よろめける姿どもよ。再び我前に近づき来たるよ。
いでや、こたびはしも汝達を捉へんことを試みんか。
我心猶そのかみの夢を懐かしみすと覚ゆや。
汝達我に薄る。さらば好し。靄と霧との中より
5
我身のめぐりに浮び出でて、さながらに立ち振舞へかし。汝達の列のめぐりに漂へる、奇しき息に、
我胸は若やかに揺らるゝ心地す。
楽しかりし日のくさ/″\の象を汝達は齎せり。
さて許多のめでたき影ども浮び出づ。
10
半ば忘られぬる古き物語の如く、初恋も始ての友情も諸共に立ち現る。
歎は新になりぬ。訴は我世の
蜘手なし迷へる歩を繰り返す。
さて幸に欺かれて、美しかりぬべき時を失ひ、
15
我に先立ちて去にし善き人等の名を呼ぶ。我が初の数を歌ひて聞せし霊等は
後の数をば聞かじ。
親しかりし団欒は散けぬ。
あはれ、始て聞きつる反響は消えぬ。
20
我歎は知らぬ群の耳に入る。その群の褒むる声さへ我心を傷ましむ。
かつて我歌を楽み聞きし誰彼
猶世にありとも、そは今所々に散りて流離ひをれり。
昔あこがれし、静けく、厳しき霊の国をば
25
久しく忘れたりしに、その係恋に我また襲はる。我が囁く曲は、アイオルスの箏の如く、
定かならぬ音をなして漂へり。
我慄に襲はる。涙相踵いで堕つ。
厳しき心和み軟げるを覚ゆ。
30
今我が持たる物遠き処にあるかと見えて、消え失せつる物、我がためには、現前せる姿になれり。
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座長。座附詩人。道化方。
座長これまで度々難儀に逢った時も、
わたくしの手助になってくれられた君方二人だ。
こん度の企がこの独逸国でどの位成功するだろうか、
35
一つ君方の見込が聞きたいのだがね。殊に見物は自分達が楽んで、人にも楽ませようとしているのだから、
わたくしもなるたけ見物の気に入るようにしたいのです。
もう小屋も掛かり、舞台も出来ていて、
みんながさあ、これからがお慰だと待っている。
40
誰も彼もゆったりと腰を落ち着けて、眉毛を吊るし上げて、さあ、どうぞびっくりするような目に逢わせて貰いたいと思っている。
わたくしだって、どうすれば大勢の気に入ると云うことは知っている。
しかしこん度程どうして好いか分からないことはないのです。
何も見物が最善のものに慣れていると云うのではない。
45
ですが、兎に角いろんな物を恐ろしく沢山読んでいるのですな。何もかも新らしく見えて、そして意義があって
人の気に入るようにするには、どうしたら好いでしょう。
なぜそう云うかと云うと、わたくしは一番大当りがさせて見たい。
見物が人波を打ってこの小屋へ寄せて来て、
50
狭い恵の門口を通ろうとして、何度押し戻されてもまた力一ぱいに押し押しして、
まだ明るいうちに、四時にもならないうちに、
腕ずくで札売場の口に漕ぎ附けて、
丁度饑饉の年に麪包屋の戸口に来るように、
55
一枚の入場券を首に賭けても取ろうとする、そう云う奇蹟を、一人々々趣味の違う見物の群に起させるのは
詩人だけですね。どうぞ、君、こん度はそんな按排に願いたいですな。
詩人
いや。どうぞあの見物と云う、色変りの寄合勢の事を
言わないで下さい。あれを見ると、詩人の霊は逃げるのです。
60
あの、厭がるわたくし共を、無理に渦巻に巻き込もうとする人の波を、わたくし共の目に見せないように隠して下さい。
それと違って、詩人だけに清い歓喜の花を咲かせて見せる、
静かな天上の隠家へ、わたくしを遣って下さい。
あそこでは愛と友情とが、神々の手で、
65
わたくし共の胸の祝福を造って、育ててくれるのです。あそこで胸の底から流れ出るのを、
口が片言のようにはにかみながら囁いて見て、
どうかすると出来損ね、ひょいとまた旨く出来る。
それをあらあらしい刹那の力が呑み込んでしまうのです。
70
どうかすると、何年も立って見てから、やっと完璧になることもあります。
ちょいと光って目立つものは一時のために生れたので、
真なるものが後の世までも滅びずにいるのですね。
道化方
後の世がどうのこうのと云うことだけはわたくしは聞きたくありませんな。
75
わたくしなんぞが後の世に構っていた日には、誰が今の人を笑わせるでしょう。
みんなが笑いたがっているし、また笑わせなくてはならないのです。
役者にちゃんとした野郎が一匹いると云うのは、
兎に角一廉の利方だと、わたくしには思われます。
80
まあ、気持の好い調子に遣る男でさえあれば、人の機嫌を気に掛けるような事はありますまい。
そう云う男は、見物の頭数を多くした方が、
却て感動させ易いから、その方を望むのです。
まあ、あなたは平気で、しっかりした態度を示して、
85
空想に、あるだけの取巻を附けて聞せて下さるですな。取巻は理性に悟性に感覚に熱情、なんでも結構でさあ。
だが、おどけと云う奴を忘れてはいけませんぜ。
座長
なんでも出来事の多いが好いのですよ。
みんなは見に来るのです。見ることが大好きなのです。
90
見物が驚いて、口を開いて見ているように、目の前でいろんな事が発展して行くようにすれば、
多数が身方になってくれることは受合です。
そうなればあなたは人気作者だ。
なんでも大勢を手に入れるには、嵩でこなすに限る。
95
そうすれば、その中から手ん手に何かしら捜し出します。沢山物を出して見せれば何かしら見附ける人の数が殖える。
そこで誰も彼も満足して帰って行くのですね。
纏った筋の狂言でも、なるたけ砕いて見せて下さい。
こう骨董羹と云う按排に、お手際で出来そうなものだ。
100
骨の折れない工夫で、骨の折れないお膳立をするのです。縦しやあなたの方で纏った物を出したところで、
どうせ見物はこわして見るのですからな。
詩人
いや。そんな細工がどの位悪いか、あなた方には分からないのです。
真の芸術家にどの位不似合だか、分からないのです。
105
その様子では、いかがわしい先生方の白人為事が、あなた方の所では、金科玉条になっていると見えますね。
座長
そんな悪口を言ったって、わたくしはおこらない。
なんでも男が為事を成功させようと云うには、
一番好い道具を使うと云うところに目を附けるのです。
110
思って御覧なさい。あなた方は軟い木を割る役だ。誰を相手に書くのだか、目を開いて見て下さい。
退屈まぎれに来る客もあれば、
えらい馳走に逢った跡で、腹ごなしに来る客もある。
それから一番の困りものは
115
新聞雑誌を読み厭きてから遣って来る。仮装舞踏へでも行くように、うっかりして駆け附ける。
その足を早めるのは、物見高い心持ばかりです。
女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、
給金なしで一しょに芸をしてくれる。
120
一体あなた方は詩人の高みでなんの夢を見ているのです。大入がなんであなた方は嬉しいのです。
まあ、その愛顧のお客様を近く寄って御覧なさい。
半分は冷澹で半分は野蛮です。
芝居がはねたら、トランプをしようと云うのもあれば、
125
娼妓の胸に食っ附いて、一夜を暴れ明かそうと云うのもある。そうした目的であって見れば、優しい詩の女神達に
ひどく苦労をさせるのは、馬鹿正直ではないでしょうか。
まあ、わたくしの意見では、たっぷり馳走をするですな。
どこまでもたっぷり遣るですな。それならはずれっこなしだ。
130
どうせ人間を満足させるわけには行かないから、ただ烟に巻いて遣るようにすれば好い。
おや。どうしたのです。感心したのですか。せつないのですか。
詩人
いや、そう云うわけならあなたの奴隷を外から連れておいでなさい。
天が詩人には最上の権を、
135
人権を与えている。それをあなたのために擲たなくてはならないのですか。
一体詩人はなんでみんなの胸を波立たせるのです。
なんで地水火風に打ち勝つのです。
その胸から迫り出て、全世界をその胸に
140
畳み込ませる諧調でないでしょうか。自然は無際限なる長さの糸に、
意味もなく縒を掛けて紡錘に巻くに過ぎない。
万物の雑然たる群は
不精々々に互に響を合せているに過ぎない。
145
そのいつも一様に流れて行く列を、節奏が附いて動くように、賑やかに句切るのは誰ですか。
一つ一つに離れたものを総ての秩序に呼び入れて、
調子が美しく合うようにするのは誰ですか。
誰が怒罵号泣の暴風を吹き荒ませるのです。
150
夕映を意味深い色に染め出すのです。誰が恋中の二人が歩む道のゆく手に
美しい春の花を蒔くのです。
誰が種々の功を立てた人のために
見栄のしない青葉を誉の輪飾に編むのです。
155
誰がオリンポスの山を崩さずに置いて、神々を集わせるのです。人間の力が詩人によって啓示せられるのではありませんか。
道化方
そんならあなたその美しい力を使って、
詩人商売をお遣りなさるが好いでしょう。
まあ、ちょいと色事をするようなものでしょうね。
160
ふいと落ち合って、なんとか思って足が留まる。それから段々縺れ合って来る。
初手は嬉しい中になる。それから傍が水をさす。
浮れて遊ぶ隙もなく、いつか苦労が出来て来る。
なんの気なしでいるうちに、つい小説になっている。
165
狂言もこんな風に為組んで見せようじゃありませんか。充実している人生の真ん中に手を下すですね。
誰でも遣っている事で、そこに誰でもは気が附かぬ。
あなたが攫み出して来れば、そこが面白くなるのですね。
誰彼となく旨がって、為めになると思うような、
170
極上の酒を醸すには、交った色を賑やかに、澄んだ処を少くして、
間違だらけの間から、真理の光をちょいと見せる。
そうすればあなたの狂言を、青年男女の選抜が
見物しに寄って来て、あなたの啓示に耳を欹てるのです。
175
そうすれば心の優しい限の人があなたの作からメランコリアの露を吸い取るのです。
そうすれば人の心のそこここをそそって、
誰の胸にも応えるのです。
そう云う若い連中なら、まだ笑いでも泣きでもする。
180
はずんだ事がまだ好で、見えや形を面白がる。出来上がった人間には、どんなにしても気には入らない。
難有く思うのは、出来掛かっている人間です。
詩人
なるほどそうかも知れないが、そんならこのわたくしが
やはり出来掛かった人間であった時を返して下さい。
185
内から迫り出るような詩の泉が絶間なく涌いていた、あの時です。
霧に世界は包まれていて、
含める莟に咲いての後の奇蹟を待たせられた時です。
谷々に咲き満ちている
190
千万の草の花をわたくしが摘んだ時です。その頃わたくしは何も持っていずに満足していた。
真理を求めると同時に、幻を愛していたからです。
どうぞわたくしにあの時の欲望、
あの時の深い、そして多くの苦痛を伴っている幸福、
195
あの時の憎の力や愛の力を、耗らさずに返して下さい。わたくしの青春をわたくしに返して下さい。
道化方
いや。その青春のなくてならない場合は少し違います。
戦場で敵にあなたが襲われた時、
愛くるしい娘の子が両の腕に力を籠めて、
200
あなたの頸に抱き附いた時、先を争う駆足に、遥か向うの決勝点から
名誉の輪飾があなたをさしまねいた時、
旋風にも譬えつべき、烈しい舞踏をした跡で、
宴に幾夜をも飲み明そうとする時などがそれです。
205
それとは違って、大胆に、しかも優しく馴れた音じめに演奏の手を下して、
自分で極めた大詰へみやびやかな迷の路を
さまよいながら運ばせる、
それはあなた方、老錬な方々のお務です。
210
そしてわたくしどもはそのあなた方にも劣らぬ敬意を表します。老いては子供に返るとは、世の人のさかしらで、
真の子供のままでいるのが、老人方の美点です。
座長
いや。議論はいろいろ伺ったが
この上は実行が拝見したいものですね。
215
あなた方のように、お世辞を言い合っている程なら、その隙に何か役に立つ事が出来そうなものです。
気乗のした時遣りたいなどと、云っているのは駄目でしょう。
気兼をして遅疑する人には、調子が乗っては来ますまい。
詩人と名告って出られた以上は、
220
兵を使うと同じように、号令で詩を使って下さい。わたくしどもの希望は御承知の通だ。
なんでも強い酒が飲ませてお貰申したい。
どうぞ早速醸造に掛かって下さい。
きょう出来ないようなら、あすも駄目です。
225
一日だって無駄に過してはいけません。髻を攫んで放さぬように、出来そうな事件を
決心がしっかり押えなくてはいけない。
またその決心がある以上は、押えたものを放しはなさるまい。
そこで厭でも事件は運んで行くですね。
230
御承知の通この独逸の舞台では誰でも好な事を遣って見るのです。
ですからこん度の為事では
計画や道具に御遠慮はいらない。
上明も大小ともにお使い下さい。
235
星も沢山お光らせなすって宜しい。水為掛も好い。火も好い。岩組なども結構です。
鳥もお飛ばせなさい。獣もお駈けらせなさい。
造化万物何から何まで
狭い舞台にお並べ下さい。
240
さて落ち着きはらって、すばしこく、天からこの世へ、この世から地獄へと事件を運ばせてお貰い申しましょう。
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主。天宮の衛士。後にメフィストフェレス。
天使の長三人進み出づ。
ラファエル天使の長三人進み出づ。
昔のままの節博士で、同胞の星の群と、
日は合唱の音を立てている。
そして霹靂の歩をして
245
極まった軌道を行く処まで行く。天使の中で誰一人その理を知ってはいぬが、
それを見たばかりで、天使は皆強みを覚える。
天地のなりいでた日に較べても、不可思議な、
崇高な万物は同じ荘厳を保っている。
250
ガブリエルそして早く、不可思議に早く
美しい大地がみずから回転している。
天国のような明るさと
深い、恐ろしい夜とが交代する。
巌石の畳み成せる深い底から
255
幅広い潮流をなして海は泡立つ。その巌も海も、永遠に早い軌道の歩に
引き入れられて、共に廻るのである。
ミハエル
そして海から陸へ、陸から海へ、
暴風は怒号して往き、怒号して返る。
260
その往いては返る競争で、吹き過ぐる周囲に深甚なる作用の連鎖が作られる。
ともすれば雷電の破壊の焔が
道のゆくてに燃え上がる。
しかし、主よ、御身の使徒等は
265
御身の世の穏かなる推移を敬っている。三人共に
天使の中で誰一人御身の心を知ってはいぬが、
これを見たばかりで、天使は皆強みを覚える。
そして御身が造れる一切の崇高な万物は
天地のなりいでた日と同じ荘厳を保っている。
270
メフィストフェレスいや、檀那。お前さんがまた遣って来て、
こちとらの世界が、どんな工合になっているか見て下さる。
そして不断わたしをも贔屓にして下さるのだから、
わたしもお前さん所の奉公人に交って顔を出しました。
御免なさいよ。ここいらの連中が冷かすかも知れないが、
275
わたしには気取った言草は出来ない。わざと気取って見たところでお前さんが笑うだけだ。
それとも笑うなんと云うことはもう忘れていなさるかしら。
奉公人達の云う日だの星だのの事はわたしは知らない。
わたしは人間と云う奴の苦むのを見ているだけだ。
280
人間と云うこの世界の小さい神様は今も同じ性に出来ていて、それこそ天地のなりいでし日と同じ気まぐれを保っています。
お前さんがあいつ等に天の光の影をお遣りなさらなかったら、
も少しは工合好く暮して行くのでしょうがね。
人間はあれを理性と謂ってどうそれを使うかと云うと、
285
どの獣よりも獣らしく振舞うために使うのです。まあ、お前さんの前だが、飛足のある虫の中の
と云う奴のように
飛んだり跳ねたりばっかりしていて、
直ぐ草の中に潜っては昔のままの歌を歌う。
290
草の中だけで我慢していてくれれば結構だが、どのどぶにも鼻を衝っ込みゃあがるのですよ。
主
お前の云うことはそれだけかい。
いつでも苦情ばかり言いに来るのか。
いつまで立っても下界の事がお前には気に入らないのか。
295
メフィストフェレスそうですね、檀那。わたしにはいつも随分厭に見えますね。
人間と云う奴が毎日苦んでいるのを見ると、気の毒になってしまう。
わたしでさえもう揶揄って遣るのが厭になる位です。
主
ふん。お前ファウストを知っているか。
メフィストフェレス
あのドクトルですかい。
主
うん。己の子分だ。
メフィストフェレス
さようさ。あいつは妙な行方でお前さんに奉公しています。
300
あの変人はこの世の物を飲みも食いもしませんね。湧き立つ胸のごたごたが遠くの方へとあいつをこがれさせる。
自分が変だと云うことを半分知っているのでしょう。
天の一番美しい星を取ろうとしているかと思えば、
地の一番深い楽をも極めようとしています。
305
そして遠い望も近い望も、あいつの湧き返っている胸に満足を与えないのですね。
主
なるほど、あれは今の処で夢中で奉公しているが、
早晩心の澄む境へ己が導いて行って遣る。
見い、植木屋でも、緑に芽ぐむ木を見れば、
310
翌年は花が咲き実がなるのを知るではないか。メフィストフェレス
どうです、檀那、何を賭けますか。あいつに裏切をさせて、
お前さんさえ承知なさりゃあ、
そろそろわたしの道へ引き込んで遣りたいのですが。
主
それはあれが下界に生きている間は、
315
お前がどうしようと、己は別に止めはしない。人は務めている間は、迷うに極まったものだからな。
メフィストフェレス
それは難有うございます。なぜと云うに、死人なんぞに
構っているのは、わたしゃあ本から厭ですから。
わたしゃあふっくりした、色沢の好い頬っぺたが一番好だ。
320
亡者が来りゃあわたしゃあ留守を使って遣ります。猫だって死んだ鼠は相手にしませんからね。
主
宜しい。そんならお前に任せて置く。
あの男の霊を、その本源から引き放して、
お前にそれが出来るなら、
325
お前の道へ連れて降りて見い。だがな、いつかはお前恐れ入って、こう云うぞよ。
「善い人間は、よしや暗黒な内の促に動されていても、
始終正しい道を忘れてはいないものだ」と云うぞよ。
メフィストフェレス
好うがす。ただ少しの間の事です。
330
この賭に負ける心配はない積りだ。わたしの思い通りになったら、
どうま声で勝鬨を揚げさせて下さい。
あの先生に五味を食わせて見せます。旨がって食います。
わたしの姪の、あの評判の蛇のように。
335
主好い。今度もお前の気儘にさせて遣る。
己は本からお前達の仲間を憎んだことはない。
物を否定する霊どもの中で、
己の一番荷厄介にしないのは横着物だ。
一体人間のしている事は兎角たゆみ勝ちになる。
340
少し間が好いと絶待的に休むのが好きだ。そこで己は刺戟したり、ひねったりする奴を、
あいつ等に附けて置いて、悪魔として為事をさせるのだ。
さてお前達、本当の神の子等はな、
生々した、豊かな美しさを見て楽むが好い。
345
永遠に製作し活動する生々の力が、愛の優しい埒をお前達の周囲に結うようにしよう。
お前達はゆらぐ現象として漂っているものを、
持久する思惟で繋ぎ止めて行くが好い。
(天は閉ぢ、天使の長等散ず。)
メフィストフェレス(一人。)己は折々あのお爺いさんに逢うのが好だ。
350
そこで附合がまずくならないように気を附けている。悪魔にさえあんな風に人間らしく話をしてくれるのは、
大檀那の身の上では感心な事さね。
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狭き、ゴチック式の室の、高き円天井の下に、ファウストは不安なる態度にて、卓を前にし、椅子に坐してゐる。
ファウストはてさて、己は哲学も
法学も医学も
355
あらずもがなの神学も熱心に勉強して、底の底まで研究した。
そうしてここにこうしている。気の毒な、馬鹿な己だな。
そのくせなんにもしなかった昔より、ちっともえらくはなっていない。
マギステルでござるの、ドクトルでござるのと学位倒れで、
360
もう彼此十年が間、弔り上げたり、引き卸したり、竪横十文字に、
学生どもの鼻柱を撮まんで引き廻している。
そして己達に何も知れるものでないと、己は見ているのだ。
それを思えば、ほとんどこの胸が焦げそうだ。
365
勿論世間でドクトルだ、マギステルだ、学者だ、牧師だと云う、一切の馬鹿者どもに較べれば、己の方が気は利いている。
己は疑惑に悩まされるようなことはない。
地獄も悪魔もこわくはない。
その代り己には一切の歓喜がなくなった。
370
一廉の事を知っていると云う自惚もなく、人間を改良するように、済度するように、
教えることが出来ようと云う自惚もない。
それに己は金も品物も持っていず、
世間の栄華や名聞も持っていない。
375
この上こうしていろと云ったら、狗もかぶりを振るだろう。それで霊の威力や啓示で、
いくらか秘密が己に分かろうかと思って、
己は魔法に這入った。
その秘密が分かったら、辛酸の汗を流して、
380
うぬが知らぬ事を人に言わいでも済もうと思ったのだ。一体この世界を奥の奥で統べているのは何か。
それが知りたい。そこで働いている一切の力、一切の種子は何か。
それが見たい。それを知って、それを見たら、
無用の舌を弄せないでも済もうと思ったのだ。
385
ああ。空に照っている、満ちた月。この机の傍で、己が眠らずに
真夜中を過したのは幾度だろう。
この己の苦をお前の照すのが、今宵を終であれば好いに。
悲しげな友よ。そう云う晩にお前は
390
色々の書物や紙の上に照っていた。ああ。お前のその可哀らしい光の下に、
高い山の背を歩くことは出来まいか。
霊どもと山の洞穴のあたりを飛行することは出来まいか。
野の上のお前の微かな影のうちに住むことは出来まいか。
395
あらゆる知識の塵の中から蝉脱して、お前の露を浴びて体を直すことは出来まいか。
ああ、せつない。己はまだこの牢屋に蟄しているのか。
ここは咀われた、鬱陶しい石壁の穴だ。
可哀らしい空の光も、ここへは濁って、
400
窓の硝子画を透って通うのだ。この穴はこの積み上げた書物で狭められている。
蠧魚に食われ、塵埃に掩われて、
円天井近くまで積み上げてある。
それに煤けた見出しの紙札が挿んである。
405
この穴には瓶や缶が隅々に並べてある。色々の器械が所狭きまで詰め込んである。
お負けに先祖伝来の家具までが入れてある。
やれやれ。これが貴様の世界だ。これが世界と云われようか。
貴様はこんな処にいて、貴様の胸の中で心の臓が
410
窮屈げに艱んでいるのを、まだ不審がる気か。あらゆる生の発動を、なぜか分からぬ苦が
障礙するのを、まだ不審がる気か。
神は人間を生きた自然の中へ
造り込んで置いてくれたのに、
415
お前は烟と腐敗した物との中で、人や鳥獣の骸骨に取り巻かれているのだ。
さあ、逃げんか。広い世界へ出て行かぬか。
ここにノストラダムスが自筆で書いて、
深秘を伝えた本がある。
420
貴様の旅立つ案内には、これがあれば足りるではないか。そして自然の教を受けたなら、
星の歩がお前に知れて、
霊が霊に語るが如くに、
貴様の霊妙な力が醒めよう。
425
いや。こうして思慮を費して、この神聖な符を味っていたって駄目だ。
こりゃ。お前達、霊ども。お前達は己の傍にさまよっていよう。
己の詞が聞えるなら、返事をせい。
(書を開き、大天地の符を観る。)
や。これを見ると、己のあらゆる官能に430
忽ちなんとも言えぬ歓喜が漲る。青春の、神聖なる生の幸福が新に燃えるように
己の脈絡や神経の中を流れるのが分かる。
この符を書いたのは神ではあるまいか。
己の内生活の騒擾を鎮めて、
435
歓喜を己の不便な胸のうちに充たし、己の身を取り巻いている自然の、一切の力を、
微妙に促して暴露させて見せるのはこの符だ。
己が神ではあるまいか。不思議に心が澄んで来る。
この符の清浄な画を見ているうちに、
440
活動している自然が、己の霊のために現前する。今やっと思い当るのは、古の賢人の詞だ。
「霊の世界は鎖されたるにあらず。
汝が耳目壅れり。汝が心胸死せり。
起て、学徒。誓ひて退転せず、
445
塵界の胸を暁天の光に浴せしめよ。」
(符を観る。)
一々の物が全体に気息を通じて、物と物とが相互にそれぞれ交感し合っている。
黄金の釣瓶を卸してはまた汲む如く、天上の
諸の力が降ってはまた昇る。
450
その総てが、祝福の香を送る翼を振って、天から下界へ通って来て、
諧調をなして万有のうちに鳴り渡る。
なんと云う壮観だろう。だが、惜むらくは見物たるに過ぎぬ。
ああ、無辺際なる自然よ。己はどこを攫まえよう。
455
一切の物の乳房等よ。己はどれを手に取ろう。天地の命根の通っている、一切の生の泉等よ。
枯れ衰えた己の胸のあこがれ迫る泉等よ。汝達は湧いている。
汝達は人に飲ませている。それに己は徒に渇せねばならぬか。
(憤慨せる様にて書を飜し、地の精の符を観る。)
はて、この符の己に感じる工合はよほど違う。460
こりゃ、地の精。お前は大ぶ己に近い。もう己の力が加わって来るらしい。
もう新しい酒に酔ったような気がする。
危険を冒して世の中に出て、
下界の苦痛をも、下界の幸福をも受け、
465
暴風に逆って奮闘し、沈まんとする舟のきしめきにも逡巡しない勇気を身に覚える。
はあ。己の頭の上に雲が涌いて来た。
月の光が隠れてしまった。
燈火も見えなくなった。
470
湯気のようなものが立つ。己の頭の周囲に稲妻のように赤いが閃く。円天井から
陰森の気が吹き卸して来て、
己の身を襲う。
己は感じる。お前、身の辺に漂っているな。招き寄せた霊奴。
475
形を顕せ。はあ。己の胸の底へ引き弔るようにひびく。
新しい感じに
あらゆる己の官能が掻き乱される。
己の心を全くお前に委ねたように感じる。
480
形を顕せ。形を顕せ。己の命を取られても好い。
(本を手に取り、地の精の呪文を深秘なる調子にて唱ふ。赤き燃え立ちて、精霊の中に現る。)
霊己を呼ぶのは誰だ。
ファウスト(顔を背向く。)
気味の悪い姿だな。
霊
お前は長い間己の境界に、吸引の力を逞ゅうして、
強く己を引き寄せたな。
そしてどうする。
ファウスト
ああ、せつない。己はもう堪えられぬ。
485
霊お前はと息を衝きながら己に目のあたり逢って、
己の声を聞き、己の顔を見ようと願う。
お前の霊の願が己を引き寄せている。
さあ、ここに来ている。なんと云うけちな恐怖が
超人を以て居るお前を襲っているのだ。霊の叫はどこにある。
490
自分だけの世界を造って、それを負うて、培うた胸、己達霊どもと同じ高さの位置に立とうと、
歓喜の震を以て張った胸はどこにある。
己に声を聞せたファウスト
力一ぱい己に薄って来たファウストはどこにいる。
495
その男がお前か。己の息に触れたばかりで、性命の底から震い上がって、
臆病にも縮んでいる虫がその男か。
ファウスト
ああ。の姿のそちを見て、なんの己がたじろくものか。
己だ。ファウストだ。お前達の仲間だ。
500
霊生の流に、事業の暴風に
身を委ねて降りては昇る。
かなたこなたへ往いては返る。
産の褥、死の冢穴。
常世の海原。
505
経緯の糸の交。燃ゆる命。
かくて「時」のさわ立つ機を己は織る。
神の生ける衣を織る。
ファウスト
広い世界を飛びめぐる忙しい霊よ。
510
己はお前をどれ程か親しく思っているぞ。霊
いや。お前に分かる霊にこそお前は似ている。
己には似ておらん。(消ゆ。)
ファウスト(挫け倒る。)
お前には似ておらんと云うか。
そんなら誰に似ている。
515
神の姿をそのままに写された己だ。それがお前にさえ似ないと云うのか。
(戸を敲く音す。)
ああ、死だ。分かっている。あれは内の学僕だ。己の最上の幸福が駄目になる。
これ程の顕現の満ち満ちている刹那を、
520
あの抜足をして歩くような乾燥無味な男が妨げるのか。
(ワグネル寝衣を著、寝る時被る帽を被り、手に燈を取て登場。ファウスト不機嫌らしく顔を背向く。)
ワグネル御免下さいまし。あなたの御朗読をなさるのが聞えましたので、
おお方グレシアの悲壮劇をお読みになるのだろうと存じました。
わたくしも少し覚えて得をいたしたいと存じます。
なんでも当節はそう云うことは受が好いのでございます。
525
誰やらが申すのを承りましたが、俳優は牧師の師匠になっても宜しいと申すことで。
ファウスト
それは牧師が俳優であったらそうであろう。
追々そんな風になるまいものでもない。
ワグネル
わたくしのように研究室の中に縛られていて、
530
世間を見るのは、やっと休日に遠い処から遠目金で見るような事では、
どうして言論で世間を説き動すことが出来ましょう。
ファウスト
それは君が自分で感じていて、それが肺腑から流れ出て、
聞いているみんなの心を
535
根強い興味で引き附けなくては、世間を擒にすることは出来ない。
そんなにして据わっていて、膠で接ぎ合せて、
人の馳走の余物で骨董羹を拵えて、
君の火消壺の中から
540
けちな火を吹き起しても、それでは子供や猿どもでなくては感心はしない。
それが望ならそれまでの事だ。
どうせ君の肺腑から出た事でなくては、
人の肺腑に徹するものではない。
545
ワグネル先生のお詞ですが、演説家は雄弁法で成功します。
どうもその研究が足りないのが、わたくしには分かっています。
ファウスト
いや。成功しようと云うには、正直に遣らなくてはいかん。
鐘大鼓で叩き立てる馬鹿者になってはいかん。
智慧があって、切実な議論をするのなら、
550
技巧を弄せないでも演説は独りでに出来る。何か真面目に言おうと思う事があるのなら、
なんの詞なんぞを飾るに及ぶものか。
どうかすると君方の演説は人世の紙屑で
上手な細工がしてあって、光彩陸離としていても、
555
それは秋になって枯葉を吹きまくる湿った風のように気持の悪いものだ。
ワグネル
はいはい。「学芸はとこしえにして、
我等の生は短し」でございます。
御承知の通り、批評的研究を努めていますと、
560
折々頭や胸がどうかなりはすまいかと気遣われます。なんでも淵源まで溯って行く
舟筏を得るのは、容易な事ではございません。
半途まで漕ぎ著けたところで、
まあ、我々不便な奴は死ぬるのでございますね。
565
ファウスト古文書がなんで一口飲んだだけで
永く渇を止める、神聖な泉のものか。
なんでも泉が自分の霊から涌いて出んでは
心身を爽かにすることは出来ない。
ワグネル
はい。先生はそう仰ゃるが、その時代々々の心になって、
570
我々より前に聖賢がこう考えられたと云うことを見わたして、今日までの大きい進歩を思う程、
愉快な事はございません。
ファウスト
そうさ。天の星までも届く進歩だろうよ。
君に言うがな、過去の時代々々は我等のためには
575
七つの鎖鑰を施した巻物だ。君方が時代々々の精神だと云うのも、
それは原来その時代々々が先生等の霊の上に
投写した影を認めるに過ぎない。
そんなわけだから、随分みじめな事がある。
580
君方を一目見て人は逃げ出してしまう。五味溜か、がらくたを打ち込んで置く蔵か。
高が大為掛の歴史劇に、
傀儡の台詞に相応した
結構な処世訓が添えてある位なものだ。
585
ワグネルしかし、先生はそう仰ゃいますが、世界ですね、人の性情ですね、
それを誰でも文献の中から少しなりと知り得たいと存じますので。
ファウスト
いや。その知るだの、認識するだのと云う詞の意味だて。
本当に知ってもその本当の事があからさまに言われようか。
それは稀には幾らかの事を知って、
590
おろかにもそれを胸にしまって置かずに、自分の観た所、感じた所を世俗に明かした人達もあるが、
そう云う人達は磔にせられたり、焼き殺されたりした。
いや。彼此云ううちに、もう夜が更けた。
今宵は話はこれまでにしよう。
595
ワグネルはい。わたくしはいつまでも起きていて
こんな風にあなたと高尚なお話がいたしたいのでございますが、
さようなら已めましょう。明日は復活祭の初の日でございます。
それを機としてまた二つ三つお話を伺うことにいたしましょう。
わたくしはこれまで随分研究には努力いたしました。
600
学問は大分ある積でございますが、一切の事が知りたいと存じまして。
(退場。)
ファウスト(一人。)いやはや。いつまでも一縷の望を繋いでいて
心は無用の事物に牽かれ、
宝を掘ろうと貪る手で、
蚯蚓に掘り当てて喜んでいるとは、気の毒な事だ。
605
精霊の気が己を囲繞していたこの室で、あんな人間の声が響いて好いものか。
しかし下界にありとある人の中の人屑にも、
こん度は己が感謝せずばなるまい。
なぜと云うに、己の見聞覚知を破壊しようとした
610
絶望の境から、あいつが己を救い出したのだ。いや。あの顕現が余り偉大なので、
全く自分が侏儒であるように、己は感じた。
神の姿をそのままに写された己は、
永遠なる真理の鏡に逼り近づいた積で、
615
下界の子から蝉脱して享楽の自己を天の光明のうちに置いていたのに、
己は光の天使にも増して、無礙自在の力が
既に宇宙の脈のうちを流れ、
創造しつつ神の生を享けようと、
620
窃かに企てていたのに、なんと云う罰せられようだ。雷鳴のような一言が己をはね飛ばした。
お前に似ようと思うのが、そんなに僭越だろうか。
己はお前を引き寄せるだけの力は持っていたが、
お前を留めて置く力がなかったのだ。
625
想えばあの嬉しかった刹那に、己は自己をどんなにか偉大に、またどんなにか小さく思っただろう。
お前は残酷にも己を不慥かな
人間の運命の圏内に衝き戻したな。
誰に己は教を受けよう。何を去り何に就こう。
630
あの内の促のまにまに動いて好かろうか。我等の生の道のゆくてを遮り塞ぐものは、
ああ、我等の受ける苦だけではない。我等のする事業も邪魔だ。
我等の霊の受けた、最も美しきものの周囲にも、
約束したように無用の夾雑物が来て引っ著く。
635
この世界の善なるものに到達してから前途を見れば、一層善なるものが、憾むらくは虚無の幻影になって見える。
生の我等に与えた美しき感じが
下界のとよみの中で凝り固まってしまう。
不断は空想が大胆な翔を擅にして、
640
希望に富んだ勢を以て、永遠の境まで拡がっても、「時」の渦巻に巻き込まれて、狙った幸福が一つ一つ毀れると、
さすがの空想も萎靡して、狭い空間にせぐくまる。
その時直ぐに心の底に、「憂」と云うものが巣を食って、
ひそやかな痛の種子を蒔き、
645
自分も不安らしく身をもがいて、人の安穏と歓喜とを破る。この憂は種々の仮面を取り換えて被る。
家になり、地所になり、女房になり、子供になる。
火になり、水になり、匕首になり、毒になる。
貴様は常にその中らぬもののために戦慄して、
650
その離れ去らぬもののために泣かなくてはならぬ。いや。己は切に感ずる。己は神々には似ておらぬ。
塵芥の中に蠢く蛆に己は似ているのだ。
その塵芥に身を肥やして、生を偸んでいるうちに、
道行く人の足に踏まれて、殺されて埋められるのだ。
655
高い壁に沿うて、分類して百にも為切ってある棚の物が己の周囲を隘めているのも、これも塵ではないか。
この紙魚の世界で、己を窮屈がらせている
器具、千差万別の無用の骨董も塵ではないか。
己の求めているものが、この中で見附けられようか。
660
いつの世、どこの国でも人間が自ら苦んで、その間に罕に一人位幸福な奴があったと云うことを、
己に万巻の書の中で読めと云うのか。
空洞な髑髏奴。なぜ己を睨んでいる。
お前の脳髄も己のと同じように、昔迷いつつ軽らかな
665
快い日を求め、重くろしい薄明の中で、興味を以て真理を追うて、みじめに失敗したと云う外はあるまい。
それからお前達器械だがな、車の輪や櫛の歯のような物、
熨斗の取手のような物やロラアから出来ている器械だがな、
お前達も己を馬鹿にしているに違ない。己が扉の前に
670
立っていた時、お前達は鍵になってくれるはずであった。しかし鎖鬚よりもちぢくれた鬚が生えていても、
鎖鑰を開けてはくれなかった。自然はなかなか秘密がっていて、
青天白日にウェエルを脱いで見せてはくれない。
あいつが己の霊に見せてくれない物を、
槓杆や螺牡で開けて見ることは出来ない。
675
己に用のない古道具奴。お前達は父の手沢のお蔭でここにいる。火皿を弔る滑車奴。お前はこの机に濁った燈火がいぶっている限、
夜な夜な煤けて行くばかりだ。
この少しばかりの物を、疾っくに売り飛ばせば好かったに、
680
己は重荷のようにそれを背負って汗を掻いている。貴様の先祖から譲り渡された物を、
貴様が占有するには、更にそれを贏ち得んではならん。
利用せずに置く物は重荷だ。
刹那が造ったものでなくては、刹那が使うことは出来ない。
685
はてな。なぜ己の目はあそこに食っ附いて離れないだろう。あの瓶が己の目を引く磁石なのか。
なぜ己の心持が、夜の森を歩く時月が差して来たように、
忽ちめでたく明るくなって来たのだ。
この取り残された一つの瓶奴。お前を恭しく取り卸しながら、
690
己はお前に会釈をするぞよ。人智と技術とをお前に対して敬するぞよ。
恵ある眠薬の精奴。
あらゆる隠微な人を殺す諸力を選り抜いた霊液奴。
今この主人をお前の恵に逢わせてくれい。
695
お前を見たばかりで、苦痛が軽くなるようだ。お前の瓶を手に取れば、意欲が薄らいで来るようだ。
己の霊の潮流が次第々々に引いて行く。
高く湛えた海の上へ、己はさそい出されて、
我足の下には万象の影をうつす水鏡が耀く。
700
新なる日が新なる岸へ己を呼ぶ。軽らかに廻る火の車が己を迎える。
気を穿って新しい道を進んで、
浄い事業の新しい境界へとこころざす
心の支度が出来たように己は感ずる。
705
こんな高遠な生活、こんな神々の歓喜のような歓喜。まだ蛆でいる貴様になんの功があってこれを受けるのだ。
好い。優しい下界の日の光に、
貴様は決然として背を向けるが好い。
誰も畏れて避けて通る門の戸を、
710
押し開けて入る勇気があるなら行け。空想が自己を苦痛の地獄に堕す
あの暗い洞窟の前におののかず、
狭い入口に地獄の総ての火が燃え立つ
あの狭隘の道を目ざして、
715
よしや誤って虚無の中に滅し去る虞があろうとも、晴やかな気分でこの一歩を敢てして、
神々の位を怖れぬ男児の威厳を、
事実の上に証して見せるなら、今がその時だ。
さあ、水晶の浄らな盃、ここへ降りて来い。
720
長い年月の間お前の事は忘れていたが、今その箱の中から出てもらおう。
己の先祖が祝賀の宴を張った時には、
お前は光り耀いていて、一人が一人へ差す毎に、
蹙んだ客の顔色も晴やかになったものだ。
725
己も若かった昔の夜のうたげを覚えている。お前の上に美しく鏤めてある、種々の絵摸様を、
飲む人の務として、詩の句で説き明かして
さて一口に中の酒を飲み干したものだ。
己はお前を今日に限って隣の客にも廻さず、
730
お前の絵模様に拙い才を試みようともせぬ。ここにあるのは早く人を酔わせる酒だ。
己がかつて選んでかつて醸した
この褐色の液がお前の中に注がれるのだ。
さあ、この最後の杯を挙げて、己は心から
735
はればれしく寿をこの「暁」に上るのだ。
(ファウスト杯を口に当つ。)
鐘の響、合唱の歌。
歌う天使の群クリストはよみがへりたまひぬ。
身をも心をも損ふべき、
緩やかに利く、親譲の
害毒のまつはれたる、
740
死ぬべきもの等に喜あれ。ファウスト
や。己の口から杯を強いて放させたあの声は
なんと云う深いそよめき、高い音色であろう。
それにあの鈍い鐘の音は、
もう復活祭の始まる時刻を知らせるのか。
745
さてはあの諸声は、昔冢穴の闇の夜に天使の唇から響いて、新しき教の群に
固き基を与えた、慰藉多き詞であったか。
歌う女の群
われ等、主にまつろへる女子は
香料を
750
み体に塗りまつり、臥させまつりぬ。
巾をもて、紐をもて
清らに裹みまつりぬ。
さるを、あなや、主の
755
こゝにいまさぬ。歌う天使の群
クリストはよみがへりたまひぬ。
いたましき、
浄からしめ、鍛ひ錬る
業を修し卒へたまへる、
760
物を愛します主よ。聖にいませ。ファウスト
お前達、天の声等はなぜ力強く、しかも優しく
己をこの塵の中に覓めるのだ。
情の脆い人等の住むあたりに響き渡れば好いに。
なるほど使命の詞は聞える。しかし己には信仰がない。
765
奇蹟は信仰の愛子だ。あの恵ある便を伝える声のする、
あの境界へは己は敢て這入ろうとは努めぬ。
しかし小さい時からあの声を聞き慣れていたので、
あの声が今己を生に呼び戻したのだ。
770
昔は沈んだ安息日の静けさの中に、ゆくりなく天の愛の接吻が己にせられた。
その時意味ありげに、ゆたかな鐘の音が聞えて、
己の祷は熱した受用であった。
その時恵ある不可思議な係恋が
775
己を駆って、森の中、野のほとりへ行かせた。そして千行の熱涙の下ると共に、
己のために新しい世界が涌出すように思った。
面白い遊、春の祭の自由な幸福を、
あの歌が青春に寄与したものだ。
780
そう云う追憶が子供のような感情で、今己の最後の仮初ならぬ一歩を引き留めたのだ。
お前達、優しい天の歌よ、好いから響き渡ってくれい。
ああ。涙が涌く。下界は己を取り戻した。
歌う徒弟の群
埋められたまひぬる、
785
生きて気高くまします主は、早く厳かに
み空高く升らせ給ひしか。
なり出づるを楽む心もて
物造る喜を今し享けんとやし給ふ。
790
あはれ、悲しくも我等は地の胸に縋りて、かくぞ世にある。
我等教子の友を、主は
歎きつゝこゝに残りをらしめ給ひぬ。
あはれ、師の君よ。
795
おん身の幸に我等は泣く。歌う天使の群
物を朽ち壊れしむる地の膝を
立ち離れつゝ、主はよみがへりましぬ。
汝達は喜びて
絆を断て。
800
行もて主を称へまつり、主に愛を捧げまつる、
同胞めき斎に就き、
み教を弘めつゝ旅寐し、
来ん世の喜を知らする汝達よ。
805
師の君は汝達に近くおはす。師の君は汝達のためにいます。
さま/″\の散歩する人出で行く。
職工の徒弟数人なぜそっちへ出て行くのだい。
同じ徒弟の他の群
おいら達は猟師茶屋へ行くのだ。
初の数人
おいら達は擣屋の方へ行くのだ。
810
徒弟の一人それより河岸の茶屋の方が好いじゃないか。
第二の徒弟
あっちは途中がまるで詰まらないぜ。
第二の群
お前はどうする。
第三の徒弟
おいらはみんなと行く。
第四の徒弟
みんなお城の茶屋まで登って行けば好いになあ。
あそこが女も一番好いのがいるし、ビイルも旨い。
815
それに喧嘩だって面白い奴が出来るのだ。第五の徒弟
人を馬鹿にしていやがらあ。
また背中をなぐられるのかい。三度目になるぜ。
己はあんなところへは行かねえ。思ってもぞっとする。
下女
わたし厭になっちまうわ。町へ帰ろうかしら。
820
第二の女まあ、あそこの柳の木のとこまで行って御覧よ、来ているから。
初の下女
来ていたってなんにもなりゃしないわ。
きっとわたしには構わないで、お前と並んで歩いて、
踊場へ行けば、お前とばかし踊るのだから。
お前が面白くったって、わたしにはなんにもならないわ。
825
第二の女なに、きょうはひとりじゃなくってよ。
そら、あの髪の綺麗に縮れた人ね。あれと来ると云ったわ。
書生
やあ。気持の好い、活溌な歩きようをしているなあ。
君、来給え。あいつ等の行く方へ附いて行こう。
濃いビイルに強い烟草。
830
それに化粧をした娘と云うのが、己の註文だ。良家の処女
ちょいと、あの書生さん達を御覧なさいよ。
誰とでも御交際の出来る立派な方なのに
女中の跡なんぞに附いて行って、
まあ、なんと云う恥曝しな事でしょう。
835
第二の書生(第一のに。)おい、君、そんなに駆け出すなよ。あの跡から行く
二人を見給え。気の利いた風をしているだろう。
ひとりは僕の内の隣の娘だ。
あれが僕は好なんだ。
見給え。あんなにゆっくり歩いている。
840
一しょに行くと云うかも知れない。第一の書生
廃し給えよ。僕は窮屈な事は真っ平だ。
早く来給え。切角の旨い山鯨を取り逃がしてしまう。
日曜日に僕達をさすらせるには、
土曜日に箒を持った手に限る。
845
市民いや。こん度の市長にはわたくしは感心しませんなあ。
市長だと云うので、日にまし勝手な事をする。
そして市のためにあの人が何をしています。
一日々々と物事がまずくなるばかりじゃありませんか。
なんでも市民はこれまでになく言いなりになって、
850
これまでになく金を沢山出すことになっています。乞食(歌ふ。)
お情深いお檀那様や、お美しい奥様方。
お召はお立派で、お血色はお宜しい。
どうぞ皆様わたくしを御覧なさりまして、
わたくしの難儀にお目を留められ、お救なされて下さりませ。
855
こうしてお歎き申すのを、むだになさらないで下さりませ。お恵をなさらいでは、お楽はございません。
皆様のお遊なさる日が、
わたくしの取入日でございます。
他の市民
日曜日や大祭日には
860
軍や鬨の声の話をするのが、わたしは一番好です。遠いトルコの国で余所の兵隊同士が
ぶち合っているのが面白いじゃありませんか。
余所にそんな事があるのに、こっちはお茶屋の窓の側で
ビイルを一杯飲み干して、美しい舟の川下へさがるのを眺めて、
865
日が暮れれば楽しく内へ帰って、難有い太平の世のためにお祷をするのですな。
第三の市民
お隣の方の仰ゃる通です。わたくしもその通さ。
余所の奴等はお互に頭の割りくらをするが好い。
何もかも上を下へとごった返すが好い。
870
よろず長屋に事なかれですよ。一老女(良家の娘達に。)
やれやれ。えらいおめかしが出来ましたな。別品揃だ。
誰だって迷わずにはいられますまい。
おや。そんなにつんけんなさらぬが好い。その位で沢山だ。
お前さん達のお望をえることなら、わたしにも出来る積だ。
875
良家の娘の一人アガアテ婆あさん。厭だよ。あっちへおいで。あんな魔法使と
往来を一しょに歩いて溜まるもんかね。
聖アンドレアスの晩に、わたしの御亭主になる人を
見せてくれたには違ないのだけれど。
他の娘
わたしにも水晶の中に現して見せてくれてよ。
880
なんでも軍人のようで大勢のきつい人の中にいましたの。それからわたしどこかで逢うかと思って気を附けていても、
まだその人らしいのに逢わなくってよ。
兵卒等
牆壁聳ゆる
堅固なる城塁よ。
885
傲り蔑する気性ある少女子よ。
占領したきはこの二つ。
艱難困苦は大なれど、
その成功こそめでたけれ。
890
召募の喇叭よ。汝が響くに任す。
歓の場へも導け。
戦死の野へも導け。
これぞ競なる。
895
これぞ命なる。城塁も落ちざらめや。
少女子も靡かざらめや。
艱難困苦は大なれど、
その成功こそめでたけれ。
900
かくぞ軍人は門出する。
ファウストとワグネルと
ファウスト春の恵ある、物呼び醒ます目に見られて、
大河にも細流にも、もう氷がなくなった。
谷間には希望の幸福が緑いろに萌えている。
905
冬は老いて衰えて荒々しい山奥へ引っ込む。
そして逃げながらそこから
粒立った氷の一しぶきを、青み掛かる野へ、
段だらに痕の附くように蒔いている。
910
しかし日は白い物の残っているのを許さないで、何物にも色彩を施そうとする。
そこにもここにも製作と努力とが見える。
それでもこの界隈にはまだ花が咲いていない。
その代りに、日は晴衣を着た人を照している。
915
まあ、跡へ戻っておいで。この高みから町の方を振り返って見ようじゃないか。
空洞で暗い里の門から、
色々の著物を著た人の群が出て来る。
きょうは誰も誰も日向ぼこりがしたいのだ。
920
あれは皆主の復活の日を祝っている。自分達も復活して、
低い家の鬱陶しい間から出たり、
手職や商売の平生の群を離れたり、
頭の上を押さえている屋根や搏風の下を遁れたり、
925
肩の摩れ合うような狭い巷や礼拝堂の尊い闇から出たりして、
外の明を浴びているのだから、無理は無い。
あれを見給え。大勢が活溌に
田畑の上へ散らばって行く。
930
川には後先になったり並んだりして、面白げに騒ぐ人を載せた舟が通っている。
あの一番跡の舟なんぞは、
沈みそうな程人を沢山に載せて出て行くところだ。
あの山の半腹の遠い岨道にさえ
935
色々な衣裳の彩色が光って見える。もう村の方からとよめきが聞えて来る。
大勢のためにはここが真の天国なのだね。
「ここでは己も人間だ、人間らしく振舞っても好い」と、
老若ともに満足して叫んでいるのだね。
940
ワグネル先生。あなたと散歩しますのは、
わたくしの名誉でもあるし、為めにもなります。
一体わたくしは荒々しい事は嫌でございますから、
御一しょでなくてはこんな所へは来ないでしまいましょう。
ヴァイオリンを弾く音、人のどなる声、王様こかしの丸の響、
945
どれもどれもわたくしは聞くのが随分つろうございます。悪魔にでも焚き附けられているように騒ぎ廻って、
それを歌だ、慰だと云うのでございますからね。
百姓等(菩提樹の下にて。)
舞踏と唱歌と。
羊飼奴が踊に来ようとめかした。著て出たジャケツは色変り。紐や飾が附いている。
950
さすが見た目が美しい。菩提樹のまわりは疾うから人籠で、
どいつもこいつも狂ったような踊りよう。
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
955
胡弓がこんな音をする。羊飼奴は気が急いて、駆け附けた。
その時はずみに片肘が
一人の娘に打っ衝かる。
元気な尼っちょが顔を見て云った。
960
「お前さんよっぽどとんまだね。」ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
そう不行儀では困ります。
それでも始めるくるくる廻り。
965
右の方へ踊って行く。左の方へ踊って行く。あれあれ上著がみんな飛ぶ。
赤くなったり、熱くなったり。
肘を繋いで、息を衝いて休む。
ユホヘ。ユホヘ。
970
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。腰にお前の手が障る。
心安立、馴染振、余り早いと遣り込める。
女夫約束固めても
騙した人はたんとある。
975
構わず騙して連れて退く。菩提樹の方からは。
ユホヘ。ユホヘ。
ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。
胡弓の音やら人の声。
980
百姓爺やあ。先生様でござりますな。好くおいでなさりました。
わたくしどもをお嫌なさらずに
この人込の中へ
大先生様がいらっしゃる。
このお杯が一番好い。
985
丁度注いだばかりだ。どうぞ召し上って下さりませい。
お吭のお乾を止めてお上申すと云うだけではござりません。
これに這入っている酒の一滴ずつを丁寧に
勘定して見ます程、どうぞお命をお延べなさりませい。
990
ファウスト切角の御親切だから頂戴しましょう。
これでお礼を申して、あなた方の御健康を祝します。
(衆人そのあたりに集ふ。)
百姓爺ほんとにこう云うめでたい日に、
好うおいでなさりました。
先年わたくしどもが難儀をいたしました時は、
995
あなた様のお恵にあずかりました。ここにこうしてながらえているものの中には、
えらい熱を煩っていたのを、
お亡くなりになった老先生様が、
あぶない際になってから、直して助けて下さりました。
1000
その時分先生様はまだお若かったが、どの隔離所をもお見まい下された。
どこからも死骸をかつぎ出したのに、
先生様は御無事でおいでなされた。
なんでもあぶない迫門をお凌なされた。
1005
人をお助なされたので、神様が先生様をお助なされた。一同
先生様も御長寿をなさりまして、
これからも大勢の人お救下さりませい。
ファウスト
いや。人を救うことをお教下され、また救をお授下さるのは、
あの天にいます神様だ。あれをお拝なさるが好い。
1010
(ファウスト、ワグネルと共に歩み出す。)
ワグネル先生、大したものでございますね。どうでございます、
みんなにあんな風に尊敬せられておいでになるお心持は。
先生のように、自己の材能で人をあれまでに
帰服させることが出来れば、幸福でございますね。
年寄は子供に指さしをして見せて遣る。
1015
誰だ誰だと問い合って、押しつ押されつ、駆け寄って来る。胡弓の音が息む。踊手が足を止める。
お通になる所に人墻を造って、
皆がばらばらと帽子を脱ぐ。
も少しで、晩餐のパンを入れた尊いお箱が通るように、
1020
膝を衝いて拝みそうでございますね。ファウスト
もう少しだから、あの石の所まで行って、
大ぶ歩いたから休もうじゃないか。
己は好くひとりで物案じをして、この石に腰を掛けていた。
断食や祈祷で身を責めていた時の事だ。
1025
あの時は希望も饒かで、信仰も堅かった。無理にも天にいます主にお願申して、
あの恐ろしいペストの流行を止めてお貰申そうと、
涙を流し、溜息を衝き、手の指を組み合せて悶えた。
今皆があんなに褒めるのが、己には嘲るように聞える。
1030
君には己のこの胸のうちが分かるまいが、親爺にしろ己にしろ、あの褒詞を受ける程に
働をしてはいないのだ。
親爺は行跡に暗い痕のある学者だった。
自然や、神聖なる自然の種々の境界の事を、
1035
誠実が無いではないが、自分流義に物数奇らしい骨の折方をして、窮めようとしていた。
例の錬金術の免許取のお仲間で、
道場と云う暗い廚に閉じ籠って、
際限のない、むずかしい方書どおりに、
1040
気味の悪い物を煮交ぜたものだ。大胆に言い寄る男性の「赤獅子」を、
鼎の微温湯で女性の「百合」に逢わせる。
それから二人を武火に掛けて、
閨から閨へ追い廻す。
1045
ようよう玻璃の器の中に色の度々変る「若い女王」が見えて来る。
これが薬だ。病人は大勢死ぬる。
誰が直ったかと、問う人は一人もない。
そんな風で、この谷間から山奥へ掛けて
1050
病人に恐ろしい煉薬を飲ませ廻ったから、己達親子はペストより余計に毒を流したらしい。
己の飲ませて遣ったのでも何千人か知れぬ。
大抵衰えて死んだ。毒を遣った横著な人殺が
褒められると云う経験を、己はしたのだ。
1055
ワグネルそんな事を御心配なさらなくっても好いではありませんか。
人に授かった技術を、
誠実に、間違なくおこなって行けば、
正しい人が責を尽したと云うものではありませんか。
先生はお若い時、老先生を御尊信なさって、
1060
喜んでそのお伝をお受になる。それからお年をお取になって、学問の知識をお殖やしになれば、
御子息が一層高い境界にお達しなさろうと云うもので。
ファウスト
いや。この迷の海から浮き上がることがあろうと、
まだ望んでいることの出来るものは、為合だ。
1065
なんでも用に立つ事は知ることが出来ず、知っている事は用に立たぬ。
しかしこんな面白くない事を思って、
お互にこの刹那の美しい幸福を縮めるには及ばぬ。
あの青い畑に取り巻かれている百姓家が、
1070
夕日の光を受けてかがやいているのを御覧。日は段々いざって逃げる。きょう一日ももう過去に葬られ掛かる。
日はあそこを駆けて行って、また新しい生活を促すのだ。
己のこの体に羽が生えて、あの跡を
どこまでも追って行かれたら好かろう。
1075
そうしたら永遠なる夕映の中に、静かな世界が脚下に横わり、
高い所は皆紅に燃え、谷は皆静まり返って、
白銀の小川が黄金の江に流れ入るのが見えよう。
そうしたら深い谷々を蔵している荒山も、
1080
神々に似た己の歩を礙げることは出来まい。己の驚いてった目の前に、潮の温まった
幾つかの入江をなした海原が、早くも広げられよう。
それでもとうとう女神は沈んでしまうだろう。
ただ新しい願望が目醒める。
1085
女神の永遠なる光が飲みたさに、夜を背にし昼を面にし、
空を負い波に俯して、己は駆ける。
ああ。美しい夢だ。しかし夢は消え失せる。
幻に見る己の翼に、真実の翼が出来て
1090
出合うと云うことは容易ではない。兎に角この頭の上で、蒼々とした空間に隠れて、
告天子が人を煽動するような歌を歌うとき、
樅の木の茂っている、険しい巓の上の空に、
鷲が翼をひろげて漂っているとき、
1095
広野の上、海原の上を渡って鴻雁が故郷へ還るとき、
感情が上の方へ、前の方へと
推し進められるのは、人間の生附だ。
ワグネル
わたくしも随分気まぐれな事を思う時がありますが、
1100
ついぞそんな欲望が起ったことはございません。森や野原の景色をたんのうするまで見れば済む。
これからも鳥の羽が羨ましゅうなろうとは思いません。
それとどの位違うか知れないのは精神上の快楽で、
一枚一枚、一冊一冊と読んで行く心持と云ってはありません。
1105
本を読めば、冬の夜も恵ある、美しい夜になって、神聖なる性命が手足を温めます。それが並の本でなくて、
珍奇な古文書ででもあると、あなただって
天上の生活が御自分の処へ降ったようでございましょう。
ファウスト
いや。君は人生のただ一つの欲望をしか知らない。
1110
どうぞ生涯今一つの分を知らずにおらせたいものだ。ああ。己の胸には二つの霊が住んでいる。
その一つが外の一つから離れようとしている。
一つは荒々しい愛惜の情を以て、章魚の足めいた
搦み附く道具で、下界に搦み附いている。
1115
今一つは無理に塵を離れて、高い霊どもの世界に登ろうとしている。
ああ。この大気の中に、天と地との間に、
そこを支配しつつ漂っている霊どもがあるなら、
どうぞ黄金色の霞の中から降りて来て、
1120
己を新しい、色彩に富んだ生活へ連れ出してくれい。せめて魔の外套でも手に入って、
それが己を裹んで、余所の国々へ飛んで行けば好い。
己のためにはどんな錦繍にも、
帝王の衣にも換え難い宝だがなあ。
1125
ワグネルどうぞあの知れ渡った鬼どもをお呼なさいますな。
あの鬼どもは雲のうちにさまよいつつ広がっていて、
八方から人間に
千変万化の危害を加えようとしております。
北からは歯の鋭い、矢のように尖った舌の鬼共が、
1130
先生の処へ襲って来ましょう。東から来る鬼どもは物を干からびさせて、
あなたの肺の臓で身を肥やそうとします。
中央があなたの頂の上へ、火に火を重ねる鬼共を
沙漠の方から送って来れば、
1135
西からはまた最初気分を爽かにするようで、しまいにはあなたをも田畑をも水に埋める鬼共をよこします。
ああ云う鬼共は愉快げにすばしこくお詞を聞いて、
仰ゃる通になります。それは先生を騙そうとするのです。
天からよこされた使のような風をして、
1140
ばかりを天使の詞で囁きます。だがもう参りましょう。もうそこらが鼠色になりました。
風が涼しくなって、霧が降りて来ました。
夕方になって家の難有みは知れますなあ。おや。先生。
お立留なすって、驚いたようなお顔で何を御覧なさいます。
1145
あの薄明の中に何があるので、そんなに御感動なさるのでしょう。ファウスト
君あの刈株や苗の間を走っている黒犬が見えるかい。
ワグネル
はい。さっきから見えていますが、何も大した物ではないようで。
ファウスト
好く見給え。君はあの獣をなんだと思う。
ワグネル
尨犬です。あいつ等の流義で、御苦労にも
1150
見失った主人の跡を捜しているのでございます。ファウスト
君あれが蝸牛の背の渦巻のような、広い圏をかいて、
次第々々に我々の方へ寄って来るのが分かるか。
それに己の目のせいかも知れないが、あいつの歩く跡の道には
火花が帯のように飛んでいるじゃないか。
1155
ワグネルわたくしには黒い尨犬しか見えません。
それは先生のお目の工合でございましょう。
ファウスト
どうも己の考では、未来の縁を結ぶために、
微かな蠱の圏を己達の足の周囲に引くらしい。
ワグネル
いや。わたくしの見た所では、主人でない、知らぬ人を
1160
二人見て、不安に恐ろしく思って、周囲を飛び廻るので。ファウスト
圏が段々狭くなった。もう傍へ来た。
ワグネル
御覧なさい。犬です。化物ではございません。
うなって、疑ったり、腹這ったり、
尾を掉ったりします。みんな狗の癖です。
1165
ファウストこら。己達の所へ来い。ここへ来い。
ワグネル
尨犬らしい気まぐれな奴でございます。
先生がお立留になれば、前へ来て据わります。
お物を仰ゃれば、飛び附いて参ります。
何かおほうりになったら、取って参りましょう。
1170
水の中からステッキをも※[#「口+(「行」のぎょうにんべんにかえて「金」)」、U+20F2B、86-17]えて参るでしょう。ファウスト
なるほど。君の云う通かも知れん。どうも霊の痕がなくて、
総てが躾に過ぎないようだ。
ワグネル
いや。好く躾けてある狗なら、
賢い人にも気に入りましょう。
1175
不断学生共の好い連になっているのだから、先生の御愛顧を受ける値打は慥かにあります。
(二人閭門に入る。)
ファウスト狗を伴ひて入る。
ファウスト何か物を暗示するような、神聖な恐怖を起させて、
我等の善い方の霊を呼び醒そうとする、
深い夜に掩われた
1180
田畑から己は帰った。総て荒々しい振舞をさせようとする、
粗暴な欲望は寐入った。
今は博愛の心、
神の愛の心が動いている。
1185
尨犬。じっとしていろ。そんなに往ったり来たりするな。そこの出口の所へ行って、何を嗅ぎ廻っている。
その煖炉の背後へ行って寝ていろ。
己の一番好い布団を貸して遣る。
外で、あの坂道のような所で
1190
飛んだり跳ねたりして己達を喜ばせた代りに、歓迎せられた、おとなしい客になって、
己の接待を受けるが好い。
この狭い書斎に
ランプがいつものように優しく附くと、
1195
己達のこの胸の中、自ら知り抜いている胸の中が明るくなる。
理性がまた物を言いはじめる。
希望の花がまた咲き出す。
ああ。生の小川へ、生の元つ泉へと
1200
この心があこがれるなあ。尨犬。そんなにうなるな。今己の心の全幅を領している
神聖なる物の音には、
獣の声では調子が合わない。
人間が自分の解せぬ事を嘲り、
1205
往々うるさい物に思う善や美を見てぐずぐず云うのには、
己達は慣れている。
狗もやっぱりそれをぐずぐず云うのかい。
ああ。しかしもうなんと思っても、
1210
この胸から満足が涌いて来ぬ。なぜまた流がこう早う涸れて
己達は渇に悩んでいなくてならんのか。
これは年来経験して知っている。
この欠陥を埋め合せようとして、
1215
形而上のものを尊重するようになり、啓示がほしいとあこがれる。
あのどの伝よりも尊く、美しく
新約全書の中に燃えている啓示がそれだ。
原本を開けて見て、
1220
素直な感じのままに、一遍神聖なる本文を
好な独逸語に訳して見たい。
(一書巻を開き、翻訳の支度す。)
こう書いてある。「初にロゴスありき。語ありき。」もう此所で己はつかえる。誰の助を借りて先へ進もう。
1225
己には語をそれ程高く値踏することが出来ぬ。なんとか別に訳せんではなるまい。
霊の正しい示を受けているなら、それが出来よう。
こう書いてある。「初に意ありき。」
軽卒に筆を下さぬように、
1230
初句に心を用いんではなるまい。あらゆる物を造り成すものが意であろうか。
一体こう書いてあるはずではないか。「初に力ありき。」
しかしこう紙に書いているうちに、
どうもこれでは安心出来ないと云う感じが起る。
1235
はあ。霊の助だ。不意に思い附いて、安んじてこう書く。「初に業ありき。」
尨犬。己と一しょにこの部屋にいる積なら、
うなることを廃せ。
吠えることを廃せ。
1240
そんな邪魔をする奴を傍に置いて我慢して遣ることは出来ぬ。
お前か己か、どちらかが
書斎を出て行かなくてはならん。
己は客を逐うことは好まぬが
1245
あの通り戸は開いている、出て行くなら行け。はてな。妙に見えるな。
自然にありそうもない事だ。
あれは幻か。現か。
あの尨犬は幅も広がり丈も伸びる。
1250
勢好く起き上がって来る。あれは狗の姿ではない。
己はなんと云う化物を内へ連れて来たのだろう。
もう火のような目、恐ろしい歯並をした
河馬のように見える。
1255
はあ。もうお主は己の手の裏の物だ。お主のような、半ば地獄に産み出されたものには、
クラウィクラ・サロモニスの呪が好い。
霊等(廊下にて。)
この中に一人捕われている。
皆外におれ。附いて這入るな。
1260
係蹄に掛かった狐のように、地獄の古リンクス奴が怯れている。
しかし気を附けて見ておれ。
あちらへ漂い、こちらへ漂い、
升っては降りて見ておれ。
1265
あいつはとうとう逃げて出よう。あいつに手が貸されるなら、
あいつを棄て置かぬが好い。
己達はあいつには
いろいろ世話になっている。
1270
ファウストこんな獣に立ち向うには、
先ず四大の呪がいる。
「火の精 サラマンデル 燃えよ。
水の精 ウンデネ うねれ。
風の精 シルフェ 消えよ。
1275
土の精 コボルド いそしめ。」四大を、
その力、
その性を
知らぬものが、
1280
なんで霊どもを御する師になれよう。
「サラマンデルは
のうちに消えよ。
ウンデネは
1285
さざめきて流れ寄れ。シルフェは
隕石の美しさに耀け。
インクブスは
木樵り水汲め。
1290
進み出でて終を告げよ。」四大のどれも
あの獣のうちにはいぬ。
平気で蹲って、己の顔を睨んでいる。
この呪ではまだ痛い目を見ぬと見える。
1295
も少し強い祷を聞せて遣ろう。
「奴。お前は地獄を
逃れ出たものか。
そんならこの印を見い。
1300
これは暗黒の群が項を屈する印だ。」
はあ。もうとげとげしい毛を竪ててふくれるな。
「廃物奴。
これが読めるか。
1305
かつて芽ざさず、言挙せられず、
あらゆる天に灌がれ、
無慙にも刺し貫かれた、これが読めるか。」
煖炉の背後に封ぜられて、
1310
象の大さにふくれ上がるな。部屋一ぱいになる。
霧になって散ろうとする。
天井へ升ってはならぬ。
師の脚下に身を倒せ。
1315
見い。己はいたずらに嚇しはせぬ。神聖なる火でお前を焼こうか。
三たび燃え立つ火を
待つなよ。
己の術の一番の奥の手を
1320
待つなよ。
(霧落つると共に、メフィストフェレス旅の書生の装して煖炉の背後より現る。)
メフィストフェレスそうお騒になるには及びません。なんの御用ですか。
ファウスト
そんならこれが尨犬の正体であったのか。
旅の書生だな。笑わせる事件だ。
メフィストフェレス
改めて御挨拶をいたします。博識でいらっしゃる。
1325
わたくしに汗をたっぷりお掻かせになりました。ファウスト
名はなんと云うか。
メフィストフェレス
それは小さいお尋かと存じます。
語と云うものをおさげすみになり、
あらゆる外観をお遠ざけになって、
ただ本体の深みをお探になるあなたとしては。
1330
ファウストしかし君達のは名を聞くと、
大抵本体が読める。
蠅の神、残う者、偽る者などと云えば、
はっきり知れ過ぎるではないか。
そんなら好い。一体君はなんだ。
メフィストフェレス
常に悪を欲し、
1335
却て常に善を為す、彼力の一部です。ファウスト
ふん。その謎めいた詞の意は。
メフィストフェレス
わたしは常に物を否定する霊です。
そしてそれが至当です。なぜと云うに、
一切の生ずるものは滅しても好いものです。
1340
して見れば、なんにも生ぜぬに如くはない。こうしたわけで、あなた方が罪悪だの、
破壊だの、約めて言えば悪と仰ゃるものは、
皆わたしの分内の事です。
ファウスト
君は一部だと名告る。そして全体で己の前にいるのか。
1345
メフィストフェレスそれは少しばかりの真理を申したのです。
人間は、気まぐれの小天地をなしていて、
大抵自分を全体だと思っていますが、
わたしなんぞは部分のまた部分です。
最初一切であって、後に部分になった暗黒の一部分です。
1350
暗黒の生んだ驕れる光明は、母の闇夜と古い位を争い、空間を略取しようとする。
しかしいくら骨折ってもそれの出来ぬのは、
光明が捕われて物体にねばり附いているからです。
物体から流れて、物体を美しくする。
1355
そしてその行く道は物体に礙げられる。あれでは、わたしの見当で見れば、光明が物体と
一しょに滅びてしまうのも遠い事ではありますまい。
ファウスト
そこで君の結構な任務は分かった。
君は大体からは物を破壊することが出来んので、
1360
小さい所からなし崩しにこわし始めるのだな。メフィストフェレス
そうです。勿論それが格別役にも立ちません。
無に対して立っているある物
即ち不細工な世界ですな。こいつには、
これまでいろいろな企をして見ましたが、
1365
どうにも手が著けようがありません。海嘯、暴風、地震、火事、どれを持って行っても
跡には陸と海とが依然としているですな。
それからあの禽獣とか人間とか云う咀われた物は、
一層手が著けられませんね。
1370
今までどれ程葬ったでしょう。それでもやはり新しい爽かな血が循っています。
そんな風で万物は続いて行く。考えると、気が狂いそうです。
空気からも、水からも、土地からも、
乾いた所にも、濡れた所にも、熱い所にも、寒い所にも、
1375
千万の物の芽が伸びる。もしわたしが火と云う奴を保留して置かなかったら、
これと云う特別な物がわたしの手に一つも無い所でした。
ファウスト
そんな風で君は、永遠に息む時なく、
恵深く製作する威力に対して、
1380
君の陰険に、空しく握り固めた、冷やかな悪魔の拳を揮うのだ。
実に混沌の生んだ奇怪な倅ではある。
何かちと外の事を始めてはどうだね。
メフィストフェレス
実際そうですね。少し工夫して見ましょうよ。
1385
いずれこの次にもっと精しくお話します。きょうはこれで御免を蒙りたいのですが。
ファウスト
なぜそれを己に問うのだか分からんな。
まあ、これで君にお近附になったと云うものだ。
いつでも君の気の向いた時にまた来給え。
1390
そこには窓がある。そこには戸口もある。君にはあの煙突なんぞも非常門になるのだろう。
メフィストフェレス
間が悪いが打明けて言いましょう。わたしが出て行くには、
ちょいとした邪魔があるのですよ。
あの敷居にあるペンタグランマの印ですな。
1395
ファウストふん。あの印を君は気にするのか。
妙だね。あれに君は縛られるなら、這入る時は
どうして這入ったか。地獄の先生、それを言って見給え。
そんな霊のある印を、どうごまかして這入ったのだ。
メフィストフェレス
好くあれを御覧なさい。本当に引いてないのです。
1400
外へ向いている一角が、御覧の通、少し開いています。
ファウスト
それは偶然の為合だった。
そこで君は己の俘になっているわけだね。
これは意外な、旨い成功だった。
1405
メフィストフェレス実は尨犬は気が附かずに飛び込んだが、
今になって見ると少し工合が違っていて、
どうも悪魔はこの部屋を出にくいのです。
ファウスト
ところで君なぜ窓から出ない。
メフィストフェレス
悪魔や化物には掟があって、
1410
這入って来た口から、出て行かなくてはならんのです。初にすることは自由ですが、二度目は奴隷になるのです。
ファウスト
そんなら地獄にも法律はあるわけなんだね。
兎に角好都合だ。こうなると君達と
契約を結ぶことも、随分出来るわけだね。
1415
メフィストフェレスそれは約束をする上は、あなたに十分の権利がある。
なんのかのと云って、それを狭めるような事はしません。
しかしそれはそう手短には行きませんから、
こん度の御相談にいたしましょう。
今度だけはお暇を下さるように、
1420
切にお願申すのですがな。ファウスト
それにしてもちょいと位好さそうなものだ。
面白い話が聞きたいのだが。
メフィストフェレス
いや。今度だけはお暇を下さい。直に帰って来ます。
その時なんでもお尋下さい。
1425
ファウスト一体己が君を追い掛けたのではない。
君が自業自得で網に掛かったのだ。
悪魔なんと云うものが、手に這入っては手放せないね。
また早速掴まえようと云うわけには行かんから。
メフィストフェレス
いや。是非お伽をするのがお望だと云うことなら、
1430
それはいてお上申しても好いですよ。しかしお慰に何か術をして
御覧に入れても好いと云う条件附に願いましょう。
ファウスト
それは結構だ。君の勝手にし給え。
なるたけ気持の好い術にしてくれ給え。
1435
メフィストフェレスそれは承知です。単調極まる一年間に、
あなたの官能の享けたよりは、
この一時間に享けた方がたっぷりだと思わせて上げます。
これから優しい霊どもが歌ってお聞せ申したり、
美しい形を現してお見せ申すのは、
1440
いたずらな幻の戯ではない。鼻にも好いがしよう。
舌にも好い味がしよう。
それから心にも好い感じがしよう。
別に用意なんぞはいらない。
1445
仲間はもう揃っている。始めろ始めろ。霊等
消えよ、目の上なる
暗き穹窿。
蒼き気よ。
やさしく美しく
1450
室を窺へ。暗き雲霧は
はや散り失せしよ。
星あまたきらめけり。
やさしき日等は
1455
照りわたれり。天の子等の
霊めく美しさよ。
揺りつゝ身を曲げて
漂ひ過ぎよ。
1460
あこがるゝ心もてこなたへ続け。
その衣の
ひらめく帯は
下界を覆ひ、
1465
四阿を覆へ。恋する二人が深き心もて
生涯を相委ぬる
四阿を覆へ。
四阿は四阿に並べり。
1470
芽ぐむ蔓草あり。枝たわわなる葡萄は
籠み合ふ酒蔵の
桶に灌げり。
泡立つ酒は
1475
小川と流れ、浄き宝玉の
川床にせゝらぎて、
山の上の高き処を
背になしつゝ、
1480
事足れる緑なる岡の辺の
湖に入る。
群鳥は
喜を啜り、
1485
日の方へ飛び、波間に
漂ひ浮ける、
晴やかなる
島々の方へ飛ぶ。
1490
その島には合唱の群の歓び歌ふが聞え、
踊手の野の上に
踊るが見ゆ。
舞ひ歌ふ人皆
1495
四方にあらけぬ。岡のつかさに
攀づるあり。
湖の上に
泅ぐあり。
1500
空に冲るあり。皆生に向へり。
聖なる恵の
愛する星の
遠方に向へり。
1505
メフィストフェレス寐たな。身の軽い、やさしい小僧ども、好く遣った。
好く真面目に骨を折って寐入らせてくれた。
あの合奏のお礼は忘れはしないよ。
へん。悪魔を抑留しようとは、お前にはまだ過ぎた話だ。
小僧ども。こいつの夢に艶な姿を見せて遣れ。
1510
迷の海にめて遣れ。ところでこの敷居の禁厭を破るには
鼠の牙がいり用だ。
呼ぶには手間は掛からない。
そこらをがさがさ云わせる奴に、もう己の詞が聞えよう。
1515
こら。大鼠、小鼠、蠅に蛙に南京虫、蝨の王の
仰だぞ。遠慮なく這って出て、
そこの敷居をかじれかじれ。
ちょいと油を塗り附けると、
1520
早速そこへ飛んで来る。さあ、為事に掛かれ掛かれ。邪魔なのは
その一番手前の角の所だ。
もう一かじりだ。それで好い。さようなら、ファウストさん、
またお目に掛かるまで、たんと夢を御覧なさい。
1525
ファウスト(醒めて。)己はまた騙されたか。
夢に悪魔を見せられて、
尨犬に逃げられるのが、
意味の深い願の果か。
――――――――――――
ファウスト。メフィストフェレス登場。
ファウスト戸を敲いたな。おはいりなさい。誰がまた悩ましに来たのか。
1530
メフィストフェレスわたくしです。
ファウスト
おはいりなさい。
メフィストフェレス
三度言って下さいまし。
ファウスト
はてさて。おはいりなさい。
メフィストフェレス
それで宜しゅうございます。
そこで大抵中好く交際が出来る積です。
あなたの気晴らしをしてお上申そうと思って、
ちょっと貴公子と云うなりをして来ました。
1535
赤い上衣に金の刺繍がしてある。上に羽織ったのは、こわばる絹の外套です。
帽子には鳥の羽を挿しました。
そしてこんな長い、尖った剣を吊りました。
そこで早い話が、あなたの方でも
1540
こう云う支度をしてお貰申したいのです。そこであらゆる絆を絶って、自由に
人生がどんなものだと云うことを御経験なさるのですね。
ファウスト
いや。この狭い下界の生活の苦は
どの著物を著ても逃れられまい。
1545
一体己は当のない遊をするには、もう年を取り過ぎた。あらゆる欲を断とうには、まだ年が若過ぎる。
世間が己に何を提供しよう。
闕乏に堪えよ、忍べよと云うのが、
人の一生涯時々刻々
1550
厭な声で歌われて、誰の耳にも聞えて来る
永遠なる歌なのだ。
己は毎朝恐怖の念をして目を醒ます。
ただ一つの、ただ一つの願もえずに、
1555
歓楽の暗示をさえかたくなな批評で打ちこわし、
活動している己の胸の創作を
凡百の世相で妨碍する
日の目をまた見ることかと思えば、
1560
己は苦い涙を飜して泣きたくなる。また夜闇が下界を包みに降りて来ても、
己は恐る恐る身を臥所に倒す。
そこでも甘寐の安さを貪ることは出来ずに、
恐ろしい夢に驚かされる。
1565
己のこの胸のうちに住んでいる神は心の深い底の底まで掻き乱すことは出来るが、
己のあらゆる力の上に超然と座を占めている神は、
外界の物を何一つ動かすことが出来ぬ。
それで己には世にあるのが重荷で、
1570
死が願わしく生が憎いのだ。メフィストフェレス
そのくせ死が真に客として歓迎せられることは決して無いのです。
ファウスト
いや。勝軍のかがやきのうちに
死が血に染まった月桂樹の枝を顳に纏う人、
急調の楽につれて広間を踊り廻った揚句に、
1575
少女の腕に支えられながら死を迎えた人は幸だ。ああ。己もあの高い精霊を覿面に見たとき、
歓喜の余にその場に死んで倒れてしまえば好かったに。
メフィストフェレス
でも誰やらあの晩に
茶色な汁を飲み干さなかったようですね。
1580
ファウストふん。君は探偵が道楽だと見える。
メフィストフェレス
わたしは全知ではないが、大ぶいろんな事を知って居ますよ。
ファウスト
あの恐ろしい心の乱の中で、
馴れた優しい音色に牽かれ、
穉かった世の記念の感情が、
1585
旧い歓楽の余韻に欺かれたとは云え、餌や囮やまやかしで人の霊を擒にし、
目をくらましたり賺したりして、
この悲哀の洞窟に繋いで置こうとするような、
あらゆる手段を己は咀う。
1590
人の霊が自ら高しとして我と我身の累をなす、その慢心を先ず咀う。
わが官能の小窓に迫る
現象の幻華を咀う。
わが夢の世に来て欺く
1595
名聞や身後の誉の迷を咀う。妻となり子となり奴婢となり鋤鍬となり、
占有と称して人に媚ぶる一切の物を咀う。
宝を見せて促して冒険の業をもさせ、
また怠の快楽に誘うて
1600
軟い茵を体の下にも置き直す、あの金銭を己は咀う。
葡萄から醸す霊液を咀う。
恋の成就の快楽を咀う。
希望を咀う。信仰を咀う。
1605
何より切に忍耐を咀う。合唱する霊等(目に見えず。)
痛まし。痛まし。
強き拳もて
美しき世界を
汝毀ちぬ。
1610
世界は倒れ崩れぬ。半ば神なる人毀ちぬ。
その屑を「無」のうちへ
我等負ひ行きつゝ、
失はれし美しさを
1615
歎く。下界の子のうちの
力強き汝
先より美しく
そを再び建立せよ。
1620
汝が胸のうちにそを建立せよ。爽かなる目もて耳もて
新なる生の歩を
始めよ。
さらば新しき歌
1625
聞えむ。メフィストフェレス
あれはわたしの仲間の
小僧どもです。
ませた言草で歓楽や事業を
あなたに勧めるのをお聞なさい。
1630
官能の働、体の汁の循の止まる寂しい所から、
遠い世間へ
あいつ等はあなたを誘い出すのです。
角鷹のようにあなたの命の根を啄く
1635
「憂」をおもちゃにするのはお廃なさい。最下等の人間とでも一しょにいたら、
人の中の人だと云うことがあなたにも感ぜられよう。
こう申したからとて、何もあなたを
下司の中へ連れ出そうと云うのではありません。
1640
わたしはえらい人のお仲間ではない。それでもあなたがわたしと一しょに
世間を渡って見ようと云う思召がありゃあ、
即座にわたしは甘んじて
あなたのものになってしまう。
1645
まあ、兎に角お連になって見て、わたしのする事がお気に入ったら、
御家隷にもなるですね。
ファウスト
そしてその代に己の方からどうすれば好いのだ。
メフィストフェレス
そりゃあまだ急ぐことはありません。
1650
ファウストいやいや。悪魔は利己主義だから、
人の為になることを
容易に只でしてはくれまい、
条件をはっきり言って貰おう。
そう云う家隷は己の内へ危険を及ぼしそうだから。
1655
メフィストフェレスそんならこの世でわたしはあなたに身を委ねて、
休まずに頤で使われましょう。
そこであの世でお目に掛かった時は
あなたがあべこべに使われて下さるですね。
ファウスト
あの世なんぞは己は余り気にしない。
1660
まあ、君がこの世界をこなごなに砕いたところで、別の世界がその跡へ出来ようというものだ。
この大地から己の歓喜は涌く。
この日が己の苦痛を照す。
己がこの天地に別れてしまうことが出来たら、
1665
それから先はどうにでもなるが好い。未来に愛や憎があるか、
あの世にもまたこの世のように
上と下とがあるかなどと、
己は問うて見る気がないのだ。
1670
メフィストフェレスそう云うお考なら思い切ってお遣なさい。
お約束なさい。その上は早速
わたしの術を面白く御覧になることが出来ます。
まだ人間の見たことのない物を御覧に入れます。
ファウスト
ふん。悪魔風情が何を見せる積やら。
1675
向上の道にいそしむ人間の霊が君なんぞに分かった例があるかい。
腹の太らない馳走か、
水銀のようにころころと
間断なく手のうちで散る赤い金か、
1680
勝つことのない博奕か、己の懐に抱かれていながら
隣の男を流眄に見る女か、
隕石のように消えてしまう
名望の、神のような快さをでも授けるのか。
1685
摘まぬ間に腐る果でも、日毎に若葉の茂る木でも、見せるなら己に見せて貰おう。
メフィストフェレス
そんな御註文には驚きません。
そう云う珍物が御用とあれば差し上げる。
しかしそれよりは落ち著いて、何か旨い物を
1690
食っていたいと云う時がおいおい近くなりますよ。ファウスト
ふん。己が気楽になって安楽椅子に寝ようとしたら、
その時は己はどうなっても好い。
己を甘い詞で騙して
己に自惚の心を起させ、
1695
己を快楽で賺すことが君に出来たら、それが己の最終の日だ。
賭をしよう。
メフィストフェレス
宜しい。
ファウスト
容赦はならぬ。
己がある「刹那」に「まあ、待て、
お前は実に美しいから」と云ったら、
1700
君は己を縛り上げてくれても好い。己はそれきり滅びても好い。
葬の鐘が鳴るだろう。
君の奉公がおしまいになるだろう。
時計が止まって針が落ちるだろう。
1705
己の一代はそれまでだ。メフィストフェレス
だが好く考えて御覧なさい。聞いた事は忘れませんよ。
ファウスト
己は軽はずみに大胆に振舞いはせぬから、
どうぞしっかり覚えていて貰おう。
己が一所に停滞したら、己は奴隷だ。
1710
君のにしろ、誰のにしろ。メフィストフェレス
そんならきょうの卒業宴会に
早速御家隷の役をしましょう。
ただ一つ願いたいのは、後に間違のないように
一寸二三行書いて置いてお貰申しましょうか。
1715
ファウスト書物まで取るのかい。悪く堅い奴だな。
男同士の附合も男の詞の信用も知らないのか。
口で言った己の詞が永遠に己の生涯を
自由にすると云うだけでは不満足なのかい。
一体世界のあらゆる潮流は頃刻も息まないのに、
1720
己だけが契約一つで繋がれていると云うのも変だ。しかしそう云う迷は誰の心にも深く刻まれていて、
誰も好んでそれを霽そうとするものがない。
胸の中に清浄に信義を懐いているものは幸福だ。
そう云う人はどんな犠牲をも辞するものではない。
1725
ところが、字を書いて印を押した巻紙を、世間のものは皆化物のようにこわがっている。
いざ筆に上するとなると、一字一句にも気怯がする。
そりゃ用紙、そりゃ封蝋と、どなたもお持廻になる。
おい、悪霊。君は何がいるのだ。
1730
紙に書くのか、革に書くのか、石や金に彫るのかい。鉛筆か、鵝ペンか、それとも鑿で書けと云うのか。
己は君の註文どおりにするのだがね。
メフィストフェレス
何もそんなにむきになって誇張した
言草をしなくったって好いでしょう。
1735
どんな紙切でも好いのです。ただちょいと血を一滴出して署名して下さい。
ファウスト
それで君の気が済むことなら、
下らない為草だが異存はないよ。
メフィストフェレス
血という奴は兎に角特別な汁ですからね。
1740
ファウスト己が違約するだろうと云う御心配だけはいらぬ事だ。
平生力一ぱい遣って見ようと思っている事と、
君に約束する事とが一つなのだからね。
己は大きく丈高くなろうとして、ふくらみ過ぎた。
所詮君くらいの地位にいるはずの己だろう。
1745
大なる霊は己を排斥して、「自然」の戸は己の前に鎖された。
思量の糸は切れて、
あらゆる知識が嘔吐を催しそうになった。
どうぞ官能世界の深みに沈めて、
1750
燃える情欲の渇を医してくれ給え。未だかつて搴げられたことのない秘密の垂衣の背後に
一つ一つの奇蹟が己達の窺うのを待っている。
さあ、「時」の早瀬に、事件の推移の中に
この身を投げよう。
1755
受用と痛苦と、成就と失敗とが
あらん限の交錯をなして来るだろう。
活動して暫くも休まずにいてこそ男児だ。
メフィストフェレス
あなたにこれ程と云う尺度や、これまでと云う限界は示さない。
1760
どうぞ到る処に撮食をして、逃げしなに好い物を引っ手繰なさるが好い。
たんとお楽なさって、跡腹の病めないようになさい。
兎に角すばしこく手をお出なさい。ぼんやりしていないで。
ファウスト
いや。先っきも云うとおり己は快楽は貪らない。
1765
最も悲しい受用に、受用のよろめきに身を委ねよう。恋に迷う心の憎、爽快に伴う胸悪さに委ねよう。
物の識りたい欲を擲ったこの胸は、
これから甘んじてどんな苦痛をも迎えて、
人間全体の受くるべきはずのものを
1770
この内の我で受けて味わって見よう。この己の霊で人間の最上のもの深甚のものを捉えて、
歓喜をも苦痛をもこの胸の中に積んで、
この自我を即人生になるまで拡大して、
遂にはその人生と云うものと同じく、滅びて見よう。
1775
メフィストフェレスまあ、お聞なさい。わたしは何千年と云う間
この靭いお料理を噬んでいるから、知っています。
揺籃から棺桶までの道中に、
この先祖伝来の饅頭種をこなす奴はありませんよ。
わたしどもは知っています。この一切の御馳走は
1780
神と云う奴でなくてはこなせない。なんでもそいつが自分はいつも明るい所にいて、
わたしどもをいつも暗い所に置いて、
あなた方に夜昼を寝たり起きたりして過させるのだ。
ファウスト
しかし己は遣って見る。
メフィストフェレス
さあ、出来ないこともないでしょう。
1785
だが、気になることが一つありますよ。時は短くして道は長しですな。
お望のうような工夫をお授しましょうか。
一つ詩人と云う奴と結托なさるです。
そこでその先生が思想を馳騁して、
1790
宇宙の物のあらゆる栄誉をあなたの頭銜に持って来るのです。
胆大なること獅子の如く、
足早きこと鹿の如く、
血の熱することイタリア人の如く、
1795
堅忍不抜は北辺の民の如しと云う工合です。その先生にお頼なさって、宏量と狡智とを兼ねて、
温い青春の血を失わずに、
予定の計画どおりに恋をすると云う
秘法を授けてお貰なさるが好い。
1800
わたしもそう云う先生にお近附になりたいのです。そして小天地先生の尊号を上るですな。
ファウスト
しかしね、君。己が見聞覚知の限を尽して、
窮めようとしている人生の頂上が
窮められないものとしたら、己は一体何物だ。
1805
メフィストフェレスあなたですか。あなたは、さよう、やっぱりあなたですな。
何百万本の毛を植えた仮髪をお被なさっても、
何尺と云う高さの足駄をお穿なさっても、
所詮あなたはあなたですな。
ファウスト
己もどうもそんな気がする。人智の集めた宝の限を、
1810
己はいたずらに身のまわりに掻き寄せて見た。さてじっと据わって考えて見ても、
内から新しい力は涌いて出ぬ。
毛一本の幅程も己の身の丈は加っていぬ。
己は一歩も無極に近づいてはいぬ。
1815
メフィストフェレスいや、先生、それは通途の物の見ようで
物を御覧になると云うものだ。
生の喜が逃げ去らぬ間に、取る物を取ろうとするには、
も少し気の利いた手段をしなくてはいけません。
なに、べらぼうな。それは慥かにあなたの物と云うのは、
1820
手足や頭やし□だけでしょう。しかしなんでも自分が新しく受用すりゃあ、
それが自分の物でないとは云われません。
六匹の馬の代が払えたら、
その馬の力が自分のではないでしょうか。
1825
そいつに駆けさせりゃあ、こっちは立派に二十四本足のある男だ。
さあ、思い切って出掛けましょう。思案なんぞは廃にして
御一しょにまっしくらに世間へ飛び出して見ましょう。
わたしがあなたに言いますがね。理窟を考えている奴は、
1830
牛や馬が悪魔に取り附かれて、草の無い野原を圏なりに引き廻されているようなものです。
その外囲にはどこにも牧草が茂っているのに。
ファウスト
そこで手始にどうしろと云うのだ。
メフィストフェレス
出掛けるですね。
一体ここはなんと云う拷問所です。
1835
こんな所で自分も退屈し、学生どもをも退屈させるのが、生きていると云うものですか。
こんな事は御同僚の太っ腹に任せてお置なさい。
なんだって実の無い藁をいつまでも扱くのですか。
それにあなたに分かる学問の中で、一番大切な事は
1840
学生どもには言うことが出来ないのでしょう。そう云えば、さっきから廊下に一人来ているようですね。
ファウスト
今面会することは己には出来ないが。
メフィストフェレス
小僧大ぶ長く待っているのだから、
慰めて遣らずに帰すわけには行きますまい。
1845
一寸その上衣と帽子とをわたしにお貸なさい。こう云う服装はわたしには好く似合いそうです。
(メフィストフェレス著換ふ。)
これで好い。跡はわたしの頓智に任せてお置なさい。十五分間もあれば沢山だ。
どうぞその隙に面白い旅の支度をして下さい。
1850
(ファウスト退場。)
メフィストフェレス(ファウストの服装にて。)へん。これからは人間最高の力だと云う
理性や学問を馬鹿にして、
幻術魔法によって、
偽の心を長ぜさせるが好い。
そうなりゃあ先生こっちのものだ。
1855
なんの箝制も受けずに、前へ前へと進んで行く精神を運命に授けられたので、
先生慌ただしい努力のために、
下界の快楽を飛び越して来たものだ。
これから己が先生を乱暴な生活、
1860
平凡な俗事の中へ連れ込んで引き擦り廻し、もがかせて、放さずに、こびり附かせて、
くことを知らない嗜欲の脣の前に、
旨い料理や旨い酒をみせびらかしてくれる。
先生医し難い渇に悶えるだろう。
1865
そうなると、よしや悪魔に身を委ねていないでも、破滅せずにはいられまいて。
一学生登場。
学生わたくしはこの土地へたった今参ったばかりですが、
どこで承っても御高名な
先生にお目に掛かって、お話が伺いたいと存じまして、
1870
わざわざ罷り出ましたのですが。メフィストフェレス
これは御丁寧な挨拶で痛み入る。
わしも外に沢山いるとおりの並の男だ。
どうだね。少しはここらの様子を見たかね。
学生
どうぞ何分宜しくお願申します。
1875
わたくしは体は丈夫で、学資もかなりありますし、奮発して出て参ったものでございます。
母はなかなか手放しませんでしたが、
是非余所でしっかりした修行がいたしたいので。
メフィストフェレス
それは君丁度好い土地へ来られた。
1880
学生実の所はなんだかもう帰りたくなりました。
この高い石垣や広い建物を見ますと、
余り好い心持はいたしません。
なんだかこう窮屈らしい所で、
草や木のような青いものも見えませんし、
1885
講堂に出て、ベンチに腰を掛けますと、なんにも見えも聞えもしないで、頭さえぼんやりして来ます。
メフィストフェレス
それは習慣ですよ。
生れたばかりの赤子に乳を含ませると、
すぐには吸い附かないものだ。
1890
少し立てば旨がって飲む。それと同じ事で今に君も知識の乳房に
かじり附いて離れないようになるさ。
学生
それはわたくしも学問の懐に抱かれないのは山々です。
どうしたらそこへ到達することが出来ましょう。
1895
メフィストフェレスまあ、外の話は跡の事にして
何科に這入るつもりだか、それを言って見給え。
学生
ええ。わたくしはなんでもえらい学者になりたいのです。
下界の事から天上の事まで窮めまして、
自然と学問とに
1900
通じたいと存じます。メフィストフェレス
それは至極のお考だ。
しかし余所見をしては行けませんよ。
学生
それは体をも魂をも委ねて遣ります。
しかし愉快な暑中休暇なんぞには
1905
少しは自由を得て暇潰な事も遣られるようだと好いのですが。
メフィストフェレス
光陰は過ぎ易いものだから、時間を善用せんと行かん。
なんでも規律を立てて遣ると、時間が儲かるよ。
まあ、わしに御相談とあれば、
1910
最初に論理学を聴くだね。そこで君の精神が訓錬を受けて、
スパニアの長靴で腓腸を締め附けられたように、
思慮の道を
改めてゆっくり歩くようになるのだ。
1915
燐火が空を飛ぶように、縦横十文字に跳ね廻っては行かん。
それから暫くはこう云う教育を受ける。
譬えば勝手に飲食をするように、
これまで何事も一息に、無造做にしたのを、
1920
一、二、三と秩序を経て遣るようにする。一体思想の工場も
機屋の工場のようなもので、
一足踏めば千万本の糸が動いて、
梭は往ったり来たりする、
1925
目に止まらずに糸を流れる、一打打てば千万の交錯が出来ると云うわけだ。
哲学者と云う奴が出掛けて来て、
これはこうなくてはならんと、君に言って聞せる。
第一段がこうだ、第二段がこうだ。
1930
それだから第三段、第四段がこうなくてはならん。もし第一段、第二段がなかったら、
第三段、第四段は永久に有りようがないと云うのだ。
そんな理窟をどこの学生も難有がっている。
しかし誰も織屋になったものは無い。
1935
誰でも何か活動している物質を認識しよう、記述しようとするには、兎角精神を度外に置こうとする。
そこで一部分一部分は掌中に握っているが、
お気の毒ながら、精神的脈絡が通じていない。化学でそれを
エンヘイレエジス・ナツレエ、「自然処置」と称している。
1940
自ら欺く詞で、どうして好いか知らぬのだ。学生
どうも仰ゃる事が皆は分かりません。
メフィストフェレス
それは君が複雑な事を単一に戻して、
それぞれ部門に入れて考えるようになると、
おいおい今よりは好く分かるようになる。
1945
学生どうも頭の中で擣屋の車が廻っているようで、
ぼうっとしてまいりました。
メフィストフェレス
それから君、先ず何は措いても、
形而上学に取り掛からなくてはいかん。
なんでも人間の頭に嵌まりにくい事を、
1950
あの学問で深邃に領略するのだね。頭に這入る事を斥すにも、這入らない事を斥すにも
立派な術語が出来ていて重宝なわけだ。
それはまあ、後の事として、最初半年は
講義を聴く順序を旨く立てなくてはいかん。
1955
毎日五時間の課程がある。鐘の鳴る時ちゃんと講堂に出ていなくてはいかん。
聴く前に善く調べて置いて、
一章一章としっかり頭に入れて置くのだ。
そうすると、先生が本に書いてある事より外には
1960
なんにも言わないのが、跡で好く分かって好い。しかし筆記は勉強してしなくてはいかん。
聖霊が口ずから授けて下さると云う考でね。
学生
それは二度と仰ゃらなくっても好うございます。
筆記がどの位用に立つかと云うことは、好く分かっています。
1965
なんでも白紙の上に黒い字で書いて置いたものは、安心して内へ持って帰ることが出来ますから。
メフィストフェレス
ところで君、兎に角何科にするのだね。
学生
どうも法律学は遣りたくありません。
メフィストフェレス
わしもあの学科の現状は知っているから、
1970
君が気の進まないのも無理とは思わない。兎角法律制度なんと云うものは
永遠な病気のように遺伝して行く。
先祖から子孫へぐずぐずに譲り渡されて、
国から国へゆるゆると広められる。
1975
そのうち道理が非理になって、仁政が秕政になる。人は澆季には生れたくないものだ。
さて人間生れながらの権利となると、
惜いかなどこでも問題になっていない。
学生
そのお話で厭なのが益々厭になりました。
1980
先生のお指図を受けるものは、実に為合です。そこでわたくしは神学でも遣ろうかと存じますが。
メフィストフェレス
そうさな。君を方向に迷わせたくはない。
あの学問をして、
邪路に奔らないようにするのは、頗るむずかしいて。
1985
あの中には毒と見えない毒が沢山隠れている。それを薬と見分けることがほとんど不可能だ。
まあ、一番都合の好いのは、ただ一人の講義を聴いて、
その先生の詞どおりを堅く守っているのだね。
概して詞に、言句にたよるに限る。
1990
そうすれば不惑の門戸から堅固の堂宇に入ることが出来る。
学生
しかし先生、詞には概念がなくてはなりますまい。
メフィストフェレス
それはそうだ。だが、余り小心に考えて徒労をせぬが好い。
なぜと云うに、丁度概念の無い所へ、
1995
詞が猶予なく差し出ているものだ。詞で立派に議論が出来る。
詞で学問の系統が組み立てられる。
詞に都合好く信仰を托することが出来る。
詞の上ではグレシアのヨタの字一字も奪われない。
2000
学生どうも色々伺って先生のお暇を潰して済みませんが、
も少し御面倒を願いたいのでございます。
どうぞ医学はどんなものだと云うことについても
しっかりした御一言を承らせて下さいまし。
三年の学期は短いのに、
2005
学問の範囲は実に広いのです。先生がちょいと一言方針を御示下さいますと、
それにたよって探りながらでも進んで行かれましょう。
メフィストフェレス(独語。)
もうそろそろ乾燥無味な調子に厭きて来た。
ちと本色の悪魔で行って遣るかな。
2010
(声高く。)
医学の要旨は造做もないものだよ。君は大天地と小天地とを窮めるのだ。
そして詰まる所はやはり神の思召どおりに、
なるがままにさせて置くのさ。
君がいくらあちこち学問をしようとしてさまよっても、
2015
それは駄目だ。てんでに学ばれる事しか学ばれない。ところで、なんでも旨く機会を掴まえるのが、
それが本当の男と云うものだ。
見た所が、君は大ぶ体格が好い。
度胸もなくはないだろう。
2020
そこで君に自信が出来て来ると、世間の人も自然に君を信じて来るのだ。
殊に女を旨く扱うことを修行しなくては行けない。
女と云う奴はここが痛いの、かしこが苦しいのと、
いろいろな言葉の絶える時はない。
2025
それがただ一箇所から直すことが出来るのだ。そこで君がかなり真面目に遣って行くと、
女どもはみんな君の手の裏にまるめられてしまう。
なんでも学位か何かがあって、世間のいろいろな技術より
君の技術が優れていると信ぜさせるのが第一だ。
2030
さてお客になって遣って来たら、人の何年も掛かって障られない所々を、初対面の印にいじって遣る。
脈なんぞを旨く取るのだね。
そして細い腰が、どの位堅く締めてあるかと云うことを、
熱心らしい、狡猾そうな目附をして、
2035
探って見て遣るのだね。学生
そう云うお話なら、何をどうすると云うことが分かって結構です。
メフィストフェレス
兎に角君に教えるがね。一切の理論は灰いろで、
緑なのは黄金なす生活の木だ。
学生
正直に申しますが、わたくしはどうも夢を見ているようです。
2040
また改めて先生のお説の極深い処を伺いに参りましても宜しゅうございましょうか。
メフィストフェレス
なんでもわしに出来る事なら喜んでして上げる。
学生
恐れ入りますが、お暇乞をいたすには
この記念帖にお書入を願わなくてはなりません。
2045
どうぞ先生の御眷顧を蒙りましたお印を。メフィストフェレス
お易い事で。
(書きて渡す。)
学生(読む。)エリチス・シイクト・デウス・スチエンテス・ボヌム・エット・マルム
(爾等知二善与一レ悪。則応レ如レ神。)
(恭しく帖を閉ぢて退場。)
メフィストフェレスその古語の通にしろ。己の姪の蛇の云う通にしろ。
一度は貴様も自分が神のようなのがこわくなるだろう。
2050
ファウスト登場。
ファウストさあ、どこへ行くのだ。
メフィストフェレス
お好な所へ行きましょう。
先ず御一しょに小天地を見て、それから大天地を見ます。
まあ、一通の修行を遣って御覧なさい。
なかなか面白くて有益ですよ。
ファウスト
しかしこの長い髯の看板どおりに、
2055
気軽な世間の渡様は己には出来ない。所詮遣って見ても旨くは行くまいて。
己には世間に調子を合せると云うことが出来たことがない。
人の前に出ると、自分が小さく思われてならない。
己は間を悪がってばかりいるだろうて。
2060
メフィストフェレスそんな事はどうにかなりますよ。
万事わたしにお任せなさると、直に調子が分ります。
ファウスト
そこでどうしてこの家を出て行くのだ。
馬や車や供なんぞはどこにある。
メフィストフェレス
それはついこの外套を拡げれば好い。
2065
これに乗って空を飛んで行くのです。この大胆な門出には
大きな荷物だけは御免蒙ります。
わたしが少しばかりの瓦斯を製造しますと、
そいつが造做なく二人を地から捲き上げてくれます。
2070
そこで荷が軽いだけ早く升れる。新生涯の序開だ。ちょっとおよろこびを申します。
面白げなる連中の酒宴
フロッシュおい。誰も飲んだり、笑ったりせんか。
陰気な面をしていると、僕が承知しないぞ。
いつでも好く燃えるくせに、
2075
きょうはなぜ湿った藁のようになっているのだ。ブランデル
それは君のせいだ、君がなんにも提供しないからだ。
いつもの馬鹿げた事か、下卑た事を遣れば好い。
フロッシュ(ブランデルの頭の上に一杯の酒を澆ぐ。)
そんならこれでどっちも済まそう。
ブランデル
豕に倍した所行だ。
フロッシュ
君が下卑た事を遣れと云ったじゃないか。
2080
ジイベル誰でも喧嘩をする奴は、戸の外へ出て行け。
胸襟を開いてルンダ・ルンダでも歌わんか。飲め、騒げ。
さあ、遣れ遣れ。ホルラア。ホオ。
アルトマイエル
溜らない。参った参った。
誰か綿があるならくれえ。あいつのお蔭で聾になる。
ジイベル
馬鹿言え。天井が反響をする位でなくては、
2085
バッソオの根本的威力は発揮せられないのだ。フロッシュ
賛成々々。苦情を言う奴は逐い出してしまえ。
アア。タラ。ララ。ダア。
アルトマイエル
アア。タラ。ララ。ダア。
フロッシュ
さあ、吭の調子は合った。
(歌ふ。)
愛すべき、神聖なるロオマ帝国よ。2090
いかにして猶纔に維持せらるゝぞ。ブランデル
厭な歌だなあ。いやはや。政治的の歌と来ている。
下らない歌だ。ロオマ帝国がどうなろうと構わない。
難有い身の上だと、君方は毎朝神に謝するが好い。
僕なんぞは国王でもなけりゃあ、宰相でもないのを、
2095
兎に角よほどの利益だと思っている。しかし我々だって首領なしではいられない。
さあいつもの法皇を選挙しようじゃないか。
どんな資格が大事だとか、その人を高めるとか云うことは、
君方は知っているなあ。
2100
フロッシュ(歌ふ。)飛び立てや、鶯。
恋人に言伝てよ、百千度。
ジイベル
恋人に言伝なんかいらん。そんな事は聞きたくない。
フロッシュ
恋人に言伝をする。キスをする。君のお世話にはならない。
(歌ふ。)
門の戸開けよ。静けき夜はに。2105
門の戸開けよ。風流男寝ず。門の戸させ。朝まだきに。
ジイベル
ふん。沢山歌うが好い。あんな女を褒めるが好い。
今に僕の笑って遣る時が来る。
僕を騙した通に、今に君を騙すのだ。
2110
あいつの色には地の精か何かがなって、夜の四辻でふざけるが好い。
そこへブロッケンの山から駆けて帰る、年の寄った山羊の牡が
通り掛かって、あいつに今晩はと挨拶すると丁度好い。
正真正銘の血や肉を持っている立派な男は、
2115
あいつの相手には惜しいのだ。あいつに言伝なんぞをすることがあるものか。
窓に石でも打っ附けて遣るが好い。
ブランデル(卓の上を打つ。)
東西東西。僕の言うことを聞き給え。
僕が附合を心得ていることには、諸君同意だろう。
2120
ここに女に迷った人達がいます。その人達に今晩の告別に、身分相応の忠告を
僕がして遣ろうと思います。
東西。最新の調子の歌だぞ。
合唱の所をしっかり頼むぞ。
2125
(歌ふ。)
牡鼠が穴倉に巣食って、餌は脂にバタばかり。
ルテル先生見たように
でっぷり太ってしまった。
そいつにおさんが毒を飼った。
2130
鼠は世間が狭うなった。胸に恋でもあるように。
合唱者(讙呼する如く。)
胸に恋でもあるように。
ブランデル
そこらを廻って飛び出して、
どのどぶからも水を飲んだ。
2135
かじる、引っ掻く、家中を。どんなに荒れても駄目だった。
苦しまぎれに飛び上る。
とうとう程なく荒れ止んだ。
胸に恋でもあるように。
2140
合唱者胸に恋でもあるように。
ブランデル
昼の日なかによろよろと
台所まで駆けて出て、
竈の隅に打っ附かり、
びくつき、倒れて虫の息。
2145
おさんは見附けて噴き出した。お聞よ、笛の吹きじまい。
胸に恋でもあるように。
合唱者
胸に恋でもあるように。
ジイベル
凡俗どものあの面白がりようはどうだ。
2150
可哀そうに。鼠に毒を食わせる位が丁度好い働だろう。
ブランデル
君はひどく鼠が贔屓だね。
アルトマイエル
太っ腹の禿頭奴。
運が悪くて気が折れて、お情深くおなり遊ばした。
2155
病み腫れた鼠の姿が丁度先生そっくりだ。
ファウスト、メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス極面白がっている連中を
何より先にお目に掛けよう。これを御覧になると、
世間がどの位気楽に渡れると云うことがお分かりになる。
2160
この連中にはどの日も同じ祭日です。小才を利かせて、大満足をして、
尻尾を※[#「口+(「行」のぎょうにんべんにかえて「金」)」、U+20F2B、150-19]えてくるくる廻る小猫のように、
てんでに狭い間を踊っています。
※[#「貝+(人がしら/示)」、U+8CD2、151-2]が借りていられる間は、
2165
頭痛でもする日の外は、心配なしに楽んでいます。
ブランデル
そこに来た奴等の様子を見給え。
旅から来た奴等だと云うことがすぐ分かる。
まだ著いてから一時間も立つまい。
2170
フロッシュなるほど、君の云う通だ。僕はライプチヒに謳歌する。
小パリイと云うだけあって、ここにいると品が好くなる。
ジイベル
君はあの旅人どもを何者だと思う。
フロッシュ
僕が行って来るから見てい給え。一杯飲ませて、
あいつ等の鼻の穴から蛆を引き出すのは、
2175
子供の歯を抜くより優しいのだ。なんでも好い家柄の奴には違ない。
高慢げで、そして物事に満足しない様子だから。
ブランデル
なに。僕は賭をしよう。あいつ等は山師だよ。
アルトマイエル
そうかも知れないなあ。
フロッシュ
気を附けて見ていろ。探を入れて遣るから。
2180
メフィストフェレス(ファウストに。)悪魔はあいつ等には分かりません。
うぬが領髪を攫まれていても分からないのです。
ファウスト
皆さん、今晩は。
ジイベル
今晩は。
(メフィストフェレスを横より覗き、小声にて。)
おや、あいつは片々の脚が短いようだぜ。メフィストフェレス
どうでしょう。そちらへ割り込んでもお邪魔ではないでしょうか。
2185
どうせ旨い酒なんぞはなさそうですから、面白いお話でも代に伺いたいのですが。
アルトマイエル
君達は大ぶ口が奢っていると見えますね。
フロッシュ
君達はおお方リッパハの駅を遅く立ったのだろう。
あの駅のハンス君と一しょに夕飯を食ってから立ったのじゃないか。
2190
メフィストフェレス生憎きょうは逢わずに通って来ましたよ。
この前の度にわたし共が逢って話した時、
あなた方の事をいろいろ噂をしましてね、
どなたにも宜しく申してくれと云いましたよ。
(メフィストフェレスはこの詞と共にフロッシュに会釈す。)
アルトマイエル(小声にて。)一本参ったな。向うが旨く遣りおった。
ジイベル
食えない奴だ。
2195
フロッシュまあ、黙って見ていろ。今に遣っ附けるから。
メフィストフェレス
先刻大ぶお稽古の詰んだ声で
合唱をしていられたようでしたね。
ここでお歌いになったら、
あの円天井から旨く反響することでしょう。
2200
フロッシュ君達は音楽家ででもあるのかね。
メフィストフェレス
どういたしまして。下手の横好です。
アルトマイエル
何か一つ歌い給え。
メフィストフェレス
お望なら幾らでも歌います。
ジイベル
極新しいのでなくちゃあいけない。
メフィストフェレス
わたしどもは丁度スパニアから帰ったところです。
2205
あそこは酒と歌を本場にしている美しい国ですからね。
(歌ふ。)
昔昔王がいた。大きな蚤を持っていた。
フロッシュ
聞いたか。蚤だとよ。諸君分かったかい。
蚤と来ちゃあ、僕なんぞは随分清潔なお客だと思う。
2210
メフィストフェレス(歌ふ。)昔昔王がいた。
大きな蚤を持っていた。
自分の生ませた子のように
可哀がって飼っていた。
ある時服屋を呼んで来た。
2215
服屋が早速遣って来た。「この若殿の召すような
上衣とずぼんの寸を取れ。」
ブランデル
服屋に好くそう云わなくちゃいけないぜ。
寸尺を間違えないようにして、
2220
笠の台が惜しけりゃあ、ずぼんに襞の出来ないようにするのだ。
メフィストフェレス
天鵞絨為立、絹仕立、
仕立卸を著こなした。
上衣にゃ紐が附いている。
2225
十字章さえ下げてある。すぐ大臣を言い附かる。
大きな勲章をぶら下げる。
兄弟までも宮中で
立派なお役にあり附いた。
2230
文官武官貴夫人が参内すれば責められる。
お后さまでも宮女でも
ちくちく螫される、かじられる。
押さえてぶつりと潰したり、
2235
掻いたりしては相成らぬ。己達ならば蚤なぞが
ちょぴりと螫せばすぐ潰す。
合唱者(歓呼する如く。)
己達ならば蚤なぞが
ちょぴりと螫せばすぐ潰す。
2240
フロッシュ旨い旨い。こいつは好かった。
ジイベル
蚤なんぞはそんな風に遣っ附けべしだ。
ブランデル
指を伸ばして旨くつままなくちゃいかん。
アルトマイエル
自由万歳だ。酒万歳だ。
メフィストフェレス
わたくしも自由の光栄のために一杯飲みたいのですが、
2245
それにつけてもも少し酒が好ければ好いと思いますよ。ジイベル
そんな事は二度とは聞きたくないものだ。
メフィストフェレス
ここの主人が小言を言わない事なら、
わたくし共の酒蔵にあるのを、何か一つ
あなた方に献上したいのですが。
2250
ジイベルさあ、さあ、遠慮なしに出し給え。小言は僕が引き受ける。
フロッシュ
旨い奴を一杯飲ませてくれれば、僕は感謝するね。
ことわって置くが、あんまりぽっちりではいけない。
僕に利酒をさせようと云うには、
口へたっぷり一ぱい入れてくれなくちゃあ出来ない。
2255
アルトマイエル(小声にて。)なんでもあいつ等はライン地方の奴だぜ。僕の目利では。
メフィストフェレス
ちょいと錐を持って来させて下さい。
ブランデル
錐をなんにするのだね。
まさかその戸の外まで樽が来ているわけでもあるまい。
アルトマイエル
それ、あそこの背後に亭主が道具箱を置いている。
メフィストフェレス
(錐を手に取り、フロッシュに。)
あなたの飲みたい酒を伺いましょう。2260
フロッシュ聞いてどうしようと云うのだね。そんなに色々あるのかね。
メフィストフェレス
どなたにもお望の酒を献じます。
アルトマイエル(フロッシュに。)
ははあ。君はもう口なめずりをし始めたな。
フロッシュ
宜しい。僕が所望して好いなら、ラインの葡萄酒にしよう。
なんでも本国産が一番の御馳走だ。
2265
メフィストフェレス
(フロッシュの坐せる辺の卓の縁に、錐にて穴を揉みつゝ。)
少し蝋を取り寄せて下さい。すぐに栓をしなくちゃあ。アルトマイエル
ははあ。手品だね。
メフィストフェレス(ブランデルに。)
そこであなたは。
ブランデル
僕はシャンパンにしよう。
好く泡の立つ奴でなくてはいけない。
(メフィストフェレス錐を揉む。一人蝋の栓を作りて塞ぐ。)
どうも外国産の物を絶待に避けるわけにはいかんて。2270
好い物が遠国に出来ることがあるからなあ。本当のドイツ人はフランス人は好かないが、
フランスの酒なら喜んで飲むね。
ジイベル
(メフィストフェレスの坐せる辺に近づきつゝ。)
正直を言えば僕は酸っぱい酒は嫌だ。僕には本物の甘い奴を一杯くれ給え。
2275
メフィストフェレス(錐を揉む。)そんならあなたの杯にはすぐトカイ酒を注がせます。
アルトマイエル
ねえ、君達、僕の方を真っ直に見て返事をし給え。
君達は僕なんぞを騙すのに違ない。
メフィストフェレス
飛んだ事です。あなた方のような立派なお客に
そんな事をするのは、少し冒険過ぎますからね。
2280
お早く願います。どうぞ御遠慮なく仰ゃい。どんな酒を献じましょう。
アルトマイエル
なんでも宜しい。うるさく問わないで下さい。
メフィストフェレス
(穴を悉く揉み畢り、栓をなしたる後、怪しげなる身振にて。)
「葡萄は葡萄の蔓になる。角は山羊の額に生える。
2285
酒は水で、葡萄は木だ。木卓からも酒は涌く。
自然の奥を窺う一目。
これが奇蹟だ。信仰なされい。」
さあ、皆さん、栓を抜いて召し上がれ。
2290
一同
(栓を抜けば各自の杯に所望の酒涌きて入るゆゑ。)
やあ。これは結構な噴水だ。メフィストフェレス
兎に角飜さないように願います。
一同
(皆反覆して飲み、さて歌ふやうに。)
愉快だ、愉快だ。人の肉食う夷のように。五百の豚の群の様に。
メフィストフェレス
御覧なさい。自由の民だ。あれが鼓腹の楽だ。
2295
ファウスト己はそろそろ行きたいがなあ。
メフィストフェレス
いや。これから気を附けて見ておいでなさい。
盛んに獣性が発揮せられるのですからね。
ジイベル
(手づつなる飲み様をし、酒を床に飜す。燃え立つ。)
助けてくれ。火事だ。助けてくれ。地獄が燃える。メフィストフェレス(火に向ひて唱ふ。)
「鎮まれ。親しき一大。」
2300
(人々に。)
まあ、こん度は一滴の業火で済みました。ジイベル
これはなんだ。待て。只では済まんぞ。
全体我々をなんだと思っている。
フロッシュ
もう一遍あんな真似をして見ろ。
アルトマイエル
僕はこっそりあいつ等を追っ払ってしまおうと思うのだが。
2305
ジイベルおい。そこの先生。利いた風な。
我々の目を昏ます積か。
メフィストフェレス
黙れ。酒樽の古手奴。
ジイベル
なに。箒の柄が。
我々に失敬な事を言う積か。
ブランデル
待っていろ。拳骨が雨のように降るぞ。
2310
アルトマイエル
(残りたる一つの栓を抜けば、火面を撲つ。)
やあ。僕は火傷をする。ジイベル
魔法だ。
遣っ附けろ。そいつは無籍者だ。
(皆々小刀の鞘を払ひて、メフィストフェレスに掛かる。)
メフィストフェレス(真面目らしき態度にて。)「仮現の形。虚妄の詞。
心を転じ、境を転ず。
ここにあれ。またかしこにあれ。」
2315
(一同驚きて立ちをり、互に顔を見合す。)
アルトマイエルここはどこだ。好い景色だなあ。
フロッシュ
葡萄畑だ。本当か知らん。
ジイベル
それに葡萄に手が届く。
ブランデル
この青い屋根の下に
こんな好い蔓がある。こんな好い葡萄がある。
(ジイベルの鼻を撮む。外の人々も互に鼻を撮み合ひて、手に/\小刀を閃す。)
メフィストフェレス(同上の態度にて。)「迷惑の輩。目を覆う巾を去れ。
2320
記念せよ。魔の遊戯の奈何を。」
(ファウストと共に退場。人々互に手を放す。)
ジイベルどうしたのだ。
アルトマイエル
これはどうだ。
フロッシュ
今のは君の鼻だったか。
ブランデル(ジイベルに。)
僕は君のを撮まんでいたのか。
アルトマイエル
なんだかこうぴりっと来て、節々に響いたようだ。
その椅子を借してくれ。僕は倒れそうだから。
2325
フロッシュ一体どうしたと云うのだろう。
ジイベル
あいつはどこへ行った。こん度見附けたら、
生かしては置かない積だ。
アルトマイエル
あいつが酒樽に騎って、この店の戸を出て行くのを
僕はこの目で見たよ。
2330
僕は足が鉛にでもなったように重くてならない。
(卓の方へ向く。)
ああ。酒はまだ出るか知らん。ジイベル
皆さ。目を昏ましたのだ。
フロッシュ
僕は実際酒を飲んでいるような気がしたが。
ブランデル
それはそうとあの葡萄はどうしたのだろう。
2335
アルトマイエルどうだい。これでは不思議と云うものがないとは云われまい。
(低き竈の火の上に、大いなる鍋掛けあり。その鍋より立ち升る蒸気の中に種々の形象を現ず。尾長猿の牝鍋の傍に蹲り、鍋の中を掻き廻し、煮え越さぬやうにす。尾長猿の牡と小猿等とはその傍に蹲り、火に当りゐる。天井と四壁とは魔女の用ゐる極めて異様なる器械にて装飾しあり。)
ファウスト、メフィストフェレス登場。
ファウストファウスト、メフィストフェレス登場。
己は気違染みた魔法騒は気に食わぬ。
この物狂おしい混雑の中で
己の体がなおると、君は受け合うのか。
己に婆あさんの指図を受けさせて、
2340
この腐料理で取った年を三十も跡へ戻してくれようと云うのか。
これ以上の智慧が君にないなら、己はもう駄目だ。
己の希望の影はもう消えてしまった。
一体自然か哲人かがこれまでに
2345
何か霊薬のようなものを一つ位見出さなかったのか。メフィストフェレス
いや。あなたはまた理窟を言い出しましたね。
それはあなたを若返らせるには、自然的な方法もあります。
しかし全く別な本に書いてある
奇妙な一章ですよ。
2350
ファウスト己はそれが知りたい。
メフィストフェレス
宜しい。それは金も医者も
魔法もなしに獲られる方です。
すぐに野らへお出掛なさい。
そして鋤鍬を使い始めるですね。
それから極狭い範囲の内に、
2355
自己と自己の精神とを閉じ籠めて置くですね。食物は交のない物を食う。家畜と一しょに
家畜になって生きる。自分の取入をする畑は、
自分で肥やしをするのを不都合とは思わない。
これなら八十になっても若くていられる
2360
絶好の手段だと云うことを、御信用なさって宜しい。ファウスト
それは己の慣れぬ事で、手に鋤を取るとまでは、
どうも己は身を落すことが出来ない。
その上狭い範囲の生活も己の柄にない。
メフィストフェレス
するとやはり魔女の厄介になるですな。
2365
ファウストしかしなぜ婆あでなくてはならんのか。
君が自分でその薬を調合したって好いだろう。
メフィストフェレス
そいつは難有過ぎた暇潰ですて。そんな暇があると、
魔の橋と云うのがあるが、わたしは橋を千位掛けます。
ああ云う薬は学術ばかりでは出来ない。
2370
忍耐がなくては駄目です。静かに落ち著いた奴が長の年月骨を折って、
その間にただ「時」が薬の発酵を強くするのです。
それに調合が複雑で、
中には不思議な物が這入るのです。
2375
無論それも悪魔が授けた方ですが、悪魔が自身で拵えるわけには行きません。
(獣等を見て。)
御覧なさい。なんと云う可哀らしい奴等でしょう。あいつが女中で、あいつが家隷です。
(獣等に。)
お上さんは留守らしいね。2380
獣等烟出から
内を抜け出て
馳走になりに行きました。
メフィストフェレス
いつもどの位の間ぶら附いて帰るのだい。
獣等
わたしどもが手をあぶっている間の留守です。
2385
メフィストフェレス(ファウストに。)どうです。あのきゃしゃな畜生どもは。
ファウスト
己の見た物の中で、この位ぶさまな物はないな。
メフィストフェレス
いやいや。今こいつ等と遣るような会話が
わたしは一番好なのです。
(獣等に。)
おい。咀われた人形ども。お前達に聞くのだが、2390
そのどろどろした物を掻き交ぜているのはなんだい。獣等
これですか。乞食に施す稀い粥です。
メフィストフェレス
そんならお客はおお勢だな。
牡猿
(歩み寄り、メフィストフェレスに追従す。)
どうぞすぐに旨い采の目を出して、わたしに儲けさせて、
2395
わたしを金持にして下さい。随分みじめな身の上です。
これで金さえ持っていると、
も少し智慧も出るのです。
メフィストフェレス
分かっているよ。富籤にでも中ったら、
2400
猿も為合だろうがな。
(この間小猿等大いなる丸を弄びゐたるが、その丸を転がし出す。)
牡猿これが世界だ。
上がったり降りたり、
止所なく廻っている。
丸は硝子の音がする。
2405
こわれるのに造做はない。中は空洞だ。
あそこは光る。
あそこは猶光る。
丸奴は生きている。
2410
己の好い子だ。おもちゃにするな。
そちゃ死ぬるのだ。
丸は土焼、
かけらが出来る。
2415
メフィストフェレスあの篩はなんにするのだい。
牡猿(篩を取り卸す。)
もしあなたが盗坊なら、
これですぐに見あらわします。
(牝猿の所に持ち行き、透かし見さす。)
さあ、篩で透かして見ろ。もし盗坊が分かっても、
2420
うっかり口で言いっこなしだ。メフィストフェレス(火に近づきつゝ。)
そんならこの鍋は。
牝牡の猿
馬鹿なお方だ。
鍋一つ御存じない。
釜一つ御存じない。
2425
メフィストフェレス失敬な畜生だな。
牡猿
この払子をこう持って、
その腰掛にお掛けなさい。
(メフィストフェレスを椅子に掛けさす。)
ファウスト
(この間大鏡の前に立ちて、半ばそれに歩み近づき、また半ばそれに歩み遠ざかりゐたるが。)
この己の目に見える、あれはなんだ。この魔の鏡に映るのは、まあ、なんと云う美しい姿だろう。
2430
愛の神に頼むが、お前の翼の一番早いのを貸して、己をあの女のいる境へ遣ってくれい。
己がここに立ち止まっていずに、
鏡の傍へ寄って行くと、
姿は霧を隔てて見るようにぼやけて見える。
2435
女と云うものの一番美しい姿はこれだ。こうも美しい女の姿が世にあろうか。
この横わった体に
天と云う天の精を見ずばなるまい。
所詮地にはこんな物はないのだから。
2440
メフィストフェレスなんの不思議なものですか。神が六日の間働いて、
最後に自分で喝采したのだから、何か少しは
気の利いたものが出来ていなくてはなりません。
差当りあれをたんのうするまで御覧なさい。
今にあなたにあんな好い子を見附けて上げます。
2445
運が好くてあんなのの壻になる奴は為合者ですね。
(ファウストは依然鏡の中の像を見ゐる。メフィストフェレスは椅子の上にて伸をし、払子を揮ひつゝ語り続く。)
ここの所一寸王が玉座に著いたと云う形だ。君主の杖も持っている。頭に冠がないばかりだ。
獣等
(これまで種々の怪しげなる動作をなしゐたるが、この時大声にて叫び交しつゝ冠一つ持ち来て、メフィストフェレスに捧ぐ。)
お願ですから2450
この冠を汗と血とで著けて下さい。
(手づつなる持扱ざまをして、冠を二つに割り、そのかけらを持ちて跳り廻る。)
とうとうおしまいだ。口でしゃべって目では見る。
耳では聞いて歌にする。
2455
ファウスト(鏡に向ひて。)ああ、どうしよう。己はどうやら気が狂いそうだ。
メフィストフェレス(獣等を指さす。)
もうこうなると己でさえ頭がぐらぐらして来る。
獣等
こっちとらに出来るなら、
こっちとらがして好いなら、
そんならそれが考だ。
2460
ファウスト(前の如き態度にて。)ああ。己の胸は燃えて来た。
どうぞ一しょに早く逃げてくれ。
メフィストフェレス(前の如き態度にて。)
兎に角正直に告白する
詩人だとは認めて遣らなくてはなるまい。
(この間牝猿の等閑になしゐたる鍋煮え越す。大いなる火燃え立ちて、烟突に向ふ。魔女恐ろしき叫声をなし、烟突より火の中を穿ちて降る。)
魔女アウ。アウ。アウ。アウ。
2465
咀われた畜生奴。豕奴。鍋はほうって置く。上さんには火傷をさせる。
咀われた畜生奴。
(ファウスト、メフィストフェレスの二人を見て。)
ここには何事がある。お前達は何者だ。
2470
ここへは何しに来た。なぜ留守に這い込んだ。
お前達は骨々に
火で焼く痛が見たいのか。
(魔女杓子にて鍋を掻き廻し、ファウスト、メフィストフェレス、獣等にを弾き掛く。獣等懼れうめく。)
メフィストフェレス
(手に持ちたる払子を逆にして、柄にてあたりの土器、玻璃器を敲き立つ。)
打ち破れ。打ち破れ。2475
粥は引っ繰り返れ。硝子はかけらになれ。
これでも洒落だよ。
腐女奴。
手前の歌に合せる拍子だ。
2480
(魔女の憤り且つ驚きて退くを見つゝ。)
やい。骸骨奴。案山子奴。己を見忘れやがったか。檀那様、お師匠様を見忘れやがったか。
実は遠慮はいらんのだ。手前も猫の怪物も、
腕を出せば、敲き潰して遣るのだぞ。
いつ赤い胴著がこわくなくなったのだ。
2485
帽子に挿した鳥の羽が見えんか。己が面でも隠しているかい。
己に名告をしろと云うのかい。
魔女
やあ。檀那。飛んだ御無礼をいたしました。
蹄を隠していらっしゃるもんだから。
2490
それに二羽の鴉はどうなさいました。メフィストフェレス
こん度だけは特別で恕して遣る。
それは顔を合せないことが
大ぶ久しくなっているからな。
それに文化と云う奴が世の中を甜め廻して、
2495
悪魔をも只では置かねえのだ。北国生れのお化はな、もう見ることが出来ないよ。
それ、角や、尻尾や、爪なんぞは見えまいが。
ただ足は無いと不自由だが、
見せては世間の通が悪い。
2500
そこでもうよほど前から、若い奴等がするように、腓腸の贋物を食っ附けて歩いているのよ。
魔女(踊りつゝ。)
サタンの檀那がおいでては、
わしゃ嬉しゅうて気が狂う。
メフィストフェレス
こら。そんな名を口に出すと云うことがあるか。
2505
魔女そりゃなぜでございます。あの名がなんといたしました。
メフィストフェレス
あれはな、もうお伽話に書かれてから久しゅうなる。
そのくせ人間のためには好くはならない。
一人の悪魔はいなくとも、悪人はおお勢いるからな。
兎に角これからは己を男爵閣下と云うが好い。
2510
華族のうようよいる中の己も華族の一人なのだ。まさか己の血筋が怪しいとは云うまい。
それ、己の紋所はこれだ。
(猥褻なる身振をなす。)
魔女(止所なく笑ふ。)へ。へ。お前様のお極だ。
やっぱり今でも昔のままの横著者でいらっしゃる。
2515
メフィストフェレス(ファウストに。)どうです。覚えてお置なさい。
これが魔女の扱振です。
魔女
そこであなた方の御用向は。
メフィストフェレス
実は例の薬をたっぷり一杯貰いたいのだ。
だが一番年を食った好い奴でなくてはいけない。
2520
一年増に強く利くのだからな。魔女
お易い御用でございます。ここに一瓶
わたくしのちょいちょい舐めるのがございます。
もうちっとも臭くはございません。
これを一杯献じましょう。(小声にて。)
2525
ですが、御承知の通、禁厭なしにあの方が上がると、一時間とは生きていられませんよ。
メフィストフェレス
いいや。大事な友達だ。好く利かなくてはならない。
手前の台所の一番好いものが飲せたいのだ。
手前例の圏をかいて、文句を言って、
2530
たっぷり一杯上げてくれ。
(魔女怪しげなる動作にて圏をかき、その中に種々の物を排置す。そのうち玻璃器、金属器自ら鳴りて楽を奏し始む。最後に猿等を圏の中に入れ、大いなる書籍を取り出し、一匹の猿を卓にしてそれを載せ、他の猿には炬を秉らしむ。さてファウストを招きて圏の中に入らしむ。)
ファウスト(メフィストフェレスに。)
君これはどうすると云うのだい。
こんな馬鹿げた真似、気違染みた為草、
無趣味極まる欺瞞は
僕は疾うから知っている。大嫌だ。
2535
メフィストフェレス何を気にするのです。ただ笑わせるまでですよ。
そんなに窮屈に考えなくても好いじゃありませんか。
あいつも医者だから、薬が好く利くように、
禁厭をして飲ませなくては気が済まないのです。
(ファウストを強ひて圏の中に入らしむ。)
魔女
(大袈裟なるこれ見よかしの表情にて、書の中より朗読し始む。)
「汝須らく会すべし。2540
一より十を作せ。二は去るに任せよ。
而して径ちに三に之け。
然らば則ち汝は富まむ。
四は喪失せよ。
2545
五と六とより七と八とを生ぜしめよ。
是の如く魔女は説く。
是においてや成就すべし。
九は則ち一なり。
2550
十は則ち無なり。之を魔女の九九と謂ふ。」
ファウスト
婆あさん熱に浮かされているのじゃあるまいか。
メフィストフェレス
まだなかなかあんな物じゃありません。
わたしは好く知っていますが、あの本は皆あんな調子です。
2555
随分あれで暇を潰したこともあります。なぜと云うと、まるで矛盾した事は
智者にも愚者にも深秘らしく聞えますからね。
あなたに言いますが、学術は新しいようで古い。
原来三と一だの、一と三だのと云って、
2560
真理の代に妄想を教えるのはいつの世にもある遣方です。そんな工合に
誰にも邪魔をせられずに饒舌って教えています。
誰が馬鹿に構うものですか。
大抵人間はただ詞ばかりを聞せられると、
2565
何かそれに由って考えられるはずだと思うのです。魔女(誦し続く。)
「夫れ学術の
崇高なる威力は
全世界に秘せらる。
然れども思量せざる者
2570
贈遺の如くに得べし。労苦することを須ゐず。」
ファウスト
なんの無意味な事を己達に言って聞せるのだ。
もう直にこの頭が割れそうになって来る。
己にはなんだか馬鹿が十万人も
2575
群をなしてしゃべっているように思われる。メフィストフェレス
もう好い、好い。えらい巫子さん。
早く薬を持って来て、杯の縁まで
一ぱいに注いでくれ。
己の友達にはあの薬が障る気遣はない。
2580
この人はこれまでにもいろんな薬を飲んで見て、大ぶ位の附いている人だから。
(魔女複雑なる作法をなして薬を杯に注ぐ。それをファウスト受けて唇に当つるとき、軽き燃え立つ。)
構わずにぐいとお飲なさい。休まずにぐいと。すぐに好い心持になります。
悪魔と君だの僕だのと云うあなたが、
2585
火なんぞをこわがるのですか。
(魔女圏を解く。ファウスト脱出す。)
メフィストフェレスさあ、すぐに出掛けましょう。じっとしていてはいけません。
魔女
もし、あなた、お薬が好く利くようにお祈申します。
メフィストフェレス(魔女に。)
何か返礼に己に頼みたい事があるなら、
ワルプルギスの晩に遠慮なく言うが好い。
2590
魔女それからこの歌の本を上げますから、時々お歌なさい。
不思議な利目がございますからね。
メフィストフェレス(ファウストに。)
さあ、わたしが案内しますから、早くおいでなさい。
薬が内外一面に染みるように、
汗を出さなくてはいけません。
2595
これから高尚な懶惰の価値を分からせて上げる。今にあなたの体の中で、愛の神が動き出して
折々跳ね廻るのを、面白くお感じになるのだ。
ファウスト
まあ、待ってくれ。一寸今一度あの鏡を見なくては。
あの女の姿があんまり好かったから。
2600
メフィストフェレスお廃なさい。お廃なさい。今にあらゆる女の
手本になるのを、正味で御覧に入れますから。
(聞えぬやうに。)
あの薬が這入っているから、今にどの女でもヘレナに見える。
ファウスト登場。マルガレエテ通り過ぐ。
ファウストもし、美しいお嬢さん。不躾ですが、この肘を
2605
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。マルガレエテ
わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。
(振り放して退場。)
ファウスト途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
2610
あんなに行儀が好くておとなしくて、そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
2615
己の胸に刻み込まれてしまった。それからあの手短に撥ね附けた処が、
溜まらなく嬉しいのだ。
(メフィストフェレス登場。)
おい。あの女を己の手に入れてくれ。メフィストフェレス
どの女ですか。
2620
ファウスト今通って行った奴だ。
メフィストフェレス
あれですか。あれは今坊主の所から帰るのです。
懺悔して罪の免除を受けて来たのです。
わたしは坊主の椅子の傍を忍んで通ったが、
なんにも持たずに懺悔に行った、
ひどく罪のない娘ですよ。
2625
あんなのはわたしの手に合いませんね。ファウスト
でも満十四歳にはなっているだろうが。
メフィストフェレス
丸で道楽息子のような口の利きようをしますね。
どの美しい花をも自分の手に入れようとして、
自分の手で摘み取ることの出来ない
2630
恋や情はないはずだと思う性ですね。ところがなかなかいつもそうは行きませんよ。
ファウスト
おい。道学先生。
どうぞ道徳の掟を己に当て嵌めることだけは免してくれ。
それから君に手短に言って置くがね。
2635
あの旨そうな若々しい肌に今宵己の手が触れることが出来なかったら、
夜なかまで待たずに君とお分にするよ。
メフィストフェレス
しかし出来る事と出来ない事とは考えて下さい。
探偵して機会を捕えるまでに、
2640
少くも十四日は掛かるのです。ファウスト
己なんぞは七時間遊んでいられると、
あんな物を騙して遣るには、
悪魔の手を借るまでもないがなあ。
メフィストフェレス
もうフランス人のような物の言いようをしますね。
2645
だがお願ですから、気を悪くしないで下さい。何もすぐに手に入れるのが面白いのではありません。
南の方の国の話に随分あるように、
先ずいろいろな前狂言をして、
あの人形をあっちこっち
2650
捏ね廻したり躾けたりするのが、却って手に入れた時より面白いものです。
ファウスト
そんな面倒をしなくっても、己は直にその気になれる。
メフィストフェレス
まあ、洒落や笑談は廃にして、わたしは度々
言う代に、一度はっきり言って置きますが、
2655
あの好い子を手に入れるのは、そう早くは行きませんよ。一挙して抜くと云う砦ではない。
詭の謀と云う面倒なので我慢しなくては。
ファウスト
そんならあいつの持物でも己の手に入れてくれ。
あいつのいつも腰を掛ける場所へでも連れて行ってくれ。
2660
あいつの胸に触れたことのある巾でも、沓韈の紐でも好いから、恋の形見に手に入れてくれ。
メフィストフェレス
わたしがあなたの苦をどうにかして上げる
お手伝をする気だと云うことが、あなたにも分かるように、
手間を取らせずに、きょうのうちに
2665
あなたをあの娘の部屋へ連れて行きます。ファウスト
そして逢われるのか。手に入れられるのか。
メフィストフェレス
いいえ。
当人は隣の上さんの所へ行っているでしょう。
その隙にあなたがひとりで
未来の楽を思い浮べながら、あの娘の肌の香の
2670
籠っている所にいるのを心遣になさるが好い。ファウスト
そんなら今から行かれるのか。
メフィストフェレス
まだ早過ぎます。
ファウスト
そんなら何かお土産に遣る物を心配して置いてくれ。
メフィストフェレス
直に遣りますか。それはごうぎだ。それなら成功します。
方々の好い所に昔埋めて置いた
2675
宝のあるのを、わたしは知っています。まあ、少し調べて見なくては。(退場。)
小さき清げなる室。
マルガレエテ辮髪を編み結びなどしつゝ。
マルガレエテマルガレエテ辮髪を編み結びなどしつゝ。
きょうのお方がどなただか知れるなら、
何か代に出しても好いと思うわ。
大そうはきはきしたお方のようだったこと。
2680
きっと好い内の方だわ。わたしお顔を見たら、すぐ分かってしまった。
でなくては、あんな不遠慮な事はなさらないわ。(退場。)
メフィストフェレス、ファウスト登場。
メフィストフェレスさあ、這入るのです。そっと、構わずに。
ファウスト(暫く黙りゐて。)
どうぞ己をひとりで置いて行ってくれ。
2685
メフィストフェレス(四辺を探るやうに見つゝ。)なかなかどの娘でもこう綺麗にしているものではないて。(退場。)
ファウスト(あたりを見廻す。)
この神聖な場所を籠めてくれる、
優しい、薄暗い黄昏時よ。好く来てくれた。
渇して纔かに吸う希望の露に命を繋いでいる、
優しい恋の艱よ。己の胸を占めてくれい。
2690
静けさ、秩序ある片附方、物に満足している心持が、なんとなくこの周囲に浮動しているではないか。
この物足らぬ中になんと云う豊富なことだろう。
この人屋めいた中になんと云う祝福のあることだろう。
(寝台の傍の鞣革の椅子に身を倚す。)
この椅子はあれがまだ生れぬ世を、喜につけ悲につけ、2695
腕を拡げて迎え容れた椅子であろう。己に掛けされてくれ。家の長老の座のこの椅子に、
幾度か取り巻く子等の群がぶら下がったことであろう。
事に依ったら、あの子がまだふくらんだ頬をしていた時、
神聖なクリストの恩を謝して、この椅子に靠っている
2700
家の長老の萎びた手に、敬虔なキスをしたかも知れぬ。ああ。好い子よ。毎日お前に母のような指図をして、
この卓の上に巾を綺麗にひろげさせ、
足に踏む砂をさえ美しく波立つようにさせる、
その饒けさと整との精神が、
2705
身の辺に戦いでいるのを己は感ずる。まあ、なんと云う可哀い手だろう。神々の手のような。
お前のお蔭でこの小屋が天堂になるのだ。
そしてここは。
(手にて寝台の帷の一ひらを搴ぐ。)
まあ、なんと云うぞっとする嬉しさが襲うだろう。己はたっぷり何時間もここに立ちもとおっていたい。
2710
自然よ。お前はここで軽らかな夢の中に、ただ一度しか生れぬ天使を育てたのだ。
優しい胸に温い性命の満ちている
穉子がここにいたのだ。
物を織り成す、神聖な、清浄な力で、
2715
あの神々しい姿貌がここで発展したのだ。そこで貴様はどうだ。何がここへ連れて来たか。
己は心の底から感動させられてしまう。
貴様はここで何をしようと思う。なぜそう胸が苦しゅうなる。
吝なファウスト奴。貴様は見違えた奴になったなあ。
2720
禁厭の靄が己をここで包んでいるだろうか。驀直に受用しようと云う促が己を駆って来たのに、
恋の夢に己は解けて流れるように感ずるではないか。
空気の圧の変るまにまに己は弄ばれて変るのか。
もしこの刹那にあれがここへ這入って来たら、
2725
己の無作法はどんなにか罪なわれるだろう。大きなのろま男奴。なんと云う小さくなりようだ。
大方あれが足の前に蕩けた様になって俯さるだろう。
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス早くおしなさい。娘が下を遣って来ます。
ファウスト
行こう、行こう。己はもうここへは来ない。
2730
メフィストフェレスここにある所から持って来た、
一寸目方のある箱がありますがな。
兎も角もこれをそこの箪笥に入れてお置きなさい。
あの娘が見て気が遠くなる程欲しがることは受合です。
あいつの体のいろんな物があなたのおもちゃになるように、
2735
わたしがこの箱にいろんなおもちゃを入れて置きました。相手の子供は子供でもこっちの細工は細工ですから。
ファウスト
さればさ。そんな事をしたものだろうか。
メフィストフェレス
それに文句がありますか。
それともこの品物をあなたが持っていなさる積ですか。
そんならあなたも色気なんぞを出して
2740
結構な暇を潰すことをお廃になり、わたしにもこれから先の骨折を免じてお貰申したい。
まさかあなたは吝なのではありますまいね。
あの可哀らしい小娘を
あなたの胸のお望どおりに靡かせようとしている
2745
わたしに、頭を掻かせたり、手を摩らせたりするのですか。
(小箱を箪笥に入れ、鑰を卸す。)
さあ、早く逃げましょう。なんです、その顔は。
今から講堂へでも出て行こうと云うのですか。
形而下学と形而上学とがさながら現われて来て、
2750
灰色の顔をしてあなたの前にでも立っていると云うのですか。さあ、逃げましょう。(退場。)
マルガレエテ燈を秉りて登場。
マルガレエテなんだかここは鬱陶しくて、むっとするようだこと。
(窓を開く。)
そのくせ外はそんなに暑くもないのに。わたしなんだか分からないが、変な心持がするわ。
2755
早く母あさんがお内へお帰だと好い。なんだかこう体中がぞくぞくしてならない。
まあ、わたしはなんと云う馬鹿げた、臆病な女だろう。
(著物を脱ぎつゝ歌ひ始む。)
「昔ツウレに王ありき。盟渝せぬ君にとて、
2760
妹は黄金の杯を遺してひとりみまかりぬ。
こよなき宝の杯を
乾しけり宴の度毎に。
この杯ゆ飲む酒は
2765
涙をさそふ酒なりき。死なん日近くなりし時
国の県の数々を
世嗣の君に譲りしに、
杯のみは留め置きぬ。
2770
海に臨める城の上に王は宴を催しつ。
壮士あまた宮内に、
御座の下に集ひけり。
これを限の命の火
2775
盛れる杯飲み干して、その杯を立ちながら
海にぞ王は投げてける。
落ちて傾き、沈み行く
杯を見てうつむきぬ。
2780
王は宴の果てゝより飲まずなりにき雫だに。」
(著物を納めんと、箪笥を開き、小箱を見る。)
おや。どうしてこんな美しい箱が這入っているのだろう。わたし錠は慥かに卸して置いたのに。
本当に不思議だこと。何が入れてあるのだろう。
2785
誰か母あ様にお金を借りに来て質に入れて置いたのかしら。
おや。ここに鍵が紐で縛り附けてあるわ。
わたし開けて見ようや。
まあ、これはなんだろう。大した物だわ。こんな物は
2790
わたし生れてからついぞ見たことがないわ。装飾品だわ。どんな貴婦人がどんな宴会へでも
附けて行かれるだろうと思うわ。
わたしにでも似合うかしら。
一体誰のだろう。
2795
(装飾品を身に附けて鏡に向ふ。)
この耳輪だけでもわたしのだと好い。別の顔のように美しく見えるわ。
ほんとに若くても綺麗でもなんにもなりゃしない。
それだけでも好いには好いのだけれど、
人もそれだけにしきゃ思ってはくれない。
2800
褒めるにでも気の毒がりながら褒めるのだもの。みんなに附いて来られるのも、
ちやほやして貰われるのも、お金次第だわ。
わたしなんぞのように貧乏では為方がないわ。
ファウスト物を思ひつゝあちこち歩みゐる。そこへメフィストフェレス来掛る。
メフィストフェレスええ。食っただけの肘鉄砲とでも云おうか。地獄の
2805
あらゆる景物とでも云おうか。これより胸の悪い事はない。ファウスト
どうしたのだ。腹でもひどく痛いのかい。
己は生れてからそんな顔をしている奴を見たことがない。
メフィストフェレス
わたしはもし自分が悪魔でなかったら、
すぐに悪魔にさらって行って貰いたい位です。
2810
ファウスト頭の中で何かが居所変でもしたのかい。
気違のように跳ね廻るのは君の柄にはあるが。
メフィストフェレス
まあ、思っても見て下さい。娘に遣ろうと思って捜した、
あの装飾品は坊主がふんだくって行きました。
お袋があれを見附けるや否や、
2815
なんだか気味が悪くなったのですね。一体あの女はいやに鼻の利く奴で、
いつも讃美歌集を嗅いでいたり、
道具は一々鼻を当てて、これは神聖な物だ、
これは世間の物だと嗅ぎ分けたりするのです。
2820
そこであの飾にあまり祝福なんぞが附いていないのを、慥かに嗅ぎ出したのです。
お袋はこう云いました。「お前、筋の悪い品物は
持っていても気が詰まる。苦労になって血まで耗る。
これは聖母様にお上げ申そうね。
2825
そうすると天の蜜を下さるから」と云いました。すると娘は口を歪めてこう思ったです。
「まあ、貰った馬は何とやらと云うことがある。
それに誰が神様に背くかと云うと、
あれを親切にここへ持って来た人ではあるまい。」
2830
そこでお袋が坊主を呼んで来る。坊主は話を聞くか聞かぬに、
もう貨物に見とれている。
その言草が好い。「それは御殊勝な事でござります。
欲しい物をお捐になるだけ、それだけ御利益があります。
2835
お寺の胃の腑は大丈夫でござります。これまで国を幾つも召し上がっても、
ついぞ食傷はなさりませぬ。
筋の悪い品物を召し上がって消化なさるのは、
お前様方にわしが言うが、お寺ばかりだ。」
2840
ファウストそれは天下通用の遣方だ。
猶太人も王様にも出来る。
メフィストフェレス
坊主は腕輪や指輪や鎖なんぞを、
三文もしない物のように引っ手繰って、
胡桃を籠に一つ貰った程の
2845
礼も言わずに、いずれ報は天からあると約束しました。
女どもはそれを難有がったのですね。
ファウスト
そこでマルガレエテは。
メフィストフェレス
気が落ち著かぬと云う風で、
何がしたいか、どうしたいか、自分で自分が分からずに、
2850
夜昼貰った宝の事を、それよりもくれた人の事を、思い続けているのです。
ファウスト
あの娘がそう胸を痛めては可哀そうだ。
君すぐに外の宝を捜し出して遣り給え。
初のはそう大した物でもなかったから。
2855
メフィストフェレスそうでしょう。檀那様が見れば万事子供の戯だ。
ファウスト
そしてさっさと己の考通にして貰いたい。
先ず君があの隣の女を手に入れなくちゃいかん。
悪魔が粥のようにべたべたしていては困る。
外の装飾品を急いで持って来給え。
2860
メフィストフェレスへえへえ。お易い御用でございます。
(ファウスト退場。)
女にのろい男と云う奴は、その女のためになら、月でも日でも星を皆でも、
暇潰しに花火のように打ち上げでもします。(退場。)
マルテ一人登場しゐる。
マルテまあ、内の檀那さんに罰が中らねば好いが。
2865
わたしを随分ひどい目にお逢わせなされた。藁の上へひとり残して置いて、
自分は世間へ飛び出しておしまいなされた。
不断腹をお立になるようなことをせずに、
どんなにも大切にしてお上申す積でいるのに。
2870
(泣く。)
事によったらもうお亡くなりなされたかも知れぬ。鶴亀々々。せめて死亡証でも手に入ったら。
マルガレエテ登場。
マルガレエテおばさん。
マルテ
グレエテさんかえ。なんだい。
マルガレエテ
わたしびっくりして膝を衝いてしまいそうだったの。
またこんな箱がわたしの箪笥に
2875
あったのですもの。箱は黒檀でしょう。中に這入っているものと云ったら、
こないだのより、もっと、もっと立派なの。
マルテ
そうかい。それはおっ母さんに言わないが好いよ。
また懺悔の時に持って行くといけないから。
2880
マルガレエテまあ、見て御覧なさいよ。それ。
マルテ(マルガレエテを装飾す。)
まあ、お前さんはなんと云う為合な子だろう。
マルガレエテ
だって、こうして往来へ出たり、お寺へ行ったりすることが
出来ないのだから、詰まらないわねえ。
マルテ
いつだってわたしの所へ来て、
2885
そっと体に附けて見るが好いよ。そして暫くの間、鏡の前を往ったり来たりして御覧。
わたしが一しょに楽んであげるからね。
その中にはお祭かなんかで、好い折が出来ようから、
目立たないようにぼつぼつ体に附けて出るさ。
2890
最初は鎖を掛けて出る。それから耳に真珠を嵌める。おっ母さんも気は附くまいが、また何とか云い様もあろうよ。
マルガレエテ
ねえ、おばさん。この箱を持って来たのは誰でしょう。
なんだか気味が悪いじゃありませんか。
(戸を敲く音。)
おや。大変だわ。おっ母さんじゃないでしょうか。2895
マルテ(窓掛を透し視る。)知らない男の方だよ。お這入下さいまし。
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス失礼ですが、ずんずん這入ってまいりました。
どうぞ御免なさって下さいまし。
(マルガレエテに敬意を表して卻く。)
マルテ・シュウェルトラインさんにお目に掛かりたいのですが。マルテ
マルテはわたくしでございます。なんの御用で。
2900
メフィストフェレス(小声にてマルテに。)お前さんですか。こうしてお目に掛って置けば好い。
お客様はどちらの令嬢ですか。
どうも飛んだ失礼をしましたね。
いずれ午過ぎにでもまた来ましょう。
マルテ(声高く。)
あら、まあ。グレエテさん。お聞よ。
2905
この方がお前の事をどこかの令嬢だろうとさ。マルガレエテ
まあ。わたし貧乏人の娘なのに、
このお方がそんな事にお思なさっては困るわ。
飾は皆わたしの物でもないのに。
メフィストフェレス
いえ。御装飾品だけを見て云ったのではありません。
2910
御様子と、それにお目が鋭いので。このままいて宜しければ、こんな難有い事はありません。
マルテ
御用はなんですか。早く伺いたいもので。
メフィストフェレス
さよう。もっとめでたいお知らせだと好いが。
持って来たわたしが怨まれなければ好いと思うのですよ。
2915
御亭主が亡くなりましたよ。お前さんに宜しくと云うことで。マルテ
おや、まあ。とうとう亡くなりましたの。
可哀そうに。本当に亡くなったでしょうか。ああ。
マルガレエテ
まあ。おばさんしっかりなさいよ。
メフィストフェレス
まあ、気の毒な最期を聞いて下さい。
2920
マルガレエテだからわたし生涯男は持たなくってよ。
亡くなった時どんなにか哀しいでしょう。
メフィストフェレス
悲の隣に喜があり、喜の隣に悲があるのです。
マルテ
どうぞ亡くなった宿がどうなったかお話なすって。
メフィストフェレス
あのパズアの聖アントニウスのお傍で、
2925
極難有い場所に葬って貰われて、
そこを永遠に冷たい臥所にしておられますよ。
マルテ
その外には何もおことづかりなすったことはございませんか。
メフィストフェレス
まだ大したむずかしい事があるですよ。
2930
お前さんに三百度のミサを読ませて貰いたいそうで。それから遺物と云うものは何もありませんでした。
マルテ
まあ。諸国を廻る職人の徒弟でも、笈の底に
飾の一つや、変銭の一つ位は取って置いて、
縦え餓えても、乞食をしても、
2935
それは記念に残すのに。メフィストフェレス
どうもお前さんには実にお気の毒ですよ。
しかし実際無駄遣をしたわけでもありません。
自分でも悪かったと云って後悔していました。
そう。それよりも不為合を怨んでいましたっけ。
2940
マルガレエテまあ。人間は不為合のあるものでございますね。
わたくしもその方のために少しレクウィエムでもお唱申しましょう。
メフィストフェレス
お見受申す所、あなたはもう直にお嫁入をなさっても
宜しそうでございます。愛敬のおありになる方ですね。
マルガレエテ
あら。まだなかなかそんな事は出来ませんわ。
2945
メフィストフェレスそれは御亭主でなくても、差当好い方と
御交際なさるが好い。ただいとしい、可哀いと
抱き合うばかりでも、世の中の主な楽の一つです。
マルガレエテ
そんな事はこの土地ではいたさぬ事になっています。
メフィストフェレス
そうなっていても、いなくても、すれば直出来ます。
2950
マルテもし。まだお話がございましょうか。
メフィストフェレス
ええ。息を引き取りなさる所に、
わたしは附いていましたが、五味溜よりは少し好い、
腐り掛かった藁の上でした。でも信者として
死なれましたよ。まだ大ぶ罪滅がせずにあると云って。
そう云われましたっけ。「己は自分が心からいやだ。
2955
こんな渡世のお蔭で、女房をああして置いて死ぬるのだから。ああ。思い出すと溜まらなくなる。
どうぞこの世で己の罪を免してくれれば好いが。」
マルテ(泣きつゝ。)
可哀そうに。わたしはもう疾っくに免して上げたのに。
メフィストフェレス
「だが神様が御存じだ。己より女房が悪かったのだ。」
2960
マルテばっかし。そんな事を。死際にを衝くなんて。
メフィストフェレス
へえ。わたしには余りよくは分からないが、
断末魔の譫語だったかも知れません。
そう云いましたっけ。「己はうっかりぽんとしていたことはなかった。
子供は出来る、パンを稼ぎ出さなくてはならぬ。
2965
パンも極広い意味のパンだからなあ。そして落ち著いて己の分を食うことも出来なんだ。」
マルテ
まあ。あんなにわたしは夜昼となく働いて、
万事親切に世話をして上げたのを忘れてさ。
メフィストフェレス
いいえ。その事は心から喜んでいたのですよ。
2970
そう云いましたっけ。「マルタ島を立つ時は、己は女房子供のために、心からの祈祷をした。
丁度首尾好くスルタンの
宝を積んだトルコの船を
こっちの船が攫まえた。
2975
骨折甲斐のある為事で、貰うだけの割前は
己も貰った。」
マルテ
まあ。どうしたでしょう。どこかへ埋めでもしたでしょうか。
メフィストフェレス
ところがそれを東西南北、どこへ風が飛ばしたやら。
2980
ナポリへ著いて知らぬ町をぶらついているうちに、綺麗首が銜え込んで、
死ぬる日までもあの男の骨に応える、
結構なおもてなしをしたのですね。
マルテ
まあ、ひどい人だこと。孫子の物を盗んだのだよ。
2985
どんなに落ちぶれても、困っても、浮気は止まなかったのかねえ。
メフィストフェレス
そうですよ。だがその報には死にました。
まあわたしがお前さんなら、
ここの所一年程おとなしく喪に籠っていて、
2990
そのうちそろそろ替の人でも捜すですね。マルテ
そんな事を仰ゃっても、先の亭主のような人は、
世間は広いが、めったに見附かりません。
ほんに可哀い気前の男でござんした。
疵はあんまり旅が好で、
2995
よその女やよその酒に現を抜かし、お負に博奕を打ちました。
メフィストフェレス
なるほど、なるほど。そこで男の方からも、
ざっとその位大目に見ていたとすると、
随分旨い話でしたな。
3000
そんな条件の附く事なら、わたしなんぞも難有くあなたの御亭主になりますなあ。
マルテ
おや。御笑談ばかし仰ゃいます。
メフィストフェレス(独語。)
おっとどっこい。そろそろこの場を逃げなくては。
本物の悪魔の詞質をもこの女は取り兼ねんぞ。
3005
(マルガレエテに。)
ところで、あなたのお胸の御都合は。マルガレエテ
へえ。なんと仰ゃいます。
メフィストフェレス(独語。)
ふん。憎い程おぼこだなあ。
(声高く。)
いや。どなたも御機嫌好う。マルガレエテ
さようなら。
マルテ
あの、ちょっと伺いますが、
宿がいつ、どちらで、どんな風に亡くなったと云う
書附がありましたらと存じます。
3010
わたくしは何事も極まりの附かないことが嫌で、出来ます事なら新聞にも書いてお貰申したいので。
メフィストフェレス
なに、お前さん。証人が二人あれば、
どこでも言分は通ります。
わたしには好い友達が一人いますが、
3015
そいつが一しょになん時でも裁判所へ出て上げます。そのうち連れて来ましょうよ。
マルテ
そんならどうぞそんな事に。
メフィストフェレス
ええと、このお嬢さんもここにおいでになるのですね。
わたしの友達は好い奴です。世間を広く渡って来て、
御婦人方に失礼な事はいたしません。
3020
マルガレエテあんな事を仰ゃるのですもの。お恥かしくて。
メフィストフェレス
いえ。王様の前へお出になってもお恥かしがりなさいますな。
マルテ
そんならあちらの奥庭で、お二人のおいでを
お待申しておりましょう。
ファウストとメフィストフェレスと登場。
ファウストどうだい。運ぶかい。近いうちにどうかなるかい。
3025
メフィストフェレスえらい。大ぶ気乗がして来ましたね。
もう程なくグレエテはお手に入ります。
隣のマルテと云う女の所で今晩お引合をします。
取持や橋渡には
持って来いと云う女ですよ。
3030
ファウスト旨いな。
メフィストフェレス
所でこちとらも物を頼まれましたよ。
ファウスト
それは魚心あれば水心だ。
メフィストフェレス
なに。その女の亡くなった亭主の髑髏が、
パズアの難有い墓地に埋めてあると云う、
法律上に有効な証書を書いて遣るだけです。
3035
ファウスト好いとも。そんならパズアへ行って来なくては。
メフィストフェレス
サンクタ・シンプリチタスだ。神聖なるおめでたさ加減だ。
それに及ぶものですか。知らずに書いて遣るのです。
ファウスト
外に智慧が出ないのなら、その計画は廃案だ。
メフィストフェレス
いやはや。おえらいぞ。そこで君子をお出しになる。
3040
一体偽証と云うものをなさるのが、こん度が始のお積ですかい。
これまであなたは仰山らしく、神はどうだ、世界や
その中に動いている物はどうだ、人間やその心の中で
考えている事はどうだと、定義をお下しになる。
3045
しかもしゃあしゃあとして大胆にお下しになる。好く胸に手を置いて考えて御覧なさいよ。
正直のところ、そんな事をシュウェルトラインと云う男の
死んだ事より確かに知っておいでになったのですか。
ファウスト
ソフィスト奴。どこまでも君は衝だなあ。
3050
メフィストフェレスそのあなたの腹をもっと深く知らなんだら、
恐れ入るでしょうよ。あしたになると済まし込んで、
心からお前を愛するなんぞと、
あのグレエテを騙すのでしょうが。
ファウスト
それは心から愛しているのだ。
メフィストフェレス
宜しい。
3055
それから何物にも打ち勝つ、ただ一つの熱情だの、永遠に渝ることのない恋愛だの真実だのと、
いろいろ並べるのも心からでしょうか。
ファウスト
廃せ。それは心からだ。己が感じて、
その感じ、その胸の悶を
3060
なんとか名づけようとして、詞が見附からないで、そこで心の及ぶ限、宇宙の間を捜し廻った挙句に、
最上級の詞を攫まえて、
己の体を焚くような情の火を、
無窮極だ、無辺際だ、永遠だと云ったと云って、
3065
それが悪魔もどきの事かい。メフィストフェレス
それでもわたしのが本当です。
ファウスト
おい。これだけは覚えていろ。
頼むから、己の吭を少しいたわって貰いたい。
誰と議論をする時でも、ただ一言しか言わずにいれば、
それは勝つに極まっている。
3070
そろそろ行こう。もう己も饒舌り厭きた。君のが本当だとも。己は外に為方がないのだから。
マルガレエテはファウストの肘に手を掛け、マルテはメフィストフェレスに伴はれて、園内を往反す。
マルガレエテあなたわたくしをおいたわりになって、ばつを合せて
いらっしゃるかと存じますと、お恥かしゅうございますの。
旅をなさるお方のお癖で、詰まらない事をも
3075
お情に我慢してお聞遊ばすのですわ。いろいろな目にお逢になったお方に、詰まらないお話が
お慰にならないのは、好く分かっていますわ。
ファウスト
あなたが、一目ちょいと見て、一言ちょいと言って下さると、
それが世界のあらゆる知識より面白いのです。
3080
(女の手に接吻す。)
マルガレエテあら、我慢してそんな事をなさらないが宜しゅうございますわ。
こんな手にキスを遊ばして。こんな見苦しいがさがさした手に。
それはいたさなくてはならない為事が沢山ございますの。
母あ様が随分やかましゅうございますから。
(行き過ぐ。)
マルテそしてあなたはこれからも旅ばかりなさいますの。
3085
メフィストフェレスええ。どうも職業と義務とに追い廻されるので。
土地によっては立って行くのがつらいのですが、
居据わることが出来ないから為方がありません。
マルテ
それはお若いうちに、そんなに世界中をあちこちと
所嫌わずにお歩きになるのも好いでしょう。
3090
でもいつかお年がお寄になって、鰥夫のままで墓へ行く道を足を引き摩って
おいでになるのは、どなただっておいやでしょうに。
メフィストフェレス
そうです。それが向うに見えるから不気味です。
マルテ
ですから早くそのお積で御思案をなさらなくては。
3095
(行き過ぐ。)
マルガレエテだってお目の前にいなくなれば、お忘なさいますわ。
お世辞を仰ゃり附けていらっしゃるのですもの。
わたくしなんぞより物事のお分かりになるお友達に、
これまで度々お逢になりましたでしょう。
ファウスト
大違です。物事が分かっていると云うのが、どうかすると
3100
自惚と鼻の先思案ですよ。マルガレエテ
ええ。
ファウスト
実に無邪気と罪のなさとが、自分を知らずに、
自分の神聖な値打を知らずにいるのが不思議です。
一体謙遜だの卑下だのと云うものこそ、博愛な
自然の配る賜の一番上等なものですのに。
3105
マルガレエテ本当にあなたがちょいとの間構まっていて
下さいますと、わたくしは生涯お忘申さないのですが。
ファウスト
あなたは一人でおいでの事が多いのでしょうね。
マルガレエテ
ええ。わたくし共の所は小さい世帯でございますが、
それでもどうにかいたして行かなくてはなりませんの。
3110
女中はいませんでしょう。煮炊やら、お掃除やら、編物やら、為立物やらいたします。朝から晩まで駆けて歩きます。
それは母あ様は何につけても
几帳面でございますから。
本当はそんな倹約をいたさなくても済みますの。
3115
余所よりはよっぽど暮らして行き好うございますの。父がちょいといたした財産と、町はずれに
庭の附いた小さな家を残してくれましたものですから。
でも此頃は大ぶ落著いて暮らす日がございますの。
兄は兵隊に出ますし、
3120
妹は亡くなりますし。随分わたくしあの赤さんには困りましたわ。
そのくせあの世話ならもう一度いたしたいと思いますの。
本当に可哀い赤さんでしたもの。
ファウスト
あなたに似たら、天使でしたでしょう。
マルガレエテ
わたくしが育てたものですから、好く馴染んでいましたの。
3125
お父様が亡くなってから生れましたでしょう。母あ様はとても助からないと云われる程
お弱になって休んでいらっしゃいましたの。
ですからおひだちになるのもじりじりでございましてね。
ですから赤さんにお乳をお上げなさることなんぞは
3130
思いも寄らなかったので、わたくしが一人で牛乳に水を割って
育てましたの。ですからわたくしの子になりましたの。
抱っこして遣ったり、膝に載っけて遣ったりいたすと、
嬉しがって、跳ねて、段々大きくなりましたの。
3135
ファウストあなたはきっと人生の最清い幸福を味ったのです。
マルガレエテ
それでも随分つらい時もございましたわ。
夜になりますと、赤さんの寝台を
わたくしの寝台の傍に置いて、ちょいと動くと
目が醒めるようにいたして置きましたの。
3140
お乳を飲ませたり、抱っこして寝たりしましても、泣き罷まないときは、抱いて起きて、
ゆさぶりながら部屋の中を歩きました。
それでも朝は早く起きて、お洗濯物をいたします。
それから市場へまいったり、煮炊をしたりいたします。
3145
毎日毎日そんな按排でございましたの。ですからいつも気が勇んではいませんでしたわ。
その代御飯がおいしくて、夜は好く休まれますのね。
(行き過ぐ。)
マルテ女は本当にどうして好いか分かりません。
一人が好いと仰ゃる方は手の附けようがないのですもの。
3150
メフィストフェレスわたしなんぞを改心させるのは、
お前さんのような方の腕次第です。
マルテ
打ち明けて仰ゃいよ。まだ好い人をお見附なさらないの。
もうどこかの人にお極になっているのではありませんか。
メフィストフェレス
諺がありますね。「じまえの竈に実のある女房は
3155
金と真珠の値打がある。」マルテ
どこかでその気におなりになったでしょうと云うのですよ。
メフィストフェレス
ええ。随分方々で丁寧にしてくれましたよ。
マルテ
でも真面目にお気に入ったのはありませんかと云うのですよ。
メフィストフェレス
婦人方に笑談なんか云っては済みませんとも。
3160
マルテあら。お分かりにならないのですね。
メフィストフェレス
どうも申しわけがありません。
兎に角あなたが御親切だと云うことは分かっています。
(行き過ぐ。)
ファウストわたしだと云うことが、庭へ這入った時
すぐに分かりましたか。
マルガレエテ
わたくしの俯目になったのがお分かりにならなくって。
3165
ファウストそんならこないだお寺からお帰なさる時、
御遠慮もしないで、厚かましい事をしたのを、
堪忍して下さるでしょうね。
マルガレエテ
今までついぞない事ですから、びっくりしましたわ。
わたくし悪い評判をせられた事はありませんでしょう。
3170
ですからどこかわたくしの様子に下卑た、不行儀な処のあるのをお見附なされたかと存じて。
どうにでもなる女だと、
すぐお思になったようでしたもの。
申してしまいますが、その時はあなたが好いお方だと
3175
思う心持がし始めたのには、気が附きませんでしたの。でももっとおこってお上申すことの出来なかったのは、
慥かに悔やしいと存じましたわ。
ファウスト
可哀い事を言うね。
マルガレエテ
ちょっと御免なさいまし。
(アステルの花を摘み、弁を一枚一枚むしる。)
ファウストどうするの。花束。
マルガレエテ
いいえ。遊事ですの。
ファウスト
え。
マルガレエテ
厭。お笑あそばすから。
3180
(マルガレエテ弁をむしりつゝつぶやく。)
ファウスト何を言っているの。
マルガレエテ(中音にて。)
お好。お嫌。
ファウスト
可哀い顔をしていることね。
マルガレエテ(依然つぶやく。)
お好。お嫌。お好。お嫌。
(最後の弁をむしりて、さも喜ばしげに。)
お好だわ。ファウスト
好だとも。その花の占を
神々の詞だとお思。わたしはきっとお前を好いている。
3185
お前分るかい。男に好かれていると云う意味が。
(ファウスト娘の両手を把る。)
マルガレエテわたくしなんだか体がぞっとしますわ。
ファウスト
そんなにこわがるのじゃない。このお前を視る目、
お前の手を握る手に、口に言われない事を
言わせておくれ。
3190
わたしは命をお前に遣る。そして永遠でなくてはならない喜を感じる。永遠だ。
もしこの心持が消える時が来たら、絶望だ。
いや。消える時は無い。終は無い。
(マルガレエテ手を強く締めて、さて振り放し、走り去る。ファウスト立ち止まりて思案すること暫くにして、跡に附き行く。)
マルテ(登場しつゝ。)もう日が暮れます。
メフィストフェレス
そうです。わたくし共は行かなくては。
3195
マルテも少しお止申したいのですが、
何分人気の悪い土地で、
近所のもののする事なす事を見張っているより外、
誰一人自分の用事は
ないかとさえ思われるのでございます。ですからどんなに
3200
気を附けても、兎角彼此申します。あのお二人は。
メフィストフェレス
あの道を駆けて行きましたよ。
夏の小鳥のように元気な人達だ。
マルテ
あの方のお気に入ったようですね。
メフィストフェレス
娘さんも気があるらしい。世間はそうしたものですよ。
マルガレエテ飛び込み、扉の背後に躱れ、右の示指の尖を脣に当て、隙間より外を窺ふ。
マルガレエテいらしった。
ファウスト登場。
ファウスト横着ものだね。わたしを揶揄うなんて。
3205
そら攫まえたぞ。(接吻す。)マルガレエテ
(抱き着き、接吻し返す。)
あなた。心から可哀くてよ。
メフィストフェレス戸を敲く。
ファウスト(足踏す。)誰だ。
メフィストフェレス
お連です。
ファウスト
畜生。
メフィストフェレス
そろそろお切上なさらなくては。
マルテ登場。
マルテ本当に遅くなりますよ。
ファウスト
送って行ってはいけないかい。
マルガレエテ
それこそ母あ様が。さようなら。
ファウスト
行かなくてはならんかなあ。
そんならこれで。
マルテ
御機嫌好う。
マルガレエテ
こん度はお早くね。
3210
(ファウスト、メフィストフェレス退場。)
まあ。ああ云う男の方と云うものはいろいろな事にお気が附くこと。
わたしぼんやりして立っていて伺って、
何を仰ゃっても、はいはいと云うきりだわ。
わたし、まあ、なんと云う馬鹿な子だろ。
3215
わたしのどこがお気に入るのかしら。(退場。)
ファウスト一人。
ファウスト崇高なる地の精。お前は己に授けた。己の求めたものを
皆授けた。の中でお前の顔を
己に向けてくれたのも、徒事ではなかった。
美しい自然を領地として己にくれた。
3220
それを感じ、受用する力をくれた。ただ冷かに境に対して驚歎の目をることを
許してくれたばかりでなく、友達の胸のように
自然の深い胸を覗いて見させてくれた。
お前は活動しているものの列を、己の前を
3225
連れて通って、森や虚空や水に棲む兄弟どもを己に引き合せてくれた。
それから暴風が森をざわつかせ、きしめかして、
折れた樅の大木が隣の梢、
隣の枝に傍杖を食わせて落ち、
3230
その音が鈍く、うつろに丘陵に谺響する時、お前は己を静かな洞穴に連れ込んで、己に己を
自ら省みさせた。その時己の胸の底の
秘密な、深い奇蹟が暴露する。
そして己の目の前に清い月影が己を宥めるように
3235
差し升って来る時、岩の壁から、湿った草叢から、前世界の
白金の形等が浮び出て、
己の観念の辛辣な興味を柔らげる。
ああ。人間には一つも全き物の与えられぬことを
3240
己は今感ずる。お前は己を神々に近く、近くするこの喜を授けると同時に、
己に道連をくれた。それがもう手放されぬ
道連で、そいつが冷刻に、不遠慮に
己を自ら陋しく思わせ、切角お前のくれた物を、
3245
嘘き掛けたただの一息で、無にするのを忍ばねばならぬ。そいつが己の胸に、いつかあの鏡の姿を見た時から、
烈しい火を忙しげに吹き起した。
そこで己は欲望から受用へよろめいて行って、
受用の央にまた欲望にあこがれるのだ。
3250
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレスもう今までの生活は此位で沢山でしょう。
そう長引いてはあなたに面白いはずがありませんから。
それは一度はためして見るのも好いのです。
これからはまた何か新しい事を始めなくては。
ファウスト
ふん。己の気分の好いのに、来て己を責めるよりは、
3255
君にだってもっと沢山用事があるだろうが。メフィストフェレス
いいえ。御休息のお邪魔はしません。
そんな事をわたしに真面目で言っては困ります。
あなたのような荒々しい、不愛想な、気違染みた
友達は無くても惜しくはありません。
3260
昼間中手一ぱいの用がある。何をして好いか廃して好いか、
いつも顔を見ていても知れないのですから。
ファウスト
それが己に物を言う、丁度好い調子だろう。己を
退屈させて、お負にそれを難有がらせようと云うのか。
3265
メフィストフェレスわたしがいなかったら、あなたのような
この世界の人間はどんな生活をしたのですか。
人間の想像のしどろもどろを
わたしが当分起らぬようにして上げた。
それにわたしがいなかったら、あなたはもう
3270
疾っくにこの地球にお暇乞をしていなさる。なんのためにあなたは木兎のように
洞穴や岩の隙間にもぐっているのです。
なぜ陰気な苔や雫の垂る石に附いた餌を
蟾蜍のように啜っているのです。
3275
結構な、甘ったるい暇の潰しようだ。あなたの体からはまだ学者先生が抜けませんね。
ファウスト
うん。こうして人里離れた所に来ていると、
生活の力が養われるが、君には分かるまい。
もしそれが分かっていたら、そんな幸福を己に享けさせまいと、
3280
悪魔根性を出して邪魔をするだろう。メフィストフェレス
現世以上の快楽ですね。
闇と露との間に、山深く寝て、
天地を好い気持に懐に抱いて、
自分を神のようにふくらませて、
3285
推思の努力で大地の髄を掻き撈り、六日の神業を自分の胸に体験し、
傲る力を感じつつ、何やら知らぬ物を味い、
時としてはまた溢れる愛を万物に及ぼし、
下界の人の子たる処が消えて無くなって、
3290
そこでその高尚な、理窟を離れた観察の尻を、一寸口では申し兼ねるが、
(猥褻なる身振。)
これで結ぼうと云うのですね。ファウスト
ふん。怪しからん。
メフィストフェレス
お気に召しませんかな。
御上品に「怪しからん」呼わりをなさるが宜しい。
潔白な胸の棄て難いものも、
3295
潔白な耳に聞せてはならないのですから。手短に申せば、折々は自ら欺く快さを
お味いなさるのも妨なしです。
だが長くは我慢が出来ますまいよ。
もう大ぶお疲が見えている。
3300
これがもっと続くと、陽気にお気が狂うか、陰気に臆病になってお果になる。
もう沢山だ。あの子は内にすくんでいて、
なんでもかでも狭苦しく物哀しく見ていますよ。
あなたの事がどうしても忘れられない。
3305
あなたが無法に可哀いのですね。あなたの烈しい恋愛が、最初雪解のした跡で、
小川が溢れるように溢れて、そいつをあなたは
あの子の胸に流し込んだ。
そこであなたの川は浅くなったのですね。
3310
わたくし共の考では、檀那様が森の中の玉座に据わっておいでになるより、
あの赤ん坊のような好い子に、惚れてくれた
御褒美をお遣になるのが宜しいようだ。
あの子は溜まらない程日が長いと見えて、
3315
窓に立って、煤けた町の廓の上を、雲の飛ぶのを見ています。
「わしが小鳥であったなら。」こんな小歌を
昼はひねもす夜はよもすがら歌っています。
どうかするとはしゃいでいる。大抵は萎れている。
3320
ひどく泣き腫れているかと思えば、また諦めているらしい時もあります。
だが思っていることはのべつですよ。
ファウスト
蛇奴が。蛇奴が。
メフィストフェレス
どうです。生捕られましたか。
3325
ファウスト悪党。もうここにいてくれるな。
そしてあの美しい娘の名を言ってくれるな。
半分気の狂いそうになっている己の心の中に、
あの娘の体を慕う欲望を起させては困るからな。
メフィストフェレス
どうしようと云うのです。娘はあなたが逃げたと
3330
思っている。実際半分逃げ掛かっているのですね。ファウスト
いや。実は己はやはりあいつの傍にいる。よしや、もっと
遠く離れていたと云って、己は忘れはせん、棄てはせん。
己はあいつの脣が触れるかと思うと、
主の体さえ妬ましくなるのだ。
3335
メフィストフェレスそうでしょうとも。薔薇の下で草を食っている
鹿のと云う奴には、わたしでさえ気が揉めた。
ファウスト
もうどこかへ行け。口入屋奴。
メフィストフェレス
沢山悪口をなさい。わたしは可笑しい。
男と女とを拵えた神様も、
自分がすぐに取持をして見て、
3340
こんな好い為事はないと思ったのです。まあ、行ってお遣なさい。悲惨極まっています。
何も死ぬる所へおいでなさいとは云わない。
好い人の閨へおいでなさいと云うのですよ。
ファウスト
それはあれを抱いているのは、天国にいるように嬉しいがな、
3345
あいつの胸で温まっている間でも、あいつの苦労を察して遣らずにはいられぬ。
己は亡命者ではないか。無宿ものでは。
己は当もなく休まずに生きている人非人だ。
譬えば好き好んで烈しく谷底へ落ちようと、
3350
岩から岩を伝って下る瀑布の水のようなものだ。それにあの子はどうだ。子供らしい、ぼうっとした
心持で、脇へ避けて、アルピの野の小家に住むように、
家の中でする程の事は、
皆小さい天地の間に限られている。
3355
それだのに、神に憎まれた己は、岩々に打ち当って、
それを粉な粉なに砕いても
まだ厭き足らずに、
あの娘を、あの娘の平和を埋めねばならんのか。
3360
地獄奴。これ程の犠牲が是非いるのか。悪魔奴。どうぞ己のこの煩悶の期間を縮めてくれ。
どうせこうなると云う事を、すぐさせてくれ。
あの娘の運命が己の頭に落ち掛かって、
己を引っ浚って底の深みに落ちても好い。
3365
メフィストフェレスまた煮え立って、燃え上がって来ましたな。
早く行って賺してお遣なさい。馬鹿な先生だ。
兎角小さい頭だと云うと、一寸出口が知れないと、
すぐに死ぬることを考えたがる。
なんでも我慢し通す奴が万歳です。
3370
あなたなんぞはもう大ぶ悪魔じみて来ていなさる。絶望のために狼狽している悪魔程
不似合なものは、先ず世界にありますまいぜ。
マルガレエテ一人車の傍に坐しゐる。
マルガレエテ心の落著無くなりて、
胸苦しくぞなりにける。
3375
尋ぬとも、その落著はつひに帰らじ、とこしへに。
彼人まさねば、いづかたも
冢穴にしも異ならず。
苦きを嘗むる所とぞ
3380
世の中は皆なりにける。物狂ほしくもなれるかな、
あはれわがこの頭。
ちぎれ/\になりしかな、
あはれわがこの心。
3385
心の落著なくなりて、胸苦しくぞなりにける。
尋ぬとも、その落著は
つひに帰らじ、とこしへに。
小窓よりわが見出だすは、
3390
彼人来やと待つばかり。門の外へわが出で行くは、
彼人迎へに行くばかり。
ををしき彼人の歩みざま。
けだかき彼人の姿。
3395
その脣の微笑。そのまなざしの力。
その物語の
妙なる流。
我手取りますそのみ手よ。
3400
さて、あはれ、その口附よ。心の落著なくなりて、
胸苦しくぞなりにける。
尋ぬとも、その落著は
つひに帰らじ、とこしへに。
3405
胸の願は彼人にそはんとおもふ外ぞなき。
わが腕もて彼人を
捉へまつり、止めまつらばや。
さて心ゆくまで彼人に
3410
口附しまつらばや。よしやわが身は彼人に
口附せられて消えぬとも。
マルガレエテとファウスト登場。
マルガレエテあなた、お誓なすって下さいましな。
ファウスト
うん。なんでも誓う。
マルガレエテ
あのお宗旨の事はどう思っていらっしゃるの。
3415
あなたは大層お優しい方のようですが、お宗旨の事は格別に思っていらっしゃらないようね。
ファウスト
そんな事は措いてくれ。己がお前を好いていることは
分かるだろう。己は好いている人達のためには血も肉も
惜まない。またその人達の感情や宗教を奪おうとはしない。
3420
マルガレエテあなたそれは悪いわ。お信じなさらなくては。
ファウスト
信ぜなくてはならんかなあ。
マルガレエテ
ほんにどうにかしてお上申したいわ。
あなた秘蹟だってお敬なさらないでしょう。
ファウスト
敬っている。
マルガレエテ
でも心から願いたいと思召さないでしょう。
ミサや懺悔にも長らくお出なさらないでしょう。
3425
神様をお信じなすって。ファウスト
ふん。一体誰でも「己は神を信ずる」と
云うことが出来ると思うかい。
司祭にでも聖人にでもそんな風に問うて見るが好い。
その返事はただ問うた人を
嘲るようにしか聞えはしないのだ。
マルガレエテ
ではお信じなさらないの。
3430
ファウストおい。はき違をするのじゃないぞ。
一体神の御名を口に唱えて、
「己は神を信ずる」と
告白することの出来るものがあろうか。
また自分がそう感じて、
3435
「己は信ぜない」と云うことを敢てすることの出来るものがあろうか。
万物を包んでいるもの、
万物を保たせて行くものであって見れば、
お前をも、己をも、自身をも
3440
包んでいて、保たせて行くだろうじゃないか。天はあんなに上の方で中高になっているじゃないか。
地はこんなに下の方で堅固になっているじゃないか。
そして永遠な星は優しい目をして
升って来るではないか。
3445
こうして己とお前と目を見合せていると、あらゆる物がお前の頭へ、
お前の胸へと迫って来て、
永遠な秘密になって、見えないように
見えるようにお前の傍に漂っているではないか。
3450
それをお前の胸へ、胸はどれ程広くても一ぱいになる程入れて、その感じで全き祝福を得た時、
それを幸福だとも、情だとも、愛だとも、神だとも、
お前の勝手に名づけるが好い。
己はそれに附ける名を知らない。
3455
感じが総てだ。名は天の火を罩む
霞と声とに過ぎない。
マルガレエテ
あなたの仰ゃる事は皆美しい、結構な事で、
牧師様の仰ゃるのも大抵同じようですが、
3460
お詞だけが少し違いますのね。ファウスト
それはあらゆる場所で
あらゆる心の人が天の日の光を享けて、
それぞれの持前の詞で言うのだ。
己だって己の詞で言って悪いというはずがない。
3465
マルガレエテそれはただ伺っていますと、かなり御尤なようですが、
やっぱりどこか間違っていますのね。
あなたクリスト教ではいらっしゃらないのですもの。
ファウスト
そんな事を。
マルガレエテ
あんなお友達のあるのが、
わたくし疾うから気になっていましたわ。
3470
ファウストどうして。
マルガレエテ
あのいつも御一しょにいらっしゃる方ね、
あの方がわたくし心から厭でございますの。
あの方の厭らしい顔を見た時ほど、
胸を刺されるように思いましたことは、
わたくし生れてからありませんでしたの。
3475
ファウスト好い子だから、そんなにあいつをこわがるなよ。
マルガレエテ
なんだかあの方がいらっしゃると血が落ち着きませんの。
一体わたくしどなたをだって悪くは思わないのですが、
あなたの事をおなつかしく思いますと一しょに、
あの方がなんだか不気味でなりませんの。
3480
それに横著な方かとも存じますの。もし間違ったら、済まないのですけれど。
ファウスト
やはり世間にはあんな変物もいなくてはならないて。
マルガレエテ
わたくしあんな方と一しょにはいたくないのよ。
いつも戸口から這入っていらっしゃって、
3485
なんだか人を馬鹿にしたような顔をなすって、それに少しおこっていらっしゃるようね。
まあ、人なんぞはどうなっても好いと云う風ね。
誰をも可哀がりたくなんざないと云うことが
お顔に書いてありますようね。
3490
わたくしあなたにお縋申していると、気楽な、体をお任せ申しているような温い心持なのに、
あの方がいらっしゃると吭を締められるようですの。
ファウスト
ふん。不思議に察しの好い子だなあ。
マルガレエテ
そしてそう云う感じに負けてしまいますと、
3495
あなたと二人でいる所へ、あの方が来たばっかりで、もうあなたとの中が元のようでないように思われますの。
それにあの方のいらっしゃる所では、お祈が丸で出来ないので、
わたくし気になってなりませんの。
あなただってそんなお心持がなさるでしょう。
3500
ファウスト詰まり性が合わないのだなあ。
マルガレエテ
もうわたくし行かなくちゃ。
ファウスト
ああ。ただの一時間も
落ち著いてお前と一しょになっていて、
胸と胸、心と心の通うようには出来ないのかなあ。
マルガレエテ
ええ。それはわたくし一人で休むのですと、
3505
今晩錠を掛けないで置くのですが、母あ様がすぐ目を醒ますのですもの。
ひょっと母あ様に見附かろうもんなら、
わたくしその場で死んでしまってよ。
ファウスト
それか。それは造做もない事だ。
3510
ここに瓶があるがな、この薬を三滴不断飲みなさる物の中に入れれば、
好い心持に寐て、何も分からなくなるのだ。
マルガレエテ
それはあなたのためですもの、なんでもしてよ。
毒になりゃしませんでしょうね。
3515
ファウスト毒になるようなものなら、己がしろと云うものか。
マルガレエテ
わたくしなぜだかあなたのお顔を見ていると、
なんでも仰ゃる通にしなくてはならなくなってよ。
わたくしもうあなたのためにいろんな事をしてしまって、
此上してお上げ申すことはないかと思うわ。(退場。)
3520
メフィストフェレス登場。
メフィストフェレス餓鬼奴。行ってしまいましたね。
ファウスト
また立聞をしていたのか。
メフィストフェレス
ええ。すっかり聞いていましたよ。
先生箇条立をした試験をお受になりましたね。
どうです、跡のお心持は。
一体女と云う奴は、相手が昔流に信心深くて
3525
素直だかどうだかと、気にして穿鑿しますよ。宗教にへこむ奴なら、自分の言いなりにもなると思って。
ファウスト
ふん。君には分からないのだ。
これでなくては祝福を受けられないと云う、
自分だけの信仰をたっぷり持っている、
3530
あの可哀らしい、誠実な女心に、自分の一番大切だと思う男が失われた子になって
いはせぬかと、ひどく苦労をしているのじゃないか。
メフィストフェレス
いやはや。出世間で、しかも世間で、色気のある
壻様には困る。娘っ子が手の平で円めますよ。
3535
ファウスト糞と火とから生れた畸形物のくせに。
メフィストフェレス
それに、あいつ奴、いやに人相に精しいと来ている。
己がいると、なんだか変な気持がする。
己のこの面があいつにはある秘密の意味を語る。
あいつ奴、己が少くとも天才で、
3540
事によったら悪魔だと、感附いていやがる。いよいよ今晩ですね。
ファウスト
大きにお世話だ。
メフィストフェレス
いいえ。こっちにもそれが嬉しいのですからね。
水瓶を持ちたるグレエトヘン(マルガレエテ)とリイスヘンと。
リイスヘンあなたバルバラさんの事を聞いて。
グレエトヘン
知らなくってよ。人の出る所へ行かないのですもの。
3545
リイスヘン本当なの。ジビルレさんがきょうそう云ってよ。
とうとう騙されちまったのだってねえ。
上品振った挙句だわ。
グレエトヘン
どうしたと云うの。
リイスヘン
評判だわ。
飲食をするにも二人養うようになったのだとさ。
グレエトヘン
まあ。
3550
リイスヘン好い気味だわ。
随分長くあの男に食っ附いていたわねえ。
やれ散歩に連れて行く、
そりゃ村の踊場へ連れて行くと云う風で、
どこでも一番の女だと見せ附けて、
3555
葡萄酒やパテを御馳走してねえ。だもんだから自惚れて好い女の気になっていたわ。
男に物なんか貰うのを
恥かしいとは思わない程、根性が腐っていたのだわ。
舐め附いたり吸い附いたりしてさ。
3560
いつの間にか生娘ではなくなっていたのね。グレエトヘン
可哀そうねえ。
リイスヘン
あなたなんかそう思って。
わたしなんか糸取が忙しくって、
おっ母さんが夜外へ出さないのに、
好い人の所へ降りて行って、立話をしていたのね。
3565
暗い廊下に立ったり、戸口のベンチに掛けたりしていて、時が立っても平気だったわ。
その代今へこたれて、罪の襦袢を著て、
お寺へ行ってあやまるが好いわ。
グレエトヘン
でもきっとあの人がお上さんに持つでしょう。
3570
リイスヘンそんな事をすれば馬鹿よ。気の利いた
男だもの。余所でも楽に遊べるわ。
もう行ってしまったって。
グレエトヘン
まあ、ひどい事ね。
リイスヘン
もしお上さんになったら、ひどい目に逢うわ。
若い衆達は髪の青葉を引っ手繰るし、
3575
わたし達は門口へ切藁を蒔いて遣るわ。(退場。)グレエトヘン(家に帰りつゝ。)
今までは余所の娘が間違でもすると、
わたしもどんなにか元気好くけなしただろう。
余所の人のしたと云う罪咎を責めるには、
わたしもどんなにか詞数が多かっただろう。
3580
人のした事が黒く見える。その黒さが足りないので、一層黒く塗ろうとする。
そして自分を祝福して、えらい人のように思う。
今は自分も犯しているのに。
だけれど、だけれど、それまでになる道筋は、
3585
まあ、あんなに好かったのに、あんなに美しかったのに。
石垣の中に作り込めたる龕に、受苦聖母の祈願像あり。その前に花瓶。グレエトヘンそれに新なる花を挿す。
グレエトヘン痛おおきマリア様
どうぞお恵深く、お顔をこちらへお向遊ばして、
わたくしの悩を御覧なされて下さいまし。
お胸を刃に貫かれておいでなされ、
3590
ちぢの悲をお覚あそばしながら、御愛子の死を見そなわしていらっしゃいます。
天にいます父をお見上なされて、
御子と御身との悩のために、
歎のみ声を空へお送なさいます。
3595
わたくしの骨々に痛のいかに徹るかを、
誰が覚えてくれましょう。
哀な胸が何を案じ、何のためにわななき、
何をほしがっておりますか、
3600
それを御承知なさるのはあなたばかりでございます。どこへまいりましても、
胸のここがどんなにか
せつなく、せつなく、せつのうございましょう。
人目がないと思う度に、
3605
胸が裂けるかと思う程、泣いて、泣いて、泣き通します。
さし上げまするこの花を
けさわたくしが折った時、
窓の前の植木鉢が
3610
わたくしの涙で濡れました。わたくしの部屋の内へ
朝日が明るくさし込みます時、
わたくしはもう床の上で
悩に沈んでおりまする。
3615
どうぞわたくしが恥と死とを逃れますように。痛おおきマリア様、
どうぞお恵深く、お顔をこちらへお向遊ばして、
わたくしの悩を御覧なされて下さいまし。
グレエトヘンが家の門前の街。
グレエトヘンの同胞兵卒ワレンチン登場。
ワレンチングレエトヘンの同胞兵卒ワレンチン登場。
誰でも兎角自慢をしたがる
3620
酒の座鋪に己がいるとき、友達どもが声高に
町の娘の噂をして、
その褒詞を肴にして飲んでいると、
己は気楽に据わっていて、
3625
頬杖を衝いて、笑って鬚を撫でながら、
みんなの詞を聞いていて、
先ず杯になみなみと注がせて、
それからこう云ったものだ。「それはそんな娘もあろう。
3630
だがな、国中捜して歩いたって、内の可哀いグレエテルのような奴が、
あの妹のお給仕でも出来る奴がいるかい。」
声が掛かる。コップが鳴る。一座がざわつく。
「そうだ。あれは女性の飾だ」と、
3635
声を揃えて身方がどなる。褒めた奴等が皆黙ったものだ。
それがどうだ。頭の髪を掻きむしっても、
壁に這い登っても追っ附かない。
どの恥知らずでも、鼻に皺を寄せたり、
3640
当擦を言ったりして、己を馬鹿にしやがるのだ。己は筋の悪い借金でもある奴のように、小さくなって
据わっていて、人の詞の端々に冷たい汗を掻かせられる。
片っ端からそいつらをなぐってでも遣りたいが、
どうも衝だとだけは云われない。
3645
や。遣って来るのは、這い寄って来やがるのはなんだ。この目がどうかしていなけりゃあ、あいつ等は二人連だな。
あいつがそなら、引っ攫んで、
この場を生かしては逃さないぞ。
ファウストとメフィストフェレスと登場。
ファウスト丁度あの寺の坊主の休息所の窓から、
3650
常燈明の火がさしていて、それが窓を離れるに連れて段々微かになって、
闇が四方から迫って来るように、
丁度あんな工合に、己の胸は闇に鎖されている。
メフィストフェレス
所がわたしの心持は、あの火見の梯の下から、
3655
そっと家の壁に附いて忍んで行く、あの痩猫のような心持ですね。
盗坊根性がちょっぴりと、助平根性がちょっぴりと
あるにはあるが、先ず大体頗る道徳的ですね。
なんだかこう節々に、結構な
3660
ワルプルギスの夜の楽が染み渡るようだ。もうあさっての晩がそれなのだ。
兎に角寐ずにいる甲斐のある晩ですからね。
ファウスト
あの遠い所に火が燃えているなあ。あの下で
例の宝がそろそろ地の底から迫り上げて来るのかい。
3665
メフィストフェレスええ。もう遠からず壺をお取上なさる
お喜の日がまいります。
こないだちょっと覗いて見たら、ボヘミアの紋の
獅子の附いた、立派な金貨が這入っていました。
ファウスト
可哀い奴の支度にいる
3670
指環とか髪飾とか云う物はないのかい。メフィストフェレス
そうですね。なんだかこう真珠を繋いだ
紐のような物が見えましたっけ。
ファウスト
何かそんな物がなくては困るよ。
手ぶらで行くのは苦になるからなあ。
3675
メフィストフェレスそうでしょう。只文目で面白い目を見て、
あなたが厭な心持になっては気の毒だ。
空に星の一ぱい照っている、今夜のような晩だから、
わたしが一つ真の芸術らしい処を聞せて上げましょう。
わたしは女に道徳的な文句を歌って聞せて、
3680
あべこべに迷わせて遣るのですよ。
(キタラの伴奏にて歌ふ。)
夜の明け掛かる今時分可哀お方の門口で、
カタリナ、お前は
何していやる。
3685
そりゃ廃すが好い。門を入る時ゃ
娘で這入る。
娘では出て来ないぞえ。
気をお附。
3690
済んでしまえばおさらばよ。
気の毒な、気の毒な娘達。
自分の体が大事なら、
花盗人に
3695
油断すな、指環を嵌めて貰うまで。
ワレンチン(進み出づ。)
こら。誰をおびき出すのだ。怪しからん。
咀われた、ハメルンもどきの鼠捕奴。
その鳴物を先へこわして、
3700
跡から弾手にお見まい申すぞ。メフィストフェレス
しまった。キタラは二つになった。
ワレンチン
こん度は頭を割って遣る。
メフィストフェレス(ファウストに。)
先生。尻籠は御無用だ。しっかりなさい。
わたしが遣って見せるから、ぴったり附いておいでなさい。
3705
その塵払を引っこ抜いた。それお突だ。受けることはわたしが受ける。
ワレンチン
これでも受けるか。
メフィストフェレス
受けないでどうする。
ワレンチン
これもか。
メフィストフェレス
こうだ。
ワレンチン
や。相手は悪魔かしら。
こりゃどうだ。もう手が痺れた。
3710
メフィストフェレス(ファウストに。)お突だ。
ワレンチン
参った。(倒る。)
メフィストフェレス
これで野郎おとなしくなりました。
ところでもう行かなくては。早速消えてしまわないと、
今におそろしく騒ぎ立てますからね。
わたしは警察をごまかすことは上手だが、
命を取られる裁判に引き出されるのは嫌です。
3715
マルテ(窓より。)大変です。皆さん。
グレエトヘン
どなたか明を。
マルテ(同上。)
大声で喧嘩をして打ったり切ったりしています。
民
そこに一人は死んでいらあ。
マルテ(門より出でつゝ。)
殺した人は逃げましたの。
グレエトヘン(出でつゝ。)
殺されたのはどんな人。
民
お前のおっ母あの息子よ。
3720
グレエトヘンまあ。わたしどうしよう。
ワレンチン
おい。己は死ぬるのだ。口に言うのは一口で、
実際遣るのは猶早い。
おい。女子達。そこに立っていて泣いたりわめいたりするな。
こっちへ来て、己の言うことを聞いてくれ。
3725
(一同ワレンチンを取り巻く。)
おい。グレエトヘン。お前はまだねんねいで、好く物事が分からない。
それでまずい事をするのだ。
己はほんの内証でお前に言うのだがな、
兎に角お前はばいただよ。
3730
それでまた丁度好いのだ。グレエトヘン
まあ、兄いさんが。なんでわたくしにそんな事を。
ワレンチン
よまい言を言うのは廃せよ。
出来た事は為方がない。
これから先もなるようになるだろうよ。
3735
最初は一人とこっそりする。間もなく相手の数が殖える。
もう一ダアスとなって見ると、
お前は町中の慰物だ。
それから恥の種子を宿す。
3740
人に隠してこっそり産んで、頭の上からすっぽりと
闇の衣を被せてしまう。
悪くすると殺して遣りたいとさえ思うのだ。
それが育って大きくなると、
3745
昼日中にも外へ出るが、格別立派にはなっていない。
そのうち顔も醜くなるが、なればなる程
厚かましく、人中に出るようになる。
それ、ばいたが来たから避けろよと、
3750
時疫で死んだ死骸のように、真面目な人が皆避けるのが、
もう己の目には見えるようだ。
人が顔をじっと見ると
お前の胸がびくびくする。
3755
金の鎖は掛けられない。お寺へ行っても、贄卓の前に立つことは出来ない。
美しいレエスの領飾をして、
踊場で楽むことも出来ない。
乞食や片羽と一しょになって、
3760
暗い歎の蔭に隠れて、よしや神様はお免なさるとしても、
この世界では咀われているのだ。
マルテ
お前さん。自分の霊をお救下さるように願いなさい。
そんな悪口などを跡に遺さずに。
3765
ワレンチンへん。恥知らずの口入婆々あ奴。
己はその萎びた体に攫み附いて遣りたいのだぞ。
そうすりゃあ、己の罪滅しが
たっぷり出来るわけだがなあ。
グレエトヘン
まあ、兄いさん。お前はさぞせつない事で。
3770
ワレンチン好いよ。泣いてなんかくれなくても好い。
お前が名誉を棄てた時、己のこの胸は
一番痛手を負ったのだ。
己はこれでも軍人で、立派に死んで
天へ行くのだ。(死す。)
3775
勤行、オルガン、唱歌。
多勢の中にグレエトヘン。その背後に悪霊。
悪霊多勢の中にグレエトヘン。その背後に悪霊。
どうだ。グレエトヘン。
お前がまだ極無邪気で、
あの贄卓の前に出て、
半分は子供の戯、
半分は心の信仰から、
3780
古びた本を繰り開けて、縺れる舌で讃美歌を歌った時はどうだった。
グレエトヘン。
お前の頭はどうなっている。
お前の胸に隠しているのは
3785
なんと云う悪業だ。お前の咎で、長い、長い苦艱を受けに、
死んで行かれた母親の霊のために祈るのか。
お前の家の門の閾は誰の血にれたか。
それからお前の胸の下で
3790
蠢き出して、ここにいるぞと未来を思い遣り顔に自ら悩み、
お前をも悩ませる物があるではないか。
グレエトヘン
ああ、せつない。ああ、せつない。
心の中を往ったり来たりして
3795
わたしを責める、この物思は忘れられぬか。
合唱者
ジエス・イレエ・ジエス・イルラ・
(怒之日。彼)
ソルウェット・セエクルム・イン・ファウィルラ。
(渙二散世界一作二灰燼一之日。)
(オルガンの響。)
悪霊畏がお前を襲う。
3800
金笛が鳴る。奥津城が皆震う。
そしてお前の心の臓は
灰の眠から
の悩へ
3805
再び造り成されて、慄に起つことであろう。
グレエトヘン
わたしはここにいたくない。
あのオルガンの音がわたしの息を
詰まらせるようで、
3810
あの歌の声がわたしの心を底まで解かしてしまうような。
合唱者
ユウデックス・エルゴ・クム・セデビット、
(判官既坐。則)
クウィットクウィット・ラテット・アドパアレビット、
(一切隠匿。悉皆審明。)
ニル・イヌルツム・レマネビット。
3815
(無下事不二報復一。而遺存者上。)グレエトヘン
ああ。身が締め附けられるような。
石壁の柱が
四方から寄って来て、
天井が
上から圧さえ附けるような。ああ。息が。
3820
悪霊身を隠せ。罪や辱は
隠し果せられるものではない。
息が詰まるか。目が昏むか。
気の毒なやつめ。
合唱者
クウィット・ズム・ミゼエル・ツンク・ジクツルス。
3825
(爾時陋者我。欲二何言一。)クウェム・パトロオヌム・ロガツルス。
(爾時我尋二求何庇保者一。)
クム・ウィックス・ユスツス・シット・セクルス。
(何則正者猶且不二自安一也。)
悪霊
聖者達はお前に
お顔をお背なさるぞ。
浄い人はお前の手を握ろうとして
3830
身慄をするぞ。気の毒な。
合唱者
クム・ウィックス・ユスツス・シット・セクルス。
グレエトヘン
お隣の方。あなたの香水の瓶をどうぞ。(昏倒す。)
ハルツ山中。シイルケ、エエレンド附近。
ファウスト、メフィストフェレス登場。
メフィストフェレスファウスト、メフィストフェレス登場。
どうです。箒の柄どもが欲しくなりはしませんか。
3835
わたしも極丈夫な山羊の牡が一匹欲しくなりました。この道をまだよほど歩かなくてはなりませんからな。
ファウスト
己は足の草臥れぬ間は、
この節榑立った杖一本で沢山だ。
道を縮めたって、なんになるものか。
3840
谷合の曲りくねった道を辿って来て、不断の泉の迸り出る
この岩に攀じ登るなんぞが、
こう云う道を歩く人には、薬味のように利くのだ。
もう春が白樺の梢に色糸を縒り掛けている。
3845
樅でさえ春の来たのに気が附いたらしい。己達のこの手足にも利目が見えて来そうなものだが。
メフィストフェレス
わたしなんぞはちっとも感じませんなあ。
この体はまだ冬らしい心持がしています。
わたしの歩く所には雪や氷があれば好いと思うのです。
3850
どうです。あの光の薄い、欠けた、赤い月が升って来て、怪しげな道の
照しようをするので、一足毎に
木や石に躓きそうでなりません。
お待なさいよ。ちょっと鬼火を一つ傭いますから。
3855
旨く燃えている奴が、あそこに一ついます。こら。友達。己の方へ来て貰おうか。
何も無駄に燃えていなくったって好いじゃないか。
どうだい。頼むから、あっちへ登る案内をしないか。
鬼火
檀那が仰ゃるのですから、ひょこひょこする性分を
3860
なるたけ直して遣って見ましょう。でも稲妻形に歩く癖は直されますまい。
メフィストフェレス
いやはや。それは人間の真似の積でしているのだな。
一つ奮発して真っ直に行って貰おう。
そうしないと、その命の火を吹き消して遣るぞ。
3865
鬼火大ぶ檀那風をお吹かせなさいますな。
それは仰ゃるとおりにいたして見ますが、
一寸お断申して置かなくては。何分きょうは山中が
気の違ったようになっているのに、鬼火の御案内では、
少しの事は大目に見て戴かなくてはなりますまい。
3870
ファウスト、メフィストフェレス、鬼火(交互に歌ふ歌。)夢の中、禁厭の境に
われ等入りぬと覚ゆ。
善く導きて、名をな墜しそ。
さらばこの広き荒野を、
われ等疾く行き過ぎなん。
3875
森の木々の列なせるがうしろざまに走り過ぐ。
頷く巌の尖も
鼾し、息嘘く、長き石鼻も
おなじさまに走り過ぐ。
3880
石を繞り、草を穿ちて、広き川、狭き川流れ落つ。
聞ゆるは戦か。歌か。
天にある心地せし日の
優しき恋の歎の声か。
3885
あはれわれ等、何をか願ひ、何をか恋ふる。さて過ぎぬる世の物語と
谺響の声と響き来ぬ。
わしみみづくの声近づきぬ。
ふくろふ、たげり、かけす等も、
3890
皆いまだ眠らでありや。おどろが下を這ふは山椒魚にもや。
脚長く腹は肥えたり。
石間より、沙の中より
出づる木の根は、蛇の如、
3895
怪しげなる帯を引きて、われ等を怖れしめ、捉へんとす。
こは生きて動ける大いなる木瘤の、
道行く人を遮らんと、さし伸ぶる
章魚の足めく小枝なり。鼠あり。
3900
毛の色ちゞに変れるが、群なして苔の上、小草の上を馳す。
群毎にひたと寄りこぞりて
飛び行く蛍は、
人迷はせの導きせんとす。
3905
汝に問ふ。われ等留まれりや、はた猶歩みてありや。
物皆旋る如く見ゆ。
怪しき顔する木も石も、
みる/\殖え、みる/\ふくらむ
3910
あまたの鬼火も。メフィストフェレス
わたしの上著の裾を攫まえて、しっかりしておいでなさい。
ここが中の峠と云うような所で、
山の中で地の底の金が光るのが、
驚くほど好く見えますよ。
3915
ファウストあの谷底が、朝日の升る前のような、
濁った光に照っているのが不思議だなあ。
しかもその光が底の、底の
深い穴までさし込んでいる。
蒸気のすぐに立つ所も、棚引いている所もある。
3920
靄や霧の中から火の燃えている所もある。その火が糸のように細く這って行くかと思うと、
忽ちまた泉の涌くように迸り出る。
幾百条の脈の網のように、あの谷の
広い間を掩っているかと思うと、
3925
この蹙まった隅の所では、忽ち離れて一つになっている。
そこにはまた近い所に、金の砂を
振り蒔いたように、火花が散っている。
だがあれを見給え。あの岩壁は一面に、
3930
下から上まで燃えているじゃないか。メフィストフェレス
埋もれている金の主が、きょうの祭に
御殿の中へ立派に明を附けたのでしょう。
お目にとまったのは、あなたのお為合だ。
這入りたがる客の多いのが、わたしには分かるようだ。
3935
ファウストどうだ、この気の狂ったように空を吹いて通る風は。
己の項に吹き当てる力といったらないなあ。
メフィストフェレス
そこの爺いさん岩の肋骨を攫まえていないと、
あなた谷底へ吹き落されてしまいますぜ。
霧が立って夜闇の色を濃くして来た。
3940
あの森の木のめきめき云うのをお聞なさい。梟奴がびっくりして飛び出しゃあがる。
お聞なさい。とわの緑の宮殿の
柱が砕けているのです。
枝がきいきい云って折れる。
3945
幹はどうどうと大きい音をさせる。根はぎゅうぎゅうごうごう云う。
上を下へとこんがらかって、畳なり合って、
みんな折れて倒れるのです。
そしてその屍で掩われている谷の上を
3950
風はひゅうひゅうと吹いて通っています。あなた、あの高い所と、
遠い所と、近い所とにする声が聞えますか。
この山を揺り撼かして、
おそろしい魔法の歌が響いていますね。
3955
合唱する魔女等ブロッケンの山へ魔女が行く。
苗は緑に、刈株黄いろ。
おお勢そこに寄って来る。
ウリアン様が辻にいる。
木の根、岩角越えて行く。
3960
魔女は□をこく。山羊は汗掻く。声
バウボ婆あさんがひとりで来ましたね。
牝豕に乗って来ましたね。
合唱者
人柄次第で崇めにゃなるまい。
バウボのおば御に先達を頼もう。
3965
大きな豕だよ。お負に身持だ。ぞろぞろ跡から附いて行け。
声
お前、どの道を来たのだえ。
声
イルゼンスタインを越して来た。
通り掛かりに梟の巣の中を覗いて見たら、
大きな目玉をしていたよ。
声
人を馬鹿におしでない。
3970
なんだってそんなに急ぐの。声
わたし爪で引っ掻かれてよ。
それこの創を御覧なさい。
合唱する魔女等
道は遠いが広さも広い。
おし合いへし合いせいでも好かろう。
3975
熊手が衝っ衝く。帚が引っ掻く。赤子は噎せるし、お袋らはじける。
男の魔。半数合唱
こっちは蝸牛。殻を背負って歩く。
女はお先へ御免と出掛ける。
悪魔の所へ見まいに行く時ゃ、
3980
いつでも女が極まって追い越す。他の半数
それにはこっちは格別構わぬ。
女が小股に千足踏むのを、
勝手に急げと、はたから見ていて、
一跳跳ねれば勝つのが男だ。
3985
声(上にて。)おいでよう。岩淵からもおいでよう。
声々(下より。)
わたし達も上がって行きたいのだがねえ。
水を浴び通しで、体はこんなに綺麗なの。
だが赤ん坊は生涯出来ないわ。
双方の合唱者
風は吹き息む。星奴は逃げ出す。
3990
兎角曇った月奴は隠れる。魔法の歌手声張り上げれば、
虚空に数千の火花が飛び散る。
声(下より。)
おうい。待ってくれ。
声(上より。)
岩の割目から呼ぶのは誰だい。
3995
声(下より。)己を連れて行ってくれ。連れて行ってくれ。
己はもう三百年掛かって登っているのだが、
どうしても峠に行かれないのだ。
仲間と一しょになりたいがなあ。
双方の合唱者
杖も載せるし、帚も載せる。
4000
山羊も載せるし、熊手も載せる。今夜上がられないのなら、
浮む瀬のない男だぞ。
半成魔女(下より。)
わたしちょこちょこ追っ掛けるのが、もう久しい事なの。
皆さんもうあんな遠い所を行くのにねえ。
4005
内にいては気が済まないし、来ても仲間には這入られないのだもの。
合唱する魔女等
膏薬で元気を附ければ、
どんな襤褸でも帆に掛けられる。
あり合う盥が立派な舟だよ。
4010
きょう飛ばないなら、飛ぶ日はないぞよ。双方の合唱者
こっちが峠を廻って飛ぶ時、
勝手に地びたをいざってまごつけ。
見渡す限の草原に
今来てひろがる魔女の群。
4015
(皆々降りて息ふ。)
メフィストフェレス押し合ったりへし合ったり、すべったり、がたついたり、
しゅっしゅと云ったり、廻ったり、引っ張ったり、しゃべったり、
光ったり、火を吹いたり、燃えたり、臭い物を出したり、
これがほんとの魔女の世界だ。
ぴったり附いておいでなさい。すぐはぐれますよ。
4020
どこです。ファウスト
ここだ。
メフィストフェレス(遠方にて。)
もうそこまで押されたのですか。
ちっと檀那面をせずばなるまい。
おい。通せ。ウォオランド様だぞ。通せ。好い子だ。通せ。
さあ先生、お攫まりなさい。そこで一飛に
この人籠から飛び出してしまいましょう。
4025
わたしなぞでさえ辟易しますよ。あそこになんだか妙な色に光っていますね。
あの小さい木の茂った所へ行って見たいのです。
さあ、おいでなさい。ここを抜けて行きましょう。
ファウスト
天探女だなあ。好いわ。どこへでも連れて行け。
4030
だが随分気の利いた遣方だと思うよ。ワルプルギスの晩にブロッケン山へ来て、
勝手にこんな方角へ避けてしまうと云うのは。
メフィストフェレス
まあ、御覧なさい。いろんな色の火が燃えています。
面白そうな集会を遣っています。
4035
人数は少くても、一人ぼっちになるのではありません。ファウスト
しかし己はあの上の方へ行きたいのだ。
もう火や渦巻く烟が見えている。
今おお勢が悪魔の所へ寄る時なのだ。
あそこへ行ったら、いろんな疑問が解けそうだ。
4040
メフィストフェレスところがまた新しい疑問も結ぼれて来るのです。
まあ、おお勢はあっちでがやがや云わせて置いて、
御一しょにこっちの静かな所にいるとしましょう。
大世界の中に、幾つも小世界を拵えるのが、
昔からの習わしですからね。
4045
そこに若い魔女が真っ裸になっていて、年を取ったのが巧者に体を包んでいるでしょう。
まあ、附合だと思って優しくして遣って御覧なさい。
労少くして功多しと云う奴です。
おや。何か弾いているようだな。
4050
咀われた音楽だ。慣れるまでは我慢が出来ない。さあ、おいでなさい、おいでなさい。外に為方はないのです。
わたしが連れて行って、仲間入をさせて、
新しい縁を結ばせて上げます。
どうです。なかなか狭い間ではございませんね。
4055
あっちを御覧なさい。どこまで続いているか知れません。百箇所も火が並んで燃えています。
踊を踊る、しゃべくる、物を煮る、酒を飲む、色をする、
考えて御覧なさい、どこにもこれより好い事はありませんぜ。
ファウスト
そこで己を引き合せるには、
4060
君は魔法使とか悪魔とかになって見せるのかい。メフィストフェレス
それはわたしは不断微行が好ですが、
晴の日になると、勲章を光らせるのが世間並です。
勲章のと違って、沓足袋の紐は飾にはなりませんが、
蹄のある馬の足はここではもてます。
4065
あの蛞蝓を御覧なさい。こっちへ這って来やがる。わたしが只の奴でないのを、あの触角の尖の目で
もう嗅ぎ附けやがったのですね。
どうもここでは隠れていようと思っても駄目ですね。
さあ、おいでなさい。篝から篝へ伝って行きましょう。
4070
わたしが媒で、あなたが壻さんだ。
(消え掛かる炭火を囲める数人に。)
どうです、御老人方。こんな所に何をしていますか。ちっときばって真ん中の方へ出て、若い奴等の
飲んで騒ぐ仲間にお這入なされば好いに。ぼんやり
寂しくしていることは内ででも出来ますからね。
4075
将軍まあ、どこの国でどれだけの功があっても、
国民に依頼していることは出来ないな。
民心と云うものも女の心と同じ事で、
兎角年の若い奴を贔屓するて。
宰相
此頃は輿論が大ぶ保守から遠ざかっているが、
4080
己なんぞはやっぱり老成者の身方だ。己達が無条件に信任せられていた時代が、
兎に角真の黄金時代だったて。
暴富家
わたしどももぼんやりしてはいないから、
随分して悪い事をしたこともありまさあ。
4085
ところが丁度我々が逆に取って順に守ろうと思う頃になって、世間が丸でわやになりました。
著作家
もう昨今かなり気の利いた事の書いてある
本が出ても、誰も読むものはありません。
青年どもが此頃のように生利になったことは、
4090
先ず古来無かっただろうと思いますね。メフィストフェレス
(忽ち老いさらぼひたる姿に見ゆ。)
さようさ。わたくしもブロッケンへお暇乞に登りましたが、もう世は季になって、最後の審判が近づいていますね。
なんでも内の酒が樽底になって来ると、
世の中も澆季になったように思われますて。
4095
古道具を売る魔女どなたもそうさっさとお通過なさいますな。
買物は好い折になさらなくてはいけません。
品物を好く御覧なさいまし。
ここにいろんな物がございます。
そのくせ世間に類のある品や、
4100
人間のため、天下のために、一度も大した禍をしたことのない品は、
一つだってありませんよ。
血を流したことのないような匕首もなければ、
大丈夫でいた体へ、命を取る、熱い毒を
4105
注ぎ込んだことのないような杯もございません。好い女をたらしたことのない飾や、裏切をして
身方を殺すとか、敵を暗打にするとか云う時、
用に立たなかった刀は、ここにはございません。
メフィストフェレス
おい。おばさん。お前さんは時代が分からないのだ。
4110
出来たことは出来たのだ。した事はしたのだ。なんでも新物をあきなうことにしなさい。
新ものでなくては、こっちとらは買わない。
ファウスト
どうも自分で自分が分からなくならねば好いが。
己達は市にでも来ているのかなあ。
4115
メフィストフェレスこの渦巻いている群集が皆升りたがって押すのだから、
あなた人を押す積でも、人に押されてしまいますぜ。
ファウスト
そいつは誰だい。
メフィストフェレス
好く御覧なさい。
リリットです。
ファウスト
誰だと。
メフィストフェレス
アダムの先妻です。
あの綺麗な髪と、自慢そうに附けている、
4120
あの、たった一つの飾とに、気をお著けなさいよ。あれを餌にして若い男を攫まえようものなら、
めったに放しっこはありませんからね。
ファウスト
あれ、あそこに婆あさんと娘とが据わっているが、
あいつらはもう大ぶ踊り草臥れたものらしいな。
4125
メフィストフェレスなに。きょうは草臥れなんかしませんよ。
また踊る気でいまさあ。おいでなさい。踊らせましょう。
ファウスト(娘と踊りつゝ。)
いつか己ゃ見た、好い夢を。
一本林檎の木があった。
むっちり光った実が二つ。
4130
ほしさに登って行って見た。美人
そりゃ天国の昔から
こなさん方の好な物。
女子に生れて来た甲斐に
わたしの庭にもなっている。
4135
メフィストフェレス(老婆と。)いつだかこわい夢を見た。
そこには割れた木があった。
その木に□□□□□□があった。
□□□□けれども気に入った。
老婆
足に蹄のある方と
4140
踊るは冥加になりまする。□□がおいやでないならば
□□の用意をなさりませ。
臀見鬼人
咀われたやつ等め。好くもそんな事が出来るな。
幽霊には決して立派な脚があってはならんと、
4145
学者が疾っくに考証しているじゃないか。我々当前の人間のように踊るなんて怪しからん
美人(踊りつゝ。)
あの方はわたし達の踊場へ何しに来たのでしょう。
ファウスト(踊りつゝ。)
あれかい。あれはどこへでも来る奴だ。
人が踊れば、それに端から位附をする。
4150
あれが積では、自分が文句を言わない足取は、踏んでも踏まなかったと同じ事なのだ、
前の方へ踊って出るのは大嫌さ。
あいつの内の水車で粉をひくように、
一つ所を踊って廻っていると、
4155
まあ、かなり気に入るのだ。なんとか言われた礼を云って遣れば猶更だが。
臀見鬼人
おや。まだ平気で遣っているな、怪しからん。
消えてしまえ。人智開発を疾くに遣ったのに。
悪魔の同類奴。物に法則があるのを知らんか。
4160
こんなに世が開けたのに、テエゲルにはお化が出る。己の帚で迷信の塵をいつまで払き出せば好いのだ。
綺麗になる時はないのか。怪しからん。
美人
そんな事を言ってわたし達をうるさがらせちゃいや。
臀見鬼人
なに。己は貴様達化物共に面と向かって言うぞ。
4165
化物の圧制を受けて溜まるものか。はてな。己の力で取締まることは出来んかしらん。
(踊る人に押し除けらる。)
この様子ではきょう己は成功しないな。兎に角一旅行だけは持ち廻って見て、
己が最後の一歩をするまでには、悪魔も
4170
詩人も退治して遣るようにしたいものだ。メフィストフェレス
今に、あいつ、水たまりに尻餅を擣きます。
そうして気持を直すのが、あいつの流義です。
蛭が尻っぺたに吮い附いて楽んでいるうちに、
あいつは悪魔の祟も智恵の病も直るのです。
4175
(踊の群と離れたるファウストに。)
踊りながらあんな可哀い声で歌っていた、あの娘をなぜ放してしまったのですか。
ファウスト
でも踊っている最中に、あいつの口から
赤い鼠が飛び出したものだから。
メフィストフェレス
そう云う奴でしたか。そんな事を気にしてはいけません。
4180
鼠色の鼠でなけりゃあ結構じゃありませんか。二人で楽んでいながら、そんな咎立をするなんて。
ファウスト
それにちょいと目に附いたものが。
メフィストフェレス
なんです。
ファウスト
あれ、あそこに
美しい、色の蒼い娘が一人離れているだろう。
歩くにひどく手間の取れるのを見ると、
4185
両足を繋がれているのじゃないかと思うのだ。本当の事を言えば、どうもあれが
可哀いグレエトヘンに似ているようだがな。
メフィストフェレス
打ち遣ってお置なさい。あれに手を出すと災難です。
あれはまやかしです。影です。生きていやしません。
4190
あいつに出くわしては溜まりません。それ。メズザの話をお聞でしょう。それと同じで、
あのじっと見ている目で見られると、人の血が
凝り固まってしまって、人が石になるのです。
ファウスト
そうさな。なるほどあの目は、死んだ時親類が
4195
瞑らせてくれなかった屍の目だなあ。だがあの胸は己に押し附けたグレエトヘンの胸で、
あの体は己を楽ませてくれたあれが体だ。
メフィストフェレス
それがまやかしです。そんなにすぐ騙されては困ります。
誰の目にもその人の色のように見えるのです。
4200
ファウストでも己は嬉しいようなせつないような気がして、
あの目を見ずにいることは出来ないのだ。
それに妙なのはあの美しい頸の頸飾だな。
小刀のみねより広くないような、
赤い紐が一本巻いてあるなあ。
4205
メフィストフェレスそうです。わたしにも見えています。
ペルセウスに切られた首ですから、
肩から卸して手に持つことも出来ます。
そういつも物に迷わされたくては困ります。まあ、
この岡の方へおいでなさい。まるでプラアテル同様な賑です。
4210
ちゃんと芝居まで出来ている。おい。何を遣っている。
口上いい
へえ。すぐ跡の蓋が開きます。
新作です。七つ出す内の七つ目です。
4215
その位の数を出すのが、この土地の風でしてね。これは作者もしろうとで、
役々もしろうとがせられます。
失礼ですが、ちょいと御免を蒙ります。
幕を開けなくちゃなりませんから。
4220
メフィストフェレスお前がたにこのブロッケンで出くわしたのは
至極好い。ここがお前方に似合の土地だ。
一名
オベロンとチタニアとの金婚式
(間の曲)
座長道具方のミイジングさんの手の人達。
きょうはあなた方はお休です。
古い山に湿った谷が
4225
そのまま舞台になりますから。先触
金婚式をいたすには
五十年立たなくてはなりません。
それよりはお二人の夫婦喧嘩の息んだのが、
わたしには金のように貴いのですよ。
4230
オベロンこら。眷属ども。己のいる所にいるのなら、
今が見せる時だ。
お前達の王が改めて
妃と元の夫婦になるのだ。
パック
そこへパックが飛んで出て、くるりと廻って、
4235
持前の踊の足を踏みまする。そのわたくしの跡からは、一しょにここで楽もうと、
百人ばかり附いて来ます。
アリエル
さて天楽のような声で
このアリエルが歌い出します。
4240
歌の声音にさそわれて、いろんな面も出て来るが、中には綺麗な首もあります。
オベロン
夫婦中好く暮らしたければ、
己達の真似をするが好い。
互に恋しがらせるには、
4245
二人を別けて置くに限る。チタニア
夫がすねたり、女房がおこったりすると見たら、
手ばしこく攫まえて、
男は南、女は北の
空の果へ連れて行くが好い。
4250
ツツチイの演奏団
(最も強く。)
蠅の嘴、蚊の鼻梁、それからそいつの眷属等、
木の葉におるは雨蛙、草の蔭のはよ。
これがわし等の楽人だ。
独吟
見ろ。あそこから木笛が来る。
4255
石鹸のあぶくのようなざまだ。低い鼻から出る声は
シュネッケ・シュニッケ・シュナックだ。
修養中の霊
蜘蛛の脚に蝦蟇の腹、
小さい奴だが羽はある。
4260
子は生まないが、詩なら生む。
めおとづれ
蜜の露踏み、香を嗅いで、
小股大股、並んで歩く。
ちょこちょこあるきは精出すが、
4265
飛んで空へは上がられぬ。物好の旅人
こりゃあ仮装舞踏じゃないか。
オベロン様と云うのは美しい神様のはずだが、
きょうこんな処へおいでになったかなあ。
己の目がどうかしているのじゃあるまいか。
4270
正信徒爪もなけりゃあ、尻尾もないが、
やっぱりグレシアの神どもと同じ事で、
疑もなく
あいつも悪魔だ。
北国の芸術家
己が今手を著けるのは
4275
無論習作に過ぎんのだが、いずれそのうちイタリア旅行の
支度に掛かるよ。
浄むる人
己は飛んだ所へ来たものだ。
ここでは皆餌で人を釣ることばかし考えている。
4280
このおお勢の魔女の中で二人しかちゃんと化粧をしてはいない。
若き魔女
おつくりをして著物を著るのは、
白髪頭の婆あさんの事よ。
わたし裸で山羊の背に乗って、
4285
この好い体を見せて遣るわ。子持女
へん。ここでお前達と喧嘩をする程、
不行儀なわたしどもじゃないがね、
その若い、すらりとした、自慢の姿のままで、
お前達は腐ってしまいなさるが好い。
4290
楽長蠅の嘴、蚊の鼻梁。
裸の女を取り巻くな。
木の葉に止まる雨蛙も、草むらにいるも、
間拍子をまちがえるな。
風信旗(一方に向きて。)
願ってもない寄合ですね。
4295
よめ入盛の方ばかりだ。男の方も一人々々
末頼もしい婿さんばかりだ。
(他方に向きて。)
もしこれでこの土地が口を開いて、こいつらをみんな呑み込んでしまわなけりゃあ、
4300
己は自分が駆足ですぐ地獄へ飛び込んでも好い位だ。
クセニエン
わたし共は小さい剪刀を持った
虫になって来ています。
身分相応に悪魔のお父っさんの
4305
お気に入るような事をいたす積で。記者ヘンニングス
どうだ、あの一つかたまりに引っ附き合って、
無邪気そうにふざけている様子は。
あれで随分情知だとも
云い兼ねないのだからな。
4310
年報ムサゲット実は己もこの魔女どもの中へ
一しょに交ってしまいたいのだて。
こいつ等を詩の女神にして持ち出すことなら、
己にも随分出来そうだからな。
前「時代精神」
驥尾に附すと云うことが出来れば、
4315
なんにでもなれる。己の裾に攫まれ。ブロッケンでもドイツのパルナッソスでも
山の上はなかなか広いからな。
物好の旅人
おい。あのぎごちない風をしている男は誰だい。
高慢ちきな歩附をして、なんでも
4320
嗅ぎ出されるだけの事を嗅ぎ出そうとしている。イエズイイトの捜索でもするのだろうか。
くろづる
わたくしは澄んだ川で釣るのが好ですが、
濁った川でも釣らないことはありません。
ですから堅固な男が悪魔に交っていても、
4325
何も不思議がりなさるには及びませんよ。世慣れたる人
じゃありません。正しい信者には
凡ての物が方便です。
ですからこのブロッケンの山ででも
方々にこっそり寄り合っていまさあ。
4330
踊の群おや。あっちから新しい連中が来ますね。
遠くに太鼓が聞えています。
まあ、じっとしておいでなさい。あれは葦の中で
声を揃えて鳴いている「さんかのごい」です。
踊の師匠
みんな負けず劣らず足を挙げて、
4335
出来るだけの様子をして見せているから面白い。佝僂や太っちょも、どんなに見えても構わずに
飛んだり跳ねたりしているなあ。
胡弓ひき
やくざ仲間奴。お互に憎みっ競をして、
出来るなら、息の根を留めたいと思っていながら、
4340
ここではオルフォイスの琴に寄って来る獣のように、あの木笛の取持で一しょになっているのだな。
信仰箇条ある哲学者
批評家や懐疑家がどなったって、
己は騙されはしないのだ。
悪魔も何かでなくてはならぬ。そうでないなら、
4345
悪魔と云うものがあるはずがないではないか。理想主義者
どうもこん度は己の心の中で
空想が余り専横になっている。
これがみんな「我」であるとすると、
己はきょうはどうかしているぞ。
4350
実相主義者どうもこいつらの「本体」と云う奴が始末におえなくって、
己にひどい苦労を掛けやがる。
ここに来て始て己の立脚地が
ぐらついて来たぞ。
極端自然論者
己は嬉しがってここに来ていて、
4355
こいつらと一しょに楽むのだ。なぜと云うに悪魔から善霊に
推論して行くことが出来るからな。
懐疑家
こいつらは火の燃える跡を追っ掛けて行って、
もう宝のありかが近いと思っているのだ。
4360
「悪」と「惑」とは声も近いようで、己がここにいるのは所を得ているのだて。
楽長
草叢にいるに、木葉に止まった雨蛙。
お前達は咀われたしろうとだぞ。
蠅の嘴、蚊の鼻梁。
4365
お前達は兎に角楽人だ。敏捷なる人等
快活な我輩どもの組は
「莫愁会」と云ってね、
もう腰が立たなくなったから、
頭で歩いて行くのです。
4370
てづつなる人等今まではお世辞を言って大ぶお余を貰っていたが、
こうなればもう上がったりです。
踊っているうちに沓の底が抜けたから、
素足で歩いているのです。
鬼火等
わたし共は沼で生れて、
4375
沼から遣って来たのだが、すぐに踊の仲間に這入って、
どうです、立派な色男でしょうが。
隕星
星の光、火の光を
放って天から墜ちて来たが、
4380
今は草の中に転んでいます。誰か手を借して起してくれませんか。
肥えたる人等
避けろ。避けろ。ぐるりと避けろ。
踏みしだかれて草は偃す。
そら鬼が往くぞ。手足の太った
鬼が往くぞ。
パック
そんな、象の子のような
太った体をして来るなよ。
どしりどしりときょうなんぞ足踏をして好いのは、
まあ、この体のがっしりしたパックさん位のものだ。
アリエル
恵深い自然に羽を貰ったお前達、
性霊に羽を貰ったお前達は、
軽く挙がって翔る己の跡に附いて、
薔薇の岡のすみかへ帰れ。
奏楽団
(極めて微かに。)
雲の段、霧の帷よ。上の方より今し晴れ行く。
高き梢、低き葦間に、風吹き立ちて、
忽ち物皆散け失せぬ。
野原。
ファウスト。メフィストフェレス。
ファウストファウスト。メフィストフェレス。
みじめな目に逢っているのだな。途方に暮れているのだな。苦み悩みながら、長い間この世にうろついていて、とうとう牢屋に繋がれたのだ。悪事を働いた女だと云って、あの可哀い、不為合な女を、牢屋にひどい目に逢わせて、押し籠めてあるのだ。こうなるまで。○人を騙してばかりいる、なんの役にも立たぬ悪霊奴。○こう云う事を君は己に包み隠していたのだな。そうしてあきれたようにして、立つなら立っているが好いとも。その悪魔染みた目の玉を、腹立たしげに、頭のうろの中で、勝手にぐるぐる廻しているが好い。己にはもう君のそこにいるのが、我慢の出来ない苦痛だが、勝手にそうして立っていて、反抗的に己にその苦痛を味わせてくれるが好い。牢屋に入れられている。取返の附かない、みじめな目に逢わせられている。悪霊どもと、裁判と云うことを敢てする、無情な人間とに身を委ねている。その間君は面白くもない慰を己にさせて、己をぼかしていた。あの娘の苦艱が次第に加わって来るのを隠していた。なんの助をも与えずに、あの娘を堕落の淵に沈ませて、黙っていた。
メフィストフェレス
何も、ああ云う運命に、あの女だけが始て逢ったのではありませんよ。
ファウスト
狗奴。胸の悪い、獣にも劣った獣奴。○ああ。無辺際なる精霊。この蛆虫を再び本の狗の形に戻してくれぬか。こないだまで夜になると、自分の好きで狗になって、己のように、なんにも思わずに歩いている人間の傍へ駆けて来て、足の前をころがり廻って、人間が倒れたら、肩に前足を掛けようとしていたものだ。あの好き好んでなった狗の形に、再び戻して遣ってくれぬか。そうしたら己は、沙の上を腹這って、己の前に来た時、この廃れものを、この脚で踏み附けて遣ることが出来よう。○あの女だけが始て逢ったのではない。○まあ、なんと云うみじめな事だろう。人間の心に会得することの出来ない程の、みじめな事ではないか。ああ云う艱難困苦の底に陥いるものが一人で足りなくて、外にもあると云うのは。何事をも永遠に免すものの目の前で、のた打ち廻るような必死の苦痛を、最初たった一人が受けたなら、その外の一切の人間の罪は、もうそれで贖って余あろうではないか。○己にはこの一人の難儀が骨身に応え、命を掻きむしるのだ。それに君は何千人かのそう云う人間の運命を、その嘲るような顔附をして見ていて、恬として顧みないのだ。
メフィストフェレス
そこでお互様に、早速またお互の智慧の届く限界線に到著したと云うものです。そこまで来ると、あなた方、人間と云う奴は、気が変になってしまうのです。わたし共と一しょの共同生活が末まで遂げられんのなら、あなた、なぜその共同生活に這入ったのです。あなたなんぞは空が飛びたくはあるが、なんだか眩暈がしそうだと云う性でしょう。一体わたしがあなたに御交際を願ったのですか。それともあなたがわたしに附き合うようにしたのですか。
ファウスト
まあ、その物を食い厭きると云うことのなさそうな歯を剥き出して、己に向いてしゃべるなよ。そうせられると、己は胸が悪くなる。○ああ。大いなる、美しき精霊。お前は己に姿を顕して見せることを厭わなかったではないか。己の霊智をも情緒をも知っているのではないか。それがどうして己の同行に、こんな、人の危害に遭うのを見て目を楽ませ、人の堕落するのを見て口なめずりをするような、こんな恥知らずをよこして、そいつを己に離れられないように繋ぎ合せてくれたのだ。
メフィストフェレス
もうそれでおしまいですか。
ファウスト
あいつを助けて遣ってくれ。それが出来んと云うなら、容赦はない。何世紀立っても消えない、一番ひどい呪咀で、君を咀うまでだ。
メフィストフェレス
どうもわたしには、人間の裁判官の掛けた縄を解くことも出来ず、卸した錠前をはずすことも出来ませんね。○あなた助けてお遣なさい。○一体あいつをこんな難儀におとしいれたのは誰です。わたしですか。あなたですか。
(ファウスト眼球を旋転せしめ、四辺を見廻はす。)
あなたは雷火を天から借りて来て、わたしを焼こうとでも思うのですか。死ぬることのある人間に、そんな力が授けてなくて為合だ。無邪気に受答をしている相手を、粉微塵にでもしようと云うのは、チランノスの流義だ。自分がどうして好いか分からなくなった時に、そんな事を気霽らしにするのだ。ファウスト
そんなら己をそこへ連れて行け。どうしてもあの娘は助けて遣らんではならんのだ。
メフィストフェレス
そこであなたの自ら好んでお冒になる危険は宜しいのですか。あなたはあの土地で、その手で人殺しの罪を犯して、その罪がまだ贖われずにいるのですよ。殺された奴の墓の上には、復讎の悪霊どもがさまよっていて、下手人の帰って来るのを覗っていますよ。
ファウスト
そんな事まで君の口から聞せるのかい。世界一つにあるだけの、常の死をも、非業の死をも、君に被せて遣っても好い。言おうようの無い奴だ。好いから己の云う通に連れて行き給え。そしてあの娘を助けて遣ってくれ給え。
メフィストフェレス
宜しい。それはあなたを連れても行くし、またわたしに出来るだけの事をしますから、まあ、お聞なさい。一体わたしに天地万物を自由にする、一切の威力が備わっているとでも、あなたは思っているのですか。それは門番の頭がぼうっとなる位の事は、わたしが遣って上げますから、あなた鍵を手に入れて、人間の手で女を引き出してお遣なさい。わたしは外に張番をしています。魔法の馬の支度をして置きます。それに乗って、連れてお逃なさい。それならわたしに出来ます。
ファウスト
さあ、行こう。
豁開せる野。
ファウストとメフィストフェレスと黒き馬に乗り、疾駆しつゝ登場。
ファウストファウストとメフィストフェレスと黒き馬に乗り、疾駆しつゝ登場。
あいつらはあの処刑場の円壟で何をするのだ。
メフィストフェレス
何を烹るやら、りょうるやら、わたしも知らない。
4400
ファウスト空を飛んだり、降りて来たり、屈んだり、しゃがんだり。
メフィストフェレス
魔女のわざくれですね。
ファウスト
灰を蒔いて祈っているな。
メフィストフェレス
もう通り過ぎました。
ファウスト手に一束の鍵とランプとを持ちて鉄の扉の前に立ちゐる。
ファウストもう久しく忘れていた震が己を襲って来る。
4405
人間の一切の苦痛を己は身に覚える。この湿った壁の奥にあれが住まっているのだ。
なんの悪気もない迷で犯した罪だのに。
貴様、這入って行くのをたゆたっているな。
あの娘にまた逢うのをこわがっているな。
4410
遣れ。貴様の躊躇は女の死を促す躊躇だ。
(ファウスト鎖鑰に手を下す。)
声(内にて歌ふ。)あはれ、我身を殺しゝは
うかれ女、我母。
あはれ、我身を食ひつるは
をそ人、我父。
4415
冷やかなる奥津城に、小さき妹
我骨を埋めつ。
羽美しき森の小鳥とわれなりぬ。
われは飛ぶ、われは飛ぶ。
4420
ファウスト(鎖鑰を開きつゝ。)歌うのを、鎖の鳴るのを、敷藁のさわつくのを、
恋人が聞いているとは、夢にも知らんのだ。
(進み入る。)
マルガレエテ(床の中に隠れむとしつゝ。)どうしよう。どうしよう。来るわ。いじめ殺しに。
ファウスト(小声にて。)
黙っておいで。黙っておいで。来たのは己だ。お前を助けに。
マルガレエテ
(ファウストの前にまろがり寄る。)
お前さんも人間なら、どうぞ難儀を察して下さい。4425
ファウストそんなに大声をしては、番人が目を醒ますじゃないか。
(女の鎖鑰を開かんとす。)
マルガレエテ(跪く。)まあ、首斬役のあなたが、わたくしを
自由になさるようには、誰がいたしましたか。
まだ夜なかなのに、もう連れにおいでなさる。
どうぞ堪忍して、生かして置いて下さいまし。
4430
あすの朝だって遅くはないではございませんか。
(立ち上がる。)
わたくしはまだこんなに、こんなに若いじゃありませんか。それにもう死ななくてはならないのですか。
これで美しゅうもございました。それが悪うございました。
頼んだお方が傍においでになったのが、遠くへいらっしゃいました。
4435
青葉の飾は破られて、花はむしられてしまいました。そんなに荒々しくお攫まえなさいますな。
御免なさい。あなたに何もいたした覚はありません。
これまで一度もお目に掛かったことがないじゃありませんか。
どうぞこのお願をお聞流しなさらないで下さいまし。
4440
ファウストああ。この悲惨な有様を見てこらえられようか。
マルガレエテ
もうわたくしはあなたの思召次第になっています。
どうぞ赤さんにお乳を飲ませる間お待下さいまし。
わたくしは夜どおし可哀がって遣っていましたの。
それを人が取ってわたくしをせつながらせようと思って、
4445
わたくしが殺したのなんのと申します。わたくしはもう面白い心持になることは出来ません。
わたくしの事を歌に歌うのですもの。意地の悪いこと。
あるお伽話のしまいがこうなったのでございます。
誰がそれをあの人達に解けと申しましょう。
4450
ファウスト(身を倒す。)おい。お前をこのみじめな囚われの境から
救おうと思って、恋人がここに伏しているのだぞ。
マルガレエテ(共に身を倒す。)
どうぞ一しょに聖者様方を拝んで下さいまし。
御覧なさい。この踏段の下には、
この敷居の下には
4455
地獄の火が燃えています。悪魔が
おそろしくおこって、
ひどい音をさせています。
ファウスト(声高く。)
グレエトヘン。グレエトヘン。
4460
マルガレエテ(注意して聞く。)おや。あれはあの方のお声だわ。
(跳り上がる。鎖落つ。)
どこにいらっしゃるだろう。お呼になったわ。わたしは免された。もう誰にも邪魔はさせない。
あの方のお頸に飛び附いて、
あの方のお胸に抱かれたい。
4465
お呼になったわ。あの敷居の上にお立になって。どうどうがたがたと地獄の音がしている中から、
腹立たしげな悪魔の嘲笑の中から、
あのいとしい、お優しいお声が聞えたわ。
ファウスト
己だよ。
マルガレエテ
あなたなの。どうぞもう一遍仰ゃって。
4470
あなただわ。あなただわ。苦労はみんなどこへ行っただろ。牢屋の苦艱は。あの鎖は。
あなただわ。助けに来て下すったのだわ。
わたしはもう助かった。
あれ。あなたに始てお目に掛かった、
4475
あの町がもうそこに見えます。マルテさんとわたしとでお待申した
晴やかな庭もそこに見えます。
ファウスト(伴ひ去らんとして。)
さあ、一しょに来い、来い。
マルガレエテ
まあ、お待なさいましよ。
わたくしあなたのいらっしゃる所にいたいのですもの。
4480
(あまえゐる。)
ファウスト早くしなくては。
手間取ると、どんなに悔やんでも
及ばないことになるのだ。
マルガレエテ
まあ。もうキスをすることもお忘なすったの。
あなたほんのちょっとの間別れていらっしゃって、
4485
もうキスをすることもお忘なすったの。こうしてあなたに縋っているのに、なぜせつないのでしょう。
何か仰ゃって、わたくしを御覧なすって、
息の詰まる程キスをして下さると、
天がそっくり落ちて体に被さって来ましたのに。
4490
キスをして下さいよう。なさらなけりゃ、わたくしがいたしますわ。
(抱き附く。)
あら。あなたのお口のつめたいこと。それに黙っていらっしゃるのね。
お情はどこへ行って
4495
しまいましたの。わたし誰に取られてしまったのだろ。
(背を向く。)
ファウストおいで。おれに附いておいで。しっかりしてくれなくちゃ。
跡でどんなにでも可哀がって遣る。
どうぞ附いて来てくれ。これだけがお願だ。
4500
マルガレエテ(面を向く。)本当にあなたなの。きっとでしょうか。
ファウスト
己だよ。おいで。
マルガレエテ
あなた鎖を解いて下すって、
またわたくしをお抱なすって下さるのね。
なぜ気味が悪くは思召さないのでしょう。
一体どんな女を助けて下さるのだか、あなた、御存じ。
4505
ファウストおいで。おいで。もう夜が明け掛かって来る。
マルガレエテ
わたくし母あ様を殺してしまって、
赤さんを水の中へ投げ込みましたの。
あれはわたくしとあなたとの赤さんじゃありませんか。
あなたも親だわ。本当にあなたなの。本当かしら。
4510
お手に攫まらせて頂戴な。夢じゃないわ。可哀らしいお手。でもつめたいこと。
お拭なさいよ。なんだか
血が附いているようだわ。
まあ、飛んだ事をなすったのね。
4515
どうぞその抜身をおしまいなすって。
ファウスト
もう昔の事は置いてくれ。
己は死んででもしまいそうだ。
マルガレエテ
いいえ。あなたは生きていて下さらなくちゃ困るわ。
4520
わたくしお墓を立てる所をそう申して置きましょうね。あしたすぐ
行って見て下さいましな。
母あ様のを一番好い所へ立てて、
兄いさんのを傍へ引っ附けて立てて、
4525
それからわたくしのを少し離して。あんまり遠くになすってはいやよ。
それからわたくしの右の胸の方へ赤さんを埋めて、
その外の人は傍へ寄せないで下さいまし。
わたくしあなたのお傍に寄るのが、
4530
本当に嬉しい、楽しい事でございましたの。それが、なぜだか、もう出来ませんわ。
なんだか無理にお傍へ寄ろうとするようで、
なんだかあなたがお衝戻しなさるようで。
でもやっぱりあなたなのね。好い、優しい目をなすって。
4535
ファウスト己だと云うことが分かったなら、さあ、おいで。
マルガレエテ
あちらへ。
ファウスト
外へ出るのだ。
マルガレエテ
外にお墓がございまして、
死が待っていますのなら、参りましょう。
わたくしここからすぐお墓へまいりますの。
4540
それから先へは一足も参りません。おや。もうお帰なさいますの。わたくし御一しょに参りたくて。
ファウスト
来られるのだ。来れば好い。戸はあいている。
マルガレエテ
わたくし参られませんの。どうせ駄目でございますから。
逃げてどうなりましょう。待伏をしていますわ。
4545
乞食になります程みじめな事はございません。それに良心の呵責を受けていますのですもの。
知らない国をさまよい歩くのはいやでございますし。
それにすぐ攫まってしまいますわ。
ファウスト
己が附いていて遣るのだ。
4550
マルガレエテあ。お早くなすって。お早くなすって。
あなたの赤さんですから、お助なすって。
あちらです。この道を
どこまでも川に附いて上手へ、
あの狭い道をおぬけになって、
4555
森の中へお這入なさると、あの左側の柵の結ってある所の
池の中でございます。
どうぞすぐお攫まえなすって。
浮き上がろうといたして
4560
まだ手や足を動かしています。お助なすって。お助なすって。
ファウスト
おい。気分をはっきりさせてくれないか。
つい一足出れば助かるのだ。
マルガレエテ
ほんにこの山を早く越してしまいましょうね。
4565
母あ様があそこに石に腰を掛けていらっしゃるわ。わたくし髪の根元を締め附けられるようですの。
母あ様があそこに石に腰を掛けていらっしゃって、
頭をぶらぶら振っていらっしゃるわ。
手真似も、合点合点もなさらないわ。お頭が
4570
お重いのだわ。長くお休になって、もうお起なさらないの。わたくし共が楽むようにお休になったのだったわ。
あの頃の面白かったこと。
ファウスト
いくら言って聞せて、頼んでも駄目なら、
己はお前を抱えて出よう。
4575
マルガレエテお廃なさいまし。力ずくはいやですわ。
そんなにひどくお攫なすっちゃあ、いや。
外の事はなんだって仰ゃる通にしたじゃありませんか。
ファウスト
夜が明けて来た。おい。おい。
マルガレエテ
夜が明けましたって。そうですね。わたくしの
4580
最期の日ですわ。婚礼をいたす日ですわ。泊ったことがあるなんぞと、誰にも言わないで下さいまし。
青葉の飾が破れましたわ。
もう出来たことはいたしかたがございません。
またどこかでお目に掛かりましょうね。
4585
踊場でないところでね。今人が寄って来ますが、聞えないのですわ。
四角にも往来にも
這入り切りませんのね。
鐘を撞いてしまった。杖を折ってしまった。
4590
わたくしを攫まえて縛りましたわ。もう処刑場へ連れて来られましたわ。
今の刀の刃がどの人の項にも、
わたくしの項にも打ち卸されて来ますわ。
そこいら中が墓の中のように静かになりましたこと。
4595
ファウストああ。己は生れて来なければ好かった。
メフィストフェレス戸の外に現る。
メフィストフェレスおいでなさい。おいでなさらないと駄目です。
ぐずぐずしていたってなんにもなりません。余計な
話なんかしていて、馬が身慄をしています。
もう夜が明けそうだから。
4600
マルガレエテあのそこへ地の底から出て来たのはなんでございましょう。
あれだ。あれだ。どうぞあれをいなせて下さいまし。
この難有い所へあんな人が何しに来ますでしょう。
わたくしを連れに。
ファウスト
お前の命を助けに。
マルガレエテ
いいえ。いいえ。わたくしは神様の御裁判に任せます。
4605
メフィストフェレス(ファウストに。)おいでなさい。おいでなさい。女と一しょに置いて行きますぜ。
マルガレエテ
天にいます父よ。わたくしはあなたにお任せ申します。
お助下さい。天使の、神聖な群が、
どうぞわたくしを取り巻いて、護っていますように。
ハインリヒさん。わたくしあなたがこわくてよ。
4610
メフィストフェレスあれが処刑だ。
声(上の方より。)
救だ。
メフィストフェレス(ファウストに。)
早くこっちへ。
(ファウストと共に退場。)
声
(内より、遠く消え去らんとする如く聞ゆ。)
ハインリヒさん。ハインリヒさん。[#改丁]
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第一幕
ファウスト草花咲ける野に横りて、疲れ果て、不安らしく、眠を求めゐる。
黄昏時
精霊の一群、空に漂ひて動けり。優しき、小さき形のものどもなり。
アリエル
(歌。アイオルスの箏の伴奏にて。)
「雨のごと散る春の花人皆の頭の上に閃き落ち、
田畑の緑なる恵青人草に
4615
かゞやきて見ゆる時、身は細けれど胸広きエルフの群は
救はれむ人ある方へ急ぐなり。
聖にもせよ、悪しき人にもせよ、
幸なき人をば哀とぞ見る。」
4620
この人の頭の上で、空に圏をかいてゐるお前達。いつもの優しいエルフの流義でこの場でも働いてくれ。
あれが胸のおそろしい闘を鎮めて遣れ。
身を焼くやうに痛い、非難の矢を抜いて遣れ。
これまでに受けた怖を除けて胸を浄めて遣れ。
4625
夜の暇には四つの句切がある。今すぐにその句切々々を優しく填めて遣れ。
先づあの頭にそつと冷たい枕をさせて、
それから物を忘れさせるレエテの水の雫に浴させて遣れ。
そこで疲が戻つて静かに夜明を待つうちに、
4630
引き弔つてゐた手足のあがきが好くなるだらう。さうしてあれを神聖な光の中へ返して遣つて、
エルフの義務の中の一番美しい義務を尽せ。
合唱する群
(或は一人々々、或は二人づつもしくは数人づつ、或は交互に入り変り、或は寄り集ひて。)
あたゝけき風の戦緑に囲はれたる野に満てるとき、
4635
黄昏は甘き香を霧の衣を降り来させ、
楽しき平和を低く囁き、穉子を
寐さするごとく心を揺りて眠らしむ。
かくて疲れたる人の目の前に
4640
昼の門の扉はさゝる。夜ははや沈み来ぬ。
星は星と浄く群れ寄る。
大いなる火も、小さき光も
近くかゞやき、遠く照る。
4645
湖に映りてこゝにはかゞやけり。澄みたる夜の空にかしこには照れり。
いと深き甘寐の幸を護りて、
月のまたき光華は上にいませり。
幾ばくの時かは知らねど、その時はや消え失せぬ。
4650
痛も幸も跡なくなりぬ。先だちて知れ。汝は痊えなむ。
たゞ新なる朝日の光を頼め。
谷々は緑芽ぐみ、岡は高まりて、
茂りて物蔭の沈黙をなす。
4655
さて穀物の穂はゆらげる波の形して収穫の日を待てり。
汝が願をつぎ/\に成さんとせば
たゞかしこなる光を望め。
汝は軽らかに閉ぢ籠められたり。
4660
眠は殻なり。剥ぎ棄てよ。庸人の群たゆたひ避けむとき、
自ら励ましてなすことをな忘れそ。
心得て疾く手を著くる
心高き人のえなさぬことあらめや。
4665
アリエル聞け。遷り行く時の神ホライの駆ける風を聞け。
霊の耳には音が聞えて、
もう新しい日が生れた。
岩の扉はからからと鳴って開く。
日の神フォイボスの車はどうどうと響いて転る。
4670
まあ、光の立てる音のすさまじいこと。金笛、喇叭の声がする。
目はまじろいて、耳はおどろく。
耳も及ばない響は聞えない。
潜り入れ、花の萼に、
4675
深く、深く、岩の迫間、木の葉の蔭に閑かに住むために。
あの音に出合ったら、お前達は聾になる。
ファウスト
天の気の薄明に優しく会釈をしようとして、
命の脈がまた新しく活溌に打っている。
4680
こら。下界。お前はゆうべも職を曠ゅうしなかった。そしてけさ疲が直って、己の足の下で息をしている。
もう快楽を以て己を取り巻きはじめる。
断えず最高の存在へと志ざして、
力強い決心を働かせているなあ。
4685
もう世界が薄明の中に開かれている。森は千万の生物の声にとよみわたっている。
谷を出たり谷に入ったり、霧の帯が靡いている。
それでも天の明は深い所へ穿って行くので、
木々の大枝小枝は、夜潜んで寝た、
4690
薫る谷底から、元気好く芽を吹き出す。また花も葉もゆらぐ珠を一ぱい持っている深みが、
一皮一皮と剥がれるように色取を見せて来る。
己の身のまわりはまるで天国になるなあ。
上を見ればどうだ。巨人のような山の巓が
4695
もう晴がましい時を告げている。あの巓は、後になって己達の方へ
向いて降りる、とわの光を先ず浴びるのだ。
今アルピの緑に窪んだ牧場に、
新しい光やあざやかさが贈られる。
4700
そしてそれが一段一段と行き渡る。日が出た。惜しい事には己はすぐ羞明しがって
背を向ける。沁み渡る目の痛を覚えて。
あこがれる志が、信頼して、努力して、
最高の願の所へ到着したとき、成就の扉の
4705
開いているのを見た時は、こんなものだな。その時その永遠なる底の深みから、強過ぎる、
が迸り出るので、己達は驚いて立ち止まる。
己達は命の松明に火を点そうと思ったのだが、
身は火の海に呑まれた。なんと云う火だ。
4710
この燃え立って取り巻くのは、愛か、憎か。喜と悩とにおそろしく交る/″\襲われて、
穉かった昔の羅ものに身を包もうとして、
また目を下界に向けるようになるのだ。
好いから日は己の背後の方におれ。
4715
己はあの岩の裂目から落ちて来る滝を、次第に面白がって見ている。
一段また一段と落ちて来て、千の流になり
万の流れになり、飛沫を
高く空中に上げている。
4720
しかしこの荒々しい水のすさびに根ざして、七色の虹の常なき姿が、まあ、美しく空に横わっていること。
はっきりとしているかと思えば、すぐまた空に散って、
ある涼しい戦をあたりに漲らせている。
この虹が人間の努力の影だ。
4725
あれを見て考えたら、前よりは好く分かるだろう。人生は彩られた影の上にある。
玉座の間。閣臣帝の出御を待ちゐる。喇叭の音。華美なる服装をなせる宮中の雑役等登場。帝出でて玉座に就く。天文博士帝の右に侍立す。
帝遠くからも近くからも寄って来た、
忠実な皆のものに己は挨拶をいたす。
そこで賢者は己の傍に来ているが、
4730
阿房はどういたしたのだ。貴公子
只今お附申して参る途中で、殿様の袍の裾の
すぐ背後で、階段の上に倒れました。あのでぶでぶ
太った、重い体は、誰やらがかついで行きました。
酒に酔ったのか、死んだのか、分かりません。
4735
第二の貴公子そういたすと珍らしいすばやい奴があるもので、
替の男がすぐにその場へ割り込んで参りました。
実に面白い、目に立つなりをいたしています。
しかしどうも異様ですから、誰も一寸見て驚きます。
それで御守衛が矛を十文字にいたして
4740
敷居際で留めていました。や。でもあそこへまいりました、大胆な馬鹿が。
メフィストフェレス
(玉座の前に跪きつゝ。)
来ねば好いがと云われていても、来て歓迎せられるのは何か。いつも待たれていて、来ると逐い出されるのは何か。
どこまでも保護を加えられるのは何か。
4745
ひどく叱られたり苦情を言われたりするのは何か。殿様のお呼寄になってならないのは誰か。
名を聞くことを皆が喜ぶのは誰か。
玉座の下へ這い寄って来るのは何か。
土地をお構になるように自分でしたのは何か。
4750
帝まあ、差当りそんなに饒舌らんでも好い。
この場ではそんな謎のような物は不用だ。
謎を掛けるのは、そこらにいる人達の為事だ。
掛けられたら、お前解け。己が聞いて遣る。
前いた阿房はどうやら遠くへ立ったらしい。
4755
お前そいつの替になって、己の傍にいてくれい。
(メフィストフェレス階段を登りて左に侍立す。)
衆人の耳語新参の阿房か。○新規な難儀だな。○
どこから来たのだろう。○どうして這入ったのだろう。○
先のは倒れたのだ。○お暇乞だった。○
あいつは酒樽だった。○こいつはだ。
4760
帝さて、遠くからも近くからも寄って来た
忠実な皆のものに、己は挨拶をいたす。
丁度お前達は好い星の下へ寄った。
空には好運や祝福が書いてある。
然るに、この、いらぬ憂を棄てて、
4765
舞踏の日のように面を被って、面白い事ばかり見聞して楽もうとしている、
この日に、一体なぜ評議なんぞをして
面倒な目を見んではならんのか。
まあ、兎に角お前達がせねばならんと云うから、
4770
そんならそうとして、する事にした。尚書
人間最高の徳が、聖者の毫光のように、
殿様のおつむりを囲んでいて、それを有功に
御実行なさることは、殿様でなくては出来ません。
それは公平と申す事でございます。人が皆
4775
愛し、求め、願い、無いのに困るこの徳を、民に施しなさるのは殿様でございます。
しかしこんな風俗が時疫のように国に行われて、
悪事の上に悪事が醸し出されては、
心には智慧、胸には慈愛、手には
4780
敏活があったと云って、なんになりましょう。どなたでもこの高殿の上から、広い国中を
お見卸なされたら、苦しい夢のお気がいたしましょう。
異形のものばかりが押し合って、
不法が法らしく行われて、
4785
間違が世間一ぱいになっていますから。家畜を盗む。女を盗む。
寺から杯や、十字架や、燭台を盗む。
そして長い間、膚をも傷られず、
体をも損われずにいるのを自慢話にする。
4790
そこで原告が押し合って裁判所に出て見ると、判事はただ厚い布団の上に息張っている。
外には次第に殖える一揆の群集が
怒濤のように寄せては返しているのに。
身方の連累者の申立を土台にして、
4795
相手の罪を責めることは出来、孤立している無辜の民は、
却って「有罪」と宣告せられる。
そう云う風に世は離れ離れになって、
当然の事は烏有に帰してしまいます。
4800
民を正道に導くただ一つの誠がどうしてここに発展して参りましょう。
しまいには正直な人が
侫人に、贈賄者になって、
賞罰を明にすることの出来ない
4805
裁判官は犯罪者の群に入ります。これでは余り黒くかいた画のようでござりますが、
実はもっと厚い幕で隠したかったのでござります。
(間。)
いずれ断然たる御処置がなくてはなりますまい。民が皆傷り害い、皆痛み悩んでいましたら、
4810
恐れながら帝位の尊厳も贓物になってしまいましょう。兵部卿
まあ、此頃の乱世の騒はどうでござりましょう。
一人々々が殺しもし、殺されもして、
号令をしても皆聾のようでござります。
市民は壁の背後に、騎士は
4815
岩山の巣に立て籠って、公に背いて、踏みこたえようとして、
私の戦闘力の維持に力めている。
傭兵は気短に、
給料の下渡をぎょうぎょうしく催促して、
4820
それを払ってしまったら、皆逃げてしまいそうにしている。
皆の望んでいる事を、誰でも禁じたら、
それは蜂の巣をつついたようであろう。
その傭兵が守るはずの、国はどうかと云うと、
4825
掠められ、荒されている。暴れるままに暴れさせて置くうちに、
国は半分もう駄目になっています。
まだ外藩の王達はおられますが、
どなたもそれを我事とはなさりませぬ。
4830
大府卿もう誰が聯邦の盟を当にしましょう。
約束の貢は、水道の水が切れたように、
少しも来なくなりました。
それにこの広いお国の中でも、占有権が
どんな人の手に落ちたと思召します。
4835
どこへ行って見ても、新しい人間が主人になって、独立して生計を営むと云っています。
どんな事をしていたって、見ている外はありません。
あらゆる権利を譲って遣って、もう公の手に
残っている権利は一つもありません。
4840
あの党派と云っているものなぞも、今日になってはもう信頼することは出来ません。
賛成しても、非難しても、愛憎どちらでも
構わぬと云う冷澹な心持になっています。
身方のギベルリイネンも、相手のゲルフェンも、
4845
手を引いて、佚楽を貪っています。誰が隣国なんぞを援けようといたしましょう。
てんでにしなくてはならぬ事がありますから。
金穴の戸口には柵が結ってあって、
一人々々が掘り出して、掻き集めているだけで、
4850
内帑はいつも明虚になっています。中務卿
わたくしの方も随分不幸に逢っています。
毎日々々節倹をいたそうとしていて、
毎日々々費用が嵩むばかりでございます。
それにわたくしの難儀は次第に殖えて参ります。
4855
まあ、お料理人の手元だけはまだ不足がありません。鹿に氈鹿、兎に野猪、
鶏にしゃも、鶩に鴨、
そう云う生物の貢は本が確で、
まだかなりに這入ってまいります。
4860
それでも酒がそろそろ足りなくなってまいります。これまでは出所の好い、時代のあるのが、
樽を並べて積み上げて、穴蔵にありましたのに、
皆様が引切もなくお飲になるので、
もうそろそろ残少になって来ました。
4865
此頃は町役所の貯までを取り寄せて、それ大杯に注げ、鉢に注げと、
皿小鉢を卓の下に落すまで、お飲になる。
その跡始末と勘定はわたくしがいたします。
猶太商人は容赦なく、
4870
歳入を引当にいたして、いつも翌年のを繰り上げて納めています。
飼ってある豕は肥えませぬ。
お褥の鳥の羽も質に這入っておりまする。
借越のパンを差し上げるのも致方がございません。
4875
帝
(暫く考へて、メフィストフェレスに。)
どうだ。まだその外に難儀のあるのを知っているか。メフィストフェレス
わたくしですか。存じません。こうして殿様はじめ
皆様の御盛んな様子を拝しています。帝位の尊厳で
いやおうなしにお命じなさるに、
なんで信用が足りますまい。
4880
智慧と働とで強くなっている、多方面な善意がお手廻にあるに、なんの威力が方々に仇をしましょう。
こう云う星の数々が照っている所で、
何が寄って災難や暗黒になることが出来ましょう。
耳語
あいつ横着者だね。○巧者な奴だね。○
4885
胡麻を磨り込みおる。○遣れる間遣るでしょう。○分かっていまさあ。○内々何を思っているか。○
これからどうすると云うのです。○建白でもするのでしょう。
メフィストフェレス
一体この世では何かしら足りない物のない所はありません。
あそこで何、ここでは何が足りぬ。お国では金が足りぬ。
4890
それだと云って床の下を掘って出すことは出来ません。そこは智慧で、どんな深い所からでも取って来ます。
山の礦脈の中や、人家の地の底に、
金塊もあれば金貨もあります。
そんならそれを誰が取って来るかとお尋ねなさるなら、
4895
力量のある男の天賦と智慧だと申す外ありません。尚書
天賦と智慧だの、自然と霊だのとは信徒は云わない。
そんな話はひどく危険だから、
無神論者を焚き殺すのだ。
自然と云う罪障と、霊と云う悪魔とが、
4900
夫婦になって片羽な子を生んで育てる。その子が懐疑だ。
ここにはそんな事はない。殿様の古いお国には、
二通の門閥が出来て、
それが玉座を支えている。
4905
それは聖者と騎士なのだ。この方々がどんな暴風雨をも相手に闘って、
その報に寺院と国家とを取りまかなう。
ところが腹の極まらない下賤な奴の心から
反抗が起って来る。
4910
それが背教者だ。魔法使だ。そう云う奴が都をも国をも滅すのだ。
そう云う奴を今お前は、臆面のない笑談で、
この尊い朝廷へ口入をしようとしている。
お前達は腐った根性を守り育てている。
4915
そう云う奴は皆阿房の同類だ。メフィストフェレス
お詞で学者でいらっしゃることが知れますな。
なんでも手で障って見ない物は、何里も先にある、
握って見ない物は、まるで無い、
十露盤で当って見ない物はだ、
4920
秤で掛けて見ない物は目方がない、自分で鋳たのでない銭は通用しないと思召す。
帝
そんな話で物の足りぬのが事済にはならぬ。
断食の時の説教のような講釈でどうしようと云うのか。
こうしたらとか、どうしたらとか、際限なく云うのには厭いたぞ。
4925
金が足りぬ。好いわ。金をこしらえい。メフィストフェレス
おいり用の物は拵えますとも、それより多分に拵えます。
造做もない。しかしその造做もない事がむずかしいのです。
現にそこにある。しかしそれを手に入れるのが
術で、誰がその術に手を著けましょう。
4930
一寸考えて御覧なさい。疆を侵した外寇の海嘯に、土地も人民も溺れた、あの驚怖時代に、
どんなにか不本意には思っても、誰彼が
一番大事な物をあそこここに隠したのです。
ロオマ人が暴威を振った時から、そうでした。
4935
それからずっときのうまでもきょうまでも、そうです。それが土の中にじっとして埋もれている。
土地は殿様のだ。殿様がそれをお取になるが宜しい。
大府卿
阿房にしてはなかなか旨く述べ立てるな。
勿論それはお家柄の殿様の権利だ。
4940
尚書悪魔がお前方に金糸を編み入れた罠を掛けるのだ。
どうも只事ではないようだぞ。
中務卿
少しは筋道が違っていても好いから、
御殿の御用に立つ金を拵えて貰いたいものだ。
兵部卿
阿房奴賢いわい。誰にも都合の好い事を約束しおる。
4945
兵隊なんぞは、どこから来た金かと問いはしない。メフィストフェレス
もしわたくしに騙されるとお思なさるなら、
それ、そこにいます、あの天文博士にお尋なさい。
やれ躔次だの十二宮だのと、隅から隅まで知ってござる。
一つ言って貰いましょう。きょうの天文はどうですな。
4950
耳語横著者が二人だ。○以心伝心でさあ。○
阿房に法螺吹が。○御前近くにいるのです。○
聞き陳した。○昔の小歌だ。○
阿房が吹き込む。○博士がしゃべるのですな。
天文博士
(メフィストフェレス白を附く。博士語る。)
一体日そのものは純金でございます。4955
水星は使わしめで、給料を戴いて目を掛けて貰う。金星と云う女奴は皆様を迷わせて、
朝から晩まで色目で見ている。
色気のない月奴は機嫌買ですねている。
火星はお前様方を焼かぬまでも、威勢で嚇している。
4960
木星は兎に角一番美しい照様をする。土星は大きいが、目には遠くて小さく見える。
あいつが金になると鉛だが、余り難有くありませぬ。
値段は安くて目方が重い。
そうですね。ただ日に月が優しく出合うと、
4965
金銀が寄って、面白い世界になる。その上には得られないと云うものはありませぬ。
御殿でも、庭でも、小さい乳房でも、赤い頬でも、
そんな物を得させるのは、我々の中で誰一人
出来ない事の出来る学者の腕でございます。
4970
帝あれが云う詞には己には二重に聞えるが、
そのくせどうもなるほどとは合点が出来ぬ。
耳語
あれがなんの用に立つだろう。○連枷で打った
跡のような洒落だ。○暦いじりだ。○錬金の真似だ。○
あんな事は度々聞きました。○そしていつも騙されました。○
4975
よしや出て来たところで。○っぱちですよ。メフィストフェレス
皆さんはそこに立って呆れていなさるばかりで、
大した見附物を御信用なさらない。
草の根で刻んだ人形をたよりにするとか、
黒犬を使うとか云うような、夢を見ていなさる。
4980
あなた方の中には時たま足の蹠が痒かったり、足元が慥かでなくなったりすると、
洒落でちゃかしてしまったり、魔法だと云って
告発したりなさるが、分からない話です。
あれはあなた方がみんな、永遠に主宰している
4985
「自然」の奇しき作用をお感じになるのです。その生動している痕跡が、一番下の方から
上へ向いて縋って登って行くのです。
いつでも手足をつねられるような気がしたり、
いる場所が居心が悪くなったりしたら、
4990
すぐに思い立って鍬で掘って御覧なさい。そこには楽人の死骸がある。そこには宝がある。
耳語
わたくしなんぞは足に鉛が這入っているようだ。○
わたくしは腕が引き弔る。○それは痛風です。○
わたくしは足の親指がむずむずする。○
4995
わたくしは背中じゅうが痛い。○こんな塩梅だと、ここなんぞは
宝が沢山埋まっている土地でしょうか。
帝
そんなら早くせい。もうお前は逃がさぬから、
その口から沫を出してしゃべったを
5000
験すために、すぐその尊い場所を見せてくれ。お前がを衝いたのでないなら、己は冠や
指揮の杖を棄てて、尊い、自分の
この手で、その為事を果そうと思う。
もしなら、お前を地獄へ遣って遣る。
5005
メフィストフェレスそれはそこへ行く道はわたくしが知っていますが、
そこにもここにも持主がなくて埋まっている物の、
その数々は申し上げ切れない位でございます。
どうかいたすと、畝を切っている百姓が、
土塊と一しょに金の這入った壺を掘り出す。
5010
また外の奴は土壁の中から硝石を取ろうとして、貧に痩せた手に、驚喜しながら、
立派な金貨の繋がったのを取り上げる。
まあ、どんな穹窿を爆破したり、
どんな深い穴や、どんな長い坑道の奥を、
5015
奈落の底の近所まで、宝のありかを知った人は這入ったりしなくてはならないでしょうか。
さて広い、年久しく隠してある穴倉に這入ると、
金の大杯や皿や鉢が
ずらりと並べてあるのを見るでしょう。
5020
紅宝玉で造った杯もあって、それを使おうと思って見れば、
傍に古代の酒があります。
そこで、そんな事に明るいわたくしの申す事を
信じて下さらなくては駄目ですが、もう疾っくに
5025
桶の木は朽ちていて、酒石が凝って桶になって、中に酒を湛えています。そう云う尊い酒の精も、
金銀宝石ばかりではなく、闇黒と
恐怖とで自分を護って蔵れています。
そう云う所を賢者は油断なく探っています。
5030
昼間物を見知るのは笑談ですが、深秘は闇黒を家にしていますからね。
帝
そんな闇黒なんぞがなんになるものか。それはお前に
任せて置く。役に立つものなら、日向へ
出んではならぬ。誰が闇の中で横著者を
5035
見分けよう。牝牛は黒く、猫は灰色だ。その黄金がどっしり這入って、地の下に
埋まっている壺を、お前の犂で日向へ掘り出せ。
メフィストフェレス
いえ。御自身に鋤鍬を取ってお掘なさいませ。
百姓の業を自らなさる程大きい事はありませぬ。
5040
そうなさったら、黄金の犢が群をなして、地の下から躍り出しましょう。
そうなると、御猶予なさることなしに、喜んで
御自分と后方との身をお飾なさいましょう。
色と沢とにかがやく石は、
5045
厳しさをも美しさをも増しまする。帝
早くせんか。早くせんか。いつまで掛かるのだ。
天文博士(上に同じ。)
いえ。そのおはやりになるお心を少しお鎮めなさって、
華やかなお慰を先へお済ませなさいませ。
気が散っていては目的は達せられませぬ。
5050
先ず心を落ち著けると云う償をして、前なるものに由って後なるものを得なくては
なりませぬ。善を欲せば、先ず善なれ。
喜を欲せば、己が血を和平にせよ。
酒を得んと欲せば、熟したる葡萄を絞れ。
5055
奇蹟を見んと欲せば、信仰を牢うせよでございます。帝
そんなら面白い事で暇を潰すも好かろう。
幸な事には丁度灰の水曜日が来る。
その間いつもよりも盛んに
四旬節の前の踊でもさせるとしよう。
5060
(喇叭、退場。)
メフィストフェレス労と功とは連鎖をなしていると云うことが、
馬鹿ものにはいつまでも分からない。
よしや聖賢の石を手にしたところで、
石はあっても聖賢はなくなるだろうて。
先触
皆様。ドイツの境の内にいると思ってはいけません。
5065
悪魔踊に阿房踊、また髑髏踊なんぞのある、面白いお慰が始まります。
殿様はロオマ征伐に御いでになって、
国のため、またあなた方のお慰のために、
高いアルピの山をお越になって、
5070
晴やかな土地をお手に入れなさいました。殿様は先ず難有い上沓の裏に御接吻なさって、
御威勢の本になる権利をお受になって、
それからお冠を貰いにおいでになったとき、
一しょに坊様の帽子をも持ってお帰になった。
5075
そこでみんなが生れ変ったようになった。誰でも世渡上手なものは、その帽子を
頭から頸まですっぽり被る。
すると見掛は気の違った阿房のようで、
その帽子の蔭では、どんなにえらくでも
5080
なっていられる。あれ、もうそこらに寄って、浮足をして分れたり、睦ましげに組んだり、
群の跡に群が続いて来るのが見えます。
機嫌を悪くしないで、出たり這入ったりなさい。
何をしたところで、せぬ前もした後も同じ事、
5085
百千の馬鹿げた事を包んでいるこの世界は一人の大きな馬鹿ものに相違ありませぬ。
庭作の女等
(マンドラの伴奏にて歌ふ。)
われ等若きフィレンチェの女等は、君達に愛ではやされむと、
今宵皆粧ひて、ドイツの宮居の
5090
御栄を追ひて来ぬ。この褐色の渦巻ける髪を
くさ/″\の晴やかなる花もて飾れり。
さて絹の糸、絹の絮、おのがじし
美しさを助くる料となれり。
5095
なぞとや仰する。われ等はそを功ありとし、褒めます値ありと思へり。
わら等が造りなせる、このかゞやく花は
四つの時絶間なく咲きへり。
いろ/\に染めたる紙の小切に
5100
向き合ひて所を得させたれば、一つ/″\をば笑止とも見たまはむ。
すべてには心引かれ給ふべし。
われ等庭作の女等も
愛でたく、人懐かしげには見えずや。
5105
なぞとや仰する。女子の生れながらのさま見れば、手わざに似たれば。
先触
その頭の上に載せている籠や、手から
五色を食み出させて提げている籠に
盛り上げてある豊かな品物を見せるが好い。
5110
そして皆さんが気に入ったのを取りなさるが好い。皆が取って、急いでこの仮屋の道を
花園に紛れるようになさるが好い。
売手も品物も、賑やかに
取り巻いてお遣なさるだけの値打はあります。
5115
庭作の女等さあ、お値段をお附なさいまし。
ですけれど、市場の商ではございませんよ。
お取になる花一つごとに、それがなんの
花だと云う、面白い詞を添えて上げます。
実れる月桂の枝
わたくしはどんな花でも妬みませぬ。
5120
なんの喧嘩も避けまする。それは性に合わないからでございます。
その性と申すのは、もと野山の魂で、
間違のどうしても出来ないように、
その土地々々の睦の印になっています。
5125
どうぞきょうのお祭には、似つかわしい、美しい髪に載せてお貰申しとうございます。
穂の飾(黄金色。)
あなた方をお飾申す、このケレスの賜は
さぞ優しげに、愛らしくお似合なさいましょう。
用に立つので、一番願わしいこれが、
5130
あなた方のお飾としては美しゅうございましょう。意匠の輪飾
苔の中から咲かせてある、葵のような、
はでな花は不思議な輪ではありませんか。
自然には常に無い物をも、
流行は生み出します。
5135
意匠の花束わたくしに名を附けることは、植物にお精しい
テオフラストさんも御遠慮なさいましょう。
ですけれど、皆さんのお気に入らないまでも、
どなたかには好かれようかと存じます。
そうした方のお目に留まりとうございます。
5140
どうぞ髪にお編み込み下さいまし。どうぞわたくしがお胸の中に
所を得ますようにお極下さいまし。
勧誘の詞
その日その日の流行に
意匠の花は咲くが好い。
5145
自然にかつて無いような、不思議な姿をするが好い。
茎は緑に、弔鐘形の花黄金色。
それが豊かな髪の中から見えるが好い。
ですけれど、わたくしども
薔薇の莟
は隠れています。
5150
それをちょっとお見附なさる方はお為合です。夏のおとないが知れて、
薔薇の莟に火が附く時、この為合が
なくて好いとは、どなたも仰ゃりますまい。
誓いますこと、またそれを果しますことが、
5155
花の国では一様に目をも胸をも魂をも支配するのでございます。
(仮屋の屋根の下なる緑の道にて、庭作の女等美しく品物を飾り立つ。)
庭作等
(テオルベの伴奏にて歌ふ。)
見給え。花は静かに生い出でて、美しく君達の髪を飾るを。
木実は誘うものならず。
5160
ただ味いて楽み給え。桜の実、山桃の実、大いなる李の実、
皆褐色の顔を見せたり。
ただ召せ。と舌とにあらぬ目は
え堪えじ、よしあし定むる官たるに。
5165
来ませ。楽みて、味いて、もとも好く熟みたる木実食うべに。
薔薇をこそ詩にも作れ
林檎をば噬までやわ。
おん身等のその豊かなる若き群に、
5170
われ等の伴うを許せ。隣にて、この熟みたる木実の
さわなるを、われ等も積み飾らん。
飾りたる仮屋の隅に、
面白き編物の下に、
5175
あらゆる物皆備れり。芽あり、葉あり、花あり、実あり。
(ギタルラとテオルベの伴奏にて、かたみがはりに歌ひかはす歌と共に、二つの群は貨物を段々に高く積み飾り、客を待つ。)
母と娘と。
母嬢や。お前が生れた時ね、
帽子を被せて遣りましたが、
顔はほんとに可哀くて
5180
体はほんとにきゃしゃでしたよ。その時もうお婿さんが極まったように、
大したお金のある内へ行くことになったように、
もうおよめさんになったように思いましたよ。
それにもう何年か
5185
無駄に過ぎましたね。お貰になりそうな、いろいろな方々が
ずんずん通り過ぎておしまいなさった。
あるお方とはすばしこくお踊だったし、
あるお方には目立たない相図を
5190
肘でおしだったね。いろいろな催もあったけれど
これまで駄目であったのだよ。
質の遊も鬼ごっこも、
皆役には立たなかったのだよ。
5195
きょうは皆さんが阿房になっておいでになるから、お前襟を開けていて御覧。どなたか
お取止申すことが出来るかも知れぬからね。
(若き、美しき女友達来てこれに加はり、親しげなる会話聞えはじむ。漁者と鳥さしと数人、網、釣竿、黐竿、その他の道具を持ちて登場し、少女等の間に交る。此等互に相挑み、相捉へ、逃れんとし、留めんとし、その動作極めて快き会話の機会を生ず。)
樵者
(粗笨に、躁急に登場。)
避けた。避けた。場所がいるのだ。
5200
わたしどもは木を伐るのだ。その木はめりめり云って倒れる。
それをかついで行くときは、
そこらじゅうへ衝き当たる。
自分の手柄を言うようだが、
5205
これだけは御合点を願いたい。荒っぽい奴も
土地で働かんでは、
どんなに智慧を出したって、
上品な人ばっかりが
5210
どうして立ち行きましょうぞ。御合点の願いたいのはここだ。
こっちとらが汗を掻かなんだら、
あなた方は凍えましょう。
道化方
(手づつに、ほとんどをさなく。)
あなた方は馬鹿だ。5215
腰を屈めて生れなすった。わたしどもは利口だ。
重荷を背負ったことはない。
鳥打帽子も
ジャケツも襤褸著も
5220
身軽な支度だ。わたしどもは気持好く、
いつもなまけて、
上沓ばきで、
市場へも人込へも
5225
駆け込んで、物見高く立ち止まって、
お互にどなり合います。
さてその声が聞えると、
どんなに人が籠んだ中でも、
5230
鰻のように摩り脱けて、一しょになって跳ね廻り、
一しょになってあばれます。
お褒なさっても、
悪口を仰ゃっても、
5235
御尤だと申します。寄生虫
(諛ふ如く、物欲しげに。)
お前方、元気な、真木を背負った男や、御親類の
炭焼の男は
こっちの用に立つ人達だ。
5240
全体腰を曲げたり、竪にかぶりを振ったり、
紆余曲折の文句を言ったり、
人の感じよう次第で
暖めも冷ましもする
5245
二重の息を嘘き掛けたりするこんな面倒がなんになると思う。
それは天からだって
大した火が
来ることもあるだろうが、
5250
竈の広さだけかっかと燃え立たせる
真木や炭の荷が
なくては済まぬ。
そこで燔けている。沸いている。
5255
烹えている。渦巻いている。ほんとに味の分かる男は、
皿までも舐める男は
燔ける肉を嗅ぎ附ける。
肴のあるのを見ずに知る。
5260
そこでお出入先の食卓で手柄をする気が出て来るのだ。
酔人
(正気を失ひゐる。)
どうぞきょう己達にあらがってくれるな。なんだか自由自在な心持がしているのだ。
涼しい風や気の晴れる歌も
5265
己達が持って来て遣ったのだ。そこで己は飲むよ。飲むよ。飲むよ。
杯を一つ打っ附けよう。ちりん。ちりん。
おい。そこの背後にいる先生。出ておいで。
ちりんと遣るのだ。それで好い。
5270
かかあ奴がおこってどなって、立派な上衣を皺にしおった。
どんなにこっちで息張っても、仮装の衣裳を
掛けて置く台だと云って冷かしおった。
それでも己は飲むよ。飲むよ。飲むよ。
5275
打っ附けて鳴らして見よう。ちりん。ちりん。衣裳の台の仲間同士で杯を打っ附けよう。
音がしたなら、それで好い。
己が迷子になっているのだなんぞと云うなよ。
己は己の気持の好い所にいるのだ。
5280
亭主が貸さないと云やあ、上さんが貸さあ。どっちもいけなくなったって、女中だって貸さあ。
いつだって己は飲むよ。飲むよ。飲むよ。
一しょに飲め、飲め。ちりん。ちりん。
順送に打っ附けよう。ずっと先まで。
5285
皆遣ってくれるぞ。それで好いようだ。どうして、どこで己が楽んだって、
そうさせてくれて好いじゃないか。
どうぞ己の寝た所に寝させて置いてくれ。
もうそろそろ立っているのがいやになって来る。
5290
合唱する群誰も彼も飲め、飲め。さあ、頼むよ、
ちりん、ちりんの演説を。
腰掛の木の切に、しっかり腰を据えていろ。
机の下へころがった男はそれでおしまいだ。
先触種々の詩人等を紹介す。自然詩人、宮廷詩人、騎士詩人、温柔詩人、感奮詩人あり。皆自ら薦むるに急にして押し合ひ、一人も朗読の機会を得ずして已む。一人ありて短き句を唱へて、抜足しつゝ過ぎ去る。
諷刺
心より詩人わが
5295
喜ばむことを君知るや。一人だに聞くことを
願はぬ詞を歌はしめよ。
(夜の詩人と冢穴の詩人とはことわりの使をおこせたり。そは屍の血を吸ふワムピイルの纔に墓中より出でたるに会ひて、興ある対話をなす最中なるが故なり。この対話に本づきて、あるいは詩の一新体の発展し来らむも知るべからずとなり。先触已むことを得ず、このことわりを認容して、さて希臘神話を呼び出せり。今様の仮面を被りたれど、希臘神話はその特性をも興味をも損ふことなし。)
なさけの三女神グラチエ。
映の神アグライア人の世に優しさをわれはもたらす。
優しさを物贈る手に籠め給へ。
5300
引率る神ヘゲモネ優しさを物受くる手に籠め給へ。
願ふことへるはめでたからずや。
楽の神エウフロシネ
平にあらん日の限、
礼申すにも優しかれ。
運命の三女神パルチェエ
避くべからざる神アトロポス最も老いたるわれ、こたび
5305
糸引く人に傭はれぬ。細き命の糸引けば、
物思ふこと多きかな。
しなやかなるが得まほしく、
いと善き麻をわれ縒りぬ。
5310
筋筋善く揃ひ、滑り好かれと、賢しき指もて、われ縒りぬ。
宴にまれ、踊にまれ、
その矩を越えむとき、
糸の限を思へかし。
5315
心せよ、切れやせむ。糸縒る神クロト
汝達知れりや。きのふけふ
剪刀は我手にわたされぬ。
そは老人の振舞に
飽かぬ節々あればなり。
5320
何の甲斐あらじと思ふ幾筋を、風のむた、照る日のもとに、曳き延へぬ。
得ることのさはにあるべき望の糸を、
断ち切りて奥津城の底深く墜しつ。
されどわが若きすさびもしどけなく、
5325
あやまちて断ちし糸百筋ありき。いちはやきこの手をけふは控へんと、
剪刀をば嚢に入れてわれ持てり。
かくてわれいましめに安んじをりて、
この場をあはれみの目もて見わたす。
5330
ゆるされたる日汝達は戯れ遊べ、いつまでも。
糸分くる女ラヘシス
心得て過たぬわれひとり
筋々の序する業を守れり。
つねに醒めたるわれならば、
5335
慌ただしさの咎はなし。来る糸をに巻き
それ/″\の道に遣る。
一筋も逸れさせじ。
輪のなりに寄りて来よ。
5340
われ一日心ゆるさば、いかにかはなりぬべき、心もとなき世の中は。
われ日を計り、年を計りて、
服部手に取る糸一束。
先触
皆さん、どんなに古い書物にお精しくても、
5345
こん度来るものはお分かりになりますまい。随分悪い事をしでかす女共ではありますが、
御覧になるには、好いお客様でございましょう。
怒の女神でございます。だとお思なさるでしょう。
愛らしくて恰好が好くて優しくて年が若い。
5350
附き合って御覧になると分かりますが、どんなにかあの鳩が蛇のように噬むでしょう。
一体陰険な奴ですが、きょうは誰でも
阿房になって、あらを手柄にする日なので、
あいつ等も天使としての名聞を思わずに、
5355
都や鄙の厄介ものと名告って出ています。
怒の三女神フリエユ。
かつて休まぬ神アレクトオどうせ諦めてわたし共におたよりなさらなくては。
こんなに綺麗で、若くて、小猫のようにあまえますもの。
あなた方男の方の中で好いた女のおありなさる方には、
わたしがじゃれ附いて、耳の後をくすぐって上げます。
5360
そしてお心安くなって、目と目を見合せてこう云います。「あの女はあなたの外に誰さんにも愛敬を
振り蒔きますよ。頭は馬鹿で、背中は曲って、その上
跛で、奥さんになさるお積なら駄目」と云います。
そんな風に女の方へも水を指します。
5365
「二三週間前でしたが、あの方はあの女にあなたの事を下げすんで話していてよ」などと
云うのです。仲直りをしても、何かしら残ります。
不親切の神メガイラ
そんな事は笑談です。婚礼をしてしまうと、
わたしが引き受けて、どんな場合にも
5370
極美しい幸福を気紛でまずくします。一体人は変るもので、時によって変ります。
それで誰一人願って得たものを手にしっかり持って
いないで、慣れてしまった一番大きい幸福を忘れて、
おろかにもそれより願わしいものにあこがれます。
5375
凍えて煖まろうとして、日を跡に逃げるのです。そう云う人の扱をわたしは一切心得ていて、
好い折に禍の種を蒔かせるように、夫婦中の
悪魔と云う、お馴染のアスモジを連れて来て、
二人ずつになっている人間を腐らせます。
5380
復讐の神チシフォネ二心のある人を害する蔭言の代に、わたしは
毒を調合したり、匕首を研いだりします。
余所の女に気を移した方は、早かれ遅かれ
お体に毒が廻るようにいたします。
そういたすと、ちょいとした間の甘いお楽が、
5385
泡立つ毒、苦い胆の汁になります。そこには掛値もなければ、負けることもありません。
お犯しなすった罪だけは、お償なさらなくてはなりません。
免除のなんのと云うことを仰ゃいますな。
わたしの訴は岩に向いていたします。
5390
お聞なさい。すぐに谺響が報の答をします。女をお取換なすった方のお命はありません。
先触
どうぞ、皆さん、少し脇へお寄なすって下さい。
今ここへ来るのは並の物ではありません。
御覧の通、山が一つ押し寄せて来ます。
5395
彩った毛氈が、誇らしげに腋に掛けてある。頭から長い歯や蛇のような鼻が出ている。
なんだか秘密らしい物ですが、お分かりになるように、
鍵を見せて上げましょう。項には優しい女が
乗っていて、小さい鞭で巧者に使っています。
5400
今一人上に立っている、立派な、上品な女は、毫光がさしているので、羞明くてなりません。
傍をやはり上品な女達が縛られて歩いて来ます。
一人はせつなげな、一人は嬉しげな目をしている。
一人は自由を求めていて、一人はそれを得ている。
5405
さあ、一人々々自分の身の上を明して貰おう。恐
薫る続松、油の火、蝋の火微かに
入り乱れたる祭の群を照せり。
この幻の姿の中に、あはれ、
鎖は我を繋げり。
5410
退け。見苦しき、笑ふ人々。その崩れたる顔のさまこそ怪しけれ。
我を謀らんとする人等皆
今宵我に迫り来とおぼし。
見よ。あれは仇となれる身方の一人なり。
5415
あの仮面をばわれ知れり。またあの男は我を殺さんとしつるなり。
われに見知られて、今逃げ去らむとす。
あはれ、いづ方へまれ逃れて、
世の中に隠れ避けばや。
5420
されどかなたよりは死の我を嚇すあり。我は猶烟と恐との中に捕はれてあり。
望
わが礼申すを受け給へ。女の友等。
きのふけふこそ、おん身等皆
姿を変へて楽み給はめ。
5425
あすは必ず仮の装を解き給はん。
松の火の照らす下は、
わきて楽しとおもはねど、
晴やかなる日の昼に、
5430
おのがじし心のまにま、あるはひとり、あるは打ち群れて、
美しき野をそゞろありきし、
せまほしき事して、疲れて憩ひ、
憂を知らで日をくらし、
5435
よろづ事足り、つねにいそしみ、いづくへも、まらうどと
迎へられて行かばや。さらば
いづくにてか、最も善きものを
見出ださでやはあるべき。
5440
智人の世の大いなる仇二つあり。
そは望と恐となり。われそを繋ぎて、
御身等の群に近づかしめず。
道を開け給へ。御身等は救はれたり。
塔負へる、活ける大いなる獣を、
5445
見給へ、われは牽きて行けり。獣は険しき道をば厭はで、
一足づつ進み行けり。
塔の上にはしなやかに羽搏つ、
広き翼ある女神いまして、
5450
いづ方へも向きて、幸を授け給へり。
女神の身のめぐりには光ありて、
遠く四方を照せり。
人の世のあらゆる業の女神として、
5455
勝利の神と名告らせ給へり。テルシテス、ツォイロスの合体
いやはや。己は丁度好い所へ来たぞ。
お前さん方は皆悪いから、小言を言わねばならん。
だが、その中で己の目星を附けているのは、
あの上にいなさる勝利の神さまだ。
5460
あんな真っ白な羽を背負って、鷲かなんかのような積でいて、四方八方、
自分が顔を向けさえすりゃあ、土地も人間も、
我物になると思っていなさるのだろう。
ところで、どこで誰が誉められて幅が利くのでも、
5465
己はすぐに癪に障ってならないのだ。なんでも低い奴を持ち上げて、高い奴を
押し落して、曲ったのを直な、直なのを曲ったと
云うことにしなくては、己の虫が承知しない。
己は世の中の事をそうあらせたいのだ。
5470
先触こら。やくざ狗奴。正義の杖の
誉ある一打を食え。打たれてすぐに
背中を曲げて、のた打ち廻るが好い。
はあ。一寸坊の二人寄って出来た片羽者奴が、
見る見る胸の悪い塊になりおるな。
5475
や。不思議だ。塊が卵になる。そいつが膨れ上がって、二つにはじける。
中から飛び出す二匹の獣は、
獺と蝙蝠じゃないか。
獺は塵芥の中を這い廻って、
5480
蝙蝠の黒い奴は天井へ飛び上がりおる。はあ。一しょになって外へ逃げ出しおる。
あの三匹目の仲間には、己はなりたくないなあ。
耳語
さあ。奥ではもう踊っていますぜ。○いや。わたしは
もう帰ってしまっていたらと思っています。○
5485
そろそろ怪しい物共がはびこって来て、我々の周囲を取り巻くのが分かりませんか。○
髪の毛の上をしゅうと云って通りますぜ。○
なんだか足にちょっと障ったようです。○
誰も怪我はしやしません。○
5490
でもみんな気味を悪がっています。○もう慰はすっかり駄目になりました。○
畜生奴等がこうしようと思ってしたのです。
先触
わたしは仮装の会で
先触の役を仰せ附けられてから、
5495
御門で真面目に見張っていて、この慰の場所へ、あなた方に禍を及ぼすものが
忍び込む事のないようにしています。
わたしはぐら附きもせねば、怪しい物を
避けて通しもしません。しかし窓から空を飛ぶ
5500
化物が這入るかも知れません。あなた方の魔法にお掛かりになるのを、
防いでお上申すことは出来ません。
なるほどあの一寸坊も少し怪しゅうございましたが、あれ、
あの奥の方からもまたどやどや遣って来ますね。
5505
あいつらがなんだと云うことは、役目ですから、説明をしてお上申しましょう。
しかし理解の出来ない事は、
説明も出来兼ねます。
皆さんに教えて戴きたいものです。
5510
御覧なさい。あの人の中を遣って来るものを。四頭立の立派な竜の車が
どこでも構わずに通って来ます。
そのくせ人を押し分ける様子はなくて、
どこにもひどい混雑は起りませんね。
5515
丁度幻燈でもしているように、遠い所でぴかぴかしている。色々の星が
迷い歩いて光っている。や。竜の車の竜が
鼻を鳴らして駆けて来る。道をお開なさい。
わたしも気味が悪い。
童形の馭者
止まれ。
5520
竜ども。少し羽を休めい。己の馴れたが応えぬか。己がお前達を
制するから、お前達も自分の体を制するが好い。
そして己が励ますとき、また走って行け。
この場所で粗忽があってはならないのだ。
5525
それ、そこらを見廻せ。お前達を感心して御覧になる方々が、幾重にも圏をかいていなさる。
さあ。先触の先生。あなたのお流義で、
わたしどもの奔り抜けてしまわないうちに、
わたしどもの名を指して、講釈をなすって下さい。
5530
御如才はありますまいが、わたしどもはアレゴリアです。象形です。
先触
お前さん方の名を言うことは出来ないが、
見た所を説明することなら出来るでしょう。
童形の馭者
さあ。遣って御覧なさい。
先触
さよう。どう云おうか。
5535
先ず、お前さんは美少年だ。だが、まだ一人前にはなっていません。御婦人方は
お前さんが立派な男になった所が見たいでしょう。
どうも見受ける所が、お前さんは数奇者になって、
女を迷わすには持って来いと云う様子だ。
5540
童形の馭者その辺は可なり受け取れますね。跡はどうです。
面白い謎の詞どもは見附かりませんか。
先触
目から黒い稲妻が出ている。髪の毛の闇夜に、
宝石で飾った紐が、晴やかな趣を添えている。
そしてその肩から踵まで垂れている、
5545
濃い紫の縁を取った、宝石の飾のある上衣は、なんと云う美しい著物だろう。
意地悪く出れば、女のようだとも云いたくなるが、
なんのかのとは云うものの、今でもお前さんは
もう娘子達には好かれていますね。
5550
恋のいろはを教えてくれたでしょうね。童形の馭者
そこでこの車の上に座を占めておいでになる、
お立派な方をどなただと思うのですか。
先触
どうしてもお国が富んでいる、仁徳をお敷になる
王様と見えますね。御寵遇を受けるものは
5555
為合でしょう。王様には此上のお望はなく、どこかで何かが足りなくはないかと、捜すように
見渡して、人に物を遣る浄い楽を、
我富よりも幸よりも尊んでいられるでしょう。
童形の馭者
まだその辺で止めては行けません。
5560
もっと精しく説明なさらなくては。先触
どうも威厳は説明がせられませんな。
しかし月のようなお顔はお丈夫そうで、
脣はふっくりとして、血色の好い頬は
冠の飾の下にかがやいている。襞のある
5565
お召物を召した所が、お気持が好さそうだ。行儀作法はなんと申して好いか。王者のお身で
あって見れば、申すまでもありますまい。
童形の馭者
これは富の神と名に呼ばれておいでになる、
プルツス様が荘厳を尽してお現になったのだ。
5570
この国の帝が切にお願なされたので。先触
そしてお前は誰で何をしなさるのか。
童形の馭者
わたしですか。わたしは物を散ずる力だ。詩だ。
自分の一番大事な占有物を蒔き散らして、
そして自分の器を成す詩人だ。
5575
わたしも無限の富を有している。自分で値踏をして、プルツス様に負けぬ積だ。
富の神の饗応や舞踏を飾って賑やかにして、
神の持っておられぬ物を、わたしが蒔き散らします。
先触
なるほど。その自慢話はお前さんの柄にある。
5580
しかし腕前が見せて貰いたいものですね。童形の馭者
さあ、御覧なさい。ここでわたしが指をこう弾く。
するともう車の周囲でぴかぴか光って来る。
それ、そこから真珠を繋いだ緒が出て来た。
(指を弾くことを停めず。)
さあ、お取なさい。金の耳飾に頸飾だ。5585
瑕のない櫛に冠だ。指環に嵌めたすばらしい宝石だ。
どうかすると、ちょっとした火も出します。
どこかへ燃え附かせて遣る積で。
先触
はあ。あのおお勢が争って拾っていること。
5590
これでは蒔く人が押し潰されそうだ。夢を勝手に見させるように、指で宝を
弾き出すのを、みんなはこの広場一ぱいになって、
拾い廻っている。や。新しい手を出したな。
誰かが急いで手に取ると、
5595
取った物が飛んで行く。これはほんの無駄骨折だ。
真珠を繋いだ緒は解けて、
手にはかなぶんぶんがむずむずしている。
や。可哀そうに。棄ておった。棄てた虫が
5600
頭のまわりを飛び廻っている。外の奴は実のある物を拾う積で、
軽はずみな蝶々を攫まえおる。
横著小僧奴、前触だけが大きくて、
ただ金いろに光る物を蒔きおったな。
5605
童形の馭者見受ける所、お前さんは仮装だけの事は
披露してくれなさるが、殻を割って実を見せるのは、
宮仕をする先触の為事ではないと見えますね。
それにはもっと鋭い目がいる。
だが、喧嘩にはわたしはしない。
5610
さて、王様、わたくしはあなたに伺います。
(プルツスに向きて。)
あなたはわたくしにこの四頭曳の竜の車をお任になったではありませんか。
思召どおりに旨く馭しましたでしょう。
お望の場所に来ていますでしょう。
5615
大胆な翼を振って、あなたのために成功の棕櫚を取りましたでしょう。
あなたのために働いた度ごとに、
これまで成功しなかったことはありません。
そこであなたの額を月桂冠[#「月桂冠」は底本では「月柱冠」]が飾るなら、
5620
それを編んだのはわたくしの心と手とでしょう。富の神プルツス
うん。己に証明をして貰いたいと云うなら、
己は喜んでこう云って遣る。「己の心を獲た奴だ。」
お前は己の意図のとおりに働く。
お前は己より富んでいる。
5625
功を賞してお前に遣る緑の枝は、あらゆる己の冠よりも尊いのだ。
己は皆に聞えるように、本当の事を言う。
「愛する我子よ。お前は己の気に入っている。」
童形の馭者(群集に。)
皆さん御覧。わたしの手で蒔かれるだけの
5630
最大の宝をわたしは蒔いた。そこここの皆さんの頭の上に、
わたしの附けた火が燃えています。
一人の頭から余所の頭へ飛ぶのもある。
あの人には止まっても、この人からは飛んで退く。
5635
稀にはぱっと燃え立って、短い盛の光を見せる。
だが大抵はその人の知らぬ間に、
悲しく燃えて消えるのです。
女等の耳語
あの四頭立の竜の車に乗っているのは、
5640
あれはきっと山師よ。あの背後にしゃがんでいる道化役を御覧。
ついぞ見た事のない程、
糧饑て痩せていますでしょう。
きっとつねっても覚えない位よ。
5645
痩せたる人胸の悪い女ども。寄るな、寄るな。
己はいつ来てもお前達の気には入らないのだ。
まだ女と云うものが竈の前にいた頃には、
己の名はアワリチアだった。倹約だった。
その頃は家の工面が好かったよ。
5650
なるたけ多く取り込んで、外へはちっとも出さない。己は箪笥長持の中実を気にした。
それが悪い道楽だったとでも云うのかい。
ところが近年になって見ると、
女は倹約なんぞはしなくなって、
5655
悪い買手と同じように、欲しい物が金より多い。
そこで亭主の難儀は一通でない。
どっちへ向いても借財だらけだ。
女は引っ手繰られるだけ引っ手繰って、
5660
著物にする。好いた男に遣る。前より旨い物を食う。世辞たらたらの
男連中と、食うより一層余計飲む。
そこで己は金が前より好になった。
己はもう倹約ではなくって、吝嗇だ。
5665
女の頭お前のような毒竜は、毒竜仲間で
けちにしていなさるが好い。詰まりまやかしだ。
そうでなくても、男は扱いにくくなっているのに、
こいつは男をおだてに来たのだよ。
群をなせる女等
あの藁のような男に上沓をお遣。
5670
磔柱がなんの威になるものか。あいつの面をこわがれと云うのでしょうか。
竜は竜でも、木に紙を貼った竜だわ。
さあ、行って退治て遣りましょう。
先触
東西々々。己はこの杖に掛けて取り鎮める。
5675
や。己が手を出すまでもないな。皆さん御覧なさい。あの恐ろしい獣が
瞬く隙に周囲の人を撥ね飛ばして、
前後二対の羽を拡げました。
鱗で囲んだ、火を噴く口を、
5680
竜奴、おこってぱくつかせおる。人は皆逃げてしまって、場は開きました。
(プルツス車を下る。)
おや車をお降になる。なんと云う御様子でしょう。相図をなさると竜が動く。
櫃を車から卸して
5685
金と吝嗇と一しょに舁いて来る。あのお方の足の下に据えて置く。
どうして置いたか、不思議ですね。
富の神(馭者に。)
これでお前はうるさい重荷を卸した。
お前は自由自在の身だ。さあ、自分の世界へ往け。
5690
ここはお前の世界ではない。乱れて、交って、荒々しく、醜い物共が己達を取り巻いている。
あのお前が澄み渡った空を見渡す所、
自分を自由にして、自分だけを信用している所、
善と美とだけが気に入る所、
5695
あの寂しい所へ往け。あそこで自分の世界を作れ。童形の馭者
そんならわたくしは難有いお使の積で参ります。
そしてあなたを近い親類のように敬っていましょう。
あなたのいらっしゃる所には富有がある。
わたくしのいる所の人は大した利益を得た気でいる。
5700
中にはむずかしい境界に迷うものもあります。あなたに附こうか、わたしに附こうかと云うのですね。
あなたに附けば、勿論遊んでいられる。
わたくしに附けば、いつも為事をしなくてはならん。
わたくしはどこでも隠れて働きなんぞはしません。
5705
ちょっと息をすると、人がすぐに勘付きます。どれ、お暇をいたしましょう。楽をさせて戴きますが、
小声で一寸お呼になると、すぐ帰って参ります。
富の神
さあ、これで宝の縛を解く時が来た。
錠前は先触殿の杖を借りて開けよう。
5710
それ、開いた。皆見るが好い。黒金の縛は解けて、黄金の血が湧き立つ。
真っ先に出るのは、冠、鎖、指環の飾だ。
しかし次第に盛り上がって、自分をとろかして埋めようとする。
交互に叫ぶ群集
あれ見ろ。そこにもここにも沢山に涌いて出て、
5715
櫃の縁まで盛り上がって来るじゃないか。○金の瓶がとろける。
繋がった貨幣がのた打ち廻る。○鋳型から
飛び出すようにズウカスの金貨の跳るのを見ると、
己の胸はわくわくする。○
5720
己の欲しい程の物が皆目に見えている。あれ、地の上をころころ転がって来おる。○
己達にくれるのだ。すぐに利用するが好い。
皆しゃがんで取って、金持になろうじゃないか。○
己達の方ではいっその事、電光石火の早業で、
5725
あの櫃をそっくり取るとしよう。先触
それはなんたる事だ。馬鹿な人達だ。どうするのだ。
仮装会の洒落ではないか。
今晩はもう方外の慾を出して貰いますまい。
お前さん方に金や宝を上げるのだと思うのですか。
5730
この遊山でお前さん方に上げるには、小銭にしろ、好過ぎるのだ。
馬鹿な人達だ。巧者な洒落がそのまま
野暮な真実でなくてはならんのですか。
真実が分かりますか。お前さん方はぼやけた
5735
迷の衣の、方々の隅を攫んで引いているのだ。仮装会の大立物の面被の富の神様。
この連中をこの場から追い出して下さらぬか。
富の神
お前さんのその杖はこう云う時の用意だろう。
ちょっとの間それを己に貸して貰おう。
5740
どれ、ちょいとそれを熾んな火に入れよう。さあ。仮装の連中御用心だぞ。
ぴかぴかぱちぱち火の子が飛ぶぞ。
杖はもうすっかり焼けているのだ。
誰でも傍へ寄るものは、
5745
容赦なしに焼かれるのだ。どれ、これを持って一廻しよう。
叫喚雑
やあ、溜まらん。己達は往生だ。○
逃げられるものは皆逃げろ。○
背後から押す先生。跡へ、跡へ。○
5750
己の顔はもう熱くなって来た。○己はあの焼けている杖の目方で圧されている。○
己達はもう皆助からないぜ。○
仮装連中、退いた、退いた。お先真っ暗で
うようよしている人達。退いた、退いた。○
5755
羽があると、己は飛んで逃げるがなあ。富の神
もう囲は押し戻された。己の考では、
火傷をしたものは一人もない積だ。
群集は跡へ引く。
もう追っ払われた。
5760
だがまた秩序の紊れぬ用心に、目に見えぬ鎖を引いて置こう。
先触
これは大した御成功でした。
旨く圧を利かせて下さって難有うございます。
富の神
いや。あなたはも少しこらえて見ていて下さい。
5765
まだいろいろな混雑が出来て来そうです。吝嗇
こうなればもう、好な程、
気楽にこの場のお客達を見ていられる。
やはり何か見るものや食うものがあると、
真っ先に出るのは、いつまでも女だな。
5770
己もまだ心までびてしまってはいない。別品はやっぱり別品だ。
きょうは別に物のいるわけでもないから、
己達も安心してからかいに行かれそうだ。
だがこんな人籠の場所では、言うことが
5775
皆誰の耳にも聞えると云うものでないから、一つ旨い事を験して見よう。多分旨く
行くだろう。為方話で分からせるのだ。
それも顔や手足だけでは間に合わない。
一狂言書かずばなるまい。
5780
一体金と云う金は何にでも化けるから、こいつを湿ったへな土のようにして見せよう。
先触
あの痩せた阿房は何を始めるのだろう。
あんな腹の耗った男に洒落気があるだろうか。
あいつは金を皆団子に捏ねている。
5785
それでも手が障ると軟になるのが妙だな。しかしどんなに潰しても、円めても、
やっぱりいかがわしい恰好をしているなあ。
やあ。女の方へ見せに行くぞ。
みんなきゃっきゃと云って、逃げようとして、
5790
随分見苦しい風をしおる。横著者奴、一とおりの奴ではないと見える。
どうもあれは風俗壊乱になる事をして、
面白がっているのではあるまいか。
そうだと、己が黙って見てはいられない。
5795
追っ払って遣りますから、その杖を下さい。富の神
今どんな事が外から起って来掛かっているか、
あいつは知らずにいるのだ。馬鹿をさせて
お置なさい。今に悪劇をする場所がなくなる。
法律の力は大きい。しかし困厄の力は一層大きい。
5800
唱歌雑山の高きより、森の低きより
暴るゝ群は今来たり。
防ぎ難き勢もて進めり。
パンの大神を祭れるなり。
誰一人知らぬ事を、彼人々は知れり。
5805
かくて空しき境に進み入るなり。富の神
己はお前達を知っている。パンの神も知っている。
お前達は団結して大胆な企を始めたのだな。
誰にでも分からぬ事をも、己は知っていて、
謙遜してこの狭い場所を明けて遣る。
5810
己はお前達の好運を祈る。これからはどんな不思議が現れるかも知れぬ。
あいつ等はどこへ歩いて這入るか知らないのだ。
用心なんぞはしていないのだ。
あらあらしき歌
やよ。粧へる群。上光する見せ物共。
5815
こなたは疾く馳せ、高く跳り、地鞴踏みとゞろかし、
あららかに、はららかしに来たり。
森の神等ファウニ
ファウニの群
面白く踊りて出づ。
5820
れたる髪にの葉の冠せり。
細き、尖れる耳
波立つ髪を抜け出でたり。
鼻低く、面広し。
5825
されどそは皆女には忌まれじ。手をさし伸ぶるファウヌスには
美しき限の女、舞を辞むことあらじ。
森の神サチロス
サチロスもまた跡に附きて跳り出づ。
痩せたる脛に山羊の足首附きたり。
5830
その脛は腱あらはに痩せたるが好し。そはシャンミイと云ふ獣のごと、
山々の巓を興がりて見巡らんためなり。
さて自由の風に心霽して、
かの烟罩め靄鎖せる谷間深く棲み、
5835
「我も生けり」とのどかに思へる男、女、穉子等を嘲み笑はんとす。
そはさながらに、物に礙げられずして、
かしこなる高き境の我物にのみなれればなり。
土の神等グノオメン
こゝに小走に馳せ出づる小さき群あり。
5840
対をなし、連れ立ちて行くことを忌めり。苔の衣著、明き火を持ち、
疾く馳せ違ひ、
一人々々離れて営せり。
赫く蟻の蠢く如し。
5845
縦に横に忙はしげに、かなたこなたといそしみまどへり。
人の家に出入する、まめやかなる侏儒の
近き族にて、山の医師として知られたり。
高き山に吸球掛け、
5850
満ちたる脈より汲み出せり。「幸あれ、幸あれ」と、勇ましく呼びて、
金堆く転がし出だせり。
こは素より世のためを思ひてなり。
われ等は善き人の友なり。
5855
さはれ惑はし盜ませんためにも、人多く殺すこと思ひ立てる、
心驕れる人に鋼持たせんためにも、
かの金をば世に出だすなり。
三つの戒を破らん程の人は、
5860
その外の戒をもないがしろにせざらむや。そは皆われ等の咎にはあらじ。されば
われ等の忍べるごと、おん身等も忍べかし。
巨人
荒男と名に呼ばれて、
ハルツの山にては知られたる物共なり。
5865
もとより裸にて、力強し。皆巨人の様して来れり。
右手に樅の木の杖持ち、
木の葉と小枝とを編める
粗き前垂掛け、太き紐を腰に纏へり。
5870
法王の許にはあらぬ衛の士なり。群なせる水の女
(パンの神を囲繞す。)
君も今来ませるよ。大いなるパンの神は
世界の万有に
象れる御姿なり。
5875
厳かなれど、情ある神にませば、人の遊び楽むを好み給ふ。
されば最も晴やかなる汝達取り巻きまつり、
奇しき舞を軽らかに舞ひめぐれかし。
青き穹窿の下にます時も、
5880
神は常に醒めておはす。されど小川は君が方へ流れ寄り、
軽き風は優しく君を休ませまつらんと吹けり。
真午時にまどろみ給へば、
木末の一葉だに動くことなし。
5885
すこやかなる草木の芳しき香は声もなく静かなる空に満ちたり。
その時は水の女もまめやかにあるべきならねば、
たま/\立てりし所にぞ寐る。
さてゆくりなく、君が御声
5890
鳴神の鳴るごと、渡津海のとよむごと、力強く鳴り響けば、
人皆奈何にせましと思ひ惑ひ、
戦の場にある猛き軍人の群も散け、
入り乱れたる人等の中に立てる英雄も慄ふ。
5895
されば敬ひまつらばや、敬ふべきこの神を、われ等をこゝへ牽て来ませるこの神を。
土の神等の代表者
(パンの神の許へ遣されたるもの。)
かの輝ける豊かなる宝は、糸引けるごと岩間に流れひろごりて、
たゞ宝を起す奇しき杖にのみ
5900
おのが迷路を示せり。その時われ等、土蜘の巣なす家を、
暗き岩間に営み起せり。
おん身は恵深くも宝の数々を
清き日影のさす所に分ち給ふ。
5905
さてわれ等近きわたりに驚くべき泉を見出でつ。
その泉かつて掛けても思はざりし宝を、
たはやすく涌き出でしめむとす。
この事はおん身能く為し遂げ給はむ。
5910
おん身の護の下に置かせ給へ。「いづれの宝もおん身の手にあれば、
あまねく世の中に用ゐられむ。」
富の神(先触に。)
これはお互に腹を大きくして考えんではならん。
そして出来て来る事は、出来て来させるが好い。
5915
一体あなたはえらい度胸のある人ではないか。この場で今恐ろしい事が出来て来るのだ。
現在の人も後の人も、だと言い消すだろうから、
あなたの記録にしっかり留めて置いて下さい。
先触
(富の神の猶手に持ちたる杖を握りて。)
一寸坊どもがパンの神様をそろそろと5920
火を噴く穴の傍へ連れて行きますね。深い底から高く涌き上がるかと見ると
またその底までずっと沈んでしまって、
穴の口が暗く開いている。
そうかと思うと、また真っ赤に烹え上がる。
5925
パンの神様は平気で立って、この不思議な有様を見て喜んでおられる。
真珠のような泡が左右へ飛ぶ。
どうして疑わずにこんな事をさせておられるだろう。
穴の中を見ようとして、低く身を屈められる。
5930
や。お髯が穴に落ち込んだ。あの綺麗に剃った腮はどなただろう。
お手で我々にお顔を隠しておられる。
や。大変な事になった。
髯に火が移って舞い上がって来る。
5935
被っておられる輪飾に、髪に、お胸に火が移る。歓楽去って憂愁来るというのがこれだ。
群集が消しに駆け附ける。
しかし誰一人を免れるものはない。
手に手に打っても叩いても、
5940
新しいが燃え立つばかりだ。火の中に入り乱れて、
仮装の一群は焼けてしまう。
や。口から耳へ囁き交して、
己に聞えて来るのは何事だ。
5945
まあ、なんと云う不幸な夜だろう。こんな歎を己達の上に齎すとは。
誰も聞きたく思わぬ事を、
あすの日は触れ散らすだろう。
兎に角所々で叫ぶ声が聞える。
5950
あの御難儀なさるのは「帝」だと。どうぞ本当でないと好いが。
帝とお側の方々が焼けておいでになる。
樹脂のある小枝で身をよろうて、
吠えるような歌いざまをして、
5955
一しょに滅びにおいでになるように、惑わし奉った奴は咀われておれ。
ああ。歓楽も度を踰えてはならぬと云う
戒を、若いもの共は所詮守ることは出来ないのか。
ああ、全能でおいでなさる通に、君主が
5960
全智でおいでなさることは所詮出来ないのか。もう火が木立に燃え移った。
尖ったの舌で舐めるように
木を結び合せた屋根へ燃え上がる。
仮屋全体の火事になりそうだ。
5965
不運はもう十二分だ。誰が己達を助けてくれるだろう。
さしも一時の盛を極めた、帝王の栄華は
一夜の灰燼になるだろうか。
富の神
もう恐怖も広がって好いだけは広がった。
5970
そろそろ救助に掛からせなくてはなるまい。大地が震い動き、鳴り響くように、
その神聖な杖を衝き立てて貰おう。
おい。そこの広々とした「空」に言うのだが、
一面に冷たいを漲らせい。
5975
水を含んで棚引いている霧を呼び寄せて、そこらへ漂わせて、
燃えている群集を覆って遣れ。
雲霧は流れて、ざわついて、渦巻いて、
漂いながら滑って、徐かに籠めて、
5980
そこでも、ここでも火を消しながら闘ってくれ。苦艱を緩める力のある、湿ったお前達は、
あの虚妄のの戯を、
熱くない稲妻に変ぜさせてくれ。
悪霊どもがわれ等を侵そうとする時には、
5985
魔法が験を見せなくてはならんのだ。
朝日。
帝と殿上人等とあり。ファウスト、メフィストフェレス上品にして目立たざる時様の粧をなし、二人皆跪けり。
ファウストそんならあの率爾な火の戯を御勘弁下さいますか。
帝
(二人を揮いて起立せしむ。)
ああ云う笑談は己は大好だ。突然火の真ん中にいるようになったから、
己は地獄の神のプルトンにでもなったかと思った。
5990
見れば暗黒と煤炭との中に、岩で出来た底が現れていて、そこに火が燃えていた。数千の
猛火はかしこ、ここの裂目から渦巻き上がって、
上の方で円天井のような形に出合っていた。
閃く火の舌で作られている、その絶頂は
5995
合って閉じるかと思えば、また離れて開いていた。よじれた柱の並んで立っている広間の中を、
人民が長い列を作って歩くのが見えた。
それが大きい圏をかいて、己に近づいて来て、
いつもの様に己を敬ってくれた。
6000
中には己の宮中のものも幾人か交っていた。己は数千の「火の霊」の君主のようであった。
メフィストフェレス
畏れながらあなたが実際そうでいらっしゃいます。
なぜと云うに四大悉く御威厳を認めていますから。
それで服従している火だけはお験になりましたが、
6005
今荒れられるだけ荒れている海に飛び込んで御覧なさい。真珠の多い水底をお踏になるや否や、
忽ち水が涌き立って、御身を中心にして、美しい
境が開ける。上っては下る、紫の縁を取った、
明るい緑の波が、自然にふくらんで、立派な
6010
御殿になる。どちらへ向いてお歩になってもその御殿は一足毎に附いて行く。
壁は皆活動している。矢を射るように早く、
入り乱れて動く。寄せたり返したりする。
新しい、優しい光を慕って、驚くべき海の化物が
6015
寄って来て、打っ附かるが、這入ることは出来ない。金の鱗の竜が波を彩って遊んでいる。
鮫の開いたを覗いてあなたはお笑なさる。
今でもお側にいる御殿のものは楽しく暮らして
いましょうが、海の底の人気は未曾有です。
6020
それでいて、一番お好なものに離れてはおいでなさらない。とわに爽かな、立派な御殿を、
物数奇なネレウスの娘どもが覗きに来る。
若いのはこわごわそっと来る。年上のは
横着に出掛ける。大姉えのテチスが嗅ぎ附ける。
6025
あなたを二代目のペレウスにして抱き着いてキスをする。それからオリンポス領の御座に。
帝
そんな虚空な領分はお前に任せて置く。
その玉座には厭でも早く即かれるのだ。
メフィストフェレス
それから土はもう占めておいでになります。
6030
帝千一夜の物語から、すぐに抜け出したような
お前がここに来たのは、実に為合だ。
あの宰相の娘のシェヘラツァデのように
お前も才に富んでいるなら、最上の褒美を遣ろう。
随分この現実世界は己の気に入らぬことが
6035
度々あるから、お前は己の召すのを待っていろ。中務卿(急ぎて登場。)
わたくしの心から嬉しく思いまする、
このお知らせのような、最上の幸福と申すべき
お知らせを、御前で喜んで奏聞いたすことが
わたくしの生涯にあろうとは存じませんでした。
6040
借財は皆片附けました。爪の鋭い高利貸どもも黙らせました。
わたくしは地獄の苦を免れました。天に上っても
こんな好い気持の事はありますまい。
兵部卿(続きて急ぎ登場。)
給料を割払にいたして遣しまして、
6045
全軍に新規に契約をいたさせました。槍兵どもは新しい血が循るような気になって、
酒保や女子どもまで福々でございます。
帝
お前方、楽に胸を開けて息をしているな。
皺の寄った顔まではればれしているな。
6050
それにひどく忙しそうに出て来おる。大府卿(恰もこの時登場しつゝ。)
どうぞこの為事をした、そこの二人にお尋下さい。
ファウスト
いや。それは尚書様から奏聞なさるが好い。
尚書(緩かに歩み近づく。)
長生をいたした甲斐に、嬉しい目に逢いました。
そんなら、あらゆる苦艱を歓楽に変えた、
6055
この大切な文書をお聞下さい、御覧下さい。
(朗読。)
「凡そ知らむことを願うものには、悉く知らしめよ。この一枚の紙幣は千クロオネンに通用す。
帝国領内に埋もれたる無量の宝を
これが担保となす。その宝は
6060
直ちに発掘して、兌換の用に供すべき準備整えり。」
帝
不届な、怪しからん詐欺をしたものがあるらしい。
ここにある己の親署は誰が贋せた。
こんな罪を犯したものが刑罰を免れたのか。
6065
大府卿それはあなたのお筆でございます。お覚が
あるはずです。つい昨晩でした。パンの神になって
いらっしゃる所へ、尚書がわたくし共と
一しょに参って、「この祭のお祝に、万民の
幸福になる件に、一筆お染下さるように」と
6070
申すと、お書なされたので、その夜の中に奇術を心得たものに申し附けて、
御慈愛が国中に行き渡るように、
わたくしどもが千万枚紙幣を刷らせました。
十、三十、五十、百クロオネンが別々に出来ました。
6075
人民の喜はどんなだか、御想像が出来ますまい。あの半死半生で、黴の生えたようであった
都を御覧なさい。皆生き上がって、楽んで
上を下へといたしています。これまでも世に
幸福をお与になったお名ですが、人がこん度程
6080
喜んでお名を見たことはありません。人が皆助かる、このお名の外の文字は不用になりました。
帝
そして人民は金貨の代に受け取るのか。
宮中や軍隊の給料の全額払が出来るのか。
そうだと、奇怪だと思うが、認めずばなるまい。
6085
大府卿受け取って走って行ったものを、支えることは
所詮出来ません。稲妻のように駆け散りました。
銀行の門口は為切がして開けてある。
無論手数料は取るが、一枚一枚
金銀貨と引き換えて遣っている。
6090
それを受け取って肉屋、パン屋、酒屋へ行く。なんでも世間の人間が半分は食奢、半分は
着奢に浮身を窶しているらしい。
商人は反物を切っている。為立屋は縫っている。
「帝王万歳」を唱えては、どこの穴蔵も景気好く、
6095
烹たり、焼いたり、皿をちゃらちゃら云わせています。メフィストフェレス
誰でも公園の階段あたりを散歩すると、
別品が立派にめかして、人を馬鹿にしたような
孔雀の羽で、片々の目が隠れるようにして
通るのを見るでしょう。それがわたくし共に笑顔を
6100
見せて、札に横目を使います。才智や弁説で口説くより、早く好い目が見られます。
もう誰も財布や蝦蟇口を邪魔がるには
及ばない。札一枚なら楽に懐中に入れられる。
色文と一しょに持つにも便利だ。
6105
坊主は難有そうに偈の本に挟んで持つ。兵隊は「廻れ右」が早く出来るように、
胴巻を軽くする。あなたのなすった
大事業が、下々の小さい所へどう響くかと
云う話が、下卑て来まして済みません。
6110
ファウストお国中で地の底深く動かずに、待っている
宝の有り余る数々は、用に立たずに
寝ています。どんな大きい計画も、
そう云う宝のためには、吝な埒になる。
空想を馳せられるだけ馳せさせて、
6115
努力を尽しても、至らぬ勝である。しかし深く物を察することの出来る達人は、
無際限なるものに無限に信を置きます。
メフィストフェレス
金銀珠玉の代になる、こう云う紙幣は
便利です。値を附けたり、両換したりせずに、
6120
持っているだけの物が分かる。酒と色とに浮かれたいだけ浮かれられる。そして硬貨が
欲しくなれば、両換屋が待っている。
そこになくなれば、ちょいとの間掘る。
出て来た杯や鎖を競売にして、
6125
すぐに紙幣を償却する。そして厚かましく悪口を言う、疑深い奴に恥を掻かせて遣る。
馴れてしまえば人は外の物を欲しがりはしない。
そうなれば、御領分の国々に
宝も、金銀も、札も有り余って来ます。
6130
帝いや。己の国はお蔭で大した福利を得た。
出来る事なら、功に譲らぬ賞が遣りたい。
領内の地の底はお前方に任せて置く。
お前方は宝の立派な番人だ。宝の蔵してある
広い場所を知っていることだから、
6135
掘る時はお前方の指図で掘らせる。宝の頭になっている二人が協力して、
下の世界が上の世界と、相呼応して
福利を致すような位置に立っている
この場合の役目を、楽んで勤めてくれい。
6140
大府卿この人達とわたくしは少しも喧嘩はしますまい。
魔法使を同役にするのは大好でございます。
(ファウストと共に退場。)
帝そこで御殿にいるものに、一人々々札を遣るが、
それをなんに使うか言って見い。
舎人(金を受く。)
面白く、可笑しく、のん気になって暮らします。
6145
他の舎人(同上。)すぐに女に鎖と指環を買って遣ります。
侍従(金を受く。)
これまでよりも倍旨い酒を買って飲みましょう。
他の侍従(同上。)
もうかくしの中の采の目がわたくしの手をむずむずさせます。
旗手(沈重に。)
質に入れた邸や田畑を受け出します。
他の旗手(同上。)
これまでの貯蓄の中へ、これもやはり入れて置きます。
6150
帝己は愉快に、大胆に新しい事でもするかと思った。
しかしお前達の人柄を知っていれば、大抵分かる。
それで己も分かったが、幾ら宝が悖って入っても、
お前達は本の杢阿弥だな。
阿房(進み出づ。)
下され物があるのなら、わたくしにも下さいまし。
6155
帝また生き戻った所で、飲んでしまうのかい。
阿房
この魔法の紙切はどうも好く分かりません。
帝
そうだろう。どうせろくな使いようはすまい。
阿房
また一枚落っこちました。これはどういたしましょう。
帝
お前の手に落ちたなら、お前が取って置くが好い。
6160
(退場。)
阿房やあ。五千クロオネン手に入った。
メフィストフェレス
二本足の酒袋奴。生き戻ったか。
阿房
これまで度々遣りましたが、今度が一番上出来です。
メフィストフェレス
額に汗を掻いて喜んでいるな。
阿房
ちょっと見て下さい。これが金に通用しますか。
6165
メフィストフェレスうん。お前の咽や腹の欲しがる物は皆買える。
阿房
では田地や家や牛馬も買えますか。
メフィストフェレス
知れた事だ。出しさえすれば、不自由はない。
阿房
では山林や猟場や生洲のある城もですか。
メフィストフェレス
無論だ。
お前がその城の殿様になった顔が見たいな。
6170
阿房はあ。今度は一つ大地主の夢でも見るか。(退場。)
メフィストフェレス(一人。)
これでも阿房に智慧がないと、誰か云うだろうか。
ファウスト。メフィストフェレス。
メフィストフェレスなぜこんな暗い廊下へ連れて来るのですか。
あの中で面白い事が足りないのですか。
いろんな人の押し合っている御殿の中で、
6175
洒落や目くらがしの種子がないのですか。ファウスト
そんな事を言ってくれるな。君は昔あんな事は
厭き厭きする程しているのだ。
それに今、あそこで往ったり来たりしているのは、
己の言うことに返事をすまいと云うのだ。
6180
己はしかし厭な事でもしなくてはならない。大府卿と主殿とで己をせつくのだ。
なんでもお上が、ヘレネとパリスとを目の前に
出して見せろ、すぐでなくてはならない、
男と女との模範をはっきり
6185
見たいのだと仰ゃるそうだ。すぐに掛かってくれ。己は違約は出来ないから。
メフィストフェレス
そんな約束を軽はずみにしたのがむちゃです。
ファウスト
それは君の術がどんな成行になると云うことを、
君が前以て考えなかったのが悪い。
6190
お上を金持にして上げたからには、慰がしたくなられるに極まっている。
メフィストフェレス
そんな事がすぐばつが合せられると、あなたは
思っていますね。クロオネンの紙の化物を
出すように、ヘレネが出されると思っていますね。
6195
所がわたし共は今嶮しい阪の下に立っています。非常な、縁遠い境界へ、あなたは手を出すのだ。
事に依ると、また新しい借金をしなくてはならない。
魔女や、化物や、変種の一寸坊なら、
なん時でも御用を仰せ附けられますが、
6200
棄てた物ではないとしても、悪魔の色女をグレシアの女だと云って連れ出しては通りません。
ファウスト
またいつものだらだら拍子のお講釈を聞くのか。
君を相手にすると、万事きっと曖昧な所へ落ちて行く。
君はあらゆる故障の親元だ。
6205
そして一帳場毎に褒美がいる。己は知っている。君がちょっと呪文を唱えると、出来るのだ。
背後を向いている隙に、すぐ連れて来られるのだ。
メフィストフェレス
いいえ。あんな異端の民にはわたしは関係しない。
あいつ等は別の地獄にすんでいるのだ。
6210
尤も手段はあります。ファウスト
それを聞こう、すぐに。
メフィストフェレス
実は極の深秘は言いたくないのです。寂しい所に
こうごうしく住んでいる女神達がある。
その境には空間もなければ時間もない。
その事を話すのは一体不可能なのだ。
6215
それは「母」達だ。ファウスト(驚く。)
母達か。
メフィストフェレス
身の毛が弥立ちますか。
ファウスト
母達、母達。なんと云う異様な名だろう。
メフィストフェレス
実際異様な連中ですよ。無常の人間に知られずに
隠れていて、わたし共も名を言いたくない神です。
その家へ往くには、あなたよほど深く摩り込むのです。
6220
そんな物に用が出来たのは、あなたのせいだ。ファウスト
そこへ往く道は。
メフィストフェレス
道はありません。歩いたもののない、
歩かれぬ道です。頼まれたことのない、頼みようのない所へ
往く道です。思い切って往きますか。
貫木や錠前を開けるのではない。
6225
あなたは寂しさに附き纏われます。一体寂しいと云うことが分かっていますか。
ファウスト
まあ、そんな言草は倹約したが好いかと思う。
ずっと前に出合った、
あの魔女の台所のがするようだ。
6230
これまでも己は世間に附き合って、空虚な事を習いもし、教えもしたではないか。
たまに己の目に映じたままを言うと、
人は却っていつもの倍やかましく反対したものだ。
己は厭な目に逢うのを避けて、
6235
寂しい山の中へ逃げさえした。それから丸で棄てられて、一人でいたくなさに、
悪魔に体を任せたじゃないか。
メフィストフェレス
しかし大洋に泳ぎ出して、その沖で
際限のない処を御覧になるとした所で、
6240
溺れて死ぬる懼を抱きながらも、波の立居は見られますね。兎に角何か
見られますね。凪いだ海の緑を穿つ
鯨のようなデルフィインも見えましょう。
雲のたたずまい、月日や星の光も見えましょう。
6245
それと違って、とわに空虚な遠い境にはなんにも見えません。自分の跫音も聞えません。
体を靠せて休むだけの固い物もありません。
ファウスト
昔から新参を騙し騙しした、魔法の師の中の
一番の先生のような話振をするね。
6250
ただあべこべだ。伎倆や力量を進めさせに、君は己を空虚の中へ遣る。
火の中に埋めてある栗を取りに遣られた、
あの猫のように、君は己を扱うのだ。
宜しい。一つその奥を窮めて見よう。
6255
君の謂う空虚の中に、己は万有を見出す積だ。メフィストフェレス
いや。お別をする前に褒めて上げます。
兎に角あなたは悪魔の腹を知っていますね。
さあこの鍵をお持なさい。
ファウスト
こんな小さな物をか。
メフィストフェレス
まあ、馬鹿にしないで、手にお取なさい。
6260
ファウストや。手に取れば大きくなる。光って来る。
メフィストフェレス
どんな貴重品が手に入ったか、分かりますかい。
その鍵が道を嗅ぎ附けて、あなたを連れて
母達の所へ行くのです。
ファウスト(戦慄す。)
母達の所へ。ああ、聞く度に身に応える。
6265
こんなに厭に聞えるのは、どうした詞だろう。メフィストフェレス
聞き慣れない詞を嫌う程、料簡が狭いのですか。
聞いた事のある詞ばかり聞いていたいのですか。
あなた位疾うから不思議に慣れていなさる以上、
これからどんな詞が聞えたって、平気でなくっては。
6270
ファウストいや。己だって凝り固まっている所に福を
求めはしない。戦慄は人生の最上の徳だ。
世間がどんなにあの感じをおっくうにしても、
人間はあれで非常な事を深く感ずるのだ。
メフィストフェレス
そんなら降りておいでなさい。升っておいでなさいと
6275
云っても好い。同じ事だ。既に生じているものに背を向けて、解き放されたものの世へおいでなさい。
もう疾っくに無くなっているものを見て
お楽なさい。雲の往来のように入り乱れた
事にお逢でしょう。そしたら鍵を揮ってお避なさい。
6280
ファウスト(感奮す。)宜しい。こう鍵を握ると、力が増して、
胸が拡がるように感じる。どりゃ、為事に掛かろうか。
メフィストフェレス
一番深い、深い底に届いたと云うことは、
焼けている五徳を御覧になると分かります。
その火の光で母達が見えるでしょう。その折々で
6285
据わっているのも、立ったり、歩いたりしているのもありましょう。所有る造られた物の象が
周囲に漂っている、創造、改造の神達で、
永遠なる意義を永遠に語っておられるのです。
神達には象しか見えないから、あなたは見えない。
6290
随分あぶない事ですが、腹を据えてずっと五徳の所へ往って、その鍵で五徳に障って
御覧なさい。
(ファウスト鍵を持ちて厳かに命ずる如き科をなす。メフィストフェレスそれを見て。)
それで好いのです。そうすると、五徳があなたの従者のように附いて来ます。
そして平気でお升なさると、機運が助けて、
6295
神達の心附かぬ間に、五徳を持って帰られます。旨く持ってお帰なさると、そんな為事を
大胆に始てなさったあなたの手で、例の
男と女とを夜の国からお呼になる事が出来ます。
出来た為事はあなたの功です。
6300
それからは五徳から立つ烟が、魔法の業で扱えば、神々に化けるのです。
ファウスト
そこで先ずどうするのか。
メフィストフェレス
下へ降りようとなさい。
力足を踏んで、段々降りて行くのです。
(ファウスト足踏して降り行く。)
鍵が旨く先生の用に立ってくれれば好いが。6305
この世へ戻って来られるか知らんて。
帝、諸侯、殿上人等動揺せり。
侍従(メフィストフェレスに。)まだ幽霊を出して見せるお約束があるのですぜ。
早くお始なさい。殿様がお待兼だ。
中務卿
今もお上がお尋があった。殿様のお顔にも
掛かる事だから、延び延びにしないで下さい。
6310
メフィストフェレスそのために仲間が行っているのですよ。
あの男がどうすれば好いか知っていて、
どこかへ籠ってこっそり働いているのです。
なかなか一通の骨折ではありません。
なぜと云うに、「美」と云う宝を持ち上げるには、
6315
最高の技術、哲人の秘法がいります。中務卿
それはどんな術をなさるとも勝手です。
お上はただ早く遣って貰いたいと仰ゃるのです。
明色の女(メフィストフェレスに。)
あなた、ちょいと。わたくしの顔はこんなに
綺麗ですが、夏になるとこんなでなくなりますの。
6320
この白い肌一ぱいに、茶色なぽつぽつが出来て、厭になってしまいますの。何か好いお薬を
下さいな。
メフィストフェレス
お気の毒ですね。あなたのような
別品さんが、五月にはお内の猫のように斑に
なるのですか。青蛙の卵と蝦蟇の舌とを
6325
水に漬けて、汁を澄ませて、満月の夜に丁寧に蒸餾して、下弦の月の夜に旨くお塗なさい。
春になってから、斑は出なくなりますよ。
暗色の女
まあ、あなた一人をみんなで取り巻きますこと。
わたくしにもお薬を下さいな。歩いたり、
6330
踊ったりする時もそうですが、ちょっとお辞儀をいたすにも、足の凍傷で難儀しますの。
メフィストフェレス
わたしのこの足で踏んで上げましょう。
暗色の女
それは恋人同士でいたす事でしょう。
メフィストフェレス
わたしが踏むのは、もっと意味が深いのです。
6335
どこの病気でも、同じ所で直します。足で足を直す。外の所で外の所を直す。
いらっしゃい。好いのですか。御返報には及びません。
暗色の女(叫ぶ。)
あ、痛。あ、痛。ぴりぴりしますわ。馬の蹄で
踏まれたように。
メフィストフェレス
もうそれで直っています。
6340
踊りたい程お踊なさい。それから御馳走を食べながら、好い人と踏みっこをなさい。
貴夫人(摩り寄る。)
ちょっとお通しなすって。本当にせつないので
ございます。胸が烹え返りますの。きのうまで
わたくしを大事にしていた方が、あの女に
6345
気が移って、わたくしに背中をお向なさいます。メフィストフェレス
ちっと難症だが、まあ、お聞なさい。
そっとその男の傍へ寄って、
上衣の袖でも肩でも、出来好い所へ、
この炭で筋を附けてお遣なさい。
6350
すると男が後悔して、ぎくりとします。炭はすぐにあなたが丸呑にするんです。
水や酒で飲むのではありませんよ。今夜のうちに
お寝間の前へ来て溜息を衝きます。
貴夫人
毒にはなりませんの。
メフィストフェレス(怒る振をなす。)
なんですと。失敬な。
6355
その炭はめったに手に入らない炭です。随分わたし共が骨を折って焚かせる、
あの罪人を焼き殺す火の炭です。
舎人
好な女がわたくしを子供だと云いますが。
メフィストフェレス(傍白。)
もうどいつの言う事を聞いて好いか分からない。
6360
(舎人に。)
それは余り年の行かないのに掛かっては駄目だ。年増だと、君のようなのを珍重がるね。
(他の人々寄り集る。)
また新手が来る。なんと云う御難だろう。とうとう本当でも言って切り抜けずばなるまい。
極の劣策だ。こんな困った事はない。
6365
ああ。母達、母達。ファウストを返して貰いたいなあ。
(見廻す。)
もう広間の明がぼんやりして来た。御殿中のものが一度に動き出す。
皆おとなしく行列を作って、ここの長い
廊下をも、あそこの遠い渡殿をも歩いて行く。
6370
はあ。あれは古い騎士の広間の大きい処に集るのだ。ほとんど這入り切らない位だ。
大きい壁に垂布が取り附けてある。
隅や龕に甲冑が飾ってある。
ここでは呪文なんぞはいらぬらしい。
6375
化物どもがひとりでに出て来そうだ。
燈の薄明。
帝と殿上人等と入り籠みあり。
先触化物どもの秘密の働が、狂言の先触をすると云う、
わたしの昔からの役目を、兎角妨げて困ります。
この入り組んだ運を当前の道理で
説き明そうとするのは、なかなか難儀だ。
6380
椅子や腰掛はもう出ている。殿様を丁度壁を前にしてお据わらせ申した。
暫くの間は壁紙にかいてある昔の戦争の
絵でもゆっくり御覧になるが好い。
殿様もお側の方々も、皆さんぐるりと集って
6385
おいでになる。背後はベンチで一ぱいになる。化物の出る、気味の悪い場でも、好いた同士は
それぞれに隣になるように都合して据わった。
さてこう一同程好く陣取って見ますれば、
支度は宜しい。化物はいつでも出られます。
6390
(金笛。)
天文博士さあ、狂言を始めた始めた。殿様の
仰だ。壁になっている所はひとりでに開け。
何の邪魔もない。ここでは魔法がお手の物だ。
垂布は火事に燃えてまくれ上がるように消える。
石壁も割れて、ひっくり返る。
6395
奥行の深い舞台が出来るらしい。どこからか不思議な明がさして来るようだ。
そこでわたしは舞台脇へ行っている。
メフィストフェレス
(黒ん坊のゐる穴より現る。)
ここで己は御贔屓にあずかる積だ。吹き込んで物を言わせるのが悪魔の談話術だ。
6400
(天文博士に。)
あなたは星の歩く拍子が分かるのだから、わたしの内証話も旨く分かるでしょう。
天文博士
不思議な力で、ここにかなりがっしりとした、
古代の宮殿が目の前に見えて来る。
昔天をげていたアトラスの神のように、
6405
柱が沢山列をなして、ここに立っている。二本位で大きい屋根を持つことの出来る
柱だから、これならあの石の重みに堪えよう。
建築家
これが古代式ですか。褒めようがありませんね。
野暮でうるさいとでも云うべきだ。どうも
6410
荒っぽいのを高尚、不細工なのを偉大としている。わたしどもはどこまでも上へ上へと昇る狭い柱が好だ。
剣形迫持の天井は思想を遠大にする。
わたしどもにはそう云う建物が一番難有い。
天文博士
好い星の下で出来る楽を難有くお受なさい。
6415
呪咀の詞で理性を縛して置いて、その代に美しい、大胆な空想を
広く自在に働かせるのです。
思い切った、大きい望が目で見られる。
不可能な所が信ずる価値のある所です。
6420
(反対側の舞台脇よりファウスト登場。)
天文博士や。術士が司祭の服を著て、青葉の飾を戴いて出た。
大胆に遣り掛けた事を、これから遣るのですね。
うつろな穴から五徳が一しょに上がって来た。
もうあの鼎から烟のが漲って来そうだ。
この難有い為事の祝福の支度をしますね。
6425
これから先は好運な事しかないでしょう。ファウスト(荘重に。)
無辺際に座を構えて、永遠に寂しく住んでいて、
しかも集れいる母達よ。御身等の名を以て己は行う。
生きてはいずに、動いている性命の象が、
おん身等の頭を繞って漂っている。かつて一度
6430
光明と仮現との中に存在したものは、悉くここに動いている。永遠を期しているからである。
万能の権威たる御身等は、それを日の天幕の下、
夜の穹窿の下に分けて遣られる。あるものは
生の晴やかな道が受け取る。あるものは大胆な
6435
術士が貰いに行く。そしてその術士は人の望むがままに、赤心を人の腹中に置いて、
おおように、吝まずに不思議を見せるのである。
天文博士
あの焼けている鍵が鼎に触れるや否や、
暗い霧がすぐに広間を罩む。その霧は
6440
這い込んで、舒びたり、固まったり、入り乱れたり、並び合ったりして、雲のように棚引く。さあ、
鬼を役する巧妙な術を御覧なさい。物の
動くに連れて、楽の声が聞える。浮動する
音響から、何とも言えぬ物が涌く。その音響は
6445
延びて旋律になる。柱はもとより、その上の三裂の飾までが音を立てる。わたしは
宮殿全体が歌っているかと思います。霧は沈む。
その軽い羅のような中から、調子の好い歩様で
美しい若者が出て来る。わたしは役目の上で
6450
もう何も申しますまい。若者の名は斥して言うまでもないでしょう。誰もパリスを知らぬ人はないはずです。
(パリス登場。)
貴夫人まあ、あの男盛の力のかがやきを御覧なさいまし。
第二の貴夫人
摘んだばかりの桃のようで、露も沢山ありましょう。
第三の貴夫人
恰好の好い脣が旨そうに※[#「月+亨」、U+811D、465-11]んでいますこと。
6455
第四の貴夫人あなたあんな杯にお口をお附なさりたくって。
第五の貴夫人
上品だとは申されなくても、好い男ですわね。
第六の貴夫人
も少し取廻が功者だったら、猶好いでしょうね。
騎士
なんだか身分は羊飼の若い者かと見えますな。
貴公子らしくはなく、行儀躾もなさそうです。
6460
他の騎士さようさ。半裸では好く見えるが、
鎧を着せて見たら、どうか知らん。
貴夫人
あれ。しなやかな、好い様子をして据わりましたね。
騎士
あの膝に抱かれたら好いだろうと云うのでしょう。
他の貴夫人
あの肱を枕にした恰好の好うございますこと。
6465
侍従不作法な。わたしは差し止めたいと思いますね。
貴夫人
殿方は何につけても故障を仰ゃるのですわ。
侍従
殿様の御前でじだらくな風をして。
貴夫人
あれは芸ですわ。一人でいる積ですわ。
侍従
いや。その芸がここでは行儀好くなくては。
6470
貴夫人あれ。好い心持に寝てしまいましたのね。
侍従
今に鼾でもかくでしょう。自然そっくりでしょうよ。
若き貴夫人(感歎す。)
あの香の烟に交って来る薫はなんでしょう。
わたし胸の底までせいせいしますわ。
やや年長けたる貴夫人
本当ね。胸に沁み込むようね。あの人の
6475
ですわ。最も年長けたる貴夫人
あれは体の盛になっているで、
それが醸されて不老不死の名香になって、
まわりへ一面に広がるのですよ。
(ヘレネ登場)
メフィストフェレスこいつだな。己なんぞは見たって平気だ。
別品には相違ないが、己には気に食わない。
6480
天文博士わたしは正直に白状しますが、
これにはなんとも申しようがありませんな。
美人が出た。火焔の舌があっても駄目だ。
昔から女の美はいろいろに歌われている。
あれを見せられては、誰でも心が空になる。
6485
あれを我物にした人は、余り為合過ぎたのだ。ファウスト
己の目はまだあるだろうか。美の泉が豊かに
涌いて、心に深く沁むように見えると云おうか。
恐ろしい下界の旅に嬉しい限の土産があった。
世界がこれまでどんなにか無価値で、錠前が開かずに
6490
いただろう。それがこん度司祭になってからどうなったか。始て望ましいものになり、基礎が
出来、永存する。お前を棄てる気になったら、
己の生息の力が消えても好い。昔己を
悦ばせた、美しい形、不思議な鏡像に
6495
見えて幸福を感じさせた、美しい形は今見る美の泡沫の影に過ぎない。
己があるだけの力の発動、感情の精髄、
傾倒、愛惜、崇拝、悩乱を捧げるのは、
お前だ。
6500
メフィストフェレス(棚の内より。)しっかりなさい。役を忘れてはいけません。
やや年長けたる貴夫人
丈もあって、恰好も好いが頭が少し小さいようね。
やや年若き貴夫人
足を御覧遊ばせ。下品に大きゅうございますこと。
外交官
上つ方にあんな恰好のを拝したことがありますよ。
頭から足まで、わたしは美しいと思います。
6505
殿上人寝ている男の傍へ横著げに優しく近寄りますね。
貴夫人
あの上品な若者に比べては醜いじゃありませんか。
詩人
若者は女子の美しさに照されています。
貴夫人
エンジミオンとルナですね。画のようですね。
詩人
そうです。はあ。女神が身を屈めて、上に伏さって、
6510
男の息を飲もうとするらしく見えます。羨ましい。や。接吻する。器は盈ちた。
女監
まあ、人の前も憚らずに。狂人染みた真似を。
ファウスト
若者奴に過分な恵を。
メフィストフェレス
しっ。静かに。
化物のするように、構わずに、させてお置なさい。
6515
殿上人女子は足元軽く退いて、男は目を醒ましますね。
貴夫人
女が振り返ります。大方そうだろうと思いました。
殿上人
男は驚いています。奇蹟に逢ったのですから。
貴夫人
女のためには目前の事になんの不思議もないのですね。
殿上人
様子の好い風をして男の所へ帰って行きます。
6520
貴夫人分かりましたわ。女が男に教えるのでございます。
男はあんな時には馬鹿なものです。
大方自分が始ての相手だなぞと思うのでしょう。
騎士
わたしの目利は違いません。気高く上品ですね。
貴夫人
浮気女が。わたしはどうしても陋いと思います。
6525
舎人わたくしはあの男になりとうございます。
殿上人
あんな網になら、誰も罹らずにはいられませんね。
貴夫人
あれでいろんな人の手に渡った宝ですよ。
金箔も大ぶ剥げています。
他の貴夫人
まあ、十ばかりの時からいたずらをした女ですね。
6530
騎士人はその場合に獲られる最上の物を取るのです。
わたしなんぞはあの残物でも貰うことにします。
学者
わたしにもはっきり見えているが、正直を申せば、
本物だか、どうだか疑わしいのです。
現在しているものは、人を誇張に誘い易い。
6535
わたしは兎に角書いたものに縋る。読んで見ると、こうあります。実際あの女は殊にトロヤの髯の
白い翁に気に入ったと云うのです。ところが
それが、わたしの考では、この場合に符合する。
わたしは若くはない。それに気に入りますな。
6540
天文博士もう童ではない。大胆な男になって、女の
抵抗することも出来ないのを、掴まえます。
腕には力が加わって、女子を抱き上げる。
連れて逃げるのでしょうか。
ファウスト
向う見ずの白痴が。
敢てする気か。聴かぬか。待て。余り甚だしい。
6545
メフィストフェレスあなたが自分でしているのではありませんか。化物の狂言を。
天文博士
ただ二言附け加えます。これまで見た所では、
この狂言をヘレネの掠奪と名づけたいのです。
ファウスト
なに。掠奪だと。己がここに手を束ねていると
云うのか。この鍵はまだ手にあるではないか。
6550
寂寞の中の恐怖と波瀾とを経過して、これが己を堅固な岸に連れて来たのだ。
己はここに立脚する。ここには実物ばかりある。
ここからなら、霊が鬼物と闘うことが出来るのだ。
ここからなら、幽明合一の境界が立てられるのだ。
6555
遠かった、あの女を、これより近づけようはない。今己が救って遣れば、二重に我物になるわけだ。
遣ろう。母達、々々。御身等も許してくれ。
あれを識ったからは、あれと別れることは出来ぬ。
天文博士
あなた何をします。ファウストさん。力ずくで
6560
女子を攫まえる。もう女の姿が濁って来た。鍵を男の方へ向ける。鍵が男に
障る。や。大変だ。やや。
(爆発。ファウスト地に倒る。男女の鬼物霧になりて滅ゆ。)
メフィストフェレス
(ファウストを肩に掛く。)
お前方の自業自得だ。馬鹿者共を背負い込むと、悪魔でも損をせずにはいられない。
6565
(闇黒。雑。)
[#改ページ]第二幕
メフィストフェレス
(帷の背後より立ち出づ。メフィストフェレスが手に帷を搴げて顧みるとき、古風なる臥床に横はれるファウストの姿、見物に見ゆ。)
そこに寝ておれ、結んでは解けにくい恋の絆に誘われた不運者奴。
ヘレネに現を抜かしたものは、
容易に正気には帰らぬのだ。
(四辺を見廻す。)
上を見ても、右左を見廻しても、6570
なんにも変ってはいない。そっくりしてある。ただあの窓の色硝子が前より曇っているようだ。
それから蜘蛛のいが殖えたようだ。
インクは固まって、紙は黄ばんでいる。
何もかも元の場所に置いてある。
6575
先生が己に身を委ねる契約を書いた、あの筆までがまだここにある。
そればかりではない。己がおびき出して取った
血の一滴が、鵞ペンの軸の奥深く詰まっている。
またと類のないこの珍品を
6580
大骨董家に獲させたいものだ。そこにはあの古い裘までが古い鉤に懸けてある。
あれを見るとあの時のいたずらを思い出す。
子供の時に己の教えた事を、青年になって
今でも吝みながら使い耗らしているかも知れぬ。
6585
もじゃもじゃ温いこの外套を、今一度身に著けて、世間では当然の事に思っている
大学教授の高慢がる真似事を、
なんだかして見たいような気にもなる。
ああしたえらがる心持に学者はなれようが、
6590
悪魔はとうから厭気がさしているて。
(取り卸したる裘を振へば、蟋蟀、イタリアこほろぎ、甲翅虫など飛び立つ。)
合唱する昆虫等好くぞ来ませる。好くぞ来ませる。
古き恩人、おん身よ。
飛びつゝ、鳴きつゝ、
われ等早くおん身を知れり。
6595
一つ一つひそやかにおん身われ等を造りましぬ。
父よ。百千の群なして、
われ等舞ひつゝ来ぬ。
胸に住む小賢きものは
6600
飽くまで隠ろひをらんとす。それには似ずて、蝨等は
たはやすくぞ蛻け出づる。
メフィストフェレス
この若い、造られた物を見るのが、意外に嬉しい。
ただ種をさえ蒔いて置けば、いつか取入が出来る。
6605
もう一遍この古い毛衣を振って見よう。そこ、ここからまた一つ二つ飛んで出る。
可哀い奴等。飛び上がり、這い廻り、
千百箇所の隅々へ、隠れに急いで行きおる。
古い箱の置いてあるあそこへも、
6610
茶いろになった古文書や、古壺の五味の溜まった欠らのこの中へも、
あの髑髏のうつろな目の穴へも。
こんながらくたや、腐物の中には、
永久に虫がいなくてはならぬのだ。
6615
(裘を著る。)
さあ、来て己の肩をもう一遍包んでくれ。きょうは己がまた先生だ。
さてこう名告った所で、詰まらないな。
己を認めてくれる人間どもはどこにいるのだ。
(メフィストフェレス鈴索を引く。鈴は耳に徹する、叫ぶ如き音を発し、その響に堂震ひ、扉開く。)
門生
(蹣跚として、暗き長廊下を歩み近づく。)
なんと云う音だ。それに響くこと。6620
梯子段がぐらついて、壁がぶるぶるする。その上あの色硝子の震えている窓から、稲妻の
ぴかぴかするのが見えている。塗天井に
亀裂が入って、ほぐれた石灰や土が
上の方から降って来る。戸なんぞは
6625
堅く錠を卸して置いたのに、不思議な力で錠が開いてしまった。や。あれはどうだ。
気味の悪い。ファウスト先生の古毛皮を著て
巨人のような男が立っている。あの目で
視られたり、あの手で招かれたりしたら、
6630
こっちはそこへへたばってしまいそうだ。逃げようか。こうしていようか。
ああ。己はどうなる事だろう。
メフィストフェレス(招く。)
こっちへおいで。君の名はニコデムスだね。
門生
さようでございます。ああ。祈祷でもしようか。
6635
メフィストフェレスそんな事は廃し給え。
門生
好くわたくしの名を御存じで。
メフィストフェレス
知っているとも。年を取っても、学生を
していなさる。老書生だな。学生もやっぱり
好でそう云う風に修行し続けるのだ。そして
天分相応な、吹けば飛ぶような家を建てる。
6640
大学者だって、家が落成するとまでは行かぬ。所で君の先生だが、あれは修養のある人だ。
目下学術界の第一流に推されている
ワグネル先生を識らないものは世にあるまい。
毎日のように創見を出して開拓して行く先生が、
6645
実際今の学術界を維持していられるのだ。先生一人の周囲に、苟も学に志ある
聴衆は麕集して来る。講壇の上から
光明を放っているのは、先生一人だ。
先生が聖ペトルスのように鍵を預かっていて、
6650
下もお開けになる、上もお開けになる。先生が群を抜いて光り耀いておられるので、
誰の名声も栄誉も共に争うことが出来ない。
ファウスト先生の名さえ、もう陰になっている。
ワグネル先生は独創の発明家だから。
6655
門生いえ。ちょっと御免下さい。お詞を反すようですが、
ちょっと申し上げとうございます。こちらの
先生は万事そう云う風ではございません。
謙遜があの方のお生附です。ファウスト大先生が
不思議に跡をお隠しなすったのが、
6670
諦められぬと仰ゃっておられます。大先生さえお帰になったら、慰藉も幸福も
得られようと申されます。大先生がお立退に
なってから、当時のままにしてあるお部屋が
お帰を待っています。わたくしなぞは
6675
あのお部屋へ這入るのもこおうございます。一体もう何時頃でございましょう。なんだか家の
壁までが物をこわがっているようです。さっきは
戸の枢が震えて、錠前が開きました。そうでないと、
あなたもお這入が出来なかったでしょう。
6670
メフィストフェレス先生はどこにいなさるのだ。己を連れて
行くとも、先生を連れて来るともし給え。
門生
実は非常に厳しいお誡があるのです。そんな事を
いたして宜しいか、どうか、分かりません。お企に
なった大事業のために、もう幾箇月も、非常に
6675
静寂を守ってお暮らしになっています。学者中で一番お優しい、あの方がお鼻の辺からお耳の
辺まで煤けておいでになって、火をお吹になるので、
お目は赤くなりまして、まるで炭焼のように
お見えなさいます。そして絶間なしに喘いで
6680
おいでなさる、そのお声に、火箸のちゃらちゃら云う物音が伴奏をいたしているのでございます。
メフィストフェレス
しかしまさか己を這入らせんとは云われまい。
己はその成功を早めて上げる人間だ。
(門生退場。メフィストフェレス重々しげに坐す。)
己がここに陣取るや否や、あそこの6685
奥の所に、お馴染のお客様が見える。こん度は最新派の奴と来ているから、
際限もなく増長していることだろう。
得業士(廊下を駆け来る。)
門の戸も部屋の戸も開いているな。
この按排なら今までのように、
6690
生きた人間が死人同様に黴の中にいじけて、腐って、
生その物のために死ぬるような、
愚な事はしていぬだろう。
この家は外壁も内壁も
6695
傾いて、崩れそうになっている。己達も早く逃げないと、
圧し潰されてしまうだろう。
己は誰よりも大胆だが、誰がなんと
云っても、これより奥へは這入らない。
6700
所で、きょうは妙な目に逢うぞ。ここが、何年か前に、己がおめでたい、
なり立ての学生で、動悸をさせて
びくびくしながら遣って来て、
あの髯親爺共を信用して、
6705
寐言を難有がった所だな。親爺共は自分達の知った事、知っていて
信じていない事を、古臭い
破本の中から言って聞かせて、騙しおって、
自分達の性命をも己の性命をも奪いおった。
6710
おや。あの奥の龕のような所の薄明に、まだ一人据わっているな。
近寄って見ると、驚いたわけだ、
まだあの茶いろの毛皮を著ている。
実際あの別れた時のままで、
6715
お粗末な皮にくるまっている。あの時は己に分からなかったので、
あいつが巧者そうに見えた。
きょうはその手は食わないぞ。
どれ。一つ打っ附かって遣ろう。
6720
いや。老先生。レエテの川の、人に物忘をさせる濁水が、その俯向けておられる禿頭を底から
漬していないなら、ここへ昔の学生が、学校の鞭の
下を疾っくに抜けて来たのを、歓迎して下さい。
あなたはいつかお目に掛った時のままでおられる。
6725
わたしは別な人間になって来ました。メフィストフェレス
ふん。わしの鳴らしたベルで君の来られたのは
喜ばしい。あの時も君を軽視してはいなかった。
追って綺麗な蝶になると云うことは、
毛虫や蛹の時から分かる。若々しい
6730
れた髪をして、レエスの著いた襟を掛けて、君は子供らしい愉快を覚えていた。
辮髪には、君、一度もならなかったのかい。
きょうは君のスウェエデン風の斬髪を拝見するね。
快活で、敏捷らしい御様子だ。絶待的無過失の
6735
思想家なぞになって、故郷へ帰らないようになさい。得業士
老先生。また元の所でお目に掛かりますが、どうぞ
革新せられた時代の推移をお考なさって、
一語両意の下手な講釈は御遠慮下さい。
わたしどもは物の聴取方が変っていますからね。
6740
あなたは馬鹿正直な子供をお揶揄になった。それがなんの手段も煩わさずにお出来になった。
今はもうそんな事を敢てするものはありません。
メフィストフェレス
ふん。若いものに本当の事を説いて聞かせると、
嘴の黄いろい時の耳には兎角逆うのだ。
6745
所が跡で何年も立ってから、自分の体があらあらしく物に打っ附かって、それが分かると、
自分の脳天から出た智慧のように思うのだ。
そこで「あの先生は馬鹿だった」などと云うのだて。
得業士
いや。「横著者だった」となら云うかも知れませんね。
6750
覿面に本当の事を言う先生はないのですから。どれも皆、おめでたい子供を相手に、匙加減をして
真面目くさったり、機嫌を取ったりするのです。
メフィストフェレス
無論人間は学ばなくてはならぬ時がある。
こう見た所、君はもう人に教えても好い積らしい。
6755
大ぶ月日が立つうちに、君もたっぷり経験を積んで来ただろうね。
得業士
経験ですか。泡のような、烟のような物です。
人の霊と比物にはなりませんね。あなただって
正直に白状なさったら、今まで人の知っていた事に
6760
知っていて役に立つことはないでしょう。メフィストフェレス(間を置きて。)
もう疾うからそう思っていたが、わしは馬鹿だ。
今思えばいよいよ遅鈍で、興味索然としている。
得業士
そう承れば嬉いです。兎に角自知の明がある。
今まで逢った老人の中で話せるのはあなた一人だ。
6765
メフィストフェレスわしは埋もれている黄金の穴を捜して、
気味の悪い炭を得て帰ったのだ。
得業士
失敬ですが、あなたのその頭脳、その禿頭には、
そこにある髑髏以上の価値はないでしょう。
メフィストフェレス(恬然として。)
君はどの位乱暴だか、自分でも分かるまいね。
6770
得業士ドイツでは世事を言う人は衝としてあります。
メフィストフェレス
(脚に車の附きたる椅子を、次第に舞台脇へずらせ来て、平土間に向ふ。)
ここの上では空気も光線もなくされそうですが、あなた方の所へ降りさせて下さらんでしょうか。
得業士
一体もう自分がなんでもなくなって、時候遅に
まだ何かである積でいるのは、僭上の沙汰です。
6775
人間の性命は血にある。青年の体のように血の好く循っているものが外にありますか。
既に有る性命から、新しい性命を造るのは、
新鮮な力を持っている、この生きた血です。
そこで万事活動している。何事をか為している。
6780
弱者が倒れて、優者が進む。そして我々が世界を半分占領する間、あなた方は何をして
いました。舟を漕いでいた。物を案じていた。夢を
見ていた。あの案、この案と、工夫ばかり凝らしていた。
慥かに老は冷たい熱病です。気まぐれに
6785
悩まされての戦慄をしているのです。人間は三十を越してしまえば、もう
死んだも同じ事ですね。あなたのような
老人は早く敲き殺すが一番です。
メフィストフェレス
こうなると、悪魔も一語を賛することが出来ない。
6790
得業士わたしが有らせようとしなければ、悪魔も無い。
メフィストフェレス(傍に向きて。)
今にその悪魔に小股をすくわれるくせに。
得業士
これが青年最高の責務だ。
己が造るまでは、世界も無かったのだ。
日は己が海から引き出して来た。
6795
月の盈虧は己が始めた。己の行く道を季節が粧って、
大地は己を迎えて緑に萌え、花を開く。
ある夜己が揮いたので、あらゆる星が
一時に耀きはじめた。一体あなた方に、
6800
世俗の狭隘な思想の一切の束縛を脱せさせて上げたのも、わたしでなくて誰です。
所でわたしは、心の中で霊が告げる通に、
自由に、楽んで、内なる光明を趁って、
光明を前に、暗黒を後に、
6805
希有の歓喜を以て、さっさと進むのだ。(退場。)メフィストフェレス
変物奴。息張って行って見るが好い。
賢い事も、愚な事も、昔誰かがもう考えた
事しか考えられぬと云うことが
分かったら、さぞ悔やしがるだろう。しかし
6810
あんな奴がいたって、世間は迷惑しない。少し年が立つと、別な気になる。
もとでいるうち、どんな泡が立っても、
しまいには兎に角酒になる。
(平土間にて喝采せざる少壮者に。)
あなた方は大ぶ冷澹に聞いていますね。6815
好い子のあなた方の事だから、構いません。まあ、考えて御覧なさい。悪魔は年寄だ。
年が寄ったら、わたしの言うことが分かるでしょう。
ワグネル(竈の傍にて。)
恐ろしいベルの響が
この煤けた壁を震わせる。
6820
熱心に期待している事の成不成が、もうこれより長く決せられずにはいまい。
もう暗く濁っている所が澄んで来る。
もう一番心になっている瓶の中に、
燃え立つ炭火のように、いや、赫く
6825
紅宝石のように照っている物が出来て、電光のように闇を射はじめる。
明るい、白い光が現れる。
こん度こそ取り留めんではならん。
や。なんだ。戸をがたがた云わせるのは。
6830
メフィストフェレス(入る。)推参ですが、お為になる客です。
ワグネル(懸念らしく。)
おいでなさい。好い星の下に来られました。
(小声にて。)
しかし物を言わないで下さい。それにしっかり息を殺していて下さい。大事業が今成就します。
メフィストフェレス
(一層小声にて。)
なんですか。ワグネル
(一層小声にて。)
人間を拵えるのです。6835
メフィストフェレス人間ですと。そしてそのけむたい穴に、どんな、
色気のある男女を閉じ籠めたのですか。
ワグネル
大違です。今まで流行っていた、人間の拵方は、
わたし共は下らぬ戯だと云ってしまうのです。
今まで性命を生んだ、優しい契合点ですね、
6840
あの、親の体の内から迫り出て、遣取をして、我と我が影像を写すようになって、先ず近いものを、
次に遠いものを取り込むことになっていた、
恵ある力ですね、あれはもう貶黜せられるのです。
よしや今後も動物はあんな事を楽むとしても、
6845
大いなる天分を享けた人間だけは将来これまでより迥に高い出所を有せなくてはならんのです。
(竈に向ふ。)
光っている。御覧なさい。こうなればただ数百の物質を調合して、調合の為方が大事ですよ、楽々と
人間と云うものの原質を組み立てるですね。
6850
それを硝子瓶に入れて封じる、それを十分に蒸餾するですね。そして例の為事を、こっそりと
我手で成就すると云うことになるのです。それが
今そろそろ出来掛かっているのです。
(また竈に向ふ。)
出来ますね。調合した物が動いて澄んで来る。6855
確信の基礎が刹那々々に堅くなって来る。古来造化の秘密だと称えた事を、
我々は敢て悟性で遣って見ようとする。
自然が機関的に構成していた事を、
我々は結晶させて造るのです。
6860
メフィストフェレス人間は長く生きていると、種々の経験をするもので、
その目で見ると、この世界には新しい事は一つもない。
わたしなんぞは所々を流浪しているうちに
結晶して出来た人間の群も見ましたよ。
ワグネル
(これまで始終瓶に注目してゐる。)
はあ。昇って行く。光る。凝り固まって来る。6865
もうすぐに成功する。大きい企は最初馬鹿げて見えるものだ。しかし未来ではこんな事を
偶然に委ねていたのを笑って遣ろう。
旨く物を考えることの出来る脳髄をも、
未来では思索家が造り得るはずだ。
6870
(感歎して瓶を見る。)
優しい力が瓶に音を立てさせる。濁ってはまた澄んで来る。もう出来るのだ。小さい、
可哀らしい人間が、優しい姿をして
動いている。此上我々も何を望もう。
此上世界にもなんの望があろう。秘密は
6875
白日の下に曝露せられてしまった。あの声に耳を傾けて御覧なさい。
あれが人の声になります。言語になります。
小人
(瓶の中にてワグネルに。)
さて、お父っさん。いかがです。笑談ではありませんでしたね。さあ、いらっしゃい。優しく
6880
わたくしを胸に抱いて下さい。しかし硝子の破れるようにひどくしてはいけません。物事は
こうしたものです。「自然の物には宇宙も狭い。
人工の物には為切った空間がいる。」
(メフィストフェレスに。)
所で、横著者のおじさん、あなたもここにいますね。6885
丁度好い時にいらっしゃって難有う。あなたをここへ来させたのは、好い廻合です。わたしも
こうして出来て見れば、働かなくてはなりません。
為事に掛かられる様に、すぐに身支度をしましょう。
あなたはお巧者です。無駄をさせないで下さい。
6890
ワグネル一寸一言言わせてくれ。これまで老人も若いものも、
己に種々な事を問うて困らせおった。
例えばこうだ。「一体霊と肉とは旨く適合していて、
決して分離しないように、食っ附いているのに、
その二つが断えず人間の生活を難渋にしている。それを
6895
これまで誰一人会得したものがない。それから。」
メフィストフェレス
お待なさい。それを問う程なら、
「一体男と女とはなぜ中が悪いか」とでも問いたい。
お前さんなんぞには所詮これは分からない。
ここに為事がある。それをこの小さいのが遣ります。
6900
小人何をするのですか。
メフィストフェレス
(側の戸を指さす。)
ここでお前の腕を見せてくれ。ワグネル
(旧に依りて瓶を凝視す。)
実にお前は可哀らしい子だなあ。
(側の戸開く。ファウストの床の上に臥したるが、見物に見ゆ。)
小人(驚く。)大した物だ。
(瓶ワグネルの手を脱して、ファウストの上の空中に懸かり、ファウストを照す。)
美しい所だ。茂った森に清い水が流れている。女子達が著物を脱いでいる。
可哀らしい。はあ、段々面白くなって来る。
6905
中に一人立派に別物になって見えるのがある。第一流の英雄の種か。それとも神々の種か。
今透き通る水の中へ足を漬ける。
気高い体の、恵ある生の火が、物に触れて
形を変える、波の結晶の中で冷される。
6910
しかしなんと云う、急な羽搏の音だろう、ざわざわぴちゃぴちゃと鏡のような水面が掻き乱される。
女子達はこわがって逃げる。それに女王だけは
平気な様子で、鵠の王があつかましく、
馴々しく、自分の膝に摩り寄るのを、
6915
驕った、女らしい楽しさで、見ていられる。鵠の王は馴れるようだ。や。突然
靄が立ち籠めて来て、あらゆる
看物の中の一番可哀らしい看物を、
細かに編んだ羅の奥に隠してしまった。
6920
メフィストフェレス好くそんなに沢山饒舌る事があるなあ。
お前は小さいが、空想家としては大きいぞ。己には
なんにも見えん。
小人
そうでしょう。あなたのように
北の国に生れて、蒙昧時代に、騎士や坊主の
ごたごたの中に人となっては、目が善く
6925
開いていないでしょう。あなたの領分は暗黒の境です。
(四辺を見廻す。)
茶いろになった石壁が剣形迫持の形をして、曲りくねって、低く、朽ちて、厭らしくなっている。
ここでこの人が目を醒ますと、厄介な事になります。
6930
即坐に死んでしまいますから。森の中の泉、鵠、裸体の美人、こんな物を
未来を予想して夢に見ていました。
それがどうしてこの境界に馴れられましょう。
一番のん気なわたくしですが、見ていられません。
6935
どこかへ連れて行きましょうね。メフィストフェレス
その始末には賛成だ。
小人
軍人を軍に遣るなら、あなた
娘は踊にお遣なさい。そうなされば
万事かたが附きます。ちょっと
わたくしが考えて見たのですが、今は丁度
6940
古代のワルプルギスの晩に当ります。一番都合の好いのは、この人を性に合った
境界へ連れて行って上げる事ですね。
メフィストフェレス
そんな催の事はこれまで聞いたことがない。
小人
それはあなたの耳には這入るはずがありません。
6945
あなたのお馴染はロオマンチックの化物だけです。化物でも本当のはクラッシックですよ。
メフィストフェレス
それにしてもどこへ向いて出掛けるのだ。
聞いただけで大時代の先生方の胸悪さを感じるて。
小人
あなたの遊山の領分は西北方です。
6950
所がこん度は東南方へ飛んで行きます。広い平原をペネイオスの川が楽に流れて、木立や
藪に囲まれて、静かな、空気の湿った入江をなしている。
平原は山の谷合まで延びていて、
上には新古二つのファルサロスがある。
6955
メフィストフェレス厭だな。御免を蒙りたい。暴君と奴隷との、
あの争は見たくもない。やっと済んだかと
思うと、また新規に前から始めるのだから、
己は退屈してしまう。そして実は背後に
アスモジがいて、揶揄っているのだとは、
6960
誰も気が附かない。自由の権利のために闘っているのだと云うが、好く見れば、
奴隷が奴隷と勝負をしているのだ。
小人
人間の喧嘩好な事だけは、認めて遣らなくては
いけません。子供の時から一人々々、力限に
6965
防禦をしていて、それでとうとう人となるのです。ここでの問題はこの人をどうして直そうかと
云うのです。あなた方があるなら、お験なさい。
出来ないなら、わたくしにお任なさい。
メフィストフェレス
それはブロッケンの趣向に、随分験して好いのも
6970
あるが、この際異端の方角には錠が卸してあるらしい。一体グレシア人は慥と役に立ったことのない民族だ。
それでも皆を放縦な官能の発動で迷わせて、
人間の胸を晴やかな罪悪に誘うことは出来る。
己達の罪悪はどうせ陰気に思われるだろう。
6975
そこでどうする。小人
あなたも不断は野暮ではない。
わたくしがテッサリアの魔女と云ったら、幾らか
なるほどとお思当なさらないことはありますまい。
メフィストフェレス
(欲望あるらしく。)
テッサリアの魔女だと。好し。己が永年聞いていて見たく思った女共だ。そいつ等と
6980
毎晩一しょにいるとなると、己の考では、好い心持ではなさそうだ。だが験に
お見まい申すだけなら好い。
小人
その外套を下さい。
この騎士さんに被せて遣りましょう。
これまで通にその切が、あなた方を
6985
二人共一しょに載せて飛ぶでしょう。わたくしが明を見せます。
ワグネル(気遣はしげに。)
そして己は。
小人
さればですね。
あなたは内で大切な事をなさっていらっしゃい。
古い巻物を開けて見て、方に拠って
生活の元素を集めて、あれと此とを綿密に
6990
抱合させて御覧なさい。「何を」と云うことも大切ですが、「奈に」と云うことが一層大切です。
わたくしはその間に世界の一部をさまよって、
画竜の睛の一点を見出しましょう。そうすれば、
大目的が達せられたと云うものです。こう云う
6995
努力には相応の酬がありましょう。黄金、地位、名聞、それに健康な、長い生活、それから
学問、事によったら、道徳も得られましょうか。
さようなら。
ワグネル(悲しげに。)
さようなら。実に己はがっかりする。
もうお前にまた逢うことは出来そうにないなあ。
7000
メフィストフェレスさあ、すぐにペネイオスの川辺へ行こう。
小僧さん、なかなか話せるぜ。
(見物に向きて。)
とうとう我々は、自分の拵えた人間に巻添せられるものかも知れませんね。
ファルサロスの野。闇黒。
魔女エリヒトオわたしはエリヒトオと云って、陰気な女だが、
7005
これまでも度々出たように、今夜の気味の悪い祭に出掛ける。やくざ詩人共が度はずれに
悪く云う程、わたしは悪い女ではない。一体詩人は
褒めるにも毀るにも止所がない。谷を遥に
見渡せば、鼠色の天幕の波で白ちゃらけて見える。
7010
一番気遣わしく、恐ろしかった、その夜の記念だ。もう何遍同じ事が繰り返されたか知れぬ。これが
永遠に繰り返されるのだろうか。兎角誰も国を他人に
渡したくはない。自分の力で取って、治めているものが
国を他人に渡したくはない。なぜかと云うに、我内心を
7015
支配することの出来ぬ人に限って、わが驕慢の心のままに、隣の人の意志をも支配したがるからだ。
ここではそう云う大きな争の実例があったのだ。
暴力がそれより強い暴力に抗して、千の花を
編み込んだ、自由の美しい飾の輪が破れ、
7020
こわい月桂樹の枝が王者の頭に巻き附いた。こちらで大ポンペイユスが早い盛の夢を見れば、
あちらでケザルが揺ぐ金舌に耳を傾けて
夜を徹する。勝負は今だ、成行は世間が知っている。
赤いの立つ篝火が燃える。地は
7025
流された血の反映を吐く。そして夜の珍らしい、不思議な赫に引かれて、
グレシアの昔物語の軍兵が集まる。どの篝火の
周囲にも、昔の怪しい姿があぶなげに
よろめいたり、楽げに据わったりしている。
7030
闕けてはいても、明るく照る月が、一面に優しい光を放ちながら、さし升る。天幕の
幻影は消え失せて、火は青いろに燃えている。
はて、思いも掛けぬに、頭の上を飛んで来るのは
なんの隕星だろう。光って、体をなした球を
7035
照している。生物らしい。わたしに害を受ける生物に近づくのは、身に取って不似合な業だ。
そんな事で悪い噂を立てられるのは厭だ。
もう降りて来るらしい。思案して避けていよう。
(退場。)
(飛行のものども上にて。)
小人(飛行のものども上にて。)
ここの地の上、谷合は
7040
余り化物臭いから、この気味の悪い篝火の上で、
もう一度輪をかいていましょう。
メフィストフェレス
古い窓から北の国の
気味の悪いごたごたを見るように、
7045
厭な化物どもが見える。ここもやっぱり内同様だ。
小人
御覧なさい。背の高い女が
大股に歩いて行きます。
メフィストフェレス
こっちとらが虚空を飛んでいるので、
7050
気味を悪がって逃げるのじゃないか。小人
あれは構わずに行かせておしまいなさい。
そして騎士さんを卸してお遣なさい。
そうしたらすぐに蘇りましょう。騎士さんは
昔話の国に生を求めているのですから。
7055
ファウスト(地に触れて。)女は何処へ行った。
小人
わたくし共は知りませんが、
この辺で聞いて見ることが出来るでしょう。
急いで夜の明けないうちに、篝火から篝火へと、
聞いて廻って御覧なさい。母達の所へさえ
おいでになった方ですから、何も別にこわい目に
7060
お逢なさることはありますまい。メフィストフェレス
己は己でこの土地でどうかしなくてはならないが、
どうもてんでに自分だけの運験の積で、
あの篝火の中を通って行くより外には、
我々に都合の好い名案もなさそうだ。
7065
それから跡で一しょになる時の相図には、お前の明が音をさせながら照らすようにしてくれ。
小人
ええ。こんな風に音をさせて光らせましょう。
(硝子鳴りて強く光る。)
どれ、新しい不思議を見に出掛けましょうか。
(退場。)
ファウスト(一人にて。)あれはどこにいるだろう。差当此上問わずに
7070
置こうか。この土があれを載せた土、この波があれが方へ打ち寄せた波でなくとも、
この空気はあれが詞を伝えた空気だろう。
ここへ、このグレシアへ、己は奇蹟で来た。己の足の
踏んでいるのが、その土地だと云うことは
7075
すぐ分かる。眠っていた己の心に、新しく思想が燃え立った時、アンテウスが土に触れて力を
得るように、心強くなって己は立っている。どんな
奇怪に逢おうとも、このの迷路を己は真面目に探る積だ。
(退場。)
メフィストフェレス(四辺を見廻す。)どうもこの篝々を見渡すと、
7080
己は馴れない土地に来たのが分かる。みんな裸で、襦袢だけ著たのがそこここにいる。
スフィンクスは恥知らずでグリップスは
臆面なしだ。毛の生えたのや、羽の生えたのが、
前からも後からも目にうつる。
7085
それは己達だって腹の底からじだらくだが、古代の奴と来ては余り烈し過ぎる。
なんでもこんなのは新しい見方で見て、
いろいろに上塗をしなくてはいけない。
厭な人種だ。だがこっちは新参として、
7090
挨拶だけは丁寧に、我慢してするとしよう。別品さん。くろうとのお年寄。御機嫌好う。
鷙鳥グリップス(濁れる声にて。)
グリップスだ。くろうとではない。それに誰も
年寄扱は好かない。一体どの詞にも語原があって、
その響が残っている。グリップスも、栗色、苦み、
7095
苦労、繰言、くら闇、ぐらつきなどと、語原学上に声が通っているが、
己達は聞くのが厭だ。
メフィストフェレス
しかし御尊号グリップスの
「グリ」は繰入の「くり」で、お気に入るでしょう。
鷙鳥(同上。以下傚之。)
それはそうだ。来歴は調べてある。古来
7100
悪くも言われたが、褒められた方が多い。女でも、冠でも、金でも、繰り入れれば、
繰り入れた奴に福の神は笑顔を見せるのだ。
蟻(大いなる形のもの。)
お金の話が出ましたね。わたし共は随分集めて、
洞穴や岩の間にそっと埋めて置きました。
7105
それを一目アリマスポイ共が嗅ぎ出してあんな遠くへ持って行って、笑っています。
鷙鳥
己達が攫まえて白状させて遣る。
一目アリマスポイ等
我儘御免のお祭の晩だけは免して下さい。
あしたまでには皆使ってしまいます。
7110
大抵こん度は旨く行く積です。メフィストフェレス
(これより先、スフィンクス等の間に坐を占む。)
この土地に慣れるのは、大ぶやさしそうだぞ。どの男の言う事も、己には好く分かる。
スフィンクス
わたし達が霊の声を出すと、それを
あなたが体を具えたものになさるのです。
7115
追々お心安くなりましょうが、先ずお名を仰ゃい。メフィストフェレス
己には人がいろいろに名を附けているよ。
ここにイギリスの人がいるかい。あの連中は旅好で、
古戦場やら、滝の水やら、崩れた石垣やら、
時代の附いた、陰気な場所やらを捜し廻るのだ。
7120
ここなんぞはあいつ等の覗って来そうな所だ。あいつ等がいたら、証人になるだろう。昔の狂言で
あいつ等は己をオオルド・インイクウィチイと云った。
スフィンクス
なぜそう云いましたの。
メフィストフェレス
己もなぜか知らない。
スフィンクス
それは御存じないかも知れませんね。天文は少しは
7125
知っていらっしゃって。只今はどんな時でしょう。メフィストフェレス(仰ぎ見る。)
星が飛びっ競をしている。闕けた月が明るく
照っている。己は旨い所で、お前方の獅子の皮で
ぬくもって、好い心持になっている。しかし
高い所の事なんぞ言うのは損だ。謎でも
7130
掛けてくれ。フランス流の地口でも好い。スフィンクス
自分の事を言って御覧なさい。それが謎に
なっていますわ。細かに分析して御覧なさい。
「善人にも悪人にも用に立つ。
欲を制して奮闘する人の鎧にもなれば、
7135
方外な事をしでかす人の仲間にもなる。そしてどちらもチェウスの神の慰になる。」
第一の鷙鳥(濁れる小声にて。)
あいつは好かんな。
第二の鷙鳥(一層濁れる声にて。)
我々になんの用に立つのだ。
右の二人
あんな見苦しい奴はここにいさせたくないな。
メフィストフェレス(粗暴に。)
ふん。お客様の爪は、お前のその尖った爪程、
7140
引っ掻くことが出来ないとでも思うのかい。験して見ろ。
スフィンクス(優しく。)
なに、いらっしゃるが好いわ。
どうせ御自分でこの中をお逃なさるのだから。
お国では好い気になっておいででしょうが、ここでは、
お見受申す所が、余り御愉快ではないのね。
7145
メフィストフェレスお前も体の上の半分は旨そうだが、
下の方の獣は不気味だな。
スフィンクス
あなたっ衝で、罪滅ぼしに来たのだわ。
わたしのこの爪は達者ですからね。
どうせ不恰好になった蹄のあるあなただから、
7150
わたし達の仲間にいて、好い気持はしないわ。
(セイレエン虚空にて声を試みる。)
メフィストフェレスあの川の傍の白楊の枝で、体をゆすって
歌っている鳥はなんだい。
スフィンクス
御用心なさいよ。随分立派な方でも、
あの歌に負かされておしまいなすったから。
7155
歌う鳥セイレエン等あはれ、いかなれば醜き、怪しき
物等の中に、身を落ち著け給ふ。
聴き給へ。われ等こゝに群なして、
調整へる声して来たり。
セイレエンはかくあるべきものぞ。
7160
スフィンクス
(同じ調にて嘲る。)
降りて来させて姿を見給へ。耳を傾け給ひなば、
襲ひ害ひまつらんと、
彼女等は醜き角鷹の爪を
梢に隠して止まりをれり。
7165
歌う鳥等な憎みそ。な妬みそ。
大空の下にちりぼへる
浄き限の喜を集めばや。
まらうどに見せまつらんため、
土の上にも、水の上にも、
7170
晴やかなる限の振舞あらせばや。メフィストフェレス
これはまた迷惑千万な新手だ。
吭からと絃からと出る
声と声とが綯交になると来ている。
吭を鳴らしてくれるなんと云うことは己には駄目だ。
7175
耳をくすぐってはくれるが、胸までは徹えない。
スフィンクス等
胸なんと云うことはお廃なさい。自惚だわ。
皺になった革嚢位なら、
お顔に似合いますでしょう。
7180
ファウスト(歩み寄る。)実に驚歎に価する。観照だけで満足だ。
醜怪の中に偉大な、力のある趣が見える。
なんだか前途の幸運が予想せられる。
この真率な一目は己に何を想い出させるだろう。
(スフィンクスにつきて云ふ。)
昔オイジポスはこんなのの前に立ったのだ。7185
(セイレエンにつきて云ふ。)
こんなのに騙されまいと、ウリッセスは麻縄で身を縛らせたのだ。
(蟻につきて云ふ。)
これが珍宝を蓄えたのだ。
(グリップスにつきて云ふ。)
そしてこれが忠実に、間違なく守ったのだ。己は新しい思想が胸に徹して来た。
物が偉大なだけ、記念も偉大だ。
7190
メフィストフェレスいつもなら、こんなものは排斥なさるのだが、
今はお気に入るようですね。
おお方好な人を捜す土地では、
化物にでも逢いたいのでしょう。
ファウスト(スフィンクス等に。)
おい。女子達。己に言って聞せてくれ。
7195
お前達の中で誰かヘレネを見はしないか。スフィンクス等
わたし達はその時代にはいませんでした。
一番季のをヘラクレスさんが殺しましたの。
ヒロンさんにお聞なさると好いわ。あの方は
お祭の晩には駆け廻っています。あの方が
7200
お相手になれば、大した手がかりが出来てよ。歌う鳥等
おん身のためにも徒ならじ。
嘲りて行き過ぐることなく、
ウリッセスが留まりし時、
くさ/″\の事を我等に語りぬ。
7205
青海原のほとりへ、われ等の住む野へ来まさば、
そを皆おん身に語るべきに。
スフィンクス
あなた、騙されてはいけませんよ。
ウリッセスさんは体を檣に縛らせましたが、
7210
あなたはわたし達の詞に縛られておいでなさい。わたしが申した通ヒロンさんにさえ
お逢になれば、分かりますからね。
(ファウスト去る。)
メフィストフェレス(不機嫌に。)あの羽をばたばた云わせて鳴いて通るのは
なんだ。見えない程早く通ってしまう。
7215
それにきっと一羽ずつ後先になって通る。猟人もあれでは草臥れてしまうだろう。
スフィンクス
木枯の吹いて通るように、アルカイオスの孫、
ヘラクレスの矢も届かぬように、早く飛ぶのは、
あれはスチュムファアリデスです。角鷹の嘴、
7220
鴨の足をしている、あの鳥は挨拶をして通るのです。わたし共の中へ来て、
親類附合がしたいのです。
メフィストフェレス(怯れたる如く。)
まだその間々に音をさせて通っているね。
スフィンクス
あれはこわがらなくても好いのですよ。
7225
レルナの蛇の首ですが、胴から切り離されているくせに、一廉のものの積でいます。
それはそうと、あなたどうしようと云うの。
そんな落著かない様子をして。どこへ
いらっしゃるの。もうここをお逃なさるの。
7230
あそこの合唱の連中の方ばかり向いて御覧なさるのでしょう。御遠慮には及びませんわ。
おいでなさいな。顔の好いのもいますから、何か
言ってお遣なさい。ラミエエです。色気のある
女共ですわ。臆面なしの笑顔をしていて、
7235
サチロス仲間に気に入りますの。山羊の足の男は、あの中に這入って、
どんな事でも出来ますの。
メフィストフェレス
またお目に掛りたいが、このままいてくれるでしょうね。
スフィンクス
ええ。行ってあの浮気仲間に這入って御覧なさい。
7240
わたし達はエジプト時代から、千年も同じ所に居据わっていることに慣れていますの。
わたし達の居所に気を附けて御覧なさい。
陰暦も陽暦も、わたし達が極めるのです。
「国と国との裁判せんと、
7245
塔の前にぞ我等はをる。乱れ、治まり、河溢るれど、
我等は変へず気色だに。」
(池沼、ニュムフェエ等に囲繞せられたり。)
ペネイオス河戦ぎ囁け、蒲の葉よ。
しばし破れし夢に、
7250
葦の妹達、そと息嘘き掛けよ。柳の木立軽くさやぎおとなへ。
顫ふ楊樹の梢みそかに物言へ。
凄まじき物のけはひ、
微かに物皆動かす震、
7255
波の中、静けさの中より我を醒ましつ。ファウスト(川に立ち寄る。)
己の僻耳でないなら、この木立、
この梢の入り違った茂の中から、
人の声に似た物音が
聞えるように思われる。
7260
波もくどくどと何やら云って、風も何やら喜び戯れているらしい。
少女ニュムフェエ等
(ファウストに。)
御身をこゝに横へ、疲れたる手足を
涼しき所にて息め、
7265
常に御身の得難き眠を味ひ給はんこそ
もとも宜しからめ。
われ等さやぎ、そよめきつゝ、
囁を聞せまつらん。
7270
ファウスト己はこれでも覚めている。己の目の
見遣るあそこに、譬えようのない
あの姿を、あのままおらせて貰いたい。
不思議な程身にしみじみと応える。
夢だろうか。昔の記念だろうか。
7275
これまでこんな幸に逢ったことが一度ある。軽く戦いでいる、茂った灌木の群の
爽かな中を、水が這って通る。
荒い音は立てぬ。やっとそよめくだけだ。
百の泉が八方から集まって
7280
浴の出来るように、浅く窪んだ、清く澄み切った池になっている。
健かな、若い女等の手足が
水鏡に映って、二重に、
目を悦ばせてくれる。
7285
そして女等は中善く、楽しげに浴びたり、大胆に泳いだり、こわごわ渉ったりしている。
そのうち、とうとう叫び交わして水合戦をする。
己はこれだけの事を見て満足して、
目を悦ばせていなくてはならぬのに、
7290
己の心はそれに安んぜずに、先へ先へと進む。そして目はあちらの物蔭を鋭く穿とうとする。
緑に茂ったあの木の葉が
后の姿を隠している。
や。珍らしい。入江の方から、
7295
威厳のある、清げなけはいで、鵠も泳いで来る。静かに漂って、
優しく群れて遊んではいるが、
また世に傲り、自ら喜ぶ気色もある。
あの頭や嘴を動かす工合を見るが好い。
7300
中に一羽が群を凌いで大胆に、どの鳥をも跡に残して走って行って、
誇りかに振舞うのが見える。
体中の羽根をふくよかに起して、
足掻に波を立てて、
7305
神聖な所へ入り込んで行く。外の鳥共は穏かに羽根を赫かして、
あちこちを泳ぎ廻って、
折々は臆病な少女等を賺して、
后を守護する勤を忘れさせ、
7310
自分々々の安危を思わせようとして、騒がしい、晴がましい争をして見せる。
ニュムフェエ
皆さん。この青い岸の段々に、
耳を押し附けて聞いて御覧なさい。
わたしの聞違でないなら、なんだか
7315
馬の蹄の音がするようですね。今宵の祭に急の使になって来るのは、
まあ、誰でしょうかねえ。
ファウスト
駆けて来る馬の蹄に
大地が鳴り響くようだ。
7320
向うを見れば、幸運が
もう己に向いて来たらしい。
無類の奇蹟だ。
騎者が一人駆けて来る。
7325
智もあり勇もありそうな人だ。眩い程の白馬に乗っている。
己の僻目でないなら、もうその人も知れている。
フィリラが生んだ名高い倅だ。お待なさい。
ヒロンさん。あなたに言いたい事があります。
7330
人首馬身のヒロンなんです。何事です。
ファウスト
ちょっと留まって下さい。
ヒロン
いや。己は留まらぬ。
ファウスト
そんなら連れて行って下さい。
ヒロン
そんなら乗れ。そうしたら、己の問う事も
問われよう。どこへ行くのだ。お前は岸に
立っているが、川を越させて遣っても好い。
7335
ファウスト(乗る。)どこへでも連れておいでなさい。御恩は長く
忘れません。あなたは大人物だ。高尚な教育家だ。
英雄の一種族を名の揚がるように育てたのだ。
あのアルゴオの舟に乗った立派な人達や、
その外詩人の材料になった人達を育てたのだ。
7340
ヒロンそんな事はそっとして置いて下さい。
パルラスでさえ師匠としては誉められない。
どうかすると、門弟は教えたも教えなかったも
同じ事で、勝手に遣って行きますからね。
ファウスト
それにあなたは草木を一々知っていて、
7345
その根ざしを底の底まで窮めて、創をやし、病人を救って遣られる。その心身共に
健かなあなたに、わたしは載せられているのだ。
ヒロン
それは傍で英雄が創を負えば、
救って遣ることもわたしには出来る。
7350
しかし先々の手当は巫女や僧侶に任せて置く。
ファウスト
なるほどあなたは、人の称讃に耳を借さない
真の大人物だ。自分のようなものは、
外にいくらもあると云う風に、
7355
話をそらしてしまうのですね。ヒロン
お前さんなかなか辞令に巧だ。王者にも
人民にも程の好い事を言う性だね。
ファウスト
でもこれだけは承認なさるでしょう。
あなたは同時代の大英雄を目撃して、
7360
事業はその最上の人の風を慕って、半神として誠実に暮らされたのです。
そこで御承知の英雄達の中で、あなたは
誰を一番えらいと思いますか。
ヒロン
先ずアルゴオの舟に乗った立派な人達は、
7365
それぞれ変った、えらい所があって、自分の授かった力量次第で、
外の人に出来ない事をしたのだ。
少壮で風采の好い事では、
ジオスコロイの兄弟が勝を占めていた。
7370
敢為邁往の気象で身方の利を謀ったのは、ボレアスが伜兄弟の手柄だ。
沈著で、剛毅で、聡慧で、物の相談が好く出来、
女共に悦ばれて、勢力のあったのはイアソンだ。
それから優しく、物静かに、ゆったりして、
7375
オルフェウスは善くリラの琴を弾じた。千里眼のリンケウスは、夜昼油断なく
暗礁を避けて神聖な舟を進めた。
同心協力しなくては危険を凌ぐことは出来ぬ。
一人の働が皆の誉になるのだね。
7380
ファウストなぜヘラクレスの事を少しも言わないのです。
ヒロン
そんな名を言って、己に懐旧の情を起させては
困るなあ。フォイボスや、またアレス、ヘルメス
なんどと云う神達は、己は見なかった。
己の目の前に見たのは、世の人が皆
7385
神と称える、あの人だけだ。あれは実に生れながらの王者で、
若い時は類のない立派さであった。
それでいて兄には善く仕えて、
美しい女子達には優しくしていた。
7390
ゲアの胎からも、あんなのは二人と生れまい。ヘエベエもあんなのを二人と天へ連れては行かぬ。
歌に歌おうとしても及ばぬ。
石に彫ろうとしても似せることは出来ぬ。
ファウスト
なる程塑造家が随分骨を折りますが、
7395
どうも本物のように立派には出来ませんね。そこで一番立派な男のお話を承ったから、
こん度は一番美しい女のお話を伺いましょう。
ヒロン
なんですと。女の美なんと云うものは詰まらない。
兎角凝り固まったような形になり勝だ。
7400
己は喜ばしげに生を楽みながら発現する姿でなくては、褒めない。
美の尊さは独立している。己がいつか
載せて遣った時のヘレネなんぞは、
誰も反抗することの出来ぬ嬌態を持っていた。
7405
ファウストあなたが戴せましたか。
ヒロン
うん。この背中に載せた。
ファウスト
そうでなくても心苦しいのですが、そんな難有い
背中にわたしは載せられているのですか。
ヒロン
お前さんが今しているように、あれもその鬣を
握んでいたのだ。
ファウスト
わたしは全く気が遠くなる。
7410
どうしてそんな事があったか、話して下さい。あれはわたしの慕っているただ一人の女です。
どこからどこへ載せて行ったのですか。
ヒロン
その御返事をするのは造作はない。あの時は
ジオスコロイの兄弟があれを
7415
賊の手から救って遣った。しかしあれは負けていたくない性分なので、
元気を出して跡から駆けて来た。
所で兄弟の急ぐ足をエレウシスの
沼が遮り留めた。兄弟はぼちゃぼちゃ渉る。
7420
己はあれを載せてごぼごぼ這入って泳ぎ越した。あれは飛び降りて、濡れた鬣をさすって、
愛らしく賢しげに、しかも気高く、
世辞のある礼を言った。実に
老人の目をも悦ばせる、若い、美しさだった。
7425
ファウストでもその時はまだ十ばかりで。
ヒロン
ははあ。博言学の
先生達が自ら欺いて、お前さんをも騙したのだな。
神話の女は別な物だ。あれは詩人が
都合の好いように書いて見せるのだ。
いつ丁年になるでもなく、年が寄るでもなく、
7430
いつも旨そうな肉附をしていて、子供半分で奪われたり、更けてから大勢に慕われたりする。
詰まり詩人は時間に縛せられないのだ。
ファウスト
ですからあの女も時間に縛せられないが、
好いのです。アヒルレウスがフェレエであれを
7435
見附けたのも時間の外でした。不思議な幸ですね。運命に逆って恋を遂げたのですから。
わたしだってこれ程の係恋の力で、またとない
あの姿を現に返すことが出来そうなものです。
あの偉大で、しかも優しく、尊厳で、しかも可哀い、
7440
神々と同等な、永遠な姿をですね。あなたは昔見られた。わたしは今見たのです。
動されずには、慕わずにはいられない美しさです。
もうわたしの心も魂も緊しく捉われて、
あれを手に入れずには、生きていられません。
7445
ヒロンおい。他所物。人間としてはそんなに感動して
いるも好かろうが、霊どもの仲間から見ると
気違染みている。しかし丁度好い事がある。
己は毎年ちょいとの間、アスクレピオスの娘の
マントオを尋ねて遣ることになっている。
7450
あれはいつも静かな祈を父に捧げている。どうぞお父う様の御威徳で、
医者共の夢を醒ましてお遣になって、
大胆に人を殺すことをお廃させなされて
下さいと云うのだ。巫女共の中で一番好な女だ。
7455
情深く優しくて、目まぐろしくこせつかない。お前さんを少しあれが所に滞留させたら、薬草の
根の力で、病気を根治して上げることが出来よう。
ファウスト
直してなんぞ貰いたくはありません。魂は
丈夫です。直されて俗人同様にはなりたくない。
7460
ヒロン神の泉の霊験を曠くせぬようになさい。
さあ、お降なさい。もうそこへ来たのだ。
ファウスト
どうぞ言って下さい。気味の悪い夜中に、川床の
小石を踏んで、どこの岸へ連れて来たのですか。
ヒロン
ここがロオマとグレシアとの争った所だ。右は
7465
ペネイオスの流、左腋はオリムポスの山だ。最大の版図が、水の砂に吸われるように滅びた。
王は奔る。公民は凱歌を奏する。頭を挙げて
御覧。直傍に月の光を浴びて
永遠の祠が立っている。
7470
巫女マントオ(内にて夢見心地に。)馬の蹄に
神の階段が鳴る。
半神が来ると見える。
ヒロン
違ない。
目を開けて御覧。
7475
マントオ(醒む。)好くおいでなさいました。闕かしはなさいませんね。
ヒロン
お前さんの祠もちゃんと立っていますからな。
マントオ
今でも草臥れずに駆けてお歩なさいますか。
ヒロン
あなたがいつも神垣の中にじっとしていると
同じ事で、わたしは駆け歩くのが面白いのです。
7480
マントオ動かずにいるわたしの周囲が廻るのです。
そしてこの方は。
ヒロン
評判の悪い祭の夜が
渦巻に巻き入れてこの人を連れて来ました。
物狂おしいような心持になって、
ヘレネを手に入れようとしていますが、どこで
7485
どう手を著けて好いか、知れないのです。アスクレピオスの療治を受けるに誰よりも適当でしょう。
マントオ
出来ない事を望む人はわたしは好です。
(ヒロンは去ること既に遠し。)
大胆なお方。お這入なさい。そしてお喜なさい。ペルセフォネイアさんの所へ暗い廊下から
7490
行かれます。オリムポス山の空洞な底で、幽界の后は禁ぜられた挨拶を内証で聴かれます。
いつぞやオルフェウスさんをそっと通したのも
ここです。さあ、大胆にあれより旨くお遣なさい。
(共に降り行く。)
(同上。)
セイレエン等いざ、ペネイオスの流に跳り入りてむ。
7495
かしこにて、音立てゝ波を凌ぎ、滅びし国民のために、歌あまた
歌はむは、われ等に似附かはしかるべし。
水なくば幸あらじ。
晴やかなる群なして急ぎ
7500
諸共にアイゲウスの海に入りなむ。さらばわれ等楽しき事の限を見む。
(地震。)
川床低く流れずなりて、
波は泡立ちて帰り、
地は震ひ、水はとゞまり、
7505
砂原と岸とは裂けて烟を吐けり。いざ、逃れむ。皆共に来よ。
怪しき事、誰がためにか願はしからむ。
いざ行かむ。楽める貴きまらうど等。
ゆらぐ波赫きて、岸を潤し、
7510
ゆるやかに立てる海の晴やかなる祭の場に行かむ。
二重に月照りて奇しき露もて
われ等を濡らす所に行かむ。
かしこには賑はしき自由なる生活あり。
7515
こゝには忌まはしきなゐのふるあり。さかしき人は疾く行け。
こゝはゆゝしき所なり。
地震の神セイスモス
(地の底深くうめきひしめく。)
もう一遍力を入れて押して、肩でしっかり持ち上げて遣れば、
7520
地の上に出られるだろう。そしたらなんでも避けずにはいられまい。
スフィンクス等
まあ、なんと云う、厭な震いようだろう。
こわい、気味の悪い音のしようだろう。
ぐらついたり、ぶるぶるしたり、
7525
鞦韆のように往ったり戻ったりすること。我慢の出来ない程、厭だこと。
だけれど、地獄がそっくりはじけて出ても、
わたし達はこの場は去らない。
おや。不思議な、円天井の宮殿が
7530
迫り上げられて来ますね。あの人です。あの年の寄った、疾っくに白髪になった人です。
いつかお産をし掛かっているレトさんを
住わせようと、波の中からデロス島を
湧き出させた、あの人です。
7535
あの人が押したり、衝いたり、骨を折って、アトラスの神のような風をして、
背中を屈めて、臂に力を入れて、
草の生えた所でも、泥や砂や小石のある所でも、
この川岸の静かな所でも、一体に
7540
地面を押し上げているのです。とうとうこの谷間の静かな地面の帯を
横に裂いてしまいましたね。
大きいカリアチデスのような風をして、
草臥れっこなしに働いて、
7545
まだ地の下で、胸の所まで、恐ろしい石の一山を持ち上げています。
しかしもうあれから上へは上がらせません。
わたし達が据わっていますからね。
地震の神
何もかも己が一人で手伝ったと云うことは、
7550
もう大抵世間が認めてくれそうなものだ。己がゆさぶって遣らなかったら、
世界がこんなに美しく出来てはいまい。
画を欺く美しさに見えるように、
己が押し上げて遣らなかったら、
7555
美しく澄んだ蒼空にあそこの山々が聳えてはいまい。
夜の先祖の、あの混沌、あのハオスの前で、
己が骨惜をせずに、チタアン共と
一しょになって、毬を投げるように、
7560
ペリオンやオッサの山を投げた時の事だ。己達は若い勢で暴れた挙句に、
厭きて来て、とうとうしまいに
あの山二つを、二山帽子の恰好に、
徒半分、あのパルナッソス山の上に載せた。
7565
今ではムウサ達の尊い群と一しょに、アポルロンさんがあそこに楽しく住んでおいでだ。
チェウスさんの椅子だって、あの雷の道具籠に、
己があの高みへ押し上げたのだ。
そこで今夜も精一ぱい
7570
地の底から己は迫り上がって来て、面白そうな人間共を、大声で、
新しい生活に呼び覚ますのだ。
スフィンクス等
あの、ここにそば立っているものが、
地の下から、もがいて出て来たのを、この目で
7575
見ていなかったら、太古からあのままにあったと思わせられてしまうでしょう。
木の茂った森が半腹まで広がって、
今でも次第に岩々が畳って行きます。
しかしスフィンクスはそれには頓著しません。
7580
この神聖な場所に、澄ましています。グリップス
紙のような、雲母のような黄金の
ひらひらするのが、己には隙間から見える。
あんな宝を取られるようにするのだぞ。
さあ、蟻共。掘り出しに掛かれ掛かれ。
7585
歌う蟻の群巨人達のこの山を
押し上げしごと、
足まめやかなる友等、
いざ疾く升れ。
疾く出入せよ。
7590
この隙間なるは粒ごとに皆
蔵め置く甲斐あり。
到らぬ隈なく、
塵ばかりなるをも、
7595
いちはやく見出せ。
蠢く群よ。
皆いそしめ。
たゞ黄金を取り入れよ。
7600
山はさてあらせよ。グリップス
持って来い。持って来い。金を積み上げい。
己が爪で押さえている。
これが一番好い錠前だ。
どんな宝でも慥かにしまって置かれる。
7605
侏儒ピグマイオス等どうしてこうなったか、知りませんが、
わたし共もここへ陣取りました。どこから
来たなぞと、お尋下さいますな。
兎に角ここにいますから。
生きながらえて楽しく住むには、
7610
場所はどこでも結構です。岩にちょいと割目が出来ると、
もう一寸坊がそこに来ています。
一寸坊の夫婦は、皆共稼で、
似合のものばかりです。
7615
楽園以来こうでしたか、そこの所は存じません。
わたし共にはここが結構で、
好い星の廻合だと存じています。
なぜと申すと、東でも西でも、土地と云う
7620
おっ母さんは喜んで子を生み附けますから。極小侏儒ダクチレ
あのおっ母さんは一晩に
小さいものを生んだとおりに、
一番小さいものをもお生でしょう。
それにも似合の連が出来ましょう。
7625
侏儒の長老程好き所に
急ぎて座を占めよ。
さて急ぎて業を始めよ。
早さを強さに代へよ。
世はなほ治れり。
7630
甲を、戈を、軍の群に授けむため、
鍛冶の場を営め。
蟻等皆
群なしていそしみ
7635
粗金持て来よ。さて数多き
最も小さき侏儒等には
木樵ることを
課せてむ。
7640
真木積み畳ねて、親しき火あらせよ。
炭を造れよ。
将軍
弓を取り、矢を負ひて、
疾く出で立て。
7645
かの池の畔にあまた巣作りて、
傲りて住める鷺を
一時に
剰さず
7650
射て墜せ。さらば冑に羽の
飾して出でなん。
蟻等と極小侏儒と
誰がこっちとらを助けてくれるだろう。
こっちとらが鉄を持って来て遣れば、
7655
あいつ等は鎖を拵えおる。だが逃げ出すには
まだ早過ぎる。
まめに働いているが好い。
イビコスの黒鶴等
殺す叫や死ぬる歎や
7660
物に恐れる羽ばたきが聞える。己達のいる、この高い所まで聞える。
あのうめき苦しむ声はどうだろう。
もう皆殺されてしまって、
海が血で赤く染まった。
7665
鷺の品の好い飾を醜い形の慾が奪ってしまう。
あの腹の太った、脚の曲った横著者の
冑の上に、もう取られた羽が閃いている。
おい。仲間の鳥達。列をなして
7670
海を越して行く鳥達。唇歯の親のある中の、この仇討に
己達はお前方を呼ぶのだ。
力を惜まずに、血を惜まずに、あの醜類に
永遠な敵対をして遣ろうじゃないか。
7675
(叫びつゝ空中に散ず。)
メフィストフェレス(平地にて。)北の国の魔共なら兎に角己の手に合うが、
どうもこの異国の化物共は扱い憎くて困る。
やっぱりブロッケンの山は好い所だ。
どこに飛び込んでも方角の知れぬことはない。
イルゼの姨さんは石に据わって番をしてくれる。
7680
ハインリヒも我名の辻は居心が好いはずだ。鼾岩が貧乏山にけんつくを食せても、
万事千年の後までも極まっているのだ。
所がここに来ては、誰だってどこに立って、どこを歩いて
いるか知らない。足の下の土がいつ持ち上がるか知らない。
7685
己がのん気に平な谷間を歩いていると、出し抜に背中に山が出来ている。
山と云うのも大袈裟だろうが、あの高まりでも、今まで
話していたスフィンクスと己との間を隔てるには十分だ。
ここから谷の下の方を見れば、まだ篝火が大ぶ
7690
燃えていて、それぞれの不思議を照している。まだ己をおびくように、避けるように、狡猾に
騙すように、女の群が空を踏んで踊っている。
そっと行って見よう。どこでも撮食をする癖の
附いている己に、何かしら攫まりそうなものだ。
7695
妖女ラミエ等
(メフィストフェレスを誘ひつゝ。)
急がばやいづくまでも。
またしばしたもとほり
物言ひ交さばや。
老いたるすきものを
7700
誘ひ寄せて報受けさせむは、
面白からずや。
竦める脚して、
よろめき、
7705
躓きつゝぞ来る。われ等逃ぐれば、
足引きて
跡よりぞ来る。
メフィストフェレス(立ち留まる。)
ひどい目に逢う事だぞ。男は本から騙されるものだ。
7710
アダム以来三太郎は馬鹿にせられ通しだ。誰も年を取るが、さて賢くはならないな。
随分これまで沢山馬鹿にせられたのだが。
一体腰を細くして、面に白い物を塗る人種は、
根から腐っているのが分かっている。
7715
どこを掴まえても丈夫な所はない。節々が朽ちてぼろぼろになっている。
それが見えていて、手に取るように知れていて、
そのくせあいつらが笛を吹くと、つい踊るのだ。
ラミエ等(立ち留まる。)
お待よ。何か考え込んで、まごまごして立ち止まってよ。
7720
逃がさないように、からかってお遣。メフィストフェレス(歩む。)
遣っ附けろ。何もおめでたく疑惑の
網に引っ掛かるには及ばない。
魔女と云うものもいなくては、
男の悪魔がなんにもなるまい。
7725
ラミエ等(飽くまで嬌態を弄す。)この方の周囲に圏をかきましょうね。
わたし達の中で、どれかがきっと
可哀くおなりなさるに違ないわ。
メフィストフェレス
薄明の中で見ていれば、
お前達も別品のようだ。
7730
そこで悪口は言いたくない。一脚の女エムプウザ(群に入る。)
わたしも悪くは仰ゃらないでしょう。その積で
あなた方のお仲間に入れて頂戴な。
ラミエ等
わたし達の仲間では、あの女は余計ものだわ。
いつでも打ちこわしをするのだもの。
7735
エムプウザ(メフィストフェレスに。)驢馬の足を持っている、お馴染の
御親類のわたしが御挨拶をしますわ。
あなたのは馬の蹄ですけれど、
兎に角お心安くなすってね。
メフィストフェレス
ここには知ったものなんぞはいない積だった。
7740
それに生憎そんな親類がいたのかい。なんにしろ、古い書類でも調べなくてはなるまい。
ハルツからヘラスまで親類だらけでは。
エムプウザ
わたしはこれでなかなかす早いの。
いろんな物に化けてよ。
7745
先ずあなたへの御馳走にちょっと頭を驢馬にしましたの。
メフィストフェレス
はてな。この連中ではなかなか
血筋ということを大事にしているようだ。
しかしどんな事が出来するにしても
7750
驢馬の頭を身内にはしたくないな。ラミエ等
あの厭な女にお構でない。美しい、可哀らしいような物は、
あいつが皆追っ払いますの。
美しい、可哀らしい物がいても、あいつが来ると、
すぐいなくなってしまいますの。
7755
メフィストフェレスだがそこにいる、すらりとした
姨さん達も、わたしは皆怪しいと思う。
その薔薇色の頬っぺたの奥に、
化物のこわい顔がありそうだから。
ラミエ等
おお勢いますから、験して御覧なさいな。
7760
一人お掴まえなさいな。御運が好ければ、好い籤にお当なさるわ。物欲しげに
くどくど仰ゃるのは可笑しいわ。
のろのろ遣って来て、大きな顔をしてさ。
ほんとに厭な色男だわ。わたし達の
7765
仲間にいらっしゃったからには、そろそろ面を脱いで、
正体をお見せなさいな。
メフィストフェレス
それ。一番の別品を掴まえるぞ。
(一人を抱く。)
しまった。箒のように痩せてけつかる。7770
(他の一人を抱く。)
こいつはどうだ。ひどい御面相だな。ラミエ等
あなたのお相手には好過ぎるわ。
メフィストフェレス
小さい奴を書入にしようと思うと、
ラチェルタ奴、手を摩り抜けて行きゃあがる。
編下が蛇のようにぬめぬめする。
7775
そんなら一つ背の高いのをと思うと、そいつはチルンスの杖のようで、
尖に松毬が附いてやがる。
どうしよう。もう一つ太った奴を掴まえようか。
こんなのは気持が好さそうだ。
7780
これが勝負だ。遣っ附けろ。むくむくぼてぼてしていゃあがる。東洋人の
値を好く買いそうな貨物だ。
おや。しまった。隠子菌だ。はじけやがる。
ラミエ等
さあ、分れましょうね。ふわふわゆらゆら、
7785
黒い群になって飛んで、稲妻のように、飛入の悪魔を取り巻いて遣りましょう。
覚束なげに、気味の悪い圏をかきましょう。
蝙蝠のような、音のしない羽搏をしましょう。まあ、
あの人、割にひどい物に逢わずに済んだわね。
7790
メフィストフェレス(身慄す。)己もまだ余り智慧は附いていないな。
北の方も馬鹿らしいが、ここも馬鹿らしい。
化物はあそこもここもねじくれてけつかる。
土地のものも詩人も殺風景だ。
どこでも助兵衛の慰が流行るように、
7795
ここにも仮装舞踏があるのだ。優しげな面を被った奴を押さえて見れば、
身の毛の弥立つ五体を見せられる。
せめてもっと長く持ってくれたら、
己は目を瞑って楽んでも好いのだが。
7800
(石の間を彷徨す。)
己はどこにいるだろう。どこへ出られるのだろう。道と思っているうちに気味の悪い所へ出た。
平な道を踏んで来たが、これから先は
ごろごろした石ばかりになっている。
登ったり降りたりして見ても無駄だ。
7805
あのスフィンクス共はどこにいるだろう。一晩のうちにこんな山が出来る程の、
馬鹿げた事があろうとは思わなかった。
魔女共が元気好く物に乗って来るついでに、ここへ
ブロッケンの山を持って来たとでも云おうか。
7810
山の少女オレアス(天然岩の上より。)ここへ登っていらっしゃいな。これは古い山で、
そっくり昔の形のままでいます。
ピンドスの神山の延びて来た一番の端です。
この嶮しい岩の道を難有くお思なさい。
ポンペイユスが越して逃げた時も、
7815
わたしは動かずにこうして立っていました。傍にあるまやかしの山なんぞは、
鶏が鳴けば消えてしまいます。
あれと同じで、作物語は出来たと思うと、
すぐにまた亡くなることが、度々あります。
7820
メフィストフェレスなるほど難有そうな頭をしている。
丈夫なの木の茂みを被っていて、
此上もなく明るい月の光でさえ、
あの木下闇には照り込むことが出来ない。
所があの森の傍を控目に光る
7825
小さい火が通っているな。どうしたと云うのだろう。
そうだ。小人だ。ホムンクルスだ。
おい。小さい先生。どこから来たい。
小人
わたくしはどうぞ本当の意味で成り出でたい、
7830
少しも早くこの硝子を割ってしまいたいと思って、そこからここへと飛んで歩いています。
所が今まで見ただけでは、思い切って
這入り込んで行こうと思う場所がありません。
そこであなたに内証でお聞せするのですが、
7835
哲学者を二人見附けましたよ。立聴をすると、「自然、自然」と云うことを、口癖に言っています。
あの人達は下界の事に通じているはずだから、
見失わないようにしようと思っています。
あの人達に聞いたら、一番旨く遣るには、
7840
どこへ話すが好いか、分かるかも知れません。メフィストフェレス
それはやっぱりお前が自分でする方が好い。全体
化物共のいる場所では、
哲学者は歓迎せられる。世間の奴が
お腕前を拝見して、お蔭を蒙るように、
7845
先生達は早速化物の一ダズン位は製造するのだ。やっぱりお前も迷って見なくては、智慧は附かないよ。
成り出でようと思うなら、所詮自力で遣るに限る。
小人
しかし好い助言も棄てた物ではありません。
メフィストフェレス
そんなら行くが好い。どうなるか、見ていよう。
7850
(二人別る。)
火山論者アナクサゴラス(タレスに。)君は強情で、人の説に服せまいとしているのだ。
君に得心させるには、これ以上に何がいるのかい。
原水論者タレス
波と云うものはどの風にも靡くが、
頑固な岩は避けて通るのだ。
アナクサゴラス
火の気でこの岩は出来ているのだ。
7855
タレス生物は湿で出来たのだよ。
小人(二人の間にありて。)
どうぞわたくしを附いて行かせて下さい、
わたくしはこれから成り出でたいのです。
アナクサゴラス
そこで、君、一晩にこんな山を
泥から拵えたことがあるかい。
7860
タレス所が、自然と云うものと、その生々した変化とは、
昔から昼夜や時間で限られてはいないよ。
一々の物の形を正しく拵えて行くのが極で、
大体から見ても、威力を以て遣ってはいない。
アナクサゴラス
所がここでは遣ったのだ。プルトン流の恐ろしい怒った火、
7865
アイオルス流の蒸気の爆発力が平地の古い上皮を衝き抜いて、すぐに山が
出来なくてはならぬようにしたのだ。
タレス
そこでそれ以来どうなったと云うのだい。
山が出来ている。詰まりそれで宜しい。
7870
こんな喧嘩で暇を潰して、辛抱強い世間の奴を引き摩り廻しているばかりでは駄目だ。
アナクサゴラス
そこで岩の割目を賑わすように、
その山がミルミドン族や、ピグマイオスや
ダクチレや、蟻、その外の小さい、まめな
7875
連中を、うようよ涌いて来させるのだ。
(ホムンクルスに。)
そこでお前方だが、始終世棄人のように引っ込んで生きていて、大きな事を企てたことがない。
もし人の上に立って見る気になられるなら、
一つ王冠を被らせて貰ってはどうだ。
7880
小人タレス先生はどう思召します。
タレス
わたしは
勧めたくないね。小さいものに交っていれば、小さい事が
出来る。大きいものと一しょになれば、小さい
ものも大きくなる。あの黒鶴の群を見い。
あれは今騒ぎ立った人民を威しているのだが、
7885
帝王をでもやっぱりあの通に威すのだ。尖った嘴や爪を揮って、
今小さい奴等の上へ卸して来る。
もう否運の影が閃いている。事の起は
小さい奴等が平和な池を取り巻いて、
7890
猥に鷺を殺したからだ。ところが、雨と降った、殺生の矢が、今は残酷な、
血腥い復讐の報を受けることになった。今はあの
虐殺を敢てした一寸坊の血が見たいと云う、
鳥仲間の怒を招くことになった。
7895
盾も冑も槍も、もう用には立たぬ。一寸坊共がもう鷺の羽の飾をなんにしよう。
あのダクチレや蟻なんぞの隠れるのを見い。
もう全軍が色めく。逃げる。瓦解する。
アナクサゴラス
(間を置きて、荘重に。)
今まで己は地の下の威力を称えていたが、7900
この場合では上の方へ向いて祈らねばならぬ。御身よ。上にいて、永遠に古びずに、
三つの称号、三つの形相を持っている、
ジアナ、ルナ、ヘカテの三一の神よ。我民草の
惨害を見て、おん身に祈る。
7905
御身よ。胸を披く神、情深き神、静かに見えている神、力強く優しい神よ。
御身の陰翳の物凄いを開いてくれられい。
昔ながらの威力が不思議を待たずに見たい。
(間。)
祈が余り早く聞かれたのか。7910
天を仰いでした己の祈が、
自然の秩序を紊したのか。
目に恐ろしく、常ならず見える、
女神の円く限られた玉座が、次第に、次第に
7915
大きくなって、近づいて来る。その火が気味悪く赤くなって来る。もうそれより
近くなってくれるな。脅かすような、力強い巡歴。
御身は己達をも陸をも海をも滅ぼすだろう。
それではテッサリアの女共が、無遠慮な幻術の
7920
心安立から、歌で、御身が軌道を離れて降りて来られるようにしたと云うのは、本当か。おん身に
迫って一番ひどい禍を招いたと云うのは本当か。
明るい盤が周囲から昏くなって来る。
や。突然裂ける。光る。赫く。あのぱちぱち
7925
しゅっしゅっと云う音はどうだ。それに交って雷が鳴る。暴風が吹く。
己は玉座の段に身を委ねて罪を謝する。
これは己が招いた禍だ。
(地に俯伏になる。)
タレス好くいろんな物が見えたり、聞えたりする男だな。
7930
何事があったか、己にはさっぱり分からない。それに己にはそんな事を一しょに感じることも出来なかった。
お互に白状するが好い。今は気違染みた時刻だ。
ルナは前々通、自分の場所に、
気楽に浮いていなさるのだ。
7935
小人でもあっちのピグマイオス共の居所を御覧なさい。
今まで円かった山が尖って来ました。
わたくしには恐ろしい衝突が感ぜられました。
岩が月から墜ちて、すぐに
なんの遠慮会釈もなく、
7940
敵も身方も押し潰して殺したのです。しかし兎に角わたくしは、
一夜のうちに、下からと上からと同時に、
創造的にこんな山を拵えた
技術を称えずにはいられません。
7945
タレスまあ、落ち着いていろ。あれはただ思想上の出来事だ。
一寸坊の醜類共は滅びてしまうが好い。
お前は王にならいで、為合だった。さあ、これから
晴やかな海の祭へ行こう。あっちの流義では、
不思議な客を待っていて、敬ってくれるのだ。
7950
(共に退場。)
メフィストフェレス
(反対の側を攀ぢ登りゐる。)
この通己は嶮しい岩の阪道や、の古木のごつごつした根の上を、難儀しながら登っている。
国のハルツの山では、一体に児に似た
樹脂のがしている。それに硫黄が手近だが、
あれも好だ。グレシア人共のいるこの辺では
7955
そんなはちっともしない。一体地獄の責苦の火を、こっちでは
なんで焚き附けるか、聞いて見たいものだ。
の木の少女ドリアス
お国ではお前さん気の利いた方でしょうが、
余所へおいでなすっては駄目ですね。
7960
そんなにお国の事なんぞを思い出さないで、この難有いの木をお拝なさいな。
メフィストフェレス
いや。誰でも棄てて来た事を恋しく思うものだよ。
居慣れた所は、いつまでも天国だ。
それはそうと、あそこの洞穴の中の
7965
薄昏がりに三人しゃがんでいるのはなんだ。ドリアス
あれは闇の女フォルキアデスです。気味が悪いと
お思なさらないなら、往ってお話をなさいまし。
メフィストフェレス
行かれない事はないよ。や。見て驚くなあ。
己は負けない気だが、こんな物はまだ見たことが
7970
ないと云って退けるより外ないぞ。これはまたマンドラゴラの根のお化よりひどい。
この三人の化物を見たからは、
一番古く嫌われている罪悪だって、
ちっとも醜いとは云われまい。
7975
国の地獄では一番ひどい所の入口にも、こんな物は我慢して置いて遣らない。
ここでは美の国だと云うにこんな物が生える。
それを古代と云って褒めるのだ。
や。動き出した。己を嗅ぎ附けたらしい。
7980
何やらぴいぴい云いおる。血を吸いそうな蝙蝠奴が。闇の女フォルキアデス
きょうだい達。ちょいと目をお貸。祠のこんな
近所まで、誰が来たか、聞いて見るから。
メフィストフェレス
姉えさん方。御免なさい。お傍へ参って
お三人の祝福を戴きたいのです。
7985
お馴染もなくて出掛けたのですが、わたくしの思違でなけりゃあ、遠い御親類のはずです。
随分古い難有い神達にもお目に掛かりました。
オプスやレアさんには、しっかり頭を下げました。
きのうでしたか、おとついでしたか、混沌の子の、
7990
御きょうだいのパルチェエ達にも逢いました。しかしあなたのような方を拝むのは始てです。
もう饒舌らずに、ただ難有がっていましょう。
フォルキアデス
この幽霊は物の分かる男らしいね。
メフィストフェレス
ただどの詩人もあなた方を歌わぬのが妙ですね。
7995
どうしたのでしょう、どうしてそんな事が出来たでしょう。こんなお立派な方々の肖像を、ついぞ拝したことがない。
ユノやパルラスやウェヌスばかり彫らないで、
彫刻家の鑿もあなた方を写して見れば好いに。
フォルキアデス
寂しい暗い所に引っ込んでいるものですから、
8000
ついそこに気が附きませんでしたよ。メフィストフェレス
無理もないですね。あなた方が世に遠ざかって
誰にも逢いなさらず、誰もあなた方を拝まないのだから。
一体豪奢と芸術とが座を分けて据わっていて、
毎日大理石の塊が英雄の姿になって、
8005
さっさと股を広げて歩いて出るような土地に住んでいなされば好いに。
そう云う。
フォルキアデス
お黙。人をおだてないで下さい。
望があったって、なんになるものかね。
夜生れて、夜のものに親んで、人には丸で
8010
知られず、自分にさえ知られずにいるのだもの。メフィストフェレス
そうだとして見れば、わけもない事です。
人に委任して御覧になると好いのです。
お三人で目を一つと歯を一本と使っておいでになる。
そこでお三人の御本体を、一時お二人でお摂し
8015
なさるとして、三人目のお姿をわたくしにお貸なさることも、神話学上お差支は
ないでしょう。
フォルキアデスの一人
どうだろうね。好かろうか。
他の二人
いたして見ましょう。でも目と歯とは貸されません。
メフィストフェレス
それでは一番好い物をお除になるのです。
8020
どうしてお姿がそっくり似せられましょう。一人
わけはありません。片々の目を瞑って、
鬼歯を一本お見せなされば好いのです。
そうなされば、横顔がすぐにそっくり
わたくしどもに似ておいでなさいます。
8025
メフィストフェレス難有い事です。好いですか。
フォルキアデス
好うござんす。
メフィストフェレス
(横顔をフォルキアデスにする。)
これでもう混沌の秘蔵息子になりすました。フォルキアデス
それはわたし達が混沌の娘だと云うことは確かです。
メフィストフェレス
これでは半男半女だと冷かされても為方がない。
フォルキアデス
改めてのきょうだい三人の中で誰が美しかろう。
8030
こちらは二人で目も歯もあります。メフィストフェレス
己はもう誰にも見られぬようにせんではならぬ。
地獄の水潦で悪魔を威す姿だからな。
(退場。)
(月天の頂点に懸かる。)
セイレエン等
(岸の岩の上あちこちにゐて、笛を吹き、歌ふ。)
夜の恐ろしき紛に、テッサリアの奇しき女等、
8035
君を猥におろしまつりしこともあれど、今は君静かに自ら掌らす夜の空より、
優しく赫く影を流して、
顫ふ波を眺めまし、
その波間に浮き出づる
8040
群を照させ給へ。美しきルナの神よ。いかにもして仕へまつらん。
ただ御恵を垂れ給へ。
ネエレウス族とトリイトン等と
(海の怪物として。)
汝達広き海原とよもし、今一際鋭き音を高く立てよ。
8045
深き底なる民呼び継ぐべし。恐ろしきの風を脱ると、
我等静かなる片蔭に寄り集へり。
優しき歌われ等を誘ふ。
見給へ。われ等は喜ばしさの余に、
8050
黄金の鎖を身に纏ひ、玉を嵌めたる冠に、腕の輪をさへ、
帯をさへ添へて飾りぬ。
こは皆君等が賜なり。
君等、この入江の神等。
8055
舟摧けて沈みし宝を、われ等がために、歌の力もて引き寄せ給ひぬ。
セイレエン等
憂きこと知らぬ漂の世を、
魚は海の涼しき国に、平けく
楽しく過すものとは、早く知れり。
8060
さはれ。祭の場に賑はしく集へる君等よ。けふは君等が世の常の魚に優れるを、
われ等は見ばやと思へり。
ネエレウス族とトリイトン等と
こゝに来るに先だちて、
われ等早く思ふよしありき。
8065
女男のはらから達。いざ、今疾く行かむ。世の常の魚に優ると云ふ、
最も力ある証を見せむため、
けふはいさゝかの旅せば、足りなむ。
(共に退場。)
セイレエン等皆つと去りぬ。
8070
追風のまにまにサモトラケさして真直に去りぬ。
尊きカベイロイの国へ行きて、
何をかせんとすらん。
測り知られず、何物にも似ぬ神々なり。
8075
とことはにおのづから生れ出でて、常に何ぞともみづから知らずと云ふ。
恵深きルナの神よ。
高き空にさながら、優しくいませ。
夜の長く続きて、
8080
われ等の日に逐はれざらむために。タレス
(岸にて小人に。)
お前をネエレウスの爺いさんに紹介するのは造做はない。あれが住む洞穴も遠くはない。
しかし厭な、苦虫を噛み潰したような面の奴で、
強情で手におえないて。
8085
あの不機嫌な親爺には、人間世界の全体のする事が、いつも気に食わない。
所があいつには未来の事が分かっている。
だから誰でも遠慮して、いる所にいさせて、
敬って置いて遣るのだ。その上あいつは
8090
いろいろな人の世話もしてくれたのだ。小人
験に門を敲いて遣りましょう。まさかすぐに
硝子をこわして、火を消されもしますまい。
海の神ネエレウス
己の耳に聞えるのは人間の声か知らん。
どうもすぐに心から腹が立ってならない。
8095
りきんで神々の境に達しようとする生物だが、そのくせ永遠にどん栗の背競をする約束に
出来ている。昔から己は神らしく休んで
いられるのに、善い物を助けたくてならない。
所で昨今の為上を見ると、まるで己が
8100
智慧を貸したものとは思われないのだ。タレス
所が、おじさん、世間ではやはりあなたを
頼にしています。あなたは賢者だ。門前払を
食わせないで下さい。この人間らしい火を御覧。
あなたの御意見通にする気でいるのだ。
8105
海の神意見だと、昔から人間が意見を聴いた例があるか。
気の利いた詞はごつごつした耳には這入らない。
何度遣って見て、自分で自分に呆れても、
人間はどこまでも我を通して行くのだ。
他所者の女が、あいつの色気を網でからんで
8110
しまわぬうちに、あのパリスにだって親同様に意見をした。グレシアの岸に大胆に立っていたあいつに
己の心の目に写った事を云って聞せた。
烟は空に満ち、赤い色が漲って、
棟梁は燃え、下には虐殺が行われている。
8115
トロヤの復讎の日だ。千載に伝えて、活きた画のように、人の知っている恐ろしさだ。
横著者奴、老人の詞を笑談だと思いおった。
情欲のままに振舞った。イリオスの都は落ちた。
長い艱の果にしゃっちこばった巨人の死骸だ。
8120
ピンドスの山の鷲の待っていた馳走だ。ウリッソスにだってそうだ。キルケの手管も、
キクロオプスの禍も、己が言って聞せたのだ。
あいつの躊躇、あいつの部下の軽はずみ、
何もかも言って聞せた。それが役に立ったか。
8125
よほど遅くなってから、十分揺られた挙句に、波の恵で待遇の岸へは著いたのだが。
タレス
そう云う振舞は賢者に苦痛を与えるでしょう。
しかし善人はまた遣って見るものです。
一毫の報恩も、善人に大喜をさせて、
8130
万斛の不義理を十分填め合せるでしょう。わたし共のお頼は容易な事ではない。
あの小僧はこれから成り出でたいと云うのです。
海の神
己の久し振の上機嫌を損ねさせてくれるな。
きょうはまるで違った用のある日だ。
8135
己の娘達、ドオリス族の海少女が皆来るように言って置いた。
あんな美しい立居の女は、オリムポスの山にも、
お前方の世界にも、またとあるまい。
しなやかに、竜の背からネプツウヌスの馬に
8140
乗り換えて来る。泡の上にでも浮き上がることが出来るように
水に親しく馴れている。
一番美しいガラテアは、彩い赫き、
ウェヌスの常の座、貝の車に乗って来る。
8145
あれはキプリスが己達に叛いてからパフォスで神に祀られているのだ。
あれがウェヌスの後継になって、祠のある土地や、
車の玉座を占めてから、もう久しくなる。
帰れ帰れ。親として己が楽む、きょうの日に、
8150
心に怒、口に悪口は禁物だ。形を変えるプロテウスの所へ往け。どうして
成り出でられるか、化けられるか、あの化物に聞け。
(海の方へ退場。)
タレスこれはまるで無駄な手数だった。プロテウスに
逢ったところで、すぐ消えてしまうだろう。
8155
相手になってくれた所で、呆れるような事、戸まどいをするような事しか、言っては聞せまい。
しかし兎に角意見が聞きたいと云うのだから、
験しに出掛けて見るとしよう。
(退場。)
セイレエン等
(上の方、岩の上にて。)
遠方より波の境を滑りて8160
寄り来と見ゆるは何ぞ。風のむた
白帆の進み近づくごと、
姿あざやかにも見ゆるかな。
あはれ、浄められたる海少女等よ。
8165
いざ、諸共に岩を降りなむ。声さへ、汝達にも聞えずや。
ネエレウス族とトリイトン等と
われ等の手に載せ、かしづきて来ぬるもの、
君等の心を悦ばせざらめや。
大亀ヘロネの甲の鏡
8170
厳めしき姿を写し出せり。われ等が傅きて来ぬるは神々ぞ。
君等畏き歌を歌へ。
セイレエン等
御身はさゝやかなれど
御稜威は大いなり。
8175
淪むものを救ひます神等、昔より斎きまつる神等はこれ。
ネエレウス族とトリイトン等と
治まれる世の祭せむと、
カベイロイの神等を迎へ来ぬ。
この神等の畏く振舞ひ給ふ境には、
8180
ネプツウヌスの神も平けくまつりごち給はむ。セイレエン等
舟の砕けむとき、
われ等おん身等に及ばず。
逆はむよしなき御稜威もて、
舟人を救ひませば。
8185
ネエレウス族とトリイトン等と三柱をば迎へまつりぬ。
四柱めの神辞みましぬ。
その神宣らさく。皆に代りて思ひ量る、
われぞ真の神なると。
セイレエン等
かくては一人の神、あだし神を
8190
嘲り給ふことゝなりなむ。君等たゞ福を尊び、
禍を恐れてあれ。
ネエレウス族とトリイトン等と
実は七柱の神おはせり。
セイレエン等
さらば残れる三柱はいづくにおはする。
8195
ネエレウス族とトリイトン等とわれ等は知らず。
オリムポスの山にてや問はまし。
かしこにはまだ誰も思ひ掛けぬ
八柱目の神もやいまさん。
そもわれ等に憐を垂れ給ふらめど、
8200
皆未だ全くは成り出でまさぬなるべし。得られぬ物に
あくがれます饑の神等、
譬へむ物なき神等は
果なく成り出でむとし給ふなり。
8205
セイレエン等日のうち、月のうち、
いづくに神等いまさむも、
祈る習をわれ等は棄てじ。
そはその甲斐あればなり。
ネエレウス族とトリイトン等と
この祭執り行ふわれ等の誉
8210
いかに高く挙がるかを見よ。セイレエン等
いづくにて、いかに赫かむも、
誉はいにしへの
英雄のものならじ。
黄金なす羊の毛皮は手に落ちぬれど。
8215
君等カベイロイを迎へまつらば。一同
(合唱として繰り返す。)
黄金なす羊の毛皮は手に落ちぬれど。我等、君等カベイロイを迎へまつらば。
(ネエレウス族とトリイトン等と過ぎ去る。)
小人あの不恰好な神様達は、
この目には悪い土器の壺のように見えます。
8220
ところが学者達がそれに頭を打っ附けて破ろうとしています。
タレス
こう云うのが人の欲しがる物だ。
が附いて貨幣の値が出るのだ。
変形の神プロテウス
(見えざる所にて。)
己のような年寄の昔話の話手にはこんなのが気に入る。8225
異形なだけ難有い。タレス
プロテウスさん。どこにいるのだ。
変形の神
(応声法にて近く遠く。)
ここだ。ここだ。タレス
古い洒落だが、己はおこりはしない。
しかし友達に好い加減な事を言うな。
自分のいない所から声を出しているな。
8230
変形の神(遠く。)さようなら。
タレス
(小声にて小人に。)
ついそこにいるのだ。一つ光らせてお見せ。あいつは魚のように物見高い。
どこに身なりを拵えて、じっとしていても、
火にはきっとおびき寄せられて出て来る。
小人
まあ、硝子をこわさないように用心して、
8235
光を出して見ましょう。変形の神
(大亀の形して。)
その優しい、美しい光を出しているのはなんだ。タレス
(小人を蔽ひ隠す。)
宜しい。見たけりゃあ、傍へ寄って見させよう。しかしちょっとした手数を面倒がらないで、
人間らしい二本足になって出てくれ。
8240
己達の隠しているものを見るのは、己達の好意、己達の意志のお蔭だ。
変形の神
(品好き形を現す。)
世渡上手の掛引をまだ覚えているな。タレス
まだ色々に化けることを道楽にしているな。
(小人を露呈せしむ。)
変形の神(驚く。)光る一寸坊だな。まだ見たことがない。
8245
タレス智慧を借りて成り出でようとしているのだ。
当人の話に聞いたが、
妙なわけで半分世に出て来たのだそうだ。
精神上の能力には不足はないのに、
手に攫まれるような、確とした所がない。
8250
今までの所では、目方と云っては硝子だけだから、先ず体を拵えて貰いたいと云う志願なのだ。
変形の神
お前が本当の生娘の倅と云うのだ。
まだ出来るはずでないのに、もう出来ている。
タレス(小声にて。)
それからも一つ外な方面から見ても難物だ。
8255
己の考えた所では、こいつは半男半女だ。変形の神
それは却て旨く行くかも知れない。
打っ附かり放題、間に合うだろう。
だがここでは余計な思案はいらない。
先ず広い海に往って始めるのだ。
8260
最初は小さい所から遣り出して、極小さいものを併呑して恐悦がる。
それから段々大きくなって、
うわ手の為事が出来るように成り上がるのだ。
小人
ここは好い風の吹いて来る所ですね。
8265
こう青い若木のがする。好いですね。変形の神
そうだろう。可哀い小僧の云う通だ。
もっと先ではもっと好い心持になる。
そこの狭い岬では、
がもっとなんとも云えなくなる。
8270
そこの前へ行くと、今浮いて来る行列が十分近く見える。
さあ一しょにあっちへおいで。
タレス
己も行こう。
小人
珍らしい化物の三人連だ。
ロドス島のテルヒイネス魚尾の馬と竜とに乗り、ネプツウヌスの三尖杖を持ちて登場。
合唱の群いかなる荒波をも鎮むる、ネプツウヌスの
8275
三股の杖を鍛ひしはわれ等なり。雷の神濃き雲を舒ぶるとき、
その恐ろしきはためきにネプツウヌス応ふ。
上よりは尖れる稲妻射下せば、
下よりは幾重の波の潮沫を迸り上らしむ。
8280
かゝる時その間にありて憂へつゝ闘ふものは、揺られ揺られて、皆遂に底深く沈めらる。
されば彼神けふ我等に指揮の杖を借し給へり。
いで、我等は晴やかに、落ち居て心安く浮びてあらむ。
セイレエン等
日の神に身を委ねまつれる、
8285
晴れたる日に称へられたる君等に、切にルナの神を敬ひまつるこの時、
われ等礼申す。
金工テルヒイネス
上なる穹窿にいます、めでたき女神よ。
御同胞の日の男神の称へらるゝを喜び聞しめせ。
8290
畏きロドスの島に御耳を借し給へ。御同胞を称へまつる、果なき歌の声かしこより
立ち升らん。彼神日の歩を始め、業を
果しまして、火の如く赫く目してわれ等を見給へり。
山も、市も、岸も、波もめでたく明く、
8295
彼神の御心にへり。われ等の周囲を霧立ち籠むることなし。よしや忍びやかに
立つことあらむも、一照照り、一吹吹かば、島は
浄めらるべし。さて彼神は己が姿を百の形に
写せるを見まさん。若者あり、巨人あり、暴きあり、
8300
優しきあり。神々の御稜威を厳めしき人の形には、われ等始て造り出だしつ。
変形の神
勝手な歌を歌わせて、勝手な自慢をさせて
置くが好い。日の神聖な、生きた光のためには
死物は笑談に過ぎない。いつまでも
8305
厭きずに物を解かして、物を造っている。あいつ等はその形を金で鋳て、
一廉の物を拵えた気になっているが好い。
あの高慢な連中が詰まりどうだと云うのだ。
なるほど神々の形が仰山らしく立っていた。
8310
ところが地震がこわしてしまった。もう疾っくにまた解かされている。
下界の為事はどんなにしたって、
詰まりどこまでも無駄骨折だ。
生活には波の方が余計役に立つ。
8315
お前を常世の水の都へ連れて行くのは変形の神の鯨だ。
(変形す。)
そりゃ。化けた。そこへ行くと、お前、旨く行くのだ。
己がこの背の上に載せて行って、
渡津海と縁結をさせて遣る。
8320
タレス造化を新規蒔直しにして見ようと云う
殊勝な望だから、望通に遣って見るが好い。
手ばしこく働く用意をするのだ。
永遠な法則に随って働いて、
千万の形を通り抜けて行くのだから、
8325
人間になるまでは大ぶ暇があるぞ。
(小人変形の神の鯨に乗る。)
変形の神魂を据えて湿った遠い所へ一しょに来るのだぞ。
そこへ行けば、竪にも横にも生活を広げて、
勝手に活動することが出来るのだ。
ただ余り上の仲間に這入ろうとしてもがくな。
8330
人間になってしまうと、もうおしまいだから。
タレス
まあ、その時になってからの事だ。その時代の
立派な人間になるのも、随分結構だ。
変形の神(タレスに。)
お前のような性の人間になれと云うのだな。
8335
そんなのは暫くは持つ。もう何百年か、色の蒼い化物の仲間に
お前のいるのを見ているから
セイレエン等(岩の上にて。)
月の周囲に濃き暈なして、
まろがる雲は何の雲にか。
8340
鳩なり。光の如き、真白なる翼して、恋に身を焦す鳩なり。
この恋する鳥の群をば
パフォスの市送りおこせつ。
晴やかなる喜、明かに満ちわたりて、
8345
われ等の祭は闌なり。海の神(タレスに歩み近づく。)
夜道を歩く人間が、あの月の暈を
空気の現象だと云ったそうだが、
己達のような霊の仲間では、そうでないことを
知っている。本当の事を知っている。
8350
あれは昔から覚え込んだ、特別な、不思議な飛方をして、
己の娘の貝の車に乗って来る
案内をする鳩共だ。
タレス
静かな、暖い巣に
8355
神聖な物が生きながらえているということは、すなおな男に気に入る通に、
己も一番好い事だと思う。
リビアのプシルロイとイタリアのマルシと
(海の牡牛、海の犢、牡羊に乗れり。)
キプロスの荒き岩室に、海の神にも塞がれず、
8360
地震の神にも崩されず、常世の風に吹かれつゝ、
上れる代に変らぬ、
静かに覚れる、楽しき心を持ちて、
われ等キプリスの車を蔵め持たり。
8365
さて優しき波のゆきかひに、夜の囁くとき、
新に生れたる徒の目を避きて、
はしき少女を載せて来なんとす。
われ等ひそかにいそしむもの等は
8370
鷲をも、翼ある獅子をも、十字架をも、月をも怖れず。
上つ方にて国を立て、位に即き、
入り代りて立ち働き、
かたみに逐ひ遣り、打ち殺し、
8375
穀物をも、青人草をも刈り倒すに任せてん。今はわれ等
はしき少女を率て来なんとす。
セイレエン等
やゝ賑はしく、程好く急ぎ、
車の周囲に、幾重か圏をかき、
8380
蛇のうねりせる列をなし、列と列と入り乱れ、
近づき来たるよ。汝達。憎からず暴れたる、
逞しき女等、ネエレウスのたけき族。
傅き来たるよ。優しきドオリスの族、
8385
ガラテア、母の似姿を。厳めしさは、神々と同じく見ゆる、
尊き、死せぬ姿ながら、
また優しき人の世の女に似て、
誘ふたをやかなる形あり。
8390
ドオリス族
(群をなしてネエレウスの前を過ぐ。皆鯨に乗れり。)
ルナの神よ。われ等に光と陰とを借させ給へ。若きこの群を明けく照しませ。
われ等は父のみ前に、願ふ心もて、
夫等を率てまゐりぬ。
(ネエレウスに。)
こは岸噛む波の怒れる牙より8395
われ等の救ひ出だしし若者等なり。蒲の上、苔の上にをらせて、
温め、日の光に近づかしめき。
その光はわれ等の賜ぞと、まめやかに
熱き口附してわれ等に報いつ。
8400
優しき人々を恵のみ心もて見ませ。海の神
高き価ある事をいしくも併せ得つるよ。
人に恵を与へ、みづからも楽みて。
ドオリス族
父君、われ等の業を褒めまし、
われ等の享けし楽をゆるしまさば、
8405
とはに若きこの胸に、夫等を死せず、堅く寄り添ひてあらせ給へ。
海の神
汝達、美しきものを取り得しを喜び、
若者を夫と教へかしづけ。
さはれチェウスならではえ允さぬ事を、
8410
われいかでか授くることを得む。汝達を揺り弄ぶ波は、
恋をもとはにならしめねば、
靡く夢の覚めむ日待ちて、
おだしく陸へおくり返さむ。
8415
ドオリス族めぐしき童等。われ等は惜めど、
悲しくも今より別れなむ。
とはに渝らぬ盟を願へど、
神等そをゆるし給はず。
少年等
われ等すなほなる舟人の子を、
8420
君等今のごと、長く養ひまさばとぞ思ふ。かつて知らぬ、めでたき日を送りぬ。
これに増す願あらめや。
(ガラテア貝の車に乗りて近づく。)
海の神好い子。お前だな。
ガラテア
お父う様。嬉しい事。
鯨。少しお待よ。わたしは目が放したくない。
8425
海の神もう行ってしまった。はずみのある、
圏をかくような動方をして、行ってしまった。
あれも胸になんと思っても為方がないのだ。
ああ。己を連れて行ってくれれば好いに。
それでも一年の間の填合になる程、
8430
ただ一目見るのが嬉しい。タレス
万歳。万歳。何遍繰り返しても好い。
己は真と美とが骨身に徹えて、
盛んに嬉しくなって来た。
何もかも水から出て来たのだ。
8435
何もかも水で持っているのだ。大洋。どうぞ己達のために永遠に働いていてくれ。
お前が雲を送り出して、
何本かの小川を流れ出させて、
中位な川をあちこちうねらせて、
8440
大川を出来してくれなかったら、山や平地や世界がどうなろう。
一番新しい性命を保たせてくれるのはお前だ。
反響(登場者一同に呼ぶ。)
一番新しい性命の出て来る源はお前だ。
海の神
今ゆらつきながら遠くを戻って来るが、
8445
もう目と目を見合せるようには通らない。儀式めいて伸びた鎖の
圏を造ろうとして、
おお勢の群がうねっている。
それでもガラテアの貝の車だけは、
8450
今ちょいと見える。あ。またちょいと見える。あの群の中で
星のように光っている。
どんなに遠い所にいても、
やはり近く、真らしく、
8455
浄く、明るくきらめいて、あの可哀い姿は群集の中に照っている。
小人
この恵ある湿の中では、
何に明を浴せて見ても、
美しくないものはない。
8460
変形の神この性命の湿の中で、
お前の明も始て
好い音をして照るのだ。
海の神
なんの新しい秘密を、あの群の真ん中で、
己達の目に打ち明けて見せようとするのだろう。
8465
ガラテアの足の傍、貝の車の辺で光るのはなんだ。恋の脈の打つのに感動させられているように、
ぱっと燃えるかと思うと、また愛らしく微かに光る。
タレス
あれはプロテウスがホムンクルスを騙して
連れて来たのだ。肆な係恋の兆だ。
8470
悶えて声を立てるうめきが聞えそうだ。あの赫く玉座に触れて砕けるだろう。
今燃え立つ。今光る。もう流れ散る。
セイレエン等
打ち合ひて光りて砕くる彼波を
照らし浄むるは、いかなる火の怪ぞ。
8475
赫きて、ゆらめきて、こなたへ照りてぞ来る。夜闇の水の面に燃ゆる物等よ。
めぐりには総て火流る。
この事共を皆始めしエロスの神よ。汝に任せむ。
畏き火に囲まれたる
8480
海を称へむ。波を称へむ。水を称へむ。火を称へむ。
稀なる奇しき蹟を称へむ。
皆々
優しく、恵ある風を称へむ。
奇しき事多き岩室を称へむ。
8485
こゝなるもの皆祀らばや、地、水、火、風の四つを皆。
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第三幕
ヘレネと捕はれたるトロヤの女等の群と登場。パンタリス合唱の群をひきゐる。
ヘレネ沢山褒められもし、毀られもしたヘレネが
わたくしです。今著いた海岸から来ました。
ポセイドンの波の恵、エウロスの風の力で、
8490
フリギアの平な野から、抗う高い背に載せて、故郷の入江へ送り込まれた、その間の
波の止所のないゆらめきにまだ酔っています。
メネラス王はあちらの下の方で、軍人の中の
勇士達と凱旋の祝をしていられます。
8495
お父う様チンダレオスがパルラスの岡から帰って建てられて、クリテムネストラとは女同士、
カストル、ポリデウケスと親しくわたくしが
遊んで育った頃、スパルタのどの家よりも
美しく飾られた、この尊い御殿。
8500
お前はどうぞわたくしを迎え入れておくれ。お前達、鉄の門の扉にわたくしは会釈します。
昔お前達がさっと開いてくれて、大勢の中から
選ばれて来たわたくしの前へ、壻君メネラス様の
お姿が赫いておあらわれなされたのだ。
8505
わたくしが夫人に似合わしく、王の急ぎの使を、相違なく果すように、また聞いて通しておくれ。
わたくしをここへ入れておくれ。運悪く、ここまで
附き纏って苦めた物は、皆残して這入りましょう。
わたくしがなんの気なしに、尊いお役を承って、
8510
キテラのお社へお参をしに、この門を出て、お社でフリギアの賊に捕われてから、ほんに
色々な事があった。それが世間一ぱいの評判じゃ。
だが、誰でも自分の事を昔話のように
作られると、それを聞きたくはないものだ。
8515
合唱の群どうぞお后様、お持になっていらっしゃる
一番尊い物をお嫌なさいますな。
一番大きい為合はあなたお一人で
お受になりました。誰よりもお美しいと云う
お誉でございます。英雄は名を轟かして、
8520
息張って歩いて行きますが、その強情も、あらゆる物に打ち勝つ
美の前には意を曲げてしまいます。
ヘレネ
もうお廃。わたくしは夫と舟に乗って来て、
夫のお指図で、お先へ都へ帰された。
8525
しかしどう云う思召だか、わたくしには分からぬ。妻として帰るのか。后として帰るのか。
それとも王様の御心痛の生贄、グレシアの民の
久しく忍んだ不運の生贄として帰るのか。
わたくしは取られた。だが、捕われたか、それは
8530
知らぬ。不死の神がわたくしに、二面のある名聞と運命とを授けたのが、美しく生れた身の怪しい
同行者で、それがどうやらこの門口では、陰気な、
嚇すような風をして、傍に附いているような。
なぜと云うに、空洞な舟にいた時から、夫は
8535
めったにわたくしの顔も見ず、優しい詞も掛けられぬ。向き合っていて、何か工んでいられるらしかった。
そして前の数艘の舟の舳先が、エウロタ川の
深い入江に這入って、岸に触れると、神の教でも
受けたように云われた。己の兵士は隊の順序に
8540
ここで上陸するが好い。海岸に整列させて検閲する。お前は先へ行くが好い。
神聖なエウロタ川の、豊饒な岸に
どこまでも沿うて、湿った牧場の敷物の上に
馬を駆って、昔ラケデモンが厳めしい
8545
山に近く囲まれた、豊かな、広い畑を作った、美しい平野に行く著くまで帰れ。
そして高い塔の聳えている王宮に這入れ。
そこに己が気の利いた、年の寄った、
取締役の女と一しょに、残して置いた
8550
女中共がいる。その人数を調べて見い。お前の父が残して置いて、それに己が
戦争の時も平和の時も、添えて貯えた、沢山の
宝を、お前取締役に出させて見い。
何もかも相違なく整理してあるだろう。
8555
なぜと云うに、置いて出た物が皆、帰った時に残っていて、置場所も変っていないのが、
王侯たるものの特権だ。人臣には何一つ
変更する権能は授けてないのだと云われた。
合唱の群
さあ、追々にお蓄になった、数々の宝を
8560
御覧になって、お目をもお胸をもお慰めなさい。鎖や冠の飾は、皆つんと澄ましていて、
一廉のえらい物の気になっていますが、
あなたがいらっしゃって、さあ、来いと仰ゃれば、
皆急いで御用を勤めようといたします。
8565
あなたのお美しいお姿と、金や真珠や宝石との戦争が拝見いたしとうございます。
ヘレネ
それから夫はこう云われた。そこでお前
品物の整理してあるのを、改めて見た上で、
神聖な祭の式を行う時、生贄を扱うものの
8570
手許にいる、数だけの五徳と、いろいろな入物とを取り揃えろ。
鼎や、鉢や、平たい、円い籠がいる。
尊い泉で汲んだ、清い水を頸の長い瓶に
入れたのと、火の早く移る、乾いた
8575
薪とが用意してなくてはならぬ。それから好い、研いだ小刀を忘れるな。
その外の事はお前見計らって置け。
わたくしを追い立てるようにして、こう云われた。
だけれどその指図をなさる夫が、オリムポスの
8580
神達に殺して供える生物を、何とも斥して云われなかった。不審な事ではあるけれど、
わたくしは別に心配せずに何もかも神達に
お任せするから、お気に召すようになさるが好い。
死ぬる人間のわたくし共は、福でも禍でも、
8585
こらえてお受申します。これまでも折々は土に押し附けた獣の項の上に、祈祷と共に
重い斧が振り翳されても、祭の主がその贄を
殺すことの出来なかったことがある。不意に
敵が押し寄せたり、神達がお止なさるからだ。
8590
合唱の群未来に出来ますことは、お分かりになりませぬ。
お后様、御安心遊ばして、
お進なさいまし。
善い事も悪い事も、
不意に人の手から出来てまいります。
8595
前以てお知らせがあっても、信ぜられませぬ。トロヤの都は焼けて辱の死を
目の前に見ましたではございませんか。
それでも御一しょにここへ参って、
あなたにも、為合者のわたくし共にも
8600
恵ある、空の赫く日や、国の一番美しい所を見て、
楽しく御奉公をいたすではございませんか。
ヘレネ
どうなっても好い。長い間離れて、恋しがっていて、
どうやら失ってしまったらしかったこの御殿が、
8605
どうしたわけともなく、また目の前にあるのだから、直に這入って行くのが、未来に何があろうとも
わたくしの務だ。だけれど子供の時に飛び越した
高い階段を、どうも大胆には踏んで行かれぬ。
合唱の群
哀に捕われて来た皆さん。
8610
あらゆる悲を遠く投げ棄てておしまいなさい。
お帰が遅れはしても、
却てしっかりした足附で、
御先祖の御殿の竈の前に、
8615
楽しくお近づきになる御主人様、ヘレネ様の
お福を分けてお戴なさい。
幸運を元に返し、
出て行った人を呼び戻す、
8620
尊い神様達をお称なさい。捕われたものは徒に
人屋の軒から、故郷を慕って、
両の臂を開いて歎くのに、
放たれたものは
8625
羽が生えたように、どんな艱難をも飛び越すのではありませんか。
遠くにお出になった、このお方をば、
ある神様がお掴まえなすって、
お若くていらっしゃった昔の、
8630
口に言われぬお喜やお歎を、
改めてお思出しになるように、
イリオスの荒された都から、
新しく飾られた
8635
古い御先祖の御殿にお連戻になったのです。
先導の女パンタリス(合唱の群を率ゐて。)
皆さん、歓楽で取り巻かれた唱歌の道を離れて、
あの御門の扉を振り向いて御覧なさい。
どうなすったのでしょう。お后様があらあらしい
8640
お歩振でこちらへ出ておいでになりますね。お后様。どうなさいました。お召使達が御挨拶を
申し上げる代に、御殿の中で、どんなお厭な事が
おありになったのでしょう。お隠し遊ばしますな。
お厭な御様子、不意の驚と気高い腹立との
8645
闘っている御様子が、お顔に見えておりまする。ヘレネ
(扉を開きたるままになし置き、感動して。)
チェウスの娘に生れたわたくしは、常の事を怖れはせぬ。軽く撫でる驚の手は身には障らぬ。
だけれどもこのお城で、大昔の古い闇から出て、
火山の口から湧く、焼けた雲のように、
8650
今でもいろんな形をして升って来る恐怖には英雄の胸でもおののかずにはいられまい。
きょうはわたくしの帰って来るのを、地獄の
眷属が待ち受けていた。度々通った、
長く恋しがっていた門口ではあるが、わたくしは
8655
暇乞をして出た客のように、ここを出て帰りたい。いや、そうはしたくない。日のさす外へは脱れたが、
縦えどんな悪魔が逐うても、これから先へはもう逃げぬ。
どうにかしてお祈をして、浄められた竈の火に、
夫を迎えると同じように、わたくしを迎えさせる。
8660
先導の女あなたを敬って、お附申している女中共に、
お后様、何事にお逢になったかお聞せ下さいまし。
ヘレネ
わたくしの見た物は、お前方も今目のあたり
見るだろう。もし古い夜が、自分の拵えた形を、
すぐ深い自分の懐に埋めなかったら、見るだろう。
8665
しかし知らせるために、話だけはして聞せよう。わたくしが差当のお務を考えながら、謹んで
御殿の厳めしい、内の間取に這入って行くと、
荒れ果てた廊下の沈黙に、わたくしは驚いた。
耳に急いで歩く人達の足音も聞えず、
8670
目に用ありげに忙しく働く様子も見えず、いつも余所のものが来てさえ優しく会釈する
取締役もいず、女中一人も出ては来ない。
それから竈の据えてある辺に近寄って見ると、
消えた炭火の微温く残っている光で、床の上に
8675
いる人が見える。なんと云う覆面をした大女だろう。眠っていると云うより、物を案じているらしい。
事によったら、夫が用心に言い附けて跡に残した
取締役の女ででもあろうかと思って、主人らしい
詞で、起って働くように指図して見た。しかし
8680
襞のある著物に身を包んで、女は働かずにいる。とうとう威すように云うと、女はわたくしを
家や竈から逐うように、右の臂を動かした。
わたくしはおこって女に背を向けて、階段の方へ
すぐに急いだ。その上には夫婦のいる、飾られた
8685
タラモスの牀が高く据えてあって、その隣が宝蔵なのだ。その時怪しい女は急に起って、
往く先に立ち塞がって、目をも心をも惑すような
怪しい恰好、痩せた、背の高い体、空洞な、
血走った、どんよりした目を、わたくしに見せた。
8690
しかし口で言うのは徒事だ。詞で物の形を造るように組み立てることは出来ぬ。
あれをお見。大胆に明るみへさえ出て来た。
だけれどもここでは、王様が帰られるまでは、こっちが
主人だ。日の神フォイボスは美の友で、夜の生んだ
8695
醜い物を洞穴へ入れるか、退治るかしてくれよう。
(フォルキアデス閾の上、戸枢の間に現る。)
合唱の群わたくし共は、れた髪が顳に波を打っては
いますけれど、いろいろな目に逢いました。
戦争の悲惨、イリオスが落ちた夜、
恐ろしい事も沢山
8700
見ています。押し合う兵士が埃を蹴立てて、あたりを
暗くして騒いでいる中に、神様達のお呼になる
声が響き、野原を越えて、城壁の方へ、
黒金なす争の声が響いたのを
8705
聞いています。おう。イリオスの城壁はまだ立っていました。
しかし火はもう隣から
隣へと這い渡って、
自分で起した風に煽られつつ、
8710
ここかしこから夜の町へ広がって行きました。
烟と熱と舌のように閃くの燃立との
間から、ひどくおおこりになった
神様達が、巨人のような、不思議な姿をなされて、
8715
周囲を火で照された、暗い烟を穿って、歩み近づいておいでになるのを、逃げながら
拝みました。
そんな混乱を本当に見ましたやら、それとも
恐怖に縛られたわたくし共の心が
8720
造りましたやら、もうなんとも申すことは出来ません。しかしここで
この恐ろしい物を目で見ていますことは、
確かに承知いたしております。
もし恐怖がわたくし共を控えて、
8725
そんな危険を冒さぬようにしないものなら、手で掴まえてでも見られましょう。
闇の女フォルキアデスの娘の中で、
お前はどれだえ。
どうしてもあの一族と
8730
比べて見ずにはいられないね。闇に生れて、一つの目、一本の歯を
かわるがわる使っている。
フォルキアデスの一人のお前が、事に依ったら
来たのだね。
8735
日の神フォイボスさんの見極める目の前へ、美と押し並んで、
お前のような醜い物が
よく思い切って出られたね。
好いよ。構わないから出ておいで。
8740
日の神さんの神聖な目はついぞ影と云うものを見たことのない通に、
醜い物は見ませんからね。
だけれど残念な事には悲しい不運が、
わたくし共死ぬる人間に迫って、
8745
永遠に咀われた廃物が美を愛するものに起させる、言うに言われぬ目の苦痛に
逢わせずには置きませぬ。
そんならお前、恥を知らずにわたくし共に
向って出て来たお前、お聴。
8750
神様のお造になった、為合者の咀う口から出る咀や、いろいろの嘲の
脅をお聴。
闇の女フォルキアデス
美しさと廉恥とが、下界の緑の道を
手を引き合って一しょに歩かぬと言う諺は
8755
古いけれど、その意味はいつまでも高尚で、真実だ。二つの物の間には、深く根ざした、古い憎がある。
そこでいつどこで道の上で行き合っても、
敵同士は互に背中を向け合う。そしてどいつも
またひどい勢でずんずん歩いて行く。廉恥は
8760
悲しげだが、美しさと来ては平気な顔で歩いて行く。そこへ老と云うものが来て、早く縛って遣らぬと、
とうとう地獄の空洞な夜に包まれるまで歩いて行くのだ。
そこでお前達、横著者奴は、遠い国から高慢げに
遣って来おった。丁度あの咳枯れた高声をして
8765
鳴いて通る黒鶴の群のようなものだ。我々の頭の上を、長い暗い行列をして鳴いて通ると、
声が下へ聞えるので、静かに歩いている旅人が
つい誘われて上を見る。しかし鳥は鳥、旅人は
旅人で、自分々々の道を行く。この場合もそうなるだろう。
8770
お前達は何者だ。国王の尊い御殿を、酒の神を祭るマイナデスのように荒々しく、酔ったように
跳ね廻って好いのか。犬の群が月に吠えるように
御殿の取締役に向いてほざいて好いのか。どんな
種性のものだか、わたしが知らぬと思っているか。
8775
兵卒が生ませて、戦争が育てた、生若い女原奴。色気違奴。自分も男に騙されながら、男を騙して、
公民の力をも、軍人の力をも萎えさせおる。
お前達の群になっているのを見ると、畑の緑の
作物を掩いに降りて来る蝗を見るようだ。
8780
余所の努力を食い潰す奴等奴。切角芽を出す国の富を撮食で耗す奴等奴。生捕られて、市に
売られて、貿易の貨物にせられた奴等奴。
ヘレネ
こりゃ。主人のいる前で、召使に悪口を言うのは、
無礼にも主人の持っている家の掟を破る為業だ。
8785
褒めて好いものは褒め、叱って好いものは叱る。それはわたくしの外のものには出来ないはずだ。
その上威力赫くイリオスの都が囲まれ、落され、
滅びた時、あれ等が尽してくれた誠実を、
わたくしは満足に思っている。また流離の間の
8790
数々の難儀の時、誰も自分の事ばかり考えているはずだのに、あれ等のしてくれた奉公もある。
あの機嫌の好い皆に、今後も世話がして欲しい。
主は奴婢がどう仕えるかを見て、何者かとは問わぬ。
だからお前もうお黙。皆に厭な顔をせぬが好い。
8795
これまで王様の御殿を、わたくしに代って、大切に守っていたなら、それはお前の手柄にしよう。
こうして主人が帰ったからは、お前は手をお引。
そうせぬと、褒める代に罪せねばなりませぬぞ。
闇の女
なるほど、奉公人を叱るのは、神の恵を受けた王様の
8800
奥方が、長の年月御殿を治めた報に得られた大切な権力で、今後もそうあって宜しいでしょう。
さて改めてお認められなされた奥方のあなたが、
お后、女主人の昔からの席にまたお就になるからは、
宝物をも我々一同をもお受取なされて、疾うから
8805
弛んでいるを緊めて、お指図をなさるが好い。ですが、何より先に、あなたのような美しい鵠の
傍では、羽もろくに揃わぬ、べちゃべちゃ云う鶩に見える、
この多数を抑えて、年寄を庇って下さい。
先導の女
お美しい方の傍では、醜女は猶醜うございますね。
8810
闇の女賢い人の傍では、分からずやは猶分からずやだ。
(これより下、合唱の群より一人づつ出でて答ふ。)
第一の女闇のエレボスが父親で、夜が母親だとお云。
闇の女
恥知らずのスキルラと従姉妹同士だとでも云え。
第二の女
お前さんの系図にはいろんなお化がいましょうね。
闇の女
お前は親類を捜し出しに地獄へでも行け。
8815
第三の女地獄にいるものも若過ぎて、お仲間になりますまい。
闇の女
盲爺のチレシアスに色でもしかけろ。
第四の女
オリオンの乳母さんがお前さんの曾孫でしょう。
闇の女
おお方ハルピイアイが糞の中で育てた子だろう。
第五の女
そんなに骨と皮になるには、何を食べておいでなの。
8820
闇の女お前達の吸いたがる血なんぞは食わないよ。
第六の女
御自分が死骸でいて、やはり死骸が食べたいのね。
闇の女
その恥知らずの口に光るのはウァムピイルの歯だ。
先導の女
お前が誰だと、そう云ったら、その口が塞がりますよ。
闇の女
自分が先へ名告るが好い。互の身の上だろう。
8825
ヘレネその荒々しい言合を、鎮めに中へ這入るのは、
歎かわしいが、腹は立たぬ。忠実な召使の間に、
密かに醸されている争程、上に立つ主人の
損になる物は外にあるまい。そうなると、言附の
反響が、手早く為遂げた事実になって、素直には
8830
もう帰って来ぬ。その反響は、自分も迷って、徒に罵っている主人の身の周囲に、我儘な響動を
作って狂い廻るようになる。そればかりではない。
お前達は行儀を忘れた腹立の余に、不吉な、
恐ろしい異形のものを呼んで、わたくしの傍へ
8835
近寄らせた。わたくしは故郷の園にいながら、地獄へ引き込まれたような気がする。これは昔の
記憶だろうか。我身を襲う物狂だろうか。都々を
荒す、恐ろしい夢の姿が、あれが皆我身であった
だろうか。今も我身だろうか。今後もそうだろうか。
8840
女子達は慄えている。それに年寄のお前一人平気でおいでだ。分かるように言ってお聞せ。
闇の女
それは誰でも、長い間、いろいろな幸福を享けて、
跡で顧みると、どんな神の恵も夢かと思われます。
あなたなんぞは格外な恵を受けておいでになる。
8845
生涯お逢になった男は、どんな大胆な、思い切った事をでも、すぐするように、恋い焦がれた人ばかりで、
最初からあのテセウスの様な、立派な姿の、しかも
ヘラクレスに負けぬ力の男が、言い寄りましたね。
ヘレネ
そう。まだ十歳の、靭やかな鹿を、アッチケの
8850
アフィドノスの城へ連れて行かれたっけね。闇の女
それから間もなく、カストル、ポリドイケス兄弟に
救い出されて、選り抜いた人達の争の的になられた。
ヘレネ
だけれど、打ち明けて云えば、アヒルレウスそのままの
パトロクロス様が誰よりも内々好であったっけ。
8855
闇の女それを父上の思召で、あの大胆な航海者で、また
内をも善く治めるメネラスにお妻せなされた。
ヘレネ
娘をお遣なされた上、国の政治もお任せなされた。
その女夫中に生れたのが、ヘルミオネだったっけ。
闇の女
ところが遺されたクレタ島を大胆に争おうとする
8860
遠征の留守に、余り美し過ぎた客が来られた。ヘレネ
それはあの時後家同様であった上、そのために
どれだけの禍を受けたやら。思い出させて貰うまい。
闇の女
自由に生れた、クレタ人のこの婆々が、囚人、奴隷に
せられたのも、あの戦役のお蔭であった。
8865
ヘレネそれでも直にこの城の取締の女中にせられて、
城をも、切角の戦利品をも、お預になったのね。
闇の女
それはあなたが棄て置いて、塔で囲んだイリオスの
都と、そこの歓楽とに、引かれておいでなされたから。
ヘレネ
歓楽なぞとお云でない。この胸の中一ぱいに
8870
際限のない苦労が注ぎ込まれたではないか。闇の女
それでも世間の噂には、あなたは分身の術で、
イリオスにも、エジプトにもおられたとか。
ヘレネ
物狂おしい心の迷を入り乱れさせてくれるな。
今でさえどれが自分か分からずにいるものを。
8875
闇の女そればかりか、運命のあらゆる定に逆って、
早い恋をしたアヒルレウスも、空洞な影の国から
出て来て、お傍に慕い寄ったとか聞きましたが。
ヘレネ
あの方も影、わたくしも影で、逢ったと云うまでの事。
物にも書いてある通に、あれはほんの夢だった。
8880
ああ。わたくしはもう消えて、このまま影になりそうだ。
(合唱の群の一半に倒れ掛かる。)
合唱の群お黙よ、お黙よ。
厭な目附をして、厭な事を言う人ね。
歯が一本しかない、その口から、
そんな恐ろしい禍の門から、
8885
ろくな事は出はしない。情ありげに見える意地悪、
羊の毛皮を著た狼の怒は、
首の三つある狗のより
わたしには猶恐ろしい。
8890
そんな悪い工の、根ざし深く狙っていた勢が、いつ、どこで、
どうはじけて出るのかと、わたくし共は
おずおずして聞いています。
優しい、十分慰藉になるような、
8895
憂き事を忘れさせる、軟い、恵ある詞の代に、過ぎ去った、総ての事の中から、
善い事よりは悪い事をと、引き出して来て、
今の光を
打ち消すと同時に、
8900
ほのかに赫く未来の明さえ、お前さん、曇らせてしまいますね。
お黙よ、お黙よ。
もうお体から立ち離れそうにしている
お后様の魂を
8905
お取止申して、昔から日の照した姿の中で、一番美しい
あのお姿をそのままお置申したいから。
(ヘレネ恢復してまた群の中央に立つ。)
闇の女羅に包まれていた時から目を悦ばせて、今は目映いように光って君臨している、
きょうの日の太陽も、浮雲の間から出て貰おう。
8910
お前は恵ある目で、世界がお前の前に展開しているのを見ておくれ。皆はわたしを醜いと云って嘲っても、わたしはこれでも美と云うものを見分けている。
ヘレネ
眩暈のした時わたくしを取り巻いていた寂しい境からよろめきながら出て来たので、
こんなに疲れている体を、暫くはまた休めていたいが、
突然どれ程意外な事に出合うまでも、男らしく心を持って、気を取り直すのが、
8915
后の役目で、また人皆の役目であろう。闇の女
その厳めしさと美しさとを取り帰して、我々の前にお立になった、
あなたのお目を見ますると、何かお指図がありそうな。何のお指図か。さあ、仰ゃって。
ヘレネ
お前達、無益な争に暇を潰した入合せに、支度をおし。
王様のお申付なされた生贄を、急いで用意させておいで。
8920
闇の女鉢に五徳に鋭い鉞、洗う水も燻す火も、何もかも
御殿に用意してあります。何を生贄になさいます。
ヘレネ
それは王様が仰ゃらぬ。
闇の女
仰ゃいませんか。お笑止な。
ヘレネ
何をそう気の毒がるのか。
闇の女
その生贄はあなた様。
ヘレネ
そんならこの身か。
闇の女
それとこの女子達。
合唱の群
まあ、どうしよう。
闇の女
鉞でお切られなさるのです。
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ヘレネ気味の悪い。もしやそうかと思っていた。
闇の女
どうも致方がございますまい。
合唱の群
まあ。そしてわたくし共は。
闇の女
御主人は上品なお死をなさる。
だがお前方はあの屋根の搏風を支えた梁に、
黐に著いた鶇のように、並べて吊るされるのだ。
(ヘレネと合唱の群とは、兼て工夫せられたる、立派なる排列をなし、驚き呆れる様にて立ちゐる。)
闇の女幽霊共。素わが物でもない白昼に、別れると云うに
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驚いて、木偶のように凝り固まって立っていおる。人間もお前方と同じ幽霊だが、美しい日の光に、
すなおには暇乞をしともながる。それでも誰一人引き受けて
頼んで最期を緩めて遣り、救って遣るものはない。
人間は皆それを知っている。そのくせ覚悟の好いのは少い。
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兎に角お前方は助からぬ。どりゃ、為事に掛かろうか。
(フォルキアデス手を打ち鳴らす。それを合図に、戸口に覆面したる侏儒等現れ、以下のフォルキアデスの命令を、一々即時に執行す。)
お前達、陰気な、円まっちい慌者等奴。こっちへ転がって来い。腹さんざ荒すことが出来るのだ。
金の角附の贄の置卓を、場所に据えて置け。
銀の台の縁に、光るように鉄を置け。
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気味の悪い黒血の汚を洗うのだから、水瓶を一ぱいにして置け。どうせ直に
首と胴とは離れるのだが、兎に角立派に括んで、
葬ってだけは貰うはずの生贄殿が、
お后はお后らしく膝をお衝になるように、
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この五味の上へ、立派に毛氈を布いて置け。先導の女
お后様は物思に沈んで、片脇に立っておいでになる。
女中達は刈られた牧の草のように萎れている。
女中仲間の年上の、神聖な義務ですから、
大お婆あさん、わたくしがお前に物を言いましょう。
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この連中は向う見ずに、お前を見損って逆ったが、お前は賢くて、経験もおありだし、好意も持ってお出のようだ。
どうにか助かる道があるなら言って聞せて下さいな。
闇の女
それは言うのは優しいよ。御自分がお助かりなされ、
附物のお前方も助かるのは、お后の思召次第だ。
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御決心が、火急な御決心がなくてはならない。合唱の群
糸を繰るパルチェエの中の一番貴いあなた、一番賢い占女シビルレのあなた。
金の剪刀の股をすぼめて持っていて下さい。そして救の日を知らせて下さい。
踊の時になってから跳ねて、その跡で可哀い
人の傍で休息したい、わたくし共の手足が、
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もう気味悪く、ぶらぶら吊るし上げられて、浮いているように見えますから。ヘレネ
あれ等には、まあ、臆病がらせてお置。わたくしは悲しくはあるがこわくはない。
それでも助かる道があるとお云なら、それは嬉しく思