坂の上の、大きな松の樹のある村總代の家で、あるきを呼ぶ太鼓の音が、ドーン、ドーン、ドン/\/\/\/\と響いてゐたのは、ツイ先刻さつきのことであつたが、あるきの猪之介は、今のツそりと店へ入つて來て、薄暗い臺所の方を覗き込みながら、ヒヨロ高い身體を棒杭のやうに土間の眞ん中に突ツ立てゝゐる。
 店には誰れもゐないで、大きな眞鍮の火鉢が、人々の手摺れで磨きあげられたやうに、ふちのところをピカ/\光らして、人間ならば大胡坐おほあぐらをかいたといふ風に、ドツシリと疊を凹ましてゐる。
のはん、何んぞ用だツか。」と、若女將のお光は、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)物の香や酒の香の染み込んだらしい、醤油のやうな色をした竹格子の奧の板場から聲をかけた。
「あゝお光つあん、其處だツか。……おんが留守で忙しおまツしやろ。」
 鼻をひこつかせるやうにして、猪之介は竹格子の間に白く浮き出してゐるお光の顏らしいものを、目脂めやにの一杯に溜つた眼で見詰めた。
「おアはんの居やはれへんとこへ、役場からあんなこというて來やはるよつて、ほんまに難儀や。」
 晝食の客に出した二人前の膳部の喰べ殼の半ば片付いた殘りを、丁ど下の川端の洗ひ場で莖漬けにする菜を洗ひ上げて來た下女に讓つて、お光は板場からクルリと臺所へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はり、其處の岩乘がんじような縁の廣い長火鉢の前に腰をかけた。
 一番ではあるが、際立つて小振りの丸髷に裏葉色の手絡をかけて、ジミな縞物の袷せのコブコブした黒繻子の襟の間から、白く細い頸筋が、引ツ張れば拔け出しさうなお女郎人形やまにんぎやうのやうに、優しく婀娜なまめかしかつた。
 すらりとした撫で肩を一寸搖つて、青い襷を外してから、何心なく火鉢に手をやつて、赤味の勝つた細い比翼指輪の光る、華奢きやしやな指に握らせるには痛々しいと思はれるほどの、太い鐵作りの火箸を取り上げた。
 かういふ時にタバコをまぬのは、彼女の態度風采を調へる上の一つの大きな疵とも思はれた。襷を外してから、長火鉢の前で、輕く長煙管を取り上げて貰ひたいと思はれた。
「お前、タバコ呑んだらうやな。キセロと煙草入れわしが一つ大阪で買うて來てやるがな。」
 二三年前に聟養子を離縁してから、お光の一身と一家とを引き受けて世話してゐる旦那は、よくこんなことを言つた。
 若い時にカメオだとかオールドゴールドとかいふやうな舶來タバコを吸つて、村の人々に感心さした旦那は、今でも敷島や朝日を吸はずに、金口の高いのをこれ見よがしに吸ひながら、お光にもタバコを喫めと口癖のやうに勸めてゐる。
明後日あさつて郡參事會へ行くさかいな、大阪へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつて煙草入れ買うて來てやる。」なぞと切羽せつぱ詰つたやうにいふ折もあつた。お光はさういふ時、タバコのことよりも、郡參事會なぞを鼻にかけて、土地の勢力家顏をする旦那の淺果敢あさはかな容子が、厭やでならなかつた。
 今は東京に住んで、三四年に一度づゝすら村へは歸つて來ない小池といふ畫を描く男の、縣だとか郡だとかいふことには一切頓着してゐない容子が、奧床しく思はれてならなかつた。大臣だとか議會だとかいふ話が出ても、豚小屋か蜂の巣の噂さほどにも思つてゐないらしいのも、お光には耐らないほど小池をえらく思はせた。
 東京に展覽會なぞが開かれて、小池の描いた畫の評判が新聞や雜誌に出ると、お光は眼を皿のやうにして一々讀んだ。小池の評判がだん/\高くなるのが嬉しくてならなかつた。
「小池はんちう人はえらいんだすな、東京や大阪の新聞に、しよつちう名が出てまんがな。」なぞと、店へ來て話す人でもあると、お光はいよ/\嬉しくて、其の人を無理に引き留めて、一本漬けて出したりした。さうして田舍の新聞へたまに自分の名が出ると、鬼の首でも取つたやうにして、持つて來て見せびらかす旦那の仕業が、ます/\淺ましく思はれて來た。
「村で一番出世をしたのは、小池はんと、新田しんでんの五郎作やがな。すもん(角力)でもあつてみい、五郎作の名は毎日々々新聞に出んことあれへん。」なぞといふ人もあつた。
 學校を落第ばかりしてゐた新田の五郎作といふ馬鹿息子が、小池の後を追うて東京へ行つて、小池にたよらうとして跳ね付けられ、角力になつて××川と名乘り、此頃では新聞の勝負附けにも出るやうになつたのを、お光も面白いことの一つに思つてゐたが、そんなものと小池とを並べて話されるのが殘念にもあつた。
「わたへ、タバコ嫌ひだんがな、臭うて臭うて胸がわるうなる。……三十越したらまた喫む稽古して見ますわ、もう二三年だす、それまで待つとくなはれ。」
 小さな黒子ほくろの眼立つて愛くるしい口元に微笑を浮べつゝ、かう言つてお光は常に旦那をあしらつてゐた。
「こなひだ、指輪拵へるさかい十圓呉れいうたが、今さしてる其の指輪それか。……一寸見せてみい。」
 旦那はタバコのやにの黒く染み込んだ反齒そつぱの口を大きく開いて、さも恩に着せるやうな調子でこんなことを言つた。
 くわんの二つ繋がつた其の比翼指輪の一つの環には Koike、他の一つの環には Mitsu と細く刻つてあるが、こんな字の一つも讀めぬ旦那には、黄金きんの性でも書いてあるのかと思つて、指輪の裏を覗き込んでゐるより外はなかつた。
「これ十圓、高いな。二匁かゝろまい。」
 かう言つて旦那は、お光に外させた比翼指輪を自分の節くれ立つた太い指にめかけてみたり、てのひらに載せてふは/\と目方を考へてみたりした。
「そやよつて、十圓はしえへんいうてますがな。……殘りであんたの下駄買うて來てあげましたやないか。……きらひ。」と、お光はこびを含んだ眼をして、旦那を睨むやうにした。
きんの性はわるいで、見いあかの色がしてるやないか。」
 世の中に金ほど尊いものはないと信じて、黄色く光るものに、靈魂を打ち込んでゐる旦那は、細い比翼指輪の弱々しい金色にも凄いやうな白味の勝つた眼の光を浴せて、自分の幅の廣い白縮緬の兵兒帶へこおびに毒々しく絡んでゐる太い金鎖の色と比べなぞした。
「知りやはらんのやなア、この人は。……今時そないに黄色い金流行はやらしまへんがな。かういふやうに赤味の勝つたのか、また白ういのが流行りまんのや。……時計の鎖かて、東京あたりから來やはる人見なはれ、白味の勝つた金の細い粹なのをしてはりまんがな。……そやなけれや白金プラチナだす。あんたの金鎖みたいに山吹色をした太いのは、これ金鎖で候と書いたるやうで、いきまへん。」
 お光が嘲弄からかひ半分の積りでこんなことを言ふと、旦那は躍起となつて、
「お前は何んでも東京や、そないに東京が好いのんなら、東京へいたらえゝ。……わしは在所もんや、在所にゐて百里も先きの町の人の眞似したて何んにもなれへん。……混ぜもんした色のわるい金より、わしは矢つ張り二十金か十八金がえゝ、二十二金から純金ならなほえゝな、値打ちが違ふんやもん。」
 旦那はお光の比翼指輪を其處へ放り出して、自分の左の指にめた認印のり込んである太い指輪を外して見せたり、帶の間から脱け落ちさうになつてゐた、兩蓋に斜子なゝこを切つた虎屋の最中のやうな大きな金時計を出して見せたりした。
「お醫者はんの時計見たいな。……」と笑ひながら、お光は比翼指輪を取つて、元の通り右の紅さし指にめた。

 其の比翼指輪が、今長火鉢の側に腰をかけて、鐡作りの太い火箸を取り上げたお光の細い指に光つてゐるのが、眼を病むあるきの猪之介にもよく見えた。

こなひだは御ツつおう(御馳走)はんだした。」と、猪之介は物を喰べた後のやうな※(「舌+低のつくり」、第3水準1-90-58)したなめづりをして、尖つた鼻をひこつかせつゝ、お光の側に寄つて來た。
 板場の方に近寄るほど、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)物の匂ひや酒の香がいよ/\濃くなつて、薄暗く重苦しい空氣の中に漂うてゐるやうであつた。板場の棚の上に大きな皿や鉢が、物を盛られて並んでゐるのも鋭く猪之介の眼を刺すやうであつた。薄いあかの早鍋は蓋の隙間から白い湯氣を吹き立たしてゐた。横の方に据ゑた四斗樽は杉の香がまだ新しくて、呑口からは芳ばしい滴がしたゝりさうであつた。
此家こゝへ來ると女護の島へ來たやうな氣がしまんな。」と、猪之介はお光の丸髷を見下ろすやうな位置に突ツ立つて、にやりと笑つた。
「さうだツか、あんたは女護の島ちうとこへ行きなはつたことあるんやな、えらい運のえゝ人や。」とお光は相變らず細い指で太い火箸をいぢりながら、嘲る風をして言つた。
「猪のはん、女護の島へ行きなはつた折の話しとくなはれ、猪のはんみたいな男でも、女子をなごはんが大勢で引ツ張らはりましたやろ。……皆かつゑてゐやはるさかい。おほゝゝゝ。」と、屋根裏からすゝの落ちさうな内井戸で、轆轤くるまきの水を汲み上げてゐたあから顏の眼の大きい下女のお梅は、背後を振り向いて笑つた。猪之介はにや/\笑ひ續けてゐるだけで、何と言つていゝかを知らぬさまであつた。
「お光つあん、物は何んでも拵へるより潰す方が樂やいふけど、井戸ばツかりは掘るより埋める方が手間がかゝりますてな。在所の井戸はまだえゝが、町の井戸になると第一土がおまへんさかいな、埋めるのは掘るよりおあしがたんと要りますんやて。」
 棕櫚しゆろ繩の太いのを握つてゐるお梅のあぶら肥りの赤い手を見ながら、猪之介はこんなことを言つた。
「何言うてんのや猪のはん。藪から棒に。誰れも井戸を埋めえへんし。……それより何ぞ用だツかいな、いんま總代さんとこの太鼓が鳴つてたやおまへんか、あんたがおいなはると、碌なこと言うて來やはれへん。」と、お光は太い火箸でコン/\と五徳を突いてゐた。
「違ひない、碌なことやおまへんで。……今夜あんたんとこへ、もう三人兵隊さんを泊めて貰ふんだすて。」
「うだ/\言ひなはるな、猪のはん。女護の島へ十人も荒くれ男を泊めるんで、今朝から二人がテンテコ舞をしてるやおまへんか。お母あはんは居やはれへんし。……」
「そら分つてまんがな。けど總代さんも弱つてはりまんのや、今日の今になつて手違ひが出けたんで、役場へ打ち合はせに行く閑もあれへん。仕樣がないさかい、大黒屋へいてお光つあんに押し付けて來いて言やはりますのや。」
「押し付けられて耐りまツかいな。……何んぼ人を泊めるのが商賣やかて、一人前二十錢やそこらでお辨まで拵へて、………大黒屋は商賣やさかいよいわで、いつも家へばツかりドツサリ割り付けやはるんだすやろけど、商賣やさかい餘計難儀だすがな。……他のお客さんは斷わらんならんし、たとへ一晩でも商賣の方は上つたりだす。」
 短刀でも拔いたやうな風に、太い火箸を逆手に握つて、お光は猪之介の顏を見詰めた。
「そらよう分つてます。けんど俄の手違ひだしてな、總代さんも弱つてはりまんのや。三人だけだツさかい、總代さんとこへ泊めよかいうてはりますんやけど、總代さんとこは、大將の……本部やたらいふんで、えらい人ばツかり泊りやはりますんで、三人でもたゞの兵隊さんは泊められんのやさうだす。」と、猪之介はこの薄寒い初秋に額の汗を拭き/\した。
「俄の手違ひて、一體何うしやはつたんだすのや。」と、お光の色は稍和ぎかけた。
「それが聽いとくなはれ、かうや。……」
 猪之介は漸く上りかまちの端の方へ腰を掛けて、腰の煙草入れのかますの破れかゝつたのを探りながら、
「……あの白髮頭の畫工ゑかきなア、小池はんの家を借つてよる、……彼奴んとこへ三人泊まるやうになつてましたんや。……尤も初めさういうていた時、ゴテ/\言うてよつたんだすが、他の事と違ふさかい、無理往生に往生さしたりましたんや。さうすると何うだす、今日になつて宿替へや。東村の方へな。東の仙藏はんの隱居が空いてますのや、彼家へ宿替へしよつたんや、今日の正午頃ひるごろになつてなア。……土臺ごく仕樣がおまへんがな、兵隊を泊めることを無理に斷わると、役場から警察へさういうて、罰することが出けますさうなが、宿替へを止める權利は村長はんにも郡長はんにも署長はんにもおまへんのやてな、えらい不自由なこツちやおまへんか。」と、猪之介は口惜しさうな顏をした。
「そいで、其の投げ足がわたへんとこへ來たんだすかいな。……惡いきやなア。」と、お光は笑つた。
「けんどなア。……」と、猪之介は水彩畫のやうに明るい店の間から、トンネルの出口に似た裏口の方をズツト見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はしてから、
「……これには小池はんも係り合ひがおますのやで。……」と聲を密めて言つた。
「えゝ、ほんまに。……」
 小池と聞いて、お光の胸は波打つたやうであつた。
「あの畫工ゑかき、頭は白髮だらけだすが、年はまだ小池はんと同い年だすてな。……同い年でも畫が下手で、名前だけ小池はんの弟子にしてもろても、薩張さつぱりあきまへんのやな。けんど相談事があると、小池はんとこへ手紙で知らしてやりよるんで、今度も兵隊を泊めるのが厭やゝが何うしたらよろしおまツしやろ、て小池はんとこへ言うてやりよると、小池はんの返事がよんべ來て、宿替へしてやれちう手紙だしたんやて。……」
「また郵便局で他人ひとの手紙讀んだんやなア、あの郵便局は閑やよつて、何んでも讀みやはるさかい、安心が出けん。」と、お光は眉を顰めた。
「郵便局で他人ひとの手紙讀んだら惡いんだへうか。……わたへんとこへ町の質屋から流れの知らせが來たら、郵便局で面白がつて、葉書や印紙買ひに來た人に皆見せて笑うてはりましたてな。」と、猪之介は話を横道へ引き込んだ。
「信書の祕密ていふやないか。何んぼ郵便局かて、他人の手紙ぬすみ見するちうことあれへん。……小池はんの手紙ちうと餘計見るらしいんだすな。」と、お光はうるほひを帶びた眼を光らして、小ひさな欠伸を一つした。
「けんど小池はんも小池はんだすな。そんな惡いことををせて。……總代さんも怒つてはりまツせ。疊は自分に入れたんやさかい、上げて持つていて了ひよるし。……疊があるとまかなひだけのことだすさかい、總代さんとこからをなごし(下女の事)でもやつて、一晩のことだすもん、どないにでもしますんやが、疊なしではあんた、だい/\ごく仕樣がおまへん。……そいでまアお氣の毒だすが内方うちかたへお頼みしに來ましたんや。總代さんもいづれ後から來やはりまツしやろ。」
 猪之介はお光の横顏を見い/\、これだけのことを言つて、ほつと息をいた。
 この村では自分一人だけが小池の氣質を呑み込んでゐると思つてゐるお光は、兵隊の宿をするのが厭やさに、わざ/\宿替へをするといふことが、如何にも小池といふ人間をよく現はしてゐると考へた。さうして、もと/\小池の流した水が自分の家へ流れ込んで來たのだとすれば、迷惑も迷惑とは感じられずに、或る嬉しさをさへ覺えて來た。
「よろしおま、三人が五人でも、かうなつたら引き受けます。……惡いきついでや。」
 元氣よく言ふと、お光はついと立ち上つて、板場へ入つたが、やがて鰊の※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)にびたしに燒豆腐を添へた小皿と、燗徳利を一本持つて來て、
「猪のはん、藥鑵はぬるいやろか、勝手に漬けてやりなはれ。」と、猪之介の尖つた鼻ツ先きに置いた。
「氣の毒だすなア、これア。」
 猪之介はぼんやりして、酒肴を睨めてゐたが、
「お辭儀なしに頂きます。……ひやの方がよろしおますわい。」と、眞鍮の金具の光る長火鉢の廣いわくに載つてゐた茶呑茶碗の呑み殘つた出がらしを土間へ棄て、二三度水ぶるひをしてから、徳利の酒を波々と注ぎ、痩せた頸の咽喉佛をビク/\動かして、可味うまさうに舌鼓を打つた。
 大道の砂埃りを蹴立てゝ、新らしい小倉の袴を穿いた村役場の給仕が、風のやうに飛び込んで來た。
「大黒屋さん、信玄辨當二つ、……上等だツせ。……お梅どんに直き持たしておこしとくなはれ。郡役所の兵事係が二人腹減らして待つてはるんや。……報告終りツ。」と鈴のやうな聲で叫ぶと、兵隊のするやうな※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はれ右前へをしてクルリと土間から大道へ、また砂埃りを蹴立てゝ一散に駈け去つた。
「今時分そんなこと言うて來たかて、御膳もあれへんがな。……お梅、其の飯櫃おひつ持つて來て見い。」と、お光は銀足に翡翠の玉の簪を拔いて、痒さうに丸髷の根を掻きながら、お梅の持つて來た大きな飯櫃の中を覗いたが、
「あゝ面倒臭い。」と、友染の湯もじの下から、細い脹脛ふくらはぎの折れかゞみの邊りまでを見せて、土間から直ぐに納戸への近道をして、高い上り口を一跨ぎにした。
「七段目のおかるを逆さまに行くやうだツせ。……船玉さんが、……」と、猪之介は薄赤くなつた顏一面に、にや/\とした笑ひの波を湛へた。
 一寸背後を振り返つて、お光もにやりと笑つたが、納戸の神棚や佛壇から、朝供へた茶椀や金椀に盛り上げてある供物の飯を持つてきて、お梅に渡すと、お梅はそれを飯櫃へあけ、杓子でほぐして瀬戸物の丸い辨當へ詰め込んだ。
「御膳も二度の勤めをするんや。商賣やよつて、これも仕樣がない。……猪のはんこんなこと人さんに言ふんやないで。」
 納戸から長火鉢の側へ來て、お光は猪之介に對ひ合つて坐つた。
「誰れが言ひますもんか、しんばいうたかて、これが猫や犬の飯詰めたんやなし、神佛のお下りなら願うても頂く人がおますがな。勿體ない/\。」と、猪之介は底の一滴をもと、徳利を逆まにして、茶碗の上で振つてゐた。
「何んしよまア言ふんやないで。」と、お光は改つた顏をして念を押した。
 二つの信玄辨當を風呂敷に包んで、お梅が赤い襷を掛けたまゝ大急ぎで村役場の方へ行つた後から、
「毎度大けに。……頼んだことは間違ひおまへんな、お光つあん。」と、猪之介は入つて來た時とは別の人のやうになつて、ヒヨロ付きながら歸つて行つた。

 店の時計が午後の三時を打つと間もなく、馬に乘つた身體の大きい兵隊が二人、蹄鐵の音を砂利路に立てゝ駈けて來た。さうして役場の人や村總代と連れ立つて、宿をする家々へ貼紙をして※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつた。
 お光の店頭みせさきの左の方の柱には、「第○中隊將校室」と筆太に書かれた長い紙札が貼られ、右の方の柱には「風紀衞兵所」とした札が貼られた。
 兵隊の珍らしい村の子供等は、わい/\騷ぎながら二人の大きな兵隊の後から隨いて歩いた。學校歸へりの子供等も皆それに混つてゐた。兵隊の乘り棄てた馬は大黒屋の前の廣場の松の樹に繋いであつた。肥えた尻に短く切つた尾の凜々りゝしく垂れてゐる栗毛と鹿毛とを怖さうに遠くから取り圍んで、わい/\囃してゐる子供等の中には、大人もだいぶゐた、其の一群れの中から、お光は今年始めて學校へ通ひ出した娘のお勝を見出して、お梅に連れ戻らした。
「學校の戻りに遊んでるんやおまへん、ちやんと家へ戻つて、『只今』をしてから遊びに行きなはらんかいな。」と、お光は小さい娘の顏を見詰めつゝたしなめた。
 お勝は行儀よく膝の上へ手を置いて、母の言ふことを聽いてゐた。在所で育てゝも娘を在所者ざいしよん臭くはしないといふことが、三代續いて聟養子を取つては、それが皆娘一人を殘して縁を切つて出て行つて了ふこの家の家風のやうになつた。自分もさうして母に育てられた。母もさうして母の母に育てられた。自分もさうしてこのを育てなければならぬ。
 お光は、お勝の下膨しもぶくれの顏から、小ひさな膝の上へ眼を移しつゝ、何んとはなしにほろりとした。
「お光つあんの子、あら養子の子かいな、いきり玉かいな。」
「あの子だけは、養子の子に相違これなく候や。……眼元なら口元なら、似たとは愚か、チンツンシヤン、瓜二つ……やないか。」
 無遠慮な村人共が、淨瑠璃の文句までもぢつて、こんなことを言ふのが、度々お光の耳へも入るが、言はるゝ通り、この子は三年前に縁を切つたこの子の父に酷く似てゐる。とお光はまた今更にそんなことを思つた。
 木綿ながらも、あかね色と紺と萌黄もえぎとの太い大名縞の、大芝居の引幕のやうな新らしい柄で、こんな片田舍に自分の娘より外には、そんなものを身に着けてゐるものはない。よそいきにはもとより、常の時でも、着物なら子振りなら、自分のに追ひ付くものがないのみか、足元へ寄りつくものもない。
 學校の若い代用教員は、源氏物語とかの中から「おなじ目鼻ともおぼえず」といふ一句を拔き出して、お勝とほかの女の兒たちとを比べ、お勝がお月さんで他の兒たちは※龜すつぽん[#「土へん+尼」、U+576D、104-1]だと言つて、ひどい依怙贔屓えこひきをしたとかで、校長に叱られたさうな。自分の幼い頃にもよくそんなことがあつた。六つ年上の小池が其の頃この村に居て、※(「舌+低のつくり」、第3水準1-90-58)めるやうにして自分を可愛がつて呉れた。其の頃から畫が上手で、美濃紙へ一杯に大きく描いて呉れた野崎の道行の繪は、今でも鏡臺の抽斗の一番下になふしてある。
 このが小池の兒であつたら、小池のたねであつたら。――
 お光は突然こんなことを考へた。
 一昨年をととしの秋、ゆくりなくも梅田のステーシヨンの薄暗い待合室で、鞄の荷札から手がゝりが付いて、幾年振りかに小池の姿を見出し、夢のやうにフラ/\と、二人で用もない河内の國を彷徨さまよつて、落ちつきの惡い田舍町の商人宿で一夜を明かした其の朝は、互ひに狐にでもつまゝれたやうであつたが、數へて見れば片手の指には折り餘る男の數の中でも、小池とのたゞの一夜の、そそけく果敢ない逢瀬が身に染みて忘れられぬのは、幼馴染をさななじみといふ強い糸に操られてゐるのであらうか。東京の美術家といふ名に壓されてゐるのであらうか。自分ながらに言ひ甲斐のないやうな氣もする。
 其の頃から係り合つてゐた今の旦那のことが、だん/\表向きになつて來て、離縁にはなつてゐても、まだ戸籍の拔けてゐなかつたお勝の父の名も、旦那の骨折りで裁判にもならずにけづり去られて、お勝が戸主、自分が後見といふことになつてからは、旦那が殆んど入りびたりに長火鉢の前へ坐るので、さま/″\に囃し立てる村の評判が、何うしたはずみに東京まで聞えぬものでもあるまいと、旦那の隙を見て書いた長手紙。
 それも氣の置けぬ大阪の知り合ひの許へ送つて、其處から弟の手で表書うはがきをして、男の名で小池へ宛てゝ出さねばならぬのであつたが、其の長手紙には、
「……おほかたはお聞き及びでもありませうし、さぞ/\光は淺ましい人間とあいそもこそも盡きはてたやうにお思ひなされておいでのことゝ存じます。淺ましい光はもう二度とこの世であなたさまにお目にかゝりません。一思ひに死んでお詫びがしたいのでありますが、年寄りの嘆きと幼いものゝ不憫さに、死んだ氣になつて、ぢつと辛抱して居ります。光は恥を恥とも思はぬほどに墮落した人間になりました。……」なぞと書いて、何うしたのか其の時は、掘り拔き井戸のやうに下から/\込み上げて來た涙に、長手紙が濡れて、「光は恥を恥とも」と書いたところなぞは、墨がにじんで、ぼかしたやうに、ぱツと散つた。
 この長手紙を見た小池は、賣女の如き自分に親しんだことを悔いて、返事なぞはよこさぬことと、お光は獨りで決めてゐた。さうして、「小池はんかて、奧さんがあるやないか、惡いといへば二人とも惡いのや。わたへだけが遠慮することもあれへんやないか。」とも思はれ、「光は淺ましい人間」なぞと手紙に書いたことも殘念になつて、淺ましいのは男も同じであるのに、女だけが淺ましいものになつてゐなければならぬ世間體といふものが、馬鹿々々しくなつて來た。
 ところが、小池からは返事が來た。……氣の置けぬ大阪の知り合ひの許へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつて、知り合ひの名で村の郵便局に知れないやうにして送られて來た、三錢の切手を二枚貼つた封書――それを旦那の來ない時、二階の三番の座敷へ入つて、内部なかから掛金かきがねをかけてひらいて見ると、大阪の知り合ひが、「御馳走さま」と東京語に大きく書いた包み紙の中から、いつもの西洋風の状袋じやうぶくろに、ペンで素直に「お光さま」と書いてあるのも床しかつた。
 破るのが惜しいやうな綺麗な状袋の、鮮かな封じ目を簪の先きで突ついて、取出したのは、ハート形の透かしの入つた美しい紙であつた。五枚の裏表へこま/″\と書いてあるのは、例もの「人間は自由でなければならぬ」とか何んとかいふ難かしいことが多くて、お光にはよく呑み込めなかつたけれど、
「……淺ましい人間になつたとは、何ういふことですか。私なんぞは初めから淺ましい人間です、初めから終りまで淺ましいのです……」と書いてある一節を讀んで、ほツと安心した。
 それから、「……恥を恥とも思はぬほど墮落した人間とは一體何を仕出かしたのです。一つ目小僧か、頭は人間で身體は犬の兒でも生んだといふんですか。それも面白いぢやありませんか。そんなことを決して彼れ是れいふ小池ではありません……」とあるのを讀んで、お光は一時嘲弄からかはれてゐるのではないかと思つたが、あとさきの文句より推すと、眞面目であることが窺はれる。
 小池は自分の近頃の身の上を一から十まで知つてゐて、別に變る心もなく、遠方ながらに、幾久しく自分を可愛がらうとするのである。それに違ひない。
 かう思ふと、お光は身柱元ちりけもとがぞく/\するやうであつた。そこで早速返書を書いて、其の終りへ一きは力を入れて、「光は決してはらみません」と確信の籠つた字を書いた。
 先夫の胤の一人娘を傍へ引き付けておいたなりで、お光はさま/″\のことを、あれからこれへと考へてばかりゐた。小ひさいお勝は母の顏色を見て、自分が怒られてゐるものとのみ思ひ込み、張り裂けるやうな聲を立てゝ、わツと泣き出した。
 膝元に兒のゐることも忘れて、怖い顏をしてゐたお光は、はツとして、
「何んだすのや、お勝ちやん。何泣いてなはる。」と、俄に優しい顏をして見せた。

 昨日きのふは今日と違つて、空がどんよりと曇つて、暖かい南風が吹いてゐたので、一里南を通る汽車の笛がよく聞えた。久し振りで大阪の午砲どんも、船場邊で聞くよりはハツキリと響いた。其の時直ぐに店の時計も自分の懷中時計も午砲に合はしておいたから、今日の自分の家の時間は確かである。
 お光はかう思ひながら納戸へ入つて、用箪笥の小抽斗の手匣てばこの中から、短かい鎖の付いた豆のやうな金時計を出して見た。文字盤までが金色をしてゐて、小ひさい針はもう八分で四時にならうとしてゐる。三四日前にわざ/\町から取り寄せた旅行案内を出して披いて見ると、今朝小池が東京から乘つた特別急行列車は、名古屋の近くまで來てゐるらしく、名古屋着が四、〇八となつてゐる。自分も三四年前に一度乘つたことのあるあの汽車は、今大府おほぶか大高のあたりを走つてゐるであらう。
 熱田の宮のこんもりとした森を左に、夕日の輝く金のしやちほこを右に眺めて、名古屋のステーシヨンに近づいて來る汽車の窓にりかゝつてゐる小池の姿が、眼の前に見えるやうである。
「六日の朝の急行で立つ、大阪着は夜の八時二十五分、來られるなら其の時刻に梅田のステーシヨンへ來て、去年の薄暗い待合室で待つてゐて下さい。」
 これだけのことをペンで走り書きした例のハートの透かしのある小池の手紙が、大阪の知り合ひから例の手續きで自分の手に渡されたのは、一週間前である。
「どんなに都合をしても、六日には屹と梅田で待つて居ります。だましては厭やですよ。」と、小説本で覺えた東京語の返事を、自分も近頃使ひ始めたペンで書いて、直ぐ大阪の知り合ひの方へ送つておくと、一昨々日さきをとゝひの朝また知り合ひの取り次ぎで、
「行くといへば必ず行く。火が降つても槍が降つても行く。午後八時二十五分といふ時刻を間違へないやうに。若しすツぽかすと一生恨む。」とペンで走り書きしたのが來た。
「一度お目にかゝつて、是非々々お話いたしたく、村までお歸りなされては都合あしく候につき、大阪までおこし下されたく、ぜひ/\お目にかゝつてお話し申した上、私も一生の覺悟をきめたく、手紙ではても書けませんゆゑ、なつかしいお顏を拜した上、いろ/\申上げます。ぜひ/\大阪まで御越しのほど願ひ上げ候。――」といふやうな手紙は、去年の秋の事があつてから、幾度書いて送つたか知れぬ。それに動かされて、小池は到頭一年振りに大阪まで來ることになつたのであらう。
 かう思つて、お光は其の「行くといへば必ず行く、火が降つても、槍が降つても……」と書いてある手紙を、内懷うちぶところの肌に付けて、其の日はいそ/\と家の事を働いてゐると、お正午ひる少し前にあるきの猪之介が來て、寢耳に水のやうに、其の大事の/\六日の晩には兵隊が來て泊るといふことを知らした。
 六日には是非大阪へ買物に行かねばならぬ。其の日は四里南の海邊の町の親類へ留守番がてら、手傳ひに行つてゐる耳の遠い老母に一寸家へ歸つて貰うて、自分が買物をした歸りに其の海邊の親類へ寄つて、手傳ひながら一晩泊つて來るといふことにして、旦那の前は首尾よく取りつくろつてあるのに、總べてがもう駄目である。
 小池はんがまた何故に、りに選つて六日といふ惡い日を選んだのであらう。七日なら好かつたし、五日でも何うにかして會へるのに、六日の午後八時二十五分では何うにもならぬ。今から中二日では、大阪の知り合ひを經て、七日か八日に延ばして下さいといふことを小池に知らす餘裕がない。下手なことをして、小池の家の人にでも祕密の手紙を見られてはそれまでゝある。○野○○○とやらいふ人は、祕密の便りをする時、新聞を擴げて、上の欄から下の欄へ順々に入用な字だけへ鉛筆で印しを付けた上、其の新聞を相手に送つて、相手が鉛筆の印しを辿りつゝそれを讀んで意味を取ることにしたげな。
 さう思ふと、お光は有り合はした新聞を取つて、若い男と女とが立つて話をしてゐる插繪のある小説の初めの行から、入用な字だけに鉛筆で○を付けて行つたが、「六日は差支へます七日にして下さい」といふ字は、小説の終りまでに樂々と得られた。しかしこの新聞を突然小池に送つたところで、如何な小池でも何んのことやら分るまい、いつそ赤いインキで○を付けると、少し目立ち過ぎはするが、目的を遂げることは出來るかも知れぬと思つたけれど、さういふ風にしていよ/\新聞を送るといふ決心も、お光には付き兼ねた。
 小池かて、子供ぢやなし、六日の午後八時二十五分に自分の姿が梅田の何處にも見えぬからとて、其のまゝ鳩の使のやうに歸つて了ふこともあるまい。何處ぞへ宿を取つて例の知り合ひの手を經て、多少は違約を責めた恨みの文句が混らうとも、屹と嬉れしい手紙が來るに違ひない。滯留とうりうする宿さへ分れば分別はまた何うにでも付く、八時二十五分を違約して、男をらしておいた方が、口説の種にもなつて好いやら知れぬ。
 お光は一時こんなにも思つて諦めてみたが、いや/\あの氣の短い小池が、そんな悠長なことをする氣遣ひはない。一わたりステーシヨンを見渡して、自分の姿が眼にとまらなければ、碌々隅々まで探すといふこともせずに、何處ぞの温泉場へでも行つて了つて、自分よりも若い美しい女を見付けるかも知れぬ。幼馴染といふことは自分が小池に引き付けられる五色の糸であるやうに、小池が自分に引付けられて、百六十里も手繰たぐられて來る力があるに違ひないけれど、糸が餘りに長いので、何うかすると脆く切れさうである。
 美しい女が掃いて棄てるほどありさうな東京から、小池が遙々と自分のやうなものに引つ張られて來るのは、たゞ幼馴染の懷かしみを慕ふ爲めであらうか、ほん氣であらうか、戲れであらうか。孰方どつちでもよい。自分はもう/\そんなことを考へたくはない。自分はたゞ織女星たなばたさまのやうに、一年に一度づゝ、牽牛星ひこぼしのやうな小池に逢つてゐればよい。そこで今年の七夕たなばたは天の川が不意の洪水で、待ちに待つた逢瀬を妨げられるのであらうか。織女星さまは唯一人の男を守つて、一年に一度の嬉しい夜を樂むのであるが、自分には旦那といふ腋臭わきがのする人があつて、一年中附き纏はれてゐる。旦那の前には聟養子といふものがあつて、子までした中であつた。其に他にも誰れ、……彼れ。……思へば恥かしい。
 お光はぼんやりとこんなことばかり考へ續けながら、納戸なんどの障子の腰硝子から、河原の多い山川を距てゝ南の村の一面に黄ばみかけた野面を眺めてゐた。十六七年も前の七夕に、自分が九歳こゝのつ十歳とをで、小池が十五六で、あの南の村から自分の村に通ずる細路をば、笹に五色の紙片の附いたのを一本づゝ持つて、二人で走り歩いたことなぞも思ひ出されて來た。
 店の時計が五時を打つた。旅行案内のひらかれたまゝになつてゐるのを取り上げて見ると、もうそろ/\小池の汽車が大垣へ來る時刻である。大垣から米原、大津、京都、それから大阪。八時二十五分までには三時間あまりしかない。小池はだん/\自分に立つてゐても近寄つて來るのに、自分は半丁も小池の方へ足を踏み出すことが出來ぬ。
 お光は立つても居ても、ゐられぬやうな氣がして來た。小さい懷中時計を見ると、もう五時五分、汽車は丁ど大垣に停つてゐるのであらう。窓から首を出して柿羊羮でも買つてゐるらしい小池の姿が目の前に浮んだ。
 人に手紙でも持たして、梅田のステーシヨンへ遣らうにも、お梅を始め村の人々は皆旦那の隱し目付のやうなもので、少しも氣が許せぬ。大阪の知り合ひへは眞逆まさかそんな新造のやうな用事を頼まれもせねば、殊にまたそれは自分の親しい知り合ひで、小池は逢つたことがない。
 何うしたら好からうかと、お光は今更氣が氣でなくなつて、小ひさな懷中時計の細い金鎖を握つたまゝ立ち上つて、納戸の中を急ぎ足で歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつたが、またベタリと崩れるやうに元の處へ坐つて、金時計を前に放り出した。
「何してんのや。」
 あの聲は旦那であると思ふ間もなく、反齒そつぱの突き出た唇を尖がらして、小皺の多い旦那の顏は、頭の上からかぶさるやうにして、お光の眞上に現はれた。長く伸ばした頭髮あたまを、分けたのでもなく、分けぬのでもなく、馬のやうに額に垂れてゐるのも陰氣臭かつた。お光は周章あわてゝ金時計と旅行案内とを押し隱した。――腋臭わきがのにほひがプンとした。

「風紀衞兵て何んや。」と、旦那は突然大きな聲を出した。
「何んだツしやろ、何處に居ますのや。……」
けてるんかいな。お前んとこへ泊るんや。……かどに書いて貼つたるやないか。」
 旦那は手に持つてゐた二重※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はしのまだ少し時候には早過ぎる暖かさうなのに、見事な裏地の付いたのを、これ見よがしにぱツと擴げて放り出し、お光の背後うしろからクルリと用箪笥の前へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、黒い山高帽子を被つたまゝ、ドカリと胡坐あぐらをかいた。お光は茶の地へ紺で大きく寛永通寳と裏の波とを一つおきに散らしておいたメリンスの厚い座蒲團――旦那の爲めに拵へてあるの――を戸棚から出して進めた。
「お光、何かい。……お前んとこは確か十人が三人殖えたんやなア。總代がわしんとこへ來て、ひよこ/\してあやまつてよつた。……もうよツぽど準備が出けたかなア、何んなら誰れぞおこさうか、手が足らんことないか。」
 かう言ひ/\、旦那は着物と對の細い龜甲形の大島の羽織の裾の皺になるのを氣にする風で、大事さうに背後うしろへ撥ねた。百姓大盡の徽章とも見ゆるゴリ/\した白縮緬の兵兒帶には、お光の嫌ひな山吹色の太い金鎖が、羽織の紐の直ぐ下のところへ絡み付いて、磁石や水晶の認印と一所にだらりと垂れてゐた。
「何處ぞへ行きなはるんだすか。」と、お光は旦那の問ひには答へずに、此方から問ひをかけた。
わしんとこも十人泊めるんやが、將校ばつかりで、たゞの兵隊は三人や。」
 右の手の指を三本屈めて輕くお光の前に突き出してから、其の手を直ぐ帶のところへやつて金鎖を弄りつゝ、
「今朝から清助に鷄を十羽つぶさしといたさかい、あれでえゝやろ。酒は白鹿はくしかの四斗樽がまだ何んぼも手え付けへんよつて、何んぼ何んでも飮み切れまい。……さかなも常ならお前に頼むんやが、今日のこツちやさかい、朝から榮吉が町へいて、鯛五枚にはも五本、蒲鉾いたと厚燒を十枚づゝ買うて來よつた。」と、旦那は反齒そつぱの口から唾液つばを飛ばして喋舌しやべつた。
 また大けなことばツかり言やはる。とお光は心の裡で思ひながら、
「そいで、あんたは何處へ行きはるん。」と、また問うた。
わしかいな、わしが居ると、お客さんが遠慮しやはるさかい、却つてわるいとおもて、わしは好いとこへ行くんや、常ならお前を連れて行くんやけど、今夜は仕樣がない。……兵隊の身になると、議員なんどしてる勢力家の家へ泊ると窮屈なもんやげな。そやさかい、わしは氣い利かして一人で外へ泊りに行くんや。……ぼし/\行かうかなア。」と旦那は早や押ツ立て尻をしかけた。
「一人やら二人やら、分れへん。」
 お光は厭味らしく言つて、いつもの滴るやうなうるほひを眼元に見せつゝ、ツンとした風で對岸むかうの方を向いた。
「やいや一人や、二人で行かうにも相手があれへんがな。……わしの好きやんこれ一人や。」
 變な聲を出してかういふと、旦那はツイと立ち上つたが、立ち際に毒々しいほど幅の廣い金指輪の光る節くれ立つた手を伸ばして、お光の孱弱かぼそい膝をつねつた。
 黒繻子くろじゆすの襟の中へあごを埋めるやうにして、旦那の立つて行くのを見向きもしないでゐたお光は、旦那が直ぐ下駄を穿かずに長火鉢の前へ坐つたらしい氣色けはひを知ると、俄に濟まぬやうな氣がして、自分も後からノツソリ立上つた。スルと長火鉢の側から、
「お光、……お光。」と呼ぶ猜撫聲が聞えた。この男に「お光」と呼び棄てにされるのが心外でならなかつたのも、一二年から前のことで、今はもうそれを當然と思ふやうに、何んとも氣にとまらなくなつた。この男を自分の旦那にしたお蔭で、老いた母親と幼い娘と、自分と、それから先祖代々持ち傳へて來たこの大黒屋の店とを、飢ゑも朽ちもさせずに、やつて行かれるのであると思ふと、厭やな男に身を委して、子供の命を助け、家の名を完うした昔物語の女の名も、一つ二つ浮び出て來るとともに、旦那を粗末にするのが勿體なく思はれて、お光は急にいそ/\として、旦那に寄り添ふ風に長火鉢の横手へベタリと坐つた。旦那は思ひ出したやうに、袂をもぐ/\と探ぐつて、この邊では他に誰れ一人吸ふものゝない金口の紙卷タバコを一本大事氣に取り出して火を點けてゐた。
「お前、今日買物かひもんに行くいうてたんやなア、これでは行かれよまい。……明日あしたにしたんかい。」
 旦那はかう言つて、タバコの煙をプツと細長くお光のツンと高い鼻の上あたりを目がけて吐き付けた。タバコの嫌ひなお光は襦袢の赤い袖口の長くみ出たので、其の煙を拂ひ退けながら、
「厭やだんがな。」と、溢るゝ色氣を全身に漲らせて、甘え切つた聲で言つてから、
「明日もな、もう止めましたんや。……また今度……。」と旦那の顏をヂーツと見つめた。
「先程はツつおうはんだした。……お光つあん、兵隊さんはなア、今夜八時過ぎに着くんだすて、先き走りが言うてますわい。ゆツくりでよろしおまツせ。」
 あるきの猪之介がまた入つて來て、店の土間から大聲でかう叫んだ。さうしてツカ/\と長火鉢の傍へ來て突ツ立つたが、先刻さつきの酒にまだ醉を樂んでゐるのか、それともまた他で御馳走になつたのか、顏が薄赤くて、息に熟柿の香が殘つてゐた。
「お光つあん、先程はツつおうはんだした。」
 また同じことを繰り返へして、猪之介は馬鹿丁寧に小腰をかゞめつゝお光に挨拶してから、旦那に尻を向けて上り口に腰をかけた。
「おい猪の、おらがゐるのがさんには見えんのか。」と、旦那は猪之介の背中から怒りの聲を浴せかけた。
「あゝ、淺川はん、お越しなはれ。」
 猪之介は喫驚びつくりした顏をして、かう言ひながら背後うしろを振り向いた。旦那は尖つた口をいよ/\尖らして、
「今になつて『淺川はん』もよう出けてけつかる。……おいこのお光はおらが世話してるちうことは村は勿論、郡でも知らんもんあれへん。言はゞ女房同然や。……それに貴さん何んぢやい、お光にばツかりひよこ/\お辭儀しやがつて、この大黒屋の亭主も同樣な俺に、『おさむなりました』の一言も言やがらん。……俺の了簡一つでな、村長でも郡長でも自由にするんぢや。あるきの貴さんなんぞ生かさうと殺さうと……。」
 だん/\威猛高になつて、旦那がやり出すのを、お光が見るに見兼ねるといつた顏をして、
「あんた、もうよろしいがな。……猪のはんかて、何も惡氣があつてしたんやあれへん。あんたのえらいことは皆んな知つてまんがな。……猪のはんには失禮やけど、何もあんたあるきさんなぞに、あんた、そないに威張りなはつたかて仕樣がおまへんがな。」と、旦那には分らぬほどの輕侮を混ぜて取做した。
「さうだすのや、淺川のだなはんのお越しなはつてるのは知つてましたけんど、うツかりして御挨拶もしまへなんだんや。……お光つあん、おはん、……奧さん……あんたから謝罪あやまつとくなはれ、だなはんに。……」と、猪之介はどぎまぎして慄へ出しさうにしながら言つた。旦那は默つて猪之介の顏を見詰めてゐた。
「厭やゝし、猪のはん、旦那の奧さんはおうちに居やはるやおまへんか。わたへ奧さんと言はれる身分やあれへん。」
 厭やな心持ちになつて、かう言ひながら、お光は、もう四十に間のない旦那の本妻が始終半分ほど口を開きながら、人の好ささうな顏をして、四人の子供を育てつゝ、多くの下男下女と一所になつて農事に勵んでゐるさまを思ひ浮べてゐた。
 火の乏しい長火鉢を眞ん中にして、三人の男女は白け渡つた樣子で、やゝ暫く沈默に陷つた。
「……お光はおらが世話してるちうことは、知らんもんあれへん。言はゞ女房も同じこと。……」と言つた旦那の今の言葉によく似た臺詞せりふが、何やらの芝居にあつたやうにお光は考へ込んだ末、
「あゝさう/\。」と膝を叩いたので、旦那も猪之介も、何事が始まつたかといつたやうな顏をした。
 梅川忠兵衞の封印切りの場で、槌屋治右衞門が、井筒屋のおゑんをば、「……言はゞ女房も同じこと。……」といふのであるとお光は、あの花やかな舞臺面を思ひ出して、下手長火鉢の側には、おゑんに治右衞門、背中を見せた判人由兵衞、眞ん中には美しい梅川に忠兵衞、上手には憎々しい丹波屋八右衞門、丁度この家のやうに長火鉢の横手から二階へ通ふ階子段があつて、……なぞと、お光は茫とした心地になつて、おゑんや梅川が金故に苦勞するのが人事ひとごとではないやうに思はれ、何かは知らず眼には一杯涙が溜つて來た。さうして自分はおゑんよりも梅川が羨ましくなつて、忠兵衞のやうな優しい美い男と手に手を取り合つて思ふ存分泣いてみたいやうな氣になつた。
 何時の間にか娘のお勝がかどから戻つて來て、母と旦那との間にキチンと坐り、秋の夕風に冷たくなつた小ひさな手を長火鉢にかざした。
「お勝ちやん、かしこおまんな。……お勝ちやんのお父つあんは、……」と、猪之介は沈默のテレ隱しに言ひかけて、またハツと四邊あたり氣色けはひに考へ付いた風で、口を噤んだ。お勝はこまちやくれた樣子をして、チラと旦那の顏を見たなり俯伏いて了つた。
 お光はたゞ舞臺の上の花やかな新町の井筒屋の光景と、今此處の我が家の陰氣臭い有樣とを思ひ比べて、あとから後から込み上げて來さうな涙を呑みこまうとした。
おら行かう。」と、旦那は口を尖がらして立ち上つた。猪之介は急いで、納戸に近い上り口にあつた旦那の神戸下駄を持つて來て、此方こつちの上り口に揃へた。旦那は下駄を突ツかけると、猫背を出しつゝ表へ出ようとした。
「外套……外套。……」と、この時始めて二重※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はしの忘れてあるのに氣のついたお光は、納戸へ飛んで行つて、綿の入つた駱駝を引き摺るやうにして持つて來た。表へ踏み出しかけた足を、一大事でも起つたやうにして引つ返へして來た旦那は、長火鉢の横手の土間まで戻つて突ツ立ちつゝ、圓い背中をお光の方に向けた。お光は器用な手つきでふはりと二重※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はしを旦那に着せて、
確乎しつかりしなはらんかいな。……今夜のおたのしみで、心こゝにあらずや。」と、微笑みながら言つて、白い手でポンと肩を叩いた。その手の指に比翼指輪がきらりと光つた。
「お前んとこへ、小池はんから便りがあるかいな。」
 二重※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はしのぼたんをかけながら、旦那は向うをむいたまゝでかう言つた。お光はぎよツとしたが、
「いゝえ。」と、簡單に答へて、覺えずペロリと舌を出しかけたのを周章あわてゝ引つ込めて、二重※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はしの襟の心持ち下がり過ぎてゐるのを輕く引き上げた。
「あの人にも困つたもんや、あんな家を建て腐りにしといて、んだとも潰れたともいうて來んのやもん、家屋税はいつでもわしが立て替へやないか。……其の揚句にあんな畫工ゑかきを入れて、それが爲め兵隊の宿でこんな手違ひが出けるんやもん。……わしやあんなずぼらもん嫌ひや。」
「好きも嫌ひもあれしまんがな、あんな遠いとこへいて了うた人。……あかの他人や。」と、お光は突ツ立つたまゝ旦那の盆の窪を見下ろしてゐた。
「それもそやなア。」
 旦那はかう言つて、首を傾けつゝ足早に出て行つた。一ヶ月ほど前にこの村へも通じた、旦那が取締役をしてゐる水力電氣會社の電燈が、店へも臺所へも板場へも、一時にパツと點いた。
 お光は旦那の後姿を見送つてから、急いで納戸へ入つた。日は西の山に沈んで、夕闇は早や南の森の中から湧き出しさうになつてゐる。からすの群が山川を越えて啼き聲を立てながら、ねぐらに歸つて行く。
 先刻さつき隱した懷中時計を取り出して見ると、六時を十分過ぎてゐる。小池の汽車はあの可愛らしい城の見える彦根の邊りを、湖水に沿うて走つてゐるであらう。
 臺所の方では、猪之介が何やら言つて下女を嘲弄からかつてゐるのが聞えた。

 東村の方から、喇叭の音が風に傳はつて聞えて來た。
「そら兵隊さんや。」と、猪之介はあたふた表へ駈け出した。近所の人々もおひ/\往來へ出て、兩側にかきを造つた。村役場の兵事係や村總代も提灯を振り照らしつゝ出て來た。
 喇叭の音は朗かに聞えてゐるだけで、近付いて來る樣子が見えない。巧みなマーチは何時までも東村邊りに止つてゐる。人々は互ひに顏を見合せた。
阿呆あほらしい、兵隊さんやあれへん。」
 東村まで駈けて行つて來た猪之介は、スウ/\息を切らしながら、路傍の力石の上へ倒れるやうに腰を下ろした。
「あの喇叭何んや。」と口々に言つて、人々は猪之介を取り卷いた。
「今日東村へ宿替へしよつた畫工ゑかきが、手遊品もちやすびの喇叭吹いてよりますのや。」
 猪之介はさも/\馬鹿らしいといつたやうな顏をして、兩手で頭を抱へつゝ差し俯伏いた。
「わるさやなア、彼奴あいつは。……」
可笑をかしいおもたんや。八時過ぎといふ通知つうちやのに、まだ七時にならんもんなア。……畫工、彼奴は喇叭が上手やよつて、欺されたんも無理はないわい。」
 こんなことを言ひ/\、人々は四散した。お光はまた納戸へ入つて、懷中時計と旅行案内とを見比べつゝ、何んとも知れぬ悲しさに涙を拭いてゐたが、八時に近づくと、箪笥から着物を取り出して、亂れ箱へ入れた。
 それから、今朝結つたばかりの丸髷を壞はして了つて、ひさしの出た束髮に取り上げ、金足に枝珊瑚の簪を插し、小走りに風呂場へ行くと、お梅の沸かした湯が上加減であつたので、十分に顏を洗つて納戸へ戻り、鏡臺の前にやゝ暫く坐つてから、亂れ箱の着物に着更へた。伊達卷きを締めてゐる時、お勝が側へ來て不思議さうに母を見上げながら、
「母アちやん、何處へ行きなはるの。」と言つたので、
「いゝえ、何處へも行けしまへんがな。」と言ひ/\、帶を締めて、黒縮緬の羽織を引ツかけ、指輪もよそいきの石の入つたのを一つ比翼指輪の上からめ足し、もう一つ平ツたいのを左の指に嵌め、箪笥の別の抽斗からコートとビロードシヨールとを取り出し、底に籠の附いた四季袋に持ち添へ、長押なげしの釘に掛けてあつた洋傘パラソルをも取り下ろして、ツカ/\と歩きかけた。
「そーれ見なはれ、何處やらへ行かはる。」と、お勝は眼を圓くして、立派になつた母の姿に見入つた。お光は廣くもない納戸の中をクル/\と三四度も歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつた上、其處にあつた踏臺の上に腰をかけた。
「母アちやん芝居してはるのや。」と、お勝は寂しく笑つた。
「さうだす、母アちやん芝居してまんのや。……もツと見せたげまへうか。」
 お光は立つて、また一二度納戸の中を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつた。さうして洋傘や四季袋や、コートやシヨールやを皆元のところへ納つて、
「何うだす、母アちやん芝居したら、河合みたいだすやろ。……喜多村だすかなア。」と、お勝の顏を見詰めた。お勝は呆氣に取られてゐた。
 この長襦袢に、この着物、この羽織を着て、あのコート、あのシヨールを纏うて、今夜の八時二十五分に小池を梅田のステーシヨンに迎へようと思つてゐたのである。それが爲に羽織の仕立てを急がして、三度も催促に行つた。髮も束髮にして行かうと思つてゐたのであるが、兵隊の爲に家を出られなくなつたので、今朝丸髷に結つて見たが、何うしても束髮にしなくては氣が濟まぬやうになつたのである。
 お光はかう思ひながら、ちやんと帶の間に挾んで恰好よく鎖を垂れた懷中時計を出して見ると、八時二十三分になつてゐる、もう二分のことである。小池の汽車は梅田ステーシヨンの構内に入つてゐるに違ひない。
 あの廣いプラツトフオームへ、怪蛇の眼玉のやうな燈火ともしびを光らした大きな汽關車が、威勢よく入つて來て、列車が横付けになると、いろ/\の人の急ぎ足にバラ/\と下りて來る光景が想像される。「大阪ツ、……大阪ツ、……八分間停車ツ」と叫びつゝ、急がし氣に歩く驛夫の姿も眼に浮ぶ。小池は大方いつもの鞄を下げてゐるであらう。洋服であらうか、和服であらうか。ノツソリと車室を出て來るところへ、自分がこの姿で駈け寄ると、別に會釋もしないで、
「よく來られたね。」とさういふであらう、屹とさういふであらう。
 胸に動悸を打たせつゝ、お光はこんなことを考へて、耐まらなくなつた。また懷中時計を出して見ると、八時半になつてゐる。
「今夜歸へらなけや、叱られやしないか。大丈夫か。」と、小池はまたかう自分に言ひさうである。けれどもそんなことをいふべき相手が見付からぬので、方々を探しあぐんで、今頃はあの穴藏のやうな待合室で、何うしたものかと考へてゐるであらう。いや/\自分がちやんとプラツトフオームまで迎へに出てゐても、此方から聲をかけねば氣が付かずに、何處か別のところへ行つて了ひさうな人だから、もう電車にでも乘るか、上り汽車に乘る都合にしてゐるかも知れぬ。
 懷中時計の針は容赦なく進んで、三十五分から四十分にならうとしてゐる。
 お光は焦々いら/\した揚句に、またコートを取り出し、それを着て、シヨールを掛けて、四季袋を提げて、洋傘を持つて、柱にかけてある麥酒ビールの廣告附きの細長い鏡の前に進み、それに映つた自分の全身に飽かず眺め入つた。
「兵隊さんや、兵隊さんや。……」と叫ぶ聲が聞えて、表の方が俄に騷がしくなつた。

 喇叭の音は聞えないが、ゴト/\と重さうな車のきしりが、地響きをさせて來た。幾輛かの眞ツ黒な砲車は、馬に曳かれてお光の家の前を通つて鎭守の廣場の方へ行つた。村の人々のわい/\立ち騷ぐ聲は、祭りの夜よりも賑かである。
 お光はシヨールをとりコートを脱いで、お召の着物に黒縮緬の羽織、博多の帶の間に金鎖をきらめかしたまゝ、長火鉢の側まで出て來た。店頭みせさきには何時の間にか山形に日の丸の高張提灯が輝いてゐる。其の高張提灯の傍で兵隊の通るのを見てゐた下女が、長火鉢の横手まで戻つて來て、驚きの眼をみはりつゝ、お光の盛裝を見上げた。
 將校の朗かな號令の聲が、鎭守の方に聞えてから暫くすると、ドヤ/\ガチヤ/\と、靴の音、サーベルの音を立てゝ、一群れの子供等に附き纏はれつゝ、十人あまりの兵隊がお光の店へ入つて來た。お光は下女に案内させて、將校五人を二階の一番と二番とを打ち通した室に案内させ、下士卒八人を階下したの五番と六番とに入れさせた。兵隊さんの服や帽子は、連日の演習に皆よれよれになつてゐた。
 お光は二階へ上つて行く人、階下したに居る人の姿を眺めて、この人達が自分と小池との逢瀬を妨げたのだなア、と染々しみ/″\思つた。
 下女の手で火鉢に火がはひつたので、お光は茶と菓子とを持つて二階へ挨拶に行つた。
「人の戀路の邪魔する奴は……」と心の裡でさう思ひながら、如才なく愛嬌を見せて、茶菓を進めた。
 お客樣は皆お光の身なりの立派なのを見て、眩しさうな顏をした。中には胡坐あぐらを解いて坐り直す人もあつた。
「奧さん、今晩は御厄介になります。」と、圓顏のデツプリ肥つた上座の人は、無邪氣な聲を出した。お光は去年の秋小池と田舍町の宿屋に泊つた時、下女や主婦から「奧さん」と呼ばれたのが生れて初めで、先刻さつき猪之介が「奧さん」と言つたのが二度目、今將校に言はれたのが三度目なので、ハツとして顏をあからめた。
 階下したへ下りて見ると、兵卒たちはまだ靴も脱かずに、上官の長靴を磨いてゐた。お光は下女に言ひ付けて、用意の酒肴を先づ二階へ運ばせた。二階からはやがて面白さうな高笑ひが聞えた。
 旦那の家の丁稚でつちが入つて來て、土間に突ツ立ちながら、
「お家はんがさう言やはりましたんだすがなア、お取り込み中を氣の毒だすが、造身つくりを十人前出けまへんやろかて。」とおど/\する風で言つた。先刻さつき旦那があんなにお魚を買ひ込んだと言つてゐたが、話半分にも當らぬ例の大風呂敷であつたのか。と、お光は微笑みながら、
「畏まりました。後でお梅に持たしてやります。……けどなア寅やん、うちもお魚が足らんので、あんたんとこへ借りに行かうかおもてましたんやで。」と言つた。丁稚でつちは直ぐ飛ぶやうにして歸つて行つた。
 お光は羽織を脱ぎ、お召の上から前垂れを締め、襷をかけて板場へ下り立つた。其處へあるきの猪之介が何處で飮まされたか、眞赤な顏をしながら、ひよろ/\して入つて來て、長火鉢の側へ腰をおろすと、
「今、地内で淺川の旦那が、大砲おほづゝの番してる兵隊さんにぼろくそに叱られやはりましたで。」と、大聲で言つた。何處かへ泊りに行くといつてゐたのも嘘であつたかとお光は思ひながら、氣にかゝるので、
「猪のはん、何んで叱られはつたんや。」と、眉を顰めて問うた。
大砲おほづゝの車のねきわき)で卷煙草呑みやはりましたんやが。……初めに叱られた時、素直にタバコを放つて了ひやはれやよかつたんやが、袂から名刺なふだ出して、『おらこんなもんや』なんてえらさうに言やはつたさかい、ぼろくそに言はれはりましたんやが。……あきまへんわい、議員さんでも郡長はんでも、兵隊さんにかゝるとなア。」と、猪之介は感心したさまで言つた。
 お光はほと/\と、旦那の淺ましさが厭やになつた。

 其の夜、お光は床の中で寢返へりばかりして、まんじりともしなかつた。小池は何處で寢てゐるであらうかと、そればかりを考へてゐる中に、早や天明よあけに近くなつた。旦那の泊りに來なかつたことが、めてもの有り難さであつたけれど、さて今こゝで旦那に棄てられたら、この家は何うなるであらうかと、二番鷄の歌ふ頃には、そんなことをもちら/\考へて來た。小池といふ惡足わるあしに逢へなかつたのは、家の爲めに幸福であつたのかも知れぬとさへ、遂には思はれて來た。――して見ると、昨晩ゆうべから泊つてゐる兵隊さんは、一生の恩人かも知れぬ。――
 朝早く兵隊さんは立つて行つた。馬の膝までを浸す清らかな山川の水を濁して、幾輛かの砲車が對岸の縣道へ進むのが、お光の家の納戸の縁側からよく見られた。フト前日の新聞を取り上げて見ると、この一隊の演習行軍の記事が出てゐて、「宛然さながら一幅の繪卷物の如し」と書いてあつた。
 あれが繪卷物かなア。と思つて、お光はまた對岸を見やつた。それから三日ほどの間、饅頭笠を被つた郵便配達の姿の見えるのが、待ち遠しくてならなかつた。
(大正四年一月)

底本:「鱧の皮 他五篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年11月5日第1刷発行
   2009(平成21)年2月19日第4刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月7日作成
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