あらすじ
都新聞の正月版に横綱男女ノ川について書いた著者は、今回は横綱双葉山について書こうとします。著者は相撲には詳しくありませんが、横綱には関心があります。正直な人から聞いた話では、双葉山は必要のないことに対しては返事をしないそうです。返事を求めようとしても、相手は横綱の双葉山です。どうにもなりません。あるおでん屋の床の間には、「忍」と書かれた掛軸がかかっていました。署名は双葉山でした。著者は酒を飲みながら、その一字から双葉山の私生活が見えてくるような気がしたのです。横綱の忍の教えは、実に奥深いものです。私は、角力に就いては何も知らぬのであるが、それでも、横綱といふものには無關心でない。或る正直な人から聞いた話であるが、双葉山といふ男は、必要の無いことに對しては返辭をしないさうである。お元氣ですか。お寒いですね。おいそがしいでせう。すべて必要の無い言葉である。双葉山は返辭をしないさうである。
何とか返辭をしろ、といきり立ち腕力に訴へようとしても、相手は、双葉山である。どうも、いけない。
或るおでんやの床の間に「忍」といふ一字を大きく書いた掛軸があつた。あまり上手でない字であつた。いづれ、へんな名士の書であらうと思ひ、私は輕蔑して、ふと署名のところを見ると、双葉山である。
私は酒杯を手にして長大息を發した。この一字に依つて、双葉山の十年來の私生活さへわかるやうな氣がしたのである。横綱の忍の教へは、可憐である。
了
底本:「太宰治全集11」筑摩書房
1999(平成11)年3月25日初版第1刷発行
初出:「東京新聞 第四百六十六号」
1944(昭和19)年1月13日発行
入力:小林繁雄
校正:阿部哲也
2011年10月12日作成
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