私の友達のBは、今或る望遠鏡製作会社の検査係りといふ役目を務めてゐます。終日望遠鏡を眼にあてゝゐるのが仕事なのです。会社への往復と食事時間と夜の睡眠時間以外にはBの眼から双眼鏡が離れないのです。
B「この仕事を、あと半年も続けたら僕は双眼鏡を普通の、例へば近視の人がその眼鏡なしには行動出来ないと同じやうに、双眼鏡を年中かけてゐなければ、どんな行動も出来なくなるかも知れないよ?」
私「! …………?」
B「厄介だらうね、さうなつたら。だから、この務めも、近いうちに止めようかしらと思つてゐるよ。」
私「又とない君には適当な仕事だと、君も僕もその時は悦んだのだつたがね。一ト月ばかり前のことだね。」
B「仕事は面白いんだがな、僕にとつては。一寸普通では想像もつかない色んな遠くの小さな光景を毎日発見するぜ。」
私「それあ、さうだらう。」
B「だが怖ろしいことには、距離の観念がひとりでになくなりさうになつてゐるよ。近視でも遠視でも何でもないあれ丈の仕事に向く眼なんだから僕の眼は完全なんだがね、此頃、うつかり眼の前の何かを取らうとして、何んにもないところをつかんでしまふようなこともある。そればかりではない、口を利くことがとても下手になつてしまつた、君と斯うして向き合つて話してゐても、君が、事実、傍にゐるのか、或ひは到底話などのとゞかない遠距離に在るのか? 何の誇張もなしに、そんな錯覚? に打たれてゐる。たゞ黙つて、望遠鏡ばかりのぞいてゐるのはすきだと云つても時には退屈するからね、僕は眼鏡に映るいろいろな姿の人に、独りで、いろんな言葉を送つてゐるんだよ、毎日! おい、少し酒でも飲んで喋つて呉れよ、そんなに感心した見たいな顔をして黙つてゐられると、僕は斯うしてゐても会社の仕事の続きを行つてゐるやうな気分になつてしまふからさ……それにしても僕達は遠慮のない永い友達だつたね、お互に、ねえ、牧野、僕達にはこんな風に相手の名前を呼び棄てに出来るような友達だつて他には無いぢやないか、君はそれを寂しいと思つたことはないか。おい、もつと飲めよ、僕は此頃相当の酒飲みになつたよ、あゝ、酔つた/\。ところが僕は、此頃いろんな人に、呼び棄てゞ話しかけてゐるんだ。たゞ、相手の返答が無いだけさ、いやその返答も此方で勝手につくつて、つまり僕は、此頃では君に似た友達が無数にあるわけだ。この幸を君にわけてやらうと思つて、今日はわざ/\この道の悪さも関はず出かけて来たんだぜ。引ツ越しは何時するんだ。厭なところだね、この辺は! 寂しがりの者がよくこんな処に辛棒してゐるな。――僕が会社を止めるまでには是非市内に引ツ越して来いよ、止めると同時に僕は、再び君と同じに、友達は君一人ぎりになつてしまふんだからね。それは、さうと僕が務めてゐる間に遊びに来る筈になつてゐるのに一向君は出かけて来ないね、何時来る? プリズムを欲しいと云つてゐたから一つとつておいたぜ。今のうちでなければ半分値では買へなくなるからね、値段は聞くなよ、贈りものにするから。」

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷
底本の親本:「文藝時報 第二十五号」文藝時報社
   1927(昭和2)年1月10日発行
初出:「文藝時報 第二十五号」文藝時報社
   1927(昭和2)年1月10日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
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