廣大な支那大陸の天然現象を研究することはその道の學者にとつて興味深いことに相違ないが、一般人の支那を知り度いとか支那は不可解だという云ふ場合の「支那」は其の殆ど總ての場合に於て專ら其人文現象のみを意味するのである。從つて私も亦其意味に從ふであらう。今少し詳しく言へば、我々の論議の對象は支那民族を構成する所の個人及び社會であり、個人に關する諸現象は心理學とか人種學とか云はるゝ自然科學の領域に屬し、また社會に關する諸現象は各種の社會科學の範圍に屬するものである。支那智識の豐富な所有者を俗に支那通と呼びならはし世人は一面に之を重寳がり他面に之を輕侮して居るのであるが、支那通の輕侮を受ける理由は彼等の經濟的及び道徳的缺陷を別とし、其表藝たる支那智識の内容の非科學的な爲であつて、所謂身から出た錆であつて決して彼等を輕蔑する所の世人の罪では無さゝうである。譬へば所謂支那通の豫言は第一革命以來越中褌と同じく、必ず向ふからはづれるものであると云ふ洵に不結構な折紙をつけられて居る。然らば何故に支那通の支那智識が非科學的であると斷言し得られるかと云ふに、先づ第一に豫言と云ふことであるが、何年何月何日に日蝕があると云ふ風に今日の自然科學では正確なる、或は夫に近い程度の豫言が許される樣に進むで居るのだが、社會科學の方では一面に學問自身の幼稚な爲と他面には社會現象の複雜を極める爲とに由り、正確な豫言は申すに及ばず蓋然的な推定すら下すことが困難な状態にある。譬へば經濟學者は恐慌の週期性と云ふ事を唱へ、之を一つの經濟法則であると誇稱して居るのであるが、實際の事實に照合して見ると恐慌は必ずしも十年目に起ると限らない。即ち社會現象にあつては科學的研究の結果に於てすら豫言の許されない今日に於て、如何に支那智識の豐富な支那通であるとは云へ、内亂が起るか起らぬか、起つたら何ちらが勝つか、何時頃如何なる形で終熄するかと云ふ樣なことを正確またはそれに近い程度に洞察し得る道理が無い。此の明かな道理に拘らず所謂支那通どもが大膽にも、或は無思慮にも新聞記者などの問に答へて豫言の安賣りをすると云ふ事は、畢竟彼等の頭が非科學的に出來上がつて居る爲である。支那通の頭が非科學的である事の結果は獨り越中褌的な豫言を濫發して世間にもの笑をまねく許りでなく、彼等の持つ支那智識そのものが凡て斷片的であつて其の間に何等の統一又は連絡なく、必要に應じて兎の糞の樣にポロリ/\と間に合せ的に出て來るに過ぎないのだから全然とは言ひ得ない迄も、聽者の頭で適當に取捨及び統一を與へぬ限り殆ど實際の役に立たぬのである。

 從つて我々は所謂支那通から離れて全く別な方法をとり、其方法に添ふて支那智識を吸收する外無いのであるが、然らば此の新らしい方法とは抑々何であるか。一言にして之を盡せば科學的方法である。即ち前にも一寸述べた樣に支那人を研究するには人種學とか心理學とかの方法に依り、支那社會を研究するには諸社會科學の指示する方法に從ふのである。然るに科學的研究を行ふ爲には先づ第一にそれ/\の材料を蒐集して之を取捨選擇することが必要なのであるが、不幸にも支那の人文現象は今日迄餘り廣く科學者の斧を受けて居ない。從つて我々は之に關する先進學者の科學的研究の賜を享受し得ない許りでなく、科學的研究の根本資料たる斷片的諸智識をすら自身の努力に依るほか、多く手に入れることが出來ない程の荒蕪状態に置かれて在るのである。さうは言ふものゝ支那の人文現象が科學的研究に對して全くの處女地であると云ふのではない。佛蘭西人や英吉利人の示してくれた今日迄の業績でも決して無視することの出來ぬものであり、後れて參加した獨逸にも相當の文獻はある。亞米利加は論外とし比較的貧弱な日本ですら、東亞同文會の支那經濟叢書を魁として臺灣總督府には清國行政法、臺灣私法、舊慣調査報告書の他に戸口及び土地調査があり、其後も引續いて研究を怠らぬと云ふことだから今日では一層豐富な智識が集められて居るであらう。臺灣總督府に次ぎ且つ其先縱を[#「先縱を」はママ]追ふて遂行せられた南滿州鐵道會社の舊慣調査があり、又最近には關東廳の戸口及び土地調査、竝に其副産物たる關東州事情上下二卷の出版がある。所謂シノロジーの純學術的研究には京都帝國大學が先鞭を着け支那學と題する機關雜誌を發行しつゝある。また經濟方面に於ては山口高等商業學校に小規模ながら一つの學術團體があつて東亞經濟研究と名づくる機關雜誌を出して居る。此の機會に紹介して置き度いのは北京の風物研究會が主として土俗學方面の研究に從事し毎月一回宛出版する小册子には土俗學に關する貴重な資料が發表されつゝあることである。尤も會とは云へ中野吉三郎氏の殆んど單獨の仕事である。個人で支那の科學的研究に從事して居る人は此の頃餘程殖えた樣であるが只私自身に萬遍なく數へ擧げるだけの用意が無いことを遺憾に思ふ。

 次に注意すべきは支那人自身の努力である。舊い所では餘り科學的方法が發達せず、始めてそれらしい學風の起つたのは清朝の盛時に於ける所謂考證學に於て之を見るべきであらう。考證學的方法は清朝の中葉以後衰微したと云へ、其傳統は今日に引續き、北京大學の文學部を本據として一層強い科學的精神を抱きつゝ今や復興の氣運に向つて居る。考證學は其名の示す通り古文獻の考定を其任務とするものであるが、今日の若い學者達は一面それに深い興味を感ずると同時に、更に進むで古文獻の内容に對し傳統に捉はれざる價値批判を行ふと云ふことに、一層深い興味を感じて居る樣に見える。古文獻の研究と同時に、目前に起伏する諸々の社會現象に對しても彼等は注意を怠らない。大體から見て他國の學者と著しく相違する點は支那の學者達が、彼等の收得した科學的智識をヨリ深く掘下げるところの純學究的態度に滿足し得ずして之を自國の諸現象に當てはめ謂はゞ當用的研究に傾きたがると云ふ風がある。それ許りでなく、研究の結果を早く纒めて世間に發表したがる爲に、或る意味に於ては支那智識に渇して居る我々にとつて便利でもあるが、然し深みのあるどつしりとした業績を擧げると云ふ點から見れば頗る物足らぬ恨みが無いとは言へぬ。然し此の傾向は必ずしも所謂民族性から必然的に現はれるものではなくて、一面には草創の時代に屬すると同時に他面には社會状態が安定を失つて居る爲に、落ちついた氣分を學者に與へる餘裕が無い爲でもあらう。古文獻及び其内容に關する權威としては章炳麟、王國維、胡適、梁漱溟の諸星があり、政治學では陳啓修、社會學では余天休、經濟學では馬寅初などの人々が今私の記憶に浮むで來るのであるが、心理學方面にも熱心な研究者があつて北京に中國心理學會と云ふを組織し月刊の機關雜誌を發行して居る。此の雜誌は主として支那人の心理現象に關する論文を發表する點に於て我々を裨益する所少なからぬのであるが、殘念ながら主宰者の名を忘れた。また北京大學の文學部で其學生や他の學校の縁故を通じて大規模な土俗學的資料の蒐集を行ひ、其一部を機關雜誌に發表しつゝある。法律方面に於ては民間に著しい學術團體又は學者を見受けない樣であるが、司法部の刊行する司法公報や大理院判例集や法律編査館の諸報告などは獨り法律學者の參考たるのみならず、同時に社會學や經濟學や土俗學の研究者にとつても絶好の資料たるものである。以上の他に各種の通俗的、稀には學術的出版物が定期或は不定期に、上海北京を始めとして盛に市に上るのであるが、それ等の出版物の中から往々にして我々の見逃すことの出來ない記事を發見することがある。從つて大きな學術團體では成るべく之等の出版物を蒐集して之に眼を通す必要があると思ふ。之を要するに民國七八年以來の支那の學界及び出版界は、それ以前と餘程調子が變つて來て、今日では世界の學者が決して支那人の科學的研究の結果を度外視する事が出來なくなつたのである。

 支那の人文現象は、その間口から見ても又その奧行から見ても、底の知れぬ程深く且つ廣い物である前に列擧した佛英獨及び日本、支那に於ける學者の業績は、卒然として之に對すれば相當大きい堆積であり數人の力では一通り眼を通すさへ困難な位であるが、併も之を研究對象の全體から見る時は所謂九牛の一毛に過ぎず、我々はたゞ前途の甚だ遠きを見て長大息を洩らす許りである。即ち嚴格な意味に於ける支那研究の足跡は全世界の學者達の數十年に亘つた熱心なる努力に拘はらず、その收穫の貧しいことは前記の如くで一般人が其結果の分け前に預ることは今日迄の所まだ甚だ乏しいのである。然しながら我々は、殊に隣り合つて國を樹てる所の日本人は單にそれ/″\の職業に應じて、或程度の正確な特殊智識の必要を痛切に感ずる許りではなく、佛蘭西の一般國民が英吉利を知り、英吉利の一般國民が獨逸を知ると同程度及意味に於て、日本國民が支那を知ると云ふことは彼等の日常生活にとつて必須の常識であらねばならぬ。幸にも此數年來我國民は此の事實に氣付き、以前とは違つた眞劍な心持ちで支那を眺め樣とし、それに關する智識慾の燃え立つて居ることを示す種々なる現象が起つて來た樣である。南滿州や更に南北支那にまで足を伸ばす實業團體や教育家團體や學生團體が年と共に増加して來ることも其明證の一つである。如何にも日本人一般の支那に關して持つ所の智識は貧弱である。一層惡るいことには其内容の殆んど凡てが根柢から誤つて居る。一口に言へば日本人は其隣國であり殊に國民經濟生活の最大要素たるべき支那に關して全く沒常識である。彼等の沒常識の最も顯著なる實例三ヶ條を次に掲げよう。
一、日本人は一般に支那に對して先進者であると云ふことを無反省に自惚れて居る。
二、日本人は支那を儒教の國であると思ひ込むで居る。
三、右の誤信とは一見矛盾する樣であるが日本人は支那人を道徳的情操の殆んど全く缺乏した民族であるかの如く考へて居る。
 日本人は第一項の誤謬を更に押し擴めて、支那人の個人及社會生活の凡ての方面に此の誤まれる原則を適用し、之が爲に誤解の程度を一層深め且つ擴大して居る。此の種の誤解は日本人よりも西洋人の方が一層甚だしいのであり、日本人は日清戰爭以後如此き態度を西洋人から學むだものとも云へるのであるが、然し西洋人が誤つて居るから日本人の誤りが許されると云ふ譯には行かぬであらう。數年前、膠濟鐵道の食堂車で茶をすゝつて居ると一人の旅客が同じ卓子に着いて名刺を私に渡した。それに依ると此の旅客は或都市で相當の身分ある實業家であつて、列車は※(「さんずい+維」、第3水準1-87-26)縣から高密に向ふ途中の廣い平野を馳り、晩夏の朝のことだから畑には露を帶びた農作物の青い波が眼の屆く限り風に搖られつつうち續いて居た。實業家はそれを見渡しながら輕い調子で
すばらしい生産力ですなあ。此の生産力を日本の進歩した農耕法で極度に發揮させることが出來たら支那程恐ろしい國は無くなるでしように……
と語り、自らの大げさな表現に醉ふたかの樣に首を傾けつゝ私を覗き込むだ。私は實業家の用語から推して流行語の所謂智識階級に屬する人だと想定し、同時に支那に仕事を持ち屡々支那を旅行して恐らく支那の商人や官吏とも相當なつきあひをして居るであらうと思はれる此の實業家が、一體何と云ふ無思慮な優越感を恥づかしくもなく人前にさらげ出すことであらうかと驚ろいたのである。此の輕い反感から私は一番彼れを屁込まして遣ろうと云ふ惡戯氣分になり
御説の通りに大した生産力ではあるが、從つて此の生産力を充分に利用すれば素晴らしい富を擧げることが出來るでしようが、然し日本の農耕法などは全く何の役にも立つものではありますまい。水稻は需要關係や水量や氣候などの諸條件に拘束されて決して經濟的な作物でなく、又養蠶ならば之から少し東の青州を中心として恐らく三千年以來引續き盛んに行はれて良質な繭を豐富に生産して居ます。
私は更に進んで支那の農民が選む作物の種類や農耕の技術的發達や農産物に關する經濟組織殊に農民の之を運用する能力の高いことや園藝及び牧畜の技術に秀でて居ることを、九州、信州及び北海道の日本農民の生活と比較して滔々と辯じ立て、且つ其の結論として、
日本農民の樣な融通の利かぬ生産者を移し其幼稚な、極度に單純な技術及び經濟能力で支那人と競爭さしたならば、縱令如何なる保護を加へたとて三年と經たぬ間に消えて無くなるに相違ない。
と斷言した。恐らく挨拶がわりに愛嬌半分で披瀝した優越論を糞眞面目に反駁された實業家は、初めの程は唯面喰つた形であつたが後には澁々ながら私の横議を承認し氣の毒な程しよげて了つた。之は單に今思ひ出す儘の一例を示したに過ぎぬが、此の種の實例は私の長い支那生活の間に數限りなくある。之を要するに日本が支那に對して先進國であると正當に主張し得る範圍は極めて狹いものであるに過ぎず、東洋史を一見しても明かである通り先進國として誇り得る理由は逆に支那の方が遙に多くを持ち合せて居ると云ふ方が正しいのである。それと同じ事が國家許りでなく國民としても何等の保留なしに言ひ得られる。我同胞は一刻も早く此の謂れなき優越感を支那人に對して放棄する必要があると思ふ。

 第二の誤解即ち支那を儒教國であり、支那人を儒教の信者であると見る態度は恐らく日本人として當然に、少なくとも一應は陷るべき誤りであらう。澁澤榮一氏などがポケット論語の一册あれば容易に「日華親善」を實現し得ると空想して居るのは愛嬌の一種だと解釋して濟むことであるが、東京帝國大學の支那學者迄が之と同樣な誤謬に陷つて居ることは困りものである。此の誤謬から更に「儒教は宗教に非ず、故に支那に宗教なし」と云つた樣な飛んでもないロジツクを産み出して本氣でかゝる迷論を主張する者もあるが、之を西洋人の同じ問題に對する態度と比較して見ると餘程面白いことになる。西洋人の支那研究は其初期に於てキリスト教宣教師の專賣であつたが、彼等は布教に際し商賣敵なる道教に苦しめられた結果「支那人は頑固極まる迷信者流である」と斷定し「道教は迷信の固まりである、迷信は宗教に非ず、故に支那には宗教無し」と云ふ三段論法を案出したのである。之まで説けば支那に宗教が無いと云ふこと及び支那は儒教の國であると云ふことの無根據な獨斷に過ぎぬことが略々明瞭となると思ふ。道教は宗教では無くて迷信だと云ふのは耶蘇教徒の獨斷に過ぎない。道教に夥たしい迷信氣分の結び着いて居ることは爭はれぬ事實だが、其教理の本源は支那民族の間に必然發生すべき性質を持つた所の所謂民族的宗教であつて、耶蘇教や佛教と肩を並べて人類に普遍的に妥當すると誇る譯には行かないが、而もそれが立派な且つ大規模な宗教の一つであると云ふことだけは充分に主張し得られるものである。次ぎに儒教は宗教に非ずと云ふ命題の正しいのは此の二千年來のことであつて、それ以前に行はれた所謂原始儒教は「上帝」を本尊とする所の正眞正銘の宗教であつたのである。大古の時代に支那民族の政治的統一が未だ行はれず、民族文化の高度な發達を遂げなかつた以前には、思ふに「上帝」を本尊とする所の只一つの民族教が、誰れが發明し又宣傳するともなく行はれて居たものであらう。其後統一的政治組織が具體化すると共に階級的支配被支配の關係が社會の全面に行き亘ることゝなつた。其結果として單一な、素朴的な民族教にも階級の影を宿して爰に分裂を生じ、其一片が支配階級に取り入れられて儒教の源流を爲し、被支配階級の間に殘つた素朴な儘の民族教が流れて道教の名を與へられることゝなつたのである。儒教の創始者は孔丘であるが、其孔丘に言はせると彼の信仰した民族教のお祖師樣は「周公」である。實物の周公が如何なる性格及び政治、宗教的勳功の持主であつたかはまだ好く知られないが、儒家者流は孔子の言を信じて周公を聖人即ち理想人と爲し支那の政治も宗教も此の人の偉大なる天才及び徳性を俟つて始めて完成されたものであると主張する。其實大岡越前守や幡隨院長兵衞が徳川期の講釋師の口先きで、多くの裁判官又は所謂男達の殘した逸話を越前守及び長兵衞の一身に集結して何時の間にか彼等を偉くして了つたと全く同じ方法で、支那文化のお祖師樣たる周公の超人性を築き上げて了つたものであらう。殊に此のお祖師樣が政治家として一王朝を開いたと同時に新宗教を開いたと信ぜられて居ることは、此の新宗教の階級的性質を證據立てる一つの有力な材料であると考へることも出來る。それは兎に角として斯樣な歴史を持つ階級的宗教即ち儒教は周末に至つてようやく其宗教性を失ひ、漢の武帝の世に復活して國教と指定された時には、全く其性質は變つて單なる政治上及び道徳上の鑄型と化し了つたのである。從つて爰に國教と云ふ意味は、實は宗教としての夫れで無くて政治及び行政の形式を整へ、一面には支配階級の道徳標準を此所に求めて更に進んでは之も同じ標準に被支配階級をも從がはしめようとしたに過ぎない。然しながら支配階級の間に畸形的な發達を遂げた窮屈千萬なる儒教の要求は、封建時代にこそその宗教的權威に依つて支配階級の公的及び私的行爲を或る程度に拘束する力を持つて居たとは云へ、郡縣時代の開始に伴つて發生した新らしい支配階級の人々から見ると、本氣で如此煩瑣な拘束に從つて居る事は出來ない。其當然の歸結として儒教は單に支配階級者の公的及び私的行爲を律する文字通りの形式となつて了つたのである。それに拘はらず表向きは何所までも「國教」であるのだし、且つ千有餘年を經て深く日本國に同化せられ、正直にして單純なる日本國民は本氣で之を遵奉したことであるから、況して其の本場なる支那の社會にあつては、公的にも私的にも一層有效に其民族を支配して居ると信じたがるのであらう。併ながら事實は全く之と正反對に、生命ある儒教は其宗教性と共に早やく二千年前に滅亡し、爾來朝廷の政治的威力と支配階級の社會的勢力とに依り、只其形骸のみが辛うじて今日まで維持されて居るに過ぎぬのである。之に反して原始民族教の嫡統と見なすべき道教は徹底的に、即ち支配階級たると被支配階級たるとを問はず、支那社會の隅々に迄隈なく行き渡り今も尚力強く彼等の私生活を左右して居るのである。從つて私は若し強ひて「日支親善」を希望するならばポケツト論語をストーブにくべて、それの代りにポケツト老子を印刷し之を支那に擔ぎ込むだ方が寧ろ適當だらうと言ふのである。有名な支那學者プロフエツサー、レツグはその支那宗教論の中に「老子は相當に價値ある書物だが今日の道教を調べて見ても兩者の間に何等の關係が認められない」と云ふ意味のことを述べて居る。之と同じ意見は日本の學者の間にも時々起る樣であるが、此の見解も誤解か然らざれば詮索不行屆きの結果であつて、詳しいことは他日に述べるとし、老子の思想は道教信者たる支那人の心持ちと非常に好く吻合する所のものである。之を要するに儒教は昔にも今にも嘗て支那の「民衆」の信仰を受けたことの無いものである。且つ又支那人に宗教心が無いと云ふことも大きな間違いであつて、私共の見る所では支那人程強い宗教感情を持つた民族は少なくも今日の開明民族の間に發見し得ないほどで、恐らくジユダャ人の次ぎには支那人が世界第一の信神者であらう。

 最後の一項、即ち支那人は徳性に缺げて居ると云ふことも他の二項に讓らぬ程度の誤解である。凡ての事柄が左樣であるが、取分け或民族に徳性ありや否やと云ふ問題を考察するに當つては、考察者は先づ自身の持つ偏見、即ち善惡の標準は人類に普遍妥當するものであると云ふ迷信、殊に自身の屬する社會の道徳標準の普遍妥當性に對する迷信から脱却しなくては到底正しい結論を得ることは出來ないのである。ところが生憎にも此の偏見から脱却することは普通の人間にとつて非常に困難なことである。私自身を例にとれば、私が支那人の標準に立つて支那人を批判し得る樣になつたのは、支那に渡つてから凡そ八年目ぐらいの時代であつた樣に記憶する、之は恐らく極端な例で私のイコヂな個性と生れつきの鈍感から來て居ることゝ思ふが、充分に公平且つ聰明な人でも二年や三年は此の漆桶から拔け切ることは難しからうと思ふ。それは兎に角として名前は同じ道徳的情操でも日本人と支那人のそれとの間には非常な距りがある。最近では日本人の道徳觀念と西洋人のそれとの間に共通する部分が餘程多くなつた樣で、從つて現代の日本人からは西洋人の持つ道徳觀念よりも却つて「同文同種」と言はるゝ支那人の道徳觀念の方が一層縁遠いものに考へられるのである。支那の民族道徳の内容を知るに最も便利なと思はれるものは、道教の經典たる感應篇や日常生活に關する徳目を分類列擧した各種の功過格である。之等の書物を調べて見ると今日の支那人の道徳觀念や道徳行爲を支持する種々なる要素を明かにする事が出來るのであるが、然し只それだけでは彼等の道徳生活の皮相に觸れ得るのみであつて其血肉を掴むことにはならぬのである。即ち生きた道徳生活の其儘の姿を會得する爲には更に他の手段を講ぜねばならぬ。最も有效な手段は廣く且つ深く各階級及び各職業に屬する支那人とつきあつて仔細に各場合に示す彼等の反應を觀察することであるが、又此の方法に據らざる限り徹底して支那人の道徳生活の奧底を窮めることは出來ないのであるが、併し此の如き方法を取り得る便宜を持つ人は長く支那に生活する極めて少數の者に限られるのであるから、たゞ一通りの正しい支那常識だけを要求する一般の人々に之を勸めることは出來ない譯である。縱令此の方法を取り得る境遇にあるとも、普通の日本人では深く支那人の道徳感情に探り入ることが、實際上頗る困難な樣子である。

 私の知人の中に久しく支那に居住し其職業の必要から支那人の多くと親交を結むで居るものは澤山ある。道理上之等の人々は殘らず支那人の道徳感情の蘊底を窮めて居なくてはならぬ筈であるのに、蘊底どころではなくて支那人の道徳感情を支配する最も強大なる動機、即ち所謂「面子」の價値をすら充分に理解して居る者が極めて少ない程の状態である。尤も如此迂濶さは日本人許りでなく西洋人も同じ事で或は寧ろ日本人以上であるとさへ思はれるのであるが、斯う云ふ事では何時迄經つても支那人を理解し正しく彼等を評價することが出來ずして、國家的にも國民的にも所謂親善關係を構成することが出來ないであらう。實を言ふと私は支那の凡ゆる人文現象の中で面子乃至面子感情と言ふもの程外國人にとつて難解な事がらは無いと信じて居る。各階級を通じての面子の形式性は之を知るに左程困難でないが、面子感情の内容、更に進むで支那人の面子に執着する意慾の強さと云ふ事になると、私の全生涯を通じて凡そ之程の難問題に出くわしたことは無いと思はれる程である。詳しいことは他日に讓るほかないが簡單に面子なる觀念を説明すれば、面子は其本質に於て支那人の生活形式の一種である。社會の老ひて居るだけ支那人は形式をことのほかに尊重し、種々雜多の形式の中でも特に面子を尊重するのである。然らば此の重要なる生活形式たる面子が道徳生活の方面に於て如何に作用するかと云ふに、民族道徳の重要な徳目と一般に認められて居る行爲を各人に強ひる動機は道徳尊重の純なる情操に非ずして、却て自身の面子を保つて行かねばならぬと云ふ功利的感情に存するのである。儒教にせよ道教にせよ道徳上の動機論をやかましく説き立てるのであるが、老ひたる支那社會は眞面目に此の種の議論を受け容れるには餘りに其素朴性を喪失して居る。從つて支那人を動かして道徳的行爲に出でしむる力は或は面子により或は道教の所謂冥罰に依り、何れにしても彼等の功利心に訴へるほかないのである。斯ふ言つて了ふと「そら見たことか、支那人には徳操が無いと云ふ事實をお前迄が裏書きするではないか」と云ふ横鎗が入るであらう。ベンザム流の功利主義道徳を全然否定する人が今の世にも猶ほ生き殘つて居るとすれば、其人々だけに限つて支那に道徳無しと云ふ斷言を許し得るかも知れない。然し私はそう云ふ人々を相手と豫想して議論をして居るのでなく、功利主義道徳も矢張り道徳の一種であると認むる現代の常識を讀者に豫想して居るのであるから、私は面子や宗教的信仰をその維持者とする支那一流の功利的道徳をも安んじて道徳の一種と認め、之等の維持者を背景として民族道徳が案外嚴格に守られて居ると云ふ明確な事實からして、私は一般の思ふ所と正反對に、支那人を以つて道徳的操守の著しく強い民族であると斷定して憚らぬものである。然し支那人の道徳生活乃至道徳思想の説明を今此處でつくすことの出來ないのは申す迄もない。之を何人にも滿足の行く樣に説明する爲には支那人の社會生活を見透して其中から彼等の道徳生活を支持する特殊な諸要素、例へば面子意識であるとか宗教感情であるとか云つた樣な支那特有の社會的産物の本質を明かにし、然る後此の土臺の上に民族道徳の觀念を描き出す外ないのであつて、斯かる仕事は之を他日に俟たなくてはならぬ。斯ふ言ふと何か大變難かしい事の樣に聞えるが、又實際難かしく考へれば甚だ難かしい事であるに相違ないが、或る程度を限つて何人にも解り易く説明することは必ずしも不可能でない。只相當の紙數を要することを免れぬであらう。

 長々と述べて來たことを要約すれば全體を二つの部分に別つことが出來る。即ち前の部分は世界の學者の科學的研究に關するもので、支那智識の全體から見れば「貝殼で大海を測る」程度の效果を擧げたに過ぎぬが、それですら關係文獻の堆積は頗る浩瀚なもので一般人は勿論勤勉な專門家でさへ一人の力では到底手におえぬ程である。從つて之等の業績の部分/\を整理し且つ打ち碎いて一般人の理解に適する樣な形に纒めることも私共に課せられた一つの大きな仕事でなくてはならぬ。又第二の部分は日本人に必要な「支那常識」供給の急務を説いたものである。日本はその天然地理的地位の關係から經濟的にも社會的にも政治的にも支那と密接な關係ある許りでなく、日本の領土及び租借地内の支那民族の一大社會を包擁して居ることであるから、公的にも私的にも深く支那人を諒解する當然の責務を負ふて居るものである。然るに事實は之と正反對で、日本人は彼等が西洋の或民族を理解して居る程度にすら支那人を理解し得ず、又西洋の或國民、譬へば英吉利人の一部が支那人を理解して居る程度にすら、日本人は支那人を理解し得ない状態に在る。支那を學術的研究の對象とすることは勿論必要であり、又嚴格な意味に於ては學術的研究が或程度に進むだ後でなくては國民一般に向つて正しく且つ深い「支那常識」を與へることが出來ない道理であるが、飜つて實用的見地からすると今日では最早そんな悠長なことを言つて居る餘裕がない。急場の間に合はせと云ふ意味に於て我々は、嚴格な科學的批判には堪へ得ないにしても、從來の所謂支那通や旅行家や操觚業者の手から供給されたものに比ぶれば幾何かヨリ正しく且つヨリ深い支那智識を提供して切迫せる日本官民一般の需要に應ずることが必要であると感ずるのである。本會の使命、從つて本誌の職分も忠實に上記二種の方法に據つて、學術的よりかも寧ろ主として實用的標準に照らして、必要と考へらるゝ支那智識を選擇し發表することに力を注ぐべきであらうと信じて居る次第である。それかと云つて各國人の學術的研究の業績を紹介することを拒むと云ふのでは決してなく、それが一般人にとつて興味があり且つ有益であると考へられる限り進むで之を採録する事にも出來得る限りの注意を拂う積りである。

底本:「月刊支那研究復刻版全四冊 第一冊」龍溪書舎
   1979(昭和54)年9月30日初版第1刷発行
初出:「月刊支那研究 第一巻第一號」
   1924(大正13)年12月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※変体仮名(江のくずし字)は普通仮名(え)にあらためました。
※「「中国研究橘樸著作集 第一巻」勁草書房、1966(昭和41)年1月10日初版第1刷発行」での表題は「中國を識るの途」です。
入力:齊藤正高
校正:石田卓生
2012年3月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。