実川延若じつかはえんじやくといふ役者を、自分は初めて見たのである。本物の芝居はそんなに見ないが田舎に居る時分でも新演芸などの芝居雑誌は古くから見てゐるので、あまり見つけない役者でもそんなに始めて見るやうな気のしない自分だつた。
 実川延若もその一人に相違ないのだ。写真で見てゐた延若は、自分はにくにくしかつた。いつだつたか忘れたがたしか新演芸だつたか、他の雑誌だつたかに役者の趣味といふ見出しの許に、いろいろの役者の談を集めたものが有つたと思ふ。それを見ると大抵の役者は、画だとか道具だとか写真だとかそんな風なものを挙げてゐるうちで、彼の延若は「女」だと高言してゐたのを覚えてゐる。それを読んで自分は一寸顔を顰めた。
 顰めはしたものゝ、他の記事と違つてその延若の言葉には何か力がこもつてゐて、つまり、当時ニキビ青年であつた自分の胸を突いたに違ひない。今でも斯うして覚えてゐる位ゐなんだから。
「俺は役者は嫌ひだ。角力の方が好きだ。」
 自分は、カラ元気でそんなことを云つてゐた蛮勇青年のイカモノだつたのだ。役者と云へば、どれもこれも女の気嫌ばかり取つてゐるやうな奴ばかりだ――そんなに思つてゐた頃だつた。自分は文科の学生だつたから、友達の中には劇の研究者もあつた、芝居通もあつた、戯曲家も居た。がさういふ連中さへ自分は気に喰はなかつた。血気の青年が、やれ今月の何座の出し物は如何だとか、あの人の芸は如何だとか(役者のことをあの人なんて厭味だ。いかにも近しいやうな言ひ方をしやァがる。)などゝ云つては芝居見物に浮身を窶してゐるとは何事だ! と云つて慨嘆したりしたのだ。尤も自分のそれらの知人は、遠国から遥々都へ遊学に出た青年で、学校の制服を嫌つてピカ/\光る着物を着たり角帯をしめたり、そしてさうしない者を返つて田舎者だと云つて軽蔑する程の・以下の田吾作青年ばかりだつた。
 さういふ連中を相手にして「俺は芝居は嫌ひだ角力の方が好ぎた[#「好ぎた」はママ]」などゝうそぶいてゐた自分はまた何といふ愚かな田舎書生だつたことだらう。
 そのやうな時代に、役者の口から、然も上方役者の、憎気な太ツ面から洒々しやあ/\と「私は女が趣味であります。」なんて聞いてジリジリせずには居られなかつたのも自分にとつては当然だ。失恋でもしてゐた自分ぢやなかつたのかしら?
 そんな気持が今まで続いてゐたわけでもないが、何年振りで延若が上京しやうとも自分に気がつかなかつた程だ。
 ところが此間松竹座を見て、そして彼の延若を見て、自分の延若観は手の平を翻した如く一変したのである。自分は彼が好きになつたのである。自分が嘗て厭味に思つてゐた凡ては、彼の特徴なんだ。憎い顔だなどと思つたのは、自分の偏見で、何といふ立派な顔であらう、石川五右衛門などを見て、思はず自分はホロリとしてしまつたのである。いかにも混然としてゐるぢやないか、名優に違ひない。今後彼の悪口を云ふ友達に出遇つたら、自分は口を極めて反対するであらう。以前のことは許して貰はう。ノボリの一本も贈るかな、だがあゝいふ物は主に女が贈るものなんだらうな? 多くの女人をんな達よ、わが延若の為に沢山のノボリを松竹座の入口へ連ねて呉れ。女に趣味があるなどゝ云つた彼だが、それは決して不遜な言葉ではないのだ、一寸尊敬してもいゝ言葉なのだ、他の若い連中が厭に上品振つて、気取つた趣味などを挙げるであらうことを賢い延若だけは見越して、一本皮肉つたわけなのである。自分は感心した。
 石川五右衛門の終ひで、花道のところで五郎市をくはえるところは延若の試みだといふことだが、成程さうだらう、何もそんな技巧に感心するわけでもないが、あゝいふ力とりのある人情味は愉快ぢやないか。どうも斯う讚めてばかりゐては間が悪いことだが、批評にもなにもなつたものぢやないが、自分の感傷と鈍さは始めから許して貰つてゐる筈だ。延若のことばかりで費してしまつたが、まア許して呉れ。彼は滅多に上京しないだらうし他のはまた見られるだらうし、「高時」のこと、「寺小屋」のこと、いろいろ印象を書きたいが、うつかりしてゐるうちに締切日に迫られて慌てゝ筆を執つたわけで、甚だ残念ながらこれ位ゐにして止めて置く。

底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「新演藝 第九巻第十一号(十一月号)」玄文社
   1924(大正13)年11月1日発行
初出:「新演藝 第九巻第十一号(十一月号)」玄文社
   1924(大正13)年11月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月26日作成
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