で鳴るのが聞こえたりした。そういう牧牛がこの山に五千からいるそうであった。実用向の鈴が、遍歴する旅人の耳には実用向でなくきこえる。一体、「仮感」とか「仮象」とかいう審美論者の説にも、やはり根ざすところがあるのである。
 紅い木の実が固まって見えていた。東洋の山水画家が人頭よりも大きい紅い丸を幾つも木の枝に画いているのにも、自然写生に根ざすところがあった。或る時は、綿のような雲の上に夕陽を受けた雪山が見えたり、光を受けぬものは鋭く黒く見えたりした。
 頂上までには幾つかの停車場があった。頂上に行くまでの山水が既によかった。Rigiリギ-Staffelシュタッフェル, Rigiリギ-Kl※(ダイエレシス付きO小文字)sterliクレステルリ などいうところを通って、Rigiリギ-Kulmクルム に著いたのは、太陽の傾きかけた頃であった。そこの旅舎ホテルは立派で大きかった。旅舎に著いて洋傘のないのに気附きあわてていると、同車して来た外国の旅人が洋傘を持って来てくれた。旅人はやや老いた夫婦でルマニアあたりの者であった。旅舎の部屋は立派なのは幾つもあるが、幾つか見て廻って十八フランケンのにめた。当時の相場で邦貨九円余に当っていた。
 それから旅舎を出て、後ろの方にある丘にのぼって行った。この丘は展望が好くくので、アルプス山系のうねりを観ることが出来る。山系のうねりというのも、高く鋭いのには白雪が降り、いまだ雪の降らないのもあり、相交錯したうねりであって、いわば生きているようなものである。
 湖の大小がその間に湛えている。直ぐ目の下には Zugerツウゲル Seeゼエ が、間にやや狭いくびれを持って北方に見えなくなっている。太陽は傾きかけて、湖水の面は、遥か向うは水銀の色に光り、近きあたりは黝ずんだ紺に見えている。北の方に湖の尽きているその彼方かなたは瑞西の首都 Z※(ダイエレシス付きU小文字)richチュリヒ であって、ゆうべまでそこの旅舎に宿とまっていたのであった。そのあたりから山脈がやや低くなって、独逸の国境を越え、遥か彼方に見えずなっている。ここからやや左手は黒林地方シュワルツワルドである。それから右手に行くと、Badenバァデン 地方になり、もっと右手は Bayernバイエルン 地方になるのであるが、その Bayern の首府の民顕ミュンヘンにあって僕は丸一年余り勉強をして、つい二ヶ月前までは其処そこにいたことなどを思うと、静かな寂しい気持にもなるのである。かさなり畳まる山嶽と遥か彼方に展開する国土と清く澄んでいる空気と、そういう空間的関係が如是にょぜの感情を起させる、その一種のあやしさこそ東洋山水画の動因ともなっているのであろうか。
 僕の今立っているところを旅舎の者どもは「頂上」といっている。そこを少しく降りて左手に来ると直ぐ眼前に高山が重畳して、僕なんかを圧するという気持である。その下に Vierwaldst※(ダイエレシス付きA小文字)tterヴィルワルトシュテッテル Seeゼー の一部が見える。この湖は此処ここから西南の方に章魚たこの如くにひろがっている大湖で、それにそそぐ川などが糸のように細くなって見えている。嶽鴉たけがらすのような黒い鳥が一羽湖の方へ飛んで行った。明朝はこの山上を下りて、それから汽船でこの大湖を渡り Luzernルツェルン の方に行くつもりである。
 この「頂上」は、風が強く、未だ九月下旬というに僕は冬の外套をていた。その丘に三、四人の女が物を売っていた。多くはおうなで渋い模様のある布をかぶっている。若い娘が一、二いて紅い豆しぼりのような模様の布をかぶっているが、頬が赤く、この高山の空気に生育した面持であった。これらの女どもは絵葉書だの、木細工の牛だの、笛だの、牛の頸につけている鈴の小さいのだの、駄菓子のようなものだの、そんなものを売っていた。僕はそのそばに行って、いろいろいじって見たが、余り元始的で、故郷の土産にするようなものは極めてすくなかった。小さい木製の牛をいじっていると、耳が突然れたりした。これはにかわが丈夫でないので除れたのであったが、僕は知らんぷりして多くの木製の牛の中にそれを交ぜてしまった。
 太陽は黄色になって山嶽に近づくので、女どもはそろそろ帰り支度にかかった。女どもは僕らの旅舎ホテルの建っている、Rigiリギ-Kulmクルム に住んでいるのではなく、もっと山腹の方に住んでいる。女らの露店には鈴をつけた山羊やぎも時々寄って来、白い牛、斑牛まだらうし、黒牛なども寄って来るが、女らはそういう獣にはかまわずに、店を片付けて帰るのであった。ここの旅舎の者を除いてそういう住民のいるところには小さい加特力カトリックの寺もある。これは或る信心ぶかい二人の女人によって建てられたのだというものもあったし、それゆえその近くの巌間いわまから清冽な水のわき出るのを「尼の泉」と唱えるなどともいった。また或処の小さい寺には、「雪の馬利亜マリア」という名なども附いていた。
 アルプス山系の一小部分ともいっていい、この Rigi も十八世紀の中葉頃から、ぽつりぽつりと登山者の注目をき、十九世紀の初葉にはこの頂上まで登って展望を楽んだ者はよほど増したということである。西暦一八一六年には此処に一つの旅舎ホテルが建てられたのだそうである。しかし何といってもアルプス山系のうちの一つの山の頂である。ここに登るものも、年経てこの山腹あたりに住んだ者も皆信心ぶかいものであったに相違ない。僕はしばらく下界に住んで来て、さてこの山嶽をば通りしなに既にセガンチニの画境の種々相を感得することが出来た。
 セガンチニもいろいろなものを画いた。けれども、その一つの傾向として、「あけぼの」(あるいは「黄昏たそがれ」)と題した油絵を取って来てもいい。この絵を僕は或時は独逸で、また数日前に瑞西で看たのであった。”D※(ダイエレシス付きA小文字)mmerstunde“となっていた時もあり、”tr※(ダイエレシス付きU小文字)be Stunde“となっていた時もある。日出前の高原を場面として、(あるいは「黄昏」であって、日没後の余光ともおもう)左手に一人の女が石に腰を掛け、膝の上に両手を組んでまなこつぶっている。厚ぼたい衣を著て、頭には水色のきれをかぶっている。その女の前には鍋に何か煮てあり、それから白い蒸気いきが立ち、鍋の下に赤い火の燃えているところが画いてある。そのあたり一面は小石原で、石と石との間には草が生えている。セガンチニは、すべてそういうものをば種々の原色の顔料で、一筆一筆に盛りあげている。その丹念にって、絵に静さと厚みとが出来て来て、甘い感傷性と或る調和を保っていたのであった。女の右手には一匹の大きい斑牛がいて頸に鈴が附いている。あたかもいま吠えているところで、頸を延べ口をあいたままを画いてある。その牛の彼方かなた向うには柵と牧場とがあって、一人の男が多くの牛羊を連出すところを段々と遠くに画いてある。その向うには既に峻峰が迫っており、左手には寂しい人家を画いている。女の膝のところには焚火の火明りがうつっているから、暁が未だほの暗いのであるが、太陽が暫くするとのぼる気配を示して、黄色の光の放射しかけているように画いている。その他の空の部分は黄・赤・紫・青など細かい顔料で埋めてある。
 丹念で静かなこの絵は、アルプス高山国の農民を題材として、疲れた旅人の僕の心を慰めてくれたのであったが、今も僕は Rigi 山上にあってそれらの絵を思いおこし、その写象は一種の現実性を帯びて僕の眉間にあらわれるのであった。けれども僕はそういう静かな愛と神秘から、ハウプトマン劇にあるようなもっと熱したものにも聯想が移ったが、若い僧が山上にのぼって行くと、山羊の牝が寄って来て、僧の持っている聖典を食べてしまうあたり、豊かな娘のその紅いくちびると心臓の鼓動と、そういうものにも移って行ったが、それは長続せずに消えた。物売の女らの帰りかけたこの丘は、ほしいままに寒風が通り、湖水の光もそれをよろう山嶽も、その山嶽の上に無限に畳まって見える山嶽の雪も、ついに僕をして大戦後に起った熱烈難渋な芸術にはしたしましめなかった。
「だいぶ日が短かくなったようだな。やっぱりあの湖水の方が南らしいね」「そうね。巴里パリを立ってから、もう幾日いくんちか知ら」「もうそろそろ二月ふたつきだね。海峡でお前反吐へどついたでないか。西洋人の尼の奴もお前の側で反吐ついていたったね」「あたし、もうホテルへ帰るわ。此処のところはだいぶ寒い」。
 妻と二人は「頂上」の丘を下りて旅舎ホテルに帰って来た。玄関で絵葉書などを買って、そこの貼紙を見ると、「御客様方は、日の出三十分前に、アルプス山の角笛を以てお起こし申上げます」※(2分の1、1-9-20)St. vor Sonnenaufgang werden die Gaeste durch Alphornblasen geweckt“と書いてあった。

 帰って来て見ると、部屋は正方形ではなくかどのところが少しく欠けている。その部屋に小さい寝床が二つ並んでおり、円い卓が一つと、椅子が三つばかりある。
 僕は外套を著、頸に襟巻を巻いて、窓の玻璃はりに顔をおしつけるようにして山を見ていた。山は旅舎ホテルから南方にたたなわるもので、近いところから段々奥の方の山になると既に白い雪が降って水晶の結晶群を見るようである。窓の玻璃が僕のつく息で曇るのを、僕は手のひらで拭いた。
 太陽は右手の山の向うに没したらしく、山の色が刻々に変って行った。それから下の方にある湖水の一部分が鉛のように見えたり、深い蒼色に見えたりしているうちに、雲が幾通りにも湧いて来て湖の方へ沈んで行った。暮色のおのずから到ったころ、窓の下を太いズボンを穿いたひとりの若者が煙管きせるをくわえながら通るのが見えた。
 そうして僕は沈黙して小一時間も山嶽を見ていただろう。妻は妻で、山嶽などは見なかった。外套を著たまま妻は両手を円卓に突いて※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみのところをおさえているうちに自然と両眼を瞑っただろう。山上のこの部屋の小一時間は、二人に調和があるようでもあり、ないようでもあった。
 そのうちに電気燈がともった。二人は思出したように相顧みて外套をぬぎ、幾らか儀容をただして食堂に下りて行った。食堂は大広間で立派であった。真夏の頃はこの食堂に客が一杯になるらしいが、きょうはせいぜい三組か五組しかいない。僕らは窓際の食卓に就くと、給仕は其処に電気暖炉を持って来てくれたりした。
 料理は凝ったうまいものを食べさせた。二人は、白葡萄酒などを飲み、しばらくぶりで静かな夕餐ゆうさんをしたのであった。それからサロンに行って新聞などを見、きょう立ってこの山上にのぼって来た道筋だの、明日立ってこの山をくだる旅程だのを話合った。それから生れ故郷の誰彼に便りを書こうとしたが、ただ独逸にいる一人の友に絵ハガキ一枚書いたに過ぎなかった。
 差向き僕らは体のつかれを休めようと欲してサロンを辞した。そして廊下で一人の女中に通り過がったが、その女中は僕らに会釈をして通って行った。さらに部屋に帰って見れば、「籠る感じ」である。邪魔するもののない気安さと落付があるに相違ないから、ふたりは突慳つっけんに相争うようなことはなかった。けれども今此処を領している静寂はついに二人に情感の渦を起させることがない。ふたりは暫らく無言で部屋のなかにいたけれども、僕は今度は服を脱して床のなかにもぐり込んだ。
 そうすると床のなかに湯婆ゆたんぽが入れてあった。「おや湯婆が這入っているぜ。……やっぱり山中やまんなかは何か工合のいいところがあるな」そんなことを僕がいって、足で触ってみると民顕ミュンヘンあたりの湯婆とは感じが違うから、引出すと徳利のような恰好をした湯婆であった。
「あたしの方にも入れてあるかしら」
「あら、やっぱし入れてあるわ」
「これはまた妙ね。お酒か何かの入物いれものじゃないの」
「そうだわ。此処に何かしるしがあるんじゃないの。これはまた妙ね」
 僕の妻はそんなことをいいいい、徳利のような湯婆を元に戻して、それから何かしている様子であったが、自分の床に這入って行った。僕は初めて維也納ウインナで冬を越したとき、宿の婆さんに頼んでようやく四角なブルキ製の湯婆を見付けてもらったのであったけれども、それではやはり駄目であった。そこで僕は欧羅巴ヨーロッパの人々は湯婆を余り用いぬものと観念して、冬の夜を宿に帰って寝るまでは大部分カフェで過ごすようにしたのであった。しかるに独逸の民顕に来てみると此処には完全な銅製のものからブルキ製のものまで湯婆が揃っており、また机に向っていて足を暖める電気為掛じかけの装置も出来ていたので、僕は寒さの厳しい民顕の冬を凌ぐことが出来た。
 電燈を消してから暫くになるが、妙に僕の目が冴えている。夜は静かで、沁み透るようである。虫の音なんかも聞こえず、がんのこえなんかもしない。妻はいつの間にか幽かな息をしながら寝入ったらしい。
 湯婆に触って見ると未だ冷めずにいる。観念のつながりは、所詮しょせん僕の妻は、天竺てんじくのむかし難陀なんだの妻孫陀利すんたりのようには行かぬということに落ちて行った。しかし大迦葉だいかしょうは、清浄な顔をしていた妻の妙賢女みょうけんにょ合会ごうえすることなしに十二年を経たとも聞いている。僕の観念のつながりはそういうところにも落ちて行った。さて僕はやや諸国を遍歴して今アルプス山脈の中にいるのであるが、日本の国土にいるような気もしている。その差別は今の瞬間にはない。
 僕は一ねむり二ねむりもしたと思うけれども未だ眠から醒めていない。その時に既に角笛は鳴りはじめていた。はじめのうちは半ば夢のような状態で、間の延びた物哀ものあわれな角笛の音律を聞くともなく聞いていたのであったが、意識がようやく醒めて来るに従って、節まわしが少し巧者過ぎるから喇叭ラッパではないか知らんなどとも疑ったりした。
 けれどもそれは普通の喇叭などでなかったから、目ざめて見れば二たび僕らをばアルプス山上の気持に引戻すのであった。程経ほどへて僕らは起きた。それからなるべく寒くないように著込んで階段をのぼって行き、東方にむかう窓のところに佇立ちょりつして、いまだ黒く明け切らない、山脈の上の空がほんのりと黄色いのを見ていた。
 変にこごった雲のかたまりが少しずつ動いているらしく、その上方の鋭い山脈の色合が黒から藍と変って来ても、西洋人どもは誰ひとり見に来なかった。そこで僕は部屋に行って毛布を持って来、二人はそれで寒さを防ぎながら随分辛抱づよく其処に立っていた。
 そこで、つまり僕たちふたりは障礙しょうがいを微塵も受けずにアルプス山上の美しい日の出を見たのであった。僕は独逸文学のことは好く知らずにしまうが、その中には日出写生のいい文章は幾つかあるであろう。山上の美しい日の出は、いわば劫初ごうしょの気持であり、開運のしるしでもある。それに較べると、現に連れ添うている、我執をもつ僕の妻なんかは、実に奇妙な者のような気がしたのであった。

底本:「日本の名随筆72 夜」作品社
   1988(昭和63)年10月25日第1刷発行
   1999(平成11)年4月30日第7刷発行
底本の親本:「斎藤茂吉随筆集」岩波書店
   1986(昭和61)年10月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では、「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年5月30日作成
2011年4月15日修正
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