ちかごろ、歴史的人物で興ふかきは、やはり、乃木大將である。私、さきごろまでは、大鹽平八郎を讀んでゐた。かれが、ひとりの門弟と論爭して、お膳のかながしらの頭をがりがり噛んで食べた、ことなど、かれの人となりを知るに最もよきエピソオドであらう。けれども、いままた、乃木將軍が、よみがへつて來て居る。一望千里の滿洲の赤土の原、あかあかと夕燒にてらされ、ひとり馬で歩いて居る猫背の乃木將軍のすがたが、この眼に見えるのだ。がいせんの折、陛下の御前に立ち、「なんの! これが、がいせんでございませうや。私は、萬人の部下を殺した男でございます。御處刑をこそ、おねがひ申します」と言ひ、男泣きに泣いた。泣いた片眼は義眼であつた。かれは、それを、ひたかくしにかくしてゐた。つい、先日、それが、はじめて、新聞に出て、世人を一驚させたことである。かれの生前、二三の人が、それを知つて居るのみであつた。かれ、常日ごろ、わが家に禁斷の一部屋を設け、そこには誰も、いれなかつた。かれは、しばしばそこに閉ぢこもるのである。家人、さだめし、御勉強のことであらうと緊張した。いづくんぞ知らん。その部屋は、かれの晝寢の部屋であつた。またいふ、東郷大將とふたり外遊の折、乃木、かならずその國一のホテルに宿り、手袋、煙草、すべて一流のものをのみ用ゐた。あれほどの儉約家がと部下ひとしく眼を見はつたが、かれ、思へらく、おれは日本を代表する將軍である、おれの一擧手一投足に依り、外國人、かならず、日本の評價をこそするにちがひない、と。(その餘は、他日また)

 私の兄はこの縣で縣會議員をして居る。太宰といふ縣會議員はない、と頬ふくらますひともあらうが、私は、いつはりを言はぬ。毎朝いただいて居る東奧日報に據れば、私の兄は、いま、縣會に於いてたいへん割のわるい役をして居るやうである、私、いま、兄上に叱咤されるのを覺悟のうへで申してゐるのであるが、勘平役者が黒衣にまはつたやうで氣持がよくない。けれども、また、葉落ちる秋あれば花咲く春あり。菅公のむかしからきまつて居る。話は飛ぶが私の兄は、この地方に於いて最も注目されてよい人物の一人かもしれぬ。ソロモン王の底知れぬ憂愁をうかがひ知り得る唯ひとりの人である。百萬圓きづきあげるよりも、百萬圓守るのが、むづかしいのだ。守るちからは、はたからは、絶對に見えぬ。やくざな私を、無言のうちに叩きあげて下さるのも、すべて兄上のちからである。兄上の峻嚴と竹内俊吉氏のなごやかさは、縣會に於いて、よいコントラストをなしたであらうに。惜しいことをした。

 青森三通。ひとりは小館保治郎氏であり、ひとりは、寺町の豐田太左衞門氏であり、いまひとりは、書のたくみなる齋藤常次郎氏であらう。
 小館氏は、孤芳と號し、俳句をつくられる。七八年前、相州鎌倉の御別宅にて、「正月や酒も肴もくにのもの」の一句を私に示された。まことに長者らしき、なごやかな、人柄そのままの自然の風ありて、われらの及ぶところでないと思つた。
 豐田太左衞門氏は、ゆゐしよある老舖の御主人にして、これまた、長者のふうあり、もののわかりのよきこと無類、三四年前、私と一緒に銀座うらを漫歩せしことありしが、私をしてまるで、鏡花、荷風などの老文士とともに在るが如き思ひを懷かしめた。
 齋藤常次郎氏は、いま、たはむれに書畫骨董をあきなつて居られる由であるが、そのひとがら、その前半生、明治初年に沒したる大通中の大通細木香以を思はせる態の灑脱の趣があるのである。細木香以に就いては、森鴎外くはしくこれを述べて居る故、われら小倉袴のぶんを以てかれこれ言ふべきではないが、通人とは、世人が考へて居られる如き、藝者末社をひきつれ、自らを何のや主人と稱して長唄の稽古にいそしみ、その巷に於いて兄さん兄さんと呼ばれて居るさまの、そんなふざけたものではないやうである。そこに人間の本然のすがたを見せ、はたまた嚴酷なるダンデイスムを感じさせるものをのみ指して言ふのであらう。その點では、天下の大野暮乃木將軍も亦、ものの見事に通人の資格あらむ乎。さもあらばあれ、御三人、ちかごろの寒さにつけても、おからだお大切のこと、第一におねがひいたします。

底本:「太宰治全集11」筑摩書房
   1999(平成11)年3月25日初版第1刷発行
初出:「東奥日報 第一五五八七号」
   1936(昭和11)年1月1日
入力:小林繁雄
校正:阿部哲也
2011年10月12日作成
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