一体宗教というものが科学によって破壊されるものかどうかと云うことが疑問だ。科学によって破壊されるような宗教は宗教ではない。換言すれば、知識によって破壊されるような信仰は信仰ということが出来ない。私は人間の安心というものが科学によってのみ保証されるとは思っていない。人間性というものが、科学との間に矛盾を来たすとも考えていない。唯物史観は真理であるけれども、人間の精神的の飛躍がなかったら創造されぬ如く、感情の真も知識の真も畢竟ひっきょうするところ合致すべき一点があるように考えられる。

 その話は別として、先般の反キリスト教同盟というものは、まさに昨年四月から北京に開かれた世界キリスト教青年大会と対立して気勢を挙げたものだ。そうして反キリスト教同盟は「キリスト教は科学の信仰を阻止し、資本主義の手先になって、他国を侵略する」ということが、その宣言の一つである。私は原始キリスト教の精神というものが決して今日の職業化した街頭のキリスト教とは思っていない。本当に原始キリスト教の精神を尚お伝え得るものならば、今日のキリスト教は斯くまでに堕落はしていないだろう。

 早い話が原始キリスト教の精神を精神としたトルストイはどうであったか。あの熱烈な態度はどうであったか。彼の一生は続いて人間性のために苦しい戦であり、反抗であった。それから思えば、何処に現在のキリスト教徒にその熱烈さと、その厳粛さと反抗の精神が燃えているか。全世界を通じてキリスト教徒の数は夥しい。若しこれらの信者が、本当に正義の観念に燃え、真理のために尽していたなら、今度の欧洲戦争の如きも未然に防ぐことが出来たであろう。またロシアの饑饉に対し、オーストリー・ハンガリーの饑饉に対し、若しくは戦後のドイツに対して世界人類の取るべき手段は他に幾らもあったであろう。

 然しそればかりではなく、原始キリスト教の精神、いわゆるキリストの教というものと今日の資本主義国家の政策、若しくは資本主義の精神というものとは、決して並行するものではない。キリスト教の精神が死んでいなかったならば、彼等は賃金制度によって人間が奴隷化され、自由競争によって不平等不公平を来たしたこの階級を、むしろ当然のことのように見なし、他を虐げて怪しまない今日の社会制度に対して黙っていられるわけがない。彼等の称する無抵抗主義というものは、一体どれだけの真面目さがあるのか。どれだけの真剣さがあるのか。現実の戦争を廻避して、空名の愛とか人道とかに隠れるというのは、何という卑怯さであるか。本当の愛であったならば、死を以って争うのが当然である。キリストの無抵抗主義若しくは犠牲というものは、そういうような逃避的な卑屈のものではなかった。

 私はアルツィバーセフの作にあった一節、彼のピラトがシモンに向って、「おれはあのユダヤの乞食哲学者に対しては不思議な感じがした。そしてその云うことに対して何物をか感ぜぬわけには行かなかった。然し彼でないお前は一体何んであるか?」と罵った言葉を思い出さずにはいられない。本当に真の愛と真の反抗と、真の憤りというものが、キリストだけにあって、またキリストと共に死んでしまったものかも分らない。皆誰でもがキリストの通った道を歩き得るものとは限らないから。無意味な形の上だけでは歩いていても、その精神をまで継ぎ得たと何んで云えよう。偶々たま/\トルストイのように本当にその精神にぶつかることの出来た人に於て、初めてキリストの感情は地上に花を開くのだ。

 然し現在のキリスト教なるものは、多くは世界の資本家の涙金から同盟を作り、大会を催す――換言すれば、経済的に資本主義者に寄食しているものだ。何処に彼のガラリヤの湖畔を彷徨したいわゆる乞食哲学者の面影があるか。それどころか英米の資本主義国家の手先となって、ややもすれば物質によって他国の貧民に慈恵し、安っぽい愛と同情とを強いている。人生は愛以外にない。然しこの愛という言葉が如何に現在のキリスト教徒のために安っぽくされたか。反キリスト教同盟の宣言に「キリスト教は科学の信仰を阻止する」と云っているのも、また理由があるではないか。

 北京大学の季大釧、季石曾などの運動が、上海に於ける陳独秀等の参加によって更に四方に及んだというのも、必ずしも或る人の云うが如くワシントン会議に於て米国が支那を助けなかった反動であるとばかりに考えるのは間違っている。この運動に参加したものは年少気鋭の学生であり新思想家であるのを見ても、奴隷化した宗教に対する反感と、いわゆる人道主義と愛というものに対する冒険と憤激とであると見るのが至当であろう。然も現下の支那に於ける思想上の混乱に際し、世界キリスト教青年大会というような麗々しい看板をかけて、一体彼等は何をなさんとするかということに対して、こういう反抗の気勢の揚ったのも偶然ではない。
 今日の宣教師の中に幾人の人格者があるか。宗教家がほんとうに自己の生命を賭して真理のために正義のために争わなかったならば、革命は事実に於て宗教を否定するのである。

底本:「芸術は生動す」国文社
   1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「人間性のために」二松堂書店
   1923(大正12)年2月10日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
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