――N・N・ソロフツォーフに捧げる



人物
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)(エレーナ・イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ーノヴナ) 両頬にエクボのある若い未亡人、女地主
スミルノーフ(グリゴーリイ・ステパーノヴィチ) 中年の地主
ルカー ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)の従僕、老人
舞台は、ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)の地主屋敷の客間。


ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)(大喪の服をきて、一葉の肖像写真から眼をはなさない)とルカー
ルカー 困りますなあ、奥さま。……それじゃ御自分の身を、じりじり滅ぼしておいでになるだけですよ。小間使も、おさんどんも、イチゴを採りに行きましたし、およそ息のあるものは、結構みんな楽しんでおりますよ。現にあの小猫でさえ、慰みごとはちゃんと心得ていて、庭をほつきまわっては、小鳥をとらまえていますのに、あなた様は日がな一んち、まるで尼寺にはいったみたいに、お部屋にこもりきりで、どだい気散じというものを、なさらない。全く、ほんとでございますよ! なにせ、もうこの一年というもの、うちから一あしも、おでましにならないなんて!……
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ああ、二度とふたたび、外へなんか出ないよ。……出てどうするのさ? わたしの一生は、もう終ったんだよ。あの人はお墓のなかにている。わたしは、この四つの壁のなかに、自分を埋めている。……ふたりとも、死んでしまったのさ。
ルカー ほれ、またそれだ! ほんとに、もう聞きたくもない。ニコライ・ミハイロヴィチだんなさまが亡くなったのは、そうなる因縁ごとで、つまり神さまの思召しでございますよ。――天国に安らわせたまえ。……あなた様も、これまでお歎きになりゃ、もう沢山で、世間体というものも、少しはお考えにならなけりゃあ。一生がい泣きとおしたり、喪服を着どおしたりで、暮らせるものじゃござんせん。……わたしも昔、ばあさんに死なれましたっけが……なあに、もう! ひと月ほどは、歎きも泣きもしましたけれど、それでまあ沢山でして、一生がい泣いて暮らすほど、有難いばあ様でもありませんでしたよ。(ため息をつく)ほんとに、近所のつきあいも、すっかり忘れてしまいなすった。……こっちからもお出かけがないし、向う様を呼ぼうともなさらない。こう申しちゃ失礼なんですが、わしらの暮らしは、とんと蜘蛛みたようで、――日の目もろくろく拝めませんですよ。一張羅のお仕著せだって、鼠公ねずこうに食われる始末で。……それで、立派なお人がいなさらんのならまだしも、この郡内と来たら、殿がたがキラ星のようにお揃いじゃござんせんか。……ルィブロヴォにゃ、聯隊が駐屯しとりまして、その士官さんたちといや――色とりどりのボンボンみたようで、見ても見飽きることじゃねえ! その営舎じゃ、金曜といや、かならず舞踏会があるし、それに、なにせ毎にち、軍楽隊がぶかぶかやっておりますよ。……やれまあ、奥さま! そのお若さで、そのご器量で、血にミルクをまぜたみたいな血色で、――いっそ面白おかしく、お暮らしになったらどうですかね。……きれい盛りは、いつまで続くもんでもござんせん! これで十年もしたら、いくら孔雀みたいにめかしたてて、士官さんたちの目をくらまそうとなすったところで、はや手おくれでござんすよ。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (きっぱりと)いいから、もう二度とわたしに、そんな話はしないでおくれ! お前だって知ってるじゃないか――ニコライ・ミハイロヴィチだんなさまが亡くなって以来、この世はわたしにとって、一文の値うちもなくなったんだよ。お前には、わたしが生きてるように見えるだろうけど、ただそう見えるだけなのさ! わたしはお墓にはいるその日まで、この喪服を脱がない、世間へも出ないって、心に誓ったんだよ。……いいかい? わたしがどんなにあの人を愛しているか、あの人の幽霊に見せてやりたい。……そりゃ、わたしも知ってるし、お前に今さら匿したって始まらないことだけれど、あの人はちょいちょい、わたしを邪慳に扱ったり、むごい仕打ちをしたり、おまけに……その、不実なまねまでしたわ。でもね、わたしはお墓にはいるまで操を立てとおして、わたしがちゃんと愛のまことを心得ている女だという証拠を、あの人に見せてやるのさ。やがてあの世で再会したら、わたしがあの人の死ぬ前と、ちっとも変らないでいることを、あの人は思い知るだろうよ。……
ルカー まあ、そんなことを仰しゃるひまに、ひとつお庭を散歩でもなさるか、いっそトビーかヴェリカン〔(ともに馬の名)〕を馬車につなげと言いつけて、ご近所へ訪問におでかけになっては……
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ああ! (泣く)
ルカー 奥さま!……奥さまったら!……どうなさいました? びっくらするじゃございませんか!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) あの人は、トビーをあんなに可愛がっていた! いつもあの馬に乗って、コルチャーギンやヴラーソフのところへ、出かけてらしたものだっけ。馬がお上手だったわねえ! こう力いっぱい手綱を引きしめてらっしゃる時の姿の、優美なことといったら! おまえ、覚えてるかい? トビー、ああトビー! 今日はあれに、カラス麦を五百、おまけにやるように言っとくれ。
ルカー かしこまりました!
けたたましい呼鈴の音。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (身ぶるいして)だれだろう? わたしはどなたにもお目にかかりませんて、そう言うんだよ!
ルカー へ、かしこまりました! (退場)
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)(ひとり)
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (写真を見ながら)いまに見せたげますよ、ニコラス、わたしがどんなに愛のまことを心得た女か、どんなに人の罪を赦せる女か、ということをね。……わたしの愛は、この哀れな心臓の鼓動がとまった時はじめて、わたしと一しょに消えるのよ。(笑って、涙ごえで)でも、あなたは恥かしくないこと? わたしはこんなにいい児で、貞淑な奥さんで、じぶんにピンと錠をおろして、お墓へはいるまで操を立てとおすつもりなのに、あなたったら……よくも恥かしくないことねえ、おでぶちゃん? 浮気をしたり、もんちゃくを持ちあげたり、なん週間もうちを明けたり……
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)とルカー
ルカー (登場、おどおどして)奥さま、だれだか、たずねてまいりましたよ。お目にかかりたいって……
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) でもお前は、こう言ったんだろうね?――主人が亡くなって以来、わたしはどなたにもお目にかかりませんって。
ルカー 申しました。だけど、てんから耳にもかけねえで、大事な用件だ、とこうなんで。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) わたしは、お目に、か・か・り・ま・せん!
ルカー それは、よく申しましたが……何しろ、森の主みたいなどえらい男でして、大声でがなり立てて、ずかずかあがりこんで来ますんで……もう、食堂まで来ております……
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (いらだって)じゃいい、お通し。……なんてまあ無作法な!
ルカー退場。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ほんとに困った連中だこと! わたしに一体なんの用があるんだろう? せっかく人が静かにしているのを、なんだって邪魔するんだろう? (ため息をつく)だめ、だめ、こうなったらもう、ほんとに尼寺へでも行かなくちゃ……(考えこむ)そう、尼寺へ……
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)、ルカー、スミルノーフ
スミルノーフ (入りながら、ルカーに)でくのぼうめ、つべこべご託をならべやがる。……頓馬野郎! (ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)を見て、威容をつくり)これは奥さま、初めてお目にかかります。退職陸軍砲兵中尉、地主のグリゴーリイ・ステパーノヴィチ・スミルノーフであります! すこぶる重要な用件のため、ご静閑をわずらわしますが……
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (手をあたえずに)どういうご用向きでしょう?
スミルノーフ 亡くなられた御主人と、おつきあいを願っておった者ですが、その御主人に、約束手形二枚で合計千二百ルーブリ、御用だてしてあります。じつは明日みょうにちが、農業銀行へ利子を払いこむ日になっとりますので、ひとつ奥さん、その金を今日きょうのうちに御皆済ねがいたいので。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 千二百……。でも、どういうわけで宅は、そのお金を拝借したのでしょう?
スミルノーフ わたしから、カラス麦を買われたのです。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (ため息をつきながら、ルカーに)いいかい、ルカー、お前わすれないでね――トビーにカラス麦を五百、おまけにやるように言うんだよ。(ルカー退場。スミルノーフに)それは、宅が拝借したものでしたら、もちろんわたくし、お支払い申しますわ。でも、あいにくと今日は、手もとに持ち合せがございません。明後日みょうごにちになれば、うちの支配人が町から戻って参りますから、さっそく申しつけて、然るべくお支払いをいたさせますが、さしあたって御希望に副いかねます。……それに今日は、宅が亡くなりましてちょうど七カ月に当りますので、わたくしどうも、金銭のことには一切かかずらわりたくない、そんな気分でおりますものですから。
スミルノーフ ところが、今のわたしの気分は、もし明日あした、利子が払えんとなったら、しゃっちょこ立ちで夜逃げをせずばなるまいと、そういうわけなんで。わたしの領地が、差押えをくうんですぞ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 明後日みょうごにちになれば、拝借のお金をお返しいたします。
スミルノーフ こっちが金のいるのは、明後日じゃない、今日なんです。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 今日はお支払い致しかねますから、あしからず。
スミルノーフ ところがこっちは、明後日まで待つわけにゃ行かんので。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) いま手もとにないものを、どうしろと仰しゃるんです!
スミルノーフ すると、払えんと言われるのですか?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 致し方ございません……
スミルノーフ ふむ!……それがあなたの、ぎりぎりのお返事ですな?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) はい、ぎりぎりの。
スミルノーフ ぎりぎりですな? 断然そうですな?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ええ、断然。
スミルノーフ ありがたい仕合せだ。ご恩は決して忘れません。(肩をすくめる)これでもまだこのおれに、冷静にしろって言うんだからなあ! さっきも途中で、税務署の男に逢ったら、「なんだってあんたは、いつもぷりぷりしてるんです、ええスミルノーフさん?」って聞きやがる。冗談じゃない、これがぷりぷりせずにいられるものか? 金につまって、にっちもさっちも行かんのですからね。……そもそもわたしが家を出たのは、きのうのことで、それも朝まだ薄ぐらいうちから飛びだして、貸しのある連中を片っぱしから訪ねて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ったんですが、そのうちせめて一人でもが払うことか! 野良犬みたいにへとへとになって、泊った先がどこかといえば、いやはや、――ユダヤ人の居酒屋の、酒だるのそばでしたよ。……あげくの果てに、うちから七十キロもあるここまでたどり着いて、こんどこそ貰えるぞと当てにしていれば、とんだ「気分」とやらの御馳走だ! これが腹を立てずにいられますか?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) わたくし、はっきり申しあげたはずですわ、――支配人が町からもどり次第、お返しいたしますと。
スミルノーフ わたしは支配人を訪ねて来たのじゃない、あなたをですぞ! そんな支配人なんか、こう申しちゃなんだが、くそくらえだ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 失礼でございますが、わたくし、そういう妙な言葉づかいや、そういう口調に、馴染んでおりません。この上お話をうけたまわるのは、ご免をこうむります。(足ばやに退場)
スミルノーフ(ひとり)
スミルノーフ ええ、どうだい! 気分だってさ。……七カ月まえ主人が亡くなりましたので、だとさ! ところでこっちは、利子を払わにゃならんのか、それとも払わんでいいのかい? ひとつ伺いますが、利子は払うのでしょうか、それとも払わんで宜しいのでしょうか? やれ主人が亡くなったの、やれ気分がどうのって、あの手この手でおいでなさる……支配人がどこぞお出かけですってか。へん、どうぞ御勝手に。だが、こっちは一体どうしろと仰しゃるんです? 軽気球にでも乗っかって、借金とりから逃げだすんですかい? それとも、めくらめっぽう駈けだして、脳天、壁でぶち割るんですかい? グルーズヂェフのところへ行けば、留守とくる。ヤロシェーヴィチは雲がくれしちまうし、クーリツィンとは、生きるか死ぬの大喧嘩をやらかして、すんでのことで奴を、窓からおっぽり出すところだった。マズートフは擬似コレラだし、ここの細君は、気分とおいでなさる。悪党ども、だれひとりとして払いやがらん! というのもみんな、このおれが奴らを甘やかしすぎた罰だ。おれが愚図で、いくじなしで、女の腐ったみたいだからだ! だいたいおれは、やつらの感情を尊重しすぎるんだ! ようし、待っとれよ! いまに思い知らせてやるからな! おれは断じて、ふざけた真似はゆるさんぞ、業つくばりめが! よし、ここにこのままいて、あの女が払わんうちは、こうして頑張っていてやる! ブルルッ!……今日という今日は、おれはおこったぞ、ほんとに怒ったぞ! あんまり怒ったもんで、膝がしらががくがくして、息がつまりそうだわい。……ふうっ、こりゃいかん、気持まで悪くなってきた! (どなる)おい、誰かおらんか!
スミルノーフ、ルカー
ルカー (登場)何ご用で?
スミルノーフ ク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ス〔(無色透明の清涼飲料)〕か水を持ってこい!
ルカー退場。
スミルノーフ いやはや、なんたる論理ロジックだ! 人が金につまって、にっちもさっちも行かず、あわや首っつりの瀬戸ぎわだというのに、あの女ときたら、なんのこったい、金銭のことにかかずらわりたくございませんので、払わないとぬかしやがる!……まさに典型的な女の論理――コルセット論理だ! そいだからおれは、昔から女と話すのは苦手だったし、今だって苦手なんだ。おれにとっちゃ、いっそ火薬の樽にでも腰かけてる方が、女と話すよりゃ気が楽だよ。ブルルッ!……ぞくぞく総毛だって来たわい――よくもおれを、ここまで怒らせやがったな、阿魔っちょめ! おれは、ああした詩的な存在を、遠くからちょいと見ただけでも、とたんに腹わたが煮えくり返って、ふくらはぎが痙攣してくるんだ。助けてくれえ――と、わめきたくなるんだ。
スミルノーフ、ルカー
ルカー (登場して、水を差し出す)奥様はお加減がわるくて、お相手ができねえそうで。
スミルノーフ 出て失せろ!
ルカー退場。
スミルノーフ お加減がわるくて、お相手が! いいよ、お相手なんか。……おれは金をよこさんうちは、ここにこうして坐りこんでいてやる。そっちが一週間病気なら、こっちも一週間いてやる。……一年病気なら、こっちも一年だ。……とにかく貰うものは貰いますぞ、奥さん! 喪服だの、頬っぺたのエクボだのにゃ、こっちはびくともしませんや。……そのエクボが、どんなものかってことは、百も承知だからね! (窓からどなる)おいセミョーン、馬をはずしておけ! すぐは立たんからな! おれは当分ここにいるんだ! 馬舎うまやへ行って、うちの馬にカラス麦をやるようにそう言え! ええこの野郎、また左の副え馬が、脚を手綱にからましてるじゃないか! (口まねをして)なあに平気でがす。……平気か平気でないか――あとで思い知らせてやるぞ! (窓からはなれる)どだい成っとらん……なんともやりきれん暑さだし、だれひとり金は払わんし、ゆうべはろくにとらんし、その上あの、喪服のお曳きずりの気分ときやがる。……頭が痛いぞ。……ヴォー※(小書き片仮名ト、1-6-81)カでもやってみるか? よおし、飲んでやれ。(どなる)こら、誰かおらんか!
ルカー (登場)何ご用で?
スミルノーフ ヴォー※(小書き片仮名ト、1-6-81)カを一杯もって来い!
ルカー退場。
スミルノーフ ふうっ! (腰をおろし、じろじろ自分の身を眺めまわす)いやはや、いいざまじゃないか! 埃はかぶり放題、靴は泥だらけ、顔も洗ってなければ、髪はもじゃもじゃ、チョッキにゃ藁がくっついてる。……あの奥さん、ひょっとすると、おれを強盗とまちがえたかも知れんぞ。(あくびをする)こんななりで客間へ通るのは、いささか失礼というもんだが、いやなに構わん……おれは何も客に来たんじゃない、借金とりだ。借金とりの服装は、べつにきまりがあるわけじゃない。……
ルカー (登場、ヴォー※(小書き片仮名ト、1-6-81)カを差し出す)旦那、あなたも相当、気ままでいらっしゃるね……
スミルノーフ (ぷりぷりして)なんだと?
ルカー いえなに……わしは……ただその……
スミルノーフ 相手をだれと心得とるか? 黙れ!
ルカー (傍白)ええこの、森の主め、とうとうこのうちに、とっ憑きおったぞ。……悪魔のさしがねに相違ねえ……
ルカー退場。
スミルノーフ ああ、腹が立ってならん! 腹のなかが煮えくり返って、いっそ世界じゅう、こっぱみじんにしてやりたいほどだ。……ええ、胸まで悪くなって来たぞ。……(どなる)おい、こらっ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (伏目になって登場)あの、まことに申しかねますが、こうして一人ぐらしをしておりますものですから、もう長いこと人様の声を聞きなれませんので、殊に大きなお声は、辛抱ができません。どうぞお願いですから、わたくしの平和をみださないで下さいまし!
スミルノーフ 金さえ払ってくださりゃ、出て行きますよ。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) わたくし、ロシヤ語でちゃんと申し上げました、――ただいま持ち合せがございませんから、明後日みょうごにちまでお待ちくださいましと。
スミルノーフ ところがわたしも、やはりロシヤ語で、こう申しあげましたよ、――金のいるのは明後日じゃなくて、今日ですとね。もしも今日、払ってくださらんと、明日あすは首をつらなけりゃならんのです。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) でも、手もとにお金がない以上、どうにも仕様がないじゃございませんか? 妙なお話ですこと!
スミルノーフ じゃ、すぐは払えんというのですね? そうですね?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 致し方ございません。……
スミルノーフ ではわたしは、このままここに坐りこんで、金が出るまで待ちます。……(腰かける)あさっては、お払いくださるんですね? それは結構! あさってまで、こうして坐らしてもらいましょう。そうれ、このとおり……(おどりあがって)いや、ひとつ伺おうじゃありませんか、――一体わたしは、あす利子を払わにゃならんのか、払わんでもいいのか?……それともあんたは、冗談だと思ってるんですか?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) どうぞお願いですから、そんな大きな声をなさらないで! ここは馬舎うまやではございません!
スミルノーフ 馬舎のことなんか、聞いちゃいません。聞いているのは、――あすわたしは利子を払わにゃならんのか、払わんでもいいのか?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) あなたは婦人にたいする作法を、ご存じなさすぎます。
スミルノーフ とんでもない、婦人にたいする作法は、ちゃんと心得とります!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) いいえ、ご存じありません! あなたは無教育な、不作法なかたです! 教養のある人なら、婦人に向ってそんな口の利きかたはしません!
スミルノーフ いや、こいつは驚いた! じゃ、どんな口の利きかたをしろというんです? フランス語でも使うんですかい? (憎々しげに、わざとシューシューいわせて)マダーム、ジー・ヴー・プリー〔(奥さん、お願い致しますが)〕……お金をお払いくださらんとは、わたくしにとって、なんたる仕合せでしょう。……あいや、パルドン〔(おゆるし下さい)〕、とんだ御心配をかけまして! 今日はじつに好い天気ですなあ! その喪服も、まことによくお似合いで! (すり足をする)
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) くだらない、失礼だわ。
スミルノーフ (口まねして)くだらない、失礼だわ! そりゃわたしは、婦人にたいする作法を知りませんともさ! ねえ奥さん、こう見えてもわたしは、あなたが御覧になった雀のかずよか、ずっと沢山おんなを見て来ましたよ! 女のことから、ピストルで決闘すること三度さんど、女を棄てること十二人、そして九人の女に棄てられたんですぞ! さよう! ひと頃はこれでも、阿呆あほな真似をしたり、べたべた言い寄ったり、にちゃにちゃ口説いたり、おべんちゃらを並べたり、手すり足すりの珍芸まで演じたものです。……惚れもした、煩悶もした、月にむかって歎きもした、がっかりもした、ぼおっともしたし、めもした。……いざ惚れたとなったら猛烈で、気ちがい沙汰で、めちゃくちゃで、作法もやり方もあったものじゃない。いい気になって、カササギよろしく婦人解放論をまくし立てたり、まあそんな恋愛感情におぼれているうちに、身代しんしょはんぶんがた、すっちまいましたよ。だが今となっちゃ――まっぴら御免だ! もうその手にゃ乗りませんや! もう沢山! 黒いひとみ、情熱的な眼、まっかな唇、頬っぺたのエクボ、月の光、ささやき、ひそやかな息づかい――それを引っくるめてやるといわれたって、ええ奥さん、わたしは銅銭一枚だって出しませんね! 目の前にいる人はさておくとして、一たい女というものは老若を問わず、みんなお高くとまって、気どりやで、金棒ひきで、いじわるで、骨のずいまで嘘つきで、虚栄のかたまりで、こせこせして、不人情で、おまけに鼻もちならんロジックを振りまわすですな。それから、ほら、ここんとこと来た日にゃ(自分のひたいを叩いて)ご免をこうむってざっくばらんに申せばですな、スカートをはいた哲学者よか、屋根の雀のほうが、よっぽど上手ですよ! その詩的な生き物というやつを、どれでもいい、ちょいと眺めてみれば、なるほど極上のモスリンだ、エーテルだ、天女の生まれ変りだ、無量無辺の法悦だ。ところが、いざ心のなかを覗いてみりゃ、――平凡きわまるワニザメクロコデイルにすぎん! (椅子の背をつかむ。椅子はめりめりとこわれる)なかんずく、一ばん鼻もちがならんのは、そのワニザメクロコデイルが、どうした勘ちがいか知らんが、恋愛感情こそは、わが最高傑作だ、特権だ、専売特許だ――と思いこんでることですよ! なあにわたしは、悪魔にさらわれてもかまわん、ほらあの釘に逆さに吊るされたって、文句はありませんよ――もし万一、女がちっちゃなムク犬のほかの誰かを、愛することができたらね!……女の愛なんて、要するにただ、めそめそ泣いたり、すすりあげたりするだけなんです! 男のほうは苦労したり、わが身を犠牲にしたりしているのに、女の愛と来たら、ただもう、長い裳裾をひきずったり、もっとぎゅっと男の鼻先へしがみつこうと、精だすぐらいが関の山ですよ。あなたは不幸にして女だから、わが身に引きくらべて、女の性質はよくご存じでしょう。さあ一つ、良心にかけて言ってご覧なさい――あなたはこれまでに、誠実で、貞節で、心変りのしそうもない女を、見たことがありますか? あるもんですか! 貞節で心変りのしない女があるとしたら、そりゃ婆さんか、出来そこないぐらいのものさ! 心変りのしない女を捜すぐらいなら、いっそ角のはえた猫か、白い羽のカラスでも捜したほうが、早手まわしですよ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) では伺いますが、貞節で心変りのしないのは、いったい誰だと仰しゃるんですの? まさか男ではありますまいね?
スミルノーフ そりゃ無論、男ですとも!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 男ですって! (意地の悪い笑声)貞節で、心変りのしないのが男ですって! おやまあ、なんて珍しいはなしでしょう! (躍起になって)よくもまあ、そんなことが言えたものねえ? 男が貞節で、心変りがしないですって! こうなった以上、はっきり申し上げますけど、わたしが過去現在を通じて知っている男の人のなかで、一ばん立派な人は、亡くなったうちの主人でした。……わたしは、若い思索的な女性でなければできないような愛し方で、あの人を熱烈に、一心こめて愛しました。自分の若さも、幸福も、生命も、自分の財産も、みんなあの人に捧げました。よる昼あの人を呼吸して、まるで邪教徒みたいに、あの人を偶像とあがめていたのに、それが……それが――まあどうでしょう? その男のなかの一ばん立派な人が、破廉恥きわまるやり口で、わたしをだまし通しだったんですわ! あの人の死んだあとで、恋文が机の引出し一ぱい見つかったばかりか、生きているうちだって――ああ、思い出してもぞっとする――あの人は何週間もうちを明けたり、わたしの目の前でよその女を追いまわしたり、女をこしらえたり、わたしのお金をパッパと使ったり、わたしの感情をもてあそんだりしたんです。……それでもやっぱり、わたしはあの人を愛して、貞節をまもっていました。……それどころか、あの人が死んだ今でも、わたしは相変らず貞節で、心はもとのままですわ。わたしはこの四つの壁のなかに、自分を永久に埋めてしまったので、死ぬまで決して、この喪服はぬぎませんわ……
スミルノーフ (小馬鹿にしたような笑い)喪服か!……いやどうも、一体このわたしを、何者と思ってらっしゃるのかな? いかにもわたしは知りませんともさ――あなたがなぜそんな、仮面舞踏会よろしくの黒装束をして、四つの壁のなかに自分を埋めてしまったのか、なんてことはね! そりゃそのはずさ! 何しろ、すごく神秘的で詩的ですからね! この屋敷のそばを、どこかの士官候補生か、それとも薄っぺらな詩人先生でも通りかかったら、窓を見あげて、こう考えるでしょうな、――「ここに神秘なタマーラじょおうさまが、住んでいる、夫を愛するあまり、四つの壁のなかにわが身を埋めてしまった女王さまが」とね。その手は先刻承知でさあ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (カッとして)なんですって? よくもわたしに向って、そんなことが仰しゃれるのね?
スミルノーフ わが身を生きながら埋めてしまった人が、やっぱりお白粉しろいだけは忘れなかったってね!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) まあ失礼な、よくもそんなことが、わたしの前で!
スミルノーフ お静かに願いましょうか、わたしはお抱えの支配人じゃございませんからね! 白いものは白いと、言わせていただきたいですな。わたしは女じゃないもんで、どうも腹にしまっておけない癖がありましてね! そんな大声は、ご勘弁ねがいたいもんで!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 大声を立ててるのは、わたしじゃなくて、あなたじゃありませんか! あなたこそ、いい加減にしてください!
スミルノーフ 金を払ってもらえさえすりゃ、即刻退散しますよ。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) だれがお金なんか出すもんですか!
スミルノーフ いいや、出してもらいます。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) こうなりゃ意地にだって、一銭だって出すものですか! そろそろお帰りになったらいかが?
スミルノーフ 不幸にしてわたしは、あなたの夫でもなければ、いいなずけでもない。ですからどうぞ、痴話げんかは御免こうむりたいもので。(腰をおろす)あんまり好きじゃないんです。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (忿怒に息をはずませながら)また坐ったのね?
スミルノーフ 坐りました。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 後生だから、出て行って!
スミルノーフ お金をください……(傍白)ああ腹が立つ! 腹が立つ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) わたし、恥しらずとは話したくもありません! とっとと出て行ってください! (間)行かないんですか? ええ?
スミルノーフ 行きません。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ほんとですね?
スミルノーフ ほんとです!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) じゃ、よろしい! (呼鈴を鳴らす)
今までのふたり、それにルカー
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ルカー、このかたをお見送りなさい!
ルカー (スミルノーフに歩み寄る)旦那、言われたら出て行くものですよ! 何もそう……
スミルノーフ (おどりあがる)黙れ! 誰にむかって、そんな口を利くんだ? 小間ぎれに刻んで、サラダにしちまうぞ!
ルカー (胸をおさえて)大変だ!……桑原桑原!……(肘かけ椅子に倒れる)ああ苦しい、胸が悪い! 息がとまった!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ダーシャはどこなの? ダーシャ! (叫ぶ)ダーシャあ! ペラゲーヤ! ダーシャあ! (呼鈴を鳴らす)
ルカー やれやれ! みんな苺とりに行きましたんで。……うちにゃ、誰ひとりおりませんわい。……ああ、苦しい! 水を!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) さっさと出てってください!
スミルノーフ もう少し丁寧に願えんものですかな?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (両の拳をにぎり、地だんだを踏みながら)このどん百姓! がさつな熊! 成りあがり! ずく入道!
スミルノーフ なんだと? なんと言ったんです?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) あなたは熊だ、ずく入道だと言いました!
スミルノーフ (つめ寄りながら)失礼ですが、ぜんたいどんな権利があって、わたしを侮辱なさるんです?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ええ、侮辱しますとも……それがどうしまして? わたしが怖がるとでも、お思いですの?
スミルノーフ あなたは、自分が詩的な存在であるから、いくら人を侮辱したって無事で済む権利があると、高をくくってるんですな? そうですね? よし、決闘だ!
ルカー さあ事だ!……桑原桑原!……み、水を!
スミルノーフ ピストルだ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) そんな頑丈な握りこぶしだの、牡牛みたいなノドっぷしだので、わたしがびくびくするとでもお思いなの? ええ? まあなんて、がさつな成りあがり者だろう!
スミルノーフ 決闘だ! わたしは、なんぴとたりとも、侮辱をゆるすわけには行かん。よしんば相手が女だろうと、「か弱き者よ」だろうと、容赦はせん!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (どなり勝とうと懸命に)熊! 熊! 熊!
スミルノーフ さあこれでいよいよ、侮辱に報復するのは男子だけの神聖な義務だなんていう、くだらん偏見をかなぐり捨てる時が来たぞ! 男女同権なら同権でよろしい、勝手にしやがれだ! さあ決闘ですぞ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) やろうと仰しゃるのね? ええ、いいわ!
スミルノーフ 今すぐですぞ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ええ、今すぐ! ちょうど主人の残していったピストルが二挺あるわ。……いま取って来ますからね……(いそぎ足で行きかけ、また引き返す)その銅びかりのしたおでこへ、ずどんと一発ぶちこんだら、さぞせいせいするでしょうよ! この人でなし! (退場)
スミルノーフ あの女、ひよっ子みたいにぶち殺してやる! おれは鼻たれ小僧じゃないぞ、センチメンタルな青二才じゃないぞ。「か弱き者よ」なんてものは、おれの眼中にゃないんだ!
ルカー 旦那、後生でございます!……(ひざまずく)どうかこの老いぼれを不憫と思って、ここを出ていってくださいまし! 死ぬほどおどかしなすった上に、またピストルだなんて!
スミルノーフ (耳もかさずに)さあ決闘だ、これでこそ男女同権だ、婦人解放だ! これで両性が平等になるんだ! おれは堂々たる主義にもとずいて、あいつをぶち殺してやる! しかし、一体なんという女だ? (口真似をする)「この人でなし……その銅びかりのしたおでこへ、ずどんと一発……」まったく、なんて女だ? まっ赤になって、眼をぎらぎらさせてさ……。りっぱに挑戦を受けやがったぞ! 正直なはなし、あんな女を見るのは生まれて初めてだ。……
ルカー 旦那、出てってくださいまし! ご恩は一生わすれませんから!
スミルノーフ あれこそ、女だ! あんなら、おれにもわかる! 正真正銘の女だ! 煮えきらない、めそめそしたのと違って、火の玉だ、火薬だ、烽火のろしだ! 殺すのが惜しいくらいだ!
ルカー (泣く)旦那……お願いです、出てってくださいまし!
スミルノーフ おれは断然あの女が気に入った! 断然だぞ! 頬っぺたにエクボがあろうがなかろうが、とにかく気に入った! 借金なんか棒引きにしてやってもいいくらいだ……腹の虫まで、おさまっちまいやがった。……驚嘆すべき女だ!
今までのふたり、それにポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (ピストルを二挺もって登場)さ、これがそのピストルです。……でも、決闘をはじめる前に、どうして撃つものか教えていただかなくちゃ。……わたし生まれてから、ピストルなんか一度も持ったことがないんです。
ルカー ああ神さま、お慈悲です、お助けを。……ちょっくら行って、庭男と馭者をさがしてこよう。……一体どこから、こんな災難が降って来たものやら……(退場)
スミルノーフ (ピストルをあらためながら)ええと、ピストルにもいろいろ種類がありましてね……決闘専用の、雷管のついたモーチマー式のもあります。だがお宅のこれは、スミス・ウェッソン製のレヴォルヴァーで、たまは後装式、抽筒子エクストラクターつきの三連発です。……いや、りっぱなピストルだ! こういうのになると、一対すくなくも九十ルーブリはしますな。……さてと、ピストルはまずこう持って……(傍白)あの眼、あの眼! 焼夷弾みたいな女だ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) こうですの?
スミルノーフ そ、そうです。……然るのち、撃鉄げきてつをあげて……それ、こうして狙いをつける。……頭を、もちっとうしろへ引く!……その手を適当にのばす。……そう、よろしい。……次に、それこの指で、こいつをおさえる――これだけのことです。……ただ要領としては、あせらず、ゆっくり狙いをつけること。……手がふるえんように気をつけること。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) わかりました。……部屋のなかじゃ決闘に不便ですから、庭へ出ましょう。
スミルノーフ 出ましょう。ただ前もって言っておきますが、わたしはくうへ向けてうちますよ。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) この上まだそんなことを! なぜです?
スミルノーフ なぜって……つまりその……。いやなに、こっちの話です!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 怖気がついたのね? そうでしょう? へへ、へえーだ! 逃げようったって駄目ですよ! おとなしく、わたしについてらっしゃい! そのおでこに穴を明けないうちは、あたしは気が済まない……そのおでこ、見てもぞっとするわ! ほんとに、こわくなって?
スミルノーフ ええ、こわくなりました。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) うそばっかり! なぜ決闘がしたくなくなったんです?
スミルノーフ なぜって……それはつまり……あなたが気に入ったからです。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (意地のわるい笑い)この人の気に入ったって! わたしがこの人の気に入ったなんて、よくも言えたもんだわ! (ドアを指さして)どうぞ、お引きとりになって。
スミルノーフ (黙ってピストルを置き、帽子〔(ヒサシのついた)〕を手にとって行きかける。ドアのそばで立ちどまり、半分間ばかり二人は無言で顔を見あっている。やがて男は、もじもじしながらポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)の方へ歩み寄りつつ言う)じつはですね……。まだあなたは、怒ってるんですか?……そりゃわたしだって、かんかんに憤慨しちゃいますがね、しかし、そこがその……さあ、なんと言ったらいいかな。……。つまりですな――ねえ、そうじゃありませんか――この種の事がらというものは、ひっきょうするにその……(いきなり大声で)ええっ面倒だ、あんたが気に入ったからって、それがわたしの罪ですか? (椅子の背をつかむ。椅子はめりめりとこわれる)畜生、なんてこのうちの家具はもろいんだ! わたしは、あんたが気に入ったんです! ええ、わかりますか? わたしは……ほとんど恋しちまったんですぞ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) そこを、どいてください、――わたし、あなたが大嫌いです!
スミルノーフ いやどうも、なんて女だ! 生まれてこのかた、こんなのにお目にかかったことは一ぺんもないぞ! やられた! 絶体絶命だ! きれいに鼠りにかかっちまった!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) どいてください、さもないと撃ちますよ!
スミルノーフ さあ、お撃ちなさい! その素晴らしい眼で見つめられながら、そのちっちゃなビロードみたいな手の握るピストルで撃たれて死んだら、どんなに仕合せだか――とてもあんたにはわかりますまい。……ああ、気がちがいそうだ! よく考えて、今すぐ決めてください――だって一旦わたしがここを出て行ったら、二度とわれわれは会えないんですぞ! さあ、お決めなさい。……わたしは貴族です、紳士です、年収は一万からあります……撃てといわれれば、ほうり上げた銅貨にだって当ててみせます……とびきりの馬だって持っています。……妻になってくれませんか?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (激昂のあまり、ピストルを振りまわす)決闘です! さあ行きましょう!
スミルノーフ おれは気がちがった。……なんにもわからん……(どなる)誰かおらんか、水だ!
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (叫ぶ)決闘場へ!
スミルノーフ 気がちがったぞ、惚れちまったぞ、小僧っこみたいに、腑抜けみたいにな! (女の片手をつかむ。女は痛さに悲鳴をあげる)わたしは、あなたを愛します! (ひざまずく)こんな恋は、したことがありません! 十二人の女を棄てた、九人の女に棄てられた、しかしそのうちの一人だって、これほど愛したことはありません。……レモンみたいに、シロップみたいに、わたしはとろとろになっちまった――もう駄目です……こうして阿呆みたいに膝をついて、手をさしのべています。……恥辱だ、恥さらしだ! 五年のあいだ女に惚れずに来た。そう誓いを立てたんです。ところが不意に、首ったけになっちまった――馬車の梶棒が、ひとの車の馭者台へ突っこんだみたいにね! あなたのお手を求めます。いなですか、応ですか? いやなんですね? そんならいい! (立ちあがって、足早にドアの方へ行く)
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) お待ちになって……
スミルノーフ (たちどまる)ええ?
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) なんでもありません、お行きになって……。でも、ちょっと待って。……いいえ、行ってください、行って! あなたなんか大嫌いです! けれどちょっと……。行かないで! ああ、わたしがどんなに怒っているか、どんなに憤慨しているか、それがおわかりになったらねえ! (ピストルをテーブルへ投げだして)こんなもの持っていたら、指が腫れちまったわ。……(腹だちまぎれにハンカチを引裂く)何をポカンと立ってるんです? さっさと出てらっしゃい!
スミルノーフ さようなら。
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) ええ、ええ、出てらっしゃい!……(叫ぶ)どこへいらっしゃるの? お待ちなさい。……いいえ、やっぱり出ていって。ああ、腹が立つ! そばへ寄らないで、そばへ寄らないで!
スミルノーフ (女に近寄りながら)こっちは、自分に腹が立ってならん! まるで中学生みたいに恋しちまって、膝までつくとは何ごとだ。……背すじがぞくぞく寒くなるわい。……(荒々しく)わたしはあなたを愛します、か! なるほど、まったく好い時に、あんたに恋したもんだ! あすは利子を払わにゃならん、草刈りもはじまっている、そこへもって来て、あんたという人が……(女の胴を抱く)我ながら、こればかりは断じて赦せん……
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) どいてください! その手をはなして! わたしあなたが……だい嫌いです! さあ決闘! (長い接吻)
今までのふたり、それに斧をもったルカー、熊手をもった庭男、乾草用の大熊手をもった馭者[#「馭者」は底本では「駁者」]、棒ぐいをもった作男たち
ルカー (接吻している二人を見て)あれまあ! (間)
ポポー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) (伏眼になって)ルカー、おまえ馬舎うまやへ行ってね、今日はトビーにカラス麦を一粒ひとつぶもやらないように、言って来ておくれ。
――幕――

底本:「チェーホフ全集 11」中央公論社
   1960(昭和35)年3月15日初版発行
   1980(昭和55)年6月20日再訂再版発行
入力:米田
校正:阿部哲也
2011年1月29日作成
2012年2月21日修正
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