――で、どこを、何うしたといふのさ……まあ、待てよ、いますぐ仕度が――。
――酒は、もう、駄目らしい。
と僕は呟いたが、かれは、わらひもせず知らぬ振りだつた。
そのときかれが詠んだのが、
金魚の荷嵐のなかにおろしけり
といふ稀代の逸作だつた。かれこれもう十年のむかしのはなしだが、何も彼もが、きのふの夢よりもあざやかである。つい、このあひだの晩――とても、かれは若くて、何ヶ月間の禁を破らうとして、ぐず/\と眼などを据ゑてゐた僕は、たぢ/\だつた。
――しかしいやにけふは元気があるね。ヨコスカなんかに住んでゐる馬鹿はないぞ。
――痩我慢だよ。酔ひたいとおもつて、力んでゐるところで。
と僕は、坐り直した。
かれは、やがて、ウヰスキイだつた。僕は、それは、いつかな手に執れなかつた。ハラハラしてゐるうちに、僕も酔つてしまひ、井伏鱒二へからむのであつた。
何処を、何う歩いたものか、そんなに酔つてはゐなかつたつもりだが、あまりはつきりしないのであるが、最後に、飛行会館の外の梯子段を、大した勢ひで駈けるが如くあがつてゆく、かれのあとについて息をきつてゐた、ひとりの自分が見えて来る。下の露路に、河上徹太郎が、ぼんやりとたゝずむでゐるのが薄霧のなかに見えた。もう東の空が白んでゐた。
ところが、やうやく六階(?)の演芸場へたどりつくと、そこでは未だ花々しく戯曲「村道」の舞台ごしらへの最中で、未だ未だ宵のくちのやうな活気を呈してゐた。
かれは、坐席に泰然と腰をおろして凝つと舞台を視詰めてゐたがやがて、眠つてゐるらしく、僕もちよつと眠りそのまゝかれの知らぬ間に引きあげた。
信一の心づかひや夜半の春 万
ふと、あの晩持つてゐた手帳を見ると、かれの文字を見出した。万――久保田万太郎。夜半の春……春にはちがひない、一月二十八日の晩だつた。僕、ウヰスキイのために、わずらつて、東京を離れてゐること一年に及んだ。