前に谷風なく後に谷風なしと称さるゝ仙台の産、谷風梶之助は、蓋し江戸勧進角力あつてより、昭和の今日に至るまで、力士中の第一人者として、何人も否定する者なき名力士である。故記を案ずるに、此の谷風以前に谷風と称せる力士一二人あり。其の中の讚州高松の谷風梶之助といへるは、大阪に於て多年雄飛して殆んど敵するものなしと言はれし大力士であつたが、後に仙台の谷風出づるに及んで、前の谷風の名は世間に称さるゝこともなく、谷風といへば即ち仙台の谷風なりと了解さるゝ程であつて、其の名に谷風あつても其の実は谷風なく、終に谷風前に谷風なしとまで称さるゝに至つたのである。而して仙台の谷風没してより、今に至つて百数十年、其の人に谷風なきのみにあらず、其名にも亦谷風なし、之れ其の大名の憚つて之れを襲名するものなきに依るのである。
 明治年間に、同じく奥州より出でし大砲万右衛門あり、六尺有六寸の巨躯横綱力士となりし日、仙台の某家に伝来する谷風の遺物を贈る者あり(弓、横綱、肖像等にして今は上野博物館に在り。)其の同国と遺物に因んで谷風を襲名することを勧誘すること頻りであつたが、大砲は其の大名に当らざることを考へ、自から固辞して其の襲名を断つたことがあつた。又同国の出身力士駒ヶ嶽に対しても、その襲名を勧誘せる者ありしが、駒ヶ嶽も亦固辞して其襲名を憚つた実例がある。斯くの如くにして谷風以後に谷風なしと称さるゝに至つた。
 此の谷風梶之助は、奥州宮城野霞峰かすみね村(現在は霞目と書くといふ)の産、父を弥五右衛門といふ、或は与五衛門といひしとの記録もあるが、蓋し微々たる一農夫であつたと思はる。谷風は、寛延三年八月を以て生る、幼名を与四郎といふ。十九歳にして江戸に出て力士となる、初め秀の山と号し、後に達ヶ関森右衛門と呼ぶ。安永三年四月の角力番附には西の幕の内前頭筆頭に在り、翌四年十月の番附には西の小結に進み、同五年十月の番附には谷風梶之助と改め、西の関脇に進む。年を算ふるに二十七歳である。彼が大関に昇りしは天明二年の二月の場所、浅草蔵前八幡社境内に於て興行の時であつた。其の横綱を免許されたのは其後の八年寛政元年、同じく三年吹上に於て、時の将軍徳川家斉の上覧角力の日に、小野川と対場し気勝ちとの名乗りを揚げられ面目を施した。同じく七年江戸市中流行感冒猖獗を極め、谷風亦此の感冒に襲はれ、鬼神も憚からるゝ大力士も病魔に抗しがたく、之れがため、其の年正月九日長逝す、享年四十六歳、法諡を釈姓谷響了風といふ。郷人追慕已まず、其の碑を郷里に建つ彼の存在は同国の誇りとするところ
わしが国さで見せたいものは
     昔しや谷風今達模様
とは好角家ならぬ人々までもよく知る処である。
 谷風は身長六尺、体量四十三貫ありしと伝へ、或は身長六尺二寸余とも伝ふ。容貌温厚、其心も亦其容貌の如く、当時極めて敬愛されしものゝ如く、彼の成島司直の将軍上覧角力の時の「すまひ御覧」の記中にも谷風に対しては、頗る敬愛の筆を以て、『面持ちにこやかにつゝしみいやまひたる、聊さか驕慢の気なく云々』と書してあり、対手小野川に対しては『面持ちむづかしく(中略)此の道にては我はと思ひあがりたるさましたる云々』とあり、其の小野川の憎体をいふよりも谷風の敬愛さるゝ反照と見ることが出来るのである。
 谷風の逸話伝説につきては無数に存するのであるが、多くは後人の書いたもので、其の当時に書いた真記と見るべきものは、何分其の頃の文人は角力のことにつきて記録を留むる如きものが少ないのであつたから取りまとめた文献と云ふものに乏しいのである。故に先づ其乏しい中から一二出処の正確のものを掲げ、次に多少の伝説を録することにする。
一 谷風横綱の記 谷風の横綱につきての記録は、寛政三年の徳川将軍上覧角力の際、吉田追風より予め差出した書類の中にある。

      免許
 一 横綱之事
 右者谷風梶之助依相撲之位シメ授与ンヌ以来片屋入之節迄相用申候仍如
寛政元酉十一月十九日
本朝相撲之司御行事十九代 吉田追風  朱判
之は正確のものである。但し此の横綱之事といふのは、其の力士が紫の「化粧廻し」の上に帯ぶる処の七五三縄を意味するものであるが後には之を直解して、其の力士に天下一、即ち日の下開山の位を許したものとして居る。併し実際は此の天下一の位は、禁廷の許可したものであつて、翁草の『今回禁廷から谷風、小野川の二人に紫の化粧廻しを許さる』といふのが注目するべきものである。之は前章の横綱論に書いた通りで、此の紫の「化粧廻し」が即ち天下一、日の下開山を許された証であつて、此の神聖なる紫の「化粧廻し」に対し、吉田家からは、特に七五三縄を許したのである。但し其後は一々禁廷とまでは行かずに、五条家(野見宿禰の後裔)から許したので、明治十七年に横綱を許るされた初代梅ヶ谷藤太郎までは、五条家から許されたといふことは、当人の梅ヶ谷が自身に予に語つた処である。併し其の以後は、初めに吉田家が許し、次に五条家が許すといふ前後顛倒したものもあり、更に其の後には、五条家は忘れられて、単に吉田家のみが許すことゝなつたのである。
二 谷風一代の成績 谷風は秀の山、達ヶ関の時代前後八年間に、江戸、大阪、京都の三ヶの津に於て二百二十回の角力を取つたが、其の中負け角力は僅々十一回であつて、此の外に引分、無勝負預り二十七回で、其の余の二百八十二回は勝ち角力である。谷風を名乗つて後は、僅々一二回負けたのみと言はれて居るが、一々の勝負附を得がたいので、姑く伝説を記すのみである。但し「古今相撲物語」には、達ヶ関時代に大阪の出水いづみ川が苦手であつて、二回許り負けたことゝ、谷風となつてから此の苦手の出水川にも負けずに何時も勝利を得たことが書いてある。さうして一々勝負づけを掲げてゐる。
三 谷風の敵手 谷風と小野川との勝負は、勝負附が残つてゐないから委しい事はわからぬが、上覧角力の際の谷風の気勝ち、小野川の気負は確かな事実である。又浅草蔵前、八幡宮社地の角力に、小野川が勝利を得たのも事実らしい。天保七年に大阪で刊行された「大相撲評判記」に両力士の勝負がある。之を綜合すると安永八年の七日目に小野川が始めて谷風に対場した時は、谷風が小野川を突出して勝ち、同じく九年に又両力士の対場あり、此時は小野川先手を取つて谷風を土俵外へ押出すとあり、其次が浅草の角力、又其次が将軍上覧角力であり、其年大阪の興行には、小野川進んで谷風を押倒したが両体に倒れ、団扇は小野川に揚げられたが物言ひとなり、結局預りとなるとある。之に因ると、両力士の勝負は殆んど互格となつて居るが此評判記は、大阪で刊行されたものだけに、小野川の方に力を入れてあるので、多少考へなくてはならぬ。谷風が小野川より其名の高かつた処より推察すると、此外に谷風の勝越しの成績があつたのであるまいか。併し谷風の大名は其人物の小野川に勝つた処があつて自然に上に出たのであるかも測り難いのである。要するに両力士は越後の謙信、甲斐の信玄として其実力に於て著しき相違を見ざるものであつたらうか。
四 谷風の負けた時の狂歌 前に出した小野川が谷風に勝つたのは、安永九年のやうに「評判記」に出ているが、そは江戸とは別のもので大阪での勝負らしく思はれ、江戸で小野川が谷風に勝つたのは、それより数年の後の天明二年であつて、将軍上覧角力より前である。之れが記録とも見るべきは、蜀山人の著書「俗耳鼓吹」である。曰く
力つよくして一度も負くる事なく浅草蔵前八幡の社内にてすまひありし時、小野川栄蔵にはじめてまけたり、天明二年寅二月二十八日の日なり。
手練せし手を蟷螂がおの川や         菅江
   かつと車のわつといふ声
谷風はまけた/\と小野川が          赤良
   かつをよりねの高いとり沙汰
 右は其の時、蜀山人即ち四方の赤良が狂歌によんだのであるから、谷風は大阪で二回も小野川に負けて居る「評判記」の記事は、花角力同様と見て重きを置かれず、江戸では此蔵前の角力に初めて谷風が負けたものと伝へられたのである。
五 谷風の妾 古今に秀でし強力谷風も風流情事あり。松浦静山侯の「甲子夜話」に、
 谷風或る時、何時か其弟子のことに就て立腹し、其者を連れ来れ搏ち殺すべしとて怒りける時楼上に居たれば多くの弟子ども交る/\楼に出て詫を言へども承引せず、後は誰にても取扱ふ者を搏ち殺すべしとて弥よ怒りければ、寄り就く者なかりける。一人才覚ある弟子、工夫して谷風が妾の年十七なる者ありしを頼みて「あの如く怒られては致しかたなし、何とぞして機嫌を直し楼より連れ来れ」と云へば妾心得て楼に上り、谷風の手を執り、弟子中一同に御詫申候、下におり給はれとて手を引き下りたれば、谷風応々と言ひながら、少女に牽かれて楼より降り事済みけるとぞ、後に弟子ども云ひしは斯く多き角力の力も小婦一人には敵せられずと皆皆彼才覚に伏しけるとなり云々。
 以上(一)より(五)までは信用すべき記事であるが、此の外に下に出すは伝説として見るべく、或は多少事実を誇大にしたものもあるべく、或は全然の仮作のものもあるべく、単に伝説として掲げるに過ぎざるものである。
一 谷風牛を制服す 谷風が十九歳の頃その郷里にて闘牛あり、両牛大に怒り争闘を続けて已まざるに、主催者之を引分んとしたが猛り立つた両牛は、容易に人を近づけず、人々甚だ持て余して見えたる時、谷風の与四郎来り合せて、両牛の四角をしつかと捕へ、終に之を左右に分けたり。其膂力人間業と見えざりしに、此の時偶々同地に巡業せる江戸角力の年寄関の戸住右衛門が其事を聞き懇望して門弟となし江戸へ伴ひ帰へりしと云ふ。これは従来の横綱伝に屡々掲げられた有名の物語りであるが、其の正確なる出処を知らず、姑く伝説として真偽を定めずに置く。
二 谷風の敗因 谷風が小野川に負けた浅草八幡社地の角力の日に、蔵前に差しかゝりし時、或る米屋の店先きで奉公人どもが、米俵を捧げて力競べを為し居るのを見て、谷風其の米俵を両手に一俵づゝ持ち、之れを三十五六度柝木へうしぎに打ち、一笑して角力場に向つた。その後へ小野川が通りかゝり同じ二俵を手に持ちて、只一つ柝木に打つて角力場に至つたが、小野川果して此の日の角力に谷風を破つたとの伝説が、矢張り横綱伝などに記るされて居るが、之れは仮作のものと思はれる。平素謙遜の谷風が、場処入りの大事に際し、かゝる愚かなる軽挙を為すべしと思はれぬ。蓋し谷風の敗因を作つて谷風を弁護しようとして、却て谷風を愚にした所謂ひいきの引倒しであらう。
三 谷風の侠風 或る日、谷風日本橋辺を通行の時、初鰹を商ふものに逢ひ、其の価を問はしめた処其の価が余りに高しとて「チト価を負けて置かんか」と云つたのを、魚商は一笑して『是れは谷風関と見受けましたが、関取に負けろと云ふは忌み言葉ではありませんか、云ひ価でお買ひ下さい』と云はれ谷風はたと手を打ち『之れは面白しさらば云ひ価で買ひ求めん』と、其鰹を買つて帰へつたと云ふのは有りさうなる話であるが、出処不明の伝説である。
四 谷風の強力 某処に越前屋と号せし米屋あり。其家の一子で、少しく低能の者、米俵一俵を店先に置き、誰でも之を持ち上るものあらば、其のまま之れを与へんと云ふに、角力場近き処とて通行の力士等が之れを持ち上げんとしても、地からへたる如くで、能く持上げ得る者がなかつた。持ち上げ得ず約束に依つて背中に三本の天秤棒を喰はされ逃げ帰りし者数人の多きに及んだのであつた。之れを聞いた谷風は、之れ必ずしかけあるべし、我徒らに力自慢を好むにあらざるも、心に期する処あり低能児を懲らしくれんと、洗場の帰りを粧ひ其米屋の前に立ち、ヤヲラ米俵に手をかけ、一声叫ぶと見れば、米俵はメリ/\と音しつゝ持ち上げられた。米俵には松丸太のくひしつかと結びつけられ、地に挿し込まれてあつたのである。谷風はもこそあらんと徐ろに其の米俵を置き、ことさらに怒りの色を為し『扨こそ米俵は持ち上げしぞ、斯く不正の策を構へて、人々に天秤棒を食はらせし其の罪は免しがたし、イザ汝の首を引き抜かん』と叫び立てたので、其の家の人々が走り出て、只管詫び事して辛くも事を済ましたとの伝説もあるが、之れも仮作であらう。其出処を知らぬのである。

底本:「日本の名随筆 別巻2 相撲」作品社
   1991(平成3)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「江戸時代の角力」近世日本文化史研究会
   1928(昭和3)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2011年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。