あらすじ
加賀を離れ、土佐で郡奉行になった平兵衛は、かつての妻を呼び寄せることを忘れて、土佐の女と再婚し、息子をもうけていました。しかし、加賀に残された妻は、平兵衛からの音信がないまま、夫の消息を探り、衝撃的な事実を知ります。その後、妻は自ら命を絶ちます。それから数年後、平兵衛の息子・平三郎は、不思議な出来事に遭遇します。屋敷で謎の女に襲われ、刀で斬りつけたものの、女の姿は消え、刀に残るのは血ではなく青いどろどろとした汁でした。そして、大雨による川の氾濫の最中に、平三郎は父と共に、川に浮かぶ女の死体を目撃します。その女は、平三郎が以前遭遇した女とそっくりでした。
 外から帰って来た平兵衛(へいべえ)は、台所の方で何かやっていた妻を傍へ呼んだ。女は水で濡(ぬ)れた手を前掛(まえかけ)で拭き拭きあがって来た。
「すこし、お前に、話したいことがある」
 女は何事であろうと思って、夫の顔色を伺(うかが)いながらその前へ坐った。
「この加賀へやって来たものの、どうも思わしい仕官の口がないから、私(わし)は土州(としゅう)の方へ往こうと思う、土州には、深尾主人(ふかおもんど)殿が、山内家(やまのうちけ)の家老をしておるし、主人殿なら、私(わし)の人為(ひととなり)も好く知っておってくれるから、何とか好いことがあるかも知れん、私(わし)はこの四五日前から、そのことを考えておったが、その方が好いように思われるから、いよいよ往くことに決心した」
「それは、私(わたし)も時どき思わんこともありません、深尾殿なら、貴方(あなた)のこともよく御存じでございますから、ここのようではありますまい」
「そうだ、私(わし)も、今日帰る路(みち)で、決心したから、出発しようと思う、就(つい)ては不自由であろうが、私(わし)が土州へ往(い)て、身の振方(ふりかた)がつくまで、辛抱(しんぼう)していてくれ、土州へ往て、身の振方の着き次第、迎いに来るなり、使(つかい)をよこすなりする」
「どんな不自由なことがありましても、貴方(あなた)の出世でございますから、きっとお留守を守っております、これと云うのも中納言様が、貴方のお詞(ことば)をお用いにならずに、治部(じぶ)殿の味方をなされたからでございます」
 平兵衛は浮田秀秋(うきたひであき)の家臣であったが、その秀秋が関ヶ原の一戦に失敗したので、彼も浪浪(ろうろう)の身となって加賀の知人を頼って来ているところであった。
「もう中納言様のことは云うな、人は運不運じゃ」
「それでは、家のことは心配なさらずに、土州へ出発なさいませ」
「では、明日(あす)中に、家の始末をしておいて、出発しよう、あの感状(かんじょう)も、そのままにして置くから、うしなわないようにな」
 小河平兵衛(おかわへいべえ)は予定のとおりその翌日加賀を出発して土佐へ往った。土佐では山内家の二代忠義(ただよし)が一豊(かずとよ)の後(あと)を継いで、土佐藩の藩主となっていた。深尾主人は平兵衛を家の珍客として歓待した。そして、これを忠義に推薦した。忠義は彼の武功を聞いて、彼を抜擢(ばってき)して高岡郡(たかおかごおり)の郡奉行(こおりぶぎょう)にした。
 平兵衛は高岡郡の奉行所へ移った。そして、加賀にある妻を呼ぼうと思っていたが、気の広い彼は何時(いつ)の間にかそれを忘れてしまって、土佐の壮(わか)い女を妻にして男の子を産ませた。平兵衛はその小供に平三郎と云う名をつけて可愛がった。
 加賀に残って夫の留守を守っていた元の妻は、二年経っても三年経っても、平兵衛が迎いにも来なければ使(つかい)もよこさないので、ああして往ったものの土州でも思うように運が開(ひら)けないから、それがためにこんなことになっているのだろうと思っていたが、それにしても余り音信(いんしん)がないので、土佐の方へ往く人に頼んで夫の消息を探って貰った。その人は半年(はんねん)ばかりで帰って来て、
(平兵衛殿には、土州で郡奉行(こおりぶぎょう)になっておられるが、前方(むこう)で御妻室(ごかない)を持って、男の子まであります)
 と云った。女はそれを聞くと非常に口惜(くや)しがって、その夜(よ)川へ身を投げて死んでしまった。隣の者が驚いてその家へ往って見ると、竈(かまど)の中で種種(いろいろ)の書類(かきつけ)や道具でも焼いたのか、その中に箱の燃えさしや紙の燃えさしが散らばっていた。
 女の自殺したことはやがて加賀の知人から平兵衛の許(もと)へ知らして来た。

 平三郎は十九になっていた。行燈(あんどん)の燈(ひ)で草双紙(くさぞうし)のようなものを読んでいた。それは微熱をおぼえる初夏の夜(よ)であった。そこは母屋(おもや)と離れた離屋(はなれ)の部屋であった。
 庭の飛石(とびいし)に下駄(げた)の音がした。平三郎は何人(たれ)であろうと思いながら、やはり本を読んでいた。枝折戸(しおりど)の掛金(かけがね)をはずす音が聞えた。
「何か用事ができて、迎いにでも来たろうか」
 と、思っていると、やがて下駄の音が縁側(えんがわ)へ近づいて、障子(しょうじ)の開(あ)いてる処から婢(じょちゅう)が入って来た。婢は手に何か持っていた。
「若旦那様、奥様からこれを」
 婢は右の手に燗鍋(かんなべ)と盃(さかずき)を持ち、左の手に肴(さかな)を盛った皿を持っていた。
「ごたいくつでございましょうから、これをおあがりになるように、奥様が申されました」
 婢(じょちゅう)は平三郎の傍へ坐って手にしたものをまえへ置いた。平三郎は酒が嫌いであった。それに従来とてもかき餅などは時おり持たしてよこすことがあっても、酒をよこしたことがなかったので彼は不思議に思った。
「俺が酒を飲まんことは、母上も知っておるはずじゃが、なぜ酒をくだされたろう」
「何時(いつ)も貴方(あなた)がお堅くしておられますから、すこしは、浮(うき)うきなされるようにと、それで奥様からくだされたものでございましょう」
 婢はこう云いながら盃(さかずき)を持ってそれを平三郎の前へだした。
「さあ、一つおあがりなさいませ」
「では、一つ飲もうか」
 平三郎はその盃を手にした。婢は燗鍋(かんなべ)を執(と)って酌(しゃく)をした。平三郎はそれをぐっと一口に飲んだ。酒は苦かった。
「もう一ぱいおあがりなさいませ」
 婢はまた酌をしようとした。平三郎はもう受ける気はなかった。
「もう好い、俺は酒が飲めんから、注(つ)いでもいかん」
 平三郎は盃を下へおこうとした。
「それでも、奥様のせっかくの思召(おぼしめし)でございます、もう一つ」
 婢は平三郎の置こうとした盃へまた注ぎかけた。
「そうか、それでは」
 平三郎はしかたなしにその酒を注(つ)がして、口の縁(ふち)へ持って往ったが厭(いや)でたまらない。それでも受けたものであるからしかたなしに眼をつむってぐっと飲んだ。
「もういかん」
 平三郎は盃を下においた。婢(じょちゅう)はまた燗鍋(かんなべ)をかまえた。
「もう一つおあがりなさいませ」
「もういかん、もう飲めん、俺の酒の嫌いなことは、お前も知っているじゃないか、もう好い、あっちへ持って往け」
 平三郎は執拗(しつこ)い婢のやりかたに腹を立ててしまった。
「それでも、奥様の思召(おぼしめし)ではございませんか、もう一つ、おあがりなさいませ」
 婢は平三郎の置いた盃(さかずき)を持って無理にその手に持たそうとした。
「好いと云うたら、好い、執拗い」
 平三郎はその手を払い除(の)けた。それでも婢は盃を放さずに、平三郎の傍へ擦寄(すりよ)って往って無理に持たそうとした。平三郎はそれをまた押しのけた。それでも婢は進んで来て今度は燗鍋を口へ押しつけようとした。
「無礼者」
 平三郎は腰に差していた脇差(わきざし)を抜いて斬(き)りつけた。刀は婢のみぎの首筋に触れて血が行燈(あんどん)にかかった。婢はそとへ逃げだした。平三郎は追っかけた。婢は暗い庭のなかを走って奥の縁側(えんがわ)から駈(かけ)あがった。平三郎も続いて奥の縁側(えんがわ)へあがった。婢(じょちゅう)は室(へや)の中へ体を隠した。平三郎もそれを追って部屋の口へ往った。
「何人(たれ)じゃ」
 母親の叱(しか)りとがめる声がした。平三郎は入口へ立って室の中を見た。室の中では母親が彼(か)の婢と並んで裁縫(さいほう)をしていた。
「その態(ざま)は何ごとじゃ」
 母は平三郎の刀を持って気色(けしき)ばんでいる態(さま)を見た。
「そこにおる婢が、無礼を働きましたから、手討(てうち)にいたしかけたところが、逃げて来ました。その婢を渡してくだされ、手討にいたします」
「お前は夢でも見たのではないか、婢は宵から、私の傍で針仕事をしておって、どこへも往きはしないよ」
 平三郎は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)っておどろいてこっちを見ている婢と顔を見あわした。今の女はたしかにその婢のようであるが、第一右の首筋をしたたか斬ってあるに拘(かか)わらず、傷らしいものも見えない。それに母も傍を離れないと云う、彼は不思議でたまらなかった。彼は気が注(つ)いて己(じぶん)の身の周囲(まわり)を見廻した。
 奥の室の隣室(となり)には平兵衛の居間があった。母親はその方を見返って襖(ふすま)越しに声をかけた。
「平三郎が、あんなことを云うておりますが、お聞きになりましたか」
 嘲(あざけ)るような笑い声がそこに起った。
「若輩者(じゃくはいもの)、狸(たぬき)にでも化(ば)かされたか」

 平三郎は刀を持ったなりにすごすごと離屋(はなれ)の室(へや)へ帰って来た。帰りながらも不思議でたまらないから、若党のいる室へ往って将棋をやっていた二人を呼びだした。
「怪しいものを仕留(しと)めたから、ちょっと来てくれ」
 若党は平三郎の後(あと)から跟(つ)いて来た。平三郎は離屋にあがって確(たしか)に散ったと思った行燈(あんどん)の血を前(さき)にしらべてみた。行燈には血らしい滴(したた)りも見えなかった。それでは燗鍋(かんなべ)や盃(さかずき)などがあるかと思って行燈の下を見た。燗鍋も盃も皿もなにもなかった。彼は手にしていた脇差(わきざし)を行燈の燈(ひ)へ翳(かざ)して見た。刀にはすこし異状がないでもなかった。青いどろどろした汁のようなものが喰(くっ)ついていた。平三郎はそれを指でしごいてその指を燈に透(す)かして見た。それは青いどろどろしたものであったが、しかし、決して血などではなかった。
「これはなんであろう」
 平三郎はその指をもみあわしてまた燈に透かして見た。若党二人は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)ってそれを見ていた。
「たしかに怪しいものを仕留めたから、邸(やしき)の中を詮議(せんぎ)してくれ」
 平三郎は刀の異状に力を得て、若党と三人で松明(たいまつ)を点(つ)けて庭の隅隅(すみずみ)を調べて廻った。曇った空に鬼魅(きみ)悪い冷冷(ひえびえ)する風が出ていた。庭には何の異状もなかった。

 その夜(よ)遅くから大雨になって風がそれに添うて来た。雨と風は次第に強くなるばかりであった。高岡町(たかおかまち)の傍(そば)を流れている仁淀川(によどがわ)は、忽(たちま)ち汎濫(はんらん)して両岸の堤防が危険になって来た。半鐘(はんしょう)の音はその暴風雨(あらし)の中にきれぎれに響いた。郡奉行(こおりぶぎょう)の平兵衛は陣笠(じんがさ)陣羽織(じんばおり)姿(すがた)で川縁(かわべり)へ出張して、人夫を指揮して堤防の処どころへ沙俵(すなだわら)を積み木杭(きぐい)を打ち込ましていた。
 篝火(かがりび)が堤防のあっちこっちに燃えていた。その篝火は直(す)ぐ雨のために小さくなった。篝火に照らされて人夫の乗った舟の舳(へさき)や、艪(ろ)を漕いでいる人の顔などが折おり見えた。
 夜明けに近くなった。雨は止んでしまったが風は未(ま)だ強かった。平三郎も父といっしょに川縁(かわべり)へ出ていた。平三郎は鉢巻をし裾(すそ)をからげて、人夫といっしょに沙俵を運んだり、舟へ乗って堤防を見廻ったりした。
 夜(よ)が明けて来た。それとともに風も止んで来たが水は増すばかりであった。平兵衛の乗った舟と平三郎の乗った舟は、堤(つつみ)に添うて上流(かわかみ)の方へ漕いでいた。平三郎は舳へ腰を掛けていた。その舟には四人の人夫が乗っていた。平三郎は何かの拍子に舟の右側へ眼をやった。一人の女の死体が不意に浮いて来た。面長(おもなが)な顔の女で黒い眼をぱっちり開けていた。平三郎は驚いた。平兵衛の舟がその右側を漕いでいた。平兵衛は舟の胴(どう)の間(ま)に衝立(つった)って上流(かわかみ)の水の勢(いきおい)を見ていた。
「父上、父上、昨夜(ゆうべ)の女(おなご)が、女(おなご)が浮きました」
 平兵衛は平三郎の声を聞いて左側の水の上を見た。見覚えのある女の顔であった。両方の舟に乗っている人夫等(ら)も同時にそれを見た。女の体はそのまま沈んで往った。
「父上、昨夜(ゆうべ)の女はあれでございます」
 平三郎は声を震(ふる)わして云った。
「そうか」
 平兵衛はこう云って平三郎の顔を見たが忽(たちま)ち大声に笑いだした。
「この水では、一人や二人は、死ぬるだろうて」
 平三郎の舟の舳(へさき)が何かに下から衝(つ)きあげられたように持ちあがりかけた。平三郎も人夫達も材木のようなものにでも乗りかけたのではないかと思った。人びとは艫(とも)の方へ体を崩(くず)されてしまった。その拍子に舟が左に傾いてそのまま顛覆(てんぷく)してしまった。平兵衛の舟では直(す)ぐ見つけた。
「若旦那の舟が」
 平兵衛の舟は直ぐその方へ舳を向けた。下(しも)から登って来ていた二三艘(そう)の舟も直ぐそれを見つけた。顛覆した舟の傍には二三人の人夫の頭が浮いた。平兵衛の舟へはその二つの頭が近づいて来て舳の小縁(こべり)へその手がかかった。下(しも)から来た舟の方へも二つの頭が近づいていた。平兵衛は平三郎の頭に注意した。
「若旦那が見えん」
 他の四人は皆出て来た。
「若旦那は、舟に伏せられておるのじゃ」
 舟底を見せて下(しも)へ下へと流れて往く舟を目がけて、平兵衛の舟は漕(こ)いで往った。

 平三郎の死骸はとうとう見つからなかった。平兵衛は後日知人に向ってこんなことを云った。
「あれは先妻の祟(たた)りじゃ、私(わし)に怨(うら)みを報いるつもりであったろうが、私(わし)を恐れて、平三郎の命をとったのじゃ、舟の傍へ浮きあがった女は、宵に平三郎が手討(てうち)にしようとした女(おなご)だと云うたが、あの女(おなご)は先妻であったよ」
了

底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会
   1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第一巻」改造社
   1934(昭和9)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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