北方の海は銀色にこおっていました。長い冬の間、太陽はめったにそこへは顔を見せなかったのです。なぜなら、太陽は、陰気いんきなところは、好かなかったからでありました。そして、海は、ちょうど死んだ魚の眼のようにどんよりとくもって、毎日雪がっていました。
 一ぴきの親の海豹あざらしが、氷山ひょうざんのいただきにうずくまって、ぼんやりとあたりを見まわしていました。その海豹は、やさしい心を持った海豹でありました。秋のはじめに、どこへか姿の見えなくなった自分のいとしい子供のことを忘れずに、こうして、毎日あたりを見まわしているのであります。
「どこへ行ったものだろう……今日きょうも、まだ姿は見えない。」
 海豹はこう思っていたのでありました。寒い風は、しきりなしに吹いていました。子供を失った海豹は、何を見ても悲しくてなりませんでした。その時分は、青かった海の色が、いま銀色になっているのを見ても、また、からだに降りかかる白雪を見ても、悲しみの心をそそったのであります。
 風は、ひゅう、ひゅうと音を立てて吹いていました。海豹はこの風に向かっても、うったえずにはいられなかったのです。
「どこかで、私のかわいい子供の姿をお見になりませんでしたか。」と、あわれな海豹は、声を曇らしてたずねました。
 いままで、傍若無人ぼうじゃくぶじんに吹いていた暴風ぼうふうは、こう海豹に問いかけられると、ちょっとその叫びをとめました。
「海豹さん、あなたはいなくなった子供のことを思って、毎日そこに、そうしてうずくまっていなさるのですか。私は、なんのためにいつまでも、あなたがじっとしていなさるのか分らなかったのです。私はいま雪と戦っているのでした。この海を雪が占領せんりょうするか、私が占領するか、ここしばらくは、命がけの競争きょうそうをしておるのですよ。さあ、私は、大抵たいていこのあたりの海の上は、一通りくまなくけて見たのですが、海豹の子供を見ませんでした。氷のかげにでもかくれて泣いているのかも知れませんが……こんど、よく注意をして見て来てあげましょう。」
「あなたは御親切な方です。いくらあなた達が、寒く冷たくても私は、ここに我慢がまんをして待っていますから、どうか、この海の上をけめぐりなさる時に、私の子供が、親を探して泣いていたら、どうか私に知らせて下さい。私はどんなところであろうと、氷の山を飛び越してむかいに行きますから……。」と、海豹は、眼に涙をためて言いました。風は行く先を急ぎながらもかえりみて、
「しかし海豹さん。秋頃、漁船ぎょせんがこのあたりまで見えましたから、その時人間にられたなら、もはや帰りっこはありませんよ。もし、こんど私がよく探して来て見つからなかったら、あきらめなさい。」と、風は言い残してけて行きました。
 その後で海豹は、悲しそうな声を立てていたのです。
 海豹は、毎日風の便りを待っていました。しかし、一度約束をして行った風は、いくら待っても戻っては来なかったのでした。
「あの風はどうしたろう……。」
 海豹は、こんどその風のことも気にかけずにはいられませんでした。
 あとからも後からも、しきりなしに風は吹いていました。けれど同じ風が二たび自分を吹くのを海豹は見ませんでした。
「もしもし、あなたはこれからどちらへお行きになるのですか……。」
と、海豹はこの時、自分の前を過ぎる風に向かって問いかけたのです。
「さあ、どこと言うことはできません。仲間が先へ行く後を、私達はついて行くばかりなのですから……。」と、その風は答えました。
「ずっと先へ行った風に、私はたのんだことがあるのです。その返事を聞きたいと思っているのですが……。」と海豹は、悲しそうに言いました。
「そんならあなたとお約束した風は、まだもどっては来ないのでしょう。私がその風にうかうか分らないが、遇ったら言伝ことづてをいたしましょう。」と言って、その風も何処どこへとなく、去ってしまいました。
 海は、灰色はいいろに静かに眠っていました。そして、雪は風と戦って、くだけたり飛んだりしていました。
 こうしてじっとしているうちに、海豹はいつであったか、月が自分の体をらして、「さびしいか。」と言ってくれたことを思い出しました。その時、自分は空を仰いで、
「さびしくて、さびしくて仕方がない!」
と言って、月にうったえたのでした。
 すると、月は物思い顔にじっと自分を見ていたが、そのまま黒い雲のうしろに隠れてしまったことを、海豹は思い出したのであります。
 さびしい海豹は毎日毎夜、氷山のいただきにうずくまって、我が子供のことを思い、風のたよりを待ち、また、月のことなどを思っていたのでありました。
 月は、決して海豹のことを忘れはしませんでした。太陽が、にぎやかなまちをながめたり、花の咲く野原を楽しそうに見下ろして、旅をするのとちがって、月は、いつもさびしい町や暗い海を見ながら旅をつづけたのです。そして、あわれな人間の生活の有様や、うえいているあわれな獣物けだものなどの姿をながめたのであります。
 子供をなくした親の海豹が、夜も眠らずに、氷山の上でかなしみながらえているのを月がながめた時、この世の中の、沢山たくさんかなしみに慣れてしまって、さまで感じなかった月も、心からかわいそうだと思いました。
 あまりに、あたりの海は暗く、寒く、海豹の心を楽しませる何もなかったからです。
「さびしいか?」と言って、僅かに月は声をかけてやりましたが、海豹は悲しい胸のうちを、空を仰いで訴えたのでした。
 しかし、月は自分の力で、それをうすることもできませんでした。
 其の夜から、月はどうかして、このあわれな海豹をなぐさめてやりたいものと思いました。ある夜、月は灰色の海の上を見下ろしながら、あの海豹は、どうしたであろうと思い、空の路を急ぎつつあったのです。やはり風が寒く、雪は低く氷山をかすめて飛んでいました。
 はたしてあわれな海豹は、其の夜も、氷山のいただきにうずくまっていました。
「さびしいか?」と月はやさしくたずねました。
 この前よりも、海豹は幾分せて見えました。そして、悲しそうに空を仰いで、
「さびしい! まだ、私の子供は分りません。」と言って、月に訴えたのであります。
 月は青白い顔で海豹を見ました。その光は、あわれな海豹の体を青白くいろどったのでした。
「私は世の中のどんなところも、見ないところはない。遠い国の面白い話をしてきかせようか?」と、月は海豹に言いました。
 すると海豹は頭を振って、
「どうか、私の子供がどこにいるか、教えて下さい。見つけたら知らしてくれるといって約束した風は、まだ何んとも言ってきてくれません。世界中のことが分るなら、他のことはききたくありませんが、私の子供は、いまどこにうしているか教えて下さい。」と、海豹は月に向かって頼みました。
 月はこの言葉をきくと、黙ってしまいました。何といって答えていいか分らなかったからです。それ程、世の中には海豹ばかりでなく、子供をなくしたり、さらわれたり、殺されたり、そのような悲しい事柄が、そこここにあって、一つ一つ覚えてはいられなかったからでした。
「この北海の上ばかりでも、幾疋いくひきの子供をなくした海豹がいるか知れない。しかし、お前は、子供にやさしいから一倍悲しんでいるのだ。そして、私は、それだからお前をかわいそうに思っている。そのうちに、お前をたのしませるものを持って来よう……」と月は言って、また雲のうしろに隠れました。
 月は海豹にした約束を決して忘れませんでした。ある晩方ばんがた、南の方の野原で、若い男や女が、咲きみだれた花の中でふえを吹き、太鼓たいこを鳴らしておどっていました。月は、この有様を空の上から見たのであります。
 これの男女は、いずれも牧人ぼくじんでした。もうこの地方は暖かで、みんなは畑や田に出て、たがやさなければなりませんでした。一日野良に出て働いて、夕暮になると、みんなは月の下でこうして踊り、その日のつかれわすれるのでありました。
 男共は牛や羊を追って、月の下の霞んだ道を帰って行きました。女達は花の中で休んでいました。そして、そのうちに、花の香りに酔い、やわらかな風に吹かれて、うとうとと眠ってしまったものもありました。
 この時、月は小さな太鼓が、草原の上に投げ出されてあるのを見て、これを、あわれな海豹に持って行ってやろうと思ったのです。
 月が手を伸ばして太鼓を拾ったのを、誰も気付きませんでした。その夜、月は太鼓を負って、北の方へ旅をしました。
 北の方の海は、依然いぜんとして銀色ぎんいろこおって、寒い風が吹いていました。そして海豹は、氷山の上にうずくまっていました。
「さあ約束のものを持って来た。」といって、月は太鼓を海豹に渡してやりました。
 海豹は、その太鼓が気に入ったと見えます。月が、しばらく日のった後に、このあたりの海上を照らした時は、氷が解けはじめて、海豹の鳴らしている太鼓の音が、波の間からきこえました。

底本:「小川未明童話集」新潮社
   1951(正和26)年11月10日発行
   1977(昭和52)年6月10日40刷
入力:鈴
校正:小林繁雄
2011年12月19日作成
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