稚内ワッカナイゆきの急行列車が倶知安クッチャンをすぎ、やがて山地へかかって速力がにぶると、急に雪が降りだした。粒が細かくて堅く結晶した雪だということは、車窓にふきつけるサッサッササ……という音でわかった。線路近くのエゾ松林に、防雪林などと書いた棒杭が見出された。その林の青黒い枝々はすでにかなりの雪を積らせていて、飛白の布地のように目を掠めてゆく。いうまでもなく、雪が急に降りだしたわけではなくて、汽車が降雪地帯へ入ったのにすぎなかった。
 私は去年の七月にも根室まで行くので同じ沿線を眺めて通った。そのときの記憶はまだ真新しく、目をつむれば新緑のなまなましさに覆われたこの辺りの風景が、まざまざと脳裡にうかんでくる。そのためかいま瞼をあけて見返す車窓は、いっそう荒涼と眺めわたされた。それに一昨夜発ってきた東京は未だ晩秋で、街をゆく男達は誰も彼も合服姿だった。私は出発間際に急に冬服に着かえて來た。その冬服冬外套も重苦しく感じないほど、私も北海道の寒さを昨日以来体得して来た。だが、さすがに霏々と降りしきる雪を見ては、北国へ来たという感慨もさることながら、距離と時間の観念がちぐはぐになったかんじだった。私は何か憂愁を帯びた顔つきになっていたらしい。折から汽車が山の小駅を通過すると、
「ああ、銀山だ。この辺は吹雪の多いところだ。十二月になると時々汽車が立ち往生することさえあるよ」
 同行の土田がそういって前の席から説明した。土田は更に、過ぎ去った窓外をのぞき返しながら、
「あの駅の索道も、ずいぶん永いあいだ錆びついたようになってて、此処を通る度に気になっていたが、この頃やっぱり動き出したようだね」
 と、微笑した。
鉱山やまはどの辺にあるのだろう?」
「さあ、ここからは見えないだろう。いずれ向うの尾根の裏側にあたるだろうから」
 土田が硝子窓の曇りを拭うのにさそわれて、私も額を寄せて覗いたが、低い盆地をへだてた彼方の尾根は、濛々としらみわたって降る雪にとざされ、茫と影のようにしか見えなかった。
 休山となり廃山となって、永らく自然の荒廃に委されていた鉱山のうちにも、事変以来復活の道を辿りだしたものが少なくない。また、新しく採鉱坑道の開鑿に着手された鉱山も、もちろん多いことだろう。この銀山駅の索道を一例とするまでもなく、旅をすれば思わぬ場所で、そうした鉱山熱の片影に触れたりする。それも私の北海道旅行のいわば目的の一つだった。
 はじめ私がこの旅行を思い立ったとき、まず脳裡に浮んだのは、旧友森山の事だった。森山は自ら責任者として、オホーツク海の見える辺陲の山奥で創業の事にあたっている筈だった。私はその鉱山へ出かけて、鉱山生活者の今日の現実に触れて来たいと思った。無論小説のうえの必要からだった。森山ならば私のこうした身勝手な要求をも、寛容に受け容れてくれるだろうと思った。だが、お互にしばらく文通も杜絶えていて、私は森山の鉱山の在処を知らなかったので、私や森山とも同窓の土田のところへそれをききに行った。土田は近郊に鉱山機械の工場を持ち、銀座裏の或るビルディングにその事務所を置いていた。同窓達は地方から出京すると、時間の余裕さえあれば土田の事務所へ立ち寄る者が多いので、つまり土田は私達仲間の事情通だった。森山との連絡もとれて、私は一昨日出発の日になって土田へ電話をかけた。すると「僕もいっしょに北海道へ行く事にした。今夜上野駅で待ち合わせよう」という返事だった。私はその無造作な言葉にやや驚かされたが、いずれ何か商用を兼ねての事だろうと簡単に解釈し、それは自分にとってもこのうえもない好都合だと思った。というのは、土田の令兄がS金山の鉱業所長をしていて、土田も北海道へ行くなら其処へ行けと私にすすめていたからだった。S金山はこの夏に新精錬所の増築も竣工して、その千瓲(一日の処理鉱石)プラントの新設備は東洋第一という事である。私も是非それを見て来たいと思っていた。
 そんな次第で、昨日まず私達は長万部オシャマンベで室蘭線に乗換えてS金山へ行った。だが、駅に下りた時にはすでに暮色が迫っていて、ただ山裾にひらけた鉱山部落や、山腹あたりに延びている大通洞の輸車路や、雪崩のように傾斜した精錬所の大屋根を途すがら眺めただけで、灯点しごろ所長の家へ入った。土田の令兄は、いかにも一山を背負っている気魄が眉宇の間にもうかがえるといった人だった。私達は薪ストーブの燃えさかる座敷で噴火湾で獲れた鰯を肴に、よく飲みよく語った。殊に令兄は腹蔵なくいろいろなことを話してくれた。酒のうえの事で気焔めいた趣もないではなかったが、そうした言葉の節々にも、経験に鍛えられ信念に生きるもののみの持つ人間の重味が、頼もしくひびき出ていた。
 その令兄は、私に何日でもゆっくり滞在しろと云ってくれた。だが、私はただS金山の外貌を一瞥しただけで、数日後に再び立ちもどって来ることにしてそこを発たねばならなかった。私は『キユウヨウサツポロニキタエキマエ××リヨカンニテマツ』という森山の電報を受けとっていた。それで土田も共に、今その札幌へむかう途中だった。私は森山が待っていると思って、何か心急がれていた。
「そうそう、去年の暮、それもぐッと押しつまった三十日だった。僕は十日ばかり北海道へ来ていて東京へのかえり途だったが、長万部の駅で偶然森山君や中野君と落ち合ったよ」
 土田は窓を掠める雪景色から私の方へ目を移して、煙草で荒れた舌を気にするような口つきをしながらそんなことを云いだした。
 私達は今度の同行で、車中ずっと、昔の同窓達のうえに起きたさまざまな変化について語り合ってきた。秋田鉱山専門学校の同じ寄宿舎で寝起きしたのは、もう十数年の昔になる。そのながい星霜は、互に学生時分には思いも設けなかった厳しさで、私達はそれぞれをそれぞれの行路へと追い立てて来た。私達の卒業は同時にまた、欧洲大戦後の鉱業界不況の真只中へ放り出された事だった。ながい不況時代のあとに来た満洲事変は、私達仲間の位置や境遇をも、箱の中のものをひと搖りするように変動させた。ついで今度の事変はさらに大きな変動を彼等のうえに齎しつつあるように思われる。もちろんこの間に、私達は数名の同窓を失った。或るものは病没し、或るものは炭坑変災の犠牲となった。また或るものは満洲の奥地へ資源調査に乗り込んでゆき、飛行機が不時着したために匪賊の手にかかって、雄志もろとも空しくなったりした。しかし、齢をかさねて社会に活動している者にしても、おおかたは人生の艱難をようやく味い知り、等しく鬢髪に白いものを加えようとする年輩である。いま土田が云いだした森山とは私も一年前に会っていたが、中野とは卒業以来絶えて邂逅の機会にめぐまれていなかった。いくら想像をめぐらしても、今日の中野の風貌は、私の脳裡に浮んで来ない。
「ホームから窓を叩く者があるので誰かと思って見ると、われわれより後輩の市岡さ。鉱山の調査で中野君を釧路へ案内した帰りで、中野君もこの汽車に乗り込んでいるというんだ。そんな話をしていると、そこへまた思いがけなく森山君が寄って来て、やアやアというわけさ。森山君も北見からかえるところで、同じ汽車に乗っている事がわかった。実に奇遇だった。市岡は札幌の家へかえるので其処で別れ、それから森山君、中野君、僕と、三人が一緒になって、東京までほとんど飲みつづけだった。ハハハ……」
 私は、そうした旅空で旧友相会した時の、なにか人生の深遠さの偲ばれるようなこころ愉しさを思いやりながら、窓外へ目を移した。雪はなお降りつづけていた。土田はまた煙草に火をつけて、言葉を継いだ。
「そのとき市岡の奴がね。発車間際になって、小野さんに宜しく頼んどいてくれって頻りにそういうんだ。僕はたいがい鉱区の事だろうとのみ込んで、うんうんと空返事をして別れたが、あとで中野君にきくと、この年末の数日を、釧路くんだり迄ただ山の中を引張り廻されに行ったようなものだ。全く市岡にはひどい目に会ったとこぼしていた。――それはこういう話なんだ。夏のころ市岡が大阪の中野君の事務所へ訪ねて来たことがあって、これこれの硫化の鉱山やまがあるから是非どこかへはめ込んでくれという事だった。その後、中野君も何とかしてやろうと思いながら忘れていたが、ちょうど硫化の鉱山を欲しいという人が出てきたので、市岡を思い出して問い合せると、案内するから見に来いといって来た。中野君も市岡の人間を知っていたし、出発にあたって不安な予感がしたから、本当に自分で調査した鉱山か、と電報で念を押してやった。市岡からは折り返し自分自身で調査したという返電だった。だが、それでもなお不安だったので、本当にだいじょうぶかともう一度電報を打つと、だいじょうぶ安心して来いという返電だ。それならばというので、買手を連れ、何万円かという現金まで用意してやって来た。ところが、いよいよ釧路へ行ってみると、何処が鉱区で何処に露頭があるのか、市岡にはまるっきり現場の案内ができない始末だったそうだ」
「いったい、市岡というのはどういう男なんだい?」
 私は呆れ気味で言葉をはさんだ。
「たぶん五六年後輩だろうから、君は知らないかもしれないな。そら、例のあの男だよ。ついこないだ東京の新聞にも小さくでていた……」
「なにが出ていたんだ?」
「読まなかったかね。自宅で対談中にピストルでやられたという記事。僕のところへ北海道タイムスを送って来たが、これにはかなり大きく扱ってあった」
「原因はなんだい。やはり鉱山やまのいきさつか。今どきちょっと珍しい出入りだね」
「なんでも支笏湖の近くの金鉱区という事だが、最近その取引がついたらしいんだね。ところが前にその鉱区の共願者だった男が来て、鉱区が売れたのなら分け前よこせというんで、そいつも相当なもんだ、三日間ねばった。市岡はむろん例の調子だから突っぱね通したろうさ。その日も押問答の末、相手は堪忍しきれなくなって、突然ピストルを出して引金をひいたというんだ。男は自首して出たとかで、その談話記事が新聞に載っていた」
「つまらない事をしたもんだ」
 と、私は思わずつぶやいた。私の胸には何か憤ろしいものが湧き上っていた。それが相手の男の野蛮な行為に対する憤りか、市岡が非業の最期を招いた事への憤りなのか、自分にもわからなかった。あるいはもっと潜在的な道義感があって、自分達がこうして余り痛切なかんじもなく、人間の死について語り得る迂闊さへの、自憤だったかもしれない。
「どうせ市岡もたいしたかねは取ってやしない。僅かなことで殺されたりして可哀そうには可哀そうだが、だいたい市岡自身に、そうした不運を招き寄せるような無茶な気風があった。学校を出てから阿弗利加へ探険に行ったりした男だが、平常の所行も、やにわに日本刀を引抜いて振り廻して見せるというふうだったし、酔うとまた酒癖が悪かった。札幌で僕が紹介した料理屋だがね。寝ていて叩いても起きなかったんだね。起きなけりゃア壁を破って入るぞといって、本当に玄関傍の壁をぶち抜いて這入ったそうだが……」
 土田はそういって、しかし憎めないという風に微笑した。
「まるで自由党時代の人物だね」
 と、私も苦笑するよりほかはなかった。
「しかしこういう古い型の鉱山師やましは、もう通用しなくなったね。しっかりした技術的な腕もあり、度胸もあって、堅実な途を踏む新しい型の鉱山師を産むところまで、時代が来ている」
 おそらく土田も中野あたりを心に描いての言葉だろう。そう思って私もそれにうなずいた。
 札幌の駅前の広場に立つと、目の前に一文字に通じたアカシヤ並木の大通りも、すでに冬景気だった。さすがに未だ根雪を見るには早過ぎたけれど、屋根々々には昨日の雪が消えのこっている。去年の夏、私は同じ場所に立ってハイカラな街だという印象を受けたのだが、今は薄暮の鈍々しさも手伝って、バスも電車も家並も、ただ古ぼけて侘しく見えるばかりだった。
 しかし、そうした侘しさも、宿で森山の顔を見ると一度に掻き消えてしまった。森山はすこしも変らぬ豪宕な調子で「やア、待っていた」と、私をむかえてくれた。クリクリと剃った奇僧のような顔も、醺気を帯びた顔色も、一年前に別れた時そのままのような気がした。
 やがて、用事のために駅前で別れた土田が来、某校の教師をしている佐々木が来、北海道石炭鉱業会社の茂木が来て、五人の話声は忽ち座敷の襖障子をひびき震わせるばかりになった。茂木とも佐々木とも私には十数年ぶり、卒業以来である。私達は今いずれもしかつめらしく洋服を着用に及んでいるが、いわばこれは人生の殻であろう。あの当時は卒業を間近かにひかえて、誰も彼も背広服のでき上るのを待ちわびる気持だった。新調ができると、ぎこちなく身につけ、ネクタイの結びかたを自分達もよくは知らずに教え合ったりしたものだ。恰も一刻も早く人生の殻を身につけようとするもののように……。皮肉にもいまその情景が、まざまざと私の脳裡に蘇ってくるのだった。
 今夜は定山渓で泊ろうということになり、差支えのある茂木を残して、私達四人は自動車へ乗り込んだ。途中、車がある街角を曲る折だった。
「この宿屋だよ。例の、おやじが梯子段からころげ落ちたという……」
 土田が私をかえりみて外面を指した。嘗つては札幌で一二を争う旅館だったそうだが、今は造りも古び、思いなしか座敷から洩れる灯影もまばらで、何処となく陰気臭く眺められた。
 その宿屋に(まつわ)るはなしというのはこうである。もはや何年前のことであろうか。四五人の鉱山師仲間が何ヶ月も逗留しつづけていたのである。彼等は毎日のように額を集めては、何十万とか何百万とか途方もないことばかり口走っていたが、宿料の方はかさむ一方だった。しかしそのうちにどういう話合いになったものか、或る日彼等は東京へ行って来るといって、ぞろぞろと繋るようにして宿を出た。何日か経って、彼等は数個のま新しい柳行李を携えてもどって来た。彼等はその柳行李を床の間へずらりと並べ、亭主を呼べと恐しい威勢だった。亭主がなにごとかと座敷へ駆けつけると、目の前へポンと札束が飛んで来た。「おい、千円だ。こまごました勘定なぞどうでもいいが、もし宿料に不足だったらそう云ってくれ」上座の方からそういう声がきこえた。亭主は彼等の留守中に預り品など調べて、宿料は到底払って貰えないものと諦めていたところであり、ただ夢かとばかり札束と鉱山師の顔を見較べていた。そこへまた「そら、もう一束。それは祝儀だ」という声とともに、同じような札束が投げ出された。亭主はハッと吾に返って額を畳へすりつけた。怖る怖る手をのばして両手に札束を握ると、急にそわそわと廊下へ走り出た。そうして余り有頂天になりすぎたのであろう、一足梯子段へ踏み出したと思うと足をすべらして、地響うって転り落ちた。
 彼等鉱山師達は住友へ鉱区を譲渡したのだった。住友の当事者は、山代金を渡すとき、北海道まで大金を持参するのは途中の危険もおもんぱかられるから、小切手で差し上げようといった。彼等はしばらく顔を見合せていたが、そのうちの一人が深刻な顔をして「いや、現金でいただきたい」と口を切った。「住友ともあろうものが、お渡しする小切手に間違いがあろう筈もなし、当方ではあなた方の御便宜のために申し上げているのです。札幌の銀行で受取れるようにすればいいわけでしょう」「いや、私達はどうしても現金を持って帰りたい」そんな経緯いきさつがあって住友の当事者には彼等のつきつめた心情を理解する心がなかったのであろう。恐らくやや中腹になったらしく、全額を十円札で支払ったということである。百万円に近い金額が十円札でどれほどのかさになるものか、私は知らない。柳行李に何杯だったかも聞き忘れた。
 その鉱山は、その後採鉱方針よろしきを得て予想外の繁栄をきたし、ここ数年来産金額も九州の鯛生を抜き、国内第一の金山になっている。ともかくも、売った方も買った方も、共に幸運をつかんだといえるであろうが、ただ二束の札を握ってここに哀れをとどめたのは、宿屋の亭主である。彼は梯子段から転げ落ちた際の打ち所が悪かったのか、床に就いたなり再び立つことができず、遂に果無い最期をとげてしまったという。
 実は底冷えする車のなかで、前には笑いばなしとして聞き過したその話を思い出して、私は別趣の感慨にさそわれずにいられなかった。また、宿の亭主の死様を思うとともに、かの市岡の無慙な死が思い合された。人々がそれぞれに死様を選びとる姿が、人間の愚かしさとも、果無さとも軽々しくはいいきれない冷い運命の下にあるように思われた。いや、それは暗闇という言葉だけでは闇の暗さがわからぬように、ただ運命といっただけではその広さも深さもわからぬ、そういう旁※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)としたものの存在を思わせる事だった。
 定山渓ではザクザクと凍えた積雪を踏んで宿へ入った。どてらに着換え、太い薪をくべて座敷のストーブを囲むと、私達の話は期せずして市岡の事に触れて行った。
 森山の話によると、市岡と加害者との距離は、わずかに二尺ばかりの丸卓子一つだったという。弾はもろに下腹を貫通して、うしろにあった鉱石戸棚のひきだしの裏板へめり込むほどの勢だった。つづく二発目は、市岡が体をひねったので斜めに腹部を貫き、これもまた鉱石戸棚の奥へ届いていた。物音をききつけて走り込んできた細君が「あなた、早くおにげなさい」そういって、男の前へ立ちはだかった。男は細君の肩越しに肘をのばして、逃げる市岡のうしろへ引金を引いた。それが市岡のうしろ頸へ命中した。細君が声をあげて近所の人を呼び、すぐ病院へ担ぎ込んだが、医者はどの弾傷ひとつでも絶命的なものだと宣言したという。
「おれはその通知をうけてね。自分は出ぬけられない場合だったし、仕方がないから、この佐々木のところへ頼むって北見から電報を打ったんだ。市岡はへいぜいがへいぜいで皆から敬遠されていたから、誰も友達が寄りついてくれないのではないかと、それが心配だったんでね。ところが佐々木や茂木でそれはよくやってくれたよ」
 森山は言葉を切って、自ら感動をあらたにするような(ママ)張った顔をし、
「佐々木なんか、輸血までしたんだからね」
「そうかい、輸血したのかい?」
 と、私は土田とともに佐々木へ目をそそいだ。
「いや、そんな事はなんでもなかった。この体だもの、それ位の血を取ったところで平気さ。おれはそんな事ででも役に立たなきゃ、ほかに能がない男だから……」
 佐々木は、そういって部厚な膝をゆすった。彼の童顔はただ好人物らしくふくよかな、自嘲や卑屈な影などは窺えなかった。
「だけど、市岡は最後まで意識がはっきりしてたようだ。なんだかおれの顔を見て淋しい微笑をもらしたりしたがね」
 佐々木はしばらくしてそんな言葉を附け加えた。私はそれを聞いてなにか救われたように感じた。佐々木が幾瓦かの自分の血の尊さを、市岡の微笑と取りかえたように満足しているらしいのも私にとって救いだった。また、市岡が微笑をもらしたという事実も、それが彼の行為や、胸底に抱いていた諦念を解釈する暗示のように思えて、やはり私の息苦しい気持を救った。
「新聞の記事によると、自首したというのでむしろ加害者の方の心証がよく、市岡にはひどくその筋の同情が無いように書いてあったが、実際は、かねをやらなかった事にも市岡の方に十分の根拠があったんだと思うがな」
 森山はまたそんな風にいい出して、何処までも市岡に憐愍をかんじている様子だった。
 翌朝起きてみると、座敷は周囲の枯木とともに、雪に埋った崖のうえにたっていて、清冽ないろをした谿流をへだてて対岸の雪景色が一目だった。ぼんやり眺めていると、陽の差した白い山肌のひとところが、もくもくと動いているような気がした。おやッと思って見直すと、それは数十名の白衣の傷病兵が雪をふんで歩いているのだった。温泉へ療養にきている彼等の、朝の散歩らしかった。なかには明かに跛をひいている者もいた。それと気がつくと、私はながく見ていられなくなり、心の裡が刺すような痛みを覚えると共になにか苛々してきた。自分に戦争を忘れていた時間があったと、思い知らされた気持だった。
 夜は札幌在住の同窓達が集って、森山、土田、私と、三人のために一夕の宴を設けてくれるとの事で、札幌へ引き返してそれに出席した。相会する者十余人、いずれも何等か鉱山と関係のふかい仕事をしている人達だった。
 次の日は、古平フルビラの山奥で鉱山長をしている石原から、わざわざ私達に会いに出てくるという通知があって、また滞在を一日延した。私達は石原の札幌着を待って、四人は或る旗亭で痛飲深更に及んだ。
 その夜私は森山とは別々に、土田や石原の定宿へ来て泊り、翌朝いよいよ森山と北見へ出発するために、雨のなかを私一人で停車場へかけつけた。森山は一目で鉱山の者とわかるいでたちで駅頭に佇み、私を待ち侘び顔だった。
「さア、これから先は万事おれに委せといてくれ」
 森山はそういって、私に青い切符を手渡した。私はぐッと胸に迫ってくるものを堪え、黙ってそれを握った。乗り込むと間もなく、汽車は駅のホームを離れた。いくつかの駅を過ぎて、窓の下を石狩川が流れだした。雨はいつか雪に変っていた。窓外の風物が、しだいに異境らしい侘しさを加えてきたせいもあったが、体が車の動搖になじむにしたがい、私はこの数日間自分の身に経験し、またひとの身のうえに見てきた男の友情の奥深さを思って再び心がうるみだした。土田が札幌まで同道してくれたのも、商用の方はむしろつけたしで、専ら私のためだったことが、頷かれた。
 車が旭川駅へ入ると、森山は駅弁や蕎麦や駅売りのかん酒など一抱え買い込んできた。ながい停車時間で、まだあたりがざわざわしているのに、森山は早くも「まア一杯」と、いかにも心愉しそうにかん酒の入れ物をとって私に差した。それは熊がアキアジ(鮭)を担いでいる形の粗雑ながら陶の容器で、傾けると熊の口からコクコクと、香の強い美酒(?)がしたたり出た。その熊の口もとや小さい目のとぼけた表情が、なんとも愛嬌のあるものだった。
「これはなかなか独特の野趣がある。おもしろいじゃないか」
 私達はそんなことにも旅先らしい興趣をおぼえながら、長途のうさを払おうとしていた。すると私達の車室へ、どやどやと一団の人々が乗り込んできた。白い造花や黒リボンのついた額入りの写真などが持ち込まれた。軍服の人や駅員なども入りまじって何かと世話をしだした。やがて窓硝子に、英霊と書いた黒枠の紙が貼りつけられた。いずれ此処の聯隊で受けとった遺骨を護りつつ、さらに奥地の開墾地へとかえってゆく人々にちがいなかった。黒紋付から抜きでている赤黒い頸や皺の太い顔つきが、彼等の境涯をもの語っていた。私達はその有様に遠慮して次の車へ移ることにした。しかしそれから後というものは、とまる駅とまる駅に、青年団や、小学校の生徒たちや、婦人会の上っ張りをまとった女達が行儀よく整列していて、霏々と吹きつける雪に頬をうたせながら、粛々と英霊を見送るのだった。或る駅では僧侶の姿さえまじっていて、読経の声がきこえてきた。そんな次第で、私達の車窓も車の停っているあいだ中は、そうした敬虔の念の素朴にあらわれでた顔々に自然と覗き込まれることになり、葷酒を帯びた私達は申しわけないような思いを重ねる仕儀だった。森山も私も言葉すくなくなった。
 もちろん私の微醺はまもなく醒めてしまった。私には、一昨日の朝に定山渓で見かけた傷病兵の白衣姿がちらついてきた。また、荒涼と果しなくつづく窓外の眺めに目をさらすと、いったい隣りの車の遺骨の埋められるのは、何処の山野の果てだろうかと、そんな思いにも捉われた。窓外の自然よりもさらに荒々しい奥地の開墾地を、その墓墳の地と想像する事はなにか胸にこたえた。さっき一瞥した父親や母親らしい人々の、わが子の遺骨を抱いてかえる胸中を思うと、私の胸も切なくなった。しかし素朴な彼等は素朴にその憂患に堪えてゆくだろう。そう思わずにはいられなかった。彼等は息子の遺骨を埋めることによって、彼等の新しい土地に対して、もはや自分達の墓墳の地もここにおいて他にないというほどの感懐を深めるであろうか、それならばまたその覚悟の裡に幸福があるであろう。私はそうも思ってみた。
 そうした感慨に耽ったあとで、私は、
「ねえ、市岡の遺骨も弟が郷里へ持ってかえるんだとかいってたね。今日じゃなかったかい」
 と、森山へはなしかけた。
「うん、今日だ。札幌を九時五十分の急行だとかいってたから、今頃はもう長万部より先へ行ってるだろう」
 森山も、新聞を読みながらもそのことを考えていたらしく、すぐ答えた。
「ひと汽車遅らして、札幌で見送ってやるとよかったが、そうするとおれ達は名寄かどこかで泊ることになってしまうのでね。ゆうべ土田が、代表して送るといってたから頼んどいた。それでいいとしようや」
「そりゃ、土田が見送ってくれれば……」
「市岡の持っていた鉱山やまが五つ六つある筈なんだよ。そんなもの、細君や弟が何処かへ売り込もうとしたって、どうせブローカー仲間にいいように騙されてしまうにきまっている。おれもどんな鉱山か全く知らないが、まとめて不見転で買いとってやろうかと思っている。細君や弟の意向をきいとくように、佐々木に頼んで置いたが……」
「それなら、まとまってかねが入るわけだから、遺族の人達も助かるだろう」
 私はうなずきながら、何気なく、森山が座席へ置いた新聞をとりあげた。すると偶然、阿寒国立公園に探鉱者殺到、という記事が目に触れた。最近国立公園区域でも鉱区が許されるという法令が出て以来、すでに有望視される鉱脈が相当に発見されたと書いてあって、林間に天幕を張って探鉱に従っている写真版まで添えてあった。私はそれを森山の前へ差し示し、
「いよいよ徳川家康の山例だ」
「うむ、たとい名城の下たりとも、※[#「金+盾」、U+934E、225-下-17]うち有之に於いては掘採苦しからず候、か」
 森山は暗記しているように山例の一条をつぶやいて、くすぐったいような微笑を浮べ、
「いま北海道だけでも、何万人という有象無象が山々へ探鉱に入っているそうだ」
 と、附け加えた。
(昭和十四年四月)

底本:「北海道文学全集 第12巻」立風書房
   1980(昭和55)年12月10日初版第1刷発行
初出:「中央公論」
   1939(昭和14)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:岩澤秀紀
2012年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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