氷嚢の下

旅まくら
熱になやみて風を聴く
とり落した手鏡の
破片かけらにうつる
いくつものわが顔
うみはひかりて
ふるさとは遠い

          *

 夜をこめて吹き荒んだ風が、次の日もまたその次の日も絶え間もなく鳴りつづけてゐるといふ――そのやうな風に私はこの町ではぢめて出遇つた。硝子戸を隔てて軒先から仰ぐ灰色の空に花びらが舞ひあがつて雪のやうである。まくらもとに迷ひこんで来たひとひらを拾つて見ると、梅である。まだ、そんな花が咲きのこつてゐるのかとあやしまれる。――鳴動する部屋の隅に倒れて、八度六分の熱に浮されてゐる。風は私の魂までも粉々にして、花びらといつしよに空高く巻きあげてしまつた。どこまで飛んで行つても、一片の言葉にも出遇はない。口のなかでは氷のかけらが忽ちとけてゆく。
 義妹夫妻がここに赴任してゐるので、一両日のつもりで途中下車をこころみたのであつたが、この有りさまでは切符の期間も切れさうだ。消えてゆく雪の風景を眺めながら奥州を一巡して、麦藁帽子の頃に帰京するつもりなのであるが、このあしこしの立つのを待つうちには、さすがの奥州路もやがて爛漫たる春と化してしまふであらう。

          *

 私はあの時、風の吹き荒む丘の端にうづくまつて湖を見おろしてゐた。風のいきほひで言葉は恰で通じさうもなかつたから、弟も妹もそして私も無言のままで湖と停事場と汽車を見降してゐた。弟の口先からこぼれる莨の煙りが、走る列車の窓で喫ふ煙りのやうに瞬時に消えた。まつたく私の心は飛び散るがままの花びらであつた。
「ああ、お師匠さんが欲しいよ!」

          *

「お師匠さんが欲しいのだよ!」
 どこまで追ひかけても、つかまへることも、見ることも出来ない風のくるめきに私は昏倒しかかつて救けを呼んだ。ひとり言を呟いだ。その時以来、このひとり言がすつかり口癖になつてしまつて、煙草のやうに、ウワ言にまでも繰り返してゐるのだが、それには勿論ひとに説明できるやうな意味があるわけではなく、ただあまりのたよりなさに不意と口吟んだ口笛に等しかつたのであるが、うつかりと呟く間に、弟達に屡々聞きとられてゐたのであつた。
「お師匠さんはもうお見えになつてゐる頃でせうよ。」
「はやく行つて見ませう。」
 彼等は、私の夢とも知らずにさう促すのであつた。
「余程熱心なのと見へて寝言でも、同じことを云つていらつしやいましたよ。」
「あたしも、兄さんの腕をハイケンしたいわ。」
 私は、たつたひとりのつもりでひとり言を呟きながら歩いてゐた夜道の上で、突然返事を聞いたかのやうに驚いたが、と云ふて別段あとへ退かうといふほどの間の悪さも感じなかつたのである。弟達は、彼等の先輩にあたるZ先生に、私を紹介しようといふのであつた。Z氏は武徳殿の兵法家であつた。そして、天狗党の豪士の末孫の由であり、今なほその流儀に天狗流何々といふ絶対の名前を保つてゐるとのことであつた。
 弟達は以前私が、ふるさとの田舎の庭でフエンシングの練習に没頭してゐたことを知つてゐるので、近頃は興味の方向を和流に転じて我国古来の剣道にうつつを抜かしてゐる者と想像して、この機を幸ひ、まちの誇りとある雄大な武徳殿を見物させ、更にZ氏の門を叩いたら本望であらうといふ配慮を回らせたのである。
「先生が、兄さんの仕事は何なのか? ときのふお訊きになつたので、あたしが文士ですと答へると、やはり風がひどくてあたしの言葉がはつきりと通じなかつたのか、何だか御自分と同じ道の後輩のやうにおとりになつたらしかつたわ――今時諸国の道場を参観のために旅をしてゐるなどといふ人物に出会ふのは頼もしい……」

          *

 この四五年来僕は、小説を書くといふことが、結果として職業となつてゐることの矛盾に苦しんでゐた。生来がもともと享楽派であるがために「創作と生活」の喰ひ違ひは見るも鮮やかなものだつた。暗鬱、愚痴、こんなものは敵だとおもつてゐるのだ、さりとて情熱の欠けた日にペンを構えてゐる己れの面つきを想像すると、どうしても、これも修業だと自惚れるわけにはいかなかつた。酷熱の屋根裏に籠居をつづけた。極寒の夜更けを水をすすりながら坐りとほした。時に裏街の居酒屋の卓に突ツ伏して、しのび泣きの声をあげたのは、どうやら、斯んなに無辺に極まりなく混沌とした大空の下で、籠居をつづけたり、水をすすつたり、悪徳を演じたりして、そしてまた何も彼も打ち忘れてトカゲのやうにのびてゐる「考へるためにはぢめてここにあつた自分」の、たしかにここに在ることの、滑稽さを憐れむ最も単純なわらひに等しいものなのだ。さうだとも、創作と生活の矛盾などとは厚かましい――と気づいて、いつも僕はあしどり勇ましく屋根裏へ引きあげるのであつた。未だ、これと云つて何も考へても、書いてもゐなくても、
「あのツヅキを――あのツヅキを――」
 と呟くのであつた。
 たうとう私はそのウワ言をつづけたまま、今度は居酒屋の前を素通りして、屋根裏を逼ひ出すと、たまたま脚を遠く奥州路へと伸ばしたのであつたが、はぢめての途中下車の駅路で思はぬ突風に見舞はれて、在りのままなる高熱の床に倒れる身と化したのだ。
「お師匠さんが欲しいよ。」
 私は居酒屋の卓に伏してゐる夢を見ながら呟き、すすり泣くのであつた、それはまつたく聴き手の歯を浮かせるに適当なヴイオロンの音のやうに。

          *

いつもいつも
ひとの見さかひもなく
へだてなく
云ひつくしてゐる筈なのに
この秘密は何か

 あれは何時どこで詠んだうたであつたかしら――と僕は不図氷嚢の下で呟いだ。さつきからうつらうつらと熱に浮かされて眠つてゐたが、その間に浮んだウワ言のやうな気もするし、ずつと以前どこかで考へたまゝ忘れてゐたのを熱のせゐで思ひ出したやうな気もするのだ。熱が冷めたら消したくなるに違ひないと思ひながら、ともかく腹這ひになつてペンを執つた。
 こんなうたにかぎらず、自分の過去の仕事などはみんなウワ言のやうに思はれて来る。この可弱い気分は何うしたことだらうとおもふと――。
 そこで、きのふ、ペンは指先からポロリと落ちてしまつたのだつた。風は相かはらず颯々とうそぶいてゐる。風はあらゆるものを吹きとばして奈辺へ去り奈辺より来るものか、吹いて吹いてきはまりない。ああ、風の音ばかりだ。春の気はひなどは何処にも感ぜられない。風に向つて慨嘆するなんて、まるで自分の胸の中にかすむでゐる風に似た秘密を憂へるやうなものだが、あの自慢の長蛇船ロング・サーペントの舵は流され、櫂は折れ、旗じるしは千切れて漂流幾日よ、どこまで流れることよ、風よ、凪いでおくれよ、そして流れ着く島はどうぞスヰフトの小説に出て来るやうなラガドの市ではなくつて、やはりこの世の森蔭であつて呉れとばかりに僕は手を合せてカルデヤの星に野蕃な祈りをあげるのみだつた。
 夕暮時が迫るに伴れて風はますます巨大な翼を縦横に羽ばたいて、祈るものの姿をそのまま石にでも化さうとする凜烈な寒気を浴せた。僕はたうとう憤慨のバネに撥ぢかれて、あの日に天狗党の末孫から贈られた竹刀に取り縋りながらうねうねと立ちあがつた。僕は窓から首を突き出して、まつたく天も地も混沌の灰色に巻き込んで轟々然たる雄叫びをあげてゐる竜巻に向つて、いまはのきわの声を振りしぼつた。しかしそんなあらん限りの咆哮も無惨に掻き消されて、凝つと聴耳を吾と吾が胸に寄せたら、まるで貝殻の中に聴く微かな空鳴り程にふるへてゐるのみだつた。僕は、すごすごと寝床に引き返しあたまからすつぽりとかひまきを引き被り、冷たく細い膝を抱き蜂のやうに小さくなつてぶんぶんとうたをうたつてゐた。
馬嘶キテ白日ハ暮レ
剣ヲ鳴シテ秋気ノ来タル
我ガ心ハ渺トシテ際リ無ク
河上ニ空シク徘徊ス

          *

 僕の知友に、風博士といふ男がゐる。いつも、あかちやけた髪の毛をばさばさと額に垂して、太い太いステツキを突き、ひよろりとして、大いに威張り、歩き振りと云つたらまつたく風に乗つたやうな大胯で、その速いの何のといつて孫悟空のやうだ。その男は、まんまと一にぎりの風をつかまへて、風に物を言はせたことがあつたのだが、ちかごろ彼の住んでゐる土地には風が凪いで、研究室で徒らに腕をこまねいてゐるさうだ。たまたま街へ出かけては、人間をつかまへて喋舌り散らすのだが、どうも辻妻が合はないで白つぽくなつてゐるらしい。どんな顔つきをして研究室の椅子に伸びてゐることやら――。ほんたうにあの男の姿と云つたら、顔つきからして風の国の先生のやうで、あの威張り臭つた声と来たら、屡々人間からは誤解を享けるもの、突風のやうなたくましさで、まさしく風を追ひかけてゐるものの風のやうな気ぐらゐなのだ。風博士が、風が吹かないで困惑してゐる格構をおもふと、定めしイライラとして書斎の中を歩きまはつてゐるであらうと、お気の毒になつて、せめてこの窓からの景色なりとも写真にとつて送つてやりたいと思ふのだが、生憎く僕は風を映す手腕に恵まれてゐないのだ。荒唐無稽の中からじやうだんを創ることの焦噪は、凡そ無稽ではない命かぎりの研究であらう。
 あまり風が吹き荒むので、思はず彼の博士の上を憶ひ出した。
 待つてゐる人もあるのだよ、風よ、博士の扉を叩きに行つて呉れ、世界中で君を歓迎するものはオランダの風車と、あの若い博士だけだよ。

          *

 おお風が凪いだ、あの怖ろしい雄叫びは綺麗に何処かの国へ逝つてしまつて、清新な朝陽がうらうらと私の頬を撫でた。危なかしいあしどりであつたが私はとても凝つとしては居られなくなつて、片手は弓のステツキに、片腕は従順な妹の肩に載せて、私は目眩くばかりに明るい朝の光りを口をあけて貪りながら、Z先生を再度の訪問へ向つた。いつかの風の日に先生を訪れた時は未だ、私は元気に溢れてゐたので、一本の稽古を希つて、仕度にとりかかつたのであるが、たまたま今の重い着物を脱いで縫ひ込みの稽古着に黒袴を着けて、悦ばしさにふるへながら立ちあがらうとすると、突然私は激しい嚏の発作に駆られはぢめた。これは、しまつたと思つた。何故なら私は病体の場合ではなくても、その発作に襲はれると、二三十秒の間隔を保つて連続的に少くとも三十回の、その度に割れるやうに花々しい促音といつしよに直角に腹を折り、体は五寸も宙に飛びあがる程の猛烈な嚏に攻められるのが習慣だつた。私はこれまで凡ゆる場合にこの嚏のためには因果な難を被つてゐる、枚挙に遑ないほどの――。加けにこの時には同時に飛びつかれるやうな寒気が襲つて来たのであつた。私は這々の態でとるものもとりあへず道場を飛び出すと、バツタのやうに苦しみながら半里もある道程を夢中で引き返すと、間もなくどつといふ発熱でピカツリと眼玉をむいたまま、あらぬウワ言を呟く重病人と成り変つてしまつたのだ。
 そのまま今日も未だ病体で、到底立ち合ひなどは望めなかつたが、せめて天狗流の深厳の気合ひに打たれて、心持を引き立てたく、浅ましい体を杖に縋つてよろめき出たのであつた。
「もうまつたく花も散つてしまつたが、ついでに弘道館の公園のあたりを見物させて貰はう――あの時僕は嚏に追ひかけられて一目散に此処を突つ切つてしまつたので、何一つ目には止まらなかつたよ。ただ、梅の花びらがパラパラと顔に振りかかつて、とても悲愴な感じに打たれたことを覚えてゐるよ。」
「A(妹の夫)が、着物を抱へて後から追ひかけてゐるのに、兄さんは稽古着のまま夢中で駆けてゐたのね。Z先生がその様子を眺めて、恰で弘道館の学生が鐘を叩きに走る光景のやうだと見惚れていらしつたわよ。」
「何しろ僕は嚏の醜体などを見られては失礼だと心配して、此処まで逃げ出し、あの梅の木の蔭でやつとAから着物を貰つて着換へた始末だつたよ。――しかし、その鐘といふのは一体何なの?」
「あそこに見えるでせう――」
 と妹が指差す方を見ると、古色の蒼々とした瓦屋根を戴いた、まことに瀟洒な楚々たる風趣に富んだ小さな鐘楼で、鐘が明るい青葉の影に静かに懸つてゐた。「昔、何か事がある場合にはそこの生徒があそこへ走つて、あの鐘を叩いたんですつて――」
「その、事といふのは何ういふ場合?」
 私は何か羨望に似た感じと一緒に訊ねた。
「Z先生にでも訊かなければ好くは解らないけれど――つまり志気を鼓舞する必要がある度毎に……」
「僕などにはさういふものが必要だ。」
 と私は異様な声で唸つた。叩いて叩いて、じやんじやんと鐘を鳴らしでもしたら、この空つぽな頭の中にも何か呼び醒されるものもあり、また邪道に走らうとする妄想をさへぎり、否、また、鬱陶しい生活の夢を晴すには適当だ――といふやうな気がした。自分は小説家であるが故に不断に創作を口にするのだが、まつたく小説の道の、生との争ひに於いては、稍々ともすれば意気は沮喪し、※(「くさかんむり/刺」、第3水準1-90-91)にさされて悶絶しかかる場合が多いのだ、そんな時には人生を考へたり、吐息を衝いたり、顰め顔を浮べたりする代りに木魚を叩いてゐる方が好からうなどと、私は思つたことがあるのだが、それも自分には柄でもなく、やはりとりつくところもなくて、お師匠さんを呼びたくなるといふやうな心持だつたせゐか、酷く私は感傷的になつて、自分の館がお城のやうに広大で、庭の森蔭に斯んな鐘楼があつて、叩いても誰の耳にも伝はらず迷惑を及ばせなかつたならば、稍々ともすれば自分は其処に走つて、その時の気持次第でいろんな風に鐘を叩いては無念の悦楽に耽り得られることだらうなどと悲しんだのである。さう云へば、ほんたうにその鐘の大きさまでも直径が一尺もあるかなしの手頃な格構で、私は思はず拳を固めて鳴り具合を験べて見たい慾求を我慢するためには可成りの努力を要した位であつた。それで後ろ髪を引かれるおもひで、其処を立ち去らうとした時、不図傍らの立札を見ると、白札に鮮やかな墨痕をもつて「学生警鐘」といふ文字が誌されてゐた。それを見ると、どういふわけか私の胸は溢れさうに一杯になつて来て、有りがたいやうな得体の知れぬ涙が滾れさうになつた。

          *

 えいツ、おうツ! えいツ、おうツ! と、あたりの静寂しゞまを破つて、凜々たる声が聞えてゐた。竹刀の音もなく、ひとりの懸声ばかりが澄み徹つて響いてゐた。――婦人は門外に待たせて杖をあづけ、私は怖る怖る扉を排して、低頭し頭をあげて見ると、武徳殿の床では今やZ氏が木剣を構えて天狗流の型を踏んでゐる真つ最中である。――宙を飛び、剣を払ひ、受け、突き、ふりかぶつて、型は、千差万別の姿勢を示して、奥儀にすすんでゐるところであつた。破目ぎわには数十人の門弟が、腕組をして、胡坐をかいたまま、眼ばたきもしないで先生の模範を睨んでゐた。彼等は一斉に師範の動作に吸ひ込まれて、吾を忘れて、微かにうなづいたり、唇を噛んだりして、息塞る吐息を呑んでゐるかのやうであつた。私は、次々の型が、何といふ名称で、何んな場合のものであるか何も彼も一切無智の徒であつたが、様子だけは門人達にも負けぬりりしさで、眼を視張り、腕組をして、徐ろに末席に胡坐した。

          *

 熱がさがり次第、次の州へ出発するつもりだ。二千五百九十三年四月三日常陸M市郊外にて。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「新潮 第三十巻第七号(七月号)」新潮社
   1933(昭和8)年7月1日発行
初出:「新潮 第三十巻第七号(七月号)」新潮社
   1933(昭和8)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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